それは、
広い、さびしい
野原でありました。
町からも、
村からも、
遠く
離れていまして、
人間のめったにゆかないところであります。
ある
石蔭に、とこなつの
花が
咲いていました。その
花は、
小さかったけれど、いちごの
実のように
真紅でありました。
花は、
目を
開けてみて、どんなに
驚いたでありましょう。
「なんという、さびしい
世界だろう。」と
思いました。
どこを
見ましても、ただ、
草が
茫々としてしげっているばかりで、
目のとどくかぎりには、
友だちもいなければ、また、
自分に
向かって
呼びかけてくれるようなものもありませんでした。すぐ、
自分のそばにあった、
黒みがかった
石は
黙り
込んでいて、「
寒いか。」とも、また「さびしいか。」とも、
声をばかけてくれません。
小さな、
気の
弱いとこなつの
花は、どうして
自分から、この
気心のわからない、なんとなく
気むずかしそうに
見える
石に
向かって
声をばかけられましょう。
花は、
独りでふるえていました。ただ、やさしい
眸で、
自分をいたわってくれるのは、
太陽ばかりでありました。しかし、
太陽は、
自分ひとりだけをいたわってくれるのではありません。この
広い
野原にあるものは、みんな、そのやさしい
光を
受けていたのです。この
石も、また、こちらの
脊の
高い
草も、その
光を
浴びました。そして、それをありがたいともなんとも
思っていないように
平気な
顔つきをしていました。しかし、
太陽は、けっしてそれに
対して
気を
悪くするようなことがなく、
平等に
笑顔をもってながめていました。
とこなつの
花は、
自分だけが、とくに
恵まれたわけではないけれど、
太陽に
対して、いいしれぬなつかしさを
感じていたのです。そして、どうかして、すこしでも
長く、
太陽の
顔をながめていたいものだと
願っていました。しかし、この
高原にあっては、それすらかなわない
望みでありました。たちまち、
白い
雲が
渦を
巻いて、
空を
低く
流れてゆきます。それは、すぐに
太陽を
隠してしまうばかりでなく、あるときは、まったくそのありかすらわからなくしてしまうのでありました。
花は、この
雲の
出ることをいといました。しかし、そばにあった
石や、あちらの
強そうな
脊の
高い
草は、
平気でありました。
花は、まだ、この
雲は
我慢もできましたけれど、
寒い
風と
雨と、そして、
息のつまるような
濃い、
冷たい、
霧とを、どんなにおそれたかしれません。
「ああ、あの
冷たい、
身を
切るような、
霧の
出ないようにはならないものか。」と、
花は、しばしば、
空想したのであります。
けれど、
自然の
大きな
掟は、この
小さい、ほとんど
目に
入るか
入らないほどの
花の
叫びや、
願いでは、どうなるものでもなかった。そして、
夜となく、
昼となく、
深い
谷底からわき
起こる
霧は
転がるように、
高い
山脈の
谷間から
離れて、ふもとの
高原を、あるときは、ゆるゆると、あるときは、
駆け
足で、なめつくしてゆくのでした。
その
霧のかかっている
間は、
花は、うなされつづけていました。
毒のある
針でちくちく
刺されるような
痛みを、
柔らかな
肌に
感じたばかりでなく、
息苦しくなって、しまいには
酔ったもののように、
頭が
重くなって、
足もとがふらふらとして
起っていられなくなるのでした。そして、
全身に
悪感を
感ずるのでありました。
霧が
去った
後は、
風に
吹かれてぼたぼたと
滴るしずくの
音が、この
広い
野原に
聞かれました。しかし、この
苦痛は、この
野原に
生い
立つすべての
草や、
石や、
木の
上にかかる
運命でありました。せめても、とこなつの
花は、そう
思って、あきらめているのでありました。かたわらの
石や、あちらの
脊の
高い
草は、たとえ
風に
吹かれても、
霧にぬれても、
平気な
顔つきをしていたのです。
花は、それをうらやましくも、またのろわしいことにも
思いました。
珍しく、
空の
晴れた
日でありました。
山の
頂から
高原にかけて、
澄みわたった
大空の
色は、
青く、
青く、
見られたのです。
とこなつの
花は、
頭を
上げて、じっと
太陽の
光に
見入っていました。このとき、
青い
空をかすめて、どこからともなく、一
羽の
鳥が
飛んできました。
最初は、ほんの
黒い
点のように
見えたのです。そして、だんだんその
姿がはっきりと
見えました。けれど、それは、
高く、
高くて、
鳴いている
声すら、とこなつの
花のところまでは、かろうじて
聞こえてきたほどであります。
「どこへあの
鳥は
飛んでゆくのであろう? そして、あんなに
自由に。」と、
花は、
真紅の
花びらを、
風にふるわせながら
独り
言をいっていました。
すると、その
鳥の
姿は、ますます、
近くなってきたのであります。
花は、それを
見て
不思議に
思っていました。どうして、あの
旅の
鳥は、こんなにさびしい
殺風景な
野原に
下りるのだろう? とにかくあの
鳥は、この
野原に
下りようと
思っているのだと
考えました。
小鳥は、はたして、
花の
思ったように、
野原に
下りました。しかも、すぐ
花の
咲いている
石の
上にきて
止まったのであります。
この
思いがけない、まったく
理解されないできごとに、
花はどんなにか
驚いたでありましょう。
花は、つくづくとはじめて
見る
敏捷そうな
渡り
鳥の、きれいな
羽の
色と、
黒い
光った
目と、
鋭いとがったつめとをながめたのであります。すると、
小鳥はくびをかしげて、かえって
花よりも
熱心に
花を
見つめているのでありました。
「あなたは、なにを
探しに、この
野原へお
下りになったのですか。」と、
花はたずねました。
このとき、
無頓着な
石は、
黙って
眠っていました。
小鳥は、その
石の
頭で、くちばしを
磨きました。そして、
花を
見守って、
「
私は、あなたを
見つけて、わざわざこの
野原に
下りたのであります。」と、
答えました。
花は、
恥ずかしい
気がして、これをきくと、
黙ってうなだれていました。すると、
小鳥は、
言葉をつづけて、
「ほんとうにさびしい
原であります。どこを
見まわしても、
赤い
花の
姿を
見ないのです。
私は、ただ、あなたの
姿を
見つけたばかりにここへ
下りてきました。」
「
私は、あちらから
飛んできた
鳥です。この
青い、
空の
下を、
山を
越えて
旅をしてきました。そして
空の
下に、
身にしみるような
悲しい、
赤いあなたの
姿を
見つけたのです。どうか、それについての
