なまずとあざみの話
小川未明
春の川は、ゆるやかに流れていました。その面に、日の光はあたって、深く、なみなみとあふれるばかりの、水の世界が、うす青くすきとおって見えるように思われました。
この不思議な殿堂の内には、いろいろの魚たちが、おもしろおかしく、ちょうど人間が地の上で生活するときのように、棲息していたのであります。なかでも、小さな子供たちは、毎日群れをなして、水面へ浮かび、太陽の照らす真下を、縦横に、思いのままに、金色のさざなみを立てて泳いでいました。そして晩方、岸の暗いすみの巣のあるところへ帰ってくると、自分の親たちや、またほかの魚たちに、見てきたいろいろのことを物語ったのでした。
「大きな船がいったぞ。そのときは、おれたちは、波の中へ巻きこまれようとした。やっと急いでほどへだたった、安全な場所へ避けることができた。船の上では、ほおかむりをした男が、たばこをすっていた。」
「あちらの岸の方には、人間が、いくたりも長いさおをもっていったりきたりしていた。お父さんや、お母さんたちも、気をつけんければならん……。」
あかあかと水の上をいろどって、夕日は沈みました。水の中は、いっそう、暗く、うるわしいものに思われました。このとき、銀のお盆を流したように、月が照らしたのです。
「おまえたちも、あんまり方々を遊び歩かないほうがいいよ。日が暮れると、やっと安心するのだ。私たちは、今日も無事に幸福に、送ることができたと思うのだよ。」と、魚の親たちは子供たちを見まわしながらいいました。
「お父さんも、お母さんもお休みなさい。」と、子供たちはいった。
「みんなも、つかれたろうから、よくお休みよ。」と、親たちは、答えた。そして、魚たちは、巣の深みへじっとして、静まったのであります。
このとき、ひとり、なまずのおばさんは、穴の中から出て、だれはばかるものもなく、大きな口を開けて、水の中で、盲目になって、まごついている虫どもをのみはじめたのでした。おばさんの頭にさしている長い二本のかんざしは、月の光が水の中までさしこんだので、気味悪く光ったのです。
「昼間は、いろいろな魚たちが、わいわいいっているので、うるさくてしかたがないが、夜は私の天下だ。」と、なまずのおばさんは、大きな口でぱくぱくやりながら、へびのようにしなやかな尾をひらひらさして歩いていましたが、そのうちに、すさまじい勢いで、うなって、体を四苦八苦にもみ、ゆり動かすと、いくたびも水の中で転動しながら、どこかへ姿をかくしてしまいました。
物蔭から、このようすを見ていた魚がありました。その魚たちは、小さな声でささやいたのでした。
「まあ、どうしたのでしょう?」
「あのしゅうねん深い、おそろしいおばさんが、あんなに苦しんだのを見たことがない。なんでも、思いがけない敵のために、ひどいけがをしたのですよ。」
「それに、ちがいありません……。なんという物騒なことでしょう……。」
魚たちは、ますます小さくなって、息をひそめてじっとしていました。
川のふちに、あざみがつつましやかに咲いていました。終日だれと話をするものもなく咲いていたのです。ただ、自分の姿の水の面にうつるのと、おりおり、音もなく雲が、影を水の上に落として過ぎてゆくのを、ながめたばかりでした。
あざみは、咲いてから、まだ間のないときでした。ある朝一ぴきのなまずが、すぐ目の下に、岸のすみに白い腹を出して苦しんでいるのを見ました。どうしたのだろう? と、あざみは、だまっていました。しかし、日が明るく、水の面を照らしても、なまずは、おなじところに起き直ったと思うと、いつのまにか、また白い腹を出して仰向いて、もだえていたのです。
「どうしたのですか?」と、あざみの花は、ついに呼びかけました。
このとき、なまずは、起き直ったところでした。
「ゆうべ、人間にやられたのです。もうすこしで水の上へ引き上げられるところでしたが、やっと糸を切ってやりました。けれど、針がのどに残っていて苦しくてしようがありません。私は、もう長い間、この川に生きてきましたが、こんどばかりは死ななければなりません。」と、うらめしそうにいいました。
あざみは、よく、なまずを見ますと、なるほど、年をとっていました。小さな魚たちが、気味悪がっているおばさんは、このなまずであるかと、しみじみとながめたのでした。しかし、あざみは、いま、この苦しんでいるなまずにたいして、同情せずにはいられませんでした。
「ほんとうに、おいたわしいことでした。私は、この岸に咲いて、あなたのお苦しみなさるのを見るばかりで、どうすることもできません。」といいました。
なまずは、また白い腹を出して倒れたが、やっと力を出して起き上がった。
「私は、人間をうらめしく思います。この深い水底にすんでいる私たちが、どんな悪いことを人間にたいしてしたでしょうか?」
なまずは、そういったことさえやっとでした。あざみは、なまずのいうことに、耳をかたむけているうちに、人間が、自分を毒々しい、野卑な花だといって、足げにしたことを思い出しました。そのとき、人間は、すみれの花をかわいらしい花だといってほめたのです。
「ほんとうに、いつ私たちは、人間にたいして、にくまれるようなことをしたか。すべてが同じ花だのに、なぜ差別をつけなければならぬのか……。」と、あざみは、思ったが、口には出さずに、
「あなたのおうらみなさるのは、もっともです。」といいました。
あざみは、なまずの苦しみつづけた最後を見守りました。その日の晩方、なまずは、白い腹を出したきり、もう起き直りませんでした。小さな魚たちは遠くから、この有り様をながめていたが、急いでこのことを親たちに告げるために、姿を消してしまった。
二、三日たつと、あざみの花は、黒く色が変わってしまった。たまたま飛んできたちょうが、これをながめて、
「この花は、病気だろうか?」といって、止まらずに飛び去ってしまったのです。
なやみと、うれいのために、あざみの花は、黒くなってしまったのでした。
都からきた、植物学者が、この川のほとりを歩きました。そして、黒いあざみの花を見つけてびっくりしました。
「これは、たいした発見だ。この花に、おれの名まえでもつけてやろう。」と、喜んで、根もとから、あざみの花を切ってしまった。
学者は、その花を帽子にさしました。もっとこのあたりをたずねたら、新しい、不思議な植物が発見されないものでもないと、目をさらにして歩いていました。
「なにか、新しい発見をして、博士になろう。」と、学者の目は希望に燃えていました。
ちょうどその後へ、昨日のちょうが飛んできて、
「あの気の毒な、病気のあざみはどうなったろう。」と、みまったのでした。すると、むざんにも、だれにか、ちぎられてしまっていたので、ちょうは、あわれな花の運命に同情せずにはいられなかったのです。
学者は、都へ帰るため汽車に乗っていました。あざみの花を散らさないようにと、帽子にさしていたが、窓によりかかっているうちに居眠りをしました。花は、もうまったくしおれかかっていたので、風の吹くたびに、汽車の窓から、過ぎる村々へ、散って飛んでゆきました。
原因不明の軽い熱病が、村々へ流行したのは、その後のことです。しかし、日がたつと、いつしかその病気も、あとかたなく消えてしまいました。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
1930(昭和5)年7月20日
初出:「赤い鳥」
1928(昭和3)年5月
※表題は底本では、「なまずとあざみの話」となっています。
※初出時の表題は「なまづと、あざみの話」です。
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校正:へくしん
2021年9月27日作成
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