村へ帰った傷兵

小川未明





 上等兵じょうとうへい小野清作おのせいさくは、陸軍病院りくぐんびょういん手厚てあつ治療ちりょうで、うで傷口きずぐちもすっかりなおれば、このごろは義手ぎしゅもちいてなに不自由ふじゆうなく仕事しごとができるようになりました。ちょうどそのころ、兵免令へいめんれいくだったので、かれはひとまずいのいえにおちついて、いよいよ故郷こきょうかえることにしたのであります。
 むねみぎにつけられた、燦然さんぜんとしてかがや戦傷徽章せんしょうきしょうは、その戦功せんこう名誉めいよをあらわすものであると同時どうじに、これを健全けんぜん人々ひとびとは、この国家こっかのためにきずついた勇士ゆうしをいたわれという、あたたかいこころのこもるとうといものでありました。どこへいくときにも、につけよと、上官じょうかんからいわれたのであるが、何事なにごとにも内気うちきで、遠慮勝えんりょがちな清作せいさくさんは、おな軍隊ぐんたいにおって朝晩あさばん辛苦しんくをともにした仲間なかまで、んだものもあれば、また、いまも前線ぜんせんにあってたたかいつつある戦友せんゆうのことをかんがえると、自分じぶん武運ぶうんつたなくして帰還きかんしながら、なんで、これしきの戦傷せんしょう名誉めいよとしてひとほこることができようか、しかも戦争せんそうはなおつづけられているのだ。自分じぶんには、すこしもそんな気持きもちがなくても、この徽章きしょうをつけていれば、あるいは人々ひとびとにそうとられはしないかというとりこし苦労くろうから、なるたけそとるときにもこれをつけぬようにしていました。
 しかし、今日きょうは、故郷こきょうかえることをもうしあげに、靖国神社やすくにじんじゃへおまいりをするのであります。清作上等兵せいさくじょうとうへいは、軍服ぐんぷく威儀いぎをただして、金色きんいろ徽章きしょうむねにつけ、堂々どうどうとして宿やどかけたのでありました。
 こうして清作せいさくさんは、じつにりっぱな軍人ぐんじんでした。だからまちとおると、おとこおんないて、その雄々おおしい姿すがたをながめたのです。けれどなかには、ぽかんとして、無表情むひょうじょうかおつきで見送みおくるような、子供こども背負せおったおんなもいました。
世間せけんひとたちは、勲章くんしょうとでもおもっているのかな。」
 清作せいさくさんは、かお微笑びしょうをうかべました。なぜかれはそんなことをおもったでしょう。それは、このひとたちのかおに、戦傷徽章せんしょうきしょうたいしても、なんのかなしみのかげえなかったからです。
 このときあちらから、紳士しんしふうのわかおとこと、頭髪とうはつをカールして、美装びそうしたおんなひとがきかかり、やがてかれとすれちがったが、そのひとたちは、まんざら学問がくもんのないひととはおもわれなかったのに、やはり徽章きしょうにはのつかぬようなようすでいきすぎてしまいました。
わたしは、いままであまりおもいすぎていたようだ。」と、清作せいさくさんは、つぶやきました。なぜなら、世間せけんは、戦争せんそうにたいして無関心むかんしんなのか、それとも軍人ぐんじん戦争せんそうにいって負傷ふしょうをするのをあたりまえとでもおもっているのか、どちらかのようにしかかんがえられなかったからでした。けれど人間にんげんであるうえは、同胞どうほうがこんな姿すがたとなったのをて、なんともこころかんじないはずがあろうかとかんがえると、むらむらと義憤ぎふんえるのをどうすることもできませんでした。
「なに、いつの時代じだいにもくさった人間にんげんというものはいるものだ。」
 青々あおあおとしたそらをあおいで、ふか呼吸こきゅうをつづけました。
 靖国神社やすくにじんじゃ神殿しんでんまえへひざまずいて、清作せいさくさんは、ひくあたまをたれたときには、すでに討死うちじにして護国ごこく英霊えいれいとなった、戦友せんゆう気高けだか面影おもかげがありありと眼前がんぜんにうかんできて、あつなみだ玉砂利たまじゃりうえにあふれちるのをきんじえませんでした。この瞬間しゅんかんこそ、こころかなしみもなく、いきどおりもなく、自分じぶんからだじゅうがあかるく、とうとくかんぜられて、このままかみ世界せかいへのぼっていくのではないかとさえおもわれたのであります。
