銀のペンセル
小川未明
三味線をひいて、旅の女が、毎日、温泉場の町を歩いていました。諸国の唄をうたってみんなをおもしろがらせていたが、いつしか、その姿が見えなくなりました。そのはずです。もう、山は、朝晩寒くなって、都が恋しくなったからです。
勇ちゃんも、もう、東京のお家へ帰る日が近づいたのでした。ここへきて、かれこれ三十日もいる間に、近傍の村の子供たちと友だちになって、いっしょに、草花の咲いた、大きな石のころがっている野原をかけまわって、きりぎりすをさがせば、また、水のきれいな谷川にいって、岩魚を釣ったりしたのであります。
「君、もう、じきに東京へ帰るのか。」と、一人の少年が勇ちゃんにききました。
その子は顔がまるくて、色の黒い快活の少年でした。勇ちゃんは、この少年が好きで、いつまでも友だちでいたかったのです。
「君のお家が東京だと、いいんだがな。」と、勇ちゃんは、いいました。
「君のお家こそ、こっちへ引っ越してくれば、いいのだ。」と、少年は答えました。
空の色が、青々として、白い雲が高く野原の上を飛んでゆきます。
あとの子供らは、いつか、どこかへいってしまったのに、その少年ばかりは、名残惜しそうに勇ちゃんのそばから、いつまでもはなれずにいました。
「いいとこへ、つれていってやろうか。」と、少年は先に立って、草を分けて、山の方へ歩きました。
「どこへゆくんだい?」
勇ちゃんは、顔をあげて、いくたびもあちらを見ました。少年は、だまって歩いていましたが、やがて目の前に、林が望まれました。葉風が、きらきらとして、木の枝は、風にゆらめいていました。もう口を開けているくりの実がいくつも、枝のさきについているのでした。
「僕、見つけておいた、いいものを取ってきてあげるから、ここに待っていたまえ。」と、少年は雑木林を分けてはいりました。そして、あちらの、こんもりとした、やぶのところへいって、しきりと、つるをたぐり寄せていました。勇ちゃんは、後ろについてはいる勇気がなく、林の端に、立って待っていると、少年は紫色のあけびの実をいくつも、もいできてくれたのであります。
「この森には、りすがいるから、みんな食べてしまうんだ……。」と、少年は、いいました。
勇ちゃんは、はじめて、りすは、こんなところにすんでいるのかと知りました。
「東京へ持って帰って、お土産にしよう。」
勇ちゃんは、兄さんや、姉さんや、また、近所の叔母さんに、これを見せたら、どんなに喜ばれるだろうと思いました。
「東京へ持って帰るなら、まだ、いいものがあるぜ……。高山植物が、いいだろう……。」
「高山植物があるの?」
勇ちゃんは、少年について、こんどは山の方へ上ってゆきました。山と山の間になっている谷合いにさしかかると、日がかげって、どこからか、霧が降りてきました。岩角に白い花が咲いているのを、少年は、見つけて、
「これは、うめばちそうだ。」といって、丁寧に根から掘ってくれました。
また、湿っぽい、日のわずかにもれる、木の下をはって、小さいさんごのような赤い実のなっているのを指しながら、
「これは、こけももだ。こうして持っていったら、根がつくかもしれない。」と、少年はしんせつに、掘ってくれました。
温泉場の町まで、二人は、いっしょにきました。別れる時分に、
「君、また明日のいまごろ、あの大きなしらかばの木の下であわない?」と、勇ちゃんはいいました。
無邪気な、黒い目をした少年はうなずいて去りました。
「なにか、僕の持っているものをやりたいな。」と、勇ちゃんは少年と別れてから、考えていました。
「明日あったとき、僕の大事にしている銀のペンセルをやろう……。」と、心の中で、きめました。いつしか、約束した翌日とは、なったのであります。
しらかばの下へ、勇ちゃんはくると、すでに少年は待っていました。おたがいに、にこにことして、また、珍しい草をさがしたり、石を谷に向かって投げたりしましたが、勇ちゃんは、忘れないうちに、持ってきた、銀のペンセルを出して、
「これを君にあげよう……。」といって、少年に渡そうとしたのです。
少年は、手を出したが、じっと見て、それをもらおうとはしませんでした。
「僕、こんないいものいらない。」と、顔を赤くしながら辞退しました。
「いいから、君にあげよう。」と、勇ちゃんは、無理にも取らせようとしました。
「僕、鉛筆があるから、いらない。」と、少年はなんといっても取らなかったが、ついに、駆け出していってしまったのです。
勇ちゃんは、あとで、さびしい気がしました。それから、温泉場を立つ日まで、ふたたび少年を見ることができなかったのでした。東京へ帰る汽車の中でも、勇ちゃんは、少年のことを思い出していました。
「なんで僕のやろうといった、ペンセルを取ってくれなかったのだろうな……。」
こう思ったが、一方に、ペンセルなんか欲しがらない、少年が、なんとなくなつかしく感じられたのです。
高山植物は、都会へ持ってくるとしおれてしまいました。
「どうかして根のつくように。」と、勇ちゃんは高い物干し台の上に、こけももとうめばちそうの鉢を持ってきておいたのです。青い青い夜の空は、遠く、北の方に垂れかかっていました。そのかなたには、これらの植物のふるさとがありました。星の光が高原の空にかがやいたように、夜ふけの空にきらめき、さすがに、都会にも、秋がきたのを思わせて、風がひやひやとしました。
「ここに置いたら、山にいるような気がして、根がつくかもしれぬ。」と、勇ちゃんは、少年の取ってくれた草花を大事にかばいました。そしてあくる日、夜の明けるのを待って、物干し台に上がってみますと、なんとしても、だますことはできなく、うめばちそうの白い花は頭を垂れ、こけももの細かい美しい葉は幾分か黄ばんでいるのです。
あの清浄な、高い山でなければ、これらの草花は育たないことを知りました。勇ちゃんは、それから毎晩のように物干し台に上がって、青い夜の空をながめながら、高い山や、少年のことを思い出していました。白々として、銀のペンセルのように、天の川が、しんとした、夜の空を流れて、その端を地平線に没していました。
「僕は、こんないいものはいらない。」といった、少年の言葉が耳にひびいて、こけももの赤い実のように、うめばちそうの白い花のように、勇ちゃんには、未知の山国の生活がなつかしまれたのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 7」講談社
1977(昭和52)年5月10日第1刷発行
1982(昭和57)年9月10日第6刷発行
底本の親本:「未明童話集5」丸善
1931(昭和6)年7月10日発行
初出:「児童時代 創刊号」
1930(昭和5)年12月
※表題は底本では、「銀のペンセル」となっています。
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校正:きゅうり
2020年5月27日作成
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