お父さんの見た人形
小川未明
娘の父親は、船乗りでしたから、いつも、留守でありました。その間、彼女は、お父さんを恋しがっていたのです。
「いまごろは、どこに、どうしておいでなさるだろうか?」
こう思うと、少女の目には、はてしない青い海原がうかびました。そして、その地平線を航海している、汽船の影が見えたのであります。
「もう、いくつ眠たら、お父さんは、お帰りなさるだろう?」
彼女は、毎日、恋しいお父さんの帰りをば待っていました。
娘が、こうして、家で思っているように、船に乗っている父親は、また、子供のことを思っていました。
「どんなにか、私の帰るのを待っているかしれん……。」
父親は、汽船の甲板の上に立って、これから、船の着こうとする港の方をながめていました。そして、指を折って、故郷へ帰る日のことなどを考えていました。
娘には、母親がなかったのです。彼女の小さな時分に、お母さんは、なくなってしまった。彼女が、父親を慕ったのも、父親が、一倍娘をかわいがったのも、そのためでありました。
たとえ、父と子は、たがいに思っても、幾千マイルとなく隔たっていました。そして、まだ、なんの陸らしいものも目にはいりません。ただ、夏雲が、水の上に漂っているかと思うと、いつしか、それは消えてしまいました。
こうして、幾日かの航海をつづけた後で、やっと、かなたに陸が見えたのでした。船に乗っているものは、みんな喜んで、甲板に出て、その方を望み、叫び、手をたたいて、躍りました。久しぶりで、港に着いたからです。
けれど、この港に着いて、この父親の乗っている、船の航海は終わるのでありません。さらに、いくつかの港へ寄らなければならなかったのでした。
「どうか、私の帰るまで、家に、なんの変わりもなくてくれるように……。」と、父親は、心で祈っていました。
汽船が、港に着くと、人々は、陸を見物するために、あがったのです。父親も、ぶらぶらと歩いてみました。どこの船着き場も、そうであるように、街はにぎやかでした。酒場もあれば、宿屋もある。また諸国の雑貨を商う店などが、並んでいます。ここに、夏の晩方であって、芸人が、手風琴などを鳴らし、唄をうたって、往来を流していました。
「あれは、支那人かしらん……。」と、ちょっと父親は、立ち止まって振り向いてみました。
街には、小路が、いくつもありました。
「なにか、珍しいものでも、見つからないか。」と考えて、一つの小路をはいって、店頭を見ながらいったのです。
すると、小さな古道具屋がありました。店は、狭く、なんとなくむさくるしかったけれど、いろいろな道具が並べてあった。燭台の古いのや、南洋の土人が織ったような織物や、またオランダあたりからきたつぼや、支那人の腰掛けていたような椅子や、ストーブのさびたのなどまで置かれてありました。
「なるほど、港町の道具屋らしいな。」と思って、奥の方を見ると、赤い人形が、目にはいったのです。
「ちょっときれいな人形だな。どこの国の人形かしらん?」と、彼は、思いました。そして、しばらく、ちゅうちょしていましたが、
「もし、もし、その人形をちょっと見せてください。」といいました。
奥から、おばあさんが、顔を出しました。
「このお人形ですか……。」といって、それを取り下ろして、彼に、渡しながら、
「なんでも、エジプトあたりからきた、人形ということですよ。なにか唄をうたいます。そして、その娘の色をごらんなさい。生きているようじゃありませんか。着物の色も、ただの色とはちがいますから。」といいました。
なるほど、手に取って、よく見ると、おばあさんのいうとおりでした。それは、不思議な感じのする人形でした。そして、抱くと唄をうたうが、その声は、かなしいうちに、遠い、知らない国へ、人間の魂を誘っていったのであります。
「これを娘の土産に買っていってやろう……?」と、父親は、考えたのでした。そして、おばあさんに、価をたずねました。
「そのお人形は、高いのですよ。安ければ、もうとっくに、いくたりごらんになったかわかりませんから、売れましたのですけれど、あまり高いので、まだありますのですが、安くは売れない品です……。」
おばあさんは、その価をいいました。なるほど、その価は、あまりに高かったのでした。
「そんな高いものを、土産にしなくても、ほかにたくさんいいものがあろう……。」と、彼は思いましたから、
「おばあさん、ありがとう。また、考えて、もらいにきますから……。」と、父親は、人形をおばあさんに返して、その店から出ました。
「いつ、お父さんは、お帰りなさるだろうか。」
娘は、毎日、晩方の空をながめて、お父さんを思っていました。赤々と、海の方の、西の山を染めて、いくたびか、夕焼けは、燃え、そして、消えたのです。そのうちに、秋となりました。
娘は、この時分から病気にかかったのです。おばあさんや、おじいさんの心づくしも、かいなく、だんだん病気は重るばかりでした。ちょうど、そのころ、父親は、航海から帰ってきました。
娘のやつれたようすを見て、父親は、心配しました。なぜ、もっと早く帰られなかったろう?