私の
話を
聞いてください。」
「
私は、
海や、
山や、
町の
上を
旅して、あてなく
空のかなたから、かなたの
空へと
飛んでゆく
鳥であります。
悲しいことも、さびしいことも、
数あまりあるほどのいろいろなめに
遇うてきました。そのなかで、いまでも、この
青い
空の
色を
見るにつけて
思い
出さるるのは、
北の
海の
上を
幾日も
航海したときのことであります。あるときは、
岸の
上に、あるときは、
人の
住まない
島に、また、あるときは、
船のほばしらの
上に、
身を
休めたのでありました。そして、くる
日も、つぎにくる
日も、
見るものは、
青い、
海の
色ばかりでありました。」
「そんなときに、
遠くゆく、
船のほばしらの
頂に、
赤い
旗のなびくのを
見て、
私は、どんなに
悲しく、なつかしく
思ったでしょう。
私は、いまあなたの
姿を
見て、
北海が
恋しくなりました。あなたの
姿は、あの
船のほばしらの
頂に、
潮風に
吹かれて、ひるがえる
赤い
旗のように、
私の
胸の
血潮をわかせます。あなたがこのさびしい
野原に、こうしてひとりで
頼りなく
咲いていられるのは、あの
旗が、
荒々しい、
北海の
波の
間にひらめくのと
同じだと
考えられるのです。あなたは、さびしくはありませんか。」
かく、
小鳥は
語りました。とこなつの
花は、いつしか
涙ぐましいまでに
哀しさを
自らの
心にそそられました。そして、
頭をもたげて
身のまわりをながめると、あちらの
脊の
高い
強そうな
草は、
無神経に、いつもと
変わらず
平気な
顔つきをしているのでありました。
とこなつの
花は、
渡り
鳥から、いろいろ
世の
中の
有り
様をききました。
世の
中というものは、かぎりなく
広い。そして、こんなさびしい、
頼りないところばかりが、
世の
中でないこともきかされたのであります。
小鳥の
話によると、よく
自分の
運命にも
似ているといった、
船のほばしらの
頂の
赤い
旗は、
潮風にさらされたり、
雨や、
風に
打たれて
色があせたり、
波のしぶきによって、
黒く
汚れが
染み
出ても、それでも
幾日めか、
幾月めか、
海の
上に
漂った
暁には、
燈火の
美しい、
人影が
動く、
建物の
櫛比した、にぎやかな
港に
入ってきて、しばらくはおちつくことができるのだと
知られました。
それにくらべて、なんという
自分は
不幸な
境遇であろう。このまま
永久に、この
野原にいなければならないのかと
考えました。
花はもうじっとして、それにたえていることができませんでした。そこで、とこなつの
花は、
小鳥に
頼んだのであります。
「あなたは、わたしをかわいそうとは
思われませんか。もし、このままいつまでもここにいたら、わたしは、さびしさと
悲しさのために
気がふさいで
死んでしまいます。どうか、わたしをにぎやかなところへ
連れていってください。」と、
花はいいました。
鳥は、
花のいうことを
聞いていました。
「
小さな
赤い
花さん、あなたのお
歎きは、もっともだと
思います。しかし、この
世の
中はどこへいっても、
頼りなさと
悲しいことから、だれでも
救われることはないのであります。ここにおちついておいでなさい。
私は、またいつかこの
空を
通るときに、かならず
下りてあなたをなぐさめてあげましょう。そして、いろいろこの
世の
中で
見てきたおもしろい
話をしてあげます。あなたは、それをお
聞きになれば、
見たと
同じく
感じられるでありましょう。もし、また
私が、どんなことで、ふたたびここにくることができなくとも、
旅する
鳥の
中で、
私とおなじ
心をもつ
鳥が、きっと、あなたを
見つけて
下りてくるでありましょう。その
鳥は、
私のように、やさしくいって、あなたをなぐさめるでありましょう。それをたのしみに、あなたは、このさびしいところに、
我慢をしなければなりません。」と、
小鳥は
答えました。
「
小鳥さん、それは
無理ではありませんか。わたしは、この
世界じゅうが
風の
寒く、
霧の
深いところと
思っていました。そして、なぜこんな
世の
中に
生まれてきたろうとうらんでいました。それを、いまあなたから、にぎやかな
街や、にぎやかな
村の
話をききました。この
世界は、けっしてこれだけでないことを
知りました。どうか、わたしをにぎやかな
町の
方へ
連れていってください。わたしはただ
一目なりと
明るい、にぎやかな
世界を
見ましたら、
死んでもいいと
思います。」と、
花は、
重ねて
頼んだのであります。
「なにが、あなたの
幸福になるか、また、
不しあわせになるかわかりません。」と、
鳥は、すぐに
花の
願いをばきき
入れませんでした。
「
小鳥さん、しかし、
霜が
降り、
雪が
積もる
前に、わたしは
死んでしまわなければならない
身の
上です。あなたは、わたしが、さびしい
荒れはてた
土地で
枯れてしまうのが、あたりまえの
運命であるとお
考えなさるのですか? どうか、わたしをにぎやかな
町へ
連れていってください。あなたのお
力で、それができると
思います。」と、
花はいいました。
「
私は、あなたをにぎやかな
町へ
連れてゆくことができます。そして、
安全なところに、あなたを
置くこともできます。ただ、それが、ほんとうにあなたを、
幸福にさせるか、
不しあわせにさせるか
知らないのです。」と、
小鳥は
答えました。
小鳥は、とこなつの
花が
無理に
頼むのを
断りかねて、ついに
承知をいたしました。
小鳥は
鋭いくちばしで
土を
掘って、
花をくわえて、
地から
離しますと、そのまま
高く
空に
舞い
上がりました。
花は、
目をまわしていました。
小鳥は、
長い
間飛んで、その
日の
晩方、にぎやかな
町に
着いて、
公園に
下りると、
花を
花壇のすみに
植えたのでした。
小鳥は、おびえた
花を
公園の
花壇のすみのところに
植えますと、
花を
顧みて、
「さあ、あなたのお
望みのところへ
連れてまいりました。ここはちょうど
人間の
歩くところも
見えれば、また
話し
声もよく
聞こえます。そして、ここにいれば
安心なのです。あなたは、これからいろいろと
世の
中の
不思議なことを
知ることができます。
私は、ここへ二
度とあなたをおたずねするか、どうかはわかりません。あなたは
幸福にお
暮らしなさいまし。」と、うす
暗がりの
中から、やさしい、
悲しい
声で、
小鳥はいいました。
公園の
木立は、
青黒い、
夜の
空に
立っていました。
細かな
葉が、かわいらしい、
清らかな
歯を
見せて
笑っているように、
