ラハイナまで来た理由

片岡義男




ラハイナまで来た理由




 カアナパリまでの飛行機はどれも満席だった。いったんどこかほかの島へいき、そこからカアナパリへの飛行機を見つけるというアイディアを、僕はこれまで何度も試みた。一度も失敗したことがない。しかし今日はカフルイまで飛ぶことにした。すでに搭乗の始まっている便に空席があった。
 マウイに向けて海の上を飛びながら、カアナパリの近くの砂糖きび畑にセスナで不時着したときのことを、僕は久しぶりに思い出した。思いっきり重い曇天に抑え込まれたようなホノルル空港の端っこから離陸し、セスナにふさわしい高度で海を越えていった。二十五歳の誕生日だった。
 パイロットのほかに乗客は僕を含めて三人だった。日本から赴任して五年になるという、本願寺の僧侶。口数の少ない黒人のビジネスマン。そしていまより十歳だけ若い僕。マウイの西側はすさまじい雨だった。風がその雨と競い合っていた。視界を得ることが出来る低空を飛ぶのはきわめて危険だなどと言いながら、パイロットはその低空を飛んだ。
 雨は水平に飛んで来て機体を叩く、分厚い水の層だった。機体にぶつかれば音がするし、窓ガラスの外で炸裂するように散っていく様子は、具体的に観察することが出来た。しかし風は見えない。深い灰色でふさがれて遠近感を失った空は、そのまま海とひとつに溶け合っていた。
 空にくらべると、海はくすんだ青い色への傾きを持っていた。空と海にはさまれた空間に、目的なしにただ強靭に吹きまくる数百種類の風が、複雑にからみ合っていた。風と風とのあいだのわずかな隙間を、セスナは飛ぶというよりも飛ばされていった。
 パイロットは果敢にも空港への着陸を試みた。しかし、試みは一度だけで放棄した。セスナはハイウエイのすぐ上を、横飛びに流された。黄色いピックアップ・トラックが一台、いっさいなにごともないかのように、地表の雨と風のなかを走っていた。運転席のドライヴァーが聞いているはずのラジオの番組が、ほんの一瞬僕たちの耳にも届いた、と錯覚しても許されるほどの至近距離だった。
「山裾にぶつかる前に、ケインに引きとめてもらうからね」
 パイロットが大声で僕たちに行った。ケインとはシュガー・ケインのことだ、と思うまもなく、セスナは砂糖きび畑に林立するケインに機体の腹をこすり始めた。機体はケインのなかに埋まった。ケインの長い緑色の葉が、何重にも重なって窓の外を走った。何本もの砂糖きびに支えられて、セスナは滑走した。右前に向けて大きく傾きつつ、セスナは停止した。
「レスキューが来るまでこのまま機体のなかにいてもいいのだけど、ケインが四、五本も折れると機体は頭からひっくり返るかもしれない。だからみんな外へ出よう」
 バーベキューでも提案するかのような気楽な口調で、パイロットは僕たちを振り返って言った。ドアを開くのが大変だった。人の背丈の二倍ほどにのびた砂糖きびが、ドアを外から押しふさいでいた。機体は揺れ動いた。そのなかの僕たちは、風の音の底にいた。
「ケインの葉で動脈のあるところを切らないように。首や脇の下だ」
 ほかの三人にそう言った僕は、東京から着たきりの、もはやしわくちゃの麻のジャケットの裾を両手でつかみ、上に向けて反転させた。ジャケットの内部に顔をくるみ込むようにし、僕は砂糖きび畑の赤土に向けて、セスナのドアから飛び降りた。三人が順番に飛び降りた。最後にパイロットが飛び降りたあと、セスナは大きく右へ傾いた。主翼の先端がケインを斜めに押しのけ、畑にめり込んだ。
「ハイウエイは向こうだよ」
 僕が思っていたのとは完全に反対の方向を、パイロットは示した。彼が先頭を歩き、そのあとに僕たちが一列になって続いた。しばらく歩くと砂糖きび畑は終わった。目の前にハイウエイが見えた。道路の黒い路面に雨の層が次々に衝突しては、風の方向に向けて滑空していった。畑の縁には水路が掘ってあった。それを越えることの出来る場所まで歩いた。
 ハイウエイから土と草の地面が畑まで広くあった。畑の近くに溶岩の岩がいくつか転がっていた。風と雨を避けて、僕たちはその岩に体を寄せ、地面にすわった。砂糖きび畑のなかをいま自分は初めて歩いたことについて、僕は思った。そしてとなりにすわっている本願寺の僧侶に、僕は祖父について語った。僕の祖父は山口県から働きに来たラハイナで、砂糖きび畑の水を管理する仕事をしていた。砂糖きび畑は水を大量に必要とする。貯水池に溜めておく山からの水を水路に配分して流し、畑ぜんたいにいきわたらせなければならない。
 古くからの地元の人たちにラハイナ・パンプと呼ばれている、もっとも重要な水門が祖父の仕事の中心だった。消防署のまっ赤なシェヴィー・ブレイザーが、やがて雨の向こうから走って来た。パイロットが風のなかに出て腕を振った。ブレイザーはハイウエイを離れ、岩に向けて徐行し、停止した。僕たちのこのときの不時着は、翌日の新聞に六行の記事となった。
 翌日、なにごともなくきわめて平凡に、僕はカフルイ空港に降り立つ人のひとりとなった。こうも平凡だと、降り立つ、とも言いがたい。いつものバスをいつもの停留所で降りただけだ。しかしそのバスはなぜか空中を飛んで来た。ワイルクまでシャトル・バスに乗った。ワイルクに入るあたりから町なかまで、いくつか点々と停留所がある。いちばん最初の停留所で僕は降りた。次の停留所とのちょうど中間に、ハリー・オーのガレージがあった。
 ガレージとは自動車修理業の店と作業場だ。店を始めたときの名称が、ハリー・オーズ・ガレージだった。いまもその名で続いていた。ガレージではなく、グラージと書かないと、ハリーは満足しないかもしれない。修理に加えて、中古車販売、新車のディーラー、旅行代理店、アパートメントやコンドミニアムの部屋の斡旋など、いまでは領域は広い。「家の裏に竹林があると、いろんなところに竹の子が生えて来るよね。それを竹に育てるのとおなじだよ」とハリーは言い、事業の拡張を成りゆきにまかせてここまで来た。
 ハリーはガレージのオフィスにいた。昨年亡くなった僕の父親と幼なじみの同世代だ。七十なかばを越えているが、元気な現役だ。「いつ来たの。昨日。そうかねジャスト・ライク・ヨ・ファーザよ。いったり来たり。極楽トンボ」なかば叱るように、なかば慈しむ口調で、ハリーは僕を迎えてくれた。ハリー・オーのオーは、オカムラの略だ。
 自動車を一台、彼は僕に貸してくれた。陽に焼けたごつい手でキーを僕に手渡し、西陽を反射させている中古車の屋根の列の、どこか向こうを指さした。オールズモビールのカトラスだという。
「ヴァニラ・アイスクリーム・アンド・ブラック・コフィー」
 と彼は言った。中古車の列に向けて歩きながら、僕は彼のその言葉の謎を解いた。ヴァニラ・アイスクリームとは、そのカトラスの車体の色だろう。ブラック・コフィーは内装の色だ。そのとおりのを探し当てると、キーはドア・ロックの穴に入った。運転席に入り、中古車の匂いをかぎながら、ハリー・オーの手が明らかに老けつつあることについて、僕は思った。
 島を東側から西の海沿いまで、僕はハリーの中古車で走った。途中で父親の残した家に寄った。半年ぶりだ。誰も住んでいないその家は、険しい山裾を背後に置いて、しんとしていた。僕はシャワーを浴びた。服を着替え、冷蔵庫からミネラル・ウオーターを取り出して居間へ持っていき、庭に面して置いてあるひとりがけのイージー・チェアにすわった。昨年、僕の父親は、この椅子にすわったまま、心臓の麻痺で他界した。僕は冷えた水を飲んだ。胃のなかに注いだその水の底に、時差ぼけはなかば沈んだ。
 キチンで電話のブザーが鳴った。僕はキチンへいき、電話に出た。フランシス・K・アカミネという、僕の父親の幼友達だった。Kはコーキチ、つまり幸吉だ。いまでも彼はラハイナに住んでいる。僕がこれから向かおうとしているのは、奥さんとふたりで住んでいる彼の自宅だ。
「ソ・ユー・ア・ゼア」
 彼は老いた人の声でそう言い、
「イエス・アイム・ヒア」
 と、僕は答えた。謎の問答だ。
「ユ・イーティング・ウィズ・アス、ヨシオ? ウィール・ハヴ・ディナ・ウエイティング・フォ・ユー」
 ディナーは魚だ。彼はいつも僕に魚の料理を作ってくれる。
「料理する魚をまな板に乗せる前に、僕はそちらに着きます」
 と僕は言った。
「オケイ」
 フランシスは幼い頃から仇名はシスコだ。シスコ・アカミネの「オケイ」のひと言は、オールズモビール・カトラスの快調さとつながっていた。父親が晩年の十年間をひとりで住んだ自宅を、僕はあとにした。そして深まりゆく西陽のなかを、ラハイナに向かった。
 ラハイナもフロント・ストリートから一本裏に入ると、ここはどこの田舎だろうかと思うような光景だ。自分で建てた高床木造の2寝室の家に、シスコ・アカミネは奥さんのメリンダと住んでいる。ふたりの息子とひとりの娘は、すべてメインランドで独立している。年金が支えるほどよく余裕のある静かな時間のなかに、いまのふたりはいた。
 道路に面したマンゴーの樹の下に、僕はカトラスを停めた。ラハイナでいちばんうまいマンゴーの実る樹だ、とシスコは自慢している。彼の言うとおり、完熟したそのマンゴーは、奥行きの深い香りをたたえる。
 シスコとメリンダの日系二世夫妻は、いつものように居間のソファで花札をしていた。メリンダはいまも美人だ。しかも名前は幸江という。幸吉とならんで幸がふたつだから、自分たちの人生はダブル・ラックそのものよ、とメリンダは笑う。
 先週、東京の僕のところへ、シスコから電話があった。いまからおよそ四十年ほど前、きみのお父さんから借りたままのアロハ・シャツがクロゼットの奥から見つかった、という電話だった。今度ここへ来たら返すよ、いつ来るかね、という彼の問いに、来週いきます、と僕は答えた。
 居間から奥へ入ったシスコは、アロハ・シャツを一枚もって、戻って来た。僕はそれを着てみた。シスコは呆れたように首を振り、ほんとにきみはお父さんにそっくりだ、と言った。気味が悪いほどよく似ているとメリンダは言い、片手でしきりにうなじを撫でた。
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片仮名ではスパム・アンド・エッグス




「なににしましょう」
 と、彼女が聞いた。彼女の名はたしか菊江さんのはずだ。中年の強さを持続させつつも、いまは明らかに年配の、日系二世の女性だ。目尻のつり上がった紫色の縁に、ラインストーンの飾りを散らせた眼鏡を、彼女はかけている。この眼鏡を含めて、彼女のような人がゆっくりと、いまのハワイで絶滅危惧種へと向かいつつあった。
「スパム・アンド・エッグスです。卵はふたつ、ワンス・オーヴァー。スティームド・ライスを添えてください」
「エニシング・エルス?」
「トマト・サラダをください。ドレッシングなしで。パイナップル・ジュース。そして大きなマグのコーヒー」
「OK。出来たら呼ぶから」
 僕は店の外へ出た。店は彼女ひとりの調理場と、客が注文するカウンターだけの、小さなものだ。食べる場所は外にあった。スーパー・マーケットとつながった渡り廊下のかたわらに、陽よけの天蓋のような屋根が四角に張り出していた。それが作る日陰のなかに、ベンチと横長のテーブルが、いくつか配してあった。
 ベンチまで歩いて僕はその端にすわった。晴天のラハイナの朝、九時過ぎの風が吹いた。ショッピング・センターの四角いコンクリートの建物、そしてそれと陽ざしのなかで向き合っている駐車場などを、僕は眺めた。停めてある自動車すべての屋根が、陽ざしを跳ね返して硬く輝いていた。自分のオールズモビールを視線で探していると、
「出来たわよ」
 と、店のなかから彼女が呼んだ。僕は店へ朝食を受け取りにいった。大きな皿にひとつ盛りにした、スパム・アンド・エッグスとスティームド・ライス。それを右手に、そして左手にはコーヒーのマグ。引き返してトマト・サラダとパイナップル・ジュース。
 使い捨てのプラスティックのナイフとフォーク、そしてスプーンをひと組にしたものを、透明なヴィニールに封じ込めて大きなロールに巻いたものが、ドアのかたわらに吊るしてあった。そこへいって僕はひと組、ヴィニールのミシン目からちぎった。僕はテーブルへ戻った。
 今朝のこのスパム・アンド・エッグスは、亡き父親にちなんでいる。若い頃の彼がハワイ、カリフォルニア、ネヴァダなどで苦労していたとき、もっとも標準的な食事からひとつだけ下に位置していた、したがってしばしば食べざるを得なかった食事が、スパム・アンド・エッグスだった。当人がそう言っていた。
 作りかたなどありはしない。四角いあの缶を開き、ナイフを斜めに突き立ててランチョン・ミートの固まりをなかば引出し、一センチほどの厚さで三枚、バターを敷いたフライパンにスライスする。裏表ひっくり返しながら、よく火をとおす。出来たらそれを皿に移し、おなじフライパンを使って卵をふたつ、フライする。この場合の卵は、ワンス・オーヴァーがいちばんいいと僕は思う。おなじ皿にご飯を盛るのが正式だよ、と父親は笑っていた。
 今日の朝食をなぜ僕は父親にちなむのか。四十数年前、幼友達のシスコ・アカミネに父親が貸したままだったアロハ・シャツを、昨日、シスコは僕に返してくれた。そのシャツをいま僕は着ている。だから父親にちなんで、この朝食だ。
 食べ始めた僕は、父親がチャーハンをうまく作ったことを、思い出した。ご飯しかないときには、葱を細かく刻んで具にして、父親はおいしいチャーハンを作った。すべては塩かげんなのだ。ご飯と葱を素材に、あとは食用油と塩。
 ふにゃっと曲がる薄いプラスティックのナイフでも、スパムは切りやすい。いくつかサイコロに切っておく。卵の表面を十文字に切り裂き、フォークにスパムのサイコロをひとつ突き刺し、卵の黄身をつけて口に入れる。卵に塩をかける必要はない。スパムの塩味が、サラダのトマトまでをもカヴァーする。
 食べながら僕は移民船のことを思った。これも父親が語ってくれたことだ。日本からハワイへ移民していく人たちが、船のなかで何度も食事をする。味噌汁が出る。しじみの味噌汁のときは、全員によそい分けるのに時間がかかるんだ、と父親は言った。全員の汁碗にまず汁だけをよそう。そのあと、しじみの数を数えながら、全員に等しい数のしじみがいきわたるように、配っていく。架空のこと、つまり笑い話なのか、それとも本当のことなのか。僕は後者だと思っている。
 スパムの不自然さが一方の極にあるとするなら、マウイのトマトの力強い自然さが、もう一方の極にある。その両極を取り持つのは、卵とパイナップル・ジュースだ。そしてぜんたいをコーヒーがくるみ込む。これはこれで良しとしなければならない。それを食べていく僕の体のまわりで、四十年前の父親のアロハ・シャツの襟や裾が、風にはためいているのだから。
 途中で僕はコーヒーのおかわりをもらいにいった。テーブルへ戻っていくとき、ショッピング・センターの建物に沿った歩道を、ひとりの日系の男性が歩いているのを、僕は目にとめた。さきほども彼を見た。七十代なかばの、背丈が高いほかにはこれといって特徴のない、とっくに現役を引退していまは暇な人だ。
 スパム・アンド・エッグスの朝食を食べ終わる頃、さきほどの彼がショッピング・センターのこちら側のドアから出て来て、渡り廊下の端にふとたたずんだ。僕はコーヒーを飲んだ。自分はさきほどから彼によって観察されている、と僕は感じた。
 分厚くスライスされたマウイ・トマトの最後の一枚を食べ終え、僕はフォークを紙の皿に置いた。皿はすべて紙だ。使い捨てだから食器を洗う手間が省ける。そして菊江さんは、そのぶん確実に楽が出来る。ふと気がつくと、あの日系の男性が、僕のかたわらに来ていた。彼は僕に向けてもの静かにかがみ込んだ。
「ホワイル・ユー・ウォー・イーティング、アイ・ワズ遠慮しとったがね」
 と彼は言った。僕は彼の顔を見上げた。
「あんたはキタムラさんのナンバーワン・ボーイかね」
 と彼は質問した。ナンバーワン・ボーイとは、男の第一子つまり長男のことだ。僕は確かにそうだし、名前はキタムラだ。
「そうです」
 と僕は答えた。
「そうじゃろう思いよった。ハヴント・シーン・ユー・フォ・サムタイム」
 久しぶりですね、という意味のその平凡なひと言に、いま彼がしたほどに懐かしさと親しさを優しく込めた例を、これ以前にも以後にも、僕は体験していない。込めた気持ちをさらに広げるために、彼は平凡な言葉を続けた。
「ホエア・ユー・ビーン。メインランド?」
 相手である僕に対して、完璧なまでの善意を土台にして、懐かしさや親しさの感情を全開にしている彼の顔を、僕は仰ぎなおした。彼の内部における時間のずれに、僕は気づいた。彼が誰なのか、僕は知らない。おそらくはこのラハイナで生まれ育った、日系の二世だ。彼の顔や姿を見るのは、僕にとってはいまが初めてだ。彼の名前すら僕は知らない。そして本当は彼も、僕を知らないはずだ。
 ただし彼は、僕を僕の父親と取り違えている。彼の内部における時間のずれとは、そのような意味だ。僕の父親なら、彼と同世代だ。幼い時期にラハイナでともに育ち、顔も名前もよく知っている僕の父親を久しぶりに見かけたと思い、彼は僕に声をかけてきたのだ。
 彼が持っている時間の感覚にずれがないなら、彼は自分と僕とのあいだにある年齢のへだたりに、ひと目で気づかなくてはならない。へだたりに彼はまったく気づいていない。と言うよりも、彼は昔に帰ってしまっている。僕を見て、彼は昔に戻ってしまった。僕の父親がまだいまの僕くらいの年齢だった頃へ。その頃は、彼もまた、いまの僕とおなじような年齢だった。
 訂正してもそこからなにかが始まるわけでもない、と僕は思った。彼がいま生きている時間の感覚を、そのまま受けとめるほかない。期待のありったけを込めてじっと僕を見下ろしている彼に、僕はうなずいた。
「そうですよ、メインランド。そしてホノルル。それからジャパーン。ハウ・ハヴ・ユ・ビーン。ユ・ルック・グレイト。ユ・ルック・ファイン」
 きわめて柔和に、彼は微笑を深めた。
「ハウ・イズ・ヨ・ファーザ」
 と、彼は聞いた。僕の父親とは、つまり僕の祖父のことだ。
「ヒーズ・バック・イン・ジャパーン。ヒーズ・ドゥーイン・ファイン」
 一九一〇年代に僕の祖父はラハイナから出身地の山口県へ戻った。長寿をまっとうし、何年か前にこの世を去った。
「グラッド・アイ・クッド・トーク・ウィズ・ユ。ビーンナ・ロング・タイム」
 それだけ言った彼は、じつにあっさりと、僕に右手を差し出した。僕は彼と握手を交わした。
「テイク・ケア」
 優しく囁くようにそう言い、彼は僕のかたわらを離れた。渡り廊下を歩き、ショッピング・センターのドアを開いてなかに入った。ドアが閉じ、彼の姿は見えなくなった。
 会話とも言いがたいような、ほんのひと言ふた言を交わしただけだが、おそらく時間の感覚がずれているおかげだろう、彼は久しぶりに見かけた僕の父親を相手に、よもやま話に堪能した気分になれたのではないか。
 なんという人なのか。シスコ・アカミネなら知っているだろう。帰り道、シスコのところに寄って、訊いてみよう。コーヒーの残りを飲みながら、僕はそう思った。
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パウ・ハナの美女




 駐車場への出口から姉が出て来た。日本の名は舞子という、四歳年上の姉だ。完全な姉ではない。半分だけ姉、という言いかたをしていた時期が、僕にも彼女にもある。いまから何年も前、まだふたりとも幼かった頃だ。僕と彼女とは、父親がおなじで母親が異なる。ただそれだけのことだ。
 この駐車場はホテルの従業員たちのうち、ある位置より上の人たちのための、専用駐車場だ。入口には常に警備員がいる。ただいるだけではなく、警備はかなり厳しい。さきほど僕がオールズモビールでここに入るときには、警備員は構内電話で姉に確認をとった。
 僕はそのオールズモビールのドアを開き、隣の席に置いてあったアロハ・シャツを持ち、強く陽の照る外に出た。僕はドアを閉じた。その音に姉は僕のほうに顔を向けた。僕は彼女に手を振り、彼女は微笑した。駐車場に風が吹いた。まず僕の背中ぜんたいを押すように当たったその風は、すぐに姉に届いた。顔を上に向け、肩に届きそうで届かない長さにまとめた髪を、彼女は風とともにうなじへとなびかせた。
 歩いて来る彼女を僕は見た。五センチほどの細いヒールのあるサンダルに、明るいカーキー色の短めのスカート。けっしてタイト・スカートではないが、印象としてはタイトぎみに見えた。そして赤い半袖のシャツ。必要にして充分な身長のなかに、彼女の体は完璧なバランスで収まっていた。ハワイではさほどにも感じないが、アメリカでは小柄な女性の部類だ。この身長でこそ成り立つバランスだからこの身長なのだという、緻密な完成度の高さを僕はいつも彼女の体に感じる。
 ただ歩いて来る様子を見ているだけでも、彼女の体の動きは素晴らしい。体ぜんたいの感覚で受けとめる情報に見事に補完されながら、視神経で受けとめる解像度の高い大量の情報が彼女の脳に届く。そしてその脳は、動くための命令を筋肉に対して発する。筋肉は情報の受容度がずば抜けて高いから、動きながら刻一刻と動きの微調整が本能的に出来る。その結果として、彼女のあらゆる動きは、滑らかさをきわめた美しさとなる。彼女が歩くときにもっとも良く働いているのは、太腿の裏の筋肉だ。
 歩いて来た彼女は僕の前に立ちどまった。僕と彼女はほぼおなじ背丈だ。彼女とこうして向き合うとき、あらためて驚かざるを得ないのは、彼女の美貌ぶりだ。深い彫りが見事に効いて、非の打ちどころはどこにもない。彼女がなぜここまできれいなのか、彼女を見る人はその理由がつかみきれない。だから彼女の美しさは、彼女を見る人を不可解な気持ちにさせる。この女性はいったいなになのか。なにをする人なのか。なぜここにいるのか。いつもなにを思っているのか。不可解さは何重にも重なり、おたがいに増幅し合う。
 そしてもっとも不可解なのは、これだけ美しい女性の顔が、じつは底なしのように優しい顔であるという事実だ。表情が常に優しい。顔の造作がこれだけ良く出来ていると、ほとんどの場合、印象は冷たくなったり高慢であったり、ときには鋭すぎたり陰険であったりするが、姉の舞子の場合、そのようなことは絶対にないと言っていい。
 ただ単に優しそうという種類の優しさではない。彼女によってもし自分が受けとめられたなら、その瞬間から自分は、彼女という優しさの謎の底に向けて、いつまでも落下し続けることを覚悟しなければならない、という種類の優しさだ。そのような彼女の性格は、じつは恐ろしいまでの勝気さを中心軸として形成されているから、彼女という人をつかみそこねた人が落ち込む断層は深い。
 持っていったアロハ・シャツを僕は彼女に差し出した。受け取った彼女はそれを目の前に広げてかかげた。風がシャツをはためかせた。点検する彼女の視線や表情は、あくまでも優しかった。
「素晴らしいシャツだわ」
「あげます」
 と、僕は言った。昨日、父親の幼な友達であるシスコ・アカミネから、僕は四十年ぶりに返却された父親のアロハ・シャツだ。
「着ればいいのに」
「僕は今日、朝から着ていました。それで充分です。お姉さんが着たほうが似合います」
 そのシャツが僕に戻って来たいきさつについては、午後、彼女の仕事先であるこのホテルに電話をしたとき、僕は語っておいた。
「素晴らしいシャツよ、これは」
 さきほどの台詞を彼女は繰り返した。そしてシャツを僕に差し出した。僕はそれを受け取った。
 彼女は着ているシャツのボタンを下からはずしていった。かたちのいい指の先端が、下からひとつずつボタンをはずしていく様子を、僕は見守った。彼女のそのアクションは正常なまま、視覚をとおして僕の意識のなかに入って来る映像としては、ボタンひとつごとに、彼女の指の動きすべてが、ハイ・スピード撮影による、フィルムのスロー・モーションとなっていった。
 着ているシャツとそのボタンを相手に、彼女の指は見事な振付けで踊っているかのように見えた。彼女の両手はボタンごとに上へ上がっていき、やがてシャツのボタンをすべてはずした。彼女の美しい顔に微笑が深まった。微笑が深まるのに要する時間は、時間を限りなくたぐり込む永遠の深淵のようだった。
 彼女の指はシャツの前立てにかかり、ボタンをはずしたシャツを左右に開いた。彼女の裸の胸が、午後遅い時間の斜めの陽光のなかに、あらわになった。彼女がシャツを脱いでいく動作と完璧に同調して、下着をつけていない胸の面積が、僕の意識のなかに微妙にもどかしい緩慢さで、広がっていった。
 舞子はシャツを脱いだ。両肩からほぼ同時にシャツをはずし、片腕ずつ袖を抜き取っていく一連の動作が、その美しさの限界まで、僕の意識のなかでスロー・モーションによって引き延ばされた。シャツを脱いだ彼女は片手にその襟を持ち、僕に向けて差し出した。僕はそれを受け取り、アロハ・シャツを彼女に手渡した。
 たったいま僕が見た、シャツを脱ぐ動作の逆を、僕の目の前で彼女はおこなった。すでに十年以上、舞子は趣味でボディ・ビルディングを続けて来た。その結果、いまの彼女の上半身は、絵に描いたような逆三角形をした、隆々たる筋肉の彫像だ。思いっきり広い肩の下に、左右の大胸筋がもっとも良く発達していた。もともと小ぶりな乳房は、その分厚い広がりのなかに、完全に吸収されていた。ぜんぶ筋肉なのよ、ほら、さわってみて、と彼女はときどき僕にその胸を触らせる。乳房の感触をたたえた部分が、舞子の胸にはどこにもない。
 彼女はアロハ・シャツを着た。風が吹き、シャツは大きくうしろへなびいた。指先で引き寄せながら、彼女はボタンを下からかけていった。いちばん上のボタンははめないままに残し、彼女はシャツの下で両肩をゆすった。厚みの充分にある広い肩に、シャツはぴったりだった。そしてその肩から、いまでは手に入らない質のレーヨンの生地が、筋肉を重ね合わせたしなやかな逆三角形の上半身に、この上なくきれいにドレープした。
「気持ちいいわ」
 正面から吹いて来る風に向けて、彼女は微笑した。
「よく似合う」
「私がもらってもいいのね」
「舞子こそ、それを着るべきだ」
 彼女は僕に歩み寄った。そして僕を軽く抱いた。相手である僕に対して、自分のありったけを預けつつ、じつは主導権のすべてを自分が握るような、不思議な感触のある抱きかただ。幼いとき、おたがいに初めて会ったその日から、彼女は僕をそのように抱いた。
「仕事は?」
 と、僕は聞いてみた。
「パウ・ハナ」
 と、彼女は囁くように言った。
 ハナは仕事、そしてパウは、終わるという意味だ。ミーはトゥデーははあパウ・ハナじゃけえ。僕の祖父が、夕方になると口ぐせのように、そう言っていた。
「どこかへ寄るの?」
 彼女が聞いた。
「どこにも寄らない」
 という僕の答えに、
「では帰りましょう」
 と舞子は言った。
 僕の体から両腕を離し、停めてある自動車の列のなかを、彼女は自分の車に向けて歩いた。そのきれいな様子を、僕は見守った。自分の車の左側に立ち、ドア・ロックを解除し、彼女はドアを開いた。僕に顔を向けて微笑し、警備員の詰所のあるゲートのほうを指さした。そして運転席に入りドアを閉じた。僕もオールズモビールに入った。車の列から出て徐行していく舞子のジャガーのうしろに、僕はカトラスを従わせた。
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雛祭りに泣いた




 異母姉の舞子はホノルルで生まれて九歳までそこで育った。九歳のときに彼女は母親とともにカリフォルニアへ移った。そして十三歳のときに日本へ来た。彼女は十六歳になるまで日本にいた。大人になるまでに少なくとも二、三年は、彼女を日本で過ごさせたいと父親は思い、そのとおりにした。
 彼女が日本へ来たのは正月が終わって間もない季節だった。アメリカの海兵隊の基地のなかにある学校に、彼女はかよった。かようと言っても、午後から一日に二時間だけ、というような特殊なクラスだったようだ。
 一定の範囲をそのクラスで勉強したなら、試験を受ける資格が発生する。試験に合格すると、中学校を卒業したと認定され、正式な中学卒業資格が得られる。日本にいるあいだに、舞子はアメリカの中学をそのようにして卒業した。こういったことをなんの苦もなくこなしてしまうのは、彼女が数多く持っている才能のうちのひとつだ。
 舞子が住んだのは僕たちの祖父の家だった。中国山脈の南側の山裾が、瀬戸内海に向けておだやかに消えていく地形のほどよい中腹に、祖父はハワイの民家を思わせる造りの山荘のような家を建て、そこにひとりで住んでいた。彼の妻はハワイに在住していたあいだに亡くなった。
 この自宅とは別に、ハワイでの成功を人々に見せる証拠物件として、彼はすぐ近くに大きな家を建てた。商家でもなければ農家でもない、おなじような部屋がいくつも連なる、コの字型をした大きくて重厚な家だ。コの字が抱き込んだ広い庭の向こうにある離れに、当時の僕は住んでいた。舞子は祖父の山荘に住んだ。
 雛祭りの日が来た。雛祭りの日とはなになのか、そのときの僕はまだ知らなかった。祖父の大きな家で、舞子のための雛祭りが、盛大におこなわれた。その日は朝から、家のなかの雰囲気が、いつもとはまるで異なっていた。見たこともない人たちが大勢いた。雛祭りの準備を手伝いに来た人たちだ。誰もが忙しそうにしていた。学校は休みだった。僕は家にいた。
 前日に舞子はこの家に泊まった。彼女の姿は、しかし、僕が起きたときから、どこにもなかった。午前中の時間が過ぎていき、正午になった。舞子の姿はなかった。雛祭りを手伝いに来た親戚の人たちといっしょに、僕は昼食を食べた。午後が舞子なしで経過していった。ときたまごく薄く陽の射す、冬の名残を充分に残した、まだ寒い日だった。
 短い午後が終わり、曇っている空の下に早い夕暮れが舞い降りるにつれ、九歳の僕は少しずつ不安になっていった。家のなかの様子はいつもと違うままだ。人がたくさんいて、忙しそうにしている。その忙しさは、なにか目的があるらしい。そしてその目的を僕は知らない。いるはずの舞子が、朝からどこにもいない。不安は僕の胸の底に定着し、その不安から欠落感が立ち上がり始めた。生まれて初めて体験する種類の、不安と悲しさとにくるみ込まれた、奇妙な欠落感だった。
 ときたま顔を見かける中年の女性が、僕に白酒を飲ませてくれた。器は美しいものだったが、白酒の味は僕の好みからは遠かった。親戚のひとりだと僕が聞かされていたその女性は、僕を奥の座敷へ連れていった。僕にはどれもまったくおなじにしか見えない部屋を、ふたりでいくつもとおり抜けていった。
 襖を開いては、ほの暗い部屋を横切って向こうへ歩き、そこでも襖を開く。そうすると、いまとおった部屋と寸分たがわない部屋が、おなじほの暗さと匂いと冷たさで、僕を迎えた。ひとつの部屋を何度も繰り返し歩いているのではないか、と僕は思った。そのことの怖さに怯えるような気持ちが、僕の頭のなかに広がっていった。
 ひときわ大きな部屋に、僕は親戚の女性とともに入った。ほの暗い部屋のスペースを中央で大きく占領して、天井まで届きそうな高さに、雛壇が作ってあった。雛壇ぜんたいが赤い布をかぶっていた。そしてどの段の上にも、雛飾りがならんでいた。雛飾りというものを僕はこのとき初めて見た。すべてのものが静止していた。雪洞には明かりが灯っていた。その明かりも静かに止まって見えた。霊魂というものにもし明かりがあるなら、それはこのような明かりではないか、と幼い僕は思った。
 たいへんに立派な作りの雛飾りであることは、僕にもわかった。僕はただ圧倒されてそれを眺めた。部屋のなかぜんたいが異次元だった。いくつもの部屋の向こうから、歌が聞こえて来た。そのときの僕はなんの歌だか知らなかったが、いまは知っている。雛祭りの歌だ。幼い女のこたちの合唱による歌だった。
 ひどく平面的な音に聞こえた。部屋の襖が、あるいは天井のぜんたいが、歌っているように感じた。僕の背丈を越える大きさの、おごそかな箱のようなレコード・プレーヤーが、ずっと手前の部屋にあることを僕は思い出した。そのプレーヤーで再生されている、78回転のレコードによる雛祭りの歌だった。
 歌はなぜか途中で突然に聞こえなくなった。僕を雛飾りの前まで連れて来た中年の女性が、姿を消していた。部屋ぜんたいが悲しみの底へ沈んでいきつつあるように、僕は思った。見上げる雛壇を中心に、その悲しみは部屋のなかで静かに渦を巻いていた。僕をとらえてその渦のなかに引き込もうとする悲しみから、僕は逃げた。
 来たときとおなじように、襖を開けては隣の部屋に入り、その部屋を向こうへ横切ってふたたび襖を開く。おなじ動作を繰り返しては、ほの暗い部屋をいくつも、僕はひとりで走った。雪洞を左右にしたがえ、赤い布を被った雛壇とともに、すべての雛飾りが僕を追いかけて来る、と僕は思った。朝から続いていた不安感、そしてその不安感から生まれてすでに大きく育っていた欠落感は、悲しみに満ちた恐怖へと統合され、頂点に達していた。
 廊下まで僕はなんとか脱出した。夕方の庭と接している廊下を、僕は走った。直角に二度曲がるところがあり、そこを抜けた先には、能舞台のような渡り廊下になっている部分があった。その板張りのスペースのまんなかに、舞子が立っていた。ありとあらゆる色を織り込んだような、雅びに美しい着物に身を包み、いつもとはまったく違ったかたちに髪を整え、完璧に化粧した姉の舞子だった。
 走って来た僕は立ちどまって彼女を見た。表情を完全に消した顔で、なにも言わずに、彼女は僕を凝視した。その視線を全身で受けとめて、僕はさらに怖くなった。背後から追いかけて来た悲しみの渦が、僕を足もとからすくい上げようとした。だから僕は逃げた。舞子から出来るだけ距離を取って、廊下の端を僕は必死に走った。
 走りながら僕は思った。今日というこの不気味で悲しくて恐怖に充満した日のなかで、姉の舞子は別の人に変わってしまった。これまでの舞子はどこかへいってしまった。たったいま見た、別人の舞子になる以前の彼女には、もう二度と会うことは出来ない。人がたくさんいるところまで、僕は逃げていった。
 そこからさらに、僕は庭へ出た。庭は夕暮れがもっとも深まった時間のなかにあった。僕は庭を走った。僕の住んでいるところである離れには、誰もいなかった。明かりも灯いていなかった。すべてが静かだった。悲しみと恐怖にかられて泣いている自分が、限度いっぱいに増幅されて際立った。そんな自分を受けとめて、僕はさらに泣いた。
 夜のあいだずっと、僕は泣いていた。夕食は大勢の人たちが座敷に集まるお祝いの席だった。僕ひとりがそこでも泣いていた。いま思うと不思議なのは、泣くのをやめさせるために僕を叱る人が、ひとりもいなかったことだ。父親は基地から女性の将校や同僚たちを何人か招いていた。父親は僕にはなにも言わず、舞子も知らん顔をしていた。ろくになにも食べないまま、僕は夕食の時間を泣きとおした。
 夕食のあとも僕はひとりで泣いた。舞子はどこにもいなかった。探したらどこかにいるかもしれない、と僕は思った。僕は舞子を捜しにいった。暗い庭のあちこちを見ながら母屋までいき、廊下に上がってその複雑さに迷い、まったくおなじにしか見えない部屋の連続という迷路のなかにも、僕は迷い込んだ。
 雛飾りのある大きな部屋までいっても、舞子は見つからなかった。その部屋の隣に、その夜の舞子がひとりで寝るはずだった布団を、僕は見つけた。雛飾りの続きのような、艶やかに美しい、大きく豊かな布団だった。ここで舞子は寝るのだ、と僕は直感した。しかし舞子自身の姿は、どこにも見当たらなかった。
 いつもは舞子といっしょに風呂に入るのだが、その夜の僕は泣きながらひとりで風呂に入った。離れで布団に横たわってからも、僕は泣いていた。少しずつ、僕は幼い眠りのなかへ滑り込んでいった。滑り込む状態が傾斜を増し、落下へと変化していった。僕はまだ泣いていた。落下が始まり、自分を含めて周囲のすべてが眠りとなった頃、僕は自分の寝ている布団が動くのを感じた。
 人がひとり、きわめて滑らかに優美に、しかし確実に、僕の布団のなかに入って来た。僕は眠りから引き戻されることなく、眠りの底に向けて落下を続けた。暗いなかに香りが淡く漂った。雛祭りの香りだ、と僕は思った。そう思うのがやっとで、それ以上のことは僕にはなにひとつ出来なかった。布団のなかに入って来た人によって、僕は抱きとめられた。僕を抱く人の感触は、舞子そのものだった。
 仰向けに横たわる僕に、舞子は馬乗りとなった。馬乗りにまたがるところに、彼女の性格が端的にあらわれていた。僕を両腕に抱き込み、両脚をからめ、おおいかぶさり、僕の顔をひんやりとした両手で優しくとらえ、舞子は僕に顔を重ねた。そして口づけをした。彼女の唇は僕の唇を開き、僕たちの口はひとつにつながった。その温かく柔らかく湿潤した内部を、彼女の舌が自由に動きまわった。
「私はどこへもいかないわよ。私はあなたといつもまでもいっしょよ。私はどこへもいかないわ。だからあなたは、私を失うことはないのよ」
 口づけを続けながら、彼女はカリフォルニアの英語でそう囁いた。おなじ言葉を彼女は何度も繰り返した。彼女は日本語の女言葉を完璧に身につけているけれど、英語で語り合うときのほうが、僕は彼女をより彼女らしく感じる。雛祭りの夜、彼女が僕の耳のなかに囁いた英語が僕におよぼした、決定的な影響ではないか、と僕は思っている。
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雨の夜の映画




