ネズミ、シラミ、歴史

――専門家でない読者に必要な12章を含む発疹チフス一生の伝記

RATS, LICE AND HISTORY: BEING A STUDY IN BIOGRAPHY, WHICH AFTER TWELVE PRELIMINARY CHAPTERS INDISPENSABLE FOR THE PREPARATION OF THE LAY READER, DEALS WITH THE LIFE HISTORY OF TYPHUS FEVER.

ハンス・ジンサー Hans Zinsser

水上茂樹訳




前書き


 ここに提供する各章はとりとめも無いので本と呼ぶのは気が進まないものであり実験室や現場で発疹チフスの研究をしているあいだに暇を見つけて書いたものである。世界中で感染症を追い回していると感染症は何世紀も人間の何世代にもわたって存在し発展し放浪しているので生物学的な個人として伝記を書くことができると思うようになった。発疹チフスはとくに他の多くの感染症にくらべて伝記を書くのに向いている。昆虫および動物界で異常とも言うべき寄生サイクルを行うからでありこのような顕著な事実は最近10年ほどに明らかになったものである。細菌学者が寄生の進化を研究するのにこの感染症は他の感染症に比べて適している。さらに人間との悲劇的な関係においてこの病気以上のものは無くペストやコレラもこれには及ばない。
 戦争と実験室の両方で感染症を取り扱っていて感染症の災害が文明の興亡において国家の運命に如何に影響するかますます感銘を受けてきた。このことは歴史家や社会学者が殆ど完全に無視してきたことであった。この局面についての各章はまだ予報に過ぎない。われわれに不足している知識を持っている将来の歴史家がこれらの要素の重要性に注目して人類の過去の歴史の理解に付け加えるのにこれらの章は彼らを刺激するのに役立つであろう。
 私は医学史に何らかの創造的な貢献をしたと主張する気は無い。知られている情報はすべて取り入れることにして、シュヌラー、ヘッカー、オザナム、ヒルシュ、ヘイサー、チャールズ・マーチソン、その他の仕事を自由に使わせて頂いた。古代および中世の文献を利用するにあたって私の貧弱な古典語の知識は同僚のガリック教授およびランド教授、友人のルンド博士の寛大な善意、およびハーバード大学古典学部のマーフィー氏の熱心な興味によって強化された。ジョンズ・ホプキンスのシゲリスト教授、ハーバードのメリマン教授、アメリカ陸軍のヒューム少佐、その他多くの方々との会話および文通によって重要な場所で貴重な援助が得られた。助言および激励を与えてくれた賢明で親切な友人ウィーラー教授にとくに感謝する。この本は科学書では無いので最近の研究については引用を行わず誰も無視しないように誰の名前も述べなかった。
 文学的な興味で書いた章とか注について何も弁解する気はない。全般的な説明に重要と私は思っているが多くの人たちは不必要と思うかも知れない。しかしこの本は専門家がゴルフ、釣り、ブリッジ以外のことに興味を持つべきでないと主張しようとするアメリカ人の態度にある意味で抗議するものである。アメリカ国民の見解によると専門家は「ブタの背中のシラミ」のように仕事に専念すべきものとされている。この著作によって私は細菌学者とみなされないようになる危険がある。このような危険を犯す価値はある。しかし1日は24時間からなり働ける時間は10時間で睡眠時間は8時間しかない。
 知的な職業は僅かな例外を除くと一般的な理解能力を高めるものであって人の心を厳しくギルド的に分類するのは誤りであり芸術と科学には共通なものがあるので相互に敬意を表することが有用であると考えている。ヨーロッパ人は古くからこのことを評価してきた。しかしこの本がこの点で貢献するとは敢えて主張しない。とにかくこのことに興味を持ち書くことに楽しみと休息を持ったので書き続けてきた。
H. Z.


第1章

説明と弁解

 この本が書き上げられるとして書き上げられたら出版社は見つかるであろうが出版されたとして読者は伝記と思わないかも知れない。われわれは伝記の時代に生きている。良く書かれた生涯は良く過ごした生涯と同じように稀であるというカーライルの言葉にもはや同意することはできない。本屋の棚にはあらゆる時代の偉大および偉大に近い人たちの話が一杯に詰まっており出版社の毎月のリストには新しい作品が公表されている。伝記形式の本は小説を追い出し評論と呼ばれた分野に入り込みミステリーや好色の思い出と競合し精神科の臨床領域にまで入っている。何がこのような氾濫を起こしたか理解に苦しむ。多くの答えがある。現代生活の他の面と同じように文学が「科学的」になったと考えられないこともない。科学のばあいと同じように何人かの独創的な人たちがある領域で発見する方式を作り上げ多数の模倣者が似た問題にこの方式を適用して成功する。文学的な独創性が不足している時代には偉大な巨匠たちの天才を説明しようとするのは当然なことである。小説家、詩人、あらゆる種類の創始者に多くの説明者、解説者、批評家が居ることになる。
 伝記はその昔に重要な仕事であり学者の仕事であった。プルタルコス(プルターク)が「英雄伝」を書いたときに彼の心はクラフ氏がのべているように当時の教育ある人たちにとって宗教に相当したアリストテレスの倫理学およびプラトンの理論にあった。プルタルコスは行動よりも動機とか性格や能力がギリシアおよびローマの偉大な文明の環境にどのように反応したかを取り扱った。後世の学者的な伝記作家は同じような方法に従いボズウェルのまったく個人的な「ジョンソン伝」がそうであったし愚鈍なエッケルマンは「ゲーテとの対話」で後世に名を残すことができた。個人生活の些細なことは優れた業績に導いた精神状態に関係するときだけ意味があると過去においては考えられていた。「個人生活の些細なことは公的な英雄行為とは関係ない」と見なされていた。取り上げられるのは意味あるときまたは興味あるときに限られていた。しかし全く変化してきた。新しい学派は些細なことが個性の鍵であると考えている。伝記は神経症を考慮するようになった。フロイトは偉大である。しかし偉大な人物を中途半端に理解するのは危険である。フロイトの高性能爆薬を爆竹にすると指に火傷をする。偉大な発見者がトンネル爆破に作った火薬で騒音や悪臭を起こすのは容易である。明らかに伝記は精神分析のジレッタントにとって最高の遊び場である。古い伝記作家はこの潜在意識への節穴を持たなかった。彼らは英雄を意識のみによって判断した。潜在意識が意識を引きずり下ろしている。偉人は行為よりは内分泌バランスによって再評価されつつある。哀れな人たち。シェリー! バイロン! ワグナー! ショパン! ハイネ! マーク・トウェイン! ヘンリー・ジェイムズ! メルヴィール! ドストエフスキー! トルストイ! 更にイエスまで! まだもっと多く残っている。上っ面もなで終わっていない。偉大な人物が尽きる前に「傷もの」にも面白い読み物がある。バーナム、ブリガム・ヤングからアル・カポネ、パンチョ・ヴィヤ。
 この伝記では主人公(発疹チフス)の本性によって古くさい方法を使わないわけには行かない。精神分析の助けを借りることはできない。出生前の影響は無い。エディプス・コンプレックスやマザー・コンプレックスは存在しない。初恋は無いし結婚後の不貞は無い。性倒錯も衝動も性的不適合も無い。世間体による抑制は無いし欲望抑制による欲求不満も無い。役に立つゴシップは無い。燃やす時間がなかった私的な手紙は無い。免れることができた名誉毀損訴訟や上手に作られたスキャンダルによる売名行為に期待することはできない。以前の伝記作家や随筆家からコピーや書き直しをしたり異論を述べることさえ出来ない。実際のところ我々はソースやスパイスやドレッシングを使うことができない。伝記作者はこれらを使って詩人や科学者をまったく普通の人たちやしばしば好ましくない人たちにすることができその人の業績ではなく些細な習慣や悪い習慣に注目させることができる。伝記作家はこれによって成功した詐欺師を英雄にすることができ社会的な罪を家庭的な美点によってうやむやにしたり最高で不滅の業績から主人公が恥じている私的で重要でないことに直接の興味を持たせることができる。
 伝記の熟練者にとって不可欠なこれらの補助手段が無いのに何故に敢えてこの領域に入るのか伝記の常連は不思議に思うことであろう。答えは単純である。この伝記の主人公が1つの病気だからである。正確さと矛盾しないようにしながら技術的でなくこの伝記を書くことを試みたいと思っている。このことは必然的に不完全かも知れない。我々の主人公の生涯は長く波乱に満ちているので最も重要とところだけしか選ぶことになるからである。主人公の毎日の家庭生活史は普通の人間、戦士、詩人、店員と同じように平凡である。とりわけこの物語は「通俗科学」ではない。場所によってこの話が劇的なのは話の責任であって我々の責任ではない。誰もこれによって教育されることは無いであろう。この病気の伝記を書くことにしたのは女性詩人ローウェルがキーツに抱いたのと同じようなプラトニック・ラブによるものであって見つけられる所で知り合いになることを求めてきたからである。知り合いになればなるだけ人類の全歴史にわたって原形質内に生き続けているこの病気その他が人間の運命に及ぼす影響で印象づけられてきている。しかし主人公と知り合いになるにあたって回り道を取らざるを得なかったことをお許しください。
 感染症は生物における大きな悲劇の1つであり異なる生物間における生存競争である。人間は自己の偏見からのみこの問題を見ている。しかしハマグリ、カキ、昆虫、魚、花、タバコ、ジャガイモ、トマト、果物、灌木、樹木、にはそれぞれ特有な天然痘、ハシカ、ガン、結核がある。助命とか休戦は存在しない過酷な戦争が絶えず続き1つの種の国家主義が他の種にたいして存在する。しかしいわゆる下等な生物では綱の中で連帯があって自分の種を餌食にすることは無くそのような残忍性はただ人間、ラットその他の獰猛な魚類だけが持っている。付け加えなければならないこととして動物界では同じ種のあいだにおいて人間ではまだ見られないような残忍性が存在する。雄を食べるのはクモ類では普通のことでありアラルカンやサソリでは母親が父親を食べ次に子供たちに食べられるのはまったく「必要なこと」である。大きなネコ科の動物すなわちアメリカライオンが待ち伏せをして自分の子供を食べるのは残忍性の証拠ではない。これは間接的な「情欲犯罪」であり雌ライオンがあまりにも母親になり過ぎたことにたいする性急な愛情の結果である。動機は愛情でありラ・ロシュフコーが言っている。「結果から判断すると愛は友情よりは憎しみに似ている」と。
 自然はその創造したものが互いに餌にすることを意図しているように見える。とにかく自然が計画したサイクルは一部の植物だけが土地に根を下ろして窒素を含む液体を利用し葉緑素を含む葉を太陽および空気に広げて母なる大地に直接に寄生できる生物にしてきた。しかし植物はひどく不味だったり有毒で無ければ獣や人に食べられ後者は次に他の獣や細菌に食べられる。エデンの園では相互に食べ合うことは老齢による自然死まで延期され生体の栄養素は全体のために蓄積されていたのであろう。化学的にこのことは可能であり生命は保たれる。しかし混み合った惑星の上の中途半端な発展段階では生体にせよ死体にせよ互いに食べ合うのは一般的な習慣になり本能的および無感情的なことになっている。たぶんライオンが牧師を食べるのは親切な老紳士がチキンパイを食べたりブドウ状球菌が老紳士の首に腫れ物を作るのと同じように残酷さを感ずることはないであろう。広義に言うとライオンは牧師に寄生するのは老紳士がチキンパイに寄生しブドウ状球菌が老紳士に寄生するのと同じである。この問題はこれ以上は広げないことにしよう。避けようと思っているあまりにも技術的な問題になるからである。
 感染病は必要なものを自分で努力して作らないで済ませているすべての生物に広がっている不愉快な傾向の一例であるに過ぎないことが重要な点である。これは他の生物の建設的な労働を利用できるときに生物にとって最も楽な方向である。植物はその根や緑の葉を使用する。雌牛はその植物を食べる。人間は両方を食べ細菌や投資銀行家は人間を食べる。完全に解明するには詳細な技術的な議論を必要とするが原則は明らかである。地球上の生命は限りない寄生の鎖であり不滅な植物界の労働者たちがしかるべき窒素と炭素の化合物を供給し他の生物がそれらを取り上げることができなかったらすべての生物はすぐに完全に消滅するに違いない。終わりの無い古くさい道徳論になってしまう。最終的な分析によると人間は植物の寄生体と定義されるであろう。
 我々が感染と呼ぶこのような寄生形態は動物や植物と同じように古い。後の章でこの起源を考察することになるであろう。我々が古い病気に打ち勝つと絶えず現れてくる新しい病気からこの手掛かりを得る。しかしこのうちの1つの病気の伝記を書く主な目的は詩人、芸術家、歴史家がほとんど注目して来なかった人間の歴史のある一面を我々が取り扱っていることを強調するためである。剣や槍、弓、機関銃およびさらに高性能爆薬すら発疹チフスのシラミ、ペストのノミ、黄熱病のカにくらべると国家の運命にたいしてずっと力を及ぼさなかった。文明はマラリア原虫から退却し軍隊はコレラ菌、赤痢菌、腸チフス菌の殺人によって粉砕された。広大な土地はツェツェバエの翅で運ばれるトリパノゾーマによって荒廃し何代もの人たちがご機嫌取りの梅毒によって悩まされた。戦争と征服、文明と呼ばれているものに伴っている集団は人間悲劇におけるより有能な俳優にたいして舞台を供給しているのに過ぎない。
 前のパラグラフを書き終わった後で読み直してみて大きな問題は無いという結論に達した。たぶん現在の伝記作家に少しばかり厳しかったかも知れない。いらだってそのような議論をしてしまった。エッケルマンの本におけるゲーテの意見やルナン、サント=ブーヴ、バビット、ホワイトヘッドの意見の多くのものにたいして問題にしていることを理解すれば異議を唱えることができるし異議を唱えたことが重要な故に反対したことで満足して反論を打ち切ることができる。しかしアメリカの若手伝記批評家が知性と美の「どちらも持たないで」スタール夫人と浮気の侯爵夫人のあいだに挟まれたヴォルテールのように「高所から」科学と芸術を取り扱う自己満足には苛々する。同じように苛立ったフランス人と一緒に「神よ! 知識を持たない知識人から我らを救い給え! 愛を持たない愛好者から我らを救い給え!」と叫びたい。したがって最初の章の一部は不平のうなり声以外の何物でもない。しかしうなり声は主人公を紹介するのに役立ちさらに次の理由で私はうなり続ける。病気の伝記を書く商売は哲学者、数学者、物理化学者、生化学者、さらには生理学者(多くのばあい彼らは科学にとってパヴロフのイヌの1匹の価値が無いかも知れない)は科学と認めないし詩人、小説家、批評家、伝記作家、劇作家、画家、彫刻家、さらにはジャーナリストまではこれを絶対的に芸術から排除している。したがって我々は謙遜の結果としての明快性をもって双方の方法で眺める立場にある。しかし上に述べた種々の職業の代表者と我々の考えを論ずると彼ら共通の誤解――たぶん全員が一致する唯一の意見――に出会った。すなわち人は人類に奉仕し生命を救い苦しみを除くという崇高な願望によって感染症を研究する経歴に駆り立てられたということであった。
 私の友人の1人は職業作家である。このことは煉瓦職人が煉瓦を積んで生計を立て配管職人が汗をながして溶接しているのと同じ意味で書くことによって生活していることを意味している。書くことは話すことと同じように考えを表現したり話を述べる方法である。それと共に感動や概念や独創的な理解を他人に伝えて教えたり楽しませたり喜ばしたり元気づけたりする方法である。この種類の書くことは芸術と呼ばれてきた。知識人だけが読むことができた時代に書くことは知的であり芸術的であった。
 しかし現在ではすべての人たち――大学教授や雑役婦も、医者や弁護士も、バーテンダー、福音を伝える牧師、熟練した看護師も――読むことができる。単調な1日を終わって幸福な時間――気持ちの良いソファ、ベッドランプ、読み物――を持ちたいという同じ理想を全ての人は持っている。従ってこの要求を満たすためには財布に応じた自動車が必要であるのと同じようにそれぞれの脳に適した本――知能の高い人のための文学と愚かな人のための文学――を供給する作家が必要である。
 上記の作家はふつう両方の市場へ供給することに成功している。かなり知能の高い人たちを満足させるかと思うと貧乏な少年とボスの娘の話によって高額の小切手を手に入れている。彼は後者すなわち大衆小説の方向において同時代の多くの作家が収入源としていた科学のセンセーショナリズムの開発に豊かな可能性を感じていた。しかし感染症領域の研究者に親交を持たなかったので崇高な動機が風変わりな研究者たちを駆り立てているという誤解を他と共有していた。崇高な動機によって皆が駆り立てられるのか理解できないので彼は我々に尋ねた。「どのようにして細菌学者はこのようになるのだろうか?」我々は次のように答えた。
 このように全くの誤った前提について大量の感傷的なたわごとが書かれている。細菌学者も他の人たちと同じように偶然の出来事、事故、老齢によって死亡すると牧師の頌徳のことばは献身と自己犠牲である。仕事のあいだに死亡すると穴に落ちた技術者や依頼人に射殺された弁護士と同じように殉教者として聖徒とみなされる。小説家は以前に騎兵隊士官、ポーランドの愛国者、飛行家に行ったように彼を利用する。疫学者がアロウスミスの主人公のように行動するとしたら彼は無用なだけでなく同僚から愚かなロバや迷惑な人とみなされる。ド・クライフは「死に向かう人たち」を書いたときの実験室や学界における耳障りな笑いを知らないのにしては彼はあまりにも理知的に過ぎる。
 事実この分野の研究に入る人たちは数多くの動機を持っていて善いことをしようとする自己意識的な欲望は最後のものである。重要なことはこの研究分野がある程度の興奮を必要とすると感ずる個人のために残っている数少ない冒険的な企画なことである。感染症は世界に残された数少ない真の冒険である。竜は全く死に絶え槍は暖炉の隅で錆び付いている。戦争は弾道学、化学、行政、激しい運動、長距離大量殺戮、の演習場である。船は無線装置を持っている。アメリカ大陸はガソリン・ステーションが並ぶ駅馬車路になりインディアンも原油井戸を持っている。アフリカは動物写真家または博物館長とその夫人の遊び場になり死んだライオンや象に片足を乗せた写真やシャンパンとビスケットの箱を我慢強く頭に載せている黒人少年の写真を撮るために彼らは出かけて行く。飛行は充分に冒険的ではあるが自動車レースの場合のようにガレージ整備士にとっての一種の軽業に過ぎない。しかし文明生活は安全であり良く調節されているとは言っても細菌、原生動物、ウィルス、感染したノミ、シラミ、ダニ、カ、ナンキンムシは絶えず暗闇に潜んでいて不注意、貧困、飢饉、戦争によって防御が低下すると襲いかかってくる。正常なときですらこれらは弱いもの、非常に幼いもの、非常に老いたもの、を餌食として不思議なことに判らないように我々と一緒に住んでいて機会を待っている。嘗ては自由に暮らしていた人類が無情にも家庭化しても残されている真の冒険的な仕事はこれらの残酷な小さなものに対する戦いである。これらは暗い隅に隠れていてラット、マウスその他の家に住むすべての種類の動物の体内で我々に忍びよる。これらは昆虫と一緒に飛んだり這ったりして我々の食べ物、飲み物、および愛人の中で待ち伏せをする。


第2章

科学と芸術のあいだの関係についての議論である――発疹チフスとは無関係であるが前章で述べた文学者の投げかけた問題である

 職業的文学者はこの章を軽蔑して肩をすくめるだろう。アメリカには仮に垣根越しには興味深く見えても専門家は自分の領分を離れてはいけないという先入観がある。しかし文学批評家たちは科学があれこれであって「科学はその場所より高められるべきではない」などと言っていて文学者が科学を知っているほど科学者は文学を知らないであろうのからウィルソン、ブルックス、マンフォード、イーストマンなど中年になるまで「青年学派」である人々が本書のこの部分を飛ばすことを希望して敢えて先に進むことにする。
 生物学者は特に困難な立場に居る。化学者のように個々の反応を分けて1つずつ研究することはできない。しばしば物理学者が実験をするときに役立っている数学的な予想を生物学者は持たない。自然は生物学者が研究する条件を設定し生物学者は自然の条件を受け入れるかまたは完全に仕事を諦めなければならない。
 生物学者は物理・化学的な解析によっては生命現象の最終的な証拠が得られないことを知っている。しかし「生気論」や「新生気論」は単なる「機械論」が助けにならないことから生まれた一種の曖昧な神学以上で無いことを知っている。したがって辛抱強い生物学者はこつこつと働き経験的な観察をできるだけ正直に積み上げ無限の増分によって生気論的な曖昧さの程度をできるだけ狭くし手に入れている事実で満足している。ベルグソンは次のように言っている。「曲線の非常に小さな部分は直線に近い;小さくなればなるだけ近くなる‥‥同じように『生気』は物理的および化学的な力の任意のすべての点における接線である‥‥(しかし)実際のところ曲線が直線から出来上がっていないのと同じように生命は物理・化学の要素から出来ているのではない」生物学者は常に生気の曲線を微分し(*接線を求め)ていて人間が完全に理解する「極値」には到達できないが近づけることを知ってはいる。さらに問題を追求しているときにはいつでも対象に進む前に取り扱っている複雑系を構成する個々の要素の解析にまず後退しなければならないことを生物学者は知っている。
 このような困難は現在の計画を思案する心境を生むことになった。私はいつも実験計画を始めるときと同じように発疹チフスの伝記を気楽に書き始めた。まず最初に伝記を書く一般的な方法を考ええることにした。次いで何故人々は病気の研究を行うようになったかという問いかけが起こった。予備的な準備は終わったと考えたときに文学者の友達が現れて私の熱意に塩をかけた。
 彼は言った。「バクテリアを培養し、モルモット、ウサギ、マウス、ウマ、サルに注射し、世界の汚い隅を旅して疫病を研究し、外国の地下室でラットを捕まえ、消毒し、シラミを除き、燻蒸したりし、発疹を眺めたり、人や動物の咽頭や他の開口を覗いたりし、シラミ、ナンキンムシ、ノミ、ダニを飼ったりし、痰、血液、尿、大便、乳、水、下水を調べて一生を送っている人」彼は繰り返した。「そのように完全な科学者でも芸術家でもない人に芸術家でなければ成功できないような仕事が出来るだろうか? 鍵穴から覗く伝記作家や低温殺菌したラブレー流のフロイト派批評家についての貴方の意見は正しいかも知れないが文学的科学的な老嬢の動きより以上に悪いことだろうか? 貴方はニューヨークのコリンズ博士のように『医師はこれもあれも見る』つもりか?」
「しかし」私は答えた。
「芸術をかじって笑いものになっている中年の科学者などを見てごらんなさい。アトランティック・
マンスリーを読んでみなさい。」
「おやまあ」私は言った。「他のことに知的な興味を持ったからと言って細菌学者を廃業する必要は無い。ここアメリカで専門家はテーラー主義工場労働者になることが期待されているようだ。人は何故たった1つの鍵穴から世界を見なければならないのだろうか?」
「おやおや、好むなら1ダースの鍵穴から覗いても垣根に登って見回してもよい。しかし訓練を受けていないことについては黙っていなさい。伝記は芸術家の仕事である。実験室の窓に頭をつけて外の世界を眺めなさい。もしも書きたかったら頭を引っ込めて『ジャーナル・オブ・エクスペリメンタル・メディシン』に書きなさい。もしも伝記を書き続けるならば今までに得た名声を失って終わりになるだけだろう。」
 私は異議を唱えた。「科学についてあることを知っているだけで芸術の知的に理解することを否定されるのだろうか? 朝食後に読む時間のある人だけが文学を評価できるのだろうか? とにかく芸術と科学のあいだの本質的な違いは何だろうか?」
 彼は言った。「これは困難な問いかけだ。ゲーテは答えたかも知れないが彼は答える価値があるとは思わなかった。人道主義者と非人道主義者のあいだの(*第1次)大戦は答えがあったかも知れないが両陣営とも相手にたいして怒っていて科学にたいして無知であり重要な問題を無視した。バビットは博識だったので生きていたら答えを見つけたかも知れない。結局、小者が彼を忙しくさせた。とにかく貴方も私もこれに対処するには充分な知識がない。」
 この種類の事柄についてのこの友達の意見を重視してこの場合には科学と芸術のあいだに差があるとしたら本質的な違いについて明らかな考えをまとめるまで私の科学的訓練を超えていると彼が言っているこの事業に乗り出すのを延期することにした。
 私は他の人たちの意見を調べてこの問題に謙虚に近づき私より賢い人たちの意見が一致していないことを見つけた。エディントンとジーンズは科学を「現象の計量的すなわち数学的な記載」すなわち生物学部門すら除外する概念に限った。しかし理性の険しい路を寒い山頂まで登ってから形而上学のトボガンそりに乗って暖かく気持ちのよい神学の谷間に滑り降りている。ディングルはもっと自由な見解を持っていて「ある性質、すなわち全ての正常な人々に共通な経験をもって合理的に処理する」方法と科学を定義している。これはものすごい英語であるがこれを解析して逆にすると芸術の領域は「個人に特有であるか限られた数の人たちが共有する」経験であることを意味する。この意見は動物を表面的な類似によってクジラは魚でありコウモリは鳥であるとしたダーウィン以前の動物分類方法よく似ている。ホワイトヘッドは問題を単なる形態学より深く下に掘り下げて比較解剖学および生理学に及んでいる。彼は科学の範疇に生物学や地質学だけでなくさらにダ・ヴィンチの自然主義芸術も科学に近いものとみなした。実際、彼は偉大な文学たとえばアイスキュロス、ソポクレース、エウリピデスの「科学的想像」すなわち運命の女神が「悲劇的な出来事を不可避のこととする」に「科学が持つ洞察力」である「秩序」と同じ法則を認めている。もしもアリストテレスが現代科学思想を知るのに充分な長いあいだ現代に戻って来たとしたら彼はホワイトヘッドにかなり近い意見を持つだろうと断言することができる。ついでながらアリストテレスはハーバードでどんなに激しく反対を受けるだろうか!
 ハヴロック・エリスは次のように書いたときに科学と芸術をはっきりと分けることは不可能と考えていた。「抱きしめたり、心の中を述べたり、所有したり、指導したり、気高くすること、これは恋をする者にも自然発見者にも共通な仕事であり願望である。したがってロスやフランクリンは極地のヴェルテルであり、恋をしているものは精神上のマンゴ・パーク(*アフリカ探検家)である。」パーク氏の名前がマンゴ(*安っぽい物)で無かったらこの引用はもっと楽しいものであったろう。しかしこのままでは心に生じている考えが重荷になっていることを示している。
 大部分の現代文芸批評家にとっていわゆる科学者は「単なる合理主義者」であり科学と芸術の関係は写真と絵画の関係と同じである。これはたぶん彼らが信じられないほど科学思想に無知なことによるのであろう。精密さによって分けることは適当でない。科学は芸術よりも写真的ではない。精密科学とも呼ばれる物理的科学でさえ測定や数式化は納得できる程度の近似以上ではない。科学的方法は平方根2、平方根3、幅の無い線、大きさが無い点、ゼロ、負数、無限の概念のような抽象概念を繰り返して使わざるを得ないようになっている。科学思想は知性探検のための前進基地である仮説と虚構の港から絶えず出発している。物質は分子となり分子は原子となる。原子はイオンにイオンは電子になる。次にこれらはエネルギーの把握できない源になる。これらは「エネルギー」すなわち詩人が感じる熱望、喜び、悲しみ、としてのみ知られている「魂」以上に把握できる明白な実体ではない。科学の歴史は芸術で霊感と呼んでいるものの例で満ちあふれている。しかしこれにはホワイトヘッドの「思索的な理性」という定義がもっと適当であろう。
 さらに科学者も芸術家も決して「創造者」でないことは悲しいことではあるが明らかである。若い批評家たちが絶えず間違って使っている「創造的」という言葉は精神病院で最も盛んであると言われている楽観主義の虚構である。自然はゲーテが言っているように神々すら変えることができない永遠で必然的な法則によって進行している。科学者や芸術家が行っていることの大部分はそれまで常に存在してきた物事の新しい理解に過ぎない。彼らはよりはっきりとした理解を「創造」する。この意味で科学者も芸術家も観察者であり科学者は外界を非個人的に記載するのにたいし芸術家は外部の物が彼の心と心臓に及ぼす影響を表現するのが明らかな違いである。どの例にしても観察が一般に適用できればできるだけ科学または芸術は偉大である。
 理性による知覚に頼る理解であるか情緒による知覚に頼る理解であるかによって、観察による成果を科学または芸術とするかは公平ではなかろうか? 知性の能力はいわゆる情緒下から超理性まで広がっている一種のスペクトルを形成している。情緒下の極限には音楽および叙情詩によって動かされる知覚がある。反対側すなわち純粋な理性には数学への知覚能力が存在する。この2つのあいだには芸術が科学的であり科学が芸術的である幅広い重なりがある。散文で表現されている文学は中間であって左方では叙事詩と物語詩に向かい右方では心理学、生物学などから数学に向かって色合いが変わっている。
「どちらかの極限を超えたらどうなるか?」友達は尋ねた。
 さあ、10−10の極限を超えると知覚が無くなり物理学者は教会に仲間入りする。他方、ジョイスや女性作家ガートルード・スタインおよびその模倣者たちから判るように脊髄が脳に割り込む。どちらにせよ科学でも芸術でもなくなる。
 次に出会ったときに友達と議論を続けた。
「前に話し合ったことによるとどんな仕事も一種の知性スペクトル分析で楽に分類できるだろう」と彼は言った。
「ふつう古い形式ならスペクトルのしかるべき場所にはめこむことができる。コールリッジやサント=ブーヴのような批評家なら文体、言い回しの美しさ、明瞭な思想、強さ、誠実さ、深さ、漠然としていて繊細ではあるが錯乱してはいない好みと感受性、を取り扱っていればよかった。境界的な精神医学に頼らないでも知識があり知的である批評家なら誰でも芸術を判断することができた。ところがボードレール、ランボー、ヴェルレーヌ、マラルメ、ラフォルグに続くフランスの象徴主義者たちによって角が回されることになった。ときにこれらの偉大な人たちは理解できないところに近づくこともあった。しかし主として彼らは薄闇と霧によって美をきわめこれらを通して彼らの考え、悩み、楽しみは神秘的、グロテスク、曖昧にではあるがそれにしても効果的に知覚された。単に彼らが悲しみおよび醜さに最高の贈り物をしているからといってラセールとともに彼らの正当な場所を否定することはできない。テニソン主義やロングフェロウの時代に戻れと訴えるわけでない。しかしサント=ブーヴが T. S. エリオット、晩年のジョイスやスタインのある一節の批評を頼まれとしたら、神経病学者のシャルコーかベルンハイムに相談したであろう。これは現代の批評家が現代の作品を判断するにあたってしばしばフロイトに相談せざるを得ないのと同じジレンマである。医学の臨床においても正気と境界的な狂気とのあいだにはっきりとした線をひくことはもちろん困難である。しかし芸術作品の批評家が精神病学の訓練を必要とするとしたらこの事実だけでも彼の主題に芸術的な価値があるかどうか疑わせるものである。われわれのスペクトル分析を現代の作品に行うことの真の困難さはこれらの多くが芸術のとしての情緒への訴えが無く科学としての合理性も無いからである。
「どれかを調べてみよう。T. S. エリオットを例にあげよう。散文は考えが非常に明白であり誰も才能、独創性、ときには偉大な美を否定する者は無いだろう。しかし彼の詩は適切に批評されてきているように読者との謎解きゲームであって理由はあるだろうが読者を馬鹿にしているように見える。『明らかに私が一方的に知っているそれとなく言っていることを言い当ててごらんなさい。注6a参照。』荘重な数行を書いて突然に中断して関係の無いおしゃべりに進む。
「部屋の中で女性が行ったり来たりする
 ミケランジェロについて話しながら。」
 読者は『イーニー、ミーニー、マイニー、モウ』と加えたくなる。または次はどうだろう。
「有名な透視家のソソストリス夫人は、
 悪い風邪をひいた、それにもかかわらず
 ヨーロッパで最も賢明な女性として知られている
 邪悪な1組のカードを持っていて。」
「何故『それにもかかわらず』なのか? 悪い風邪をひいたから賢明なのか? これはどうだろうか(無数の例がある。)
「今アルバートが帰ってきて貴方は少し利口になる。
 彼が貴方にあげた金で何をしたか知りたいと思っている
 貴方に歯が生えるように。」
「これは詩かい? ありふれた散文のようだ。確かに科学ではない。」
「もちろん前後と無関係にこのように取り出すのは公平でない。全体としては現代における幻滅の『荒地』(*長編詩:1922)を象徴している。もちろん科学者は理解が困難である。」
「あることの理解が困難かどうかではない。理解されて意味をもつかどうかである。私の実験室で時々サルが逃げ出して染色液のビンを顕微鏡やブンゼン・バーナーに投げつけて素晴らしい突飛なことになる。結果は光、音、興奮の刺激的なカオスである。しかし終了すると乱雑とゴミが残って整然とした科学実験をするには掃除をしなければならない。芸術の実験室でも同じことが起きるだろう。私が理解できないのはこのように有能な人がこのようにすることである。」
「貴方はボードレールについても同じことを言うと思っているけれど?」彼は言った。
「おやまあ、これらの人々がボードレール、ランボー、ラフォルグから引き出しているのは古いものだ。しかしボードレールたちは発見をしていた。ボードレールは一種の有機化学者だった。極めてむかつくけれど新しい物質を合成した。」
「さて他のものを試そう。たぶん貴方はこれを知っているだろう。

「Nearly all of it to be as a wife has a cow. All of it to be as a wife has a cow, all of it to be as a wife has a cow, a love story. As to be an of it as to be a wife as a wife has a cow, a love story, all of it as to be all of it as a wife all of it as to be as a wife has a cow a love story....

 又は「A meal is mutton mutton why is lamb cheaper, it is cheaper because so little is more.」

「これはスタインの作だ、」私は言った、「次のを聴きなさい:――

「Balloons -- colored balloons -- my colored balloons Who busted my balloons? Bolony balloons; they have punctured my categorical imperative.」

「彼女の作品中でこれは知らないようだ。」
「そうだ、これはスタインの作品ではない。これはアリス・グレーのだ。彼女とはマクリーン病院で知り合った。50歳だったのに幼児と思っていた。他のも聴いてみなさい:
「Pease porridge hot, pease porridge cold,
 Pease porridge in the pot ...」
「冗談ばかり言わないで欲しい」彼は話の邪魔をした。
「実際のところスタインは書こうとしたらまったく分別をもって書くことができる。」
「彼女はなぜそうしないのだろう?」と私は尋ねた。
「自動執筆をしているのさ。」
「それでは科学ではないか!」
「そうじゃあない。彼女は意識的なものと意識下のものを交互に爆発させて1つの印象を作り上げている。」
「それでは花火という意味で芸術だね。」
「しかし彼女は若い作家に大きな影響を持っている、」と彼は言った。
「クリスチャンサイエンス教会の創立者エディ夫人もバーナムもそうだった、」私は答えた。
「ボードレールが居なかったらランボーもヴェルレーヌも居なかったであろう。バッファロー・ビル、バーナム、エディ夫人が居なかったらスタインは居なかっただろうし、ジョイスは気品ある散文を書いていただろう!」
「ジョイスについて言ったら、『タムとシェム』を読んだことがあるか?または別の名前かも知れないが。」と彼は言った。

「Eins within a space and a weary wide space it wast, are wohned a Mookse. The onesomeness wast all to lonely, archunsitlike, broady oval and a Mookse he would a walking go (My hood ! cries Antony Romeo). So one grand summer evening after a great morning and his good supper of gammon and spittish, having flabelled his eyes, pilleoled his nostrils, vacticanated his ears ...」

「止めてくれ! 小さい子供の時にそのようなことをして罰せられた。」と私は叫んだ。
「これは科学だろうか芸術だろうか?」と彼は尋ねた。
「どちらでもないよ、もちろん。しかし私には彼らが何故このようにするか判らない。彼らが少し頭がおかしいとしたら事をお終いにするのは非常に楽だろう。さらに私が述べた人たちは希望すれば正気に戻る能力があるので頭がおかしい可能性は排除される。」と私は言った。
「貴方は純粋詩の考えを忘れている。意味が無いほど良い。ペイターやムアの音楽に似た詩だよ。」と彼は言った。
「詩と音楽の関係とは大層な学問的な無駄話に入っている。詩人は一種の音楽家に過ぎないとヴァレリーは言っている。ルイスはこれを「批評的神秘主義」と呼んでいる。彼らは「心の中からの迎え」、「心臓への不滅の重圧」、「その表現する言葉より先に行く」などなどと、ブレモンによるといろいろのことを言っている。ときに批評家は彼が書いている詩人よるもずっと神秘的なことがある。」
 ついでながら言うと偉大な科学者のうちには批評家になって詩にたいする自分自身の美的反応を説明しようとして文学評論家と同じように神秘的になるのは奇妙なことである。しばしばその人の権威はあまりにも大きく――多くの場合は正しくそうであるが――彼を批判することは学者のあいだで God を god と書くのと同じとみなされる。私はホワイトヘッドのことを言っているのであるが、彼に同意しないことによってネアンデルタール人が巨象を豆鉄砲で襲っている気がしている。彼が原子内におけるクラーク・マクスウェル方程式の適用を論じているときに私は到底かなわない。しかしホワイトヘッドがシェリーのモンブランについての詩にカント流、バークリー流、プラトン流の理想主義を適用したりワーズワースの自然崇拝を「科学批判」から引き出そうとしたりすると彼は自分の足を理性のブレーキから離して情緒をもって自由に動き回る能力を持たないことを示しているだけである。
 さて雲やモンブランについて書いているときにシェリーは『事物の不可解な無限の変化』について考えてはいなかったし『科学の抽象的な物質主義の受け入れ』を意識的に拒否してはいなかった。」シェリーは自然を見て呼び起こされる考察および情緒のすばらしく大きなイメージを表現しているのであり、哲学的分析によってはシェリーの完全な効果を読者に与えることはできない。思想と感情が変化するときの完全な美、および音楽的な美――音だけでなくイメージの調和における音楽的なもの――は自然が詩人自身に引き起こし詩人から伝達するのと同じ反応を読者に呼び起こすに違いない。これはシェリーが「芸術的な仕事を要素にまで分析するのはスミレを坩堝に投げ入れるのと同じである」と答えた古い問題である。もちろん詩は音楽に近づいてはいるが音楽と違って考察とイメージにおいて具体化の力を持っている。最高の詩は伝達であり明瞭なものである。純粋なリリシズム(叙情性)によってマラルメの象徴主義に健全に進んで行ったかも知れない。そして彼の同時代の人たちは知性がますます明瞭で無くなりますますイメージと暗示に頼るようになる。さらに進むと自制を失ってエリオット氏のある節のように「ジャグ、ジャグ、ジャグ」や「バム、ブー、ビミ、バムの木」のように全くサキソフォンのようなたわごとになってしまう。ボードレールが「ロマン派芸術」で「ある対象は絵画的であり、あるものは音楽的であり、あるものは文学的である」と言い、「今日それぞれの芸術が近接する芸術へ侵入しようとするのは退廃の宿命によるのだろうか?」と言っているのはこのようなことが念頭にあったらしい。」文学作品が、たとえ短く頭文字で書かれていても、健全で感受性がある人々に全く理解できないようになっているのは自制を失ったことである。
 疑いなく大きな力を持った人たちが捕まえられたサルが陰部をもてあそぶように自分たちの心をもてあそぶのは何故か自問しなければならない。彼らが永続的な知的見習いに一種の「ペンテコステ派」をつくることが出来なかったとしたら全く痛ましいことである。ウィンダム・ルイスがこれを「白痴児」カルト――低脳な人たちによって暗くされた子供――と呼んだときにある定義に近づいている。前に言ったようにスキナーはスタインの例を「自動執筆」の意識的な実験と考えている。
 次のようにも考えることができるだろう:
(1)新知性派の数多くの大衆を面白半分または利益のために意識的にからかっている。
(2)彼らはよく知られている露出症――すなわち受け入れられるにせよ反対されるにせよセンセーショナルな注目を受けるのを願望すること――に罹っている。これは軽い精神錯乱であって巫女を説明することができる。それほど目立つ例ではないが、新聞に投稿したり、タバコ広告に名前を貸したり、ニューロポップを1ビン飲まないと「発作に苦しむ」と書かせたりするのは、この衝動である。
(3)彼らは心理学実験をまじめに行っており、この場合に彼らは麻薬を呑んでいるときのように慎み深く内密にしなければならない。
(4)肉体的に病気の人が手術のことや慢性大腸炎について話しをしたいように、自分たちの(精神的な)病気を暴露したい衝動を避けることができない。

 もしも彼らがふつうの人だったらこの行為はただ共感を惹くだけであろう。これらは恐ろしい機械なので絶縁体が送電線を焼き切らないことを希望する。しかしこれを見ると、医学知識を持った人にとってこれらの人々は脊髄を脳の代わりにしたり、または少なくとも前頭葉から基底核に降りてきているように思われる。
「随分と長く話した。しかし結局のところ美の定義になってしまった。そうではないか?」と友達は言った。
「さあ、説明して欲しい。」と私は答えた。
「ここに最新の定義がある。美とはある経験の際における種々の要素の相互順応である。このように本来の意味において美は実際の場所において典型的な具体例を見いだす性質である。または逆に言うと美はこのような出来事がいろいろに関係する性質である。」
「素晴らしい! 貴方は陽気だよ、決して変人ではない。」と私は答えた。
「さて、続けよう。美のこの定義を理解するにはこの本において世界を解釈している形而上学体系に属する三つの原則を心に留めなければならない。この三つの原則とは次の相互関係に関するものである。(a)ある把握の客観的内容とその把握の主観的な形とのあいだ、(b)同じ場合における種々の把握の主観的な形のあいだ、(c)ある把握のさいの主観的な形とその把握の場合における主観的な目的に含まれる自発性のあいだ。」
「ストップ、これはスタインによるのか?」と私は言った。
「いや、ホワイトヘッドによるものだ。」と彼は答えた。
「さあ、これはこれは。発疹チフスの伝記に進んでもまったく安全であると決心できた!」と私は言った。
 実際、我が友が帰った後で考え込んでこれまでのことをしばらく思うときにはいつでも発疹チフス、梅毒などの正直さに感謝した。皆さんはこれらの病気にどこで罹るかをいつでも知っている。そしてもしもこれらの病気にかかわるときに「いい加減に」するとこれらの病気は皆さんを馬鹿にして皆さんは病床に横たわることになる。これらの病気から遠ざかるかまたは用心深い能力をもって近づきなさい。現代の批評家たちが偉人の死体を不器用に解剖して精神的な腫れ物やカルブンケルにかかったらどうなるか考えてごらんなさい。それともジョイス氏が腸の機能に専心したら。それともエリオット氏が情熱的にシャドーボキシングをしたら。それともあまりにも現代的な作家の猥褻さや性的神経症が脳に巧みに入り込んで運動失調や麻痺を起こしたら。実際、私の知っているすべてからすると多分このようなことが起きているのであろう。そうして精神の梅毒にはサルバルサンが無い。
 発疹チフスはこれに比べるとずっと有害ではない。


