不思議な鳥

小川未明





 車屋夫婦のものは淋しい、火の消えたような町に住んでいる。町は半ば朽ちて灰色であった。
 町には古い火の見やぐらが立っていた。櫓のさきには鉄葉ブリキ製の旗があった。その旗は常に東南の方向になびいていた。北西の風が絶えず吹くからである。また湯屋があった、黒いけむりが、町の薄緑色の夕空に上っている……車屋の家は、軒の傾いた小さな店で蝋燭屋ろうそくやの隣りにあったが、日が暮れるとじきに戸を閉めてしまうのが常である。老夫婦はなるたけ日暮方の寒い風に当らないようにしている。自分で枯木のような体だと思って大事にしている。どうせ老い先は余り長くない。けれど風を引いて早く死ぬにも当るまいと思っているらしい。昔は夜道でも車を引いて歩いたことがあったが、この四五年は車を人に貸しているばかりで毎日軒の柱に掛けた小鳥のさえずるのを見て日を暮している。庭へ出て蜘蛛を捕って来てやるのが課業しごとである。老婆は大きな眼鏡をかけて冬の仕事に取かかって襤褸つづれぬっている……鳥籠の上に彼方かなた家根やねの上から射し下す日はあたたかに落ちて、小鳥はくびかしげて澄み渡った空を細い竹の骨を通して眺めながら小声で囀り始める。それを見て目を細くして聞いているひげの白い老人は、いつしか自分の若かった時分の日のことを考え出す……。
「ああ、おれもあんな時代があったのだ。」……其様そんな空想にふけっていると、日は蔭って、小鳥は囀るのを止めてしまった。
「日がなくなって、晩方ばんがたの風は寒い、早く家へ入れてやるぞ。」
と老人は独言ひとりごとをいって、籠を柱からはずすと、大事に捧げて、自分等がふせる居間にもって行く。その時も小鳥は頭を傾げて、不思議そうに老人の顔や、家の暗い様子などを眺めながら……薄紅うすあかい胸の温毛ぬくげを動悸に波打たせていた。老人はこの小鳥の可憐しおらしい様子を見て、
「おお、怖くない。」といった。
 この老夫婦には子もなければ、孫もなかった。夕飯の膳には、白い湯気が微かに上って、物静かに済むと、暗いランプの光りがすすけた一間を照す。へやの隅に置かれた小鳥はランプの火影ほかげに驚いて黒いつぶらな眼を見張って撞木とまりぎを渡り始める。
「夜だぞ、こうやって休め。」といって、老人は風呂敷を持て来て籠の上から掛けてやる。風呂敷を掛けられると、又急に籠の中は薄暗くなって、鳥の動くのがしずまってしまう。
 老人はる時、鳥籠を枕許まくらもとに持って来る。鼠が出るのを心配した。頭を枕に付けて、まだ眠らずにいると外を通る人々の足音が聞える。隣の蝋燭屋では話声に混って笑声などがしていた。しばらくすると人足が杜絶とだえて四境あたりが静かになったかと思うと、直ぐ戸に近く草鞋わらじの音がして、歌をうたって行く。
此処ここと出雲崎とは…… 竿させば届く――竿をね……。」
 老人はこの歌を聞いて、この人は浜へ帰るのだと思った。――こう考えていると、又自分が若い時分、春の海を見ながら、赤い崖の下を通った時の記憶などを呼び起した。
 振向いて婆さんを見ると、微かに寝息の音が聞かれた……。


