教育学の書物を開いて見ると、博物学の教育的価値を論ずるところにかならず次の一か条が掲げてある。すなわち「博物学を授ける目的の一は生徒をして自然の美なるを感服せしめ、したがって自然物を愛するの情を起さしめるにある」と書いてある。わが国の文部省の普通教育に関する法令の中にも、やはりこの説によったものと見えて全く同様なことが載せてある。また博物学者の方にも同様な考えを抱いている人が多数を占めているようであるから、今日のところではこの説は世間一般にあまねく行なわれているものとみなさねばならぬが、われらはこの説を聞くごとにつねにおかしく感じていたのであるゆえ、今その理由をここに述べていささか教育学者および博物学教授者の参考に供したいと思う。
「なんじはいつ盗賊を止めたいか」という文句の中に「なんじは盗賊であった」という意が含まれてあるごとくに「自然の美を感服せしめる」という文の中には「自然は美なり」という断案が含まれてあるが、われらの考えによればこの断案がすでにはなはだ誤ったものである。虚心平気で自然を観察すれば、美なりと感ずる部分のあるはもちろんであるが、それと同時にはなはだ醜なりと感ぜざるを得ぬ部分もたくさんにある。これはきわめて明瞭なことで改めて例を挙げる必要もない。自然を観察するために郊外へ出かければ、荒れ果てた草原に牛や馬の骨が乱れ転ってある傍に腐りかかった猫の屍骸が横たわり、皮膚は破れ腸は流れ出し全部はなはだしい悪臭を放っている。その側に美しい
かような実際のありさまを目前に見ながら、醜なる部分については一言も言わず美なる部分のみを非常に賞讃し、あたかも自然は全部ことごとく美なるかのごとくに説く者の生じたのは何故かというに、これはわれらの考えによれば恐らく
われらの考えをありのままにいえば、自然には美なるものもあり、醜なるものもあり、美醜の中間のものもあれば、美醜以外のものもある。それゆえ自然を論ずるにあたってその美のみを説くのはきわめて偏頗なことであって、けっして正当とはいわれぬ。また自然の中には美なる部分があるからというて直ちに自然は美なりと説くのは、あたかも象の尾だけを示し、象にはかような細長い部分があるとの理由で、直ちに象は細長いものなりと説くのと同じくはなはだしい誤りである。されば博物学を授けるに当り、もし生徒をして自然の美を感服せしめるをもって目的とするならば、故意に醜なる部分を隠蔽し、美なる部分のみを挙げ、強いて事実を曲げて、自然に関係し全く顛倒したる観念を生徒に与える覚悟で取りかからねばならぬ。公平に、ありのままに自然を紹介し生徒自身に直接にこれを観察せしめる普通の科学的の方法ではけっして以上のごとき目的を達することはできぬ。
博物学は自然を研究する学科であるが、その目的はけっして自然の美を探ることでもなく、また醜を
また一方には動物学や植物学を修めて一々の動植物を精密に調べると、あまり非詩的になって自然を漠然と眺めている者に比べると、はるかにその美に感ずる力が鈍くなり、いかなる自然の美に触れても心の琴の緒が振動せぬようになると説く人もあるが、これもけっしてさような理由はない。桜は顕花植物中の双子葉類に属するもので、その花は花粉の伝播のために昆虫を呼び寄せる装置であると知っても、桜花の咲き揃うたのを見て美しいと感ずることはそのために少しも減ぜぬ。また蝶は昆虫類の中の鱗翅類に属しその
そもそも美と醜とは何によって定めるかというに、その標準はけっしていつでもどこでも同一であるわけではなく、人種により古今により実に種々の相違がある。上唇に大きな孔を穿ち、その中へいっぱいに環を嵌め込み、笑えばその環が立って環の中に鼻が見えるのを美しいと思う人種もあれば、無理に足を小さくして
