小さな年ちゃん
小川未明
ある日、小さな年ちゃんは、お母さんのいいつけで、お使いにいきました。
「ころばないようにして、いらっしゃい。」と、お母さんは、おっしゃいました。
年ちゃんは、片手に財布を握り、片手にふろしきを持って、兄さんのげたをはいて、引きずるようにしてゆきました。
お豆腐屋の前に、大きな赤犬がいました。年ちゃんは、その前を通るのが、なんだかこわかったのです。けれど、赤犬は、あちらを向いていました。年ちゃんは、その間に前を過ぎて、お菓子屋へ着きました。
「まあ、坊ちゃん、お一人で、えらいですこと。」と、お菓子屋のおばさんは、ほめて、お菓子をふろしきに包んでくれました。
年ちゃんは、帰りに、またお豆腐屋の前を通らねばなりません。赤犬が、あちらを向いていてくれればいいがと思いました。けれど、今度は、赤犬は、じっと年ちゃんの顔を見ていました。年ちゃんは、胸がどきどきしました。急いで、その前を通ろうとして、駈け出すと、石につまずいて、ころんでしまいました。年ちゃんはこわくなって、我慢ができずに泣き出してしまいました。
すると、大きな赤犬がやってきて、年ちゃんの顔をべろりとなめました。二度びっくりしたので、年ちゃんは、泣きやんで、目を開けて、赤犬を見ると、やさしそうな目つきをして、尾を振っていました。
年ちゃんは、まったく、赤犬が好きになりました。それから、お友だちが、赤犬を怖ろしがると、年ちゃんは、
「赤犬は、やさしい、いい犬なんだよ。」といって、いつも赤犬の弁護をしました。そして、お使いにいって、お豆腐屋の前に、赤犬の姿が見えなかったとき、年ちゃんは、どんなにさびしく思ったかしれません。
ある日、兵隊服を着た、二人連れのおじさんが、お薬を売りにきました。一人のおじさんは、松葉づえをついて、往来の上で、なにか大きな声を出して、わめいていました。きっと、戦争にいって傷ついてきたのだといっていたのでしょう。
一人のおじさんは、一軒ごとにお家へ入っていきました。みんな、気の毒に思って、薬を買ってあげるだろうと、年ちゃんは思って、その後についていって見ていました。
すると、女中さんが出て、
「いま、お留守ですから。」と、いって、断っていました。
年ちゃんは、先刻、この家のおばさんがいらしったのに、なんでうそをつくのだろうと思っていました。
おじさんは、その家を出て、お隣へいきました。お隣も、
「いま、お薬がありますから。」と、いって、断っていました。おじさんは、なにか、ぶつぶついいながら、その家を出ました。
今度は、しず子さんのお家です。いつのまに、だれかご門の戸にかぎをかけたのか、おじさんが開けようとしても、戸は開きませんでした。
これを見ていた年ちゃんは、この薬箱を下げたおじさんが、かわいそうになりました。このとき、年ちゃんは自分の家のお母さんは、このおじさんから、お薬が買ってあげるだろうと思いましたので、
「おじさん、僕の家は、あすこよ。」と、年ちゃんは小さな指で、自分の家を指して、おじさんに教えました。
おじさんは、年ちゃんの顔を見ました。
「お坊ちゃんのお家は、あすこですか?」
「僕の家は、あすこよ。」
「坊ちゃんは、いい子ですね。」
おじさんは、青い顔にさびしい笑いを浮かべて、年ちゃんの頭をなでてくれました。しかし、おじさんは、せっかく年ちゃんが教えたのに、年ちゃんのお家へは寄らずに、いってしまいました。
「どうして、おじさんは、僕の家だけ寄らないのだろうな?」と、年ちゃんは、不思議に思いました。
「あんな、いいおじさんを、なんでみんながきらうのだろうか。」と、いうことも年ちゃんには、わからないので、いつまでも、ぼんやりと道の上に立って、あちらをながめていました。
年ちゃんにだけ、赤犬のやさしいのがわかりました。
年ちゃんにだけ、薬売りのおじさんのやさしいのがわかったのです。
なぜなら、年ちゃんがやさしいから。
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