解説 趣味を通じての先生

額田六福




 松の樹が嫌いだった。
「君、あれは放蕩ほうとう息子だよ。」
 冗談によくそんな事を云われた。誰もが知っている通り、春夏秋冬と、松の木ぐらい手入ていれに手数のかかる木はすくない。自然物入ものいりもかさむ。全くやっかい至極な放蕩息子だ。
 が、しかし、先生が松を愛されなかったのはそう云う手数がかかるとか、物入がかさむとか云う理由ではなかった。手入は植木屋にやらせればいいのだし、費用だって先生のふところを脅かすほどの事はないし、又必要なら何百金でも平気で投出される人だったのだ。それについて詳しい説明をきいた事はなかったが、あのゴツゴツした、骨ばった木ぶりが嫌いであったらしい。とにかく庭にも盆栽にも松は一本もなかった。
 お花見と云う行事は大すきだった。しかし、同じ様な理由で桜の木も木としては好きでなかった。私が麹町にいた時代、よく散歩のお供をして英国大使館前をぶらついたが、あの桜並木を見て、
「もう少し木肌が滑かだといいんだがなあ。」
 と云われたのを思い出す。
 同じ様な意味で梅もそう好きではなかったらしい。けれど、初春の縁起物として盆梅は(殊に紅梅)賞玩された。しかし、花時がすむと、きまって庭の片隅にほうり出されて、大部分はそのままに枯れて仕舞い、残った物も、翌年にはもう花をつける事が出来なかった。方々から贈物があって、時には相当高価らしい盆梅もあるので、慾ばり屋の私は、
「もう少し手入をなすったら。」
 とよく云ったものだ。と、先生は、
「だって君、我々が枯らして仕舞うから植木屋が立ってゆくんだぜ。」
 先生はそう云う人だった。由来、盆梅の仕立ての事は云わない事にした。

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 ゴツゴツした松の木肌の感触を嫌われた先生は、自然の反対現象として、柳、かえで百日紅さるすべりなぞの肌のなめらかな木が好きであった。目黒の遺邸の庭には、空を覆う百日紅がある。そしてあの花の色も好きだった様である。青山の墓所には、出来ればこの木を植えさせて貰いたいと思う。
 同じ意味で、猫柳もすきだった。随筆集の題名にもなっている。これは、後に説く俳諧趣味から出発していると思う。

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 草花は早春のクロッカス、ヒヤシンス等から、秋の終りまで、どこの家にもある様な和洋の花が植えられて、交る交るに咲いていたが、その中で一番はばをきかしていたのは、千日紅せんにちこう葉鶏頭はげいとう等の、純粋な、そして野生に近い日本草花だった。花はないが、すすきも好きで、例の百日紅の下に傲然とはびこっている。真夏には糸瓜へちま棚が出来て、その下で、実が長くなるのをよろこんでいられた。烏瓜もすきだったが、地味に合わぬとみえて目黒の山にはなく、私の処から数回球根を運んだが、遂に実がならずにしまった。
 それ等の庭の花や、又到来の花なぞ、すべて自分でけられた。別に何流を習われたと云う事もきかなかったが、自然の風格があった。

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 生き物は概して好きでなかった。鳥も犬も飼われていなかった。もっとも、旅行先の湯の宿で、たまさか縁側へ来た犬を愛撫されていたのは時折見た。それが、揃いも揃って田舎の駄犬であったのも先生らしい。
「飼うならキリギリスをお飼いなさい。あいつは江戸っ子でさあ。」
 半七老人がそう云っている。鈴虫も蛍もいた。ある人の書いた評伝の中に、「蟻を殺されなかった」とあるが、その事は私はききもらした。が総じて、こうした小さい、果敢はかないものは好きだった。
 その中では、蛙が一番好きだった。雨蛙でもよし、蟇でもよし、おそらく先生のペットの中で、これが一番だったと思う。麹町の元園町時代は、市街の中央だったが、それでもお城のおほりが近く、番町の大溝が近かったりした関係上、折々その庭に蛙が来た。目黒の新邸は、名に負う西郷山の山つづきなので、蟇がよく出た。と、もう「蟇だ。蟇だ。」で家内中大騒ぎだった。その蟇は毎年の様に出て来て、毎夕の様にくつぬぎの下に来たそうであるが、しらず、今年の夏は? 無心の彼にも、歎きがあるであろう。
「何故蛙が好きだった?」
 本統に好きなものには、その理由があるわけではない。しかし、やせ蛙に負けるなと云った一茶の様な、ねじけた心持でなかった事けは判然はっきり云える。澤田正二郎が、蛙をマークとした意味とも全く違う。

