人間社会では財産はきわめて大切なもので、ほとんど生命に次いで貴重なものというてよろしい。財産のない者はささいなことさえも容易にはできぬが、財産のある者は勝手次第なことをなして
毫もはばからない。ドイツ語で財産のことを Verm

gen(なし得る)と名づけるのは全くこのゆえであろう。試みに Ein Mann ohne Verm

gen(財産なき男)と書けば「なし得るなき男」とも翻訳することができるが、かくてはもはや人間一人前の資格はない者と見なさねばならぬ。また
治るべき
病も財産のないために治し得ぬこともあり、借金の返せぬために首をくくる男もあって、生命が貴いか財産が貴いか判然せぬごとき場合さえすこぶるしばしばある。財産なるものは人間社会ではかくまで重要なものであるが、さて他の動物ではいかん。他の動物では財産はいかに保護せられ、いかに蓄積せられるか、財産は何の役に用いられ、また何代目まで相続せられるか。人間と他の動物との財産制度を比較して見ると、いかなる点までは互いに相一致し、いかなる点において相異なるか。またそのため人間社会にはいかなる結果が生じたか。われらが今ここにいささか述べようと思うのは上のごとき諸問題についてである。
そもそも私有財産とは天地間に存在する物の中から、自身一己の用に供するために、その一部を区画して占領したもので、他に奪い取られぬためには、つねにこれを完全に保護しうることが必要である。いかに自身一己のために用いるつもりであっても、自身にこれを護ることのできぬもの、また相互の間に各自の所有権を尊重すべしという約束の成り立っておらぬ場合のごときは、決してこれを私有財産と名づけることはできぬ。されば動物にも私有財産を有するものと、有せざるものとあるはもちろんのことで、菜の青葉を食うている
芋虫のごときは、決してその食いつつある一枚の葉を所有しているとはいわれぬ。なぜというに、他の芋虫が
匍うてきて、これを食い始めても、防ぐ方法がないからである。しかしながら動物の中にはかくのごとき無財産のものばかりではない、広く全動物界を見渡せばたしかに財産を有する種属もずいぶんたくさんにある。簡単な例をあげてみるに、一時に多量の
人参を猿に与えると、猿は最初の間は実際これを
咀嚼してのみこんでしまうが、一通り腹が張ってからのちは、ただこれを口の中にたくわえ、両側の
頬を風船玉のごとくにふくらして、詰めこみ得るだけその中へ詰めこむ。かく猿の
頬嚢の中に詰めこまれた人参は、天地間に存在する物の一部を区画してその猿が専有しているのであって、頬の中に完全に保護せられてあるから、他の猿はいかに欲しくてもこれを奪い取ることはできず、しかして所有者なる猿はいつでも随意にこれを食うことができるのであるゆえ、これは純然たる私有財産である。また犬が牛の骨をかじっているとき急に主人が呼ぶと、食いかけの骨をまず自分の住む箱のわらの下にかくし、それから急いで主人のいるほうへ走って行くのを見かけることが
往々あるが、かかる場合にはこの骨はわらの下にかくされてあるため他の者に奪い去られるうれいはなく、しかも所有者なる犬は帰り次第ふたたびこれをかじることができるのであるから、これもたしかに私有財産とみなしてよろしい。私有財産はすべて保護を要するが、動物が各自これを保護するには、つねに自身にこれを携えて歩くか、または一定の安全な場所に貯えておくかの二法よりない。それゆえ、私有財産を有する動物には、猿のごとくにこれをおのれの身体の一部に詰めこんでいるものと、犬のごとくにおのれの巣の中にかくしておくものとがある。以下この二種類についておのおの
若干の例をあげてみよう。
