ある
田舎に
光治という十二
歳になる
男の
子がありました。
光治は
毎日村の
小学校へいっていました。
彼は、いたっておとなしい
性質で、
自分のほうからほかのものに
手出しをしてけんかをしたり、
悪口をいったりしたことがありません。けれど、どこの
学校のどの
級にでも、たいてい二、三
人は、いじの
悪い
乱暴者がいるものです。
光治の
級にも、やはり
木島とか
梅沢とか
小山とかいう
乱暴のいじ
悪者がいて、いつも
彼らはいっしょになって、
自分らのいうことに
従わないものをいじめたり、
泣かせたりするのでありました。
光治は
日ごろから、
遊びの
時間にも、なるたけこれらの三
人と
顔を
合わせないようにしていました。
学校の
運動場には
大きなさくらの
木があって、きれいに
花が
咲きました。そして
花の
盛りには、
教師も
生徒も、その
木の
下にきて、
遊び
時間には
遊びましたが、それもわずか四、五
日の
間で、
風が
吹いて、
雨が
降ると、
花は
洗い
去られたように、こずえから
散ってしまい、
世はいつか
夏になりました。そうなると、もはやこの
木の
下にきて
遊ぶものがありません。
光治は、その
木の
下にきたのでありました。そこは
運動場の
片すみであって、かなたには
青々としていねの
葉がしげっている
田が
見え、その
間を
馬を
引いてゆく百
姓の
姿なども
見えたりするのでした。
そのとき
思いがけなく、
例の
木島・
梅沢・
小山の
乱暴者が三
人でやってきて、
「やい、こんなところでなにしているんだい、
弱虫め、あっちへいって
兵隊になれよ。」
と、三
人は
口々にいって、
無理に
光治を
引きたてて
連れてゆこうといたしました。
「
僕は
腹が
痛いから、
駆けることができない。」
と、
光治はいいました。
「うそをつけ、
腹なんか
痛くないんだが、
兵隊になるのがいやだから、そんなことをいうんだろう。よし、いやだなんかというなら、みんなでいじめるからそう
思え。」
「
僕は、いやだからいやだというんだ。
僕のかってじゃないか、
君らは
君らで
遊びたまえ。」
と、
光治はいいました。
「なまいきなことをいうない、よし
覚えていろ、
帰りにいじめてやるから。」
と、三
人は
口々に
光治をののしりながら、
木の
下を
見返ってあっちへいってしまいました。
三
人はあっちへゆくと、みんなに
向かって、
光治と
遊んではならない、もしだれでも
光治と
遊ぶものがあれば、そのものも
光治といっしょにいじめるからそう
思えといったのでありました。ほかのものはだれひとりとして
心の
中で
光治をにくんでいるものはありませんけれど、みんな三
人にいじめられるのをおそれて、
光治といっしょに
遊ばなかったのでありました。
その
日、
光治は
学校の
帰りに、しくしくと
泣いて、
我が
家の
方をさして
路を
歩いてきました。それは三
人にいじめられたばかりでなく、みんなからのけ
者になったというさびしさのためでありました。
真夏の
午後の
日の
光は
田舎道の
上を
暑く
照らしていました。あまり
通っている
人影も
見えなかったのであります。このときあちらから、
箱を
背中にしょって、つえをついた
一人のじいさんが
歩いてきました。
光治は、このおじいさんを
泣きはらした
目で
見て、
旅から
旅へとこうして
歩く
人のように
思ったのでありました。じいさんも、また
光治の
顔をじっと
見ましたが、
路の
上に
立ち
止まって、
「
坊はなんで
泣いているのだ。」
と、やさしくじいさんは
問うたのであります。
光治ははじめのうちは
黙っていましたが、そのおじいさんは、なんとなく
普通のあめ
売りじいさんやなんかのように
思われず、どこかに
懐かしみを
覚えましたから、
彼はついに、その
日学校でみんなからのけ
者になったことや、三
人からいじめられたことなどを
