雲のわくころ
小川未明
冬のさむい間は、霜よけをしてやったり、また、日のよくあたるところへ、鉢を出してやったりして、早く芽が頭をだすのを、まちどおしく思ったのであります。
勇吉は、草花を愛していました。
しかし、いくら気をもんでも、その気候とならなければ、なかなか、芽を出し、咲くものでないことも、知っていました。だから、
「早く、春にならないかなあ。」と、灰色に、ものかなしく、くもった冬の空をながめて、いくたび思ったことでしょう。
そのうち、だんだん木々の小枝にも、生気のみなぎるのが感じられ、氷のように、つめたくはりつめた黒い雲が、あわただしく、うごきはじめて、冬の去っていくのがわかりました。そのときは、また、どんなにうれしかったでしょう。
いつのまにか、素焼きの鉢の中にも、庭の花園にも、やわらかな土をやぶって、こはく色の球根の芽が顔を見せ、太陽をしたって、のびようとするのでした。
ある早春の日のこと、日あたりのいい、寺の門前で、店をひらいて、草花の根や、苗を売っている男がありました。これを見た勇吉は、やまゆりの根を二つ買ってかえりました。そして、一つ大きいほうを花壇に、もう一つを、小高くなっている、つつじのはえたところへ、うえたのであります。
ちょうど、春の季節の花が、少なくなったじぶん、やまゆりの芽は、ぐんぐんと、大きくなったのでした。
ところが、ある日、勇吉は、庭へ出て草をむしったり、肥料をほどこしたりするうち、あやまって、花壇のやまゆりを、ふみつけてしまいました。
「あっ。」と、思わずさけんだが、むざんに、根もとから折れてしまったので、どうすることもできませんでした。
「かわいそうなことをした。」と、ざんねんがるよりか、むしろ、花のはかない運命を、あわれまずに、いられなかったのでした。
かれは、自分の不注意だったつぐないとして、あとの一つを大事にしました。やがて、それは、初夏の空の下で、白い清らかな感じのする香気の高い花を開きました。日の光がてらすと、さながら銀でつくられた花のごとく、かがやかしく見えたのです。
たちまち、この花のみつを吸おうとして、ちょうや、はちが、どこからか飛んできて、花のまわりに集まりました。
「よく、みごとに咲いたなあ。」と、ふらりと、となりのおじさんが、庭へやってきて、やまゆりの花を見てほめました。
「いまごろ、山にのぼると、谷へかけて、こんなのが、たくさん、みごとに咲いている。勇ちゃんは、こんどの休みに、私といっしょにいってみないか。」と、おじさんが、さそったのでした。
「山へいくんですか。」と、かれは、胸をおどらせながら、おじさんの顔を見ましたが、すぐには、決しかねて、返事ができなかったのでした。そのわけは、自分が、まだ遠いところへ、いった経験がなかったからです。
「なに、たいして、歩かなくても、すぐ山や谷のあるそばまで、いけるのだよ。バスと電車に乗りさえすれば、朝早く出かければ、らくに晩がたまでに、帰ってこられるのだ。」と、おじさんは、わらいながらいいました。そして、
「毎年、いまごろになると、ちょっとでも、山へいくか、また、釣りざおをさげて、どこか遠くの川に出かけなければ、気がすまないのだよ。」と、おじさんは、いうのでした。
「おじさん、ぼくも、大きくなったら、どこか、知らない高い山や、深い谷のあるところへ、いってみたいと思います。」と、勇吉は、冒険にたいする勇猛心と、かぎりない自然の美にたいして、あこがれながらいいました。
「それが、昔なら、歩かなければ、どこへも、いけなかったのが、いまは便利になって、たいていのところへは、乗り物で、そばまでいけるし、飛行機に乗れば、外国でも、土をふまずに、海や山をこして、飛んでいくことができるのだから。」と、だれでも、その気さえあれば、なんでも実現されるのが、ゆかいでたまらぬというふうにおじさんは、ほがらかにいって、笑うのでした。
かれは、庭の花のお友だちである、美しいやまゆりの咲くところも見たかったし、また、おじさんが、谷川であゆを釣るのも見たかったので、つれていってもらうように約束しました。
そのときから、数日の後のことでした。