 おまいりをすますと、あとこころをひかれながら、九だんさかりました。そして、まち停留場ていりゅうじょうへきて電車でんしゃをまっていました。周囲まわりてもらぬひとばかりであったが、突然とつぜんくちひげのえた角顔かくがおおとこひとが、かれまえへやってきて、ていねいにあたまげました。
 清作せいさくさんは、あまりだしぬけだったのと、そのひとかおて、おぼえがなかったので、びっくりしながら、たぶん人違ひとちがいであろうとおもいました。すると、そのひとは、
「ご苦労くろうさまでした。どこをおけがなされましたか。」と、しずかな調子ちょうしで、たずねました。
「ああ、わたしきずですか、こちらのうでをやられました。」と、清作せいさくさんはひだりうでしました。そして、よく戦傷徽章せんしょうきしょうをつけて、たずねてくれたと、ふかこころ感謝かんしゃしながら、じっとそのひとたのであります。
「おお、それは、この寒気かんきに、傷口きずぐちがおいたみになりはしませんか? わたしは、わか時分じぶんシベリア戦役せんえきにいったものです。いまでもんだ戦友せんゆうのことや、負傷ふしょうしたともだちのことを片時かたときもわすれることがありません。」
 その老人ろうじんはかがやき、言葉ことばねつをおびて、かおかたちにしみじみと真情しんじょうがあらわれていました。これをきくと、清作せいさくさんは、はじめてるこのひとにたいして、かぎりなきなつかしさと敬意けいいひょうせずにいられません。しぜんとそのひとまえあたまがるのをかんじました。
 ほどなく、電車でんしゃがきたのでったけれど、停留場ていりゅうじょう見送みおくる、老人ろうじんかおが、いつまでもあたまのこりました。おりあしく、その電車でんしゃ満員まんいんでした。かれは、右手みぎてでしっかりとかわにぶらがっていたが、あちらへおされ、こちらへおされしなければなりませんでした。そして、こんなばあいに、これらのひとたちが、かれ徽章きしょう注意ちゅういするとかんがえるこそ、まちがっていたのでありましょう。かれが、かおあかくしてたおれまいとしたとき、
兵隊へいたいさん、ここへおかけなさい。」という子供こどもこえが、きこえました。ると混雑こんざつしたひとをわけてがったのは、八、九さいばかりのランドセルをった二人ふたり小学生しょうがくせいでありました。
「やあ、ありがとうございます。」と、清作せいさくさんは、すくわれたようながして、そこへこしろしました。そして、はじめて二人ふたり子供こどもると、子供こどもは、なにかいいたげに、きよらかなひとみ人々ひとびとあいだから、こちらへむけているのでした。
「ああ、子供こどもはいいな。」と、清作せいさくさんは、しん感動かんどうしました。


 そのばんのことでした。清作せいさくさんは、故郷こきょうかえ汽車きしゃなかにいたのであります。かれは、ねむろうとしてもねむられず昼間ひるまのことなどおもしていました。
「そうだ。むら源吉げんきちさんもシベリア戦役せんえきにいって、片腕かたうでをもがれたのだった。あの時分じぶん自分じぶんはまだ子供こどもだったので、源吉げんきちさんが不具かたわになってかえってくると、おそろしがったものだ。自分じぶんばかりでなく、ほかの子供こどもたちも気味悪きみわるがってそばへいかなかったのだ。それにくらべると、このごろの子供こどもは、なんというりこうで、やさしいことだろう。源吉げんきちさんは、みんなのため、戦争せんそうにいってきながら、さびしく、かわいそうだった。その病気びょうきのためんでしまったが、こんどかえったら、おはかへおまいりをして、むかしのおわびをしなければならぬ。」
 夜中よなかごろ、汽車きしゃ山間やまあいにかかりました。やまにはゆきがつもっていました。きゅう寒気かんきがくわわって、わすれていた傷口きずぐちがずきずきといたしました。
「あの老人ろうじんは、しんせつにも傷口きずぐちいたみはしませんかときいてくれたが……。」
 清作せいさくさんは、自分じぶんよりは、もっとおおきな負傷ふしょうをしたり、また手術しゅじゅつをうけたりした傷兵しょうへいのことが、おもされたのでした。あのひとたちは、いまごろ、どこにどうしておくっているだろうか。このごろのさむさに、傷口きずぐちがひきつって、さぞいたむことであろうと、あんじられたのでありました。
