(この話をした人は、べつに文章や、歌を作らないが、詩人でありました。)
支那人の
出している
小さい
料理店へ、
私は、たびたびいきました。そこの
料理がうまかったためばかりでありません。また五
目そばの
量が
多かったからでもありません。じつは、
出してくれる
支那茶の
味が
忘れられなかったからです。
支那茶の
味がいいってどんなによかったろうか。まず、その
店で
飲むよりほかに、
私は、それと
同じい
茶を
手に
入れることができなかったのです。
その
味は、ちょっと
言葉には
現されないのですが、
味というよりも
香いがよかったのです。なんというか、まだ、
江南の
春を
知らないけれど、この
茶をすするときに、
夢のような
風景を
恍惚として
想像するのでありました。
そして、
頭の
上の
額には、
支那の
美人の
絵が
入っていましたが、
美しい、なよやかな
姿が、
茶をすする
瞬間には、さながらものをいうように、
真紅な
唇の
動くのを
覚えました。
「
君、このお
茶の
中には、
香いのする
花が
入っているようだが。」と、ある
日、
私は、この
店の
主人に
向かって、ききました。
腰が
低くて、
愛想がよく、ここへ
住むまでには、いろいろの
経験を
有したであろうと
思われる
主人は、
笑って、
「このお
茶には、
蘭亭の
白いらんの
花が
入っていますよ。」と、
答えました。
「ははあ、らんの
花が
入っている。なるほど、それで、こんなに、やさしい、いい
薫りがするのかな。」と、らんの
花のもつ、
不思議な
香気に、まったく
魂を
酔わされたように
感じたのでした。
偶然のことから、
私は、らんに
興味をもつようになりました。いままでは
無関心にこれを
見ていて、ただ
普通の
草の一
種としか
思われなかったのが、
特別、
高貴なもののように
思いはじめたのです。そしてすこし
注意すると、
世間ではいつからか、らんが
流行していて、
玩賞されているのに
気づきました。デパートにもその
陳列会があれば、ときに
公園にも
開かれるというふうで、
私は、いろいろの
機会に
出かけていって、らんを
見ることを
得ましたが、その
種類の
多いのにもまた
驚かされたのです。たとえば
南洋の
蕃地に
産する、
華麗なちょうのような
花をつけたもの、
離れ
島の
波浪が
寄せるがけの
上に、ぶらさがっているという
葉の
短いもの、また
台湾あたりの
高山に
自生するという
糸のように
葉の
細いもの、もしくは、
支那の
奥地にあるという、きわめて
葉の
厚くて
広いもの、そして、
九州の
辺りから、四
国地方の
山には、
葉の
長いものがありました。その
中にも、
変種があって、
葉の
色の
美しい
稀品があります。
花もまたいろいろで、一
本の
茎に、一つしか
花の
咲かないもの、
一茎に
群がって
花の
咲くもの、
香気の
高いもの、まったく
香気のしないもの、その
色にしても、
紫色のもの、
淡紅色のもの、
黄色のもの、それらの
色の
混じり
合ったもの、いろいろでありました。しかし、まだ
白い
花を
見なかったのであります。これらのらんには、いずれも
高価の
札がついていました。
私はこれを
見ながら、
「このお
茶には、
蘭亭の
白いらんの
花が
入っています。」といった、この
料理店の
主人の
言葉を
思い
出しました。
白い
花は、もっと
珍しいものにちがいない。そして、もっと
高価なものにちがいない。
「
白い
花があったら、
幾何するだろうか。」
こんなことも
考えました。
事実、
金さえあれば、
新高山の
頂にあったというらんも、この
手に
入るのですが、ここで
私の
考えたことは、
自然の
美というものが、はたして、
金で
買えるものであるかということでした。
これは、
商人の
場合ですが、こんな
話があります。
どちらかといえば、
私は、
深くわかりもしないくせに、
多趣味のほうです。あるとき、
街を
歩いていて、
骨董屋の
前を
通って、だれが
描いたのか、
静物の
油絵がありました。
立ち
止まってそれを
見ているうちに、
「ちょっといいなあ。」と、いう
気が
起こったのです。
もし
高くなければ、
買ってもいいというくらいの
気持ちで、その
店へ
入りました。
「いらっしゃいまし。」と、
老人が
丁寧に
頭を
下げました。
私はその
油絵の
前に
近く
寄って、じっと
見ていました。
ちょうど、このとき、
一人の
男が、
飛び
込んできて、
「どれ、その
根掛けというのは。」といって、
老人に
向かって、
手を
差し
出しました。たがいに
顔なじみの
間柄である、
商売仲間だとわかりました。
「これだね。」と、
老人は、そばにあった
小箱のひきだしから、
布に
包んだ、
青い
石の
根掛けを
出して、
男に
渡しました。
男は、だまって
熱心に
見ていましたが、
「なるほど、いいひすいだなあ。」と、
歎息をもらしました。
私は
宝石の
話だけに、
油絵から
目を
放して、そのほうに
気を
取られていたのです。
「どうだい、その
色合いは、たまらないだろうね。」と、
老人は、さも
喜ばしそうに
笑いました。
「こんな、いい
石があるものかなあ。」と、
男が
見とれていました。
「まったく、そうだ。」と、
老人は、
自慢らしく
答えました。
「いくらなら
手放すかな。」
「いや、これは、
楽しみに、
持っていようよ。」
「ふん、
楽しみにか。」と、
男は、