次に仮に一歩を譲って自然を美なりとみなしたところで、自然の美なるを感服せしめたならば、その生徒がかならず自然物を愛するようになるか否かが疑問であり、また自然物を愛することが果して奨励すべきほどの善いことであるか否かがさらに疑問である。世間では家を愛し国を愛し人類を愛し宇宙を愛する心を皆同一の心の異なった階段とみなし、愛の範囲の広いほど尊いものであるかのごとくにいいはやしているが、われらの考えは大いにこれとは違う。
家を愛し国を愛することには生物学上正当の理由が十分にあるが、これに反して宇宙万物を愛するというに至っては全く正当な範囲以外へ逼出した本能の錯誤的作用であると思う。そもそも人間はいわゆる社会的動物であって社会を造らずには一日も満足に生存はできぬが、およそ団体を造って生活する動物では多くの団体が相対して生存し各団体が生存競争の単位となるゆえ、一団体内の各個体に利他の心がなかったならば生存は全く覚束ない。かくのごとく利他心は社会的動物の生存における必要条件であるゆえ、人間に限らずおよそ社会的の生活を営んでいる動物ならばかならず多少発達しておらぬことはない、蜂や蟻の社会的生活状態を観察すればこのことはきわめて明らかである。されば利他心なるものは生存の必要上より社会的動物に生じた本能とみなすべきもので、人類における利他心ももとよりこの理に漏れるわけはない。ところが本能なるものはすべて多少盲目的でしばしば誤るものであることは、いささかでも動物の習性を調べた者の十分に知っているところである。例えばある種類の蠅は卵を腐肉の上に産み付けるが、これは孵化した幼虫が直ちに十分の食物を得るためで、種属維持にとってははなはだ必要な本能である。しかるに天南星科の植物には腐肉の如き臭気を発する花の咲くものがあるが、蠅がそこへ来て往々卵を産み付ける。また草の間を走り歩く蜘蛛の類は卵の塊を糸で包みあたかも繭のごとき形に造り、中から幼児が孵化して出るまではつねにこれを携え保護しているが、これは幼児の安全のためにすこぶる有益な本能である。しかしもし人が試みにその繭を奪い取り、その代りに紙片を丸めて投げ与えれば直ちにこれを掴まえて繭であるかのごとくに大切に保護し、はなはだしきに至っては鉛の玉を与えてもやはりこれを掴まえ、保護するつもりで一生懸命に引摺り歩いている。かくのごとく本能なるものはしばしば誤った方向に向うても盲目的に働き、そのため動物をして往々目的に適わぬ所業をなさしめるものであるが、人類の有する利他心もやはりそのとおりで、生存競争の単位なる一団体の範囲内で働いている間は生存上はなはだ有効なものであるが、宇宙万物を博く愛するまでにその範囲を拡げると、あたかも蜘蛛が鉛の玉を大切に保護しているのと同様な全く目的に適わぬ所業をするようになってしまう。強い光を放つ物体を視るときに、網膜上にその像の映じたところだけに光を感ずるのみならず、これに接する周囲の部分も同じくいくぶんか光を感ずるので光が実際より大きく見えることを生理学では Irradiation と名づけるが、われらから見ると自然物を愛すべく感ずるのは単に利他心の Irradiation に過ぎぬ。宇宙万物を愛することは今日人道の最高程度のごとくに思われているが、以上のごとき原因に基づくもの故、実際はただ利他心という本能の一種の錯誤的作用に外ならぬのである。人類および自然を虚心平気に研究すれば従来神聖視し来ったものの実はあまり神聖にあらざることを発見することがしばしばあるが、われらはそのたびごとに「認識に達する途中には多くの恥を堪え通さねばならぬ、このことがなかったならば認識の興味もきわめて少ないであろう」というた「ニイチェ」の言葉を思い出すを禁じ得ない。
なお
また仮に自然物をことごとく愛することが善いとしたところで、これが実際に行なわれ得ることであるか大いに疑わしい。われわれは衣食住ともに自然物を用いるの外に道はないゆえ、生活している間はつねに自然物に迫害を加えざるを得ぬ。家を建てるには樹木を切り倒さねばならず、餓を

