善吉は、ほかの
子供のように、
学校から
家に
帰っても、すぐにかばんをほうり
出して、
外へいって、
友だちと
自由に
飛びまわって
遊ぶことはできませんでした。
仕事のてつだいをさせられるか、
弟を
脊中におぶって、
守りをさせられたからであります。
彼と
同じ
年ごろの
子供たちが、
土手へはい
上がったり、
茶の
木の
蔭にかくれたり、みぞをおもしろそうに
飛び
越すのなどを、そばでぼんやりとながめながら、
「おれも、あんなようにして
遊びたいものだな。」と、
心のうちで
思っていました。
彼は、どうかして、
学校から
帰ったら、うまく、
逃げ
出したいものだと
考えていました。しかし、
家のものに
気づかれずに、
外へいってみんなといっしょに
遊ぶことができたにしても、それは、ほんのすこしの
間であって、すぐに、
家へ
呼びもどされたのです。
「そう、
親のいうことを
聞かぬようでは、どこかへやってしまうぞ。」
「だれが、ゆくものか。」
「いいや、やってしまう。おまえみたいな、いうことをきかぬ
子は、ほんとうは、うちの
子ではないのだ。」
「そんなら、どこの
子だい。」
「どこの
子だか
知らないが、
小さなときに、かわいそうだと
思って
拾ってきて
育てたのだ。」
母親は、むきになってしかりました。
善吉はしまいにかなしくなって、しくしくと
泣き
出しました。そして、
小さな
胸の
中で、
「ほんとうに、おれは、ここの
家に
生まれたのでなくて、
拾われてきたのだろうか。」と、
悲しかったのであります。
そのときは、
母親のいうことを
聞いて、
手助けをしましたが、すぐにほかの
子供たちの
楽しそうな
呼び
声や、
笑い
声をききますと、
広い、
自由の
世界が
恋しくなりました。
あるとき、みんなで
木登りをしたときに、
善吉はだれよりも
上手でありました。
相撲をとったり、
走りっこをしたのでは、いつでもいちばんに
上手だといわれなかったけれど、
木登りにかけては、
自分は、だれにも
負けないという
自信ができました。
ほかのものが、
怖ろしがって、
低いところで、
枝につかまって、それから
上へ
登り
得ないのを
見ると、
自分は、ぐんぐん
上へ、
上へと
登っても、けっして、
怖ろしくないばかりか、ますます
気持ちがはればれしくなるのを
知ると、なんともいえず、
愉快でたまりません。
「おうい、ここまで
登ってくると、
海が
見えるぞ!」と、
善吉は、
高いすぎの
木の、いちばん
先の
細くなっているあたりまで
登って、
下に
小さくなってみえる
友だちに
向かっていいました。
「
善ちゃん、ほんとうかい。ほんとうに、
海が
見えるかい。」
「うそをいうものか。あっちには、
町が
見える……。いい
景色だなあ。」と、
善吉は、
木の
頂に
登っていいました。
下の
子供たちは、うらやましがって、
上を
仰いで
口を
開けています。
中途まで、
登ったものも、いつか
思いあきらめて、
降りてしまいました。
「
善ちゃん、おっこちたら、
死んでしまうよ。」と、
自分はできなかったので、
負け
惜しみに、
善吉が
早く
降りるように、そんなことをいっていました。
すると、
善吉は、だれもできないことを、ひとりしているので、ますます
得意になって、
「
海が、よく
見えるな。あ、
汽車が
通っている。ほら
森に
隠れた。あ、
見えた。あすこが
停車場か。」と、いちいちいって、
下のものをうらやましがらしていました。
「
早く、
善ちゃん
降りておいで、
鬼ごっこをしようや。」
こう
下から
呼ぶと、
善吉は、ゆうゆうと
上から
降りてきました。そして、
自分ひとりだけしか
知らない、
高い
木の
上で
見た
景色をいろいろに
物語ったのです。
「
善や、
善吉や。」
あちらで、
母親が
呼ぶ
声がしました。すると、
善吉の、いままで
輝いていた
顔が、たちまち
曇りました。
「おら、うちへ
帰って、
子守しなければ、しかられるから、
鬼ごっこをよしておこう……。」
こういって、
名残惜しそうに
帰ってゆきました。
いつからともなく、
善吉は、みんなから
離れて、
高い
木に
登って、ひとり、
広々とした
景色を
見て
楽しむことを
好むようになりました。ほかの
子供たちは、
善吉をさるとあだ
名づけたのです。
彼は、ぞうりを
草の
中に
隠して、
高い
木に
登りさえすれば、いっさい、うるさい
世の
中のことからはなれてしまえば、また、
耳に
聞くこともなかったのでした。たとえ、
母親が、いくら
自分の
名を
呼びながら
探しても、
見つかる
気遣いもなければ、だれだって、
自分の
姿を
探し
出すものはなかったのです。
「しっかり、
枝に
足をかけて、わき
見をしてはだめだ。そうだ、もう一
段、もう一
段……。」と、
太陽は、
大空から
声をかけてくれて、にこやかに
笑いながら、
善吉の
登るのを
見ていました。