 居間の外の廊下に舞子の足音が聞こえた。その廊下の明かりが消えた。舞子が壁のスイッチをオフにしたのだ。居間の外が暗くなった。開いてあったドアから、舞子が居間に入って来た。
 室内で履く美しくて心地良さそうな靴を素足に。軽く揺れ動く薄い生地の長いスカート。長袖のシャツの上にはおったカーディガン。雨の降り続く、気温の低い夜だ。居間に入って舞子は立ちどまった。かたわらの壁に明かりのスイッチがあった。それに向けて、彼女としてはごく自然に、しかしソファから見ている僕にとってはきわめて優美に、彼女は手をのばした。
 彼女は僕を見て微笑した。明かりを消してもいいかしら、という意味だ。僕はうなずいた。明かりを消した舞子は、暗くなった居間のなかをソファまで歩いて来た。僕のかたわらにすわった。ソファが受けとめた彼女の体重が、ソファのクッションごしに僕に伝わった。
 僕は映写機のスイッチをオンにした。8ミリのホーム・ムーヴィ用の映写機だ。さきほど僕がフィルムをとおし、正しく写るかどうか試してみた。ソファはL字型で、その内側にガラス・トップの低い楕円形のテーブルがあり、映写機はその上に載せてあった。居間の壁に向けて、映写機のレンズから光の束が放たれた。
 居間の壁にはきめの細かな布が貼ってある。色はごく淡いベージュだ。いまのようにホーム・ムーヴィーを映写するとき、その壁は充分にスクリーンの代用となった。壁に寄せてスピーカーがふたつ置いてあった。そのふたつのスピーカーのあいだにほどよい空間があり、その部分の壁が、映写機からの光を横置きの長方形として、平らに受けとめた。
 なにも写っていない部分がしばらく続いた。フィルム面の微細な傷やほこりが、壁の受けとめる光のなかに拡大され、上下そして左右に、小きざみに動いた。画面ぜんたいが淡いブルーとなった。
「カリフォルニアの青い空」
 僕のかたわらで舞子がそう言った。
 青い空だけをとらえた画面だ。晴天の日のカリフォルニアの空にしては、明らかに淡かった。8ミリのフィルムはごくかすかに褪色を始めているようだ。空をとらえていた撮影機は、そのままパン・ダウンした。四角くて大きく平らな建物が、画面のなかにあった。スーパー・マーケットだということは、すぐにわかった。
 その建物の、側面とも正面ともつかない部分に、観音開きのガラス・ドアが大きくあった。そのドアの片方が、内側から外に向けて開いた。日系の男性がひとり、建物から外へ出て来た。建物の周囲は広くコンクリートのたたきになっていて、頭上には深く軒が張り出していた。男性はうしろ手に乳母車を引いていた。乳母車は空だった。
「撮影したのはメロディの妹ですって。フィルムといっしょに袋に入っていたカードに、そう書いてあったわ。乳母車を買った日。私のための乳母車」
 乳母車を自分の正面にまわし、日系の男性は撮影機に向けて片手を上げ、微笑した。青年の年齢は過ぎているけれど、青年の雰囲気を残した、ハンサムな男性だった。厳しく高度に訓練された現役の精鋭の兵士が、たまの休暇を楽しんでいるような雰囲気を、僕はその男性に感じた。僕と舞子の、まだ三十八歳だった頃の父親、ジェフリーだ。そしてメロディとは、ジェフリーの最初の妻の名だ。
 軍隊の制服のように見える半袖のシャツのポケットから、ジェフリーはサングラスを取り出し、軽くひと振りしてつるを出し、顔にかけた。彼が持っている兵士のような雰囲気は、サングラスによってさらに強まった。乳母車のハンドルに手をかけた彼は、軒が作る影から陽ざしのなかへ、乳母車を押して出て来た。撮影者から浅い角度で斜めに遠ざかるように、彼は歩いた。その彼を、おなじ場所にとどまったまま、撮影機が追った。
 乳母車を押して陽ざしのなかを歩く彼を、撮影機はうしろからとらえた。歩いていく彼の向こうに、駐車してある自動車の列が見えた。自動車のかたちのそれぞれが、過ぎ去って遠い時代そのものだった。
「さっきの店で乳母車を買ったのよ。自宅へ持って帰るのだわ」
 僕のかたわらで舞子が囁くように言った。壁に映写されているフィルムの、ショットが変わった。自動車のトランクを開くジェフリーを、撮影機は至近距離からとらえた。折りたたんだ乳母車を、ジェフリーはトランクのなかに横たえた。そしてトランクを閉じ、店のほうを振り返った。なにげない動作がひどく精悍だった。
「アメリカ軍兵士」
 と、舞子は言った。
「最初から最後まで、そうだったわね。なにしろ二世部隊の兵士で、モンテ・カシーノを生きのびた人だから」
 ショットがふたたび変わった。
 走る自動車の後部座席から、ダッシュボードとその向こうのウィンドシールドごしに、道路をとらえたショットだ。影になっている運転席とダッシュボードのすぐ外には、強い陽ざしを照り返しているエンジン・フードがあった。フードの中央に立つマスコットが輝き、そのさらに向こうには、こちらに向けてたぐり寄せられ続ける道路があった。
「両親が住んでいた家の住所はわかるし、乳母車を買ったさっきの店も、フィルムの袋に入ってたカードに書いてあったわ。だからこの道路は、いつまでも簡単に特定出来るでしょうね」
 舞子の言葉は、8ミリのサイレント・フィルムに対する、解説音声のように機能した。ショットが変わった。当時のカリフォルニアの、ごく普通の民家の全景だった。空の青さがここではさらに淡く褪色していた。家の外壁の白さは、よりいっそう白くなっていた。そのような褪色が、陽ざしの透明さをせつなさへと転換する効果を発揮している様子を、僕は観察した。
 前庭に停めた自動車のトランクから、ジェフリーがたたんだ乳母車を降ろしていた。たたんであるのをフルに広げ、彼はそれを地面に降ろした。ジェフリーはふと撮影機に顔を向けた。そしてショットが変わった。
 その家の玄関が、壁に写る長方形の画面のなかにあった。玄関から撮影者までの距離が絶妙だ、と僕は思った。庭の芝生の緑が美しい緑色だった。
「これを撮ったメロディの妹は、ハリウッドで仕事をしてるわ。映画の仕事。ハリウッド製の娯楽映画を編集する仕事。腕の良さはすでに定評を獲得してるのですって」
「うまい人が撮ってるのかな、といま僕は思ったところだ」
「うまいのよ」
 家の玄関のドアが開いた。そして女性がひとり、外へ出てきた。姿のいい、たいへんきれいな女性だ。ジェフリーよりいくつか年下だろう。ひょっとしたら、三十歳になったかならないか、という年齢ではないか。彼女が身重だと言うことは、お腹の大きさですぐにわかった。
「これがメロディ。お腹にいるのは、私」
 と、舞子が言った。
 画面のなかでメロディは玄関から笑顔で歩いた。彼女がズーム・アップされた。そして撮影者は自分の位置を変えた。メロディは乳母車まで歩いていった。それをあいだにはさんで夫と向き合い、笑顔で言葉を交わした。その顔がアップになった。舞子が母親から引き継いだ美人ぶりをはるかに越えた美しさが、メロディの顔立ちのなかにあるのを僕は見た。単なる顔立ちの美しさだけではなく、彼女を見る人の視線をとらえてやまない魔法のような雰囲気を、メロディは持っていた。
「カリフォルニアでは三度、住む家を換えたのよ。これは最初に住んだ家だわ」
 僕のかたわらでいまそう言った舞子をお腹に宿して、メロディは乳母車を押しながら庭の芝生を歩いた。撮影機がその様子を追った。前に向けてせり出し、横に張ってもいるメロディの大きなお腹が、画面のなかでさりげなく強調された。乳母車を押してメロディは玄関に向けて歩き、そこに立ちどまって振り返った。彼女の視線は夫のジェフリーに届いた。夫はなにかひと言だけ言って、メロディは笑った。そしてフィルムはそこで終わった。
 巻き取っていくリールに、やがてフィルムは完全に巻き取られた。壁には長方形の明かりだけが残った。僕を生んだのは、父親がメロディと離婚したあとの、再婚相手の女性だ。そして僕はメロディに一度も会っていない。写真では見たことがあるが、昔の彼女を写した8ミリの映画フィルムを映写して見るのは、いまが初めてだ。僕は映写機のスイッチをオフにした。居間のなかは暗くなった。
「いまのフィルムの最後の場面で、メロディは夫を振り返ってなんと言ったのだろうか」
 僕の言葉に舞子は笑った。
「わからないわ」
「そのときお腹のなかにいた人として、直感的に閃くものがあるような気がするけれど」
「無理よ。唇の動きを頼りに、いろいろ推測してみたけれど、わからないわ。自分が生まれる前に早くも存在していた謎のひとつ、ということにしておきましょう」
 僕たちの父親は8ミリでいろんな情景を撮影するのが好きだった。半年前に死亡するまでひとりで住んでいた家には、物を収納しておくための大きな部屋がある。四面の壁すべてが棚になっている。棚の仕切り板は都合に合わせて自由に動かすことが出来る。キットを買って父親が自分で組みつけたものだ。
 その棚の仕切りのいくつかに、彼の残した8ミリ・フィルムがぎっしりと詰まっている。その様子は僕も見て知っている。どのフィルムも撮影内容を書いたカードとともに、紙の袋に入っている。カードをすべて読んだ舞子は、いまふたりで見たフィルムを見つけた。舞子にとってこのフィルムは、自分を腹に宿した母親の写っている、唯一のものだ。
「生まれてからの私にとっての最初の記憶はなにかと言うと、いまのフィルムに写っていた家の、芝生に照る陽ざしや壁板の白さなのよ。母親に抱かれて家の外に出たときの陽ざし。そして玄関から家のなかに入るときの、陽ざしのなかから陰へと移っていく感覚。その記憶のさらに前に位置する、母親のお腹のなかから見た光景だわ」
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濡れた新聞とコナ・コーヒー




 ついさきほど僕はこの家へ来た。晩年に入ってからの父親が、十年以上にわたって、ひとりで住んだ家だ。七十五歳になっていた彼は、六か月前、この家で亡くなった。死因はごく単純な心臓麻痺だった。
 彼が死亡したとき、僕はホノルルにいた。一週間前に東京から来て、写真を撮る仕事を続けていた。舞子には連絡を取らずにいた。さらに一週間たってから、僕は舞子に電話をかけた。そして僕たちの父親の死を、彼女から知らされた。亡くなったのはちょうど一週間前だった、と彼女は言った。僕が初めに予定していたとおり、撮影の仕事をホノルルではなくヒロから始めていたら、僕は父親と会う最後の機会を持てたはずだ。
 舞子に電話をかけた次の日の午後、僕はアロハ航空のヒロ便に乗った。いつものとおりきわめて平凡に島から島へ飛び、なにごともなく空港に着陸し、エイヴィスで自動車を借り、父親の住んでいた家へ向かった。いま僕がひとりで来ている、この家だ。
 父親の最後について知りたければ、マリオン・カナカオレに会うといい、と姉の舞子は言っていた。マリオンは看護婦の資格を持っている人だ。介護も特別の注意もまだ必要ではないけれど、ひとりあるいは夫婦だけで暮らしている高齢の人たち何人かを、彼女は専任で毎日巡回している。僕たちの父親もマリオンが担当していた。六か月前、今日とおなじような日の午後、僕はマリオンに連絡を取った。午後遅く、マリオンは家まで来てくれた。
 居間の中央にイージー・チェアがひとつある。ぜんたいがどっしりした作りの、背もたれの高くて分厚い、肘かけの部分も広く安定した、少なくとも四十年くらいは前のものだ。かたわらには楕円形の小さなコーヒーテーブルがあり、正面には両足を乗せてくつろぐための、本体と揃いのオットマンがあった。そのイージー・チェアを指さして、マリオンは僕に次のように語った。
「巡回の時間は毎日一時間ずつ、ずれていくようになってるのよ。その日もいつものとおり、私はここへ来ました。車を庭に入れ、車を降りてポーチに向けて歩いていく途中、私には直感があったの。いま考えても根拠はなにもないのだけれど、職業的な勘と言ってもいい直感ね。私は走り、ポーチを駆け上がり、ドアを開いて家のなかに入りました。今日とおなじような、晴れた日の静かな午後。家のなかに入ったとたん、私は自分の直感の正しさを知ったの。家のなかは妙にひんやりしていて、すべてのものがぴたっと静止してました。お父さんの名を呼びながら、私はまずこの居間へ来たわ。お父さんはこのイージー・チェアにすわってたわね。両腕を肘かけに置いて、背もたれに体を頭を預け、軽く昼寝をしているような姿勢だったわ。彼の前へまわってフロアに膝をつき、彼の顔を見たの。目は閉じていて、ほんとに眠っているみたい。でも、その眠りは、長い長い眠りなのね。私は脈を取ってみました。彼の体は冷たかったわ」
 マリオンが彼をそのように発見したのは、イージー・チェアにすわったままの彼が死亡してから、三時間ほど経過したあとだったという。
「ほんとに気持ち良さそうに昼寝をしてるみたいで、私はうらやましさを感じたほどだったのよ。コーヒー・テーブルには、コーヒーの入ったマグがあったわ。半分ほど飲んであって。キチンで午後のコーヒーをいれた彼は、居間へ持って来てイージー・チェアにすわり、晴れた日の庭を見ながら、そのコーヒーを半分まで飲んだのよ」
 六か月前のその日、マリオンが帰ってから、僕はキチンへいってみた。おおざっぱな造りの、しかし使いやすそうな広いキチンだ。シンクの水切りの上に、父親のコーヒー・マグが伏せてあった。きれいに洗ってあった。おそらく舞子が洗ったのだ、と僕は思った。
 キチンの作業テーブルにはコーヒー豆の入った缶があった。父親はハワイ・コナのコーヒーしか飲まない人だった。その豆をグラインダーで挽いた僕は、湯を沸かした。そして父親のマグいっぱいにコーヒーをいれ、居間のイージー・チェアまで持っていった。ひとりでイージー・チェアにすわり、僕はコーヒーを飲んだ。
 六か月後の今日、おなじことを繰り返すつもりで、僕はこの家に来た。家のなかは半年前とまったくおなじだった。舞子が人を頼んで定期的に掃除をさせている。当分のあいだ、家のなかはそのままにしておきたい、と舞子は言っていた。整理したくない、ということだ。僕もおなじ意見だった。
 僕はキチンへいった。おなじ缶の豆でおなじマグに、僕は熱いコーヒーをいれた。マグを片手に持ち、僕はキチンを出ようとした。なにかを忘れているような気がした。僕は、ドアのところで立ちどまって振り返った。作業台の端に広げてある新聞を、僕の視界はその縁の部分でとらえた。
 作業台へ戻った僕は、その新聞をたたんだ。新聞とコーヒー・マグを持ち、僕はキチンを出た。居間へ戻った。コーヒー・テーブルにマグを置き、僕はイージー・チェアにすわった。オットマンを引き寄せて両足を乗せた。新聞は片手に持ったまま、僕は視線を正面に向けた。居間の広がりの向こうにガラス戸、そしてガラス戸の外は板張りのラナイだ。その外に、広い庭があった。
 日本ふうに造った庭だ。造園の本を参考にしながら、父親が少しずつ造った。その作業をする彼を最後に見てから、十年近くになるのではないか、と僕は思った。おおざっぱにひととおりぜんたいを造ったあと、定期的な草刈りのほかは、ほとんど手をかけることなしに十年が経過した。その結果として、無理をいっさい感じさせない、気持ちのいい庭となった。
 築山が優しく起伏を作り、思いがけないところに灯籠があった。父親は盆になると灯籠に蝋燭を灯した。蝋燭に火をつけ、灯籠のなかに立ててくるだけの動作でも、作戦行動中の兵士の動作のように見えた。今度の盆にはかならず舞子があの灯籠に蝋燭を灯すはずだ、と僕は思った。
 この家はゆるやかな登り坂の途中にある。庭の縁の向こうは、下っていくスロープだ。庭に重なって、遠くに海とその空が見えていた。海は広い意味で言ってヒロ湾だ。僕はマグを右手に持ち、ハワイ・コナの豆によるコーヒーを飲んだ。半分ほど飲んでからマグをテーブルに置き、僕は新聞を両手で持った。
 六か月前、父親が他界して一週間後にこの家に来た僕は、それから何日か、ここにひとりで泊まった。最初の朝、起きてすぐにシャワーを浴びた僕は、日本ふうに造ってある浴室の窓ごしに、新聞が配達されて来るのを見た。
 年式不明の、深い緑色の塗装がいたるところ剥げ落ちた大きなセダンが、庭の外のスロープに停止した。筒のように丸めた新聞を手に持って、運転席の男が窓から腕を外に出した。新聞受けに向けて、男は腕をのばした。新聞受けは支柱に支えられて地面に立っている、薄い鉄板による単なる筒だ。新聞をそのなかへ半分ほど押し込み、男は高いギア鳴りの音とともに、発進していった。雨が激しく降っていた。
 シャワーを終えて服を着た僕は、配達された新聞を取りに出た。激しく降る雨は粒が大きかった。敷地の外の新聞受けから新聞を抜き取り、ポーチの軒下へ戻って来るだけだったのに、僕はずぶ濡れに近い状態となった。新聞も完全に水に浸したかのように濡れていた。キチンの作業台の端に新聞を広げ、僕は浴室でシャワーを浴びなおした。
 いま僕が両手にかかげているのは、そのときの新聞だ。配達は中止してくれるよう、あの日に電話で頼んだ。全ページが濡れきったのち、広げられて乾燥した新聞は、紙面ぜんたいが細かく波を打っていて、感触はごわごわしていた。半年前のある日、一度だけずぶ濡れとなり、いまはとっくに乾いている新聞を、第一面から僕は順番に見ていった。新聞に印刷してあるさまざまなことが、マグに半分残っていたコーヒーと、交互した。
 かなりのページ数のある新聞を、最初のページから最後のページまで、僕は見ていった。父親は新聞を読むのが好きだった。いま僕が見出しの拾い読みをしている新聞は、父親が読みそこなった最後の新聞だ。彼が読みそこなった新聞の数は、一生をとおしてきわめて少なかったに違いないと思いながら、僕はその新聞をたたんだ。
 コーヒーを飲みほしたマグのかたわらに、僕は新聞を置いた。そして背もたれに体を預け、視線をまっすぐに前へとのばした。ガラス戸。ラナイ。ディテールを拾っていくと日本ふうである広い庭。そしてその庭が向こうの縁で終わると、いま僕の位置からだと、視線はいっきに海まで引き伸ばされる。家のなかと庭、そして海。このイージー・チェアにすわって視線を正面へと向けるたびに、父親はいま僕が見ているのとおなじ光景を見ていた。最後の瞬間にも、彼はこの光景を見ていたのだと思っていい。
 見そこなった最後の新聞と、最後の瞬間にも見ていたはずの景色。どちらも写真に撮ることが出来る、と僕は思った。新聞はかたわらのコーヒー・テーブルにたたんで置いてある。庭と海の景色はいつでもそこにある。一冊の本を作ることにかかわる、核となるべき最初のアイディアを、僕は数日前に思いついた。父親がこの家に残した写真、さまざまな記録、そしてその他の数多くの物を、ひとつずつすべて写真に撮り、年代順にならべて一冊の本を構成する、というアイディアだ。写真ごとに、少ない場合は一行、多くて五、六行の説明をつける。そのようにして出来ていく一冊の本は、僕と舞子の父親というひとりの日系二世が生きた、人生の記録となるのではないか。
 この家の居間の、いま僕から見える庭と海の景色の写真、そして父親が読みそこなった最後の新聞の写真が、その本の最後の二ページを作る。このアイディアについて、舞子はなんと言うだろう。賛成するにきまっている、と僕は思った。徹底した熱意で彼女は賛成するはずだ。
 父親は物持ちのいい人だった。七十五年の人生のなかで、自分の手にわたったものはなにであれすべて、この家のなかに保管してあるのではないか。この家にひとりで住み、それぞれの物にふさわしい撮りかたを工夫しては、ひとつずつ写真に撮っていくことについて、僕は思った。
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赤い帽子のバトロメ




「バトロメというハオレで、いつも絵を描きよった。画家よのう」
 僕の父親の父親、つまり祖父がかつて僕に語ったことを、いま僕はひとりで思い出している。当時の僕は、十歳になったかならないか、という年齢だった。昔話をするときの祖父の、楽しそうな笑顔やそれとよく調和していた口調も、僕は思い出す。
「赤いハットをかぶってばかりおったから、赤帽子のバトロメいうてね。ラハイナでは知らん人はおらんかったよ。背の高い男でね。ファースト・ネームは、なにいうたかね。覚えとらん。外のいろんな場所で絵を描きよるのを、毎日のように見かけたよ。暇なバトロメがまた絵を描きよるいうてね。見かけないと寂しい気持ちがしたもんじゃ」
 僕の祖父は山口県からハワイに渡った人だ。最終的にはマウイのラハイナに落ち着き、そこで農業技術者として成功した。大量の水を必要とする砂糖きび畑には、水を誘導するための水路が縦横無尽に掘ってある。険しい山あいからフルームで延々と引いた水を、まず貯水池にためておく。最適切な時間に貯水池の水門を開き、最適量の水を水路へと解放しなければならない。祖父はこの水門を造り、管理していた。昔から地元に住んでいる人たちのあいだでは、この水門はラハイナ・パンプとして知られている。
「祭りの日や記念日には、大きな額に収めた絵をいくつも、バトロメは町の人たちに見せよったよ。見にいったのを覚えちょる。晴れ着に着替えて、帽子をかぶってね。見なれた光景が、たいそうな額に収まって、見事な芸術になっちょる。誰もが感心したもんよ。わしは芸や芸能はいろいろ見てたけれど、芸術にはバトロメの絵で開眼したよ。家の外に出ればいつでもそこにある現実の景色と、バトロメがその景色を描いて額に入れた絵と、世のなかにはふたとおりあるんよのう。わしらはいつも現実のほうじゃったが、バトロメは額のかなに生きよった」
 僕に語った祖父の言葉を、この程度でよいなら、僕は紙の上に文字で再現することが出来る。
「ユーのファーザを、バトロメが絵のなかに描き込んだことが、ありよったよ。出来上がったときには、畳二枚ほどの大きなオイル・ペインティングでね。あんたのファーザが、ちょうどいまのあんたくらいじゃったか。あんたのファーザが学校から帰ると、ストアの前のおなじ場所で、何日も繰り返して、下絵を取りよったが。その頃のあんたのファーザは、まっ黒に陽に焼けた小さな腕白小僧じゃったが、バトロメの絵のなかに入りゃあ芸術よのう。マナリーサや耳なしのヴァン・ゴウとおなじじゃ」
 そんなふうに語って、祖父は皺の深い顔で笑っていた。彼の皺の深さは、幼い僕にとっては、祖父という人の体の強さの象徴のように思えた。これだけ皺が深くなっても、これだけ元気なのだから、というような受けとめかただ。マナリーサとは日本語で言うモナリザのことだ。そして耳なしのヴァン・ゴウとは、ヴァン・ゴッホの自画像のことだ。
 祖父から僕がこの話を聞いてから十数年後、僕が二十代の後半だったある日、なんの脈絡もなしにいきなりこの話を思い出した僕は、ほんとにあった話なのかどうか、父親に聞いてみた。父親は苦笑しながら首を振り、
「まったくの作り話だよ」
 と、答えた。まったくの作り話、という言葉を、コンプリート・ファブリケーション、と父親は表現した。
「バトロメというのはスティーヴン・バーソロミューという人で、ハワイを描いた画家としては有名な存在だよ。僕がラハイナで子供だった頃、バーソロミューもラハイナにいて絵を描いていたことは確かだけれど、バーソロミューの絵のモデルになった記憶は、僕にはまったくない」
 幼い頃に祖父から聞いたバトロメについての話を、僕は完全に信じていた。十数年後、父親によってその話が否定され、僕の信じかたは五十パーセントまで落ちた。そしてそのまま、さらに年月が経過した。
 いったん忘れてしまうと、次に思い出すまでに、かなりの時間を必要とするらしい。三十歳の夏のおわりに、僕はバーソロミューのことを思い出した。舞子に宛てた手紙のなかに、祖父から聞いたバーソロミューの絵のこと、そしてその祖父の話を完全に否定した父親の言葉など、すべてを僕は書いた。舞子に宛てる手紙に書くこととして、それは久しぶりに恰好の話題だった。舞子からすぐに返事が来た。そのなかの一節は次のようだった。
「ほんとにびっくりしました。私たちの父親と祖父とに、バーソロミューが少しでも関係しているという話を、私は初めて聞きました。スティーヴン・バーソロミューは残念ながらいまは故人です。ハワイの、たとえば画廊で仕事をしている人たちなどのあいだでは、彼の名はたいへんよく知られています。昔のハワイの田舎町の生活感を、生き生きと描写した油絵を数多く残し、彼の作品を熱心に求める人たちはいまもたくさんいて、作品の多くは故人の所有になっているそうです」
 僕に宛ててこのような返事を書いたあと、舞子は引き続きバーソロミューについて調べたらしい。その結果を彼女は手紙で僕に教えてくれた。バーソロミューについての研究家がオランダに在住していることを、舞子はつきとめた。当時七十歳の女性で、画家としてのバーソロミュー、個人としてのバーソロミュー、彼が残した絵画作品、そして彼が生きた時代のハワイについて彼女がおこなった研究は、事実の調査が細かく的確で、洞察は深くいきとどいているということだった。
『バーソロミューは日記をつけていた人で、その全冊が残っていて保存されているそうです。私たちの父親が十歳くらいだった頃、彼がバーソロミューの絵のなかに描き込まれた可能性があるかどうか、彼女に調べてもらったのです。バーソロミューについて調べるのは、それがどんなことであれ、彼女にとってはたいへんに楽しいことのようです。返事はすぐに届きました。コピーを同封します』
 いつもとおなじく、手紙を綴っていく舞子の文章は、冷静さそのものだった。同封してあったバーソロミューの研究家の返信のなかで、もっとも重要な部分は次のように書かれていた。
『お問い合わせいただいたお手紙のなかに、バーソロミューの絵のモデルを務めた可能性のあるラハイナの少年の名前を、あなたは書いてくださいました。たいへんに重要な手がかりです。その名前と年代を頼りに、日記を検索しました。お問い合わせのような出来事は、確かにあった、と断言してよいようです。問題の作品は「雑貨店の音楽」という題名で、この絵を制作していた頃のバーソロミューの日記に、「ウクレレを弾いているのはジェフリー・Kという地元の日系の子供」という記述を見つけました。Kはキタムラの略と考えて間違いないと思います。お問い合わせいただいたおかげで、このKという頭文字の謎が解けました。この絵には、当時のラハイナにあったニシハラ・ストアという雑貨店の正面のぜんたいが、描かれています。晴れた日の午後遅い時間です。店の前の道には陽が当たっていますが、板張りの歩道は影になっています。中央に店のドアがあり、店のなかの様子が描いてあります。まさに古き佳きハワイです。ドアの脇に窓があり、その窓の前に木製の簡素なベンチが置いてあります。そのベンチの片方に少年がすわり、熱心にウクレレを弾いています。ベンチのもういっぽうの端には、ポリネシア系の中年の男がすわっています。彼が少年にウクレレを教えていることは明らかです。ベンチのすぐうしろの窓ガラスには、道の向かい側にある店が、写っています。その店のガラスに雑貨店が写っている様子を、雑貨店の窓ガラスが受けとめているという複雑なしかけをも、この絵では楽しむことが出来ます。ニシハラ・ストアという店名は、その写り込みのなかに読み取れるのです』
『雑貨店の音楽』というその油絵は、ハワイを第二の故郷としているベルギー人の富豪の所有となっていて、スイスにある別荘の居間の壁に掛けてある、ということだった。その富豪の名前と住所を、研究家は手紙のなかに書き添えていた。
 祖父がかつて僕に語った赤い帽子のバトロメの話は、事実であったことが以上のように判明した。何年あとのことになるかわからないが、いずれはふたりでその富豪をスイスの別荘に訪ね、『雑貨店の音楽』という絵を見せてもらう時を持とう、と舞子と僕は語り合った。自分たちの父親が十歳だった頃の姿を、絵画のなかに見ることが出来る。その姿を初めて目にする瞬間は、僕たちにとって貴重な一瞬となるはずだ。
 僕たちの父親は、ウクレレを弾かせると、名手と言っていい腕前だった。ウクレレを弾くのが好きであるとか、音楽の才能がある、あるいは楽器を器用にこなす、といったことに起因する腕前ではなく、ウクレレそのものに心の底から固執していたがゆえの腕前だったのではないか、と僕はいまでも思っている。
 二世部隊の一員としてイタリーからヨーロッパを転戦した期間ずっと、彼はウクレレを持っていた。最初から最後までウクレレを持って戦ったアメリカ兵として、彼の名はいくつかの戦記のなかに登場している。志願したときにウクレレを持っていったという話が、なかば伝説として、生き残った戦友たちによって語られていた。
 アメリカからイタリーへ向かう輸送船のなかから、彼はウクレレの弦をアメリカ陸軍に請求した。ウクレレの弦は上陸地点で彼に支給された。これは本当の話だ。支給されたばかりの弦をウクレレとともに持ち、屈託なく笑っている若い兵士であった彼の写真を、僕は見て記憶している。
「敵地に上陸して僕が最初にやったことは、ウクレレの切れた弦を張り換えることだったよ」というのが、彼の語る兵士としての体験談の、唯一のものだった。「張り換えた弦を調弦して、コードをひとつ弾いたとき、涙があふれ出てね。請求したこの弦を自分に届けてくれた国のために、僕は思いっきり戦うのだ、とそのとき決意したよ」
 この話のほかには、その戦争について彼はいっさい語らず、兵士としての自分の所持品や記念の品、写真などいっさいを、彼は博物館に寄贈した。ただし戦場を持って歩いたウクレレだけは、いまでも自宅にある。いろんな物がぎっしりと収納してある部屋の、棚の上になにげなく、それは置いてある。
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いつもその窓から見ていた




 僕の父親が晩年にひとりで住み、息を引き取った家は、ハワイの普通の民家にしては複雑な間取りをしている。複雑というよりも、凝っている、と言ったほうがいいだろう。そしてその凝りかたの方向は、そこに住む人の快適さへの配慮であり、結果として間取りぜんたいはたいそう洒落ている。東京に自分の家を作ることがもしあればこの家を真似すればいい、と僕はかつて思った。
 ポーチの階段を上がり、正面のドアから家のなかに入ると、この家の内部でのパブリックなスペースのいちばん手前に、身を置くことになる。間取りぜんたいが占めるスペースのおよそ三分の一が、パブリックなことのためのスペースとなっている。父親がイージー・チェアにすわったまま他界した居間は、そのパブリックなスペースの中心に位置している。
 パブリックなスペースから廊下を曲がりながら奥へと入っていくと、そこはいつのまにかプライベートなスペースだ。パブリックなスペースとプライベートなスペースとを、区切ると同時につないでもいるのがこの廊下だ。この廊下も魅力的に出来ている。僕はこの家ではこの廊下がいちばん好きかもしれない。
 廊下の途中に本棚がある。柱と柱とのあいだがきっちり三メートルの部分があり、その部分の壁をフロアから天井までふさいで、本棚が作りつけてある。父親が自分で作った本棚だ。この本棚に、父親がかつて自分のものとして手にして、少しでも読んだり眺めたりした本や雑誌、つまり市販された印刷物が、すべて収めてある。自分の手に渡ったものは、それがなにであれ、父親は捨てたりなくしたりはしない人だった。すべて保管しておく人だった。本や雑誌に関しても、彼はそのルールを守った。
 少年の頃に読んで勉強した本から、最晩年に手にした歴史の本にいたるまで、かつて父親のものだった本は、すべてこの本棚にあるのではないか。横幅が三メートルで六段の本棚には、かなりの収納力がある。読書家と呼べるタイプの人ではなかったが、基礎的な勉強をするなら本がもっとも効果的で安価だ、と父親はよく言っていた。多少のゆとりを残して、本棚の棚はすべて本と雑誌で埋まっていた。
 横幅三メートルの本棚の前で、端から端まで何度か往ったり来たりしながら、僕は棚に収まっているたくさんの本の背を眺めた。いちばん上の棚の左端からいちばん下の棚の右端に向けて、父親の人生に経過した時間が、そのとおりの順番で流れているのではないか、と僕は思った。ならんでいる本の外観からだけでも、その思いは確認することが出来た。いちばん下の棚の右端に向かうにしたがって、時間は新しい。
 僕は一冊ずつ背の英文字を読んでいった。そしてふと腕をのばし、なにげなく一冊の本の背の頂上に指をかけ、その本を引き抜いた。両手に持ったその本の表紙に視線を落としたとき、僕はその視線に手ごたえのようなものを感じた。この本をかつて自分はいまとおなじように、この本棚から引き抜いて手に持ったことがある、という直感が生み出す手ごたえだ。
 充分に時間が経過した結果である、その本ぜんたいの古びた感触を、僕は両手で受けとめた。表題を読んだ。確かにこの本だった、間違いない、と僕は思った。そして表紙を開いた。開いてすぐ左側、つまり表紙の裏に、自分の名前、そしてこの本を手に入れたときに住んでいた場所の所番地を日付とともに、父親は万年筆で書き込んでいた。無理なくきれいに流れていくような、必要にして充分な力強さのある、僕には真似の出来ない筆跡だ。僕はその筆跡を視線でたどった。
 所番地を僕は読んだ。カリフォルニア州のフレズノという町の、とある所番地だ。その所番地には、僕も身に覚えがあった。なぜなら僕は、その所番地の場所を、かつて訪ねたことがあるからだ。この本だ、間違いない、かつてもこの本をなにげなくこの本棚から引き抜き、表紙の裏に父親が書いた所番地を頼りに、その場所を僕は訪ねた。
 そのときもそしていまも、その本はまったくおなじ位置にあったのだ。時をへだてて二度、なにげなく、僕はおなじ本を手に取ったことになる。おなじ僕だからだ。おなじ僕だから、本棚の前のおなじ場所に立ち、おなじ方向へ手をのばし、おなじ位置にあったおなじ本を、抜き取ったのだ。
 時をへだてて、といま僕は書いたが、それほど昔のことではない。僕が二十八歳のとき、仕事で東京からハワイへ来て、僕はこの家にも何日か泊まった。父親はまだ健在だった。そのとき、いまとおなじようにこの本棚の前に立ち、僕は棚のなかの本を観察した。なにげなく手をのばして引き抜いた一冊の本が、いま僕の手にあるのとおなじ本だった。
 表紙の裏に父親が書いた名前と所番地を見ていて、僕はひとつのアイディアを得た。東京へ帰る前にカリフォルニアへいき、この所番地の場所を訪ねてみたら興味深いものがあるのではないか、というアイディアだ。僕は手帳に所番地を書き写した。まだ三十代前半の年齢だった父親が、ひとりで住んでいた場所だ。自分の名前の下に、部屋の番号、ホテルの名、そしてフレズノにおけるその所在地が、表紙の裏には書いてあった。いまふたたび、僕はそれを見ている。
 閃いたアイディアのとおり、ハワイでの仕事を終えた僕は、東京へは戻らずにカリフォルニアへ向かった。到着した次の日の午後には、僕はフレズノにいた。手帳に書き写した所番地は、昔となんら変わることなく、そのままに現役だった。いまもそうだと思う。通りも建物も、存在していた。
 しかしその建物はホテルとしては使われていず、部屋ごとに小さなオフィスとして賃貸されていた。一九三〇年代には確かにホテルだったのだが、回転の早い部屋があると同時に、長く居ついてしまう人もいるという、底辺から少しだけ上がったあたりに位置する、商人宿のようなホテルだった。僕の父親は、手に入れた本にそのホテルの部屋番号と所番地を書いたほどだから、かなりの期間にわたってそこに滞在していたのではなかったか。
 昔はホテルで、僕が訪ねたときには貸しオフィスとなっていたその建物は、ものの見事に一九三〇年代のアメリカだった。フレズノのそのあたりは、街なみそれじたいが、時間のなかを過去に向けて存分に滑空して停止した場所、という雰囲気を濃厚にたたえていた。かつてはホテルだった建物を簡単につきとめたあと、僕はエイヴィスで借りた自動車であたりを走りまわって観察した。
 そしてオフィスの建物へ戻った。建物の前に駐車することが出来た。写真機や交換レンズなど、撮影機材として最小単位のものが収まっているバッグを肩にかけ、僕はその建物に入った。エレヴェーターのない三階建てだった。父親が本の表紙裏に書いた部屋の番号は204号だった。おそらくはホテルだった当時のままに、ドアには204号という数字のある楕円形のプレートが取り付けてあった。
 オフィスぜんたいが静かだった。借り手のない無人の部屋も、いくつかあったのだろう。内部の作りは昔ふうな様式で、どこを観察しても、ここはいつの時代だろうと思ってしまう。手入れは思いのほかよかった。うらぶれた雰囲気、あるいは荒れた感触、汚れた様子などは、どこにもなかった。204号室のドアの前に立ち、僕はしばらく思案した。
 楕円形の番号プレートの下には、横に長い長方形のプレートを受ける枠が取り付けてあり、マイケル・H・D・リーという名前、そしてその下にはただ単にオフィスとだけ、黒いインクのフェルト・ペンで書いてあった。いまこの部屋はマイケル・H・D・リーという人のオフィスなのだ、と僕は思った。そう思ったまま、その先をどうすればいいものか、僕はさらに思案した。
 いきなり、そのドアが開いた。ドアは大きく開き、中国系の四十代の男性がひとり、大きな歩幅で元気に、廊下へ出て来た。ドアをうしろ手に閉じながら、彼は僕を一瞬のうちに評定した。ただの東洋系の青年だと判断した彼は、僕に対して最初からある程度以上の親しさを込めて、淡く微笑した。
「僕は昨日ハワイからカリフォルニアへ来たのですが、そのハワイには僕の父親が住んでいて、彼はこの建物がホテルだった一九三〇年代に、この204号室にかなりの期間にわたって滞在していたのです」
 と、僕は彼に言った。彼は僕の言葉を受け取り、呑み込み、咀嚼した。僕のそのひと言から、彼は僕の父親の人生経路を、彼なりに推測することが出来た。推測したものに対して共感を抱き、その延長として彼は僕に右手を差しのべた。僕たちは握手を交わした。
「すぐに戻って来るから部屋のなかで待っていてくれ」
 と言い残し、彼は階下へ降りていった。僕は204号室に入った。壁はすべて本棚でふさがれていた。フロアにも人がどうにか歩けるほどの間隔だけを取って、本棚がいくつも所狭しと立っていた。どの本棚のどの棚も、資料の紙や本、雑誌などで埋まっていた。窓ぎわにデスクと椅子があった。タイプライターを中心にしたデスクの上の様子から、マイケル・リーは資料の山を相手にしながら、ここでなんらかの執筆活動をしているのだ、と僕は判断した。
 彼はすぐに部屋に戻って来た。『カリフォルニアで働いた』というタイトルで、カリフォルニアにおける中国人の歴史を書いているのだ、と彼は説明した。なぜ自分がここを訪ねて来たのか、そのいきさつを僕は彼に説明した。僕の話に彼は興奮していた。興奮は本物だと僕は判断した。久しぶりに体験する面白い話だ、と彼は言った。
 窓ごしに見える景色を写真に撮りたい、と正面の窓を示して僕は彼に言った。その写真をプリントし、ある日さりげなく父親に見せる。それを見て父親はなんと言うか。そのような実験をするために、部屋の窓から見える景色を写真に撮りたくて、僕はフレズノにあるその建物を訪ねた。
 窓から見える外の景色を、僕は写真に撮った。うしろにある本棚まで下がると、四十ミリのレンズで窓がちょうど画面いっぱいに収まった。目的としていた写真は確実に撮れた。
「お父さんに写真を見せたなら、ああ、フレズノのあの部屋の窓からいつも見えていた景色だ、と即座に言うはずだよ。きっとそうさ、間違いない」
 と、マイケルは言った。
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失われた路面電車




