理科教育の根底

丘浅次郎





 近頃は理科奨励の声が頗る高い。立派な理化学研究所が新設せられ、理科や医科の研究者には補助金が与へられ、地方の中学校、師範学校に於ける物理化学の設備を完全にするために何十万円かの金が支出せられた。また理科教育研究会と云ふ新らしい会が出来て「理科教育」と題する特殊の雑誌までが発行せられるに至つた。明治維新以来五十年の間、殆ど顧みられなかつた理科教育が今日急に斯く流行し出したのは何故であるかと云ふに、之は無論ヨーロッパ大戦争の影響で薬品、染料、ブリキ、硝子板、その他、種々の日用品の輸入が止まつて、日常の生活に甚だしい不自由を感ずるに至つたからである。理科の進歩が、民族将来の発展に極めて必要であることは、今日始まつた訳ではないが今までは、国民全体が、此事を痛切に感ずる様な機会に一度も出遇はなかつた為に、何時も目前の問題にのみ気を取られて居る政治家や実業家などは、理科の研究を以て、隙人の道楽仕事の如くに見做し、少しも之に注意を払はなかつた。然るに今回図らずも、其の欠陥が著しく現はれたので、にわかに騒ぎ出し、足元から鳥が立つた如くに、急に理科研究の奨励を唱へ出したのである。
 我国現今の理化学全盛の状態は、以上の如くにして生じたもの故、無論一種の変態現象であつて、一歩々々順序を蹈んで進み来つた訳ではない。其の為でもあらうが、今日小学校や中学校で理科の授業を見るに如何にも急場の間に合せの如く、たゞ理科の範囲内の事実を成るべく多く教へて、生徒に覚えさせることにのみ力を用ひ、肝心の理科進歩の根底なる研究心の養成は頗る閑却せられて居る。折角の奨励も根底を忘れて枝葉のみに力を尽す様では、其の効果は甚だ覚束ないもので、随つて今日の理科熱も、暫時の後には、従来教育界に流行した他の熱と同様に冷却し去るのでは無からうかと思はれる。真に理科の進歩を図るならば、先づ其の根底を造ることに努めねばならぬ。


 最近五十年間に於ける我国文明の進歩は実に驚くべきもので、実際これだけの短い時の間に、之だけの大なる進歩をなした例は他には無い。汽車、汽船、電信、電話、飛行機、潜航艇を始めとして、他の文明国に有るだけの物は我国にも有ると云ふのは誠に立派なことで、我国が今日の位地までに進み得たのは、全く絶えず文明に進むことに力を尽した結果である。併しながら今日までに文明の進み来つたのは、悉く他国の文明を移し入れたゞけで、独力で工夫した部分は殆ど一つもない。他人の苦しんで発明したことを其まゝ真似しただけである故、速に進歩し得たのは当然である。之を物に譬へて云へば、西洋諸国の文明の進み来つたのは、根のある樹木に自然に花が咲いた如く、我国文明の急に進んだのは、他の樹木に咲いた花を取つて来て此方の枯枝に結び附けた如くである。外観上には両方とも同様に見え、写真にでも取つたら、何の相違も無いかも知れぬが、其の将来は大に違ふ。根のある方の枝には、新に蕾が生じ新な花が咲くが、根の無い方は、決して新な蕾が生ずることもなく、新な花が咲くことも無い。若しも他の樹木に負けぬだけに花を持たせやうと思へば、絶えず新らしい花を取り来つて、之を結び附けねばならぬ。我国の文明が幼稚であり、他の国からは弱国の如くに見做されて居た時代には、何でも隠さずに教へて呉れた故、西洋の文明を我国に移すことが比較的に容易であつたが、今後は中々その様な訳には行かぬ。それ故、独力で文明を進める外に道は無い。然るにドイツ国の如きは、戦争以前から已に日本人には容易に工場の奥を見せぬ様であつたが、戦争後には各国ともに外国人には深く注意する様になり、今まで開放して置いた所をも厳重に秘密にする傾きが生ずるであらう。随つて外国の新発明を直に習うて帰ることが段々と六かしく成る。前の譬へで云へば、今後は他所の枝に咲いた花を取つて来て、自分の枝に糊で貼り附けることが、容易に出来なくなるものと覚悟せねばならぬ。
 今日我国で理科を奨励するに当つては、此の点を充分に考へて将来独力で、理科の進歩する様に、其の根底から造ることを努めねばならぬ。如何に金を掛け器械を整へても、単に理科的の事柄を教師が教へて、生徒に覚えしめるだけでは、中々理科の根底を造ることは出来ぬ。西洋諸国で今日までに斯く理科の知識と其の応用とが著しく進み来つた根底は何であるかと云ふに、之は全く強い研究心を有することである。何事でも理窟を究めずには置かぬと云ふ強い研究心が有ればこそ、各方面に発明も発見も出来るのである。研究心の無い所には決して独創的の新工夫は出来る筈がない。我国今日の教育上の急務は実に研究心の養成にある。研究心の養成さへ充分に出来たならば、其の先は自然に任せて置いても進歩すべき筈で、恰も根の発達した樹木には自然に花が咲くのと同じ理窟である。理科を授けるに当つて一々の事実を教へることも決して不必要と云ふ訳ではなく、之にも充分に意を用ひねばならぬが、独力進歩の根底なる研究心の養成は、更に幾倍も必要であることを忘れてはならぬ。
 今日小学校などで行はれて居る理科教授の実際を見るに、五十人以上の多数の生徒を教室に集め、何列かの机に行儀よく着席せしめ、一々教師の号令によつて、実験せしめたり、観察せしめたりして居る。之は昔し、実物なしに、ただ書物を読ませたり、講釈して聞かせたりするだけで理科の教授を済ませたのに比べれば、勿論優つて居るには違ひないが、実物に触れ自身に実験さへさせれば、それで理科の教授は目的を達したものと考へては大なる間違ひである。事実を覚えさせるだけならば之で充分であらうが、研究心を養成することは、斯様な方法では到底出来ぬ。特に実用に重きを置くと称して、直に役に立つやうな事柄ばかりを教材に選む場合には、尚更たゞ教へて覚えさせることのみが主となつて、研究心の養成の方は全く忘れられて居る。