冷笑うように、いいました。
「いいものは、どうも
売り
惜しみがしてね。」
「
持っていて、どうなるもんでなし、もうかったら、
手放すもんだよ。さいわい、
私には
見せる
口があるのだ。」と、
男は、なかなか
老人に、
渡そうとしませんでした。
老人は、なんといっても
笑っていて
返事をしなかったので、
男は、ついに、それを
返して、
「じゃ、また
出直してこようか。」と、いって、しまいました。
なんという
深い
青さでしょう。
見ていると、
玉の
中から、
雲がわいてきます。どの
玉もみごとです。
波濤の
起こる、
海が
映ります。いったいこの
美しい
宝石をば、
自分の
髪の
飾りとしたのは、どんな
女かと
空想されるのでした。
「いや、
商売ですから、
欲しいものでも
金になれば
手放しますが、
生涯二
度と
手に
入らないと
思うものがありますよ。そんなときは
損得をはなれて、
別れがさびしいものです。なかなか
金というものが
憎らしくなりますよ。」と、
老人は、
初対面の
客である、
私にすら、つくづくと
心境を
物語ったのでした。この
志があればこそ、
骨董屋にもなったであろうが、この
老人のいうごとく、
美というものは、まったく
金には
関係のない
存在であると
思います。
話がすこし
横道に
入りました。また、らんにもどりますが、これは、らん
屋で
他の
人が
話をしているのを
聞いたのでした。
大資産家なら
知らず、そうでないものが、一
万円のらんを
求めるというのは、よほどの
好者ですね。それも
全財産をただの
一鉢のらんに
換えたというのですから、
驚くじゃありませんか。その
人は、
時計屋さんですが、
金網の
箱を
造って、その
中に、らんを
入れておいたというのです。
白い
葉に、
白い
花という、
珍品ですから
無理もありません。ところが、
時計屋さんは、
仕事も
手につかず、
毎日、らんの
前にすわって、
腕を
組んで、「いいなあ、いいなあ。」といっては、
考えていたというが、とうとう
憂鬱病にかかって、なにを
思ったか、らんを
引き
抜いて
煎じて
飲むと、
自分で
頸をくくって、
死んでしまったそうです。
「いや、その
気持ちがわかる。」と、
一人がいいました。
私が、この
話をきいているうちに、
神さまにしかわからないものを
人間が
知ろうとして
見つめていたら、だれでも
気が
狂うだろうと
思いました。
だが、あの
宝石のもつ
美しい
色や、
花のもついい
香いというものは、
神さまにだけ
支配されるものでしょうか? たしかに、
人間の
心を
喜ばせるものにちがいありません。しかし、それを
人間が
所有することはできぬものでしょうか? なぜなら、
人間が
自然をすこしでも
私しようとするときは、そこに、こうした
思わぬ
悲劇が
生まれるからです。
ちょうど、
春先のことでした。
友人を
訪ねると、
「これは、
故郷から
送ってきた、らんの
花を
漬けたのだが、
飲んでみないか。」と、
湯に
入れて
出してくれました。
「らんの
花?」
私は、
茶わんの
中をのぞくと、
白いらんの
花がぱっと
開いて、
忘れがたい
薫りがしたのです。これを
見た、
私の
胸はとどろきました。
「
君、これは、どこのらんかね。」
「
故郷の
山にあるらんだよ。そこは、
南傾斜の
深い
谷になっていて、らんの
花のたくさんあるところだ。
嶮しいから、めったに
人がいかないが、
春いくと、じつにいい
香いがするそうだ。」
友だちは、らんについて、
無関心のもののごとくただ
故郷の
山の
美しさを
讃美して、きかせたのであります。
私がその
山へ、
友だちにも
告けずに、らんを
探しにいったのは、すぐ
後のことです。じつをいえば、
矛盾と
恥じますが、
花の
美にあこがれるよりは、一
万円に
値するらんを
探すためだったのです。
山には、まだところどころに
雪が
残っていました。しかし五
月の
半ばでしたから、
木々のこずえは、
生気がみなぎって
光沢を
帯び、
明るい
感じがしました。
谷には、
雪があって、わずかに
底を
流れる
水の
音がしたけれど、その
音を
聞くだけで、
流れの
姿は
見えませんでした。そして
雪の
消えたがけには、ふきのとうが
萌え、
岩鏡の
花が
美しく
咲いていました。
峠に
立つと
山の
奥にも
山が
重なり
返っていました。それらの
山々は、まだ
冬の
眠りから
醒めずにいます。この
辺は
終日人の
影を
見ないところでした。ただ、
友を
呼ぶ、うぐいすの
声がしました。かわらひわが
鳴いていました。まれに、やまばとの
声がきこえてきます。
「ああ、いい
薫りが……らんの
香いだ!」
白い
花の
咲くらんのあるところへきたという
喜びが、
強く
私を
勇気づけました。しかしながら、このとき、
白い
雲が、
谷を
見下ろしながらいきました。
「
花は、
神さまに
見せるために
咲いているのだ。
花を
愛するなら、らんを
取ってはいけない。」
私は、はっきりと
雲の
言葉を
耳にきくことができました。けれど、
私は、それに
従わなかったのです。
石から
足を
踏み
外すと、
谷底へ
墜落して、
左の
手を
折りました。この
不具になった
手をごらんください。そして、いまでも、
思い
出しますが、そのときの
雲の
姿がいかに
神々しくて、
光っていたか。
人の
思想も、なにかに
原因するものか、
以来、
私は、
地上の
花よりは、
大空をいく
雲を
愛するようになりました。