話しまして、また
急に
悲しくなって
話をしながら
泣きだしたのでありました。
「ああ、わかった、わかった、
坊はいい
子だ。もう
泣くでない、その三
人は
悪い
奴じゃ。そして、みんなはいくじなしだ。そんなものにかまわんでおくだ。また、いい
友だちができる、きっとできる。おまえに
笛をやる、この
笛を
吹いて、
一人で
遊んでいると、すこしもさびしいことはない。さあ、この
笛をやるから、
一人でおとなしく
遊んで、
勉強をして
大きくなるんだ。」
といって、じいさんは
腰に
下げていた、
小さな
笛を
光治にあたえたのであります。
光治は、その
笛をもらって
手に
取ってみますと、
竹に
真鍮の
環がはまっている
粗末な
笛に
思われました。けれど、それをいただいて、なおもこの
不思議なじいさんを
見上げていますと、
「さあ、
私はゆく……またいつか、おまえにあうことがあるだろう。」
といって、
光治の
頭をじいさんはなでて、やがてその
路を
歩いていってしまいました。
光治は、しばらくそこに
立って、じいさんを
見送っていますと、その
姿は
日影の
彩るあちらの
森の
方に
消えてしまったのでありました。
その
日から
光治は
野に
出て、
一人でその
笛を
吹くことをけいこしたのであります。その
笛はじつに
不思議な
笛で、いろいろないい
音色が
出ました。
彼はじきにその
笛を
上手に、また
自由に
吹き
得るようになりました。
彼が
風の
音を
出そうと
思えば、その
笛は、さながら
風が
木々の
葉の
上を
渡るときのさわやかな
涼しげな、
葉ずれの
音が
聞こえるように
鳴り
渡りました。また
雨の
降る
音を
出そうと
思えば、ちょうど
雨が
降りだしてきて
軒端を
打つような
音を
吹き
鳴らしました。また
小鳥のなく
音をたてようと
思えば、こずえにきて
節おもしろそうに
鳴く
小鳥の
音を
出すことができたのであります。
光治は
学校から
家に
帰ると、じいさんからもらった
笛を
持って
野原へ
出たり、また
麓の
森に
入って、あるいは
草の
上に
腰を
下ろしたり、あるいは
木の
根に
腰をかけたりし、その
笛を
吹くのをなによりの
楽しみとしたのでありました。
彼はこうして
笛を
吹いていますと、あるときは、くびのまわりの
赤い、
翼の
色の
美しい
小鳥がどこからか
飛んできて、すぐ
光治が
笛を
吹いている
頭の
上の
木の
枝に
止まって、はじめのうちは、こくびをかしげて
熱心に
下の
方を
向いて、
笛の
音に
聞きとれていましたが、しまいには
小鳥も、その
笛の
音につられてさえずりはじめたのでありました。こんなふうに
光治は、
小鳥まで
自分の
友だちとすることができたので、もはや
一人で
遊ぶことをすこしもさびしくは
思わなかったのであります。
光治が
笛を
吹くのを
聞くと、だれでもそれに
耳を
傾けて、
感心しないものはなかったのです。
光治ははじめのうちは、その
笛を
大事にして、
夜眠るときでもまくらもとに
置いて、すこしも
自分の
体から
離したことはなかったのです。
彼はだんだん
笛が
上手になって、なんでも
笛で
吹けぬものはないようになりました。そして、
自分を
慰める、もっとも
楽しいものは、まったくこの
世界に
笛よりほかにないと
思ったのであります。
夏休みになったある
日のことでありました。
彼は
麓の
森の
中に
入って、またいつもの
木の
根に
腰をかけて
心ゆくばかり
笛を
吹き
鳴らそうと
思い、
家を
出かけました。
緑の
森の
中に
入ると、ちょうど
緑色の
世界に
入ったような
気持ちがいたしました。
足もとには、いろいろの
小さな
草の
花が
咲いていて、いい
香気を
放っていました。ところどころ
木々のすきまからは、
黄金色の
日の
光がもれて、
下の
草の
上に
光が
燃えるように
映っています。
光治はしばらく