 最初この小鳥の色は黒かった。ちょうど雀のような形でそれよりも黒かった。この小鳥を見た人は、誰でも、
「黒い鳥。」といった。
 この黒い鳥を私が貰ったのは、寒い冬の日であった。しかも吹雪ふぶきの募った頃である。山に居るの鳥もなくなって、里にいる雀ですら、軒下の標縄しめなわに止って凍えかかっていた。家のうちにいては暗く、反古紙ほごがみで張った高窓に雪やあられの当る音がした。そのたびに高窓を見上げていると、一日こうやって怠屈たいくつに送るのが物憂ものうかった。何かして遊びたいと思ったが、誰も訪ねて来るものがない。時計が三時を打った。
「ああ、もうじき日が暮れるのか……。」
 私は黒い柱にかかった、古風の大きな八角時計を見上げた。縁の金色が、わずかに鈍い灰色の空気に光って、じっひとみを移さずに白い円盤を見詰みつめていると、長い針は遅々ちちと動いて、五分過ぎた。目に見えぬうちに時間のたって行くのが何の訳なく気を焦立いらだたした。
「出て見よう、家に居たってつまらん。」
 こう思い決めると、何様どんな困難があっても、吹雪をおかして外を歩いて見たい好奇心が矢の如く心を駆った。早速深く編み上げた藁靴わらぐつ穿いて、雪で吹き閉された戸を開けて外へ出た。一陣ひとしきり大きな雪片せっぺんが風にあおられてたんぼの方から走って来た、立っている自分の胸はたちまち白壁のように真白になった。たださいわいに大きな吹雪はこれりで後は少し晴間となった。空は飽迄あくまで灰色であった、三尺ばかり上は灰色の厚い布で張詰られているような気がした。外へ出たが誰をたずねて見ようという考えは別になかった。この時、彼方の寺の栗林でひよどりが沢山来ていているのが聞えた。で、早速家へ引返して二連発の猟銃を持って寺の林へ急いだ。
 道は雪にうずまって分らなかった。人の影を見ない。木立こだちは雪をて重げである。空濠からぼりも雪に埋っていた。私は、この大きな陰気な空濠を廻って寺の墓地に入った、杉の木からは絶えず雪が崩れて落ちた。その毎に身動きをしない、重苦しそうな枝の一部分だけが動いた。見渡すと五六寸ばかり頭の現われた墓石が其処そこ此処ここにある。鵯の止っている栗林は夕空に頭を揃えていて、一帯いったいに空気が沈んで、寂寞ひっそりとしていて悲しそうな景色であった。
 私は暫らくたたずんで、是等これらの物悲しい、静かな景色を眺めていたが、急に鳥を撃つのは可哀そうだというようなかんじがして、そのまま墓場を出ると普通人の通る村道に出た。
斯様こんな淋しい国に何時いつ迄居られよう。早く快活な国へ――もっと南の暖かな国へ行って住みたいものだ。」
……と考えながら、下を向いて歩いて来ると、突然猟師の息子の吉太きちた出遇であった。吉太は頭からわらを編んだ長い後方うしろに迄垂れ下る妙な帽子を被っていた。れの眼はふくろうのように円く黒く大きかった。頭髪かみのけく縮れていた。彼は十五六であったが余り性質がよくなかった。小学校は中途で退校を命ぜられた。村の子供をいじめて、子供の持っている銭を取上る、町へ出ては商家あきないやの隙をねらって品物を盗んで来る。だからこの吉太を善く言うものはなかった。
「おい吉太、この雪に何処へ行く。」と聞いた。
 吉太は藁帽子を片手で少し上げて、眼の好く見えるようにして私を見た。気味の悪いような、また何処かあざけるような笑いをした。
「何か捕れましたかえ。」といった。
「いや、撃つのを止めて帰るのだ。」
「お前は何処へ行く?」
と私は聞いた。
「町へ行くだ。」と彼は、私の銃の砲先つつさきを見ていたが、
おらあ、小鳥を町へうりに行くだ。」
といって、懐から、さも大事そうに、壊れ物でも取出すように握り出した。それははねを包んで、頭を穴から出して逃げないように紙のきものを着せた小鳥であった。
「黒い鳥だな、……何という鳥だ。」と聞いた。
 吉太はさも大事そうに、自分の心臓でもてのひらに載せているように、雪焼のした汚らしい手をふるわしていた。で、私の言ったことなどに耳を傾けていなかった。吉太は、こうやっている間にも幾度となく、唇を掌に寄せて暖かな息を鳥に吹かけた。
おれにその小鳥をうってくれないか。」
と、余り珍らしい鳥なものでこういった。けれど私はこの鳥を見た時、好い気持がしなかった。何んだか再び眼から印象の消えない物を見せられたような気がして、急に心持が暗くなるのを覚えた。しかし、この儘、この鳥を他人ひとに渡してしまうのも惜しいような気がしたので、自分でかってみたくなった。吉太は私の顔を見ていたが、
貴君あなたになら売るのは厭だ。」
「何故?」
 町へうりに行くのを、何故自分に売るのが厭だろう。吉太の性質が曲っているのを証明するものでないか? それとも町へ行ったら思い切り高く売れるが、知っている人にはそうは行かぬ所から、自分に売るのを厭だというのでないかと思ったから、
「高くかってやるよ。町で売れるより高く買てやる……。」
「貴君にあげるなら、銭はいらないから、わしの欲しいものをおくんなさい。」といった。
「お前が欲しいもんてや、何んだ。」
「欲しいものをおくんなさるか?」と、吉太の声はふるえて、眼が輝やく。
「何だ? やれるものならやる……。」と私は怪しみながらいう。
 吉太は黒い鳥をもったまま、考え込んだ。遠いものを追うような眼付をした。いつしか両眼からは熱い涙が湧き出て、涙は彼の頬に流れた。今迄と変って獰悪どうあくげな面構つらがまえが、たちまち見違うように柔和となった。私は、不思議にえなかった……彼にこれ程の感興かんきょうを与えるものを果して自分が持ているであろうか、たとえそれが何であっても、必ず吉太に与えようと心に誓った。
「早く言え、やるから。」と、きっぱいった。吉太は、声を震わしながら、
何時いつか見た、絵具皿を下さい。」
といった。
 私には、急にその皿が想い出せなかった。
何様どんな形なのだ。」と聞くと、
「花の形をしているのです。」
と、いって泣いた。
 私は吉太の泣くのを始めて見た。斯様悪摺わるずれた悪魔のが、どうして泣くだろうかとも思った。が、又急に可哀そうになって、
「じゃ探して置く、明日の朝来い。」
と、二人は別れた。


