うずめられた鏡

小川未明




 のちになってから、烏帽子岳えぼしだけというがついたけれど、むかしは、ただ三角形かくがたやまとしか、られていませんでした。やまがはじめて、地上ちじょうまれたとき、あたりは、荒涼こうりょうとして、なにも、にとまるものがなかったのです。
 そのとき、はるかきたほうに、紫色むらさきいろひかうみえました。
「あれは、なんだろう。」と、やまおもいました。この大自然だいしぜんについて、なにもらなかったやまは、て、やがてれるまでのあいだに、いくたびとなく、かわるうみいろて、ふしぎにかんじたのです。しかし、からだのうごかされぬやまは、ただ、いろいろと、自然しぜん空想くうそうするばかりでした。
「どうすれば、あすこに、いくことができるだろうか。」
 そのときやまは、おおきなかぜがふいて、自分じぶんをうごかしてくれはせぬかとおもいました。しかし、かつてそんなような、おおきなかぜのふいたことがありません。こうして、ひとりぼっちでいるやまは、そのころ、うみだけが、なんだか自分じぶん運命うんめいを一つにするようながして、どうか、おたがいに、いに、なりたいとねがいました。
 大空おおぞらをあおげば、ほし毎夜まいよのごとくわらったり、はなしをしたりしますけれど、やまはもっと身近みぢかに、ともだちをちたかったのでした。
 あるうみいろが、とりわけ、きれいにさえてえたのです。やまは、なにかうみが、自分じぶんにあいずをするのだとおもいました。だから、自分じぶんもわらってこたえました。そして、そのから、二人ふたりはいくらか、いになったというかんじがしました。
 なにごとによらず、こうありたいと、熱心ねっしん仕事しごとをすれば、いつか、かならず成功せいこうするものです。人間にんげんとおくから、たがいにはなしができるようになったのも、電気でんき発明はつめいしたからで、やはり自然しぜんおおきなちからを、ったからであります。
 たにからわきがるくもが、自由じゆうにうごけるところから、やまくも使つかいにたてることを、かんがえつきました。そして、あるときは、やまからうみへ、また、あるときは、うみからやまへと、くも往来おうらいしたのでした。
 うみうえでは、なみがあって、なみはなぎさへおしよせて、いわにくだけ、しぶきはたまのごとくとびちり、とお水平線すいへいせんは、縹渺ひょうびょうとして、けむるようにかすみ、しろとりが、砂浜すなはまれをなしてあそんでいるのを、くもやまへかえると、おもしろくはなしました。
 またやまでは、おいしげる木々きぎに、あらしがおそうと、はげしくえだえだをもみあい、そして、頂上ちょうじょうから落下らっかするたきが、さながらかみなりのとどろくように、あたりへこだまするものすごい光景こうけいを、くもうみへいってかせることもありました。
 こうして、しろくもは、南方なんぽうたかやまから、うごきはじめて、きたうみのほうへながれていたのであるが、途中とちゅう、ゆらゆらと平野へいやをいったとき、そこここに、百しょうのすむわらぶきやがあったり、はたけをたがやす男女だんじょや、うまや、うしや、いぬなどの姿すがたが、ちらちらとえました。
 こんもり木立こだちのしげるところに、丹塗にぬりのやしろがあって、そのまえに、ひとがひざまずいて、よく祈願きがんをこめていました。ちょうどこのとき、おとこは、かみさまにおれいをいっているのでした。
かみさま、よくわたし人間にんげんとして、まれさせてくださいました。もし、そうでなかったら、わたし毎日まいにち、くるしいめにあって、なぐられたり、いまわされたりしなければならなかったでしょう。それをおかげで、うしや、うまをつかって、らく仕事しごとをして、らすことができます。これというのも、人間にんげんまれさせてくださったかみさまの、おかげであります。」と、もうしていました。
 このおとこると、つぎにやしろまえへきてすわったのは、まだわかおんなでありました。彼女かのじょは、熱心ねっしんをあわせあたまをひくくたれて、ねがっていました。
