熊さんの笛
小川未明
熊さんは、砂浜の上にすわって、ぼんやりと海の方をながめていました。
「熊さん、なにか、あちらに見えるかい。」と、いっしょに遊んでいた子供がたずねると、
「ああ、あちらは、極楽なんだよ。いつもお天気で、あたたかで、花がさいて、鳥が鳴いているところだ。」といいました。
「どうして、そこへはゆけるの……。」と、子供は聞くと、
「ちょっとゆけないけれど、俺には、ありありと、その国が目に見えるので。」といいました。
子供たちは、熊さんのそばへ寄ってきました。そして、いっしょに砂浜の上にすわって、沖の景色をながめたのであります。
夕焼けのした、あちらの空には、美しい雲が、ちょうど、花びらの散ったように、漂っていました。そこで、冷たそうな波が、ただそれを洗っているようにみえるばかりでした。
「私には、なんにも見えない……。」と、子供はいいました。
「おまえたちが、俺みたいに、笛が上手になれば、極楽の景色が見えるようになるよ。いま、俺が笛を吹くと、あちらで、天人たちが、耳を傾けて聴いているのだ……。」
熊さんは、こういって、持ってきた笛を吹きました。笛の音色は、澄みわたって、晩方の海を、波の上を、ただよいながら、遠く、遠く、流れていったのです。そして、ほんとうに、あちらのはてしない夕焼けの空まで、達するごとくに思われました。
「昨日よりも、今日は近くなって見えるな。」と、熊さんはいいました。
熊さんが、笛の名人であることは、村の人で知らぬものはありません。子供たちは、だまって、熊さんの吹く笛の音を聴きながら、沖の方をながめていました。そのうちに、まったく、日が沈んでしまったのであります。
「さあ、帰ろうか……。」
熊さんは、立ち上がりました。子供たちは、いっしょに後からついて、村の方へ帰ってゆきました。
まだ、独り者で、正直な熊さんは、みんなからかわいがられていました。子供たちは、学校から帰って、熊さんのところへやってきました。
「熊さん、僕に、笛を造っておくれよ。」と、頼みますと、
「ああ、そのうちに、いい竹を見つけて、造ってやろう……。」といいました。
「いつ、造ってくれるの?」
「いい竹が、見つからなけりゃだめだ。」
「竹やぶへいって、いいのを切ってくれば、いいじゃないか?」と、子供がいいますと、熊さんは、笑って、
「枯れた竹で造らなけりゃ、割れてしまうぜ。この冬、竹を切ってきて、枯らしてから、いい笛を造ってやろう。それまでに、ここにある笛で、けいこをするといい。」といいました。
いつしか、冬となりました。あたりは、灰色となって、雪がちらちらと降って、森や、林に、白く、綿をちぎって、かけたような日でありました。
「熊さん、僕に、やまがらの鳴くような音の出る笛を造っておくれ。」と、一人の子供がいいますと、
「僕にもね。」と、ほかの一人がいいました。
すると、一人の子供は、
「熊さん、いつか、約束したじゃないか。冬になったら、竹を切って、僕に横笛を造ってくれるといっただろう……。僕は、けいこをして、だいぶ上手になったよ。」といいました。
熊さんは、子供たちの顔を見て、笑っていました。
「じゃ、これから、竹を見つけにいこうか。」といって、子供たちといっしょに、竹やぶの方へやってきて、雪のかかった竹を選り分けて、よさそうなのを切っていたのでありました。
ちょうど、そのとき、そこへ旅人が通りかかりました。
「いまごろ、竹を切ってなにになさるんです。」と、たずねた。
「笛を造るのです。」
「え、笛を……。なるほどな。」といって、その旅人は、ながめていました。
「おじさん、この人は、笛の名人ですよ。」と、一人の子供が、熊さんのことを、旅人に紹介しました。
「ほんとうですよ。この人の笛の音は、極楽まで、聞こえるのです。」と、ほかの子供がいいました。
「極楽?」といって、旅人は目を円くしました。
「極楽です、ほんとうですよ、おじさん。海のあなたに、極楽があって、いつもあちらはお天気なんです。」と、子供はいいました。
旅人は、考えていましたが、
「まったく、あの山を一つ越すと極楽ですよ。花は、咲いているし、雪など見たくもない。暮らすなら、あんなところがいいですね。」といいました。
熊さんは、旅人のいったことに、耳を傾けていましたが、西の国境に見える高い山を一つ越すと、極楽だということを聞くと、びっくりして、
「旅のお人……あなたは、あの山を越しておいでになりましたのですか。」といって、たずねました。
「そうです。私は、長い旅をしてきました。また、これから、長い旅をしなければなりません……。」と、答えました。
熊さんは、竹を切ることも忘れて考えこんでしまった。そして、旅人がいってしまうと、ため息をつきました。
「俺も、旅に出てこようか……。」と、独り言をしました。
子供たちは、熊さんをせきたてて、
「さあ、早く竹を切って帰ろうよ。また、空が暗くなったもの。」といいました。
熊さんは、もう、竹を切るのをやめました。
「俺の持っている笛をみんなに分けてやろう……。」といいました。
子供たちは、熊さんが持っている笛をくれるといったので、大喜びでした。
熊さんは、家に帰ると、みんなに一本ずつ、自分の大事にしていた笛を分けてやりました。
「俺は、あの山を越えて、極楽へいってくる……。」といって、その明くる日、ふらりと熊さんは、どこへか出かけてしまったのです。
それぎり熊さんは、村へ帰ってきませんでした。子供たちはめいめい、笛を上手に吹くようになりました。そして、砂浜へいって、熊さんがしたように、晩方の赤い空をながめながら、笛を吹いたのです。
「あちらは、極楽なんだね。」
「この笛は、極楽まで聞こえるだろうか。熊さんは、どうしたろう……。」などといって、子供たちは、笛を吹いたのでありました。
ある日、一人の子供は、こうして、沖を見ながら、笛を吹いていたが、
「極楽が、だんだん近くなってきたようだよ。」と、いいました。
「ほんとうに?」と、ほかの子供たちは、夕焼けのした遠方の空をながめながらいいました。
「金色の馬に乗って、天人の花をまきながら走っているのが、はっきり見えるのだもの。」と、子供はいったのです。
子供たちは、海岸の丘に立って、だまって、沖をながめて、あこがれていました。
その晩には、いつにないあたたかな風が、海を渡って吹いてきたのです。そして、明くる日になってみると、いままで花のなかった砂浜に、黄色な星のような花や、赤い貝がらのような花が一面にさいて、村にも、春がきたのでありました。
「子供たち、これが極楽なんだ。いまに熊さんが、疲れて帰ってくるだろう。そして、ここがいちばんいいというから……。」と、村のおじいさんが、笑って話したのであります。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
1930(昭和5)年7月20日
※表題は底本では、「熊さんの笛」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:栗田美恵子
2020年6月27日作成
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