暗い空

小川未明





 太い、黒い烟突えんとつが二本空に、突立つきたっていた。その烟突は太くて赤錆が出ているばかりでなく、大分破れてあな処々ところどころにあいている。ちょうど烟突は船の風取かざとりのようだ――私がかつて日清戦争や日露戦争に行って来た軍艦の砲弾に当って破れた風取や捕獲した敵艦の風取だというものを見たことがあるが、それとちょうど同じように破れている、その隙間から青空が洩れて見える。しかも二本の烟突は五六けん位離れて相並んで石油かんのブリキ板でいた平たい小屋の頭からにょきりと突出ていた。その小屋というのも大分壊れた粗屋あばらやで壁の代りに立て廻した亜鉛板などが倒れている場所もある。しかしこの辺は沖から吹きつける北風が烈しいと見えて、家が稍々やや南に傾いていた。また大きな黒い太い烟突に目が止るのだが、烟突を四方から針線はりがねで引張ってある。その針線も烟突が新しく出来始めの頃に張ったもので、糸のように痩せてこれすら中には一筋二筋切れ離れていた。で風の吹くたびに微かに揺れている。その小屋は十五六間もあるような低い長屋であった。
 その小屋の周囲に大きな赤黒く汚れた桶が三ツ四ツちらばって青田の中にある。この辺は一面に青田になっている。私は一見して石油いどだということが分った。それでなくても、彼方あちらには空に三角形のやぐらが三ツも四ツもつらなっている。彼方の烟突からは黒いけむりが上って青田の上に影を落して遠く町の方へとなびいているのが見える。して見ると此処ここ廃井はいせいに相違ない。きっとこの小屋のあたりも以前にはあのような櫓が立っていたのだ。この黒い太い破れた二本の烟突からさかんのような黒い烟が上って、やはり青田の上に影を落して町の方へと靡いたのであろう。それが今はもう石油が出なくなったので、人々は此方こちらの小屋を見捨てて、彼処かしこに移ってしまったのだろう。この桶も、もうたがが腐って、石油をれる役には立たないのですててあるものと見える。何にしろ殺風景なものだと思って見ていた。
 北の方の空は青くすんでいる。遠くに連っている町の頭が犇々ひしひしかさなって固っている。ぎらぎらとするのは瓦家根かわらやねが多いからであろう。翻々ひらひらと赤い旗も見える。長い竿の先に白い旗のひるがえるのも見える。其等それらは多分宿屋の目標めじるしであるなと思った。
 この町は荒海のほとりにある。石油がでるので斯様こんな辺鄙へんぴな処にも小さな町が出来たのだ。北の空の冴え冴えしいのは見落みおろす下には真青な海があるからのせいもある。北風の強いのも海が近いからである。


 烟突の破間やれまからは、北海の青空が見えた。空には真白な雲がとんでいた。私は青田の中に突き立った黒い、太い二本の烟突を見守っていた。
 石炭交りの、細道には車のわだちが喰い込んでそのあとに水が溜っている。その水に音なき空の雲の影が映っている。私は青田の中に幾つも並んで、もはや用にたたない赤黒い油のよごれが附いた桶の間を歩いて、風や、雨にさらされている二本の黒い烟突が、錆たブリキ家根の上に突き出ているのを見返るものも自分独りであるのみだと思って、更に烟の上っている製造所の方へ歩いて来た。
 私はこの時一種の暗愁あんしゅうの湧くを感じた。黒い烟は、遅々ちちとしてはうように黄色をんだ豆圃まめばたけの上に影を映じている。その影は絶えず騒がしそうに乱れていた。私の瞳はその影を追うてしばらくたたずんでいたのである。仰ぐと先刻見たより太い高い、黒い二本の烟突が私の頭の上に立っていた――私はこの烟突を先刻見た烟突の子供のように考えた――親の烟突はもう衰えている。もう廃物となってしまった。しかるにその子供は親よりもふとって、せいも高く、また脂ぎって艶々として色も真黒く、今を盛りに毒々しい黒烟くろけむりを吐いているのだと思った。また下に建てられた平屋も大きかった。やはり家根はブリキで葺いてある。周囲まわりには大きな、黒い桶が沢山並んでいた。しかし箍は堅固で赤黒く腐ってはいなかった。ブリキ家根の小屋もほかに二ツ三ツあったが、いずれも日の光りがまぶしい程照り付けている。桶の中には、どろどろした原油が溢れていると見えて、黒い周囲に垂れ下った漆のような濃汁こいしるしたたっていた。一種の青臭い気が鼻に浸みて、それが為めに咽喉のんどひからびるのを感じた。私は頭から、大きな黒い手で押え付けられるような気持がした。二本の真黒い、太い、烟突の周囲は幾尺あるか分らない。その空虚うつろには人が二三人も並んで通られる位だ。すべての普請は荒普請である。この殺風景なうちに人を殺しても構わぬというような手合が住んでいる処だ。
 真黒な烟が、もくらもくらと烟突から湧出ている。その下に曾て見たことのない、高さ五六丈もあるかと思われる青塗あおぬりの桶が別にあって、それに長い長い梯子はしごかかっているのを見た。その梯子は鉄で出来ている、極めて幅の狭い、やっと一人がようやくにして登れるかと思う程の梯子であった。それが中空なかぞらに急な傾斜で、二本の長い竿を並行して立てかけたように懸っていた。
 私はこの何だか落付おちつきのない、地底の呼吸を聞きとられるように覚える製造場の中へ入って見たくなった。その入口らしい処にはただ粗末な二本のくいが建っているばかりでなかの様子を覗いたけれど、ただ一人の土方等どかたらの姿すら見えなかった。