 ワイキキ、というハワイ語の意味は、湧き出る水だ。マノアとパロロそしてマキキの、三つの谷から流れ落ちて来る水、そして地表へと出てきた地下水とが、ひとつになった水だ。遠い昔の、まだなにもなかった頃のワイキキには、その水によって沼地が維持されていた。あひるの池、水田、たろ芋の田んぼなどに、人びとは沼地を利用した。ただの沼地のままの部分も広くあった。山を越えた貿易風が沼地の水面の上を吹き渡ると、その風は涼しくほのかに甘く、体に受けてたいそう快適だった。
 イオラニ宮殿のあるあたりは、常に赤い土埃の舞う、暑くてかなわない場所だった。そこからワイキキまで出て来ると、ワイキキは別天地のように思えた。だから王家の人たちや貴族たちは、ワイキキに別荘を持っていた。海岸があり、そこからの海は遠浅のリーフで、魚がたくさん捕れた。
 波乗りのためのいい波の出来る場所が、沖にはいくつもあった。それらの場所は、いまの呼び名だと、パブリックス、クイーンズ、ポピュラーズなどだ。そのうちのひとつ、昔の名でカレハウエと呼ばれた場所は、貴族たちの専用だった。一般の人たち、つまり平民がそこで波乗りをすると、彼らは厳罰に処せられた。
 水田や沼地の広がり。それを取り囲んで縁取るココナツの林。特徴のある景色としては背景に重そうに横たわるダイアモンド・ヘッドだけというワイキキの村は、一八六〇年代になると、宮殿のあるダウンタウンと道路で結ばれた。一八八〇年代には驢馬の牽引する乗り合いバスが、ダウンタウンとワイキキとのあいだを往復していた。一八八八年には電気で走る路面電車が開通し、定期運行を始めた。
 道路が出来て路面電車が走るまでになるとは、水田や沼地が少しずつ埋め立てられていった、ということだ。デイヴィッド・カラカウアのボート・ハウスやカイウラニ王女の家などのほかに、金持ちたちの家もワイキキに増えていった。
 一八九〇年頃には、ワイキキに一本の桟橋が出来ていた。船が発着するためのものではなく、人が散歩するための桟橋だ。現在のカラカウア・アヴェニューから海岸をまたぎ、遠浅の海に向けて七十メートルほど、その桟橋はまっすぐに突き出ていた。
 その桟橋から撮影した古い写真を見ると、ウオルター・マクファーレンやウオルター・ピーコックの家、そしてウオード・ハスタンス家やジャド家の建物などが、すでに建っていたことがわかる。少し遠いけれど、ダイアモンド・ヘッドの突端には、J・B・キャッスルの家もあった。
 この当時、アメリカ本土から客船に乗って太平洋を越え、ハワイまで遊びに来ることが出来たのは、裕福な上流階級にかぎられていた。優雅に遊ぶことだけを仕事にしていた人たちが、ハワイという最新のリゾートで遊ぶことが出来た。ワイキキには個人のバンガローがたくさんあり、シーサイド・ホテルという名のホテルがすでにあった。しかしアメリカからの観光客の多くは、ダウンタウンのホテル・ストリートにあった、たとえばハワイアン・ホテルに、宿泊しなければならなかった。
 一八八四年にはサン・スーシが出来た。これは個人のバンガローを少しだけ大きくしたようなものであり、ワイキキのホテルと呼ぶには能力に限界があった。完成して五年後、イギリスの作家ロバート・ルイス・スティーヴンスンが、このサン・スーシに滞在した。ハワイそしてワイキキを、彼は気にいったようだ。存分に讃えた文章を、彼は書き残している。
 一八九八年にハワイはアメリカの領土に併合された。カラカウア王の政府で内務省の長官を務めていたジョン・ジョージ・ロスウェルという人物は、この領土併合によってアメリカからの観光客が増えるに違いないと判断した。十万ドルの資金を用意した彼は、ワイキキで最初の、大きなホテルの建設をスタートさせた。
 ウオルター・ピーコックの家とカピオラニ王女の家の敷地を得て、そのホテルは一九〇一年に完成した。モアナ・ホテルだ。最初の計画では、コテージをたくさんならべただけのものだったが、計画は次第に大きくなっていき、予算を五万ドルほど超過した上で、白い木造四階建ての美しい堂々たる建物となった。一九〇一年の三月十一日に、モアナ・ホテルは営業を開始した。
 こんなに大きな建物を造っても宿泊客には不足するに違いない、と人々は笑っていた。しかしモアナ・ホテルは、最初から盛業が続いた。太平洋のファースト・レディあるいはワイキキのファースト・レディと呼ばれるようにいたった七十五室のこのホテルは、階ごとに家具や調度の材料が異なり、テーマも変化していた。一階はホワイト・オーク。二階はオーク。三階はマホガニー。そして四階はメイブルだ。
 専用の発電装置を持ち、屋上にはルーフ・ガーデンがあった。別棟のダイニング・ルームは建物の裏にあり、海岸に向けて高床式で突き出ていた。三百人を収容することの出来たこのダイニング・ルームの一階は、海岸を使う人たちのための更衣室だった。
 モアナ・ホテルが完成して間もない頃の写真を見ると、海岸を縁取っている林のなかに平屋建ての個人の家がならぶだけという景色のなかに、モアナ・ホテルが一軒、忽然とあらわれたという印象だ。ニュー・イングランドの海岸に置いたほうがはるかに似合いそうな、コロニアルふうのテラスやクロイスタード・ヴェランダ、そしてインドから取り寄せた汚れのしみ込まない石で造った六本の円柱に支えられて、車寄せの上に大きく張り出した高い屋根など、どの部分を見ても、当時のワイキキにおける唯一無二の名物建築として、充分に風格のあるものだ。強い陽ざしのなかで、屋根はオレンジ色に輝いていた。
 バンヤンの樹の下で演奏される音楽。それになかば合わせて人々は踊る。その途中、桟橋へいってみる。そこにもビーチボーイたちの音楽があった。月光を受けとめる海。その上を吹き渡る風。完全に消え去ってもはや跡かたもない、昔のハワイだ。桟橋は一九三〇年に取り壊された。
 道路を舗装する技術が、当時はまだなかった。ローラーで固めたり、海水を撒いたりした。海水はすぐに乾燥して塩となり、そのせいで道はいつも白かった。カリフォルニアから燃料として運んで来た、精製されていない石油を散布することもおこなわれた。いずれの方法でも、うまくいけばしばらくは道路は固まった。しかし、雨が降ればたちまちすさまじいぬかるみの世界となり、乾けば赤い土は風に剥ぎ取られ、土埃として縦横に舞った。そのなかにモアナ・ホテルは気品をたたえて白く端正に立ち、その前の道路を路面電車が走った。
 ワイキキのリクラメイション・プロジェクト、と称する開発事業が一九二二年に開始された。沼地や水田を埋め立て、湧き出る地下水は止めてしまい、谷からの水は水路を造ってそこを流れるようにしよう、という開発だ。一九二三年には、マコーリーからカパフル・アヴェニューまで、水路が姿を見せるようになった。掘った土はワイキキの埋め立てに使うはずだったのだが、まず最初はマッキンレー・ハイスクールの敷地を造るために使われた。
 一九二五年、運河は完成した。名称が公募された。わずか五名の応募があったという。ハワイらしさとして注目したいことだ。そしてこの五名のうちのひとりは、当時のホノルル市長の奥さんであり、彼女の考えたアラ・ワイ・カナールが、正式な名称として採用された。驚くなかれ、アラ・ワイとは水路のことなのだ。
 一九二七年にはロイアル・ハワイアン・ホテルが完成した。このホテルが建設されているときにも、地元の人たちは笑っていた。もとは沼地の上にこんな大きな建物を造ったなら、出来たときには沼に沈んでいるだろう、というのだ。完成したあと、建物は少しだけ傾いた。傾きは修正された。
「子供の頃、建設作業をよく見物して遊んだよ。ダウンタウンから路面電車にただ乗りして、ワイキキまで来るのさ。体の大きいポリネシアンの車掌が、子供を追い払うのを真剣な遊びにしてた」
 と、僕は父親から聞いたことがある。
 一九〇一年に完成してからずっと、モアナ・ホテルはワイキキにあり続けた。左右の両翼が一九一八年に加えられ、それ以後も、改修や増築が何度も繰り返された。一九六〇年代の終わりくらいまで、モアナは独特な雰囲気をなんとか保っていた。そしてそれ以後は、ジャンボ・ジェットで大量に運ばれて来る大衆観光客によって踏み荒らされ、見る影もなくすさんでしまった。
 二年近く休業したモアナは、徹底的な復元作業をほどこされ、一九八五年の初めに営業を再開した。オリヴァー・P・トラファゲンの引いた図面は失われて久しい。昔の絵と写真を頼りに、復元は少しずつ進められた。天井をはがすと、昔の天井がその奥にあった。
 何度も重ねて塗った塗料や壁紙、プラスターなどの下に、昔が閉じ込められていた。壁紙を一枚ずつ剥がしていくと、最後にオリジナルの壁紙があらわれたりもした。可能なかぎりオリジナルに近い状態へ、モアナ・ホテルは復元された。
 沖の海へ出てサーフボードにまたがり、ワイキキを見渡す。高層のホテルがびっしりと建っている様子を、海から観察することが出来る。サーファー用語で言うところの、ワイキキの長城だ。太陽が西へまわりきり、海に向けて落ちていく頃になってようやく、重なり合う不細工な高層の建物のなかから、ロイアル・ハワイアン・ホテルのピンク色の建物を、太陽の光は選び出してくれる。そのすぐ近くで、モアナ・ホテルの白い建物も、かろうじて西陽を受けとめている。
 いまのワイキキには現在だけがある。これからも、そのときどきの現在だけを、ワイキキは持つのだろう。昔は、もはやどこにもない。空から降って来る陽ざしですら、科学的に検討するなら、その質は昔とは大きく異なっている。
 風も、数多い建物に邪魔されて、昔とおなじようには、吹き渡らないはずだ。香りも昔とは違っている。燃焼した大量のガソリンの匂い、メントール煙草の煙、陽に照らされたアスファルト舗装の匂い、路線バスの排気、ファースト・フードの油の匂い、サンタン・オイルの匂いなど、いまの匂いをかたっぱしから心のなかの消去法で消していくと、そのかなたに、ほんのかすかに、きわめて淡く、路面電車の頃のワイキキがある。
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写真に添えたひと言




 幼児用のショート・パンツが見るからに小さい。その小ささを、可愛い、と形容してもいい。写真のなかの三歳の男のこが、そのショート・パンツを身につけて、砂浜に立っている。男のこはTシャツを着ている。体にぴったりしたTシャツだ。ぜんたいにわたって、規則的に横の縞模様だ。そのスナップ写真は白黒のプリントだから、たとえば縞模様の縞がなに色なのか、わからない。
「横縞の色は赤」と、アルバムの台紙に貼ってあるその写真のすぐそばに、英語でひと言、書き添えてある。台紙は黒だ。書き添えた文字の色は色鉛筆の白だ。僕の父親が書いた。僕がまだ三歳だった頃に。貼ってあるスナップ写真のなかの男のこは、この僕だ。
 三歳の僕は海を背にして立っている。鎌倉の海だ。僕にとって初めて見る海だった。写真のなかの僕は、明らかにべそをかいている。いまにも泣き出しそうな顔だ。あるいは、ついさっきまで泣いていて、ようやく泣きやんだ顔のように見える。その僕からうしろへ十数メートルのところが、波打ち際だ。
 鎌倉には父親が借りていた夏の家があった。三歳のとき僕はその家へ初めていった。そして初めて海というものを見た。曇った日だった。海は灰色を混ぜた重い緑色をしていた。僕の嫌いな野菜ジュースにそっくりの色だった。こんなにたくさん野菜ジュースがある、というのが海を初めて見た僕の感想だ。
 写真のなかの僕は裸足で海岸に立っている。誰かに手を引かれて、小さなショート・パンツに小さな赤い横縞のTシャツを着た僕は、砂浜を波打ち際に向けて歩いたのだ。そして僕は泣き出した。波が怖い、と言って僕は泣いた。そのとき見た波の記憶が、頭のなかの記憶空間のずっと後方に、いまもかすかに残っている。
 曇ってはいるけれどごく平凡な夏の日に、波打ち際に寄せて来る、ごくおだやかな砕け波のいちばん最後の部分だ。寄せて来るその波は、僕の視界を左右いっぱいにふさいで、横一列に立ち上がっていた。三歳の子供の視点から見ると、せいぜい二、三十センチの波でも、高くて大きなものに見えたはずだ。それにその波は横に長くつながって、自分に向けて動いて来る。それまで聞いたことのない怖い音を立ててもいた。波打ち際へ波が寄せて来るときの、あの音だ。
 三歳の僕は立ちどまった。手を引かれても動こうとはしなかった。そして泣き出した。海が怖いと言って僕は泣いた。父親がいっしょにいたことは記憶している。ほかに誰がいたのか、僕は知らない。写真もない。アルバムに貼ってあるのは、べそをかいている僕の写真一枚だけだ。
 鎌倉へいくまえに、すでに僕はかなり強くそのことを嫌がった、という話を僕は聞いたことがある。鎌倉の海へいくのだと言って、父親は僕に地図を見せた。いま住んでいる家があるのは東京のここで、鎌倉は海のすぐ近くのここだよと、父親は地図のなかの鎌倉を指さした。この青いところはみんな海なんだ、と父親はつけ加えた。地図の上で見ると、鎌倉というところは、その大きな海のすぐそばだった。そんなに海のそばまでいったら海に落ちるから嫌だ、と僕は言ったそうだ。
 鎌倉の海岸でべそをかいている僕の写真は、白い縁に囲まれた一辺が五センチほどの正方形だ。経過していく時間のなかで、その白黒のプリントは、ぜんたいがかすかに黄ばみ始めている。この写真が貼ってあるページから何ページかあとに、海岸にいる僕の写真がもう一枚、貼ってある。この写真のなかの僕は、十三歳の夏の僕だ。
 これも白黒のスナップ・ショットだ。おなじく正方形で、さきほどのプリントにくらべると、ふたまわりほど大きい。白い縁に囲まれているが、縁の外側は不規則な波のようなかたちをしている。ぎざぎざでもなければゆったりでもない、その微妙な中間の波型だ。
 海岸は晴天の日のワイキキだ。僕がひとりで写っている。十三歳の僕は水泳トランクスをはき、身長の二倍もありそうな波乗りのボードの一端を砂に立て、自分に向けて傾いて来るそのボードを、両腕をのばして支えている。その様子を横から撮った写真だ。僕は写真機に顔を向けて笑っている。
 きみは今日は波乗りをするのだと父親は言い、自動車に僕を乗せてワイキキへ向かった。父親が子供の頃から知っていたアーネスト・フジシゲという二世の男性の自宅に立ち寄った。アーネストもいっしょにワイキキへいった。ほかにも誰かいたような気がするけれど、僕は記憶していない。
 晴天と言うよりもかんかん照りのワイキキ・ビーチは、裸足の足に砂が強烈に熱かった。アーネストがロング・ボードを一本、どこからか借りて来た。重いボードだった。波打ち際へ持っていき、浮かべたボードに腹ばいになり、アーネストは両腕によるパドリングの要領を僕に教えてくれた。
 代わって僕が腹ばいとなり、アーネストと父親にボードを押してもらい、僕は覚えたばかりのパドリングの真似事をしながら、沖へ出ていった。沖と言っても、あの遠浅のリーフの存分に内側だ。リーフの内側の浅瀬を、砕け波の最後の部分が、ワイキキの海岸に向かっていく。その波に乗って、と言うよりも表面にくっついて、岸まで運んでいってもらうだけだ。
 僕が腹ばいになっているボードを、アーネストと父親がタイミングを取り、力いっぱいに押し出してくれた。ボードは波に乗った。効果のほとんどないパドリングを僕は懸命に続けた。砕け波の最後の部分とは言え、それなりの速度を持っていた。その速度で、海のほうから海岸に向けて進んでいくのは、たいへん爽快な、しかも初めての体験だった。波打ち際のすぐ近くまで、僕は到達した。
 ボードを降りて向きを変え、腹ばいになり、僕は沖に向けてパドリングをおこなった。いっこうに前へ進まない様子に、アーネストと父親が波の向こうで笑っていた。泳いで来た彼らが、うしろからボードを押してくれた。さきほどとおなじ位置までいき、そこで再びボードの方向を転換させた。そして大人たちふたりの助けを借りて、僕は砕け波に乗った。
 ボードの上になかばしゃがんだような姿勢で、僕はボードとともに海岸に向かった。両手をボードについて上体を支え、右膝をボードにつけたまま右足をうしろへ引き、顔を上げて僕は正面を見ていた。波と僕との間に介在する、重くて大きいサーフ・ボードという物体を全身で引き受けなければいけない感覚を、僕は初めて知った。その感覚はいまもくっきりと覚えている。
 立ち上がろうとした僕は、バランスを崩してそのまま海へ落ちた、と僕は記憶している。もっとも初歩的な波乗りを、ワイキキ・ビーチで、僕はこのようにして体験した。アルバムに貼ってある写真は父親が撮った。砂にサーフ・ボードを立て、両腕をのばして斜めに支えると、僕の体はちょうどサーフ・ボードによって出来る影のなかだった。
 その影のなかから、十三歳の僕は、父親が構える写真機に顔を向けて笑っている。この写真のかたわらに、銀灰色のようなインクを使って、「今度は泣かなかった」と、英語による父親のひと言が書き添えてある。その筆跡を僕は見る。ほとんどなんの感慨もないけれど、かつて父親がこのひと言を書いたことは確かだ。その確かさだけが、アルバムの黒い台紙の上に、筆跡となって残っている。
「今度は泣かなかった」というひと言は、鎌倉で初めて海を見た三歳の僕が、波が怖いと言って泣いた事実の延長線上に、位置している。ロング・ボードによる初歩の波乗りを終えたあと、カラカウア・アヴェニューに面したアイスクリーム・パーラでアイスクリームを食べたとき、「今日は泣かなかったな」と、父親は僕に言った。
 この写真が貼ってあるページの向かい側のページにも、海のすぐ近くで撮った写真が一枚、貼ってある。これは横置き長方形のカラー・プリントだ。白い縁に囲まれ、その縁の外側は不規則な波のように切ってある。晴天の日に強い直射光のなかで撮ったものだ。空の青さやピックアップ・トラックの赤が、そしてそれ以外のどの色も、発色はすっきりと鮮明に透きとおっている。
 道路わきの赤土の部分に、徹底して使いこんだフォードの赤いピックアップが停まっている。そのピックアップのぜんたいが、左側の斜めやや後方から、画面にとらえてある。ピックアップのテイルゲートは下ろしてあり、左右のサイド・パネルの上にロング・ボードが一本、渡してある。荷台の上で父親がそのボードにすわっている。
 左のサイド・パネルから少しだけ突き出ているボードの先端に、姉の舞子が水着姿で立っている。ハング・テンのポーズをきめた彼女は、左の肩ごしに振り返り、写真を撮ろうとしている人に視線を向けている。十七歳の舞子だ。そして僕は、さきほどの写真とおなじ十三歳だ。ピックアップ・トラックの左の前輪フェンダーのかたわらに、手製のベリー・ボードを抱えて立っている。その僕は波乗り用のトランクスにビーチ・サンダルを履いている。
 十三歳のときに日本へ来た舞子は、十六歳の秋に日本をあとにした。カリフォルニアへ戻る前に、しばらくハワイに滞在することになっていた。舞子がまだハワイにいた夏に、僕も父親とともにハワイへいった。舞子と会うことが出来た。アルバムに貼ってあるこの写真は、そのときマウイで撮ったものだ。写真には三人しか写っていないが、撮ったときほかに何人かいたはずだ。いつのどこのことにせよ、ほかに誰がいたかを記憶しないのは、幼い頃からの僕の癖のひとつだ。
 このきれいなカラー写真のかたわらには、「彼女は波の上を歩く」と、さきほどのとおなじ銀灰色のインクで、父親は書いている。彼女とは舞子のことだ。そして波の上を歩くとは、舞子の波乗りの、優美さそのもののような腕前のことだ。秋に日本からハワイへ戻った舞子は、次の年の夏にはすでに、ロング・ボードの上を自在に歩き、ハング・テンをきめることが出来るまでになっていた。ベリー・ボードに腹ばいとなった低い視点から、僕はロング・ボードの上の舞子を何度となく見た。
 写真のなかの十七歳の舞子を僕は見る。ピックアップ・トラックの両側のパネルに横たえたロング・ボードの先端で、彼女はハング・テンのポーズをきめている。左肩ごしに振り返っている彼女の美貌に対して、髪をうしろでひとつにまとめているゴム紐の、赤いふたつの飾り玉は、この頃の彼女が振り落としつつあった幼さの名残の、最後の部分だ。
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買って来たピッツアとロウソクの明かり




 僕のビートルの前を走っていたマーキュリーのステーション・ワゴンは、ハレイワの町のなかで右折した。曲がっていくときに僕は運転席の人を見た。体の大きなポリネシア系の中年女性だった。運転のしかたをうしろから見ていて、そうではないかと、なんとなく僕は見当をつけていた。僕の見当は当たった。
 マーキュリーのワゴンが前方の視界から消えて、僕は気づいた。うしろから僕が見ていたあのワゴンの光景は、ハワイにおけるクリスマスの光景なのだ。かならずしも使い勝手が良いとは言えないステーション・ワゴンの荷物室をいっぱいにふさいで、棚が何段も作ってあった。その棚には、冬の赤い花の鉢植えが、ぎっしりとならべてあった。クリスマスのための、赤い花の鉢植えだ。
 クリスマス・セールの広告は、ひと月ほど前から新聞に掲載され始めた。ヒロのいきつけの食堂では、世界各地にいる七人の子供たちのうち五人が、今年のクリスマスにはヒロに帰って来る、と女主人はうれしそうに語っていた。
 いま僕がひとりで走らせているのは、すっかり色の落ちたもとは芥子色の、フォルクスワーゲン・ビートルだ。一九六〇年代の初期のものらしい。今日のオアフ島北海岸は朝から雨が降ったりやんだりしている。夕方のいま、雨はかなり激しい。しかしワイパーは動かない。
 この古いビートルの現在の所有者は、東京での僕の友人だ。ワイパーは正常に作動するよう直すべきだ。ビートルはいくら古く見えても最高の状態で乗るのがルールだ、と聞いたことがある。そのルールは車内の匂いにも適用されるのだろうか、と僕は思った。
 車内はきちんと掃除されている。あらゆる塵がたまり放題、というような状態ではない。しかし車内にいつもある匂いは、かなりのものだ。簡単にひと言で言うなら、人とその生活の匂いの、十年、二十年と蓄積された結果の、もはや普通の掃除では消すことの不可能な匂いだ。一台の自動車の車内というものが持つすべての細部に、その匂いは浸透しきっている。今日のような雨の日には、匂いは湿気によって外へと導き出され、ひときわ強烈となる。
 その匂いに、いまはピッツアの匂いが、重なっている。ビートルの所有者である友人に頼まれて、僕が買って来たものだ。大きくて平らな段ボール箱に入っている。隣の席に置いてある。僕はその友人の家に向かっている。彼は北海岸に家を借りている。冬のあいだそこに住むのだと言っている。彼は奥さんといっしょだ。買って来たピッツアとビールとで、これから冬の北海岸の夕食だ。
 駐車場として使用されていた、ほったらかしのただの空き地は、再開発されて新たな住宅地になった。沖のサーファーたちを見物する人の自動車で、冬のあいだいつもいっぱいだった駐車場には、いまは住宅がならんでいる。その住宅地の北側に、友人の借りている家があった。
 簡素な木造の、古い民家だ。このような造りとたたずまいの家も、いまでは珍しいものになりつつある。裏道から敷地のなかへ斜めになんとなく入っていき、ポーチへ上がる階段をとおり越したすぐのところに、僕はビートルを停めた。ここが定位置だ。もう少し奥へいくと、海岸との境界となっている土手がある。その土手の手前に、椰子の樹が高く一本立っている。
 自動車でこの古い家の敷地に入って来た人は、その椰子の樹の下に停めたい、という気持ちを起こす。しかし、椰子の樹からは椰子の実が落ちて来ることがある。ビートルの屋根のまんなかが、大きくくぼんでいる。かつて誰かがその椰子の樹の下に停め、落ちて来た椰子の実を屋根が受け止めた結果だ。ビートルの屋根ならくぼむだけですむが、人の頭だったらそうはいかない。
 ピッツアの入っている平たくて大きな箱を片手に持ち、僕はビートルから雨のなかに出た。ピッツアの箱を傘のかわりに頭の上にかざし、ドアを閉じて僕は階段へ歩いた。今夜の僕はこの家に泊まる。だからビートルは夜のあいだずっと、ここでサンセット・ビーチの雨に打たれ続ける。
 ビートルの運転席側のドアいっぱいに、人の名前と年号とが、さまざまな書体で書いてある。初代の所有者から始まって、歴代の所有者の名前と所有していた年とが、ぎっしりと書き込んであるのだ。書体のひとつひとつが、個性の見本のようだ。だからこのドアはひとときの観察に値する。片方のドアだけでは書ききれなくなり、もういっぽうのドアへと、所有者たちの名はあふれ出ていた。
 階段の上では、友人の奥さんがポーチのドアを開き、僕を迎えてくれた。僕はテニス・シューズを脱いで居間のフロアに上がった。家のまんなかに、長方形のスペースがひとつ、広くあった。そのスペースのぜんたいが、居間と呼ぶなら居間なのだ。友人が奥から出て来た。僕は彼にピッツアの箱を渡した。
 皿に出しましょうか、このままでいいよ、というような夫婦の会話を背後に聞きながら、僕は居間のスペースの海側へ歩いた。居間のこちら側へ来ると、視界ぜんたいが海となる。居間の外にはヴェランダがある。地元の言葉ではラナイだ。海が見える家と言うよりも、ラナイと家とが海に付属している、と言ったほうが正確だ。
 ラナイに出て海に面したてすりの前に立ち、直角に左を向くと、視線の延長線上にあるのはヴェルジランドのグーフィーだ。三フィートの波がチューブになっていくときの、戦慄に似た興奮を楽しむことが出来る。波のすぐ下にあるリーフはとても浅く、しかもその形状は特殊なのだ。雨の夕方の海を背にして、僕は居間のフロアにすわった。
 居間のスペースのまんなかに、大きな楕円形のガラス・トップのテーブルがある。そのテーブルのガラスの表面の半分ほどを、色とサイズ、そして炎を上げて燃えるときの匂いのさまざまに多様な蝋燭が、びっしりと埋めていた。友人の奥さんが歩いて来て、そのテーブルのかたわらに立った。
 かがみ込んだ彼女は、テーブルの上にあったマッチブックを手に取った。マッチブックを開き、マッチを一本、彼女は指先にちぎった。そして火をつけた。小さな炎を掌のなかにくるみ込むようにして、たくさんの蝋燭に向けて彼女は上体をかがめた。いくつかの蝋燭に火をつけ、掌をひと振りしてマッチの火を消した。小さな燃えかすをガラスの灰皿に落とした。
 居心地良くほの暗い居間の空間に対して、蝋燭の放つ明かりは、いまはまだ効果を発揮していなかった。しかしこれからピッツアを食べてビールを飲み、話をしているうちに、ふと気づくときが来る。自分たちは蝋燭の明かりのなかに取り込まれているのだ、ということに気づく。
 友人がピッツアを持って来た。平たい箱を開いてフロアに置いた。箱のなかは二段になっていて、大小ふたつのピッツアが入っていた。紙ナプキンとビア・マグを盆に載せて、奥さんが戻って来た。入れ替わりに友人がキチンへいき、ビールをかかえて来た。冷蔵庫のいくつもの製氷皿に作った氷を満たしたプラスティックの箱のなかに、リトル・キングの小さな瓶が何本も埋めてあった。
 この一軒の家のなかでの、友人とその奥さんとの動作の連携は、滑らかにつながってきれいにまとまっていた。ふたりはたとえばひとつ違いの兄と妹のように見えた。あるいは姉と弟だ。ふたりはおなじ高等学校の同級生だ。波の状態が良ければ、学校へいく途中で波乗りをひとしきり楽しむのが、高校生の頃の友人の日常だった。
 教室で彼のうしろの席にいたのが、ついには奥さんになったこの女性だ。前の席にいる彼の髪が、まだ濡れていると言っていいほどに湿っている日があることに、彼女は気づいた。彼の髪が濡れている日を、彼女は手帳の小さなカレンダーに印をつけて記録していった。春遅くから夏休みに入る前まで記録をつけ、ある日のこと彼女はそれを彼に見せた。
「赤い丸のついてる日が、あなたの髪の濡れていた日」
 という彼女のひと言が、現在にいたるふたりの関係の、始まりだった。僕とおなじく、ふたりとも三十代なかばだ。少なくとも冬が終わるまでは、ふたりはこの家に住む。そして彼はオアフ島北海岸の波を体験する。
 外に停めてあるビートルのドアに、現在の所有者である彼らの名を、エナメルで書かなくてはいけない。一九六〇年代のなかばから後半にかけて、おしまいにハイフンをつけてVの字をひとつ加えた名前が、いくつかある。ヴェトナム戦争に兵士として赴き、戦死した男性たちの名だ。
 そのうちのひとりは僕の友人だった。彼はサーファーだった。いま僕がピッツアを食べてビールを飲んでいるこの家に、かつて彼は住んでいた。徴兵されて検査に合格し、髪を短く切った彼と最後に夕食をともにしたのは、この家だ。そのときもピッツアを食べた。ピッツアはまだいまのように進化していず、おいしいとは言い難いものだった。
 彼がヴェトナムへいったあと、僕がこの家に住んだ。ビートルは家の所属品のような位置にあったから、当然のこととして僕はビートルの所有者ともなった。だからドアには僕の名も書いてある。ヴェトナムで戦死した友人の名の、すぐ下に。
 楕円形のガラス・トップ・テーブルは、その友人がここに住んでいたとき、すでにここにあった。いまとおなじように、大小さまざまな蝋燭が、ぎっしりと立ててあった。当時の蝋燭が、少なくとも何本かは、そのままにまだあるのではないか。当時は匂いの強い蝋燭が流行していた。東洋を感じさせる匂いだ。
 今日とおなじように、これから何度かは、ここで東京の友人夫妻と、ぼくは夕食をともにしたりするはずだ。そのとき、明かりは蝋燭の明かりだ。蝋燭に火をつけるのは奥さんの役目のようだ。ヴェトナムへ向かう友人と、いまのようにはおいしくなかったピッツアを食べたときに灯っていたのとおなじ蝋燭が、もしそのままテーブルのどこかにあるなら、奥さんが偶然にその蝋燭にも火をつける可能性は、充分にあり得る。
 当時からの蝋燭が一本だけでも灯れば、この家のなかぜんたいに、あの友人がいた頃の感触が戻るはずだ。ビートルの匂いのなかにも彼は残っている。僕がすわっている場所から天井を見上げると、梁の上には彼のサーフ・ボードがいまもある。
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干潮時水位