「いまわたしは、七にんおとこから、結婚けっこんをもうしこまれていますが、わたしこころなかあいするおとこは、そのなか一人ひとりです。しかしわたしは、そのことを正直しょうじきに、うちあけることができません。なぜなら、ほかの六にんおとこたちは、みんな、そのおとこより身分みぶんたかく、物持ものもちであり、勢力せいりょくもありますから、それをったら、きっと、そねんで、どんなしかえしを、するかもしれません。わたしはいっそ、二人ふたりで、やまのあちらへにげていこうとおもいましたが、くまや、おおかみのいるもりや、たに奥深おくふかくはいらなければなりませんので、ころされることなしに、ぶじいけるとおもいません。かみさま、どうしたら、わたしども二人ふたりは、安全あんぜんにゆくすえながいとげられますか、あなたのおちからで、おすくいくださいまし。」と、しばらく、あたまにすりつけていたのでした。
 やがて、あきれがすむと、むらいわまつりが、やしろ境内けいだいで、もよおされました。彼女かのじょはこの、七にんおとこたちからけた七めんかがみを、ひもでとおして、くびにかけておどるのでした。かみのおげをまって、どの一人ひとりにか、きめなければなりません。
 くわしいわけをった身寄みよりのものたちは、なにか、かわったことがこらなければいいがと、しんぱいしました。ちょうど、やしろうえそらには、をあびて、くもいろがまっかにえました。
「どうぞかみさま、ようのないかがみは、みんな、くだいてください。そして、ただ一めんだけを、わたし永久えいきゅうにさずけたまえ。」と、となえながら、飛鳥ひちょうのごとくひるがえして、うえしたへと、おどったのでした。
 やしろのまわりにともる、ろうそくのが、かがみおもてに、ちらちらとうつりかがやきました。
 七にんおとこたちが、むねをいためてまったかいもなく、彼女かのじょは、ふとんで、まだあきがちるまえに、あわただしく、このからったのであります。
 やしろ裏手うらてほうへ、用水池ようすいいけがつくられたのは、こののち、二百ねんくらいも、たってからのことでした。そのうち、やまうえにわく白雲しらくもが、うみのほうへながれていったとき、その姿すがたを、いくたび、この水面すいめんにうつしたかしれません。
 わかおんなのうずめられたところは、いつしか、古墳こふんといわれるようになりました。そして、それからまた、いくねん月日つきひがたったのであります。やまや、かわや、野原のはらには、かくべつのかわりもなかったけれど、まちむらは、その時代じだいによって、ようすがちがい、ひとうまうしも、また幾代いくだいかのあいだに、たびたびにしました。
 丹塗にぬりのやしろも、なが月日つきひ雨風あめかぜにさらされて、くちたり、こわれたりして、そのたびに、村人むらびとによっててかえられたけれど、まだわずかに、むかし面影おもかげだけは、のこっていました。しかし、古墳こふんのくわしい記録きろくなどは、もはや、どこにものこっていませんでした。ただとお祖先そせんのものにちがいないが、いまの村人むらびとには、そのつくられた時代じだいすら、よくわからなかったのです。
 学者がくしゃが、いけのほとりにって、こころありげに、よくあたりの景色けしきをながめていると、学者がくしゃ案内あんないした役場やくばわか書記しょきが、かたわらで、伝説でんせつめいたことをかせました。
年寄としよりのいうことですが、なんでもしずかな真昼まひるごろ、足音あしおとをたてずに、いけちかよると、金銀きんぎんの二ひきのへびが、たわむれながら、水面すいめんおよいで、おやしろのほうへ、がっていくのをることがあるといいます。もし、それをたものは、ちかいうちに、きっとしあわせなことがあると、むかしからいうそうです。」と、かたったのであります。
 だまって、これをいた学者がくしゃは、ほかにも、こんな伝説でんせつがあるのか、うなずいていましたが、
「この古墳こふんってみたいのですが、どうか学問研究がくもんけんきゅうのため、ぜひゆるしてもらえますか。」と、そのとりはからいかたを、書記しょきにたのんだのでした。
「さあ、村長そんちょうさんや、神主かんぬしさんたちが、なんといわれますか、いてみなければわかりませんが、いつかも、そういうはなしがあったとき、たたりをおそれるからといって、だれも、をつけなかったのです。」と、書記しょきはいいました。
わたしは、たぶん、なにかあたらしい発見はっけんができるようながするのです。」と、考古学者こうこがくしゃは、自分じぶんかんがえをもらしました。
 学者がくしゃ学問がくもんのためにというので、書記しょきこころをうごかせられたらしく、熱心ねっしんきまわってくれるのです。そのかいあって、ついにむら発掘はっくつをゆるしました。
