この度、日本国民童話協会が創立されまして衷心からお喜びの言葉を申し上げます。就きましては、この機会に
今迄童話をお話になる皆様は、各

そうして凡ての文化運動も斯うなければならぬと思います。何故ならば、日本は何れの方面に於いても非常時に際会して居ります。
童話と云うものを余りに低く評価して来たのでないか。今日の子供の頭を統一して行く、子供の思想を統一する、子供を何処に連れて行くかと云う事が、指導階級に分かって居ったならば、児童の思想統一は
何故かと云うと私共は、日本の昔話に依って教化されて来たのであります。我々の聞いた昔話は、今から見れば色々に欠点もあったでしょう。併しながら仇討ちの話にしても、滑稽な話にしても、どんな話をとって来ても、そこには
それが明治以降になりまして、文化が分裂して、職業化して行きましたから、お話と云うものが、何時しか民族の大きな倫理観と云うか或いは宇宙観、或いは人生観と云うものが壊れてしまって、子供だけを対象として語ると云う商品的な形をとって行った。それから職業化して行ったと云う、お話の堕落がここにあるのではないかと思います。併しこれはお話ばかりでなく、社会の制度、機構が行き詰まって来たので独りお話のみを云うのではない。
兎に角今度の事変が、日本国民の自覚を促したと云う事は事実であって、この自覚を促したと云う事は、日本の使命と云うものは余りに大きくなりまして、今は民族だけの問題でなくて、アジアの問題に発展して来て居るのでありますが、それは又一面から見れば、アジアの新しい神話が創造され、お伽噺が生まれ、童話が生まれて来る時期であります。
それで私つくづく考えますのに、今こそ一番童話が国内を統一し、そうして東亜共栄圏の結束を促すと云う上にも、童話の使命が重くなるじゃないかと思います。日本は何処に行くかと云う前に、私は矢張り今日の日本が日本精神に立ち返って、新アジア建設、新アジア秩序の中核を作って行かなければならぬ。今迄の強い者勝ちの世界は、昨日のもので、今は共栄で行かなければならぬ事は、一つの原理になって居る。ヨーロッパに於いてすでに然りであります。これは換言すれば、東洋思想の勝利であって、更に云えば日本精神の勝利でないかと思います。
日本が東亜新秩序建設となって今迄の物質的から精神的に生き、弱肉強食の帝国主義的考えから離脱して、弱い者を助け、強い者を挫くと云う所に生き、一宿一飯の恩にも深く感じ、憐れを持ち実利よりも恥を重んずると云う日本精神の発現以外に私は東亜新秩序と云うものが出ないのであると思います。今迄の様に或る一国が力に於いても、或いは経済に於いても、弱い者を圧して行くと云う事は、結局出来ない事であって、矢張り一緒に歩いて行って、而して自ら徳が彼等に感染し、訓化して行って八
それにしても現在余りに精神革命と云い、凡ゆる方面に於いて急速な事は好まれない。矢張り児童を通して児童の教化が一番いいじゃないかと思います。十年、二十年は直ぐ過ぎてしまう。今の子供達がアジア四億の子供達と一緒に、アジアを建設する時に、或いは世界を建設する時に、実際しっかりして居ったならば、どんな思想が来ようとも、どんな目に遭おうが大丈夫であって、人間が出来なければ私は到底駄目だと思う。如何なる思想に対しても、如何なる
そう云う様に童話の使命は重くある。童話を語る人の使命も重いですが、現在これから童話を以て子供を指導される方は、日本の新しい子供を作る、日本の子供を教化する前に、自己革命が必要だと思う。そればかりでなく、凡ての指導者がそうだと思うですが、長い間の功利思想に成長して来た父兄に対して、又その下に人となりつつあった子供に対して感化と云う事は生易しいものでないと思います。私は文字を通して、その自覚を促すよりも、人格的接触に於いて、お話する人々が、父兄を前に置いて、自分の情熱と自分の魂を以て訓化するより道はないじゃないかと思います。そう云う意味で指導者たらんとする者は、先ず自分の革命が大事じゃないかと思います。
特にこの児童の教化ですが、童話を書く人や或いは童話を話す者だけで、果たしてこの完璧を期せられるかと云う事は疑われるのであります。児童の凡ての文化機関が一元化して、一つの溌剌たる理念の下に結合して初めて可能なる事でないかと思います。軈て日本の児童文化も、そこ迄発展して行くものと私は期待して居るのでありますが、兎に角この童話を書く人間は、作品を通して大政に翼賛し、お話をする人は、そのお話を通して大政に翼賛されて、今日の非常時局に向かって打開して、そうして輝かしい未来に向かって精進されん事を希望する次第であります。
(この文は、昭和十六年六月三日、蚕糸会館に於ける日本国民童話協会発会式の当日の講演の筆記であります。)