正ちゃんは、三つになったときに、はじめて
自分には、お
母さんのないことを
知りました。それは、どんなにさびしかったでありましょう。みんなに、お
母さんがあるのに、どうして、
自分にばかり、お
母さんがないのか? それで、
正ちゃんは、
女中の
脊中におぶわれながら、
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん。」と、
小さな
掌で、
女中の
肩のあたりをたたきながら、
呼びました。
それは、「
私には、ほかの
子供たちのように、やさしいお
母さんがないの?」と、たずねていることがよくわかりましたので、
女中は、
「
坊ちゃんのお
母さんは、ののさまになってしまわれましたのですよ。」といって、
青い
空の
方を
指したのであります。
しかし、ののさまということも、また、ののさまになれば、
空へ
上ってしまわなければならぬということも、まだ
正ちゃんには、わかりませんでした。いろいろとかたことまじりに、
女中に
問いましたので、
彼女は、
「
坊ちゃんのお
母さんは、
遠いところへいってしまわれたのですよ。」と、
哀れな
子供に、
説いて
聞かせなければならなかったのです。
彼女には、どうしても、このとき、
死んでしまったということが、あまりに、
子供に
対して、いじらしくていえなかったのでした。
正ちゃんは、お
母さんが、
遠いところへいったと
聞くと、よく
女中の
話がわかりました。いつ、その
遠いところから、
帰ってくるかということも、また、その
遠いところというのは、どこだろうということも
知らなかったけれど、ただ、ぼんやりと、
遠いところへいったのだということだけがわかりました。
正ちゃんは、
自分をよくかわいがってくれる
女中の
脊中にいて、
不自由はしなかったけれど、
自分にはほかの
子供のように、お
母さんがないのだと
思ったときは、さびしそうにみえました。そして、どんなことを、
小さな
頭の
中で
思っているのか、
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん。」といって、
小さな
掌で、
女中の
肩のあたりをたたいたのであります。
ある
日のこと、もう、
夏でありましたから、
女中は
手にうちわを
持っていました。そのうちわは、
毎日のように、
勝手もとへご
用を
聞きにくる、
出入りの
商人が
暑中伺いに
持ってきたのであって、だれが
描いたのかしれないが、
若い
女の
人が、
晩方の
町を
歩いている
絵が
描いてありました。
女中は、なんということなく、また
深い
考えもなく、
脊中の
正ちゃんに、うちわを
見せて、
「
坊ちゃんのお
母さんは、ここにいられますよ。」といって、うちわの
中の
女の
人を
指さしたのでした。
正ちゃんは、じっと、その
絵にみとれていましたが、
「お
母ちゃん。」といって、
急に、かわいらしい
手で、しっかりとうちわの
柄をつかんでしまって、
放しませんでした。
その
絵の
女の
人の
顔は、あちらを
向いているので
半分しか
描いてありません。けれど
若い、しとやかな、
美しい
姿をしていました。そして、
墨絵で
書かれた
町は、
黒く
浮き
出て、
町の
屋根を
赤く
染めて、
夕焼けの
空が、もの
悲しく
見えていたのです。
子供の
目に、その
絵は、どんなふうに
映ったでしょうか。それをだれも
知る
人はありません。しかし
正ちゃんは、そのうちわを
持つと、じっとその
絵に
見入っていました。
赤い
絵の
具の
色が、
水晶のように、
清らかに
澄んだ、
正ちゃんの
瞳の
中にうつるのでありました。
「
坊ちゃんは、このうちわが、
大好きですね。」と、
女中は、
笑いながらいいました。
正ちゃんは、
寝起きのいい
子でありましたけれど、おりには、
不きげんで、
泣くこともありました。そんなとき、
彼女は、うちわを
持ってきて、
「お
母ちゃんが、お
母ちゃんが……。」といいました。
哀れな
子供は、ものいわない
絵に
見入って、
泣きやむのがつねでありました。そして、
小さな
指で、うちわに
描かれた、
女の
人を
指さして、
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん。」と、かわいらしい
声を
出して、
正ちゃんはいったのです。
絵は、もとよりなんの
言葉もありませんでした。しかし、
正ちゃんは、
絵のお
母さんが、
笑ってでも
見えるのか、ひとり、
声をたて、
自分で
笑って、なぐさめられたのであります。
夏でありましたから、ちょうどうちわの
