自然の復讐

丘浅次郎





 自然を征服し得たことは人類の最も誇りとする所である。文明と云ひ野蛮と云ふも、畢竟、自然を多く征服し得たか、少なく征服し得たかの相違に過ぎぬ。火を以て随意に物を焼き始めてより、野獣を捕へて家畜とし、雑草を養うて作物としたのも、皆自然の征服であつたが、十九世紀に至つては、自然の征服が急に盛になつて、鉄道を敷いて大陸を征服し、巨船を浮べて海洋を征服し、更に二十世紀に入つては、飛行機を飛ばして天空をも征服するに至つた。水を用ひて灯を点じ、炭を燃やして氷を造るは素より、電波を使役して遠距離の間にも自由に通信し、エツキス放散線を利用して胎内の子供の骨をも写す。また血清を製造して微細なる病原生物を征服し、新薬「六〇六」を注射して「スピロヘーテ、パルリダ」をも絶滅し得ると云うて居る。斯くて人類は自然を征服し得たことを何よりの手柄と心得、文明の進んだことを大に得意として、今後も益々競うて自然を征服せんと努めて居るのである。
 併し此所に一つの疑問がある。自然は果して斯様に人類に征服せられるのみで、敢へて之に対して復讐を企てる如きことは無いであらうか。我々が自然を征服し得たりと思うて得々として居る間に、恰も白蟻が堂や寺などを喰ひ弱らせる如くに、見えぬ所で絶えず彼が仇返しを為して居る様なことは無いであらうか。此様な問題は、今日の人類を標準とし、今日の世の中だけを見、目前の勝利に心を奪はれて、たゞ文明を謳歌し居る人等には、恐らく胸に浮ぶことさへ無いであらうが、遠く人類の過去の歴史を考へ、下等な獣類時代から、猿時代、野蛮時代、半開時代を経て終に現今の有様に達したまでの変遷の跡を探るときは、この問題に対して慥に然りと答ふるの外に途は無い様に思はれる。


 自然には一定の理法が有つて、之を破るものは必ず罰せずには置かぬ。例へば人間の住所なる陸地に就いて考へて見ても、森林の樹木を猥りに伐り払ふて山を坊主にすれば、雨水を一時吸収し貯蓄するための自然の装置が無くなるから、雨降りの続く度毎に洪水が出て、家を流し橋を落すに至る。小鳥類を濫獲して取り尽せば、昆虫類の繁殖を制限する自然の働き役が無くなつて、忽ち害虫が殖え、作物の収獲が著しく減じ、場合によつては皆無となる。また海岸の森を切り倒したために、魚の望んで来る蔭が無くなり、漁期にも魚が採れず、近辺の町が衰微したと云ふ様なこともある。製造所から汚物を川へ流し出すために其の先の海で蝦や海苔が出来なくなつて、土地の人々の産業が絶えると云ふこともある。これ等は何れも自然の理法を無視したために自然から罰を受けたのであつて、全く自業自得と云ふの外はない。斯様な過ちは、今日まで何所でも随分数多く有つたであらう、また今後も時々あるであらうが、之は知識の足らぬため、先見の明の無いために起つたことである故、人智の進むと共に、追々同じ過ちを避けることも出来、已に過つたことは、之を償ふて、其の結果を取り消すことも全く不可能ではない。人類の征服に対する自然の復讐としては、此等は最も軽い程度のものである。