第3章

細菌とその他の寄生物の定義を進めて生命の起源についての回り道をする。この議論がないと読者がこれから後を理解するのが困難である。

 厖大な宇宙の歴史においてわれわれの小さな惑星(地球)の歴史は孤立した重要でないエピソードに過ぎない。測り知れない空間内の古い天体で他の進化によって我々より賢く生命の起源を理解している生物が生まれているかも知れない。上向きの進化における過渡的な創造物に過ぎない我々が最高の可能性に達しているという然るべき理由は存在しないからである。秘密を発見したいとする知識は発達させたが秘密の奥に入るほど強力でないことが人間の悲劇である。親戚である動物よりも少しだけ進化した知能を持ち疑問を投げかけたいという身分不相応な欲望によって悩まされていて時に質問することは出来るが稀にしか答えられない。我々は周りにあるいろいろな力を支配する夢を見てきた。物質とそれを動かすエネルギーすなわち世界と太陽と星を制御している秩序を研究してきた。内部に向かう心を自分で訓練して単なる動物的な存在にとって無縁な情熱、倫理的な欲望および道徳的な衝動であるを愛、正義、哀れみを発見する。発見すればするほど起源および目的を知る希望が無くなった。周囲および内部の自然が我々の創意によって明らかになればなるほど芸術または科学の業績によって知覚できる壮大な調和にたいする畏れと驚きが大きくなる。しかしこの調和の最終的な原因や目的を我々は理解することができない。全体にたいするヴィジョンを持ってこの畏れを感じ自然の調和に適応しようとする希望は明らかに人間心理学におけるはっきりとした現象である。物的環境を理解する本能が科学を産み美的な反応を表現する衝動が芸術を産んだのと同じようにこれは宗教を産んだ力であった。哲学が精密科学の大地を離れて浅瀬が形而上学である思索の海に船出することによって宗教が始まることは明らかである。しかし現代では宗教と科学の衝突を述べるのは全く思慮深いことではない。真の文明化した人々にとってこの衝突は以前から存在していなかった。聖職者のフォズディック博士のように狼狽した牧師たちがこのような衝突は存在しないと熱心に述べているのはテーブルを叩いて地球は丸いと主張しているのと同じである。純粋に倫理的な慣例が行き渡っていない世界では組織化された教会が慈悲的な社会的および道徳的な影響を維持するように彼らは希望している。ミリカンその他のように優秀な人たちは精密科学の最高峰から古風な成層圏に飛び立って、科学の最高に発達した知識が満足することはできないし決して満足しないであろう倫理的な欲求を人間の心が持っているのは生物学的な真理であると、彼らは説明している。
 天文学者、物理学者、数学者は生物学者に比べると母なる教会の膝または魅力がない形而上学的な修道女たちに縋りがちなのは全く偶然ではない。生物学者は研究においていつでも生命の神秘に直面している。生物学者はその神秘を尊敬し、驚きと畏敬とを組み合わせて慎重に振る舞い、全く興味深く続いて研究するものがここに存在するが、さし当たって彼の理解能力を超えるものであることを認めようとしている。私が名前をあげた賢明な物理学者たちは大急ぎで神に逃げこむ。しかし新しい理解に達し新しい現代のエホバを見つけたと彼らが考えたときでも実際はたぶん神の顎髭を抜いたり神の雷をエルグで表したのであった。彼らの心と考えの中で神は相変わらず「絶対権力者」である! 結局のところ最終的に成し遂げられるであろうことは、ある時期にギリシャでプラトンの哲学が教育あるものの宗教であり中国で儒教として存在したものであるに過ぎない。
 しかし人口過密の世界ではこのようなことも望めなくなった。何となればフォズディック博士のような聖職者が神秘主義のバラストを船外に投げ捨てて浅瀬を渡って理性という静かな港に入ろうとするや否やミリカンその他の物理学者―形而上学者はバラストを釣り上げて聖職者たちを思弁の荒海に向かわせるからである。キリストのように精神界と物質界を厳正に区別し同時に現代科学の可能性と限界をよく知っている人が現れない限り将来に希望は無い。。
 研究に対する意欲と勇気を失っていない即ち形而上学に降伏していない知的・情的に成熟している科学者こそが科学は高度の発達をしたとしても究極の疑問に決して回答を与えないことを認識し哲学的な安らぎに達することができる。自然の規則的な統合を考えることに幸福があり厳しい歴史を通して理性の目的を保った合理的で人間性を持つ人々との適度な協力によってこそ平和が存在するであろう。完全な理解によっては殆ど得ることはできない。
 他の惑星では地球とは違う生命が発達しているかも知れないとベルグソンは述べた。エネルギーを供給する物質に特有な元素は炭素ではなく生物に特有な元素は窒素ではなくその結果として生体は化学、解剖学、生理学において地球の生体と全く違うかも知れない。これは正しいかも知れない。しかしこれを信ずるには地球上の観察で得られるものとは異なる前提が必要であろう。地球上で解析した限り生命の起源は3種の元素の結合力の独特な性質により可能であり限りなく多い種類の相と系は水の性質によって可能である。これらの関係によって「大気の単純な物質から複雑な有機物質への経路は直接的である」とヘンダーソンは言っている。
 圧力および濃度の限りなく種々の条件において他の元素と接触し太陽の照射エネルギーによってこれら3種の元素は結合および乖離してある場所ある時に生命が生まれた。生命の無い有機物質と生命のある同様の有機物のあいだの転換には理解できない大きな秘密が存在する。転換以前のことは合理的に追跡できる。転換以後のことは少なくとも現存する生物の記録に尋ねることができる。無生命から生命への飛躍には理解することが出来ない連続性の不思議な断絶が存在する。化学で定義されるタンパク質と生きている細菌細胞のあいだには最初の生きている細胞と人間のあいだよりもずっと大きい裂け目がある。
 生命の定義は容易で無い。エネルギーを消費し消費したエネルギーを自動的に調節されたサイクルで作り出す酵素は可溶性であり細胞の形に組織化されていないが生きていると言えるかも知れない。植物や動物に寄生する目に見えない因子があり我々はこれらを作用のみによって知っている。タバコやジャガイモ植物に感染するモザイク病、口蹄疫、狂犬病、黄熱、小児麻痺、天然痘、その他の多くの破壊的な疾患の原因となる超顕微鏡的なウィルスは高等生物の生きている細胞の中で繁殖し無限の世代にわたって増殖して特異的な寄生の習慣を持ち続ける。さらにこれらは非常に小さくて可視光線で干渉しない。しかし100またはそれ以上の最小のタンパク質を含むのに充分な大きさである。いちばん大きなものは高倍率顕微鏡で点として見ることができるであろうが多くのものは見ることができない。これらは生物であって細胞構造を持つと考えられているが確かではない。このうちのあるものが真の酵素と細胞の形をしたものの移行性のものであると考えるのは少なくとも筋が通っている。生命の無い有機化合物から細胞への進化による移行は未だ判っていない無限に小さいステップからなる漸進的なものであろう。バクテリオファージ現象についての現在の観察は有望な調査の資料となっている。
 生命は酵素――エネルギーを作ったり使うことができ細胞の形は無いが制御される中間物質――の関与により複合体を形成して自発的に作られたのだろうか? それとも宇宙の他の場所から地球に来たのだろうか?この場合にそれは絶対温度から白熱までの温度に抵抗して壊れない性質を持っていなければならない。これらの可能性を否定することはできないがどちらであるという手掛かりを持たない。生体内で起きている過程は生命を持たない化学システムを支配しているのと同じであるがもっと複雑な物理―化学法則で支配されていることを知っている。しかしこの単なる機械論的な理解は最終的な回答としては不充分であり生気論がこのギャップを埋めるために繰り返し生まれている。
 我々が芸術とか科学を育てている現代世界で我々の究極の先祖である原生動物や細菌が生き続けている。特に細菌(判っている細胞のうちで生物の起源にもっとも近いもの)は今でも我々よりも重要である。無限の種類としてどこにでも存在し発酵と腐敗を行いそれによって植物や動物の死体から炭素や窒素を遊離させる。細菌や酵母が無かったら炭素や窒素は役に立たない化合物として永久に閉じ込められてエネルギーや合成の原料となることはできない。いつでも沼や原野で忙しくしこれらの小さい恩人は凍結された元素を遊離させて他の生体の部分として他のサイクルに入るだろう。あまりにも熱心すぎて含窒素化合物を遊離窒素まで分解する仲間の働きを補正するものもある。土地およびクローバー、エンドー、その他のマメ科植物の根粒で細菌は窒素を固定して利用できる化合物にする。植物と動物のあいだの炭素と窒素のサイクルを続ける細菌が居ないと植物は生育するための窒素と二酸化炭素が無く牛は食べるクローバーが無く人には牛肉も野菜も無い。細菌が無いと世界は過去の植物界と動物界の良く保存された死体の倉庫になってしまう。これらは後の世のものの身体の栄養に役立たないことは本の中で石になった醜くく愚かな考えが精神の栄養に役立たないのと同じである。
 良く考えない人たちの哲学になっている格言とか諺の中で最も危険なのは「百聞は一見にしかず」である。数千年にわたって賢い人たちは地球が平であり太陽は地球の周りを回っていると思っていた。自分の目で見る限りこのことは正しかったからであった。生命の起源の問題が何世紀も遅くなったのはこのように目に見えたものが正しいという信仰のせいであった。腐敗している馬肉から蛆、人の汗からシラミやノミが産まれ、バケツ水の馬の毛は線虫になった。これらのことは観察出来るので正しいとされた。紀元300年に錬金術師ゾシモスはホムンクルス(小人)を作るのに成功したと現代の生物学者が同じような取るに足りない事実によって超顕微鏡的なウィルスが細菌に変化したと報告しているのと殆ど同じような権威をもって報告した。
 これから述べるように古い中世の空想家たちの誤りの資料はすばらしく多いにも拘わらず近年の代表者たちほど理解に危険ではなかった。当時には誤った学説は広範に知られていなかった。多くの人たちは読むことが出来ず有名になっても個人的な利益は無かった。大衆は科学を意識し知的になり始めていなかったし科学的の問題は知的であり教養のある少数者によって評価され知的な無産階級にすぐに受け入れられることはなかった。それからまた数千年のあいだ生命の起源について考えてきたのにしては少ししか進歩していないことに驚くならば紀元前300年におけるギリシア人の見解は最近以前のものに比べて信頼でき最近の発展は薮を1世紀にわたって生物学的に刈った後で生化学および生物物理学方法の発展によってギリシア人の考え方を強化したものであることを思い起こさなければならない。
 300-400年にわたるローマ人の帝国建設および野蛮からのキリスト教ヨーロッパの発達が邪魔をしなかったらギリシア人がどのように成果をあげたか推測するのは興味深い。化学と物理学の必然的な基礎を急速にギリシア人が入手するのに不足したのは実験方法論であった。これも幾何学から必然的に発展したに違いないと思われる。実際のところアルキメデスその他によって始められていた。後になって個々の現象やその一部を実験的に分離する方法を生んだのは数学的考え方の影響であった。すでに紀元前300年にギリシア人は紀元1500年(*ルネサンス時期)のヨーロッパ人よりもこの近くにいたのは確かであった。
 世界は大きいので時には文化的に1000年ほど遅れるのはやむを得ないことであろう。このことは我々が歴史的な知識を持っている1回の周期で起きたのであろう。ローマ人の優れた組織化能力および超自然的なので理解が容易なキリスト教のシステムはヨーロッパの森の革命的遊牧民をギリシア人のやり残した所に2000年後になって到達させるのに必要であった。実際、ヨーロッパ文明は1600年以降には科学発見においてギリシア人を超えているが精神的および道徳的な発展において教理の支柱とか超自然の壁が無いプラトン哲学の水準に達したかどうか議論がある。そして多くの進歩にもかかわらず学校教師たちは古典歴史および言語学を「家政経済」や「性衛生」で置き換え文明世界はプロテスタント聖職者の一種の慈善システムを支持している。世界の文化精神が前の戦争(第1次大戦)で如何に傷つけられたかを述べるのはまだ早い。ここで書くことができるのはイタリアのファシズムが経済的に成功したとしても科学的および芸術的な生産を静止させたことである。ロシアの科学と芸術もこれまでのところ弱々しいプロパガンダに過ぎない。1890年代のドイツの素晴らしかった科学理想主義の現状も嘆かわしい。
 科学の発展させた方法の精巧になることと比例して生命の起源について今日持っている見解が解明に近づくことは絶望を意味している。我々の先祖の意見は五感の結果に基づいていた。
 我々の意見は化学分析、顕微鏡観察、電位差計、熱力学法則の更なる進歩に基づいている。パストゥール、ダーウィン、エミル・フィッシャー、ウィラード・ギプスその他の数多くの人たちの成果によって問題を分化させられている。科学という職業の美点は専門家からなる大きな軍隊の兵士としての誇りを持っていることであり、将軍は後続する者を決して無視しないことである。攻略したすべての目的地、掘ったすべての塹壕、占領したすべての砦、は次の統合者が新しい領土を組織するための恒久的な進歩である。いつの日か統合者が来て生命の無い複雑なものに生命を与えるであろう。彼はイギリスの貴族、チェコスロヴァキアの農夫、ロシアのユダヤ人、フランスの理髪師、またはあまりありそうではないがアメリカの株式仲買人、の息子かも知れない。このように科学は偉大な民主的冒険である。統合を果たす人が来たら彼は王として迎えられるであろう。
 生命の偉大な神秘は物理―化学過程として明らかになるであろう。しかしこのことは既に知っている。ただ真似るのに成功はしていない。そして真似したとしても哲学的に言って現在とほとんど違いは無い。
 この問題は人間が努力してきたはかない希望でありあらゆる時代に空想的な知識人が行ってきた。しかし空想家が記憶されているのは不思議である。何故か? 知的なものでも情緒的知覚によるにしても何よりも多く生命に威厳を与えるものであり理解によって幸福を求める本能だからである。これは人間の特性のうちで最も理解できないものであり個人間または国家間のきびしい競争も根絶させることは出来ない。
 人間の非実際的な探求のなかで生命の起源についての問題よりも魅惑的なものは無い。
 古代中国では蒸し暑い天候で湿った竹から作られると考えた。
 古代インド(マヌ法典)で動物界は卵生のものとハエ、カブトムシ、ウジなどのように「汗から作られるもの」に分類された。
 ナイル川の泥から太陽の熱によってカエル、ガマガエル、ヘビ、ネズミが産まれた。暑いときにそれらが泥から這い出すのを見なかった人がいるだろうか?
 神聖な糞食のスカラベ(タマコロガシ)は糞の玉から神秘的に作られミツバチはウシの腐りかけた死体から突然に発生した。ギリシアの7人の賢人の1人であったタレス(紀元前約640-546)はすべての生物の源は水であり生命は暖かい泥から生まれ大洋の底から滲みだすと考えた。彼は外に出て星を眺めていて溝に落ちたので老婦人に笑われた。また彼が若いときに母親は「早すぎる」といって結婚させず年を取ったときには「もう充分な時が残っていない」と言ったそうである。アナクシマンドロスとクセノパネスも続いて同じ考えを持った。アナクサゴラスはさらに雨水を加えた。これは無限の空間から繁殖能力を持つたねを運び込むとした。泥の関与は一般に同意されていたと思われる。
 新しい生き物が同様の先祖の結合によることは否定されなかった。しかしこれに加えて太陽で暖められた有機物からの合成によって新しい生物が絶えず加えられると考えた。
 パルメニデス、エンペドクレス、アポロニアのディオゲネスは泥とか湿った大地が生命発生の源泉と考えた。
 デモクリトス、エピクロスおよび彼らの記録者ルクレティウスは新しい考えを出発させた。大地のすべてのものは生命を持っている。大地は若いときにはすべての生物を生み出す母親であり、植物、動物、さらに人間まで産む奇跡的な繁殖能力を持っている。しかし大地も年を取ると力を失って、虫、爬虫類などの下等動物だけが暖かい雨と太陽の助けによって分解している有機物質から産まれるようになる。
 プラトンはこれらのことにたいして理性的に不可知論であってソクラテスも同様であった。しかしソクラテスは精神力「エンテレケイア」を作り出した。これは物質内に入るとそれに生命を与える。
 アルケラオスは動物やヒトの腐った脊髄がヘビになると信じていた。
 紀元前30年ごろのディオドロスはシラミがヒトの皮膚や汗が源であるとする古い話を復活させた。彼はまたマウスがナイル川の泥から作られると改めて主張した。体の前半が完全に出来上がり、後半は未完成のマウスが這い出すのを見ることができたからである。
 ウェルギリウスはミツバチがシカの死体が源であるという古い話を信じていたようである。この点でホメロスがイーリアスの19巻でパトロクロスの開放創にハエが入って蛆が産まれる危険のあることをアキレスに話させている。多分このことについて最古の正確な観察であろう。
 オヴィディウスはウェルギリウスと同じような考えをもっていて、ただスズメバチはウマの死体から、カブトムシはロバの死体から生じると考えていた。
 キリスト教の影響によって見解のあるものはもちろんかなり変化した。4世紀にニュッサのグレゴリオスは聖書に固執して獣や植物は神の意志によって大地から突然に産まれたと主張した。これにたいしてアウグスティヌスは論理的に考えて大地がノアの大洪水後にも動物を自然発生によって生み出す力を持っているとしたらノアの箱舟は必要ではなかったと悩み、神の恩寵と神がマウスのように不愉快なものを造ることとを調和させることが出来なかった。
 中世を通して同じような理論付けが存在し続けた。これらの理論のあるものはそれほど幼稚ではなかったが、多くのものは古代の人々の作ることの出来た理論よりも空想的であった。偉大な医師アヴィセンナは腸内寄生虫がすべて腐敗した物質および湿気から作られると信じ元素の適当に結合したものから動物の作られることを完全に受け入れていた。雷が鳴ると中途半端に作られたメウシが空から落ちてくると彼が言明したとリップマンは述べている。
 偉大なアルベルトゥス・マグヌスすら「動物について」において多くの下等動物はそれが上および中に見つけられる物質から、すなわちミミズは朽ちた木からコガネムシは腐敗した果物や葉から、飛び出すという古い考えにこだわっていてウマの毛が紡錘虫に変化することを信じさえしていた。この仮説はこの頃でも多数の知能ある人々のあいだに広がっていた。パリの司教であった信心深いオーヴェルニュのウィリアムはミミズやカエルがこのように作られることは信じようとしたが、ウマと関係することには疑問を持った。
 かなり最近まで繰り返された有名な話としてエボシガイは野生のアヒルやガチョウの起源であると信じられていた。これらの鳥は飛んで来て飛び去り繁殖しているのは見られなかった。従って起源について憶測がなされた。この話の1つはサクソ・グラマティクスによるものでオークニー諸島(スコットランド北方)の木に育っている貝から小さいガチョウが出たというものであった。この話は16世紀の後期にオランダの水夫が北極海に行ってガチョウが巣をつくり繁殖していることを報告するまで続いた。
 このエボシガイ起源のガチョウの話に似ているのは旅行作家マンデヴィルの話である。大きなメロンの形をした巨大な果実がなる木がありそれを彼自身も食べたが開けてみると仔ヒツジが居たと旅行記に記している。果実が熟して落ちると仔ヒツジの足は地に達して周りの草を食べ尽くす。今ではマンデヴィルは歴史上で最も巧みな嘘つきの1人になっている。中世後期および近世初期に地球のすべての隅まで入り込んだ旅行家の記載は同じような数えられない多くの話のもとになっている。仔ヒツジが生える植物の話は18世紀のリンネまで完全に誤りは論破されなかった。彼は子ヒツジを咲かせると考えられるすべての種類を調べた。生命の起源についてのパラケルススの考えは同時代の人たちと根本的には違わなかった。しかしヒポクラテスの「自然」とキリスト教の魂についての考えを結びつけ神が創造した生物に生命を吹き込む方法を説明した。
 ベーコンは自然発生を断固として信じていたがハーヴィは有名な「すべては卵から」と1651年に述べたことによって古い見解に断固として反対した最初の人とみなすべきである。
 ケプラーは聡明であったが空に彗星が生ずるのと同じように植物は先祖が無くても大地から生え魚は海水から自然発生によって作られると信じていた。
 これらの総ての期間を通して最も有力な知識人の間にこの問題を実験的な方法で解決しようとする試みは17世紀の後半まで為されなかった。この時期にトスカナの医師フランチェスコ・レーディは昆虫の発生についての実験を発表して腐った物質は卵を産みつける巣以上のものでないことを示した。彼はまた種々の皮膚病が寄生体によって起きるのであってその逆ではないと主張した。またスワンメルダムは全能の神から多くの叡智と技術を与えられたハエが廃棄物から偶然に生ずる筈は無いと考えて、敬虔な確信によって同じ結論に達した。結論は同じであるが名誉はレーディのものである。
 ライプニッツは1714年に自然発生は不可能であるという信念および植物も動物も腐敗のカオスから生ずる筈はないことを表明した。ライプニッツはこの問題についての他の表現では率直に不可知論的であった。
 デカルトはレーウェンフークなど同時代の重要な博物学者の仕事を良く知っていて生物の起源について何も言っていないが小さい生物の世界があって他の種類の生命は一種の進化によってこれより発生しうるのを当然のことによって憶測ではあったが要点をついた。
 18世紀末から19世紀初頭にかけて正確な観察が集積して憶測の領域が制限されこの問題についての人の考えの歴史を眺めてみるとすべての科学におけると同じように一方は憶測と他方は観察の集積のあいだに逆比例の関係が存在している。フィレンツェ人 P. A. ミケーリによる1729年におけるカビとコケの増殖方法の発見およびスパランツァーニの昆虫についての実験によって自然発生と言うものの存在しないという確信が増加してきた。この問題についての重要な観察の1つはアペールという名のパリのレストラン料理長が行ったという興味深いことをリップマンは述べている。アペールは食品を熱して密閉した容器に入れて保存した。これは酢を沸騰させて密閉容器に入れて保存したシェーレの観察と同様である。ニーダムのように後退もあったが、新時代が始まり実験方法は生物学思想の発展に貢献するようになった。
 実験方法が次第に進歩するにしたがって生命現象に興味を持つ人たちは観察を正確にして憶測に慎重になった。学者たちが生命の存在様式の研究に全力を注ぎ新しい実験の成長する枠組みを建設するために憶測を制限したときに現代生物学が生まれた。自然発生を支持した観察は実験の誤りであることがパストゥールによって最終的に示されて生物学における中世は終了した。しかしかなり前に錬金術と物理学から生まれた化学は天空から地上の小さいことに向かい生物学を新しい方向に進めさせていた。このようにして生物学は応用化学および物理学として始まり終わるであろう。
 この問題を取り扱うに当たって現在に至る生物学の構造の要点に進むことが有用であろう。天才のために武器を鍛えた無名の多くの勤勉な努力家、真理に向かって偉大な戦いをした知られざる兵士を想像上の読者は心からの尊敬をもって思い起こすであろう。
 これらのことを考える人は誰でも有意義な業績の表を自分で作ることが出来るであろうし作る人によってその表は違うであろう。この本は買うであろう人のためよりは著者自身の楽しみのためなので生物のメカニズムについての現在の視点に直接に貢献したと思われる事柄を年代的に書くことにする。私はこれらを説明抜きに記載することにした。これらのことを良く知らない人々は新しい科学史の本を読むとよかろう。

 1774. プリーストリはマウスで汚された空気は緑色植物の存在によって「良質」になることを認めている。1780年にインヘンホウスはこの作用は緑色植物によるが光の作用で起きることを示した。同じ年にセネビエはこの変化が二酸化炭素が酸素に変わることによることを示し、1804年にソシュールはこの変化を実証した。
 1784. ラヴォアジエは物質不滅の法則を示した。定量化学が始まった。呼吸が燃焼に似ていることが認められた。
 1812. キルヒホッフはデンプンが希硫酸でグルコースに成るが希硫酸は変化しないことを発見した。これは触媒作用を理解する最初の証拠とみなされた。ベルセーリウスはこれによって「新しい力」の概念を導き生体内の化学過程を説明する強力な因子と考えた。
 1821. キュヴィエは古生物学の基礎を置いた。
 1824. ヴェーラーによる有機化合物(尿素)の合成。
 1828. フォン・ベールによる哺乳動物の卵子の発見。現代の発生学が誕生しハーヴィ以来の最初の偉大な前進。
 1838-1839. シュライデンが植物の細胞構造を示しシュヴァンが動物の細胞構造を示した。
 1838. カニャール・ド・ラトゥールは発酵が酵母細胞によることを示した。
 1838. フォン・モールが原形質を記載した。
 1840. マクス・シュルツェは原形質は生命の物理的基礎であると考えた。
 1842. マイヤーはエネルギー保存についての最初の考えを示唆し、後にヘルムホルツが1847年に整然とした形に発展させて、最終的に熱力学法則となった。
 1842. リービッヒの動物組織への化学的方法を応用した「動物化学」などにより生化学が誕生した。動物体熱の燃焼としての重要な概念も含まれている。
 1857. クロード・ベルナールは現代生理学の基礎をつくり肝臓によるグリコーゲン合成を発見した。生きている動物への生化学および生理学方法の応用の始め。
 1859. ダーウィンとウォーレスは生物進化の考えを進め、これに続いて比較解剖学、発生学、合理的な系統学が強力に発展した。
 1860. パストゥールにより自然発生についての実験が最終的に否定。
 1861. いわゆる「クリスタロイド」と分子より大きい粒子における法則(*拡散など)の相違が認識される。グレアムの研究によるコロイド科学の誕生。
 1862. パストゥールは発酵と腐敗が生物によることを確定する。
 1865. メンデルによるスウィートピー交配の研究。この仕事はダーウィンの本来の仮説を根本的に修正したものであろうが、1900年にド・フリースその他が見つけ出して追認し発展させるまで地方科学雑誌に埋もれていた。遺伝科学の基礎である。
 1867. 半透膜についてのトラウベの仕事。
 1877. プフェファーによる浸透現象の発見。
 1880-1900 生命を最も単純な方法で研究する技術の進歩に伴って現代細菌学免疫学の発展。
 1885. 浸透圧と溶液の化学・物理学的性質の関係、ファント・ホッフによる。
 1885. ループナーは食品のカロリー値の研究に定量的方法を導入する。
 1887. エミル・フィッシャーによる生体物質合成の始まり。グルコース、フルクトースや最後にはポリペプチドが合成される。ポリペプチドはタンパク質の分解産物のうちで比較的に高分子のものである。フィッシャーの時代とともにタンパク質の真の構造の知識が始まった。
 1888. ヘルリーゲルおよびヴィルファールトによる炭素ー窒素サイクルの解明
 1889. ベイエリンクによるウィルス(植物モザイク病)の最初の発見。
 1893. レフラーとフロッシュによる動物に病気(口蹄病)を起こすウィルスの最初の発見。
 1900. 生命過程にたいする照射エネルギー(X線、紫外線)の影響についての知識の始まり。
 1902. サットンは染色体の分離によってメンデル法則が説明されることを最初に指摘する。
 1904. ホルモンすなわち生理的メッセンジャーの発見。内分泌がベイリスとスターリングによって定義される。
 1910. タンパク質および生体組織への物理化学方法応用の顕著な始まり。酸塩基平衡、水素イオン濃度、膜電位、ドナン平衡、酸化還元電位、生体における細胞および体液の表面現象と電気物理学。貢献した人たちは、セーレンゼン、ローブ、ヘンダーソン、クラーク、その他多数。
 1912. ビタミンがホプキンスとフンクによって発見される。
 1915. トゥウォートとデレルによってバクテリオファージ現象が発見された。バクテリオファージは酵素と細胞の中間の物質の可能性があると示唆され、作用する特定の生きた細胞のもとで増殖だけする能力を持っている。これらが生命を持つか持たないかは現在のところ学問的な興味だけである。
 1925. 照射エネルギーと補助食物因子とのあいだの関係の発見。脂質の紫外線照射によるビタミン活性化。スティーンボックの実験とヘスの実験に基づく。
 1926-1930. 酵素の結晶化。サムナーは1926年にウレアーゼを結晶の形にした。1930年および1932年にノースロップはそれぞれペプシンとトリプシンを結晶化した。

 これはすべて発疹チフスと関係ないようであるが、単に混乱した物語の中で起きるセンセーショナルな出来事を待ちこがれている人たちのためである。ここで記録した発展が無かったらこの伝記の正しい本質をほとんど知ることは出来ないであろう。


第4章

寄生現象一般について。および流行病の歴史的研究においては感染症の性質変化を考慮しなければならないことについて。このことを示すために梅毒について簡単に述べる。これらのことは発疹チフスの伝記に直接に関係する。人間という種族を知らない読者に特定の人について記載するのと同じだからである。

 生物の世界で何事も永久に固定されていない。進化は絶えず行われているが速度は遅いので変化が認識できるのは現存するもので決定できる関係や古生物学的および発生学的な歴史のみである。進化による変化を決定する過程は今日では「種の起源」が発行された頃のように単純には考えられていないがどのような生物も永久に安定していると考える生物学者は居ない。従って感染症が絶えず変化していて新しいものは発展し古いものは変化したり消失していると考えるのは純粋に生物学的な理由で全く論理的である。
 寄生は異なる生物のあいだにおける接触が習慣的になったときの遠い過去に始まった。突然に起きたものではなくある形の生物が他種の生物の中または表面の環境条件に徐々に段階的に適応することによって発展した。寄生とは生きている細胞が普通は示している他の生体の侵入にたいして敵対が効力を失うことに始まる。このこと(適当な名前が無いので「生命維持に必要な抵抗」としよう)の良く知られている例はカエルの卵である。卵は細菌や原生動物がうようよしている池の中で侵入されずに発育する。霜は1晩で卵を殺して数時間のうちにその内容は無数の微生物にとって培養基になる。この「生命維持に必要な抵抗」はそれ自身が複雑な現象でありこれの低下によって宿主は死滅しないにしても影響を受けやすくなり障壁が下がることによって侵入者は最初の足場を得られるようになる。これは考え得ることであり実験事実によって支持される。ひとたび始まると寄生の発展はほとんど無制限に種々の方向に進化する。
 寄生は解析が容易な進化過程である。ほとんどの寄生生物は独立していた(寄生していない)先祖が現存するにせよ化石として存在するにせよその足跡を明確に辿ることができる。この観点からすると寄生適応の研究は進化論の最も重要な支持壁である。どの例も小さなシステムであって宿主は世界であり寄生体はそれを鋳型にして作られる。感染症である寄生において侵入されるのは複雑な植物や動物であって侵入するのは単純な生物であり多くの場合は細菌、原生動物、リケッチアおよび「濾過性」ウイルスのように単細胞である。これらの単純と思われる生物の機能および代謝は実際に複雑であり驚くべき生物的および化学的な順応性を持っている。そして世代は非常な速さで交代するので(適当な環境では少なくとも毎時2回)感染現象は適応変化の観察に極めて優れている。従って数世紀のあいだの記録で新しい形の寄生すなわち新しい感染が常に起きなかったり既存の寄生体と宿主のあいだの相互適応の変化が起こらなかったとしたら驚くべきことである。
 実際のところ現代の細菌学で得られた証拠によると流行病は常に変化していると考えていいだろう。その変化はある特定の時期に診断を困らせるほど速くなかっただろうが流行病史の研究においては考慮しなければならないほど充分に速かっただろう。確かにこれまでのところ実験室で純粋な腐生性微生物を常習的寄生性に変えることはできていない。しかし個々の宿主の抵抗性を低下させることによって普通は寄生力が弱い微生物で致死的な感染を起こすことができる。このことはパストゥールの時代から繰り返してなされてきた。さらに「細菌解離」と呼ばれる技術によって多くの強く感染性の細菌から毒性を除いたりそれらを完全に病原性に戻す簡単な方法が開発された。このような感染動物体内における両方向への変化は試験管内で思い通りに起こさせることができ細菌そのものの形態学的および化学的な変化と相関させることができる。これは現在の研究において重要な領域であり得られた結果は感染についての考えを大きく変えている。この問題をさらに進めると技術的な議論になり細菌学教科書に記載する方が明らかに適する。ここでは寄生の適応は静的なものではなく寄生物と宿主のあいだにおける相互適合の極めて少しの変化が臨床的および疫学的な現象に深く影響するであろうことを今後は感染症の歴史的研究において考慮しなければならないというわれわれの主張を支持するためだけにこの問題を述べた。
 腐生性と寄生性のあいだには広範囲にわたる微妙な段階があり適応の変化と並んで起きる生物学的および化学的性質は、ヒトや動物に病気を起こす寄生体が自然において生きる能力を残しているか、またはその寄生体が個々の宿主に密接に適応していて離れては生きることが出来ないで宿主が死ぬと他に移らなければ死滅するかどうかに、あるていど依存する。
 最後に述べた条件は短い人間の記録で顕著な変化が最も起き得る条件である。このような場合には宿主から宿主への絶えることのない移動が起きて寄生体は最も完全に適応した環境以外に曝されることはない。それ故に進化は一方向すなわち侵入者と被侵入者のあいだで相互にとってより完全に容認される方向に進む。このような寄生現象が最初に起きたときに宿主の反応は激しく個々の例で異なる複雑な基準によって侵入者または宿主が死滅する。適応がもっと完全になると反応は弱くなり病気は重篤でなくなって慢性化する。最後には相互の適応が殆ど完全になって宿主は傷害の症状を全く示さないこともある。この条件はラットのトリパノゾーマ感染、マウスのスピロヘータ症およびサルコスポリディア症および数多くの動物および植物に存在する。これらの例では感染した動物は寄生体との反応で不快または病的な症状を実際上は示さない。この理論はシアボールド・スミスによって詳しく論じられた。動物集団で新しいウイルスはすべての年齢の個体に作用する。そのうちで生き残るかどうかは遺伝的性質の違いとかたぶん関係がある病気による免疫が偶然に重なったりすることによる運の問題である。過去における多くの種の動物の消滅は寄生体が新しく導入されたことによってよく説明できる。これに続く影響は非常に若い動物にたいして起きこれによって弱い変種は取り除かれ集団は徐々にこの感染物にたいして耐性を持つようになる。
 人間でこれらの原則を示しているのは梅毒である。梅毒が16世紀の初めに流行病の形で最初に出現したときには今よりずっと劇症で急性で致死的であった。ほとんど500年のあいだ外界に存在することなくヒトからヒトへ絶えず伝達されてきたので徐々に相互の耐性を生じその結果として病気は穏やかになった。過去にそうであったように将来も人間が完全に梅毒感染を受け続けるとしたら千年も経つと現在のマウスのスピロヘータ症に似た状態が起きるであろう。すなわち殆どすべての健康なヒトの腹腔穿刺はトレポネーマ・パリドムの存在を示すが宿主は殆ど意識しないであろう。たぶんサルバルサンによってこの予想は無くなってしまった。
 侵入する生物が感染能力を持ってはいるが腐生性も同時に残しているような形の寄生では歴史記録のあいだで変化を認めることは容易でない。炭疽病や破傷風症はヒトや動物に致死的ではあるが胞子として何年も病原性を失わずに土地の中に保存される。従って怪我によって植え付けられると致死的な病気を引き起こす。腸チフスや赤痢の細菌、コレラのらせん菌、外科感染を起こす連鎖球菌と葡萄状球菌、その他の微生物は宿主の外で長く生きることも短いこともある。このことが可能な条件、生存の長さ、このあいだに起きる変化、これらはすべて流行病を研究する者にとって非常に重要である。このような半寄生体の場合でも感染が広範に蔓延していたら上に述べた要因が活発に作用するようになって続く世代は抵抗性を増大するようになる。ヒトの感染において多くの例をあげることができる。もっとも典型的な例は結核症である。大部分の人たちが結核に感染したことのあるヨーロッパ系の集団に比べて土着の人たちが結核に高度に感受性のあることはよく知られている。
 人類史の短い期間における病気の臨床的および疫学的様相の変化が論理的に期待できるという考えは特にいわゆる「濾過性ウイルス」の研究によって力づけられた。少なくない数の重要な流行病――たとえば、天然痘、水痘、はしか、おたふくかぜ、小児麻痺、脳炎、黄熱病、デング熱、狂犬病、インフルエンザ、もちろん動物界で重要な他の多くの病気――がこれらの神秘的な「あるもの」によって起きている。細菌の病気の場合と同じようにこの場合もヒトと動物界のあいだで寄生体の交換が盛んに行われる。実際、感染体は見ることが出来ないし生きている組織が無いと培養することも出来ないので感染体を体系的に研究するには病気を起こさせることが出来る動物を見つけ出さなければならない。このような研究の結果これらの病原体は細菌以上に生物学的な適応性が普通以上であり実験室における単純な取り扱いでさえしばしば変化することがある。天然痘ウイルスをウシに通過させると牛痘ウイルスに転換するのはアテネの疫病を現在われわれが知っている天然痘と区別する変化よりもずっと大きな変化である。ウイルスが他の種の動物を通過するだけでこの場合はヒトにたいして無視できるような局所反応を起こすだけになる。しかしそれにもかかわらず免疫を与える基本的な生物学的性質は残っている。同様に狂犬病ウイルスはウサギの体を通過するとウサギにたいする毒性は急速に上昇しそれとともにサルやヒトにたいする毒性は軽度に低下する。黄熱病ウイルスはマウスの脳に注射すると典型的な黄熱を起こさなくなるとともにある種の脳炎を起こすようになりマウスからマウスへ代を重ねることができる。サルに戻すとカを通過させても神経系への親和性を保つ。実際、単純疱疹を起こすヘルペスや牛痘などは適当な処理によって「向神経性」すなわち神経系を選択的に攻撃して脳炎を起こすように変化する。
 従って「新しい」病気と呼ぶものはそれまで存在していない形の寄生を新しく獲得するものと考える必要は無い。この過程はたぶん続くであろうが確定した病気を根本まで追跡するにはあまりにも徐々であり遅すぎるであろう。有史時代における新しい病気の主な起源は2つある。既にヒトに存在している寄生現象が相互関係を次第に適応的に変化をすることおよびそれまで暴露されていなかった動物や昆虫と人類が新しく接触して動物界ではよく確立している寄生体によってヒトが侵入されることである。自然には存在していたが機会が無かったためにヒトが罹らなかった多くの病気がある。このことはトリのオウム病やヒツジの「跳躍病」についての最近の経験に明らかに示される。両方ともヒトについて個々の例は知られていたが実験室で取り扱うようになって研究者に感染力の強いことが観察された。小児麻痺に似ているオーストラリアX病はヒトがヒツジから感染したと思われ、1904年以前には知られていなかったが現在はアメリカ合衆国全土に蔓延している野兎病は多種の動物から感染している。
 感染性寄生のうちで最も興味あるのは昆虫と高等動物界のあいだにおける感染体の交換であろう。これは大きな分野であり伝記の主人公である発疹チフスに関するもの以外は論じないことにする。医学・衛生学の面から完全に離れても発疹チフスの感染環境の問題は生物学的に極めて興味深い。局地的な昆虫および齧歯類分布のいろいろと異なる環境に適応して世界の種々の場所で異なる経路を取っている寄生現象の進化を発疹チフスは他の病気サイクル以上に研究の機会を与えているからである。発疹チフスは同族グループであるリケッチア病の1つである。リケッチアはこれらの病気を起こす小さく桿菌に似た生体であり多くの昆虫体にいつでも住んでいる似てはいるが害の無い微生物と近縁である。この名前はメキシコで発疹チフスを研究していて死亡したアメリカ人リケッツに由来している。従ってこれらの生体の本来の寄生性は昆虫によって得られたものと考えられ昆虫から下等動物のあるもの(齧歯類)に移され次にヒトに移された。これらの条件については後の章でかなり詳しく述べる。
 人口緻密な地域でほとんど全集団がある感染症で飽和している環境はドイツ人が「疫病飽和(Durchseuchung)」と呼ぶ状態である。偶然にも感受性の低い人たちが生き残り世代を重ねると寄生体と宿主のあいだの関係は次第に変化して確立される。飽和が完全なほど結果は明白である。このような変化の単純な例は土着民すなわち全く感受性の高い集団にある病気が導入されたときの蔓延が速いことと病原性が強いことである。1875年にフィジーの王と皇太子がニューサウスウェールズのシドニーを訪問して麻疹がフィジーに持ち込まれたときに約15万人の人口のうちで約4万人が死亡した。他の例はナルヴァエス号の1人の黒人によってメキシコインディアンに天然痘が持ち込まれたときの激しい病原性である。白人と接触して住んでいる黒人、エスキモー、アメリカインディアンにおける結核の病原性も他の顕著な例である。この種類の例は数多い。しかし人口緻密で集団が完全に感染していると病気はかなり短い期間で変化する。たとえば1880年ごろ以来、西ヨーロッパ、イギリス、アメリカで猩紅熱は明らかに軽くなった。麻疹、ジフテリアの頻度も死亡率も同じように低下した。この変化は新しい予防法が効果を示す前に始まった。しかし1890年代の後期以後に現代の細菌学的な方法が最も有効であり従って正常の進化を邪魔しているジフテリアの場合には、極めて病原性が強く致死的な例の観察が始まり中央ヨーロッパからの報告が増加しているのは偶然では無いだろう。数代にわたる感染症の有効な制御はある人種を免疫するずっと残酷ではあるがもっと永続的に有効な自然の過程を邪魔することであり得る。
 梅毒は集団が完全に飽和しているときに起きる病気の短期間の変化を最高に良く示している。梅毒の問題は興味深いので幾つかのパラグラフに記載する価値がある。15世紀最後の10年より前にはヨーロッパで信頼できる梅毒の記録は殆ど無い。この問題は盛んに議論され多くの文章とくに古代インド文書は梅毒と似た特徴を持つ外性器潰瘍が古代世界で知られていることを意味すると解釈された。しかし「軟性下疳」と呼ばれる外性器潰瘍があり記載から真の梅毒とこれを区別することはできない。古代および中世の著書によって我々が知っている医師は誰も、外性器潰瘍の次に皮膚発疹と種々の二期や三期の症状が続くのを特徴とする病気を記載していない。ルネサンスの医師たちはこれが1つの同じ病気の連続する各段階であることを明らかにした。梅毒が古代に存在したとみなす多くの観察を医学史家たちは引用している。しかし大部分は詳しく調べると信用できないものになっている。タルムード(ユダヤ教律法)の引用は結論をするには正確でなくケルススの「医学」第6の書によるような間接的言及やアヴィニョンの伯爵夫人が1347年に出した売春婦の規制などは信用できる事実ではない。オザナムはフィレンツェの詩人の「妻」および「豊穣の神に」の2つのソネットを引用してこの詩が書かれた1480年に梅毒があった証拠としている。これらを注意深く特に診断上に意味があるとされる部分の表現を詳しく訳すとこれらは単に下品な詩であって病気の正確な引用ではないことが結論された。
 16世紀初頭にヨーロッパに蔓延した梅毒よりも軽い形の病気が古代に存在したことを除外できないし、アメリカ起源に賛成しないヘーザーは梅毒が古代から程度が限られ病原性が弱い状態で存在したのだろうと信じている。古代の多くの時期、すなわちローマ、中世、疫病の大流行、理想主義と放埓のあいだの不思議で広範な矛盾にあった十字軍の時期、においては性的不道徳は広範囲に広がっていて恥ずかしいことではなかった。淋病は知られている全世界で古代の大部分の時期から当たり前でありイギリスではクラップ(淋病)の名で「膿が流れる痛み」と正確に記載されフランスでは「熱い小便」とされた。軟性下疳および浸食潰瘍の紛れもない記述があり時にこれは広範囲に広がって外性器を破壊した。この病気では今と同じように鼠蹊リンパ節の腫脹と横痃よこねが見られた。しかし性感染から身体の他の部分における2次障害や3次障害とを関係づける記載は殆ど無い。ヘーザーは医師も患者も感染の数週間後に起きる状態を性交渉と関係づけようとしなかったことによると信ずる傾向があったし同様に後になって起きる軽い病状をふつう見過ごしたり気がつかない形で記載したのだろうと信じた。彼は自分の見解を支持する幾つかの報告を引用している。リトレからの引用はフランスの医師ド・ベリの観察であって性交渉によるもので外性器に始まり全身に広がっている。「先ず陰茎に感染し、やがて全身に広がる」と。他はポズナンの僧正ニコラスの例で外性器における「愛の腫瘍」の結果、舌および咽頭に潰瘍ができて1382年に死亡した。同じような例はポーランドのラディスラス王とボヘミアのヴェンツェルであった。
 このようにしてコロンブスのアメリカ発見の前にヨーロッパに梅毒が無かったと確信をもって主張することは出来ない。しかし在ったとしても比較的に稀でありトレポネーマ・パリドゥムの寄生が新しい様相を示し1500年の流行後の病気にくらべるとずっと軽症だった筈である。梅毒のアメリカ起源は広く行き渡っている説の基礎でありこの病気がアメリカからヨーロッパに来たと疑問の余地なく証明することは出来ないが梅毒は西半球に存在し初期の探検家が海岸地区のインディアンと性交することによって感染したのであろう。この点に関係してオハイオその他とくにニューメキシコ、ペルー、中央アメリカ、メキシコの先史インディアンの墓に見つかった骨の病変が重視されている。最近、ハーバート・U・ウィリアムズ教授は調べた骨の古さと病理検査の信頼性に注意してこれらの病変の多くに梅毒の確かな証拠が得られたと信じている。ウィリアムズはまたこの問題に関係する初期のスペインの文書を調べている。コロンブスの息子フェルディナンドが書いた「クリストファー・コロンブスの生涯」の中に聖ジェローム教団の隠士パヌがコロンブスの第2回航海のときに書いた数節が引用されている。ウィリアムズが引用したのは次の通りである。
 グアガニョーナは向かった陸地に居て海に残した女性を見た。彼は彼女から快楽を与えられていてフランス病と呼んでいる病気に罹っているのですぐに身を清めようとした。その後で彼はグアナラに行った。この土地は彼が潰瘍から回復した場所であることを意味している。

 オヴィエド・イ・ヴァルデスはとりわけブアス病(たぶん梅毒)が西インドにおける第1回のキリスト者植民を悩ましたと述べ「イタリアでイタリア人がフランス病と言いフランス人がナポリ病と言っているのを聞いて何回も笑った。本当は(西)インドからの病気と呼んだら両方とも正しい名前を使っていることになるだろう。」とつけ加えた。彼はまた第2回の航海に参加した騎士ドン・ペドロ・マルガリテがこの病気に罹ったことを述べ多分この騎士がこの病気を宮廷で蔓延させた感染源の1つであるとみなし「この病気は新しいものであり医師たちは理解していなかった」と言っている。同じような事実はラス・カラス、サアグン、デ・イスラから得られている。ウィリアムズはデ・イスラの草稿から引用している。何故か判らないがこの部分は印刷された本には無い。しかし特に重要な部分である。「(この病気は)長期間にわたるよく証明された経験によって見いだされたものでありこの島はドン・クリストバル・コロン提督によって発見されたもので西インド諸島と交易や交通が存在するからである。この病気は本性が接触感染性なので人々は簡単に罹患する。この病気はアルマダ(*スペイン艦隊)そのものに見られパロス(*コロンブスが出発したスペインの港)のピンコンと呼ばれる水先案内人その他は絶えずこの病気に罹っている。この病気はこれまで見られたことが無いので‥‥」などなど。
 梅毒がヨーロッパ起源であるかアメリカからヨーロッパに来たものであるか解決されることはないだろう。アメリカ起源の理論は他の点では強い根拠があるがコロンブスの帰国(*1493年3月)から1495年のナポリにおける流行の発端までの時期が短か過ぎるという反対には殆ど答えることができない。さらにフランスの海軍軍医のジュリアンは西半球探検の初期においてすらヨーロッパ人と接触する海岸の部族では陸地内部の部族に比べて梅毒が普通に見られたことを報告している。15世紀よりもずっと前にシナ(ダジョンによる)や日本(ショイベによる)を含んで全世界に軽症の梅毒が存在したことは全くあり得ないことではない。これはヘーザー、ヒルシュ、その他の学者が支持する見解である。
 このようにこの病気の起源には合理的な意見の相違はあるが梅毒はフランス王シャルル8世がナポリに向かって南部イタリアを進撃して間もなく突然に広範囲に燃え上がったことは疑いはない。ナポリは1945年2月にフランス軍に攻略されて病気は急速に軍隊と市民に出現した。軍隊が敗走し脱走兵、非戦闘従軍者、除隊兵は感染を遠く広く拡散させこの病気は悪性であり不愉快なものであったので罪を敵になすりつけるのは当時の習慣であった。したがって最初は「フランス病」とか「ナポリ病」として知られた。ベンヴェヌートは「フランス病」に罹ったと書いた。
 ナポリで起きたこの感染は寄生体と宿主のあいだに完全に変化した関係がありそれによる症状の変化の大きさからどう見ても「新しい病気」であった。戦争と乱交はこれまでにも何回も同じように起きていたがこの他に何かがこの時に起きていたに違いない。この何かが比較的に良性の感染を高度に病原性の強いものに変化させてしまった。続く50年の歴史は適応変化が如何に速いかを明白に示している。すべての寄生現象において相互適応の変化は恐らくかなりの速度で始まり寄生体が同じ種の宿主を通過する回数が増えるに従って曲線は累進的に平らになると考えられる。
 しかし梅毒が最初にナポリでシャルル8世の軍隊で起きたときに今日では見ることが出来ないほど激しいものであった。シャルフェンベルグによると広範な潰瘍を伴う膿疱および小水疱が特徴である無熱性の病気であった。最初の潰瘍形成はふつう外性器に起きるが必ずしもそうではなかった。最初の接触感染は皮膚のいろいろな場所で起きるが日常の接触で母親から子供に移ることもあった。潰瘍はしばしば発疹に由来し頭から膝まで全身を覆った。痂皮が形成され病人は恐ろしい形相を呈して伴侶に見放されハンセン病患者も避けるぼどであった。皮膚症状に続いて鼻、咽頭、口腔の組織の欠損が起きこれに続いて痛みを伴う骨の腫脹が起きときには頭蓋にも及んだ。病気そのものまたは二次感染によって多くが死亡した。生き存えても憔悴と衰弱が何年も続いた。潰瘍のあるものは「浸食性」と呼ばれるように広がり骨そのものに達して四肢に卵のように大きなゴム種が作られその中には白いねばねばした粘液が含まれる、とフラカストロは言っている。
 50年より少し長い年月に病気はすでに変化していた。フラカストロの「接触感染」は彼の梅毒の詩から16年後の1546年に発行された。この病気の伝染方法および経過の記載は完全であり詳しく、彼の時代と1495年の流行のあいだに起きた変化についての彼の観察の正確さを疑うことはできない。「接触感染について」の第2の書に次のように書かれている。

 これらの症状は過去を使って記載する。この接触感染は今でも盛んであるがその性質は最初に出現してから変化したように見えるからである。すなわち最近ほぼ20年に膿疱の出現は減りゴム腫が増えた。初期にはこの逆であった。‥‥さらに時間の経過とともに最近でも大きな変化が起きている。すなわち膿疱は稀な例にのみ観察され痛みはほとんど無いかまたはあまり激しくないが、ゴム種は多い。


