森の暗き夜

小川未明





 女はひとりへやの中に坐って、仕事をしていた。赤いただれた眼のようなランプが、切れそうな細い針金に吊下ぶらさがっている。家の周囲には森林がある。夜は、次第にこの一つ家を襲って来た。
 森には、黒い鳥が棲んでいる。よく枯れた木の枝などに止まっているのを見た。また白い毛の小さな獣物けものが、藪に走って行くのを見た。枯木というのは、幾年か前に雷が落ちて、枯れた木である。頭が二つの股に裂けて、全く木の皮が剥げ落ちて、日光に白く光っていた。この枯木の周囲には、青い、青い、木立が深く立ち込めていた。しかし、この一本の木が枯れたため、森に一つのれ目が出来て、そこから、青い空を覗うことが出来る。
 女が、白い獣物を見たのは、円い形をした藪から、飛び出て、次の藪へ移るところであった。そこへ立ち寄ると、平地に倒れた草が、ね返り、起きあがる所であった。鮮かな、まぶしい朝日が、藪の青葉の上にも、平地にも、緑色の草の上にも流れている。
 森から出た日は、また森の中に落ちて行く。ちょうど、重い鉄のたまが、赤く焼け切っているように奈落ならくへと沈んで行く。壁一重ひとえ隔てた、森が沈黙している。怖しい、暗い夜の翼が、すべての色彩を腐らし、ほろぼして、翼たゆく垂れ下がって、森のいただきと接吻せっぷんしたらしい。
 女は、やはり下を向いて仕事をしていた。

「今晩は!」……女は、手を止めて頭を上げた。三面は壁である。東の方だけ破れた障子が閉っている。ちょうど、のみで、地肌をむしり取ったように夜の色が露出していた。
 女は、また下を向いて仕事に取りかかった。赤い爛れた目のようなランプが、油を吸い上げるので、ジ、ジー、ジ、ジーうなり出した。


 片隅の埃にまみれた棚の上に、白い色の土器かわらけが乗っていた。いつそこに置かれたのか分らない。土器は、沈黙して、「タイム」の流れから外に置かれたことを語っていた。気の抜けたような白色が、前の世の、人間が用いていた匂いがする。
 女の、頭髪かみのけが、赤茶けて見える、女は、東の方の破れた障子に向いて仕事をしている。

「今晩は。」……と力ない、頼むような声がした。
 女は、前の仕事を押しのけて、熱心に耳を傾けた。壁の方を見て茫然とした。壁の一面は黄いろく、二面は灰色に塗ってあった。
 女は、立って破れた障子を開けた。黒い幕を張り詰めて、金紙の花を附けたように、数えるほどの星が出ている。暗い森には風すらなかった。
「今晩は、私を泊めて下さい。」
 と、一人の男が、女の前に立った。
 赤い爛れた眼のような火影ほかげが、女の薄紫色の厚い唇と、男の毛虫のような太い眉毛の上に泳ぎ付いた。
 女は、また東を向いて仕事をしていた。三方の黄と灰色の壁が、見慣れぬ男が入ったので、茫然とした視力を見張った。ランプは、一層いっそう声を高く、ジ、ジーといって油の尽きるのを急ぐようだ。そうなれば、夜が明ける。今まで、変りのなかった家に、今夜、始めて変りのないようにと火影が、幾度かまたたいた。ひとり、白い土器ばかりは、いつそこに置かれたかということを自分ながら、永遠の問題として考えている。
 その他、家に、森に、何の変動もなかった。やはり、暁の光りは、心地よげに破れた障子の穴をくぐって来た。森の頂きは、美しく紅くそまった。