猿の頬にある人参や、犬の寝床の下にある骨を私有財産と呼ぶことは、いかにもぎょうぎょうしいようで、つねに某の財産は何千万円あるとか、某の身代は幾百万円あるとかいうことのみを聞き慣れている読者の耳には、ほとんど滑稽に聞えるやもしれぬ。しかしながら、およそ、物の真の性質を知らんとするには、まずそのもっとも簡単な形を取って研究することが必要である。かくしてこそ、始めて物の本来の性質と、その進歩するに伴い
漸々付け加わってこれを複雑ならしめた部分との関係も知れ、したがって全部を誤りなく了解し得るにいたるのである。画工が人物をかくにあたっても、まず裸体の像で充分に腕を
磨いておかぬと、衣裳を着けた姿が満足に画けぬのはすなわちこれと同様な理屈であろう。今ここに述べんとする動物の私有財産のことは、あたかも財産制度の裸体画ともいうべきものゆえ、現代人類の財産制度の真意義を調べるにあたっては、まずこれと比較して見ることがもっとも必要である。かくしてこそ始めて現代の財産制度の欠陥の範囲、程度も明瞭になり、その欠陥のよって起こる原因もたしかに知れ、その結果としてこれを改める適切な方法をも案出することができるようになるであろう。
さて猿のごとくに財産を自己の身体の一部の内に貯える動物は、いかなるものがあるかというに、その種類はすこぶる多い。外国に産する
鼠の類には、猿と同じく両側の頬の中に穀物を詰めこむものがあるが、ある鼠では頬の
嚢が非常に発達して、
頸のところを通り越し肩の辺まで達している。かかる種類では、食物を探し歩いている道で、折よく多量の穀物を発見した場合には、腹いっぱいに食うたほかになお数日分の食料を頬の嚢の中へ詰めこんでおくことができる。次に
鳩のごとき鳥類では、頬に嚢のないかわりに、食道の途中に大きな嚢があって、多量の豆に出遇うたときは、まずこの嚢にいっぱいになるまで詰めこんでおき、腹の減るにしたごうて順次その一部ずつを胃に送って消化する。この嚢は鳩の胸の前部にあって、俗に
餌嚢と名づけるものであるが、切り開いて見るとたくさんの豆が少しも変化せずそのままに貯蔵せられてあるのを発見する。餌嚢は頬嚢にくらべて単に位置が少しく下がっただけでその他には何の相違もないゆえ、猿の頬嚢の中の人参を私有財産とみなす以上は、鳩の餌嚢の中の豆をもむろんこれと同じく私有財産と見なさねばならぬ。また牛や羊の類では、食道の下端にあたるところが胃に付属して特に大きな嚢となり、一度に多量の牧草をその中に貯えることができるが、これは元来、広い野原で悠々と草の葉を咀嚼していては、猛獣の襲撃に遇うおそれが多いゆえ、まずなるべく短い時間になるべく多量の食物を取り込み、ともかくもその所有権を確実にしておいて、しかる後に安全な場所で
緩々とこれを咀嚼し得るための装置である。上野動物園に飼うてあるアメリカ
駱駝という獣などは、頸がきわめて細長いゆえ、この
嚢の中に貯えられてある財産がときどき一塊ずつ食道を逆行して、ふたたび口に出る具合が外から明らかに見える。これらはただ財産を貯蓄する嚢が鳩にくらべると、さらにいっそう身体の奥に移ったというまでである。またアジア、アフリカの砂漠地方に住む普通の駱駝は、砂漠の船という異名をさえ付けられた重宝な獣で、胃の周囲には多数の
小嚢がついてあって、水のたくさんあるとき充分にその中へ貯えこんでおくゆえ、一回水を飲めばよく十日以上も渇に堪えることができる。隊を組んで砂漠を旅行する商人らが道に迷うて渇に迫ったときは、その連れてきた駱駝を殺して腹の中にある水を飲み、わずかに死をまぬがれることは読本などにも出ている話であるが、かかる場合に臨んでは一杯の水も実に千金万金にも代えがたい貴重なもので、その貴重なることが禍をなして、駱駝は人間の暴力により、その私有財産を生命とともに奪い取られるのである。さらに下等な動物から例を取ると、
蛭などは体の内部はほとんど私有財産の貯蔵のみに用いられるというべきほどで、一度充分に血を吸いためておけば、ゆうに一年間はこれによって生活していることができる。