第5章

第4章の続きであるが特に新しい病気および消失した病気を取り扱う

 古代や中世の文献を探して今日でも鑑別診断が難しい病気の存在を調べることは多くの誤りを犯し易い。正確な記載が得られるのは稀でありヒポクラテスの著書で見られるように症状と経過が詳細に与えられていても同定に必須な検査結果は全く無い。神経系の流行病については特にこの問題は困難である。今日ではこれらの多くは一般に新しい病気とみなされている。関係するウイルスがこれまでヒトに感染したことが無いという意味で現在のところ幾つかの病気だけは新しいものと信じることにしている。寄生体と宿主のあいだの生物学的関係がこれまで知られていなかった故に多くの例において病気が新しいとすることができるようである。前章においてある種のウイルス疾患について実験的に起こすことができた変化はこのことに関係している。
 1840年以前に小児麻痺の流行が起きたという信頼できる事実は無い。もしもこのように特徴ある病気が流行したならば17世紀や18世紀の文献に見つかるであろう。脳炎(眠り病)について18世紀より前に存在したという信頼できる事実は同じように発見が困難である。1712年にビールマーはテュービンゲンで脳炎の流行を研究した。これは傾眠と脳症状を伴うので俗に「眠り病」として知られたものであった。ル・ペケ・ド・ラ・クロテュールらが1769年に観察した「傾眠性昏睡」も同様のものであり1917年の病気と同じようにインフルエンザと関係していた。同様の病気が18世紀の最後の10年に、1800年にリヨンで、1802年にミラノで起きたことをオザナムは述べている。これより後は1917年まで同様の病気の信頼できる事実は見つからない。1917年にインフルエンザの最初のかなりな流行と同時に一連の脳炎例がウィーンで起きた。これにすぐ続いてフランス、英帝国、アルジェリアで起きた。次いで1918年後半に北アメリカに見られ1919年5月までに20州から報告があった。例数が多かったのはイリノイ、ニューヨーク、ルイジアナ、テネシーであった。どう見ても我々の世代における新しい病気であり今日までこの嗜眠性脳炎は他の動物への感染に成功していない。1924年に臨床的に似ているがもっと重篤な病気が日本に出現した。以前に報告されていたものより重篤な点が違うだけであったがウサギに感染させることが成功したので新しい異なった型であることが確定した。1932年夏に脳炎がシンシナティ市やオハイオとイリノイの一部に起きたが現在では分類されていない。1933年夏に同様な病気がセントルイス周辺に起きて数月で約1000人が罹り20%が死亡した。この病気のウイルスは他と違ってマウスに感染させることができた。従って僅か20年のあいだに中枢神経系の重篤なウイルス疾患の少なくとも3つの新しい型が出現した。
 種痘はジェンナーのときから数百万人に実施され現在の世代より前には神経系の障害は起きたことはなかった。しかし最近20年に世界の幾つかの場所で種痘後脳炎が起きていて実験的にワクシニア・ウイルスが動物で「向神経性」になることが知られているので確かではないがこれらの稀な例において特殊な環境においてワクシニア・ウイルスが中枢神経に侵入したのでは無いと言うことはできない。このような状態は稀にしか起きないので種痘の実施に反対する根拠にはならない。ところがこれは新しい病気のようと思われるのでここに引用する。実際、判っていない環境で多くのウイルス感染は中枢神経系の障害を起こすことがある。このようにして脳炎は麻疹、天然痘、風疹、インフルエンザ、に引き続いて起きることがあるしオウムの病気であるオウム病や「跳躍病」と呼ばれる病気を研究しているときに起きる実験室感染で脳炎類似の状態が起きる。
 神経系の感染症を文献で探していると人間の苦しみを示す中世の「聖ヨハネの踊り」、「聖ヴイトゥスの踊り」、「タラント踊り」などの踊り狂いダンシング・マニアを見逃すことはできない。これらの奇妙な発作は以前に聞かなかったわけではないが黒死病の恐ろしい苦痛の後で普通になったものである。多くのばあい踊り狂いは流行性の神経系感染症と関係づけるような特徴を持ってはいない。これらはむしろ現在では考えられない程の抑圧、飢え、悲惨さに苦しめられた集団における恐怖、絶望に引き起こされた集団ヒステリーのようである。絶え間のない戦争や政治的・社会的な崩壊の悲惨さの上に逃れることができない神秘的な死病の恐ろしい苦悩が加わっていた。人類は防ぎようのない恐怖と危険の世界に閉じ込められたように助けなしの状態であった。超自然の力によって押しつけられたと信じている苦悩で竦んでいる当時の人たちにとって神と悪魔は生きた概念であった。このような重圧に押しつぶされている人たちは精神的錯乱へ向けて逃げる以外に避難路は無くこの時代には宗教的熱狂に向かった。黒死病の初期における集団的な精神異常は鞭打ち信者の教団に明らかであり彼らは信徒会を作って市から市へ彷徨った。後に暫くのあいだユダヤ人迫害になったことがある。ユダヤ人は病気を広めたとみなされていた。シヨン(スイス)のユダヤ人にたいする裁判に続いて中央ヨーロッパ全体でかなりの暴力行為が起きこれは集団狂気の1つであって踊り狂いはその表現であった。これらの熱狂は現代の文明社会のバランスを崩した政治的・経済的集団ヒステリーのあるものに多くの点で似ている。ヨーロッパのある部分では(1次)世界大戦に続いて中世にみられた状態に似通っていないことはない飢饉、病気、絶望が起きた。明らかな理由があって我々の時代には宗教的ヒステリーが経済的・政治的なヒステリーで置き換えられている。ユダヤ人迫害だけは両方に共通のようである。
 これらの発生の大部分は純粋に機能的な神経障害のようであるが一部は流行性の神経系疾患の始まりかも知れない。我々は今ではこれらの疾患の中に小児麻痺そのほか種々の脳炎が含める。1027年にドイツのコルビッヒという村で農民のあいだにある病気が発生した。これは狂的なケンカ、踊り、浮かれ騒ぎ、で始まり昏睡に進行し多くの場合に死亡し生存者は嗜眠性脳炎の後遺症である「パーキンソン症状群」に似た永続性の震えが残るものであった。ヘッカーは信頼できる歴史的記録の詳細な記述をしている。1237年にエルフルトで100人以上の子供たちに踊りと凶暴の発作が起きこの場合も多くが死亡し生存者には永続性の震えが残った。最も重篤な踊り狂いは1374年に黒死病の発生に伴って起き最初はエクス・ラ・シャペル(*アーヘンのフランス名)間もなく北海沿岸低地帯でリエージュ、ユトレヒト、タンジュール、ケルンと続いた。男、女、子供はすべて自制心を失い手と手を繋ぎ疲れて倒れるまで街で踊った。彼らは叫び幻影を見て神に呼び求めた。運動は広範囲に拡がり今日の野外伝道集会や福音伝道者による集会と同じように興奮しやすい多数によって真に苦しむ者の数が増加した。しかし多くの例のうちには身体病もあったに違いない。腹部の膨満や痛みのあり踊り狂うものの中には腹に巻き布をしていたとしばしば記載されていたからである。多くは悪心、嘔吐、麻痺で苦しんでいた。この状態は広範にわたっていてパラケルススが詳しく書いているのは当然なことであった。彼はこの病気を3つに分類したがこの体系は現状で述べるほどの重要性は無い。
 多くの記録者たちがタランテュラ(クモ)に噛まれたために起きたとしているイタリアのタラント踊りは同じ種類のものであった。これはたぶんクモに噛まれたこととは関係が無いであろう。15世紀中葉にペロッテ、16世紀および17世紀にマティオロおよびフェルディナンドスの記載はタラント病の多くの例がたぶん神経病であり感染性のものだったことを示している。あるものは恐水病(狂犬病)にかなり似ている。狂的な興奮と激動に続いてメランコリーと鬱病状態になり死で終わるかまたは命にかかわらないときには半覚醒状態になり笑いと泣きを繰り返した。フェルディナンドスの記載によると不眠、腹部膨満、下痢、徐々に起きる無力感、黄疸が加えられていた。17世紀中葉には流行の形をとるこの病気は殆ど無くなった。シェンク・フォン・グラッフェンベルクは1643年に聖ヴィトゥスの踊りは洋服屋とか職人のような主として座業の人を襲ったとしている。この病気にかかると彼らは目的が無く走り回り頭を打ちつけたり水に飛び込んで溺れたりした。人によっては疲れた後で発作を繰り返した。多くは完全に回復することはなかった。
 ここに引用した大部分の事実はヘッカーから引用したものであり彼は踊り狂いに多くのことが含まれていることを示す中性の広範な抜粋を記載している。疑いもなく多くの始まりは恐怖のヒステリー様反応でありほとんど信じられない困難と危険のストレス精神的に参った打ちひしがれた哀れな集団であった。しかしペスト、天然痘などの大流行に続いて起きた流行性神経病もこれらに関連していたようであり第1次世界大戦において広範で重篤な流行病に続いて向神経性ウイルス病が起きたのと同様であったと思われる。
 発見または征服によって交通が行われるようになって地域が拡大されたという意味だけにおいて世界のある部分の集団にとって新しい病気は「新しい」。黄熱とデング熱は同種の蚊(ネッタイシマカ)によってヒトに感染するものであり長い期間のあいだ西インドおよび南アメリカに存在した。しかしグアデロウプと聖キッツに存在することを1635年にデュテルトルが記載しジャマイカにおける流行をモズリーが1655年に報告するまで黄熱存在の信用できる記載は西ヨーロッパの医学史になされていなかった。その時からこの蚊が存在するか生存しうる世界の多くの場所に全部ではないが黄熱病が出現した。オドゥアールが明らかにしたようにこの病気は天然痘とともに奴隷売買によって広範に分布するようになったと思われ西アフリカに黄熱病の流行中心が見つかるようになるとこの病気がアメリカから来たのか逆であるかは決定できないであろう。現代の真剣な問題になるのは感染の原因になる蚊は沢山いるがまだ感染していない地中海北アフリカと黄熱が根を下ろしている西アフリカ海岸の間のサハラ砂漠を越えての自動車および飛行機による交通である。
 デング熱に関する限り18世紀の最後の20年まで同じような流行病についての情報は無かった。その後になりヒルシュの研究によると多くの場所に続けて現れた。1779年にカイロ、1780年にバタヴィア(*現在名ジャカルタ)、同年にフィラデルフィア、1784年にスペイン、に出現した。1824年から1827年に最初の大流行がインド、西インド、カリブ海、から報告された。この時から地球上の多くの熱帯および亜熱帯で程度は違うが見られるようになった。デング熱は18世紀の新しい病気ではなくもっと前から気がつかないで存在していて初期のスペイン著作者によって軽症の黄熱病と誤ってみなされていたことは全く不可能ではない。
 野兎病と呼ばれるいわゆる「新しい」病気については別の問題がある。人口密度が高い地球上で20世紀にもなって昆虫や野生動物で知られていた感染体と接触するこおによって新しい型の感染にヒトが罹り得るだろうか? マッコイとチェイピンは1911年にジリス(地栗鼠)でペストに似た感染を見いだした。苦労をして彼らは、ペスト菌に似てはいるが適当な方法を使うと容易に区別できる桿菌を分離することができた。ヒトの感染が最初に証明されたのは1914年のことであった。フランシスはこの病気を「トゥラレミア」(野兎病)と名付けた。この病気を最初に発見したジリスはカリフォルニアのトゥーレアリ郡から来たためである。ヒトの症状に詳しくなった後になって彼はこの病気が1907年にアリゾナで1911年にユタで報告されていることを発見した。この時からこの病気はメイン、ヴァーモント、コネチカットを除くすべての州で見つかった。自然でこの病気はロッキー山脈の州のジリス、野生のイエウサギやノウサギ、ロスアンジェルスのノネズミ、カリフォルニアの野生マウス、日本、ノルウェー、カナダの野生イエウサギ、ロシアの水生ネズミ、カリフォルニア、モンタナのキジオライチョウ、ライチョウ、マガモ、感染である。自然で感染しない動物の多くは実験的に感染させることができる。ヒトは感染した動物の組織に直接に触れてこの病気に感染する。とくに狩猟者や肉屋のようにすべて感染した動物を取り扱ったり皮を剥いたり皮を鞣す人たちに見られる。感染は皮膚の小さな傷を通して起き汚染した手で目をこすり込んで起きる。ほとんどすべての野兎病研究者はこの病気に罹ったことがある。動物のあいだでこの病気は血を吸う動物、主としてダニとハエによって感染する。ヒトにはアブや森林ダニに咬まれて伝染する。病気はダニからダニへ伝わるようなのでダニは感染動物を咬まないでもヒトに危険である。このようにもう1つの動物病がある。これは少数の人たちに長期わたって感染を起こしていて動物には数世紀のあいだ存在したが20世紀初めまで人間にとって危険ではなかった。
 マルタ熱と密接な関係のあるいわゆる「流産型」波状熱の例では現代以前に認められていなかったのは以前の診断法がやむを得ないことではあったが不正確だったためである。臨床的に似た熱疾患はヒポクラテスに知られておりマルタ熱そのものはたぶん昔から存在していた普通の熱病をマラリアおよび真の腸炎発熱から鑑別診断をするために18世紀初期に記載された。しかし波状熱ブルセラ、ウシに流産を起こすバング菌、ブタから見つけられた菌、のあいだの類似性が認められたのは最近のこと(1918)であった。また罹患雌牛の乳、ブタまたはその肉の取り扱いによって、ヤギの乳により地中海で伝染するのと似た病気が1922年に細菌学的な方法で決定された。このとき以後にこれらの病気はアメリカおよびヨーロッパの多くの場所で公衆衛生の問題となっている。しかしこれらは進歩した診断法によって古代から存在している病気グループから新しいサブグループを「切り出」したという意味だけで新しい病気であろう。
 いわゆる「新しい」病気の出現を評価するのは多くの落とし穴を伴う。主として不確かな歴史データと比較的に原始的な嘗ての診断方法が落とし穴である。それにもかかわらずこれらの問題についての非常に表面的な討論ですら感染症は静的なものではなく寄生体と侵入された種とのあいだの関係の絶えざる変化に依存するという我々の命題を支持しこれが臨床的および疫学的の両者の現れ方に変化を起こしている。嘗て蔓延していて詳細に記載されていたが変化を受けたり局部的または完全に消失した感染をもっと細かく調べることによってこの法則はもっとかなり正確に証明されている。このような例でこの推論をかなり精密に行う証拠を我々は持っている。
 これについての興味深い例は腺ペストおよび肺ペストのヨーロッパからの消失である。黒死病は主として腺ペストであって戦争、地震、洪水、蛮族侵入、十字軍、第1次世界大戦とともに歴史の重大な災害である。ヘッカーによるとヨーロッパ全人口の約4分の1すなわち2500万人が死亡したと言われている。この結果として道徳的、宗教的、政治的な崩壊が起きた。この疫病はドイツ人が「疫病飽和」すなわちある集団がある感染症によって完全に飽和していることに名付けた生物学的現象の典型的な例である。もちろん後でのべるように14世紀以前にもヨーロッパで恐ろしいペストの流行があった。しかしこれらは記録から話すことができる限りは黒死病のすぐ前には中央ヨーロッパや北ヨーロッパには達していなかった。感染への抵抗は進化論的な自然淘汰の意味を除いては獲得性質として遺伝することは無い。そして感染が数世紀にわたって絶えず起き感染したものの多数が生き残るのでなければ自然淘汰による抵抗増加は顕著でない。従ってヨーロッパに蔓延した黒死病は感受性の完全な集団を見つけることができたので激しい猛威をふるった。ヨーロッパ大陸を最初に攻撃した後で犠牲が欠乏すると黒死病は地方病になって新しい燃料が貯まって燃え上がるまでくすぶった。このようにして1361、1371、1382年に再び発生した。このように次々と起きる災害は34年の間でしかなかったがすぐ前の数年に完全に飽和していた集団に起きると疫病は次第に致死性の減少することが示されている。もちろん統計は不完全であったがヘーザーから引用しているシャラン・ド・ヴィナリオが残した記録はこの点で重要である。1348年に人口の3分の2は病気になり殆どすべて死亡した。1361年に人口の半分が病気に罹り生存者は少なかった。1371年には10分の1だけが病気になり多くは生存した。1382年には20分の1だけ病気になり殆ど全部が生き残った。この病気が続いて常に存在し新しい世代が生まれるとその大部分を襲うとペストは次第に局地感染で散発的になり死亡率も比較的に低下するであろう。15世紀になるとペストはヨーロッパに起きるが比較的に局地的になり比較にならないほど軽症になり徐々に減少し遂に1663年から1668年にヨーロッパで大流行になり1664年にはロンドンに達してデフォーおよびピープス(*暗号による性の露骨な日記で著名)が生々しく描写した。
 1661年にトルコで発生してギリシャ海岸と諸島にまず広がり急速に西の方向に次に東方向にはもっとゆっくりと進んだ。1663年にアムステルダムに達して20,000人以下の全人口のうちの10,000人を殺した。翌年には速度を増してアムステルダムで24,000人を殺しブリュッセルおよびフランドルに拡がり次いでロンドンに到った。1664年12月の最初の週に2人のフランス人がドルーリーレーン(*ロンドンの劇場街)で死亡したが6週間は報告が無かった。1665年2月に1例の報告があり4月まで中断。5月中旬までに大流行となった。ピープスは次のように書いた。

 この日(1665年6月7日)にドルーリーレーンで2、3軒の家でドアの上に赤い十字の標識があり「主よ我らに慈悲を」と書かれているのを自分の意志に反して見た。これは覚えている限り私が見た最初で悲しい光景であった。私自身および私の臭いが嫌になったので嗅いたり噛んだりするために捻りタバコを買って不安を除いた。

 チャールズ王はオランダ艦隊への勝利で喜んだが益々多くの家に恐ろしい十字が付けられるのを見て宮廷を市から移すことにした。3分の2の住民はロンドンから逃げ病気を最初はテムズ川沿いの市に拡げ最終的には全イングランドに拡げた。
 ペストは数年のあいだフランドルに留まり次いでウェストファリア(ドイツ北西部)、ライン川を下り、ノルマンディに入り、スイスおよびオーストリアには1668年に到達した。17世紀のあいだペストの行列は続きゆうに18世紀まで及んだ。ハンガリー、シレジア、プロイセン、バルト海地方、スカンディナヴィアに局部的な流行が起きた。1711年にブランデンブルクで215,000人が死亡しオーストリアで300,000人が死亡した。他の波は1720年および1721年にマルセイユからプロヴァンス地方を横切って拡がった。この後でペストは激しいが局地的に発生し18世紀の後半に続いたが次第に東方に追いやられて1770年から1772年にロシアおよびバルカンで起きた大流行も西方に進むことはなかった。ロシアとカフカスは1820年まで苦しめられ続けたがこのとき以後ペストの大流行はロシアより先に進むことはなく西ヨーロッパと呼ばれる地域でペストの大流行は起こらなかった。
 ペスト流行がヨーロッパから消失したのは疫学における解決されていない謎である。病気はこの間にヨーロッパおよびアメリカの種々の場所に繰り返して持ち込まれたが流行病として拡がる傾向は示さなかった。1899年にトリエステ、ハンブルク、グラスゴー、マルセイユ、ナポリに散発したが大部分はペスト流行地から到着した船の乗客や水夫たちが上陸した結果であることが示された。同様の少数の感染が南アメリカの幾つかの港で起きた。謎であったのは1903年にオーストラリアのシドニーで起きた感染である。1月にドック労働者がペストで死亡した。2月14日に波止場で死んだネズミが見つかった。2月15日にネズミと接触したことのある他の労働者がペストに罹って下船した。もう1人が2月26日に下船した。次の数週間に港に近いホテルの主人がペストに罹り6月末に市の郊外で孤立した数例が起きた。同じ年の4月にメルボルンで似た状態の散発が起きた。アデレードで同じことが起き郊外および市内でペストに感染したネズミが見つかった。この場合も流行は起きなかった。1900年にペストはニューヨークに運ばれ又も重大な結果にはならなかった。サンフランシスコのシナ人のあいだでペストの存在が1900年に見つかりカリフォルニアの種々の場所で広範に散発しこの頃から20世紀の最初の10年の終わりまで起きた。遅く1907年にサンフランシスコで24人のシナ人がペストに罹って下船しそのうち13人が死亡しオークランドとバークレーで幾つかの例が見つかった。同様にイギリスの港や中央ヨーロッパの大きな市でペストが見つかり1923年になってもペストに罹ったネズミがヨーロッパの大きな首都で発見された。しかし流行は起きなかった。
 説明として最初に考えるのはヨーロッパの人たちがかなりの抵抗力を得たことである。これがありそうでないことはインドその他の東洋のペスト流行地に住んでいるヨーロッパ人の感受性からみて明らかである。さらにこの変化をネズミ駆除の成功によるとすることはできない。ノミについて言うとノミの月すなわち9月に中欧や南欧を大名旅行ではなくて旅行したことのある人はノミが居ないわけでないことをよく知っている。すべて言い尽くされ為され尽くされたのにペスト流行が西ヨーロッパから消失したことの満足できる説明は存在しない。ペスト菌の感染性が高くラットが沢山いてしばしばペストに感染していていつでもノミがたかっているにもかかわらずペスト流行が消失したのは流行が起きるには多くの条件のデリケートな調整が必要であり西ヨーロッパとアメリカでは18世紀にこれらの条件が整わなかったとみなさなければならない。もっとも合理的な手掛かりはラットの屋内居住性が高まったことである。ヒトのペスト流行にはふつうラットのあいだの動物内流行が先行する。そして住宅、食物貯蔵、地下室などの条件が文明国では次第に発達しラットは嘗てのように街や村を移動しないようになっている。多くのラットが感染を免れる程度はその屋内居住性に直接に依存し、ラットが満足して家に留まれば留まるだけペストの感染源は個々の家族とか集団に限られるようになる。
 ペストの生物学と密接な関係があるのはハンセン病である。この病気は古代からよく知られ中世に著しく増加した。6世紀にはフランスにあるていど存在していたと考えられていたが、帰ってきた十字軍兵士によって広範に拡がったものとみなされている。11世紀の末にハンセン病患者の隔離施設レプロザリアが一般になった。最初1067年にスペインでルイ・ディアス・ド・ビヴァルによって設立されたものである。教会の後援によって同様の施設は数が増え規模が大きくなり、ルイ8世のときにはヘーザーによるとトロア教区だけでも19に及んだ。
 ハンセン病の話はペストと同じように広範な一区切りであってそれ自身で1冊の本になるであろう。我々の議論において興味あるのは15世紀中期以降にハンセン病は減少し隔離施設が次第に不必要になったことである。16世紀中期になると数カ所の流行中心地だけが残った。17世紀には実際上に消失した。医学史はこの減少を衛生状態の改良に基づく全く種々の曖昧な概念によって説明したがどれも適当とは思われない。この問題のしかるべき解決はシゲリスト教授との会話によって示唆された。シゲリストはハンセン病の消失を黒死病およびその第2波のときにおけるこの病人の高い死亡率に結びつけた。ペストがヨーロッパを襲って恐ろしく多数の人命を奪ったときに、多数たぶん大部分のハンセン病患者は施設に入っていて施設には感受性がかなり高く虚弱なグループが集まっていたであろう。シゲリスト博士が示唆したようにヨーロッパの大部分のハンセン病患者はペストによって一掃され生き残った少数は散らばっていてハンセン病の流行を起こす火花としては弱すぎたということは不可能でない。ハンセン病の感染性が弱いことから考えるとありそうなことである。我々は伝染方式をまだ理解してはいないが長期にわたる密接な接触のみによって新しい病例の生まれることを知っている。
 いわゆる「イギリス発汗病」は短時間の恐ろしい訪問によって人類を苦しませ次いで完全に説明無く消失した激しい流行病のうちで最も重要なものであったろう。「発汗病」は嵐のような速度で来て来たときと同じように突然に消えた。1485年の前にも1552年の後にも同じような熱病について何も言及されていない。ヘンリー7世がイギリス王になったボズワースの会戦後に、勝利した軍隊にある病気が流行し凱旋行列も完全におこなわれなくなった。除隊した兵士とともに病気はロンドンに運ばれた。会戦が8月22日でロンドンで病気が流行したのは9月21日であることから病気の伝播速度が推定できる。病気は東から西へ軍隊を離れた人たちによって遠くまで広範に拡がった。ロンドンでは最初の1週に2人の市長と6人の市会議員が死亡した。この病気は若く壮健なものを襲いこのことは後に述べるピカルディ発汗病に似ている。このイギリス発汗病の死亡率は高くホリンズヘッド(*英国の年代記編集者:1520?-80?)によると「病気に罹った100人のうち1人だけが命からがら逃げることができた。発汗病に罹るや否や死亡するか短時間で死亡した。」ヘンリー王の戴冠式は延期された。オクスフォードではリナカー(*医学カレッジの創立者)が学生であり流行が激しいので教授や学生は大学から逃げ大学は6週間閉鎖された。最初の流行はイギリス内だけでスコットランドにもアイルランドにも拡がらなかった。
 この病気の症状は多くの著者によって記載されていて些細な違いはあるが大要は一致している。とくに重要なのはジョン・ケイの記載であって彼の発汗病についてのパンフレットは1552年に発行された。この病気は前触れなしに普通は夜または明け方に寒気と震えで始まった。間もなく発熱と全身衰弱があった。これに伴って心臓の痛みと動悸があり時には嘔吐、激しい頭痛、人事不省が見られたが譫妄は稀であった。一部の著者は発疹に言及していないが言及した記載もある。テュエンギウスがとくに言及していることはフォレストから知ることができる。彼によると発汗が終わると四肢に小さな小胞が現れ「融合はしないが皮膚をでこぼこにする」であった。この病気の特徴であった激しい発汗は発熱のすぐ後に始まった。死は驚くべき速さで来た。多くの例ではその日のうちに死亡し時には数時間内に死亡した。1度罹っても免疫は得られなかった。多くの人たちは短期間に2回から3回も罹ったからである。
 短いが激しい流行の後で病気は完全に消え失せ1486年から1507年のあいだには何の言及も見つけることはできない。2回目の流行は1回目と似ているが信用できる情報は多くは得られない。これも夏に発生して今度はロンドンでありゼンフが示唆しているように流行の沈静期にこの市に地方病として残っていたことは無いとは言えない。
 1518年に3度目の流行があり激しかった。再びイギリスに拡がりスコットランドとアイルランドは免れた。しかし今回はヨーロッパ大陸に達したが沿岸都市カレーまでのみであって、不思議なことにイギリス人以外は罹患しなかったと言われる。再び多くの患者は2〜3時間のあいだに死亡しオクスフォードとケンブリッジの重要な人たちが死亡した。町によっては人口の3分の1から半分が失われた。
 発汗病は流行と流行のあいだにエネルギーを蓄えたようで最も激しい流行は1529年のものであった。これは5月に再びロンドンに起き恐怖は大きく社会は混乱し農業は中止され飢饉が訪れた。病気は海を渡ってヨーロッパ大陸に拡がり最初はハンブルクで報告された。これは7月に到達したものでイギリスから帰ってきた船によると考えられた。同じ月に東部ドイツを通過してリューベックとブレーメンに達し8月にメックレンブルクに9月にケーニヒスベルクとダンツィヒに達しここから南に進んでゲッチンゲンに達した。ここでは死者が多く1つの墓に5人から8人の死体を葬ることになった。この時に記載している人たちの多くが不思議に思ったのは低地帯、ハンブルク、イギリスの間で海による交通が盛んであったにもかかわらずこの病気が低地帯(オランダ、ベルギーなど)に達するのはハンブルクに比べて4週間も遅かったことである。マールブルクでは宗教改革会議がこの病気の流行によって中断された。アウクスブルク(*アウクスブルク信仰告白は1530年6月)では15,000人が最初の5日間に罹患した。ウィーンに達したのはスルタン・スレイマーンが市を包囲していた間で流行は包囲の解除と関係があったかも知れない。少し後でスイスに達したがフランスには侵入しなかった。
 5番目で最後の発汗病流行は1551年に起きた。再びイギリスで今度は4月にシュローズベリー(*イングランド中西部)で始まり数日間に900人が死亡した。ヘーザーの言葉によると「有毒な雲の霧がただよう」ように州全体に拡がった。この病気が以前にカレーにおいてイギリス住民だけに限られたことに対応してこの時になされた不思議な観察はイギリスにおいて外国人は罹らないで済んだことであった。しかし5番目の流行は他の国に住んでいるイギリス人にも及んでいるようで多くのイギリス人がフランスや低地帯で死亡した。1551年の流行はケイが有名なパンフレットに記載したものであった。私が他の人たちと同じように次に述べる病気をピカーディ発汗病であるとしないならばゼンフの情報によるとこの時以降に1度だけイギリス発汗病に似た病気が起きたことになる。5番目の流行の250年後すなわち1802年にフランケン(*マイン川流域)のロッティンゲンで似ているけれど地域が限られていた病気が出現した。
 この発汗病を現在ある流行病のどれかと同一とすることは不可能である。同時に起きているということだけでシュヌラ――その他はこれを発疹チフスの変化したものと信じていたし、ゼンフが指摘しているようにその当時に発疹チフスが流行している地域には拡がらなかったことは事実である。しかし発疹チフスの変種であるとするこの意見は納得できない。この病気は全く個人の状態であって、今日再び現れても知られている感染症にしかるべく分類することはできない。この病気の突然の発症と急速な死は脳膜炎や小児麻痺の特別な例を除いて今日のどんな病気よりも激しい。蔓延の速さや様式はインフルエンザに似ているが顕著なカタル症状は明らかに欠けているし2次的な肺炎死は存在せず短時間に次の流行の波が来ないことから現在のインフルエンザと容易に区別することができる。一般的な性質から現在知られていないようなウイルスによると見なすことができるであろう。発汗病は数世紀のあいだ大陸で広く軽症で存在したウイルスによるものでイギリスでは感受性が十分にある地域で拡がったと推測するのは筋が通っている。この病気がイギリス人に特有で外国に住んでいるイギリス人でも同様であるという繰り返して行われた観察を説明できる唯一の基礎である。小児麻痺ウイルスが現代人の集団に広く蔓延しているのに成員の大部分は大人に成る前に感染していて明らかな病状を示さないことにたいして我々がどうしているかを知っている。したがって種々なウイルス感染は最終的には広範に拡がり時が来ると全人口が免疫を得て最初は流行病であった病気が最終的に地方病になり変化し軽症になり最後には消失すると考えるのは根拠の無いことではない。この種類のことは麻疹、小児麻痺、インフルエンザのような病気で起きている。これらの病気は我々にとっては地方病であるが、原始的な人々のあいだに持ち込むと破壊的で激しい流行病となる。
 青空から突然に現れ200年以内に完全に消失したもう1つの病気はいわゆる「ピカルディ発汗病」である。この病気とイギリス発汗病の間やいわゆる「軍隊熱」との間に幾つかの混乱が存在した。軍隊熱には多数の既知の発疹熱病すなわち麻疹、猩紅熱、水痘などが含まれていたようであった。これらの問題についての議論の多い厖大な文献を展望することは不可能である。しかし現在拡がっている発疹熱病と全く違う特殊な病気が1718年に突然ノルマンディに現れ数年の間にポアトゥー、ブルゴーニュその他の北部フランスに蔓延したことを示す正確な記録が存在する。ヒルシュ、ヘーザー、オザナムなど指導的な医学史家は1718年以前にこのような病気がヨーロッパの他の地域に存在したか否かについては意見が異なる。ヘーザーはこれ以前にこの病気の中心がアルザスおよびトリノにあったと信じている。しかし病気発生の記載は1718年以前には正確でない。大部分の研究者たちは流行地の問題は別としてピカルディ発汗病とイギリス発汗病は前者における発疹および激しい精神症状によって区別できるということで同意している。
 この病気の徴候は種々の場所において長い期間を置いて観察され幾つかの優れた記載がなされていてこの病気ははっきりとした臨床的な存在として確定されている。最初の1つの記載は1718年の発生についてベロー博士のものである。これは1759年のギーズにおける流行についてヴァンデルモンド博士が報告したものと殆ど正確に一致している。
 発症は突然であり寒気、腹痛、呼吸困難をしばしば伴った。激しい頭痛、高熱、不眠が続きしばしば非常な興奮を伴った。12時間から24時間で激しい発汗が始まり普通は激しい痒みを伴った。最初の48時間に発疹が認められた。これは麻疹に似ているとか丹毒に似ている(猩紅熱の発疹のような均一の発赤を意味すると思われる)などと記載されている。鼻血はしばしば見られ激しかった。致死的な例では譫妄状態が起きしばしば痙攣を伴って死亡した。多くの患者は1日から2日で死亡した。
 1718年以降から19世紀中葉までフランスで局所的な流行が起き最初は間隔が短く後にはあまり頻繁では無くなった。この時期の後になって同じような発生が北イタリアおよび南ドイツで起きた。ヒルシュによるとフランスで1718年から1804年の間に全部で194の流行があった。伝染の形式とか流行発生の原因とか衰退の理由は何も知られていない。ボイヤーは1751年にこの病気は接触感染ではないと宣言した。ある患者から他の患者への伝染の証拠が無かったからである。大部分の観察者はこの意見に同意している。
 同じように激しいほとんどすべての他の病気とは違ってピカルディ発汗病は個々の流行に限局されていた。流行発生の大部分は個々の村か町に限られていた。幾つかの例のみで局地を越えて流行し1例か2例でフランスの離れた部分が襲われた。個々の流行が数月以上続くことは稀であった。
 この病気の本態について信用できるような意見を言うのは不可能である。現代の分類のどのカテゴリーにも当てはめることはできない。ある点では急速に致死的な猩紅熱に似ているが激しい咽頭の感染の事実が無いのでこの同定は不可能である。明らかに麻疹でも天然痘でもない。ピカルディ発汗病の致死的で劇症の例から思い出す唯一の感染症は髄膜炎流行のときに見られる悪性の髄膜炎菌感染である。このような感染はしばしば第1次世界大戦のときに野営地で見られた。突然の発症、全身の発疹、発汗、高熱、および急速な死亡、しばしば譫妄と痙攣を伴う徴候は、劇症ピカルディ発汗病の記載に似た臨床像である。2つの感染で似ているのは症例間の関係が追跡できないこと(隠された接触)および蔓延が限られていることである。しかし大部分を占める軽症は髄膜炎菌感染とは全く似ていない。ここで我々が取り扱っている病気は独特なものであるか時とともに変化して現在は知られていないが残っている病気かのどちらかを取り扱っているとだけしか結論できない。悪寒戦慄を伴って突然に発症し1日か2日で急速に発疹が起きるので発疹チフスではないと断言することができる。しばしば注目されている激しい痒みも発疹チフスでは見られない。さらにピカルディ発汗病が最初に起きたのは現在の型の発疹チフスが数世紀にわたって知られていた時期であった。
 ピカルディ発汗病に似た状態の独立した例がフランス医師によって報告されている。これが間違いではないとしても1870年代以降にはこの病気の流行は限られた程度でさえ起きていない。


第6章

古代世界の病気:古代世界を襲った流行病の診断を試みてこれらの病気について考えてみよう。千年経っているので診断するのも診断を否定するのも同様に困難である。この試みはチフス熱の伝記に入るのをまたもや不必要に引き延ばしているように見えるがチフスが古代からあったかどうかを決定する努力である。

 細菌性疾患が出現の最初からより高等な生物を襲ってきたことは疑う余地が無い。
 ウィーン博物館には歯および顎に大きな膿瘍のあったことをはっきりと示す徴候を持つ前史時代のクマの化石がある。リーゾナーは前史時代の動物化石における細菌性の変化についての幾つかの記載を古生物学の文献に見つけている。二畳紀の爬虫類ディメトロドン(*2100万年前)の化石に脊骨の骨髄炎の存在をギルモアが記載したと彼は述べている。またアウアーが記載したジュラ紀のワニ(*1400万年前)に骨盤の感染徴候があり大腿骨、仙骨、口蓋に転移があったとしている。虫歯の徴候や関節のリューマチ性腫脹と思われるものの徴候がガルノーやムーディなどによって数多くの化石に見つかっている。骨の壊死およびそれに続く過骨化の証拠は化石に稀ではない。
 原人について多くは知られていない。ただフランスの新石器時代人の骨に変形性脊椎炎の例と膝関節炎を記載しているだけである。しかしこれらの化石の年代については疑いが持たれている。ヒトの古生物学的文献は数少ないのでこの問題についての直接な情報は殆ど無い。しかし細菌が数百万年前に炎症を起こすようになった事実は充分にあるのでヒトが本当に初期から感染症に罹っていたことを疑う理由は無い。そして人類が最古の歴史記録の時代に到達したときには種々の感染症が存在していた。診断はしばしば困難ではあったがキリスト紀元前数千年に疫病が流行っていたことは確かである。
 古代医学文献における種々の感染症を診断するにあたって多くの困難に出会う。記載に用いている言葉が異なる関係においてしばしば使われている場合を除いてその意味を正確に決定できないためであった。たとえば皮膚発疹の本態について正確な感じを得ることはしばしば不可能である。使っている言葉は表面の隆起、小胞、膿疱、潰瘍のうちでどのように訳すのが正しいかを知るのはしばしば困難だからである。
 シナの文献には流行した病気の本態について西欧の研究者が意見を持つことができるような記載は殆ど存在しない。天然痘や幾つかの発疹がシナに始まりペルシアと北アフリカを経てヨーロッパに達したことは不可能ではない。しかしワイズおよびムアが発表したこの見解も根拠は極めて薄弱である。ムアはシナの最古の医学文献をもとにして天然痘は周朝にシナで流行したと信じスミスは紀元前200年ごろ漢朝で天然痘がインドから持ち込まれて流行したとメディカル・タイムズ・アンド・ガゼットの1871年の論文に根拠を引用している。
 インドの古典アーユル・ヴェーダ(*時代不明。紀元前200年以前であることは確か。部分的には紀元前900年)およびスシュルタ(*7世紀ごろ)の著作には破傷風および舞踏病と思われるものの記載がなされている。種々の熱病が知られていてあるものはマラリア、リューマチ熱および多分ハンセン病クシュタであった。かなり正確にコレラと解釈される腸疾患がよく知られていた。ワイズの訳書を研究したヘーザーはカタル性黄疸(*=ウイルス性肝炎)、淋病、たぶん結核の証拠を見つけ出している。スシュルタの著作にヘーザーが梅毒性ではないかと考えている外性器の潰瘍の記載があることは特に興味深い。
 古代エジプトの病気についてはパピルス・エベルス(紀元前1700年ごろレ・セル・カ王の時代に書かれた)から多くの情報が得られる。感染症としては「フマオウ」と呼ばれた丹毒のような病気(主としてロバの糞で治療された)および腸内寄生虫、種々の眼病があった。マーク・ラッファー卿、エリオット・スミス博士、ウッド・ジョーンズ博士はミイラを調べてポット病(*結核性脊椎炎)の証拠を示し20王朝(紀元前1200年ごろ)のミイラに天然痘を思わせる皮膚の斑点が見られる。同様の発疹がラメス2世の身体と顔に見いだされた。ラメス5世の鼠蹊リンパ節のプーパル靱帯(鼠蹊靱帯)の部位に三角形の潰瘍が見られ、ペストの横痃よこねか性病(王の病気)であろう。内臓を取り出していないミイラでラッファーはマラリアによると思われる巨大脾臓を認めた。
 旧約聖書に書かれている病気としてギャリソンは「医学史」に淋病、ハンセン病および乾癬と思われるものを要約しサムエル書にはペストと思われる鼠蹊リンパ節の腫脹が書かれている。タルムード(ユダヤ教律法書)には結核と考えられる肺疾患、腎臓膿瘍、女性生殖器の感染症が記載されている。
 エホバは哀れなペリシテ人にたいしてかなり残酷だったようである。サムエル記上4章によるとペリシテ人はユダヤ人に勝って公明正大と思われる戦いで3万人を殺した。ペリシテ人の勝利はヘブライ軍が逃げて天幕に隠れようとしたことによって容易になった。勝利者は神の箱を取って(サムエル記上5章)自己の神ダゴンの神殿に運んだ。ダゴンは半人半魚なので頼りにならなかった。ヘブライ人の神はダゴンを打って手を切り落とし台座から投げ落とし地面にうつ伏せにした。このことはアシュドドのペリシテ人を怖れさせ神の箱をガドに返した。そこで「神の手は町に向かって大きな破壊をもたらした。神は町の人々を小さい者も大きな者も打ち彼らは隠し所にエメロドを持つようになった。(*新共同訳:はれ物が彼らの間に広がった)」、「神の手はそこでは厳しかった。死ななかった人はエメロドによって打たれた」これによって現在の言葉で言うと「ナチ運動」(反ユダヤ運動)があらゆる時代に起きるようになっている。しかしエメロドが何かは神のみが知っている。文字通りには痔核ヘモロイドである。この2つの不愉快な言葉の語源的な関係は明らかである。しかしペリシテ人の間で痔核の致死的な流行が起きたとは考えられない。「エメロド」と訳されているのは「オファリム」と「テハリム」であり腫れものとか丸い隆起を意味している。仲間の学者によると「エメロド」の訳は詩編78章の66節との対比によるそうである。ここで神は敵の「後の部分」を打ったとある。この対比は極めて古くてタルムード資料とアラム語訳に由来している。「オファリム」は他の訳者によると単に丸い隆起した場所を意味している。ヘイスティングズはその「聖書辞典」で「エメロド」は痔核であることを信じないで腺ペストに結びつけている。したがってこれらの言葉が陰部の腫脹を意味するものとすれば論争は患部が前方か後方かの問題になる。正確な診断を行うには資料が不充分であるが流行の広がりや高死亡率から考えると丸い腫脹はペストではないかと考えられる。
 ダビデの時代に禁じられた人口調査を行った罰として重い流行病が起きて7万人が突然に死亡した。これらの人々の大部分は1日で死亡したと考えられる。この病気の本態は何も知られていない。
 ヨセフスが記載した古代ヘブライ人の流行病のうちどれも診断を推測できるほど詳細では無い。エジプト人を襲った病気のうちで1つは汚染された水によるもので大きな苦痛を与えた。他の1つは大量のシラミが身体から出てきた(患者の大部分は死亡したのでチフスのようなシラミが媒介する病気が考えられるが発疹チフスについて他の地域における歴史データが存在しないので発疹チフスとは考え難い)。他のもう1つの病気は致命的な「せつフルンケル」の流行である。他国家のユダヤにたいする公明正大な戦いが他国民にとっては偏見を持ち残忍なものと見られたに違いない神の介入によって常にヘブライ人の勝利になったことは聖書の歴史において繰り返された事実である。反ユダヤ主義をすべて宗教間の衝突によって説明するチェンバレンの意見をこのことが大きく正当化していないことはあり得ないだろう。ユダヤ教の教えは古代世界に広く知られていたしユダヤ人は他の民族にたいして百合のように潔白ではなかったと思われる。ユダヤ人に対立する人たちにたいする神の恐るべき報復を信ずるとしたら憎悪と怨恨は容易に理解されるであろう。
 ギリシア時代以前に起きた感染症の解釈は多くの場合に主として当て推量である。しかしギリシア人からは大量の正確な記載が得られるようになって彼らのあいだに起きた病気の症状、臨床徴候およびしばしば疫学についてわれわれは合理的な意見を持つことができるようになった。ヒポクラテス以前にも多くの医学情報があるが我々の興味を持っている流行病にたまたま関係があるに過ぎない。テッサリア王でアポローンの息子であるアスクレピオスは主として神話の人物であるが後世の彼の崇拝者たちは感染についてかなりの知識を持っていたようである。このことを示すものとして神殿は隔離した場所に建設されデロスにおけるように屍体を神殿の近くに埋葬することは法律によって禁じられていた。デモクリトスは流行性と思われる病気を記載しエムペドクレスは山中の裂け目を閉ざすことによって川からの瘴気を抑えた。デモクリトスは人類に害を加える流行病は天体が破壊されて燃えかすが地面に落ちたためと信じていた。アルクマイオンは篝火を焚くことによってアテネの流行病を抑えた。しかしヒポクラテスの時代までギリシア人の間ですら古代の診断についての資料は存在しない。
 ヒポクラテスは古代における最初の偉大な医師ではなかったようである。実際のところエジプトでは多くの器用で賢明な医師が医術を行っていた。ヘロドトスによると彼らはしばしば身体の1つの器官だけを対象にしていたので今日よりも専門化していた。歯科医が居たし内科医および外科医が居た。しかしヒポクラテスはわれわれと全く同じように医学の問題に近づく記録と著作を与えてくれた最初の偉大な医師であった。実際のところ「疫病論」に与えている症例の記載は極めて詳細であって彼が病歴から得た診断よりももっと正確な診断をすることができるほどである。
 ギリシア人たちは多種多様な感染症に罹っていた。野外で生活し良い気候で暮らしていて最初は人口密度がそれほど高くなかったので初期の感染症の発生は歴史家が気づくほどではなかった。医学に興味をもつ読者はホメロス時代、スパルタとアテネの市民間の初期の争い、ペルシア戦争、におけるギリシア軍について流行病の重要な記載がなされていないことに驚く。軍隊は大きくしばしば急速に移動していて病気があったに違いない。しかしヘロドトスにしろ他の人たちにしろこの時期を扱っている著者たちは誰でも予想するのが当然な広範囲にわたる疫病による死亡についてどの箇所においても述べていない。当時このような病気発生は感染性の病気に襲われたとするよりは怒った神の罰として考えたという事実が原因だったのかも知れない。
 ヒポクラテスが書いている時代にターソス島でピンク・アイ(はやり目)に似ている目の炎症の流行が述べられている。細菌性赤痢を否定することができない、発熱、しぶり、水様便、嘔吐、発汗を伴う下痢が見られた。主として秋および冬のはじめに起きる持続性の発熱の一部は明確に四日熱型、三日熱型、夏秋型のマラリアであった。24日またはそれ以上も続く発熱は時には非化膿性の耳下腺腫脹を伴い腸チフスと正しく診断することができる。経過中にしばしば解熱する性質および古代ギリシアには雄ヒツジを崇拝する宗教があったことからマルタ熱(*波状熱)と診断してよいものもあった。軽度の発熱、死亡しないこと、両側の耳下腺腫脹、乾性せき、ときに睾丸の腫脹、のように間違いなく流行性耳下腺炎を示す記載がある。せき、熱、しばしば譫妄を伴う咽頭炎は猩紅熱かジフテリアであろう。
「疫病論」にはかなりの数の病歴があり今日の病歴と同じように日を追って毎日くわしく記録されていて診断をこれに基づいて行うことが可能である。多くの例においてヒポクラテスの観察は詳細であって我々はしばしば現代の知識から感染の正確な形を与えることができる程であり個々の病気の原因となっている微生物を当てはめることさえできる。外科が関係しない病気についてヒポクラテスは現在の一般開業医すなわち「家庭医学相談相手」が多くの保守的な人たちに同意し旧式な方法を使って我々を検査室業務から解放しているのと同じ役割を果たしたようである。
 ヘロポントスは急性熱疾患にかかり、液状胆汁色の便通、しぶり、腹痛を訴えた。5日目に譫妄状態になり発汗し液状便が続いた。9日目に激しい発汗を伴って解熱し7日後に再発した。ヘロポントスは細菌性赤痢または腸チフスかパラチフスまたはコレラに罹っていたのであろう。しかしこの例は孤立しているのでコレラではなかったであろう。
 溶血性連鎖状球菌は今日と同じように恐ろしいものであった。ピリノス夫人とドマデオス夫人は今日では産褥熱と呼ばれる病気で死亡したことは疑いの余地がない。
 エピクラテス夫人は出産の2日前に咽頭痛が起き21日にわたって発熱が続き完全に回復するのに80日かかった。彼女は腸チフスまたは亜急性連鎖状球菌症に罹ったのであろう。
 ターソス島のクリトンは足の親指に急な痛みを感じその晩に発熱し譫妄状態になった。翌日に足は赤く浮腫状態となり黒い斑点が生じ脚は腫脹した。彼は2日後に死亡し足指の爪が食い込んだことによる悪性の連鎖状球菌によって死亡したことは間違いないであろう。クラソメニアの人は間違いなく腸チフスにかかった。
 妊娠3月の婦人(第1の書の病歴13)は突然に背痛に苦しみすぐに熱、頭痛、頸および右手の痛み、言語障害を覚えた。昏睡が5日目に起き右手および右腕が麻痺した。14日目に回復したときに麻痺が残ったかどうか記載は無いが全体的な症状から急性前角灰白髄炎(小児麻痺)または新しい病気と考えてきた嗜眠性脳炎かも知れない。
 名称不明の男が急性虫垂炎または胆嚢炎と思われる病気で死亡した。飽食の後で夜半に急な嘔吐、熱、右下肋部痛を訴えた。症状は続き痛みは全腹部に拡がり11日目に死亡した。黄疸に言及していないので急性虫垂炎ではないかと思う。ヒポクラテスが最初にどのように理学診断を行ったかは興味深い。この患者を最初に看たときに腹部硬直が無かったと記載している。硬直は後になって起きたのかまたはヒポクラテスさえも間違ったのかも知れない。
 その他の病歴として「ようカルブンケル」、丹毒、たぶんジフテリア、種々の型の麻痺、横痃の記載があるのでたぶんペストでないとは思われないもの、などがある。肺炎と胸膜炎、肺結核に似た肺の慢性疾患があった。リューマチ熱も知られていなかったとは思われないが記載は曖昧である。
 ヒポクラテスの病歴を調べる最初の目的は発疹チフスが初期に存在した事実を見いだすためであった。オザナムその他はヒポクラテスが発疹チフスを記載したと述べていて推定した事実は「疫病論」の第1の書の2番目の患者であるとされている。
 シレノスと呼ばれるこの人は「エウアルキデスの息子で舞台の近くに住んでいて疲労、大酒、過労の結果で発熱した。最初から背痛、頭痛、頸痛があった。」数日間いろいろな感染症で見られるように熱、腸管の症状、腹部圧迫感、不眠、譫妄があり特に発疹チフスの初期を思わせるものであった。7−8日目に激しい発汗があり、8日目に紅色の球状発疹が出現したが化膿しなかった。11日目に死亡した。頭痛、発汗、譫妄、発疹、発病と持続期間、は重症の発疹チフスを思わせるものであった。診断の真偽は主として発疹の性質により発疹の記載に勿論もっぱら依存する。重要な表現は「汗にまじって毛根に似た赤い発疹が生じた」であった。ここで οιον ιανθοι をファルは「小胞状」としド・メルシは「静脈瘤状」と訳した。ギュリック教授は私が古典語に興味を持っていることに好意を持ち次のように教えてくれた。「ヒポクラテスは他に ιανθοι 使っていないので彼がどのように使っているか調べることはできない。アリストテレス(動物誌5巻31ページ)によると ιανθοι(元来は毛根)は膿があっても無くても良いとされている。問題集36巻、3ページで何故これらが主として顔にできるかを尋ねている。34巻、4ページで「いぼ」(語源的には「あられ」または舌の結節)は ιανθοι(ヒポクラテスが言っているのと全く同じ意味)であると言っている。ガレノス(キューン版12巻824ページ)はフルンケルが ιανθοι と同じように皮膚の湿り気(汁と呼んだ)から生ずるものであって堅くざらざらしていることも炎症を起こしていることもあると言っている。炎症を起こしているときには発熱しガレノスはその治療に幾つかの処方を与えている。」したがってこれを発疹チフスの病歴とみなすのは全く推測である。同様な例の記載は存在しないのでこのような可能性は無いと私は考えている。
 このシリーズの10番目はクラソメニア人であってオザナムは間違いなく発疹チフスとみなしたが原文を詳細に読むと重症腸チフスのようである。
 したがってヒポクラテスの著作のどこにも間違いなく発疹チフスとみなすことができる記載は無い。他の古典時代の著者たちの著作を調べても発疹チフスを記載したと思われる例を見つけることは同じように不可能である。エウリポンはヒポクラテスと同時代人でクニドス学派の医師でありしばしば発疹チフスが古代にあったことを示す例として引用されている。ガレノス(キューン版17巻1ページ)によると「エウリポスはこのような熱を『蒼白熱』と呼び次のように書いた。熱は蒼白になり頭の頂上を襲い、繰り返して襲うことにより頭痛、腹痛が起きて患者は胆汁を吐く。痛みが続くと何が悪いか判らなくなる。腹が乾き皮膚は蒼白になり唇は黒い桑の実を食べたようになる。白眼は蒼白になり患者は首を絞められたようになる。病状が軽くなると病状はいろいろに変化する。」と。これはやはり今日われわれが知っている発疹チフスではなくコレラの激しい感染を生き生きと描いたものとして役立つであろう。
 しばしば発疹チフス発生の最古の流行記録とみなされているのはペロポネソス戦争(*アテネとスパルタの戦争:紀元前431-404)のときのアテネの疫病でありトゥキュディデスの「歴史」の第2の書に記載されている。
 古代に記載されている流行病を診断するにあたって同時に起きている他の病気を区別できないときには病気の大発生において大部分は1つの型の感染症であるにしても他の型の感染症が同時に起きているのがふつうである。1つの病原体が拡がりやすいときには他の感染も起きる機会があるからである。1つの病気だけからなる純粋な流行病もあるが非常に稀である。アテネの大疫病のときに多くの数の病気が流行ることによってトゥキュディデスの記載を複雑にしなかったとは言えない。流行の条件は熟していた。紀元前430年初夏に大軍がアテネに布陣した。国の人口はアテネに集まり非常に混雑していた。病気はエチオピアで発生したようでありエジプトとリビアを通り最後にピレウス港(*アテネの南西)に達した。急速に蔓延した。患者は青天の霹靂のように病気に罹った。最初の症状は激しい頭痛と目の発赤であった。続いて舌と咽頭の炎症が起き、くしゃみ、しゃがれ声、咳を伴った。この後すぐに急性の胃腸障害が起きて嘔吐、下痢、激しい乾きを伴った。譫妄がふつうに見られた。衰弱した患者はふつう7日から9日のあいだに死亡した。急性期を耐えた患者の多くは著しく衰弱し下痢が続き治療が効果なかった。熱が高いときに身体は赤っぽい斑点で覆われ、その一部は潰瘍になった。非常に重篤な患者が回復したときに手指、足指、外性器の壊死を伴うことが多かった。視力を失ったものも居た。多くのものは完全に記憶を失った。回復したものは免疫を得るので患者の看護をしても危険が無かった。完全な免疫を得なかったものは2回目に罹病したがそれで死ぬことはなかった。トゥキュディデス自身もこの病気に罹った。冬が始まってしばらくのあいだ流行は収まったが病気は再燃してアテネの国力は弱くなった。
 アテネの疫病が何であったにしても歴史的な出来事に深い影響を与えた。アテネの軍隊がペリクレスの勧告にしたがってアテネに猛威をふるっていたスパルタを追い出さなかった主な理由の1つであった。アテネの生活は堕落し精神が極端な無政府状態になった。嘗ては名誉とされたことが重要視されないようになった。トゥキュディデスは次のように言っている。「金持ちであったのが突然に死亡し以前には何も持たなかったのが突然に他人の財産を持つようになったのを見て運命の変化が如何に突然に起きるかを見た。」神の律法も人の法律も怖れなくなった。信心も不信心も同じことであり誰も神によって最終審判に呼び出されるまで生きることは期待しなかった。最終的にペロポネソス半島の人たち(スパルタ軍)は急いでアッティカ地方を離れた。アテネの市に閉じ込められていたアテネ人を怖れたのではなく疫病を怖れたのであった。同時に疫病はペロポネソス海岸を攻撃していたアテネ艦隊を追跡し遠征の目的遂行を断念させた。このようにしてこの2つの競合勢力間の戦争の期間や勝敗は軍隊の戦略や戦力だけではなく疫病によって左右されたと言うことができる。
 トゥキュディデスによるこの疫病は今日われわれが知っているどの単一の感染症によると言うことはできない。ヘーゼルは我々が知っているどの病気よりも発疹チフスに似ていると信じているしヘッカーはその後の数世紀のあいだに変化した発疹チフスであるとの見解を持っている。発疹は確かに現在の発疹チフスとは異なっていて天然痘に似ている。したがってアテネ疫病は確実に決定することはできない。1万ほどの比較的に小さな建物からなる混み合った市で大量の人口が流入することによる急速な蔓延は多くの型の流行病に一致する。発症、急速な呼吸症状、発疹の状態、その後の経過、は天然痘によるものと解釈することができる。
 アテネの疫病を診断しようとするにあたって疫病は数世紀にわたって広範な蔓延と休止を繰り返すことによって大きく変化するというヘッカーの示唆を真面目に考えなければならないことである。医学が流行病を相手にして得た最大の戦果の1つは流行期のあいだの休止期において病原体が人間の保菌者、屋内居住性の動物(とくに齧歯類)、昆虫、の体内でくすぶっていることの発見である。現代の細菌学は細菌やウイルスが異なる環境に適応するあいだに性質が変化することを示す点でかなりの進歩を遂げてきている。発疹チフスのグループでこのことは特によく研究されていて歴史時代において発達してきた発疹チフスおよび発疹チフス類似のかなりの数のものについて我々は知識を持っている。これについて別の場所でもっと詳細に論じられている。
 したがってアテネの疫病を分類するにあたって発疹チフス、腺ペスト、肺ペスト、天然痘を選ばなければならない。
 この病気をある種の発疹チフスとみなす理由は実際のところ私の考えでは存在しない。水疱または膿疱という言葉をどのように解釈されるにしても発疹は発疹チフスとは違って隆起していて後になって小胞になることはかなり確実なようである。とくに上気道の炎症症状と咳で始まる特有な突然の発症は我々が知っている流行性の発疹チフスとは異なっている。四肢の壊死は発疹チフスを疑わせるがこの症状は軍隊における冬期流行以外には顕著ではなくアテネの病気は暑い夏の初めに始まった。この季節的な要素は発疹チフスと矛盾する。さらに他の古代の事実を詳しく調べるとこの時代からかなり後になるまで発疹チフスは認識されたり確実に記載されなかった。
 たぶん腺ペストは存在していた。少なくとも紀元前300年に近東やアフリカ北岸に存在し、聖書時代に腺ペストまたは類似の病気が他の場所に存在したことは既に示した。しかしトゥキュディデスが記載したアテネの疫病にはペスト菌または類似病原体が腺ペストまたは肺ペストとしてこの疫病を起こしたことを示していない。
 天然痘またはその変種が最も確からしい分類として考えざるを得ない。この時代に天然痘が蔓延していたかどうか盛んに論議されてきた。リトレは古代の文献に確かな記載が存在しないと信じている。これに対してヘーゼルは古代インドで天然痘によく似た病気が流行していたことを示す数節をスシュルタから引用しパシェンは紀元前1700年にはシナに天然痘が存在したことを示すものを事実として認めている。一般に学者のあいだではギリシアおよびローマの古典時代に天然痘はヨーロッパに存在しなかったことで一致している。しかしトゥキュディデスの記載は天然痘の一般的な形の存在を直接に示していると私は考えている。この憶測を支持しているのはディオドロス・シクルスが記載している他の疫病である。これはアテネ疫病発生から40年も経っていない紀元前396年にシラクサを包囲していたカルタゴ軍を襲ったものである。ディオドロスは次のように記載している。「最初に日の出前に海からの冷たい風で悪寒、日中は燃えるような熱感。病気の初期にカタル症状。咽頭が腫れ、すぐ後で発熱。背痛および四肢の重量感。次いで赤痢症状と全身表面の水疱。」この後で譫妄状態になる人もあった。多くの場合に5日目または6日目に死亡した。ディオドロスはこの病気は人が1カ所に密集して集まり乾燥した夏の気候、場所が「窪地で多湿」なことによるとした。死亡率が非常に高かった。包囲は取りやめられ、軍隊は解散した。歴史的見地からこの流行病は重要な意味があった。ポエニ戦争が始まる約100年前のことでありカルタゴは強力な占領軍および組織化された海軍基地をもってしてもシチリア島を完全に支配下に置くことはできなかったからである。ローマはカルタゴに勝つのに非常に困難であり、初期の戦役におけるカルタゴの優勢はローマの軍事的・行政的な文明をカルタゴの経済的・セム族的文化で置き換えたかも知れなかった。これによってその後の歴史は大きく変化したかも知れない。ディオドロスが記載した病気はアテネにおける流行と同じように古代の記述に期待できる程度に融合型の重症天然痘に一致し5日あるいは6日で死亡するのは例外でなかった。
 ローマ軍とカルタゴ軍が紀元前212年にシラクサで戦ったときに同じような症状の流行病が両軍を襲ったことは興味深いがこの病気の記載は充分に明確ではないので診断を下すことはできない。


第7章

古代の病気についての考察の続き。特に流行病およびローマ滅亡に注目する。今まで通り古代における発疹チフス出現の証拠を求めている。

 流行病がある国で続いたときの影響は死亡率だけから計り知ることはできない。疫病がとくに恐ろしい割合に達すると2次的な効果は単なる人口の数的な減少以上に大きな組織の破壊をひきおこす。
 この点で現代の細菌学は未来の経済的および政治的な世界の歴史に深い影響を与える状態になっている。ある感染症を制御できない野蛮な状態から比較的に穏和な飼い慣らされた状態に変えてしまった。他の病気は極限された地域すなわち保留地に閉じ込められた。さらに他の病気は嘗ては全速で蔓延したのに今ではそれを防ぐことができるようになった。しかしインフルエンザ、小児麻痺、脳炎のように効果的な防御方法がまだ発見されていない場合でも敵を決定しその戦法を知ることによって整然と立ち向かうことができるようになった。疑いもなくやはり恐怖はあるが実際の死亡率は同じであっても少なくとも古代および中世において破壊的であったパニックおよび混乱は無くなった。
 古代に疫病は神秘的な訪問で冷酷で恐ろしく逃れることが出来ない何所とも判らない暗闇から現れる権力者の怒りの表現であった。人々は恐怖と無知によって死亡率を高め災害を高めた。彼らは町や村から逃げたが死は神秘的に跡をつけた。パニックは社会的・道徳的な混乱を起こした。農場は放棄され食物が不足した。飢饉によって人口が移動し革命が起こり内戦が起き時には狂信的な宗教が大きな精神や政治の変革を引き起こした。
 ローマ帝国の崩壊は複雑な原因による徐々の過程であった。423年にオノリウス死亡のときにローマの支配から正式に離れたのはイギリスだけであったが終極的に分解するひび割れは始まっていた。これよりかなり前にカラカラ帝の勅令は植民地の住民にローマ市民権を与えられたが現実にはローマの騎士たちはニコメディアやアウグスタ・トレウェロルム(*ドイツ西部)と大きな違いが無くなり今日ボストンやニューヨークの共和党銀行家とオクラホマの民主党農民の間の違いと同じようになった。巨大な官僚主義は政府を食べ尽くし予算は現代と同じように不均衡になり異民族たちは帝国に住み着いて今日の意味で移民であって耕作に対する支払いが止まると首都に行進して威嚇した。テオドシウス帝によってドナウ川の南へ植民を指示された西ゴート族は396年にアラリック王のもとで農民一揆を起こし賠償金と呼ばれた農地借款を払わせることによってローマ占領を中止した。ヴァンダル人とスエーヴィー族は405年にスペインを占領しアフリカに渡り中西部に相当するものを作り穀物の供給を制御することによって欲望を強制することができた。
 この問題は考えられるすべての角度から検討された。古代文明の消失よりも大きな歴史の謎は無いからである。この消失は完全であって数百年に及ぶ異民族支配の暗黒時代には残り火の火花さえ残らなかった。歴史家たちは独自の先入観に基づいて原因をいろいろと解析してきた。モムゼン、ギボン、フェレロは強調する点は異なるが政治的、宗教的(道徳的)、社会的な原因の組み合わせによって国家の崩壊が起きたと結論している。フェレロは「後のローマが独裁制と共和制という根本的に異なる原則を和解させようと努力して起こした限りなく続く内乱」に基本的な強調を置いている。あるものは崩壊を農業政策の失敗で説明している(シムホヴィッチ:干し草と歴史)。また何人かは農地荒廃を促進したマラリア流行を結びつけた(ロス)。パレト(一般社会学概論第2巻13章「歴史における社会の均衡」)はもっとも納得できる分析を与えているように見える。彼は協力して作用する多くの複雑な要因をきわめて簡潔に処理している。しかし彼でさえもローマの最も困難な時期に荒れ狂った悲惨な疫病が最終的に決定的な影響で無いにしてもかなりの影響を与えたと考慮することができなかった。
 私はパレトが「きわめて複雑なことを単純化している」と警告を発しているような誤りを犯す気は全くない。他の一方的な見解にローマ崩壊の流行病説をつけ加えようとは思わない。しかしローマ建設の最初の年から最終的な異民族の勝利までのあいだにローマ・ヨーロッパとアジアを襲った疫病の頻度、範囲、激しさ、を単純に眺めて見さえすれば世界の知っている最大の国家権力を崩壊させた原因の1つとして疫病災害をつけ加えなければならないことは先入観にとらわれていない人を納得させられるであろうと信ずる。実際にその当時の状態を考えて見ると現代の衛生知識が全く無いのにローマの様式と大きさの政治・社会の組織を永久に維持することは不可能であったろうと信ぜざるを得ない。都市への人口の集中、世界の他の部分とくにアフリカや東洋との自由な往来、駐留地における軍隊の動員をふくむ常時の広範な軍事活動、世界のあらゆる部分からの大部隊の往復、などはこれだけで疫病の発生を決定づけるものである。そしてこれらの発生にたいして当時は何も防御手段が無かった。疫病にたいする障碍は何もなかった。陸は通商路を通り海は船で運ばれ人が住んでいる全ての場所に燃料を見つけて乾いた草を焼き尽くす炎のように全世界に広がった。燃え尽くしたときにだけ蔓延速度は遅くなった。それでもキプルスの悪疫やユスティニアヌスの悪疫のようにゆっくりと進行しているときでも途中で免疫が低下した新しい世代や地域社会や燃え上がって恐慌を起こすことができる材料を見つけて速度は倍加されることもあった。国家が主として農業国ではなくなると国家を維持するために衛生知識が必須となる。
 ユスティニアヌスは565年に死去しシャルルマーニュは800年に即位した。600年から800年のあいだにイタリアは戦利品を求める異民族移民たちの戦場になった。古代の意味におけるローマは消失した。防衛力の最終的な崩壊はユスティニアヌスの名前を冠している疫病の大流行のときに一致している。このペストだけを原因とするのは実際的でないとしてもこの古代帝国にとって「決定的な一撃」となった要因の1つであり最も強力な単一の影響であったことは疑いが無い。
 さらにローマ権力の前進と世界の組織化は政治の天才や軍事の勇猛さがどうすることも出来ない1つの力すなわち流行病によって中断されたことを600年にわたる歴史が繰り返して幾つもの例で示している。近年の歴史でこの当時の状態に対応できるのは1917年から1923年のあいだのロシアの状態だけである。このときも発疹チフス、コレラ、赤痢、結核、マラリア、その仲間、が足かせを外されて政治事件に深い影響を与えた。これについては後にもっと詳しく述べるであろう。この年月に最初は病気、貧困、飢饉、次に政治困難がヨーロッパに侵入し蔓延するのを防いだのはポーランド戦線および南部戦線における高度に発達した衛生防御システムであった。この発言にはたぶん反論があるだろう。しかし少なくとも確かにありうることである。
 とにかくキリスト生誕後の1世紀のあいだ病気にたいして障害物による抵抗が存在しなかった。病気は来ると嵐雲で運ばれるようにすべては路を譲り人は恐れうずくまってすべての争いも仕事も野心も嵐が通り過ぎるまで放棄された。
 私はこの時期における発疹チフス存在の証拠を求めたが無駄であった。しかしローマの崩壊にたいする疫病の意味は短かったが回り道を許して頂けるほど興味深いことである。
 紀元1世紀の文献には疫病についてほとんど記録が無い。ネロの治世(紀元前54年以降)に流行病が起きて、タキトゥスによると「非常に破壊的」だったそうであるが診断を下すことができるような手掛かりは無い。イタリアの市では病気が荒れ狂いすべての家に屍体があり路に葬儀の列が並んでいた。シュヌレルによると「奴隷も市民も死亡し」「愛する犠牲者を嘆き悲しむものが間もなく死亡して愛するものと同じ火葬用の積みまきに運ばれた。」この特殊な病気がイタリアに限っているかどうかは話すことができない。しかし同じ頃に属州で幾つかの他の疫病が流行っていた。そのうちの1つは「炭疽病」と呼ばれ今日この名前で呼ばれている病気と同じまたは似ていると思われる。ウシもウマもヒトも罹るからである。同じ著者たちによるとこの病気は紀元80年ごろにフン族に流行し西への移動にあたって3万人、4万頭のウマ、10万頭のウシが罹ったと言われている(ヨハネス・ミュラー)。
 紀元1世紀に地震、飢饉、噴火、および漠然ではあるが流行病が報告された。しかし信用できる最初の疫病は「アントニヌスの疫病」(別名ガレノス(約129-199)の疫病)である。この病気は165年に近東で戦っていた皇帝ヴェルス軍に始まった。アミアヌス・マルセリヌスによると感染は兵隊が略奪した神殿の箱に始まったとのことであった。軍隊が故郷に帰るにともなって病気は遠く広くまき散らされ最後はローマに持ち込まれた。この時に感染は「ペルシアからライン川の岸まで」世界のすべての隅まで広がりガリア族やゲルマン族まで及んだ。多くの市における死亡者はマルクス・アウレリウスが言ったように「屍体は2輪荷車や4輪荷車で運んだ。」非常に多くの人たちが死亡したのでイタリアや属州の市や村は見捨てられ荒廃したとオロシウスは述べている。疲労や混乱が激しかったのでマルコマンニ族(*古代ゲルマン民族の一派)にたいする戦いは延期された。169年に戦争が再開されたときに多くのゲルマン民族の兵士は男も女も傷が無いのに戦場に倒れていたとヘーザーは記録している。疫病によって死亡していたのである。マルクス・アウレリウスはこの病気に罹ったが感染性であることを知っていたので息子に会うのを拒絶した。彼は7日目に死亡し栄養物摂取を拒否したので病気は悪化した。これはガレノスが「治療法」を書いた180年のことなのでこの疫病はヨーロッパで少なくとも14年続いていたことになる。死者数の概略についてはっきりとした記録は存在しないが死亡者は非常に多く社会的、政治的、軍事的な活動は完全に混乱し恐怖のために病人の看護さえしないようになったことは疑いも無い。このことについての権威者はアミアヌス・マルケリヌスである。180年における疫病の一時的な終息は9年しか続かなかった。カシウス・ディオはコモドゥスの189年に再び起きたと述べている。「私が知るうちで最大の疫病であった。しばしばローマで毎日2,000人が死亡した。」後期の流行は前期よりも死亡者が多かったようである。
 この病気の本態は不明である。いつものように単一の感染が原因ではなく幾つもの病気が同時に荒れ狂っていると思われる。これらのうちで最も致死的であり疫病に主な特性を与えているのは天然痘ではないにしても密接に関係するものである。たしかにアントニヌスの疫病はアテネの疫病によく似たものである。ガレノスによると大部分の例は咽頭の炎症、熱、下痢で始まった。9日目に大部分の例で発疹があり時には膿があり時に乾燥していた。又もや発疹の性質についての言葉を精確に解釈するのが困難である。しかし時には小胞状や膿疱状である隆起している発疹についての記載はアテネの疫病に比べてこの病気では曖昧さが少ない。ヘーザーはこの疫病が天然痘の一種または現在のこの病気にきわめて近い病気と考えていて私は証拠を読んでみて同じ意見を持っている。この病気が全世界に拡がった速度と範囲を考えるとこの事実は全くありそうなことである。
 内部抗争や敵愾心を持って囲んでいる異民族と絶えず戦う10年にもわたる非常時の政治時期においてこのような災害はローマ権力を維持するのに重大な効果があったに違いない。軍事行動は停止され市は住民が居なくなり農業は全く荒廃し商業は麻痺した。
 コモドゥスの時代から250年まで異民族の侵入にたいしてローマ帝国の戦いが激しくなりはじめる争乱の時期に前線の軍隊をしばしば襲った軍隊病や野営病を除くとローマ世界には大きな疫病がほとんど無かった。ゴート族がフォールム・トレボロニイでデシムスを破ってから異民族の脅威は激しくなった。この頃になって大疫病が始まった。この大疫病はとくに聖キプリアヌスが記載しているのでしばしばキプリアヌスの疫病と呼ばれる。この病気はアテネの疫病と同じようにエチオピアに始まりエジプトを経てヨーロッパに到った。15年か16年より以上も続き当時に知られていた全世界「エジプトからスコットランド」まで疫病は拡がった。疫病は同じ地域を数年ごとに繰り返して襲った。感染性は著しくケドレヌスによると直接の接触だけでなく衣服を通して間接的にも伝染した。ニッサのグレゴリウスおよびエウセビウスは疫病の出現の突然さと恐ろしい激しさについて記録を残している。ポントスのある市では256年に劇場に群衆が集まったときに疫病が始まった。これはユピテルを称えた公演において観客がユピテルを非難した行為にたいする罰であると言われている。アレキサンドリアで死亡率は著しかった。蔓延の速度は多くの属州で起きていた戦争によって速められた。ゲルマン族はガリアおよび近東に侵入していた。極東の属州はゴート族に襲われパルティア人はメソポタミアを征服していた。恐怖は著しく幽霊は病気に罹る人たちの家の上を舞った。聖キプリアヌスはこれらの悪霊を追い払って多くの人たちをキリスト教に帰依させた。初期キリスト教時代に飢饉や地震や疫病などすべての大きな災害は大衆をキリスト教に帰依させた。疫病が古典文明の崩壊に貢献したもう1つの間接的な影響であった。キリスト教は地震や火山噴火と同じように腺ペストや天然痘に厖大な恩恵を受けている。
 キプリアヌスの疫病の本態はアテネの疫病よりも決めるのが困難である。ヘーザーは主として季節的な要素すなわちエジプトで引き続いて秋に発生し7月の非常に暑い気候にまで続いたいう報告に基づいて腺ペストがこの疫病で主要な役割を演じていてと信じていた。しかし腺の腫脹すなわち横痃よこねについてのはっきりとした情報が無いかぎり単なる憶測に過ぎない。キプリアヌスはこの病気が眼の発赤、咽喉の炎症、激しい下痢、嘔吐で始まると記載している。彼は足の壊疽、下肢の麻痺、難聴、失明を述べている。皮膚の発疹は記載していない。多くの病気が同時に存在することを仮定しなければならないし種々の髄膜炎やたぶん急性の細菌性赤痢もしばしば見られたであろうがこの時代の著者たちが観察した症状からは特定の診断を下すことができない。
 病気が何であったにしても激しさは著しいものであって政治および社会の発展に重大な影響を与えたことは疑いない。深刻な苦痛の概念はヘーザーからの文章を引用することによって判るであろう。「人々は大都市に群がる。近くの畑だけが耕作され遠い畑は雑草だらけになって狩猟地に使われる。農地は価値が無くなる。人口が減少して限られた耕作面積で充分量の穀物を得ることが出来るからである。」中央部イタリアでも大きな面積に人が居なくなった。沼が生じ以前は健康に良かった海岸地帯のエトルリアやラティウムが不健康な場所になった。人類は「すべて絶滅し」大地は砂漠と森林の状態になったと聖ヒエロニムスは書いている。
 キプリアヌスの疫病にさいして哀悼の色として黒を着ることがキリスト教の習慣になったとバロニウスは述べている。ハドリアヌス皇帝はそれ以前にも用いていたがプロティナの死後の9日のあいだ黒を着たとシュヌラーは言っている。
 聖キプリアヌスの疫病と次のユスティアヌス帝の疫病と呼ばれる世界的な大疫病のあいだに、地震、飢饉、常に大軍が移動し東洋やアフリカ北岸と絶えず通商があった帝国で予想されるような比較的に局所的な疫病、などの多くの災害が続けさまに起こった。同時に都市への農業人口の移動によって現代医学による必須な安全対策が存在しないのに人々は狭い地域へ集まった。
 ディオクレティアヌスおよびマクシミアヌスの統治下に疫病があったとケドレヌスは記載しているが症状は不明である。エウセビウスは発生を少し後としているが他に新しい病気について語っている。これは炭疽病のようであり数千人を襲い身体の種々な場所に急性の潰瘍と腫脹を起こさせ多くの病人を失明させた。多数の家畜が同時に死亡した。病気と飢饉は313年まで続いた。
 ほとんど記録が残っていない時期が続くが病気の形は今までと殆ど同じであったろう。民族移動がもっとも盛んな時代の1つであったろう。移動は東から西への人の波であった。フン族がシナから追い出されたことに始まりカスピ海に向かったのに始まったのであろう。病気のために動かざるを得なくなり西に移動し始めた。彼らはまずアラニ族と衝突し追い散らしたり協力してゴート族を攻撃した。ゴート族は北から河床を伝って黒海に向かった。フン族とアラニ族に押しのけられてゴート族はローマ領に入りドナウ川に沿って一時的に定住した。
 406年までに西ゴート、アラニ、ブルグント、ヴァンダルなど異民族の一般的な動きはイタリア、ガリア、およびピレネー山脈を越えてスペインへ向かった。イダティウスによると戦争、飢饉、疫病の時代であった。444年にブリテンで恐ろしい疫病がありサクソン族のブリテン征服という歴史的に重大な事件の原因となった。聖ビーダは「イギリス教会史」にヴォルティガーは困ってサクソンの首長であるヘンギストとホルサを尋ねて援助を要請したと書いている。「恐ろしい疫病が彼らを襲い多くのものを殺したので生きているものは死者を埋葬することができなかった。彼らは何をすべきか相談し(彼らの兵力は疫病によって著しく低下していたので)北方種族の頻繁な侵略にたいしての援助を要求し海を越えてサクソン国民を呼ぶことに一致した。サクソン族は499年に到着しブリテン人の傭兵になった。」従ってブリテン島のその後の人種、習慣、建築様式その他の発展の歴史の多くがこの疫病によって決定されたと結論するのに殆ど想像を必要としない。
 エウセビウスは455年と456年にローマの全属州およびウィーン周辺で発生した疫病を記載している。眼の炎症および全身皮膚の腫脹と発赤で始まり3日または4日に重い肺症状で終わるもので時に致死的なものであった。この病気が何であるか判らないが全身性の連鎖球菌感染または一種の猩紅熱であり二次的に連鎖球菌肺炎を伴うものではないかと考えられる。
 467年にローマそのもので病気が流行った。これについてはバロニウスにより多数の死者が出たことしか知られていない。すぐに続いた数年にガリア属州で拡がってはいるが局在的な疫病が起きた。477年にサクソン王オドアケルはイタリアへの進軍の途中にアンジューに到ったときに市民にも侵入者にも重篤な疫病が起きた。すぐ後で北アフリカの飢饉と疫病がヴァンダル人の多くを殺しイスラム教徒に敗北する遠因となった。
 続く50年のあいだに重要な病気についての記録は無いが526年にアンティオキア(*古代シリアの首都)で大地震があり数十万人が死亡した。
 これはこれまでで最大の疫病を呼び起こし古代文明の崩壊を引き起こした。これはユスティニアヌス帝の疫病でこの詳細は主としてプロコピウスの著作で知ることができる。
 6世紀は歴史上で他に比較するものがないほどの災厄の時期であった。ザイベルは「ユスティニアヌス時代の大疫病」に入手できる情報をできるだけ集めその後の著者たちの多くが引用する権威者になっている。彼によると地震、噴火(*513年のヴェスヴィウス噴火はその1つ)および飢饉が先行して一連の疫病が続いた。これらは全ヨーロッパ、近東、アジアに恐怖と破壊を及ぼした。自然の異変のうちで最も破壊的であったのは地震であり大火災がこれに続き、526年にアンティオキアを破壊し、20万人から30万人の住民を殺し、生き残った人たちは逃げ去った。コンスタンティノープル(イスタンブル)や東洋やヨーロッパ主要部の他の都市にも地震があった。その他にもクレルモン(*フランス中部の都市)にも大地震があり当時に地獄の都と呼ばれた。続く洪水と飢饉によってさらに悲惨になった。貧乏化、人口の移動、農業の崩壊、飢饉は疫病の発生と蔓延を実際的にひどいものにした。津波、地震、洪水が同じような災害をおこすことは現在でも何度も示されている。
 ユスティアヌスの大疫病はエジプトのペルシウム(*現在のポートサイドの近く)に始まった。エチオピア由来と言われるがはっきりしない。エチオピアから来たと古くから習慣的に言われてきた。プロコピウスは次のように書いている。

「この頃(540)に疫病が発生した。世界のある部分だけではないし、ある人種だけではないし、特定の時期ではない。しかし大地全体に広がり男性女性とか年齢に関係せず全ての人を襲った。エジプトのペルシウムに始まった。そこからアレクサンドリアに拡がりエジプトの残りの部分に広がった。次にパレスチナに進み、そこから全世界に拡がった。このようにして場所によって季節による発生があった。いかに遠隔であっても人が住んでいる所は容赦することはなかった。しばらくのあいだある場所が見逃されたように見えても間違いなく後になって現れ以前に襲われた人は攻撃されない。いつも疫病はふつうの数の犠牲者に達するまで続く。
「この病気は海岸地帯から内陸に拡がり更に奥地に入り込むように見える。2年目の春にビザンティウム(イスタンブル)に達し次のように流行した。すなわち人間の形をした幽霊が多くの人に見えた。出会った人たちは幽霊に打たれ病気にかかった。他のひとたちは戸に鍵をかけて家にこもった。しかし幽霊は夢に現れるかまたは死ぬように選ばれたとの声が聞こえた。」

 プロコピウス自身はこれらを信じていたのでこの疫病に伴う絶望やパニックについて述べている。
 4ヶ月のあいだ疫病はビザンティウムに留まった。最初は毎日数人が死亡し次に5,000人になり最後には毎日10,000人が死亡した。「最後に墓堀人が不足し要塞の塔の屋根を取り除き中に屍体を詰め込んで屋根を元に戻した。」屍体を船に乗せて海に捨てた。「疫病が終わった後で堕落したものと一般に規律を守らないものが残り、病気は悪者だけを残したように見えた。」
 プロコピウスは数パラグラフだけ病気について記載していて、これだけが病気を診断する役に立っている。

 彼らは突然に発熱した。あるものは突然に眠りから覚め他のものは日中にいろいろなことをしている最中に発熱した。発熱は朝から夜まで大したことではなく患者も医者も危険とは思わず死ぬとは信じていなかった。しかし多くは最初の日または次の日にまたはそれほど後ではなく横痃が鼠蹊部にできたり腋の下に現れる。あるものでは耳の後にできたり身体のどの場所にもできる。
 この点まで病気はどこでも同じであったが後になると個人によって違いがあった。あるものは深い昏睡状態になり他は凶暴な譫妄状態になる。昏睡も譫妄でもないときに腫脹が壊疽になって激しい痛みで死亡する。接触感染は無く医師も個人も患者や死人から病気にならなかった。多くの看護したり埋葬したりする人は全ての人が考えているのとは違って感染しなかった。この病気をよく知らない医師のあるものは横痃が病気の主な場所という考えで屍体を調べて横痃を切開して中に多くの膿疱に気がついた。
 ある患者はすぐに死亡しあるものは数日後に死亡した。あるものの身体にはレンズ豆の大きさの黒い疱疹が吹き出ていた。これらの人は1日以上は生きなかった。多くは吐血して間もなく死亡した。医師たちはどの例が軽症でどれが重症か言うことができず治療方法は無かった。

 アガティウスはビザンティウムで558年に起きたこの病気について記載し横痃およびふつう5日目に突然に死亡することに着目した。すべての年齢のものを襲うが死亡者は女性より男性が多かった。
 この疫病で興味あるのは現代の疫学でしばしば言及されている特徴が存在することである。すなわち流行が発生したときには病人の数は少ないし死亡率も比較的に低い。しかし流行の速度が増すとともに病人の数も死亡者数も恐ろしく上昇した。
 ユスティニアヌスの疫病が主として腺ペストであることに疑いは無い。しかし多くの例で黒い液胞が全身にできたことは非常に重症な天然痘が関与していることを示しているのであろう。これが何であろうとも蔓延の範囲や重篤さはヘーザーのような評者がこの病気は東ローマ帝国の衰亡に影響したと信ずるほどのものであった。このことは歴史学者がしばしば見落としてきたものである。この当時に知られていた世界のかなりの部分は60年から70年にわたってこの病気によって荒廃した。都市や村落は見捨てられ農業は停止し飢饉、パニック、感染した場所からの大量の人口の流失は全ローマ世界を混乱に陥れた。
 ギボンはこの疫病について次のように言っている。「このように死亡率が極めて高いときの犠牲者は正式な数も推測も事実が残っていない。3月のあいだコンスタンチノープルで毎日5,000人から最後には1万人が死亡したことだけ言える。そして東ローマ帝国の多くの都市は空虚になりイタリアの多くの地域で収穫物やブドウは大地で枯れた。戦争、疫病、飢饉の三重の天罰はユスティニアヌスの臣民を苦しませ彼の治世は人口が目立って減少したという不名誉が与えられ地球上でもっとも美しいと言われた地方が元に戻ることはなかった。」
 プロコピウスは記載した事柄の大部分についての目撃者であった。彼はベリサリウスと密接に関係がありコンスタンティノープルの宮廷で起きていたことの内幕を知ることができる充分に重要な地位を占めていた。従って当時の混乱、すなわち戦争、政治腐敗、疫病についての彼の記載は不当に誇張されたものではないと見なすことができるであろう。最近、これまでの歴史に無かったように大きくより広範囲でより破壊的な戦争があり現在の政治汚職は多分どの時代に比べても発達していて全般的であるので、現在の世界がユスティニアヌス帝国のように破壊しないのは疫病を制御する新しい能力だけによっているのであろう。
 プロコピウスの目を通してユスティアヌスの治世を研究すると、帝国を崩壊に導いた三要素の協力関係を極めて鮮明に得ることができる。ユスティニアヌスは帝国の世界権力を回復させるのに最終的な努力を行った。ペルシアとの戦争、ヴァンダル族にたいするアフリカにおける戦争、イタリアにおけるゴート族との戦争、世界の離ればなれの場所ですべての戦線を保持する軍隊、は政府の資力を最後まで注ぎ込んだ。あらゆる所で防御の輪はますます増加している異民族の大群によって押し返された。彼らはこの頃までに以前の支配者から戦術や組織化を学んでいた。532年におけるビザンティウムにおけるような内乱は背面から脅かした。反逆や汚職は宮廷の行政力を弱めた。そしてこれらのほとんど全く克服できない困難の上に疫病が起きた。東から西へ北から南へ何度も何度も繰り返して殆ど60年にわたって人々を殺し、恐れさせ、組織を破壊させた。
 この疫病は590年またはもう少し後まで続いた。568年と570年のあいだイタリアはロンバルディア人によって征服されていた。同じように異民族であるクニムンドによると「サルマティア平原の雌ウマに似ている」とのことであった。ローマの誇ることができた権力、優雅さ、行政能力は失われた。