 雪の上は一面に鈍い光を放って、空は次第に暗くなった。刻々に空は下へ下へと押え付けるような感じがした。彼方あちらにも、此方こちらにも雪を被った幽霊のような木立や、黒い悪魔のような森があった。私は、吉太に遇って、あの黒い鳥を見てから、暗い気持になった。
 しかし、又何となく吉太が可哀そうな気持もした。
「あんな悪い児の鳥を貰っていいだろうか?」
と、いうようなかんじもした。また、あの黒い鳥はなみの鳥でない、あの鳥が来てから何か自分の家に不幸が起るようなことがあるまいかとも思った。
「そうだ、あの黒い鳥が来ると、家の者が病んで死ぬのでないか?」と、身が寒気を催した。
 してその黒い鳥は、今始めて見たのでない。何処かで一度見たことがあるような気持がした。怖しい処で見た、赤い色と灰色の混った処で見た……何処だろう? 考えると、私の目の前に、河水かわみずに臨んだ赤い煉瓦造れんがづくりの監獄の建物が浮んだ。河には雪やみぞれの固りが水に漂って流れて来る……晩方の景色だ。
「あの黒い鳥を監獄の中で見たようだ。」……雪の上に立止った。自分は生れてから監獄の中へ入って見たことがあろうか……一度でも行って見たことがあったろうか。
「何か悪いことをしたことがあったろうか?」
「何か人の物をすんだことがあったろうか?」
「全く覚えがない!」
 けれどこの黒い鳥を見たことがあるようだ……それは幼ない時分であった。日蝕の日に斯様黒い鳥が沢山、空を廻っていたような気がする。何んでも黄色な暗くなった空に、驚いて怪しな声で、ぐるぐると輪をえがきながら啼いていた。大日輪がご病気になられたのだから見ると悪い――その意はこの日に何か人の命にさわる毒が降るともいうので――人の通りが全く杜絶とだえた。木も悲しめば、草も悲しむという。無心の鳥まで悲しむというので、戸口に立て空を見た時、雲は悪熱おねつで煮えるように薬色となっていた。よく熱病になった時土用のうしの日にとっほして置いたどくだみ草を煎ずるとこういうような色になる。しその水を飲んで命があるものならどんな重い熱病もなおるが、死ぬものなら身体がやはりどくだみ草の色とって死んでしまうと聞いた――この時、黒い鳥が空を幾羽となく飛んでいた。その黒い鳥は余り大きくなかった。無論烏ではなかった。その啼声は物に驚いたような、目が見えなくなったような、巣のを忘れたような、呻吟うめくような、もだえるような、切なそうな啼き声であった。私はこの黒い鳥の啼声を聞いたとき、もう二度と太陽は現われずに、こうなってこの世がいつまでも夜になってしまうのであるまいかと思った。若しそうなったらうなるだろう。人は外へ出て働くこともならず、木は、草は、あのように薄暗い、飴色の空の下に悲しそうに立っている。彼方の家もあのように黒く、この厭らしい黄色な空の下に動かずに浮き出ていて、すべてが黄色な空の下におしのように音なく黙っている……何時までも何時までも黙っている。ただ見るものは、飴色の空に折々悪夢のような形の定まらぬ雲が出たり、消えたり、のろく鈍く動いているばかり。而してこの黒い鳥が、やはり厭な斯様声で啼きつづけているだろう。けれどいつかこの黒い鳥も羽が疲れて地面じびたに落ちてしまい、厭な声も次第に疲れてれてしまうだろう。そうすればこの世は全く声というものが絶えてしまう。犬も死んでしまえば、にわとりも死んでしまう。全く生物の声は絶えてしまう。……けれど最も最後まで啼いているものはこの黒い鳥であるというような気がした。その時、地球の上に風が吹くだろうか?……やはり吹くかも知れない。けれどそれは冷たい、氷のような風である。あの悲しい木や、草に当る時、いたましい音を立てるだろう。そうなったら雨が降るだろうか……雨というものは降らないかも知れない。
「この日蝕はいつまでつづくだろう……。」と私は気を揉み始めた。幾日もこの儘であったら、人は燈火あかりともしつづけて、いつか油も尽きてしまうだろうと思った。……このとき家の内では燈火をけた。空ではやはり黒い鳥が啼きつづけていた。
「あの、鳥は何という鳥でしょうね。」
と、隣でいっている声がした。
「燕でしょうか?」と、誰かいう。
「燕にしては、啼声が違うや。」と、これは子供の声である。
「不思議な鳥が出たものだな。」と、老人の声がする。
「大変に暗くなりましたね。」と、女の声だ。
「厭な啼き声だこと。」
「あの黒い鳥。」
「幾羽居るだろう……。」
などという声がした。