 生物には、絶えず鍛へる体部は強く丈夫になり、常に蔽ひ保護せられる所は次第に弱くなる性質がある。之は自然の理法の一であつて、寄居蟹の頭や鋏が堅いのに反し、介殻に蔽はれた腹部の皮が薄く柔かなのも其の為であるが、人間の身体も無論この規則に洩れない。然るに人間は、自然を征服し、自然力の一部を随意に使役し得る様に成つた度毎に、之によつて自己の身体を大切に保護し来つた故、征服の重なる毎に、人間の身体は少しづゝ弱く成つた。火を用ひ始めたことは文明の第一歩であつて、人類開化史の第一頁に特筆大書すべき自然の征服であるが、物を煮て食ふやうに成つてからは人間の消化器は著しく弱くなつた。食物を煮て食ふ動物は人間以外には一種もないが、人間ほどに歯や腸胃の弱い動物も人間以外には一種もない。衛生の書物を開いて見ると、生水は危険なれば飲むべからず、必ず一回煮沸したるものを飲用すべしなどと書いてあるが、未だ火を用ひなかつた頃の人類の先祖は、他の総べての野獣と同じく、無論煮沸せぬ水ばかりを飲んで、天寿を全うして居たのである故、それより今日までの間に、斯様な注意を要する程度までに、人間の体質が弱く成つたのである。衣服を着して寒気を防ぐことも、他の獣類と異なる点として人の誇る所であるが、其ため人類の皮膚は無論段々と弱くなつた。人間の如くに、僅ばかりの寒暖の変化によつて、容易に風を引く獣は他に恐らく無いであらう。今に成つて、俄に冷水摩擦を始めても、到底生まれて一回も冷水浴をやらぬ獣類の足許にも達せぬ。家屋を建てゝ寒暑を防ぎ、市街を造つて安全に住居することは、総べての文明の礎とも云ふべきことであるが、其ため日夜悪い空気を吸ふて、呼吸器官が次第に弱くなり、終には誰も彼もが肺病に罹る様になつた。結核の「バチルス」はコッホが之を発明しない遠い昔から、無論何時の世にも有つたであらうから、或は熊の肺に入ることもあらう、また猪の肺に入ることも必ず有つたらう。然るに熊や猪が悉く肺病に罹らぬ所を見ると、肺病の原因は結核菌なりと云ふよりも、肺病の原因は弱き人の肺なりと云ふた方が寧ろ適当かとも考へられる。人間が暖房管を備へ、煽風器を据へ付けて、如何なる冬の寒さでも、如何なる夏の暑さでも我が知力を以て防ぎ得ぬものは無からうと誇りつゝある間に、自然は之に対する復讐として、日夜の別なく人類の体質を根柢から弱くせざれば止まなかつたのである。自然の復讐は、何時も斯く極めて隠微に行はれるから、普通の人は之に気が附かぬが、人間の仕事の一時的、部分的、表面的であるに反し、彼れの仕事は永久的、普遍的、根柢的である故、その結果は極めて恐ろしい。而して一般の学者等が騒ぎ出すほどに結果の現れる頃は、已に手後れであつて容易に回復の見込みは立たぬ。近頃欧米諸国では人種の衛生とか、民族の改良とか云ふことを喧しく論じて居るが、之は長い間の自然の復讐の結果が著しく現れて居ることに、急に心附いたからであらう。


 医術は文明と共に進むもので、野蛮人を文明に導くには、先づ医術の方から持ち込むことが多い。また衛生と云ふことも、開化の進むに随うて、益々重んぜられるもので、凡そ一国民の衛生思想の如何を見れば其国の文明の程度を推察することが出来る。併し、この大切な医術や衛生の進歩に対しても、自然は絶えず復讐し来つた様に思はれる。医術が進めば、昔し治らなかつた病気も治る様になり、消毒の方法が完全になれば、外科手術も次第に大袈裟なことが出来るやうに成るから、一個人の命を助ける術としては、誰も、其の進歩の有難さを感ぜぬ者は無いであらうが、扨て人類全体の生まれながらの体質に向つて、之が如何なる影響を及ぼすであらうかと考へると、此所にも自然は決して復讐せずには居らぬ様である。凡そ生物体には僅な傷や少量の毒物に対しては自ら之を治し、又は之に抵抗し得る性質が備はつてある。小さい切り傷や擦り傷が知らぬ間に自然と治り、少量の脳溢血や、肺炎の気胞内に溜まつた液などが、捨てゝ置いても自然と吸収せられて仕舞ふ如き、又は一度軽く済ませた病気に対して免疫性を得る如きは、其例であるが、医術的の治療には、自然の回復を待つ間、単に患者を保護することゝ、患者の回復力や抵抗力の足らぬ所を人為的に加へ補ふて命を保たしめることとが行はれる。而して、回復力や抵抗力の足らぬ体質の者を、人為的に助け、人並に寿命を保たしめる場合には、人間総平均の体質は、其ため幾分か降るべきは勿論であらう。血清療法の如きも、個人を助ける術としては恐らく大成功であらうが、人手を借りて、始めて漸く病毒に抵抗し得る体質の者は、生まれながらにして、自然に其の病毒に抵抗し得る体質の者に比して、強壮の程度の劣れるは勿論である故、若し血清の注射によつて、病を治療し又は予防することが長く且広く行はれたならば、一代毎に人類総体としての健康が極めて少し宛、降るものと見做さねばならぬが、若し人間生来の抵抗力が段々減ずるとしたならば、或は未来に於て、従来人体に対して無害であつた細菌のために侵されて、新しい病気の種類が続々殖える如きことは無いであらうか。血清療法や化学療法が充分に進歩し、区役所の世話も完全に行き届いて、今日は種痘、明日は実扶的里の血清注射、明後日は腸窒扶斯のワクチン療法、その次の日は発疹窒扶斯、その次の日は猩紅熱と、下層の人民まで強制的にやらせる時代には、また名も知らぬ新しい伝染病が幾つも生じて、病気に罹る虞は却つて今日以上に上る如きことは無いであらうか。此等は素より取り越し苦労であつて、今から何れとも慥に云ふことは困難であるが、今日已に何所の病院も満員である所を見れば、将来斯かることは決して無いと云ふ保証は更に出来なからう。
 以上述べた所は、人間の身体に直接に関係したことである故、前の森林を切り払ふたために洪水が出ると云ふ類とは違ひ、自然の復讐としては一層重い方ではあるが、之れも決して防ぐ方法が無いではない。衣食住に就いても、今後成るべく自然の理法に適ふやうに改め、可愛い子に旅をさせる如くに、消化器にも時々硬い物を消化させ、他人の飯を食はすために若い者を奉公に出す如くに、皮膚も成るべく浮世の風に当てゝ辛抱させ、家屋なども庭園と交へ建てゝ、余り密集せずに、常に稍々新鮮な空気を呼吸して生活し得るやうにすれば、益々弱く成り行くことを多少は避けることも出来やう。また寄居蟹の腹の皮が薄く柔くても、介殻の内へ嵌め込んで居さへすれば安全である如く、人間も身体が少しづゝ弱く成つたとて、之に対する手当の方法さへ充分に備はれば何も直に差支へる程のことは無い。ただ、寄居蟹が何所へ行くにも必ず介殻を引きずつて行かねばならぬ如くに、無数の生命保存用品を絶えず備へ携へねばならず、其ため生活が非常に複雑になつて、常に多方面に注意を配らねばならぬと云ふ面倒を我慢さへすれば済む訳である。されば自然の復讐なるものも、人間の外囲に対し、又は人間の身体その物に対するものだけならば、敢へて絶望するに及ばぬ。素より出来るだけ之を防ぐやうに注意することは必要であつて、今後決して従来の過ちを再びせぬことは、損得の上にも自衛の上にも大切であるが、たとへ充分に自然の復讐を防ぎ得ずとも、急に危難の差し迫ることは無いから、民種改善学などを緩々と研究して理論を闘はして居る余裕が少しは有るかも知れぬ。