夢を
見るような
気持ちで、うっとりとして一
本の
木の
根に
腰をかけて、
笛も
吹かずに、おだやかな
夏の
日の
自然に
見とれていました。
「どうしてこう
青葉の
色はきれいなのだろう。どうしてこう、この
森や、
日の
光や、
雲の
色などが
美しいのだろう。」
と、
彼はしみじみと
思っていたのであります。そして、
彼がやがて
笛を
吹きますと、その
音色は
平常の
愉快な
調子に
似ず、なんとなく、しんみりとした
哀しみが、その
音色に
漂って
聞かれました。
小鳥もまったく
声を
潜めているようでありました。
光治は、その
木の
根からたち
上がって、
森の
中をもっと
奥深く
歩いてゆきますと、ふとあちらに、ちょうど
自分と
同じ
年ごろの
少年があちら
向きになって、
絵を
描いている
姿が
目に
止まったのでありました。
光治は、いままでこの
森の
中には、ただ
自分一人しかいないものと
思っていましたのに、ほかにも
少年がきているのを
知って
意外に
驚きましたが、いったいあの
少年は
自分の
知っているものだかだれだかと
思って
近づいてみますと、かつて
見覚えのない、
色の
白い、
目つきのやさしそうな、なんとなく
気高いところのある
少年でありました。その
少年は
他人がそばに
寄ってきたのを
知ると、こちらを
向いて
光治の
顔をちょっと
見て
笑いましたが、すぐにまた
絵のほうに
向きなおって
筆を
働かしていました。
光治は
心のうちで
懐かしい
少年だと
思いながら、
静かに
少年の
背後に
立って、少年の
描いている
絵に
目を
落としますと、それは
前方の
木立を
写生しているのでありましたが、びっくりするほど、いきいきと
描けていて、その
木の
色といい、
土の
色といい、
空の
感じといい、それはいまにも
動きそうに
描けていたのでありました。
少年は
熱心に
美しい
絵の
具箱の
中に
収めてあるいろいろの
絵の
具を一つ一つ
使い
分けて
草を
描いたり、また
鳥などを
描いたり、
花などを
描いたりしていました。
光治は
自分の
吹く
笛の
音につれて、
小鳥がいっしょになってさえずるのを
自慢にしていました。いま、
少年の
描いた
小鳥は、
紙の
上から
翼ばたきをして
飛び
立つのではないかと
思われました。そして、たったすこし
前まで、
自分はこの
美しい
自然に
見とれていたのであるが、このきれいな
緑色の
木立も
日の
光も、
山も、
草も、みんなそのままに
絵の
具の
色ですこしも
変わらず、かえってそれよりもいきいきとした
姿で
紙の
上に
描かれているのを
見ますと、
光治は、もはや
笛を
吹くことよりは、
自分も
絵を
上手に
描いたほうがいいように
考えました。
「
君かい、さっき
笛を
吹いていたのは。」
と、その
少年はふり
向いて
光治の
顔を
見て、ちょっと
笑っていいました。
「ああ、
僕だ。」
と、
光治は
簡単に
答えた。
「
君はよくこの
森へ
遊びにきて、
笛を
吹くのかい。」
と、また
少年は
問いました。
「ああ、よくくる。」
と、
光治は
答えた。
「
僕は、もう
絵を
描いたから
帰るんだよ。」
と、その
少年はいって、さっさと
道具をかたづけてしまうと、
「じゃ
君、
失敬!」
と、
少年はさも
懐かしそうに
光治の
方を
見ていって、いずこへともなく
森の
中を
歩いて
姿を
隠してしまいました。
光治はその
少年を
見送りながら、どこへ
帰るのだろうと
思いました。また
光治には、あの
少年が
自分に
向かって
笛を
吹いたのは
君かと
問いながら、すこしもうまく
吹いたとはいわなかったのが、なんとなく
物足らなく
心に
感じられたのであります。
光治は
家へ
帰ると
絵の
具箱を
取り
出して、
自分もいっしょうけんめいになって
木や
空や、
鳥などを
描いてみましたけれど、どうしてもあの
少年の
