海ぼたる
小川未明
ある日、兄弟は、村のはずれを流れている川にいって、たくさんほたるを捕らえてきました。晩になって、かごに霧を吹いてやると、それはそれはよく光ったのであります。
いずれも小さな、黒い体をして、二つの赤い点が頭についていました。
「兄さん、よく光るね。」と、弟が、かごをのぞきながらいいますと、
「ああ、これがいちばんよく光るよ。」と、兄はかごの中で動いている、よく光るほたるを指さしながらいいました。
「兄さん、牛ぼたるなんだろう?」
「牛ぼたるかしらん。」
二人は、そういって、目をみはっていました。牛ぼたるというのは、一種の大きなほたるでありました。それは、空に輝く、大きな青光りのする星を連想させるのであります。
その翌日でありました。
「晩になったら、また、川へいって、牛ぼたるを捕ってこようね。」と、兄弟はいいました。
そのとき、二人の目には、水の清らかな、草の葉先がぬれて光る、しんとした、涼しい風の吹く川面の景色がありありとうかんだのであります。
ちょうど昼ごろでありました。弟が、外から、だれか友だちに、「海ぼたる」だといって、一匹の大きなほたるをもらってきました。
「兄さん、海ぼたるというのを知っている?」と、弟は兄にたずねました。
「知らない。」
兄は、かつて、そんな名のほたるを見たことがありません。また、聞いたこともありません。
さっそく、兄は、弟のそばにいって、紙袋に包んだ海ぼたるをのぞいてみました。それは、普通のほたるよりも大きさが二倍もあって、頭には、二つの赤い点がついていましたが、色は、ややうすかったのであります。
「大きなほたるだね。」と、兄はいいました。あまり大きいので、気味の悪いような感じもされたのであります。
二人は、晩には、どんなによく光るだろうと思って、海ぼたるをかごの中に入れてやりました。
「海ぼたるをもらったよ。」と、兄弟は、外に出て、友だちに向かって話しましたけれど、海ぼたるを知っているものがありませんでした。
まれに、その名だけを知っていましても、見たといったものがありませんでした。もちろん、その海ぼたるについて、つぎのような話のあることを知るものは、ほとんどなかったのであります。
昔、あるところに、美しい、おとなしい娘がありました。父や、母は、どんなにその娘をかわいがったかしれません。やがて娘は、年ごろになってお嫁にゆかなければならなくなりました。
両親は、どこか、いいところへやりたいものだと思っていました。それですから、方々からもらい手はありましたが、なかなか承知をいたしませんでした。
どこか、金持ちで、なに不自由なく暮らされて、娘をかわいがってくれるような人のところへやりたいものだと考えていました。
すると、あるとき、旅からわざわざ使いにやってきたものだといって、男が、たずねてきました。そして、どうか、娘さんを、私どもの大尽の息子のお嫁にもらいたいといったのです。
両親は、けっして、相手を疑いませんでした。先方が、金持ちで、なに不自由なく、そして、娘をかわいがってさえくれればいいと思っていましたので、先方がそんなにいいとこであるなら、娘もしあわせだからというので、ついやる気になりました。
ただ、娘だけは、両親から、ひとり遠く離れてゆくのを悲しみました。
「遠いといって、あちらの山一つ越した先です。いつだってこられないことはありません。」と、旅からきた男は、あちらの山を指さしていいました。
その山は、雲のように、淡く東の空にかかって見られました。
「そんなに、泣かなくてもいい、三年たったら私たちは、おまえのとこにたずねてゆくから。」と、両親はいいました。
娘は、涙にぬれた目を上げて、東の方の山をながめていましたが、
「どうか、毎日、晩方になりましたら、私があの山のあちらで、やはり、こちらを向いてお父さんや、お母さんのことを、恋しがっていると思ってください。」といいました。
これを聞いて、父親も、母親も、目をぬらしたのであります。
「なんで、おまえのことを片時なりとも忘れるものではない。」と答えました。
娘は、とうとう旅の人につれられて、あちらの郷へお嫁にゆくことになったのであります。