          *      *      *

 空は漸々だんだん暗くなって来た。雪がまたふって来そうになった。私は銃をかついで家へ急いだ。
「あの黒い鳥を貰ってもいいだろうか。」……吉太が可哀そうだというような考えも起った。
 その晩は何となく暗い思いがしたが、あくる朝になって絵具皿を探し始めた。


「これか?」といって私は、棚の上からすすまみれた絵具皿を取りおろした。皿の上には埃が溜っている。一息ぷっと吹くと折から窓から射し込んだ冬の日の光線に黄金色のほのおが上った。無数のちいさ塵埃ほこりは一つ一つ光って明るい海を泳いでいた。吉太は慌ててその皿を奪うようにると垢染あかじみた懐の中に隠してしまった。軒の柱には、黒い鳥が籠の中に入って懸っている。私は、その鳥籠に目をやって、
「黒い鳥だな。」と、いった。
 吉太は、はや帰りかけていたが、この時振り向いて、
漸々だんだん毛が抜け変って赤くなります。」といった。私は、好い加減なうそをいうのだと思って、別に「うか。」とも答えなかった。
 籠は極めて粗末なものであったが、中には青い色の餌猪口えちょくと灰色の水猪口とが入れてあった。思うに吉太が鳥と共にくれたのである。私は長くこの籠と餌猪口とを使っていた。当座この黒い鳥が何んとなく私には陰気に見えたのである。頭から、眼付まで、可愛らしいというより、そのうちに厭に人をする力があるような気持がした。
 けれど、いつも同じい戸口の柱に懸けて置いて見慣れるに従って、いつしかこの鳥は私に親しんだのである。やがて冬は過ぎた。北国ほっこくの暗い空も、一皮むけたように明るくなった。春雨がシトシトと降る時節となった。海棠かいどうの花はつやっぽくほころび、八重桜のつぼみも柔かに朱を差す。空には白い綿のような雲が低く、花の村を接吻キッスするように穏やかに通った。私は、この時、小鳥を庭に持って来て、花の見える所に置いた。又、雨霽あまあがりのした朝は、紅の蕾からしずくの垂れる下枝に懸けてやった。思いなしか、この時分から黒い鳥の胸毛が漸々薄紅になりかかった。
 小鳥は籠の中から、この春のうららかな景色を眺めていた。頭を傾げて、身の自由にならぬをうらんで梢に来て暗く他の鳥を見て、うらやむように見えた。
 この鳥を逃してやろうか知らん。と、幾度思った時があったか知れない。けれど又何となくこの鳥をなくしてしまうのが惜かった。逃してしまえば、もう二度と帰って来ない、逃すなら、何時でも逃すことが出来るのだ。今日は逃さずに置こうと思い止った。
 或年、祖母が死んだ。その時、親類の者共が寄り集った。その中で婆さん達が、この鳥を逃してやれといった。その時、私は鳥籠の前に立って、熟々つくづくと鳥を見詰て考えた。もうこの鳥が来てから三年になる。何時の間にやら黒い鳥が変って、胸毛は茜色に薄紅くなった。全体に毛の色が赤味をんで来た、ただ昔と変らないのは、頭ばかりである。頭は真黒に艶々しいが、それには見なかった白い毛が二筋三筋交って来た。
「成程、あの時吉太は毛が変るといったが、真実ほんとうであった。」と思い出して、吉太があわてて絵具皿を奪ったことなど考えた。
「吉太は、あの絵具皿を何にするだろう。」
