コロポックル説の誤謬を論ず(上)

河野常吉




一 アイヌに三派あり


本邦人類學上の一大疑問たるコロポックルは、アイヌの口碑に出でたるものなるか、アイヌには蝦夷本島アイヌ、樺太アイヌ、北千島アイヌの三派ありて、此三派はコロポックルに就き語る所一樣ならざるのみならず、其他種々の點に於て本題に少なからざる關係あるを以て、先づ此三派に就きて略述するの必要あり。
本島アイヌは、現今北海道本島及び南千島なる國後、擇捉の二島に住居するものにして、和人に接し其の感化を受けたること、他のアイヌに比すれば最も早きものとす、其の人口は文化の頃二萬四千餘ありしも、漸次減じて今は一萬七千二百餘に過ぎず、樺太アイヌは樺太南部に住居するものにして、南は本島アイヌ、北はギリヤーク、オロチョン及び山靼人等と交通し、寛政以後直接和人の支配を受け、明治八年領土交換の後は露國の管轄に歸し、日露戰役の後本邦に復歸したるものとす、其人口は文化の頃約二千八百餘ありしも、今は半減して一千四百餘となれり、此アイヌの内八百四十餘名は、明治八年宗谷に移り、翌九年石狩國に移住せしが、其後病死するもの夥しく、又た私に樺太に渡航せるものありて、現今石狩地方に殘るもの僅に數十名に過ぎず、北千島アイヌは千島列島中得撫以北に住居せしものにして、南は本島アイヌ、北はカムチャダールと交通せしも、甚だ不便の地にあるを以て、他の感化を受くること最も遲かりしものゝ如く、露人の始めて其地に至りしは正徳年間にして、其後露人の支配を受け、明治八年領土交換の後本邦の民となり、明治十七年南千島なる色丹島に移住せり、其人口は延享四年占守幌莚島に(他島の分は詳かならす)二百五十三名ありしが、今は減じて六十七名となれり。
以上三派のアイヌ間には體格、口碑、風俗等に多少の差異ありと雖も、其同種族たるは一般に認めらるゝ所にして、之に異論を唱ふるは學者中坪井博士一人のみと云ふも可なり、坪井博士は樺太アイヌに對しては、「樺太アイヌと本島アイヌとは、全く同種と思はれず、夫れ故一方の事實を他の事實に當て嵌めることは出來ない」と斷言し、後には樺太アイヌの名を忌みて樺太土人の稱を用ひられしが、昨四十年樺太巡回の後は、自ら其非を曉られたるものゝ如し、北千島アイヌに對しては、博士は最初より之を度外に置き、北千島土人と云ひて北千島アイヌと云はず、全く之を別人種と見做されたり、然れども今日斯くの如き謬見を有するは、學者中唯坪井博士一人のみなれば、今之を駁論すべき價値を有せず、要するに此三派のアイヌは同種族にして、古昔分離し其後種々の事情により、體格風俗等に多少の差異を生じたるものと謂ふべきのみ。

