まあまあ居士の弁

私の歩いてきた道

浅沼稲次郎




早稲田の森の青春


 早稲田に入ったのは、大正〔七〕年で学校騒動で永井柳太郎、大山郁夫氏等が教授をやめられた年の九月であるが、早稲田を志望したのは早稲田は大隈重信侯が、時の官僚の軍閥に反抗して学問の独立、研究の自由を目標として創立した自由の学園であるという所に青年的魅惑を感じて憧れて入学したのである。丁度当時は、第一次欧洲戦争の影響で、デモクラシーの思想が擡頭して来た時代である。
 そこで、学生の立場から民主主義、社会主義の研究を始めたのであるが、外部の社会主義運動、労働運動からの影響もあって学生の中に、思想的に飛躍しようとする者と、実際の面に即した者と、二つの流れが出てきた。
 思想的に行こうとするのは、高津正道氏などがその側で、あの人達は、だんだん発展して、日本における最初の共産党事件、暁民共産党事件に連坐した。我々は建設者同盟をつくり、その指導者とも云う可き北沢新次郎教授が池袋に住んでいたので、その裏に同盟本部を設置して社会主義学生の共同生活が行われた。
 当時の仲間は、和田巌、中村高一、平野力三、三宅正一、川俣清音、宮井進一、吉田実、田所輝明、稲村隆一等々で、学生が若き情熱に燃えて社会主義社会を建設するという理想の下に民衆の中へというモットーが労働運動、農民運動と連絡しながら日本労働総同盟、日本農民組合と関係を持って実際的の運動をやるようになった。私は労働運動の方でも、鉱夫組合の運動に興味をもって当時足尾の鉱山にはよく行ったものである。
 学生時代での一番の思い出は、大正十二年五月十日だと思うが、その頃、早稲田に軍事研究団というものができた。早稲田は何といっても、自由の学園で、大隈重信侯が官僚軍閥に反抗してつくった学校であるから、ここを軍国主義化することができれば、大学の所謂学生運動全体に甚大な影響を与えることができるという立場からだと思うが、軍部のお声がかりで学校当局並びに学生の一部が参加して軍事研究団なるものをつくって、講堂で発会式を挙げた。そのころ早大内部の学生運動は、文化同盟という形で集結されておったが、その連中、軍事研究団の発会式に傍聴に出かけて猛烈なる弥次闘争を展開した。当日は名前は忘れたが第一師団長?が幕僚を従えて大勢乗り込んで、激励の辞をやったのであるが「汝らの勲章から、われわれ同胞の血がしたたる」とか「一将功成って万骨枯る」とか「早稲田を軍閥に売るな」「学生はしっかりしろ」とかと弥次って研究団の発会式も思うように行かなかった。その上に文化同盟の連中は、余勢をかって臨時学生有志大会を開いて盛んに気勢を挙げた。
 その日私は、先日なくなられて早稲田大学政治経済部葬になった市村今朝蔵氏が英国で勉強する為に――洋行するので、横浜に見送りに行っていて、発会式の時のことを知らなかった。帰って来ると、学生が訪ねて来て、実は昨日こういう事件が起きた、ひとつ学生大会をやって、大いに軍事研究団反対の気勢を挙げてほしいと言う。私は、卒業の時期が延びて、まだ学校に籍があって雄弁会に関係して居たものだから、雄弁会主催という事で学生大会をやった。
 大隈侯の銅像の前に五、六千の学生が集った。今は故人の安達正太郎君という雄弁会の幹事が出て、開会の辞をやり、次いで私が決議文をよんで、さてこれから私が演説を始めるという時に、黒マントを被った、柔道部、相撲部の連中が殴り込んで来た。中には、汚い話だが、糞尿を投げるやつがある、あっちでも、こっちでも大乱闘が始まる。戸叶武君の如きは大隈侯の銅像の上から落され、負傷するという始末で学生大騒乱の中に終った。丁度この日は金曜日だったので、われわれ学生はこれを「血の金曜日」と呼んで、大に気勢をあげたものである。
