忘れ難きことども

松井須磨子




 先生のことを思ひますと、唯私は悲しくなります。先生は、随分苦労をなさいました。ほつと呼吸いきをつく間もない位に、殆んど苦労のし通しでした。それを残らず傍にゐて見知つてゐるだけに、皆私には忘れられないことばかりです。
 先生は、ずつと以前から、私達一座を率ゐて西洋へ行つて見たいと云ふお考へを持つてゐらつしやいました。はなは、大連から露西亜ろしあへ、露西亜から亜米利加あめりかの方へ行つて見たいと云つてゐらつしやいました。ところで、今年は其の大連から浦潮うらじほの方まで行つて見ましたから、今度はのつけに亜米利加へ行つて、ずつと向うを巡廻して見たいと云つてゐらつしやいました。そして、一と廻り興行をしたら、あとに私達二人だけ残つて、私には向うの俳優学校へ入つて、二三年勉強したらいだらうと云つてゐらつしやいましたが、それも悲しい、思ひ出になつてしまひました。此の頃先生は、西洋へ持つていらつしやる脚本をこしらへる為に、種々いろ/\材料を集めてゐらつしやいましたが、それも皆悲しい遺品かたみになつてしまひました。
 先生のお亡くなりになつたのは、五日の午前二時近くだつたと云ひますが、私は、そんなことはちつとも知らずに、其の時分は明治座で一心に舞台稽古をしてゐたのです。今其の事を考へますと、何とも云ひやうのない、情けない悲しい思ひがいたします。
 私は家を出たのは、四日の正午ひる頃でした。其の時分は、先生は特別に苦しい様子もありませんでした。ですから私は、無論それが最後にならうなどと云ふことは更に思ひ掛けませんでした。先生は其の時、「しつかり稽古をしてきてくれ」と云ふ意味のことをおつしやつて、私を励ましてくださいましたが、それが生涯忘れられない最後になつてしまひました。
 明治座の舞台稽古は、衣裳やかつらの都合で、ひどく遅くなつたのです。私は其の間、早く稽古を済して、帰りたいと思つてゐました。それでやうやく稽古が済んだのは、もう五日の午前二時頃でした。私は稽古を終へて、衣裳や鬘を脱いでゐると、其処へ、先生がお悪いから、早く帰つてくださいと云つて知らしてきましたから、私は取るものも取りあへず、夢中に楽屋口に待つてゐたくるまに乗つかつて帰つてきたのです。ですが其の時も、先生がお亡くなりになつたと云ふことは少しも知りませんでした。私は、唯先生が寂しく私の帰りを待つてゐらつしやるだらうと思つて、帰る途中も気が気でありませんでした。唯私は、其の間も物悲しくなつて、泣いてばかりゐました。其のうちに、俥が家の門前へきて止りました。すると私は、一時に胸が込みあげてきて、声をあげて泣きました。ですが、泣いてなんぞ入つて行つては、かへつて先生のお気を悪くしてはならないと思ひましたから、私は階段のところで声を呑み、流れる涙を押拭つて、二階へ上つて先生のやすんでゐらつしやる部屋へ行きましたが、もう駄目でした。其の時の気持と云つたらありませんでした。丁度後方うしろから、いきなり首でも締められたやうに、一時に呼吸が止つてしまひました。本当に其の時の悲しさと云つたらありませんでした。さうして、私が帰つた時は、先生はもう氷のやうに、冷たくなつてしまつてゐらつしやいました。私は其の時、うにかしてよみがへらないものかと思ひました。だつて私は、何うしても、先生がお亡くなりなすつたのだとは思はれませんでした。考へると、本当に悲しい涙の種ばかりです。
(「演芸画報」大正七・一二)





底本:「「弔辞」集成 鎮魂の賦」青銅社
   1986(昭和61)年10月15日新装改訂版第1刷発行
   1987(昭和62)年2月10日新装改訂版第7刷発行
初出:「演芸画報」
   1918(大正7)年12月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2010年3月3日作成
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