二 コロポックルに關する諸説


本島アイヌに一の奇怪なる傳説あり、其大要を言はんに、古昔此地に體躯矮小なる人種(稀に人に非ずと云ふ者あり)あり、コロポックル又トイチセクルと云ふ、其他トンチンクル、トイチセコッコロカムイ等數種の稱あり、其性敏捷にしてアイヌと交易せしが、常に身體を見することを嫌へり(稀に裸體なりと云ふ者あり)或る時アイヌが暴力を以て、其一女子を捕へ見しに、口の周圍と手とに入墨あり、是より此矮小人種は他に行きて復た其蹤跡を知らず、今日殘存する竪穴、石器、土器は此人種の使用せしものにして、アイヌの使用せしものにあらず、アイヌの入墨も亦彼に模倣せるものなりと、樺太アイヌの語る所亦大略之に同じ、唯其異る所は、此人種を呼ぶに、一般にトンチの名を以てする事、及び該アイヌ自身も亦竪穴に住居せし事なり、北千島アイヌには絶えて此傳説なく、其祖先竪穴石器土器を使用せりと言ふのみならず、今も亦竪穴を造り住居しつゝあり。
右のコロポックルに關する傳説は、本邦人類學上の一大疑問を惹起し、之に關して種々の議論あり、未だ其決着を見ること能はず、其説く所人によりて同じからずと雖も、今諸學者の見解を大別すれば、大凡左の四種となるべし。
第一説 アイヌの傳説を殆ど全く信用するものにして、坪井博士は其主領たるのみならず、博士は更に敷衍して、コロポックルは日本本州四國九州迄蔓延したるものとなせり、此説は流石人類學の大家たる坪井博士の主張する所なれば、最も廣く世間に信用せられ居れり。
第二説 コロポックルを以て、北千島アイヌとなすものにして、此説は源をミルン氏に發し、鳥居龍藏氏の千島調査によりて、稍々賛成者を増加せり。
第三説 コロポックルを否認し、アイヌを以て竪穴石器土器を使用せりとなすものにして、松浦竹四郎、小金井博士、ジヨン、バチエラー氏其他意を用ひて研究せる人多く之に屬す。
第四説 コロポックルを以て、不明の問題となし、解決覺束なしとなすものにして、此類の學者亦少なからず。
以上四説の内、第一説と第三説とは全く相反對するものなり、第二説は北千島アイヌは竪穴石器土器を使用せること明かなるも、本島アイヌは之を使用せりとの證據を得る能はざるより起りしものなり、第四説は從來の研究材料にては、解決覺束なしとなすものなり。
予は初め坪井博士の著述を讀みて漠然第一説を信じたりしが、北海道に來り研究の後其非を曉りて、第三説に轉じたるものにして、其研究の結果は明に此問題を解決し得べしと信じ、之と同時に坪井博士等のコロポックル説が、世人を迷はしつゝあるを憂ひ、之が駁論を試むるものなり、今議論の順序として、三派のアイヌ皆竪穴に住し、石器土器を使用したることを陳べ、コロポックルの誤謬を論じ、其傳説の小説たることを説かんと欲す、而して其材料は主もに世人に耳新しからんと思ふものを採り、先輩同論者の縷述せし所は、成るべく之を避けんと欲す。