 あくる晩、女はいつものように東の障子に向って仕事をしていた。ほんのりと月の光りが射し込んで来る。森に吹く風の、かすかな音が聞える。小鳥が巣を求める夜きの声がする。いつも女は、下を向いていてそれらのものには気付かなかった。今宵、始めて女は、手を休めて耳を傾けた。
 葉と葉のれる音、そこには、今まで、聞えなかったやさしみがある。どうして、樹はこんな美妙の音を出すであろうか。月が、深い、深い、葉の繁みを分けて奥深く入り込む、そのまた後を追いかけて第二の風が入って行く。それらの風が、この清新な葉のしとねの中に追いめぐり、追い駆け、狂って、再び奥の繁みから、左に抜け右に抜け、ある者は、どっと森を突き貫けて、更に月の青白く照る野をかすめて、どこかに行ってしまう。その風の音が自分に接吻を求める叫びのように聞える。
 女は、月を見て空想にふけった。青い月の光りは障子の破れから射して、棚に乗っている白い土器をさらしていた。誰がいつ、そこに土器を置いたか? ただ物を言わぬ土器が、青白く彩られて、黙っていた。
 女は、慌しげに仕事に取りすがる。風の音、森のささやき、小鳥の巣を求める声、月は、次第に明るくなった。女は、遠くで、水の流れる音を聞きつけた。その流れは、湧き出る泉の音である。月下に白く銀を砕いて、緑の草を分けて、走っている水の音である。女は、未だつてかかる流れを、この森の中に見出したことがなかった。しばらくその水音に耳を傾けて、仕事をやめていた。心は、水音と共に連なり、流れに乗って暗い、森の下、赤い花、白い花の蔭をくぐって遂に森に出た。遥々はるばると夢を見る気持で、どことなく流れて行く、高い塔、赤い煉瓦れんが造りの家、光る海……それらを見ることが出来た。……
 女は、座に居堪いたたまらず立上って、障子を開けた。鎌のように冴えた月が、枯れた木の枝にかかっている。やがて、青葉を縫って、青い月光は地平線にかしいだ。
 まだ、女は平日ふだんの半分だも[#「半分だも」はママ]仕事をしていなかった。赤い爛れた目のようなランプは、月のなくなると共に再び暗い室を占領した。女は昨夜のように、東に向って、下を向いて仕事にとりかかった。
 四辺あたりは静かだ。暗い夜は、森の上に垂れ下がって、小鳥は夜の翼の下に隠れて眠ってしまったらしい。

「今晩は。」……女は、手を止めて頭を上げた。
 ただ黒幕を張ったような室。金紙で作った花を貼り付けたように数えるばかりの星。森は黙って浮き出している。そこに恋しい人影がなかった。


 あくる日、女は森に入って昨夜聞いた泉を探して歩いた。繁った青葉は、下の草を一層濃く青く染めた。
 女の顔も、着物の色も、上の青葉の色が照り返って青かった。
 女は、柔らかな夢を見ている草の上に坐って耳をそばだてた。微かな風の音。ひらひらと舞う青葉の光り。葉と葉とが摺れ合って、心地よい歌をうたっていた。
 女は、男が来てから不思議のことが多い。聞かなかった泉の音を聞く。分らなかった風の色が見える。
 この時、はたはたと聞き慣れぬ鳥の羽叩はばたきの音がした。振り向くと、赤い毛に紫の交った大きな鳥が二羽、高い木の上に巣を作っていた。巣は、黒く、ある所は灰色に光りをんで、枝と枝との間にかかっている。巣からは、黒い乱れた女の髪の毛のようなものが、中空に垂れ下がってなびいている。海の上に漂っている藻屑もくずに似ていた。女は、黒い髪の毛を見ると、この鳥が、どこから、それをくわえて来たかと考えた。
 この、深い森の奥には、他の女の死んだ死骸が捨てられているのでないか。肉が朽ち、顔や、目や、鼻がただれ、崩れて、悪臭を放っている。そこへこの、赤と紫との混り毛の鳥が行って、腐れた頭から、これらの髪の毛を抜き取って来るのでないか? この森のどこかで女が死んでいるのでないか?
 女は、訪ねて来た盗賊のことを思い出した。あの男は、他でも女をおどかして、女をはずかしめて、殺して捨てて来たのだろう。そう考えると、傍に鬼あざみの花が毒々しく咲いている、その色合が、あの男の頬や唇の色によく似ていたと思った。
 けれど、鬼あざみを摘んで、それに熱い接吻をしている女の唇はもっと紫色であった。巴旦杏はたんきょうの熟したような色であった。女はじっとその鬼あざみを見て、華やかに笑ったのである。
 この時、巣を作っている鳥が、怪しな声で啼いた。尾は長く、垂れて、頭の上に届きそうだ。鳥の拡げた翼の紅は、柔らかな、つやつやしい、青葉の光りに映った。鳥の長いくびは、曲線的にS形に空を仰いで、思い切った、張り詰めた声で啼いた。女は、この啼声を聞いた時、自分の腹でも、怪しくそれと啼き合した声がある。