第8章

政治史、戦争史への流行病の影響および将軍たちが比較的に重要で無かったことについて。これは主要テーマからの最後の大きな回り道であることを約束する。

 多くの全く関心の無い人たちが病気で死んだり戦争で殺されたりしないならば戦争はそれほど重要な問題ではないかも知れない。領土や通商利権やそのほか人間にとって性欲や食欲のような本能的な強欲の表現がもちろん戦争の基本的な原因である。しかし経験から言うと実際に戦争を起こすことになる全く誤った概念が無かったとしたらこれらの多かれ少なかれ現実的な理由によって戦争の爆発点に達することは無いであろう。このように重大な影響を人に与えるのは勿論「祖国のために死ぬものに光栄あれ」というような光栄のプロパガンダではないであろう。これらのような「残ったもの」はもっと根本的な衝動を穏やかに有効に合理化したものに過ぎない。このパレート的な解釈は正しいだろうか。もっと深い意味があるのは大部分の人の平和な時の我慢できない退屈な商売と戦争ごっこをしているときの子供っぽいが一般的な喜びである。泥、シラミ、疲労、恐怖、病気、負傷などで実際に苦しむまで人々は前大戦を楽しんでいた。サマヴィルやウィホーケン郊外の木造家に8月の2週間を除いて10年も住み8時15分に出勤し1日中床を歩き朝出発したところに6時20分に帰る男のことを考えてごらんなさい。声援を送る労働者の間を楽隊に続いてブロードウェーを行進したときの彼の気持ちを考えてごらんなさい。新しい人間になり明け方に歩哨に立ったり土嚢の蔭に身をかくして人間仲間を狙い打ちし戦友とビールを酌み交わしたときに新しい男性になった誇りを考えてごらんなさい。世界は彼を英雄とみなし政府は彼の家族を永久に面倒を見てくれる。
 しかし倦怠からの解放以上に戦争を鼓舞するのは軍服を着ることである。素晴らしい衣服を着る本能は抑えることはできない。神秘的な騎士や神官やインディアンが会議を開いている町に居たことのあるものはよく知っている。ボストンでも古代人や貴族がビーコンヒル(高級住宅地)の交通を渋滞させている。そしてさらに女性の賛美がある。女性一般ではなく彼の妻たちである。男子が兵隊ごっこを好むように彼女たちの英雄が家に書き送る勇敢な野蛮を賛美する遺伝的な性質を持っている。「俺は手榴弾を塹壕に投げ込み6人のドイツ兵を殺した。将軍にキスして貰えるだろう。」「何と素晴らしいのだろう。大きな勇敢な少年だ。」焼き串に刺されて悲鳴をあげている罪人を炉の上にかざしながら「ベルゼブル(魔王)よ。お前は偉大な大きな子だ!」と言っている悪魔の婆さんの声を聞く。
 平和運動のためにパンフレットを書いているのだったら戦争の原因がいかに些細なものであることをもっと確信をもって詳しく書くことができるだろう。しかし私は1つの病気の伝記を書いている。私は発疹チフスについて主として興味を持っているので戦争の原因について多くのスペースを使うことはできない。肝心な点は軍事専門家にとってさえ戦争は一種の危険な兵隊ごっこである。行軍とか射撃とか戦術と呼ばれるゲームは生き生きとし興味ある部分ではあるが戦争という悲劇にとって小さな部分に過ぎない。戦闘は野営地において疫病の犠牲にならなかった生き残りが行う最終的な軍事行動に過ぎない。これらの最終行動は将軍たちが本部の食堂をどこに置くかを知る前に勝利か敗北かが決定される。
 一般の職業軍人にとって軍医は診断呼集をかけたり下剤を与えたり輸送の問題を起こしたり用兵を困難にしたり水に悪い臭いをつける嫌なやつであり我慢しなければならない非戦闘員である。もちろん戦闘の後で残骸を片付ける役に立つが他の点で多くの場合に邪魔である。戦争末期にアメリカ第2軍団で呼吸病と腸チフスの大流行があった。検閲総監のオー大佐はこのことを知らなかったし気にしなかった。彼は疲れた衛生設備検査官主任が片手をポケットに入れて敬礼したと譴責した。主任のボタンはすべて取れ10万人もの兵士を回って巻きゲートルが合わなくなったことを知っている私はこの哀れな男を可哀想に思った。彼はどれほど苦しみ努力しただろうか。同じ衛生設備検査官は1918年9月に進攻する軍のために給水地を求めようとした。「君は私のために居るのではない、」と技術部隊のエイチ大佐が言った。「君は組織図にない。」時にはバラード将軍のように知っている人もいた。彼は対照的であった。しかしこれは脾臓(意地悪)に見えるかも知れない。しかしそうではない。兵隊が戦争で(*疫病に)勝つことは殆どないというのが私の意見である。兵士たちは疫病の弾幕にしばしば打ち負かされる。発疹チフスはペスト、コレラ、腸チフス、赤痢、とともにカエサル、ハンニバル、ナポレオンなど歴史上の大司令官以上に会戦の運命を決定してきた。疫病は敗戦の汚名を受け将軍たちは勝利の名誉を受けた。むしろ逆でなければならない。多分いつの日にか軍隊の組織は変わるであろう。戦陣の将校たちは軍医総監の命令に従うであろう。その他にこのプランは年金システムの支出の90%を不要にするであろう。
 発疹チフスが行った特殊な軍事的功績に進む前にこの病気が戦闘において示した決定的な影響をもっと一般的に論じ幾つかの事実をもって論点を実証することは興味深いであろう。
 困難なのは証拠を見つけることではなく恐ろしいほど多くの中から選ぶことである。プロシア陸軍軍医のフォン・リンシュトウはこのように考えて普通の歴史記録から最も啓蒙的な例を集めた。私は彼の研究、歴史家および戦闘で大部隊に従軍した軍医たちの書いたものから自由に引用することにしている。
 ヘロドトスは彼の歴史の第8の本でクセルクセス1世が80万人と推定される軍隊とともにテサリア(*ギリシア中北部)に入ったときにギリシアはロイモス(λοιμοσ:ペストと赤痢?)によって救われた事を述べている。ギリシア領域に入ってすぐに補給が途絶え病気は栄養不足および困難の背後から襲った。戦闘は諦められペルシア王は50万人以下になった兵士とアジアに戻った。
 しばらくの間アテネの陸上の勢力を低下させたのはアテネの疫病であった。流行の2年目に300人の騎士、4万5000人の市民、1万人の自由民と奴隷が死亡した。ペリクレス自身が死亡しスパルタ人は半島で自由に振る舞った。
 紀元前414年および396年にシラクサ(*シチリア島の都市)はカルタゴによって包囲されたがアテネの疫病と同じと思われる病気によって解放された。もしもハンニバルが海軍と陸軍をシチリア島に拠点を確立していたとしたらポエニ戦争およびローマの将来はどうであったか言うことは出来ない。
 紀元425年にフン族はそれまで邪魔されなかったコンスタンティノープルへの進軍を諦めた。これは不明の疫病が彼らの大軍を崩壊させた為であった。
 アビシニア(エチオピア)王が「聖なる火」によってメッカから後退しなかったらサラセン帝国権力の将来は誰にも判らない。これは一般に象戦争と呼ばれるものである。6万人からなるアビシニア軍は病気の猛威によって完全に崩壊した。この病気は重症の天然痘か猩紅熱と全身の連鎖球菌感染の合併症のようなものであった。
 十字軍はサラセンの武力によるより疫病によって退却させられたことは疑う余地が無い。十字軍の歴史は一連の病気の年代記であって壊血病も感染症と同じように強力であった。1098年に30万人からなるキリスト教軍隊がアンティオキアを包囲した。病気と飢饉が多くの兵士を短い間に殺したので死者を葬ることができなかった。7,000頭のウマのうち5,000頭が死んだので騎兵は無用になった。それにもかかわらず9月の包囲によって市は陥落した。エルサレレムへの進軍で異教徒よりももっと強力な敵が軍隊を追跡した。エルサレムを1099年に攻略したときに最初の30万人のうち6万人しか残らず1101年には2万人になった。
 フランス王ルイ7世が率いた第2次十字軍は同じように哀れなものであった。50万人のうちでほんの少しが馬も失ってアンティオキアに戻り、ヨーロッパには殆ど帰ることができなかった。
 全てのキリスト教軍はアンティオキアで疫病に待ち伏せをされた。トルコ人ガイドの裏切りによって1190年の十字軍は市の先の路を荒地に導かれた。飢饉、疫病、脱走によって10万人の軍隊は5,000人になってしまった。
 ヴェネツィアのドージェ(元首)およびフランドルのボールドウィンに率いられた第四次十字軍はエルサレムに達することは出来なかった。十字軍がコンスタンティノープルを出発してすぐ後の暑い夏に恐ろしい腺ペストが発生したからである。
 ドイツのフリードリッヒ2世が1227年にブリンディジ(*イタリア南東部の港)で乗船したときに赤痢が軍隊と同船した。皇帝が発病して艦隊は帰港し遠征は完全な失敗になった。
 壊血病は感染症ではないので発疹チフスの仲間と一緒にして歴史への影響を論ずるのは適当でないように思われる。しかし食料供給が少なかったり制限されると壊血病は殆ど常に軍隊への脅威であった。包囲された市や荒廃した地域を長い進軍を行っているようなときに壊血病はしばしば軍隊の運命を決定したり多くの男たちを弱くして続く感染症にたいして正常の抵抗力を持たないようにする。このようにして壊血病は我々の病気である発疹チフスの有力な同盟軍である。ここで我々の主なテーマから離れて壊血病の興味深い戦争史へ回り道をしようとは思わないが壊血病が戦争の勝ち負けを決定する恐るべき影響を示す1つのエピソードを示すことにしよう。
 1250年の四旬節の第1金曜日まで聖ルイ(ルイ9世)の十字軍はサラセン軍にたいしてかなり抵抗していた。このすぐ後になってジョアンヴィルによると「軍勢は大きな困難に遭遇した。」彼はこの病気の本態を屍体の悪臭と川にいる「貪食で死者を食べる」ウナギのせいにした。この病気は疑いもなく壊血病であった。「軍隊に特有な病気が発生した。脚の肉が乾き脚の皮膚はまだらになった。古い靴のように黒と土地色になった。この病気に罹ったものの歯肉は腐った。誰もこの病気に罹らないでは済まないし死ななければならない。死の徴候は次の通りであった。鼻から出血すると確かに死ぬことになる。」この頃になってトルコ人は補給船が来ることができないように川を封鎖して新鮮な食品はますます欠乏し指揮官の多くは病気になった。「このようにして軍隊で病気はますます増加し兵士たちの歯肉で死んだ肉が増えて兵士たちが食物を咀嚼し飲み込むことが出来るように床屋外科医(*床屋と外科医は兼業していた)は死んだ肉を切り取らなければならなかった。野営地で死んだ肉を切り取るときの叫び声を聞くのは辛かった。彼らは出産時の女性のように泣き叫んでいた。」この病気によって急速に撤退しなければならなくなり王はサラセン軍の封鎖を破るために死にものぐるいの努力をした。失敗し敗北し王とすべての騎士は捕らえられた。
 ルイ王は2回目の試みをしたがチュニジアより先に進むことはできず、彼と子のヌヴェール公は1270年の8月3日および25日に赤痢で死亡した。
 精確に分類できない不思議な病気が1157年にローマのフレデリック・バルバロッサ(*神聖ローマ皇帝)の軍隊を崩壊させた。このことはケルナーおよびレルシュによって記載されている。これは発疹チフスかも知れない。激しい頭痛、四肢および腹部の疼痛、発熱、悪寒、譫妄に始まるからである。多くは数日で死亡した。死亡率は高く恐怖は大きかったので疫病が始まった4日後の1167年8月6日に軍は天幕を焼き北方に出発した。ローマは放棄され隊員の大部分は行軍中に死亡した。
 スペインとフランスの間の数世紀にわたる争いは繰り返して病気により決定された。フランスのフィリップ3世は1285年にアラゴン(スペインとフランスの国境地帯の国)に戻った。これは本態不明の疫病によるもので多数の兵士と大部分の将校を殺し最終的に王自身も死去した。その後のスペインの軍事史では発疹チフスそのものが破壊的な役割を果たした。これについては後の章で戻ることにしよう。
 1439年の10月1日にドイツ皇帝アルブレヒトはバグダドの城壁に達した。同じ月の13日に皇帝は死亡し軍隊は後退した。赤痢に敗れたのであった。
 ヘンリー2世時代におけるイギリスの発汗病については前に述べた。フランス王シャルル13世のナポリ攻撃における梅毒流行の影響についても既に論じた。またヨーロッパ大陸を支配するのがフランスかスペインかを決定したのは1528年の発疹チフス流行があったことを他の場所で述べることにしよう。
 16世紀に本質的に話は同じであり発疹チフスとペストは主導権を持ち始めたが赤痢、腸チフス、天然痘は疑いもなく役割を演じていた。シャルル5世によるメス(フランス北東部)の包囲は壊血病、赤痢、発疹チフスによって解かれ軍隊は3万人の死者を出して後退した。
 初期の実際的に決定的であった発疹チフス流行はドイツのマクシミリアン2世の軍隊を解散させたものであった。彼は8万人の隊員を集めてハンガリーのサルタンであるソリマンに向かった。コマールノ(*ドナウ川に沿いスロバキアとハンガリーにまたがる)の野営地で1566年に病気が起き疑い無く発疹チフスであった。病気は激しく死亡者が多くトルコ軍への戦闘は中止された。この病気が南東ヨーロッパに根を下ろしたことについてのこのエピソードの意義は他の章に述べる。
 30年戦争はすべての段階において致死的な疫病が支配していた。このことを詳細に記載するのはこの戦争の歴史のすべてを改めて書くことになる。疫病は軍隊に従ってヨーロッパ大陸を移動したからである。しかし特筆しなければならないエピソードがある。単独で会戦する前に2つの軍隊を発疹チフスが敗北させたことである。グスタフス・アドルフスとヴァレンシュタインが両軍の目的地であるニュルンベルク(ドイツ南部)で向かい合った。チフスと壊血病は1万8000人の兵士を殺した。そこで両軍は疫病の更なる猛威を避けるために退却した。
 清教徒革命で処刑された英国王チャールズ1世の運命が発疹チフスによって決まったと言えないことはない。1643年にチャールズはエセックスに率いられた議会軍とオクスフォードで対陣した。両将軍ともに約2万人の兵士を率いていた。王は両軍に猛威をふるっていた発疹チフス流行によってロンドンに進軍する計画を放棄した。
 1708年にスウェーデン軍は南ロシアへの進撃にさいして、ペストの発生によって苦労した戦いで手に入れていた果実を完全に失い孤立無援になった。
 1741年11月にプラハは、3万人の対抗しているオーストリア人が発疹チフスで死亡したのでフランス軍に降参した。
 マリア・テレジア女帝の軍に勝っていたフリードリッヒ大帝は激しい赤痢が彼の軍を襲ったときにボヘミアから退却させられた。
 フランス革命の結果はあるていど赤痢によって決定された。1792年にプロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム2世はオーストリアの同盟軍とともに全戦力4万2000人の兵士を率いて革命軍に向かって進撃していた。赤痢は赤い軍として「自由、平等および友愛」に味方しプロイセン軍は実働の3万人だけが残ってライン川に沿って後退した。
 ハイチ共和国の建設はふつうトゥーサン・ルーヴェルテュールの天才によるものとされているが、実際は黄熱病によってなされた。1801年にナポレオンは二グロの反乱を鎮めるために25,000人の兵士をつけてルクレール将軍をハイチに送った。フランス軍はカプ=フランセに上陸しトゥーサンを破り内陸に追いやった。ニグロ軍は集まりデサリーヌによって再編成されたが、黄熱病の流行が侵略者を打倒しなかったら訓練と武装が優れていたフランス軍には抵抗できなかったであろう。2万5000人のフランス人のうち2万2000人が死亡した。3,000人だけが残り、1803年に島を撤退した。
 史上で最大の将軍であるナポレオンですら流行病の戦術に立ち向かうと無力であった。ロシアとの戦争についてはフランス軍医ラレーの記録がある。しかしここでの問題について特に価値があるのは侵略軍の部隊付き軍医であったシュヴァリエ・J. R. L. ド・ケルクホーヴ(通称ド・キルクホフ)である。彼は本の表題ページに「ヨーロッパの主な学術アカデミーの会員」と自分で書いている。50万人以上の軍隊が北ドイツからイタリアまでにわたって動員され野営した。中心となる部分が集められるまで病気はほとんど無くマグデブルク、エルフルト、ポズナン、ベルリンに作られた病院にはほとんど患者が居なかった。ケルクホーヴはポーランドに入って哀れな状態を記載している。彼はヨーロッパの他の国に比べて住民の貧困さ、悲惨さ、卑屈さに驚かされた。村は昆虫だらけの小屋からなっていた。軍隊は野営せざるを得なかった。栄養は悪かった。日中は暑く夜は寒かった。新しい病院がダンツィッヒ、ケーニヒスベルク、トルンに作られた。病人が急に増加したためであり、この時には主なものは呼吸器感染で肺炎および咽頭アンギナ(たぶんジフテリア)であった。6月24日にネマン川を渡った頃から発疹チフスが出現し始めた。リトアニアでは大きな森と貧弱な路に出会った。町や村はロシア軍によって燃やされていた。避難場所が殆ど無く食物は少なかった。水は悪質で気温は高く病気は主として赤痢、腸チフス、発疹チフスであって病気の割合は恐ろしいものになった。7月末のオストロヴォ(*?)の戦闘の後では8万人以上が病気になった。ケルクホーヴが所属していた軍団は9月始めにモスクワ川に達したときに最初の4万2000人が半分以下になった。川の近くで戦闘が行われ3万人以上の多数が負傷し軍医の仕事は殆ど不可能なほどになった。9月12日までに発疹チフスと赤痢はもっとひどくなった。9月14日にモスクワに入った。住民数は30万人であったが大部分の人口はフランス軍が入る前に逃げ去っていた。15日に大火が始まった。最初は取引所に始まったが後には市全体で始まった。多分ロストプチン総督の命令によるもので釈放された囚人が硫黄たいまつを持って放火したのであろう。モスクワには設備の良い病院が幾つもあったが病人や負傷者で一杯になり市の大部分が灰になったり爆弾で破壊されたので感染していた兵士たちは不充分な避難所にぎゅうぎゅう詰めになったり市外で野営した。食物の貯蔵はロシア軍によって殆ど完全に破壊されていた。
 これから後に発疹チフスと赤痢はナポレオンの主な敵対者になった。10月19日にモスクワからの撤退が始まると役に立つのは8万人以下であった。故郷への行軍は敗走になり消耗し病気にかかった軍隊は追跡する敵によって常に悩まされた。気候はまったく寒くなり多数は病気と疲労によって消耗し凍死した。11月始めにスモレンスクが再占領されたときに2,000人の騎兵だけが残り2万人の患者が市の病院に居た。多くの発疹チフス患者はスモレンスクに残され11月13日に撤退した。ベレツィナ川を渡るのは悲惨であった。頭の上を通して橋を渡してくれた親切な兵士たちの好意によってラレーは辛うじて助けられた。死亡した兵士の数は正確には記録されていないが4万人と言われている。発疹チフスは主な病気であったが赤痢と肺炎も増えていた。1万5000人の兵士はヴィリニュスへの路で凍死したと言われていて12月8日にヴィリニュスに達したときに大軍は2万人の病人および士気が低下した兵士に減っていた。ネイ元帥指揮の第三軍団で残ったのは20人だけだった。ヴィリニュスで病院は混雑し兵士はごみの中で麦わらの上に飢え寒く看護を受けずに横たわった。彼らは革や人肉を食べなければならないことさえあった。病気とくに発疹チフスは周囲の国の都市や村に拡がった。12月のあるときにヴィリニュスに撤退した病人の数は2万5000人に達した。ロシアから逃れてきた名残の兵隊は殆ど例外が無く発疹チフスに感染していた。
 ケルクホーヴは著書で偉大な将軍ナポレオンの戦術に心からの興味を持っていてもしもナポレオンがポーランドの占領で満足し衛生の制御を含む組織の再生を行うならば戦争は成功であり権力は永遠に維持されたであろうと述べている。
 この悲惨な失敗の後でナポレオンは1813年に再び50万人からなる新しい軍隊を作り上げたことはたぶん彼の天才の最も大きな証拠であろう。成人が足りないためにこれらの兵士は主として若い新兵であり疫病にとってとくに適した燃料であったろう。彼の軍隊はバウツェン、ドレスデン、カルルスバードにおける予備的な戦いや病気との戦いによって既に17万人より少し多いだけに減少していてライプツィッヒで20万人の連合軍と戦わなければならなかった。ヨーロッパにおけるナポレオンの権力は敵対する軍隊やトラファルガーによるよりも病気によってもっと効果的に打ち破られたことは議論する余地が無い。
 クリミア戦争に関するかぎり戦争の結果を病気に求めることはできない。両軍ともにコレラ、発疹チフス、赤痢、その他の軍隊感染症によって同じように苦しんでいるからである。しかしこの戦争は我々のテーマにとって普通に無い興味がある。それは病気の力が武装による戦闘の衝突よりももっと破壊的なことを示す普通に無いように正確な記録が得られているからである。ジャクオの「オリエントの陸軍の発疹チフスについて」およびアルマンの「クリミア戦争における医学・外科学の歴史」からこの戦争における陸軍の疫病について信用できる記録が得られる。2つの異なる発疹チフス発生が存在した。1つは1854年12月に始まり他は次の都市の12月に始まった。この病気はロシア軍に始まり続いてイギリス軍とフランス軍を襲いコンスタンチノープルに入り込み艦隊および商船に拡がりロシアおよびトルコを通ってすべての方向にまき散らされた。1855年にアリマ川の戦のあとで激しいコレラが始まり1856年の4月まで続いた。種々の病気が最大の猛威を示したときに4万8000人が4月のあいだに病気のために戦列を離れた。すなわち1月あたり1万2000人であった。アルマンによるとフランスは30万9000人以上を東に送った。このうちで20万人は入院し、5万人は負傷により15万人は病気によった。次の表はフォン・リンストウから引用したもので1854年から1856年までの総括である。

     負傷者  負傷による死亡 病人   病気による死亡
フランス 39,869  20,356     196,430  49,815
イギリス 18,283  4,947     144,390  17,225
ロシア  92,381  37,958     322,097  37,454


第9章

シラミについて:この伝記の主人公の性格を形作った環境について考察する準備が整った。

 前に見たように男子個人または女子個人の伝記を書く方法は完成している。最近になり導入された精神分析法やいくらかのリビドーを除くと伝記の書き方はプルターク以来あまり変化していない。発疹チフスのような原形質の連続性を書くには新しい方法が必要である。一方ストレイチー、ルードヴィッヒ、モーロアたち伝記作家学派のような鍵穴覗きを避けることができるとしても気に入るよりは避けたくなる他の不愉快なことにかなりの文章やスペースを使わなければならない。発疹チフスは長期にわたる生存に必須な存在の時期をシラミ、ノミ、ラットの体内で過ごさなければならないからである。この他にまだ知られていない宿主があるかも知れない。しかし我々はこのようなことについて知っている。そして従ってこれらの生活相を通じて病原体を追いかけなければならない。表面上は嫌われているが我々と同じように犠牲者であり故意の悪意を全く持たない仲間(*シラミなど)の視点を手に入れなければならない。我々がこれらから病気を受け取っているのと同じように彼らは互いに受け取り我々から受け取っている。従って一方に言い分があるのと同じように他方にも言い分がある。
 人間との関係でシラミの観点を示すのはショパンにたいするジョルジュ・サンドの影響やマーク・トウェインにたいするニューヨークのエルマイラ女子大学の尊敬すべき関係を述べるよりずっと困難である。従って発疹チフスはシラミの体内に留まるという短い科学的な記載で済ませるわけには行かない。チフスそのものの実際の考察をまたもや別の章に遅らせなければならないとしても私は目的を達するために長い交際によるシラミの人情的な気持ちを述べるように努力しなければならなかった。この小さな生物を入れた錠剤箱をソックスの下に何週間も飼っていたら誇張ではなく親しみを感ずるようになる。とくに科学的な目的に使って毎朝1匹か2匹が死に他のシラミも明らかに病気になりゆっくりとしか這い回らず食欲が無くなって仰向けに置いても元に戻らないときにはそのように感じる。
 発疹チフスに急ぎたい読者はこの章を飛ばすことを勧めたい。この章は主としてシラミを取り扱うつもりだからである。しかし私が回り道ばかりすると批判したい方にはピエール・ベールの優れた方式に従っていると述べたい。彼の脚注は本文の4倍も詳しい。
 シラミは重要で品位があるのに口汚い人たちによって騒々しく取り扱われている代表である。この昆虫は魅力が無いわけではなく人類の歴史に大きな影響を持っているにもかかわらずエンサイクロペディア・ブリタニカでは1つの欄の3分の2だけであって「ラウス(アイルランドのレンスター地方の一部)」の半分、ケンタッキーのルーイヴィルの5分の1を占めるに過ぎない。この生物は疫病を運んで都市を荒廃させ住民を亡命させ勝利している軍隊をパニックに陥った烏合の衆にさせる「羽を持たない昆虫で鳥類やほ乳類に寄生し、厳密に言うとシラミ目に属する」と簡単に片付けられる。
 シラミは我々とともに発疹チフス病原体の餌食になる不幸を共有している。もしもシラミが恐怖を感ずることがあるとしたら彼らの生命にとっての悪夢はいつか発疹チフスに罹ったラットか人間に住み込むことである。宿主は生き存えるかも知れない。しかし感染した皮膚を通して吻管を差し込んで栄養物とともに嫌な病原体を吸い込んだ不幸なシラミは生き続けることはできない。8日目に病気になり10日目に臨終となり11日から12日で小さい身体は腸から遊出した血液で赤くなり死ぬ。人間はすべての自然を自己中心的な眼で見過ぎている。シラミにとって我々は恐るべき死の使者である。シラミは数世紀にわたる適応によって比較的に無害な生活を営んでいる。ところが青天の霹靂として疫病が起きる。彼の宿主が病気に罹り彼が知っている唯一の世界は疫病で死の状態になる。そして彼がどうすることもできない環境の結果として彼の病める身体は他の宿主に移ることになりその宿主を感染させる。彼は悪意があるからではなく死はすでに体内にあるが栄養を取らなければならないからである。人間とシラミは同じように苦しむ仲間であるだけでもシラミはある程度の同情を要求する権利がある。
 シラミはいつでも宿主から離れて生きることができない依存性すなわち寄生性の生物だったわけではない。嘗ては独立し自由を好むシラミが居て他の昆虫を複眼で眺め「シラミ君」と呼ばれたら微笑していたことがあった。しかし米国独立宣言よりずっと前のことであった。シラミが個人主義を放棄するには何世紀もかかったからであった。
 非常に昔のことなので新石器時代やネアンデルタール時代のシラミについて血統を探ることができる記録はない。実際のところ先祖の問題は非常に困難である。多くの博学な学者とくにエンデルラインは口の部分が似ていることからシラミ目サイファンキュラタすなわち吸血シラミは真の虫リンコタから発生したと考えている。しかしこの考えはハンドリルシュ教授たちによって全く非常識であると否定されている。彼らは表面的に論ずるにはあまりにも複雑で技術的な議論に基づいて我々のシラミは毛皮や羽を食べるトリシラミ(マロファガ)の子孫であるとしている。我々は専門家から多くの引用をしないでこのように基礎的な問題について公正な判断をすることはできない。人間の進化の場合のように宗教は関係しないがシラミ学者の間で先祖の問題については感情的な意見の衝突が無かったわけでないことを述べたい。
 学識あるハンドリルシュ教授の意見はシラミ学者のあいだでもっとも一般に好まれている。現在のシラミには相互に関係する2つの変種がある。咬むシラミすなわちマロファガと吸うシラミすなわちアノプルラである。これらの目はたぶん古いプレゴキブリから寄生的に進化したものであって現在のゴキブリやシロアリもこれから発生した。プレゴキブリすなわち原始ブラッタリアは上石炭紀の化石形であって問題にするにはあまりにも離れている。我々の仲間である吸血シラミは毛皮を食べる昆虫からチャタテあるいはコナチャタテすなわち小さい翅を持つか全く持たないものを通ったもので我々が最も良く知っているのはヒラタチャタテ(ブックライス)である。後者はシラミの直接の先祖ではないが共通の先祖から分かれたものである。条件は類人猿と人間の関係のようなものであり見ることが出来るものなのに梯子の段のように直接の先祖とか子孫としばしば誤解している。実際は同じ藪の小枝のようなものである。
 同じ先祖から派生したにしても上向きことも下向きのこともある。シラミの場合について我々は解剖学的な資料だけから判断しなければならないのでこの問題について殆ど何も知らない。自由に生きている形から純粋に寄生的になる進化は上向きよりは下向きの発展のように見える。ヒトの場合にサルとの関係はシラミとチャタテムシより近い。解剖的および血液化学的にきわめて近い。評価の裁決者であるので人間は知能的および精神的な能力を持っているので類人猿がこれらの能力を持っているのか実際は知らないのに人間は類人猿よりも高等な形であるとみなしている。優秀な生物学者が最近になって解剖学および生理学的な研究を基礎としてヒトと若く急速に成長している類人猿との関係はヒトと成長しきった類人猿の間の関係よりもずっと類似していると主張した。これによるとヒトは発育障害で適応が悪い類人猿とみなすことができる。これにたいして類人猿はこの段階を過ぎて成人になっている。成功できないことや十分に満足に遂行したり到達できないことを無理して行うことはしないようになっている。人間は永遠の青年であるというゲーテの考えとこのことは一致している。
 ともかくシラミの歴史の遠い過去のある時にチャタテムシに似て自由に生きている子孫が藁、木の皮、コケ、地衣、腐った穀物や野菜を掘って食物を求めるよりは食物を供給してくれる宿主にくっついてじっとしていると生活が無限に簡単であることを見つけたものと思われるし証拠がある。これは自然の過程がきわめて論理的である1つの例である。シラミは自由を犠牲にする。自由は主として重労働の必要、食べ物や隠れ場が不確かなこと、トリ・トカゲ・カエルに襲われる危険性、であり、もちろん翅を持つ楽しみが無くなる。しかしその代わりに豊富な島に安全で努力しないで生きていることができるようになる。したがって寄生生活をすることによってシラミは資本家文明の理想に達することができる。生活方法は商売や銀行よりももっと直接ではあるが自分の仲間を栄養にすることはない。
 ともかくこのようにして寄生性のシラミが生じた。最初は咬むシラミすなわちマロファガだったろう。そして自然の無限の順応性を示して次のものが発生した――
 ニワトリハジラミ
 トリノトン、ガチョウハジラミ
 ほっそりしたアヒルハジラミ
 ハトハジラミ
 シチメンチョウハジラミ
 咬むモルモットハジラミ
 トリコデクター、ウマハジラミ
一部だけである。これらからかまたは平行して主として問題にしている小動物が出現した。羽根や毛皮やふけを食べるので満足しないでこれらの変種は親切な天佑によって薄い皮膚の温血動物の上に投げ出され理解できないような賢明さにより(またはシナ人が焼き豚を発見したのと同じように偶然にも引っ掻いてみて)彼らの脚下に赤血球が無限に供給されていることを発見した。彼らは穴をあけ吸い込む構造を発展させることによって以下のものが発生した。
 ブタジラミ
 イヌジラミ
 ポリプラックス、ネズミジラミ
 ヒツジの脚ジラミ
 ネコジラミ
 鼻の短いウシジラミ
 サルジラミ
 ペディクルス、ヒトのアタマジラミ、コロモジラミ

 主として我々が関係するのは最後の2つ(アタマジラミ、コロモジラミ)であり相互に関係していて、今でも若者が襟あたりで出会うと「身分違いの結婚」が起きてコロモジラミが住み込んでアタマジラミと雑種を作ることがある。ケジラミは無視することができる。これはたぶん起源が違い尊敬にも同情にも値しないし恐怖する必要も無い。
 ヒトのアタマジラミは毛皮を持つ動物から原始人の髪に移ったものであるがこの点でもシラミの遣り取りは決して一方向ではなかったようである。アメリカの動物学者 H. E. ユーイングはアテレスサルのシラミは住民から受け取った可能性があると提案している。種々のサルのシラミとヒトのシラミは近縁関係があって害が無く宿主を交換することができる。我々はアラビア人のアタマジラミが東インドサルに植え付けられて数週のあいだ生き続け死亡率も低かった。このような宿主の交換はいつでも可能なわけではない。異なる宿主で飼われたシラミは重い消化不良を起こして死ぬ。
 ヒトが旧大陸から熱帯アメリカに来たときにクモザル(*アメリカ原産でアテレスに属する)はヒトからシラミを受け取ったことをユーイングはさらに示唆している。アテレスサルの柔らかい毛は堅さや量がヒトの髪の毛に非常によく似ているし血液は生理学的に新世界の他のサルよりも人間に似ている。これらのユーイングの考えは発疹チフスの伝記に関連して非常に重要である。メキシコ征服の前にアメリカに発疹チフスがあったかどうかがしばしば問題になるからである。もしもユーイングが言うようにアテレスに取り付いているシラミの系統が宿主の系統と同じであるとしたらこのシラミは長い地質時代にアメリカに住んでいたことになる。ユーイングの著作からエリオットの結果を引用するとアテレス属のクモザルは広範に分布していて南中央ブラジルから北はメキシコのヴェラクルズまでおよびエクアドルの太平洋岸からブラジルの大西洋岸まで拡がっている。権威者によるとアメリカのシラミのグループにははっきりとした2種類がある。1つはヒトに限り他はサルに限る。人間にまず取り付くのは主としてアタマジラミの雑種である。これらの純粋種は白人、黒人、赤色人、黄色人の元来の地理的範囲に見いだされる。アメリカのサルに取り付くシラミは知られている限りでは宿主によってはっきりとした種類となる。すなわち宿主と寄生者のあいだにある程度の系統発生的な関係がある。もしもある宿主サルがヒトからのシラミを獲得したとすると最近のヒトからではなく種の分化が可能なほど十分に長い何万年も昔のヒトから獲得したのである。
 ひとたび原始人類の頭に定着するとシラミは人種から人種に伝えられ形や性質が少しずつ変化し世界の違う場所で見つかった性質から人種の関係についての情報を得ることができる。「黒色ヒトシラミ」すなわちアフリカニグロに見つかるアタマジラミはヨーロッパや現代アメリカ人の頭のシラミとは少し違う。後者は黒色の強い株との雑種のようである。有史以前のアメリカインディアンのミイラ頭皮に見つかった「アメリカヒトシラミ」はまたもや異なり、この古代の寄生体は文明とともにアメリカに持ち込まれた「ヨーロッパヒトシラミ」と一緒に現在のインディアンの頭皮から採取されている。
 我々の優れた権威者ユーイングは生きているアメリカ人から多数のシラミを研究してシラミの型と宿主である人間の人種型に関連が無いことを見つけた。アメリカは人種の坩堝であるとともにシラミの坩堝でもあった。ユーイングはアメリカ人種を取り扱っていて種々の人種型の雑種であるという信念を持ちこの信念はベイコットによる最近の発見によって支持された。ベイコットの発見はヒトのアタマジラミがコロモジラミと雑婚して増殖力の強い子孫を得ることであった。これによってユーイングは我々の現代知識人の頭を調べることによって元来のアメリカシラミについての情報を得ることが無駄であることを知りアメリカミイラの頭皮のシラミを調べることにした。最初に彼の研究は無駄であった。コロンブス時代以前のペルーミイラの頭皮に大量のシラミの卵塊を見つけたがミイラになった成虫を見つけることができなかった。しかし後になってアメリカ自然史博物館のルッツ博士を通じて20人の有史前インディアンミイラの頭皮を入手した。そのうちの3人の頭皮には卵塊だけでなく発生のすべての段階のシラミが得られた。ペルーのミイラからのシラミは合衆国の南西部から得られたものと少し違い有史前ミイラからのすべてのシラミは生きているインディアンから得られるシラミと違いがあった。ユーイングによると現在生きているインディアンはコーカサス型(白人)とエチオピア型(アフリカ人)のアタマジラミの2種とさらにアメリカ型との雑種を持っていることになる。さらにアメリカミイラ型はファーレンホルツの「辺縁型ヒトジラミ」すなわち日本人型の雑種とも違うことを述べるべきであろう。
 シプリーによるとシラミはその色を宿主の色に適応するとのことである。従ってアフリカの黒いシラミ、インド人のくすんだ色のシラミ、日本人の黄褐色のシラミ、北アメリカインディアンの暗褐色のもの、エスキモーの淡褐色のもの、ヨーロッパ人の汚灰色のものがある。
 根拠ははっきりしないが有史前アメリカシラミはシナのアタマジラミやアリューシャンのエスキモーのシラミに非常によく似ていると記載されている。ベーリング海峡を経て民族移動が行われたことのもう1つの論証である。
 裸の人間が衣類を着るようになって種々のアタマジラミからコロモジラミが生じた。原始人種にはふつうコロモジラミがいない。宿主が文明化するに従ってシラミは卵嚢または卵を身体の体毛ではなく衣類の繊維に付着させるようになった。これによって直接の打撃からのある程度の防御および広範な移動を得ることになった。
 アタマジラミからコロモジラミへの発展の過程で多くの興味ある習慣の変化が生まれる。自由なシラミは皮膚の上にいることは殆どない。摂食している以外にシラミは下着の中で身体に接触しているし摂食しているときでも脚は衣服の繊維に付着している。受胎すると母親シラミは毎日5個またはそれ以上の卵を産み約30日続く。卵は一種のセメント様物質で衣服の繊維に付着し卵塊を形成する。孵化の期間は温度によって違う。人体の正常体温では約1週間であるが寒気にしばしば曝されたり低温に置かれると1月もかかることがある。卵から出るのに若い幼虫は途方もない冒険をする。最初に小さな蓋オペルクルムを無理に開く。これは自由を最初に見るすばらしい機会である。しかし外に出るのに穴は小さすぎる。幼虫は工夫をして空気を前から吸い込み後から出す。このようにして圧力は自然に高くなって幼虫は広い世界に飛び出す。このときになると親の完全なコピーである小さいシラミである。しかしここで食物を摂取できなかったら1日から2日で死ぬ。もしも適当な状態になると4日から1週間で第二幼虫期になり第三幼児期に入り性的なものを除くとシラミとして完全な特権を持つ。卵から出て2週間から3週間経たないと完全に性的に成熟したシラミにはならない。‥‥しかしこうなると1人前である!


第10章

シラミについての続き:伝記の本質を理解しようとする人にはこの章の必要性は明らかであろう。

 真の目的すなわち発疹チフスについて議論したいとは思っているがシラミはあまりにも誤解されているのでそれについて更に数ページを割くことをお許し願いたい。昆虫社会で特に重要な役割を果たしている社会の力は昆虫記の著者ファーブル、青い鳥などの他にアリの生活、ハチの生活などの著者メーテルリンク、社会性昆虫の進化理論の著者ウィーラーやそれほど有名でない人々によって研究されているが動物進化の研究ではほとんど無視されている。蜂の巣の封建的母親家長制度は能率が良く尊敬すべきものであり人間が作った同じようなものに比べると全般的に満足できるずっと優れたものである。ウィーラー教授が記載しているシロアリの共産主義体制は現在のロシアが期待しているものの完全な最終的なものであって人間が考える以上に完全と考えることができる。人間が「知性」によって努力していると説明されるものはいわゆる下等な動物生活では「本能」とか進化力によって達成されている。人間の社会や政府の変化は休むところがない人間の大きな活動によって速く達成されるが外の力によって同じように影響されると考えることができる。寄生生活がシラミで発展したのは偶然的に食物が簡単に得られ生活が保障されるようになったシラミの個体が楽に生きる資本主義的な欲望の衝動を持つようになったからであろうと前章で述べた。肥沃な土地に移住してくるとこれらの移民たちのあいだで「すべてのシラミは生まれながらに平等であり自由と平等と友愛が社会を支配すべきである」という確信が増大するようになったかも知れないしこのようにして翅とか独立心とか進取の気性とかが失われるようになりシラミの能力は最低レベルで安定化するようになったかも知れないことは同じように起きえないことではない。しかしシラミは人間と同じように何らかの理由でハチやアリのように高度の複雑な文明を発展させることはできなかった。多分このような発展は不必要であった。豊かな土地が無限に新しく供給されるからである。シラミはキャプテン・クックが来る前のポリネシア人と同じように土地は十分にあり気候、隠れ家、大好きな香り、愛を囁くための雑木林、愛人と巣を作るための下生えが供給されていた。彼の足下には好きな食べ物が充分にあり中空の針を軟らかい皮膚に刺せば毎日2回3回の食餌が得られ原住民がココナツを木から落とすよりも楽であった。シラミは拘束がない単純さでルソーの言う「高貴な野蛮人」であってミスター・バビット(*シンクレア・ルイスの同名小説(1922)の主人公)の大嫌いなものである。もしもミスター・バビットとともに嘆くとしても残念なことに将来が良くなると期待しない。我々の大陸は完全に活用されて200年のあいだにシラミのように進歩しないで居て容易に採掘できるものが無くなったので、精神的な深化が要求されている。しかしラウジーな(*シラミがたかった、(俗)汚らしい)人たちが居るかぎりシラミは唯物論的な存在であり続ける。新生児は処女大陸であってシラミを開拓者とし、シラミ仲間のヴァン・ウィック・ブルックスやマンフォードが「自分の価値を評価せよ」と言っても耳を傾けないであろう。
 確かめられている限り人間が出現して以来シラミと人間は離れることができない仲間であった。他の寄生物と違ってシラミは事故とか災難がなければ宿主から離れることはできなかった。シラミは放り出されたり宿主が死んだときにすぐに宿主を探し出せないと死滅する。この事実によって多くの宗教心を持つシラミ学者はアダムとイヴにシラミがたかっていたかどうか考察している。カウアンは1746年の「紳士雑誌」からこの興味ある問題についての1人の著者の意見を引用している。「シラミがアダムとその夫人に住み着いたとは思わない。ミルトンを信ずるならば2人は結婚した夫婦でもっとも綺麗好きだったからである。しかしシラミは生きるために野原の草を食べたりゴミを舐めるのを好まないのでどうやって生きたのだろうか。」この問題は解決されていない。しかし前に述べたように世界の多くの場所からの最も古いミイラにシラミは存在し初期の旅行者たちはすべての原住民でシラミに出会っている。カウアンは著書「昆虫の歴史において不思議な事実」でスキタイの住民ブディニ族がシラミを食べるというワンレイの話を引用しホッテントットやアメリカインディアンにも存在することを記録している。この習慣は今でもサルで盛んに行われている。これらの人々および中世イギリスでシラミを食べるのは医学的な価値があり特に黄疸に効果があると考えられていた。同じ珍しい本に「パーチャス旅行記」からインド南西岸マラバルの住民の不思議な習慣が引用されている。「シラミで大変に困ったら」ある宗教の聖人に頼むと聖人は「他の人たちが見つけられるすべてのシラミを取って(自分の?)頭に移して養う。」情け深い自己犠牲の行為であってこれによってだけでも聖人の列に加えられる。
 コルテスが侵入する前にアステク族に発疹チフスが拡がっていたという現在では可能性が高い推論はトルケマダが引用している話である。「最後の皇帝モンテスマがスペイン人と一緒に父親の宮殿にいたときにオヘダは口を結んだ幾つもの小さい袋を発見した。最初に彼は砂金が詰まっていると考えた。しかし1つの袋を開けて驚いたことにシラミが一杯に詰まっていた!」オヘダはこれをコルテスに話しコルテスはマリナとアングィラーに説明を求めた。メキシコ人は貧乏で支配者に収めるものを持っていなかったら毎日身体を清めシラミを蓄えるのを義務としていたそうである。袋が一杯になるほど集めると彼らは王の足下に捧げることになっていた。ワイズルは北シベリアの現地人のあいだにしばらく逗留していたときに彼の小屋に訪ねてくる若い女性がはしゃいでシラミを投げつけたことを話してくれた。この迷惑な行為について尋ねるとこれは愛を示すもので真面目な意向の合図であった。一種の「私のシラミは貴方のシラミ」の儀式であった。
 人間の社会生活におけるシラミの重要で親身な役割を示すには未開人や原始人の例だけに限る必要はない。我々の時代でもこれらの小さい生物は大部分の文明社会で不幸な人たちのあいだでは今でも充分に広く分布している。しかしアプトン・シンクレアが言っているようにボストンのようにデカダンのところではそうであるが探し方を知らないとこの昆虫を入手するのはしばしば困難である。私の経験ではある時に発疹チフスを疑われる患者で飼うために感染していないシラミがすぐに必要となり市の警部の科学にたいする熱意に訴えて特に欲しいと思うこの昆虫を持っている黒人紳士を一時的に逮捕して貰ったことがある。言う必要が無いことだが彼は沢山持っているものを供給した後でもちろんすぐに釈放された。
 実際に従軍した人は知っているように水の供給が無くなったり石鹸が足りなくなったり衣服を着替えるのが遅くなると直ちにシラミは帰ってくる。実際にシラミが社会の最高の地位の人たちまで拡がっていたのはそれ程古いことではなく洗礼や天然痘のように避けることができない存在であった。
 シラミは政治においてさえも重要であった。カウアンはスウェーデンのフルデンブルクで広く行われている習慣について語っている。中世にここで市長は次のように選ばれた。資格のある人たちはテーブルの周りに頭を前に下げて顎ヒゲをテーブルの上にのせた。そこで1匹のシラミをテーブルの中央の置いた。シラミが最初に入り込んだヒゲの持ち主が次の年の市長となった。
 中世の生活様式ではシラミの蔓延は避けることができなかった。イギリスでは12世紀および13世紀に貧乏人の家は小屋に過ぎず中央の炉の煙を出すために屋根に1つだけの穴があった。寒い季節にに家族は昼間に着ていた1枚だけの単純な衣類を変えないで1カ所に集まっていた。洗濯するなどは問題外であり比較的に裕福な階級でも暖房が無い家では快適からはほど遠く何枚もの衣服を着て取り替えることは稀であった。聖トマス・ベケット(*ヘンリー2世に殺されたカンタベリー大司教)の葬式についてのマッカーサーによる話はこのことを示している。
 大司教は12月29日夕方にカンタベリー大聖堂で殺された。死体は夜通し大聖堂に置かれ次の日の埋葬が準備された。大司教は素晴らしい衣服を着ていた。大きな褐色のマントを着ていて、その下には白い法衣、その下には羊毛のコート、その下には他の毛のコート、その下には3番目の毛のコート、この下にはベネディクト修道士の黒い頭衣つき衣、その下にシャツ、さらにリネンで覆われた変わった馬巣織りを身体につけていた。身体が冷たくなるにつれて何層にも覆われた衣類の中に生きていたシラミは這いだしマッカーサーは次のように年代記作家を引用している。「シラミは煮え立っている大鍋の水のように沸き立ち会う人たちは泣いたり笑ったりを繰り返した。」
 頭を剃りウィッグ(かつら)を被ったのはシラミが取り付くのを避けるためであったことは疑いも無い。ヨーロッパ全体の紳士淑女はこの習慣に頼っていたが被っているウィッグにはしばしばシラミの卵が付いていた。ピープスは日記の幾つかの所で新しく買ったウィッグにシラミの卵がたくさん付いていたことの不満を書いている。「それからウェストミンスターの理髪店に行って最近に作らせたペリウィッグからシラミの卵を取らせてこのようなものを私に渡したことを怒った。」
 最高の社会でもシラミのことや身体を掻く問題は重要なことであり最高の社会でさえ子供の教育にシラミについての躾が含まれた。ルブーは17世紀中葉のフランス皇女の教育について次のように述べている。「若い皇女に次のように注意深く教えなければならない。習慣で必要も無いのに掻くのは行儀が悪い。シラミ、ノミその他の虫を人前で頸から捕まえて殺すのはよほど気の置けないサークルでなければ適当でない。」
 彼は貴族社会でもひろくシラミが蔓延していたことを示している。若いド・ギッシュ伯爵が王の義妹の婦人を好色の眼で見たことによって王を怒らせた。王は伯爵の父親を息子のところに使わして追放を宣告させた。父親が到着したときに息子は寝台から出ていなかった。年老いた将軍が寝台の前に立ったときに1匹のシラミが彼のかつらの下から這いだして老人の額の深い皺にそって這い眉毛によって作られた小さな藪の端を通ってかつらの毛の下に這って戻った。ド・ギッシュ伯爵がシラミの冒険を見ているあいだに宣告は終わってしまった。
 18世紀になってもシラミは必要なものとみなされていた。1世代にわたって細菌学者たちは腸内の大腸菌は常に存在しているので生理学的な目的が無いことはあり得ないのではないかと思っていた。同じ理由で医学者リンネは小児がシラミによって幾つもの病気から保護されていると考えていた。
 ヒューズが書いたジョージ・ワシントンの伝記によると14歳のときにワシントンが書き写した「礼儀規則」には次のように書かれている。「ノミ、シラミ、ダニのような虫を他人の目の前で殺してはならない。汚物や痰を見たら器用に足を載せなさい。友達の衣服に付いていたら判らないように除きなさい。貴方自身の衣服に付いていたら除いてくれた人に感謝しなさい。」
 植民地時代以後にこれらのことは変化した。シラミは上流社会から完全に追放された。中流家庭ですべてのガレージに自動車は無いかも知れないがほとんど全ての住居やフラットには必ず浴槽が存在している。浴槽に石炭を蓄える習慣は次第に少なくなっている。シラミはその結果として文明化した国ではますます減少しているような困窮し非常に貧乏な人たちに限られるようになっている。しかし我が国に今でもこのような人たちは少なくはなく、地球上には原始的な生活を送り浴槽は贅沢であり入浴は反革命である地域が存在している。シラミは完全に居なくなることはないだろうし非常に衛生的な人たちの広大な領域にシラミが蔓延に成功する可能性があるであろう。
 そしてシラミが存在する限り発疹チフス流行の可能性が残る。