三 三派のアイヌ皆竪穴に住せり


竪穴は奧羽地方の北部より、津輕海峽以北の各地に存在するものにして、其穴の状態は各地とも大要一致せり、而して樺太アイヌ、北千島アイヌが竪穴に住したる事、若しくは現に住しつゝある事に就ては、何人も異論なしと雖も、本島アイヌが之に住したるや否やに就ては、議論未だ決定せず、盖し此議論には、竪穴に住したりと信ずる人より其證據を提出すべき筈なるに、其材料不足にして多くは想像上より立論したれば、反對論者を承服せしむること能はざりしなり、然れども予輩の研究によれば、此證據は舊記の上に於ても、將た又遺跡遺物の上に於ても、之を擧ぐるに難からざるものなり。
記録中に於ける好材料は、天野信景著す所の翁草なり、同書に吉十郎外八人の舟子が、伊豆附近にて難風に逢ひ、蝦夷地に至りし漂流船書上の寫を載せたるが、之に據れば彼等は、十勝國の海岸に漂着し竪穴居住民に救はれたるものなり、今該書上の要部を左に記せん。
五月二十日島の樣なる所居相見え申候に付力を得、傳馬船を下し、上り可申と存候得共、大分の荒磯にて、舟にては上り申事中々難叶候故如何可仕と存居候處、七尺許の者一人參り、何とやらん申候得共、一圓通し不申候故、此方より助くれ候樣にと相頼候得とも、是も通し不申候に付、手を合せ禮を致し候得は、彼者も手を合せ禮を致し候て、私共手を引山の奧へ連參り申候、十四五町許參り候得ば、穴を掘り上を木の皮などにてかこひ申候家段々御座候何れも疊五六疊も敷可申體に相見え申候、内より右の族の者、段々出合引入の候、五穀の類は一切無御座、オツトセ生鮭生鯨猪熊など煮燒不仕候て生にてくれ、十二三日の程身命をつなぎ居申候、逗留仕候内見申候得は、右の者木の弓を以て、魚獸を取申候此處奧蝦夷トカチと申處の由に御座候。
右は蓋し亨保六年(西暦一七二一年)の事に係り、其地は今の十勝國廣尾郡の西部に屬するものとす、尚ほ此漂流民は之より送られて、今の日高膽振を經て、松前に至り、町奉行高橋淺右衞門の取扱を受けたるが、該書上には十勝の外穴居の事を記せず、されば當時本島アイヌは、一般に穴居せざるも、奧地に至りては尚ほ稀に竪穴に住したるものありしを知るを得べし、今を距る二百年に足らざる時代に於て、北海道本島に穴居する者ありしは、コロポックル論者の實に意外とする所ならん。
遺物上より本島にある竪穴の餘り古きものにあらざることを説きたる論者少なからず、是れ竪穴中より間々鐵器、及びアイヌの使用する植物性の物を出すことあるを以てなり、而して世人の未だ多く知らざる發見は、石製烟管の竪穴中より出たることゝなす、此發見は北海道廳屬井口亢一郎氏(今御料局在勤)にして、氏は明治三十二年北見國常呂郡常呂村下常呂原野に於て、一個の竪穴を掘りて石製紡※[#「糸+垂」、U+7D9E、449-18]車と共に之を得たり、人或は此石製烟管は穴居人の使用せしものにあらず、後に穴中に紛れ入りしものならんと疑ふやも知るべからずと雖も、此石製烟管と共に出たる紡※[#「糸+垂」、U+7D9E、450-1]車と同樣の紡※[#「糸+垂」、U+7D9E、450-2]車が、他の竪穴より出でたる事實なれば、此等は正に穴居人の使用したるものと斷定するを得べし、扨て烟草の本邦に入りたるは天文以後の事にして、其の後漸次諸方に廣まり、慶長十年(西暦一六〇五年)には奧州まで流布するに至りしと云へば、其蝦夷地まで流布するに至りしは、凡そ今を距る三百年以後と推察して可ならん、而して此の石製烟管のアイヌの使用したるものなることは、安政年間に於ける松浦竹四郎氏の日誌を見て之を知るを得べし、同氏の東蝦夷日誌に曰く、
シカリベツブト(十勝國十勝川左岸)人家四軒上陸して、しばし過ぎ廣野に出つ、此處に當午年九十九歳に成りしシユツコハ婆と云ふものあるが故、訪ひいろ/\故事を聞しが、文化度亂の話等をもして別に臨て、岩烟管(シユマキセル)を一本呉れて云へるは、我等若き時は皆此キセル又は木もて作りて呑しか、近頃の土人は金の烟管で煙草を呑み、米にて釀る酒を呑て、木綿もて縫し衣服を着る、如此に隨て日増に土人の風俗もなくなりぬと笑ひたり。
同氏の十勝日誌に掲げたる古器物の圖觸に曰く、
石烟管  是は今にても山中にては用ゆ北蝦夷(樺太)の東岸にては、胡女共總て之を用ゆ。
是に由て之を觀れば石烟管は、本島アイヌ並に樺太アイヌの使用したるものなり、其他本島の竪穴中より現今アイヌの使用する器物と同樣の器物等を間々出せし事實にあれば、本島アイヌは、曾て竪穴に住したりと推定し得べきなり。
次に有力なる證據は、竪穴とチャシとの關係なり、チャシとは蝦夷の砦にして、奧羽地方の北部、北海道本島の各地、千島列島の大部分に存在し、又近時樺太廳員小笠原鍵氏の書信によれば、同島大泊其他アニワ灣沿岸に於て、既に十餘のチヤシを發見したりと云ふ、此チャシに關する些少の記事は諸書に散見すと雖も、廣く亘りて稍々詳細に研究したるは、予を以て嚆矢とす、其論文は載せて札幌博物學會會報第一卷第一號にあり、又地學雜誌第二百十二號、第二百十三號に轉載せられたれば、茲に詳説せずと雖も、其大要を云へば、此砦は丘岬若くは丘頂に之を搆へ、其形は橢圓形其他種々あり、其周圍普通二三十間乃至七八十間にして、周圍の全部若くは一部に概ね空濠を繞らせり、チャシの數は本島に於て發見せられたるものゝみにても、既に九十有餘の多きに達し、其内にはチャシの内部又は附近に竪穴ありて、兩者の間に密接の關係あることを示すもの少なからず、以て或る時代に於ける或る人種は、チャシをも造り、竪穴をも造りたることを證せり、而して此チャシの主人公は如何なる人なるや、之をアイヌに問へば、或は知らずと答へ、或は自己の祖先なりと答へ、或はコロポックルなりと答へ、一定せずと雖も、之を舊記に徴すれば、アイヌの使用したるものたること甚だ明瞭なり、寛文九年(西暦一六六九年)今の日高國染退シプチヤリの酋長シャグシャインの亂を記せる書類には、アイヌの砦に據りし事を記し、殊に津輕一統志の該記事中には、チャシの砦なる事を記せり、降て天明元年(西暦一七八一年)松前廣長の著はせる松前志に曰く、