絵のように
夕焼けのした
景色が、
町の
中でも
見られました。そのうちに、だんだん
夏も
終わりに
近づいたのです。
暑さを
忘れるようになると、だれでも、うちわを
粗末にします。たいていうちわというものは、その
年だけしか
使用しないからです。
女中も、やはりその
一人でありました。ある
日のこと、
勝手もとで、しちりんに
鍋をかけて
煮物をしていましたが、その
焼けた
鍋を
下ろすときに、
正ちゃんの
好きなうちわだという
考えもなく、その
上におろしました。そのために、うちわの
絵の
描いてある
表が、
赤黒く
焦げてしまったのです。そして、
正ちゃんのお
母さんも
焦げてしまいました。
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん。」と、
正ちゃんがいったときに、
女中は、その
焦げたうちわを
取り
上げて、いまさら、
自分の
無分別をば、
深く
心に
恥じながら、これを
正ちゃんに
渡しますと、
正ちゃんは、おどろいて、そのうちわを
見つめていましたが、ばたりと
手から
落として、
急に、
悲しくなって
泣き
出しました。
「お
母ちゃん! お
母ちゃん!」
なんといっても、
呼びつづけてやみませんでした。
女中は、
困ってしまった。しかし、
自分が
悪いのだと
思って、
「さあ、
坊ちゃん、おんぶなさい。いいきれいなうちわを
買ってきましょう……。」といいました。
彼女は、
探したら、これと
同じ
絵の
描いてあるうちわを
見つけないものでもない。それでなければ、もっと
美しい
女の
人の
描いてあるうちわがあるだろうと
思ったからです。
正ちゃんは、すぐには、おんぶしませんでしたが、お
母ちゃんの
描いてある、いいうちわを
買ってきましょうといったので、
泣く
泣く
女中の
肩につかまりました。
彼女は、
正ちゃんをおぶって、
町の
中をぶらぶら
歩きました。
「どこへいったら、うちわがあるだろう……。」
もはや、
季節が
過ぎてしまったので、
荒物屋や、
絵双紙屋のようなところを
聞いて
歩いてみたけれど、うちわを
並べている
家はありませんでした。
女中は、ほんとうに
困ってしまいました。
「いま、きっと、どこかにありますよ。」といって、
彼女は
正ちゃんをおぶって、なおもうちわを
探して
歩いたのでした。けれど、うちわはなかなか
見つかりませんでした。たまたま
売れ
残りのうちわがあっても、それは、
前の
正ちゃんの
大好きなうちわとは
似つきもしないもので、
正ちゃんは、それを
手に
取ると、だまって
捨ててしまいました。
女中は、それから、まだどんなに
探して
歩いたことでしょう。
「お
母ちゃんない、……お
母ちゃんない?」と、
脊中で
正ちゃんはいいました。
「いくら
探しても、どこにも、あれと
同じうちわはありませんよ。」と、
彼女は、
答えました。
まだ、三つの
正ちゃんにも、その
意味がわかったものとみえて、
正ちゃんは、
女中の
脊中で
大あばれをしました。
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん……。」といって、
泣きました。
女中は、しみじみと、これほどまでに
坊ちゃんが、ほんとうのお
母さんのごとく
思っているものを、
自分が
粗末にしたことは、まちがっていたと、
心から
悪かったと
思いました。そして、どんなにしても、あれと
同じようなうちわを
探さなければならぬと
思いました。
哀れな
彼女は、
町の
中を
歩いて、
歩いてまわったのです。とうとう
足は、
疲れました。
そのうちに、
日はまったく
暮れてしまった。そして、
秋の
夜らしく、
淡いもやが、一
面に
町の
屋根にかかりました。いま、
彼女は、
正ちゃんをおぶって、
寂しい
道を
歩いていました。
「
坊ちゃん、わたしが
悪かったのですから、どうか
堪忍してくださいね。」と、
彼女はいいました。
子供は、それがわかったように、おとなしくしていた。そのとき、ちょうど、まんまるな
月が、
林の
上へ
上ったのであります。
「おお、いいお
月さまだこと。
坊ちゃんのお
母さんは、あの
中に、おいでなさるのですよ。」と、
彼女は
月を
指さしながらいいました。
正ちゃんは、じっと、
月を
水晶のような
清らかな
目でながめていましたが、それらしいなにかが
映ったのか、
「お
母ちゃん、……お
母ちゃん。」と、
自分も
月を
指さして、にっこりしました。――これは、
正ちゃんが、はじめて、この
世の
中の
哀れを
解したときであったのであります。
――一九二七・一〇――