と、その当時に遡って考えた。私は、こう思った。あんな少年は何んでも人の持っているものが欲しくなるものだ。殊に彼の性質からでは、一旦欲しいとなったら、無上むじょうに欲しくなって堪らないのだろう。それともあの紅、紫、青、黄などの絵具が付いていたので、何んか非常に好い物とでも思ったのか知らん……。
 この時、がやがや家の中がさわがしくなって、ちょうど祖母のひつぎが出る処であった。ぬかる田圃道を白い幕の廻された柩が、雨風にひらひらと揺られながら行った。初夏の自然はことごと鬱陶うっとうしい緑で、おかは浮き出て、林は無限に暗く拡がっていた。
 葬式のともから帰ると叔母は、又小鳥を逃してやれといった。仏の為だからといって、鳥籠の傍に立って私の顔をしみじみ見た。私は、大分叔母の頭も白くなった。眼も打ち窪んで来た。顔にも皺が糸のもつれた如くよって来た。この分では老先おいさきも長くあるまい。この人の言うことにそむくのも気の毒だと思って、何の考えもなく、黙って鳥籠の口を開けた。
「おお、早く逃げて行けよ。」と叔母は泣かんばかりに言った。
 鳥はくちばしで竹の骨をつついたり、撞木で嘴を磨いたりしていたが、小声で何か囀ると、籠の戸口まで出て来て、暫らく外の景色を頭を傾げて見ていたが、また思い止って籠の中に戻ってしまった。叔母が幾度となく、
「逃げて行けよ。」といったが、鳥は二度と籠の戸口から出なかった。流石さすがにこれを見た叔母は、考えながらこう言った。
「もう翼が利かないのだ。こうなってはやはり籠の中においてやった方がいい。」と、ってしまった。
 人間だってそうじゃないか? 女が嫁に来て束縛されて、皆なこの叔母の如くなってしまう。而してこの時、過去を顧みて格別残念とも何とも思わず、これが当然あたりまえだと信じている。……
 夕月が出て、ほんのりと鳥籠の上を照した。家のなかでは仏壇に燈明あかりついかねの音がし始めた。


 或日、私は図書館に入って、鳥禽図解ちょうきんずかいを彼方此方としらべて見た。私には、黒い鳥の名が判らなかったからだ……西洋の鳥禽図の中に略々ほぼこの鳥に似通った鳥があった。名は極めて言い難く、彼方では通称「不思議な鳥」といっていると書いてあった。おその性質を検べて見ると元来が肉食鳥で、鷲や鳶の類に入っていて、獰悪であるけれど人によくなつくと書いてあった。
 ……私は肉食鳥でありながら、麻種おだねをやって今迄育てて来たことを不思議に思った。……
 而して、その書には黒い鳥の姿が書いてあった。よく似ていたが別にその毛が変って赤くなるということは書いてなかった。私は、若しや、この鳥でない、自分の飼って居った鳥は他の鳥でないかと思って、お色々と検べて見たけれど、他にそれに似たような鳥がなかった。……
 私が国を出る時、車屋の老夫婦が大事にして、可愛がってかうからというので、その鳥を与えて来たのだ。





底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年8月10日第1刷発行
   2010(平成22)年5月25日第2刷発行
初出:「趣味」
   1910(明治43)年2月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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