次に体外に私有財産を有する動物の例をあげると、まず畑に住んで麦作に大害をおよぼす
畑鼠などがもっとも適例であろう。この鼠は畑のあぜ道の土中に穴を掘って巣となし、麦をかみ切っては巣に運んで、だんだん多く貯蓄しておき、必要に応じてこれを食料にあてる。元来身体内に財産を貯える動物では、財産を貯蓄すべき場所に狭い制限があって、とうてい多額の財産を蓄積するわけにはゆかぬが、体外に財産を貯える動物ではかような窮屈な制限がないゆえ、
獲る道さえあらば、いかほどでも財産をためることができる。それゆえ、この鼠などは麦作を害することが実におびただしいもので、先年茨城県にこの鼠の繁殖した時のごときは、その地方に大
恐惶をきたし、毒団子を
撒布するやら、鼠の伝染病の黴菌をまくやら、非常な騒ぎをした。またモグラのごときはつねに土中に複雑な形の巣を造り、たくさんの
蚯蚓を捕えきたってその中へたくわえておくが、蚯蚓を生きたままでおけば匍うて逃げるおそれがあり、殺しておけば逃げぬ代わりに腐敗する心配があるゆえ、モグラは蚯蚓の頭の先端のところだけをかみ切り、はいだせぬようにして、捕虜として蓄えおくのである。これらは誰が見てもたしかに立派な私有財産である。その他にもおよそ動物が一定の場所を定めて、自分の取ってきた物をたくわえておく場合には、すべて私有財産とみなすべきであるゆえ、その例を数え上げたら限りはない。モズが
蛙やイナゴを捕えて食い、あまったものをとがった樹の枝などに刺して
磔としておくことは、あまねく人の知っているところであるが、海辺に住むミサゴという一種の
鷹はつねに魚類を捕え食い、余ったものはこれを海岸の岩石の水たまりの中に漬けて
蓄めておく。俗にミサゴ
鮓と名づけるのはこれである。これらは貯蓄者の保護が行き届かぬゆえ、厳重な意味では私有財産とは言われぬが、しかもよく似た性質のものである。
なお動物がその財産を入れておく巣自身も、私有財産とみなすべきものである。単に地面に
孔をうがったり、岩の下にひそんだりして住んでいる動物の巣は財産とは名づけかねるが、小鳥類のごとくに、苦心して材料を集め、ていねいに細工を施して造り上げた巣は、まさに一の私有財産であって、もし他の鳥がこれに近づけば所有主は極力これを排して、決してゆずるごときことはせぬ。特に
鴉のごときは、多数相近きところに巣を営んでいる場合には、同僚の所有権を尊重すべしという規約が自然に成立して、万一他の鴉の巣から材料を盗んで自分の巣を造るに用いるような者がある場合には、周囲の者が寄り集まってたちまち
罪鴉をつつき殺してしまう。鴉社会の秩序はかかる峻厳なる制裁によってつねに保たれているのであるが、これを見ても、ある動物の社会には私有財産という観念が明白に存することが知れる。
以上述べたごとき例はいずれも所有主自身の直接の用に供するためか、もしくはその一部をさいて子を養うために用いる財産であるが、なおその他に貯蓄者自身にとっては何の役にも立たず、全く子のためにのみ有用な財産を造る場合がある。たとえば蜂の中で
似我蜂と名づける種類のごときは、日々遠方まで飛びまわって
蜘蛛、その他の小虫をさがし集め、これを巣に持ち帰り、卵一粒ごとに
若干ずつを添えておくが、このようにしておけば、たとい親は死んでしもうても、卵からかえった幼虫はただちにかたわらに備え付けられてあった食料を食うて速かに成長することができる。昔の人は観察が
粗漏であったゆえ、この
蜂がかく
蜘蛛などを捕えて巣の中へ運び入れておくのを見て、これは蜂が蜘蛛を養うて自分の子とし、我に似よと命じて巣の中に入れておくと、ついに化して蜂となって
養親の跡を継ぐのであろうなどと想像をたくましうして、
似我蜂という名前をつけたのである。この場合親が苦労して造った財産はそのまま子にゆずられ、子はそのおかげによって安楽に成長し、ついに独立生活をなしうる程度までに発達するのである。また鶏などは似我蜂のごとくに特に餌となるべき虫を卵のそばに添えてはおかぬが、その代わり親鳥が自身に多くの餌を食して、その中の滋養分だけを