「こんなに、よく
遠く
晴れているが、おまえには
海に
浮かんでいる
白帆の
影は、
見えなかろう……。」と、やさしい
風は、やわらかに
吹いて、
善吉のほおをなでてゆきました。やっと、しなしなしなう
頂まで
登って
顔を
出すと、
「おまえは、まるで
鳥のようだな。」と、
太陽は、
円い
顔で、あきれるように、
口を
開けていいました。
「その
枝は、あぶない。その
下の
枝に
足をかけて、この
枝にしっかりつかまっていればだいじょうぶだから。」と、
風は、しんせつに、
善吉に
注意してくれました。
彼は、いつまでも、こうして、ここで、
広々とした
景色をながめて、
空想にふけっていたかった。
脊中に
子供をおぶわされては、
飛びまわることもできず、
暗くなるまで
子守をするのは、いやであった。それをいやといえば、
母親にしかられる。「どこかへやってしまうぞ。おまえは、ほんとうは、
家の
子でない、
捨ててあったのをかわいそうに
思って、
拾ってきて
育てたのだ。」いつもこんなにいわれる。はたして、
自分は、
捨て
子だったろうか。ほんとうのお
母さんは、ほかにいるのだろうか?
木の
上で、
彼はいろんな
空想にふける。
☆石竹色の
雲が、
鏡のような
北の
空に、あらわれたかと
思うと、それが
天使の
舞っている
姿となり、やがて、
小さくなって、
鳥のようになり、そして、
消えてしまった。
「お
母さん!」
善吉は、
目に、いっぱい
涙をためて、ほんとうのお
母さんを
呼んだのでした。いつも、
高い
木に
登って、
遠く
見るたびに、ほんとうのやさしいお
母さんが、どこか、
美しい
町に
住んでいて、やはり、
自分のことを
思っているような
気がしたのであります。
ある
日のこと、
友だちが、わいわいいいながら、あちらからやってきました。
「
善ちゃん、
君なら、とれるよ。
地主さんの
屋敷のすぎの
木に、からすが
巣を
造ったのだ。
下からも、よく
見える。いって
捕ろうや。」
「
高いかい。」と、
善吉は、
聞いた。
「それは、
高いさ。
善ちゃんでなければ、だれも、あんなところへ
登れないや。」
こうおだてられると、
善吉は、つい、みんなとそこへいってみる
気になりました。なるほど、すぎ
林の
中のいちばん
高い
木の
上の
方に、からすは、
巣をかけていた。
風が
吹くたびに、
木の
枝が
揺れて、
黒い
円い
塊が、よく
見えたり、また
見えなくなったりしました。
「あの
中に、からすの
子がいるよ。
善ちゃん、
登って
捕っておいでよ。」
「
垣根を
破って、はいったら、しかられるからいやだ。」と、
善吉は、
頭を
振りました。
「だいじょうぶだ。ここで、
番をしているから。」
「
善ちゃん、
君は、
木登りがうまいんじゃないか?」
「からすがくると、
頭をつつくだろう。」
「いま、
親がらすは、どこかへいっていないぜ。」
ちょうど、どこからか
親がらすが
帰ってきました。つづいて、また、一
羽帰ってきました。
母がらすと、
父がらすだったのでありましょう。
巣の
中の
子供は、
喜んで、カア、カア、
鳴いていました。
「いま、じきに
餌をさがしに、
親がらすがどこかへいくから、その
間に、
善ちゃん、
登って
捕っておいでよ。」と、
子供らは、すすめました。
はたして、しばらくすると、二
羽の
親がらすが、いなくなった。
善吉は、じっと
上を
仰いでいたが、
垣根のすき
間からくぐり
込んで、
地主の
屋敷にはいると、そのすぎの
木に
近寄って、するすると
登りはじめたのです。
「
善ちゃん、
落ちないように。」
「だいじょうぶ、
番をしているから。」
「やかましい。
黙っていれよ。」
子供たちは、
口々に、いっているうちに、
善吉の
姿は、いつしか、
木の
頂に
達して、しげった
枝の
中に
隠れると、
急に、カア、カアと、
子がらすのけたたましく
鳴く
声がきこえました。やがて、
善吉は、一
羽のまだ
飛べない
子がらすを
片手に
握って、すぎの
木から
降りてきました。
子供たちは、
善吉を
取り
巻いて、みんなで、あちらの
方へ
凱歌をあげてゆきました。あとで、
親がらすが
帰ってきたが、
留守の
間に、かわいい
子供を一
羽、さらわれたとわかると、
悲鳴をあげて
大騒ぎをしました。この
声を
聞きつけて、
何事によらず、
友情深い、おたがいに
助け
合うからすたちは、どこからともなく、たくさんこの
林の
中に
集まってきました。そして、
自分たちの
敵は、
何者だろう……。つれてゆかれた
子がらすは、どうなったろうと、あちらに
飛び、こちらに
飛び、わめきたてていました。
夕日が、
黄色く
林の
間を
彩って
沈みかけたころから、
烈しい
風となりました。ちょうど、このとき、
地主のおじいさんは、かんかんに
怒って、あちらからやってきました。
「だれだ! からすの
子を
捕ったものは?