以上述べたごとくわれらの考えでは、博物学を授けて、生徒をして自然の美を感服せしめ自然物を愛する情を起さしめるということは必要でもなければまたできることでもない。博物学の倫理的価値はけっしてかかることを人工的に生徒に説き込むのではなく、生徒をして虚心平気に人類と自然とを観察するの習慣を得しめて、人類と自然とのありのままを知らしめる点にあるが、その倫理的効力の大なることはわずかに自然の美を感じ、一部の自然物を愛するごときと同日の論ではない。およそ人間に関することを論ずるにはまず人間を知ることが必要であるゆえ、自然における人類の位置を知るはすべての倫理的思想の根本であるが、これを知るにはまず自然のありのままと人間のありのままとを知らねばならぬ。しかしてこれを教えるのが博物学である。されば博物学と倫理学との関係ははなはだ親密であるべきはずで、けっして従来のごとくほとんど相知らずに離れているべきものではない。真の倫理学はむしろ博物学を基としてその上に建つべきものである。
真善美はつねに並べ称して人の理想とするところであるが、その性質を比較すると真と善美との間にはいちじるしい相違がある。前にも述べたとおり自然は美でもなく、醜でもなく、美も醜もともにその中に含まれてあるが善悪に関してもこれと同様で自然は善でもなく、悪でもない。善悪についてくわしく述べることを略するが、善と美との標準はつねにわれの方にあって自然の方にはなく、われわれは自己の有する標準によって他物を測り、その美醜善悪を評しているのである。これに反して独り真だけは標準が自然の方にあってわれの方にはない。自然自身のありのままがすなわち真の標準であってわれわれはただこれを知ることに向うて徐々と進み居るのみである。しかして真に向うて進む方法はただ虚心平気に自然を研究するより外にはない。われわれの知識はいずれの方面に向うても実にわずかであって、その境を超えれば全く知らぬことのみゆえ、なかなかもって自然の真すなわちありのままを知ることはできぬが、つねに怠らず苦心研究すれば漸々一歩ずつ真を知る方向に進むことができる。地球の丸いことを知るに至ったのも、その太陽の周囲を廻転するを知るに至ったのも、微細な黴菌が種々の病を起すことを知るに至ったのも皆真に向うて一歩ずつ進んだ結果であるが、科学の求めるところはすなわち真のみである。たとえ一歩ずつなりとも真を知る方向に進みさえすれば、それだけわれわれの知識の範囲が広くなるゆえ直にこれを利用して生存競争上他に優ることができる。博物学においても専心ただ真を知ることを目的として研究さえすれば実用上にも学理上にも莫大な利益を得られるのである。さればこの学を授けるにあたってもただ今日われわれの有する知識の程度に従うて自然の真を紹介し、生徒をして自身に自然に接してそのありのままを知らしめることを目的とすればよろしい。善と美との標準は時により国により異なることがあるが、真の標準は永久不変であって、これに近づくのがすなわち人智の進歩であるゆえ、ある目的のために故意に事実を曲げて教えたればとてその効能はわずかに一時的に過ぎず、一般の人智が進めばたちまち細工が現われてしまう。
以上はただいわゆる自然の美と、自然の愛とについてつねに考えていたことの概略を摘んで書いたのである。自然は美なりとか自然物を愛すべしとかいう考えは、教育学者や世間一般の人々のみならず、自然を研究することを専門とする博物学者の間にもはなはだ広く行なわれているようであるが、われらは直接に自然を観察したる結果として、自然は美でも醜でもなく、また自然物を愛してもこれを実行し得るのは無益無害の小区域内のみに限られると考えざるを得ぬゆえ、他と異なったこの意見を発表するのもあるいは多少の参考の資となろうかと思うてここに掲げた次第である。