 自然の復讐の最も劇しく最も惨酷なのは、人間の社会生活の不条理なる点に起因するものである。之は人類の征服に対しての直接の復讐と云ふよりも、寧ろ人間の社会制度の欠点に附け込んで自然が行ふ間接の復讐とも云ふべきもので、社会の制度が今日の儘に続く限りは、到底防ぐことは出来ぬ。自然には他の欠点に附け込むなどと云ふ人間らしい性質は無論ある訳はない。落花心ありと云ふのは見る人の心で、流水情ありと云ふのも眺める人の情である。花自身、水自身には素より心も無く情も無い。たゞ自然は公平無私である代りに冷淡無情である。それ故、何事にでも、若し不条理な点が有つたならば、何時でも何所でも厳重に攻め罰して少しも容赦はせぬ。されば人間の社会制度に無理な点があり、不条理な仕組がある場合には、自然より罰せられることを到底免れぬ。今日の社会の制度には種々伝来的の不条理な仕組があつて、それが各方面に禍の種を蒔いて居ることは、前に「所謂文明の弊の源」及び「人類の将来」と題する二篇に述べて置いた故、此所に再び繰り返すことは見合せるが、其の結果として自然より受ける復讐は何れの方面を見ても頗る著しいものがある。之も詳しく論ずることは見合せて、たゞ一二の例を次に述べるだけに止める。
 富者は益々富み、貧者は益々貧しくなる傾のある今日の世の中では学者が折角、汗水流して研究し発明した事も、たゞ富者のみが之を利用して、貧者は却つて、其の為に更に困難に陥るに至り易い。蒸汽機関でも水力電気でも、人間の為し得た自然の征服としては最も立派なものであるが、後から見れば恰も貧富の懸隔を甚だしくするために特に造られたかの観がある。ヨーロッパ諸国で甚だしい貧民の生じたのは蒸汽機関が製造工業に応用せられて以来である故、この結果から見ると、蒸汽機関は一に貧民製造機関と名づけることが出来る。水を沸かして蒸汽とし、其の力で車を廻すと云ふことだけを見ると、如何に考へても自然から復讐せらるべき因縁は無い様であるが、之が人間社会に応用せられると、忽ち多数の貧困者が出来て、生活の困難が始まると云ふのは、畢竟、社会の制度の中に何等か不条理な点が存する故であらう。究理の学問が進み、自然の征服が行はれる毎に、富者の財産の額と、貧者の人員の数とが殖え来つたことを思ふと、今後急速度を以て文明が進めば、それに随ふて世の中も益々六かしく成り、人間が新に自然を征服する度毎に、恰も自然が其の復讐として執念深く人間社会を苦めるかの如き体裁を現すであらう。
 富者が益々富み、貧者が益々貧しく成れば、富者は富貴のために自然的の生活に倦いて不自然なことを試み、貧者は生活に困難のために止むを得ず不自然なことを行ひ、何れも不自然なる生活を営むであらうが、之に対して、また自然は必ず復讐をする。十八歳の娘が七十歳の老人の妻となることもあれば、五十歳まで独身で暮さねばならぬ男もあらうが、斯様なことは身体の上にも必ず宜しくない影響を及ぼして、次代の人間の健康は、其の為に幾分か損はれずには止まぬ。年々花柳病患者の殖えることも、其の遠い原因を探れば社会制度に欠点のあることに構はずに、智恵に委せて自然を征服したからである。肺病患者が盛に殖えて何所の国でも白十字社の設立を急ぐのも、精神病者が年々多くなつて、瘋癲病院の増設が必要となるのも、殺人強盗詐欺窃盗の類が益々増加して監獄が悉く満員となるのも、其の遠い原因は矢張り前のと全く同じく、社会制度の欠陥が自然の征服によつて急激に曝露した為である。斯様に今日の世の中にある疾病も罪悪も、其の主なる原因を糺せば、皆人間自身の側に欠点が存する故であつて、毫も自然を恨むべき筋はないが、譬へ社会の制度に如何なる欠点が有つたとしても若し人間が盛に自然を征服することさへ為なかつたならば、僅か一世紀ばかりの中に、今日の如き有様には陥らなかつたに違ひない。之を思へば、今日の世の中が斯く六かしく成つて、多くの困難な社会問題の起つたのは、皆人間が身分をも顧ず無謀に自然を征服して、勝ち誇り来つたために、彼より劇しい復讐を蒙つて居るのであると云ふことも出来やう。尚この種類のことは、政治上にも、経済上にも、道徳上にも、教育上にも実に無数にある様に思はれるが、此所には詳しく述べることを略する。