微風に
揺らいでいました。
花は、あたりのようすがまったく
変わってしまったのを
知りました。あのさびしい、うす
寒い
高原から、
永久に
別れてしまったことが
疑われるような、そして、そういうことはあり
得ないような、ただなんとなく、おちつきのない
気持ちでいましたから、
小鳥に
対して、十
分のお
礼や、お
別れの
言葉すらいうことを
忘れてしまいました。
「さようなら。」と
一声いい
残して、
小鳥の
影は、いずこへともなく
飛び
去ってしまいました。
花は、
不安な、
悩ましい一
夜を
送りました。しかし、
花は、「ついに
憧れていたところへきた。」と
考えると、
急に、いきいきとした
気持ちになるのでした。そのうちに、
夜がほのぼのと
白んで、
太陽が
上がった。このとき、
花は、どんな
光景をながめたでありましょう。
その
日から、この
花の
生活は、一
変したのでした。
花壇には、
赤や、
黄や、
紫や、
白や、さまざまな
色彩の
花が、いっぱいに
咲いていました。とこなつの
花は、それらの
花をいままで
見たことがありません。みんな
自分よりは、
脊が
高くて、いい
匂いのする
美しい
花ばかりでありました。どうして、こんなに、いろいろな
花がここに
植わっているのだろうと
怪しみました。あるとき、みつばちが
飛んできて、
頭の
上をゆき
過ぎようとして、また
立ちもどって、とこなつの
花に
止まりました。
「なんという、いじけた
小さい
花だろう。ろくろくこの
花には、みつもありゃしまい。いったいおまえさんは、どこからきたのですか?」と、みつばちはたずねました。
とこなつの
花は、みつばちのさげすむようないい
方に
対して
腹をたてたけれど、
忍耐をして、
「わたしは、
遠い、
高原に
生まれて、そこで、
雨や、
風や、
霧にさらされて
咲いていました。」と
答えました。
「だれが、おまえさんをここへ
連れてきたのですか、
私は、
毎日、この
花壇の
上を
飛びまわって、ここに
咲いているたくさんな
花の一つ一つをみまっているのですが、つい、おまえさんのお
姿を
見つけなかった。」と、みつばちはいいました。
「
名も
知らない
旅の
鳥が、わたしをここへ
連れてきてくれました。」と、
花は
答えました。
とこなつの
花は、このとき、あの
霧の
深い、うす
寒い
風の
吹いた、さびしい
高原を
思い
出したのです。そして、あの
高原にいたころは、どんなに、この
小さな
赤い、
自分の
姿が、
美しく
思われたか?
高く、
青空を
飛びゆく
小鳥までが、
自分を
見つけてわざわざ
下りてきたのにと
考えますと、いま、この
花壇にきて、
自分のみすぼらしい、いじけた
姿が、ほとんど
目に
入らないほど、きれいな
花の
間に
混じっているのを
悲しく、
恥ずかしく
感じました。
「ここに
咲いている
花は、みんなどこからきたのですか。」と、とこなつの
花は、みつばちにたずねました。
「
西の
国からも、
南の
国からも、また、
海のあちらの
熱帯の
島からもきた。
種子や、
苗を
船に
乗せて、
人が
持ってきたのだ。」と、みつばちは
答えました。
とこなつの
花は、
考えに
沈みました。そして、あの
高原の
自分のそばにあった
黙った
石や、また
自分のいるところから、あちらにあった
脊の
高い
草の
姿などを
思い
浮かべて、いまはそれすらなつかしく
思ったのです。
もはや、
花は
冷たい
霧にぬれて、しずくの
滴る
美しい、なやましげな
姿を
自ら
見ることもなく、また、
黄昏がた、
高い
山脈のかなたのうす
明るい
雲切れのした
空を
憧れる
悲しい
思いもなくなって、その
高原に
生まれた
花は、まったく、
平凡な
花に
化してしまいました。
ひとり、この
花ばかりでなしに、
諸国からここに
集められた、それらの
珍しい
花々も、みんな
特色を
失って、一
様に
街頭から
風に
送られてくるほこりを
頭から
浴びて、
葉の
面が
白くなっていました。
むし
暑い、
夏の
日の
午後の
公園は、
草や、
木さえが
疲れて
物憂そうに
見られました。そして、
赤い
花や、
黄色い
花や、
紫の
花が、たがいにからみ
合うようにして、だらけきって
咲いていたのであります。
ちょうど、このとき、
一人のみすぼらしいようすをした
男が、
公園の
中へ
入ってきました。
男は、しばらく、ぼんやりとした
顔つきで、なにか
頭の
中で
考えてでもいるように、あたりをぶらぶらと
散歩していましたが、しばらくすると、
花壇の
前にやってきました。
「
百合の
花の
咲いているところは、どこだろうか?」と、あたりに
目をくばっていいました。
花壇には、
百合ばかりでも、
幾種類となく
集められた
場所があります。やがて、
男は、その
前へゆきかかると、
「ああ、ここだ。
黒い
百合がないだろうか?」と、
男はいいながら、
百合の
花の
上に
目を
向けて
探しました。
男は、その
中から、つぼみの
黒い一
本の
百合を
探し
出したのであります。
「これは、
黒い
百合でないだろうか?」と、
彼は、
頭をかしげていました。そして、かたわらの
木影にあった、ベンチに
腰をかけて
空想にふけったのであります。
男には、こんな
思い
出があったのでした。――
毎年、
夏になると、その
小さな
町に、お
祭りがあるのです。その
町というのは、この
大きな
都会にくらべてこそ
小さいといわれるけれど、
子供の
時分、その
町は、どんなににぎやかなところであったか。また、なんでも
欲しいものは、この
町に、ないものがなかった。だから、いちばん
開けたところであると、ほんとうに、そう
思われたのでありました。そして、お
祭りというのは、この
町にある、ある
宗の
本山の
報恩講であって、
近在から
男や、
女が
出てくるばかりでなく、
遠いところからもやってきました。ちょうどその
人たちが、この
町に
集まることによって、
町じゅうがお
祭り
気分になったのです。
見せ
物師は、
旅からもやってきました。
毎年その
日を
忘れずに、
国境を
越えてやってくるのでした。
彼は、ある
日のこと、
人にもまれながら、
寺の
境内に
入りました。すると、
犬芝居や、やまがらの
芸当や、
大蛇の
見せものや、
河童の
見せものや、
剣舞や、
手品や、
娘踊りなどというふうに、いろいろなものが
並んでいました。その
中に、
女の
軽業がありました。この
小舎は
脊がいちばん
高くて、
看板がすてきにおもしろそうでありましたから、
彼はついに
木戸銭を
払って、
奥の