漉し取って、卵の中へ込めて産むのであるから、これを似我蜂にくらべると一は粗製のままの滋養物、一は精製したる滋養物を子に供給するのであって、その間の相違は、あたかも
潰
と
漉
との相違に過ぎぬ。さればかく比較して見るに、鶏卵内の黄身もまた親から子に譲る一種の私有財産の変形とみなすことができる。
今まで述べた僅少の例によっても明らかに知れるとおり、動物には私有財産を有するものがすこぶる多くあり、かつ私有財産は親より子に譲られうるものであるが、動物の種類の数は百万以上もあることゆえ、その中から私有財産を有する動物の例を求めたならばほとんど際限はない。しかしながら普通に人の知らぬような動物の名を数多く並べ掲げるのは、単に読者の倦怠をうながすに過ぎぬゆえ、他の例をあげることは全く省略して、これよりは人間と他の動物との財産制度を比較してその異同の点を述べ、あわせてその得失、優劣を論じてみよう。
第一、私有財産を獲んとするため、相互の間にはげしき競争の起こるをまぬがれぬは、人間でも他の動物でも全く同様である。この点については人間と他の動物との間に
毫も相違はない。人間が私有財産を獲んとして日夜だまし合い、たたき合い、ののしり合い、殺し合うていることは今日の世の中の常態で、誰も目前に見ている事実であるが、他の動物とても理屈は少しも違わぬ。たとえば一定量の
人参のあるところへ猿が集まってきたとすれば、猿はおのおの自分の腹を充分に満たした上に、なお頬の
嚢へもいっぱいに詰めこもうとするから、勢い人参の取り合いのためにはげしい争いが起こらざるをえない。世の中には、今日生存のために人々が競争するのは社会の制度が不完全なるゆえである。社会の制度を改良さえすれば、競争の必要がなくなるなどと唱えて、生存競争のない世の中を夢想している人もあるが、これは全く人間本来の性質を誤解したために起こる
謬りで、もとより毫も根拠のない空論に過ぎぬ。人間の性質として、彼の欲する物を我が持つか、我の欲するものを彼が持つかすれば、たちまち争いの起こるは当然のことで、このことは三歳四歳の子供らに数種の玩具を分かち与えても明らかに知れるが、生まれながらにしてかかる性質を備えた人間が、多数相集まって生活しているのであるから、社会の制度ばかりをいかに改めたりとて、争いの絶える望みはとうていない。その上「金持と
灰吹とはたまるほど汚ない」ということわざのとおり、人間の欲には決して際限がないゆえ、あたかも無限大の頬嚢を有する猿のごとくで、その間の争いのはげしくかつ長かるべきはもとより覚悟しなければならぬ。動物の中には蜂、蟻のごとく、もしくは
苔虫のごとく、一団体内の個体間に少しも争いのないものがあるが、これらの動物はそれぞれ一定の進化の順路を経て、今日のありさままでに発達しきたったのであるゆえ、今の人間が一足飛びにその真似をしようと望むのは、まことに無理な注文である。
次に私有財産の不平等なること、およびその不平等ならざるべからざる理由も、人間と他の動物との間に少しも相違はない。同じモグラ同志の間にも
嗅感の鋭い土を掘ることの巧みな者もあれば、また嗅感のやや鈍い、土を掘ることのやや拙な者もあろうが、これらが同一の
蚯蚓を追うにあたっては、前者がまずこれを捕えておのれの財産に加え、後者はただ無益な労働をしたのみで
毫も獲るところのなかるべきは当然である。また一匹のモグラが終日働いて蚯蚓を捕えて歩く間に、他の一匹がなまけて巣の内に寝ていたならば、この二者の間には、収入に多大の差異の生ずるはもちろんのことである。また一匹のモグラが左に向うて穴をうがち偶然多数の蚯蚓を掘り当てたに反し、他の一匹は右に向うて穴をうがったために不幸にもついに一匹の蚯蚓にも出あわぬというごとき場合も
