貧乏線に終始して

小川未明




 今も尚お、その境地から脱しないでいる私にあっては、『貧乏時代』と、言って、回顧する程のゆとりを心の上にも、また、実際の上にも持たないのでありますが、これまでに経験したことの中で、思い出さるゝ二三の場合について、記して見ます。
 何と言っても、はじめて、作家に志してから、苦しんだことは、独自の境地を行こうとする努力と、その作品を直に金に換えなければ、衣食することができなかったことです。文壇の大勢に、時としては、反抗したものを書き、それを売らなければ、ならぬということは、すでに其処に矛盾が存していたからです。
 少しの貯えもなく、家庭に欠乏を告げているにかゝわらず、机に向って、自分の理想を描こうとする――そこには、精神だけの飛躍が許されるとしても、直にペンを下に置いたと同時に、物質の欠乏から来る不安と悩みが感じられる。この二重の苦痛に悶々とした時代であります。
 自分の信ずるものを書き、それを金にしなければならぬ。そういう悲劇的な場合にあって、殆んど、狂熱的に、自己を鞭打ったものは、自分の意志より他にない。そして柔順で、献身的であった、妻の愛に救われたというより他に、何ものかありません。『彼は、其の日暮らしに、追われている』と、いう蔑視から、資本家や、編輯者等が、いまだ一介の無名の文筆家に対して、彼等の立場から、冷遇しなかったと何んで言えよう。況んや、私のように、逆境に立ち、尚お且つ反抗の態度に出て来た者を同情するより憎むのが寧ろ当然だったから。しかし、私は、真に自分を知ってくれた人でなければ、原稿を持って、頼みに行ったことがなかった。
 あの時代の文壇の状況と、その交って来たいろ/\の人々について、私は、いつか書いて見たいと思っているが、それはもっと私という人間が、冷静になって、私情で物を言わなくなった時でなければ、言うものでないと思っています。
 さて、その当時、売るに着物もなく、書物もなく、妻が指にはめていた指輪を抜き取らせて、私が売りに行ったことを覚えています。こうした、数々の場合に際会するたびに、深く頭に印象されたものは、貧民を相手とする商売の多くは、弱い者苛めをする吸血漢の寄り集りということでした。
 第一質屋がそれであります。合法的に店を張っているには相違ないけれど、苦しい中から、利子を収めて、さらに品物を受出すということが、すでにそうした境遇に於かれている者には、殆んど不可能のことでした。不意に、沢山の金がはいるようなことでもないかぎり、欠乏に悩んでいる者が、それを受け出すということは、永久にできないからでした。
 次に古物商というようなものです。何品によらず私達が困って売る時には、買った時分の価格の三分の一にもならぬこと。思うに、はじめから、それ程の価値のない品物であるか、さもなければ、品物に価値のあるにかゝわらず、売手の足許を見て、安く価切るか何れかでなければならぬ。いずれにしても、彼等が不当の利得を得つゝあることが分るのでした。
 私達は実生活の上に於て、その場合、場合に面接して、この世の中というところが、どんなものであるかを切実に知り得たのです。
 もう一つ、貧困の時代に、苦しめられたものは、病気の場合であります。手許に、いくらかの金がなくては、医者を迎えることもできない。どんなに近い処でも、医者は俥に乗って来る。その俥代を払はなければ[#「払はなければ」はママ]ならず、そして、薬をもらいに行けば薬代は払って来なければならぬ。
 私は、その金がないばかりに、ある夜友達の許へ訪ねて行った。ちょうど友達は、夫婦で家を閉めて散歩に出かけたと見えて留守であった。私は、そのまゝ家に帰って苦しむ病人を見るに忍びず、木枯の吹く中を夜の十一時頃まで、閉った門の傍に立って友達の帰るのを待っていたことがあります。
 こう書いているうちにも、いろ/\友達に、厄介をかけたり、また、親切にしてもらったりしたことが、思い出されます。そのことについては、他日、その機を得て感謝する時があろうと思います。
 医者は、仁術であるべきであるが、独り、このことを医者だけに求めるべきものでない。そんなら、今後、医者は、何うなるべきであるか。もし、これを国有としたならばと思われるのであります。慈善病院が、三つや四つできたゞけでは、無産階級が救われるとは考えられない。
 その日、その日、この社会には、どれ程、貧困のために、悩み、苦しみつゝある者があるであろうか。子供は、飢に泣き、夫妻これがために争い、一家の中は、さながら地獄そのまゝに他ならぬものを想像するに難くない。そして、この頃のように、自から働かんとして職を求めつゝあるにかゝわらず、社会が、それに仕事を与えないとしたら。夫婦、親子の情を、壊廃するものは何ものでもない。みなこの貧乏あるがためであります。
 私は、最も逆境時代に生れた、二人の子供を亡くしました。若し、健康でいたならば二人は、いかにこの世の中が苦しいところであろうとも、また幾多生を享楽すべきこともあったのにと考えると、親として、悔恨の深いものがあります。そして、夭折ようせつした二児のことを考えるたびに、せめて、正しく生きる為には、余生をいかなる苛竦な鞭で打たるゝとも辞さないと思うのです。
 こうした苦しみは、独り私達ばかりでなかった。そして、私達が、まだまだどん底の生活をして来たとは思われない。のみならず仮りに、私達だけが、仕合せになったとしても、永久に安心できることだろうか。この観念は、いつしか、私をして、階級戦の必然をすら教えてやるに至ったのでした。
 そして、また、ある時には、ラスコリニコフを空想家として嗤うことができなくなった。
 いずれにしても、この社会から、生きるための苦痛と、悲劇を、無くしたいものです。そのことは、決して、不可能なことではない。人間の力によって、ある程度まで、なされるということをも信ずるからです。





底本:「芸術は生動す」国文社
   1982(昭和57)年3月30日初版第1刷発行
底本の親本:「童話と随筆」日本童話協会出版部
   1934(昭和9)年9月10日初版
入力:Nana ohbe
校正:仙酔ゑびす
2011年11月30日作成
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