或る日の小せん

吉井勇




 今は故人になつてしまつたが、私の知つてゐる落語家先代の柳家小せんは、足腰が立たず、目が見えなくなつてからも、釈台を前に置いて高座を勤め、昔からある落語にもいろいろ自分で工夫をして、「芸」に磨きをかけることを忘れなかつた。
 久保田万太郎、岡村柿紅、私などが肝煎きもいりとなつて、「小せん会」と云ふものを作り、毎月一回何処どこかの寄席で独演会をやつてゐたが、幸ひにいつも大入だつたのは、要するに当人が芸に熱心だつたからなのであつた。
「五人廻し」「錦の袈裟」「子別れ」「とんちき」「高尾」「山崎屋」「突落し」「居残り佐平次」「磯の鮑」「お見立」「廓大学」「お茶汲」「羽織」「白銅」と云つたやうな廓話くるわばなしが得意で、かう云ふ落語になると足腰の立たない盲目の身でありながら、聴き手の心をぐんぐん引き付けてゆく、不思議な魅力を持つてゐるのだつた。芸の力と云つてしまへばそれまでだが、さうなるまでには一方ひとかたならぬ苦心が重ねられてゐたのであつて、およそ世の中の「芸」と称せられるものには、何処か頭の下がるやうな底光りが感じられるのは、切瑳琢磨と云つたやうな心のみがきが、幾十度となくかかつてゐるからなのだらうか。
 小せんも落語には、いろいろ苦心をしてゐたが――或る日のことである。
「小せんさんゐるかい。」
 厩橋の直ぐ近くをちよつと曲つた、小せんの家の格子戸をがらりと開けて、声を懸けたのは岡村柿紅君。
「ああ、どうぞお上んなすつて下さい。」
 障子の中からさう云つて返事をしたのは、まさしく小せんで。
「やあ、稽古か。」
 上がると直ぐ茶の間で、瀬戸物の火鉢を中に、小せんと向ひ合つて坐つてゐるのは、近頃声色こわいろで売り出した小山三。見ると私はさう云つて、柿紅君と一緒に奥の座敷の方へ通つた。
「ちよつと失礼します。」
 と云つて、小せんが小山三に稽古をしてやつてゐるのは「高尾」の一節で、声色の冒頭として教へてやつてゐるらしい。
「ここまで話して置いて、それから声色にかかるんだ。いいかい。分つたかね。今度来るまでに幾度も自分でやつて見るがいいや」
 と云つてから稽古を終つた小せんは、女房のお時に助けられながら、私達のゐる座敷の方へ居ざつて来た。
「如何も失礼を致しました。上野の師匠(三代目小さん)に頼まれて、若い輩五六人に稽古をしてやつてゐるもんですから、近頃はこれで中々忙しいんです。」
「さうかい。そりやあ結構じやないか。」
「ええ、お陰様で皆さんが心配して下さるもんですから、こんな体になつても、如何にかかうにかやつてゆけます。」
 小せんはさう云つて、色の黒い面をちよつと伏せたが、暫くすると何か思ひ出したやうに顔を上げて、
「ねえ、岡村先生。あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢揃ひの場で、それぞれツラネの台詞せりふがありますね。あの中の忠信利平のは何とか云ひましたね。餓鬼の時から手癖が悪く――」
「抜け参りからぐれ出して。」
「ああ。さうさう、旅から旅を稼ぎ廻り。」
 と云ふ小せんの言葉を継いで、柿紅君はすらすらと、
「碁打と云つて寺方や、物持百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科つみとがは、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛なし――と云ふんだらう。」
 と云つてから、
「何だい。何かにこれを使ふのかい。」
 訊かれると小せんの顔には、盲目とは思はれないやうな朗らかに明るい微笑が浮んだ。
「ええ、実はこの次の小せん会で、居残り佐平次を演らうと思つていろいろ工夫をしてゐるんですが、終ひの方に女郎屋の主人が、すつかり佐平次を持て余して、ひと先づ金の算段に出て行つて呉れと云ふところがあるでせう。」
「ああ、あすこで。」
「こいつを使はうつて云ふんですよ。へえ、それがね、もし旦那え、と芝居がかつた台詞になつてから、こちらの閾を跨いで外へ出られないと云ふのは、実は旦那、人殺しこそしてゐませんが、夜盗、かつさり、家尻切、悪いに悪いと云ふことを仕尽しまして、五尺の体の置きどころのない身の上でございますと云ふと、主人は驚いて、そんな悪いことをしさうな方でもないやうな方だと云ひます。」
「うん、それから。」
「ええ、それからがこの台詞ですが、すつかり調子を砕いてしまつて、持つて生れた悪性で、餓鬼の時から手癖が悪うございまして、抜け参りからぐれ出しまして、旅から旅を稼ぎ廻り、碁打と云つては寺方だの、物持百姓の家へ押し入りまして、盗んだ金の罪科は毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛なしと云ふと主人が、何だか聴いたやうな文句だと云ひます。如何でせう、ひとつ今度はかう云ふ風にやつて見ようと思つてゐるんですが。」
「なるほど。こいつあきつと受けるね。」
「面白いよ。」
 と柿紅君と私とは口を揃へて云つたが、果して当日ここへ来ると、どつと客席が引くり返るほど受けた。
 その晩楽屋で苦心した甲斐のあつたことを、ひどく喜んでゐた小せんの顔を、私はいまだに忘れることが出来ない。





底本:「日本の名随筆 別巻29 落語」作品社
   1993(平成5)年7月25日第1刷
   1999(平成11)年7月10日第4刷
底本の親本:「吉井勇全集 第七巻」番町書房
   1964(昭和39)年3月
入力:門田裕志
校正:POKEPEEK2011
2014年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード