負傷した線路と月
小川未明
レールが、町から村へ、村から平原へ、そして、山の間へと走っていました。
そこは、町をはなれてから、幾十マイルとなくきたところでした。ある日のこと、汽車が重い荷物や、たくさんな人間を乗せて過ぎていきましたときに、レールのある部分に傷がついたのであります。
レールは、痛みに堪えられませんでした。そして泣いていました。自分ほど、不運なものがあるだろうか。毎日、毎日、幾たびとなしに、重い汽罐車に頭の上を踏まれなければならない。汽罐車は、それをば平気に思っている。そればかりでなく、太陽が、身を焼くほど、強く照らしつける。日蔭にはいろうとあせっても自由に動くことができない。太い釘が自分の体をまくら木にしっかりと打ちつけている。考えてみると、いったい自分の体というものはどうなるのであろうか……と、レールは、思って泣いていました。
「どうなさったのですか?」と、そばに咲いていた、うす紅色をしたなでしこの花が、はじらうように頭をかしげてたずねました。
いつも、この花は、なぐさめてくれるのであります。こういわれて、レールはうれしく思いました。
「いえ、さっき、汽罐車が、傷をつけていったのです。たいした傷ではありませんけれども、私は、身の上を考えてつくづく悲しくなりました。それで泣いていたのです。」と、レールは、答えました。
「まあ、そうでしたか……。あなたのような、強い方がお泣きなさるのは、よくよくのことでございましょう。私どもだったら、どうなってしまったかしれない。そういえば、さっきたくさんの材木と、米だわらと、石炭と、なにかの箱を、いっぱい貨車に積んでいきました。そして、今日は客車もいつもよりか長かったようでございました。山のあちらには、海があり、また、温泉などもありますから、そこへいく人たちでにぎわっていたのでしょう。それにしても、あなたの傷が、たいしたことがありませんで、ようございましたこと。」と、花は、しんせつにいいました。
レールは、きらきらと光る顔を花の方に向けて、
「やさしいあなたが、私をなぐさめてくださるので、どれほど、私は、うれしく思っているでしょう。あなたが、すぐ近くで咲かない時分はどんなに、私は、さびしかったでしょう……。」と、日ごろは、いたって強く黙っていて、辛抱しているレールは、つい涙ぐましい気持ちになりました。
すると、うす紅色をした花は、いいました。
「しかし、私の命もそう長くはありません。このあつさで、私の体は、弱っています。長いこと雨が降らないのですもの。」と、歎いたのでした。
このとき、風が、レールの上をかすめて、花を揺すっていったのであります。
レールは、耳をすましながら、
「夕立がやってきそうですよ。遠方で雷が鳴っています。それは、あなたの耳には、はいりますまい。ずっと遠くでありますから。けれど私どもは、こうして長く、つづいていますので、その音が伝わって聞こえてくるのです。」といいました。
花は風に吹かれながら、
「ほんとうでしょうか。そうであれば、どれほど私はうれしいかしれません。」と答えました。
このとき、花を吹いている風がいいました。
「ほんとうですよ。今日は、こちらも降るでしょう。もうすこしたつと、雲がぐんぐん押し寄せてきて、あの太陽の光を隠してしまいますから。」と、知らしてくれました。
レールは、熱くなった体を、早く水に浴びて冷したいと思いました。また、花は、早く、水を吸って死にそうな渇きをば、いやしたいと思いました。
しばらくすると、はたして、黒い雲や、灰色の雲がぐんぐんとあちらから押し寄せてまいりました。そして、青々としていた空をしだいに征服して、いつしか太陽の光すら、まったくさえぎってしまったのです。
焼けるように、赤くいろどられていた野は、急に涼しく、うす暗くかげったのでした。その時分から雷の音は、だんだん大きく近づいてきたのでした。
レールも花も、声をたてずに、ものすごくなった空の模様をながめていました。雨がとうとう降ってきたのであります。雨は花に降りそそぎました。また、レールの上に降りかかりました。そしてレールの熱くなった体を冷やして、その傷痕を洗ってやりながら、「まあ、かわいそうに……。」と、雨はいいました。
レールは、涙ぐみながら、雨に向かって、今日、冷酷な汽罐車に傷つけられたこと、太陽が、これまでというものは、毎日、毎日、用捨なく、頭から照りつけたことなどを話しました。すると雨は、こういいました。
「それは、お気の毒なことです。私はあつくなっていたあなたの体をひやしてあげました。私たちはもうじきにここを去らなければなりません。その後にはきっと月が出るでありましょう。月は、太陽とはまったく気性がちがっています。そして、万物の運命をつかさどる力は、いまこそ太陽のようになくても、昔は、えらかったものだそうです。そのことを月に向かってお話しなさい。月は、あなたが訴えなされたら、けっして悪いように取りはからいはしなかろうと思います……。」と、雨は静かな調子でさとしてくれました。