第11章

主としてラット(*ドブネズミとクマネズミ)について。マウス(*ハツカネズミ)についても少し触れる。

 我々の伝記の主人公はその冒険的な存在のある段階においてラットと何らかの関係があることはよく知られている。とくに強調したり削除したりして事実を曲げることなくバランスの取れた立場で書くのが私の目的であるので人間その他の発疹チフスの宿主にとって重要な役割を持つ齧歯類について書くことが必要となった。ラットを取り扱うにあたってそれほど重視するわけではないが小さい兄弟であるマウスも取り扱うことが必要である。発疹チフス病原体はある種のマウスで気持ちよく生きていることができ疫学的研究の対象として意味があるからであう。発疹チフスと近い親戚関係がある日本のツツガムシ熱は野生マウスから人間にアカダニによって伝播される。
 ラットと発疹チフスの関係で判っているのは部分的なことに過ぎない。はっきりと知られているのは新世界における発疹チフスの病原体がラットのノミおよびメキシコ市の流行中心で捕まったラットの脳に見つかったことだけである。上に述べた場所で病気は感染したラットからノミによって伝播したのであろう。地中海沿岸のラットも同じように感染することが知られている。最近数年間の研究によるとメキシコ・アメリカ型および地中海沿岸の地方病的な発疹チフスは齧歯類に高度に適応していて人間における流行と流行の間にラットによって運ばれる。ラットからラットへラットシラミ(ポリプラックス)およびラットノミ(ゼノプシラ)によって運ばれ適当な場合にはラットから人間へラットノミで運ばれる。この理由でニコルはこれを「ネズミ」病原体と呼んでいる。歴史的な東ヨーロッパ発疹チフス流行中心およびアフリカの病例から得られた病原体は齧歯類に毒性が弱くここで記載するにはあまりにも技術的と思われる理由で何世紀にもわたってラットだけでなく人間を運び手として蔓延したと思われる。感染したヒトとともにヨーロッパ型感染はアメリカに輸入され「ブリル病」と呼ばれるようになりアメリカでは両方の種類を持つことができるようになった。両方とも病原体はもともと齧歯類に感染した共通株に原因することは明らかである。だからこれらの動物が問題である。これらの動物は発疹チフスの疫学を追跡するだけに興味があるだけでなくペストに関しても興味深い。この2つの災難は時代を通じて全般的な悲しみ、苦しみ、死に大きな責任があり人間と残忍性を共有している。
 齧歯類が病気を運ぶ危険な性質について何らかの知識を得る前に、人類は齧歯類を恐れ追っていたことは不思議な事実である。スティッカーは古代および中世の文献からこの主題についての大量の引用を集め中世ヨーロッパの民話からペストとラットのあいだの漠然とした認識を示す多くの事実を見いだした。古代パレスティナでユダヤ人はすべての7種類のマウス(アクバール)をすべて不浄であるのでブタと同じようにヒトの栄養に適しないと考えた。ゾロアスターの尊敬者(拝火教徒)はミズネズミを嫌いこれを殺すのが神への奉仕と考えた。病気から人を守るアポロ・スミンテウスはマウスを殺す神とも言われ聖ゲルトルーディスはペストとマウスから守っていると初期カトリック教会の司教たちに考えられていた。スティッカーによると1498年はペストがドイツに流行しフランクフルトではラットが大発生し係員は何時間も毎日町の橋に居てラット1匹を連れ込む人に1ペニッヒ払わせることになっていた。係員は原始的な計算法としてラットの尻尾を切り死体を川に投げ捨てた。スティッカーによると15世紀にフランクフルトのユダヤ人は毎年5,000本の尻尾を税として収めることになっていたとハイネは述べている。ヨーロッパの何カ所の民話によると生まれつきラットとマウスの天敵であるネコとイヌはペストの大流行にさいしてペストにたいする守護者であった。
 大部分の学者は古典文献でラットそのものについて信用できる言及の無いことで一致している。ギリシア語にはムスという単語があった。ヘロドトスは野生マウス(ムス・アロイライオス=いなかマウス)について述べている。ムス・エンピトクス(ピクルス壺のマウス)は「穴に入っている=困っている」を意味した。ギリシア人はウラクスを知っていて後期ラテン語の「ソレクス」であって齧歯類ではなくトガリネズミでありマウスに似ていて文献ではマウスと混同されていたようである。私の学友ランド教授はケラーが「古代の動物」でローマ皇帝ヘリオガバルスが「1万匹のマウス、千匹のトガリネズミ、千匹のイタチの戦いを行わせた」話を引用していることを述べてくれた。言う必要は無いがトガリネズミはマウスに楽勝しイタチは両者を殺した。
 ローマ人はマウスをよく知っていた。有害動物として知られムスクルス(小さなマウス)は著述家マルティアヌスによって愛玩動物にみなされた。この言葉の語根(ペルシャ語でムイシ、ヒンドゥ語でムサやムシ、パーリ語でムシコ)はマウスが古代に世界全体で知られていたことを示している。
 しかしマウスとラットのあいだに初期には特別な区別が無く、少なくともギリシア人やローマ人のあいだでマウスと言ってラットを意味しているかも知れないと思うことは正当化されていないと権威者のあいだで一般に同意されているようである。しかし古代東洋にラットが多く居たようであるしギリシアと地中海沿岸の都市のあいだに密接な交通がありエジプトとローマのあいだで穀物の交流があったことを考えると古代ヨーロッパの沿岸地帯にラットが全く居なかったと信ずることはできない。
 近東のマウスとラットに関してヘロドトスはリビアについて「この国には3種類のマウスが居る。1つは『2本足』のマウスで他は『ゼゲリス』(丘を意味し多分プレーリードッグの一種)であり第3は『トゲ』マウスである」と言っている。彼はまたアラビアとアッシリアの王サナクリブがエジプトに大軍を行進させたときに戦闘の前の晩に「野生のマウスの大群が集まり矢や弓や盾の取っ手を食べ尽くし」たので翌日に大軍は逃げた。これは小さな野生のマウスよりむしろラットのようである。しかしこれらが事実であるかは疑わしい。
 古典時代にヨーロッパ本土で真のラットが存在したことを示すのは不可能であり疫病の流行状態を明らかにすることはできない。ペロポネソス戦争以来ペストと発疹チフスの昆虫および齧歯類への適応が変化してこれらの病気の流行性の変化した可能性が考えられる。しかしマウスとラットのように似ていて相互に関係するものを動物学的に正確に区別することは古い記録では不可能であり、ラットは家に住んでいないにしても既に存在していた可能性が大きい。こう考えることによって、その後になって人口が稠密になり都市化するようになったときに比べると明らかにそれほど広範で致死的ではなかった古代の状態における疫病の本性についてずっと幅広く推察することができる。ともかく当時にラットが現在と同じように居たとしたら信頼できる記録が存在するはずである。オデュッセウスの妻ペネローペの家のように質素で良く管理されていたらイエネズミ(*クマネズミ、ドブネズミ、マウスの総称)はその後になったように人間に寄生的ではなかっただろう。
 これらはすべて推測である。この問題についてよく知っている研究者によると歴史時代に十字軍のすぐ後までヨーロッパにはラットについての知識は殆ど無かった。有史以前には間違いなくラットは居たのであろうが後に居なくなった。イタリア北部ロンバルディアの鮮新世(*1000万年から2000万年前)およびクレタ島の更新世(*200万年から1万年前:人間の出現)にラットの化石が見つかっている。ラットは氷河期に湖の住民とともに住んでいてドイツ北東部のバルト海に臨むメックレンブルクからドイツ西部で住民を悩ましていた。この頃からラットは殆ど居なくなり数千年後まで居なかった。
 ラットのヨーロッパへの再出現について熱心な動物学者たちは莫大な量の資料を集めてくれた。大部分はバレット=ハミルトンとヒントンの「イギリスのほ乳類の歴史」、ドナルドソンの「ラットについて」に興味深く総括されている。しかしこの主題に進む前にラットと人間の著しい類似性を考えるのは有益であろう。他のどんな動物種よりもラットとマウスは人間に依存しそれによって驚くほど人間的と言える特性を発展させた。
 第1にラットはヒトと同じように実際的に雑食性である。食べられるものは何でも食べる。人間と同じようにストレスのときには同じ仲間まで食べる。季節を選ばずに交配するが恋愛時期が主に春であることは人間と似ている。容易に雑種を作るがクマネズミ(*黒ラット)とドブネズミ(*褐色ラット)のあいだの緊張した関係で判るように雑種形成にたいして社会的・種族的な偏見がある。性の割合はヒトと同じである。近親交配も普通に行われる。雄は大きく雌は脂肪が多い。あらゆる気候に適応する。同種のものと残酷な戦争をするが未だ国を作ってはいない。今までのところ国を作る前の人間と同じように部族間の戦争に留まっている。もしこれまでと同じように人間の真似をするとなると数世紀後にフランスのラットはドイツのラットを食べたりナチのラットは共産主義やユダヤのラットを攻撃するだろう。しかし多分このような文明は単なる動物の能力の限界内のことではないであろう。また人間と同じようにラットは援助を必要とするまでは個人主義的である。すなわち食物のためにせよ愛のためにせよ弱いライバルには自分だけで勇敢に戦う。しかし軍隊を組織し必要なときには大群で争う。
 ドナルドソンは主として神経系の発展段階からラットの3年を人間の90年に相当すると計算した。このスケールによるとラットはおよそ16歳で思春期に達し45歳に相当するときに閉経となる。ラットは全地球上で人間の跡を追い人間以外のどの生物よりも季節の変化や気候のどんな条件にも適応することができる。
 ヨーロッパに最初に来たラットは「クマネズミ=ラットス・ラットス」でクロネズミ、イエネズミ、フナネズミとも言う。紀元400年から1100年のあいだの民族大移動にさいして遊牧民とともに東からヨーロッパに流れ込んだと考えられる。少し後になり第1次十字軍の帰国より前ではないとも言われている。紀元700年のエピナル用語集には記載されていないが1000年のアルフリック大司教用語集に「raet」とあるのはこれかも知れない。しかしこれを引用させて貰った権威者たちは「rata」という言葉は家に住んでいるマウスのプロヴァンス語(フランス南部の方言)であってこの言葉がイギリスに導入されたのではないかと注意を喚起している。ハミルトンとヒントンによるとラットとマウスをはっきりと区別したのはジラルドゥス・カンブレンシスの著作である。その後でしばしば使われるようになった。
 クマネズミが東洋に起源することについて権威者のあいだで意見の相違は無いようであるが東洋の特定の場所についてはかなりの違いがある。ド・リールはアレキサンドリアラットがヨーロッパのクマネズミの起源種と信じている。これは彼によると7世紀まで人間社会で寄生的ではなく以前には野生であって多分アラビアの砂漠に住んでいた。これが理由で貿易に伴って古典時代ヨーロッパに入ったり中世初期にサラセンの侵入に伴ってヨーロッパに入るのに成功しなかった。十字軍の頃までにこのラットは家に住むようになり人間の移動に伴うようになった。登るのが得意でフナネズミであったので地中海の港に急速に拡がった。ハミルトンとヒルトンによると海から来たことは現代ギリシア語で「ポンティコス」と呼ばれジェノヴァ人に「パンタゲナ」(*到るところから来た)と呼ばれていることに示される。ジェノヴァ人はこれをモグラと間違えて「サルパ」と呼んだ。これはラットが彼らにとって目新しかったもう1つの証拠である。
 到着した時からこのラットはヨーロッパに急速に拡がった。そのスピードは白人がアメリカに拡がったのよりも速かったぐらいであった。13世紀末までにラットは害獣になった。笛を吹いてラットをヴェーザー川(*ドイツ北西部の川)に連れ込んだが町は謝金を払わなかったので子供たちをコッペンベルクの洞窟に連れ込んだハーメルンのねずみ取り男の話は1284年またはその頃のことであった。この時までこのラットはイギリスに侵入していた。アイルランドにはこれより少し前に達していて「外国の」または「フランス」のマウスであった。権威者たちによるとアイルランドでは最近まで外国から来たものは「フランス」のと呼ばれていた。しばらくしてラットはデンマーク、ノルウェーおよび近くの島に達した。シェークスピア時代までにクマネズミは恐ろしく迷惑になり猛威を防ぐための祈りの日が別に設けられるようになりネズミ捕獲人(ロメオとジュリエット第3幕参照)は重要な役人であり今日で言へば科学者とか芸術家と自分たちを呼んだのであろう(不動産屋とか葬儀屋と呼ぶようにネズミ屋かも知れない。)
 ヴァンダル人が北アフリカで、サラセン人がスペインで、ノルマン人がイタリアで、全盛を誇ったあいだの2倍ほどのあいだクマネズミはヨーロッパで全盛を誇った。クマネズミが君臨したのは30年戦争(1618-48)から17世紀後半にかけてペストの破壊的な流行が戦場を覆っていた時期であった。ペストが権力を持った数世紀のあいだにもっとも破壊的な発疹チフス流行が起こり戦争と飢饉が伴いこれらは我々の時代にも起きている。中世ヨーロッパのクマネズミがこれらに役割を果たしたかどうかは確かでない。しかしこの時のペスト流行に重要な役割を果たしたことは疑問の余地は無い。
 しかし北ヨーロッパの確立された文明が東洋からの異民族の大量侵入によって圧倒されたように黒色ラット(クマネズミ)の確立された支配は褐色ラットの大群の侵入によって最終的に一掃された。これは凶暴で鼻が短く尾が短いアジア種で18世紀の初めにヨーロッパ大陸を占領した。鼻が細長く尾が長く登るのが得意なクマネズミは今日までに以前の本拠地からは殆ど居なくなり沿岸、海港、大陸から離れた島、大きくもっと野蛮なライバルと競争して寄生生活をしないですむ南アメリカなどの熱帯地方や褐色の征服者がまだ来ていない所で、比較的に小さなグループとしてのみ生きている。ただ船の上だけでは登攀力が優れているので以前の強さを保っている。
 ドブネズミすなわち褐色のラットも東洋から来た。これは「ふつう」のラットとして知られているし起源を間違えて「ラットス・ノルヴェギクス」と呼ばれている。ハミルトンとヒルトンによると真の起源は多分シナの蒙古地方かバイカル湖の東の地方と考えられ、似た形のものがどちらにも土着している。彼らはカスピ海の周辺に住んでいる古代人がこのラットを知っていたというブラシウスの言葉を引用している。2世紀ごろのローマの修辞学者クラウディウス・アエリアヌスはその著「動物の性質」で「エジプトマングースより少し小さいものが大群で」カスピ海沿岸の国を周期的に襲い「お互いに尾を握って川を渡る」と述べている。これは正しいかも知れないし正しくないかも知れないが18世紀までこのラットは西ヨーロッパには知られていなかった。
 パラスはその著「ロシア・アジアの動物誌」で1727年(ねずみ年)にこれらのラットの大群が地震の後でヴォルガ川を泳いで渡ったことを記録している。これらはアストラハン(*ヴォルガ川下流の三角州)を襲った後で急速に西に拡がった。1728年にたぶん船によってイギリスに達し正しくはない理由で「ハノーヴァーラット」と呼ばれた。この頃にこれらのラットはまだドイツに達していなかったと思われるがハノーヴァー王室はイギリスで評判が悪かったからであった。プロイセンには1750年に見られ始め普通に見られるようになったのは1780年のことであった。ビュフォンはこのラットを1753年に知りリンネは1758年に知った。2人とも既に「有名」であり委員会への出席で忙しかったのであろう。ドブネズミはノルウェーに1762年に達し少し後でスペインに着きほぼ1770年にスコットランドに達した。1775年までにイギリスからアメリカに到着した。住民が「倹約」と言われる国(*スコットランド)はドブネズミにとって楽でなかったようである。スコットランドではセルカーク(南東部)からマリシャー(北東部)に達するのに1776年から1834年までかかった。1869年までスイスには入ろうとしなかったしスイス人のあいだでは楽でなかった。アメリカ大陸を横断するのには時間がかかった。砂漠、川、があり「戸口から戸口まで」遠かったからである。従ってカリフォルニアには1851年になるまで到着しなかった。しかし到着するとドブネズミは素晴らしい気候のもとで他にないほど繁殖した。現在ではラットは北アメリカをパナマからアラスカまで拡がり熱帯的でない部分の南アメリカ、南洋諸島、ニュージーランド、オーストラリアに侵入した。事実、ドブネズミは世界を征服した。極寒のグリーンランドだけはドブネズミに魅力が無かったようであった。エスキモーと違って良いセンスを持っていて極地に連れて行くと機会を見て南にさまよい出た。
 ドブネズミはどこかに行くと競争相手のクマネズミを始めとして他のライバルとなる齧歯類を追い出している。他のすべての生物にとってドブネズミは全く迷惑なものであり有害生物である。何も弁護することはない。どこでも生きることができるし何でも食べることができる。必要とあれば穴を掘ることもできるが可能であればウサギのような他の動物の住居を占領しその動物や子供を殺す。登ることもできるし泳ぐこともできる。
 ドブネズミはヒトや動物の病気を媒介する。ペスト、発疹チフス、繊毛虫症、鼡咬症、流行性肝炎、ひょっとすると塹壕熱、たぶん口蹄疫、ある形のウマのインフルエンザをあげることができる。破壊性はほとんど際限が無い。合衆国農務省のランツはこの損害の概略を次のように評価した(短縮している)。
 ラットは耕作した穀物を種子、芽、または実った後で破壊する。
 トウモロコシを成長中でも貯蔵所でも食べ作物の半分を取り去ることが知られている。1匹のラットは1年に40-50ポンドを食べることができる。
 貯蔵したり運搬している商品、本、皮革、馬具、手袋、布、果物、野菜、ピーナツ、などを破壊する。
 ラットは飼鳥類の大きな敵であり、ニワトリ、若いシチメンチョウ、アヒル、ハトを殺し、大量の卵を食べている。
 ラットは野鳥、カモ、ヤマシギ、鳴く鳥を滅ぼす。
 つぼみ、種、若い植物、花を駄目にする。
 木材、配管、壁、基礎、を囓って建物に大きな害を与える。
 ハーゲンベック動物園はラットが象の足を囓ったので3匹を殺さなければならなかった。ラットは子羊を殺し太ったブタの腹に穴をあけた。
 ダムに穴を開けて洪水を起こした。マッチを囓って火事を起こした。郵便袋に穴を開けて手紙を食べた。インドで不作の年に大量の収穫を食べて実際に飢饉を起こした。
 ベビーベッドの赤ん坊の耳や鼻を囓った。あるときに飢えたラットは使っていない炭坑に入った男性を食べた。
 ラットについての統計は明らかに不可能である。しかし世界の多くの場所で殺されるよりはずっと速く増殖していることは間違いない。組織的なキャンペンで殺した数とか受けている損害からしかラットの数を推測することはできない。シプリーによると1860年ごろにモンファウコンにウマの屠殺場がありパリからもっと離れたところに移転する計画があった。ウマの死体はときに毎日35頭に達することがあったがいつもその晩のうちにラットによって完全に片付けられた。デュソソアはこのような恐ろしい処理に何匹のラットが関与しているか調べることを試みた。彼はラットが外に出ることのできない囲いの中にウマ肉の餌場を作ったところ1晩で2,650匹を殺した。1月後には1万6000匹以上を殺した。シプリーはイギリスである時に4000万匹のラットが居たと推測している。1881年にインドの或地区でラットによる災害があった。その前2年の収穫は平均以下であり大部分はラットによって食い荒らされた。ラット撲滅の報酬によって1200万のラットが殺された。シプリーの推定によると1匹のラットは1年に7シリング6ペンスの損害を与えるので大ブリテンとアイルランドに1500万ポンドの負担をかけていることになる。ラットを穀物で飼うのに毎年60セントから2ドルかかることになる。農園で1匹のラットは約50セントかかっている。ホテル支配人は1匹のラットによる損害の最低を年5ドルとしているとランツは追加している。彼はこの国の人口稠密な所でエーカーあたり1匹のラットが居るし大部分の都市でラットの数は人間の数より多いと考えている。彼は1909年にワシントン市とボールティモア市におけるラットによる全損害の概数を研究した。彼は得たデータからこれらの2つの都市の損害は年額でそれぞれ40万ドルおよび70万ドルであると計算した。これは人口を考えると1人1年あたりの平均損害は1.27ドルになった。当時の合衆国の都市住民は2800万人であるので同じようにすると毎年の直接の損害は3500万ドルになった。デンマークではラットによる1人あたりの損害は1.2ドルであり、ドイツでは1人あたり85セント、フランスでは1ドルより少し多かった。これに推定不可能の資産低下および対策費用が加わる。
 上に述べたことは我々の主目的とは異なっている。しかしラットについて書き始めることによって公衆衛生を目的としてラットを殺すことにどのような意味があるかの問題にも触れている。
 現代における実際のラット移動についての観察を読むとラットが世界の大陸に拡がっていったすごい速さが容易に理解できる。暖かい気候になって植物が生長するとラットは建物から野外に季節的移動をする。寒い気候になると建物の戻る。ランツ博士によるとそれまで大した数でなかったのに1903年に大群のラットが突然に出現して西イリノイ州のいくつかの郡を移動したとのことであった。目撃者は月光の晩に家に帰ったときのことを彼に次のように報告した。近くの野原でザワザワの音が聞こえ大群のラットが現れ彼の前の路を横切った。大群は月光で見ることができる限り延々と繋がっていた。憲法修正18条(*禁酒法、ムーンライト、ムーンシャインは密造酒に関連する言葉)発令の前であったことは間違いないが何か関係があるのかも知れない。次の冬と夏の周囲の郡全体の農園や農村がラットによって大損害を受けたからである。ある農園では4月に3,500匹のラットがねずみ取りにかかった。ランツ自身も1904年にカンザス川渓谷で同じような移動を見た。ランツは合衆国農務省官吏で紳士であったのでムーンシャインでラットの大群を見たことで(*密造を)疑われる筈は無い。イギリスで海岸から内陸へのラットの全般的な移動は10月に見られる。これはニシン漁の終了と関係している。ニシン漁のあいだにラットは海岸に集まりニシン掃除による食物供給にひきつけられる。それが終わるとラットはいつもの住みかに戻る。ランツによるとラットによる被害はパラナ(*アルゼンチンおよびブラジルのパラナ川沿岸)、ブラジルで約30年の周期で起きる。チリーでは同じことが15年から25年の間隔で起きる。これらの移動はそれぞれの国の竹の主な種類の成熟および腐食に関係することが示された。1年から2年のあいだ実った種はラットにとって好ましい食物である。ラットはすごい数に増え最後には食物の供給が無くなり農業地に戻る。1878年にパラナ州でトウモロコシ、米、マンディオカの収穫がラットによって被害を受けて飢饉になった。1615年にラットはバーミュダ島に侵入し突然に消失した。これは中南米の短命のインディアン帝国の興亡にも似て劇的なものであった。クマネズミはこの年に出現し次の2年に驚くべき速さで増加した。果物、野菜、木材を食べその結果として飢饉が起き島のすべてのヒトは12個のねずみ取りをかける法律が出された。しかし何の役にも立たなかったが最終的にラットは突然に消失した。これは疫病で死んだとみなすより仕方がなかった。
 前のパラグラフで述べたようにラットの自然史はヒトの自然史と悲劇的なほど似ている。ヒトとラットはともに数十万年のあいだに広範に異なる進化方向の子孫として現在の肉体的な発展段階に達した。このことは氷河期の化石として両者の遺物が示している。
 ラットがヒトとよく似て残酷性、雑食性、あらゆる気候への適応性、などを持っていることは既に述べた。ラットもヒトも結果がどうなるか構わないで季節に関係なしに交配する無責任な多産性を持っていることも既にほのめかした。そのためにしばしば避けることができない食物供給の失敗に陥り全般的な大災害を起こしている。ラットは自己の自由で愚かな大食によって災害を起こしているが、ヒトは卑しい本能だけでなくその他に伝統、信心、大砲の餌食(*兵士たち)を供給する義務、を持っていると言うのはヒトにたいして公平であろう。しかしこれらはヒトの生物学の現象であって本能の純粋な結果だけではなくて間違いによって生じた結果であるからといってヒトは責任を逃れることはできない。とくに同じ災害を起こすのであるからこのことは当然である。
 ラットもヒトも社会的、商業的、経済的に安定ではない。アリ、ミツバチ、ある種のトリ、海中のある種の魚は完全、またはある程度このような安定性を得ている。これまでのところヒトとラットは他の生物を餌食とするのに成功した動物に過ぎない。ヒトとラットは他の生物にとって有害である。どちらも他の種類の生物にとって地球上で少しも役に立っていない。細菌は植物を育てる。植物はヒトや獣を育てる。昆虫はよく組織化された社会を作ってある生物には有害であるが他の生物には役に立つ。大部分の他の動物は平和で適応した生活を送り活気を楽しみ生きている恵みに感謝し必要なものを得るための被害を最低にしている。ヒトとラットはまったく破壊者である。自然が提供するものは植物にせよ動物にせよ自分の目的に奪い取る。
 この2つ(ネズミとヒト)は常に敵意を持っていながら互いに他を破滅させることはなく互いに歩調をあわせて地球上に拡がって行った。物理的な必要に迫られて東から西に彷徨い他の生物種とは違って自身の種族の間で争った。クマネズミはドブネズミによって徐々に無惨に進行的に絶滅されたがこれはある人種が他の人種によって絶滅されたこと以上ではない。デンマーク人がイギリスを、ノルマンがサクソン系デンマーク人を、ノルマンがシチリアのムハンマド教徒を、ムーア人はラテン系イベリア人を、フランク人はムーア人を、スペイン人はアステカ人とインカ族を、そして一般にヨーロッパ人は世界の原住民を征服したのはドブネズミがクマネズミを駆逐したもの以上ではなかったろうか? どちらの種族にとっても強者にとって戦いは冷酷である。そして強者は冷酷である。肉体的に弱いものは強者の前に追い立てられるか殺されるか奴隷にされてすべての者に平等なはずの恵みを受けることができない。クマネズミは分散して生きているが少ししか持っていないものを強い国が要求するまで生き続けている弱い国と同じである。
 ラットにも言い訳がある。魂とか精神的な発展が人間に与えた正義とか自愛とか理性のような実体のない性質は我々が知っているかぎりラットには発達して居ないようである。我々はあまりに多くのものを期待するべきではない。骨の突起や筋肉の方向が変わるには何十万年もかかっている。鰓が肺になったり尾が消失するにはもっとかかっている。プラトン、仏陀、孔子が出現してから2,500年しか経っていないしキリスト出現以来は2,000年に過ぎない。その間にホメロス、聖フランシス、コペルニクス。ガリレイ、シェークスピア、パスカル、ニュートン、ゲーテ、バッハ、ベートーベン、その他に多数のそれほど有名ではない天才の男女が人間の精神進化の可能性を示してきた。もしもこのような考えの人が稀であって3,000年にわたって薄く拡がっているとしたら彼らは幸運な遺伝子結合の高い可能性を示す変種であろう。そして環境が有利なときにはこのような結合は増加するであろう。たとえば現代の最高の人とアリストテレスの間に精神とか知能において上向きの進化が無いとしたら進化という点で3,000年は無いに等しい。第1次大戦およびそれに続く愚かな行いのようにラットの段階の文明に完全に戻るとしたらネアンデルタール人から出発した我々の現在の文明はいかに未発達であり薄い精神的なベニヤ板は力を加えると容易に壊れて中にある新石器時代の獣性が目覚めるかを明らかに示している。ところが3,000年か5,000年のあいだに獣も考え模索するようになった。才能を持つ個人が成長できる環境において遺伝子の幸福な結合が起きると心や精神が成し遂げられることを個々の成果が示している。不可解ではあるが希望をもつことができるのは次々の世代が獣的な大衆より充分に優れた適当な数の人たちを生んでこれらの優れた業績を尊敬し積み重ねていることである。生物学的に考えると最高の人たちが作り出した最良のものを続けさまに集積するが故に時とともに高いものへの進化が速くなり次の10万年後に人間の種族はラット種族にくらべて明らかに恥ずかしくなくなるであろう。
 ヒトとラットは常に互いに不倶戴天の敵である。ヒトにたいするラットの最強力の武器はペストとか発疹チフスの病原体を絶えず持っていることである。


第12章

遂にこの伝記の主人公に直接に近づく。主人公の身近な家族関係、直接の先祖、懐胎について考察する。

 これまで述べてきたことははっきりと認識できるように記録された歴史の中でいつごろから発疹チフスが記載されているか感染症の文献を詳しく検討しているあいだに見つけた付随的な事柄であった。探しているあいだに非常に多くの付随的なことが見つかり多くのことが示唆され次から次への脱線し根掘り葉掘りしているうちに発疹チフスについて知りたいと序章で思った読者を忘れてしまった。従って申し訳ないことにこの本のページの大部分は使われてしまい目的の大部分は終わっていないことに驚いている。脱線への誘惑は今でも強く戦後ヨーロッパの疫病地帯における困難な時代を思い起こして疫病と飢饉が窮迫した大陸の経済的および社会的な動乱に寄与したことに引きつけられて又もや発疹チフスを忘れてしまう。ソヴィエット共和国の設立に導かれた闘争の時期に戦争と武装革命に加えて援助を受けられなかった当事者以外には想像できないような2回のコレラ流行や30年戦争以降には見られなかったような飢饉と発疹チフス、マラリア、腸チフス、赤痢、結核、梅毒にロシアが苦しんだことをこの時期の歴史家たちは覚えているだろうか? タラセヴィッチは1917年と1923年のあいだにヨーロッパ・ロシアだけで3000万件の発疹チフスがあり300万人が死亡したと推定している(正確な統計は不可能であった。)
 タラセヴィッチは何と素晴らしい人だったろう。私は意気消沈したときには彼のことを考え彼の精神から勇気を得た。彼の家の朝食テーブルでチーズとパンと茶を食べたときに王様と晩餐をともにしたような光栄に感じたことを覚えている。「何よりもここは私の国です。」と彼は言った。「この仕事ができる訓練を受けた仲間は殆ど残っていません。私はロシア人で病人たちは私の同胞です。」彼はふつうの紳士のように気まぐれで恥ずかしがって英雄視されるのを恐れているかのように全く劇的にではなく話した。不幸な祖国と苦しみを共にする以外にはすべてのものを失ってしまった状態から逃れる機会を彼はいくらでも持っていた。彼およびザボロトニー、コルシュン、バリキンたちは後衛軍として侮辱、屈辱、窮乏を気にしないで我慢した。彼らは人数が少なくなっている残った人たちを集めて他の人たちには出来ない奉仕を行った。ロシアの政治的な将来は不明であったがこの奉仕をロシアが必要とすることを彼らは知っていた。モスクワの彼の家で私の前に立ってぼろぼろのブラウスとズボンをつけ靴の代わりにサンダルを履いて上のようなことを言っているときに彼はすばらしい風格と勇敢さを持っていた。彼と同じような人たちが居た。大部分は死亡し我々の心の中に残る以外には忘れ去られた。少数の友達である我々は彼らの目的を理解し彼らの例を記憶することによって幸福に感じ勇気づけられている。
 これらは思い出して楽しいことである。しかし取り留めのないことがこれまでのこの本の欠点でありついに発疹チフスに専念すべきと思っている。
 これまでの章で論じたことから古代の東洋、シナ、ギリシア、ローマの文献で発疹チフスについてはっきりとした形の記録は無いし中世初期の年代記や歴史にも無いことが明らかになった。私の浅学の限り調べただけでなく多くの有能な学者たちの親切な援助によって近づける限り多くの記録を調べ一流の医学史家の本を研究した。疫学史の素人にとって幸福なことにシュヌラー、オザナム、ヘッカー、ヒルシュ、マーチソン、ヘーザー、シュティッカーをはじめとする多くの学者が極めて詳細に研究し古代の著作から彼らの著書に広範に引用している。これらから多くの情報だけでなく原典への手引きを得ることができ、原典はハーバード大学、フランスの国立図書館、軍医総監図書館(*現在の国立医学図書館)やニューヨーク、ボストンの医学図書館で読むことができた。私の文献研究に独創性があると言うことはできない。しかし古代の記述を吟味するにあたって現代の知識を利用した点である程度の価値があると思っている。偉大な歴史家たちが述べていることは言語に正確であり深いものであり彼らの時代における医学にも詳しいが、最近30年のあいだに実験室や臨床で蓄積された感染症についての大量の情報の援助を受けていなかった。
 他の時代における感染症の記載に現在の技術的な判断を適用することによって12世紀以前の発疹チフスとして引用されている例のどれにも現在この病気を代表すると記載される状態の信用できる事実は見つからない。ヒポクラテス疫病論の第1の書で第10症例として詳しく記載されたクラソメニア人の例は発疹チフスとしてオザナムに引用されているが腸チフスではないかと考えられる。疫病論で発疹チフスであることが強く示唆されているのはシレノスの例であり第6章でかなり詳しく論じた。古典時代および以後の時代に発疹チフスを見たと引用されているヘロドトス、ヴェゲティウス、アエティウス、ガレノスや古代の著者の誰も信頼できる記載を行っていない。私はこのことから同じように否定的な経験を持つ他の方たちに同意して発疹チフスは西ヨーロッパではフラカストロの時代の少し前まで新しい病気であり多分オリエントで静かにしていたものがキプロス島からの兵士によって持ち込まれたと推論している。しかしこのことは後で述べるように必然的な結論ではない。
 もっと深くこの問題に触れる前に歴史家たちの述べている病気が実際に発疹チフスであったとみなす基準を考えるのは役に立つであろう。
 発疹チフスはいつでも決まりきった形で起きる急性の熱病ではない。典型的な経過は次の通りである。発病は極めて突然のこともあるしもっと次第に起きることもある。初期は重症インフルエンザに極めて似ている。体温は急速に上昇ししばしば40度に達し、寒気、激しい消耗、衰弱、頭と四肢の痛み、を伴う。発疹は発病の4−5日後に起き流行時でないときに発疹前に診断することは極めて困難である。発疹が現れると熱は昇る傾向がある。発疹はふつう肩および体幹に始まって四肢、手や足の背面に及びときに手の平および足裏に及ぶ。発疹は後日になって増えるが顔や額に見られるのは稀である。最初はピンクの点であり圧力をかけると消失するが後には紫色がかり深い褐色に近づき最後には色が褪せて褐色になる。これら古くは「点状出血」および「ペリクリ」(*赤い点?)と呼ばれたものである。かなり重要な症状で初期に起きて見落とすことがないのはひどい頭痛であって他の熱病にくらべると我慢できないものであった。実際、確実ではないが中世の著者たちが「頭の病気」とか「脳の炎症」と呼んでいたのは発疹チフスではないかと考えるのはこのためである。しかし発疹が無く流行でないときには今日でも血液の特異的な反応が無かったら発疹チフスの診断はしばしば困難であろう。この検査はほんの最近になるまで利用することはできなかったものである。
 熱と頭痛、譫妄と著しい消耗、を伴う発疹が明確に記載されていたら発疹チフスは容易に認識できる。しかし軽症で散発的な地方病的な例で特に子供の場合に発疹は僅かで一時的でありこの病気に不慣れな医師は気が付かないことがあり得る。この理由で発疹チフスが流行するまで個々の例は認識されないか、はしか、猩紅熱、腸チフス、マラリアまたは古代や中世によく見られた多数の他の熱性疾患と区別できないような形で一般的に記載されたのであろう。このような事情で個々の重症で典型的な病例に流行の特性、季節その他の付随的な要素、蔓延のしかた、死亡率などの記載が付け加えられた。これらの知見は助け合って情報は相互に関係した手掛かりからなる構造を作り上げてこの病気の本態を確かなものにした。
 このようにして発疹チフスが15世紀までヨーロッパに流行病としては存在しなかったことを確信している。フラカストロや初期のスペインの観察者たちがこの病気を「新しいもの」とみなしたことは後に述べる彼らの観察から判るであろう。しかしこの病気がそれ以前に地方病的あるいは散発的、時々に起きる熱病、としてくすぶり続けて後の流行病の火だねにならないことを意味しているのではない。流行病でないときにこの病気がはっきりと記載されないのは驚くべきことではない。合衆国で我々のあいだでこの地方病的な発疹チフスはいつでも起きている。医学的および教育的な資料がずっと充分である1926年でもまだこれらの例がまったく知られずに残っていた。それではこの病気が流行の歴史よりもずっと古いと考えるのは単なる仮説ではなく基礎があるのだろうか?
 この質問に答えるには発疹チフスと呼ばれる寄生現象の自然史を概観しなければならない。これについて最近の20年はそれ以前のすべての世紀を合わせた以上のことを我々に教えた。これによって遂にこの伝記の主人公の身内や直接の先祖およびその誕生を考えることができるようになった。
 つい最近まで発疹チフスはひとつの独立の病気で他の熱病とは異なり独自のものと考えられていた。しかし20年より古くはなく大部分は最近6年内に行われた研究によってすぐに判るように今ではリケッチア病としてまとめられている一群の病気のうちで最も良く知られている一員になった。
 リケッチア家族の中における近親関係は次のごとくである。腹違いの兄弟とか母方の叔父にあたるのは塹壕熱またはヴォルヒニア熱(*西北ウクライナの地名より)と呼ばれるものでシラミによって伝播される病気で兵士は戦時に迷惑を被った。この病気をかなり遠縁とするのは人における臨床経過が家族の他のメンバーに共通なものとかなり違うからである。しかし分家の塹壕熱の運命をこれ以上追う必要は無かろう。現在の議論とはあまり関係が無いからである。
 発疹チフスにもっと近いものはある意味で「またいとこ」にあたるもので日本洪水熱またはツツガムシ病と呼ばれるものである。この病気はトロンビクラ・アカムシ(ケダニ)と呼ばれるツツガムシ(秋ダニ)に咬まれることによってヒトに伝播されこの昆虫は自然界においてこの病気を保菌している野生のラットとマウスから感染する。病原体はこのように地方的に野生マウスとツツガムシのあいだを循環し生存している。そして適当な機会にツツガムシからヒトに感染する。
 発疹チフスにもっと近い親戚すなわち従兄弟に相当する病気または一群の変異病はロッキー山紅斑熱である。家族のこの位置に属する感染症はダニに咬まれることによってヒトに伝達される。そしてこのばあいに病原体は遺伝的に母親および父親の両方から幼虫に伝達されるので病原体が生き続けるのに保菌動物は必要でない。しかしモルモット、ウサギ、その他の動物がこの病気に罹るので未だ見つかっていない保菌動物が居る可能性は無いわけではない。
 いわゆるダニ伝播型のブラジルのサンパウロ・チフスはアメリカの紅斑熱とたぶん同じようなものでああろう。経験を積んだ医師ですら実験室における検査の裏付けが無くて臨床観察だけで診断をくだすとサンパウロ・ダニ熱を真性の発疹チフスと間違えることがある。ヒトのこれらの感染症が本質的によく似ていることを示す興味深い例である。
 紅斑熱の他の変異種はボタン熱(*吹き出物のフランス語から)でマルセイユ近くのプロヴァンスで最初に記載されルーマニアにも発見された。これはダニによって伝播され紅斑熱と同じように病原体は保菌動物の関与を必要としないでダニからダニへ継代する。
 最後に真の発疹チフスには2つのはっきりとした亜科があり他にもある可能性が疑われている。
 他のリケッチア病と同じように発疹チフスの2つの変異型は昆虫によって伝播される。コロモジラミとアタマジラミは病気をヒトからヒトへ運ぶ。シラミは感染した血液とともに病原体を受け入れ病原体は胃腸管壁の内張り細胞内で増殖し大便中に大量に出現する。シラミによる伝播はニコルによる重要な発見でありこの病気への反撃の最初の重要な武器であった。これは流行蔓延の様式を説明した。発疹チフスの流行が戦争、飢饉、不幸と密接な関係がある謎が取り除かれた。これによって「野営熱」「監獄熱」「航海熱」と呼ばれたのが正しいことになった。しかし流行の休止期に病原体がくすぶって残る問題は解決されなかった。ヒトジラミはたぶん比較的に最近の宿主でありヒトよりも発疹チフス病原体に罹りやすい。病気になり12日すなわち常に2週間以内に死ぬ。それでは流行と流行のあいだに病原体はどのようにしているのだろうか? 流行のあいだに患者はどのように発現するのだろうか?
 数年前にこの質問への回答の手掛かりは合衆国で毎年あちらこちらに起きている発疹チフスについての研究によって得られた。これらの病例はシラミによる伝播が除外できる条件で起きたので他の媒介体を探し始めた。その結果としてラットノミに発疹チフスが発見され続いてラットそのものに見つけられた。疫学サイクルは完全であった。屋内のラットが感染を伝播する。このようにしてラットノミおよびラットシラミにおいて感染が続く。ラットノミは古い宿主(ラット)が死んで新しい宿主を求めるときにヒトにたかることがある。これは屋内ラットが死んだり殺されたりするとよく起きることである。感染したノミに咬まれるとヒトは発疹チフスに罹る。これが散発的すなわち地方病的な病例である。被害者にシラミがたかっているときには集団感染が起きる。もしもそのヒトがシラミの多い社会に住んでいたら結果として流行が起きる。
 これらの事実が最初に西半球で確かめられたのに続いて発疹チフス感染ラットはピレエフス(*アテネ近く)、ツーロン、北アフリカのように遠く離れた地中海沿岸に見いだされた。従ってラット病原巣が世界中に拡がっていることが完全に明らかになった。
 しかしこれがすべての話ではない。ムーザーはヨーロッパの流行中心の発疹チフスから得られた病原体株とこの国やメキシコで得られた株を比較し両者は双子のように密接に関連しているが同一ではないことを見いだした。
 この違いは新しい問題を起こしこの病気の家族をよく知っている我々の仲間のうちに古典的なヨーロッパ型の病気は常にヒトに存在しラットを通過しないという意見を持つものが出てきた。しかしこの問題についてはこれから述べる。
 この本はまず素人の読者を対象としているのでリケッチア家族の目録は読者にとってあまり興味が無いであろう。しかし全家族を概観しないで発疹チフスの起源を判りやすく論ずることは不可能である。この状態が特別なのは次の事実によるものである。すなわち、1つの同じ時代にヒトは殆ど区別することができない一群の急性熱疾患に罹りそれらは次のような種々の複雑な寄生サイクルによってヒトに到達している。
恙虫病 ケダニ→ラット、野生マウス→ケダニ→ヒト
紅斑熱 ダニ→ダニ→ヒト
ボタン熱 ダニ→イヌ?→ダニ→ヒト
真性発疹チフス
 ネズミ型 ラットノミ、ラットシラミ→ラット(マウス?)→ラットノミ→ヒト→シラミ→ヒト
 ヨーロッパ型(ヒト型) ヒト→シラミ→ヒト
 専門家のために学術書を書いているのだったらここはグループの各メンバーのあいだの臨床的な些細な違いを強調する場所であろう。メンバー間には実際に違いがある。例えばツツガムシ病の局所には壊死があり、真性発疹チフスにはリンパ節の腫脹があり、ボタン熱ではしばしば隆起した小円状の小丘が見られる。また検査室で個々の病原体を区別する方法の詳細を述べることもできよう。しかしこれによって現在の問題に何の役にも立たずに問題の中心から離れることになるであろう。
 ヒトにおけるこの病気の家族は全くよく似ていて紅斑病と発疹チフスは区別できないほど近い。患者の血液反応とか感染動物の実験観察で生物学的に深い基礎をもった近縁関係を証明することができる。さらにこのグループのすべての病気はリケッチアと呼ばれる小さい寄生体が患者の体内に入ることによる。
 これらの小さな桿菌に似たものは最初は昆虫に寄生していたグループに属していたと考えられる。これは高等動物に病気を起こさせない似た生物が種々の昆虫にしばしば見つけ出されることからの推測である。この分類に属する寄生体はヒツジシラミ、コナムシ、ナンキンムシ、カ、ノミ、マダニ、ダニ、の体内に見いだされる。リケッチアという名前はメキシコ・シティで発疹チフスを研究中にこの病気で死亡したアメリカ人リケッツの名誉のためにダ・ロシャ・リーマが命名した。発疹チフスそのものを起こす種類に彼は同じように犠牲となったオーストリア人プローヴァツェクの名前を加えてリケッチア・プロヴァセキと命名した。リケッチアは独立の名前を必要とする。論理的に細菌にも原生動物にも分類させることはできないからである。真正細菌に密接に関連するものと結局みなされるようになると思われる。そうであるとしても差し当たっては違った分類に入れるのが便利と思われる。リケッチアは普通に使う染色法への反応の違いとか生きている細胞を含まない人工培地で発育しないとか生きている動物とか組織培養で細胞の中でしか増殖しないとかで真正細菌と違っている。
 もちろん自由に暮らしていたリッケッチアの先祖がどのようなものであるか納得できるように想像することすら全く不可能である。真正細菌と密接に関連していたことは疑いが無い。現在のところリケッチアが細菌と違うのは寄生性の生活をする進化に付随して起きたものと考えられる。とにかく非常に遠い過去に微少な単細胞生物が多くの種類の昆虫の体内で寄生的になった。多くのばあい彼らは細胞に侵入し細胞内で生活するように適応しその結果として現在は組織培養で生きている細胞でしか培養できなくなった。
 如何なる形にもせよ寄生性が生じた古代の時期を評価する基準は存在していない。しかし一般にシアボールド・スミスが述べているように病理的徴候は寄生状態が発展するさいの付随現象としてのみ見られるものである。このことを基礎にするとダニへのリケッチアの感染は非常に古い現象である。この関係では相互の耐性が発達してどちらの関係者も障碍を受けていないようだからであり寄生体は親にも子供にも障碍を与えずに世代から世代に伝播されるからである。ネズミノミではこの条件成立はかなり古いが多分もう少し新しいのであろう。ノミは1月か2月で寄生体に打ち勝って回復するからである。しかしヒトジラミの場合には同じような理屈によって相互関係の成立は比較的に遅いと考えさせられる。相互の耐性は未発達でシラミは必ず死ぬからである。
 昆虫への侵入は我々が問題としている人間の病気にいたる複雑な進化過程の第1段階とみなすことができる。次の段階は寄生体の昆虫から高等動物への伝播である。リケッチアに感染した昆虫のあるものはそれ自身が動物への外部寄生性になって血液を吸っていた種類である。このようにしてリケッチアは宿主であり昆虫が寄食する習慣がある動物に近づく。病原体が昆虫から動物へ運ばれる経路は世界の違った場所における動物相の偶然の分布によって決まる。従ってある地域ではダニ→野生ラットの経路を取り他の地域ではノミ→ラット経路を取る。これらの2例では寄生体と宿主のあいだの相互耐性は昆虫相でも動物相でもまだ不完全であって病原体はこの2つの相の間を絶えず循環することによってのみ生き存える。ダニによって運ばれる病原体は数世紀前に同じような動物→昆虫サイクルを経過したとするのは多分正しい考えであろう。自然に存在するが未知の紅斑熱の宿主が今日でも存在する可能性がある。しかしダニの間では親子の伝達によって動物の媒介を必要としない完全な適応が可能になっている。
 このようにリケッチア病の自然史を再構成する仮説についてかなり納得できる根拠が得られる。昆虫→動物サイクルがひとたび確立し非常の場合に昆虫がヒトに養われると寄生体はヒトに伝達される。
 生物学的に言ってヒトは新しい宿主でありリケッチアが侵入すると生理学的な敵意が起きる。侵入者と宿主のあいだの争いが病気である。どちらか片方が死亡する。ヒトが死ぬとヒトを殺したリケッチアもまた一緒に死ぬ。たまたま不幸にも血液中をリケッチアが循環している犠牲者ヒトに宿っているシラミまたはことによるとノミに逃げ込んだリケッチアだけが生き続ける。この2種の昆虫のうちで流行病蔓延に関連してシラミはずっと危険である。ノミと違ってシラミは跳ぶことができないし宿主であるヒトから離れてある程度より長く生きていくことはできないにもかかわらず頑固な執念と忍耐強い勤勉さを持っているからである。これらのシラミの性質は人々が恐れ従って迫害する対抗民族にたいして感ずるのと同じように嫌悪の念で薄く覆い隠している尊敬の念を起こしている。
 発疹チフスのグループを専門に研究している人々には当然なことであるがリケッチアの昆虫→動物の寄生性についてこれまで確認された事実は始まりに過ぎない。病気と関連してのこれらの実際的な重要性とは別に一般生物学者に寄生サイクルの研究に豊かな領域を提供している。リケッチアの侵入はこれまで研究された以上に多くの方向を通っている可能性がある。マレーシア、タイワン、スマトラ、ベトナム、そうして多分日本で恙虫病原体はラットおよびマウスを通過しているだろう。同じ場所でノミに媒介される真の発疹チフスの他にダニによる病気がある。これらは世界全体の研究者によって明らかになりつつある。人工的な接種によって自然には宿主でない多くの昆虫で病原リケッチアが1週間から2週間生かせることが実験的に示されている。また人間の病気の源と疑われたことがない多くの種類の動物、たとえばヨーロッパやアメリカの屋内居住のマウス、新世界のマウス、ノウサギ、ウッドチャック、サル、さらにはウマやロバまで、にリケッチアを接種して期間は異なるが宿主にすることができた。多くの場合にこのような病原体の保有は非常に危険である。これは「不顕性」と呼ばれる状態だからである。病気の症状は示さないが体内に病原体が存在し昆虫や他の感受性がある動物にこの病原体を伝播させることができる。「不顕性」感染は発疹チフス以外の多くの領域における疫学的理由付けで第1の重要性を持つようになり始めている。しかしリケッチア問題で不顕性感染は既に実際的な意味を持つようになっている。発疹チフス病原体を接種されたラットははっきりした症状は無く場合によってある程度の発熱だけを示す。しかし2〜3週後にモルモットに典型的な発疹チフス反応を起こさせたり見かけ上健康なラット脳! を直腸内接種によってシラミに感染させることができる。この話をすると脱線することになる。主題目に戻ろう。



