托児所のある村

小川未明




 むらしずかでありました。
 広々ひろびろとした、托児所たくじしょにわにだけ、わらいごえがおこったり、子供こどもたちのあそびたわむれるさけびごえがして、なんとなく、にぎやかでありました。
 よくれた、あおあお大空おおぞらには、ぽかりと、一つしろくもが、かんでいました。くもも、したのこのようすをながめて、うらやましがっているようでした。
 わか保母ほぼさんも、元気げんきでした。子供こどもといっしょになって、かけたり、おどったりしていました。くつをはいた子供こども、ぞうりをはいた子供こども、げたをはいた子供こども、いろいろでした。またているものも、さまざまでした。
 けれど、そんなものは、だれのにもはいりません。ただ、みんなは、ひかりうみおよぐように、かみのかぜ波立なみだたせ、たのしくて、しかたがないと、ちいさいむねをふくらませていました。
 さっきから、いくたびか、つばめが、子供こどもたちのあたまうえを、とびまわっていきました。
 それを一人ひとりが、
「つばめも、おにごっこしているんだね。」と、いいました。
「そうよ。いいお天気てんきだから、よろこんで、あそんでいるのよ。」と、一人ひとりが、こたえました。
 これをいた保母ほぼむすめさんは、
「つばめばかりでなくてよ。ごらんなさい。あのえだがダンスをしているでしょう。」と、いいました。
「ああ、おかしい。ダンスだって。」
「ほんとうだわ。よくると、おどっているようよ。」
 こう、みんなが、まわりのや、とりや、くさに、のついたときに、はじめて、自分じぶんたちがうれしいときには、まわりのものが、やはり、みんなうれしく、たのしくあるのが、わかりました。
 さっきから、すずめも、おしゃべりし、わらったり、とびまわったりしていたし、だんの、しろはなは、いつもより、かおりがたかかったし、あかはなは、とけてながれそうに、いろつやをおびて、うつくしかったのです。
 ああなんという、たのしい一時ひとときだったでしょう。そして、めぐみぶかく、こぼれるようにてらす太陽たいようひかりと、さえずるとりこえと、自然しぜんたち、子守歌こもりうたのようにささやくかぜおとより、この平和へいわ世界せかいを、じゃまするものは、なかったのでした。
 みんなは、つかれたので、おもおもいの場所ばしょやすみました。あちらのベンチに、こちらの芝生しばふに、三にん、四にんというふうに。そして、保母ほぼむすめさんは、ひたいにあせをにじませて、子供こどもたちにとりまかれて、やすんでいました。
 ちょうどそのとき、ぐちから、おとこひとが、はいってきました。顔見知かおみしりの役場やくばのものでした。
「いそいで、やってきたから、あせをかいた。」と、いいながら、かおあせをふきました。
 保母ほぼさんは、なんのごようがあって、そんなに、いそいできたのかと、おとこかおまもりました。
東京とうきょうから、お役人やくにん先生せんせいがたがやっていらして、托児所たくじしょをごらんなさるというのだ。教育上きょういくじょうのご参考さんこうに、なさるのだろう。もうじき、えるだろうから、失礼しつれいのないように、らせにきたのだ。」と、いいました。
 わか保母ほぼさんは、どうしていいか、わかりませんでした。どぎまぎしながらも、子供こどもたちにむかって、はなをかめとか、きたないをきれいにあらってこいとか、注意ちゅういしました。むじゃきな子供こどもたちも、先生せんせいきゅうにあらたまって命令めいれいするので、どんなえらいかたたちだろうかと、そらおそろしいようなかんじがしました。
 やがて、そのひとたちの足音あしおとと、こちらへちかづくはなごえが、こえました。もう、その姿すがたが、そこへ、あらわれました。
 おとこ役人やくにんは、ぴかぴかひかった、勲章くんしょうのようなものを、むねにつけていました。そして、はいているくつも、上等じょうとうのものとみえて、つるつるひかっていました、また、洋服姿ようふくすがたおんなひとも、一こうにまじっていました。そのひとゆびには、ダイヤモンドが、かがやいていました。これをた、瞬間しゅんかんに、つめたい空気くうきが、あたりをながれました。
 いままで、いていたすずめのこえも、こえなくなりました。あおそらかんでいたしろくもも、うすくえかかりました。子供こどもたちは、ただ、むしょうに、保母ほぼさんが、かわいそうにおもわれました。
「さあ、なにかうたって、かせてください。」と、東京とうきょうからきたおんなひとが、いいました。けれど、だれも、うたってきかせようとはしません。