「今晩は。」……この声を、もう一度聞いて見たい。女は懐かしくて堪らなくなった。女は、あくる日も、その鳥の巣を作っているのを見た。そして、その怪しな啼声を聞いた。
 腹の中で、それと啼き合す、怪しな啼声を聞いた。

 青と青とが摺れ、緑と緑とが蒸し合い、加えて紫の花の激しき香気。いずれもそれらは水を望んでいる。清らかな、日に輝いて、たえなる歌をうたって流れている水にかっしている。唇の紫の女も水に渇している。女は、もはや、森を奥深く分けて進むに堪えなかった。激しい日光ひかりは緑の葉に燃えている。草を踏むと身が蒸されるようにむうっとなった。青葉に輝く日光と風を見ると、眼がくらんで来た。白い花、紫の花、目を射るように、等しく日光に輝いていた。
 ある日、女は、森に来て、かの怪しな鳥が、倦怠だるそうに大きな、光沢のある、柔らかな翼を、さも持てあまして、二羽が、互にもつれ合って巣を作っているのを見ていた。長い曲線的の頸は頸と絡み合っている、長い尾は、旗の如く風にかえっている。ただそこに異った、けわしげな眼と、柔和の眼とが光っていた。今、下になって、さも疲れたように枝に掴まって、ぐったりとしている眼の柔和な鳥をば、雌鳥だと思った。雄鳥は、今、巣の下に仰向あおむけになって、なにやらを巣の中に押し入れている。海の藻草のような、女の頭髪のような、ひらひらとしたものは、半分切れて、下の枝にかかっていた。なぜだか、鳥は、それをそのままにして拾い上げなかった。残りの半分は、わずかばかり、もとのように風になびいていた。
 空は、まるく、悠然と垂れ下がっている。どこまで深さのあるものか、分らない。淡い、緑と青とが南と北とによって違っている。海鳥の胸毛のような、軽い、白い雲が、飛んでいる。巣を作っていた鳥は、けたたましく啼いた。女の腹の啼声も、けたたましくそれにこたえる。
 女は、刺されるような痛みと、震いとを感じた。
 枝の、緑色の芽を摘んで、じっとそれに見入って、女は涙ぐんだ。


 森に、秋が来た。怪しな啼声のする、紫と赤の混毛まじりげのある鳥はどこにか去った。この鳥の雛は、親鳥と共に南方の、赤い花の咲いている、温かな国を慕って飛び去った。葉の色が黄いろくなった。頭髪のような、黒い毛の垂れ下がっている鳥の巣は、青い、澄み渡った空の下にひらひらと懸っていた。雨の降るたびに黄色な葉が、はらはらと落ちた。中には茎の長い、黒く腐ったのが、ずるりずるりと抜髪のようになって枝から落ちた。
 雷のために裂かれた木は、夕陽に赤く色どられて立っている。風は悲しく叫び、雨は女の涙をいくたびか誘った。いつの間にか、白い雪が降って来た。白いけものの、夜半に啼く声が聞えた。黒い鳥が、どんよりとした空の下に飛び廻って、林から林へ、白い雪の上にも、木の枝にも、止まっているのが見えた。
 やがて、冬が去った。
 女は、やはり東を向いて、下を向いて仕事をしている。障子は、のみで、上皮の薄膜を剥ぎ取って、中から夜の黒い地肌を露出したように無残に見えた。
 森は、いつしかまた重い、青と緑に色どられた。夜の暗黒な翼が、次第に下へ下へと落ちて来た。いつしか黒い森の頂きと接吻せっぷんする。啼いていた小鳥は、夜の、黒色の翼の下に隠れて眠ってしまった。
 今、赤い爛れた目のような、ランプの下に坐っている女は、一人でなかった。背に、小さな乳飲児ちのみごを負っていた。子供は、すやすやと眠っている。力なげなランプの光りが、ここまで達しなかった。
 その児は痩せている。口が尖っている。呼吸をする毎に、胴腹の骨が、ぴくりぴくりと浮き出て、また引込んだ。眼は大きく、皿をめたように飛び出ていた。頭髪は、幾十本か、数える位しか固まって生えていなかった。口は大きくて、開いている。この世界の空気が堅くて、吸うのが困難のように見受けられた。胴より、割合に大きな頭が、女の背に投げ出されている。


