『お話の木』を主宰するに当たりて宣言す

小川未明




 次の時代を建設する者が、今日の子供達であると知る時、私達は、未来への希望と理想を子供達に対して持たないであろうか。それ故に子供達の情智を啓発する読み物については、殊更厳粛な気持ちとならざるを得ないのであります。現在児童の雑誌は多数あるけれど、よく見ると、果たしてこれでいいのかという疑いが起こる。そして、それ等の読み物が、純真無垢むくな子供等に与える感化について、深く考えざるを得ないのであります。
 一口にいえば、どこに児童に対する真の愛が見られよう。またどこに人生への正しき導きというものがあろう。またどこに高らかな清明な詩があるであろうか。
 多くは、誇張、虚飾にあらざれば、著しく卑俗にして、小さき者の弱点に附け入る如き記事や、絵面に満されています。恐らくその結果は、少年をして質実堅忍な気風を慕うよりか、軽躁飄逸けいそうひょういつを喜ぶことになり、正しきためには、自己をも犠牲にせんとする純情よりは一かく千金の富貴と成功を夢むこととなり、いつしか高邁こうまいなる勧学の精神を失うと共に、読書力の低下を示すでありましょう。このことは当然であって、敢えて不思議とはしないのであります。
 此の如きは、たとえ雑誌が商品なる故に、営利が目的としても、成人の場合なら知らず相手が正直な児童であるかぎり、良心的に許されざることであり、一方、真理へ向かって歩む文化への冒涜ぼうとくでなければならぬのであります。
 独り雑誌だけでなく、児童作家にしても彼等は、児童に対する深い愛がなければならぬものです。それには、真に児童を知ることなくして、愛の生じようはずがない。作家は、先ずすべからく児童の実生活を認識しなければならぬのです。
 今日の子供は、決して昨日の子供ではない。少しく留意するなら、児童等の常識が、いつしか時代と共に変遷したる事実について看取するでありましょう。それにもかかわらず、童話文学の現状はうであろうか。
 子供達は、既に何等琴線きんせんに触れることなき、勧善懲悪ちょうあく式の古いお伽噺から離脱してしまったけれど、まだこれに代わるべき、美しき鮮彩な夢を持たずにいます。しかも、科学万能な時代に於いて、新しき夢幻を創造することは、容易とはいわれない。独り文学の力に待たなければならぬのであります。
 ここに童話文学の使命がある。そして、芸術としての童話こそ、常に児童の心をして、善美、高尚、純粋なるものに憧憬しょうけいせしめ、もって明朗なる人間性を養い、道理の弁別について過たず、よく自己の行為を反省せしむるに足るものです。
 故に、童話がこの為には、取り分け最も多感にして、空想的なる十歳前後の子供達との親しき関聯を保ち、彼等の発達期に於ける情操教化に費するところがなければなりません。
 近代ジャーナリズムは、その産出せる弊の一つとして、紙数制度によりて、作品の形態を自由に伸縮し、変化なさしめています。その著しき例は小説の場合であって、時に、冗漫じょうまんなる描写と、筋の変化と、興味を強めるために道草をふけることを余儀なくされることがある。
 けれど、娯楽よりは、教化を重んずる童話にあっては、全的な人間生活の体験と、自然等より得たる観察とを簡約し、純化して表現する特殊性を有するが故に、さんたる独自の芸術として、誇るべきものを持つのであります。
 これ等の諸点にかんがみて、私は、ここに、子供研究社創刊の童話雑誌「お話の木」を主宰するに当たり、多年翹望ぎょうぼうしたる好機として、真の児童文化のために起ち、全力を之に致さんことを誓います。就ては、我等と時勢を共に憂え、子弟を深く愛せられる識者は、何卒温かき御同情と御鞭撻ごべんたつを本誌の上に垂れさせられんことを切に希う次第であります。





底本:「定本小川未明童話全集 11」講談社
   1977(昭和52)年9月10日第1刷発行
   1983(昭和58)年1月19日第5刷発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:酒井裕二
2016年3月4日作成
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