「ここでは、いつも、どんなあそびをするんですか。」と、くろふくをきた役人やくにんは、保母ほぼさんに、いていました。なんのかざりも、につけていないむすめは、かおをまっにして、ちいさいこえで、それにこたえていました。
 おきゃくさまの一こうは、だんのまわりをひとめぐりして、そとのほうへていきました。ちょうど、がかげって、あかはないろは、くろえたし、しろはなのかおりは、さっぱりしなくなったのです。
 画家がかが、托児所たくじしょ小屋こやをとりいれて、新緑しんりょく木立こだち写生しゃせいしていました。役人やくにんや、学者がくしゃの一こうが、そのそばをとおりかかりました。
「こんな、広々ひろびろとした自然しぜんなかで、そだったのだから、もっと、明朗めいろうで、かっぱつに、うたったり、おどったりされないものかな。」
「なんだか、いじけているじゃありませんか。」
 こんな、批評ひひょうをしながら、ぎかけたが、そのなか一人ひとりが、ちょっとちどまって、カンバスをのぞきました。すると、のものも、いっしょにちどまりました。
 青年画家せいねんがかは、ふでをとめて、かれらをあげました。
「それは、あなたたちのほうが、むりですよ。」と、画家がかがいいました。
「なぜかね。」と、きっとなって、せいたか役人やくにんが、青年せいねんかおをにらみました。
「ここらの子供こどもは、ごろ、あまり、えらそうなひとを、ないからです。」
「なにも、われわれは、えらそうじゃないだろう。」
「どこか、えらそうにえるんですね。そんなひとが、こわいんです。」と、画家がかは、いいました。
 よくると、その青年せいねんは、右足みぎあし義足ぎそくで、くさうえに、松葉まつばづえがおいてありました。
「あんたは、この土地とちのものかね。」と、一人ひとりが、きました。
「この土地とちのものではありませんが、みんなの気持きもちは、よくわかっています。お役人やくにんや、金持かねもちや、学者がくしゃは、自分じぶんらの仲間なかまでない。いつもうえのほうにいて、命令めいれいするものだと、おもっているから、きゅうに、いっしょになって、わらったり、はなしたりすることができぬのです。おそらく、大衆たいしゅうが、そうでしょう。いままで、うえから、おさえつけられてきましたからね。」
「そういうきみも、画家がからしいが、展覧会てんらんかいにでも出品しゅっぴんして、をあげたいためでないか。」
「とんでもない。それは名誉欲めいよよくつよひとのことです。わたしうえからの命令めいれいで、戦争せんそうにやらされ、まれもつかぬ不具者ふぐしゃとなってかえりました。しかし、自然しぜんは、いつても平和へいわうつくしい。人間にんげんも、まちがったかんがえや、欲望よくぼうさえもたなければ、たがいに、したしみあうことができて、うつくしいにちがいがありません。わたしは、風景ふうけいや、生物せいぶつの、たのしく生存せいぞんする姿すがたをかいて、みんなにしめし、そのよろこびをわかちたいとおもうのです。」と、画家がかがいうと、くろふくをきたせいたか役人やくにんが、きっと、青年せいねんをにらんで、くちをとがらし、なにかいおうとしました。そのとき、ダイヤをはめたうつくしいおじょうさんふうのおんなが、
「おや、ごらんなさい。わたしたちがいなくなると、あんなに、子供こどもたちが保母ほぼさんをとりまいて、元気げんきよく、さわいでいるじゃありませんか。かきさんの、おっしゃることにも、真理しんりがあるわ。この問題もんだいについて、もっと研究けんきゅうしてみましょうよ。」と、さきに、くちをきったので、一どうは、にぎやかな、わらいごえこえる托児所たくじしょのほうを、ふりかえりながら、ちさりました。青年せいねんは、いまのこともわすれて、ふたたびなかに、たましいをちこんでいました。





底本:「定本小川未明童話全集 14」講談社
   1977(昭和52)年12月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
底本の親本:「うずめられた鏡」金の星社
   1954(昭和29)年6月
初出:「文学教育 第1集」
   1951(昭和26)年10月
※表題は底本では、「托児所たくじしょのあるむら」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2020年1月24日作成
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