方に
入ってゆきました。
彼は、そこで、どんなものを
見たでしょうか。
半裸体の
若い
女が、
手にかさを
持って
繩の
上を
渡るのや、はしごの
頂で
逆立ちをするのや、その
他いろいろのものを
見ました。しかし、それらは、べつに
心に
深い
印象をとどめなかったけれど、ただひとつ、
忘れられないものがあった。それは、やはり
若い
女が――
桃の
実のように
肥った、
顔にはげるほど
濃く
白粉を
塗って、
目ばかり
大きく
黒く、
髪はハイカラに
結ったのが――
堅そうに
黒い
腹帯をしめて、
仰向けに一
段高い
台の
上にねて、
女の
腹の
上に、
重い
俵を
幾つも
積み
重ねる
光景であります。
彼は、その
女のいきいきとした
顔と、
赤い
唇と、
黒い
腹帯と、
太い
短い
足とを、どういうものか
忘れることができませんでした。
小舎の
外へ
出てからも、
町の
中を
歩いても、この
軽業小舎で
鳴らしている、ドンチャン、ドンチャンの
音が
耳についたのでした。
白いかもめが、
晩方になると、
北の
海の
方へ
飛んでゆく
影が
見えて、
圃には、
切ると
内部の
真っ
赤な、
大きなすいかがごろごろところげるころになりますと、
町のお
祭りは
近づいたのです。
「
腹帯が
切れて、
南の
国の
町で、
軽業の
女が
死んだ。」といううわさが、だれか、
新聞に
書いてあるのを
見たものか、
彼の
耳に
入ったときに、
彼はびっくりしました。
このときまで、まだ
目にありありとあの
女の
姿が
残っていたので、その
女が
死んだのでないかと
思うと、
心臓の
鼓動が
高くなるのを
覚えたのです。
南の
国の
町というのは、どんな
町であろうか。
彼は、
明るい
空の
下に、
赤い
旗影や、
白い
旗影などがひらひらとひるがえって、
人影が、
町の
中を
往来する
光景などを、ぼんやりと
目に
描いたのでありました。
そのうちに、ほんとうにお
祭りの
日がきたのでした。そして、
去年集まった
見せ
物師らは、また
方々から
寺の
境内に
集まりました。
軽業の一
座もやってきました。
彼は、どんなに
心の
中で
楽しみにして、その
日を
待っていたでしょう。
一
年は、こうしてめぐってきた。
圃にも、
庭にも、
去年のそのころに
咲いた
花が、また
黄に、
紫に
咲いていたのでした。
彼は、ドンチャン、ドンチャンとあちらで
鳴るにぎやかな
音を
聞きながら、
町を、その
方に
向かって
歩いていった。やはり
人々にもまれながら
寺の
境内に
入ると、
片側に
高い
軽業の
小舎があって、
昨年見たときのような
絵看板が
懸かっていました。
彼は、
木戸銭を
払ってのぞきました。そして、
幾人もいる
肉襦袢一
枚の
若い
女らの
群れから、
目に
残っている
女を
探しました。それらの
若い
女らは、ほとんど
人間とは
思われないほど、そして、なにかの
獣のように、ころころとあたりを
転げまわっているのです。しかし、いつかの
女を
探し
出すことができなかった。
彼は
耳にしたうわさを
思い
出して、ほんとうに、あの
女が
死んだのではないかと
思うと
悲しくなりました。ちょうど、そのときであった。
「
昨年、ご
当地で、お
目どおりいたしました
娘は、さる
地方において、
俵を
積み
重ねまする
際に、
腹帯が
切れて、
非業の
最期を
遂げました。それにつきましても、
命がけの
芸当ゆえ、
無事になし
終わせました
際は、どうぞご
喝采を
願います。」と、
出方がいった。
出方は、いい
終わると、
拍子木をたたいて
小舎の
奥へ
入りました。
あらわれたのは、
脊のすらりとした
女でした。
彼はどういうものか、
去年ほどの
感興を
惹きませんでした。
「やはり、
黒い
腹帯が
切れて、あの
女は
死んだのだ。」
彼は、こう
思うと、いいしれぬむごたらしさを、かの
女たちの
身の
上について
感じたのでした。
この
日は、
町は、いつもと
異なって、いろいろの
夜店が、
大門の
付近から、
大通りにかけて、
両側にところ
狭いまで
並んでいました。
彼は、
四つ
角のところに、さまざまの
草花を、
路の
上にひろげている
商人を
見ました。そこから、
広い、
大通りをまっすぐにゆけば、やはりにぎやかだったが、
裏町の
方へゆく
道は、
前後とも、
火影が
少なくなって、
暗く、
溝のくぼみのように、さびしげにさえ
見られました。ダリアの
花や、カンナの
花や、
百合の
花などが、カンテラの
火にゆらゆらと
浮き
出したように
照らされているのが、ちょうど
艶麗な
女が、
幾人も
立っている
絵姿を
見るような
気がしました。そして、なかには、
朽ちかかった
花びらがあって、だらりと
出した
舌のように、ながく
垂れているのです。
「この
黒い
花は、なんだろう?」
一
本のひょろひょろとした、
茎の
頂に、
重そうに
咲いているのを
指して、
彼はたずねた。
「
黒百合です。」と、
商人は
答えました。
彼は、
黒百合の
花を
見て、
魅せられたような
気がした。ちょうどこのとき、
女の
黒い
腹帯が
頭の
中に
思い
出された。しかし、
気味が
悪かったので、
買わずに
帰りました。その
後になって、
黒百合は、
北海道辺に、まれにあるということを
聞きました。あまり、
縁起のよい
花でないということも
聞いたのです。
彼は、その
後、いろいろの
経験をし、また
苦労をしました。たまたま、この
公園にきて
百合の
花を
見て、
昔のことを
思い
出したのです。
とこなつの
花は、いつまでも、
男が
側のベンチから
去らずに、それに
腰をかけて
考え
込んでいるのを
見ました。
花は、
小さなくびをかしげて、
男が、「
黒い
百合の
花が、
咲いていはしないか?」といったのを
聞いて、
高原の
景色を
思い
出しました。とこなつの
花は、かつてあの
高原にいたけれど、
黒い
百合の
花を
見たことがなかったので、
脊伸びをして、その
花を
見ようとしました。けれど、
地面にはっている
真紅の
花には、あちらの
百合圃に、たった一
本まじっている、
黒い
百合の
花が
見えなかったのでした。
そのうちに、
日が
暮れかかった。
木々のこずえが、さやさやと
鳴りはじめて、
空の
色は、
青黒く
見え、
燈火の
光がきらめき、
草の
葉や、
木のこずえに
反射しているのが
見られたのです。
男は、ベンチから
起ち
上がりました。
「
黒い
百合の
花が
咲いた
時分に、またやってこよう。こちらの
空には、どうして、
星の
光が、こう
少ないのか?