 はるびよりの、あたたかなでした。はたけなか古墳こふんのかたわらには、一ぽんのかきのがありましたが、小枝こえだにのびた、つやつやしい若葉わかばは、かぜにふかれてひかっていました。そして、しろほしのようなはなが、きかけていました。
 ここへあつまってきたむら若者わかものたちが、つちをほるため、くわをふるっていました。べつに、ひびきをたてるほどでなかったけれど、かきのはなは、もろくえだをはなれて、ぽとりぽとりと、つめたいちるのでした。
はなでも、でも、あきすえまで、まんぞくにのこっているのは、すくないものだな。」と、これをかんじたものか、書記しょき見上みあげながら、いっしょにはたらく学校がっこう教員きょういんふうのおとこと、はなしをしていました。
 土中どちゅうふかく、いしをまわりにんであるかんが、りだされたのは、ようやくはるの、かたむくころでありました。
 かんなかには、そこにのこっている白骨はっこつと、不完全ふかんぜん土器どきと、七つのかがみなどがあって、人々ひとびとをひいたのでした。その死者ししゃは、学者がくしゃが、骨格こっかくから判断はんだんして、まだわかおんなであったとわかりました。
 かがみは七めんのうち、六つまで、さびきって、ぼろぼろにくさっていたけれど、どうしたわけか、ただ一めんだけ、くもっているけれど、なお、いくぶんひかりをたたえて、あかるみへすと、もののかげさえ、おぼろげにうつるのでした。
「どうして、この一めんだけが、くさらなかったろう?」
 そのことが、みんなの、疑問ぎもんとなりました。
「おなじ、金属きんぞくつくられたであろうに、どうして、この一つだけが、くさらなかったのでしょう。」と、役場やくば書記しょきは、学者がくしゃにむかってたずねました。このなぞは、たとえ、学者がくしゃでも、すぐには、くことができなかったのです。
 そして、いくにちかののちでした。博士はかせ研究室けんきゅうしつまどから、しばらくのあいだなつらしくなった、そとのけしきにとれていました。
 ひでりつづきのため、しろっぽく、かわいたアスファルトのみちは、すこしのかぜにも、ほこりをたてていました。そして、せわしげにあるいている人々ひとびと姿すがたや、みちばたにならんでいるプラタナスのかげが、ちらちらとみちうえにうごくのが、なんとなく、わびしげにさええるのでした。
 研究室けんきゅうしつにつとめている助手じょしゅ小田おださんは、また青年詩人せいねんしじんでもありました。詩人しじんなればこそ、幾世紀前いくせいきまえ人間生活にんげんせいかつ興味きょうみをもち、こころうつくしく想像そうぞうし、また、あこがれもしたのでありましょう。
 博士はかせは、へやへはいってきた小田おださんに、こんどの旅行りょこう北国ほっこくや、いろいろ経験けいけんしたことを、くわしくはなしました。
 たとえば、丹塗にぬりのやしろがあり、用水池ようすいいけがあり、古墳こふんはそのかたわらにあったことや、伝説でんせつはなしや、かんったときのありさまなど、当時とうじのことを、おもしながらかたったのであります。
 助手じょしゅ小田おださんは、をかがやかして、博士はかせのいうことをいていました。
「ただ、ふしぎなことが一つあった。それは、かんなかにあった七めんかがみが、一まいだけくさらずに、いまもひかっているが、あとは六つとも、さびて、ぼろぼろになっていたことだ。おなじかねつくったのであろうが、それは、どうしたことだろうか。」
 博士はかせくびをかしげながら、かばんのなかの、古鏡こきょうをとりして、小田おださんにしめしました。
わたしはこのなぞを、どうしても学問がくもんのためにも、かなければならない。」と、博士はかせはつづけていいました。
「むかしは、かがみおんなのたましいともいいましたから、これには、たましいが、はいっているのかもしれませんね。」と、さすがに小田おださんは、詩人しじんらしい感想かんそうをもらして、うけとったかがみを、ていねいになでながら、しばらく、じっとまもっていました。
「この金属きんぞくを、分析ぶんせきしてみなければ、わからぬことだ。おなじ金属きんぞくでつくったものなら、この一つだけが、くさらぬというわけがあるまい。」と、博士はかせは、科学者かがくしゃなら、空想くうそう事実じじつとして、しんずるわけにいかないと、ひややかな調子ちょうしで、助手じょしゅこたえたのであります。