往々あろう。かくのごとく動物の私有財産なるものは、各自生来の体質の優劣によっても、また各自日々の勤惰によっても、また偶然の運不運によっても、不平等ならざるべからざる理由は明白である。人間もこの規則に漏れず、体質のすぐれた者、勤勉なる者、運のよき者が、体質の劣った者、怠惰なる者、運の悪き者に比していっそう多くの財産を蓄積し使用すべきはもとより理の当然で、万人が万人ことごとく財産を平等にするというごときは、とうていできぬことである。世の中には不平等な私有財産の制を全く廃して財産をすべて共有とし、頭割りだけずつ平均にこれを使用することを理想としている人もあるが、これは現実の世には行なわるべからざる一種の夢に過ぎぬ。人間は社会的動物であって、社会を離れては一日も満足に生活ができぬことはだれも知るところであるが、
蜂、
蟻、もしくは
苔虫のごとき完結した社会生活を営む動物に比較してみると、その社会性はいたって低度なもので、とうていかれらのごとき純然たる団体生活を営むには適しない。入り込みの座敷で食事をする際に
衝立をもって境を造るのを見ても、借家を二軒並べて建てれば、必ずその間に
目隠しと称する板塀を造るのを見ても、また新たに邸宅をかまえた人が、その周囲に監獄然たる
煉瓦の壁をめぐらして外界との連絡を絶つのを見ても、人間には相互に排斥する本能のいちじるしく存していることが知れるが、かかる根性が生まれながらに存する間は、財産を全く共有にするごときことはすこぶるおぼつかない。
次に私有財産は何代目まで譲られるかというと、この点については人間と他の動物との間にはいちじるしい相違がある。私有財産を子に譲る動物のあることは前にも述べたが、かかる動物では財産はただ子の代まで伝わるだけで、決してその先の孫や曾孫の代までにはおよばぬ。しかして子に伝わるというても、単に子がひととおり成長して生存競争場裡に打って出られるようになるまでの間、これを養うの用をなすのみで、決して子が一生涯その恩沢をこうむって安逸に暮らすというごときことはない。動物では親が子の世話をするのは、子が成長し終わるまでの間に限られていて、その以上まで保護するごときことは決してしないのである。それゆえ、動物では生存のための競争がいたって公平で、筋肉神経等のまさった者と、筋肉神経等の劣った者とが競争する場合には、前者は必ず勝ち、後者は必ず敗ける。先祖より譲られた財産によって神経筋肉ともに劣った者がおごり栄え、神経筋肉ともにまさった者がそのため苦しめしいたげられるというような不条理きわまることは、他の動物では決して見ることはできぬ。五尺の身体が完全に発達し終わってからも、なお親の
脛をかじって安逸に世を渡る息子、祖父の造った身代を受け継ぎながら道楽をつくして、ついに売家と
唐様で書く孫などは、実に人間社会の特産物である。
なお人間社会にのみ存して、他の動物には決してない特殊の財産制度は、物を貸して利子を取ることである。これは人間と他の動物との財産制度の絶対的に相違する点で、根本から全く異なっているゆえ、動物界にはこれに比較すべき何らのものもない。ある雑誌に、ある時あるところで学者連が集まって「人とは何ぞや」という問題を論じていた際に、そこにいあわせた甲法学博士が「人とは借金を払う動物なり」と言うたところが、側にいた乙法学博士が「いや、人は借金の利子を払う動物なり」と言うたので一座
哄笑したという逸話が載せてあったが、実に利子を払うたり取ったりする動物は、人間以外には一種もない。したがって他の動物には金貸し、地主、資本家などのごとき、懐手をしながら
贅沢に暮らす階級は決して見いだすことはできぬ。人間社会では一度ある手段によって、一定額の財産を造っておきさえすれば、自分の一代はもとより未来永劫幾百代の末までも働かずに食うてゆくことができて、なおその上に財産が