 姉の舞子が日本で過ごしたのは、僕たちの父親が日本に住んでいた期間の内部での出来事だった。十六歳の秋に彼女はカリフォルニアへ帰った。その年の真夏、夏が頂点をきわめ、このままここで時間は止まるのではないかと思えた静かに暑い晴天の日、僕は彼女とふたりで、父親の自動車を海に沈めた。
 クライスラーの大きな四ドアのセダンだった。正統的なピンク色のなかへ、鮮やかな紫色を少しだけ溶かし込んだような色調の、不思議なピンク色をしていた。ジェリー・ビーンズの詰合せのなかに、このクライスラーとそっくりな色をしたビーンズがあった。だから僕は、その自動車のことを、しばしばジェリー・ビーンと呼んでいた。
 その日、ふたりだけで昼食を食べていたとき、
「ジェリー・ビーンで海へいきましょう」
 と、舞子は言った。
「キーがどこにあるか、私は知ってるのよ。お父さんは外出して留守なの。裸足ではなくて、スニーカーを履きなさい。それに、シャツも持ったほうがいいわね。水筒も」
 昼食のあと、僕はふたつの水筒に、井戸の水を満たした。姉の水筒と僕の水筒だ。彼女が言ったとおり、ショートパンツにスニーカーを履き、シャツは着ると暑いから小さくたたんでショートパンツのポケットに入れ、ふたつの水筒を両肩に交差させて掛け、裏庭へいった。
 広い裏庭はおだやかな山裾と接していた。裏口から庭を出ると、そこは山裾のゆるやかなスロープの始まる部分だった。ジェリー・ビーン色のクライスラーは、その裏庭のまんなかに、母屋のほうに向いて停まっていた。頭上の青い空から、真夏の強い陽ざしが、クライスラーの車体ぜんたいに降り注いでいた。
 舞子は運転席にいた。スニーカーにショートパンツ、そして袖なしのシャツの裾を外に出し、髪をうしろでひとつに束ねていたのは、赤い玉をふたつ飾りにつけた、黒いゴム編みの紐だった。彼女の隣の席に入った僕は、ふたつの水筒を首からはずし、フロアに置いてドアを閉じた。
 エンジンを始動させた彼女は、もの静かに次のように言った。
「お父さんはいつも庭をいっぱいに使ってこのクライスラーの方向を変えているけれど、私はうしろ向きに出ていくことにするわ」
 ギアをリヴァースに入れて、彼女はクライスラーを発進させた。僕のシートの背に右腕をのばし、上体を軽くひねってうしろを見ながら、裏庭の奥に向けて彼女はクライスラーを徐行させた。
 僕たちの住んでいる家と隣の家とのあいだには、このクライスラーがすれすれに通れるほどの幅の通路があった。クライスラーを家の外に停めておくと目立ちすぎた。だから父親は、両側の大きな家をかすめながら、この通路を使って内庭に、クライスラーを入れていた。
 庭の奥に向けてクライスラーは一定の速度で徐行していき、舞子の巧みなステアリング操作によって、隣の家とのあいだの狭い通路のなかへ、うしろ向きに吸い込まれるかのように入っていった。車体の両側に板壁が続いた。窓から指を出せばその板壁に触れるほどの近さだった。陽陰だから空気がひんやりしている通路を、クライスラーはおもての道へ出た。リヴァースで隣の家の前まで出ていき、そこでいったん舞子は車体を停止させた。
「海へいきましょう。海岸のあるところまで」
 と、彼女は言った。そしてクライスラーを発進させた。途中で彼女は十二歳の僕にも運転させてくれた。遠浅の海岸のあるところまで三十分ほどかかった。途中ですれ違ったのは、一頭の馬が引く荷車一台だけだった。道の端に寄せて舞子はクライスラーを停め、とおりすぎた荷車がかなり離れてから、発進させた。
 海岸には人の姿がなかった。松並木の道にクライスラーを停め、海岸や海を見渡しながら、僕たちはそれぞれに水筒の水を飲んだ。そして車の外に出て海岸を歩き、波打ち際にスニーカーを脱いで遠浅の海に入った。ショートパンツと袖なしのシャツの下に、舞子は水着を身につけていた。僕たちは泳いで遊んだ。ちょうどいい距離にある沖の岩まで泳いでいき、岩の平たい頂上に上がったりした。その岩は恰好の飛び込み台でもあった。岩の周囲の海底が見えるほどに、海の水は澄んでいた。
 ひとしきり遊んで、僕たちは海岸に戻った。スニーカーは寄せて来る波のすぐ手前に脱いだのだが、砂浜を這い上がる波の先端の届く位置からスニーカーまで、いまではかなり離れていた。
「潮が引いていくのよ。干潮。もうじき、潮が引ききる時間だわ」
 舞子がそう言った。スニーカーをそこにそのままにして、僕たちはクライスラーに戻った。両側のドアを大きく開き、舞子は運転席に、そして僕はその隣の席に入り、ふたたび水筒の水を飲んだ。
 しばらくして舞子は、
「ドアを閉じて」
 と言った。自分の側のドアを彼女は閉じた。僕もドアを閉めた。彼女はエンジンを始動させた。松並木の道をリヴァースで下がっていき、やがていったん停まり、今度は前向きに発進した。彼女は大きくステアリングを操作し、クライスラーを砂浜に向けた。
 クライスラーは砂浜に降りた。そのまま一定の速度で波打ち際へ向かった。僕たちが脱いだスニーカーのすぐかたわらに、クライスラーのタイアは深い溝を作った。
 乾いた砂の部分を走り終え、濡れて固まっている砂の上を、クライスラーは走っていった。波打ち際に向けて、舞子はそのままクライスラーを直進させた。そして波のなかに入った。寄せて来る波が前輪に当たる音に続いて、バンパーが波を受けとめる軽い衝撃を、僕たちはフロアやシート越しに感じた。
 遠浅の海に対して直角に、クライスラーは進んでいった。海に向けて車体は前のめりに傾斜し始めた。波の位置がバンパーを越えると、抵抗を受ける車体は進むのが遅くなった。舞子の裸足の足は、アクセルをフロアまでいっぱいに踏み降ろしていた。前に向けて広がっているエンジン・フードが、さらに傾斜を深めた。波打ち際は大きな車体の後方にまわっていた。
 海面はエンジン・フードの先端まで届いた。ガラスを降ろしてある窓から外を見ると、海は窓のすぐ下まで来ていた。エンジン・フードの全域が海水の下になり、ウインド・シールドのすぐ手前まで水没した。このまま海のなかへ入っていくのかと僕が思った次の瞬間、突然にエンジンが停止した。海のなかにちょうど半分ほど埋まったところで、クライスラーは重く静止した。舞子がペダルやスイッチをいくら操作しても、クライスラーはただ停止したままだった。
「もうじき干潮が終わって潮は満ち始めるから、満ちるまでここにいましょう」
 舞子が言った。クライスラーのフロアはすでに水びたしで、僕の両足は水のなかだった。舞子は運転席のなかで体を横向きにし、両足をダッシュボードに上げた。
 満ち潮が始まった瞬間は、目で見ることが出来た。エンジン・フードを完全に水没させていた海水が、あるとき一度だけ、大きくうねった。その反動で、ウインドシールドの横幅いっぱいに、海水が跳ねた。そしてその瞬間から、潮は急速に満ちていった。水位が上昇していく様子を、ウインドシールド越しに僕たちは観察することが出来た。
 ウインドシールドの高さのなかばを海水が越えると、ガラスを降ろしてある両側の窓から、車内に海水が入って来るようになった。寄せる波の律動そのままに、海水は音を立ててクライスラーに流れ込んだ。僕の膝が水のなかとなった。水位は窓を越え、僕の体はいっきに腹まで水につかった。ウインドシールド越しに見る外の光景は、ガラスの水槽のなかをのぞき込んでいるのと似ていた。
「ジェリー・ビーンは完全に海にのみこまれるはずだから、ぎりぎりまでふたりでここにいましょう。出なさいと私が言ったら、あなたはそちらの窓から出るのよ。無駄のない素早い動きで、すんなりと窓から出ればいいだけ」
 これはそういう遊びだったのかと、僕はそのときようやく、ぜんたいを理解することが出来た。潮は急速に満ちていった。座席にすわったままの僕は、早くも肩まで水につかっていた。水位は窓の半分にまで達し、うしろの席も水没していた。クライスラーの内部の空間が、急に狭くなったように感じた。その残り少ない空間を、海水が静かに満たしていった。
 窓はほとんど海面の下となった。僕の顎を海水がひたした。席から腰を浮かせ、クライスラーの天井に顔を横向けにつけていないと、僕は呼吸が出来ない状態となった。舞子もおなじだった。うしろの窓が海水の下になっていくのを、僕は見た。横向けにした頭をくっつけ合い、天井の下にわずかに残った空間の空気を、僕たちは呼吸した。すぐに息苦しくなった。
「出ましょう」
 舞子が言った。僕は水のなかに体を沈め、見開いた目で窓を見た。両手を合わせつつ両腕をまっすぐにのばし、両手の先端から窓の外へ飛び出す要領で、僕はシートを蹴った。僕の上半身はすんなりと窓の外へ出た。窓の枠に腰が当たり、引きとめられた。水のなかで体をひねり、体を車体から離し、僕は海面に浮かんだ。ほぼ水没した屋根の向こうで、舞子が泳ぎながら笑っていた。
 僕たちは水の下のエンジン・フードに立った。ほどなく屋根が完全に海水の下となり、僕たちは屋根にも上がった。海に向かってそこにすわり、さらに満ちて来る潮を全身で受けとめた。人のいない海岸、そしてその向こうの松林を、僕たちは振り返った。空を仰ぐと真夏の午後がこそにあった。
 満潮のあいだ、水没したクライスラーは僕たちの遊び場となった。もぐって窓から車内に入り、席にすわってみては窓から出て来る、といった遊びを僕たちは繰り返した。引き潮が始まる前に、僕たちは海岸に上がった。海のなかのクライスラーに最後に入ったとき、僕はふたつの水筒を車内から持って出た。
 満ちて来た潮にもう少しでさらわれる位置に、僕たちのスニーカーが脱いであった。スニーカーを履いて松並木までいき、そこに置いてあったショート・パンツとシャツを、僕と舞子は身につけた。そして水筒の水を飲み、クライスラーが海水に覆われて見えない様子に、僕たちは笑った。
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カプリース・クラシック・クーペ




 ハリー・オカモトのガレージへいき、借りていたままだったオールズモビール・カトラスを僕は返却し、賃貸料金を支払った。父親の使っていた自動車の修理が出来ている、とハリーは言った。スターターの調子が悪いと言い、他界する一週間前、父親は自分の自動車をハリー・オカモトのガレージに預けたのだ。
 修理代金を支払い、僕はその自動車を引き取った。シヴォレーのカプリース・クラシック・クーペ。一九七四年のモデルだ。平たくて大きい。見るからに重そうだ。しかし、造形のぜんたいは、まあなんとかきれいな線と面とで、無理なくまとまっている。これを父親は、ハリーの経営するディーラーショップから、新車で買ったという。
 色調を深めきったような印象のある緑色をしていた。強く明るい陽ざしを受けとめると、車体ぜんたいに漂う重さの印象は、さらに増幅された。車体のあらゆる部分が、おなじひとつの緑色だった。パワー・フロント・ディスク・ブレーキ。ターボ・ハイドラマティック・トランスミッション。パワー・ステアリング。このクーペの仕様すべてを片仮名で書いていったら、それはどんな読み物になるだろうか、と僕は思った。
「きみはストーリーを書くのが仕事なのだって?」
 ハリーが言った。深い皺も浅い皺も、すべてその底まで陽焼けしている彼の顔を、僕は見た。
「優先順位としては写真です。僕はフォトグラファーです。自分の撮った写真に自分で文章を添えることもありますから、文章も書きます。写真と文章をひとりでこなす仕事を、僕としてはいちばん好いています」
「その仕事は東京でしてるのかね」
「そうです」
「書く文章は日本語だね」
「はい」
 自分の頭の奥にアイディアがひとつ閃くのを、僕は感じた。自動車のストーリーは面白いのではないか、というアイディアだ。
 ハワイで知り合うさまざまな人たちの、あの自動車そしてこの自動車のストーリー。一冊の本にするといい。右から開く日本語の本だとして、左のページにカラー印刷で自動車の写真を、そして右のページには、所有者から聞いたその自動車にまつわるストーリーを、一ページに収まる短い文章で添えていく。ページを開くごとに、違う自動車の違ったストーリーが、読者の目の前にあらわれる。東京から奥さんとともにオアフ島の北海岸へ来ている、サーファーの友人が使っている古いビートルは、絶好の材料のひとつではないか。父親が使っていたこのカプリース・クラシック・クーペも、いい材料だ。ハワイの風土に完全に溶け込んでいる様子を、自動車ごとに正しく工夫して撮るなら、一冊の本として充分に成立する。
「一〇〇マイル・カーというものは、いまでもあるのですか」
 と、僕はハリーに訊いた。
「あるよ」
「ここにもありますか」
「何台かあるよ。中古車売り場の、いちばん向こうの奥に、ならんでるよ。ウインド・シールドにそう書いてあるから、見ればすぐにわかる」
「見て来ます」
 修理ガレージの脇に父親のカプリースを残して、僕は中古車売り場に向けて陽ざしのなかを歩いた。空から直射する太陽光と、足もとのコンクリート敷きから照り返して来る熱とのあいだにはさまれて、僕は自動車の列のなかを歩いた。
 淡い色の泥水のような絵具で、一〇〇マイル・カー、とウインド・シールドに大書したセダンやステーション・ワゴンが十台ほど、中古車売り場の奥の片隅にならんでいた。あとさらに一〇〇マイルの走行は保証するけれど、それ以上に関しては如何ともしがたいという種類の、格安の中古車だ。
 かつてはヒッピーたちが、このような自動車をしばしば買った。いまも類似の人たちが買っていく。もっとも中心的な顧客は、サーファーたちだった。ひとりずつ二十ドル、三十ドルと出し合って、数人で一台の一〇〇マイル・カーを手に入れる。自分たちで整備し修理をほどこし、一〇〇マイルを軽く越えてさらに何マイルとも知れず、こき使う。
 ここにあるこれらの一〇〇マイル・カーは、やがてどれもが、誰かに買われていくのだろうか。すでに充分にストーリーを蓄積させているセダンやステーション・ワゴンは、一〇〇マイル・カーとしてさらにストーリーを獲得していくのだろうか。いまはただ陽ざしを受けとめて反射させるだけの、静止した古い自動車を観察しながら、僕は自動車のストーリーを自分で一冊の本にすることについて思った。
 ハリー・オカモトのオフィスに向けて、僕は引き返していった。歩きながら僕は、東京に住んでいる知人のことを思った。僕よりも十歳は年上の、女性の詩人だ。詩人であり文章家でもある彼女は、絵も描く。両親から引き継いだ家に、彼女はひとりで住んでいる。世田谷にある広い敷地のなかの、風情のある家だ。その庭に、一台の自動車が、風化するにまかせて、置いてある。
 一九五四年のデソートのクーペだ。かつて彼女の父親が使っていた自動車だ。ガレージはなく、父親はそのクーペをいつも庭に停めていた。彼が他界してからは、庭に停められたままとなった。白と赤に塗り分けた、目も覚めるほどに鮮やかな、流麗な造形のクーペだ。そのクーペが、だれにも使われないままに、時間の経過とともに少しずつ風化していった。
 五年ほど前、そのクーペと詩人の彼女を、僕は仕事で写真に撮った。彼女の庭、そしてそこですっかり風化したデソートのクーペを、そのとき僕は初めて見た。植え込みに囲まれて静かな、ほどよく手入れされた、雰囲気のいい広い庭だ。その庭の奥に、朽ちていく過程の後半に入ったとおぼしき状態で、クーペは庭と完全に溶け合ってひとつだった。場所はハワイではないけれど、あの自動車も本のなかに加えるといい、と僕は思った。
 オフィスへ戻るとハリーが奥から僕を呼んだ。板張りのフロアを僕は彼のデスクまで歩いた。デスクの反対側の壁には、縁を緑色に塗った大きなコルク・ボードがあった。そのコルク・ボードをびっしりと何重にも埋めつくして、紙によるありとあらゆるものが、押しピンで止めてあった。メモ、絵葉書、封書、カード、メモ、写真、領収書、保証書、新聞の切り抜きなど、小さな紙切れと表現していいものすべてが、そのコルク・ボードにピン止めしてあった。
 コルク・ボードの端へ僕とともに歩き、何重にも重なっている紙類をめくり上げ、その下にピン止めされている一枚のカラー・プリントを、ハリーは僕に見せた。一九六〇年代の赤いマスタングのコンヴァーティブルの側面を背にして、アメリカ陸軍の若い兵士が笑顔で立っている写真だ。兵士の顔は日系だった。
「一九六四年の夏。メインランドで基礎訓練を終わって、ヴェトナムへ向かう直前。僕のところへ挨拶に来たから、僕がこの写真を撮ったんだ。これは僕から買ってくれた彼の自動車だよ。青い色のがカリビーアン・ブルーで、赤いのは確かシシリーアン・レッドと言ったかなあ。よく覚えてない。忘れたよ。シシリーでは、なにが赤いんだい。タメイトかね、それとも唐がらしかい」
 そう言ってハリーは笑った。重なる紙類をめくり上げていた片手を離すと、そのカラー・プリントは重なる紙類に覆われて、見えなくなった。デスクに向かって歩きながら、
「次の年に彼は戦死したよ」
 と、ハリーは言った。
 デスクの向こうにまわって回転椅子にすわったハリーは、
「自動車のストーリーは面白いだろう」
 と僕を見上げて言った。そしてメモ用紙のタブレットを引き寄せてなにごとかを走り書きし、ちぎって僕に差し出した。僕は受け取った。ロイ・コハラという名の下に、奥まった田舎町の所番地と電話番号が書いてあった。
「ロイというのは、いま写真を見たアメリカ兵の名だよ。親父さんの名はウオーレンというんだ。ひとり息子が戦死して、ウオーレンは嘆き悲しんでね。ひと頃は廃人のようだったけれど、いまは元気にしてるよ。息子が生まれ育った家にいまも住んでいて、家は息子を記念してロイ・コハラ・メモリアルになってる。息子の部屋はそのままにしてあるんだ。赤いマスタングも、まだあるよ。使わないと腐るから、ひとり暮らしの親父さんが、ときどき使ってる」
「訪ねてみます」
 と、僕は言った。ハリーはうなづいた。
「僕から聞いたと、ウオーレンに言ってくれ」
 僕はハリーのオフィスを出た。いま話を聞いた赤いマスタングはぜひとも写真に撮らなければいけない、と僕は思った。ウオーレン・コハラに会って話を聞き、短い文章にまとめておこう。自分が作る一冊の本の始まりだ。東京から来たサーファーの友人が使っているビートル。東京に住む女性詩人の庭で朽ちているデソートのクーペ。それから、僕の父親が残したこのシヴォレー・カプリース・クラシックの、深い緑色のクーペ。
 修理ガレージのかたわらに停めたそのクーペを、僕はひとまわりしてみた。この自動車はここで写真に撮るのがいちばんいいようだ、と僕は判断した。背後に修理ガレージを入れて、強烈な晴天の日、西へいっぱいにまわった太陽が深く落ち始めた時間に。あるいは、雨の日でもいい。写真機とレンズ、それにフィルムを収めたバッグを、今日からはいつも持ち歩くことにしよう、と僕は思った。
 僕はカプリース・クラシックの運転席に入った。エンジンは滑らかに始動した。大きな車体をおもむろに発進させ、修理ガレージの前で大きく半円を描き、敷地の外の道路に向かった。
 父親が生前に使っていた自動車をひとりで走らせながら、自分が撮る写真とそれに添える文章とで作る、自動車とそのストーリーの本について、僕はさらに考えた。ハリー・オカモトの自動車も撮るべきだ。仕事や日常で酷使しているピックアップ・トラックがあるはずだ。フランシスコ・アカミネにも、自動車を撮らせてもらう。身辺からひとりずつ、自動車の写真を撮っていくといい。
 写真は自動車だけにするべきだ、と僕は思った。持ち主が自動車とともに写真に収まるのは、避けたほうが賢明だろう。それぞれの人については、写真に添える文章のなかで、短く的確に描ききればそれでいい。追いかけるべきプロジェクトがひとつ、自分の分身のように生まれていくのを、僕は楽しんだ。
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ふたりで食べた林檎




 これほどまでに見事な林檎をいま自分は初めて見る、と十歳の僕は思った。そのときのことをいまでも僕は記憶している。あまりにも見事な出来ばえだったから、ひょっとしてこれは作り物かもしれない、と僕は思った。八百屋の主人はいつも笑ったような顔をした小柄な好人物だった。作り物の林檎を店にならべ、野菜や果物を買いに来た人たちに冗談をしかけているのかもしれない。
 鉄道の線路のスロープを背後に、八百屋の主人とその奥さん、そしてふたりの娘が住んでいる、小さな木造の家があった。その家とは別棟で、家のすぐ前に、八百屋の店があった。ありあわせの木材を使って素人が建てたような、店と言うよりもそれは小屋だった。道の向こうから店のぜんたいを観察すると、小屋は明らかに右へ傾いていた。
 板で作ったいくつもの箱を裏返しにして店の土間に配置し、箱の底に野菜や果物がならべてあった。一日の営業を終わると、箱の上で売れ残った野菜や果物を、店主や奥さんそして娘たちが、それぞれの箱に入れていく。そして店の正面の雨戸を閉じる。雨戸は三枚あった。店主が特に気にいった品物が入荷した日には、いくつかの箱を台にして、その上に雨戸が横たえられた。そして気にいった品物を、彼はその雨戸の上いっぱいにならべた。
 僕が見た見事な林檎は、店の土間の中央に横たえた雨戸のまんなかに、美しくならべてあった。角を道に向けてまず正三角形に林檎をならべ、その三角の内部を林檎で埋める。そしてその上に、外から一列だけ引っ込めて二列めの上に、林檎を重ねていく。その内部を林檎で埋め、次は三列めに林檎を置いていく。林檎で作ったこのようなピラミッドがまだ完全な状態のとき、僕はその店の前をとおりかかった。
 僕の両手にあまるほどの大きさの、プロポーションとしては絶妙に縦長の、内部の中心点に向けていっさいの無駄なしに整然たる求心力を持続させている、うかつには手を出せないような、整いきった造形だった。
 自然の営みそのもののような赤い色を基調にして、黄色と緑色とが、偉大なる画家の使いなれたパレットさながらに、どの林檎の造形をも、一分の隙もなしにくるみ込んでいた。赤と黄色と緑色しか使わない、それゆえに偉大な画家のパレットだ。
 黒いゴム草履にカーキー色のぶかぶかの作業ズボン、そして白い長袖シャツの店主は、いつもと変わらない笑ったような顔で、林檎を盛りつけた雨戸のかたわらに立っていた。林檎のピラミッドに視線を吸い取られている僕に、
「アオモリ」
 と、店主は言った。
 青森産の林檎という意味だが、アオモリとはなにのことなのか、当時の僕にはわからなかった。林檎のピラミッドに視線をからめ取られたまま、僕は雨戸の長方形を一周した。そして正面に立ちどまった。
 ふと腕をのばした店主は、ピラミッドの頂上に乗っている林檎を、片手に取った。そしてそれを僕に向けて差し出した。僕はそれを受け取った。林檎のかたちをした重さ、というものをそのときの僕は両手に感じた。単なる重さではなく、林檎のかたちをした重さなのだ。いくら眺めても信じることが出来ないような、完璧な林檎のかたちをした重さだ。
 姉の誕生日のプレゼントはこの林檎をおいてほかにない、と僕は思った。だから僕は店主に値段を訊いた。そのとき僕がたまたま持っていた現金で買うことの出来る値段だった。僕はその林檎を買った。ピラミッドの頂上にあった林檎だ。
 シャツを脱いだ僕は、それを地面に広げた。そのまんなかに林檎を置き、まず両袖をその根もとでしばった。それから裾をひとつにまとめ、襟もひとつにして、しばり合わせた。シャツは即席の袋となった。そのなかに僕は林檎をくるんだ。林檎のまま地面に落としたなら、この林檎が持っているあらゆる完璧さがすべて壊れてしまう、と僕は思ったからだ。
 シャツでくるんだ林檎を持って、僕はそのとき寝泊まりしていた祖父の家へ帰った。テーブルの上でシャツをほどき、僕は林檎を観察した。作り物ではなく本物の林檎なのかどうか、八百屋のおじさんに確認すべきだった、と僕は思った。僕は両手の指先でさまざまにその林檎に触れてみた。左右の掌で支えてもみた。顔を接近させ、香りをかいでみた。まず間違いなくこれは本物の林檎だ、と僕は結論した。
 姉の誕生日は次の日だった。林檎は箱に入れるといい、と僕は思いついた。だから僕は箱を作った。祖父はさまざまな道具や材料を持っている人だった。ちょっとしたものを常に器用に自作していた。フィラメントの切れた電球以外なら、彼はあらゆるものを修理することも出来た。
 箱の材料のボール紙が豊富にあった。巻き尺で林檎の高さと直径を計った僕は、適正と思われるゆとりを持たせた大きさの箱の展開図を、鉛筆でボール紙に書いた。貼り合わせるために必要な糊しろを、間違えないように展開図に加えた。林檎を入れる箱の蓋は、てっぺんにあるようにした。蓋を開いて箱の中を見ると、そこに林檎があるのだ。
 箱はやがて出来た。林檎はその内部にしっくりと納まった。蓋を閉じると完全に箱だった。蓋を開くとなかに林檎があった。僕は何度も蓋を開閉して楽しんだ。箱に色を塗ろうか。箱に絵を描こうか。アメリカの雑誌からいろんな絵や写真を切り抜いて貼るといい、という閃きを僕は得た。祖父は雑誌もたくさん持っていた。気にいったものをページから切り抜いては、僕は箱に貼っていった。
 これ以上には貼りようがないという段階に達して、箱は完成した。なかにふたたび林檎を入れてみた。蓋を閉じた。完璧だった。その蓋の三辺に、雑誌から切り抜いた赤い色の紙を貼り、蓋が開かないようにした。紙を破って蓋を開き、なかの林檎を取り出すのは、明日の姉なのだ。
 そして次の日、林檎の入ったその箱を、僕は姉のいる家まで持っていった。姉は外出していた。待っているとやがて帰って来た。誕生日の贈り物として、僕は林檎の入っている箱を姉に手渡した。受け取って箱を観察し、両手で重さを感じたりしていたときの姉の顔を、いまも僕は覚えている。もうちょっとで解けるパズルの、最後の部分を解明しようとして気持ちを集中させている人の顔だった。
 ほとんどおなじ大きさの、赤い紙で包んで緑色のリボンをかけた箱を、姉は僕にくれた。その日は僕の誕生日でもあった。姉と僕とは四年間をへだてておなじ月のおなじ日に生まれていた。受け取った箱の重さは、僕がたったいま姉に渡した箱と、まったくと言っていいほどにおなじだった。重さだけではなく、なかに入っているものの質が同一だ、と僕は直感した。
 ふたりで箱の蓋を開いた。蓋を閉じ合わせている紙を姉は破り、僕は箱にかけてあるリボンをほどいた。おたがいに蓋を開き、なかをのぞき込んだ。姉が驚きの声を上げ、僕はただ呆気にとられた。姉が僕にくれた誕生プレゼントの箱には、僕が姉にあげたのとほとんど変わらない林檎がひとつ、入っていた。
 僕たちはひとしきり笑った。僕も姉も、おなじあの八百屋で林檎を買い、それをおたがいの誕生日のプレゼントにしたのだということを、僕たちは笑いながら確認した。僕たちは林檎をくらべ合った。区別のつけようがないほどにそっくりだったから、しばらくすると誰がどちらを買って来たのか、わからなくなった。そのことにも僕たちは笑った。箱を平らに開いて重ねてみた。ほとんどおなじだった。
「今日はふたりとも林檎に魔法をかけられたのよ」
 姉がそう言った。
 その日の夜、夕食と就寝のちょうど中間の時刻に、僕と姉は林檎をふたつとも食べた。窓を閉めきった二階の部屋は、夜にはまっ暗な空間となった。その二階へふたりで上がっていき、ほんとになにも見えないところにすわり、ふたりで林檎を食べた。
 可能なかぎり音を立てて食べよう、と姉は提案した。林檎をかじっては噛み砕き、飲み下していくまで、出来るかぎり盛んに音を立てようというのだ。どちらがより奇抜な音を立てることが出来るか、ふたりで競争しようと姉は言った。
 まっ暗ななかで、僕たちは大きな林檎をひとつずつ、音を立てて食べた。かじり取った林檎を口のなかで噛みながら、どれほど盛んにしかも奇抜な音を出すことが出来るか、姉と僕は競い合った。相手が出すおかしな音に笑いながら、自分も負けずに音を立てるのは、挑戦的な遊びだった。食べ終わって僕が下した判定は、小差で姉の勝ちだった。
 おなじ姉がいま僕のかたわらにいる。ホテルのダイニング・ルームで、ふたり用のテーブルに向かって、僕たちはすわっている。険しい山に迫った急な斜面という地形を、巧みに利用して造ったスペースだ。洞窟の奥深くにある、謎の別天地のようだ。ただし閉じ込められた印象はまったくない。片方の窓、と言うよりも透明なガラス張りの壁の外には、険しい山の斜面から空中に躍り出て落下する滝の、白い水が見えている。別の窓の外は羊歯の密生した深い林だ。
 僕たちはふたりで音楽を聴いている。このホテルのこのダイニング・ルームに出演している、マオリのコーラス・グループのリハーサルだ。ステージには男性が三人。三人とも顔だちと雰囲気は空港のグラウンド・クルーだ。そして女性が二名。ふとりとも学校の先生のように見えた。全員がスカートにショールという民族衣装だ。赤。白。黄色。フリンジは赤。
 彼らのコーラスはたいへん美しい。ポイ・ソングのメドレーに続いたラヴ・ソングは、完璧な仕上がりだ。ギターは一本だけ。きれいなFホールのついた、古風なアクースティック・ギターだ。姉はこのホテルで音楽ディレクターをしている。このマオリのグループは彼女が見つけて来た。
 今日は僕たちふたりの誕生日だ。かつての林檎のプレゼントについて、僕はさきほどから思い出している。あの誕生日から今回にいたるまで、何年が経過したのだろうかと僕は思っている。テーブルの上にあるふたつのグラスを僕は見る。ついさっき、僕と姉は、ともにこのグラスで林檎ジュースを飲んだ。
 おたがいに一個の林檎をプレゼントし合ったあのとき以来、誕生日にはなんらかのかたちで林檎にちなんだものを贈るのが、姉と僕との習慣だ。今年はこのホテルのダイニング・ルームで姉が林檎ジュースを二杯注文し、乾杯して一杯ずつ飲んだ。
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父親のウクレレ




 キチンの作業テーブルの上にウクレレが置いてある。さきほどから僕はそれを見ている。父親のウクレレだ。自分が最初に買ったウクレレがこれであり、そのまま自分はずっとこのウクレレを持ち続けた、と父親は言っていた。父親のものとしての、唯一の、生涯をとおして一本だけのウクレレ。それがいまキチンの作業テーブルの上にある。
 アメリカ陸軍の兵士として、第二次大戦をヨーロッパの戦線で戦ったひとりであった彼は、陸軍に入隊するとき、このウクレレを持って入隊した。基礎訓練をへて前線へ送り出され、ヨーロッパの激戦地を転戦してアメリカへ帰還するまで、彼はこのウクレレを自分から離さなかった。
 ウクレレは彼とともに最後まで無事だった。地を這いながら至近距離で敵兵と射ち合う白兵戦を、彼もウクレレも、傷ひとつ負うことなく、切り抜けた。さすがに弦は何度も切れた。しかし、ボディに穴があいたり、ネックがボディから取れてしまうというようなことは、いっさいなかった。
 アメリカからヨーロッパへ向かう輸送船のなかで、彼はウクレレの弦を数セット、正式に陸軍に請求した。彼が指定したとおりの弦が、彼らの上陸地点であったイタリーの港町に届いていた。あの戦争に関して彼が語った唯一のことは、届いていたこの弦についてだった。彼の得意な話であり、好きな話でもあった。自分をめぐる自慢話ではなく、アメリカについての自慢話だったようだ。アメリカの軍人、あるいは軍と密接に関係した仕事をして、彼はその生涯を過ごした。彼の専門は、わかりやすいひと言で言うなら、無線通信だった。
 この家で彼はこのウクレレを、いつも納戸の棚の上に置いていた。使うことなくほっておいた期間は、少なくとも僕の知るかぎりでは、まったくない。いつも彼はこのウクレレを弾いていた。昔のものではあるけれど、ひとりの人によって大切に使われ続けた物だけが持つ生きた感触が、いまもこのウクレレの細部にまでいきわたっている。
 このウクレレは父親の一部分であり続けた。しかし彼は、これをたとえば居間に置いておくことをしなかった。使い続けるものではあるけれど、定位置は納戸の棚だった。おそらく戦争を思い出させ過ぎるからだろう、と僕は推測している。彼が戦地で弾いたこのウクレレの音を記憶に刻んだまま戦死した戦友が、数えるのもつらいほどたくさんいるのだから。
 作業テーブルに横たえたウクレレを僕は見る。これを僕は写真に撮らなくてはいけない。姉に頼まれたことだ。CDのプラスティック・ケースのなかに表紙として入れる紙に、印刷するための写真だ。CDは父親を記念して姉が製作するものだ。ウクレレをじつに見事に弾いた父親は、折りにふれて曲を作っては楽譜に書き残した。プロフェッショナルな歌い手や演奏家たちに提供した曲がいくつもある。それらを含めて、父親が残した曲すべてを姉が検討し、選び出した十数曲を一枚のCDにする。
 地元に昔からあるレコード会社に姉はこの企画を提示した。企画は通った。製作に向けての最初の段階が、すでに始まっていた。どの曲にも姉は演奏者として参加する。ピアノ、ヴィブラフォン、ギター、トランペット、テナー・サックス、ドラムスなど、多くの楽器の演奏を、姉は巧みにこなす。姉のソロ・ピアノとなる曲もある。タイトルをつけるかわりに、自筆の楽譜の右肩に、「モースト・リクエステッド」とだけ父親が書きつけておいた曲だ。ウクレレで弾いて聴かせる曲として、人がもっともしばしばリクエストしてくれた曲、というほどの意味だろう。「モースト・リクエステッド」というひと言は、しかし、そのままタイトルになる。
 CDのタイトルは『ウクレレ・ソルジャー』だ。ケースの表紙に使う紙は横長で、それが三つにたたまれる。表紙はウクレレだけの写真、そしてたたんであるのを開くと、そこには短い文章がある。父親についての文章だ。これは姉が書く。父親の写真を二点だけ、その文章に添える。アメリカ陸軍兵士としての、オフィシャル・ポートレートを一枚。そしてもう一枚は、ヨーロッパからアメリカへ帰還したあと、二世部隊が大統領から称賛の言葉とともに叙勲されたときの、パレードの写真だ。隊列を組んで行進している二世部隊の、何列めかのいちばん端を歩く僕たちの父親が、そのスナップ写真の中央にいる。陸軍兵士である彼が背負っているパックには、ウクレレがひとつ、くくりつけてある。ウクレレであることが、はっきりとわかる。二世部隊についての多くの本のなかで、ウクレレ・ソルジャーは何度も言及されて来た。証拠写真のようにしばしば添えられるのが、このスナップ写真だ。
 この二枚の写真を、父親が残した写真アルバムに貼ってあったままに、僕は写真機で接写した。プリントにしてみた。どちらも雰囲気が充分にあり、CDのライナー・ノートに使う写真として、たいへん効果的だろうと僕は判断した。白黒の写真を僕はカラー・リヴァーサルで複写し、カラー印画紙にプリントした。もとの写真に淡くブルーの色が加わり、写真に写し取られている父親および戦友たちは、時間の彼方に静止している雰囲気を濃厚に獲得することとなった。二枚のプリントは、リヴァーサルとともに、すでに姉に渡してあった。
 ウクレレの写真をどのように撮ればいいのか。キチンの作業テーブルの上にウクレレを置いて観察しながら、僕は考えているところだ。凝った写真にはしたくない、というのは姉と僕に共通した方針だった。凝るとは、たとえば、ウクレレを中心にさまざまな物をコラージュのように配し、ぜんたいとしての雰囲気を出す、というような試みだ。
 凝れば凝るほど、ウクレレというもっとも重要な主題が、小さくなってしまう。ウクレレを平らに横たえ、その姿を撮るといい、と姉は言った。僕もそれに賛成だ。ウクレレをなにかに立てかけて撮る、というアイディアも捨てた。昔からあるジェネラル・ストアのボードウオークの片隅で、古びた板壁にウクレレを立てかけてその様子を撮ったりすることだ。
 ウクレレを平らに横たえるなら、その背景だけを考えればいい。凝ることへの誘惑は大きいけれど、どう凝ったところでそれは中途半端なものにしかならない、と僕は結論した。大戦当時のヨーロッパ戦線の地図を敷いて、その上にウクレレを横たえてみても、ごく陳腐な絵解きがおこなわれるだけであり、けっしてそれ以上にはならない。
 キチンのこの作業テーブルは、ウクレレの背景として最適かもしれない、と僕は思った。テーブルの上にあったものすべてをテーブルの下に降ろし、テーブルの表面のさまざまな場所にウクレレを置いては、僕はさきほどから観察を続けて来た。
 分厚い板を何枚か寄せて作った、きわめて無骨なテーブルだ。塗装もなにもされていない。工夫と言えば、四隅の角が落としてあることくらいだ。作られてから少なくとも三十年は経過している。さまざまな作業のために、徹底的に使用されて来た。テーブルの表面には無数の傷があった。
 素朴なテーブルの板に刻み込まれた、大小さまざまな傷痕、つまり三十年以上という時間の経過こそ、このウクレレを写真に撮るための背景に、ふさわしいのではないか。雰囲気のある傷がほどよく集まっている部分を、僕は探した。
 CDのケースは正方形だ。なかに入る表紙のスペースも正方形となる。その正方形を生かすには、ウクレレを対角線として使うのがいちばんいいのではないか。『ウクレレ・ソルジャー』の「ソルジャー」の部分に関しては、絵解きは必要ではない。ライナー・ノートを見ればすぐにわかることだし、裏表紙にも簡単な説明文が入る。
 ウクレレを横たえるべき場所はここではないか、と思える部分を僕は発見した。そこにいろんな向きで、僕はウクレレを置いてみた。これだ、この位置だ、と決定した部分に、ウクレレを置いた。人工の光は使わない。それに直射光も避ける。とすると、窓から入って来る明かりを使うほかない。
 キチンの西側には、横に長く窓があった。その窓の近くへテーブルを移動させることを、僕は検討した。移動するのは正解だ、と僕は結論した。ウクレレを調理台に置き、テーブルの下に降ろした物の位置を変え、僕はテーブルの下に入った。
 長方形のテーブルのまんなかとおぼしき位置に、僕は首のうしろから両肩、そして背中のいちばん上の部分を押し当て、全身に力を込めてテーブルの脚をフロアから離した。テーブルは思ったほどには重量がなかった。四本の脚をフロアから少しだけ持ち上げ、ときには一本を引きずりながら、僕はテーブルを窓の近くまで移動した。
 テーブルに届く光の状態を、僕は確認した。窓の外は晴天の午後だ。窓からテーブルに向けて斜めに届いて来る光は、充分に明るいと同時に、もの静かに落ち着いた光でもあった。調理台からウクレレを持って来て、僕はそれを所定の位置に横たえた。
 僕はキチンを出た。僕の寝室に使っている予備の寝室へいき、テーブルの上に出してあった一眼レフにフィルムを装填した。レンズは五十五ミリのマクロ・レンズに交換した。そしてキチンへ戻った。作業テーブルまで歩いていき、僕はその上に乗った。
 ウクレレのかたわらに片膝をついた僕は、一眼レフのファインダーごしに、真上からウクレレを見下ろした。ファインダーの横長の視界の片側に正方形を想定し、その正方形の対角線上に、ウクレレの全長を収めてみた。
 ウクレレをひたす明かりは完璧だった。背後にあるテーブルの、使い込まれて傷だらけの板が、これ以上ではあり得ないほどの背景として、機能していた。真上からではなく、かすかに横へずらした位置からウクレレをとらえ、絞りをきめて焦点を合わせ、僕はシャッター・ボタンを押した。
 CDを製作していく途中で、ひと駒に切った小さなカラー・リヴァーサルは、紛失されるかもしれない。そのときのために、ほとんどおなじ角度で、繰り返して五回、撮影した。そしてテーブルを降りた。
 ウクレレと写真機とを調理台に置き、僕はふたたびテーブルの下に入った。さきほどとおなじように、自分の全身を使って下からテーブルを持ち上げ、もとの位置へ戻した。フロアに降ろしておいたものすべてを、僕は作業テーブルの上に置きなおした。
 写真機とウクレレを持ち、僕はキチンを出た。寝室のテーブルに写真機を置いたあと、納戸へいった。棚の上の定位置に、僕はウクレレを横たえた。
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雨の朝のヒロ・マーチ




