海へ帰るおじさん
小川未明
赤いボールを沖に向かって投げると、そのまりは、白い波の間にもまれて、浮きつ沈みつしていましたが、そのうちに、ざあっと押し寄せる波に送られて、また武ちゃんや、ゆう子さんのいる渚にもどってきました。
「おじさんの舟が、見えないかしらん。」
「また、たくさんお魚を捕ってくるでしょう。」
そのうちに西の空が、紅くなりました。ひょっこりと前方へ、黒い小舟が波のうちから浮かび上がりました。あちらにも一つ、ずっと遠くの方にも、豆粒のようなのが見えています。
「もう、舟がみんな帰ってくるんだね。」
小さな兄と妹は、立ってながめていました。いずれも沖の方へ釣りに出た舟でありました。
「たこを釣ってきたぞ。」と、おじさんは、舟の上から、いいました。
武ちゃんと、ゆう子さんは、おじさんたちが、舟を砂の上へ引き上げる、おてつだいをしました。舟の中には、銀色の魚がぴちぴち跳ねています。海水浴にきている人々が、舟のまわりにあつまって、わあわあいってにぎやかでした。武ちゃんが、
「おじさん、たこをお家へ持って帰ってもだいじょうぶ?」と、聞きました。するとおじさんは、
「途中で死んでしまいますよ。お土産には、かにがいいでしょう。」と、答えました。
武ちゃんと、ゆう子さんは、ここへきてから、おじさんと仲よしになりました。
「おじさん、僕たちの町へおいでよ。晩は夜店が出てにぎやかだから。」と、武ちゃんが、いいました。
「妹が、あちらへお嫁にいっていまして、兄さん、ぜひ一度おいでなさいといいますから、坊ちゃんたちの好きなかにと、お嬢さんたちの好きな海ほおずきと、お父さんたちの好きな松でも持って、商いかたがたまいりますかな。」と、おじさんが、答えました。
「きっと、売れてよ。」と、ゆう子さんが、いいました。
「そうしたら、僕、お友だちにいって、みんなかにを買ってあげるから。」と、武ちゃんが、いいました。
「ええ、じき、あとからまいります。」と、おじさんは、笑って、いいました。
武ちゃんに、ゆう子さんが、海水浴から帰ると、まもなく九月になって、学校がはじまりました。けれど、まだなかなか暑い日がつづいたのです。晩には、お母さんや、お父さんにつれられて、二人は、町へ散歩に出て、露店を見て歩いたのでありました。
「おじさんは、どうしたろうな。」と、武ちゃんが、いうと、
「きっと、用事があってこられなくなったんでしょう。また来年会われますよ。」と、お母さんは、おっしゃいました。
おじさんは、お約束をしたように、東京へやってきたのです。そして、毎晩のように、露店へかにと、海ほおずきと、松を出していました。しかし、そこは、武ちゃんや、ゆう子さんの住む町からはなれていたのです。武ちゃんのような男の子がかにを買うと、おじさんは、武ちゃんではないかと、その子の顔をのぞきました。また、ゆう子さんのような女の子が海ほおずきを買うと、ゆう子さんではないかと、おじさんは、後ろ姿を見送りました。けれど、ついに二人には出あわなかったのです。そのうちに、松の木は都会の煙や、ほこりがかかって、だんだん元気がなくなりました。夜風が吹くと、松の木はあの海岸の岩山をなつかしく思いました。
「おいおい、さばが釣れるころだ。おれも、浜へ帰ろうか。」と、おじさんは、ある日、残ったかにや、海ほおずきや、松の木を車に乗せて、避暑客も少なくなって、静かになった、自分の村を指して帰っていきました。空の星の光が、だんだん冴えて、町の中でも、秋の近づいたのが、わかるようになりました。
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