追々殖えるということを、他の動物らが聞き知ったならば、いかに不可思議に感ずるであろうか。ある数からある数を減ずれば、その残りは
原の額よりは少ないという数学上の明白な原理に反して、遣うても遣うても少しも減らぬのみか、なおその上に増加してゆくとは、実に天地間にこれほど不思議なことはないであろう。
さて以上述べたとおり、人間と他の動物との財産制度上の相違の点は主として、子孫が親の遺産の恩沢に浴する程度の相違と、物を貸して利子を取る制度の有無との二つである。しかももし利子を取るという制度がなかったならば、いかに刻苦勉励しても今日の富豪の有するごとき莫大の財産を一代に造ることはとうてい不可能で、たとい巨万の財産を積み得たとしても、子孫が働かずに食い減らせばたちまち消滅するゆえ、数代も数十代も後の子孫までが、懐手で
贅沢に暮らせるということはないから、人間と他の動物との財産制度上の相違は、詰まるところ、利子を取るか取らぬかという一点に帰するのである。
そもそも物を貸して利子を取るという制度がなにゆえに人間社会にのみあって、他の動物には全くないかというに、これは動物は何をなすにも単に手足のごとき身体の部分を用いるのみなるに反し、人間はすべて道具を用いるに基因することである。人間は実に「道具を用いる動物」という定義をくだしてもよろしいほどで、汽車、汽船のごとき大きな道具はしばらくおき、口へ飯を入れるにも箸を用い、背中のかゆいところを掻くにも「孫の手」と名づける道具を用いるが、他の動物ではただ猿が石を用いて
胡桃を割るとか、象が樹の枝を用いて蠅を追うとかいうごとき僅少の例外を除けば、道具を用いるものは皆無である。しかして人間が道具を用いる以上は、人と道具との二者がそろうて初めて、仕事ができるのであるゆえ、もし一人が他人より道具を借りてある物を収穫しえた場合には、これに対して相応の報酬を贈るは当然のことと思われる。たとえば甲が乙より釣竿を借りて若干の魚を釣りえたならば、そのうち何匹かを釣竿を借りた礼として贈るであろうが、これがすなわち釣竿なる財産に対する利子である。かくのごとき次第であるゆえ、物を貸して利子をえるという制度は、そのもっとも簡単なる場合について論ずると、全く理にかのうたことで、毫も非難すべき点がないようにみえる。
しかしながらこの制度をどこまでも際限なく許容したならば、いかなる結果を生ずるであろうかというに、これは現今の世のありさまが証明して余りあるごとく、貧富の懸隔が年とともにますますはなはだしくなって、富者は遊んで
贅沢に暮らしても、ますます富が増し、貧者はいかに日夜苦しんで働いても貧苦の境を脱しえられぬという不条理きわまる状態におちいるのである。富者の今日受け取った利子は明日からは基金に加えられ、これに対してまた利子がついて、増加の率が始終進んでゆくゆえ、あたかも物体が地面に向こうて落ちきたるときに、一秒ごとに速力を増加するごとくに、たちまち驚くべき巨額に達する。戦乱の絶間なき騒動時代や、専制政治の行なわれた半開時代などには、人の生命にも財産にもたしかな保障がないゆえ、とうてい一人が巨万の富を私するにいたりがたい事情があるが、だんだん世が進んで憲法もでき、生命財産ともにやや安全となり、いかに巨万の富を積んでも、法律によって保護せられるようになってからは、いったん何らかの方法に従って富を造ったものはますます財産が増加するばかりである。このことは米国などのありさまを見ればきわめて明白に知れる。しかして一人を富豪ならしめるためには、数百万人がその犠牲となって、貧苦におちいらねばならぬことは計算上明らかな理であるゆえ、一方に少数の者が巨万の富を積む間には、他方においては幾千万の人間は
漸々貧困となり
餓に迫られてはだんだん安い給金にも甘んじて、牛馬のごとくに労働せざるを得ず、ついには露命をつなぐことさえ容易でなくなる。かかる状態の世の中は、これを他物にたとえて言えば、あたかも
