曠野
小川未明
野原の中に一本の松の木が立っていました。そのほかには目にとまるような木はなかったのです。
「どうして、こんなところに、ひとりぼっちでいるようになったのか。」
木は自分の運命を考えましたけれど、わかりませんでした。そして、そんなことを考えることの、畢竟むだだということを知ったのです。
「ただ、自分は大きくなって、強く生きなければならない。」と思いました。
見上げると、頭の上をおもしろそうに、白雲がゆるゆるとして流れてゆきました。
また、あるときは美しい小鳥たちが、おもしろそうに話をしながら飛んでゆきました。しかし、雲も小鳥たちも、下に立っている木を見つけませんでした。
「小さくて、わからないのだな。」
木は、ため息をついて叫んだほど、その存在を認められなかったのです。
早く大きくなろうと木は思いました。認められたいばかりでなしに、地平線の遠方を見たかったからです。一年はたち、また一年はたつというふうに過ぎてゆきました。そして、この松の木が、すこしばかり根もとの地の上に、自分の小枝の影が造られるほどになったとき、その存在を認めてくれたのは、空をゆく雲でもなければまた小鳥たちでもありませんでした。それは、意地悪い風だったのです。伸びればますます強く荒く風はあたりました。
かえりみると、この木が、野原で大きくなった歴史は、まったく風との戦いであったといえるでありましょう。木はけっしてこのことを忘れません。ある年、台風の襲ったとき、危うく根こぎになろうとしたのを、あくまで大地にしがみついたため、片枝を折られてしまいました。そして、醜い形となったが、より強く生きるという決心は、それ以来起こったのであります。いまは、もはや、どんなに大きな風が吹いても倒れはしないという自信がもてるようになりました。
「野原の一本松。」
空をゆく雲や、頭の上を飛ぶ小鳥たちが、それを認めたばかりでない。ここを通る百姓もそういって呼べば、村の子供たちもみんな知っていたのであります。
木は、こうして大きくなりました。しかし頭を上げて、地平線を望んだけれど、あちらに山の頂と、黒い森と、ぽつりぽつり人家を見るだけで、けっして、そのはてを見ることはできませんでした。また、青い空は、ますます高く、白い雲は、はるかに上を飛んでいるのであって、けっして、自分の頭のうえをすぎるときに、歩みをとめて、話しかけてくれるようなことはなかったのです。
ただ、小鳥だけが、まれにきて枝にとまって翼を休めました。中でも渡り鳥は、旅の鳥でいろいろの話を知っていました。街の話もしてくれれば、港の話もしてくれました。もっときけばなんでも教えてくれるのであったが、松の木は、自らは経験のないことで、ただ渡り鳥のする話をきいて、世の中の広いということを悟るだけです。
「なぜ、私は、あなたのような鳥に生まれてこなかったんでしょう。」と、松の木がいいますと、
「そんなことをうらやんではなりません。あなたは、これから百年、二百年と生きられるからです。もっと、いろいろのことを見たり、聞いたりなさるでしょう。私たちは、明日もわからぬ命です。なにが幸福か、不幸かということは、神さまだけにしかわかるものでありません。」と、渡り鳥はいいました。
「もし、またこの近傍をお通りのときは、ぜひここへきて休んでください。そして、おもしろい話をきかしてください。」
「きっと、まいりますよ。」
そういって、渡り鳥は去ったのでした。こういうようなことが、これまでに何度あったでしょう。二度と同じ渡り鳥で、たずねてくれたものはなかったのです。
「あの赤い小鳥は、どうしてもうそつきとは思えなかったが、身の上に変わりがあったのでなかろうか。」と、松の木は、考えるのでありました。
八月の赫灼たる太陽の下で、松の木は、この曠野の王者のごとく、ひとりそびえていました。
ある日のこと、一人の旅人が、野中の細道を歩いてきました。その日は、ことのほか暑い日でした。旅人は野に立っている松の木を見ますと、思わず立ち止まりました。
「なんだか、見覚えのあるような松の木だな。」
彼は、子供の時分、村はずれの原っぱに立っていた、そして、その下でよく遊んだ松の木を思い出したのでした。
「よく似た木もあったものだ。やはり、片方の技が折れていたっけが。」
村の松の木の片方の枝は、冬、大雪が降ったときに折れたものでした。旅人は、なつかしそうに、ひじょうにそれとよく姿の似ている、松の木の下にきて休みました。木の影は、こうして慕い寄った旅人をいこわせるには十分でありました。目の前には、いろいろの雑草の花が、はげしい日光を浴びながら咲いて、ちょうや、はちが飛び集まっているのがながめられましたけれど、ここだけは、まったく日が陰って、広い野を越えて吹いてくる風は、汗の引き込むほど涼しかったのでした。
「そうだ。遠くへ遊びにいっても、帰りに、あの木の頭が見えると安心したものだ。」
旅人は、子供の時分、釣りにいって、疲れた足を引きずりながら帰ったとき、また学校の帰りにけんかをして、先方はおおぜいだったとき、そんなときでさえ、あちらに、親しい松の木が見えると、もう家に着いたような気がして、急に勇気が百倍したことなどを思い出したのでした。そして、しばらく彼は、遠い昔の空想にふけっていましたが、あまり涼しいので、いい気持ちになって、そのまま木の根をまくらにして横になったのであります。
海のように、青い、青い空を、旅人はぼんやりと仰向けになってながめていました。小さな白い雲、ややそれよりも大きい雲、ほんとうに大きな白い雲、いくつかの雲が鬼ごっこでもしているように、追いつ、追われつしていました。
旅人は、このとき、忘れていた幼友だちの名まえと、顔つきをはっきりと思い出したのでした。そればかりでなく、自分もその仲間にはいって、いっしょに走りっこをしている姿を目に見たのであります。
「みんな、あの時分の友だちはどうしたろうな。」
そのうちに、いつしかいびきをかいて、ぐうぐうと眠ってしまいました。
松の木は、旅人のひとりごとをきいて、自分とよく似た木が、この地上のどこかに存在していることを知ったのです。それは、たがいに相見ることはなくとも兄弟でなければならない。松の木は、はじめて不思議な力を感じました。もう、これからおれは、独りぼっちと歎くまいと思いました。
「力強く風に向かって戦おう。そして、慕い寄るものを慰めよう。」
これは曠野の王者として、まさに貴い考えでありました。
このときです。つばめは、しきりに鳴きました。あらしのくるのを知らしたのでした。
日の光はかげって、雑草の花の上は暗くなりました。ちょうや、はちは、はやくも、どこかへ姿を隠してしまいました。
はげしく呼ぶ松風の声で、旅人は、目をさまして驚きました。
「ああお蔭で、気持ちよく眠った。こんどここを通るときまで無事でいてくれよ。」と、彼は、松の木をなでたのであります。
疲れを回復した旅人は、新しい元気に勇んで、街をさして急ぎました。
あとから、雷の音が追いかけるようにきこえたのです。ふり向くと、もはや野原のかなたは、うず巻く黒雲のうちに包まれていました。
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