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 先生と玩具類と結びつけた話は有名である。それも、手のこんだ高価なものより、一刀ぼりとか、土焼とか、張子はりことか、そうした郷土玩具的なものが好きだった。震災前には客間が和室の八畳だったので、その違い棚に一杯にならんでいた。その後の新邸はいずれも洋風の応接間なので、沢山並べられない。物置台の上に数個ずつ並んでいるにすぎなかったが、それが気に入った物ほど長く置かれてあった。私はひそかにその日数で、その玩具がどの程度にお気に入ったかを占うバロメーターにしていた。去年の春は寅年なので、阿佐ヶ谷通りの店で金二十銭也の張子の虎をもって行ったが、これは相当長く飾られてあって、面目をほどこした。

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 書画骨董の類については、概して無関心であられたと思う。勿論、諸方から持込みもあり、むを得ざる附合つきあいで買われた品もあり、相当の数があったし、御自分でも、季節季節の変り目にはこくめいに取りかえられてはいたが、「主婦の友」の附録の石版刷、婦人クラブ附録のかけ軸なぞも表装して掛けていられた。無頓着と云えば云われるが、一面、「何々画伯の絵」と云った風に、名声や、金額の多少について考える先に、「好きな品をかけておく」と云った処に、先生の気概があったと思う。

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 食道楽であった。
 もっとも、これは、世間で云う様な、初物はつものを食うために、何処どこそこへ旅行したとか、身を忍んで屋台店へ行ったとか云う風な食道楽ではなかった。無理をしないで、あるがままに楽しむ――と云う風だった。だから若い時はあったかも知れぬが「どこそこで闇汁をやった」とか「河豚ふぐを食った」とか云う様な話はきいた事がなかった。
 一番すきだったのは、うなぎと寿司だった。元園町時代は近くもあるし、丹波屋が御贔屓ひいきだった。魚は、まぐろだとか鯛とか云う大きなものより、キスとかコチとかひらめとかの、近海ものの小魚がよかった。白魚なぞもよかった。
 肉類もすきであった。日露戦争以来と云う事であるが、牛の缶詰もすきだった。それからサンドウィッチも好まれた。病中には殊にそうだった。
 それに反して果実類は、そうすきでなかった。ただパインアップルけはよく好まれ、病気になられてからは、枇杷びわだの何だのの缶詰を召上られたが、平生は概して上らなかった。それに反して私は、法外の果物好きなので、宴会なぞで一緒になると、そっと私の方へ廻して下すったり、到来のメロンなぞほとんど私が代って頂いて仕舞ったと云っていい。

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 煙草は朝日だった。相当に強い量だった。病気になられて、一時、一日十本と云う事になっていたが、とても気の毒なので間もなくその事は止めになった。最後近くには「もううまくなくなった」と云っていられたが、一日の朝、「煙草を」と云われるので差し上げたが、二口ほど吸われた。それが最後だった。勿論、棺にはいくつもの朝日が入れられた。

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 先生の旅ぎらいは有名である。ことに晩年はそうであった様である。半七老人は日光と箱根へ一度ずつ行ったきりと云う事になっている。それも御用と誰かの病気見舞かなにかで、よんどころない事になっている。
 先生は、記者時代には、相当に旅行されているし、日露戦役には従軍もされ、世界大戦後には欧洲旅行までされて、なかなかどうして旅嫌いどころではなく、普通人の何十倍もの旅をされたわけであり、銚子、磯部、成東、長瀞ながとろ、国府津、箱根、湯河原、熱海、修善寺、等へ殆ど毎年の様に旅行されていた。ただ、いつの場合も、病後の静養か、仕事のためが多かったから、むを得ざる旅であったとも云えない事はない。
 銚子、磯部なぞの外では、大抵な処にはいつも後から出かけて行って、御馳走になったり一緒に近所を歩いたりするのが、殆ど例になっていた。ふたば会全員で押し出した事も再三ならずあった。堂ヶ嶋の宿では、「佐々木高綱」が演ぜられた。
 そうした時、先生の宿で、先生の室へ最もよく出入したのは、宿の主人でなく、内儀でなく、客引の番頭や、湯番や、庭掃きの爺さん等であった。かつて長瀞の時には、この爺さんが、畑の唐もろこし等よくもぎって来ていた。先生はそれらの人々と隔意なく、世間話をするのがお好きだった。人間綺堂の面目が躍如としている。こんな時に、前に書いた野良犬なぞが可愛がられた。先生はその犬の事を話すのに「この人が――この人が――」等云われた。それがちっとも可笑おかしく響かなかった。