 そもそも研究心は如何にして養成することが出来るかと云ふに、之は生徒各自に自由に物を見させ、考へさせ、疑はせ、而して独力によつて、其の疑ひを解かうと努めさせることに依つてのみ出来るのである。同じ物を見ても、生徒各自が之に就いて不思議と思ふ点は決して同じではない。甲が或る点に注意して、それに就いて考へて居る間に、乙は恐らく他の点に注意して、それに就いて何か疑問を起して居るかも知れぬ。されば、研究心を養成するための理科教授は、生徒一人一人を別々に勝手に働かせることが第一に必要な条件である。教師は一人一人の生徒の相談相手となり、生徒の疑ひを起した点に就いては教師も同じ疑ひを有する如き態度を取り生徒が言葉で尋ねたことに対し、教師が直ちに言葉を以て答へ、それで、其の問題が解決せられ終つたものの如くに見做す癖の生ずることを避けて、生徒と共々に観察、実験、推理の方法によつて実物から、其の答を求める様にしなければ成らぬ。真の理科教授は徹頭徹尾生徒をして独立自由に脳を働かしめ、教師はたゞ個人的に生徒の相談相手となるべきである。一人一人の生徒を別々に取り扱ふことは、今日の如くに五十人も六十人も一室に集めて、一人の教師が之を教へるのでは到底出来ぬ。我らの考へによれば、他の学科は暫く我慢するとしても、理科の時間だけは、一組の生徒の数を十人か十五人位として、之に一人の教師が附くことにしなければ、充分の効果を挙げることは出来ぬ。教師が教へ生徒が習ふだけの学科は、生徒の人数が多くとも授業が出来ぬこともないが、理科の如くに、生徒各自をして独立に脳を働かしめる必要のある学科では、一組の人数が多いか少ないかは第一の問題であつて、他の問題の如きは、之が決した後のことである。今日小学校に於ける理科教授法を研究して居る人々は、多くは一組の生徒数は現在のまゝで動かすべからざるものと、初めから定めて置き、扨それだけの人数を一室に集めて教へるには、如何なる方法が最も宜しいかと云ふ問題に就いて、種々考案を廻らして居るが、我らから見れば一組の生徒数を十人か十五人までに減ずることが先決問題であつて、之が行はれぬと定まれば、如何に他の点に工夫を凝らしても其の効果は五十歩百歩で、極めて不充分なるを免れぬ。生徒の数が多ければ、授業は勢ひ団体的とならざるを得ず、団体を取扱ふには勢ひ兵隊の調練の如くになつて、教師の号令に従うて、一同揃うて、観察を始めたり、また号令に従うて一同揃うて観察を止めたり為ねばならぬ。如何に実物を生徒の銘々に持たせても、斯く束搏せられては、何れの点も得心の行くまで考へて見ることは出来ぬ。之に反して、若しも生徒の数が少なければ、同じ机に対して相並んで腰を掛けて居る生徒でも、必ずしも同一の事を為すの必要はなく、銘々、勝手な方から始めて、勝手な方へ進んで行つても差支へは無い。即ち脳の働きが全く自発的であつて、疑はしいと心附いたことは遠慮なく疑ひ、其の疑ひを解くためにはまた自発的に脳を働かせて、其の方法を工夫し、自己の努力によつて、其の問題を解決し得たときには頗る愉快に感ずる。要するに理科の教授は若しも教師が教へ、生徒が覚えると云ふことだけを以て満足する積りならば、今日の通りでも宜しいが、将来独力を以て理科の進歩する様にと望むならば、思ひ切つて、一組の生徒の数を減じ、生徒をして各自勝手に自発的に脳を働かしめ得る様な仕組に改めて掛かることが必要であらう。


