村の兄弟
小川未明
 ある田舎に、仲のよい兄弟がありました。ある日のこと、兄は、一人で重い荷を車にのせて、それを引いて町へ出かけてゆきました。道すがら兄は、弟のことを頭の中で思っていました。
「頭のいい、やさしい、いい弟だ。俺はこうして働いても、せめて弟だけは、勉強をさせてやりたいものだ。」
などと考えていました。そして、ガタ、ガタと車をひいてきかかりますと、あちらの松の木蔭に見慣れないおじいさんが休んでいました。
 おじいさんは、荷をつけた車が前にさしかかると、
「もし、もし。」といって、車を呼び止めました。
 兄は、なにごとがあって、呼び止めたのだろうと思って、額ぎわに流れる汗をふいて、おじいさんの方を向いて立ち止まりました。
「私は、旅をするものだが、足が疲れてしまって歩けないから、どうか、その車に乗せて町までつれていってくださらないか。」と、おじいさんはいったのです。
 兄はいつもならわけのないことだと思いました。しかし、今日は特別に重い荷をつけてきたので、このうえ人間を乗せるということは難儀でした。
「私の荷は重いのですが、この後から軽そうな荷をつけてきた人にお頼みくださいませんか。」と、兄は答えました。
 すると、そのおじいさんは、頭を振りながら、
「この前にいった人にも頼んだら、いま、おまえさんがいったようなことをいって断った。そういわないで乗せてくださらないか。」と、おじいさんは頼みました。
 兄は、つくづくそのおじいさんを見ましたが、身体が小さく、あまり重そうでもないようですから、
「そんなら、乗せていってあげます。そのかわり、そう早くは引かれません。」といって、おじいさんを抱くようにして、助けて、車の上に乗せてやりました。
 おじいさんは、車の上に乗ってたいそう喜んでいました。
「人間というものは、だれにでもしんせつにするものだ。みんなが、そう心がつきさえすれば、世の中はいつも円く治まるのだ。」というようなことを途すがら、おじいさんは、車の上で話をいたしました。
 やがて、車が町に入りました。すると、おじいさんは、
「もう、ここでいいから降ろしておくれ。」といいました。兄は、そこで、おじいさんを抱いて降ろしてやりました。おじいさんは、兄に向って礼をいいました。
「私は、旅から旅へまわって歩く人間だから、べつに、お礼としておまえさんにあげる金はないが……。」といいました。
 兄は、こういいかけるおじいさんの言葉をさえぎりました。
「私は、そんなものをいただく気で、あなたを車に乗せてあげたのでありません。」といいました。
「いや、ようしんせつに乗せてくだされた。私はここに良薬を持っている。この薬さえのめば、どんな病気でもなおらないことはない。この薬はどこを探したってない。私は、支那から帰った人にもらったのだ、この薬をおまえさんにあげる。この薬は、もう助からないというときでなければのまないで、しまっておきなさい。」といって、おじいさんは、一ぷくの薬を兄にくれたのであります。
 ほかの品とはちがい、これをもらうとたいそう喜びました。そして、おじいさんとは町の中で別れて、自分は仕事をすまして、やがて空車を引いて、我が家へ帰ってきました。
 兄が留守の間は、弟は、家にいて働いていました。そして、重い荷を車につけて、遠く、町まで引いていった兄の身の上をいろいろに思っていました。そこへ、兄は、帰ってきて、今日、不思議なおじいさんにあい、そのおじいさんを車に乗せて町へゆき、お礼に、いい薬をもらったことを話して聞かせたのであります。
「それほどの名薬なら、大事にして、しまっておきましょう。」といって、二人はそれを家宝にしました。
 そののち、幾月日かたったのであります。この仲のいい兄弟は、その間、せっせと働いたのでありました。
 しかし、人間はすべて、いつでも達者でいるものではありません。ふと、兄が病気にかかりました。弟は、どんなに心配したかしれない。
「兄さん、いつかの薬を出しておのみなさいまし。」といいました。
「なに、こればかしの病気は、じきになおってしまう。後になって、また、あの薬が必要なときがあるだろう。」と、兄は答えました。
 兄の看病をしていた弟が、また、病気にかかりました。すると、兄はねていながら、たいそう心配しました。
「俺の病気は軽いのだから、おまえこそ、あの薬を出して早くのんだがいい。」と、兄はいいました。
 しかし、兄がのまないものを、なんで、弟がのむことがありましょう。弟は、苦しい中からも自分のことを忘れて、兄の身の上を心配しました。
 村の人々は、この二人の仲のいい兄弟が、ともに病気で倒れているということを知ると、どんなに気の毒がったかしれません。そして、近傍のいい医者を幾人も呼んでみせたり、いろいろと手をつくしてくれました。けれど、二人の病気は、だんだん悪くなるばかりでした。
「どちらの、命も保証することはできません。」と、その医者たちもいいました。
 ほんとうに、こんなときに、いつかのおじいさんにもらった薬をのまなければ、のむときはないのでありました。
 兄は、弟に向かって、
「もう、二人は、このままでいれば近いうちに死んでしまうだろう。しかし、あの薬をのめば、助かるにちがいない。おまえは、俺よりも年は若いし、また頭もいい、これから勉強をすればりっぱな人間になれるのだ。そして、この世の中のためにつくすこともできるだろう。すぐれた人間が生き残って、社会のために働くということは、けっして私事ではないのだ。どうか、おまえは、生きていて、そして、ふたたび昔のようにじょうぶになって、俺の分まで働いてもらいたい。どうか、おまえは、あの薬をのんでくれ。」といいました。
 弟は、黙っていました。両方の目から涙が光って流れました。
「兄さん、私は、死を覚悟しています。」と、ただ、それだけいったばかりでした。
 ある日、弟は咽喉がかわいて、水を欲しがったときに、まだ、そのときまで気の確かだった兄は、水の中に一粒の名薬を入れて弟に飲ませようとしました。しかし、弟は、それを悟って、口を開けて飲まずにしまいました。
 それからまもなく、二人は、前後して、この世の中から去ってしまいました。
 幾年か過ぎた、ある春ののどかな日でありました。いつか兄が車に乗せてやった不思議な老人が、この村へまわってきました。そして、村人から兄弟の話をきいたときに、老人は感心しました。「その薬は、自分がやったのだ。」とは、口に出して、人々には語らずに、ただ、みんなに向かって、
「人間は、ただ生きのびたからといって、たいした仕事をするものでない。この兄弟のように、みんなの心に、いつまでも忘れられない教訓を遺せば、それでりっぱなものだ。」と、老人はいいました。
 村には、ちょうど、桜の花がみごとに咲いていました。
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