兄の声

小川未明




 おかあさんは、ぼくにかって、よくこういわれました。
ちいさいときから、おまえのほうは、つよかったけれど、にいさんはおとなしかった。まだおまえが、やっとあるける時分じぶんのこと、ものさしで、にいさんのあたまをたたいたので、わたしがしかると、いいよ、たけちゃんは、ちいさいのだものといって、にいさんは、おこりはしなかった。ほんとうに、がまんづよでした。」
 ぼくは、そうきくと、物心ものごころのつかない幼時ようじのことだけれど、なんとなく、いじらしいあにのすがたがかんで、かなしくなるのです。
 あに召集しょうしゅうされてから、のちのことでした。
 えんがわに、あにのはいていたくつがかわかしてありました。まだとしのこされたどろがついています。朝晩あさばんあには、このくつをはいて、通勤つうきんもすれば、また会社かいしゃ用事ようじで、方々ほうぼうをあるきまわったのでした。ときどきは、映画館えいがかんまえにもてば、喫茶店きっさてんへもちよったでありましょう。なにしろ、かけがえのくつをたなかったから、かかとはへるにまかせて、いたんでいました。もっとも、一街頭がいとう朝鮮人ちょうせんじんのくつなおしに裏皮うらがわをとりかえさせて、月給げっきゅうのほとんど全部ぜんぶはらわせられたことがあります。かんがえれば、このくつには、あにのふんできた生活せいかつあせがにじんでいるのでした。かたちがいびつとなって、ところどころあながあいているのも、こころなしにながめることは、できません。
 あにのところへ、ともだちが、たずねてくると、しぜんと生活せいかつ感想かんそうや、世間せけん様相ようそうはなしにのぼりました。あにのこれらの意見いけんも、このくつをはいて、あるくうちにられた体験たいけんでありましょう。
 あには、こういうのでした。
 正直しょうじきで、しんせつで、謙遜けんそんひとというものは、たとえ、はじめてあったひとでも、もうこれまでにいくたびもあったことがあるような、なつかしさをおぼえるものだ。
「あなたとはいつかどこかでおにかかったことがありますね。」と、ききたくなることがある。そんなときは、しいて自制じせいしながら、
「なんで、そんなことがあるものか。きちがいでないかぎり、だしぬけにかれるものではない。」と、自分じぶんをしかるのだ。
 また、こんなおかしなことを空想くうそうすることもある。
「もしかすると、前世ぜんせにおいて、あったひとかもしれないぞ。」と。
「いや、まったく、ばかげきったはなしですが、なか善良ぜんりょう人間にんげんほど、相手あいて感激かんげきさせるものは、ありません。」と、あには、いうのでした。すると、あにともだちは、
「そうですか。そういういいひとと、どこで、おあいなされましたか。」と、かならずうのであります。
 あには、ともだちに、
「わたしは、社用しゃようで、方々ほうぼう会社かいしゃや、工場こうじょう訪問ほうもんします。そして、いくにんとなく情味じょうみのゆたかなひとたちとあいました。ところがふしぎに、それが門番もんばんとか、受付うけつけとか、地位ちいひく人々ひとびとにかぎっていました。さもなければ、大衆食堂たいしゅうしょくどうまえへならぶような人々ひとびとであります。それらのひとたちとは、かおたさいしょから、なんでもこころのうちを、うちあける気持きもちになれば、また一ぽんのたばこをけあったこともめずらしくありません。なにがそうさせるのか、とにかく、この苦痛くつうおおなかで、こうした人々ひとびと存在そんざいは、どんなになぐさめとなることでしょう。わたしは、会社かいしゃうちにいるときより、そとあるくときのほうが愉快ゆかいなのも、そのためです。」と、かたるのでした。
「じゃ、社内しゃない空気くうきが、おもしろくないのですか。」と、ともだちは、きくのであります。
かんがえてごらんなさい。命令めいれい服従ふくじゅうしかないところに、いったい、なごやかさなどというものがありましょうか。」と、あには、こたえました。
 あには、おだやかな性質せいしつであったけれど、だれにたいしても、正直しょうじきおもったことをはなしました。ことに友人ゆうじんたいしては、すこしもかくしだてすることはなかったのです。あには、会社かいしゃで、うえのものが権力けんりょくによって、したのものをおさえつけようとするのをて、なにより不愉快ふゆかいおもったらしいのでした。