 それ以後は、この文化同盟と、暴行学生の中心団体たる縦横倶楽部という右傾学生の集団との間に対峙が続いて、われわれは捕まると殴られるというので普通の学生の恰好をしては、危なくて歩けない状態であった。それでぶつかるのを極力避けていたのだがたまたま乱闘の四、五日か一週間後だったと思う、学校の裏を歩いていた時、到頭縦横倶楽部の連中にぶつかった。「一寸来い」といって、私は縦横倶楽部の事務所に連れられて行った。柔道部の連中が大勢私を取巻いて、「お前、社会主義者に煽動されて、ああいう大会をやったんだろう、怪しからんじゃないか、謝り状を一本書け」と言う。私はそれに対して「自分はなにも社会主義者から煽動されたわけではない。早稲田の学生として、純真な立場から、殊に大隈重信侯の官僚軍閥に反対して学問の独立と研究の自由の学園としてたてた早稲田のこの建学の精神を守るという学生的情熱でやったんだから書けない」と断った。それからは、殴る、打つ、蹴るで、瀕死の状態に陥ってしまったが遂に謝り状は書かずに朝迄頑張ってコブだらけの顔でビッコを引き乍らやっとのことで友人の家に辿り着いた。さあそれから、学生が大勢集って来て、大変なことになった。当時、大山郁夫、北沢新次郎、佐野学、猪俣津南雄教授これが教授側の指導者であったので足尾の坑夫が出て来て、これ等の教授宅には泊り込みで護衛する。また文化同盟の事務所には、学生が合宿して用意を整えて対峙する。私も当時日本橋におったが、いつ押しかけて来るか分らないので、何時も用意して対峙すると云った様に深刻な場面がつづいた。その中に六月五日に所謂暁の手入というのがあって第一次共産党事件の検挙が行われた。此の時には佐野教授が姿を晦ましてしまったので、学生のおどろきは相当なものがあった。此の共産党事件に佐野教授が関係があるというので大学内における佐野教授の研究室の捜査が行われた。これに対してまた、われわれ学生の憤激が爆発した。大学の中に捜査の手を伸べるとは何事か。我等は学問の独立と研究の自由を守らなければならない。大学擁護の運動を起さなければならんというのでその時には、三宅雪嶺先生、福田徳三先生、大山郁夫先生の三人を中心として、神田の基督教青年会館で大学擁護の一大講演会を開いた。その日は社会主義者高尾平兵衛が誰かに射殺された日で、息づまる雰囲気の中で演説会をやった。今でも忘れないが、この日は三人とも大雄弁で、殊に三宅雪嶺が、あの訥々の弁で、大いに学問の独立を擁護しなければならぬ、あくまで研究の自由を守らなければならぬと叫ばれたことはいまも印象に残っている。
 当時の学生運動を振返ってみて、今の学生の動き方について考えさせられることは、この間も早稲田大学の全学連事務所は家宅捜索を受けたのだが、これに対して、学生の中から、研究の自由、学問の自由を擁護する運動が起っておらない。更に学校内の集会が禁止されても不思議を感じない、もっと飛躍した反抗運動はやるが、現実に自分達の学校が官憲から脅かされている姿に対して、学生が何の不思議も感じていない、あるいは感じているのかもしれないが、直接自分達の学校を守ろうという意欲の生れて来ないことは、昔を顧みて学生運動は現実的の動きの中でやらなければならんのではなかろうかという気がする。そういう意味で、また此の学生時代に鍛錬された自分の姿を顧みて学生運動は私にとっていつまでも忘れ得ない思い出の一つである。
 もう一つ忘れられない思い出がある。大正十三年の夏か秋だったと思う。秋田県の阿仁合鉱山に争議が起きて、私と、今東京都議会の副議長をしている高梨君とが応援に行った。坑夫の家に泊められておったが、夜中に石が飛んで来る。竹槍がスッと突出して来る、というわけで、物情騒然たるものがあった。警察では、もう君らの生命は保障できないから、警察に来てくれ、と言って来た。そこでわれわれは裏山に逃げたが、結局警察に捕って保護検束されてしまった。すると、百人近い坑夫が揃って警察に押しかけて来て、君たちの生命を警察が保障できないなら、俺らの方で保障しますから帰ってくれ、と言うのでまた坑夫の家に行って泊った。三日三晩というもの、カンテラと鶴嘴で守ってもらった感激は、今でも忘れることができない。
 しかし、最後には到頭もちきれなくなって結局、秋田県警察部から退去命令が出たので阿仁合川を、われわれを一人宛舟にのせて警官が五、六人乗って、急流下りをやった。あの圧迫の中での急流下りの快味も、未だに忘れることのできない思い出の一つである。
 とにかく鉱山労働者の、同志に対する熱情は非常に強い。そのために到頭、足尾事件で五箇月監獄にぶち込まれることになった。