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 こうした旅の最後は、去年の夏の強羅ごうらの宿だった。いつもは大勢揃って出かけるのだが、今度は一夏中と云うので、自然たいくつだろうから、一人乃至ないし二人で別れ別れで来る様にと云われていた。しかし、いずれにしても御迷惑になる事なので、一晩泊りの心組で、熱海から廻って登った。丁度小林(宗吉)君がお尋ねしたあとだったが、非常になつかしがられて、尚、もう一泊する様に切にすすめられた。その中に、東宝で撮る北條(秀司)君の映画の打合せで、岸井(良衛)君も来合せるし、丁度箱根権現で灯籠流しがあると云うので、北條君のすすめで、夜に入って先発した岸井兄弟のあとを追って、ただ二人で駿豆の専用道路を走らせた。
 その時の事は、先生御自分でも文藝春秋にも書かれていたが、夜がけて、見物の殆どが帰って仕舞った宿の一室で、私と先生とは枕を並べて眠った。それが、そうした事の最後だった。今も判然と思い出す。そして、よくもよくも甘えて来たものだと思う。
 あくる朝、権現様へ参詣して、バスで強羅へ戻った。十二時に早昼をよばれて、豪雨の中を東京へ立った。入れ違って三橋(久夫)君が上ったが、その雨にはだいぶ困ったらしい。夏中の予定だったが、思えば憎い雨だった。

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 ほんの一時だったが、写真機をいじられた事がある。震災後の元園町時代に、激しい神経衰弱にかかられた時、丁度素人写真流行時代だったので、大村(嘉代子)さんが、病気見舞に「これでも持ってゆっくりして下さい」と、ベストコダックを進呈された。
 そこで、例の大使館前や清水谷公園や靖国神社なぞの、先生の朝夕の散歩区域の中で幾十枚かの写真が出来たはずであるが、どうなったか。その年の秋には、それをもって例の嫩会の連中と青梅から、多摩上流を氷川村まで行かれた。そこでも二本ばかり写された筈だが、それも今は見あたらない様である。私が写したのがアルバムにたった一枚残っている丈けである。そして、その遠足きりで写真機はどっかへしまって仕舞われた様子である。
 椅堂と写真機、およそ似つかわしからぬ風景の一つであるが、そう云う事もあった事丈け書いておきたい。そして、折角の大村さんの親切に報いるため、やがて一年あまりも持ちつづけられた奥床しさを今もなつかしく思う。

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 こうした遠足は、湯の旅の外に、必ず年に春秋二度位ずつあった。桜の国府台なぞには二度も行った。帝釈様へ参詣して、名物の大煎餅なぞ竹につけてかついで、ブラブラと歩いた。
「どう見てもみんな仕出しだな。」
 と笑われたりした。そこの草餅屋へ入って、そのまずさに、流石さすがに閉口された事なぞも思い出の一つである。こうした日の帰りには浅草かどっかへよって、一同御馳走になるのが例だった。

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 こうした思い出を書くと限りがない。最後にお祭がすきだった事、火事が好きだった――と云うと語弊があるが――事を書いて筆をく事にしよう。
 湯治先から等の手紙で、
「何月何日はお祭だから、それまでに帰る。」
 と云った意味の手紙をよく貰った。そして、キッとその通り戻って来られた。と云って、氏子総代の中に交って神輿の渡御の供に立たれると云うわけではない。ただ、赤飯をいて、軒提灯を吊して、祭らしい一日を送るのが楽しみだった様である。元園町時代には、神輿舁みこしかつぎに祝儀を打って、宅の前で神輿を揉むのをきょうがられたと云う話もあった。如何いかにも江戸っ子らしい面目が溢れている。

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 火事は好きだったが、地震は大嫌いだった。凡そ嫌なものの随一であったろう。勿論、好きな人間もなかろうが、我々では殆ど感じない様な微震でも、すぐに感じて庭へ駈け出された。その人が、あの大震災のたえ間ない余震の中で、避難の二日目から日記を記し、やがて復興する時のために手にふれる限りの本から叮寧にノートされていた事は、何と云っていいか、頭の下る限りである。

     *

 地震についでは、風の日がいけなかった様だ。早稲田の遺品展覧会を見た人は、その遺愛品の中に、あまりに沢山の文鎮があったのを妙に思ったであろう。風ぎらいな先生は、あれで、本であれ、原稿であれ、片っぱしから、押えつけて置かれたのだった。一時華やかなりし左翼連中が、しきりに弾圧され出した時、
「君、あれと同じだね。」
 と、笑われた。
 反対に雨の日は静かでいいと云われた。
 今夜も春の細い雨が降っている。ああ
(三月三十一日夜)

(「舞台」一九三九年五月、岡本綺堂追悼号より再録)





底本:「綺堂随筆 江戸の思い出」河出文庫、河出書房新社
   2002(平成14)年10月20日初版発行
底本の親本:「舞台 岡本綺堂追悼号」
   1939(昭和14)年5月
初出:「舞台 岡本綺堂追悼号」
   1939(昭和14)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:江村秀之
校正:noriko saito
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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