課長かちょうは、いつも、こわばったかおをしているが、いえへかえって、細君さいくんや、どもたちにも、あんなつきで、ものをいうのだろうか。」と、さもまじめに、かんがえていたこともあります。
 また同僚どうりょうが、むやみと上役うわやくたいして、機嫌きげんをうかがうのを軽蔑けいべつしながら、
公用こうよう私用しようを一つにするばかもないものだ。自分じぶんからこのんで、奴隷どれいになろうとしている。」と、歎息たんそくしていたこともありました。
 よく重役じゅうやくが、しや、家事かじ雑役ざつえきなどに、社員しゃいん使用しようすることがありますが、あには、けっしていかなかったばかりでなく、そんなひまがあるときは、映画えいがたり、レコードをきいたりしたものでした。
 あるとき、ぼくが、
「にいさんは、いつも音楽おんがくをきいたあとで、どんな空想くうそうをなさいますか。」と、きいたことがある。ふだんから、平和へいわあいするあにであるのをっていたけれど、こうした場合ばあいに、希望きぼうや、空想くうそうが、どんなかたちであらわされるだろうかとおもったからです。
 あには、とおくをるようなつきをして、
「そうだな、いい音楽おんがくをきいたときだね。」といって、かんがえました。
うつくしい、のようなけしきが、かんでくるよ。」
「どんなけしき? 現実げんじつでなく、架空かくうな、未来みらい世界せかいとでもいうのですか。」
「いや、そんな空虚くうきょゆめではない。たとえば、あか夕空ゆうぞらしたに、工場こうじょう煙突えんとつがたくさんたっている、近代的きんだいてきまち風景ふうけいとか、だいだいいろ太陽たいようえるおかに、光線こうせんなみうつ果樹園かじゅえんとか、さもなければ、はてしない紺碧こんぺきうみをいく、日章旗にっしょうきのひるがえる商船しょうせんとか、そんなような、きよらかで、ほがらかなうちにもさびしい、けしきがかぶのだよ。」とあには、いったのでした。ぼくは、
「にいさん、そうしたうつくしさなら、いくらもあるけしきじゃありませんか。」と、いったのです。
 あには、じっとぼくをて、
「ただわたしがそういっただけでは、わからないだろう。なるほど外観がいかんからいえば、このしゅまちや、工場こうじょうや、農園のうえんは、としてても、手近てぢかなものであるにちがいない。問題もんだいは、そのまちや、むらはたらいているひとたちのことだ。わたしが、これまであった、あのような、謙虚けんきょで、正直しょうじきで、しんせつな人々ひとびとはたらいているということでなければならぬ。かりにそうしたどうしのあつまりだと想像そうぞうしてごらん。日々ひびそこでいとなまれる生活せいかつこそ、どんなにか、たのしかろうじゃないか。そこには、暴力ぼうりょくや、権力けんりょくをもつ人間にんげんもなく、すべてが理解りかい同情どうじょうとで、協力きょうりょくしあうのだからね。」といいました。
 そうきくと、たとえ、経験けいけんのとぼしいぼくでも、そして、またふかいことはわからぬけれど、そうした社会しゃかい平和へいわで、しんみよいところであるということだけは、さとれるのでした。

 あにがいなくなってから、いえなかは、きゅうにさびしくなりました。そして、はやいくにちか、たったころ、はははひとりごとのように、
「ゆうべ、あの特攻隊とっこうたいへはいったゆめをみたが。」といって、ふさいでおられました。
 だから、ぼくは、
「にいさんにかぎって、特攻隊とっこうたいなどへ、はいりませんよ。」と、うちして、無理むりにもはは元気げんきづけようとしました。しかし、ははは、いつまでもにかかるとみえて、それからのちも、いえなかは、なんとなく、うすぐらいようながつづきました。
 ところが、まったく突然とつぜんでした。それが、おどろきでもあり、よろこびでもあったのは、あにかえってきたことです。
 ある、だれか玄関げんかんへきたようなけはいがしたので、あねてみると、っていたのが兵隊へいたいすがたのあにだったので、あねは、びっくりして、
「まあ、よしちゃんなの? おかあさん、よしちゃんがかえってきましたよ……。」と、さけんだ。そのこえをきいて、ははも、ぼくも、ころげるようにとびだしました。あには、いているのです。