娘がいってから、年をとった父親や、母親は、毎日、東の山を見て娘のことを思っていました。けれど、娘からは、なんのたよりもなかったのです。
娘は、まったく、旅の人にだまされたのでありました。なるほど、いってみると、その家は、村の大尽であります。また、舅も、姑も、かわいがってはくれましたけれど、聟という人は、すこし低能な生まれつきであることがわかりました。
彼女は、この愚かな聟が、たとえ自分を慕い、愛してくれましたにかかわらず、どうしても自分は愛することができなかったのです。
娘は、西にそびえる高い山を仰ぎました。そして、明け暮れ、なつかしい故郷が慕われたのです。三年たてば、恋しい母や父が、やってくるといったけれど、彼女はどうしても、その日まで待つことはできませんでした。
「どうかして、生まれた家へ帰りたいもんだ。」と、彼女は思いました。
しかし、道は、遠く、ひとり歩いたのでは、方角すらも、よくわからないのであります。彼女はただわずかに、川に添うて歩いてきたことを思い出しました。どうかして、川ばたに出て、それについてゆこう。その後は、野にねたり、里に憩うたりして、路を聞きながらいったら、いつか故郷に帰れないこともあるまいと思いました。
ある日、娘は、聟や、家の人たちに、気づかれないように、ひそかに居間から抜け出たのであります。
川の流れているところまで、やっと落ちのびました。それから、その川について、だんだんと上ってゆきました。女の足で、道は、はかどりませんでした。草を分け、木の下をくぐったりして歩きました。いまにも、彼女は、追っ手のものがきはしないかと、心は急きました。どうかして、はやく、川をあちらへ渡って越したいものだと思いました。けれど、どこまでいっても、一つの橋もかかっていなかったのです。
川上には、どこかで大雨が降ったとみえて、水かさが増していました。やっと、日暮れ前に、一つの丸木橋を見いだしましたので、彼女は、喜んでその橋を渡りますと、木が朽ちていたとみえて、橋が真ん中からぽっきり二つに折れて、娘は水の中におぼれてしまいました。
「死んでも、魂だけは、故郷に帰りたい。」と、死のまぎわまで、彼女は思っていました。
やがて、娘の姿は、水の面に見られなくなりました。すると、その夜から、この川に、ほたるが出て、水の流れに姿を映しながら飛んだのであります。
愚かな聟は、美しい嫁をもらって、どんなに喜んでいたかしれません。そして、自分はできるだけ、やさしく彼女にしたつもりでいました。それが、ふいに姿を隠してしまったので、また、いかばかり、悲しみ、歎いたでありましょう。ついに聟は、家の人たちが心配をして、見張りをしていたにもかかわらず、いつのまにか、家から飛び出して、同じ川に身を投げて死んでしまいました。
この水ぶくれのした死骸は、川の上に浮いて、ふわりふわりと流れて、みんなの知らぬまに、海に入ってしまったのであります。不思議なことに、この死骸も、またほたるになったのです。
これが、海ぼたるでありました。
二人の兄弟は、海ぼたるについて、こんな物語があることを知りませんでした。
ただ、大きいから、かごの中に入れて、よく光るだろうと思っていました。
晩になると、海ぼたるはよく光りました。川のほたるも負けずによく光りました。
「みんな、よく光るね。」と、兄と弟は、喜んでいいました。
あくる日の晩は、あまり両方とも、前夜のようにはよく光りませんでした。自然を家として、川の上や、空を飛んでいるものを、狭いかごの中にいれたせいでもありましょう。ほたるは、だんだん弱って、日ごとに、小さな川のほたるから、一匹、二匹と死んでゆきました。そして、最後に海ぼたるだけがかごの中に残りました。しかし、その光も、だんだん衰えていって、なんとなくひとりいるのがさびしそうでありました。
ある朝、二人は、この大きなほたるも死んでいるのを見いだしました。そのときすでに、じめじめした梅雨が過ぎて、空は、まぶしく輝いていたのであります。
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