抜髪
小川未明
ブリキ屋根の上に、糠のような雨が降っている。五月の緑は暗く丘に浮き出て、西と東の空を、くっきりと遮った。ブリキ屋根は黒く塗ってある。家の壁板も黒い。まだ新しいけれど粗末な家であった。家の傍には、幹ばかりの青桐が二本立ている。若葉が、びらびらと湿っぽい風に揺れている。井戸がその下にあって、汲手もなく淋しい。やはり雨が降っている。この家には若い女が一人で住んでいるのだ。
私は、この若い女を見たことがない。暮春であるけれど、寒い日であった。私は、窓から頭を出して、黒い家を見た。ひょろひょろとした青桐が、木のように見えぬ。人の立っているようだ。此方向の黒い壁板には一つも窓がなかった。彼方には窓があるかも知れない。私は、まだその家を廻って見たことがない。ただ、若い女が住んでいるということを聞いた。
「女は、どうしているだろう。」と思った。女は、琴を弾かない。また歌わない。いつもあの黒い家には音がなかった。私は、どうかして、井戸に水を汲みに出る姿でも見たいと思ったが、ついその女の姿を見たことがない。
私は心で、いろいろその女を想像して見た。或時は、痩せた青い顔の女だと思った。或時は、もう寡婦で艶気のない、頭髪の薄い、神経質な女だと思った。私は、女のことを考えているうちに、日が暮れた。
やはり雨が降っている。こう幾日もつづいて降ったら皆な物が腐れてしまうだろう。
「そうだ。皆な物が腐れてしまったら……。」と思った。
黒い夜だ。腐れて毒と化たような夜だ。暗い色は漠としているだけだ。黒い色には底に力がある。私は暗い夜でない黒い夜だと思った。私は、深い穴を覗くような気がした。冷たな舌でなめるように風が当る。もう黒い家は分らぬ。あるけれど分らぬ。私は不安であった。けれどやはり私は窓から頭を出していた。
明る日も雨だ。私の空想はもはや疲れた。朝から、青桐に来て烏が止っている。茫然と窓に凭れて、張り付けたような空を見ていると、烏が、時々頭を傾げて何物かに瞳を凝している。私は、手を上げて逐うのも物憂かった。自然に逃げて行くのを待ていると、烏は昵として動かなかった。
私は、窓を閉めた。急に室の中が暗く陰気となった。暫くして、また窓を開けて見ると、まだ烏が青桐に止っていた。……とうとう日が暮れてしまう。
或晩ふと眼を醒すと、窓の障子が明るかった。戸を開けて見ると、雲が晴れて、空は暗碧だ。古沼に浮いた鏡のように青い月が出た。銀光が戦き戦き泳いで来る。幾万里の間音が亡びて空は薄青い沈黙である。二本の青桐も目醒たように立っている。黒い家もその儘だ。ただ湿れたブリキ屋根に青い光が落ちて、東、西の黒い森にも青みを帯んだ光りは流れていた。
私は暫らく、窓に凭って青い月の光りを受けた黒い家を見ていたが、いうにいわれぬ悲しさがシミジミと胸に湧いた。
「若い女! まだ見ぬ若い女!」ああ、その若い女が恋しい。私はなぜ今迄その女を見なかっただろう。私は余り考え過ぎた。考え過ぎているうちに春も過ぎてしまった。この青い月の光り! もう春でない。淡い夏が来たのでないか。夏? そうだ夏だ。病的な、暗愁の多い春は去て、淡々として白い夏が来たのだ! しかし、もう遅い。春は去てしまった。私は、過去の邪推、疑念、無駄な空想を呪った! 後悔した! 私は始めて、若い女は唇の紅い、髪の緑の、眼の美しい、処女であったということ……そしてその女は、恥しくて姿を隠していたのでないかということを考えた。
醒めよ。春は逝いてしまった! といわんばかりに月の光りは淡かった。
幾日か降った雨、それは恋しい、懐しい、春の行くのを泣いた泣いた女の涙であっただろう……私は、その夜後悔と慚愧に悶えた。悶えた。
白い雲が、日の光りに輝く青葉の上を飛んでいる。緑葉は一夜のうちに黒ずんだ。青桐の葉は大きく延びた。その蔭が地の上に落ち、はっきりと刻んだ。井戸の釣瓶の縄はいつの間にか切れて、もはや水を上げる役にたたない。ブリキ屋根には赤い錆が出て、黒塗の壁板には蛞蝓の歩いた痕が縦横についていた。私は、黒い家の周囲を廻った。果して窓があった。東向になっている窓が閉っていた。私は、窓の傍に近づいて、戸を開けて見た。裡は暗くて、人の住んでいる気はいもない。物の腐れた臭いが激しく鼻を衝いて来る。僅かに射し込んだ日の光りで、狭い、室の中が見えたが、畳の上には、女の抜髪が一握程落ちていた……。
若い女は、もはやこの家に住んでいなかった。
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