 この貧弱な体を、黒い、強い縄で縛ったようだ。細い紐は母親の体にくくり付けている。呼吸をするたびに、弱々しい胴骨がびくりびくりとやみに浮き上るようだ。
 女は、黙って下を向いて仕事をしている。後姿を見ると、赤茶けた頭髪が、ランプの光りを受けて、衰えた光りを反射していた。ランプの光りは、また紫色の唇にも達している。もはや昔のように厚くはない。眼も、しょんぼりとして頬の肉もげてしまった。ただ、怪しな鳥の雄がちょうどこんな険しい眼付をしていた。
 紫色の唇は、しぼんだ花のようだ。削げた頬の感じは、秋の黄ばんだ色を想い出さした。女は、今眼ばかり働いている。眼ばかり活きている。
 夜が更けた。風は、再び昔の如く女と無関係に吹いていた。泉の音は、女になんの反響も与えない。女は、耳を凝らして風の音を聞いている。そして、自然のすることを冷笑あざわらった。
 青桐あおぎりの葉は、ばたばた鳴って女の坐っている窓の前で、黒い、大きな、掌と掌とが叩き合って夜のやみを讃美する。黒い掌の鳴る方に当って、森の腐れから、孵化ふかした蚊が幾万となく合奏し始めた。蚊の一群は、青桐の中頃に集って歌った。「血に飢えた、血に飢えた、獣物の肌の臭いがする。肉に吸い付いて、腹が赤く、酸漿ほおずきのように腫れ上るまで生血を吸いたい。」……他の一群は青桐の下枝に集った。風が来て、葉がおののくたびに固まった。一団は、まりのようにあちらへ転じ、一団はこちらへと転って来る。そして彼等は歌った。
「生温い夜、赤味と紫色を帯びた夜の色。この世界が皆、血色に関聯かんれんする。赤錆の出た、たいらな、一枚の鉄板てっぱんのような夜の世界、その色は、断頭台の血に錆びた鉄の色に似ている。惨酷ざんこくな料理をする……。吾らは、夜の色を讃美する。」
 空の色が全く暗に塗られた時、彼らは勝手に分れた。ある者は森の野獣の血を吸おうと、青葉の下を潜って、森の中に入った。ある者は、一つ一つ障子の破れ目を、くぐり込んで、この痩せた児と女の血を吸おうと入った。
 赤い爛れた目の色に似ているランプは、この小さな侵入者を見張ることが出来なかった。疲れた、黄、灰色の壁は、漠然としていて、この侵入者の休み、止る所となった。蚊の腹からは血がしたたりそうになって、灰色の壁に触れている。もはやこれらの壁は、威嚇する力も持たない。蚊の吸った血に汚されるにまかした。
 小さな侵入者は、女の身の周囲まわりを取巻いた。女は、仕事をせなければならぬ。蚊は、女の薄い着物の上から刺した。子供の痩せた両足に黒くなるほど止った。競争して、この貧児の血を吸い尽くしてしまおうとした。
 疲れた、物憂い眠りから醒めて子供が火のように泣き立てる。けれど、黒い縄は、子供の体をしっかりと結び付けていて、子供は足を動かすことすら出来なかった。飢えている蚊は、瞬間も血を吸うことを止めなかった。子供はもがこうとして動くことが出来ない。見る間に痩せた両足は、藪で育った侵入者の貯えきっていた毒針で、太く、重く、淡紫色に腫れ上った。けれど、鋭い口は、肉と肉とを分けて、なお深く喰い込んでいた。子供は、火のように泣き立てている。その声は、力の弱いので、腹の飢えているので、体の病身なので、いつしか衰えて来た。
 女は、やはり下を向いていた。両方の眼が子供の泣声と、蚊の襲撃とで、益々ますます険しく輝いた。怒り、恨み、にくみ、それが一点に火となって輝いたのである。彼女は手を廻して、子供の病的な頭を打った。