 まだ日は西にかたむいたばかりだ。製造場のうちには、土方等の使っている鶴嘴つるはしや、土堀る道具がおかれてある。赤い火はとこんとこんと厚い鉄の戸口の隙間から見えて、ドドー、ドーンという車の廻るたびに地底を穿うがっている機械のひびきが聞き取られる。その響きは胸に応えて、地底の秘密というようなことを考えさせた。
 私は何の気なしに一歩ひとあし礦場こうじょうの中へ踏込んだ。やはり四辺あたりに人の気はいがせなかった。私は不思議に思って怖る怖る誰かに怒鳴どなられはせぬかと心に不安を感じながら二歩ふたあし三歩みあし中へ入って行った。けれど何処どこを見ても、一人の姿すら見えなかった。きっとあの火の燃えている処には人がいようと思って、怖る怖る足音を忍んで鉄の戸の側に近寄ってそっと隙間から内を覗いたが、ぼうっと火気のほてを感じたのみでにも目に入らなかった。これは益々ますます不思議だと考えて、私は此度こんどは自由勝手に四辺を歩いて見た。けれど一人の人影すら見えなかった。しかもその辺には、油の詰った石油鑵が幾万となく積み重ねてあるのだ。し賊が来てそれを盗んで行っても分らない筈だが、其様そんな手ぬかりをする礦場ではないと思った。して見ると何処にかきっと人が隠れて私のする様子を見守っているに相違ちがいない。若し私が何も別に悪いことをせなければ、入って四辺を見物する位のことだけは見逃して置いて若し悪いことをすればすぐに捕えて殺してしまうという考えかも知れない。殺す? しかり殺す! このあたりにいる土方などは、決してそれ位のことをやりかねない。それにしてもどうして私が此処ここへ来るということを彼等が知って隠れていよう。やはり人がいないのだ。全く居ないのだ!
 してみるとやはり、此処も廃井ではあるまいか? いや其様筈がない。烟突から黒烟が上っている。彼様あんなさかんに火が燃えている。彼様に機械が運転している。人のいない筈がない。きっと皆んな何処へか出た留守でないか。それにしても一人も残っていないという筈がない。私は全く分らなくなった。
 其様ことが如何にも不思議におもわれて、四辺を見物するというよりか人をたずねて、歩き廻ったという方がよかったろう。けれど戸を開けてまで中へ入り込む勇気がなかった。若し人のいるのも知らずに戸を開けたならきっと、自分を賊だと思うだろう。また疑われてもその時は弁解が出来ないと考えたからだ。私は礦場のなか彼処此処かしこここと見廻ったけれど不思議に一人の影すら見えなかった。


 ああ、全く不思議! 私はいつしか例の長い梯子の下に来てたっていたのである。私はこの時また、二本の頭の上に突き立った黒い、太い烟突を見上た。きっとの烟突に触れて見たら熱いだろう。あの中には火が吹き上っている。きっと彼の烟突の鉄は焼けていて、手を焼くに相違そういないなどと思った。――次に青塗の大きな桶に目を移すと何かあの桶の中に入れてあるかその中を覗いて見たくなった。
 再び四辺を見廻した。けれどやはり一人の姿を認めなかった。私は急に梯子を上って覗いてみようかと思った――若し人に見付られたらうしよう。ただ覗いて見る位のことならその時に言い訳すれば済むだろう。かくこの梯子を上って覗いて来る迄なら十分と経たないだろう。その間きっと人に見付らずに済むであろうと思った。
 そう思うとしきりに梯子を上って、青塗の桶の中がのぞきたくなった。で、長い梯子を見上ているとんでも猿のように自分が敏捷すばしこく走って上って行って桶の裡を覗いて見て、また敏捷く走って下りて来る時の様子がありありと目に浮んだ。
 私はまた四辺に人気ひとけはないかと注意した。やはり一人の姿すらみえなかった。私はこの時こう思った。若し人が何処かに隠れていて私の様子に注意しているものなら私がこの梯子に上りかける様子を見たならきっと、怒鳴付どなりつけるであろうと、私はわざと二三度梯子に足を踏みかけて、上って見るような真似をやって見た。けれど誰れも声をば掛けなければ怒鳴付けるものがなかった。
 私はにわかのぼって見ようと決心した。で、最初の一歩、三歩は試みの考えで踏み上って見たが、いつしか五段、六段と上るにつれて「何うせ此処まで上った位なら上って見届けて来よう。」という冒険的の考えがきざして遂に私は上って行った。なかなか空想で、猿のように早く上れると思ったが、それどころでない。非常に梯子の幅が狭くて、二本の足を並べて立つことも容易でない程に、はなは勾配こうばいが急である。加えて鉄の角が堅くて、が痛くなった。次第に高く上るにつれて目がくらんで来る。


