芸術は生動す

小川未明




 書かれている事件が人を驚かすのでない。そのことは、ちょうど私達が活動写真を見るようなものであります。奇怪な事件が重なり合っているような場合であっても見ている時は成程、其れによって、いろ/\なことを想像したりまた感興を惹かれたりしても、一たび外に出て冷やかな空気に触れゝば、つい、今しがた見たことが夢のように、もっと其れよりは淡い印象しか頭に残らないのであります。
 ドストイフスキイの作品は、雑な人生の事件が取扱われていることを否まないけれど、私達に感銘を深からしむるのは、そのためでない。
 このときに於て事件というものは、そんなに役立っていない。たゞこういうようなことが人生にあるかと考えさせるより、多くを語るものでないと感ぜられます。そして、いかに、そうした事実の前に人々が動いたかという、真実を他にしては、芸術というものがないように考えられます。活動写真は、たゞ眼先をいろ/\に換えて其の間に、驚異と人情とを印象させるようにするけれど、もとより稀薄たるを免れない。しばらくは忘れることの出来ぬようなものであってもやがては忘れてしまうのです。およそその程度のものであるから、もとより享楽すべきものであって、これによって、旧文化の根底を改めて新文化をば建設しようなどゝ考えるのは、あまりに安価な考え方であると思われます。
 独りドストイフスキイの作品ばかりでなく他の有名なる名作は、事件そのことが異常なものがあるのは事実であるけれど、そのソロが深刻な感銘を与えるものでないことはやはり同じであります。たゞ其の中に含まれた真実を他にしては、芸術の力というものは他にないように考えられます。
 それは、美に対して、正義に対して、その作家が真剣であるという一事であります。私達は、体験を経ないような事柄に対してはそう愛も感じなければ、またそう憎みをも感ずることが出来ない。もとより同感することも出来ないのであります。
 親子の関係、夫妻の関係、友人の関係、また男女恋愛の関係、及び正義に対して抱く感情、美に対して抱く感激というようなものは何人にも経験のあることであって従って作中の人物に対して同感しまた其れに対して、好悪をも感ずるのであります。
 芸術家として偉大なる所以は、是等の人間性の強さと深さとの問題であります。言い換えれば人間愛に対してどれ程までに其の作家が誠実であり、美に対してどれ程までに敏感であり、正義に対してどれ程までに勇敢に戦うかということにある。
 事件の異常なる場合に際して、私達のそれに出遇った時の感情や、意志がまた著しく働くということも事実であるが其人の人格は、またいかなる小事に対しても発揮されるでありましょう。たとえば旅行をして遠くへ行かなくとも永久の自然は其の町に、其の村に常に眼の前にあります。もし其人が敏感であって、美に対して感激を有していたなら、たとえ其処に転がっている一個の林檎に対しても主観の輝きが見られる訳です。区役所に行って役人に遇ったゞけでも、また巡査に道を聞いただけでも、荷車を引いている労働者を見たゞけでも、また乳呑児を抱いて露店に坐っている女を見たゞけでも、そして其他各階級の人々に出遇い、或は遊び、或は働いている有様を見たゞけでも、私達はこの人生を感ずることが出来るのであります。
 すべてが、芸術家その人が、いかに人生を見、感ずるかに帰着します。真にある事を感ずる者は同時にある事を信ずる人々でなければならない筈です。芸術家の貴い信念はこゝに萌芽します。彼等のすべてが人道主義者として、また殉教的な敬虔な心の持主として、人生のために戦うに至るのもこれあるがためです。
 こゝに於て、芸術は畢竟享楽のためでなくして、一個の目的を有さなければならぬことを知ることが出来ます。
 私は、この美に向上を感じ、愛のために戦わんとする精神は、理知そのものでもなければ、また主義そのものでもない。全く、詩的感激に他ならないと思うのです。
 すべて、散文の裡に、若し、この詩的感激を見出さない記録があったなら、決してそれは芸術であり得ない。またこの革新的気分と、人生的の感激を有しないセンチメンタリズムが詩を綴っていたら詩の精神を有しないばかりでなく、常に、新生活創始に先駆たるべき文化の精神を、誤るものだということを憚らないのであります。
 詩の誤解されていることも久しいけれど、また芸術が詩から離れて無感激な状態にいることも既に長い間であると言わなければなりません。そして、其れを救うものは、真に新しく、其の人の出るのを待つにあるばかりです。そしてかゝる芸術家は、眼前の社会に対して、最も真実であり、人間的愛を感ずる人道主義の高唱者に他ならないと私は感ずるものであります。





底本:「芸術は生動す」国文社
   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「生活の火」精華書院
   1922(大正11)年7月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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