サーカスの少年
小川未明
輝かしい夏の日のことでありました。少年が、外で遊んでいますと、花で飾られた、柩をのせた自動車が、往来を走ってゆきました。そして、道の上へ、一枝の白い花を落として去ったのです。
これを見つけた子供たちは、方々から、走り寄りましたが、いちばんはやかった少年が、その花を拾ったのでした。なんという花か、わからなかったけれど、それは、香いの高いみごとな花でありました。
拾われなかった子供たちは、うらやましそうに、その花を見て、残念がりました。
「お葬いの花なんか拾って、縁起がわるいな。」と、一人がいうと、
「いくら、きれいな花でも、拾うもんでないね。」と、他の一人が、あいづちをうちました。
「なんだ、自分たちだって、拾おうと思って、駆けてきたんじゃないか。なにが、花を拾ったって、縁起が悪いもんか……。」と、少年は、大事そうに、その花を持ってゆきました。
しかし、そういわれると、なんだか、いい気持ちがしませんでした。だいいち、仏さまになった人にあげた花を拾っていいものか、考えれば、悪いような気もしたからです。
おじいさんが、柳の木の下で、アイスクリームの屋台を出して、つくねんと、こちらを見て笑っていました。少年は、おじいさんに、このことを聞いてみようと思いました。
「ねえ、おじいさん、お葬式の自動車から落ちた花を拾っても、悪いことはないね?」と、問いました。
おじいさんは、ちょうど、お客もなく、先刻からようすを見ていましたので、なにもかも知っています。
「ああ、悪いことも、なんともないよ。どうせ、だれか拾わなければ、人に踏まれたり、車にひかれて、めちゃめちゃになってしまうのだもの。それを拾って、びんにさしてやれば、まだ、花は見られるのだから、仏さまだって、お喜びなされるよ。」と、答えました。
それを聞くと、少年は、急に、うれしくなりました。
「仏さまになられた人は、どんな人だろうね。」
「そうだな。美しい、やさしい娘さんであったかもしれないな。」
おじいさんは、そういって、街の遠くの空を見やりました。あちらには、金色の雲が、どこかの高いビルディングの屋根に、ひっかかっているように、じっとしていました。
少年は、家へ帰って、小さなガラスのびんに水をいれて、花をさして、窓の際にのせておきました。貧乏な、小さな家でありましたから、この花だけが、光って見えたのであります。そして、花からは、いい香いが、家じゅういっぱいにただよいました。
少年のすみかは、町裏の狭い路地でありましたから、平常は、はちや、ちょうなどはめったに飛んできたことがありません。それだのに、この花があるばかりに、どこからか、一ぴきのはちが飛んできて、それにとまりました。少年は、だまって、はちがみつを吸うのを見ていました。そのうちに、もう甘いみつが、たくさんになかったとみえて、はちは、さも名残惜しそうに、花のまわりを二、三べんも飛んでいましたが、途を迷って、家の内へはいり、あちらの障子につき当たって、そこで、ブンブン羽ばたきをしたのです。
「ばかだな。なぜこんなところへきて、花を探すのだ。もっと郊外の方へ飛んでゆけば、広い野原や、圃があるじゃないか。そして、そこには、いろいろの花が咲いているだろう。……そんなことを、このはちは知らないのかな。」
少年は、障子にとまって、出途を失い、困っているはちを見ながら、いろいろのことを空想しました。
これが、他の日であったら、あるいは、このはちを殺したかもしれません。しかし、いまは、そんな、残酷な心持ちにはなれなかったのです。少年は、障子を開けて、うちわで、はちをあおって、逃がしてやりました。
「そうだな、美しい、やさしい娘さんかもしれない。」と、アイスクリーム売りのおじいさんがいったのが、頭に浮かびますと、彼は、家出してわからなくなった、一人の姉のことを思わずにはいられなかったのでした。
「おれも、これから広い世の中へ出て、姉さんを探してこよう。そうしたら、お母さんも、お喜びなさるだろう。」
少年は、白い花を見つめているうちに、こう決心しました。このとき、不思議にも白い花は、ポタリと音をたてて、枝をはなれて、下に落ちたのでした。
* * * * *
それから、二、三年もたった、後のことです。少年は、あるサーカス団に加わって、諸国を流浪していました。自分の姉が、サーカス団に加わっているようなうわさを聞いたからでもありました。
サーカスの一座は、あるときは西に、あるときは東に、ところ定めず、興行をつづけて歩きました。真夏の空に、高いテントを張って、あぶない芸当を演じたのです。少年は、綱渡りをしたり、さおの上で逆立ちをしたり、いろいろの軽業をするようになるまでは、どれほど、つらいめをみたかしれません。打たれたこともあれば、食物をへらされたこともあれば、蹴られたこともありました。彼は、いくたび泣いたかしれなかった。しかし、そのたびに、もし、ねえさんが、やはり、こうしたサーカスの中に、はいっているなら、自分と同じ苦しみを受けたであろうと思って、我慢したのでありました。
けれど、いつになったら、自分の探ねている姉にめぐりあわれるか、わからなかった。また、いつになったら、この苦しみからのがれて、幸福の日を送られるかわからなかった。彼は、そう思うと、憤然として、すきを見て、このサーカス団から逃げ出そうと苦心したのであります。
ある朝のこと、すこしの油断を見はからって、彼は、一座から逃げ出しました。そして、どこというあてもなく、ただ遠方へと、足に委せて走ったのです。うしろを振り向き振り向き、だれか追ってきはしないかと、気づかいました。ついに、その日の昼過ぎのころ、名も知らない、野原のはてにたどりついて、どっかりと草の上に倒れて、疲れきった体を投げ出したのでした。
頭をめぐらしたけれど、だれも、ここまで追ってくるようすはなかった。少年は、いまごろ自分が見えなくなったので、一座では騒いでいるだろうと思いました。このとき、すぐかたわらで、ブーン、ブーンとせわしそうな鳴り音がしました。見ると、一ぴきのはちが、のばらの花に止まろうとして、くもの巣にかかって、もだえているのでした。彼は、それを見ているうちに、いつか葬式の自動車から落ちた花を拾ってびんにさしたとき、はちがたずねてきたことを思い出しました。自分は、なぜこんな花などにやってこずに、広い野原へゆかないのだろう? そうすれば、甘い新鮮なみつがたくさんあって、自由にそれが取られるのにと思ったことがあったが、いま、広い野原も、広い世間も、危険なしに渡られないことを感じたのでした。彼は、はちを救ってやりました。
そこから、さらに歩いて、海岸の方へ出ますと、人々が集まって、高い絶壁の上を指さして話をしていました。聞けば、海賊が、あの崖の上に、なにか宝を隠しているということであるが、だれも、そこへ取りにゆかれないというのでした。
「私が上がります。」と、少年はいいました。軽業をしていた、鍛えられた体は、やすやすと崖を登って、隠してあった、宝物の包みを持ってきました。村の人々は集まって、少年の勇気をほめそやしました。すると村長らしい老人が、「おまえさんが、いままで受けたつらい修行のおかげで、あの高い崖に登れたのだから、その宝物は、だれのものでもない、おまえさんのものだ。」といいました。この正しい裁判によって、はじめて、少年の運命は、美しく、花のように開けたのでした。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集4」丸善
1930(昭和5)年7月20日
初出:「国民新聞 日曜付録」
1929(昭和4)年7月14日
※表題は底本では、「サーカスの少年」となっています。
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校正:へくしん
2022年2月25日作成
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