 もはや下をむいて見る勇気が出なくなった。何んだか上るたびに梯子がぐらぐらと揺れるようだ。大分上った。ふと下から人が見て居やしまいかと思って見下した時には自分は幾十尺という空中にら下っている気持がして、もう眼がくらんで何も見定みさだめが付かなかった。今更私は後悔したけれど、仕方がない。上を見ると、もう十段か二十段で、桶の端に達する位迄上ったのである……やっと桶の彼方あちらの端が見え出した。思ったより倍も倍も大きな桶だ。直径幾十尺あるかと疑われた……また一段上ると桶のふち一分いちぶ程見え出した。また桶の真中を幅の狭い鉄板が差し渡してあることだけが分った。その鉄板の端は此方こちらにも出ているのだが、く見ると二三寸位しか出ていないので、下から見上た時には目に入らなかったのである。厚みも見ただけでは二三寸位もあるらしい。私は若しも下から追われたなら、この鉄板の上を渡らなければならぬのだと心配した。また一段上った。やっと彼方の縁が三分ばかり見え出した。段々上るにつれて私は強烈な石油のにおいを嗅いだ。また一段上ると私の息は止るようにその臭が強くなった。桶に手の届く位の処まで来て中を覗くと真青な石油の溜池である。鉄板から五六寸ばかり下の処まで青々として澄んでいる。さながらしんとして幾千じんの淵に臨んだ気持がする。私は驚きと怖れに魂消たまげて、覚えず激烈な臭いのため顔を背けた。町や、沙山すなやまは目の下になっている。海が足許あしもとまで来ているように真蒼まっさおな日本海を左手に見落みおろした。下の製造場を眺めると、家根が低く、平たく、白くなっていて自分の上って来た細い梯子は中程から霞んで消えて下の方は見えなかった。
 はじめて私は幾十尺上って来たかと驚いた。右を見るとまたしても、太い、高い、黒い二本の烟突が目につく。私は飽迄あくまでこの烟突に圧迫せられているかんじがする。この時下の方でしきりとわめく声が耳に入る――何しろ沖から吹く風の強いのと、石油の臭いが烈しいので気が気でなく、目が昏んで空耳のようにも思われた。
「ヤーイ。」という声が微かに聞えた。危うく梯子につかまって――まだ上り切るまでには三四段残っている――怖る怖る下を見ると黒く見えるのは人のようだ。その黒いものはだんだん梯子を上って来るように見えた。
 失策しまったな! と思ったが今はそれどころでない、全く私の身は行き詰っていたので、最後に何うなるか考える余地もなかった。……
 もう私は気が気でなかった。
 梯子を上って来る人の姿は黒く、さく、豆のようで、まだその顔すら見えるには暇があったが私の目にはありありと、顔色の土黒い、眼のさかしい、まぶたの赤い、口の大きな唇の厚い、出歯でっぱの黄色い頭髪かみのけの鳥の巣のように絡んだ汚れたシャツを着て、黒いズボンを穿いて、太い腕に鉄槌てっついを携げてぎょろっ冷笑あざわら[#ルビの「あざわら」は底本では「あざわざ」]って私を見詰めた有様が目に浮んだ。
 おりしも沖を見ると、ちょうど真赤な入日が不安な色に凶兆を示して重たい鉄弾の焼けたのが落ちるように深蒼しんそうの日本海に沈む処であった!
 私は殺されるのだなと思った。





底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年8月10日第1刷発行
   2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「定本 小川未明小説全集1 小説集※(ローマ数字1、1-13-21)」講談社
   1979(昭和54)年4月6日第1刷発行
初出:「早稲田文學」
   1908(明治41)年10月号
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2021年4月27日作成
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