故郷にいる
時分は、
毎夜、
降るように、きらきらと
輝く
星が
見られたのに……。」と、
立ち
去るときに
男はいいました。
とこなつの
花は、なるほど、
男のいうように、どうしてこっちにきてから
星の
光が
見えないかと
気がついて、
怪しみました。あの
高原にいるころ、
暁の
風が、
頭の
上の
空を
渡り、
葉末に
露のしずくの
滴るとき、
星の
光が、
無数にきらめいていた。それが、たがいに
追いかけ
合ってでもいるように、
金や、
銀や、
青や、
赤の
星がきらめいていた。そして、いつともなしに
時がたつと、みんな
影を
地平線のかなたに
没してゆく。
翌日は、とこなつの
花は、
朝のうちから、
空模様がおかしく、
暴風のけはいがするのを
身に
感じました。
昼ごろ、せんだってのみつばちが、どこからともなくやってきて、
花の
上に
止まりました。
「どうなさいましたか?」と、とこなつの
花は、みつばちに
声をかけました。すると、みつばちは、
「
今日は
風ですよ、なんだか
天気がおかしくなりました。こういう
日は、
高い
脊の
花に
止まっているのは
危険です。いくら
香気があっても、またきれいに
咲いていても、
風といっしょに
吹き
飛ばされたり、
折れた
下になったりしては、たまりませんからね。
今日は、あなたのところに
置いてくださいまし。あなたは、
脊が
低く、
地面についていますから、ここなら
危ないことはありません。あの
雲ゆきの
早いのをごらんなさい。」と、
花に
向かっていいました。
花は、
頭を
上げて
空を
見ました。
「ほんとうに、そうですね。」
「あなたは、
黒い
百合の
花をごらんになりましたか?」と、とこなつの
花は、みつばちにたずねました。
みつばちは、
小さな、すきとおるような、
美しい
羽をふるわして、
「
黒い
花ですって?
私どもは、
黒い
花は、
人間の
死骸から、
生えたのだといっています。そして、
毒があるといって、けっして
止まりはいたしません。めったに、
黒い
花はないものです。なんでも
黒い
花を、ただ
見ただけでも
悪いといっていますよ。」と
答えました。
とこなつの
花は、これを
聞くと、くびをすくめました。そして、
男のいったことから、
脊伸びをして、この
近くに
咲いているのを
見ようとしたことを
思い
出して、
思わずぞっとしました。
「なんで、そんなことをお
聞きなさるのですか?」と、みつばちはたずねました。
「いいえ……。」と、とこなつの
花はいって、
黙ってしまいました。
ますます
風の
吹くのが、
強くなりました。
「
今日は、
公園に、なにかあるのでしょうか。」と、
花は、
先刻から
風の
中を
人々が、ぞろぞろと
花壇のまわりを
歩いているので、なんでもこの
付近のできごとなら、
知らないものがないほどくわしいみつばちに
向かって、たずねました。
すると、みつばちは
手足をたがいにこすりあいながら、
「
農産物の
展覧会があるのですよ。
花の
咲いている
時分は、
私も
広い
圃から、
圃を
渡って
飛び
歩いたものです。なにしろ、二
里も
先まで、いったのですからね。それが、
日数がたつにつれて、それらの
野菜は、
太い
根を
持ったり、また、まるまると
肥えたり、
大粒に
実ったりしましたからね。
大根や、ねぎや、
豆や、
芋などを
昨日から、
近在の百
姓だちが
会場に
持ち
込んでいますよ。そして、一
等と二
等とは、たいした
賞品がもらえるということです。」と、みつばちは
答えました。
ほんとうに、
公園はいろいろの
人たちでにぎわっていました。あちらから
楽隊の
鳴らしている
楽器の
音が、
風に
送られて
聞こえてきたり、また、
歌をうたっている
声が
聞こえてきたりしました。
この
日、
白髪のおばあさんが、
農産物展覧会場へあらわれました。
おばあさんは、なにも
農産物に
興味をもったわけではありません。
場末の
町に
住んでいるのだけれど、
用事があって、こちらの
知った
人のところへやってきますと、その
人の
家で、
展覧会のある
話を
聞きました。
「
大根でも、なすでも、
芋でも、なんでもよくできたものには、一
等、二
等と
礼がついて
賞が
出る。」ということを
聞くと、ふと、おばあさんは、
胸に
思い
出したことがあります。
「その
展覧会は、どこにあるのですか?」と、おばあさんはたずねました。
「じき、
近くの
公園ですよ。まあ、いってごらんなさい。それは、
大きななすや、みごとなきゅうりや、
野菜物はなんでもありますから。
大根なんか、どうしてあんな
太いのがあるかと
思われるほどですよ。」と、
知った
家の
人はいいました。
おばあさんは、その
話を
聞くと、いそいそとして、その
家から
出て、
公園へやってきました。
公園のこの
展覧会場は、
楽隊で、
人を
呼び
寄せていました。そして、そこでは、わずかな
日数を
限って、その
間は、
野菜物を
安く
売るのでありました。おばあさんは、
内へ
入ると、どの
出品物にも
目をくれずに、すぐに
大根の
並べてあるところへいってみました。するとそこには、
白い、
太い、
大根がいろいろと
並べてあって、その
中のいちばん
太いのに、
赤い
紙札がついて、「一
等賞」と
書いてありました。
なんでも、一
等賞は、たいしたほうびがもらえるらしいのであります。それを
見ると、おばあさんは
目をまるくしました。
「おや、これが一
等賞かい?」
と、
独り
言をいいました。
じつは、おばあさんは、
今朝、すぐ
自分の
家の
近くの
八百屋で、
大きな
大根を
見てびっくりしたのです。いままでの、
長い
年月に、おばあさんは、たくさんの
大根を
見たけれど、いまだにこんな
大きなのを