「さあ、これは、おみやげだよ。」といって、ポンカンや、ザボンや、そのほか、珍しいものをまくらもとに並べました。
娘は、それを手にとって、喜びました。そして、ザボンの香りをかぎますと、遠い南の国の匂いがしたのであります。
「お父さん、わたしも、こんな美しい果物のなっている、南の国へいってみたいわ。」といいました。
「それは、大きくなればゆけるとも、早く、病気をよくして、元気にならなければならない。」と、父親は、答えたのです。
「こんど、航海をしたら、いい人形をみやげに買ってきてあげよう。」
「どんな、お人形?」と、娘の目は、輝きました。
父親は、なぜ、あのとき、あの人形を買ってこなかったろう……と、後悔しました。あの人形は、珍しい、いい人形だった。あれを見たら、さぞ娘は、喜ぶことだろうと思ったからでした。
「来年の春は、また南の方へ、航海するだろう。そのとき、あの港へ寄ったら、町のあの古道具屋へいってみる。そして、まだ、人形が売れずにいたら、きっと買ってきてあげよう。それは、いい人形だったよ。その人形を、欲しいと思ったら、早く、病気をなおさなければなりません。」と、お父さんはいわれたのです。
「お父さん、もっと、そのお人形のことをくわしく話してくださらない? そのお人形のあった町は、どこの港のどんな家でしたの……。」と、娘はいろいろにたずねました。
お父さんは、くわしく、お人形について話しました。また、その港の景色や、街の有り様や……小路の角には、たばこ屋があって、果物屋があって、赤い旗の立っている酒場のあることも、話しました。
「どうか、そのお人形が売れずにいるように、わたし、祈っているわ。」と、娘は、希望にかがやいた目を上げて、窓から見える青い空を仰いだのです。
娘の病気は、なかなかなおりませんでした。医者は、来年の春にもなって、暖かくなったら、快い方に向かうであろうが、それまで、大事にしなければならないといいました。お父さんは、娘の身の上を気遣いながら、また、航海に出かけることになったのです。
「こんど、帰るときは、お人形を持ってくるよ。」と、出かける時分に、お父さんは、いいました。
娘は、その日から、まだ見ない人形に憧れたのでした。そのお人形を、外国のどんな子供が持っていたのだろう……。どんな町のお家で、そのお人形は、産まれたのだろう……。もし、そのお人形が、遠い旅をして、わたしのところへきたら、わたしは頼りのないお人形さんをかわいがってあげるわ……と、思っていました。そして、彼女の心は、港の町の古道具屋の前をさまよったのでした。
* * * * *
南の国には、もう春がきたのであります。ある日の昼ごろ、馬車から下りて、古道具屋へはいった、美しい奥さまがありました。
「そのお人形を見せてください。」といいました。おばあさんは、お人形を見せると、奥さまは、それを手に取って、「いいお人形ですこと、私に売ってください。」といいました。すると、おばあさんは、
「じつは、毎日、このお人形を見にいらっしゃる、かわいいお嬢さんがあるのですよ。そして、今夜の六時まで、だれにも売らんでおいておくれ、お父さんがもらいにくるからとおっしゃるのですから、どうか、その時刻までお待ちください。おいでがなかったときは、あなたさまにおねがいします。」といいました。
奥さまは、それなら、また、くるからといって帰りました。ちょうど、その日の晩方、船から上がった父親は、その店をたずねました。ちょうど、その時は六時でありました。おばあさんの話を聞いて、びっくりしたのです。なんという、不思議なことだろう……。もしたとえ、その娘が、ほかの家の少女にしても、父親は、前に一度人形のことで、おばあさんと顔なじみだったから、おばあさんは、あなたが、先口だといって、人形を売りました。
底本:「定本小川未明童話全集 6」講談社
1977(昭和52)年4月10日第1刷
底本の親本:「未明童話集3」丸善
1928(昭和3)年7月6日
※表題は底本では、「お父さんの見た人形」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:へくしん
2021年9月27日作成
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