 玄関のドアを開いて僕は外へ出た。そこはポーチだ。家の板壁に沿って、手すりのついた階段がある。ポーチの外は雨だ。ヒロの降りかただ。しかも朝の。僕はドアをロックした。こんな素朴なロックは、なんの役にも立たないはずだが。僕は階段を降りた。可能なかぎり階段に接近させて、シヴォレーのカプリースが停めてある。たとえばいまのような雨降りのとき、その雨に濡れないために。ヒロでの生活の知恵のひとつだ。
 ドアを開いて僕はカプリースの運転席に入った。ドアを閉じた。頭から首、そして両肩にかけて、雨で濡れていた。エンジンを始動させ、リヴァースで外の道へ出ていき、いったん停止した。ギアを入れ換え、カプリースを発進させた。
 僕は雨のなかを町へ向かった。途中の道路とその両側にある景色は、僕にとってたいへん好ましい景色のうちのひとつだ。しかし、なぜこの景色がそんなに好きなのですかと質問されたら、僕には答えようがない。
 雨が激しい。ワイパーがガラスの表面で懸命に雨水を拭っている。晴れた日のことを僕はふと思う。窓のガラスを下げ、窓枠に左腕を置いて運転する、晴天の日のことだ。左腕は陽焼けする。ハワイにおける左腕の陽焼け対策という内容の記事を、いつだったか新聞で読んだ。
 パトロール・カーの窓から左腕を出して車体の外に垂らすのが、ひと頃のホノルルでの、警官たちのスタルだった。陽焼けをふせぐために、運転者が左腕にだけはめる袖のようなものが、かつて市販されていた。僕はウールワースで見た。いまでも売っているだろうか。僕は左の窓ガラスを降ろしてみた。
 雨が大量に吹き込んだ。窓の外に左腕を出してみた。腕はたちまち濡れた。雨の冷たさが心地良かった。しかし、あまり利口そうには見えないのではないか。僕は腕を引っ込め、ガラスを上げた。濡れた左腕をどうすればいいか。濡れたままにして僕は町へ向かった。
 スーパーマーケットにさしかかって、僕はカプリースを歩道に寄せて徐行させた。そして歩道の縁に接近させて停止し、ドアを開いて外に出た。マーケットの建物の壁に寄せて、新聞の販売箱が置いてあった。歩み寄った僕は代金を入れ、なかに重ねてある新聞を一部、いちばん下から抜き出した。
 この箱を新聞の販売機と呼ぶには、それはあまりに手動に過ぎる。販売箱と呼ぶほかないだろう。代金を入れない人も、いまは多いのではないか。カプリースに戻って運転席に入り、隣のシートに新聞を置き、僕はドアを閉じた。ミラーでうしろを見て、発進させた。このくらいの大きさの車体だと、意図的な急発進のほかは、発進するときは常におもむろだ。
 いきつけの食堂の前を、僕はゆっくりと通過した。ヒロにいるとき、朝食を僕はほとんどいつも、この店で食べる。歩道にはそのブロックの端まで軒がある。空いているスペースに僕はカプリースを停めた。ドアを開き、外に出てドアを閉じ、ロックした。ドアの開閉回数を記録する小さな計器がドアのどこかにあると面白い、と僕は思った。
 朝食の時間帯の、いまはそのいちばんおしまいの部分だ。食堂のカウンターには空席がいくつかあった。今朝はなにを食べるか、家を出る前に僕は考えておいた。白い長袖のシャツに黒いボウ・タイを締めた店主に、僕はそれを告げた。
 トーストを四枚に、卵ふたつのベーコン・アンド・エッグス。マウイ・トマト一個のスライス。そしてコーヒー。これだけだ。卵ふたつのベーコン・アンド・エッグスは、二枚のトーストにはさんでサンドイッチにする。一杯のコーヒーとともに、まずこれを食べる。
 それからトマトのスライスをすべて、少しずつずらしながら一枚のトーストの上にならべ、アルプスの岩塩を降ってもう一枚のトーストをかぶせ、サンドイッチにする。これに二杯めのコーヒーを付き添わせる。以上のような朝食だ。店主は調理場へ入っていった。
 食後にはパパイアの半分。そして仕上げにコーヒーをもう一杯。だからコーヒーは合計で三杯になる。待つほどもなく、僕の朝食はすべてカウンターに揃った。自分でサンドイッチにして、僕は食べた。客が何人か入って来た。遅い朝食の人たちだ。彼らが食べ終える頃、この店の朝食の時間は終わる。
 店から外の雨まで素通しだ。雨の匂いが僕の朝食に重なる。道路を自動車が走っていく。窓ごしに見るともなく見ると、大きくて平たい車体の、ふた昔以上も前のアメリカの乗用車だ。ヒロの町に適した速度で走っていくとき、今日のような雨の日には、路面の雨をタイアが踏みつける音がことのほか耳に心地良い。
 僕のカプリースもおなじような音をたてているはずだと思うと、うれしい気持ちになる。そしてその気持ちは、朝食に対する満足感を、ゆったりと包む。雨は地球の芸術だ。不統一きわまりない現実というものを、雨はひとつにまとめ上げる。ヒロに降る雨は作品の域に達していると言っていい。
 半分に切られたパパイアは、皮だけを残して空になった。三杯めのコーヒーも飲み終わった。僕はたいへん満足だ。さて、これから、どうするか。カプリースで雨のなかをどこかへ向かおう。どこでもいい。適当なところに駐車して、運転席で新聞を読もう。雨の日の新聞の匂いが、カプリースのなかに漂う。
 それはなんという至福の時であることか。音を出さない口笛を吹いている自分を、僕は自覚していた。ほとんど息だけの口笛だ。気分のいいとき、自分だけのために、僕はこういう口笛を吹く。子供のときから続いている癖のようなものだ。
 カウンターをはさんで僕と向き合っていた店主は、
「それは『ヒロ・マーチ』だね」
 と言った。それとは、僕が息だけの口笛で吹いていたメロディのことだ。彼が言うとおり、確かにその曲は『ヒロ・マーチ』だ。気分がいいから息だけの口笛を吹くとき、まずたいていの場合、その曲は『ヒロ・マーチ』になる。これも子供の頃からずっとそうだ。
 店主のひと言を直接のきっかけにして、遠い昔のことを僕は久しぶりに思い出した。
 僕がまだ十歳になったかならないかの頃、日本の真夏の日曜日の午後、たまたまついていたラジオで、僕はハワイ音楽の番組を聴いた。ハワイからの実況中継だったから、その番組が『ハワイ・コールズ』であったことはまず間違いない。放送していたのは当時の占領米軍の放送システムだ。
 なんとなく聴いていた僕の気持ちを、ひときわ強くとらえた曲があった。歌はなく、演奏だけだった。その曲が終わると、そばにいた父親が、
「いまのは『ヒロ・マーチ』という曲だよ」
 と言った。
 初めて聴いてほとんど覚えてしまったほど、僕はその曲を好きになった。それから数日後、ひとりで遊びながら『ヒロ・マーチ』のスティール・ギターを口真似していた僕に、
「その歌あ『ヒロ・マーチ』よのう」
 と、祖父が言った。
 僕が久しぶりに思い出したのは、以上のようなことだ。そしていま、ヒロでいちばん好きな食堂の店主が、僕の息だけの口笛に対して、
「それは『ヒロ・マーチ』だね」
 と言った。祖父から父親をへて僕まで、『ヒロ・マーチ』は三代をつらぬいている。なかば冗談のような言いかただが、こう思っているとそれはそれで楽しい。
『ヒロ・マーチ』は傑作曲だ。僕の好みとしては、『ヒッロ・マーチ』と書きたい。大きく領域分けするなら、この曲はハパ・ハオレに入るのだろう。ハパ・ハオレとは半分は白人という意味で、使用される範囲はきわめて広い。ハワイの大衆音楽の世界では、アメリカにおけるヒット・ソング製作の手法を、ハワイにも適用して生まれた流行歌のような歌や曲、そしてそれらの演奏や歌いかたなどを意味する。
 作曲されてから現在にいたるまで、『ヒロ・マーチ』はハワイでさまざまな演奏家たちによって演奏され、レコードになって来た。その音源を集め、たとえば三十人による『ヒロ・マーチ』が三十曲入っている一枚のCDを製作して市販する人がいるといいのに、というようなことを僕は以前から夢想している。姉に提案してみよう。実現するかもしれない。
『雨の日のヒロ・マーチ』という曲を作る人はいないものか。これも僕の夢想のひとつだ。『ヒロ・マーチ』があるなら、『雨の日のヒロ・マーチ』という曲があってもいい。『ヒロ・マーチ』という古典的な傑作を出発点にして生まれていく、あらたな可能性として。姉が作曲するといい、と僕は思ってみたりもする。
 とりとめなくいろんなことを思う、朝食のあとのひとときだ。もう何年も昔、父親から聞いた話を僕は思い出した。『ヒロ・マーチ』にまつわる、忘れがたいエピソードだ。
 戦前のホノルルのダウンタウンで、一軒のバー・アンド・グリルが廃業した。地元の人たちの溜まり場のような店だった。僕の父親と同年令で親友だった日系二世の男性が、その店のジュークボックスを買い取った。自分の部屋に置いて好きなレコードを入れ、いつも好みの音楽を聴いていた。戦争が始まった。僕の父親とともに、彼はアメリカ陸軍に志願入隊した。
 基礎訓練を受ける基地に向けて出発する前日、彼はひとり自分の部屋で過ごした。ジュークボックスに硬貨を次々に入れては、彼はハワイの音楽を聴いていった。聴きながらさまざまなことを思った。気持ちは次第に高ぶっていき、ついに耐えられなくなった。
『ヒロ・マーチ』の途中で彼はジュークボックスの電源を切った。レコードはターンテーブルに載ったまま、そしてカートリッジの針先は『ヒロ・マーチ』の途中で止まったままだった。基礎訓練を終えるとすぐにヨーロッパの前線へ。激戦地を転戦して終戦、そしてアメリカへの帰還まで、彼は僕の父親とずっといっしょだった。
 ハワイへ帰って来て久しぶりに入った自分の部屋で、彼はジュークボックスに再会した。兵士として戦場に出ていたあいだ、完全に忘れていたジュークボックスだ。レコードが途中で止まったままだ。彼は電源を入れた。レコードは回転を始め、『ヒロ・マーチ』が途中から再生されていった。
 ジュークボックスの前に膝をつき、片手をジュークボックスにかけて深く頭を垂れ、彼は『ヒロ・マーチ』の残り半分を聴いた。再生されてスピーカーから解き放たれる音のひとつひとつに対して涙が出るという、完全に音楽と同調した泣きかたを、そのとき彼は初めて体験した。
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エルヴィスで四ページ




 ヒロにいるときいつも朝食を食べる食堂で、ある雨の日、僕はカウンターの席で初老の日系男性の隣にすわった。僕は彼を知らないのだが、彼は僕を知っていると言った。
「きみのお父さんにね、中波の受信機を作ってもらったことがあるんだよ。もうずいぶん以前のことになるけれど。彼はアメリカ陸軍でずっと無線関係の仕事をしたんだよ。その専門知識を駆使するまでもないんだけど、なにしろただの中波だからね、でも機材は軍用のを使って、それはそれは性能の高い、目の覚めるような受信機を作ってくれた。僕は野球が好きでね。メインランドのラジオで野球中継をしてるだろう。それを聴くための受信機さ。彼に場所まで選んでもらったよ。ここに本格的なエーリアルを立てるといいという、その場所さ。そこはたまたま僕がしばらく働いていたことのある砂糖会社の土地でね。海に面したなんにもない土地で、なににも使ってないのさ。多少ともでこぼこした赤土の土地で、ところどころに草が生えていて、ずっと向こうに、赤錆の塊のようなトラックが一台、捨ててあるというような。許可をもらって僕はそこにエーリアルを立てたよ。それもきみのお父さんが設計してくれて、そのとおりに僕が材料を集めて作ったんだ。エーリアルだからね、専門の知識は必要ないんだ。設計図のとおりに作ればそれでいい。自動車に受信機を積んでね、人の頭がすっぽり入るほどの大きさの、直方体の黒い箱のようなスピーカーをミラーから下げてさ。エーリアルから引いたワイアーを受信機につないでダイアルをまわしていくと、すごいんだよ。メインランドのどこのラジオ放送でも受信出来そうな、素晴らしい性能でね。中継するアナウンサーの声や球場を満たしている観客の声や物音など、すべてがものすごく鮮明に、スピーカーから出て来るんだ。いつもそこへいっては、僕はメインランドの野球中継を聴いたよ。野球と受信機の両方に、うっとりとなってね。ロジャー・マリスがベーブ・ルースを抜いたときの中継も、僕はそうやって聴いたんだ。その受信機はいまでも大事に持ってるよ」
 彼が語ったそのような話を聞いて、僕の頭のなかにアイディアがひとつ生まれた。写真と文章で構成される小さな一冊の本を作るアイディアだ。たとえば彼が語った話を、彼の言葉どおりに簡潔にまとめ、一ページの下半分に収める。上半分には写真を入れる。彼がまだ持っているという受信機を、ほどよく雰囲気を出して、僕が写真に撮る。
 一ページごとに、ひとつの話と一枚の写真がある。本ぜんたいが、そのようなページで構成されている。大きなサイズにしたくない。縦六インチに横が四インチというような、手のなかに入る標準的なサイズがいい。
 カウンターをへだてて僕たちの前に立ち、店主が話を聞いていた。彼も僕にとって初めて聞く話をしてくれた。
「きみはリトル・リーグでキャッチャーをやってたんだよ。最初の試合を僕は見たなあ。みんな応援に来てた。きみのお父さん、そしてお姉さんも来てたな。きみが最初の打席に立ったときのことは、いまでもはっきり覚えてるよ。相手の投手はボールを三つ続けてね。きみは三球とも静かに見送った。グッド・アイ!、と僕は大声をあげて声援した。そして四球めも、見逃せばボールだったかな。まんなかから入って来て、外へはずれつつ落ちていく球さ。きみはその球をうまく打ったんだよ。でも、ちょっとだけ、芯をはずしたね。打球はグラウンダーになって、セカンドとファーストのあいだを抜けていった。走れ、走れ!、ときみのお父さんは夢中で叫んでたよ。きみは二塁に到達した」
 僕にとってのリトル・リーグでの初試合に関して、記憶がまったくないわけではない。ボールが三つ続いたというような細かいことは覚えていないけれど、打ったあとバットをほうり投げて必死で走りながら、速い速度で転がっていくボールを二塁手と一塁手が同時に追いかけていく姿を均等に見ていたことに関しては、記憶があった。
 二塁手と一塁手の走りが、僕の体の感覚のなかで、僕自身の走りに重なった。ボールを追って彼らが走れば走るほど、拾ったボールを投げるべき一塁は遠くなる。彼らが走れば走るほど僕も走る。そして僕は、走れば走るほど、一塁に近くなる。そのスリルを確認しながら、一塁をまわって二塁に向かった記憶が残っている。一塁をまわったとたん、二塁はとてつもなく遠く思えた。
 店主が語ってくれたこの話も、僕の頭のなかに生まれた一冊の小さな本の、一ページを作ることが出来る。写真はあるだろうか。僕の父親のことだから、写真あるいは八ミリのどちらかは、撮ったはずだ。自宅の納戸の棚を探してみればいい。走れ、走れ!、と父親は夢中で叫んでいたというから、撮影したのは冷静な姉だったかもしれない。
 本の一ページを構成する話と写真は、いまの僕を中心とした身辺から、こうして見つけていくといい。無理することなく、ごく自然ななりゆきのなかで。身辺にもっとも近いのは父親と姉だ。このふたりを経路にするだけでも、一ページを作ることの出来る話と写真は、かなり集めることが出来るのではないか。ほかの誰でもなく、この僕でなければ集めることの出来ない話。僕とは関係がないように思えても、最終的にはなんらかのかたちで、僕によってその本のなかにつなぎ留められていく話、そしてそれらの話に添う写真。
 姉からの連想で僕はエルヴィス・プレスリーについて思った。ハワイにエルヴィス・プレスリーの自宅がかつてあった。その自宅に向けて登っていく道路の写真を、姉は僕にくれたことがある。山の斜面を登っていくその道路の途中で自動車を停め、外に出て道のまんなかから道路の前方をただ撮っただけのカラー・プリントだった。こういう写真こそ、この本のなかでは面白さを発揮するのではないか。そのカラー・プリントを僕はまだ持っている。複写して使えばいい。
 姉は十歳のときにハワイでエルヴィス・プレスリーを見ている。一九五七年に彼は最初にハワイへ来た。飛行機を嫌がった彼は船で来たという。何度かステージに立った彼は、オアフ島のスコフィールド兵営でも、アメリカの兵士たちのために歌った。姉は父親とともにそのときの彼を見た。父親は8ミリでエルヴィスを撮影した。キャデラックを降りて兵営の中庭に向けて歩く彼をとらえたほんの三、四分のフィルムを、僕はかつて見たことがある。そのフィルムからひと駒をプリントすれば、それも本のなかに使える。
 それから十六年後に、姉はエルヴィスに会った。一九七三年のことだ。衛星で中継されたアロハ・フラム・ハワイという公演のためにハワイへ来たとき、彼はホノルルの有名な空手道場を訪ねた。当時の姉はホノルル警察で空手を教えていた。エルヴィスを迎えるのがポリネシア系の大男ばかりではつまらないだろう、若い美人もいたほうがいいということになり、姉がその道場に呼ばれたのだ。このときの写真は何枚もある。空手着のエルヴィスと向き合った姉が、彼に合わせて構えを作っている写真を、本に使うといい。
 エルヴィスが死亡したとき、僕はたまたまホノルルにいた。「エルヴィス死す」という大きな見出しを一面に掲げたホノルルの新聞を、その見出しの部分を中心にして、僕は写真に撮った。四つにたたんで公園のベンチの端に置いたその新聞は、西からの陽ざしを受けとめていた。僕が撮影したのは、題字から見出し、そしてその下の写真と記事の一部を含んだ、クロース・アップだ。
 この写真も使うことが出来る。文章はそのときの僕について書けばいい。想像のなかで僕が作り始めている小さな本は、早くも野球で二ページ出来た。そしてエルヴィスで四ページだ。エルヴィスでは四ページが限度だろう、これより多くてはいけない気がする。僕の小さな本は、すでに六ページも出来た。
 僕はラハイナのシスコ・アカミネのことを思った。およそ四十年前にきみのお父さんから借りてそのままになっていたものだよと言って、彼は一枚のアロハ・シャツを僕に返してくれた。あの話も一ページになる。
 あのアロハ・シャツを着た僕が、シスコ・アカミネの自宅の、ポーチへ上がる階段のかたわらに立つ。西陽を全身に浴びる時間がいい。マンゴーの樹の影が僕に向けて地面にのび、その影は僕の膝あたりまで上がって来ている。まぶしい陽ざしに僕は目を細くしている。そのような状態を、三脚につけた一眼レフのセルフ・タイマーで撮ればいい。
 僕がかつて新聞で読んだ話でも、ひとつかふたつなら使えるだろう。ただし、よほど面白い話でないといけない。たとえばもう何年も前、ホノルルの新聞で読んだ次のような話だ。
 中年にさしかかっている年齢の全盲の男性が、夜の時間は自室でTVを見て過ごす、という記事を僕は記憶している。夜の遅い時間、いくつかのチャンネルで、昔の映画が放映される。その男性は、こういった昔の映画を、たいそう好んでいた。画面に向き合って椅子にすわっているのだが、画面は残念ながらまったく見えない。しかし音声は聞こえる。登場人物たちの台詞、そしてそれにともなう効果音に注意力を集中させていると、ストーリーの展開はもちろん、人物の動きや表情など、あらゆる部分を想像のなかに思い描くことが出来る。長い自己訓練の果てに到達した境地だ。
 いまは亡い母親から引き継いだアパートメントの部屋で、その男性はひとり暮らしをしていた。夜の時間の彼は、TVで放映される昔の映画を、何年にもわたって唯一の楽しみにして来た。数多い昔の映画の、ストーリーも人物の動きもすべて克明に記憶した。すでに熟知しているおなじ映画を見るたびに、彼の記憶は少しずつ修正され、より正確に、そしてより豊かになっていった。彼の記憶のなかには、そのようにして何本もの映画が出来上がっていた。
 ある夜のこと、彼のTV受像機が故障した。母親が買った、少なくとも三十年前の受像機だ。買い換えないとどうにもならないことがわかった。母親をもう一度失ったような気持ちになり、すっかりしょげている彼を見て、友人や知人たちは彼に新しいTVをプレゼントすることにした。全員がおかねを出し合い、最新式の新品のTV受像機を一台、彼の部屋に運び込んだ。
 故障するまで、というよりも寿命がつきるまで彼が使った古いTVにくらべると、最新型の新品は音声の聞こえかたがまるで違っていた。鮮明さや臨場感など、すべてが比較にならないほど、素晴らしかった。もはや知りつくしていると彼が思っていた昔の映画は、TV受像機が新しくなることにより、まったく新たな広がりや奥行きを獲得した。彼にとってはそれだけ楽しみが増えたことになった。
 この話も一ページになる。ガレージ・セールや蚤の市をまわって古いTVを見つけ、少なくともヴィデオ・デッキのモニターとしては機能するまでに修理し、画面に昔の映画を再生し、その様子を写真に撮ればいい。
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カリフォルニア生まれだ、ソバカスがある




 一枚のスナップ写真をいま僕は見ている。かなり昔に撮影されたものだということは、ぜんたいの雰囲気からよくわかる。横置きの四インチに五インチというサイズの、白黒のプリントだ。四辺に白く縁取りがある。
 撮影された場所は体育館の内部のようなところだ。一台のグランド・ピアノがあり、その蓋の上には、十四歳のときの姉がすわって微笑を浮かべている。その姉を中心に、白人の大人の女性が三人、立っている。三人ともきれいな人たちだ。顔立ちによく似合った髪、魅力を引き立てている服や靴。彼女たちは写真に撮られなれている。ポーズと笑顔が、無理なく華やいで美しい。
 画面の端には譜面台が見える。ブームの先端から下がっているマイクロフォンもある。日本にいまもある、アメリカの海兵隊基地施設のなかの、建物のひとつだ。海兵隊のジャズ・バンドが練習のための場所として使っていた。いま僕が見ている一枚の写真は、その建物のなかで撮影された。
 三人の白人女性たちのうち、画面の左端に立っている人の足もとから頭の上に向けて、下から斜めに、フェルト・ペンでサインがしてある。そのサインは、パティ・アンドリュース、と読める。
 姉の舞子は十四歳のときには日本にいた。僕は九歳だった。姉が日本語ではおばさんと呼んでいた遠い親戚の女性が、姉に夏のワンピースを作ってくれた。梅雨が明けたばかりの夏の日の午後、姉はそのワンピースを受け取りにいった。誘われて僕は同行した。
 汽車に乗っていった。駅の数で三つだったと思う。駅から歩いた。初めていく場所なのだが、よく知っている人のように、まるで地元の人のように、姉は歩いた。迷うことなく探しもせず、おばさんの住んでいる家に着いた。大きな家だった。家と言うよりも、お屋敷だろう。
 舞子の来訪におばさんはたいそう喜んだ。ワンピースは出来ていた。姉はそれを着てみた。よく似合っていた。幼い僕ですら、姉は素晴らしくきれいだ、と思ったほどだ。おばさんの屋敷を出るとき、姉はたたんで風呂敷に包んだ服を、片腕で捧げるように持っていた。僕のシャツの胸ポケットに、金平糖の入った小さな紙の箱をひとつ、おばさんは入れてくれた。
 駅へ戻って汽車を待った。ほどなくやって来た汽車に僕たちは乗った。そして途中の駅で降りた。どんなところだか降りてみよう、と姉が言ったからだ。低い山が周囲に重なり合うなかに抱きこまれた、小さくて静かな町だった。原寸大の模型のように僕は感じた。真夏の強い陽ざしが、どこか虚構のようだった。
 町には銭湯があった。どっしりした印象のある、充分に時をへた木造の建物だった。銭湯は営業していた。風呂に入っていこう、と姉は言った。銭湯に入るにはタオルと石鹸が必要だ、と僕は言った。私もあなたもハンカチを持っているから、それでだいじょうぶなのよと彼女は言った。僕たちは女湯と男湯とに別れた。
 僕は熱い湯に入ったり出たりして、なかば義務的に時間をやり過ごした。顔を洗ってみた。脱衣場に出て来て、濡れた体を乾かした。隅に体重計があった。僕は体重を計ってみた。体が乾いてから僕は服を着た。そして銭湯の外へ出た。
 外は暑かった。ひとりで待っていると、やがて姉が女湯から出て来た。おばさんに作ってもらったばかりの夏のワンピースを、彼女は着ていた。彼女は化粧していた。姉はまるで別人のようだった。入浴客の女性のひとりが、化粧をほどこしてくれたのだと姉は言った。姉はじつに美しかった。町と陽ざしに加えて、姉もまた、フィクションのなかの架空の人のように見えた。
 姉に化粧をほどこした女性が、浴衣姿で銭湯から出て来た。ほかの女性たちもまじえて、彼女たちは銭湯の前で立ち話を始めた。しばらくして、アメリカ海兵隊のウェポンズ・キャリアのトラックが一台、徐行して来た。映画フィルムに連続する駒のひとつひとつのように、このときの場面を僕はいまも鮮明に記憶している。
 徐行するウェポンズ・キャリアを運転していた若い兵士は、銭湯の前に立っている女性たちに視線を向けた。立ち話をしている女性たちのなかから、彼の視線は姉の舞子を選び出した。彼はトラックを停止させた。女性たちがトラックを見た。振り向いた姉の視線をとらえて、兵士は言った。
「ユー・スピーク・イングリッシュ?」
 カリフォルニアに生まれてサンフランシスコとホノルルで育ち、日本へ来て一年の姉に、若いアメリカ兵は、おなじ文化を共有する人の雰囲気を感じ取ったに違いない。だから彼は、姉にだけそのように訊いた。
 カリフォルニアのデイナ・ポイントが私の故郷だがあなたのはどこなのかと、姉は僕がそれまで聞いたことのないような早口で、兵士に答えた。デイナ・ポイントという地名にちなんで、姉の名はデイナという。ダーナと発音してもいい。舞子という日本名は自分でつけたものだ。
 舞子のそのひと言から、大騒ぎが始まった。運転席の兵士は狂喜したように叫んだ。
「カリフォルニアの生まれだって、本物の英語を話すよ!」
 ウェポンズ・キャリアの荷台には幌が張ってあった。幌は運転席の屋根まで広がっていた。荷台から四人のアメリカ兵が降りて来た。笑顔で舞子に歩み寄り、四人がいっせいに英語で話し始めた。本物の英語で話の出来る若い女性の存在は、彼らにとってたいへんに嬉しいことだった。
 姉は四人のアメリカ兵に囲まれ、僕はその外となった。トラックを運転していた兵士が運転席へ戻った。近くにいるらしいおなじ部隊の連中に、彼は無線で連絡をつけた。「カリフォルニア生まれなんだよ。とんでもない美人なんだよ。本物の英語を話すんだ。しかも、ソバカスがあるんだ!」彼が夢中で喋る言葉を、僕は陽ざしのなかで聞いた。いまは完全に消えているが、当時の姉の顔には淡くソバカスが散っていた。
 仲間のところへ戻ったその兵士は、
「すぐにほかの連中もここへ来るから、それまで待っていてもらえるとうれしい」
 と、姉に言った。姉は承諾した。だから姉とアメリカ兵たちは、銭湯の前で話を続けた。町の人たちが集まって来て、遠まきにして珍しそうに眺めた。僕はどちらの人たちをも観察する中間的な立場にいた。兵士たちのひとりが、集まった町の子供たちにキャンディを配った。
 待つほどもなく、その銭湯の前に三台のウェポンズ・キャリアがあらわれた。そのうちの一台は、二輪のカーゴ・カートを牽引していた。ごく通常の軽い演習に出ていたのだ、と兵士のひとりが僕に説明した。銭湯の前で姉を囲むアメリカ兵は、十数名となった。銭湯へ来た人たちが入るに入れないから、道の反対側へ移動するように僕は提案した。姉を中心に、兵士たち全員が、道の向こう側へ移った。
 海兵隊の兵士たちは、僕と姉の父親が配属されている基地と、おなじ基地のなかに駐屯していることがわかった。僕と姉は、彼らのウェポンズ・キャリアに同乗して、基地まで帰ることになった。僕としては汽車に乗りたかったのだが。
 十数人のアメリカ兵をひとりで相手にして、姉はまるで映画スターのようだった。いつもは知らん顔をして冷たい印象があるのだが、姉は気が向くと男たちの扱いがきわめて巧みだ。そしてこのときは、僕がこれまで見た例の、最高のものだった。
 日本の夏の午後がゆっくりと夕方へと移っていく時間のなかを、四台のウェポンズ・キャリアは基地へと向かった。隊列はときどき停止し、そのたびに姉はほかのトラックに移った。僕はおなじ一台の運転席にすわったままだった。おばさんがくれた金平糖を、運転している兵士とともに食べた。その兵士は無口な男で、僕が持っている金平糖の箱を片手で示し、「もう少しくれ」と一度だけ言ったきり、基地へ帰還するまでひと言も口をきかなかった。
 基地に帰りついてからも、姉をめぐって兵士たちの騒ぎは続いた。最初にあの銭湯の前に停止したウェポンズ・キャリアには、ラッパ兵が乗っていた。彼は海兵隊のジャズ・バンドでトランペットを吹く人だった。姉と音楽の話に興じた彼は、バンドが練習するときに遊びに来ないかと、姉を誘った。
「きみが一生忘れることの出来ない体験を、させてあげる」
 と、彼は姉に言った。
 指定された日の約束の時間に、姉は基地へいった。僕がさきほどから見ている写真を撮った建物のなかで、海兵隊のジャズ・バンドが練習をしていた。練習が終わったあと、スモール・グループによるセッションが始まった。勧められるままに姉はピアノを弾いた。当時の姉は、プロフェッショナルなジャズのスモール・グループでピアニストが務まるほどの腕前だった。
 バンドの兵士たちが盛んに驚いたり感心したりしているところへ、姉とともに写真に映っている三人の白人女性があらわれた。日本にあるアメリカ軍基地をめぐって公演するために日本へ来ていた、アンドリュース・シスターズの三人だ。
 年齢順にラヴァーン、マクシーン、そしてパティの三姉妹で、一九三七年に二枚めのレコードが最初の大ヒットになって以来、彼女たちはスターだった。アメリカにとっては、第二次世界大戦の体験に、彼女たちは緊密に結びついている。あの戦争の時代に音楽をつけるなら、アンドリュース・シスターズの三人は、最初から最後まで舞台に出て歌っている最大の主役だ。姉の弾くピアノを聴いて、三姉妹は惚れ込んでしまった。その基地での最初の公演までの三日間、姉は彼女たちのリハーサル・ピアニストを務めることになった。
 真珠湾攻撃の五十周年記念のとき、招かれたパティ・アンドリュースは、ホノルルへ来た。市内のパレードにも参加した。そのとき、姉はパティ・アンドリュースと再会した。私のことをパティはよく覚えていた、と姉は言っていた。ラヴァーンとマクシーンはすでに亡く、少なくともそのとき健在だったのはパティだけだった。
 十四歳の夏、三姉妹とともに日本で撮った写真を、姉はパティに見せた。そしてその写真にパティのサインをもらった。その写真にパティ・アンドリュースのサインだけがあるのは、およそ以上のような経緯によるものだ。
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ファミリー・フォトグラフズ




 ものごとの核心を素手で的確にひとつかみにする能力を、姉の舞子は持っている。生まれついてのものだろう。このような能力が、努力して身につくものだとは、僕も思わない。そして彼女は僕よりもはるかに、原理的な人だ。
 ひとつかみにした核心に沿って、まるでそれに導かれるかのように、核心のもっとも大切な部分を現実へと転換していく才能にも、姉は豊かに恵まれている。これも生まれつきのものだ。姉の舞子を支えているのは、以上のふたつの能力だ。
 その姉が僕にひとつのアイディアを提供してくれた。僕たちの父親が残した膨大な量のスナップ写真のなかから、父親というひとりの人の人生を引き出してみようではないか、というアイディアだ。
「その人生の主役は父親なのよ。彼という人を主役に想定して、その主役である彼をめぐって、あのたくさんの写真のなかから、一枚また一枚と写真を選んでいくの。そのようにして選ばれた写真によって、彼の一生というものを、見ればわかるグラフィックなものとして、構成しなおすのよ」
「納戸の棚にただ眠っているだけでは、いくら大量の写真があろうとも、それらはなにごとも語りはしない」
「そのとおりだわ」
「残された数多くの写真のなかから、これはと思うものを選び抜き、それらの写真をたとえば時間順に配列することによって、彼の人生というものが、誰の目にも理解出来るように展示される」
「そうよ。スナップ写真とは、要するに人が写っているものなのね。そのときどきのいろんな人たちが。そして大量のスナップ写真とは、時間の経過だわ。経過していく時間のなかのごく小さな出来事として、数多くのさまざまな瞬間に、スナップ写真は撮影されるのね。そしてひとつの人生の時間が経過しきったあとになってみると、残されたスナップ写真は、その人生に関する無数のスケッチの試みなのよ」
「スケッチを正しく選んで正しく配列すると、ひとつの人生が浮かび上がってくる」
「残された写真のなかから、これはと思うものを選んでみましょう」
 核心を素手でぱっとひとつかみにする得意技を、姉は父親が残した写真をめぐって、発揮しようとしている。つきあうのは楽しい体験だし、啓発されることは多いにきまっている。
「写真を時間順にならべて観察すると、そこに彼という人の成長や変化を見ることが出来るのよ。いつも身辺にいた人たちも、彼とともに変化しているし。ごく初期にあらわれてそれっきりの人がいたり、途中であらわれ始めて何年かおきに登場したり、父親の晩年にまったくあらたに登場した人がいたり」
「面白いね」
「彼という人は、ひとりで生きたのではないのよ。関係のなかを生きたのね。多くの人たちとの関係。だから関係とは、それぞれが個人である、何人もの人たち」
 きわめて明晰な彼女の論理の展開が、彼女の英語によって語られていくのを聴いているのは、聴くという行為によってもたらされる快感のひとつだ。
「写真には時代が写し取られる」
 と、僕は言ってみた。
「彼が体験した人生の時間は、そのまま、彼の生きた時代なのね。時代という時間の経過を、何枚ものスティル写真で見ていく、という試みにもなるはずよ」
「しかもその時間のなかには、ひとりの主役がいる」
「そうです」
「何点ものスティル写真を、丹念に読んでいくことが可能だ。いろんなふうに読むことが出来る。人によってさまざまだ」
「一九一一年から一九八六年までという、ひとつにつながった時間。その時間のなかを、彼というひとりの人が、いろんな人たちとの関係を作っては、そのなかを生きていったのよ。彼がこの世の時間を終えたあとに残った多数のスナップ写真は、時間と関係との両方にまたがる証拠写真だわ」
「選ぶのがたいへんだ」
「時間が経過すると、この世からかならず消えていくものの代表あるいは典型が、人というものなのね。そして人は、消えたあとに痕跡を残すのよ。人によって痕跡の内容やかたちはさまざまでしょうけれど、写真は痕跡としてもっともわかりやすいわ。だからまずなによりも先に、そのわかりやすさにおいて、写真は人の痕跡として普遍的な位置を獲得してます」
 整理されきった頭のなかから、英語という言葉によって、姉は論理を紡ぎ出していく。その様子をかたわらの僕は彼女の音声で受けとめ、頭のなかへ入れる。姉はそのようなかたちで僕の内部へと入ってくる。
 姉は二週間の休暇を取った。父親がその晩年をひとりで過ごした家に、僕はずっと寝泊まりしている。休暇のあいだ毎日、姉はそこへ通ってくることになった。僕たちふたりの作業が始まった。
 納戸の棚に写真は大量にあった。その大量の写真は、ものの見事に整理されていた。完璧な時間順に、何冊もの写真帳にきれいに貼ってあった。写真帳のなかに貼るものと、貼らずに保管しておくだけの写真とのあいだに、父親はなんらかの基準をもうけていたようだ。貼ってはいない写真も、時間順に整理してあった。
 大量にある写真を見ていくのは、けっして苦痛ではなかった。しかし数は多い。写真帳には通し番号がつけてあった。1から順番に見ていくのは、そのまま父親の人生の時間をたどりなおすことだった。
 僕たちの父親がハイスクールを卒業した時期にまで到達したとき、
「ここからにしましょう」
 と、舞子は言った。
 父親がホノルルのハイスクールを卒業するときに撮影された卒業写真を、彼女は指さしていた。細い縦長のカードのような厚紙の上部に、十八歳の父親のポートレート写真が貼ってあった。カードの下には、彼の名前とハイスクールの名称、そして卒業年度が印刷してあった。印刷の色はブラック・コーヒーの色で、カードの紙はクリーム色、そして写真はセピア色だった。カードも写真も、絶妙なおだやかさで、四つの角が丸く落としてあった。
「この写真から始めましょう」
「まさにスタートだね」
「赤子の頃の写真から始めても、さほど意味はないと思うのよ」
「僕もなんとなくそう感じていた。スタート地点をどこにするといいのかと思いながら、写真を見ていた」
「赤子や幼児は、要するに赤子や幼児でしかないのよ。赤子や幼児の状態は、どこの誰にも共通する、おなじような状態なのよ。ひとりの人として、社会的に機能していく意志のようなものを、まだ獲得してない状態だわ。だからあなたが感じたとおり、人生のスタート地点として、明確な絵柄にならないのね。でも、このハイスクールの卒業写真の彼は、まだ十八歳とはいえ、確固たるひとりの社会的な存在だわ」
「その写真から始めるのは、たいへんな正解だと僕は思う」
 決定的な最初の一枚が、そのようにしてきまった。オフィス機器のレンタル会社から、僕は白黒のコピー機を一台、借りてきた。これはと思う写真はすべて、アルバムに貼ったままの状態でコピーして切り抜き、三穴バインダーの紙に一点ずつ貼っていった。
 写真帳に貼ってある写真をすべて、姉とふたりで点検した。背幅の厚い三穴バインダー二冊に、それぞれ三百五十枚の紙をはさみ、一枚の紙に一点のコピーを貼った。父親の人生の痕跡として、僕たちは七百点の写真を選び出した。父親がアルバムに貼らなかった写真に関しては、貼らなかったという彼の意志を尊重し、僕たちの選択の対象からはずすことにした。
 二冊のバインダーにはさんだ七百枚の紙に、僕は通し番号をつけた。1から700までの七百枚の写真が、僕たちの父親の人生の痕跡だ。
「この二冊を、何度も見るといいのよ。飽きるほど見るのね。写真をこの順番で覚えてしまうほどに」
 姉が言った。
「二冊ずつ作ればよかったかな」
「これで充分よ。あるときは私の手もとに置き、またあるときはあなたのところにある、というふうにすればいいわ」
「キャプションをつけるべきだ」
 僕の意見に姉は賛成だった。
「写真を見ていくだけでは、事情や背景といったものが、いっさいわからないわね」
「きちんとした説明文がいいね。身内の内輪話ではなくて」
「そのとおりよ」
「あまり短い文章だと意味がない。必要なだけの文字数を使って、写真を充分に補完しなければいけない。写真に言葉が添えられて初めて、写真のなかにいる人の人生が浮かび上がってくる」
「私とあなたとで、ひとまず一冊ずつ持っていましょうか。自分に書くことの出来る範囲内で、説明文を書き込んでいけばいいのよ」
「おたがいに推敲し合ったり、訂正したりしてね」
「視点を変えたり」
「一冊ずつ持っていることにしよう」
 二冊の分厚いバインダーを、その後の僕たちは、何度か交換し合った。説明文を添えた写真が少しずつ増えていき、説明文のない写真のほうが少なくなった頃、姉は自分が持っていたバインダーをハワイ大学の出版局にいる友人に見せた。
 友人は熱心な興味を示した。僕が持っているもう一冊も見たいということだったので、僕はバインダーを姉に託した。二冊のバインダーは出版局の出版企画として正式に議題にのぼり、さしつかえなければ出版したいという提案を姉が受けた。本にすることに関して、僕たちは賛成だった。
「タイトルを考えてほしい、とまで言われてるのよ。ハワイという一言は、ぜひタイトルに入れたいのですって。ファミリー・フォトグラフズ、というタイトルはどうかしら」
「そして副題を、ア・ライフ・イン・ハワイとすればいい」
「写真は三百点ですって」
「無理なく出来るよ。いまある半分まで、ふたりで選びなおせばいい」
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プールにも台風が来た