贅沢美麗をつくした重い馬車に少数の客を乗せ、数百千人の者が馬の代わりにこれをひいたり、押したりして坂路を登ってゆくようなものである。
現時の世の中はほぼかかるありさまであるゆえ、これに対して不満の声の聞えるのは当然のことで、毫も怪しむには足らぬ。車をひくものが車上の客を眺めて、かれも人なり、われも人なり、特にわれのほうが筋力も知識もかれに比してははるかに優等である。しかるにかれはかく安楽に贅沢に暮らし、われはかくあえぎ苦しまなければならぬのはいかなる理由によるかと考え出しては、一刻も不平なきわけにはゆかぬ。それゆえ、今日いずれの文明国にもかかる議論の起こらぬところはない。虚無党といい、社会党といいアナーキストといいイルレデンタといい、名称も種々で理想とするところもさまざまではあるが、現代に対する堪えがたき不満の念が凝り固まって、ついに表面に現われたものなることだけは同じである。
不満の念がつのり、罪悪がふえ、風俗が堕落するのを救済するには、いかなる手段を取るべきかとは、世を憂うる人のすこぶる苦心している問題であるが、この問題に答えるには、まずそのよって起こる原因までさかのぼらねばならぬ。われらの考えによると、この原因は二つあって、一は欲が限りなく深くて、他人の迷惑は毫も顧みぬという人間生来の性質、一は現今の社会の制度に無理な点があることである。前者のほうは人間が持って生まれる性質であって、これを根本的に削除することはもとより不可能であるゆえ、ただ単にだましたり、おどしたり、おだてたり、罰したりして制御しておくほかに道はないが、これをなすにあたって社会制度に無理な点があると大なる妨げを受ける。「地獄の沙汰も金次第」ということわざさえある世の中に、貧富の懸隔がはなはだしくなって、金のありあまる富豪と、金のためにはいかなる恥をも忍ぶ貧民とが相並んで住めば、富者が悪事をしても金の威光で罰せられず、不正なことをしても金の権力で制裁をまぬがれるごとき場合がしばしば生ずるが、悪事が罰を受けず、不正なことが制裁をまぬがれる実例をしばしば眼の前に見ると、悪を悪と感ずる世の人の心が次第に鈍り、ついには悪をさまで悪と思わぬようになり、これをなさぬ者をかえってばか正直なるごとくに考えるにいたる。また二宮尊徳などをかつぎ出して、富は勤倹貯蓄によって獲られるものなることを説き聞かせても、寝ながら巨額の収入を獲る者の実例が眼の前にある以上は、人間の弱点として、やはりぬれ手で粟の
一掴千金を夢みるようになるのもよんどころないことで、ついには実着な勧業を旨とする博覧会でさえ、福引でなければ客が集まらぬごときいやしい風俗が生ずるのである。
人口が増加すれば、生活の困難が増し、生活難がはげしくなれば、貧富の懸隔に対する不平の念が増進する。また列国と対立してゆくには教育を盛んにしなければならぬが、教育が進めば、不平を感ずる力もだんだん鋭敏になる。書物が読めて飯が食えぬ人が一人でも多く増せば、それだけ現代に対する不満の声の高くなるのは、どこの国でも
同一轍である。されば今日のままの制度では、いかにしても現代に対する不平不満の念をのぞくことができぬのみならず、そのますます増加するのを傍観していなければならぬ。人間はこれを防ぐために倫理、教育、宗教等の各方面から世俗を改善しようとつとめるであろうが、上述のごとき原因が存する以上はその効力は勢い一定の範囲内に限られて、とうてい充分の効を奏することはできぬ。世は
澆季なりとは昔より今までつねに人の言うことであるが、世のつねに澆季なるは、あたかも
黴菌が自己の繁殖のために生じた酸類のために苦しむごとくに、自己の発達に伴うて生じた固有の制度のために苦しんでいるのにあたるゆえ、まずまぬがれがたい運命とでも思うてあきらめるのほかはなかろう。
(明治四十年七月)