「勇ちゃん、いつも、家の前に立つと、西の方に、遠く、青い山が見えるだろう。この山なんだよ。」と、バスの窓から、だんだん近くにせまりつつあった、青々と林のしげる山をさして、おじさんはいいました。
勇吉は、なるほど、電車に乗り、またバスに乗ったりして、いつしか、遠くまできたものだと思いました。はるか下の方をのぞくと、大きな岩石にくだけながら、谷川が白くあわだって流れていました。
とうてい、町といわれそうもない、四、五軒ばかり店のならんだ、バスの停留場のあるところまできて降りると、その一軒には、パチンコの看板が、かかっていました。
「こんなところにも、パチンコ屋があるんですね。」と、かれは、おどろきました。だれが、こんなところへ遊びにくるのだろうと、想像がつかなかったからです。
「パチンコとか、富くじとか、みんな、ばくちみたいなものだからな。悪いことというものは、だれでも、おもしろがって、まねするもんだ。都会で、これがはやってもうかると聞くと、すぐ、いなかでもやりだす。ここへくるまでに、たくさん、いなかの子供を見たろう。ちょっと、ようすが、いなかの子とは思えまい。いいこと、わるいこと、なんでも都会のふうをまねる、おそろしいことだよ。」と、おじさんはいいました。
そういえば、昔の絵にかかれた、さびしそうな景色や、笠や手ぬぐいをかぶって働く百姓の姿や、みじかいつつそでの着物をきて、ぞうりや、げたをはいた子供などは、どこにも見られなかったのでした。
「さあ、このへんから、川原へはいるのだが、石ころがあってあぶないから、よく気をつけておいで。」と、おじさんは、先になって、ささやぶの間をわけてすすみました。
勇吉は、そのあとからついていきました。しばらくすると、きゅうに流れが音をたてている谷川のほとりに出ました。バスの窓から下に見えたのは、この川だったのです。
「あのあたりが、いいだろう。」と、おじさんが指さした、半分浅瀬にのめり出ている大きな石の上で、二人は、休むことにしました。
「いい景色ですね。」と、勇吉は、あたりを見まわしながら感歎しました。
「ほら、ごらん。あのがけのところに、やまゆりが咲いているから。」と、おじさんが、いったので、そのほうを仰ぐと、頂上から、ほそい一すじの滝がおちて、そのしぶきを、あびながら、白い花が咲いていました。
かれは、自分の家の庭に咲いている、やまゆりを思い出しました。
目を転じると、あぶなげな岩鼻に根をおろした、松の木がありました。同じ松ながら、あるものは、安全な平地に根をおろしているし、こうして、たえずおびやかされるものもある。どちらが、はたして幸福だろうかと考えたりしました。
たとえば、雪や、あらしと戦い、けっしてまけずに、昼は小鳥の声を聞き、夜は雲間の星と語るこの松を、どうして、不幸といいきれるだろうかとも思いました。
「勇ちゃん、おべんとうを食べようよ。」と、おじさんは、つつみを開きはじめました。ゆで卵や、やいた魚や、酒のびんなどが、出てきました。
おなかが、すいていたので、勇吉は夢中で食べていると、その間に、おじさんは、用意してきた、釣りざおのひもを解き、あゆを釣る準備をしました。
すずしい風が、ひたひたと、たえず流れの上を吹いていたのに、どこからか、においをかぎつけて飛んできたものか、一ぴきのはえが、そばの石にとまって、食べ物のありかをさがしていました。
また、他のほうからは、まったく見なれない黒色のくもが、おそらく、このあたりにすむのであろうが、どうして、水をわたったものか、冒険をおかして、やはり食べ物をねらっているのでした。勇吉は、虫たちの敏感なのにおどろき、かつ、その真剣なのを、きみ悪くさえ感じました。これを気づかずにいた、おじさんに告げると、
「はあ、めったに、こんなところで、ごちそうのにおいなんか、あることがないから、そりゃ、虫どもは、さがすのに、血まなこだろうよ。虫だって、人間と同じことで、生きることにかわりがないし、容易でないのだ。」と、おじさんは、はしをうごかしながらいいました。
そう聞くと、かれは、このとき、くもや、はえを、追いはらいはしたけれど、たたきつけて、殺す気には、なれなかったのです。