 姉の舞子が日本にいたのは、彼女が十三歳から十六歳までの期間だ。十七歳になったときには、彼女はカリフォルニアに戻っていた。そしてそこで二十一歳まで過ごし、二十二歳からは各地を転々とする生活を始めた。東京にも一年近く滞在し、僕とともにおなじ家に住んだ。彼女が二十五歳のときだ。僕は二十一歳になっていた。
 庭にプールのある平屋建ての家に、僕は前の年から住んでいた。私鉄の駅から歩いて七、八分の、静かな住宅地のなかにある住みやすい家だった。家の前の道はごくおだやかな坂道になっていた。そして家の敷地は、道路からもっとも高い部分で二メートルほどの位置にあった。
 長方形の敷地のなかにまずプールの位置をきめ、外の道から自動車のまま敷地のなかに入って来ることが出来るように、建物の大きさと位置を決定して図面を作ったという話を、僕は聞いたことがある。父親の知人の、彼とおなじくハワイ生まれの日系二世の男性が、自分とその家族のために建てた家だ。
 道との段差がもっとも高い部分は二メートル。そしてもっとも低いところでは、段差は事実上のゼロだった。そしてこちら側が、坂道の下を向いていた。坂道を自動車で上がって来て、道の右側にある敷地へそのまま入っていけるように、道から敷地のなかに向けて、スロープが作ってあった。
 手前の隣家との境が、小さな死角になっていた。その死角を充分にクリアした位置から、道に対して浅い角度で、敷地の上に向けてコンクリートのスロープとなっていた。スロープの全面に、摩擦を作り出すための円形の溝が、いくつも作ってあった。
 スロープの途中から生け垣があった。スロープを上がりきり、そのままコンクリート敷きの部分を奥まで進み、そこに自動車を停める。道とは段差があるし、生け垣にさえぎられてもいたから、道を歩く人たちから自動車は見えなかった。
 スロープの頂上には、いつもは折り畳んで開いてある、木製の低いゲートがあった。家の玄関に向かうにも、このコンクリートのスロープを上がらなくてはいけなかった。スロープを上がりきると、そこから四角い大きな飛び石が、玄関までつながっていた。
 家はL字型をしていた。そのL字の内側に広がる庭に抱かれるように、プールがあった。敷地ぜんたいのなかでプールがたいへんに優遇されている事実は、庭とそのプールを見れば誰にでもわかった。敷地はまずとにかくプールのためのものであり、プールの周囲を快適に整えたあと、プールをほどよく囲んで保護するものとして、平屋建ての家がLの字にあった。
 プールの周囲は芝生だった。庭の奥には築山や灯籠、藤棚などがあった。庭の周囲は植え込みで囲まれていた。居間の外には煉瓦敷きのテラスがあり、それはプールの縁まで広がっていた。居間のなか、その外のテラス、そしてプールという三つの異なった世界が、ひとつに融合していた。
 富士山の岩だという大きな黒い溶岩の固まりのような岩が、庭のあちこちに、きわめて効果的に美しく配置してあった。このいくつかの岩が、庭ぜんたいを引き締めて統一し、静かな落ち着きを作り出していた。
 プールのあるこの家に、僕は二年間だけ住んだ。初めの年に関してもっとも鮮やかに記憶しているのは、秋に台風が来たときのことだ。そして次の年に関しても、僕の記憶のなかにもっとも強く大きく位置をしめているのは、夏の終わりに直撃した台風だ。
 初めの年、秋のある日、この家を建てたのとは別の日系二世の男性が、電話をかけて来た。僕の父親に用事があったのだが、父親は留守だった。だから僕を相手に、彼は次のようなことを喋った。
「きみんとこにはプールがあるだろう。あのプールをしばらく使わせてほしいんだよ。いまでも水は入ってるかい。入ってるなら、抜かないでおいてくれないか。お父さんにもそう伝えてくれ。また電話するけどね。じつは僕はスピードボートを一隻、持ってるんだ。このスピードボートをだね、きみんとこのプールに、しばらく置かしておいてくれないかという話さ。けっして難しいことではないんだよ。スピードボートをそこまで運ぶのも、プールに上げるのも、作業はすべて僕のほうで手配するから、心配ないよ。プールから水を抜かないでおいてくれれば、それでいいんだ。きみからお父さんに、伝えておいてくれないか」
 彼が言ったとおりを、僕はその日の夜、父親に伝えた。父親は呆れていた。だから、プールにスピードボートが浮かんだ光景は、見ることが出来ないのだと僕は思った。そして次の週のなかば、スピードボートが一隻、トラックに載せられて自宅の前に出現した。少し遅れて、軽い作業に使う小型のクレーン車も、到着した。
 数人の作業員が、外の道と家の敷地との関係、そしてプールの位置などを観察し、検討した。クレーン車は道からのスロープを上がることが出来た。敷地のなかに入ってから道の上にクレーンを延ばし、スピードボートを吊り上げ、そのままプールに向けてクレーンの方向を転換させ、プールの水面にスピードボートを降ろした。
 作業のすべてを僕は見守った。作業が終わると、トラックとクレーン車は、なにごともなかったかのように帰っていった。プールにスピードボートが残った。思いっきり流麗で先鋭的なかたちをした、見るからに高級な仕上げの、いかにも速度の出そうな、小ぶりなスピードボートだった。
 そのスピードボートの浮かんだプールの光景を、僕はたいへん気にいった。ある日あるとき、自宅のプールに突然、一隻のスピードボートが浮かんだ。秋の午後、急速に傾いていく陽ざしのなかで、スピードボートを浮かべたプールを、僕はさまざまに写真に撮った。その頃の僕は、すでにプロフェッショナルの気分で、写真を始めていた。
 三日後に台風が接近した。四日めには関東地方に上陸する、という予報が出ていた。台風の風にあおられると、スピードボートはプールの縁との衝突を繰り返すに違いない。それを避けるためにはどうすればいいか。ボートの所有者には連絡がつかないまま、僕は父親とふたりで知恵をしぼった。

 プールのなかでスピードボートが動きまわらないよう、ロープで引っ張って固定するほかない、という結論を僕たちは得た。金物屋で僕はロープを大量に買った。その金物屋の主人にも手伝ってもらい、僕と父親はスピードボートを固定した。
 プールからかなり離れた両側にふたつずつ、富士山の岩が配置してあった。合計四つのこの岩に結んだロープをプールに向けて延ばし、四本ともスピードボートに固定し、可能なかぎり引っ張って緊張させるなら、プールのまんなかのほぼおなじ位置にスピードボートを保つことが出来る、と僕たちは判断した。
 その判断のとおりに、僕たちはロープを張ることにした。古い自動車タイアが四つ、物置のなかにあった。これを四本のロープにひとつずつとおした。プールの縁とスピードボートの船体とのあいだで緩衝の役を果してくれれば、と僕たちは思った。
 プールのまんなかにスピードボートを位置させるのに、僕たちは何度か試行錯誤を繰り返した。そしてついに完成した。四つの岩からまっすぐに張った四本のロープは、プールの中央にスピードボートを保った。プールの縁から僕たちが棒で押してみたかぎりでは、四本のロープに引っ張られたスピードボートはどの方向にも動かなかった。
 台風は予報どおり関東地方に上陸した。僕はスピードボートのキャビンで台風を待った。着替えや雨合羽、長靴などをあらかじめキャビンに投げ込んでおき、水着でプールに入ってスピードボートに上がって着替えをした。キャビンには半分ほど屋根があり、その奥にいるとさほど濡れなかった。
 台風の進路のなかで、庭のプールは小さな荒海となった。四本のロープは見事にスピードボートを支えたが、風にあおられて上下動が激しく、僕は最終的には退散しなくてはならなかったほどだ。プールで台風をやり過ごすスピードボートの様子も、僕はたくさんの写真に撮った。一連の作業で体力を使った僕は、台風の去ったあとで風邪をひき、三日も寝てしまった。
 次の年にも、時期は少しだけずれたが、まったくおなじように、そのプールに台風が来た。そしてそのときには舞子が、その家に僕たちとともに住んでいた。
 春先に舞子は日本へ来た。桜が散る頃から、彼女は東京に僕たちとともに落ち着いた。彼女の日課は空手の道場にかようことだった。最初に日本へ来たとき、彼女は滞在期間のぜんたいをとおして、空手と合気道の訓練を受けた。カリフォルニアへ帰ってからも空手は続け、すぐに有段者となった。二十五歳でふたたび日本へ来た彼女は、空手に精進する毎日を送った。日本へ来る前には、彼女はシアトルにいた。そこではブルース・リーの道場にかよい、彼から直接に指導を受けたこともあったという。
 写真を始めていた僕にとって、二十五歳の美しい舞子は恰好の被写体だった。僕は彼女を写真に撮り、彼女はどのような自分でも写真に撮らせてくれた。初夏からはプール・サイドが撮影の場になった。鍛えられた体に鮮やかな水着とハイヒール・サンダルという姿の彼女は、プールのある庭で女王のようだった。
 初夏から梅雨の雨へ、そして夏の始まりからその盛りへと、季節の光のなかで、ありとあらゆる彼女を僕は写真に撮った。彼女を撮影することに関してあまりにも熱中した僕は、おかげでこの期間、写真以外のことがほとんどなにも出来なかった。そして総仕上げは、秋に来た台風だった。
 台風が通過していく日は朝から強風が吹いていた。その風の内部から強力に解き放たれるかのように、雨の幕が空中を横向きに飛んでいった。庭もそしてそのなかのプールも、いつもとは様相が異なっていた。そこで僕は水着姿の舞子を撮影した。
 プールに立つ波は、時間の経過とともに、大きく荒れたものになった。プールはそのぜんたいで台風を受けとめた。そのプールで泳いだり飛び込んだり、舞子はさまざまにプールと関係を持った。その様子を僕は夢中で写真に撮った。プールの縁に水着とハイヒール・サンダルですっくと立ち、強風に向かって空手の構えをしている写真を、舞子はもっとも好いてくれた。
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プレート・ランチという幸福




 アラモアナ公園は僕にとっては泳ぐところだ。リーフの内側の静かな浅い海は、プール状の海という不思議な世界だ。そこではまっすぐに五百メートル、泳ぐことが出来る。一度だけ折り返して千メートルだ。二十五メートル・プールで四十回も折り返すのは、馬鹿げていると僕は思う。アラモアナで千メートル。これがオアフにおける僕の日常的な課題のひとつだ。
 まっすぐに五百メートル泳ぐことの出来る場所を、僕はほかに知らない。海へ出ていけばいくらでもあるけれど、海へは出たくない。海岸が長く続いているところで、波打ち際のすぐ近くを砂浜に沿ってまっすぐに泳いでいく、という方法を僕は何度か試みたことがある。唯一の正解はアラモアナだ、という答えを僕は手にした。
 昔のアラモアナは湿地帯だった。人々はここを塵捨て場として利用していた。一九三一年にホノルル・パーク・ボードという組織が作られ、その組織にとっての最初の仕事が、アラモアナ公園を作ることだった。オアフというハワイ語は、いろんな人がたくさん集まるところ、という意味だ。アラモアナ・ビーチ・パークを発想した人の、その発想の根底には、このオアフという言葉があった。
 昔のオアフにもさまざまな人種の人たちが住んでいた。そしてそのオアフには、さまざまな人たちがひとつに集まって楽しむ場所が、ひとつもなかった。人々が集まって来ては、なにをするでもなく、つまり気が向けばいろんなことをして、のんびりゆったりと時を過ごす場所が、オアフにはなかった。その代わりに、たとえばチャイナ・タウンのように、狭い場所に多数の人がぎっちりと詰め込まれて住んでいる場所は、たくさんあった。
 人々が集まって来て楽しむことの出来る、海辺の広々とした公園がオアフには必要だ、という発想にもとづいて周辺の海底が浚渫され、湿地帯は埋め立て地へと変わった。そして公園になった。浅瀬の海と公園という陸地が接するところは、人の近づくことの無理な岩場だった。
 海岸が作られたのは一九五五年のことだ。オアフ島の西側のどこだったか忘れたが、そこから大量の砂を持って来て、アラモアナのあのビーチとなった。その砂の量がどのくらいだったか、地元の年配の人たちは、キュービック・ヤードで正確な数字を記憶している。
 マジック・アイランドが出来たのは一九六二年のことだ。アラモアナは公園であると同時に、いい稼ぎをしてくれるはずの場所としても、最初から目をつけられていた。住宅地にして売り払うという案は根強くあったし、観光客用のホテルその他の施設を建ちならべ、ワイキキ・ビーチの改良的な延長にすればもっといい、という案も強力に支持されていた。マジック・アイランドはこの案のために作られた。公園と地続きでケワロ・ベイスンの西側に横たわる、小さな半島だ。
 マジック・アイランドをどのように利用すべきかをめぐって、一九六〇年代のあいだずっと、論争や駆け引きが続いた。ホテル群を中心としたリゾート地帯にすべし、という意見がもっとも強く支持されていたが、公園の一部分として使うという決定が、一九七〇年になされた。
 アラモアナ・ショッピング・センターのある場所は、ディリンガムが所有するただの野原だった。どのディリンガムなのか、そこまでは僕は記憶していない。どのディリンガムでも、結局はおなじことだろう。野原はショッピング・センターとなった。これも正解だった。公園とともにここにも、多くのさまざまな人たちが集まる。
 リーフの内側にある、プール状態の静かな海。海岸。公園。そしてまさに道路そのもののような道路をはさんで、いまもまだ巨大と言っていいショッピング・センター。オアフというひと言を絵に描けばこうなるという、たいへん好ましい一例だと僕は思う。
 その海で僕は千メートルを泳ぐ。なぜなら、プレート・ランチというたいへんにハワイ的な幸福のなかに、僕も身を置いているからだ。プレートは皿、つまりひと皿盛りのランチだ。泳ぐためにアラモアナまで来て、マジック・アイランドの駐車場に自動車を停めて海岸まで歩くあいだに、芝生にすわってプレート・ランチを食べている人たちを、いったい何人見るだろう。十メートルごとに、プレート・ランチの匂いをかぐ。
 だから心身ともにプレート・ランチ状態となって、僕はアラモアナのリーフの海に入る。そして泳ぐ。ハワイのプレート・ランチは、炭水化物と脂肪の大量急激摂取の典型だ。アラモアナで千メートル泳ぐことによって、炭水化物を燃焼させ脂肪をなんとかしよう、と僕は願っている。
 初めのうち、僕は平泳ぎをしている。平泳ぎのままペースを上げていき、やがて抜き手へと変えていく。そして最後はクロールというやつだ。五百メートルで折り返すあたりで、僕としてはもっとも速いクロール泳法となっている。後半の五百メートルの中間あたりで、ペースを落としていく。
 泳いでいるあいだ、僕はプレート・ランチについて思いをめぐらせる。プレート・ランチの発祥は、たとえば軍隊のように、男たちが多数集まってひとつの仕事をしている現場ではなかったかと、僕の父親が推測を語ったのを僕は記憶している。軍隊ではなければ、砂糖きびの精製工場と砂糖きび畑を中心とした砂糖労働の現場など、プレート・ランチにふさわしいと彼は言っていた。僕もその意見に賛成だ。
 軍隊料理のひと皿盛り。ハワイのプレート・ランチの起源は、おそらくそこにあるのだろう。料理人は日系そしてフィリピン系の、男性ではないか。プレート・ランチは男のものだ。プレート・ランチを愛好している女性を、僕はひとりも知らない。
 僕がいちばん好きなのはテリヤキ・チキンだ。存分に大きいチキンのテリヤキに、あの味の濃いまっ茶色のたれ。ご飯をトゥー・スクープ。金属製の半球の容器に、ご飯を思いっきりすくい取る。そしてテリヤキ・チキンの隣に、容器を叩きつけるようにして盛る。トゥー・スクープだから、これをふたつ。そして絶対に欠かせないのは、マカロニ・アンド・ポテト・サラダだ。これは標準的な量にエクストラを加えたい。マカロニ・アンド・ポテト・サラダ・エクストラ。このエクストラの値段は、平均して七十五セントではないか。
 いまの僕の体を化学的に分析すると、ハワイの典型的なマカロニ・アンド・ポテト・サラダをおなじく化学的に分析した結果と、どこか似たものとなるのではないか。そんな文芸的なことを思うほどに、僕はマカロニ・アンド・ポテト・サラダを好いている。子供の頃から現在にいたるまで、マカロニ・アンド・ポテト・サラダに対する僕の愛は続いている。
 アラモアナの海を泳ぎながら、僕はマカロニ・アンド・ポテト・サラダのレシピを頭のなかで暗唱する。サラダに使うホワイト・ポテト。茹でて皮をむき、さいころに切る。それからエルボー・マカロニ。これも茹でる。よく水を切っておく。固茹で卵が必要だ。殻をむき、押しつぶすような気持ちを加えつつ、細かく刻む。
 成長しきった、丸く張り出した玉葱の半分が必要だ。人参も。これはおろしがねでおろしておく。ピクルズを何本か、細かく刻む。甘い味つけのピクルズを使うと、仕上がったサラダはよりハワイ的になる。ピクルズがその瓶のなかで身をひたしている液体も、隠し味のように使うといい。
 缶詰の蟹の肉を少しだけ使うのもハワイ的なレシピだ。確実にひと味は違ってくるから、使うと楽しいだろう。マスタードとマヨネーズを混ぜ合わせる。これはすべての材料をひとつにつなぎ合わせる触媒のようなものだ。だからこれは大切だ。しかし、細かなことは気にしないでおおざっぱに作るといい。
 泳ぎながらレシピを暗唱してよくわかるのは、マカロニ・アンド・ポテト・サラダはまさにオアフだ、ハワイなのだ、というまぎれもない事実だ。いろんな材料が、主として細かく刻まれる。マカロニとポテトが、それらの中心に存在する。そしていっさいがっさいを、マスタード・マヨネーズがつなぎ合わせる。オアフではないか。
 北海岸の名物のひとつである、クレイジー・ジョーのランチ・ワゴンの車体に書いてあるメニューを、僕は完全に記憶していた時期があった。子供の頃の僕は、缶詰のレイベルに印刷してある内容物や調理のしかたなどを暗記するのが、得意だった。いろんな缶詰を僕は数多くレパートリーにしていた。聞いて面白がる大人たちのリクエストに、僕はいつでも応えることが出来た。
 そのことの延長として、クレイジー・ジョーズ・ランチ・ワゴンのメニュー車体も、僕は記憶していた。しかし、大人になってからの記憶は、片隅からすぐに崩壊していく。いまでは正確に思い出すことが出来ない。
 平たい屋根には木枠のような囲いが載せてあった。これは黄色く塗装されていて、ハワイの旗が、四、五本、いつも立っていた。この木枠に書いてあったのは、ホット・ドッグ、シェイヴ・アイス、プレート・ランチ、バーガーズだ。正面にはクレイジー・ジョーズという屋号が、そのロゴで書いてあった。
 車体の上半分も黄色く塗ってあり、ここにテイク・アウトの窓があった。細かくメニューが書いてあったのはこの窓の両側だ。青い枠で囲んだメニュー・ボードのいちばん上には、クレイジー・ジョーズ・オリジナル・ハワイアン・カウカウ、とうたってあった。カウカウとは食べるとか食事といった意味だ。
 ハワイアン・カウカウは当然のことながらプレート・ランチだ。ジョーのワゴンで買うことが出来たのは次のとおりだ。ハワイアン・チキン。カルア・ピッグ。チャー・シウ。チリ・フランクス。ラウラウ。チョップ・ステーキ。ツナ・サラダ。カルア・ターキー。
 プレートにはアントレのほかにご飯が三スクープにサラダが一スクープつきますというワン・センテンスが、プレート・ランチ・メニューの下に書いてあった。どのプレートも、僕がしきりに食べた頃は、三ドルだった。
 窓の右側には、おなじく青い枠で囲んで、ホットドッグやバーガーのメニューが書いてあった。上から順にすべてを正確に暗唱することが、僕にはもう出来ない。一ドルのオール・アメリカン・ホットドッグは道ばたでの軽食の基本であり、パイプライン・バーガーは御馳走と言っていい出来ばえだった。
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ファイヴ・オーのなかのハワイ




『ハワイ・ファイヴ・オー』のエピソードが始まるとき、タイトルの背景にあらわれるのは、オアフ島北海岸のパイプラインの波だった。断面が大きな楕円のチューブとなる波だ。波や海底に関して多少の知識を持っていないと、海の波がここでなぜこうなるのか、まったく理解出来ないはずだ。
 そのチューブの天井となる波が、空中へ水平に張り出し、延びていく。波の壁として立ち上がっている自分のずっと前方で落下を始める瞬間の、もっともいいタイミングに合わせて、『ハワイ・ファイヴ・オー』というタイトルが二行で出た。白抜きの平凡な書体を、赤い色が縁取っていた。
 この波とタイトルとをTV受像機の画面ごと写真に撮り、シルク・スクリーンで色鮮やかに背中に印刷したTシャツを、かつて僕は持っていた。店で売っていたから買ったのだ。『ハワイ・ファイヴ・オー』というTVドラマ・シリーズの放映が、CBSのネットワークで始まったのは一九六八年九月二十日のことだった。二時間のパイロット版が放映された。そして二十六日から、毎週一回、一時間でストーリーの完結するこのシリーズの第一話が、オン・エアされた。
 僕がTシャツを買ったのはその年の十月の初めだ。十二月になって、波乗りの達人である古くからの友人に誘われ、僕は北海岸へいった。パイプラインという名のとおりに、楕円形の巨大なチューブ波が出来ている日だった。その波を指さして、
「きみがいま着ているTシャツの背中にあるのと、おなじ波だよ」
 と、友人は説明した。
 僕はTシャツを脱ぎ、目の前に両手で広げてみた。風にはためくTシャツの背中に印刷されていた波は、そのとき沖に出来ていた波と、寸分たがわないと言っていいおなじ波だった。Tシャツを着た僕は、背中に印刷された波も、チューブを巻いているように感じた。
 ファイヴ・オーとは50のことだ。ハワイは五十番めの州だから、50をファイヴ・オーと読んで、そのままタイトルとした。イオラニ宮殿のなかに本部を置きハワイ州知事が直轄するとういう、まったく架空のエリート警察チームが活躍するドラマ、それが『ハワイ・ファイヴ・オー』だった。活躍するとは、楽園のなかにいる蛇を、毎回一匹、彼らは退治するということだ。
 主役のスティーヴ・マクギャレットという役をジャック・ロードが演じた。映画俳優としての彼を作品のなかに見るもっとも簡単な方法は、『ドクター・ノー』を見ることだ。ジェームズ・ボンドに協力するCIAのフィーリックス・ライターという役を、ジャック・ロードは演じた。TVシリーズの主役は、『ストーニー・バーク』という西部劇で、ジャック・ロードはすでに体験ずみだった。スティーヴ・マクギャレットで『ハワイ・ファイヴ・オー』に登場したとき、彼は四十七歳になっていた。
 マクギャレットの周囲をかためていた常連たちは、ダニー・ウィリアムズという役名のジェームズ・マッカーサー。カム・フォン・チャンを演じたチン・ホー・ケリー。そしてズルによって演じられたコノ、といった人たちがいた。マクギャレットの天敵として犯罪を重ね、最終回でついに逮捕された男の名は、僕の記憶ではウォー・ファットといった。漢字だと和発と書いて、これはホノルルのダウンタウンにおそらくいまもあるはずの、中華料理の店の名とおなじではないか。
 白人。ポリネシア系。中国系。絵に描いたような人種構成の彼らが、チームとして機能しては楽園の蛇を退治するドラマの内容は、これもまた絵に描いたように、当時という時代を映していた。環境問題。開発という破壊。麻薬のこと。政治がらみの暗殺。ヴェトナム帰還兵の問題。同性愛。こういった問題に犯罪がからみ、それを架空の警察チームが解決するのが、『ハワイ・ファイヴ・オー』というドラマだった。
 警察のチームが主役として活躍する犯罪ドラマのTVシリーズとしては、いまもって史上最長だという、一九六八年から一九八〇年までの十二シーズンにわたって、『ハワイ・ファイヴ・オー』は続いた。たいへん人気があった。アメリカ国内ではごく最近まで、ザ・ファミリー・チャンネルで繰り返し放映されていた。ヴィデオでは、第一回めのパイロットも含めて、いくつかのエピソードが市販されている。
 一九六八年が終わるまでに、『ハワイ・ファイヴ・オー』を僕は何度か見た。楽園の蛇退治のドラマと、それを演じている人たちが持っていた、実体のどこにもない架空感とが相互に補完し増幅し合い、ドラマの内容とその進行の緊密度を高めていた。絵解きとしてたいそうわかりやすいフォーミュラだったから、毎週の放映ごとに物語が完結するTVシリーズを、十年を越えて作ることは可能だった。
 放映が開始された一九六八年の後半という時代の現実について考えてみると、その現実は架空のTVシリーズにとって、またとない現実の背景として機能していた、と僕はいま思う。
 一九六八年は、じつにたいへんな年だった。アメリカ国内だけに範囲を限って列挙していくと、すべては三十年前のことであり、したがっていまは冷静に俯瞰出来ることばかりであるはずなのに、列挙されていく問題の大きさと複雑さとには、目まいに近いものを僕は感じる。
 国際収支においてドルを防衛する必要を、アメリカは痛切に感じていた。プエブロ号という情報収集艦が北朝鮮に捕獲された。南ヴェトナムのソンミという村で、米軍が大量虐殺をおこなった事実が発覚した。国防長官のマクナマラが辞任した。ヴェトナムにおける米軍の死傷兵の数は十三万五千を越え、朝鮮戦争における死傷兵の数を上まわった。
 金準備制度を撤廃する法律が成立した。アメリカはこのとき決定的に変質したと僕は思う。自分たちは自分の都合だけに合わせて好き勝手にやるという宣言が、金準備制度の撤廃だったのだから。大統領はヴェトナムの北爆を停止した。
 キング牧師が暗殺された。アメリカの各地で黒人による暴動が起きた。公民権法が成立した。ロバート・ケネディが暗殺された。ワシントンで黒人による「貧者の行進」がおこなわれた。十パーセントの増税をきめた法律が成立した。
 一月から六月までのあいだに、特に目につくものだけを拾い出すだけで、こんなにある。生活実感という種類の現実のなかでは、問題ばかりが次々に目の前に積み上げられていくような恐怖感を、人々は感じていたはずだ。どの問題も複雑で大きく、正確に俯瞰することすら、普通の人たちには出来なかったはずだ。視野を国際社会にまで広げると、そこにも問題は山のようにあった。
 ハワイという限定された場所のなかで、架空感のたいへんに強い、と言うよりも架空感だけで成立しているような、しかし優秀な警察チームが、毎回なんらかの蛇を退治する。因果関係すら明確には見えないほどに巨大で複雑な問題が、目の前に次々と積み上げられて壁となり、その壁に自分たちが囲い込まれていきつつある恐怖を、人々は日常のあらゆる部分に感じていた。そんな日常のなかで、蛇退治の物語はなんとわかりやすく爽快な、カタルシスであったことか。
『ハワイ・ファイヴ・オー』の撮影はすべてハワイでおこなわれた。主演のジャック・ロードがそれを強く主張したからだ。なにかと経費がかさむのは承知で、全二百八十四話を、CBSはハワイでのロケーション撮影でとおした。ひとつの完結した話を、毎週ひとつ作るのだから、主演者と常連出演者たち、それに裏方のほぼ全員が、『ハワイ・ファイヴ・オー』という架空の世界をめぐって、ハワイで生活することになった。
 ロケーション撮影では、そのときそこにあった現実の場所や光景が、アクションの舞台や背景になる。『ハワイ・ファイヴ・オー』におけるハワイという現実の場所は、物語の架空性と好一対の、架空の場所として機能したのではなかったか。
 一九六〇年代の終わり頃のハワイは、年間に八十万人ほどの観光客を獲得していた。一九八〇年代の終わりには、この数は四百万へと上昇していた。ハワイという場所の魅力をTVドラマの画像として世界じゅうに広め、多くの観光客を誘い込む力を、『ハワイ・ファイヴ・オー』は発揮したと言われている。
 観光地としてのハワイのまず最初の黄金時代は、一九二〇年代の終わりから三〇年代にかけてだった。ごく限られた人たちが、ハワイという特別な場所へ、観光や保養あるいは社交のための旅行をした。一九八〇年代の終わり頃にハワイを訪れた四百万という数の観光客は、明らかに大衆だ。
 地元の人たちにとっては現実の場所でありながら、世界じゅうから来る観光客にとっては、現実の場所でありながらもなお架空性のきわめて強い場所、それがハワイだった。そのハワイの、架空性の高さという魅力を、TV画面の映像で毎週、世界じゅうに見せたのが『ハワイ・ファイヴ・オー』だ。ロケーションに徹して制作された映像は、視聴者の目には架空性そのものとして映じた。
 人類にとってもっとも架空性の高い場所、それはパラダイスではないか。ハワイは白人によって「発見」されるのとほとんど同時に、楽園と呼ばれた。それ以後、ハワイのイメージはパラダイスのままに維持され、いまでも楽園と言えばまずハワイだ。魅力的な観光地は世界にたくさんあるが、パラダイスという架空の魅力の最高位にいまもあるのは、ハワイだけだ。
 一九六八年に放映された『ハワイ・ファイヴ・オー』のヴィデオを買って来て、TVの画面に再生してみる。物語とそれを語る出演者たちは、いまはもうどうでもいいとすると、見るべきものは、ロケーション撮影されたことによっていまも当時のままを見ることの出来る、一九六八年のハワイの光景だけだ。
 三十年前とおなじハワイは、よほど僻地へ入り込んで丹念に探さないかぎり、もはやどこにも存在していない。市街地ではそれはとっくに消滅している。『ハワイ・ファイヴ・オー』のなかに見る三十年前のハワイは、いまはどこにもないという意味において、完璧に架空のものだ。そして三十年前には、実際に存在はしていたけれど、これはハワイですよと言われたとたん、それはすべてパラダイスへと転換され、架空の場所となった。そしてその架空の場所は、TVの画面をいまの僕が夢中で見てしまうほどに、ものの見事にハワイなのだ。
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ウルパラクアの赤




 部屋の明かりは消してある。蝋燭がひとつだけ灯っている。直径が十センチほどもある、丈の低い蝋燭だ。柑橘類の香りが蝋のなかに加えてある。燃えるほどに、その柑橘の香りが空気のなかに放たれる。蚊を近づけないための香りだ、と僕は姉から聞かされた。
 夜の風が部屋のなかに入ってくる。蝋燭の炎はその風を受けて揺らめく。炎の揺らめきは、それが作る影の揺らめきへと、視覚的に増幅される。姉の好みだ。
 部屋のかたほうの隅にある小ぶりな四角いテーブルの、ひとつの角を中心にして肘かけ椅子がふたつ、テーブルの二辺と向き合っている。姉と僕とは、そのふたつの肘かけ椅子に、それぞれすわっている。椅子のすわり心地の良さをとおして、僕はその椅子の簡潔きわまりないデザインを、頭のなかに思い浮かべる。
 夜の静かな時間のなかで、僕たちはワインを飲んでいる。ワインの瓶がテーブルの上にある。瓶に貼ってあるレイベルが僕のほうを向いている。ウルパラクア・レッドという文字が、かすかに読める。ハレアカラのスロープにあるテデシ・ワイナリーにとっての、最初の赤ワインだ。レイベルに描いてあるのは、そのワイナリーのテイスティング・ルームのある建物だ。
「ウルパラクア・レッド」
 と、僕は声に出して言ってみた。
「悪くないのよ」
 姉が答えた。この赤ワインのことを、姉は言っている。これからもっと良くなる予感のある出来ばえだ。
 花模様のあるごく薄い生地のローブを、姉は裸の体にまとっている。浴衣のように前を打ち合わせ、紐を軽く結ぶ。自宅にいるときの姉は、陽が落ちてからの時間には昼間の服を着ない。かならず着替える。
「ウルパラクアというハワイ語の地名と、レッドというわずか三文字による英語の基本単語との結びつきかたは、けっして悪くない」
 と、僕は言った。
「エキゾティックな雰囲気があるわね。見た目にも、そして声にして出した音にも」
「アルファベットのならびかたが面白い。なんとなくアフリカを感じさせるような気もする」
「Uの字が三つもあるからでしょう」
 姉の指摘の正しさに感心する気持ちとともに、僕はワイン・グラスのなかの赤ワインを飲んだ。
「ハワイ語と英語との、幸せな結びつきの一例になるといい」
「ホノルル・ムーンのように?」
 姉が言った。僕は笑った。ムーンとは月だ。ホノルルの月。ホノルルというハワイ語に結びついた英語のなかで、もっとも幸せな一語はなにだろうか、という会話をかつて僕は姉と交わした。そのときの僕たちの結論は、ムーンというひと言をおいてほかにない、ということだった。ホノルルというハワイ語と、英単語ひとつとの結びつきのもっとも幸せな例は、ホノルル・ムーンなのだ。
「ハワイ語と英語との結びつきかたに僕が関心を持つことになったきっかけは、明確にくっきりとひとつある。マノア・ファイナンスという会社名を、ラジオのコマーシャル・メッセージで聞いたときだ。ハワイ・カイの山裾に沿って、ジグザグに折れ曲がったコンクリートの壁のように建っている高層の共同住宅の、何階かの部屋のバルコニーから僕は外を見ていた。外には雨が降っていた。山の斜面がすぐ目の前に迫っているという、僕の感じかたではきわめてハワイらしい光景に、男性の声によるコマーシャル・メッセージが背後から届いて重なり、そのメッセージのなかの決定的なひと言が、マノア・ファイナンスだった。マノアというハワイ語に、ファイナンスというような英単語が結びつく不思議さ、そして奇妙さは、ハワイ・カイのあの人工的に開発された住宅地の奇怪さと、なんの無理もなく溶け合ってひとつになった。山裾に建って山の急斜面と向き合っている、高層の共同住宅の何階かの一室のバルコニーから外を見ていたそのときの僕もまた、奇妙な存在だったに違いない」
 という僕の長い台詞を、姉はワインを飲みながら受けとめた。そして彼女は次のように言った。
「マノア・ファイナンスがあるなら、アロハSアンドLがあってもおかしくないわね。アロハという言葉に英語の単語を結びつけた名称は、電話帳を見ればずらっとならんでるわ」
「アロハ葬儀社というのが、昔あったような気がする。日系の経営による葬儀社だ」
 姉は笑った。
「アロハ葬儀社を最右端だとすると、そこから最左端の名称に向けて、それこそ電話帳に掲載されているとおり、たくさんのアロハなんとかがあるわけだ」
「最左端は、なにかしら。アロハ航空にアロハ・タワー。それから」
「アロハ・シャツ」
「そんなものかしら」
「そうだね」
「思いのほか、少ないのね」
「その中間のアロハなんとかは、たくさんある」
「アロハそのものは、じつに豊富なのよ。多すぎるくらい。でもアロハが、国際的な普遍性を獲得しているかというと、そんなことはないのね」
「世界じゅうの人たちの幸福に寄与している、アロハなんとか」
「そんなもの、ないのよ」
「アロハ航空とアロハ・タワーは、地元のものだ。普及度の広さを問題にするなら、もっとも広くいき渡っているのは、アロハ・シャツだろうか」
「しかしそれも、ハワイという特定の場所を、少なくともイメージの上では、ほぼかならずひきずっているわね」
「さっきのホノルル・ムーンと抱き合わせだ」
「でも、ホノルル・マラソンやホノルル・シティ・ライツなどとくらべると、ホノルル・ムーンはやはり、群を抜いて一位だと私は思うわ」
「ホノルルは月、そしてアロハはシャツ」
 僕たちは笑った。
「アロハ・ボウルというのがあるわ」
「定冠詞がつくよね」
「ジ・アロハ・ボウル」
「クリスマスの日、午前十時のキック・オフ」
「シャツにくらべると、限定された世界よ」
 部屋に夜の風が吹き込んだ。蝋燭の炎がその風を受けとめて揺れた。壁やフロアに映る影も大きく動いた。柑橘の香りが部屋のなかを小さな気流のように流れた。
「ロイアル・ハワイアン・ホテルには定冠詞がつくけれど、ハレクラニにはつかないね。ザ・ハレクラニという言いかたは、聞いたことがない」
「ハワイ語で言いあらわされている世界のほうを尊重しようとすると、たとえば定冠詞はつけにくい、ということなのかもしれないわ。ロイアル・ハワイアン・ホテルはぜんぶ英語だから、定冠詞がほぼ自動的についてしまうのね。ハレクラニだと、ハレクラニという言いかただけがそこにあるから、定冠詞は遠慮します。ただし、ハレクラニがハワイでいちばん高い山だったりすると、そのことのほうに重きを置いて、定冠詞が自動的につくのよ」
「アロハよりもフットボールのほうが勝っているから、アロハ・ボウルには定冠詞がつく」
「写真を撮って本を作るといいわ。アロハ・タワーとかアロハ・シャツのように、最初にハワイ語がひとつあり、そのあとに英語の単語がひとつついて、なんらかの名称となっているものを、かたっぱしからノートブックに書いていき、ひとつずつその実体を写真に撮るのよ。そしてどの写真にも、説明のための短い文章をつけて。面白い本になるわ」
「小ぶりな本がいいかな。写真入りの事典のような雰囲気を出して」
「さっそくノートを作りなさい」
「ものすごくたくさんあると思う。ホテルを筆頭にして観光関係のものが、圧倒的多数を占めるはずだ」
「そうでしょうね。でも、それはそれで、面白いのよ。アルファベット順に事典のようにならんでいるのを、ページを繰りながら見ていくと、ハワイというものを見ることになるのね」
 姉が発案し、そして提案すると、すべてのアイディアが、たいそう魅力的なものに思える。アロハなんとかとパラダイスなんとかに範囲を限定して、どちらも写真を撮り歩いてそれぞれ一冊の本にまとめるといいというアイディアについても、いつだったか彼女と語り合ったのを僕は記憶している。
「カハラ・ヒルトンやマウイ・マリオットをあなたがいかに写真にするか、楽しみだわ。どれに関しても、写真は一点だけにするといいわね。ハワイの新たな絵葉書を作るのだと思えばいいのよ」
「そういう考えかたもあるね」
「一冊の本には収まりきらないかもしれないわ」
「どれに関しても写真のスペースは同一だとすると、写真だけでかなりのスペースが必要だ」
「だからとにかくノートブックを作ればいいのよ。カードのほうがいいかしら。ひとつずつカードに書いていって、カード・ファイルをひとまず完成させて。それだけでも面白い作業よ。あとはかたっぱしから写真に撮ればいいのよ。平凡な写真ではなく、工夫の効いた写真。繰り返し観察することの出来る写真」
「ワイキキ・ビーチコーマー。コナ・ビーチ・ホテル。きりがないね。特にコンドミニアム。でも、そこにこそハワイがある、というとらえかたも成立する」
「コナ・サンセット」
「なんだい、それは」
「コナ・コーヒーの一種。なにかの香りがつけてあるの。なにだったか忘れたわ。いろんな香りがつけてあって、それぞれに名前がついているのよ」
「サンセットの香りは、なになのだろう」
「甘い香りでしょうね。やや重たくて、甘い香り。キャラメルのような。このコーヒー豆の袋をテラスのテーブルに置き、夕日を受けて袋の影が長くのびてるところを、あなたは写真に撮ればいいのよ」
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まるで落穂拾いのように