 さて、今日の制度のまゝでは、自然を征服して文明を進めれば進めるほど自然から劇しく復讐せられるとすれば、今後は自然を征服することを全く止めて、唯々自然に従ふては如何と論ずる人があるかも知れぬが、之れは素より甚だ不得策である。地球の上には多数の異なつた民族が対立して互に隙を覘ふて居る故、一刻でも油断して競争に後れるが如きことが有つてはならぬ。而して、民族間の競争には、如何なる者が勝ち、如何なる者が敗けるかと云へば、他の点が総べて同等である場合には、自然の征服に一歩でも先へ進んだ者が必ず他に勝つ訳である故、若し研究を怠り、努力を休んで、自然の征服を務めずに居たならば自然の復讐を受けることは或は軽く済むかも知れぬが、其の代り忽ち他の民族のために圧伏せられて、更に苦しい位置に落ちねばならぬ。されば、今日の各民族は、復讐を受けることは止むを得ぬと覚悟して益々自然を征服することを務めるより外に途は無いのである。自然から如何なる復讐を受け、自己の民族内に如何なる困難な社会問題が起らうとも、他民族に征服せられて、其の虐待を受けるのに比しては、遙に忍び易いであらう。之を物に譬へて云へば、恰も病人が商売上の激しい競争に従事して居る如くで、進んで競争に努力すれば、商売には勝つて店が盛になる代りに、病を押した自然の復讐として少しづゝ重態に陥るは止むを得ない。併しながら、病を思ふて競争を見放せば、忽ち零落して、路頭に迷ひ餓死せざるを得ぬのであるから、之に比すれば、病は少々重く成つても、競争に勝つた方が、遙に寿命が長く保てる。今日の各民族は略々斯様な状態にある故、一方に社会問題の解決に尽力しながら、他方には何所までも自然の征服に務め、物質的の文明を進めて、一歩でも、他の民族に先んずる様にと心掛けることが肝要であらう。
(明治四十四年十一月)





底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
   1912(明治45)年1月
※初出時の表題は「人類の征服に対する自然の復讐」です。
入力:矢野重藤
校正:hitsuji
2019年10月28日作成
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