それから、しばらく、勇吉は一人で、石から石へわたったり、また水ぎわを、あちらへいったり、こちらを散歩したりしました。そして、また、もとの場所へもどってくると、ちょうどおじさんは、さおをしまいながら、
「このあたりは、便利なもので、よく人が釣りにくるとみえて、魚がすれていて、なかなか、えさにだまされない。もっと奥のほうへいかなければ、かかりそうもないから、今日は、よすことにしよう。」と、勇吉に向かって、いいました。
「おじさん、ねむの花が、きれいに咲いていましたよ。」
「ああ、いまは、ねむが盛りのはずだ。」
「さっき、やまばとが、遠くで鳴いていましたよ。」
「かっこうは、きかなかったなあ。すこし奥へはいると、ほととぎすも鳴いているだろう。」
「おじさん、奥のほうは、ぼくにはいけそうもないところなんですか。」と、勇吉が聞きました。
「しかし、今日は、時間がないから、また、出なおすことにしようよ。」と、おじさんは、答えて、そのかわり、帰りに、見晴らしのいいところで、あちらの山々を見せてやろうといったので、勇吉は喜びました。
かれは、それに喜びを感じながらも、ここへは、いつまたこられるだろうかと思うと、なんとなく、川原にわかれるのが、おしまれたのでした。
やがて、けわしい、細い道を、息をきらして上りました。
「お百姓さんも、こんな坂の上まで、畑を作りにくるのでは、さぞ骨がおれるだろう。」と、おじさんは、足を休めて、左右をながめていました。
「まだ、あんな高いところにも、おじさん、畑がありますよ。」と、勇吉は、そばの山腹にある、耕された高地を指さしました。
もう、その山のいただきは、下から見ると、雲に接していました。この坂の上から、前方をのぞむと、山また山の、えんえんとしてつらなる波が、ながめられました。そして、近くにせまる深い溪谷からは、煙のように、白い霧がたち上っていました。
「あの高い山には、まだ、雪があるな。」と、かれは、氷をけずったような、先のとんがった、かがやく峰に見とれていました。
「あの峰が、不動が岳というので、いままでに、あのいただきへ、上りきったものは、何人もないとの話だ。」と、おじさんは、勇吉とならんで立ちながら、山のほうを見て、説明しました。
「そんなに、けわしくて、だれにも上れないの。」と、勇吉は聞き返しました。
「なんでも、昔、十二、三になったばかりの、孝行のむすこが、医者が見はなした母親の病気を、なおしたい一心で、不動尊に願をかけて、あの頂上まで、お水をもらいに上ったことがあると、聞いたが。」
おじさんのこの話は、勇吉の胸に重くのこって、もうほかのことには気がむかず、ついに、かれをだまらせてしまいました。
朝出かける時分には、人間の発明力や科学の力に、おどろきを感じたのであったが、帰るときには、どれだけ愛し真心をかたむけつくしても、永遠に引きとどめられないものがある人生のはかなさを、知ったのでした。
二人が、自分たちの町についたころ、もう日はくれかけていました。西の方の空は、うす赤く色づいて、その下には、紫色の山々が、高く低く、くっきりと、姿を浮かび出していました。
このごろは、日没前になると、きまって大空に、雲がわくのでした。ときどき、雷が鳴って、雨がふりそうに見えながら、夜は、また、一片の雲すらなく、晴れ晴れと晴れ上がるような、日でりがつづきました。
そんなときは、足ばやに、秋のくるけはいが感じられたのです。勇吉は、毎日、庭のやまゆりの花へきて、その茎にとまる、とんぼのあるのを知っていました。
この未知の友だちどうしは、たがいに気が合って、人間などにかかわりのない、美しいまぼろしの世界のことを、話しているのだとも思われました。
ところが、一日、花は、いとなみおえて、ちってしまいました。とんぼは、いつもの時刻に飛んできたが、花がないのを、どう感じたか、ただのこった茎にとまっていつまでも、じっとしていました。
そのうち、雨がふり出しました。雨は、だんだんはげしくなって、夜までふりつづきました。
あくる朝、勇吉は、起きて小ぶりになった庭を見ると、とんぼは、ぬれながら、じっとして、やはり同じところに止まっていました。
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