夷方にて不義をなし、或は罪あるものには、寳物を出さするを法とす、是をツクナイと云ふ、法に背きて財を出さゞれば鬪爭に及ぶ、其時は毒箭を放ち、鎗を横たへ、戰をなすなり、故に大邑の酋豪たるものは、必ず一廓の高山をチヤシと名づけて此に據るなり。
又天明四年(西暦一七七四年[#「西暦一七七四年」はママ])立松東作の著はせる東遊記に曰く、
名は忘れたれども、東蝦夷に大なるチヤシを持てる者あり、四方險阻にして藤綱にすがりて出入す、(中略)チヤシとは、蝦夷の居所城壘の如きものを云ふ。
又渡島筆記(著述年代不詳)と云へる書に曰く、
チヤシと云ふは城のことにて、要害によりて作り、櫓をかきあげ中より毒矢を射出す。
此等の記載に據れば、チャシはアイヌの使用したるものなること明かなるのみならず、今より約百二十年前迄は本島の奧地には、尚ほチャシに據りたるアイヌありしことを知るを得べし、而してチャシがアイヌのものと決定する上は、之と密接の關係ある竪穴も亦アイヌの使用せるものと決定し得べきは當然の事なる可し、茲に注意すべきは、チャシと竪穴とは、其使用の目的同じからずして、兩者の使用年代に往々一致せざる點ある事是なり、今其使用の終りに就て言へば、本島全部の上に於て、チャシを全く廢したるは竪穴を全く廢したるよりも、數十年の後にあるものとす、是れ本島アイヌが竪穴に關しては、既に忘却して之を悉くコロポックルに歸するに拘はらず、チャシに關しては、之をコロポックルに歸するものあると共に、又明に自己の祖先の造りたるものなりと言ひ傳ふる者ある所以ならん。
以上陳る所の如く本島アイヌが、樺太北千島の兩アイヌと同じく、曾て竪穴に住したる事明瞭なるのみならず、其之を使用せし最終の年代迄も畧ぼ之を知り得たるは、コロポックル論に對する一大打撃たり、坪井博士其他反對論者は、コロポックルは本島アイヌに追はれて千島方面に向て逃れしと云ひ、或は千島方面並に樺太方面に遁れしと云ふと雖も、今を距る二百年前後迄、本島に居住したるコロポッルクが[#「コロポッルクが」はママ]、眞に北方に遁れたらんには、多くの年代を經ざる今日其事跡に就き、多少得る所なかるべからず、然るに千島方面に於ては、明治三十二年鳥居龍藏氏、同三十三年予輩の巡回調査せる所によれば、毫も斯かる證據を得ること能はざりしのみならず、北千島アイヌは、古來北千島に居住せりと語り居れり、又露人の始めて北千島に着手せしは、正徳元年(西暦一七一一年)以來にして、其頃數多の北千島アイヌ居住せるのみならず、北海道本道の一部には、享保六年(西暦一七二一年)尚ほ穴居人、即ち反對論者の所謂コロポックルなるもの住居せり、如何に考ふるもコロポックルが、本島アイヌに追はれて北千島に遁れ、若くは北千島を越えて尚ほ北方に逃れしとは信ずる能はざるなり、又樺太には古昔より樺太アイヌ居住し、文明十七年(西暦一四八五年)其一酋長今の渡島國上ノ國村に來り、松前氏の始祖武田信廣に支那の瓦硯を献じたることあり、其瓦硯は、永く國家に傳へて寳物の一となれり、降て寛永の頃及び寳暦元年松前氏より、家臣を同島に遣はしたることあり、而して樺太アイヌが宗谷海峽を渡りて、本島アイヌと互に交通せしは、久しき事にして、樺太状況の大概は聞き取りて松前に知られ居りしが、コロポックルの如き奇怪人種の存在に就ては、毫も傳ふる所なし、是れ亦如何に考ふるも、今を距る二百年前後迄本島に住したるコロポッルが[#「コロポッルが」はママ]、樺太に遁れ更らに樺太アイヌに追はれたりとは信ずること能はざるなり、想ふに樺太北千島の兩アイヌは共に古く本島アイヌと分離し、各其地に住居するものにして、反對論者の所謂コロポックル、即ち、本島穴居人は、此處に、其遁路を見出す能はざるものなり、換言すればコロポックルは實在せる人種にあらずと云ふの外なかるべし。(未完)





底本:「歴史地理 第十二卷第五號」日本歴史地理學會
   1908(明治41)年11月1日発行
初出:「歴史地理 第十二卷第五號」日本歴史地理學會
   1908(明治41)年11月1日発行
※初出時の署名は「札幌 河野常吉」です。
※「上を木の皮などにてかこひ申候家段々御座候」は、底本では白丸傍点の位置が字間にずれている上、一字少ない状態で印刷されています。
入力:しだひろし
校正:フクポー
2018年8月28日作成
2018年9月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「糸+垂」、U+7D9E    449-18、450-1、450-2


●図書カード