 柔らかな、うるおいの乏しい、大きく開いた子供の眼は、※(「日+童」、第3水準1-85-40)とうとうとして上る朝日の光りを避けた。真昼の光りでさえ、この弱い子供の眼は、瞳に映るのを怖れている。昼の恐怖についで、怖しいものは夜の恐怖であった。
 この児は、昼と夜とのいずれにも育たない児だ。更に深い夜、更に暗い世界でなければ、この児の弱い眼は、外光の刺戟に堪えられない程であった。けれど、生きているうちは、またうえを感ぜずにはいられない。子供は女に乳をねだった。
「やかましいよ。お前にかまっていられるかい。」
 女はこう言って、やはり下を向いている。子供の身の廻りには、黒い、細い、強い縄が取り払われた時がなかった。物を言い得ない子供は、ただ泣いて饑を訴えたのである。空しき努力であった。泣けば泣くほど饑を感じた。そして、声もいつしかれてしまう。大きな頭が、その胴と釣合の取れぬ病的な重さのために、ぐたりと垂れて、柔らかな、弱々しい眼が瞬きもせずにぼんやりと開いている。子供は、たまたま、こんなに泣いて泣いて泣き疲れた揚句あげくに、棚の上に乗っている白い土器を見た。そして、微かな笑いを立てた。
 子供は、しっかりと女の背に負わされていながら、手を伸ばして土器を取ろうとした。ある時、女は、児の差し出した手を邪魔だといって叩いた。
 遂に子供は、棚にあった土器を持たずに死んだ。生れてから一年と経たぬ間にこの世を去ってしまった。
 女がこの死児を森に葬った日は、風があった。湿気を含んだ空気は、沈鬱ちんうつ四辺あたりを落着かせた。高くひいでた木の枝が、風にたわんで、伏しては、また起き上り、また打ち伏していた。他の低い木の枝は、右に泳ぎ、左に返っていた。雲は、白く、幾重にも重なっていた。
 高い木のなびく、頂きには、青い空がほころびている。かの夕陽に赤く色づき、朝日に照り返って輝く、皮の剥げた枯木の老幹ろうかんは、白くなって、青々と繁った林の中から突き出て見えた。
 女は、何の木とも知らぬ、白い花の咲いている木の下に穴を掘った。そこには黒い布に包まれた死児が草の上に横たえられた。女は、掘りかけてくわをそこに捨てて休んだ。湿しめっぽい風は女の油気のない、赤茶けた髪をなぶって吹いた。木々の葉は、冷笑あざわらうように鳴っていた。
 女は、頬の肉が落ち、唇は堅く黒く凋んでしまった。掘り返された土が濡れていた。穴には、日の光りすら覗かない。この湿った土の中に、この児は埋められてしまう。そして、湿った土は、遂に日の光りに晒されずに再びもとの如く隠されてしまう。死んだ児は、地を透して日の光りを見ることがない。湿気に埋まって自ずと腐って行くのだ。掘り返された時、青葉にかかった土は、ばらばらと葉をすべり落ちて、穴の中に帰った。
 餓えた時に乳を求めた児である。それをやらずに叱った女である。白い土器が欲しいと笑って手を出した児である。その手を叩いた女である。児は、とこしなえに眠ってしまった。再び泣きはしない。このまま静かに地の中に入って眠るのだ。女は、木の葉の動くのを見て別に涙も出さなかった。女は、鍬を採った。力を入れて三尺ばかり掘って、穴の中に黒い布で包んだ子供を入れた。子供の痩せた足が、布の外にき出た。足には、蚊の刺した痕が赤くなっている。ちょうど莓のように紅く腫れていた。女は、子供を穴から掴み出した。南を枕にして入れて見た。穴が狭くて、のびのびと足を長くすることが出来ない。今一度、子供の死骸を取り出して西を枕にして足を縮めさせて押し込んだ。そして、頭から土をどっと掻き落した。
 死んだ児は、遂に埋められた。女は森を出て家に帰った。


 赤い爛れた目のようなランプの下で、女は東を向いて、仕事をしている。ランプはジ、ジー、ジ、ジーと鳴り出した。夜は、次第に深くなった。力のない目を見張ったような灰色の壁はぼんやりとしている。白い土器はいつ、そこに置かれたか永遠の問題として、みずから黙って時の外に超越していた。
 森が、次第に垂れ下がった、厚い、縫目のない、黒い、重い、夜の大きな翼の下に押されて、無理に上を向いて接吻している。風は、折々、抜足ぬきあしして、窓の外を通るように破れた障子の紙が、ひらひらと動いた。女は、疲れた目を撫でた。この時、かすかな泣声が、遠くの遠くから聞えて来る。
 その泣声は、耳についている泣声である。死んだ子供の泣声である。たしかに森のかなた、白い花の咲いている木の下から起って、木と木の間を通り、藪を抜けてここまで聞えて来る。
 たちまち、泣声が止んだと思った。遠くの、遠くに耳を傾けていると小さな足音が、ぱたぱたとしてこちらに歩いて来た。足音はすぐ窓の近くに来て止った。風は、森がする吐息のように断続的に吹いている。しばらくすると、またかすかに遠くの遠くで、聞き覚えのある子供の泣声がした。その泣声は、白い花の咲いている木の下から起って、木と木の間を避け、藪から藪の間を抜けてここまで達して来る。やっとの思いで、この家を探して来たような哀れな泣声だ。また、その声は、ここまで辿って来るには力いっぱいの声であった。ここまで、辿って来てその人の耳に入れば、ぷつりと消えてしまう。次には、物言わぬ霊魂が、歩いて来る。
 女は、始めてせなければならぬ仕事をそこに投げ捨てた。一種の怖しさに手がおののいた。し難き不可思議に身の毛がふるえた。
 なおも耳を傾げている。断続的に吹く風がやんで、天地がしんとすると、遠くから歩いて来る小さな足音。とぼとぼとあちらにさまよい、こちらにさまよいながら、ふと、窓近くなるとぷつりと止った。誰かが、家の内を覗いているらしい。立聞きをしているらしい。女は、一夜、泣声と足音に、苦しめられた。
 薔薇色ばらいろの、朝日の光りが、障子の破れ目から射し込んだ時、女は青い顔をして始めて、蘇生よみがえった思いがした。早速、森に行って見た。白い花の咲いている木を目標めじるしに近づいて見ると夜の間に、何の獣か知らないが、地中から死骸を掘り出そうとして、地を掻いた爪の痕が付いている。頭の上では、黒い鳥が木に止って女のするさまを見下ろしていた。
 女は、家に帰って、白い土器を持って来た。それを土に埋めて、中に水を入れ、上の白い花の枝を手折ってして、うずくまって、神に死児の冥福めいふくを祈った。
 頃は、初夏である。白い雲が、森の上に湧き出た。





底本:「文豪怪談傑作選 小川未明集 幽霊船」ちくま文庫、筑摩書房
   2008(平成20)年8月10日第1刷発行
   2010(平成22)年5月25日第2刷発行
底本の親本:「小川未明作品集 第1巻」大日本雄辯會講談社
   1954(昭和29)年
初出:「新潮」
   1910(明治43)年8月号
入力:門田裕志
校正:坂本真一
2021年3月27日作成
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