「さあ、はやくおがり、どうしたの。」といって、ははきました。
「にいさん、なにかわったことがあったの?」
 ぼくは、いままであにいたのをたことがなかったのと、もし出征しゅっせいすれば、おそらくふたたびられないだろうとおもっていたので、ついこうききました。あねも、
よしちゃん、どうかしたの?」といって、あにかおをのぞくようにしました。
 あには、あとから、あとから、にあふれなみだを、こうでふきながら、あたま左右さゆうにふって、
「みんなのかおられて、うれしいのだ。」と、わずかにこたえたのです。
「こっちへ、あがってから、ゆっくりおはなしなさい。」と、ははは、かんばかりにして、あにがくつのひもをとくのも、もどかしげに見守みまもっていました。
「にいさん、もういかなくてもいいの。」
「いまなんだね。晩方ばんがたまでに、こちらをて、たいへかえらなければならない。」
 あには、あいさつがわると、これまで、自分じぶん勉強べんきょうをしたり、レコードをかけたりした、へやへいきました。いえのものは、そののちも、あにがいるときとおなじように、そうじはするけれど、だれも、をつけようとしなかったので、本箱ほんばこのなかも、たなのかざりも、あにていったときのままとなっていて、すこしもわっていなかったのです。
 あには、さもなつかしそうに、あたりを、まわしていました。それから、いつもそうしたように、きなレコードをかけました。
 外国物がいこくものでは、アベ=マリアとか、粗朴そぼくながら、のつながりに、哀愁あいしゅうをもよおす日本にほん俚謡りようなどをあには、このみました。
よしちゃんが、ずっとこうして、いえにいてくれたらいいのにね。」と、あねはそばにち、はなをつまらせていました。
「じきにかえってきますよ。そうしたら、もうどこへもいきません。」と、あには、こたえました。
「おかあさんが、心配しんぱいしていらっしゃるから、きっと無事ぶじかえってね。」
 晩方ばんがたちかく、小雨こさめるなかを、あには、たいへとかえりました。みんなが、門口かどぐちまで見送みおくりにると、ふりかえって挙手きょしゅれいのこしてりました。
「あんまりおもいがけなかったので幽霊ゆうれいかとおもったわ。」と、あねはへやへもどると、はははなしていました。
公用こうようのついでとかいいますが、よくってくれましたね。」と、ははは、をしばたいていました。
 しかし、それきり、あにいえかえらなかったのです。やはり特攻隊とっこうたいはいっていたのでした。あとで、このこともったのですが、あにはあのとき、いとまごいのつもりできて、わたしたちにづかれぬように、アルバムから、ちちはは写真しゃしんをはいでっていきました。
 戦争中せんそうちゅう特攻隊とっこうたいが、よく出発前しゅっぱつまえわかれのことばを放送ほうそうして故国ここくにのこしたことがありますが、地域ちいき関係かんけいからか、あにはこれにくわわらなかったのです。しかしながら、ぼくは、現在げんざいでも、みちをあるいているときとか、またぼんやり空想くうそうにふけっているときとか、そんなようなときに、どこからともなく、あにこえをきくことがあります。
 ことにさんらんとして夕焼ゆうやけのする晩方ばんがたなどに、あざやかといってもいいくらい、はっきりと、なつかしいあにこえをきくことがあります。
「おまえは、しん自由じゆうと、正義せいぎと、平和へいわのために、生命せいめいのかぎりをつくせ!」と。
 それは、みじか生涯しょうがいであったけれど、平和へいわをこのうえなくあいしたあにとして、こういって、ぼくをはげましてくれるのは、まことに、当然とうぜんのこととおもわれるのであります。





底本:「定本小川未明童話全集 13」講談社
   1977(昭和52)年11月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「赤い雲のかなた」小峰書店
   1949(昭和24)年1月
初出:「子供の広場」
   1946(昭和21)年4月
※表題は底本では、「あにこえ」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2018年5月27日作成
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