見たことがなかったのです。
「まあ、
大きな
大根だこと。」と、そのとき、おばあさんはいいました。
「
私も
長い
間八百屋をしていますが、こんなのを
見たのは、はじめてです。」と、
八百屋の
主人もいいました。
おばあさんは、
展覧会にきて、一
等賞をとった
大根を
見つめて、これよりは
八百屋の
店頭にあったのが
大きいと
思いました。
「まだ、あの
大根は
売れずにあるだろうか。あれを
持ってきてここへ
出せば、あのほうが一
等賞だ。」と、おばあさんは
思いました。そして、いそいで、
外へ
出ると、
電車に
乗ってゆきました。
三、四
時間の
後、おばあさんは、
大きな二
本の
大根を
持って、
展覧会場に
現れました。
係のものは、
驚きました。それは、一
等の
出品物よりたしかに
大きく
太かったからであります。
「おばあさん。ほんとうにみごとな
大根ですね。」と、
係のものはいいました。
「おばあさん、
圃の
土は、
赤土ですか、
黒土ですか。」と、
係のものは
問いました。
「
黒土でございます。」と、おばあさんは
答えました。
「
種子はどこから
取り
寄せて、
何月の
何日に
圃にまいて、いつ
肥料を
何回ぐらいやったのですか、どうか
話してください。」と、
係のものはいいました。
そんなことを
問われると、おばあさんは、
自分が
圃に
作った
大根でないから、ちっともわかりませんでした。ただ、もじもじとしていて、
答えることができなかったのであります。
「おばあさん、あなたがお
作りになったのではないでしょう。」と、
係のものはいいました。
「
私は、
八百屋にあるのを
買ってきました。しかし、これは
私のものです。」と、おばあさんはいいました。
「それでは、いけません。
買ってきたものは、いけません。」と、
係のものは、
頭を
振りながら
答えました。
「なぜですか。こんなに
大きいのが、なぜいけません。
私の
持ってきた
大根が一
等賞でございます。」と、おばあさんは、
白髪頭をふりたてて
怒り
声でいいました。
係のものは、これを
聞くと
笑いながら、
「たしかに、この
大根は、一
等賞の
資格があります。けれど、
作り
手がわからないから、
賞品を
渡すわけにはいきません。」といいました。
「
作り
人は、だれでも、
私が
買ったのだから、この
大根は、
私のものでございます。
賞は、
私がもらいます。」と、おばあさんは、それになんの
不思議があろうかといわぬばかりにがんばりました。
しかし、
係のものは、
頭を
振りました。
「いいえ、
賞品は、
野菜を
作った
人の
手柄をほめてあげるので、その
他の
人には、だれにも
渡さないのです。この
大根を
作った百
姓は、どこのだれという
人だか、おばあさんにはわかりますまい。みごとな
大根ですから、ここに
並べておいて、みんなに
見せるのはさしつかえないから、二、三
日貸しておいてください。」と、
係のものはいいました。
おばあさんは
白目を
向けて、
係のものを
見ながら、
「よく、そんなことがいわれたものだ。これは
私のものだから、ほうびをくれないなら、さっさと
持って
帰りますよ。
較べて
見れば
分かるものを、
賞をくれるのを
惜しんで、ただ
貸してくれいもないものだ。」と、
欲張りのおばあさんは、ぷんぷんと
怒って、
大きな二
本の
大根を
抱えて、
会場の
入り
口から
出ました。
黄昏方の
空は、
水あめのような
色をしていて、ひどい
風が、ヒューヒューと
音をたてて
吹いていました。
電線はうなって、
公園の
常磐木や、
落葉樹は、
風にたわんで、
黒い
頭が、
空に
波のごとく、
起伏していました。
おばあさんは、二
本の
葉のついている
大きな
大根を
抱えて、ちょうど、
赤い
旗を、
監督が
振っている
電車の
交叉点の
方へと
歩いていきました。
風は、いくたびもおばあさんを
吹き
倒そうとしました。おばあさんは、二
本の
大根をしっかりと
抱いて、
風に
吹き
倒されまいと
歩きました。
風は、おばあさんの
白髪を
波立たせ、
大根の
葉を
吹きちぎりそうに、もみにもんだのであります。
そのうちに、ピューッときた
風は、とうとうおばあさんを
倒してしまいました。おばあさんは、
大根を
抱えたまま、
起き
上がろうとしましたが、
風が
強くて
起き
上がることができませんでした。そのうちに、
通る
人々が、
黒くなって、そのまわりに
集まってきました。
「みつばちさん、あちらが、たいそう
騒々しいですね。」
と、とこなつの
花は、みつばちにいいました。
「じき、この
鉄さくのあちらは
往来です。いってみてきましょう。」と、みつばちは
答えて
飛びゆきました。
やがて、みつばちはかえってきて、
花の
上に
止まると、
「どこかのおばあさんが
転んだのを、しんせつに
人が
起こしてやると、おばあさんの
抱えていた一
本の
太い
大根が、二つに
折れたといって、おばあさんが
怒っているのですよ。」といいました。
翌日になると
風は
静まりました。
朝早くから、まだ
太陽の
上がらないうちに、みつばちは
起きて
飛ぶ
用意をしました。
「
私は、
昨日は一
日なにも
食べなかった。
今日は
腹がすいてたまらないから、
大きな
花を
尋ねまわって、うんとみつを
吸ってこなければなりません。じゃ、さようなら。また、お
目にかかります。」といって、とこなつの
花に
別れを
告げていこうとしました。
とこなつの
花は、
黙っていましたが、いざみつばちが
飛び
去ろうとするときに、それを
呼び
止めて、
「みつばちさん、いくら
腹がすいていても、けっして、
黒い
百合の
花などに
忘れても
止まってはいけません。お
気をつけなさいまし。」といいました。
「ごしんせつに、ありがとうございます。
