北のはての地に

風巻景次郎




 雪がふると巷の音がしずかになる。わたくしはそれが好きだ。ことに夜がいい。窓硝子にしずかにとまろうとする粉雪が電灯の光にきらきらときらめいて煖炉だけがかすかに唄っている。お茶など飲みながら、がたくり椅子に凭れかかって、煤けきった天井を眺めていると、いつの間にか夜は更けてしまう。そんなときは心がしずまって、かえがたく好きである。遠くもない駅を出てゆくらしい汽車の汽笛が、なんのこだまもなしに遠い遠い感じで消えいそぐと、あとはあんまり洞ろで、人の心を内がわ深いところで孤独のはてに引きいれる。
 北海道の冬にはなにか流刑地を思わせる強い力がある。平素はまぎれているから気がつかないのだが、静かさの支配する暗さの中で、遠い望郷の念が動きはじめる。言ってみればそれは激しい光線の反射しあう南の国への憧れである。超現実の光と線とのあやなす、それゆえ深く官能的な絢爛無比な幻耀世界へのいざないである。それがあまりに強いのでじぶんが縛された人間であることを思う。いわばあまりに光線が少なく、あまりに薄明の支配する、清く澄みきった静謐の周囲にたえられなくなるのである。
 時にわたくしはうすく汚く濁った、人の気で蒸れるような場所をひどくもとめる。じめじめとして陰翳の深い、ものの臭いのたなびく場所をひどくもとめる。人恋しいのである。札幌の街は乾いている。陰翳はきわめて少なく、ひどく明るい。その明るさは清く澄んでいて、人気からは遠い。
 雲が厚い壁をつくって、くらい翳をやどしながら、銀に輝く綿毛のささべりを持って流れてゆく間から、のぞいた青空の明るく澄んだ色は、東京や大阪や九州やには見ることのできないものである。清く杳かで、人間の気を全く感じさせない。それはすぐ神秘に通じ、人を限りなく孤独にする。清潔であるが真空のように冷酷である。なにか、宇宙自体をじかにのぞかせるような気がする。
 わたくしどもの文化は過去には北緯三十度圏の亜熱帯風の世界につくられた。そこではそよ吹く風も人の息吹のように、春の暖気も人肌を思わせた。もちろん土壌に密着した農業生産以外の所に立った社会などなかったのだから、人々は土地の湿気と※(「酉+慍のつくり」、第3水準1-92-88)気とのなかに半ば蕩酔しながら、官能を通してばかりの世界を感じていた。人と自然とは相即していたが対立はしていなかった。木にも草にも精霊が宿って少しもおかしくはなかった。その精霊から人間の子孫が出てきてもおかしくはなかった。
 北緯四十度圏の北海道では自然は人に対立する。人が人らしい環境に生きようとすれば、人は人工的に自然に対して立たねばならぬ。家一つたてても、都会一つをつくっても、すべてそうである。ここの自然はひたすらに激しい。その明るさは冷たくて真空である。われわれはここではつきつめた人生の考え方に追いやられる。天国と地獄とがここでは対立する。神秘と汚辱が、清澄と醜悪とが、神と悪魔とが、智恵と肉慾とが、柔和と冷酷とが対立する。それは、旧日本にはあり得なかった精神の生長の地盤である。北緯四十度圏の北海道の自然の見てくれが、本州や九州やと違うだけでない。そこでは自然と人間との関係が違っていることを身にしみて感じないではいられない。つまりそれは二千年の間にアルプスの北側にヨーロッパ文化を育成していった、あの北緯四十度圏と親しい類似を持った自然である。そこでは人間は考える葦となって、天につながろうとし、肉感にまみれて、地上に人工の花を開く。北海道にもそういった人間の野望が生まれていいではなかろうか。三十度圏の日本に真似てはならない。
 新しい官能や感覚の歌だけでなく、新しい実存の歌、新しい思惟の歌、新しく神秘につながる歌は、北海道から生まれる可能性が、これだけはたいへんはっきりしているように思うのである。





底本:「日本随筆紀行第二巻 札幌|小樽|函館 北の街はリラの香り」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「風巻景次郎全集 第九巻」桜楓社
   1971(昭和46)年9月
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2018年12月24日作成
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