はたしてほどなく雲が去り、そして降っていた雨は晴れてしまいました。あとには、すがすがしい夕空が青々と水のたたえられたように澄んで見えました。
その夜、平原を照らした月は、いつも見る月よりは清らかで、その光のうちには、慈悲の輝きを含んでいました。やさしい花は、雨にぬれたままうなだれて、早くから眠ってしまい、そしてその葉蔭のあたりから、虫の泣く声が流れていました。
去っていった雨は月にささやいてでもいったものか、月が、この平原を照らしたときは、まずレールの上に、その姿を映しました。レールは、月に向かって、今日、自分を傷つけていった汽罐車があったことを告げたのであります。
「どんな汽罐車であるかしれないけれど、そんなことをしてしらぬ顔をしているとは冷酷な汽罐車である。私がいって不心得をさとしてやるから、もし見覚えがあったら聞かしなさい。」と、月はいいました。
レールは、汽罐車の番号を教えました。
月は、さっそく、町から村へ、村から山の間へというふうに、力のおよぶかぎり、レールの告げた汽罐車をさがして歩いたのです。ちょうどその時分、鉄橋の上を走っている汽車がありました。月はその汽罐車ではないかと飛び下りてみましたが、番号がちがっていました。
月は海岸という海岸、野原という野原をさがしてまわりました。そして、いたるところに汽車が走っているのを認めました。貨車ばかりのもあれば、また客車に貨車がまじっていたのもありました。海岸では海水浴をしている人間もありました。彼らは、「ほんとうに、いい月夜だこと。」といって、砂浜でねころんだり、また暗い波の中を泳いだりしていました。客車の窓からは、人々が頭を出して、海の景色をながめながら、笑ったり、話したりしていました。
しかし、この汽車の汽罐車も、月のたずねている番号ではありませんでした。こうしてほとんど同じ時刻に、地上をたくさんの汽車が走っていましたが、レールのいった汽罐車は、トンネルの中へでもはいっていたものか、つい月の目にとまりませんでした。
涼しい一夜を送って、レールは、もはや、昨日の苦痛を忘れてしまいましたけれど、約束をした月は翌日の夜も、レールを傷つけた汽罐車を探してまわったのでした。すると、ある停車場の構内に、ここからは、遠くへだたっている平原の中のレールから聞いた番号の汽罐車がじっとして休んでいました。
月は、さっそく、汽罐車の上へたどりつきました。そして、いつものように、静かな調子で、
「どうして、そんなに、沈んで、じっとしているのだ。」といって、たずねました。
汽罐車は、月に、こういって話しかけられると、はじめて、口を開きました。
「私はどんなに、疲れているかしれません。毎日、毎日、遠い道を走らせられるのです。そして昨日は、いままでにない重い荷をつけさせられていたので、一つの車輪を痛めてしまいました。私は、あの重い荷物と車室の中で、そんなことには無頓着に、笑ったり、話したりしていた人間が、憎らしくてしかたがありません……。」と訴えたのであります。
「そんなら、おまえも、体をいためたのか?」と、月は問いました。
「そうです。どこかでレールとすれ合って、一つの車輪を傷つけました。」と、汽罐車は答えました。
月は、それを聞くと、だれが悪いということができなかった。そして、レールを傷つけたといって汽罐車をしかることもできなかったのであります。
「その荷物は、どこまで載せていったんですか。」と、さらに月はききました。
「どこといって一ところではありませんでした。大きな箱は、港の駅までつけていき、また石炭や木材は、ほかの町で降ろしました。」と、汽罐車はいいました。
「どうぞ、お大事に……。」といって、月はこんどは、港の方へまわったのであります。すると、いま、汽船が煙をはいて出ようとしていました。その船には、大きな箱がいくつも載せられてありました。月は、さっそく、船の上へやってきて、箱を照らしたのであります。
「これからどこへいくのですか。」と、月はたずねました。箱は、黙って、物思いに沈んでいましたが、
「私たちは、どこへやられるのかわかりません。故郷を出てから、長い間汽車に載せられました。そして、いまこの広々とした海の上をあてもなく漂っているのをみると心細くなるのであります。」と、箱は答えたのです。
月は、そこで、いったいだれが悪いのかと考えました。そこで、こんどは、人間のようすを見とどけようと思いました。そして、街へ降りて、あたりを見まわしましたが、もうだいぶんおそかったとみえて、みんな窓がしまっていました。一軒、二階の窓がガラス戸になっているのがありましたので、月はそれからのぞきました。すると、そこには、かわいらしい赤ん坊がちょうど目をさまして、月を見て喜んで、笑っていたのであります。
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