気をつけます。」といって、みつばちは、
元気よく、
朝の
空気の
中を、
羽を
鳴らして
飛んでゆきました。
その
日は、
昼過ぎから、
夜にかけて、
雨が
降りました。そして、
雨は、じきにやみました。すると、すがすがしい
気分が、あたりに
漂って、ぬれた
木の
葉や、
草の
葉が、そこここに
立っている
電燈の
光に
照らされて、きらきらと
輝いています。
とこなつの
花は、みつばちが、
夜になっても、
帰ってこないので、どこで
眠ったろうと
考えていました。
風が、さやかに
吹きわたると、
木々の
露がぽたぽたと
地上に
落ちました。いつしか
快い
気持ちになって、
花は
眠りますと、ふいに、
夜中に、ひやりとなにか
身に
感じたので、
驚いて
目をさましたのであります。
花は、おそくなって、みつばちが
帰ってきて、ぬれた
体を
触れたのだと
思いましたが、さしてくる
電燈の
光で
見ると、それは、みつばちでなくて、
羽の
黄色な、
小さいとがった
形をした
蛾でありました。
蛾の
黄色なすきとおるような
羽は、
気味の
悪いほど、
冷たく、
硫黄の
色のように
見えたのです。
花は、
高原にいる
時分に、たくさんの
蛾をば
見ました。しかし、この
蛾と
同じ
感じのするような
蛾をば
見なかった。この
蛾は、
人間の
目を
見るように、くるくるとした二つの
目を
持っていました。
花は、
蛾に
対して、なにもいう
気にはなれなかったが、しかし、
知らぬ
顔をしていることもできなくて、
「
黄色な
蛾さん、いまごろ、あなたは、どこから
飛んできたのですか。
私は、まだあなたのような
姿の
蛾を
見たことがありません。
山からですか?
野原からですか? どこから、あなたは
飛んできたのですか。」と、たずねました。
蛾は、ちょうど
体の
色にふさわしい、
冷たい、すきとおる
声で
答えました。
「
私たちは、
戦場で
産まれました。たくさんの
人間が
死んだ、その
死骸が
腐っている
広い
野原の
中で
産まれました。
私たちは、
明るい
日の
光や、
火や、
炎を
見ることは
大きらいです。
真っ
暗な
闇が
大好きなのです。
私たちは
風の
吹く
日に、
暗い
野原から
野原へ、
町から
町へ
飛んでゆきます。そして、みんな
火という
火を
消してしまいます。
明るい
街を、
真っ
暗にしてしまうのです。それがために、
私たちは、
自身の
体が
火に
焦げても、また
死んでもいといはいたしません。
明るいということは、
死よりも
恐ろしいのです。」と、
蛾は、くるくるとした二つの
目で
花を
見守りました。
「そんなに、あなたがたは、たくさんいっしょになって、
旅をなさるのですか。」と、
花は
問いました。
「
幾十
万、
幾百
万、その
数はわかりません。
私たちは、
太陽の
輝いている
空も
暗くすることができます。また、どんなににぎやかな
明るい
街の
火でも
暗くすることができます。
私たちは、
昨夜、
海の
上を
渡って、
南の
国へゆこうとして、
風のためにわずかばかりが
迷って、この
方向に
飛んできました。いまに、その
私たちの
仲間が、ここの
空を
過ぎるでありましょう。」と、
蛾はいいました。
花は、
頭をあげて、そばに
立っている、
電燈の
光を
見ますと、
蛾が
幾つも
止まっているのでした。
花は、たちまちのうちに、
無数の
黄色な
蛾が
飛んできたのを
見ました。どの
木の
葉にも、またどの
草の
葉にも、
蛾が
止まっていました。ちょうど
花びらの
降りかかったように
見えたのです。
急に、さわさわという
音がして、
燈火の
光がうす
暗くなったと
思って、
立っている
電燈の
方を
見ると、
幾百、
幾千となく
蛾が
火を
目がけて
襲ったのです。そのために、
光をさえぎったので、
中には、ガラスに
頭を
打ちつけて、
下に
落ちる
蛾や、
火のまわりを、すきもあろうかと、
羽ばたきをしながらまわるのや、いろいろありました。このとき、あちらに
立っている
電燈を
見ても、
同じような
光景でありました。そして、
羽の
白い
粉が、
火の
周囲の
空間を、
光ったちりのまかれたように
散っているのでした。
花は、いま
蛾のいったことを
思い
出して、
蛾の
仲間が、ようやくここへやってきたのだと
知りました。
この
都会の
火を
消すために、
蛾が
襲ってきたのです。とこなつの
花は、このたくさんな
数えきれないほどの
黄色の
蛾が、いずれも二つのくるくるとした、
円い
人間の
目のような
目を
持ち、
長いひげと
大きな
口を
持っているかと
思うと、ぞっとするほど、
恐怖を
覚えたのです。で、
目を
閉じて、
見まいとしていました。
そのうちに、
待ち
通しかった
夜が
明けかかった。
花は、うなされながらも、いくらかは
眠ったような
気持ちもしました。しかし
頭は
重かったのであります。
花は、あたりが
明るくなると、
自分の
体の
上に
止まっていた、
黄色な
蛾が、いないのに
気づきました。そればかりでなく、
頭を
上げて、あたりを
見まわしますと、あれほどたくさんに
飛んできた
蛾が、
影も
形もないのに
驚いたのであります。
「
昨夜のは、みんな
夢だったろうか?」と、
花は、
怪しまざるを
得なかったのでした。
敏捷で、
自由で、
怜悧で、なんでもよく
知っているみつばちは、きっと
昨夜のできごとも
知っているであろう。はやく、みつばちが、やってきてくれないものかと、
花は、
待っていましたが、その
日は、みつばちはついにきませんでした。
高原に
生まれた
花は、この
街の
中にきてから
体がたいそう
弱りました。
朝晩、
冷ややかな
露を
吸わないだけでも、
元気をなくした