 監獄に行ったのは、震災当時に市ヶ谷刑務所にぶち込まれたのと、足尾事件の時と、この二度である。
 その代り、留置場入りは、枚挙に遑がない。演説会で中止命令に服さないといっては持って行かれ、争議で示威運動をやったといっては検束された。この頃地方に行くと、「昔あんたをよく検束したもんだが、最近は私も社会党が一番いいと思う、今は社会党ファンです」などと言ってくれる昔私を検束した警察官だった人と会うことがある。

アメリカの姿


 私はアメリカへはこの間行って来たが、二カ月やそこらアメリカに行っていただけで、アメリカがどうのこうのと言うのはおこがましくて言いたくないのだが、ただ、こういうことは言えると思う。
 われわれ渡米議員団では、この間帰って来てから、四月二十五日我が国会運営に就て改革意見書を両院議長に出したが、それは、われわれがかねて考えていたことを、アメリカに行って実地を見て来て確認したという形で理屈においてそう変ったことはない。日本にいても、アメリカの憲法の在り方は解るし、運営についても一応は紹介されているが、これを現実に見てこの視察の結果としての改革意見書を提出、これが改革の一つのきっかけになれば幸いである。これが実現の為大いに努力したいと思う。
 そのことは別として、向うに行って考えさせられたことは、アメリカにも、戦争を割切った者と、割切らない者がいる。そのことは日本でも同じであろうと思う。戦争を割切っている人たちは、非常にわれわれを歓迎してくれた。日本を非常に理解して呉れる様になって居る。
 先日尾崎行雄氏がアメリカ上院で歓迎された記事を見たが、我々議員団も南カロライナ州マサチュウセッツ州、ニューヨーク州の州議会を見学したが、各州議会共山崎団長と松本代議士を演壇に案内して議長が歓迎の辞を述べ山崎団長に謝辞を演説せしめ、松本代議士に通訳せしめると云った調子で一寸我が国では想像出来ない歓迎振であった。連邦議会においては上院議長―副大統領バークレー氏更には下院議長にも会う機会があったが、上院では議場内を通ってその後方に席を与え、先ず議長が一々我々を紹介し歓迎の辞を述べ、更に多数党―民主党の代表者、少数党―共和党の代表者が起って歓迎の辞を述べ、亦日本に来た事のある上院議員が起ち我々を排撃したボストンを選挙区にもつ議員も起って歓迎の辞を述べ、更に我々の名前を議事録にのせることを可決、またお互いに意見を述べ合うために二十分ほどの時間を与えて議場内でお互に意見の交換する事が出来た。これは異例のことだそうである。しかも上院、下院議長共に歓迎の辞の中で「君たちを迎えるのは、戦争の相手方として迎えるのではない。デモクラシーの友として迎えるのである、将来は世界のデモクラシーを擁護する立場において相提携したい」と述べられた。これらは戦争を割切った人達である。
 しかし一方には、戦争を割切っていない人達がいる。ボストン事件もその一例である。ただあの真相は、日本の新聞が伝えているのとは一寸違っている。ボストンでは、われわれが行く一週間ほど前に、市長選挙が行われて、三十二歳の市の一書記が一躍市長に選挙された。それで決議機関である市会と市長側とうまく行かない点もあったと思う。市長はわれわれと会った時、マッカーサー元帥からの電報も来ている、自分も心から歓迎すると述べ、署名入の絵などを呉れて、非常に歓待してくれた。ところが市会では傍聴を禁止するという決議をしてしまった。つまり、市長の政治力の弱さ、市会の理事者側に対する厭がらせのとばっちりを受けたものと思う。亦一つはやはり戦争を割切らないで日本の将来に対する疑惑をもっている人達がある。それがボストン市会に現れたと云っても過言でもない、我々は民主化された、日本の姿を知らしめてゆかなければならないと思う。
 しかしながら、何といってもアメリカは日本の二十何倍の広さをもち、物資もきわめて豊富である。もちろん失業者もあれば、資本主義の矛盾もいろいろ出てはいるが、皆が生活を楽しんでいる。ところが日本は今、生きるか死ぬかという生活をしている。従って少くとも経済の部面においては、雲泥の差があることは、常に考えていなければならない。アメリカの姿をそのまま日本にもって来ることも少し無理があると思う。日本の現状はイギリスのそれによく類似して居るのではあるまいか。
 私は、六畳、四畳半、三畳三間の、深川のアパートにもう二十年も住んでいる。狭い上に訪客も多いので、疲れが休まらない。時折場所を換えてはと思うこともあるが長い間ひと所にいると、なかなかよそに移る気があっても決断が出来ない。近所の人達も行くなと言うし、自分としても少しよくなったからといって、このアパートを出て行く気がしないのである。そればかりでなく、私は此処で協同組合の組合長をしている。協同組合で風呂、魚屋、八百屋を経営して居るからいわば魚屋のオヤジであり、八百屋のオヤジであり、風呂屋のオヤジでもある。それでなおのこと近所中と親しくしているので、人情が移ってなかなか動けないでいる。党務で遊説等の為旅行して居る事が多いが在宅という事が分るといろんな方々が訪ねて来る。人に会う事はくたびれる仕事だが、会うことは亦愉快な事でもある。