描いたような
美しい、いきいきとした
色も、
姿も
出なかったのであります。
光治は、まったくこれは、
絵の
具や
筆がよくないからだと
思いました。そしてあの
少年の
持っていたような
絵の
具や
筆があったら、
自分にもきっと、あのようにいきいきと
描けるのであろうと
思いました。
彼はどこへいったら、あれと
同じい
絵の
具や、
筆を
売っているだろうかと、そればかり
思っていたのでありました。
ある
日、
光治は
森の
奥にある
大きな
池のほとりへいって
笛を
吹こうと
思ってきかかりますと、
先日の
少年がまた
池のほとりで
絵を
描いていました。
少年は
光治を
見ると、やはり
懐かしそうに
微笑みました。
光治も
打ち
解けて
少年のそばに
寄って
絵を
見ますと、
青々とした
水の
色や、その
水の
上に
映っている
木立の
影などが、どうしてこうよく
色が
出ているかと
驚かれるほど
美しく
写されていたのであります。
光治はもはや
笛を
吹くことなど
忘れてしまって、ただ
自分も、このように
上手に
絵を
描きたいものだ。それにしても、この
少年の
持っているこんな
絵の
具と
筆とがほしいものだと
思いましたから、
「
君、この
笛をあげるから、
僕にその
絵の
具箱も
筆もみんなくれないかね。」
と、
光治は
熱心に
少年の
顔を
見ていいました。すると
少年は、
意外にも
快く
承諾をして、
「ああ
僕にその
笛をくれるなら、
君にみなあげよう。」
といって、
絵の
具箱も、
筆もみんな
光治にくれたのであります。
光治は
喜んで
家へ
帰りました。そして、すぐに
紙を
出して、
花や
草を
描いてみましたが、やはりすこしもいい
色が
出なくて、まったく
少年の
描いたのとは
別物であって、まずく
汚なく
自分ながら
見られないものでありました。
光治は、まもなく
自分の
心をなぐさめた
唯一の
笛をなくしてしまったことを
後悔いたしました。
ある
日の
晩方、
彼はさびしく
思いながら
田舎路を
歩いていますと、
不思議なことには、このまえじいさんにあったと
同じところで、またあちらから
箱をしょってとぼとぼと
夕日の
光を
浴びながら
歩いてくるじいさんに
出あいました。じいさんは
光治の
顔を
見ると、
忘れずにいたものとみえて、にこにこ
笑いながら、
近寄ってきまして、
「
坊はさだめし
笛が
上手に
吹けるようになったろう、さあ、あの
笛を
私にお
返しなさい。そのかわり、もっとおもしろい、いろいろな
音色の
出るいい
笛をおまえにあげるから。」
と、
優しくいいました。
光治はこれを
聞くと、なんとももうしわけのないことをしたと
思いました。けれど、どうすることもできませんでした。
彼はついに、一
部始終のことをじいさんに
打ち
明けて、どうか
許してくださいともうしました。
すると、じいさんの
優しい
顔は
急にむずかしそうな
顔つきに
変わって、
「なんでも
人まねをしようとすると、そういう
損をするもんだ。おまえの
力を、おまえは
知らんけりゃならん。そして、
人間というものは、なんでもできるもんじゃない。
自分が
他より
勝れた
働きがあったら、ますますそれを
発達させるのだ。
私は、おまえにもっといい
笛をやろうと
思って
持ってきたが、あの
笛を
私に
返さなけりゃこの
笛は
渡されない。あの
笛は、またほかにやる
子供があるのだから、
早くあの
笛をおまえが
取りもどしてくれば、そのときはこの
笛を
渡してやる。」
といって、じいさんはいってしまいました。
それから
光治は、
笛をあの
少年から
取りもどそうと
思って
毎日森にゆき、
山へ
入って
少年の
姿を
探しました。
おりおりいい
音色が
遠くの
方で
聞こえることがありましたけれど、どこで
吹く
笛だろう。ついぞふたたび、その
少年の
姿を
見ることができなかったのであります。