原因だったのでした。それに、むし
暑い
日がつづいたので、
頭までがいきいきとせずに
重くあったのです。
とこなつの
花は、
高原にいて、あの
寒い、
雪の
積もる
冬にあうことをおそれましたが、ここにきてから、こんなに
早く
体が
弱ってしまっては、
秋を
待たずに
枯れてしまうようにさえ
思われました。
「ああ、わたしも、もう
先が
長くあるまい。」と、
花は、
自らも
考えました。そして、
昼間も、うつらうつらとした
気持ちで、
居眠りをつづけているようになりました。
周囲の
常磐木の
葉に、
強く
照りつけた
太陽の
光も、このしぼみかかった、
哀れな
花の
上には
頼りなげに
照らしたのです。ちょうど、この
花に
映った
太陽の
光は、
燐の
炎のように
青白くさえ
見られました。
だれかつぶやいている
声がしたので、ふと
花は、
目をさましますと、もう
日は
暮れていました。そばにあったベンチに
腰をかけている
人間は、たしかに、せんだって、
黒い
百合の
花を
探していた
男であります。
「なぜだか、あの
笛の
音を
聞くと、
私は、お
母さんと、あの
山奥の
温泉場へいったときのことが
目にうかんでくる。あの
時分は、お
母さんは
達者で、
自分は、まだ
子供だった。
未開な
温泉宿では、
夜は
谷川の
音が
聞こえて
静かだった。
行燈の
下で、
毛ずねを
出して、
男どもが、あぐらを
組んで、
下を
向いて
将棋をさしていた。」
男は、こう
独り
言をしていました。
もう、
空は
暗かったので、
花には、
男の
顔がわからなかった。ただその
声に
聞き
覚えがあっただけです。
公園の
鉄さくの
外を
按摩の
吹いて
通る
笛の
音が、
細く、きれぎれに
聞こえてきました。
その
後は、ベンチによりかかった
男のため
息ばかりが、
闇の
中でしたのであります。
翌日の
朝は、いい
天気でした。
白い
雲が、
静かにこずえの
頂を
離れて、
空に
流れていました。とこなつの
花は、ぐったりとしていました。そして、いつになく
元気がなかったのです。どこからかみつばちが
飛んできました。
「いい
天気じゃありませんか。」といって、
花に
声をかけました。
「
昨夜は、
恐ろしい
夢を
見て、
今日は、
頭が
重くてしかたがありません。」と、
花は
答えました。
「どんな
夢をごらんになりましたか? ほんとうに
顔の
色がよくありませんね。あなたは、だいぶん
疲れておいでのようですから、お
大事になさいまし。」と、みつばちがいいました。
とこなつの
花は、一
昨夜、
黄色な
蛾がきたことを
語りました。すると、みつばちは、
花のいうことを
半分も
聞かずに、
「なんで
夢のもんですか。みんな
事実ですよ。この
公園には、
黒い
百合の
花が
咲いたり、
不思議な
毒蛾がきたりしたために、
人間が
大騒ぎをしていますよ。あなたは、まだなんにもお
知りになりませんか。」と、みつばちはいいました。
とこなつの
花は、これを
聞くと、
「
黒い
百合の
花が
咲いたのですか?」とたずねました。
「
百合圃に、一
本咲いています。それで、
今日あそこへ
植物学者がきて
検べています。
後ほどここへもあの
人たちは、やってくるでしょう。」と、みつばちはいいました。
とこなつの
花は、なんとなく
胸騒ぎを
感じた。
「みつばちさん、そんなら、一
昨夜、たくさんきた
蛾は、
毒蛾なんでしょうか。」と
問いました。
「
毒蛾ですとも、
昨夜、ついこのベンチに
腰をかけていた
男が、あの
蛾に
刺されたのです。そして、
病気になったというので、やはり
学者が、
今日この
公園にきて、
蛾を
探しています。しかし、あれほどいた
蛾が、
不思議なことに、一
匹も
見つからないですよ。」と、みつばちはいいました。
とこなつの
花は、このそばのベンチに
腰をかけていた
男が、
蛾に
刺されて
病気になったということを
聞いて、びっくりしました。
「なんという、あの
人は、
不しあわせの
人なんでしょうね。」と、
花は、あの
男が
独り
言していたことなどを
思い
出しながらいいました。
「その
男は、なんでも
昼間黒い
百合の
花を
折ろうとしたのです。それを
番人に
見つかって、しかられたのです。
男は、
夜、ここへやってきました。すると、一
昨夜、この
都を
襲った
毒蛾が、どこかに
残っていたとみえて、その
男を
刺したのです。それで
男は、
毒が
身体にまわって、なんでも
死にそうだといいますが、
私は、
黒い
百合の
花に
触れたのではないかと
思います。」と、みつばちは
答えた。
このとき、あちらでは、にぎやかな
音楽の
響きが
起こっていました。なにかの
催し
事があるとみえるのです。
一
方に
悲しむものがあれば、また、一
方に
楽しむものがある。それが、この
世の
中の
有り
様でした。このとき、こちらに、ぞろぞろと
歩いてくる
人たちがありました。それは、みつばちが、
先刻いった
学者たちの一
行であります。その
中の
白い
洋服を
着て、
眼鏡をかけた
一人は、とこなつの
花の
咲いている
前に
歩み
寄りました。
「やあ、こんな
花がここに
咲いているのは
珍しい。このとこなつは、
高い
山にあるとこなつです。」と、ほかの
人々を
顧みていった。
「どうして、こんなところに
咲いているのでしょう。」と、その
一人がたずねました。
「まれにあることです。
風か、なにかで、
種子が
飛んできたのですね。」と、
白い
洋服の
男は
答えました。そして、
手をさし
伸べて、とこなつの
花を
根もとから
引き
抜きました。
鳥が、くわえてきて、ここに
植えた、
花の
運命も、ついに
終わりがきたのであります。みつばちは、それを
見ると、いずこへともなく
飛びゆきました。