 何事でも進歩改良を図るには、先づ進歩の妨げとなるものを除くことが肝要である。理科の進歩を望むならば、理科の進歩の妨げとなるものを先づ除かねばならぬ。理科の事柄を授けて、生徒をして単に之を覚えしめるだけならば、別に之を妨げるものは無いが、将来の理科の進歩を図るために、研究心を養成しやうと努める場合には、其の妨げをなすものは沢山に有る。研究の源は疑ひにある故、研究心を養成するには、先づ疑うて掛かる癖を附けることが第一に必要であるが、物を疑うて掛かる精神の態度と、何事でも云ひ聞かされたことを其まゝに信ずる精神の態度とは到底両立せぬ。研究心とは、自分の成る程と思はぬ事は何所までも追求して、真偽を確めねば承知せぬ心で、他人が何と云うても、充分得心の行かぬ間は決して之に従はぬ。之と全く正反対に位するのは圧制的に或る信仰を強ひられながら、之を平気で信じ、而も強ひられて居ることを心附かずに居る如き心の状態である。若しも世の中が、斯様な人人のみであつたならば、研究と云ふことは少しも行はれず、随つて発明も発見も決して出来ぬであらう。研究には考へ方の自由なることを要し、考へ方が自由ならば他より信仰を強ひられても、之に服従することは出来ぬ。されば同一の脳髄を以て、両方を同時に兼ねることは不可能であつて、一方が進めば、他方は退くの外はない。真に民族の将来を考へて、理科の進歩を望むならば、研究心を養成することが何よりの急務であり、研究心を盛ならしめるには、自由に考へることを許さねばならぬ。一方で研究心を盛ならしめる様に努めながら、他方では自由に考へることを厳禁したならば、恰も機関車に石炭を盛に燃やしながら、強く歯止めを掛けて居る様なもので、如何なる結果を生ずるか、頗る危いものである。尤も、研究心が発達しなければ斯かる心配は少しも無い。
 小学校や、中学校の日々の日課の中には、或は教師の態度によつて、或は学科の性質によつて、或は何等か特殊の都合によつて、教師の云ふことを其まゝ強ひて生徒に信ぜしめやうとする如きものは無いであらうか。当然起るべき疑ひをも云ひ出さしめず、頭から押さへ付けて斯く信ぜよと命令する如き場合は無いであらうか。若し有りとすれば、理科奨励のためには、先づ斯かることから除いて掛からねばならぬ。前の時間には何でも教師の云うた通りを信じ、次の時間には、何でも独創的に自由に考へると云ふ様に、同じ脳髄を二通りに使ひ分けることは無理な註文であつて、到底出来る筈のものでない。されば真に国の将来を慮り、独力によつて、何所までも文明を進め得る様にと望むならば、英断を以て其の妨げと成るべき事柄を除くことが、先づ以て必要であらう。


 良い米を造るには良い種と良い田地と、良い世話とが揃はねばならぬ如く、旺盛な研究心を生ぜしめるには、良い人種と良い社会と、良い教育とが揃はねばならぬ。以上、述べた所は、たゞ教育の一部に就いて論じただけで、社会と人種との如何に就いては何も云はなかつた。如何に教育法を改めて、研究心の養成に努めても、社会の状態が之に適せねば、決して完全な結果を挙げることは出来ぬ。されば、理科の進歩を図るには社会の状態から改めて、理科の発達し得る様にしなければ成らぬが、之は素より一朝一夕に行はれるべき事でない。イギリス国民などは戦争以前には理科の発達に対して余りに不熱心であると云うて、同国の理科の雑誌には絶えず憤慨口調の論説が出て居たが、戦争が始まつてからは、余程様子が改まつた様である。恐らく今後は従来よりも一層理科の進歩に都合のよい状態に成るであらう。我国の如きはイギリスなどに比べても及ばぬ所が頗る多いから更に数倍の努力を要する。如何に研究に熱心な者でも、食はずには生きて居られぬ故、安心して研究の出来る様な位置を数多く設けることも必要である。戦争以前にドイツ国に造られた理科研究所でも、アメリカの若干の大学でも、役員は専ら研究のみに従事することの出来る仕組に成つて居るが、之は頗る羨ましい状態で、斯く成らねば研究は中々容易でない。研究の志は有つても、食ふために止むを得ず教員を務め、日々多くの時間を教へる方に費さねばならぬ様では、到底碌な仕事は出来ぬ。
 教育をも良くし、社会の状態をも改め、万事研究心の起り易い様に、また研究の行はれ易い様に仕組んでも、それでも、国民の研究心が盛に成らず、随つて何時までも碌な発明も発見も出来ぬ様ならば、之は人種が悪いのである故、恰も米の種が悪いのと同じく、如何に手を尽しても到底良い実を結ぶ望みは無いものと諦めねばならぬ。
(大正七年九月)





底本:「近代日本思想大系 9 丘浅次郎集」筑摩書房
   1974(昭和49)年9月20日初版第1刷発行
初出:「東亜の光 13巻11号」
   1918(大正7)年11月
入力:矢野重藤
校正:hitsuji
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード