進化論と衛生

丘浅次郎




 進化論と衛生という表題を掲げたが、実は生物進化の一大原因なる自然淘汰と衛生との関係について述べたいとおもう。そもそも進化論とは、今日世の中にある生物は動物でも植物でも決してすべて世界開闢かいびゃくのときから今日のとおりの形に造られ、そのまま少しの変化なしに子孫が残って、今日まで伝わったわけではなく、実は最初はなはだ簡単な構造を有する先祖から分かれくだったもので、つねに漸々ぜんぜん変化し、代を重ねるにしたがい、変化も次第にいちじるしくなって、ついに今日見るごとき数十万種の動植物ができたのであるという論で、これに対しては比較発生学、化石学等にほとんど無限の証拠があるから、今日のところではもはや学問上では疑うべからざる事実と見なすのほかはない。しこうして生物種属はなにゆえかくのごとくつねに進化しきたったかという問題に答えるのがすなわちダーウィンの自然淘汰説である。
 自然淘汰説の大体を述べれば、まずいかなる生物にも三つの性質が備わってある。第一は遺伝性というて親の性質が子に伝わること、第二は変化性というて同一の親から生まれた子供でもその間には必ず多少の相違変化のあること、第三は無限の繁殖でたちまちのうちに非常の数に増加すべき傾きを言うのであるが、この三つの性質が備わってある以上は、その結果として必ず生物種属の進化ということが生ぜざるを得ない。そもそも生物の繁殖する割合は幾何級数、すなわちいわゆる鼠算ねずみざんの割合で進むから、代々わずかずつ増加するごとくに見えても、たちまち無限にふえることになるゆえ、決して生まれた子孫がみな生存することはできぬ。かりにここに一本の草があって、わずかに二個の種子を生じ、翌年にはこの二個の種子から二本の草が生じておのおの二個ずつの種子を生じ、代々かくのごとくにして進んでゆくと仮定すると、十年目には千本以上、二十年目には百万本以上、三十年目には十億本以上というように驚くべき速力で増加する勘定になる。さればいかなる動植物でも生まれただけの子孫がことごとく生存しうる余地はとうていないから、ぜひとも生存のための競争が起こり、勝ったものは生存して子孫を遺し、敗れたものはあとをとどめず滅び失せてしまう。その場合にいかなるものが勝って残るかといえば、むろん生存に適する性質を備えたものに定まっている。もし同一種属の個体がすべて寸分も違わず、まったく同様なものであったならば、その間の勝敗はただ単に運次第というほかないが、前にも言ったとおり生物には変化性というものが備わってあって、同じ親から生まれた子でもその間には必ず多少の相違があり、したがって同一種に属する個体はみな幾分ずつか相互に異なった点があるゆえ、競争の場合にはその中で生存に適する性質の最もよく発達したものがぜひとも勝ちを占めることになり、これらのものが生存して繁殖するときには、また遺伝性によって競争に打ち勝ちえた性質を、子孫に伝えることになるから、一代や二代の間には目に立つほどに現われぬが、代が重なる間には各種ともに生存に適する性質が漸々ぜんぜん発達進歩し、先祖に比較してはいっそう進化したものとなる理屈である。
 以上大略を述べた生物進化論、および自然淘汰説は今日のところではもはや確定した事実である。今より五十二年前にダーウィンが「種の起原」という書物を著わして、初めて右の説を世に公にしたころは、反対論者がすこぶる多くあったが、その後生物学各方面の研究が進むに従い、いずれの方面よりも無数の証拠が見いだされて、今日ではもはや疑うべからざるものとなった。すなわち十九世紀の後半は生物進化論および自然淘汰説の研究時代で、二十世紀になってからは、これを基として応用工夫すべき時代に達したものと見なしてよろしかろうと思う。
 生物進化論、自然淘汰説がまだ研究中であった時代には、進化論と衛生学との間には少しも直接の関係がなく、したがって衛生学者がその専門学科の上から、進化論や淘汰説に対して議論を発表するようなこともなかったが、今日ではこれらの学説はもはや確定したものと認められ、これを基として国利民福をはかるようにと応用の工夫をこらす時代に達したのであるゆえ、この学説の見地から衛生学を研究する人もでき、種々の議論が世に公にせられるようになり、続いて従来衛生学を専門とする学者からも、これらの新説に対する意見が、種々の雑誌上に現われるようになってきたが、その中には熱心に自然淘汰説に反対して各自論説を専門雑誌や普通の新聞に掲げている人がある。ドイツ大学の衛生学教授などをつとめていて、専門家としては相当に名の聞こえた人で、かかる反対説を主張するものもあるため、一般の読者はいずれが正しいやら大いに迷うごとき傾きもあるゆえ、自然淘汰と衛生との真の関係を述べようと思うてこの題を選んだのである。かかる人らの書いたものを読んで見ると、明らかに自然淘汰説を誤解しているように見えるところもあり、また自然淘汰説を人間に応用するにあたって明らかにその筋道を誤っているように思われるところもあるが、もとよりここにはこれらの人々の説を取って一々批評しようというわけではない。ただ一般の自然淘汰説から見て衛生ということは、いかなる具合に考えるべきものかということを述べたいと思う。
 そもそも近来にいたって従来の衛生学専門家が急にはげしく自然淘汰説に反対を始めたのはなぜかというに、ほぼ次のごとき考えが基になっているのではないかと思う。すなわち自然淘汰説では生存競争においてまさった者が生き残り、劣った者が死に絶え、自然淘汰が行なわれるので動植物各種が漸々ぜんぜん進化するのである、[#「、」はママ]不適者の滅亡ということが万物の進歩する一大原因であるというが、医術衛生の仕事はまったくこの反対で、弱い者でも劣った者でも助けて生存せしめ、自然にゆだねておいたらただちに死んでしまうべきものでも、人工的の手当をほどこして生存せしめ繁殖せしめるのであるから、自然淘汰説と衛生とはとうてい両立せぬもののごとくに見え、自然淘汰説に従えば衛生は有害無益なものであるかのごとくに考えられ、もし世間に自然淘汰説があまねくひろまったならば、自分らの専門に研究しきたった衛生学が、まったく立場を失うにいたりはせぬかとの心配から、かく衛生学者が反対論を唱え出したように思われる。
 しかるに実際において自然淘汰論者の中に、衛生は無用なものであるなどと論じている者があるかというに、さような暴論をはく者は一人もない。自然淘汰説に反対する衛生学者は、自然淘汰論者はおそらくかく論じているのであろうと自分で勝手に想像して、しきりにこれを攻撃しているに過ぎぬ。すなわち優者の生存、劣者の滅亡は生物各種の進化の原因である。されば人間社会においても人種の進歩改良を望むならば、劣者はことごとく自然に打ち捨てておいて滅亡せしめるがよろしい。かくすれば代々優者のみが生き残るゆえ、体質も漸々ぜんぜんよくなるに違いない。医術や衛生によって劣者までも助けて生存せしめ、優者と同様に子孫を後に遺さしめることは、自然淘汰の働きを打ち消すことにあたるから、人種全体の上から見ると実に無益なるのみならず、かえって有害なものであると、かように論ずるもののごとくに想像して、しきりにこれを攻撃しているのであるから、まったく想像的の敵と戦うているありさまである。それゆえ、敵の名を明らかに指すことはできず、ただ単に「進化論者は云々」というて論じているのみである。
 優勝劣敗、適者生存という自然淘汰が生物進化の一大原因であって、人間社会のすべてのことも決してこの原則に漏れぬことは明らかである。自然淘汰をとどめて優者も劣者も同様に生存繁殖せしめたならば、その結果はいかにというに、これは進歩の反対の退化である。年中闇黒あんこくである洞穴内に住んでいる魚では、眼があってもまったく物が見えぬゆえ、眼の発達の程度は生存競争における勝敗の標準とはならぬが、かような場合には眼は漸々ぜんぜん退化してついには今日洞穴内に見るごとき盲目の魚ばかりとなってしまう。人間もこれと同じ理屈で、身体の虚弱な生存競争に堪えぬような者でも、または社会に害を生ずるような悪い病気を持っている者でも、人工的に保護して健全な達者な者と同様に生存せしめ繁殖せしめたならば、その結果はその人種全体の退化となることは疑わない。しかし、これだけのことからただちに人間は何でも全く自然淘汰にまかせておいて、弱い者は死なせてしまうがよろしいと簡単に論ずることはできぬ。
 動物でも植物でもおよそ生きて繁殖するものは生存競争をまぬがれぬが、その場合に競争の単位となるものが、動植物の種類の異なるにしたがい決して一様ではない。このことをつねに忘れぬようにせぬといろいろ間違うた考えが起こる。動物の中には一個体ずつが生存競争の単位となり、まさった個体が生存し、劣った個体は死に絶えるというように各個体が独立の生活を営んでいるものもあるが、また他方には若干の個体が集まって団体を造り、つねに力をあわせて団体の維持繁栄を計っているものがある。このような種類になると生存競争の単位は団体であって、適者生存、優勝劣敗などということも団体に対して行なわれることになる。すなわち生存に適する団体は勝って生き残り、生存に適せぬ団体は負けて死に絶え、個体ずつに離せば敵より強いものでも、団体として弱ければ必ず滅び、一個体ずつに離せばきわめて弱いものでも、団体として敵より強ければ必ず勝つ。かような場合には、また全団体の利益のために、各個体が自己一身のためにはかえって不利益な性質あるいは構造を備えていることがある。たとえば蜂のごとき昆虫は団体を造って生活しているもので、彼らの生存競争の単位は団体であるが、その各個体を取って見ると、団体のためには有益で、自身一個のためには不利益な針を持っている。元来蜂には針があって攻撃、防禦ぼうぎょともにこれを用いるゆえ、蜂の団体は多くの敵に勝って繁栄している次第であるが、この針には逆に向いたかぎがあって、いったんこれで人などをすとそのままになって抜けない。しいて抜こうとすれば、針が根元から切れ傷口から臓腑ぞうふが出て、蜂が死んでしまう。かような具合に団体生活をする動物と、単独の生活をする動物とでは、種々の点で大いに趣が違うから、自然淘汰を論ずるにあたっても、団体生活をする動物については、生存競争の単位が団体であるということをつねに忘れぬようにして理屈を考えなければならぬ。
 人間はもとより団体生活を営んでいる動物であるゆえ、その生存競争のありさまは軍隊が相対して互いに戦争しているのと少しも違わぬ。されば自己の団体の戦闘力を減ずるようなことはすべて不利益で、さようなことを多く行なえばついには滅びざるを得ぬにいたる。前に述べたような、人間も自然淘汰にまかせておいて、弱者はかまわず死なせてしまうがよろしいという説の無理なることは、これを軍隊戦争の場合にあてはめて見ればたちまちわかることである。かかる暴論はこれをたとえて言えば、軍隊が或る地に上陸するときに、その地の水の善悪なども検査せず、勝手に兵士に飲ませ、悪い水を飲んで死ぬような弱い者はかまわず死なせるがよろしい、どんな水を飲んでも死なぬ達者な兵士のみが残って、全軍隊がますます強壮になるからというのと少しも違うたところはない。いかに強壮な者ばかりが残っても、非常に人数が減じてはとうてい戦闘に堪えぬようになってしまう。
 このような次第であるから、自然淘汰説から衛生のことを考えてみると、決して衛生が不必要とか有害とか論ずることはできぬのみならず、自己の団体の自衛上きわめて必要なものといわねばならぬ。この点から論ずると衛生は今後ますます研究を重ねて、どこまでも発達進歩させなければならぬことはもちろんである。
 しかしながら前にも述べたとおり、自然淘汰は生物進化の一大原因であって、これを妨げることはすなわち進歩を妨げ退化を促すことにあたる。人間社会においてもこの理屈には漏れぬゆえ、劣等な人間、有害な人間を人工的に保護して生存繁殖せしめるようでは、その人種の進歩改良はとうてい望むことはできぬ。身体が虚弱で後世同僚に迷惑をかけるような劣等の子孫を遺すような人間を無理に生かしておくことは、ちょっと見るといかにも博愛の精神にかなう立派な仕事のように見えるが、実は後世の人らによけいな負担をかけるわけにあたるから、現在のために未来を犠牲に供している次第であって、前後を通じて考えてみると決して結構なことではない。このような場合には単に人権を重んずるというがごとき空論にはかまわず、少なくとも子孫を後に遺さしめぬだけの取締りは必要であると思う。単に目前のことのみを考え、未来のことは全く不問におき、ただ一人のみのことを考え、他の数千万人の利害を度外視するごときは、実に物の軽重大小を転倒していると言わねばならぬ。
 それゆえ、もし衛生学者が未来のことも考えず、また全団体の利害もかまわず、単にいかなる虚弱者でも、悪病のある者でも、力をつくして生存させ繁殖させるようにつとめる次第であるならば、これは全く自然淘汰の理に通ぜぬところから起こる誤りで、その志はいかに尊くとも、その所行は実際団体のためには有害に相違ない。自然淘汰説を基として人種全体の衛生を論ずる人もこのことを説いているようであるが、これはもっともの次第である。
 国家とか人種とかいう団体はもとより個人の集まりで、各個人が強壮であれば、これより成れる団体全体が強くあり、生存競争に勝つ望みが多くある。しかして個人の健康を保ち、身体を強壮にするのが衛生であるから、個人の衛生の必要なことは言うまでもない。また水道、下水その他の団体の衛生に関する設備あるいは伝染病に関する規則等が大切であることもまた改めて論ずるにおよばぬ。ただ自然淘汰説を基として衛生のことを考えると、各個人の健康を標準として衛生を論ずるだけではまだ決して充分とは言われぬから、衛生上の研究をする人はただ各個人の健康を注意するばかりでなく、自己の属する全団体の健康のために注意し、現今のありさまばかりでなく長い未来のことまでも考え、つねに自己の属する団体の健康繁栄を目的として研究しなければならぬことと思う。