私は純粋社会党員でありたい


 社会党は政党として結党したのであるが、時々左右の対立などと新聞に書かれて非常に損をして居るが、古い社会党員には戸籍みたいなものがある。私の戸籍は、強いて言えば日労党である。しかし、日労の前は、労働農民党であり、さらにその前は農民労働党である。要するに統一政党の中から生れたものであるが、しかしやはり日本の無産政党の陣営の戸籍がある。たとえば、片山哲氏といえば安部先生と共に、すぐ社会民衆党だと言い、私とか麻生氏、河上氏、三宅氏等は日労党のかたまりだと言う。日本無産党というと、鈴木、加藤と来る。社会党はこれらの戸籍を全部やめて、そういう古い社会主義者に新しい分子を加えてつくった統一政党であるが、やはり何か事があると、古い仲間が集って、どうだ、どうだということになる。そういうことが、党内に派閥があるかのごとく見られるのである。
 社会党は大衆政党であるから議論する場合、時には左的議論あり右的議論がある事は当然である。ただ左、右と固定化して派閥になることは警戒しなければならない。昨年一月の総選挙は共産党は四名から一躍三十五名になり自由党は二百七十名院内絶対過半数を穫得した所が、日本の労働階級は勝った共産党を求めないで敗れた社会党を選んで、国鉄、新産別、日教組、自治協、総同盟、炭労等々大量入党を開始した。亦四月大会では労組関係の六十五名の代議員を認めて再建方式を定めて社会党再建闘争に乗り出したのであるが、その成熟しない中に本年一月の大会で分裂の非運に遭遇したのであるが、日本勤労階級の社会党統一の要求は四月大会に於てその統一を完成し今回の参議院議員の改選には一大進出をなし、党内における労働階級の指導性は確立せられんとして居る。
 一月大会の分裂は党員によりよき教訓を与え此の自己批判の上に社会党躍進の大勢は整備されつつある。私は私年来の主張たる社会党一本の姿の具現の為にあらゆる努力を捧げたいと思って居る。私は右の信念の下に党の運営の為東奔西走しつつあるのであるが、よく人は私を「まあまあ居士」だとか「優柔不断」だとか「小心」だとか「消極的」だとか、いろいろ批評されているが、およそ大衆団体の中にあって行動するのには、一つの運動方針を決めてやって行くのだから、大会で決めた方針を皆が遵奉して行けば、そこには対立もなければ、分裂もないわけである。大会は大衆の意思で決まるのだから、その時にどう決っても、これはやむを得ない。たとえば、昨年の大会で、鈴木茂三郎が書記長と決ったとき、私は組織局長として一年間喜んで協力した。
 今は私が書記長であるが、加藤君が組織局長として協力してくれている。片山前委員長、鈴木前書記長、和田、三宅、波多野君にしても水谷君にしても、今度の選挙では、ほんとうに一本になって協力してくれました。だから、大会なり委員会で決ったことを、党員が私心を挟まないで行動して行けば、社会党には対立も、派閥も、分裂もないのである。ところがやはり人間のことだから、何度も一緒に集って飯を食ったりすると、ついやはり人情がうつるということもあろうと思うが、しかし大衆団体では、あくまでも全体の決定に従うということでなければならないと思う。少くとも私は、決ったことをやって行くというだけで、それ以外には何も考えていない。それで前に言ったような批評をされるのだと思うが、私はこの間の党の自己批判の時にも言ったのだが、皆が、純粋社会党員というか、俺は社会党員だ、右でも、左でもない、社会党員だという考えに皆がならなければならない。
 それからもう一つは、いろんなことを決めるときに、多数決で決めるといっても、これはデモクラシーの原則だから当然だが、政党は同志の集団なのだから、そこには話合いも、妥協もあっていいと思う。労働組合は利害中心の集団だが、社会党は日本の社会主義的な変革を民主主義的方途を以ってしようという同志の集団なのである。同志には話合いも妥協も時によっては必要である。また、いかに議論が百出しても、纏めるべき所で纏めるということがあっていいのではないかと思う。しかしそういう考え方が「まあまあ居士」と言われる所以かもしれない。社会党の如き大衆団体の中にはまとめ役とも称す可きものはあってもいいと思う。社会党にかけて居たのは斯かる役割の人ではないかと思う。





底本:「浅沼稲次郎 私の履歴書ほか」日本図書センター
   1998(平成10)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年8月特別号
初出:「文藝春秋」文藝春秋新社
   1950(昭和25)年8月特別号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2010年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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