 清作せいさくさんが、むらかえると、さすがにむらのものは、あたたかいこころをもってむかえてくれました。そして、清作せいさくさんのよろこびは、それだけではなかったのでした。みんなが今度こんど聖戦せいせんは、東洋永遠とうようえいえん平和へいわのために、じゃまになるものは、いっさいをのぞくのであるから、簡単かんたんにいくわけがなく、戦線せんせん銃後じゅうごわず、こころを一つにして、ともにくるしみ、相助あいたすい、最後さいご勝利しょうりるまでは、たたかわなければならぬということを、よくっているからでした。
 自分じぶんからだでできることなら、清作せいさくさんは、どんな仕事しごとでもよろこんでする決心けっしんでありましたが、さいわいに、むら産業組合さんぎょうくみあい適当てきとうつとぐちがあって、採用さいようされたので、いよいよこれから銃後じゅうごにて、おくにのために余生よせいささげることにしたのです。
 やがて、三がつ季節きせつとなりました。はるがこのむらにもおとずれてきたのであります。ある清作せいさくさんは、むら子供こどもたちをつれて、かえったら、かならずいこうとおもっていた、源吉げんきちさんのおはかへおまいりをしました。そこは、小高こだかやまでありました。
「さあ、これがはなしをした源吉げんきちさんのおはかだ。おくにのためにつくしたむら勇士ゆうしだ。みんなよくおれいをいっておがみなさい。」
 子供こどもたちは、おはかまえにならんで、わせてあたまげました。みなみほうへゆるやかに傾斜けいしゃして、のよくたるおかのなかほどに、つばきのおおきながあって、あかはないていました。黄色きいろ小鳥ことりが、そのえだにきてあそんでいたが、おくると、そのふもとのほうには、わらぶきのいえがあって、三、四ほんうめのつぼみがしろくなりかけていました。
徐州じょしゅう徐州じょしゅう人馬じんばすす
徐州じょしゅういよいか、みよいか
と、子供こどもらのなかから、こうちゃんが、ふいにうたいした。清作せいさくさんは、これをきくと、きっとあたまげて、おもしたように、
「そうだ。ちょうどもう二年前ねんまえになるな。わたしはその徐州じょしゅう進軍しんぐんする、れつなかはいっていたのだ。みんなここへおすわり。そのときのことをはなしてあげよう。」
「おじさん。戦争せんそうはなし、どんなはなし?」
「いろいろはなしがあるが、おもしたから、まずその軍馬ぐんばからだ。」
軍馬ぐんば?」
 こうちゃんと三ちゃんと、ゆうちゃんと、たけちゃんは、清作せいさくさんをくようにして、くさうえへすわりました。
徐州じょしゅう進軍しんぐんのときは、大雨おおあめあとだったので、たぶんぼくたちのまえ出発しゅっぱつしたうまだろう。あしをすべらしたんだな、がけしたのどろなかちて、からだ半分はんぶんずめながら、そこをれつとおるとうえいていていた。たすけてやろうにも、ちょっとたすけようがないのだ。それにさきいそいでいるのでな。いっしょにここまできたともだちで、かわいそうにおもったが、あたまげて、そこをとおぎてしまったよ。」
「かわいそうに、そのうまどうなったろうか。」
「くにをてから幾月いくつきぞ、ともにでこのうまと、めてすすんだやまかわ……。ほんとうに、そうだった。みんながうま見返みかえり、見返みかえり、きながらいったよ。」
ぼくたち、こんど慰問袋いもんぶくろなかへ、おうまにやるものもれておくらない?」と、こうちゃんが、いうと、
「おうまには、図画ずがや、つづりかたはわからないね。」と、ちいさなゆうちゃんがいったので、みんなが大笑おおわらいをしました。どこかとおくのほうにわとりこえが、のどかにきこえてきました。





底本:「定本小川未明童話全集 12」講談社
   1977(昭和52)年10月10日第1刷発行
   1982(昭和57)年9月10日第5刷発行
底本の親本:「赤土へ来る子供たち」文昭社
   1940(昭和15)年8月
初出:「日本の子供」
   1940(昭和15)年4月
※表題は底本では、「むらかえった傷兵しょうへい」となっています。
※初出時の表題は「村へ帰つた傷兵」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2017年6月16日作成
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