ねずみとバケツの話
小川未明
町裏を小さな川が流れていました。川というよりは、溝といったほうがあたっているかもしれません。家々で流した水が集まって、一筋の流れをなしているのでありました。
ねずみは、その流れの岸に穴を掘って、もう長い間、そのところにすんでいました。ほかのねずみたちが、みんな家々の天じょう裏や、縁の下などに巣を造っているのに、このねずみばかりは、こうして、外のこんなむさくるしいところに、どうしてすんでいるのだろうという疑いをもたれたのですが、それには子細のあることでした。
この川の淵には、いたるところにごみためがあって、いろいろなものが捨てられるからではありませんでした。ねずみの食べられそうなものは、犬やからすが先にきて、たいていそれを食べてしまうのでありましょう。
ねずみがここにすんだのは、この場所が安全だと思ったのにほかなりませんでした。
それは、ねずみがもっと小さかった時分のことであります。彼は、ほかの友だちといっしょに、やはり、町の一軒の家にすんでいました。ある夜のことでありました。彼は、みんなから離れて、ひとり台所へ出てきました。たなの上には、大根や、芋などがざるの中にいれて、のせてありました。また、戸だなの中には、煮た魚や、豆などがはいっていました。すべてが、敏感なねずみの鼻でわかったのであります。
「人間は、りこうでずるいから、気をつけなければならない。」と、日ごろから聞いていましたから、ねずみは注意を怠りませんでした。
彼は、音をたてないように、戸だなをかじってみようかと思ったが、それよりは、まず無難の、たなの上にのっている芋を食べようと思いました。
彼は、そこへ上がって、芋を食べました。小さなねずみの腹は、じきにいっぱいになってしまいました。腹がいっぱいになると、もう彼は、戸だなの中のものを食べたいなどという欲を起こしませんでした。それよりか、ただ一口水を飲みたかったのです。
水を飲んで自分たちの巣へ帰ろうと考えながら、彼は、ながしの中へ降りてきました。そこには、バケツがありました。バケツの中には、多分水がはいっているだろう……彼は、注意をして、バケツの縁に上がって、中をのぞいてみました。
あたりは、暗かったけれど、バケツの中には、はたして、水がなみなみと七分めのところまで満たされているのを悟りました。ねずみは、どうかして、くびを伸ばして、水を飲みたいと思いました。それは、ほんのわずかばかりの距離ではありましたけれど、この小さな動物にとっては、容易のことではなかったのです。
彼は、できるだけ下へくびを伸ばしました。まさしく、それは冒険でありました。しかしいくら、しっかりとつかまっていても、バケツの縁は円く、それに金属でつめの立ちようがなかったから、ねずみは、足をすべらすと同時に前のめりになって、水の中へ落ちてしまいました。ねずみは、水の中でもがきました。しかし、バケツの縁には、どんなことをしても、手足がとどきませんでした。
このとき、バケツはあざ笑ったのであります。
「おまえは、だれの許しを得て水を飲もうとしたのだ。小さなくせに、生意気な。俺の頭の上へ乗ったりして、みんな罰があたったのだ。こうなっては、逃げようと思っても逃げられるものでない。」と、バケツはいいました。
ねずみは苦しんでいました。そして、水をはね返しながら、
「私が悪かったのです。どうか助けてください。こんどからは、けっして、あなたの中にはいっている水を飲もうとはいたしませんから……。」と、バケツに向かって頼みました。
けれど、バケツは、冷淡に、からからと笑ってとりあいませんでした。
憐れなねずみは、苦しまぎれに水を飲みました。体じゅうの毛は、すっかりぬれてしまって、もはや、泳いでいるだけの力がなく、まさにおぼれようとしていました。
「ここまで、泳いでおいで、私が助けてあげるから。」と、ふいにいったものがあります。
ねずみは声のするところまで、いっしょうけんめいに泳いでゆきました。ねずみにこういったのは、柄杓でありました。
「さあ、私の体につかまって上がんなさい。」と、柄杓はねずみに勇気づけました。
ねずみは、しっかりと柄杓の柄につかまって、かき上がりました。そして、やっと死地からのがれたのであります。
「ありがとうございます。」と、震えながら、ねずみは柄杓に礼をいって逃げてゆきました。
ねずみは、命が助かると、もはや家の中が怖くて、すんでいる気には、どうしてもなれませんでした。彼は、みんなから別れて、安全な場所を見いだすために苦しみました。そして、いまのところに穴を掘って、ここで暮らしたのであります。
彼は、いまは大きく、そして、考え深いりこうなねずみになりました。無事に日を送っているうちに、ここに、はからずも、ねずみにとって困ったことが起こりました。