 このとき、博士はかせは、古墳こふん発掘はっくつをてつだってくれた役場やくばわか書記しょきにしろ、学校がっこう先生せんせいにしろ、はなしいていると、みんなわかひとたちは詩人しじんであって、物質ぶっしつだけをたよりとしていない、そのことは、いままでの学者がくしゃたちとちがって、たましいのありかをるといういきかたで、考古学こうこがく将来しょうらいに、あかるいみちひらけるようながしたと、助手じょしゅ小田おださんにむかっていったのでした。
 その翌日よくじつのことです。博士はかせ研究室けんきゅうしつかけて、旅行先りょこうさきあつめてきたいろいろの材料ざいりょうを、よくしらべて、配列はいれつするのをたのしみとしました。
先生せんせい、おはようございます。やはり、あのかがみは、ふしぎであります。先生せんせいのおいでなされるのをっていました。」と、昨夜ゆうべは、研究室けんきゅうしつ宿直しゅくちょくした小田おださんは、博士はかせかおるや、とびつかんばかりにうったえたのでした。
「ふしぎなことって、どんなことだね。」と、博士はかせも、なんとなく、むなさわぎをかんじました。
「まあ、こちらへいらして、ごらんください。」と、助手じょしゅ小田おださんは、さきって、博士はかせを、しんとした、うすぐらい研究室けんきゅうしつ案内あんないしました。
 そこには、おおきなろうそくが、ともされていました。かげろうのうごくように、ろうそくのは、したにおかれたかがみのおもてをらしていました。
 博士はかせこころをおちつけて、かがみをのぞくと、そこにあやしげななりをした、男女だんじょがならんで、おぼろげにていました。
 としとった、この考古学者こうこがくしゃは、しばらくを、かがみからそらさずに、沈黙ちんもくしていましたが、そのうち、うめくように、
「ああ、やはりおんなは、七にんのうち、このかがみをくれたおとこだけを、ふかあいしていたとみえる。」と、はじめて、そのなぞが、けたといわんばかりに、ひくいこえでさけびました。
先生せんせい、するとこのおんなは、貞操ていそうをまもりたいばかりに、だまってをえらんだのですね。」と、小田おださんがきました。
「たしかにそうだよ。んでから、地下ちか二人ふたりは、永久えいきゅう幸福こうふくをもとめて、約束やくそくをはたしたんだね。」と、博士はかせこたえました。
西洋流せいようりゅうですと、婚約こんやく指輪ゆびわをおくる風習ふうしゅうがありますが、東洋とうよう日本にっぽんでも、むかしから、おんなこころをうつすといって、かがみをたいせつにしましたが、婚約こんやくにももちいられはしなかったでしょうか?」と、小田おださんは、うたがいをもつらしく、ただしました。
おんなかがみいのちのごとく、たっとんだのは、わかっているが、しゅとして結婚けっこんしてからのことで、婚約こんやくかがみをおくったかどうか、よくわからない。約束やくそくをおもんじたむかしのことだから、たとえかがみをつかったとしても、ふしぎのないことだが、ふる文献ぶんけんをしらべたら、もっと、おもしろい発見はっけんが、あるかもしれない。」と、博士はかせは、こたえながら、あたまをかしげていました。
「できることなら、このかがみを、もとの墓所ぼしょにうずめてやりたい。」と、いったわか助手じょしゅのねがいを、考古学者こうこがくしゃである博士はかせは、ついにゆるしたのでした。
 助手じょしゅ小田おださんが、かがみあたらしい木箱きばこにおさめて、北国ほっこく旅立たびだったのは、なつもなかばすぎたのことで、烏帽子岳えぼしだけのいただきから、奇怪きかい姿すがたをした入道雲にゅうどうぐもが、平野へいやおろしながら、うみほうへと、むかっていくところでありました。





底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社
   1977(昭和52)年12月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「うずめられた鏡」金の星社
   1954(昭和29)年6月
初出:「女学生の友」
   1953(昭和28)年8月
※表題は底本では、「うずめられたかがみ」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2018年9月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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