第13章

主人公の誕生、少年期および青年期について考察する。

 すでに述べたように真の発疹チフス病原体には2つの違う型がある。これらは同じ病気をヒトに起こしヒトのコロモジラミとアタマジラミによってヒトからヒトに伝播される。ヒトでも動物でも1つの型から回復すると他の型にたいして防御される。このことは両型に密接で基本的な近縁性のあることを示している。両者はモルモット、ラット、マウスに接種したときの僅かではあるがはっきりとした反応の違いがあることと、あまりに技術的なのでここでは述べない免疫反応によって区別することができる。これらの違いが認識されるまでは発疹チフスは世界中で1つの病気でありヒト→シラミ→ヒトと伝播されるとみなされていた。しかしこの違いの観察およびオーストラリア、アメリカの患者を研究した疫学的観察によってヒト以外の病原体保有者についての広範な研究が行われることになった。その結果はラットの自然感染およびラット→ノミ伝播の発見であった。
 病原体の起源とモルモットにおける態度のあいだの関係を調べてみるとラットまたはラットシラミから直接に得られたすべての病原体および感染したラットが存在し患者は疫学的にラット起源であるアメリカおよびメキシコの患者からの病原体はモルモットに同じ態度を示した。これに対して数世紀にわたって地方病および流行病の発疹チフスが拡がっていた南東ヨーロッパおよび東ヨーロッパの患者からの病原株は異なった態度を示した。このような理由で発疹チフスの今日の研究者はこの2つの異型をラット→シラミのサイクルがヒトへの感染に先立つ「ネズミ型」と、ラット起源が決定されていない古典型または「ヒト型」に分類する。これらの密接に関連した異型のあいだの詳細な関係は注目の的になった。このことを理解することによって古典的ヨーロッパ型病気の疫学解明の方向に向かうことが出来て、これによって防御手段の新しい方針が得られるからである。発疹チフス領域で事柄の動いている速さは次の事実から推察できる。すなわち論じている仕事の大部分は1928年以降に行われたもので多くは発表されたばかりでありあるものはこのパラグラフを書いている現在にまだ印刷もされていない。この研究の遂行にあたってフランス、スイス、アメリカ、イギリス、ドイツ、メキシコ、ポーランドの研究者たちは活気をもった友好的な競争的協同というか協同的競争を行い我々の職業に熱意と魅力と他の領域では見られないような国家主義的ごまかしからの自由を与えている。
 まず最初にこの2つの型がそれぞれの異なる特徴に永久に固定されているのか、1つの同じ病原体が違う宿主に依存したり誘発されることによって起きる一時的な変異であって現在は「解離」と呼ばれる現象であるかどうかを決定しなければならない。この問題は我々の意見では解決されている。しかしこのようなことを正面から論ずるにあたって正確さが必須であり今でも推測の部分があり全員が完全に同意しているわけでないことを付け足さなければならない。この問題に近づくに当たって研究者たちは両型の病原体を種々の昆虫やモルモット、ラット、マウスに繰り返して感染させるとともにラットやヒトの患者から入手できるすべての株を集め始めた。実際のところこのような研究を約5年続けてこれまで集められた事実は2つの異型はそれぞれの型に恒久的に固定されている傾向を示している。両者は多くの重複する性質を持っているので動物実験においてさえ特別な研究方法によって1つの型を一時的に他の型と見かけ上に同じように馴らすのは全く容易である。しかし実験操作を除くや否やそれぞれの型は元来の型に戻る。アメリカおよび他の国の実験室に3、4、5年にわたって観察を続け元来の型を保っているネズミ型およびヨーロッパ型の株が存在する。したがって2つの型は近接はしているが固定された異型であると自信をもって言うことができる。しかしどちらの型も実験的操作によって容易に他の型に一時的に馴らすことが可能なのは分化が起きたのは生物学的に言ってかなり最近であることを示唆している。この段階の事柄に光を当てたのはメキシコで得た株についての思いがけない観察である。1つの同じメキシコにおける流行で典型的なネズミ型とともに性質が異なるヨーロッパ型すなわちヒト型が得られた。これらのあるものはモルモットに通過パッセージを繰り返してもヒト型の性質を保っていた。しかし特にラット通過をすると最終的に全株はネズミ型に戻った。メキシコの流行でヒトからヒトへの通過はヨーロッパの流行と同じようにシラミによって伝播されるので上に述べたことはヒトとシラミを通過することによってネズミ型病原体の性質がヨーロッパのヒト型によく似たものになることを示唆している。
 何年かにわたって動物通過と選択実験を繰り返してもヒト型をネズミ型に戻すのに成功しなかったがそれに対してネズミ型をヒトに通過させると今のところ一時的ではあるがしばしば急速に安定的なヒト型への変化の起きることがあった。従ってヒト型はネズミ型の分家でありネズミ型はヒトにとって本来の発疹チフス病原体であって充分にヒト→シラミ→ヒトの通過を行うとネズミ型は恒久的で安定した変種(*ヒト型)として固定されたのではないかと思う証拠がある。このような環境で古典的なヨーロッパ型病原体は時にはネズミ型病原体から新生されて永いあいだ維持されるのではないかと考えることもできるしまたヨーロッパ型病原体は完全にヒトに確立して流行と流行のあいだに少数のヒト→シラミ→ヒト患者によって維持されるかまたは外見上は完全に治癒しているが既に述べた「不顕性」動物感染の場合と同じような病原体を長期間に保持するいわゆるヒトの保菌者によって維持されると考えることができる。
 私の考えでは完全な答えと思うがこの質問にたいする部分的な回答はアメリカに持ち込まれたヨーロッパ人患者の例で与えられる。合衆国北東部の都市の稠密な移民のあいだに「ブリル病」と呼ばれる急性の熱病が起きた。これは実際は発疹チフスであり典型的なヨーロッパ型すなわちヒト型の病原体が検出される。ブリル医師が1898年にニューヨークのユダヤ人の間で最初に記載したときに彼は発疹チフスをよく知らなかったのでこれを「新しい病気」と考えた。私はこの極めて賢明な医師を非難するために言っているのではない。むしろこのような誤りが現代医学においても起きやすいことであるならば伝染病が古代からあるかどうかについて遠い歴史事実を検討するにあたって充分に注意しなければならないことを言いたいからである。ブリルがこれらの軽症をその当時に蔓延していた同様な熱病から鑑別診断を行い注意を喚起したことは賞賛に値する。さらに彼の誤りは医学の歴史ではよく起きることである。チャールズ・マーチソンが述べているように「1828年以降に回帰熱はイギリスから完全に無くなったので14年後の1843年に流行病として現れたときに若い医師たちはこれを回帰熱として認めることが出来ないで新しい病気とみなした。」多くの同様な例を挙げることができる。
 ブリル病に戻ろう。前に述べたようにこの病気は南東ヨーロッパからの移民がアメリカに持ち込んだヨーロッパ型の発疹チフスである。普通に多くある病気ではないが研究を進めて成果をあげるのに充分な症例があった。1910年以降にニューヨークとボストンで起きた患者の記録は5百人以上であった。アメリカ生まれの友達や親戚と親密に交際し同じような習慣を持っていたが疫学解析によると患者の90%以上は外国生まれであった。患者は時期的にも場所的にも広く分散していてシラミによる伝播や接触感染は除外され500人以上の患者の環境を注意深く研究しても全集団に共通な要因たとえばラット、ノミその他の病原体を媒介する動物や昆虫のどれも原因とみなすことはできなかった。長い話を短くすると研究はこれらの病人の殆ど全部は子供のときに古典的発疹チフスの生まれ故郷で罹った感染の再発であることと古典的ヨーロッパ発疹チフスは外的な媒介動物の関与が無くても人間貯蔵庫の中で無限に保存されることを示した。
 状況は要約すると次のようである。2種の密接に関連しているが異なる型の発疹チフスがアメリカにもヨーロッパにも共存して存在する。まだ不完全な情報であるが2型ともに世界の多くの場所で存在するであろうことが示唆されている。異型のうちの1つはネズミ型病原体と呼ばれ流行と流行の間にはラットおよびことによるとマウスが保持していて動物から動物へは前に述べた昆虫によって渡される。時にはラットノミに咬まれてヒトに移る。しかしヒトジラミがヒトからヒトにこの病気を伝播できるような状態では集団感染すなわち流行の原因となる。もう1つの型はヒトに確立されている。最初の攻撃から回復した人たちの中には体内に病原体を保持していて最初の攻撃から多くの年月の後で別の攻撃を受けることがある。これは未だ解析がされていない理由で抵抗力が下がったときに見られる。シラミが広く蔓延している条件ではこれらの再発患者から流行が起きる。世界のいろいろの場所で病原体を保持しているラットとヒトが共存している可能性は高いけれどこの状況を完全に調査するには更に多年の研究が必要であろう。
 ようやっとこれ以上に説明の横道に入らないでこの伝記において我々の英雄の誕生について話すことができるようになった。これまでスターン博士が「トリストラム・シャンディ」(*滑稽小説)で用いた取り止めの無い計画に従っていたとしたらこの偉大な本を書いた不滅の著者のようにユーモアのためではなく主人公の本性によることを私は主張し読者も同意するであろう。感染症の誕生は人間の誕生のように簡単ではない。妊娠は10月そこそこではなく何千年もの複雑な生物学的な相互適応と相互反応である。この例では我々の病気の「受胎」は最初のリケッチアが昆虫に寄生できるようになったときである。そして確かではないが疑いも無く「妊娠」は何世紀も続きこの間に寄生性は昆虫から動物に進み最終的には他の昆虫から人間そのものに進んだ。
 上に述べた状況から散発的、地方病的でラットまたはマウスからヒトへの発疹チフス感染はこの病気が流行病になり認識され鑑別されるより数世紀前に起きたのではないかと思われる。世界の多くの場所においてこの寄生の自然史の初期に野生のラットやたぶん他の齧歯類が感染したことは殆ど確かである。今日マレー半島ではラットが多くいるアブラヤシ農園の労働者に熱帯性発疹チフスの地方病的患者が少なくないようである。
 15世紀より前に流行型でない発疹チフスが存在したことを推測するために言わば思索の水で魚釣りをしていたがこの考えを支持する多くのことが今日でも世界の離れた地域に存在している。メキシコと合衆国南部では少数ではあるが長いあいだ認識されていない散発的な患者がイエネズミから絶えず感染していてメキシコではシラミが関係すると流行が起きる。マレー半島では都市型および農村型の熱帯発疹チフスがあってやはり散発的であり集団感染を起こすことは稀である。アブラヤシ農園の労働者たちを襲う農村型は木の根元のチガヤや雑草を除く労働者に危険なようである。彼らはある種の媒介者に曝されている。たぶん野ネズミとかネズミノミとか藪に隠れているまだ未知の媒介動物である。とにかくここで病原体は自然に広く分布していてヒトに入る準備ができるほど完全に進化し多分このような状態で決定できないほど長いあいだ存在したのであろう。同じような状態はツツガムシ病についても成り立つ。ついでのことであるがマレー半島で発疹チフスは流行病として発生することはない。多分このことはエニド・ロバートソン博士が言うようにマレー半島でアタマジラミは居るがコロモジラミは居ないという事実によるのであろう。暑い諸国で人々は全く裸であったり僅かな衣類しかつけていないし人々の集団は田園の居住地に広く散らばっているので発疹チフスは殆ど永久的に地方病的であり生活状態が変わったときにだけ流行するのであろう。
 病気の遠い過去における起源についての問題においてある仮説を証明することも否定することも殆ど可能性は無い。しかし多くのスペースを割いてきた生物学的な観察は発疹チフスが流行病になる前の歴史について次のような仮説を強く示唆する。
 感染した最初のラットノミがヒトにたかったときに発疹チフスは誕生した。中世ヨーロッパの人口密度の高い中心地か軍隊にこの病気が到達するより何世紀も前にたぶん東洋においてこの誕生は起きたのであろう。地方病的であり軽症の患者があちらこちらに起き集団発生は稀であったので古代の医師たちや歴史家たちの注目を惹かなかった。または他の熱性疾患と区別されなかった。
 ネズミ型病原体はこのように本来の「発疹チフス」であった。歴史の流れとともにこの病気は多分くり返して西ヨーロッパの国に運ばれたであろう。主として軍隊によるもので最初は発生が限られたぶん病原体は主としてまたは完全にネズミ型であったろう。感染されたラットは地中海沿岸に住み着いた。初期の限定的な流行は今日のメキシコの場合と同じように長期にわたって本来のネズミ型のままであったろう。そして実際に流行の歴史の初期に発疹チフスは比較的に遠く離れて発生した。16世紀および17世紀にマクシミリアン2世のトルコ遠征に始まり三十年戦争を通して発疹チフスは軍隊にたいする不断の脅威になり発疹チフスにとって理想的な飢饉、貧困、家の無い放浪、絶えることのない戦争、の条件で苦しめられた哀れな人々のあいだを遠く広く蔓延した。病原体を獲得した一連の宿主のうちの最後になったのは多分ヒトのシラミであったろう。この時よりだいぶ前に人間と離れることができない依存性を得ていたからである。この推測はリケッチアがシラミに寄生的であると言うよりは略奪的である事実と一致する。感染したシラミは必ず死ぬことになる。
 不幸な数世紀について私が記載した状況において発疹チフスは殆ど中断することなしにヒト→シラミ→ヒトの経路でヨーロッパの幾つかの部分に蔓延し同じ時に地方病的なラット経由の伝播による患者も居たではあろうが時には都合によってラットノミの源泉によって再生されていた。このことはとくに発疹チフスの世紀と呼ばれる18世紀を通じて続いた。このようにシラミとヒトを絶えず通過しているうちにある種の株はあまり永久的ではないにしても変化する。現代のメキシコの流行においてヒト→シラミ通過を繰り返したときに観察されるのと同じようなことである。このようにして弟すなわちヒト型病原体が生まれた。この2つは手を取り合ってヨーロッパの多くの国およびブリル病の研究が示すようにアメリカにも定着した。兄のネズミ型はラットとノミに永住し、後で生まれたヒト型はヒトにしっかりと定住した。
 この病気の流行前の歴史、誕生および青年時代の環境は主として仮説的であるしそうでなければならない。私はこの病原体の自然史について知られていることからありそうな枠組みを作った。この病気の成年期と呼んでもよい時代すなわち人間の歴史において強い要因となった時期はこの病気が流行病の性質を得た時に始まった。この時になって発疹チフスは始めて個人として認められ詳しく記載された。そして次の章では我々の英雄の若さに満ちた成年期を取り扱い再び信用できる情報の大地にいることになる。


第14章

発疹チフスの最も初期の流行について

 ヒトに発疹チフスを起こすようになったリケッチアの寄生の形式は本来ラット→ラットノミでありこれは東洋から西ヨーロッパに次第に浸透したと前章で推定した。この寄生状態は今日では地中海沿岸および近傍に存在して広く分布しアメリカの流行地から持ち込まれたと考える特別な理由は無い。最初にヒトのこの病気はたぶん軽症の散発的な形を取って今日に合衆国南東部で起きているように時間的および地域的に分散していたのであろう。
 患者は十字軍遠征のころには現れたと思われるが中世初期の医学の状態を考えると記録に期待することはできない。何故かと言うと既に見たようにアメリカにおいてこの病気の存在はつい最近まで知られていなかったし、発熱は短期間で発疹ははっきりせず完全に見逃されたりノミに咬まれたと間違えられるようなこれらの比較的に良性の感染は今でも診断にかなりの熟練と経験が必要だからである。
 初期の集団感染は起きたとしても家族とか村落のように限られた範囲のものであったろう。初期の流行でこの病気が軍隊とか町を襲ったときでも同時にペスト、腸チフス、猩紅熱、麻疹などが関係し歴史的記録では「疫病」という一般的ではっきりと区別できない寄せ集めにされていると信ずるかなりの理由がある。ある1つの感染に機会を提供する条件はふつう多くの他の感染にも機会を提供する。そして特別な状況を除いて疫病の流行はふつう種々の多数の感染症からなっている。
 発疹チフスはヨーロッパよりも早い時期に近東で地方病の状態から流行病の状態に移行したと考えられている。最も初期に記録されたヨーロッパにおける激しい流行はキプロスからスペインへ兵士が持ち込んだものと考えてよい理由がある。この流行は1489年と1490年にフェルナンド5世と彼の妻イサベラ1世がグラナダの領有をめぐってムーア人と激しい戦闘を行ったときのことであった。
 ヨーロッパで発疹チフスが次第に流行したとする私の考えにとってかなり有力なのはキプロスからの流行の約400年前にサレルノ近くの修道院で少なくとも1つの集団感染が起きたことを示すほぼ確実な資料が存在することである。これは「カヴァ年代記」に記されているもので原文を読むことはできないがレンツィが重要な部分を記していて多くの医学史家たちはこれを引用している。軍医学図書館のヒューム少佐の好意によって「イタリア医学物語:第2巻、ナポリ、1845」から次の部分を見つけることができた。“E fra'tanti esempi ne prescegliero uno abbastanza antico per potere dissipare ogui dubbiezza. Nella Cronica Cavense reportata dal Pratillo (tom. 14, pag. 450) leggesi: Anno 1083 la Mouasterio Cavensi in mense augusto et septembri crassavit pessima febris cum Piticulis et parotibus. Nel che si ravissa chiara la differenza che si metteva fra la pesti, la febbre di altro genera; e quella accompagnata da petecchie.”(「1083年の8月と9月にラ・カヴァ修道院に小さな発疹と耳下腺腫脹を伴う重症熱疾患が蔓延した。これは点状出血が起きる点でペストとはっきりと異なる。」)この記載から診断が可能であろうと思われる。この発生と1849年のあいだに発疹チフスの発生が無かったとしたら不思議なことである。この期間中に正確な観察が記録されなかったか兎も角なされたとしても紛失されたと考えざるを得ない。
 スペインの初期の流行についての情報の主な資料はヴィラルバの次の本である。表題は「スペインの疫学、あるいはカルタゴがやってきた時から1801年までスペインに発生したペスト、伝染病、流行病と動物の伝染病の年代記。そのほかこのような種類の認識を含めて(マドリッド、ドン・マテロ・レプレスで印刷、1802)」である。
 ヴィラルバは情報の多くをこの病気に最初に「タバルディロ」(*発疹チフス)という言葉を適用したある本から得た。その本は「ラテン語では刺された傷、この国の言葉ではタバルディロ(tabardillo)とかピンタ(pinta)と呼ばれている新しい熱病の疫学。特にその性質、病状および治療法について」である。ニコラス・アントニオおよびアルベルト・デ・ハラーによるとアロンゾ・デ・トルレスという人が書いたものであるという。ヴィラルバは真の著者はルイス・デ・トロでありこの病気の歴史について書かれていないことに気がついた侯爵ドン・ルイス・デ・アストゥニガ・イ・アヴィラの勧めによって書いたと信じている。ヴィラルバは発疹チフスの流行について次のように書いている。
 歴史家たちが述べている重要な流行病のうちには1489年および1490年のグラナダ内戦で始まったものがある。1557年の疫病についての討論が示すように後になってこの病気はスペイン人の間に拡がった。この病気は悪性の発疹熱病であってある人たちは埋葬しない死体が原因であると考えた。他の人たちはキプロス島からグラナダ戦争に来た兵士たちが持ち込んだとみなした。この熱病はキプロス島に蔓延していた。キプロス島でこれらの兵士たちはヴェネチア人と一緒にトルコ人と戦い従って彼らはこの病気の種子をスペイン人だけでなくサラセン人にも植え付けた。しかしこの間の事情はどうであるにもせよ当時の医師たちはこの発疹熱を伝染性でありペストと同じであると信じていた。
 問題にしている病気はグラナダの野営地からカトリック王ドン・フェルナンド(*フェルナンド5世)の軍に蔓延した。このためか別の理由によるかは判らないが1490年始めの閲兵で将軍たちは2万人が名簿から除かれていることに気がついた。このうち3,000人はムーア人により殺され1万7000人は病気で死亡した。このうちの多くは重症の風邪で死亡しマリアナによると悲惨な死であった。
 これが発疹チフスであったことは疑いも無い。この節のうちで最も興味あるのはこの感染源は「グラナダ戦争にキプロス島から参加した一部の兵士であってこの病気はこの島に特有なもの‥‥」と述べられていることである。
 2番目のパラグラフでムーア人によって殺されたのは3,000人であるのに対して病気によって1万7000人の兵士が死んだことを明らかにしている。
 1557年の流行を取り扱って次の節でヴィラルバはこの病気がグラナダ内戦のときに新しく持ち込まれたものであると再び述べている。この頃までに流行はスペイン半島全体に拡がり1570年までの13年のあいだ猛威をふるい弱まることが無かった。
 グラナダ内戦まで知られていなかった新しい病気がスペインに1557年に出現し我々の半島の大部分で人口を減らし1570年まで勢いが弱くならなかった。この新しい疫病はグラナダ戦争の後でサラセン人のあいだに始まったものと信じられた。すなわちアラゴン王国のドン・フェルナンド王およびカスティリア女王ドーニャ・イサベル(*イサベラ1世)がこの市を征服した後のことでありドン・フェリペ(フィリップ)2世の命令によってムーア人が分散させられた後である。この感染がスペインのアラビア人から始まったことは次の事実から結論することができる。すなわちルイス・デ・トロがその著「発疹性熱病」に言っているように家から追い出された人たちの殆ど全部は村、町、市の住民と関係したり接触することによって住民を感染させた。この著書は1570年から1577年のあいだに起こった病気の性質を記載している。
 アメリカの発疹チフスはこの時にスペインからメキシコに運ばれたことに始まるとヴィラルバは信じているがこの発生についての全記載は引用するには長すぎる。問題になる節は次の通りである。
 前に述べたようにスペインの人たちを悩ましたこの発疹熱は我が国の海軍や商売人によってアメリカに運ばれメキシコの壮大な都市を激しく襲い困難を起こさせた。ブラヴォ博士はオナ(*セヴィリア州の都市)の住民で医師であるがこの病気について詳しい著書を書き「タバルデテ」(tabardete)と名付けた。この稀に見る本は「すぐれた医師が間に合わないときの緊急処置法(全4巻)」と題され1570年10月にペドロ・オカルテによってメキシコで八折判で出版された。この本はドン・マルティン・エンリケス王子に献呈され、後に適当なときに言及したい考察とともにこの病気についての記載、原因、徴候、症状、治療法を含んでいる。
 この問題について間もなくもっと書くことになるだろう。
 この病気は15世紀の最後の10年から16世紀を通してヨーロッパに完全に乗り出したがまだ大陸を横断して拡がってはいなかった。1546年にフラカストロは「接触伝染病について」を出版し第2の書の6章にこの病気の臨床様相の素晴らしい記載を行いその本性および蔓延の様式について多くの賢明なことを述べている。次の節はこの章の始めをライトの翻訳により引用したものである。
 他の種類の熱病も存在していて、ある意味において真の致死的なものと非致死的なものの中間であって多くは死ぬが多くは回復する。これらは接触伝染性であり従って致死的熱病の性質を持っているがふつう致死的とは言わないで悪性と呼ぶ。この種に属するのはイタリアで1505年と1528年に始めて発生したもので我々の時代で以前には知られていなかった。しかしこれらは世界のある場所では知られている。たとえばキプロス島および近くの島にあり我々の先祖たちも知っていた。これらは俗に「レンティクラエ」(小さなレンズ豆)とか「プンクティクラエ」(小さな刺し傷)と呼ばれている。レンズ豆またはノミに刺されたような点を作るからである。他の綴りをしたり「ペティクラエ」と呼ぶ人たちもいる。我々はこれらを注意深く研究する必要がある。今日でも多くの人たちを1度に襲うだけでなく特別の場合として個人が罹ることもあるからである。イタリアからこの種の熱病が存在しない他の国に行ってまるでこの病気を持ち込んだようにこの熱病で死ぬ人たちの例が知られている。このことは有名なヴェネティア共和国からフランス王への大使で非常に高名で学者のアンドレア・ナヴァジェロに数年前に起きた。彼はこの病気の名前さえ知られていない場所においてこの病気で死亡したからである。彼は学識があり天才であったので、長年にわたり彼の死以上に大きな文学における損失は無かった。
 このように初期に発疹チフスの流行がヨーロッパに出現したことを観察した著者たちから私は大量に引用している。それはこれが新しい病気とみなされ近東からヨーロッパに持ち込まれたと一般に認められたことを強調したいからである。もちろんこの点で彼らの見解はルイス・デ・トロの初期の意見に従っているかも知れないしこの病気がキプロスから来たとする彼の意見は間違っていたかも知れない。感染したラットは地中海の南に今では存在している。ジブラルタル海峡を越えて活発な通商がありラットの広がりは1つの大陸から他の大陸へ迅速に拡がったが故に最初に攻撃されたのがスペインだったかも知れない。
 何はともあれ16世紀の中葉より前に発疹チフスはヨーロッパの政治に活発に関係していた。いわゆる政界に登場し全生涯におけるもっとも広範で深遠で有効な一撃を示したのは1528年にナポリがロートレック傘下のフランス軍によって包囲されたときに皇帝軍の救助に決定的な役割を果たしたことであった。
 短く局所的な発疹チフスがナポリの手前におけるフランス軍を壊滅させたことは政治状態の背景を考えると歴史的重要性が如何に大きかったか最高に評価することができるであろう。神聖ローマ皇帝・スペイン王カール5世とフランス王フランソワ1世はヨーロッパの支配権を握るために長いあいだ北イタリアで争っていた。状況の鍵は教皇との同盟であり教皇にたいする権力であった。1525年の2月24日にスペインとドイツの同盟軍はイタリア中部のペスカラに導かれて差し迫った敗北から辛うじて勝利をおさめて、フランス軍の勝利の進軍は一転して徹底的な敗北となった。イタリアは皇帝軍の慈悲のもとになり、フランス王はスペインで捕虜となった。教皇クレメンス7世は困難な立場になった。ミラノとナポリは皇帝の手にあって教皇権は包囲されているので、教皇は教皇廳の独立が無くなるのを怖れた。皇帝軍の将軍のうちで最も活発なラノイはローマに進軍すると脅迫していた。教皇は多額の金を提供して皇帝と同盟を結ぶように迫られた。1526年にマドリド平和会議の後でフランソワは釈放された。フランス王への条件はあまりにも厳しかったので、彼がこの約束を守ることをカール5世のような目先の利く専制君主が期待していたと歴史家たちは理解するのが困難なほどであった。教皇は本性が臆病だったので2つの恐怖のあいだを動揺した。すなわち1つはイタリアにおける皇帝軍の恐怖であり、もう1つは教皇がカール5世との同盟に忠実であったときに戻ってきたフランス軍とのあいだに直面する結果であった。ヨーロッパにおける困難に加えて近東においてトルコの急速な勢力の増大があった。トルコはイタリア南東部のプーリアを経てイタリアに侵入して教皇の外交に混乱を起こす陰謀を企てていた。1522年にロードス島はモスレム権力のもとになった。このように近東における主な防壁は破壊されてトルコはベルグラードに入り1526年にハンガリー南部のモハーチでハンガリー軍を撃破した。
 教皇は休戦を確立して中立を維持しようとしたが混乱してフランソワ1世と運命を共にするように説き伏せられてその結果として1526年5月にクレメンス7世、フランソワ1世、ミラノ公スフォルツァ、ヴェネチア共和国のあいだにコニャック同盟が結ばれた。実際のところ完全に終わってはいなかった活発な戦争は殆どすぐに燃え上がった。フランソワ1世は新しい自由を楽しんでいたので直ぐに救援を送らなかったし新しい同盟の北部軍隊を指揮していたウルビノ公爵の戦術は極めて臆病であった。その結果ミラノとシエナは皇帝の手中に残った。教皇はフランソワ1世に緊急の救助要請を行ったが教皇と対立していたローマ貴族のコロンナ家一族はローマを襲い5,000人の小部隊で教皇をサンタンジェロ城に追い込みヴァティカンを含めてローマ市を略奪し教皇の教皇冠を奪い聖ペトロの秘密礼拝堂に入り退却するまでに30万ドゥカート(金貨)と推定される損害を与えた。フルンツベルクおよびブルボン公爵の指揮下の皇帝軍はこの後すぐにイタリアを南に進みローマに近づいた。ローマへの最初の攻撃は1527年の5月に行われた。
 ローマ略奪がこれに続いた。聖なる市の長い歴史において最も恐ろしかった災害の1つだった。教皇は囚人になった。市の状況はスペイン人ヴィラによって次のように記載された。「ローマで鐘は鳴らず教会は開かれなかった。ミサは行われなかった。裕福な商人の店が馬小屋に使われた。最も美しい宮殿が荒廃した。家は焼かれ街路に肥料が山となった。死体の悪臭はひどく教会の中でイヌが死体を食べているのを見た。傭兵たちは街路で金貨を積んで賭博をしていた。エルサレムの崩壊以外に私の知っている何にも比べることはできなかった。」教皇の幽囚は恐ろしいものであった。肉体的な苦しみと心痛だけではなく夏になって始まったペストは夥しい数の市民を殺し教皇に身近に使えていた人たちも多く含まれていた。教皇と一緒に投獄された2人の枢機卿もその病気で死亡した。腺ペストだったろう。
 ローマで起きたのと同じ病気が皇帝軍の将軍ラノイを殺した。この精力的な指導者の死はフランス軍を指揮していて北イタリアに近づいていたロートレックの最初の成功と大きく関係していたのだろう。最初にフランス人の進撃は凱旋行進であった。ロートレックのフランス軍はロレーヌとライン地方からの傭兵を加え彼を解放者とみなしたイタリア人で常に強化されロンバルディアの諸都市を再征服し教皇が解放されてボローニャに到達して中部の町オルヴィエトに移されたことを聞いた。この間にスペイン軍はローマで略奪を楽しんでいて遅くなったがようやっと危機に気がついた。決定的な戦闘はナポリで行われるであろうこと知って防衛に取りかかった。これは主としてオランジュ公国皇太子が予知してこの危険な状態をカール5世に進言したことによる。
 ローマを占領していた皇帝軍は主としてペストのために1万1000人以下となり乱暴になり無規律であった。以前は強力だった軍隊の残党もナポリ近くのトロイアで兵力が約2万8000人のロートレックによって包囲された。不幸なことにロートレックはすぐに攻撃をしなかったのでオランジュの皇太子は夜中に脱出しナポリの防衛を強化した。ロートレックの軍隊がナポリの近くに到達したころにカール5世が支配していた領土の全ての場所すなわち北海沿岸の低地帯、カタロニア地方および地中海沿岸地方でカール5世への戦争が行われていたことを思い出す必要がある。4月28日に皇帝の海軍は殆ど壊滅し6月10日までにジェノヴァのガレー船はナポリ港を完全に封鎖した。包囲の1月半後すなわち1528年6月14日にオランジュの皇太子はカール5世に次ぎのような書簡を送った。「10日のあいだ我々はパンと水だけで生きている。肉とワインは無くなっているし貴方の軍隊は長いあいだ給料を受け取っていない。」彼は加えた。「兵士たちも私も不可能なことは出来ません。1月後にはお終いです。」
 このときにナポリが陥落しイタリアと教皇がフランソワ1世を解放者および信仰の擁護者として認めていたらヨーロッパの将来の歴史はどうなったか推測するのは不可能である。しかしこの時に発疹チフスが到着した。ロートレックは7月5日にはナポリがこれより長いあいだ抵抗できないだろうと信じていたがペストは沼地に密集したフランス軍の野営地で急速な破壊行為を行った。30日以内に半分以上の兵士は死亡した。他の記録によると2万5000人のうちで4,000人しか残らなかった。ヴォードモン、ナヴァロ、およびロートレック自身が病気になり死亡した。後継者サルツォ侯爵は包囲をすぐに解くべきであると認めた。8月29日の雨の晩に退却が始まり勇敢なオランジュ皇太子指揮の騎兵隊が追跡した。フランス軍の残党は粉砕された。殺されるかまたは武装解除された後に農民の手にかかって殺された。僅かの部隊がローマに達した。半分裸で病気に罹っていた。皇帝は完全に勝利しクレメンス7世は提案をした。イタリアはスペインに従属し教皇権力の大きな影響力はカール5世によって完全に支配されることになった。1530年にカール5世はボローニャにおいて発疹チフスの権力によってローマ帝国の支配者として王冠を戴いた。
 すでに引用した一節でヴァラルバは発疹チフスが16世紀の前半にスペインから新世界に運ばれたと推定している。
 旧世界による新世界の発見から相互のあいだに多くのものが良かれ悪しかれ交換された。最初には釣り合わない交換であった。旧世界が持ち込んだのは文芸と天然痘、キリスト教と麻疹、ラム酒、ヨーロッパ的な喧嘩、猩紅熱、スズメ、ウマ、ロバ、アングロサクソン、アイルランド人、ユダヤ人、黒人、ズボン、インフルエンザ、小麦、兄弟愛、火薬および結核であった。これらすべての恵みにたいして返礼として受け取ったのは最初は金、タバコ、梅毒、ジャガイモ、トウモロコシであった。新世界が繁栄するに伴って投下資本にたいしてもっと適当な利子を払い始めた。現在になると体面はほとんど等しい。アメリカが年長者から受け取っているものは工業、政治、資本主義、共産主義、アルコール中毒、メソジスト教会、洗礼、自由詩、自由恋愛、精神分析、教育体系、ジャーナリズム、博愛、カメラ、科学、芸術、文芸、フットボール、ラット、送金で暮らす人、小型飛行機、ロシア皇太子、銀貨、マカロニ、ウィーンシュニツェル、労働争議、銀行家と仲買人、などなど。アメリカは似た種類のもの、またはより大きいもの良いものを返済している。そしておまけとして高関税、ピーナツ、写真、チューインガム、活動写真、朝食用加工食品、女相続人、クリスチャンサイエンス、カクテルシェーカー、能率化方法、うそばなしドル、を加えている。しかし多くの点でアメリカはいつでもヨーロッパの植民地であろう。2,000年の文化の貯蔵倉にある贈り物に払うことができる貨幣をアメリカは持っていないからである。しかしこれはまたもやこの伝記の主人公とは関係が無い。ここで問題なのは西半球がヨーロッパによって発見される前に発疹チフスが西半球にあったかどうかまたはこれも輸入品かどうかである。
 ヨーロッパおよびアフリカと違う形の発疹チフスが現在のところメキシコ、ペルー、ブラジル、ボリヴィア、チリーおよび合衆国の南東部および中東部に流行している。近い親類のロッキーマウンテン紅斑熱は後で見るように州として合衆国の中央高原と山岳地帯にあり上に述べた国々にもあるであろう。メキシコには発疹チフスが数世紀にわたって存在した。これは征服者によって持ち込まれたのだろうか元からあって待っていたのだろうか。西半球におけるこの病気は流行と流行のあいだでラットを貯蔵所として生き続けている。ラットからラットへはラットシラミやラットノミによって運ばれヒトからヒトへはヒトジラミによる。従って我々の質問には特に次のことが含なれる。アステカ人にシラミがたかっていただろうか?古代メキシコにおけるラット属という齧歯類はどんな状態だったか?
 コルテスが来る前にメキシコではっきりと発疹チフスの流行があったと確信をもって主張できる信頼のおける記録は実際のところ存在しない。紀元前1116年にトランのトルテック(*アステカ人以前にメキシコ高原を支配した民族)人の都市が壊滅したのは発疹チフスの流行によるという言い伝えをディアスおよびレオンは信じている。そうかも知れないがペロポネソス戦争のときのアテネの疫病流行と同じように問題がある。最近オカランザはアステカ王国の疫病の信用することができる記録の総説を書いている。この記録は主としてフランシスコ教会の年代記にあったものでありこの証拠は有用である。
 コルテスは1519年3月4日にヴェラクルスに上陸し前にも述べたように同時にパンフィロ・デ・ナルヴァエスの軍隊をキューバから輸送してきた船から1人の天然痘に罹っていた黒人が上陸した。この病気はインディアンの村から村に拡がり「ニュースペインに健康な村は1つも無くなった。」住民の50%は死亡した。天然痘はインディアンに知られていなかった。フランシスコ修道士たちは水浴が「血液を刺激する」と考え彼らの到着が間に合ったら住民たちに水浴の習慣を病気の時に止めさせ発生を抑えることができただろうと考えていた。病人に食事を与えるには病気に罹っていないものはあまりに少なかったので多くの患者は飢えで死亡した。生き残ったものはこの病気を「大きなレプラ」と呼んだ。
 1531年に2番目の疫病流行があった。再び征服者たちが持って来たもので「小さなレプラ」と呼んだ。死亡者は多かったが1520年ほどではなかった。麻疹だったのだろう。
 1545年に不幸な奴らにもう1つの訪問者があった。修道士のフリアル・ジェロニモ・デ・メンディエタによると、トラスカラでは15万人のインディアンが死亡しコルラで10万人が死亡し他の地方の死亡者数は人口に比例した。症状は充血、発熱、血便、鼻血であった。赤痢または腸チフスであったろうが死亡率はそれにしては高すぎた。死亡率を説明できるのはペストまたは発疹チフスだけであった。ペストだったら認識できる記載が無いことはあり得ない。発疹チフスすなわちタバルディロだったら気がつくはずであった。1492年1月2日に陥落したグラナダの包囲によってスペインで知られていたからである。修道士たちはこのインディアンの病気の名前を知らなかった。しかし多くの現在の名医と同じように経験が無かったのだろう。1906年にニューヨークで見られたブリル病が発疹チフスであると最初に認識されたのはポーランドからのユダヤ人医師があるニューヨークの病院の病棟を偶然にも歩いていたときのことであった。1545の悪疫流行は発疹チフスだったのだろう。
 1564年に不幸なアステカ人は不明な病気によって再び多数が犠牲となった。
 1576年に1545年のときと同じような病気すなわち「充血」が起きた。これはタバルディロと認められた。この時から発疹チフスの流行は当たり前のことになりはっきりと診断された。1588年の発生はメキシコ中部のトルカ渓谷に集中した。この渓谷で土着民たちはこの時には混じりあっていたがマトラキシンガ族が重症となった。言い伝えが正しいとすると他の部族ではある程度の免疫があったことも示されている。このような免疫は子供のときに多くの軽症のこの病気に罹っていたことの結果であり2つの比較的に感染の少なかった部族ではこの病気が流行病として存在していた証拠である。
 修道士メンディエタによると1595年に麻疹、流行性耳下腺炎、タベルディロはすべての土着民のあいだで普通のものになった。
 ヨーロッパと新世界の発疹チフスの違いを最初に正確に区別したムーザーはスペイン人到着の前にメキシコにこの病気が存在したと信じているようだった。その理由として次のように言った。「ミコアカンのインディアンたちは発疹チフスを“cocolixtle meco”すなわち紅斑熱と呼んでいた。cocolixtle は痛みが多い発熱で meco は自分たちの身体を赤い筋や点で塗っているチチメカス族に由来している。」トルレスはミコアカン州のある地域で“cocolixtle meco”をスペイン語の“ティフォ”で置き換えたのは最近のことであると言っている。アステカ族は発疹チフスを“matlazahuatl”と呼んでいた。Matlatle は網であり zahutl は発疹または点であり発疹が網状に配列していることを意味している。彼はまた点が網状をして覆っている男が両手で頭を抱え鼻から血が出ている絵文字のあることを付け加えている。ムーザーはまた1573年の流行を記載するにあたってディアスが「メキシコ市の周辺で恐ろしい cocolixtle が発生した」と言っていてスペイン人が自分たちの病名を使う前にインディアンの病名を使っていることを観察している。これは有能な医師たちが居ないときに征服者たちは占領地に長いあいだ地方病的だった病気の流行が起きたと考えてかなり後になるまで自分たちのティフォとかタバルディロと同じであるとみなさなかったことを示しているのであろう。
 歴史的な証拠のうちにはコロンブス以前に南アメリカの国々に発疹チフスがあったことを示唆するものが多く存在する。ペルーの初代総督ブラスコ・ヌフィエスの前に南アメリカにラットが居なかったということは決定的な反対意見ではない。多くの他の齧歯類ははっきりとした症状を示さないで「不顕性」の形で発疹チフス病原体を宿らせることができるからである。
 しかしもしもアステカ族にシラミがたかっていなかったとしたら発疹チフスの流行があったことは全く問題にはならない。シラミについての以前の議論においてファーレンホルツの研究および特に種々の民族に種々のシラミが居たことについてのユーイングの研究を問題にした。ユーイングがペルーおよび南西アメリカインディアンのミイラの頭蓋にシラミを見つけたことを思い出すであろう。彼はまた広範囲に分布している南アメリカのクモザルにヒトのシラミと似たシラミを見つけてこのサルは数万年前に原始人から受け取ったのではないかと述べている。そうかも知れないがミイラの観察は原始アメリカ人が自身にシラミを持っていたことを疑いもなく確立している。
 実際にシラミがアステカ族にたかっていたことについては貧乏人がシラミの入った袋をモンテスマへの貢ぎ物としたことについてのオヘダの話以外に資料が無い。しかしカウアンはこの袋に入ったシラミと思われるものはスペイン人がこのときには知らなかったコチニールカイガラムシ(*紅色色素カルミンの原料)と信じている。メキシコ人は「長い虫とシラミ」を食べると「パーチャス旅行記」に書いてあることは割引して聞かなければならない。
 しかし多くの状況証拠はアステカ人にシラミがたかっていたことは殆ど疑うことはできない。
 アステカ人はたぶん12世紀の初期にメキシコ高原に達した。彼らは北西のアストランという伝説的な地方から来た。知られているのはこれが全部であって彼らの起源はマヤ、インカ、北部インディアン、エスキモなど西半球の発見以前に住んでいた他の部族と同じように不明である。これらの人たちは我々の知る限り互いに何も知らないし他の文明に接触しないし影響を受けていないが同一の先祖に由来していることは疑いが無い。このことは単なる考えではなく血液型によって信頼をもって主張することができる。現在の目的のためには血液型の技術を詳細に述べる必要は無い。ある人の血清と他の人の赤血球を混ぜる実験をすることによって人類をはっきりと区別できる4グループに分けることができる。実際はこれ以上の血液型が存在するが今回は4つの主な型で充分である。このグループ分けを決定する特性は遺伝的なものであり遺伝形式は明らかな遺伝法則に従う。従って血液型の研究は異なる人種のヒトのあいだの関係を明らかにするにあたって人類学・民俗学においてかなりの価値が存在する。ヨーロッパ人については何世紀にもわたって行われた人種的な混合が血液型によって起源を論ずることを不可能にした。アジア人のあいだでは同じような混乱が存在する。しかし西半球の住民についてはかなり純粋と思われる種族を研究すると1つの血液型すなわち「O型」が優位を占める。不幸なことに純粋と思われるインカ族を研究することはできない。しかしマヤ族は97.7%がO型でユカタンのメスティーソ(*混血人)の85%がO型である。カスタネダが研究した純粋とは考えられない小グループのアステカ族の子孫は80%、純血のアメリカインディアンは90%またはそれ以上がO型であった。バッフィン湾(*グリーンランドとバッフィン島の間)のエスキモーはもしも純血であったら全部が「O型」であろう。
 これらの事実は多くの興味深い言外の意味を持つがその部分は現在の問題とは関係が無い。重要な点は血液型が似ているので西半球の住民のあいだに人種的に近い関係があることである。このことおよび少なくとも2つのアメリカ土着民族の歴史前のミイラにシラミを見つけた事実を考慮するとアステカ族もインカ族も同じようにシラミに取り付かれていたようである。
 これまで論じてきた歴史資料とアステカ族にシラミがたかっていた可能性を結びつけるとスペイン人による征服の前に発疹チフスが西半球に存在したらしいということになる。その反面メキシコにおいてこの病気が認識された初期の流行の前にヨーロッパからこの病気が持ち込まれた可能性があるかどうかについて調べることが重要である。
 発疹チフスはコルテスがメキシコに上陸する前にスペイン全土に拡がっていた。もしも病気が旅行者によって輸入されたならば感染したシラミによることはあり得ない。スペインの冒険家たちはユカタンやメキシコの海岸の幾つかの地点に進むまでにまずキューバに行った。この旅行は数ヶ月以内で済むことは無く発疹チフスに罹ったシラミは感染した血液にありついてから長くても12日から14日で死亡した。航海中に病原体が水夫から水夫に発疹チフス発病として続けて渡されることも可能である。しかしこのようなことが起きたら重大な事件であって記録が残っている筈である。このことに関係してオヴィデオの興味深い観察をカウアンから引用できる。すなわち船が西インドへの航海の途中で熱帯に入るとシラミは水夫から離れ帰りには同じ場所でたかり始めることを観察したことである。この観察はキュヴィエの「昆虫の歴史」への補遺を書いたうちの1人が疑問を投げかけている。カウアンはこのことにある程度の真理があると考えている。暑熱と激しい発汗はコロモジラミの増殖に不適当になるからである。これとは別に高温で水夫は衣服を脱ぐのでコロモジラミには不適当になったことはありそうなことである。しかし同じようにこの病気を伝播するアタマジラミは同じところに留まるであろう。我々は真夏に北アフリカでアラビア人にアタマジラミが沢山たかっていることを見ている。寒いところや温暖なところではそれほど多くは無いがシラミはいろいろな気候条件で栄えることができる。しかし既に述べた理由で感染したシラミがアメリカへの航海の最初の段階で生きたまま運ばれることは考え難い。
 この病気のこのような輸送は従って問題があるとしても、病原体が船のラットやマウスによって持ち込まれることは不可能ではない。すでに見たようにクマネズミは西ヨーロッパにたしかに12世紀以降に存在した。フランスに存在したので13世紀の初めにスペインにも恐らく存在したであろう。フランスに居たことは「ルナール物語」(*13世紀フランスのバラード)および13世紀末か14世紀初めの同様なバラード「小説家の狐」「偽善者の狐」に記載されている。ラットでこの病気は無限に生存しスペイン人よりも航海で生き続けることができる。このようにしてこの病気はキューバでは地方病になり16世紀にスペイン各地とのあいだに交易がおこなわれたのでキューバからユカタン半島およびメキシコの海岸に簡単に運ばれたであろう。修道士たちが発疹チフスと特に認めたメキシコにおける真の流行は1576年のことであった。グリハルヴァ指揮下のベルナル・ディアスは1517年2月8日にハヴァナを出港し船がユカタンの海岸に着くのに21日を要した。この探検はメキシコ本土には行かずにフロリダに向かった。ここでスペイン人の半分は土着民に殺された。コルテスは1519年2月10日にハヴァナを出発して3月12日にタバスコ(ユカタン半島基部のメキシコ湾岸)に着いてユカタンのコズメルに寄ってサン・ファン・デ・ウルティカすなわちヴェラクルスに進み聖金曜日の前日に上陸した。その後にも航海がしばしば行われ感染したラットの運搬および海岸から高地への拡散を除外することは不可能であり最初のラットノミから個人への病気の感染がシラミを持った集団に流行を起こすことは現在と同じように容易だったであろう。
 発疹チフスが他のものと一緒にヨーロッパから西半球に与えられた贈り物であるかどうか確かに決定するのは困難である。しかしこの結論に達する前に数多くの興味ある事実を学んだ。