 われわれ人間ではまず平均して、女が一人について、一生涯に四人ないし五人くらいの子を生む割合になっているから、もしそれがことごとく生存し繁殖したならば、二代目には人口が倍になり、三代目には四倍になり、四代目には八倍になる勘定であるが、もちろん実際にはそのとおりに増加することはできぬ。この点では人間も他の動物も理屈は同然で、多く産まれる子の中からただ少数のみが生存しうるのである。このようなところで身体の虚弱な精神の痴鈍な、団体の厄介になるに過ぎぬような人間を、どうなりこうなりただ生かしてさえおけばよろしいと、人工的に手をつくして生かしておくということは、一方から考えてみると全団体のためにはずいぶん不利益なことである。すべての人を生かしておくことができるならばいかに弱いものも助けなければならぬが、生まれる子の幾分かより生きる余地がないような現社会で、このような、団体のために不利益な人間を人工的に助けておくのは、とりもなおさず団体のためになおいっそうよく働きうべき他の人の生存の場所をふさいでいるわけにあたるから、全体から見るとこれは考えものであろう。またこのような人工的の手当によってわずかに生命を保ちうるような虚弱な者が子を遺せば、これもまた親に似て決して丈夫ではなく、ついには団体全部が人工的の保護がなければ、生存のできぬようなものになるかもしれぬが、これがすなわちいわゆる退化である。かかるありさまにおちいることを防いで、団体の健康を増進せしめるにはいかなる方法を取らねばならぬかという問題を研究するのが近ごろようやく始まった人種衛生学、社会衛生学の仕事である。
 以上述べたことをまとめてみると、生物進化論がまったく確定した事実と認められるようになり、自然淘汰説も実際のことであると人が信ずるようになり、従来はただ学説として研究していたものを、今から実地に応用して人間社会の進歩改良をはかろうという段に達したので、衛生の方面にも自然淘汰の原理に基づいて団体の衛生を研究する人種衛生学、社会衛生学などという新しい名前の学科ができるにいたった。しかしてこれらの学を研究する人の中には、劣等の人間を医術衛生によって人工的に助けるのは、自然淘汰の働きを妨げるから、その人種の退化を引き起こすものであるといういわゆる人種退化論を説く者があるゆえ、従来衛生学専門の学者が大いにこれに反対し、人種退化論に反対するあまりに自然淘汰説までにはげしく反対してきたように見えるが、実は衛生と自然淘汰説とが全く相反するものでないことは前にも述べたとおりである。
 とにかく自然淘汰の原理から考えてみるに、人間の生存競争においては、国とか人種とかいう団体が競争の単位であるから、衛生を論ずるにあたってもつねにこのことを眼中におき、自己の属する団体の現今および将来の健康繁栄を目的として方法手段を研究し、それと衝突しない範囲内においてできるだけ各個人の生存、健康をはかるようにつとめねばならぬことと思う。
 団体の現今および将来の健康をはかることになると、その関係する範囲がきわめて広くなるから、その研究はなかなか容易なことではない。衛生学、病理学、生理学、生物学等のごとき学科のほかに、法律にも警察にも教育にもその他種々の方面に関係があるから、単に個人の衛生をはかるのに比してはすこぶる困難である。それゆえ、人種衛生学とか社会衛生学とかいう学科も、今日のところではいまだ研究の手始めだけで、なかなか確定した学説などはないように見えるが、かかるおりには往々極端の説を唱える人が出ることをまぬがれぬ。またこれらに反対する従来の衛生学専門の学者の議論も、前に述べたとおり自然淘汰説の誤解に基づくことが往々あるように見える。これらの議論はいずれも普通の新聞雑誌などに引用して掲げることもあるが、いずれを読むにもまず自身に自然淘汰の原理を充分に了解し、それを基として批評し判断するつもりで読まねばならぬ。
(明治三十八年六月)





底本:「進化と人生(下)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「国家医学会にて講演」
   1905(明治38)年6月
入力:矢野重藤
校正:y-star
2018年5月27日作成
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