 僕の姉に出来ないことはなにだろうか。政治や経済にはあまり縁がないから、財務長官になることは無理だね、と僕は彼女に冗談を言ったことがある。政治的なかけひきにも彼女は適していないから、たとえばファスト・レディにもなれない。
 そのかわりに、彼女は空手の高段者だ。ジクンドーではブルース・リーの弟子で、ホノルルの市警察でかなりの期間、警官たちに格闘技を教えたことがある。居合抜きも日本で習った。日本を去ることになったとき、師匠はどうかここに留まって私のあとを継いでくれないか、と彼女に頼んだ。
 合気道にも、なぜか、いつのまにか、ごく若い時期に、彼女は熟達した。射撃がうまい。ハンド・ガンもライフルも、巧みにこなす。これに関しては、アメリカ中西部の州のどこかで、女性の警官や刑事たちに、教官としての射撃術のすべてを教えた経歴を持つ。
 ビリヤードはプロの腕前だ。実際にプロとして活躍していた時期がある。着物の着付け、お茶、花、琴、三味線など、どれでも彼女は先生になれる。昭和三十年代の日本の、もっとも好ましい女言葉を、彼女は端正に艶やかに喋ることが出来る。
 コルト・ピースメーカーという通称の、六連発のリヴォルヴァーの早撃ちの名人だ。ウェスタン・ショーに加わってアメリカ各地を巡業していた時期がある。巡業と言えば、エルヴィス・プレスリーのそっくりさんのバンドで、姉はリード・ギターを担当していたこともある。たいていの楽器を彼女は巧みにこなす。単にこなすだけではなく、じつに味のある小気味のいい演奏をする。
 ピアノは本職だ。サンフランシスコの由緒あるホテルのカクテル・ラウンジで、彼女はピアノを弾いていたことがある。と同時に、おなじ時期、サンフランシスコのジャズ・クラブで、彼女はハウス・ピアニストのひとりでもあった。トランペットを吹かせると、どこかチェット・ベイカーに似ている。
 歌がうまい。いろんなふうに歌うことが出来る。だからどんな歌でも歌える。写真家の専属モデルを務めていた時期もあれば、水上ショーのメンバーに加わって、高飛び込みのスターだった時期もある。出来ること、そしてかつてしたことをあげていくと、かなりの数の列挙になる。あれも出来る、これも出来る、あれもしたことがある、これも経験がある、あそこにもいたし、そこにもいたことがある、というような列挙だ。
 だから彼女は、二十代の十年間は、さまざまに職業を変えながら、アメリカ各地そしてヨーロッパを、転々として生活した。ハワイへ戻ってきたのは三十代に入ってからであり、そのときの彼女の職業は、さきほど書いたとおり、ホノルル・ポリースでのディフェンシヴ・コンバットの教官だった。そこから音楽の仕事へ転じ、いまはホテルで音楽監督をしている。ショーとして客に提供する音楽全般にかかわる責任者だ。
 彼女は自分のことを、ハワイの日系娘のなんでも屋、と言っている。自分でそう言うのだから、おそらくその言いかたが正しいのだろう。気候的に地理的に、あるいは風土的に、自分にはハワイがもっとも適している、と彼女は言う。三十代の初めに到達した結論だそうだ。人と人との日常的な関係のありかたも、ハワイのそれがもっともいい、と彼女はいつも僕に言っている。
 彼女に出来ること、あるいは彼女が得意としていることは、すべて肉体と深く関係している。つきつめていくと最後は、どれもみな、彼女の肉体の動きに帰結する。その彼女の肉体には、ハワイがもっとも適しているのだ。ハワイにおいて、彼女の体は、もっとも彼女らしく反応する。ハワイの日系娘とはそういう意味だ、と僕は解釈している。
 彼女の肉体が彼女に命じるさまざまな動き。それらを正確にこなしていくとき、彼女の肉体は快感を感じるのではないか。そのときその瞬間において、絶対に必要とされている正確な肉体の動き。その必要に自分の肉体が正確に応えていく。そのことから最終的に彼女の精神なり心理なりが受け取る快感というもの。これだけを虚空のなかに標識のようにならべ、それらを彼女はひとつずつ、たどってきたのではないか。
 彼女のこれまでの人生は、ひと言で表現するなら、彼女の肉体の正しい動きなのだ。的確な運動能力を必要とすること、たとえば空手やジクンドー、合気道、あるいはビリヤードや射撃、そして高飛び込みなどは、自分の体がどのように動けば文句なしの正解となるのかを、体ぜんたいで判断しつつ、同時にその判断のとおりに動くことによってすべてを表現するという、非常に多くの場合ほんの一瞬のうちに始まって終わって完結する、肉体の反射だ。
 彼女の肉体はなにに反射しているのか。全身全霊をきわめて鋭敏で正確な受信機にして、必要な情報のすべてを自分の内部に集め、その蓄積を一瞬のうちに演算し、その結果のとおりに自分の体を動かす。自分の肉体に彼女はそのような反射をさせている。判断が正確ではないと、いくら体が動いても、そこにはなにものも生まれない。
 受信機としての彼女ぜんたいの、受信能力の幅の広さ、受信の正確さ、一瞬のうちに必要な情報のすべてを体内に移植するスピードなどに関して、彼女はおそらく天才のような存在なのだろう。少なくとも僕との比較でなら、彼女は間違いなく天才だ。この才能を、ごく幼い頃から、日々刻々、彼女は鍛練し磨きをかけ、間口を広め奥行きを深めてきたはずだ。自覚はしていないとするなら、きわめて有効な無意識のうちに、彼女は三十代なかばの現在まで、そうしてきた。
 日系娘のなんでも屋、と姉が自分を評価するとき、日系のという言葉の意味について、彼女はかつて僕に次のように説明した。
「両親は日系のアメリカ人であったというだけの意味ではなく、自分の体の深層にある受容や反応、反射、理解、認識などの質が、基本的に日系社会のなかのそれである、という意味なの。ハワイの日系社会。ハワイの社会のある位置に、ある広がりを持って、具体的に日系の社会が存在して機能していた時代に、自分が体のもっとも深いところに取り入れてそこに定着させた、あの感じなのよ。私は九歳までカリフォルニアにいて、そこで培われた感受性は明らかに抽象的なものだった、と私は思うわ。私がいろんなことに手を出したのは、カリフォルニア気質のせいなのよ。そのカリフォルニア気質の下に位置して、私のすべての土台となっているのが、ハワイの日系社会がかつて持っていた、あの感じなの。ホノルルにいたのは九歳から十三歳まででしかなかったけれど、九歳までのカリフォルニアよりもホノルルのほうが、私に対してあたえた影響は大きくて深いのよ。私のすべてを支配するほどに、大きくて深い影響」
 ハワイの日系社会の、あの感じ、と姉は言う。たとえばホノルルにおける戦後の日系社会の最盛期を、一九四五年から一九五五年までの十年間だとすると、姉が体験したホノルルの日系社会は、一九五〇年代の後半から六〇年代にかけてのものだ。この時期にもまだ、日系社会は、目に見える具体的なかたちで機能していた。あの感じ、とはなになのか。
「多くの一世たちがまだ存命で、二世の人たちがちょうど働き盛りの年齢だった時代。ハワイという固有の場所で、アメリカのものと日系のものとが、ちょうどいい配合で重なり合い、融合していた時代。そしてそこに、ハワイの風味が絶妙に効いていて。ほんとによかったわ、あの時代は」
「いまは、少なくとも日常的にいつも目に見えるかたちでは、日系社会は消えるぎりぎりのところだね」
「そのとおりなのよ。三世から以後の人たちは、いろんな人種との結婚をとおして、人種的にも文化的にも、拡散の一途をたどったわ」
「日常的にいつも目に見えるかたちで存在していた日系社会は、僕にとっても懐かしいものだよ。たとえばホノルルのダウンタウンの、日系の店が集まっていた区域」
「あそこでどの日系の店に入っても、入ったとたんに全身で感じ取るのは、日系という世界だったのね。あらゆるものが、日系の価値観やその序列のなかに、きれいに収まってたのよ。店の人が出て来て、私を見ておなじ日系だと判断して、そこからいっきに、初対面であろうがなかろうが、いっきに親しい日系どうしとして、話が始まっていくの」
「僕にもその感じは懐かしい」
「ふたりの話、つまりふたりが音声として交わす言葉が作る立体の空間が、日系の空間なのよ。隅々まで日系の世界のものがそこに満ちて、これこそ自分の世界なのだと、十歳前後の私は体の底で確信したのね」
「あのままずっと続くのだと僕は思っていたけれど、うかつだった。じつはそのときすでに、目に見えるかたちでの日系の社会は、消えつつあった」
「まさに自分自身だと言っていいこのハワイの日系社会は、このままずっとここにあるのだと私も思ったのよ。二十代の私があれほどまでに転々とすることが出来たのは、最終的には自分はここへ戻ってくればいいのだという、決定的な安心感があったからよ」
「肉体と精神は不可分だから、その両者を自分そのものという言いかたであらわすなら、日系社会が作る立体空間は、自分そのものだった。日系社会のなかに居場所を定めてこそ、自分は本当に自分であり、その自分の発展なり変化なりは、ハワイの日系社会という拠点なしには、あり得なかった」
「そのとおりだわ。人の家を訪ねても、敷地に入ったときから、日系の感触を自分の体は受けとめたわね。家のなかに入ると、どの人の家でも、そこは完全に日系の人の家で、自分も最初からそこで育った人のような錯覚があって、その錯覚はほんとうにうれしいものだったわ」
 時間は経過していく。時間の経過を人が受けとめると、その人は少しずつ老いていく。一世や二世には元気な人が多かった。しかしいくら元気な人でも、経過していく時間というものには、一定のところまでしかつきあえない。人は他界していく。音声を永遠に発しなくなる。言葉が消える。ひとり、またひとり、このようにして音声による言葉が消えていく。言葉によって作られていたものすべてが、ともに消えていく。
「まだほんの少しは残っている日系の店を、ハワイじゅう走りまわって、かたっぱしから訪ねてみようかな。落ち穂拾いのように写真を撮って。店の人と話をして」
 僕のその言葉に、
「いまのうちよ」
 と、姉は言った。
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ホノルルで雑誌を作る




 ホノルルで雑誌を作る、という仕事について思いながら、僕はホテルの建物を出て駐車場へ歩いた。ここで仕事をしている人たちのうち、ある一定のクラスより上の人たちのための、専用の駐車場だ。姉が使うスペースにいまは僕のカプリースが駐車してあった。
 そのカプリースのかたわらに、白人の中年女性がひとり、陽ざしを受けて立っていた。アメリカ中西部の人だということは、彼女の立ち姿を見ただけでわかった。自動車の列のあいだを、僕はカプリースに向けて歩いた。
「これなの?」
 と、彼女は僕に言い、カプリースを指さした。彼女の声は風にからめ取られ、横へ流れた。僕は微笑とともにうなずいた。カフルイ空港まで彼女を乗せていってあげてほしいと僕が姉に頼まれた、エレン・ステュードベイカーという女性だ。彼女はいまはホノルルに住んで雑誌の仕事をしている、と姉は言っていた。
 カプリースの運転席のドアを開き、僕はなかに入った。そしてエレンのために右のドアをなかから開いた。エレンは座席に入ってドアを閉じた。
「クーラーはあるのかしら」
 彼女が言った。
「ありますよ」
 僕はクーラーのボタンを押した。
「お姉さんがカプリースのクーペだと教えてくれたのよ。探したらこの駐車場にカプリースがさらに三台あるのよ」
「姉は色を言い忘れたのですか」
「聞いたわ。四台ともおなじような色なの」
 駐車場から外に向かう経路を、僕は徐行していった。ルートを間違えると地下の駐車場へ入ってしまう。
「昔からハワイに住んでいる人は、カプリースが好きなんですよ。それに、オールズモビールのカトラス。気をつけていると、あちこちで見かけます」
「なるほど」
 エレンは言った。そして大きなバッグからステノグラファーのノートを取り出した。ページを開いたときにはすでに、彼女は右手にボールペンを持っていた。
「ハワイの人たちと自動車、という特集が出来るわね。独特な好みとか、ハワイに特有の乗りかた。人と自動車の日常関係の、さまざまにハワイ的な様相」
「僕の友人のひとりに、荷台を緑色に、そしてキャビンやエンジン・フードをまっ赤に塗ったピックアップに乗っている男がいます」
「フィリピン系の人でしょう」
 ハワイに関するエレンの反射神経は、少なくともこの次元までは正しく到達しているようだ、と僕は思った。
「そのとおりです。このカプリースは亡くなった父親のものでしたが、僕なら白いセダンを選びますね」
「車種は?」
 ノートを開いたまま、エレンが訊いた。
「トヨタしかないですよ」
「なぜ?」
「ホワイト・トヨータ。いちばん語呂がいいです。車体の造形には、白がぴったりですし」
「サンフランシスコにいたとき、ディーラーで車を見たら日本車はみんな白くて、工場を下塗りで出てきたのだと思ったことがあったわ。ファクトリー・ホワイトね。買う人が好みの色に塗装してもらって」
「ホワイト・トヨータとともに僕は田舎に住みます。砂糖工場があって、それを中心に砂糖きび畑が、いまも広がっているような田舎です」
「その理由は?」
「いつも赤土の道を走りたいからです。車体は赤土の土埃まみれで、もちろん洗いません。赤土にまみれるままにしておくと、赤土のあの赤い色が白い色のなかにしみ込んで、車体ぜんたいは独特な赤みをおびることになります。二年もたてば、もとは白だったとは誰も思わないほどに、車体は赤くなります。ハワイの人の自動車とは、一例をあげるとこういうことです」
 エレンはノートにメモをとった。ノートを縦に持ち、ボールペンを持った右手を大きく左へまわし、ページの上から下に向けて、横書きしていった。
「私は雑誌の仕事をしてるの。取材と記事書きと編集。あなたは写真家ですってね。どんな写真を撮るの?」
「写真に撮れるものなら、なんでも撮ります」
「心強いわねえ。ノートに書いておかなきゃ。あなたに助けてもらうときが、かならずあるわよ」
「楽しみにしてます」
「雑誌の仕事にとっての財産は、出会うさまざまな人たちなのよ。人は育ちも生活も文化環境も、ひとりずつみんな違うでしょう。だから人に会って話をすると、人それぞれが持っている蓄積への入口を、私はのぞき込むことになるのね。あなたとは会ったばかりだけど、いまのホワイト・トヨータの話は面白かったわ。こうしてノートに書いておくと、それはもう確実に私の財産なのよ。カフルイの空港まで四十五分ほどだから、ぜひとも話をして過ごしましょう」
「雑誌のお仕事だと姉に聞いたので、駐車場へ向かいながら、なんとなく考えていたのです」
「考えを聞かせて」
「ホノルル。ハワイ。アロハ。この三つは、すでに雑誌のタイトルとして、使われているのです。あとひとつ、パラダイスという雑誌があれば、揃い踏みですよ。ホノルルという雑誌の前身がパラダイス・オヴ・ザ・パシフィックでしたから、四つの基本語はどれもみな、ハワイで雑誌のタイトルになったのです」
「四つの基本語、というところが面白いのね。パラダイスを別にすると、あとの三つはハワイの言葉だというところを考えていくと、言葉は財産なのだとわかるし、言葉とはそのまま歴史でしょう。だからホノルルで作る雑誌にとって、もっとも大きな財産は歴史なのね。ハワイの自然環境は魅力に満ちていて、歴史は存分にあるし。なにを材料にするにしても、ほとんどのものは歴史のなかにあるのよ」
 エレンの意見に僕は賛成だった。姉とエレンとは親しいつきあいだという。姉の友人に顕著に共通している気質を、僕はエレン・ステュードベイカーにも鋭く感じた。
「基本語のなかの基本語、ハワイにとってもっとも基本となる言葉であるアロハひとつで、連載記事が作れますよ。連載の何回目かには、日本人にとってのアロハ、という記事が成立します。戦前の日本にとっては、アロハはないに等しいと言っていいと思います。戦後の日本では、アロハはまずなによりも先に、アロハ・シャツでした。ハワイのアロハ・シャツではなく、当時の日本の、アロハ・シャツです。いま見ればごく平凡な色と柄の半袖シャツなのですが、敗戦直後の焼け野原から立ち直り、その次の時代へと向かおうとしていた日本に登場した、年齢的に若い人たちによる新しい風俗の、もっともわかりやすい象徴として、アロハ・シャツがあったのです。アロハを着た街のあんちゃん、というような使いかたをされて、多くの人たちにとって明らかに好ましくない人たちが、まさにその意味において自分たちに目印をつけるように、競ってアロハ・シャツを着た時代があったのです」
「私はその頃の東京にいたのよ」
「そうなのですか」
「まだ子供だったけれど。あなたも東京にいたのなら、私よりもっと子供だったわね。いまの話も面白いわ。聞きながらノートに書いたから、これも私の財産よ」
「記事にしてください。ハワイに最初の観光客が来たとき、彼らにとってのみやげ物が誕生して、そのみやげ物すべてに、アロハという言葉が添えられたのです。まるでハワイの商標のように。これだって歴史の一部分です」
「アロハ航空やアロハ葬儀社のように、アロハを社名につけた会社が、電話帳に二百以上もあるわ。その大部分が観光とは関係なかったりするから、面白さはひときわね」
「アロハという言葉は、観光客が持って帰るみやげ物ですね。親しみをこめた挨拶の言葉として万能である、というような認識の。大勢の観光客に向かって、ホテルのショーの司会者が、アローと長く引っぱったのち、勢いを込めてハァーッと叫ぶ、あのようなアロハは本来はあり得ないものなのです」
「本来はあり得ないアロハ、という記事も成立するわ」
「アロとは、の前で、とともに、というような意味です。ハという部分の意味は、生命の息吹とか、神の存在や意志、という意味です。このふたつがつながってアロハになると、神とともにここに、という意味です。神とともに誰もが誰とも密接につながるという、ハワイにおける人のありかたの基本を意味します」
「そこから深い記事を作ることが可能ね」
「できますよ。歴史は進んでいくのですから、進むと同時に衰退もしますし、進化もするのです。ひとつ覚えのアロハだけではなく、アロハ・アイナがすでに一般的に普及してます。自分のいる場所、国、文化、歴史などに対する深い愛、という意味です。オハナ・アロハは家族の愛のつながりのことで、家族はハワイではもっとも基本的な単位でした。アロハ・ピリ・パアは、おたがいにくっついて離れないという意味で、具体的には男と女の変わることのない愛です」
「アロハというひと言をめぐって、一年十二回の読み切り連載。成立するわね」
「成立します」
「大福帳に財産がたまったなら、それをみんなと分かち合わなくては」
 芯を引っ込めたボールペンの先端でノートを軽く叩きながら、エレン・ステュードベイカーはそう言った。
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そこを滑り下りる遊び




 海に沿ったハイウエイを北に向かった。ハイウエイの西側には、丈の高い草や椰子の樹の向こうに、白い砕け波の続く海が見えていた。東側は、山脈の裾野が平らになりきったあとに広がる、ただの原野だった。ごくたまに、対向車とすれちがった。
 さらに北へ向かった。ハイウエイは直線になった。山裾がハイウエイのすぐ近くまで、届いていた。つかみどころのない、漠とした無人の光景が連続した。風があった。島の北だから、常に太平洋から強い風を受けていた。
 やがてハイウエイは海を離れた。視界は両側とも砂糖きび畑となった。このまま島の北端を東側へまわりこんだところに、小さな町がいまもあった。かつては砂糖工場があり、一週間に一万トンの粗糖を作っていたという。町へ入る少し手前で、ハイウエイから脇道に出て山なみに向かった。
 砂糖きび畑のなかの道路を山裾に向かった。道路は途中まで舗装してあった。その部分が終わると、砕いた岩を敷きつめた道へと変わった。それもやがて終わり、火山質の赤土の道となった。ミラーで見る後方には、赤土の土埃が盛大に巻き上がっていた。
 もっとも高いところで二百メートルほどある、尾根の末端のようなかたちをした部分が二本、山裾から原野に向けてのびていた。道はそのあいだへと蛇行し、ほどなくいきどまりとなった。片方の尾根の末端は、さらにいくつかの小さな峰へと、枝分かれしていた。そのいくつかの峰のなかの、海を正面に見る峰の背が、頂上からいちばん下まで、平坦な直線のスロープになっていた。スロープは三十度ほどの角度だった。なにも知らないままに観察しても、この峰の背だけが妙に平坦なスロープになっていることは、誰でもわかるはずだ。
 ここは古代のハワイの遺跡だ。専門家の入念な調査によると、遺跡ではないという証拠はなにひとつ見つからなかったという。だからこのスロープは遺跡だ、と誰もが信じていた。しかしこの遺跡の存在を知っている人はごく少ない。観光案内には出ていない。
 カプリースを出た僕は、草原のなかのあるかなきかの道を、スロープのある峰に向けて歩いた。風が強く吹いた。丈の高い草や灌木が、風の吹く方向へいっせいになびいた。草や灌木は峰のふもとまで続いた。高い樹もあった。スロープのある峰の斜面を、僕は頂上に向けて登っていった。遠くから見ているとわからないが、登るために斜面を歩くと、その斜面にはかつては簡単に階段がつけてあった事実を、きわめて淡くではあるが、地面に確認することができた。
 峰のもっとも高いところ、つまりスロープの頂上まで、僕は登りついた。風がいっそう強く僕の全身を叩いた。山裾につながる尾根を背にして、僕は遠くに太平洋を見た。砂糖きび畑が視界を埋めていた。砂糖きびとその無数の葉が風を受けとめていた。それらが波打つ方向が、風の吹いていく方向だった。砂糖きびの海は、さまざまな方向から同時に、波打った。
 僕は山裾に向きなおってみた。山裾はほとんど垂直のような険しさで山脈へと立ち上がっていた。そこに深い谷が何本も刻まれ、頂上まで密生した樹で深く覆われていた。人をよせつけることのない、濃い緑色の要塞のように見えた。
 僕は体の向きを変えた。そして峰の背にある直線のスロープを観察した。頂上から見下ろすと、スロープは完璧な直線だった。幅は人の体の横幅よりもわずかに広い。スロープの平坦さは、舗装された道路に近いものであることを、僕は知った。
 古代のハワイ人たちは、このスロープを下から頂上に向けて、作っていったという。峰の背をおおまかな平らへと削ったあと、スロープの基礎となる土台として、大きな岩を土のなかへ埋めるように、突きかためた。スロープぜんたいにわたってこの作業をおこない、その次には小さく砕いた岩を敷きつめ、これも叩いて埋め込み、平坦にならした。起伏なしの平坦な直線のスロープをひとつ作るのは、さほど面倒な作業ではなかったはずだ。人々は楽しみながらその作業をこなしたのではなかったか。
 峰の背のぜんたいを僕は歩いてみた。当然のことだが、峰の背は細長い土地だ。スロープの頂上から奥に向けて、細く長い長方形の平坦な土地が、二十メートルほどの奥行きで横たわっていた。いちばん奥までいくと、そこは山裾の急斜面から脚のように張り出し、尾根と接続している部分だった。
 風が強い。その力を全身に受けていると、自分の体重が確実に少しだけ、軽くなったように感じた。そしてその軽さのぶんだけ、峰の上で自分は不安定だ。風に下からすくわれ、斜めにあるいは横へ、飛ばされそうになった。尾根とつながる部分にしゃがみ、僕は山脈の険しい斜面を見上げた。
 視覚でとらえる険しさは、体の感覚のぜんたいでとらえる山なみの、途方もない重量だった。その重量が自分の心理のなかに入り込むのを、僕は風の力とともに受けとめた。視覚をとおして山なみが自分にのしかかってくる。その自分は山なみの重量と心理的には同化するのだが、風の力がその同化を裏切り続ける。山の体積と重量を視覚で受けとめれば受けとめるほど、風に対して自分の体が軽くなっていく錯覚があった。そのことに僕は緊張した。山裾のいちばん末端の峰の上で、僕は自分の体のなかに浮遊へのきっかけが蓄積されていくのを自覚した。
 立ち上がった僕は、スロープの始まりの部分へ歩いた。そしてそこに立ちどまり、スロープのぜんたいを見下ろした。眼下の原野に向けて落ちていく峰の背の斜面に、まっすぐで平坦なスロープは、明らかに人によって作られたものの雰囲気を、いまもはっきりと持っていた。
 スロープの長さは百二十メートルほどだろうか。最後の二十メートルほどは、なかば崩れつつ、丈の高い草や灌木の茂みのなかに消えていた。そのほかの部分は、一本のスロープとして、完全に見通すことが出来た。スロープの両側には並木のように樹がつらなっていた。柳の樹に似ていた。風がなければ枝は地面に向けて垂れる。スロープのぜんたいにわたって、いまはどの枝も風にあおられ、スロープに対してトンネルのようになっていた。
 このスロープを背に持つ峰のぜんたいを、地元の人たちはリトル・エジプトと呼んでいた。意味は誰に訊いてもわからない。由来に関してはいくつかの説がある。もっともわかりやすいのは、このスロープがエジプトのピラミッドをかすかに連想させるから、という説だ。
 いつ、そして誰が、このスロープを作ったのか、正確なことはまだわかっていない。近代や現代のものでなければ、それ以前のもの、つまり古代ハワイの人たちの作ったものだ。作りかたのあらましは、すでに書いたとおりだ。
 スロープの表面を直線で平坦に作るためには、糸を使ったのではないかと言われている。スロープの頂上から下まで、強い糸をまっすぐに張り渡す。たるまないように張力をかける。その糸とスロープとの関係を、横から点検していけばいい。修正すべき部分があれば、その部分の糸に染料で色をつけておく。そしてその部分ごとに、スロープを修正していく。
 なぜこのスロープを作ったのか、その目的はよくわかっている。ハワイに白人が来てから、白人たちによって描かれた絵のなかに、これとおなじようなスロープを見ることができる。このスロープは遊びのためのものだ。軽くしなやかに作った橇を両手で持って体の前に構え、スロープの奥から助走路を走る。ここで言うなら峰が尾根に吸収されるところからスロープの始まりまでの、二十メートルほどの距離だ。
 そこを全速力で走りきり、両腕に橇をかかげたまま、スロープの頂上を勢いよく踏み切る。スロープの上の空中に、橇とともに体を投げ出す。空中をその人の体は落下していく。橇から先にスロープに着地し、次の瞬間には体は橇の上に腹ばいになっている。飛んだときの勢いのままに、橇はスロープを滑走していく。体重の巧みな移動によって加速がつく。スロープから飛び出さないための操縦もこなしつつ、その人は橇とともにスロープを滑り下りる。
 このスロープはそのような遊びのためのものだ。自然のなかにいる自分が、自然を構成するあらゆる要素との一体感を増幅させるために工夫した、見事な遊びだ。古代のハワイではすべてのことが宗教とつながっていた。だからこのスロープでの遊びも、自然を使った肉体遊戯であると同時に、宗教的な意味あいをも色濃く持った儀式のひとつだったはずだ。遊びの行為ぜんたいを含めて、このスロープはハワイ語でホルアと呼ばれている。
 僕はスロープを途中まで歩いて下りてみた。スロープがきわめて強固に作られていることを、両足をとおして体の内部に感じることができた。スロープを作るとき、まず初めに人々がおこなったのは、峰の頂上に一本の溝を掘ることだった。
 その溝のなかに、人の頭ほどの大きさの岩を、スロープの頂上から下まで、ぎっちりと敷きつめる。その作業が終わったなら、今度は握り拳ほどのサイズの石を敷いていき、これもよく叩いて固く埋め込む。その次には、玉砂利ほどの石を敷いて固める。スロープの表面はこのようにしてできていく。両側は石垣のように石を組み合わせて積む。頑丈に作るから、めったなことでは崩れ落ちたりしない。
 橇で滑り下りるにあたっては、スロープのぜんたいに上から下まで、樹の葉をびっしりと敷きつめる。たやすく押しつぶされたりすることのない、固くて表面がつるつるした葉が好ましい。橇とスロープの表面との摩擦抵抗を、可能なかぎり小さくするためだ。
 橇を外に向けて、自分の体の前に両手でかかげ持つ。呼吸を整え、スロープに向けて走る。スロープの頂上を利き足で強く踏み切る。自分の胸から腹にかけて橇を引きつけ、スロープに対して自分の体が可能なかぎり平行になるようにして、空中に体を投げ出す。
 自分は橇とともにスロープに向けて落ちていく。衝撃をともなって、橇はスロープに着地する。一瞬だけ遅れて、自分の体が橇に受けとめられる。そのときはすでに、橇は敷きつめた葉を巻き上げながら、スロープを滑降している。うまくいった場合には、スロープの下に届くまで、加速を続けることができる。
 激しく雨の降る日に、橇とひとつになって、水しぶきとともにスロープを滑り下りる。スロープの下でずぶ濡れの泥まみれとなって立ち上がり、体に張りついた葉を雨に打たれながらはがすのは、ちょっとした快感であるに違いない。
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別れの礒千鳥




 まだごく幼かった頃すでに、僕は『別れの磯千鳥』の歌を知っていた。人が歌うのやレコードで再生されるのを聞けば、あ、またあの歌だ、と僕は認識することができた。部分的になら歌詞を知ってもいた。父親がこの歌を歌うのを聴いたのは、十四歳のときが初めてだった。
 地元の確かライオンズ・クラブの集会だったと思う。単なる例会ではなく、なにだったか僕は知らないが、なにか特別な集まりだった。父親はメンバーとして出席しなければならず、姉の舞子は雑用を引き受ける世話係のひとりだった。僕もついていくことになり、三人で会場へいった。
 会場には人がたくさんいた。誰もがおたがいに親しい知り合いのような雰囲気で、しかも誰もが限度いっぱいにその集まりを楽しもうとしていた。したがって会場のなかはたいへんなにぎわいだった。父親はすぐにどこかへいってしまった。世話係の姉は会場を歩きまわり、誰かれなく呼びとめられては、話をしていた。美人だし気が向けば座持ちがいいから、彼女には人気があった。
 僕はずっとひとりで椅子にすわっていた。立食のテーブルがいくつもあった。それらをまわって適当に食べて夕食とし、あとは飲み物の紙コップを相手に、おなじ席にひとりでいた。会合がどんなふうに進行したのか、僕は記憶していない。関心がなかったからだ。記憶しているのは、バンドがステージに上がってからだ。
 ポリネシア、日系、白人という雑多なとりあわせの、数人のバンドだった。フラ・スクールの女性たちがいた。なぜかドゥーワップの四人もいた。ごくたまに、なんの脈絡もなく、僕はこのドゥーワップ・グループの名前を思い出す。いまは思い出せない。
 演奏があり歌があり、フラが何度も披露された。ひとりで漫談を語り、会場の人たちを大笑いさせた白人の女性もいた。何度めかの演奏のとき、リーダーとおぼしきポリネシア系の男性が、
「ジェフ。ここへきて歌ってくれよ」
 と、会場の一角に視線を向けて言った。彼のそのひと言に反応して、人々は盛大な拍手をした。ジェフとは僕の父親のことだ、と僕はただちに認識した。父親は歌がうまいが、人前ではあまり歌わない。
「ここへこいよ。今夜はいいウクレレを持ってきてるんだ」
 ウクレレという言葉に、会場の拍手はさらに盛り上がった。立ち上がった父親がステージに向けて歩いていくのを、僕はひとりで見守った。盛んな拍手に会釈しながら、父親はステージに上がった。バンドのリーダーからウクレレを受け取り、胸の前で軽く構えてマイクの前に立った。精悍でハンサムな、じつにいい男だった。
「今夜はなにを歌ってくれるんだい」
 リーダーが訊いた。
 会場のまんなかあたりで、女性が歌のタイトルを叫んだ。なんというタイトルだったのか、僕には聞き取れなかった。父親はその声の方向に視線を向け、微笑した。そしていきなり、
「ヨシオ」
 と、僕の名を呼んだ。彼は僕がどこにいるのかわからない様子だった。
「ヨシオ」
 彼はふたたび僕の名を呼んだ。僕は手を上げた。父親は僕のほうに視線を向け、
「きみのお母さんが好きだった歌だ」
 と言った。
 マイクロフォンをとおした彼のそのひと言の、余韻が消えると同時に見事なタイミングで、バンドは演奏を始め父親はウクレレをかなでた。彼は歌い始めた。
 逢うが別れの始めとは、知らぬ私じゃないけれど。せつなく残るこの思いを知っているのは磯千鳥だけだというこのよく知られた歌は、当時の僕にとっては、単なる感傷的な歌のひとつだった。歌そのものには特別の感慨はなかった。
 父親の歌いぶりは、ものすごくうまいものだった。歌がうまいと同時に、その歌に託して、自分だけのものであるはずのなにごとかを、聴く人に存分にあたえてもいた。受け取ったそのとたん、その人は父親の歌の内部にからめ取られる。
 声にはやや硬めの艶があり、どの音域でも張りを失わなかった。喋るときの声の印象とは、かなり違っていた。いま歌っているこの男性が自分の父親であることを、僕はたいそううれしく思った。会場に広がっていく歌声に、僕は誇りすら感じた。
 歌い終えた彼は盛大な拍手を受けた。一曲だけでステージを降りるわけにいかず、続けて二曲か三曲、彼は歌った。そして最後の歌はコミカルな歌だった。歌詞のひと言ごとに会場の人たちは大声で笑った。口笛が鳴り声援が飛んだ。バンドの人たちは水を得た魚だった。陽気な大騒ぎがなにより好きという本来の姿で、歌う父親を支えた。
 父親がステージを降りたあと、僕が最初に思ったのは、この歌は僕の母親の主題歌なのだ、ということだった。彼女は僕が三歳のときに他界した。その彼女に、別れの歌であるこの歌は、ふさわしい。歌詞のなかでは、陸に残る人と船で去る人とが、別れている。陸に残されたほうの人の視点から、その別れは歌われている。その視点に母親は共感したのだろうか、と僕は思った。
 このときからちょうど十年後、二十四歳の僕が日本語で最初に書いた短編小説は、およそ次のような内容のものだった。
 ハワイに生まれてハワイで育った日系の青年がひとりいる。彼は作曲家を志している。ポピュラー・ソングの作曲家だ。高校生の頃から彼は音楽の才能をさまざまに発揮し、将来を嘱望された存在だった。アメリカ本土の学校で音楽を本格的に勉強する、という方向が少しずつ確定していく。しかし彼は日本へ留学することにきめる。
 戦前の日本だ。日本は父母の国ではあるけれど、二世の彼にとっては初めて体験する、ほぼ完全に未知の世界だ。日本は戦争に向けての傾斜を大きくしつつあった。貧しい国が無理に無理を重ねて戦争をしようというのだから、時代は急激に暗さを増して当然だ。
 そんな日本での彼の生活は、しかし、おおむねうまくいく。勉学は充実していた。日常は発見に満ちていた。そして彼はひとりの日本女性と知り合った。彼女は学校の先生をしていた。歌人でもあった。短歌を作る人だ。
 ふたりはごく淡い恋愛関係へと入っていった。一定の淡さのままに、しかし密度は濃さを増しながら、その恋愛関係はふたりによって持続されていく。彼らはどちらも独特な性格をしている。それゆえに恋愛も独特なものになる。
 それだけではない。たとえば彼は、黙ってじっとしていると日本人にしか見えない日系二世だが、もののとらえかたや考えかたは、大きく英語世界のほうへ傾いている。対する彼女は、良い意味で完全な日本女性だ。だから共通の理解の上に立つためには、時間をかけて蛇行していく必要もあった。
 戦争への傾斜はいちだんと急になっていく。アメリカ国籍である彼の身辺に、日本国家による執拗な干渉が加えられていく。日本とアメリカとの関係は、もはや決定的に不穏だ。彼はハワイへ帰る決意をする。
 その彼に彼女は一篇の詩を贈る。彼女が作った詩だ。わかりやすい、きれいな詩だ。メロディをつければそのままポピュラー・ソングになりそうだ。いつも彼女が作っている歌とは、言葉づかいもなにもかも、大きく異なっている。
 彼は横浜で船に乗り、ハワイへ帰っていく。真珠湾攻撃があり、戦争が始まる。彼はアメリカの兵士としてヨーロッパの戦線へ出る。戦争は終わる。彼は無事だ。ハワイへ戻る。そして戦後のホノルルで、音楽活動を再開する。
 そんなある日、日本から帰るときに彼女からもらった詩に、彼はメロディをつける。ひと息に、いっきに、じつに素晴らしい曲を、彼は作る。彼女の詩と完璧に一体となったメロディだ。
 彼女から受けとったときから、その詩は彼の心のなかにあり続けた。アメリカ陸軍兵士としてヨーロッパの激戦地を転戦している日々を支えてくれたのは、常に彼の胸のなかにあったその詩だった。彼は生まれついての音楽家だから、戦争のあいだずっと、なかば本能的に、しかし無意識に、その詩にメロディをつける作業を、心のなかでおこない続けた。その作業を意識化させると、ぜんたいのメロディはいっきに完成してしまう。
 演奏の場でためしに歌ってみると、たいへんに評判がいい。どこで披露しても、その歌は人々の強い共感を集めた。その歌は彼の歌そして彼のバンドの演奏で、レコードになった。レコードはよく売れた。ハワイの日系の人たちにとって、大切なスタンダードになっていった。
 それ以後の彼は、この歌を越える歌を作らない。地元の音楽の世界で、彼はスター的な存在になっていく。しかしスターになると、そのような状態から逃げようとする傾向が、彼の性格には顕著にある。
 逃げてひとりになると、こんどは寂しすぎてうまくいかない。自分をとりまく現実に対して、適切な折り合いをつけていく能力が、彼には欠けている。そのことが急激にあらわになっていく。結婚してすぐに離婚し、やがて仕事は不調になり、体をこわして病気になる。そして、若くしてあっさりと、彼はこの世を去る。
 解けることのなかった小さな謎を心のなかに持ったまま、彼はこの世を去った。その謎とは、日本からハワイに帰るとき、恋人の女性が贈ってくれたあの詩だ。曲をつけて大ヒットになった、あの詩だ。
 誰が見てもそれは明らかに別れの歌だ。慎重に選んだ美しい言葉を、洗練のきわみのような技術でつなげてあるから、ただ単なる別れの歌ではない。熱烈な求愛の歌としても、読むことができる。
 日本語に堪能で知的な人と知り合うとかならず、彼はその詩の解釈を求めた。別れの歌だと言いきる人は多い。しかし、これはおもて向きは別れの歌でありつつ、じつは必死な求愛の歌以外のなにものでもない、と力説する人もいた。
 その歌がハワイでヒットしてから、彼は戦後の日本を訪れる機会を持った。日本でもその歌はレコードになり、何人もの歌手が歌い、それぞれによく売れた。歌は日本の人々からも熱心に支持された。ごく短い滞在のあいだに、彼は彼女に連絡をとろうと試みた。手段をつくしても連絡はとれなかった。彼女とはついに二度と会うことなく、彼はハワイへ帰った。
 僕が最初に日本語で書いた短編小説は、あらまし以上のようなストーリーだった。僕の頭のなかで作った完全なフィクションなのだが、『別れの磯千鳥』の作曲者であるハワイの日系二世、フランシスコ座波の短い生涯と、ほとんどおなじであることを、あとになって僕は知った。
 短編を書いたとき、フランシスコ座波の名前はすでに知っていた。ハワイの日系社会における基礎知識だ。しかし彼がどういう人だったかについては、僕はなにひとつ知らなかった。『別れの磯千鳥』の歌は、もちろん知っていた。だが歌詞が作られた背景や、それに曲がついてレコードになった事情などは、まるで知らなかった。
 書いた当人である僕は、その短編を気にいっている。いいストーリーだといまでも思っている。しかし、発表はしていない。これからもそれが活字になることはないだろう。主人公の運命は、フランシスコ座波の人生と、まったくの偶然ながら、あまりに似ている。発表したなら、座波の生涯をなぞっただけの小説としての評価しか、得られない。
 偶然ではあるけれど、あまりによく似ている。この歌が好きだったという母親を経由して、知るはずもないことを僕はいつのまにか知ってしまい、そうとは意識しないままに、そのストーリーを最初の短編として、書いたのだろうか。
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姉とエルヴィス・プレスリーの会話