雨が幾日も降りつづいて、流れがあふれたからであります。ねずみは穴の中へ水がはいるので、そこにじっとしているわけにはいきませんでした。しかたなく穴から出て、もとすんでいた、ようすのわかっている家の縁の下へゆこうと思って、夜になるのを待ってやってきました。
ねずみは腹がすいていましたので、さっそく、台所へきました。そして、ながし口から、雨戸の外へ出ますと、魚の骨や、いろいろのうまそうなもののにおいが、すぐ近くでしました。彼は、頭をめぐらして探しますと、そばの古いバケツの中からするのでした。
ねずみは、すぐに飛び上がりました。そして、バケツの中へ飛び込みました。いまは、大きく強くなって、そんなことをするのは、ねずみにとってなんでもなかったのであります。彼は、そこにあった、うまそうなものから食べました。そして、もっと、なにか下の方にはいっていないかと思ったので、ガタ、ガタと、バケツを鳴らしながら、食べるものを探しました。
「痛い、痛い、ねずみさん。どうか静かにしてください。私は、体を動かすたびに、痛んでたまらないのですから。」と、バケツは、悲しそうな声を出して訴えました。
ねずみは、その言葉をきくと、哀れになりました。
「どうしたのですか? こればかし動いて、そんなに痛いというのは……。」と、ねずみはたずねました。
「ねずみさん、私は、このながしに長い間役をつとめていました。そのうちに体のところどころがさびて、傷がついて、もう水をいれる力がなくなりかけた時分に、セメンでその傷口をうずめられました。その後も、かなりしばらくの間は、私は、役をつとめたのであります。いよいよだめになると、こんどは、ここに出されてごみのいれ物となりましたが、もう体じゅうが傷んでしまい、すこし動くと、セメンを詰めたところが欠けて、痛んで痛んでたまらないのでございます。」と、バケツは答えました。
ねずみはその話をきいて、このバケツは、自分の子供の時分に、水を飲もうとして落ちたときに、まだぴかぴか光っていばっていて、無情であったのだということを思い出しました。しかし、このねずみはりこうなねずみでありましたから、いま、こんなふうになってしまったバケツに対して、なにもいいませんでした。ただ心の中で、その末路を憐れんでいたのであります。
「それはお気の毒のことです。私は、すぐにここから出ますから。」といって、ねずみはバケツの外へ飛び出して、
「ときにバケツさん、昔、あなたといっしょであった柄杓さんは、どうしましたか。」とききました。
「あの柄杓ですか。あれは、私よりも、もっと早く、あまり体を使いすぎたために、頭がとれて役にたたなくなってしまいました。人間は、そうなると、まことに冷酷なものです。その朝、柄杓をどこかへ捨ててしまいました。しかし、ひとごとでありません。私がそうなるのも近いうちです。」と、バケツは、まったく前の元気はなく、悲しそうにいいました。
ねずみは、自分にしんせつであった柄杓の最後をきいて、胸がいっぱいになって、ものをいうことすらできませんでした。
そのとき、なんともいえぬ甘そうなにおいが、どこからかしてきました。ねずみは急に鼻をひくひくさせました。
「あのうまそうなにおいは、どこからするのだろう。」と、あちこち見まわしはじめたのです。
「ねずみさん、油断をしてはいけません。昨日の昼間、人間がねずみとり薬を食べ物の中へいれて、その辺にまいたようですから……。」と、バケツはいいました。
「ありがとう……。そんなこととは知らないものですから、食べたらたいへんでした。」と、ねずみはいって、お礼を申しました。たとえ、りこうなねずみにせよ、それを悟るはずがないからでした。
「ねずみさん、そればかりではありません。毎夜、いま時分……ねこがやってきますから気をおつけなさい。」と、バケツは教えてくれました。ねずみは、この家の付近にすむことの危険をつくづくと感じました。そして、やはり、自分は、あの溝の淵に帰るほうがいいと思いました。ちょうど、雨は晴れて、空には、月が出ていました。
「バケツさん、どうぞご機嫌ようお暮らしなさい。」と、ねずみは別れを告げて、ふたたびさびしい町裏の方を指して出かけました。彼は、道すがら、昔の敵であったバケツが、いま年をとってやさしくなったのを寂しく感じました。
底本:「定本小川未明童話全集 4」講談社
1977(昭和52)年2月10日第1刷
1977(昭和52)年C第2刷
初出:「赤い鳥」
1925(大正14)年7月
※表題は底本では、「ねずみとバケツの話」となっています。
※初出時の表題は「鼠とバケツの話」です。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:へくしん
2020年7月27日作成
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