第15章

発疹チフスの壮年期:若々しい力と荒々しい元気の時代

 グラナダ戦争(*1492年)の後で発疹チフスは殆ど止むことなく小さな発生を続けてスペインからイタリア、フランス、次に北方へと拡がった。これらが完全に弱まらないうちに新しい波が1528年のナポリの包囲の後で南から北に始まった。人間の抵抗が弱ったときに何時でもつけ込む戦略に従って激しい発疹チフスの流行が再び1552年にカール5世にメス市(フランス北東部)の包囲を断念させた。この市の包囲は冬季に行われスペイン人、ドイツ人、イタリアの傭兵から構成されている皇帝軍は種々の病気の組み合わせによって12月の始めに非常に悩まされた。この中には壊血病と何時ものように消化器系熱病が含まれていたが特に悪性なのは発疹チフスであった。1万人以上の兵士がその月のうちに死亡したと言われその年の終わりより前に包囲軍は撤退し周囲には完全に感染した村々が残った。「牢獄病」という言葉がこの病気に普通になったのはこの時のことだったであろう。多数の人々が軍の牢獄で死んだからである。この田舎の村々で疫病流行は次の夏の終わりまで終わらなかった。
 帰ってきた兵士に侵入された地域からは、この時より後に発疹チフスが無くなることはなかった。燃えることができる物質に火をつける機会があると兵士たちは導火線に火をつけて村や都市に感染を点滅させた。しかしこれらの不規則に散発し一般的に小さい疫病発生について我々は詳細の情報を持たない。ヨーロッパ生活の初期にこの感染が繰り返して東方の辺境から更新されなかったなら大火災がこれ以上に無かった場合にこの病気は次の数世紀以内に終わったことがあり得る。
 発疹チフスのヨーロッパ征服についてのもっとも重要な物語はほぼこの時にハンガリーで起きた。以前の章でデ・トロが自分の信念として仄めかしフラカストロが繰り返したのは発疹チフスがキプロス島から持ち込まれたことであった。そして歴史の記録はリケッチアの寄生生活の発展が東洋においてはヨーロッパ本土よりも数百年も前だったことを示唆している。ヨーロッパを席巻した初期2つの発疹チフス流行の波が東洋の軍隊にたいして西ヨーロッパ軍の守っていた地域に始まったことは偶然の一致とみなして良いとは思われない。最初のものはスペイン人とサラセン人のあいだの戦いによるものであった。2番目のものはこれから話すようにハンガリーの前線におけるトルコ人との戦いの結果であった。
 中世初期からハンガリーとバルカン半島は回教徒にたいするキリスト教徒の前線であった。15世紀初めにトルコ人は強力な進歩をとげハンガリー軍を何度も負かしセルビアの支配者になりハンガリー中央だけでなく時にはウィーンを包囲した。東ハンガリーは100年以上にわたって侵略された。時にオーストリア皇帝から援助を受けることができずにハンガリー王は自国の住民から集めることができる少ない部隊で守るだけのこともあった。国境に沿って不規則に散らばっている55の城の並びが唯一の国境防御であり組織化されていないでトルコ人と争うだけではなく相互に争っていた。住民は完全な混合であった。トルコ軍には“matrolosos”とか“quastotori”と呼ばれるキリスト教徒の捕虜と背教者を含みキリスト教徒の軍隊に同じようにトルコ人が加わっていた。
 ハンガリーの国民的英雄フニャディが1456年にベルグラードの封鎖を解いてオスマン帝国スルタンのメフメト2世を負かしたときの最も強力な同盟軍であった疫病の本性について我々は正確な知識を持たない。発疹チフスだったかも知れないしペストだったかも知れない。どちらにしてもこの勝利はハンガリーにとっては不毛であった。この病気はフニャディ自身を死亡させたからである。この時より後の100年またはそれ以上に疫病たぶん発疹チフスとペストの両者は戦争をしている軍にいつでも互いに続いて付き従い短い休戦のさいには帰郷する兵士に従って村や町に持ち込まれた。しかし信頼できる発疹チフスの診断を下すことができる充分に正確な情報は1542年まで得ることができなかった。この年にブランデンブルクのヨアヒム2世は主としてドイツ人とイタリア人からなる軍隊を指揮してハンガリーに行った。彼の兵士3万人を殺した「ペスト様の口峡炎」と呼ばれた病気は疑いもなく発疹チフスであった。この感染症の動きを追っている我々にとって辺境伯の兵士がこの病気を持ち込んだのかハンガリー人やトルコ人から受け取ったかどうかはかなり興味深い。前に見たようにこの頃までに発疹チフスは西からスペインおよびイタリアに入ったがフランスおよびドイツでは知られて居なかったからである。この問題への手掛かりはジェンリが記録した非常に重要な観察によって与えられる。ジェンリによるとドイツ人は重症であったがハンガリー人とトルコ人は比較的に軽症であった。当時の観察者たちによるとドイツ人の死亡率は非常に高かったので軍のかなりの部分は敵と戦わなかった。トルコ軍がドイツ軍を殺す機会を持つ前に「ハンガリー病」が殺してしまったからであった。ハンガリーが「ドイツ人の墓場」と呼ばれたのはこのためであった。
 もしもこれが正しくそして実際の観察が存在しないで示唆だけに過ぎないものでは無いとしたら次のことを意味する。すなわち皇帝軍が到着したときにこの病気はハンガリーに確立していたことである。発疹チフスは免疫を与えこの免疫は一生は続かないにしても数年は続くものであり地方病になっている地域において発疹チフスが普通でない国から新しく来た人々はそこで生まれた人々よりも重症になることは普通に見られることである。トルコ人やハンガリー人が比較的に免疫性をもつことは従って彼らのあいだに「集団」抵抗性が存在する傾向のあることを示しこの抵抗性は長いあいだ絶えることのないこの病気への暴露、すなわち散発的な患者や小グループの発生が続くことによって作られる。辺境伯の軍隊の帰郷に伴ってこの病気はヨーロッパで再び遠く広く蔓延した。
 この1566年のときよりすぐ後に神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世が自己の東部遠征を防衛するためにハンガリーに進行したときにこのエピソードはもっと大きなスケールで繰り返された。何回かの軍事行動は皇帝に有利であって発疹チフスが再び決定権を取ることがなければ皇帝は急速に目的を果たすことができたであろう。皇帝軍はドナウ川に沿い大部分はコモルン島、ラーブ、ラブニツに宿営した。食物不足、悪い水およびシュヌルラーによるとビールが酸っぱくなるという嫌なことが起きた。気候は激しく暑く赤痢と腸チフスで兵士は弱った。そしてこれらすべては発疹チフスに理想的な土壌であった。遠征軍の軍医であったトマス・ヨルダヌスは真に迫った記載を行いこれによって診断を疑いの無いものにした。悪寒で始まり腹痛、譫妄、疑いの無い渇き、点状出血を伴う発疹が続いた。この発疹は診察した殆どすべての病人で観察された。この病気は軍から周囲の地域を通って蔓延しマクシミリアンは軍事行動を中止しトルコ軍と不本意の和平を結ばなければならなかった。最終的に規律は低下し部隊は幾つにも分裂して病気をイタリー、ボヘミア、ドイツに運び、続いてフランス、ブルゴーニュを経て北のベルギーに持ち込んだ。これらの小さな流れが町に達するとどこでも流行が起きた。ウィーンは歴史上最悪の重症発疹チフスの発生で苦しめられた。このときより発疹チフスはハンガリー、バルカン諸国、ポーランドとロシアの隣接している領域において地方病になった。これらは今日でも「生まれ故郷」として現在ヨーロッパにおける流行の源になっている。
 歴史研究が与えてくれた手掛かりによるとハンガリー戦争およびその結果は発疹チフスにヒトからヒトにシラミを経由する直接経路で伝播する機会を与えたと信ぜざるを得ない。この直接経路はラット→ノミの相を省略してヒト→シラミ→ヒトの形すなわち現在「古典的ヨーロッパ型」または「ヒト化病原体」と呼ばれるものに寄生性を確実に適応させたものである。
 17世紀のあいだ発疹チフスにヨーロッパ大陸を席巻させることになった出来事を書き記すにあたって私は主な物語だけに限ることにする。大きな悪疫流行の合間に町や村を苦しめた殆ど絶えることがなく続いた小さな発生まですべてを列挙するとしたら私の能力の限界を超えた大きな負担になり退屈なものになってしまう。前の節に述べた状況によって1度バルカン半島の西にしっかりと根を下ろすと発疹チフスは野火のようにすべての方向に拡がった。ある時は低くくすぶり多分ときには殆ど消え再び燃えて新しい方向に進みいつでも燃料が得られると破壊的な炎をあげて燃え上がろうとする。いわゆるキリスト教文明と呼ばれるすべての時代において人にたいして最も悲惨であった世紀において発疹チフスは孤独ではなかった。ペストは当時において発疹チフスと切り離すことができない残虐な仲間であって14世紀から完全に消滅してはいなかった。天然痘、ジフテリア、腸チフスおよび小さな疫病のすべてにたいして油断することはできなかった。そしてこの時代の年代記は飢饉、疫病および信ずることができない野蛮な戦争の記録であった。
 この時期の悲惨さはランメルトによって生き生きと記載されている。彼は1600年から30年戦争の終わりまでの悪疫と戦争の関係を年代順に書いている。ランメルトはドイツ南東部のレーゲンスブルクの地区医師でドイツの種々の地区の年代記を調べていた。彼はそれぞれの年度を取り扱う節の見出しに天候、農産物収穫、および必ずワインの品質について書く変わった習慣を持っていた。例えば1602年に次のように書いている。「冬は厳しく4月も寒く夏に雹の嵐があった。ワインは少なく質も悪かった。今年はドイツ南西部のプファルツにペストの流行がありザクセンとプロイセンに蔓延した。ダンツィッヒでは1週に1万2000人が死亡した。天然痘の流行がボヘミアに起きシレジアにも起きた。南ドイツには激しい腹部疾患(多分赤痢か腸チフス)が荒れ狂った。ロシアに飢饉がありペストと発疹チフスの流行を伴いモスクワだけで12万7000人がこの流行で死亡したと言われる(たぶん誇張)。」
 毎年恐ろしい話が繰り返されている。手当たり次第に他の部分を選ぼう。「1613年にワインは豊作だったが酸っぱくなりハンガリー病(発疹チフス)はドイツ南西部のヴュルテンベルクからチロルに拡がった。頭痛(発疹チフス)がマクデブルクに君臨した。レーゲンスブルク、ライプツィヒ、ボヘミア、オーストリアにペストが発生して東に拡がった。」30年戦争が始まるまで毎年このようであった。
 30年戦争は人間に行われた最大の疫学実験であった。既に見たようにヨーロッパはすべての考え得る感染症の小さな発生が絶えず繰り返している地点の地図であった。そしてこの地域を通って軍隊が進軍し退却し、除隊した兵隊や逃亡者や遺棄者が遠く広く彷徨った。飢饉がそのために起き住民は食物と保護を求め仲間を組んで放浪した。人間が旅するところに病気がついて回った。
 これらの疫病流行の歴史は流行を起こした条件の背景を考えないと充分に理解できない。そしてこれらの条件の概念はランメルトが同時代の記録から集めた物語によって一番よく知ることができる。どの物語を選択するか困ってしまう。次は思いつくままの例であり、1632年の記述の中にランメルトが書いたものを逐語訳した。他のどの年から選んでも同じような実例が得られるであろう。「グスタフス・アドルフス(*スウェーデン王グスタヴ2世。プロテスタント軍)がドイツ南端のメミンゲンを攻略して南ドイツを席巻しようと準備していたときに皇帝軍傭兵隊長のヴァレンシュタインがザクセンに進出して勝ったことを聞いて進撃を中止した。メミンゲンはすぐに皇帝軍に取り戻された。以前の首都ケンプテンはスウェーデン軍の手中に帰しカレル博士が書いた当時の年代記はこの町における不快な出来事を書いている。」「筆は逆らい」ペンは「このような人間の獣性化」を記録することに反抗している、と善良なランメルトは書いている。女性は捕らえられると乳房が切り取られた。母親は子供や召使いとともに川に投げ込まれた。兵士は土地の医師を殺しその娘を強姦し彼女の目をくり抜き死んだ父親と一緒に窓から投げ出した。後で殺されることになる夫および両親の目の前で妻や娘を強姦した。煮立っている鍋の前にいる主婦を見つけるとスウェーデン人は彼女の手を切り取り頭を何回も鍋に漬けた後で切り落とした。6人の小さな子供たちが地下室で殺された。1月13日に市は再び皇帝軍の手に落ちた。生き残った住民に加えた勝利者の残酷さはいみじくもガブリエル・フルテンバッハ博士が「嘆きの年代記」と名付けたものに記録された。これはグスタヴ王がニュルンベルクへ進撃する少し前のことであり発疹チフスは両軍にたいしてしかるべき復讐を行った。
 プリンツィングは30年戦争の疫学史を2つの主な時期に分けている。最初の時期は1618年から1630年で発疹チフスが主な災害であり後の時期は1630年から1648年のあいだでペストが支配的になったときである。しかし忘れてはならないことは全期間を通じて両方の病気は一緒に暴れ回り、赤痢、腸チフス、ジフテリア、天然痘、猩紅熱、その他それほど致死的ではない仲間たちによって強く後押しされていたことである。
 戦争はまったく初めから激しい発疹チフスの流行を伴っていた。マンスフェルト(*皇帝軍からプロテスタント軍に寝返ったドイツの貴族)の軍はドイツ南部ワイセンブルクの戦闘後にプファルツからアルザスに進み到るところに発疹チフスを残して行った。これによってボヘミアと南ドイツに続け様に悪疫流行が始まった。続いて発疹チフスはヴァレンシュタインおよびティリー(*皇帝軍の司令官)の軍に伴って北ドイツに運ばれ1625年にペストと発疹チフスは頂点に達した。田園の荒廃によって農民たちはいろいろな都市に流れ込み疫病はストラスブルク、マンハイム、フランクフルト、マインツ、ニュルンベルク、その他の小さな町に拡がった。メスでは発疹チフスが再び1625年に現れ続いてヴェルダンを経てフランスに拡がった。ザクセン軍は1631年のブライテンフェルト(*ライプツィッヒ郊外)の戦闘に続いてザクセンは発疹チフスおよびペストによって激しい損害を受けた。ペストは主導権をとって2つの病気は一緒になって急速に動いている軍隊とともに旅をし兵士たちが出発した後に周囲の地域に数え切れない病原中心を拡げた。バイエルン王国はこの時に殆ど住む人がなくなった。
 1632年6月にスウェーデン王グスタヴはニュルンベルクを包囲した。夥しい数の亡命者と軍隊がこの市に集まっていた。11週におよぶ頑強な抵抗の後で食物も補給も無くなった。ハンガリー病(発疹チフス)と壊血病は包囲軍にも籠城軍にも拡がった。町では約5,000人の犠牲者が教会の記録に残っているがこれらは死亡者のほんの一部である。バンベルクのマリア・アンナ・ジュニウスという尼僧はこの年の11月の年代記に次のように書いている。「この頃ニュルンベルクでは物価騰貴と死亡者が多く7週間で2万9000人が死亡したほどであった。」
 スウェーデン軍の苦労も少なくなかった。飢餓と病気は規律を破壊し周囲の地域の貧窮化した農民は兵士たちの残忍性の犠牲になった。この市の最後の攻撃に失敗してスウェーデン王は退却せざるを得なかった。彼の後には廃墟が残った。田園は荒廃し村々は灰の塊になり街路は死体からの悪臭でむかついた。ある地域ではもとの住民の4分の1しか生き残っていなかった。市民や農民やはぐれた兵士の数少ない生き残りの多くは食物や略奪品を求めてスウェーデン軍と皇帝軍が放棄した野営地に侵入して病気に罹った。発疹チフスとペストは再び遠く広く蔓延した。発疹チフスは包囲を解かし両軍を戦わずに退却させた。
 しかし流行病における30年戦争の災害は実際の戦闘によるものだけではなかった。感染は常に国境を越えて運ばれた。1624年にアムステルダムでは1万人以上の人たちが死亡した。同じ頃フランスは発疹チフスに侵入された。この頃に西プロヴァンスではカルビン教徒にたいする残酷な戦いが行われていた。医学校があったモンペリエは1623年に包囲されラザルス・リヴェリウス医師が「悪性の流行熱病」と呼んだ病気が発生した。マーチソンの詳細な引用によると誤り無く記載されているの発疹チフスである。「皮膚にはノミに咬まれたような赤、青藍または黒の斑点の発疹が4日から9日目に全身しかし多くの場合に腰や胸や頸に出現する。」この感染は地区に残り1641年に再び流行した。発疹チフスはモンペリエから出発して腺ペストと一緒に北方に拡がった。1628年からプリンツィングの数値を使うとリヨンで6万人、リモジュでは2万5000人が死亡した。病気はパリおよびアヴィニョンに拡がりピレネー山地に向かい地中海沿岸に沿って進んだ。
 30年戦争が終わったときにヨーロッパ大陸のどの片隅も発疹チフスの流行中心が無いところはなかった。テュレンヌ将軍による遠征、オランダにおける戦争、ロシアにおける戦争、長いあいだ続いたトルコ人との戦争とくに1683年のウィーン包囲、は発疹チフスが続けさまに活動するために必要なすべての機会を提供した。そしてイタリアとくにシチリアにおいて飢饉が起きて発疹チフスは歴史上でもっとも激しい疫病流行を自由に起こすことになった。このあいだにフランス自身は容赦されず1651年と1666年はフランス中西部ポアトゥーとブルゴーニュにとって悲惨な発疹チフスの年であった。
 東部の戦場ではロシア、オーストリア、ハンガリーが18世紀まで休みなく争い続けこの病気はますます強く根を下ろして既に述べたように恒久的な疫病中心を確立した。
 イングランドの疫学記録によると大陸に発疹チフスが確立する前にイギリスに発疹チフスが存在した事実は無い。もちろん1087年の「ドリフ熱」とか「飢餓熱」のような恐ろしい多くの疫病は流行していた。アングロサクソン年代記に次のような記載がある。「A. D. 1087 我々の主であり救済者であるキリスト誕生の千八拾七年の冬、神の許可によりウィリアムがイングランドを支配し統治してからの弐拾壱年目はこの国にとって非常に耐え難い疫病流行の年であった。最悪の状態すなわち下痢の人にあまり近づくと病気に罹る。非常に恐ろしいものであって多くの人たちはこれによって死亡した。」この病気は発疹チフスでないことは明らかであり赤痢および腸チフスに飢饉による栄養失調が関連したものであろう。同じように不明なのはウィリアム・オブ・ニューバーグが記載した1196年の飢餓熱や1258年、1315年の飢餓熱である。古代イングランドにおける発疹チフスについて学究的な総説を書いたマッカーサー中佐はこれらの流行は1414年にロンドンの監獄に関係している病気と同じように一部は発疹チフスであると信じている。しかしこれは流行発生の起きた環境を考慮しただけであることを示唆し非常にあいまいな記載しか存在しないので特異的な診断をくだす基礎が無いことを認めている。15世紀以前にヨーロッパで発疹チフスの流行は無かったようなので16世紀中葉にこの病気は大陸に確立された後に英仏海峡とアイルランド海を渡ってシラミが沢山にたかっている住民が密集している不潔な村や町に肥沃な土地を見いだしたものと思われる。
 イングランドにおいて発疹チフスの誤りない惨害の最初の幾つかは監獄のものであった。これは「監獄熱」として怖れられた。マッカーサーによるとイギリスの監獄組織は「上から下まで全く腐敗していた‥‥監獄のあるものは私有財産であって看守は借りていて囚人とかその友人から取り立てた手数料を返済に当てていた‥‥囚人は鎖で繋がれ看守は『鎖を楽にする』名目で賄賂を取ることができた。」監獄は憤慨に堪えないほどぎゅう詰めで言いようがないほど不潔であった。これらの状態は監獄改善の最初の主張者であるハワードが「イングランドおよびウェールズにおける監獄の状態」を1770年に書いた後になるまで何世紀も続いた。発疹チフスは監獄内で繁栄し時には逃げ出して周囲の地域で騒ぐこともあった。特に劇的に起こったのは「黒い巡回裁判」であった。数多くの「黒い巡回裁判」があった。1577年にオクスフォードで行われエクセターで12年後そして最後の重要なものはオールドベイリーで1750年にあった。以下は主としてマッカーサーから引用する。
 1577年にジェンクスと呼ばれる男が投獄された。カトリック信者の製本屋で「今では安定している政府」の悪口を言い聖書を冒涜し聖職者を侮辱し教会に行かなかったことで罪を問われた。時代を考えると彼は精神と信念を持った男であった。彼の裁判が始まる直前にオクスフォードのその監獄で何人かが鎖に繋がれたままで死亡した。裁判はいつもと違ってジェンクス事件に大衆が強い関心を持ったので法廷は満員であり彼に耳を切り落とす判決が出た。裁判のすぐ後で出席者に発疹チフスが現れた。マッカーサーによると首席裁判官ロバート卿、ニコラス卿の2人が死亡し保安官と保安官補および1人か2人を除く全陪審員が死亡した。死者は全部で500人以上であり100人は大学関係者であった。出来事はかなりの興奮を起こし、フランシス・ベーコン卿ですら研究を行ってこの病気は「人の身体にあるていど似ているので忍び込む」悪臭によるものとした。この時代の学説はこれらの不思議な感染の多くを腐敗した空気によるものとしていてこの状況では不自然な仮説ではなかった。この特殊な例ではカトリックの悪い魔術が風「魔力を持つカトリックの風」の形でルヴェンのカトリック大学で作られオクスフォードで秘密に解き放されたと考えられた。マッカーサーによるとジェンクス自身は耳を切り取られたが感染を免れドゥーエー(*英国を追放されたカトリック教徒が多かったフランス北部の都市)に落ち着き修道院に属さない英国カレッジでパン屋として雇われ悲惨な裁判の後で33年のあいだ暮らした。学者たちのあいだのこの病気の広がり方から判断するとオクスフォード大学の教授の少なくない数のものにこの頃はシラミがたかっていたとマッカーサーは結論しており我々は不本意ながら同意しないわけには行かない。
 エクセターの巡回裁判もすぐ前に行われたオクスフォードのものと一般的に同様な状態であった。監獄の状態がやはり変わらなかったことは2世紀後(1750)のオールドベイリーにおける流行によって示され軍医長官で後にロイヤルソサイエティー議長になったジョン・プリングル卿によって詳細に調査され記載された。
 一般に言ってイングランドで発疹チフスは島の隅々まで侵入していた。オクスフォードの解剖学者トマス・ウィリスの記述によると1643年のレディング包囲戦のときの議会党軍と王党軍の死者の原因となった病気が発疹チフスであったことは疑う余地が無い(マーチソン)。そして1650年に同じ性質の疫病流行は「全島を1つの大きな病院に変えた。」大陸で発疹チフスとペストが手を取り合って進軍したのと同じように1665年のロンドン黒死病大流行は発疹チフスを伴っていて発疹チフスは1665年冬のペスト患者大増加の先を行っていた。
 アイルランドは後になって発疹チフスの最も堅固な本拠地になり今でもそうである。しかし発疹チフスがいつごろアイルランドに侵入したかは確かでない。マーチソンによると正確に記録された流行は1708年にコークで観察された。しかし「アイルランドの悪寒」としてずっと前にもあったと信ずる理由がある。


第16章

現在の評価ならびに将来の教育および訓練の見通し

 伝記ではなく医学史を書くのが任務だったら18世紀全部および19世紀の大部分にほとんど終わることなく続いてヨーロッパの各部分や隅をも見逃さずに流行した発疹チフスを時代的および地理学的に記載するのが仕事になるであろう。しかしこのような記録は感染症の研究者にとっては絶対に必要であろうがこの伝記の主人公の性質と習慣を述べる今回の目的には何の役にも立たないであろう。しかも私が集めることができる以上にずっと学問的および詳細にオザナム、ヒルシュ、ヘーザー、プリンツィングその他の著作から得ることができるし既にこれらから自由に引用させて貰っている。現在の知識の光を当てて過去の疫学的データを研究して未解決の問題の価値ある手掛かりとなるような観察や情報を見つけることは専門家にとって稀ではない。しかし伝記の観点から言うとこの時期のどの10年も発疹チフス発生の無かったことがないので詳細に述べても絶えることのない繰り返しであって興味が無いであろう。発生の状況、事柄の続き、蔓延の様式は原則として常に同じである。発疹チフスは戦争および革命の不可避で予想される道連れとなっていた。どんな野営、戦闘、包囲された都市も逃れることができなかった。飢饉や洪水の恐怖に付け加わった。都市や村の貧しい人たちの悲惨な地域にこっそりと忍び寄った。刑務所で繁栄し船で海に出ることもあった。事情が許せば国中に拡がり国境を越えた。18世紀における発疹チフスの発現とそれ以前の時期のものとのあいだに有意な違いがあるとしたら次の事実であった。すなわち人間の争いおよび不幸に常に伴う主要な悪疫流行に加えて数多くの小グループの発生があちらこちらに離れて広い範囲にばらまかれていた。東部辺境、たぶんイタリア、スペイン、およびドイツのある部分でも発疹チフスの感染は現在の腸チフスのように散発的に存在していた。発疹チフスは今や広く分布し、ゆっくりと蔓延するのに適した地域ではしっかりと根を下ろした。
 実際のところ19世紀の最後の10年に到るまで発疹チフスとの関係を決定する癖とか個人的な習慣を人類はほとんど変えていなかった。肉体的な清潔さはこれだけでこの病気の殺人的な攻勢を押しとどめることができるが18世紀に素晴らしい光を照らした政治的、哲学的、科学的な著しい目覚めもこの清潔さに影響することができなかった。マナーや衣服の優雅さは極度に洗練されたが清潔さはそれらに伴わなかった。
 人間の清潔さの進展は私がここで書くことよりもずっと価値がありこのことをほんの少しだけ調べてみてもそれは人類の知的美的道徳的な進歩よりもずっと遅れていることが判る。清潔さは知性と同質ではないし確かに信仰とも同質でない。私は多くの信心深い人たちを見た。しかし古い格言を真剣に考え過ぎではいけない。「正直は最高の政治である」「徳は得である」「浪費するな欲望を避けよ」などなど。これらは達することができない夢を抱く人たちが持っている願望に過ぎない。世界の完全な清潔さは少なくとも知性と同種であり徳はその報酬であろう。これらの格言はキーツが言った「美は真なり」という根本原理と同じような考えである。キーツの生涯は短かったが医師の徒弟としての短い奉仕が彼を啓蒙したのではなかろうか。
 しかし清潔の発展が知性や芸術の進歩よりずっと遅れているという主題から離れてしまった。実際のところ特に現在の芸術家のうちのある人たちを見ると芸術と清潔さの二つの傾向のあいだに相互に相容れないものがあるのではないかと考えさせられる。とにかく18-19世紀の輝かしい2世紀のあいだに人類は文明の他の開花を著しく享受したにもかかわらず、不潔さによって肉体的な危険のあることを医学が科学的に確立するまで清潔さは進歩しなかった。たとえば1700年ごろの王女の教育は次のようであった。「王女がベッドを汚さないように足から泥を落とすように教えた。‥‥人が鼻をぴくぴくさせているときには落ちているものの傍を直ちに立ち去らなければならないことや、親しくない人たちの前で頸からノミ、シラミなどの害虫を取って殺すのは下品であることを彼女は知っていた。」
 ヴォルテールやルソーが教えた新しい自由は害虫からの自由を含まなかった。頭を剃ってウィッグ(かつら)を被る目的は前に述べた。都市や村は悪臭に満ちていた。街路は人その他の排泄物などの受け入れ場であった。人がまだ住んでいる通路に面した中世の家の間に見ることができる三角形の空間は階上からゴミや「寝室用便器」などをうまく処理するためのものであった。金持ちたちは潔癖さを示す言葉として「穴あき椅子」を使った。入浴は治療法であって10月以降に処方すべきではなかった。最初の浴槽は1840年ごろまでアメリカに持ち込まれなかったと思われる。衛生的な洗濯設備が無い公共浴場は病気を防止するだけでなく拡がらせもした。学校、刑務所、あらゆる種類の集会場には感染の蔓延を防ぐ設備が無かった。1752年に風車換気装置がロンドンのニューゲート監獄に取り付けられて最初の風が排気管から送られたときに2人の男性が風に当たって死亡したという「噂」があったとマッカーサーは述べている。これは誇張だろうとマッカーサーは言っているが、間違った噂からも建物内の状況をある程度は知ることができる。
 これらの状況を考えると問題にしている時期に発疹チフスがヨーロッパを荒らし回り時にはアメリカに達したことは不思議ではない。騒然とした18世紀の出来事は文明世界の最も遠くの隅まで感染を運んだ。トルコとの戦争が続いたので時々火花が加わったとはいえ新しい発生源を近東に求める必要はもはや無くなった。すべて18世紀前半に起きたスペイン、ポーランド、オーストリアの王位継承の戦争は昔と同じような機会を発疹チフスに与え彼はそれを見逃さなかった。幾つかの例は前章までに述べたが流行病は軍隊に始まり中央ヨーロッパに拡がった。プラハの包囲だけですべてのフランス軍医を含む3万人が死亡した。同じ頃にたぶんロシア経由と思われるもう1つの波がスカンディナヴィアを襲いドイツを横断した。少し後で破壊的な激しさでパリに現れ近傍に拡がった。アイルランドにおける発疹チフスの存在はこの世紀初頭にオコーネルによって最初に確実に報告され1718年までに広範な流行病になった。これは「アイルランドの悪寒」としてだいぶ以前からあっただろうが間違いなくそうだとは言えない。1720年の飢饉で発疹チフスはシチリア島のメッシナ港に始まった。1735年にモスクワで悲惨な発生が起きた。比較的に平穏だった10年の後に中部ドイツとアイルランドではほぼ同時に新しい激しさを伴って1740年に突然に再出現した。アイルランドでは1740年のジャガイモ飢饉に相当した。この世紀には戦争および農業災害だけでなく工業が発展するとともに経済不況および失業が発疹チフスに有利になったことは注目される。フランダースおよびオーストリアにおける織物工業の不振と関係して激しい流行が起きた。これは純粋に経済的な困難と関係あることを示したものである。
 この後に発疹チフスは再び軍隊と行動を共にすることになった。1743年にイギリス軍と一緒にデッティンゲン(*帝位継承戦争)で戦い1762年にスペイン戦争で戦った。同じ年にイタリアで火の手をあげ飢饉によって扇動され時に激しくなり時に弱まり1764年になった。1764年のナポリ流行はこの時代における最も恐ろしいエピソードでありファサノによって記載された。発生についてヘーザーは医者が不足したところで死亡率が最も低かったという啓発的な意見を言っている。これはたぶん本当に正しかったのだろう。その当時には大量の放血をする医学的な習慣があったからである。
 7年戦争、フランス大革命、ヨーロッパおよびスペインにおけるナポレオン戦争はすべてキャノン砲、ライフル銃、銃剣によるよりも発疹チフスによって多くの生命が失われた。ヨーロッパ大陸の戦争において発疹チフスによる被害を免れていたイギリスは18世紀の終わりおよび19世紀の初めにかけて激しく襲われるようになった。大陸の流行が弱まるとともに1798年に向けて感染はイギリスに再入国した。これは多分アイルランドからであってここでは不作や飢饉によってこの病気が再び始まっていた。続く20年間は二つの島(大ブリテン、アイルランド)にとって発疹チフスの年であった。病気は1816年から1819年にかけて最高であった。これらの年のアイルランド大流行のときに600万人の住民のうちで70万人以上の例が記録されていた。ほとんど同じ頃(1818)にイタリアに感染の他の波が押し寄せていてアルプスからシチリアまでを席巻していた。
 18世紀のあいだ「航海熱」は発疹チフスのよく使われた一般名の1つであった。戦闘による損傷および壊血病に次いで発疹チフスは海軍にとって非常に恐ろしい病気であった。軍医リンドはヨーロッパのすべての国が18世紀に生み出した素晴らしい医師グループの1人であり状況証拠から正しい理由付けをし純粋な臨床観察から多くのことを予想しこれらは後になって科学研究によって正しいことが立証された。彼はポーツマスに近いイギリス海軍ハスラー病院の医師であり熱病と感染についての2つの論文、水兵の健康を保つ最も有効な方法についての論説および暑い気候における病気についての小さな著書を残した。とりわけ、この頃の多くの人たちと同じように長い航海において健康を保つために果物、緑葉、野菜が非常に重要なことを認め、オレンジ、レモンジュース、野菜を保存する巧みな方法を開発した。果物ジュースは小さなパイント瓶に入れ表面をオリーブ油で覆ってから堅くコルクで栓をして劣化を防いだ。ネギその他の野菜は短く切って乾かした天日塩の薄い層を振りかけて野菜全体を塩漬けにした。3月後になって塩を洗うと新鮮な野菜のように調理できるし必要な性質が残っているようであった。ワインや「ニンニクブランデー」のような強いアルコール飲み物についての彼の見解はたぶん医学的には正しくなかったであろうが海軍における彼の評判にはかなり役だったであろう。発疹チフスについての彼の大きな貢献はこの病気が英国海軍の能力を最も低下させる災害であり船から陸地の病院に蔓延しそれから周囲の地区に蔓延すると記載したことである。
 この頃のイギリスでは換気の重要性についての激しい論争がなされていた。汚染された空気は危険であると一般に信じられていたがリンドは換気および新しい空気の供給は病気の蔓延に殆ど効果が無いと確信していた。発疹チフスそのものに関してリンドは感染がヒトの身体だけでなくあらゆる材料の衣服、すなわち羊毛、木綿、亜麻布、ときには木材の梁、椅子、寝台などに付着すると信じていた。自分の見解を擁護するための多くの観察を引用しているうちで患者の看護に使った古いテントを修繕していた23人のうち17人が死亡したことを述べている。彼は船の寝室における感染について述べていて燻煙を勧めている。消毒に使った材料はたぶん有効ではなかったであろう。材料としてタバコ、木炭の火の蒸気、樟脳を加えた酢を蒸発させたもの、ピッチや火薬の煙であった。しかしこれらの無効な燻煙法とともにリンドは徹底的に磨くことと洗うこと、寝具やすべての衣服を甲板に出して太陽および空気に曝すことを命令した。全体的に見て昆虫による伝播に気づいてはいなかったがリンドが主張した方法によってかなりの数の生命が救われたに違いない。
 19世紀後半は西欧の流行病史における転換期である。伝染性の病気はもちろんまだ多かった。猩紅熱、ジフテリア、髄膜炎、はしかは以前にはもっと急速に蔓延し激しい伝染病によってあるていど覆われていたのが今ではずっと顕著になったものであった。コレラもまたこの時期に何回かヨーロッパに侵入した。しかしインフルエンザを除いて前世紀まで広範囲の破壊を起こした流行病は明らかに減少し地域的な分布を示すだけのものになった。ペストは実際問題として消失した。天然痘はジェンナーの種痘によって殆ど完全に打ち負かされたが1830年代になると新しいエネルギーをもって再発した。しかし再種痘の実施によって然るべく予防されるようになった。この再種痘は1823年に導入され1850年には広く行われるようになった。発疹チフスはますます稀になり東部辺境およびアイルランドの限られた地域だけのものになった。これらは例外であって戦争や経済不況の時期に続く再燃であり、病気の種は完全に鎮圧されていなかったことを示すものであった。発疹チフスは合衆国に世紀の初めに到達した。東部海岸の諸都市に限られていたことから輸入されたもののようであった。1837年のフィラデルフィアにおける発生はゲルハルトとペノックが鑑別診断において有効な貢献を行ったものの1つであった。1846年のシレジア、1862年のロンドン、における発生は工業不況の直接の結果であった。東部における発疹チフスの地域的流行地に近いシレジアにおいては織物工業の崩壊が原因であった。マーチソンによるとイギリスにおける発疹チフスの流行は失業者の大群が都市に流れ込んだことによるものであった。ここでも感染は6年ほど前にクリミア戦争から帰ってきた兵隊たちによって再導入されたとも考えることができる。
 南北戦争で北軍において44,238人は戦闘で死亡し49,205人は傷で死亡し186,216人は病気で死亡したが発疹チフスは非常に重要ではなかった。そして短期間のヨーロッパの戦争たとえばフランス軍のイタリア出兵、オーストリア・ドイツ戦争、フランス・プロイセン戦争、で発疹チフスは殆ど役割を果たさなかった。発疹チフスと第1次世界大戦の関係を述べなければならないことを考えると1870年のフランス・プロイセンの戦いにおいてアルジェリア部隊である程度(252人)の患者が出た他に両軍とも発疹チフスの流行が殆ど無かったことは興味深い。さらに包囲されたいずれかの都市で病気が起きたことはかなり疑わしい。同じ頃にロシア国境にいたプロイセン部隊にこの病気が全く無かったわけではない。天然痘、赤痢および腸チフスが軍隊の主な災害としてペストと発疹チフスの代わりになった。
 ヨーロッパで大きな流行が1850年以降に見られなくなった理由を説明するのは容易でない。広く分布する病気の性質に不明な周期的な変化のあったことも考えられるであろう。これに対して第1次世界大戦の間および後になってロシアおよび近東で中世と似たような状態が一時的に戻った後すぐに起きた悲惨な結果を考えると現代の文明社会の幾つもの力の協力によるものとする傾向が生ずる。これらの力は多種多様でありどれかを最も重要とするのは困難である。疑いも無くこの時期の戦争は短期間であり行動は比較的に限られた地域で行われたことはかなり重要である。過小評価すべきでない他の要素は集約農業および鉄道輸送による飢饉にたいする保護でありこれによって飢饉地区は以前のように食料や援助から長いあいだ孤立することは無くなった。少なくとも同じように重要なのは現代医学の興隆、診断方法の発達、合理的な予防法、および地域的、国家的、軍事的な健康管理であり、これらは次第に全分野の共同体生活に拡がった。これらをできるだけ完全に記載するのは役には立つだろうが極めて退屈なもう1冊の本が必要であろう。
 他の関係では敵対的だったり競合的であっても流行病予防については国際的な協力がなされていることは不思議であり心温まる事実である。現時点で世界は疑いおよび憎しみの武装陣営であり国家はあらゆる手段を使って互いに世界マーケットから排除し合い革命を助長し相手の政治的・軍事的な秘密を盗むことに最大の努力をつくしているが流行病についての情報は組織化された政府機関が交換している。衛生学者、細菌学者、疫学者、健康行政者たちは互いに相談しロシアから南米へスカンディナヴィアから熱帯地区へ意見、資材、方法を自由に交換している。一般には知られていないことであろうがロシア革命の最も不穏な時期に不幸なこの国と他のヨーロッパとのあいだの唯一の公的関係は国際連盟の健康委員会とソヴィエット政府の協力による流行病予防についての情報交換であった。
 これは全ほ乳類の中で最も奇妙な存在である人間を特徴づける理想主義と残酷さの不思議な矛盾の一部である。その結果として「樽の小さい呑み口で節約し大きな口で無駄遣いする。」(一文惜しみの百知らず)という奇妙な行いになる。
 このようにして世界大戦のすぐ前の10年のあいだ発疹チフスは適当に家庭的な病気として静かなブルジョア生活を送っていた。確かにシナとかメキシコでは周期的に起きる地域的な流行病であり北アフリカや近東では散発的に起きていた。発生は減少していたがアイルランドでは続き「緑の島」は発疹チフスがかなりのある唯一の西欧国ではあったが1899年から1913年のあいだの死者は70人に過ぎなかった。アメリカの都市では穏和なブリル病(1900年から1930年にニューヨークとボストンで528例)として存在した。南アメリカ、地中海沿岸および以前には考えられていなかったが今では確認されている東洋の遠い部分など世界の多くの他の場所でも同じように比較的に温和しい形で起きていたことは疑いも無い。しかし大流行は無かった。世界で充分な数の患者と死者があって「地方病センター」と呼ばれうるのはロシア、ポーランド、一部の東オーストリアすなわちガリツィア(*現在はポーランドとウクライナ)だけであった。
 これらの地域および近くのハンガリーやバルカン地域では飢饉や戦争が無い限り流行と言われるほどではなかったが発疹チフスは犠牲者を毎年要求していた。たとえばロシアでは1年にふつう平均9万人で最少は1897年に3万6887人で最高は飢饉があった1892年に18万4000人であった。バルカンの諸国では戦争があった1912-1913年に死亡率は増加したがそのときでも本当の意味の流行は起きなかった。西ヨーロッパは実際のところ発生は無かった。現代生活の組織化および以前のパラグラフで数え上げた力は発疹チフスを休戦状態にした。そしてこの本を捧げたニコルが1909年にシラミが発疹チフスをヒトからヒトに伝播することを発見したときに人間と発疹チフスの間の長期にわたる戦闘において始めて戦略的な主導権が人間に渡された。人間はいつでも姿を現していて発疹チフスはいつでも一方的に待ち伏せしていた戦争において全世紀を通じて始めて犠牲者の人間が合理的に計画され戦略的に正しい防御を歴史的な敵の発疹チフスにたいして組織できるようになった。
 もしも戦士や政治家や愛国者など戦争に責任があるすべての他の人たちがさらに数百年のあいだ世界をこのままにしさえしたならばこれ以上の科学の進歩が無かったとしてもこのニコルによる発見は西ヨーロッパにおける発疹チフス流行の弔いの鐘を鳴らしたであろう。
 しかしオーストリア皇太子はサライェヴォで暗殺されて我々自身やテオドール・ローズヴェルトも理性を失った。ウィルソン氏は別であったが2年後には彼も理性を失った(*1917にドイツへ宣戦布告)。楽隊は「ドイツ国歌」「フランス国歌」「イギリス国歌」「オーストリア国歌」「ロシア国歌」「セルビア国歌」および数年後は「アメリカ国歌」を演奏した。鉄条網が君臨し、T. N. T. 火薬、コーンビーフ、軍需品商人、船仲買人、靴製造者、カーキパンツ商売、などなどが新しくハリウッド・スタイルの貴族社会の基礎を作り1929年(*大恐慌の始まり)に及んだ。そして神はすべての側の味方であった。我々すべてが戦争に行き舞台が準備されたときに発疹チフスは目覚めた。
 争っているすべての国家と同じように発疹チフスは「戦争に勝った」と主張する理由を少なくとも持っていることをすべての人が理解しているわけではない。このことがはっきりと理解されていたらフランスの酒場における多くの喧嘩は避けられたかも知れない。
 発疹チフスはまずセルビアで醜い頭を持ち上げた。この雄々しい小さい国はバルカン紛争から回復したばかりでオーストリアは1914年7月に宣戦布告しすぐに攻撃した。ベルグラードは砲撃されセルビア政府はニッシュに待避した。国境地域の怖れた村民は持てる限りの財産を持って安全を求めて南に移動した。最初にオーストリアはベルグラードに近いサヴァ川を渡ろうとしたが撃退された。しかし後にボスニア国境から攻撃して11月にヴァリェヴォとベルグラードの占領に成功した。12月2日にセルビア軍は反撃しオーストリアはドリナ川とサヴァ川を渡って退却しヴァリェヴォとベルグラードは取り返されたが退却にさいして2万人のオーストリア兵が捕虜になった。これらの戦闘の結果として北セルビアは殺戮の場になった。村は荒廃し非戦闘員は群をなして南に向かった。
 発疹チフスは11月にセルビア軍に現れた。同時に侵略者のあいだにも起きたと思われる。セルビア軍は自分自身の災難だけでなく6万人から7万人の捕虜を持ちそのうちには病人や負傷者が居た。追い立てられた非戦闘員のための避難所が不足した。捕虜のための適当な施設も無かった。セルビアの屈強な成人の大部分は軍務に服していた。この国の医師は4百人より少なかったが殆ど全員は速かれ遅かれ発疹チフスに感染し126人が死亡した。存在する数少ない病院はすぐに満員となり最も原始的な衛生設備さえ無い建物を改造しなければならなかった。実際のところ看護婦が居なかった。ベッドもリネンも薬品も無かった。最終的に墓堀人も充分ではなかった。流行がどこで始まったか正確に述べることは不可能である。最初の集団発生はヴァリェヴォのオーストリア捕虜に始まった。この国のすべての地域へ殆どすぐに伝播した。感染は移動する人々、捕虜の列車、移動する軍隊、と共に蔓延した。2月から3月にかけて記録として信用できるどの発疹チフスよりも速く激しく流行は蔓延した。4月に流行が頂点に達すると1日あたりの新しい患者の数は数千人になった。軍病院だけで1日に2,500人が収容されたこともあった。死亡率は流行の上昇期と減退期の約20%から最盛期の60%-70%に及んだ。6月も経ないうちに15万人以上が発疹チフスで死亡した。6万人のオーストリア捕虜の半数以上が死亡した。
 すべてこの頃セルビアは実際のところ援助が無かった。しかしオーストリアは攻撃しなかった。軍事行動は主として午後4時ごろのベルグラード停車場への短時間の砲撃に限られていた。すべての人はこのあいだ列車から離れていた。オーストリア軍の参謀たちはこの時期にセルビアに入らない方が良いことを知っていた。結果は明らかであった。発疹チフスはセルビア国民を苦しめてはいたが国境を守っていた。中央同盟国(*ドイツ、オーストリアなど)は戦争の最も決定的な時に6月を空費した。この遅れが初期のロシア作戦や西部戦線にどのように影響したかは誰にも判ることではない。少なくとも次のように信ずることは不合理ではないだろう。すなわちセルビアを急速に一撃しトルコ、ブルガリア、ギリシャに影響を与えサロニカ(*ギリシア北部の港)を包囲しロシアに対する南西戦線を確立すると当時は強力であった中央同盟軍に有利なように局面を変えることができたかも知れない。発疹チフスは戦争に勝ちはしなかったかも知れないが確かに援助した。
 発疹チフスはこれから全東部戦線で歴史的な役割を引き継いだ。全東部戦線の軍隊で発疹チフスはいつものように元気ではあったが著しく効果的な衛生対策すなわち入浴とシラミ除去によってオーストリア人とドイツ人のあいだではまともな範囲であった。中央ヨーロッパの捕虜収容所に入り込んだが市民に拡がることは防がれた。この戦争で最も特徴的な現象は西部戦線で発疹チフスが全く起きなかったことである。これにたいする完全に満足できる説明は与えられることは出来ない。西部戦線において塹壕の兵士にはこれまでの兵士とおなじように一般にシラミがたかっていた。そしてシラミが伝播する病気で発疹チフスに近縁の塹壕熱はふつうであった。これは両軍ともに弾丸や砲弾よりも発疹チフスを怖れていたことだけが原因であると考えることができる。中央同盟軍は東部戦線から輸送された軍隊によって発疹チフス流行が導入されると戦争に負けることを認識していたのでこれを避けるために周到な注意を払った。そして全軍の衛生組織は危険の可能性にいつでも注意しふつう直ぐに全軍のシラミ除去を行った。この戦争におけるシラミの死亡率は史上最大であったに違いない。
 ロシアだけで発疹チフスは中世と同じ主導権を持っていた。戦争の最初の年だけでロシアで10万人の患者が発生した。1916年の退却後には記録された数は15万4000人に上った。それから後は予想されるように数値は信用できないが着実にしかも急速に病気が増えたことは確かである。革命、飢饉およびコレラ、腸チフス、赤痢の流行はそれを助けた。1917年から1921年にかけてのロシア人民の恐るべき苦しみを記録できる言葉は無い。発疹チフスだけを問題にしよう。そしてタラセヴィッチの注意深い控えめな計算によるとこの年間にソヴィエット共和国が支配している地域では2500万人を下らない多分それ以上の患者が発生し250万から300万人が死亡したと考えられる。
 ポーランド、ルーマニア、リトアニア、近東における流行について何も述べなかったが私は恐怖に我慢できなくなっているし読者も確かにそうであろう。さらに数値は32代ローズヴェルト大統領のニューディール政策における支出に近いものになり心を麻痺させて効果を失わせ始める。
 第1次世界大戦の発疹チフス記録も西部戦線に関するかぎり安心することができる。しかしこの伝記の英雄は活力、残酷性、隠密性のどれも失っておらず警戒と用心が少しでも緩むと素早くそれに乗ずることをセルビアとロシアにおける流行は示している。彼が改心したり「信仰心」を持つことは希望できない。
 第1次世界大戦で発疹チフスは部分的および一時的に勝利しこのような種類の刺激を好む人たちの新しく強力な好奇心を呼び起こした。しばしば追跡者に敵対し追跡者を立ち往生させたこともあった。しかし追跡は続いた。発疹チフスは世界のあらゆる片隅まで追跡され彼が住んでいるところは完全ではないとしても殆ど知られるようになった。ラット、ノミ、シラミの中における彼の隠れ家は見つけられ未だ知られていない場所がさらにあったら遠からず見つけ出されるであろう。彼の攻撃方法は知られ彼を撃退する武器は鍛えられつつある。他の国際的に興味ある事柄と違ってここで全世界は共通な敵にたいして協力している。フランス、スイス、アメリカ、イギリス、ドイツ、ブラジル、日本、中国、ロシア、メキシコの研究者たちは友好的な競争で一緒に働き、互いに励まし合い助け合っている。彼らの仕事は専門雑誌に記載されている。この内容をこの本に記載すると「通俗科学」になってしまう。私はこの形が嫌いであり避けようとして努力してきた。
 発疹チフスは死んだのではない。何世紀も生き続けるであろうし、人間の愚かさと残酷さが機会を与えたら発生を開始するであろう。人間の愚かさと残酷さはしばしばこのような機会を与えることがあるであろう。しかし彼の行動の自由は制限されていて、他の野獣の場合と同じように制御された病気と言う名の動物園の中に閉じ込められるであろう。

終わり


訳者解説


 本書は Hans Zinsser(1887-1940)の Rats, Lice and History: The Biography of a Bacillus, Being a Study in Biography, which after Twelve Preliminary Chapters Indispensable for the Preparation of the Lay Reader, Deals with the Life History of TYPHUS FEVER (1934) を飜訳したものである。70年以上も前の本なので微生物学も発疹チフスの疫学もその後に進歩しているのは当然である。たとえば、日本では半世紀以上にわたって発疹チフスは発生していないし、アタマジラミ経由の感染はあったとしても極めて稀だそうである。ネズミやシラミの分類も変わったようである。しかし古典としての価値はむしろ上がっている。2007年末には詳しい解説の加えられた新版が発行されていることでも判る。本書は40年ほど前に橋本雅一博士が訳してみすず書房から刊行されている(1966)。ウェブに掲載するために独自に訳したが、若干の意見の相違は別として橋本訳に負うところは非常に多い。心から感謝する。私は翻訳にあたって人名、地名、書籍名についてはある程度の訳注をつけたが、学問的な注は加えなかった。原著の txt,pdf ファイルなどを http://www.archive.org/ から自由にダウンすることができる。対訳版の英文は独自に作ったものであり翻訳しながら校正に努力した。
 ジンサーはコロンビア大学を卒業してからスタンフォード大・コロンビア大・ハーバード大の微生物学・免疫学の教授を歴任した教育・研究の第一人者であるとともに第1次世界大戦にさいしては中部ヨーロッパなどにおいて防疫に従事し戦後は国際連盟の代表としてロシアに滞在した。このような専門における活躍の他に詩人としても活躍しペンネームを使って盛んにアトランティックマンスリーに投稿していたそうである。
 ジンサーの人となり、思想や宗教についての考えなどは白血病で死期が遠くないのを意識して自分自身について書いた伝記から知ることができる。死の2月前に出版された「彼について思い出すこと:R. S. の伝記。(1940)」であり、このウェブに掲載してある。第三者(R. S.)の伝記の形式で書かれたものである。1941年度のノン・フィクションのベストテンに入り半世紀以上も経って2005年にも再刊された古典である。正式の履歴や業績を含む回顧録はアメリカ科学アカデミーやアメリカ微生物学会のメモワールとしてインターネットで読むことができる。雑誌タイムの記事(1940)も参考になる。

蛇足

 ジンサーの本を読んでいて理解できなかったり翻訳する自信の無い文章に出会った。二重否定的な表現が少なくないし複雑な文章が多いので斜め読みどころではなく何回も読み直さざるを得なかった。翻訳となるともっと苦しんだ。肯定か否定か判らないこともあった。
 一例をあげよう。Saprophyte の寄生性細菌に進化する可能性についての第4章(注1)である。ジンサーは注を重視しているので最初は注も翻訳することを考えていた。注は“If the reader does not understand this word, it is too bad.”である。文字通りとると「知らないでは困る」である。生物学者の立場として私は最初そう思った。病原微生物学専門の橋本博士は「ここではそんなに重要なことではない」としている。原著者の考えは判らないが「こんな言葉を使うべきではなかった」かも知れない。注を訳すことは諦めた。
 第2章で「朝食後に読む時間のある人だけが文学を評価できるのだろうか?」の文章を読んだとき「朝食後に」と書いている理由が判らなかった。これは想像に過ぎないがホームズを頭においているのではないかと思いついた。シャーロック・ホームズではなくオリバー・ウェンデル・ホームズである。Oliver Wendell Holmes, Sr. はハーバード大学の解剖・生理学の教授で産褥熱は感染症であって医師に責任があることをゼンメルワイスより数年早く指摘している。詩人・小説家・随筆作者として著名であり特に随筆の「朝の食卓」シリーズはオスラーが10編のベッドサイドライブラリーとして医療関係者が読むべき本としてあげたうちの1つである。日本語訳は無いようだが原文はグーテンバーグ・プロジェクトで読むことができる。
 滑稽なのは第2章(注5)の D.H. ローレンスについての注である。悪戯好きのジンサーはチャタレー夫人を肖像画として書いている。ローレンスが日曜画家としても優れていたことは知らなかった。
 自叙伝を読むと判るが著者は両親がドイツからの移民だったので子供の時にはドイツ語を日常語として使い毎年のようにヨーロッパに行きフランスやイタリアに長期滞在しラテン語・ギリシャ語重視の私立学校やイギリス人のための大学予備校に通い英・独・仏・伊などの現代語およびラテン語・ギリシャ語を自由に使いこなしていた。コロンビア大学では医学部卒業と同時に比較文学でマスターの学位を得ている。疫学者としてセルビア、ロシア、南米などの諸国に滞在していたのでそれらの諸国語や慣習にも通じていると思われる。このような著者の本に私の理解できない箇所が多いのは当然かも知れない。





底本:Hans Zinsser "RATS, LICE, AND HISTORY" (1935)
   2019(平成31)年3月12日青空文庫版公開
※本作品は「クリエイティブ・コモンズ 表示 2.1 日本 ライセンス」(http://creativecommons.org/licenses/by/2.1/jp/)の下に提供されています。
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翻訳者:水上茂樹
2019年3月8日作成
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