 僕の姉が三歳だったとき、彼女の母親のメロディという女性が死亡した。サンフランシスコの郊外をひとり自動車で走っていて、対向車と正面衝突したのだ。対向車には三人の大学生が乗っていた。その三人も命を失った。目撃者はなかったが、現場の様子から判断して、対向車がなんらかの理由で相手の車線に入り、メロディが運転していた自動車に衝突した、ということだった。
 姉の父親はすぐに再婚した。そして次の年には僕という息子を得た。姉の舞子とは四歳違いだ。そして僕が三歳のとき、僕の母親がこの世を去った。彼女の死因も自動車事故だった。このときは目撃者が何人かいた。母にはなんら責任はなく、責任のすべては対向車にある、と目撃者たちの証言は一致していた。対向車を運転していた男性も、病院に運ばれたのちに死亡した。
 このときから七十五歳で他界するまで、姉と僕の父親は、独身でとおした。姉と僕とは父親がおなじで母親が違う。どちらの母親も、僕あるいは姉が三歳のときに、亡くなった。自分には責任のない自動車事故であることも、似ていると言うならそうも言えた。
 僕にとって父親は、明らかに遠い存在だ。僕が成長していくあいだ、ずっといっしょにいたわけではない。離れていた期間はかなりある。しかしそれは遠い理由ではない。母親というインタフェイスを幼い頃に欠いたままだったから、母親をとおして、あるいは母親とあわせてともに体験していく父親というものを、僕は知らない。だから遠いのだ。姉に関してもこのことはおなじだ。彼女自身がそう言っていた。
 父親が亡くなってまだ間もない頃の、ある夜のことをいま僕は思い出している。父親が修理を頼んでおいたカプリース・クラシックをガレージから引き取ったすぐあとのことだ。ある夜、僕はその自動車にひとり乗って、夜の島のハイウエイを走った。無謀なことは僕の性格としてできないのだが、相当な高速で走ったことは確かだ。
 小さな町とおなじく小さな町とのあいだの、民家は一軒もなく、街灯などありっこない地点で、ふとカプリースを減速させた。ペダルを踏まなければ減速は早く、そのあとすぐに停止してしまう。ハイウエイの脇へ徐行していき、そこに停まってエンジンを切った。
 ドアを開いて僕は外へ出た。あたりは広い無人の夜だ。ヘッドライトを消し、前方に向けて僕は歩いていった。しばらく歩いた。いっさいなにごとも起きなかった。島をつつむ夜のなかに、僕は存在していないも同然だった。
 そんな自分を感じながら立ちどまり、しばらくそこにいたあと、僕は自動車まで引き返した。カプリースの正面に立つと、グリルのあいだからエンジンの熱が、僕の体に伝わってきた。手をのばし、エンジン・フードに触れてみた。フードは熱かった。
 運転席のグラヴ・コンパートメントには懐中電灯があった。軍隊で使用されているのとおなじものだ。僕はスイッチをオンにしてみた。ハロゲン・ランプが鋭い明るさで灯った。夜のハイウエイとその周辺に、僕は光の束を向けてみた。遠くには海がある。昼間なら見えるはずだ。その方向にも僕は光を向けてみた。光は夜のなかに吸い込まれた。
 島をほとんどひとまわりして、僕は家に戻った。晩年の父親がひとりで過ごした家だ。家には明かりが灯っていた。出ていくときに僕がつけていった明かりだ。そして家のなかには誰もいなかった。父親はいるはずもなかった。いない、ということをとおして、僕は父親の存在を感じる錯覚を、楽しむほかなかった。
 また別の夜には、家のなかの明かりをすべて消し、ラジオでメインランドの野球中継を聴く、ということも試してみた。父親がよくおこなっていたことだ。彼は野球が好きだった。受信機やアンテナなど、すべて父親が自分で作ったものだ。無線は彼が生涯にわたって続けた専門の仕事だ。陸軍を退役したあとも、軍隊と密接につながったきわめて高度な領域で、彼は仕事を続けた。
 受信機の性能は恐ろしいまでに高いのだろう、ビッグ・リーグの試合中継は、きわめて鮮明にくっきりと、夜の暗い部屋のなかにスピーカーから放たれた。その中継を聴きながら、球場でおこなわれているプレーのディテールひとつひとつを頭のなかに描いていく行為に没頭することをとおして、ほんの一瞬、僕は父親とおなじ人になった錯覚を持った。
 子供の頃にもっとも頻繁に遊んだ海岸は、マウイ島ではフレミング・ビーチだと父親は言っていた。その海岸は僕も知っているが、深いなじみを持つまでには、いたっていない。
 ある暑い日、僕はひとりでフレミング・ビーチへいってみた。波乗りのトランクスにTシャツ。丸めたビーチ・マットを片腕にかかえ、駐車場から海岸に降りた。あちこちに人が数人ずついるだけだった。適当な場所にマットを広げてTシャツを脱ぎ、僕はマットの上に横たわった。
 暑い日のマウイ島の陽ざしを全身に受けながら、僕はぼんやりとして過ごした。陽焼けしていく速度と深さとを、体感することが出来た。ときどき海に入り、少しだけ泳いだりした。波打ち際を歩き、熱い砂の上を最短距離でマットまで戻った。
 マットの上で僕は眠くなった。なかば眠りに落ちる瞬間が、何度も連続した。僕は寝返りを打った。おなじ方向に向けて寝返りを繰り返すと、僕の体はマットをはみ出た。上体が熱い砂と直接に触れ合った。焼けるように熱いのを我慢しながら、僕は顔を砂に接触させた。ごく軽く接触させてから、少しずつ頭の重量を砂に預けていった。
 太陽の光で存分に熱せられた砂の奥から、砂と太陽の香りを僕は胸の内部に吸い込んだ。その呼吸を何度か重ねていると、子供の頃の父親が親しんだのは、間違いなくこの香りなのだと、僕は自分に言い聞かせることができた。
 田舎町のどこかで、父親とふたりでサイミンを食べた午後について、なんの脈絡もなしに僕は思い出す。小屋のような店だった。ほとんどのテーブルは屋外にあった。何本かの大きな樹に囲まれていて、頭上で重なり合う枝と無数の葉が、涼しい木陰を作っていた。
 ポリネシア系の若い女性が僕たちの注文をとった。こんなことは面白くもなんともないという表情の彼女が、裸足で歩いて小屋に戻っていったうしろ姿を、いまも僕は覚えている。裸足の足音に人種別があるなら、彼女の足音はまさにポリネシア系の人のものだった。
 それからかなり時間がたってから、彼女は店から出てきた。熱いサイミンの入ったどんぶりを、両手にひとつずつ持っていた。この世にはもはやなにひとついいことはないという表情で、彼女は僕たちのテーブルまで歩いてきた。サイミンのどんぶりの持ちかたは、太い親指の先をどっぷりとサイミンのスープのなかにひたす、というスタイルだった。
 彼女が小屋に戻ってから、
「ポリネシア親指スープのサイミンだよ」
 と、父親が言った。
「あんなふうに親指をスープのなかに入れて、熱くないのだろうか。このスープは、ほら、たいへん熱いよ」
「彼女に訊いてみればいいのに」
「そうもいかないよ」
「なぜ」
「熱くないのかと訊ねたなら、親指をスープに入れずに持ってこいという意味になる」
 よくできたサイミンだった。マウイ島の午後にそれはたいそうふさわしかった。あの店があった場所は、どこだっただろう。おそらくワイルクだ。十五年ほど前のことだ。店はもうないかもしれない。探してみようか。自動車で走っていると、あるときふと、場所や方向の記憶がよみがえることがある。
 ワイキキのアラワイ運河を越えて吹いてくる貿易風は、父親が子供だった頃の風と、いまもおなじだと僕は思っている。あの風のなかから、いまのワイキキに特有の匂いを構成している要素のすべてを、想像のなかで差し引いてしまう。あとに残る純粋な風の香りを、きわめてかすかに、しかもほんの一瞬、僕の体の感覚が受けとめる。イオラニ・スクールにかよっていた少年の頃、父親がいつも受けとめていたのはこの香りなのだ、と僕は思う。父親は僕からそれほどに遠い。
 母親に関する記憶はひとつしかない。ピンク・テコマ・トゥリーの花の記憶だ。ピンク・テコマの樹は、草地のなかに黒くどっしりと生えている巨木だ。ピンクの花が咲き、その花が草地の上に落ちる。緑色の草の上に、ピンクの花がびっしりと敷きつめられる。樹の幹を中心に枝の長さを半径にして、草の上にピンクの円形ができる。その円のなかを、母親と斜めに横切っていく幼い自分が感じていた、ピンクの花。この記憶だけだ。
 姉について書いていくと、それだけで一冊の本になるはずだ。彼女に関する最初の記憶は、キャンディの袋に印刷してあったサンシャインという言葉の意味を、僕に説明してくれたことだ。
 そのキャンディは、干し葡萄のひと粒ひと粒を、ミルク・チョコレートでくるんだものだった。黄色い小さな袋に、掌にいっぱい分ほどの量が、入っていた。チョコレート・カヴァード・サンシャインと、袋の下に英語があった。チョコレートでくるまれた陽ざしだが、ではその陽ざしとはなになのか。
 実った葡萄を収穫し、広げて太陽の光に当て、充分に干したものが干し葡萄なのだと姉は言い、ミルク・チョコレートにくるまれた干し葡萄をひと粒、口のなかに入れた。チョコレートを溶かして飲みこみ、葡萄だけになったのを指先につまみ出し、彼女は僕に見せた。
「葡萄がここまで干し葡萄になるまでには、太陽の光をずいぶんたくさん吸っているのよ。干し葡萄とは、葡萄に吸い込ませた太陽の光なのね。だから干し葡萄は、別名をサンシャインというのよ」
 九歳のときに僕は一時的にハワイから日本へ戻った。姉と父親もいっしょだった。飛行機ではなく船だった。日本へ持っていく荷物はすでに船に運んであり、船旅のために必要な身のまわりの荷物だけが、住んでいた家に残った。家のなかがもっともがらんとして虚ろだったのは、出発の日だった。その様子が悲しくて、僕は朝からなかば泣いたような状態だった。
 間もなく港に向けて出発するというとき、姉が僕の部屋へきてドアの外に立った。
「荷作りはできたの?」
 と、彼女は僕に英語で訊いた。
「イエス」
 と、僕は答えた。
 なにごとかを判断しようとする人の視線で、彼女は僕の顔を見た。
「なにか不都合があるの?」
 姉は僕にそう訊いた。泣きそうになっている僕の表情に対する、もっとも適正な質問だった。
「ノー」
 と、僕は答えた。姉は立ち去った。
 姉の最初の質問に対して、イエスのひと言による返事、そして次の質問に対しては、ノーのひと言の返事。こんな小さな出来事を、いまでも僕はくっきりと記憶している。
 僕が十五歳の頃、姉はカリフォルニアにいて、高飛び込みに熱中していた。飛び込み台の頂上から、下にあるプールの水めがけて、まっさかさまに落下していく姉を、ある日の午後、僕は観察した。ほかに人のいない飛び込み専用のプールに、そのときは僕と姉だけがいた。
 姉はこのとき十九歳だった。まだ成熟しきってはいない女性の、鋭い端正さが際立って美しい、見事に整った体をした姉が、水着姿で飛び込み台の最上段に立った。固いきらめきのある陽ざしを全身のあらゆる部分に受けとめながら、姉の体は空中に跳躍した。
 透明ななかに荒さを秘めた空気を切りわけながら、姉の体は落下しつつ同時に、何度も回転した。跳躍してから水面に突き刺さるまでのごく短い時間のなかに、僕は姉の核心を見たように感じた。飛び込みは完璧だし、体は文句なしに美しいのだが、その彼女にカリフォルニアの空気と陽光とは、質的にまったく合致していない、と僕は直感した。
 水をたたえたプールに向けて落下していく姉の体には、そのときの僕が底なしに感じたほどの、たいへんな受容力が満ちていた。彼女の体は受容力そのものだった。限度いっぱいに攻撃的にならなければいけないカリフォルニアの空気と陽ざしのなかで、姉は受容という受け身の権化だった。そのことを少年の僕は悲しく思った。
 姉は万能だ、と僕は思っている。彼女はなんでもできる。単にできたりこなせたりするだけではなく、高度な技術を楽々と披露しつつ、質的に高いところですべてをおこなう。おそらくそのせいだと思うが、二十代の彼女は職業が一定せず、次々に変化した。そしてそのたびに、住む場所や行動する世界も、大きく変わった。
 二十代のなかばには、彼女はエルヴィス・プレスリーのそっくりさんのバンドで、専属のギタリストを務めていた。そのそっくりさんは、サン・レコードでレコードを作っていた頃のエルヴィスから、アメリカ陸軍に徴兵されて入隊するまでのエルヴィスを、再現してみせる人だった。
 だから姉が彼のステージで果たす役は、スコティ・ムーアの役だった。大役だと僕は思うが、ごく気楽な様子でスコティの再来のようにギターを弾き、姉はそっくりさんとともにステージを楽しんでいた。
 ハワイで一度だけ僕は彼のステージを見た。エルヴィスにそっくりだ、と僕は思った。体つきとその動きには、エルヴィスにはなかった固い芯のようなものの存在を、僕は感じた。似ていないのは彼の額だった。秀でた額、というものが人の世にはあるけれど、そっくりさんの額はまさに秀でたとしか言いようのない、鋭い頭脳の切れ味を感じさせる、かたちの良い額だった。前髪が垂れてその額が隠されると、彼は気味が悪いほどにエルヴェスに似ていた。
 彼は一年のうちおよそ半分をステージ活動にあて、残りはアメリカのどこか山のなかの小さな町で、エルヴィス・ラジオというラジオ局を、ほとんどひとりできりまわしていた。彼がエルヴィスの声でニュースを読み時局を語り、レコードをかけ、聴取者からの電話に応答したりする。
 姉にはハリウッドで仕事をしていた時期もある。有名な女優と体のサイズがまったくおなじで、その女優はいつも髪を黒く染めていた。本来の色だときわめて平凡だからだ。髪を黒くすると、彼女の美貌のなかにある謎めいた部分が、妖しく増幅された。姉も髪は黒く、東洋と西洋の違いはあるものの、美貌ぶりはほぼ互角だった。
 その女優のワードローブ担当のひとりとして、姉は契約で仕事をした。主としてヨーロッパで、その女優のための服を買う仕事だ。映画のなかで身につける服、あるいは私服の、どちらにも使える服を自分で着てみては選び、買ってハリウッドに送るのだ。なにを買うか買わないか、判断の基準に関して、姉はその女優から完全に信頼されていた。
 エルヴィス・プレスリーが衛星中継でアロハ・フラム・ハワイの公演をおこなったとき、姉はホノルル警察で空手の教官をしていた。ホノルルにおけるエルヴィスの空手遊びの相手のひとりとして、姉は選ばれた。前後三回、おなじメンバーが、エルヴィスと空手を楽しんだ。
 このときのエルヴィスとの会話について、姉はのちに僕に語ってくれた。南部の地元のスターからアメリカぜんたいのスターになっていきつつあった頃、彼は仕事でニューヨークへいった。仕事を終わった彼は、汽車でメンフィスへ帰った。メンフィスの駅に向かう途中、当時のエルヴィスの自宅のあった場所のすぐ近くを、汽車は通過した。いまここで降りれば自宅まで歩いてすぐなのに、駅までいってしまうと遠まわりだよなどと、窓の外を見ながらエルヴィスは同行者たちと話をした。
 彼らのその会話が聞こえたかのように、汽車は速度を落とし始めた。人が普通に歩いているよりも遅い速度まで減速した。エルヴィス、いまなら汽車を飛び降りることができるよ、と誰かが言った。汽車は減速したままだ。加速に転じる気配はなかった。
 席を立ったエルヴィスは客車を出ていき、デッキから線路の脇へ降り、何本かの線路をまたいで歩き、すぐに鉄道の敷地の外に出た。そして振り返り、窓から見ている同行者たちに一度だけ手を振り、ひとりでそのまま歩いていった。まだ髪を黒く染めていなかった頃だ。ダックテイルにまとめた銅色の髪が、西陽を受けとめて輝いて見えたという。
 減速した汽車を降り、歩いて自宅へ帰ったこのときのことについて、エルヴィスは姉に語った。機関手に頼んで汽車を停めてもらったという説があるが、それは間違いだ、汽車がなんらかの理由で減速したからそのチャンスに勝手に降りたのだ、とエルヴィスは力説したそうだ。
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カラニアナオーレ




 目覚めに向けて浅くなっていく睡眠のなかで、僕は父親の足音を聴いた。アメリカの軍人が履く黒い革の靴の底が、板張りのフロアに接して作る足音だ。その靴のよく磨かれた黒い様子を、夢のなかに僕は見た。ポーチのドアが開く音、そしてそのドアが閉じる音に続いて、ポーチの階段を降りていく父親の足音を、僕は聴いた。そして目が覚めた。
 僕はベッドに起き上がった。寝ていたければ寝ていろ、起こさないぞ。朝は久しぶりにジョージのところだ。昨夜、父親が寝る前に言ったことを、僕は思い出した。ジョージのところとは、マーモ・アンド・ケアワエの角にある軽食と雑貨の店だ。店主のジョージ沖中と僕の父親は幼なじみだ。今日の父親は朝食を彼の店で食べる。
 ベッドを降りた僕は寝室を出た。廊下を歩いてキチンに入り、そこを斜めに横切ってふたたび廊下に出て、居間に入ろうとした。その僕が目にしたのは、空中に穏やかな弧を描いて飛んでいく新聞だった。朝刊の全ページを太い筒のように丸め、幅の広い輪ゴムで留めたものだ。その新聞が二十畳ほどの広さの居間を、いっぽうの端から他方の端に向けて飛んでいった。空中に描いた弧がもっとも高くなった瞬間、その高さは僕の目の位置とほぼおなじだった。
 居間の奥の壁に寄せてソファが置いてあった。そのソファの上に丸められた新聞は落ちた。座る部分と背を預ける部分とが交差して作る角のところに、輪ゴムで留められた筒状の新聞は落下した。一瞬だけそこにはまり込み、そして跳ね上げられ、ふたたび落下してそこに静止した。ポーチの階段を降りきる父親の足音が僕に届いた。僕は居間に入り、そこを斜めに横切った。ポーチから正面のドアを入ったところには、フォイアーのような曖昧な板張りのスペースがあった。そこを越えてドアを開き、僕はポーチへと出た。オリーヴ・ドラブ色の平たくて大きなセダンが、階段のすぐ外にある道の縁から発進していくところだった。ナショナル・ガードの車ではないか。いまの父親とナショナル・ガードとのあいだに、どのような関係があるのか。走り去るそのセダンを見送りながら、父親が言ったとおりこれで二度と会えないかもしれない、と僕は思った。
 居間へ引き返した僕は、奥の壁に寄せたソファの前に立った。丸めて輪ゴムをかけた今日のヒロの朝刊を、僕は見下ろした。二度と会えないかも知れない父親の、これが最後の名残となるか、などと僕は思った。丸められたこの新聞が居間の空間をソファに向けて飛んでいくのを見たとき、僕の心のなかをおなじように飛んで横切った懐かしい気持ちを、僕はひとりで反芻した。父親はいろんな物を投げる人だった。投げると言うか、あるいは放り出すと言うべきか、その場所まで持っていって置く、という手間を省く行為として、ごく幼い頃に僕は理解した。投げやりな態度、あるいは乱暴な気持ちなどのあらわれではなく、要するに投げるのだ。「キャッチ」という父親の言葉に振り向くと、僕に向けて飛んで来る思いもかけない物を空中に見る、という体験を幼い頃から何度となく僕は繰り返した。そのつど僕は、それを取り落とすことなく、空中で捕まえなくてはいけなかった。
 キチンへいって冷蔵庫の冷たい水を飲み、寝室に戻って僕は服を着た。服と言っても、ジーンズに半袖シャツ、そして靴下にトレッキング・シューズだ。洗面室で髭を剃り、軽く歯を磨いた。正面の窓から見える空は曇っていた。さほど遠くないところに太平洋があり、曇り空は平凡な直線を介してその海と接していた。熱帯樹林が山なみのように重く横たわり、そこから手前に向けて、空き地とも農地ともつかない、起伏が細かく連続する土地が広がり、そのなかに平屋建ての倉庫のような建物、あるいは民家が、点在していた。
 家のなかを僕はひとりで歩いてみた。間取りをくまなく見てまわった。アメリカ陸軍を除隊したあと、父親が建てた家だ。ここを生活の拠点にして、彼はヒロに小さな放送局を作った。自分の放送局を持つのは長年の夢だった、と父親は言っていた。けっして嘘ではないのだが、夢の実現だけではなかったのではないか、といまの僕は思っている。どこかでなにかが、陸軍の仕事と、極秘のうちにつながっていたのではないか。確かな根拠はなにもない。しかし父親はアメリカ陸軍で、高度な領域での通信の仕事を、専門に続けて来た人だ。
 父親がその放送局を作ったのは五年前のことだ。そして三年前に彼はアメリカ陸軍に呼び戻された。所属や階級、仕事の内容など、いっさい彼は明かさなかったが、陸軍の人となったのは確かだ。この頃から母親との仲がうまくいかなくなった。放送局はいまでも彼が所有者だが、すべての実務は完全に人に任せている。陸軍に呼び戻された父親が局の仕事を離れた直後に、史上最高の強力な台風がハワイを襲った。地元の人々の安全と安心にかかわる情報の発信で、このときこの放送局は大活躍をし、英雄的であったとすら讃えられたほどだ。以後、この放送局は地元にとって、なくてはならないものとなり、ささやかながら経営は安定を続けている。
 父親はこれから中東へいくという。ありとあらゆることが軍の機密であるらしく、中東のどこでなにをするのか、それがどのくらい続くのかなど、父親はいっさいを明らかにしないままだ。こちらからは連絡すら出来ないという。もう会えないかもしれないけれど、とにかく元気でいてくれ、と父親は言った。母親とは決定的に破綻し、彼らは離婚した。母親はいまホノルルにいる。この家はすでに引き払った。だからここに彼女のものはなにもない。
 がらんとした家のなかを、僕はひととおり観察した。住んでいた人たちの誰もがいなくなる家、というものを目のあたりにするのは、僕にとってはいまが初めてのことだ。家具や調度はそのまま残しておく。所有者は母親で、地元の不動産屋が管理する。貸すことになるのだろう。そしてその借り手は、放送局で働いている日本女性になるだろう、と不動産屋の人は言っていた。東京では僕の自宅のすぐ近くに住んでいた、僕とおなじ年齢の女性だ。両親が僕の場合とおなじハワイの日系だからという理由で、東京にいた頃の僕の両親は、彼女や彼女の両親と親しくしていた。ハワイに住むのが彼女の夢で、その夢は僕の父親の放送局に雇われることによって、ひとまずはかなったのだ。初めの頃は事務をしていたが、いまではニュースを読んだりもしている。あの台風が来たときには、彼女はすでに局のスタッフのひとりだった。
 僕は居間に戻った。そして壁ぎわのソファの前に立った。丸めて輪ゴムをかけた新聞は、父親によって投げられたままに、ソファの上にあった。それを見下ろしながら、僕は父親の行動を想像のなかに再現してみた。自分の覚悟としてはこの家を最終的にあとにする日である今日、したくを整えた彼は軍隊用の書類ケースひとつを持ち、ドアを出た。ポーチの階段を、彼はいつもの足どりで降りていった。階段を降りきったあたりに、配達の人が車から投げていったこの新聞が、転がっていた。彼はそれを目にとめた。だからそれを拾い上げ、階段を上がってドアからなかに入り、居間の入口から奥のソファに向けて、この新聞を投げたのだ。そして再び彼は階段を降りた。ジョージの店で朝食を食べ、そのあとは空港へいってホノルル行きの飛行機に乗るだけの彼を、ナショナル・ガードの車が迎えに来ているとは、どういうことなのか。新聞を配達した人の車も、僕は鮮やかに想像することが出来た。バンパーや車体下部はもちろん、ボディのいたるところで塗装と下塗りがはげ落ち、赤錆の浮かんだオルズモビール・カットラスのファスト・バックだ。
 この家を自分は引き払った、という手紙が母親から東京の僕に届いたあと、父親からも電話で連絡があった。電話局の交換手をとおした、ホノルルからの電話だった。しばらくはここに滞在するので、自分もこれっきり帰ることはないと思うあの家で、一日か二日なら落ち合って過ごすことが出来る、という内容だった。久しぶりにヒロも悪くない、と僕は思った。だから僕は、この家で父親と落ち合う日をきめた。その日が昨日だった。偶然は重なった。父親からの電話のあと、姉からも電話があった。父親の最初の妻とのあいだにひとりだけ生まれた娘で、僕から見れば異母姉だ。彼女の母親とも、僕の父親は離婚した。離婚したすぐあとに、彼女はパサディナで自動車事故を起こし、他界した。姉はいまはハリウッドで女優をしている。TVシリーズへのゲスト出演があり、撮影はホノルルでおこなわれるから、あなたの都合さえつくなら会うことが出来る、という連絡だった。彼女のいつものパターンだ。この前に連絡があったときは、メキシコのヴェラクルーズで撮影があるからそこで落ち合えないか、と姉は言っていた。さらにその前は、目黒区柿の木坂の知人の家にいるから、夕方から銀座で会うのはどうかという、突然の電話だった。
 一週間前に僕はこの家に着いた。家は無人だった。不動産屋で鍵を受け取り、ひとりで一週間をこの家で過ごした。快適だった。東京からここへ移ってもいいのではないか、という思いが誘惑のように僕の気持ちのなかに広がった。そして昨日、父親と姉があらわれた。ふたりは連絡を取り合うことはなく、まったく別々に行動したのだが、この家で落ち合ったのはほぼ同時刻だった。午後を三人で話をして過ごし、夕食は外で食べた。ヒロ・ホテルのフジというレストランで食べることを僕は主張し、父親は淡い苦笑とともに承諾し、姉は単にOKと言っただけだった。フジでは鉄板焼きと天麩羅、そして刺し身を食べた。ヒロの知人の家に泊まって積もる話をするという姉を、その知人の家まで送り、僕は父親とふたりでこの家へ帰って来た。しばらく話をしたあと、彼は別の寝室で先に寝た。
 十一時になって僕は家を出た。今日の午後遅く、僕はホノルルから飛行機に乗って東京へ戻る。小旅行用の鞄ひとつに、丸めて輪ゴムをかけた新聞を持ち、僕は家を出た。ドアを出てそのドアを閉じ、ひとつだけある錠をかけた。あるけれども、ないも同然の錠だ。ポーチから僕は階段を降りた。ポーチの階段にしてはかなりの段数があった。階段を降りたあたりは、外にある道とこの家の敷地との関係で言うなら、前庭にあたるスペースだろうか。そのスペースの奥にバジェットで借りたフォードのセダンが停めてあった。一九六五年の淡い水色のファルコンだ。トランクを開いた僕は、鞄をそのなかに入れた。筒状の新聞はかなりの重さだった。一九六八年六月十四日という、今日の日付を僕は見た。新聞を鞄のかたわらに置き、僕はトランクを閉じた。
 ジョージの店の脇を通過して交差点を越え、左折を繰り返した。ジョージの店の斜め前に映画館がある。その隣の空き地に僕はファルコンを入れて停めた。車の外に出て道を横断し、僕はジョージの店に入った。この一週間、朝食ないしは昼食を、僕は毎日ここで食べた。ジョージはカウンターのなかにいた。鍵型にあるカウンターに沿ってストゥールがならび、その背後にある店の角のスペースは、ごく小さな雑貨店となっていた。とりとめなくいろんな雑貨があり、スペースのまんなかには塔のようになった棚があり、その棚にはこまごました商品が立体的に陳列してあった。いつ来て観察しても、どれひとつとして売れた形跡がないままに、常におなじ商品が置いてあった。
「今朝はお父さんが来たよ」
 ハワイの日系の人の英語で、彼が言った。
「軍の護衛つきだったでしょう」
 僕の返事に彼は微笑した。
「きみのお父さんは、きっと重要な人なんだよ。車を運転していた若い兵士は、緊張してたからね。ここから見ててもそれはよくわかったよ」
 僕の父親がここで朝食を食べるあいだ、ナショナル・ガードのセダンは店のすぐ前に停まって待っていた、とジョージは言った。
「ハム・アンド・エッグスにトースト、そしてパパイアの半分にコーヒー」
 毎度のきまり文句を、さも深く思慮した結果であるかのように、僕は言った。
「朝食だね」
「そうです」
「長く寝てると、いろんな夢を見て楽しいね」
「悪い夢もあります」
「そうかね」
 と、そのひと言だけは、ジョージは日本語で言った。このひと言が出ると、そこで会話はいったん終わる。ジョージは調理場のなかに入っていった。
 僕の朝食を両手に持って、やがて彼が調理場から出て来た。カウンターのなかから僕の前にそれらをならべ、
「お姉さんはもうハリウッドへ帰ったかい」
 と、ジョージは訊いた。
「まだここで知人の家にいます。これから僕が迎えにいって、空港まで送ります」
「宣伝用のポートレートでいいのがあるなら、一枚もらえないかな。額に入れて店の壁に掛けておきたいんだ。彼女がヒロの出身だということを知ってる観光のお客さんが、いまでもかなりいてね。ポートレートを壁に掛けておけば、話題になっていいよ」
「姉に言っておきます」
「TVの西部劇のシリーズは、素晴らしかったね」
 一九五〇年代の終わりに姉は西部劇に出演した。コマンチという先住民部族の若い娘に扮し、劇中ではかなり活躍した。馬の乗りこなしは特筆すべき見事なもので、これがTVプロデューサーの目にとまり、開拓期の西部を舞台にした推理劇のシリーズに、彼女は主役のすぐ脇の役で出演し、そのシリーズは人気があって二年続いた。ジョージが言うTVの西部劇シリーズとは、このことだ。姉が映画に関係するようになったきっかけは、俳優たちに対しておこなう射撃の指導だった。姉は射撃の名手であり、銃器の専門家だ。
 朝食を食べ終えると、ちょうどいい時間となった。店を出て僕は道路を渡り、運転席に入ってファルコンを後退させた。店のなかから手を振るジョージに応えながら、僕は車を発進させた。
 姉が泊まった知人の家まで、五分とかからなかった。庭の前にファルコンを停め、うしろのドアを僕は開いた。姉はいつもうしろの席に乗るからだ。半分だけ弟の僕は、その姉のために気を利かせたつもりだ。ポーチの上で家のドアが開き、姉が出て来た。小柄だけど姿のいい美人だということは、ここからでもわかった。いまは足を傷めているという知人が、杖をついてドア口まで姿を見せた。彼女は僕に手を振り、姉はポーチの階段を降りていった。
 階段を降りた姉は、まっすぐにファルコンに向けて歩いた。その彼女を僕はこちら側のファルコンのかたわらから、そして知人はポーチの上という背後の位置から、同時に見ていた。歩いて来る姉を見ているだけで、気持ちのなかに満たされたものが生まれるのを、僕は今回も感じた。今日はいいものを見た、だから自分は得をした、というような気持ちだ。
 ファルコンまで歩いて来た彼女は、後部ドアが開けてあるうしろの席に向けて、持っていたピストル・ケースをほうり投げた。遠目にはアタシェ・ケースに見えるが、本来はピストル・ケースだ。オートマティック・ピストルとそのマガジンを二丁ずつ収納することの出来る、特殊な強化プラスティックのケースだ。なかの仕切りをすべて取り払い、革を内張りして彼女はアタシェ・ケースがわりに使っている。歩くテンポを変えないまま、絶妙の距離からほうり投げたそのケースは、姉の手を離れて正立したまま飛んでいき、ファルコンのなかに入る寸前、空中で横倒しとなり、ベンチ・シートの向こうの席のまんなかに、平らに落下した。ほうり投げるにあたって、ケースが手を離れる直前に手首に微妙なひねりを加える、というような工夫があるのではないか。僕とならんで立ちどまった彼女は、知人を振り返って頭上で高く手を振った。
 空港に向かうファルコンのなかで、僕たちは短いやりとりを交わした。
「今朝の僕は寝坊をしました」
「父はジョージの店で朝食をひとりで食べたのね」
「ジョージさんがそう言ってました。お姉さんのポートレートが欲しいそうです。店の壁に掛けて、客との話題にするのだと言ってました」
「店宛てに送っておくわ」
 ピストル・ケースを開いた彼女は、手帳を開いてボールペンで走り書きをした。ジョージの店にポートレートを。おそらくそう書いた。あらゆることを手帳に書きとめ、さらに詳細な日記までつける姉だ。
「二十年もしたら、アラビアの砂漠へふたりでいってみましょう。ミイラになっている父親を発見出来るような気がするわ」
 そう言って姉は笑い、僕も笑った。
「ここだけの話で他の誰にも言ってはいけないけれど、中東に高度に軍事的な秘密の通信網を張りめぐらせる計画の一端に、私たちの父親は参画してるのよ」
「中東のどこですか」
「砂漠」
「なぜ砂漠なのですか」
「砂漠の下には石油があるでしょう」
 空港に到着し、姉はピストル・ケースを持ってファルコンを降りた。運転席を出た僕はエンジン・フードの前をまわり、姉と向き合って立った。おたがいに相手を軽く抱き寄せ、頬を交互に重ね合い、
「搭乗は始まってるわ」
 という彼女のひと言が、ひとまずの別れだった。だから僕たちはそこで別れた。
 僕は不動産屋へ向かった。一週間前に鍵を受け取りに立ち寄ったとき、僕は道を間違えた。今度もそのとおりに、違う道をしばらく走り、間違いに気づいて引き返した。道路脇からかなりの傾斜となっている駐車場が目印だった。その駐車場を見下ろす位置に、小さな箱のような木造のオフィスがあった。先日とおなじポリネシア系の女性が、デスクに向かって仕事をしていた。
 鍵はそこに置いて、と彼女は黄色い鉛筆の消しゴムの側で、カウンターの上を示した。鍵をそこに置いた僕は、
「新聞が配達されてるのです。止めるように言ってください」
 と彼女に言った。
「あの配達人は、購読者であるかどうかおかまいなしに、順番に車から投げていくだけなのよ。投げる新聞がなくなったところで、配達はお終い」
 そう言って彼女は首を左右に振った。
 不動産屋のオフィスから僕は家に向かった。家の前の道をゆっくりと走り抜けてみた。鞄とともにトランクのなかにある丸められた今日の新聞を、ポーチの階段の下へ投げてみたい、という思いつきは魅力的だった。だが僕はそれを思いつきのままにとどめた。あの新聞はホノルルから東京への飛行機のなかで読もう。そして東京の自宅に置いておこう。もとどおり重ねて筒状に丸め、輪ゴムをかけて。父親の形見となる可能性だって、けっしてなくはないことだし。





底本:「ラハイナまで来た理由」同文書院
   2000(平成12)年3月4日第1版第1刷発行
   カラニアナオーレ「コヨーテ No.4」スイッチパブリッシング
   2005(平成17)年2月10日発行
入力:八巻美恵
校正:野口英司
2010年3月20日作成
2012年12月31日修正
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