親がらすがきちがいになって
鳴いているので、
家にいられたものでない。」
善吉の
家のそばで、
子供らは、からすの
子をおもちゃにして
遊んでいました。ちょうど、そこへおじいさんは、やってきたのです。
近所の
人たちは、
何事が
起こったのかと
思って、
外に
出てみました。すると、
日ごろやかましい、がんこな、
地主のおじいさんが、
怒っているので、みんな
小さくなって、
息を
殺して、ながめていました。
善吉の
母親も、
自分の
子供が、いたずらをしたためしかられるのを、
人の
蔭になって
見ていました。
「だれが、
垣根などを
破って、
内へはいったのだ。」と、おじいさんは、
目をみはりました。
「おらでない。」
「
善ちゃんだ。」
「だれが、
木などに
登って、からすの
子を
捕ったりしたのだ。」
「おらでないぞ。」
「
善ちゃん……。」
子供たちは、
口々に、おれでないといいはりました。そして、
善吉であることを
告げ
口したのです。
善吉は、
下を
向いて、
顔を
赤くしていたが、
心の
中で、
友だちの
卑怯なのを
憎んでいました。
自分に
捕れといったのは、おまえたちではないか。そして、みんなで、
遊んでいたのでないか。それを、しかられるときには、おれにだけ
罪をきせようとする、なんという
頼みにならないやつだろう、と
思っていました。
「おまえか、からすの
子を
捕ったのは?」
地主のおじいさんは、
怖ろしい
顔をして、
善吉をにらみました。
「はい。」と、
善吉が、
正直にうなずいた。
「その
子供を
巣の
中へ
返してくるだ! あのとおり、
親がらすが
鳴いている。」と、おじいさんは、
善吉に
命じました。
林は、
風のために
波立っていました。からすは
火の
子の
飛ぶように、
空に
黒く、
鳴きさわいでいました。そして、
日は、だんだんと
暮れかかっていたのです。
善吉は、からすの
子を
抱いて、
地主の
後についてゆきました。
ふいに、
善吉の
母親が、
飛び
出した。
「だんなさん、からすの
子が
大事か、
人間の
子が
大事か。この
大風に、あなたはあの
高い
木へ
登らせなさる
気なのですか……。」
平常は、ものをいうのもはばかる
地主に
向かって、
母親は
大きな
声で
叫びました。
近所の
人々はじめ、
善吉まで、びっくりして、
母親の
顔を
見つめた。
「
登らせるもないものだ。
親のしつけが
悪いから、こんないたずらをするのだ。」
「だんなさん、そこは、
子供です……。」
善吉は、もうだまっていられなかった。
「おっかあ、おれが
悪かった。からすの
子、
巣にもどしてくる。なに、だいじょうぶだ。
落ちるもんか。」
こういうと、
善吉は、
駆け
出しました。そして、するすると
高い
木に
登って、
巣の
中へ、
子がらすをもとのとおりにいれて
降りました。
彼は、ほんとうの
母であればこそ、この
場合、だれでも
怖ろしがる、
地主に
向かって、
自分のためにいい
争ってくれたのだ。それだのに、
自分は、しかられるたびに、
母を
疑い、またうらんだことをもったいなく
思いました。それからは、
善吉は、
学校から
帰って、
自分からすすんで、
弟を
守りし、また
親の
手助けをしたのであります。
――一九二九・三――
☆石竹色──石竹の花の色。うすい紅色。ピンク。