波乗りの島

片岡義男




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白い波の荒野へ



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 かつては洗濯部屋だったところが、スライドや16ミリ・フィルムの映写室になっていて、いま僕たち四人はその部屋のなかにいる。映写時間にして五十分ほどの16ミリ・フィルムを、これからみんなで見ようというのだ。窓が北に面してひとつしかなく、その窓のブラインドを降ろすだけで、この部屋は昼間でもまっ暗にすることが出来る。
 16ミリ映写用のスクリーンには、透明なリーダー・フィルムをとおって来た黄色い光線が、四隅を丸く落とした横長の四角をかたちづくっていた。そのリーダー・フィルムに焼きこまれている数字が、スクリーンに映写され始めた。楽に読みとれるスピードで、その数字は0から9、8、7、6、5、4、3、2とカウント・ダウンされ、最後に数秒間、1の数字が残った。
 数字が消えると、いきなり、黄金色に染めあげられた波の広がりが、スクリーンいっぱいに映った。朝のまだ早い時間の波だ。朝陽と夕陽、それに昼間の陽とでは、波に映ったときの色調がまるで異なるし、波から照り返される輝きも完全に異なっている。
 コオラウとワイアナエのふたつの山塊を越え、東から昇って来たばかりの太陽を斜めに受けて、その波は太陽の光をさまざまに乱反射させながら、四フィートから五フィートほどの高さに盛りあがっては砕けた。それだけを見続けてもけっして飽きることのない、見ている人の全身をたやすくのみこんでしまうリズムの繰り返しが展開された。
 そしてあるときいきなり、その波の広がりぜんたいが、高く持ちあげられていった。高速度で撮影されたフィルムなので、海ぜんたいが、いつまでもどこまでも、高く隆起していくかのように感じられた。海の底に眠るすさまじい生命力を持った巨大な生物が、ひと思いにその身の丈いっぱいに立ちあがっていくようだった。
 広角レンズによって二十フィートから三十フィートの横幅でフィルムにカラーでとらえられた海が、左右へ不規則なテンポで交互に傾き始めた。エマニュエルが乗っていたサーフボードのテールの部分が、一瞬、スクリーンの左端に映った。
 スクリーンのなかの海ぜんたいは、なおも盛りあがって高さを増していきつつあった。急速にふくれあがっていくかなり荒れた海の上を、撮影カメラは右に向けて移動し始めた。
 カメラが右へ移動するにしたがって、スクリーンに映っている海は左を低く右を高くして斜面をかたちづくっていき、その斜面が一定の角度を越えると、波は太陽の光を受けなくなった。
 波のうねりは黄金色に輝くのをやめ、重くて濃い緑色の海へと変わっていった。と同時に、波の香りと音が、部屋いっぱいに広がっていくような錯覚を、僕たちは覚えた。いくつにも波が重なり合った斜面は、急勾配へとせりあがり、ほぼ垂直な分厚い水の壁となってそこに立つかに見えたとき、ゆっくりと水平に戻った。
 見る者を圧倒する波の量と、スローモーションで落とされたそのスピードとの落差、そして絶えることなくスクリーンの底から沸きあがって来る無数の飛沫が、フィルムにとらえられた波を現実の波を超えたなにか違った存在へと、変化させていた。
 カメラの位置がふたたび変わっていった。サーフボードの上に両膝をつくか、あるいは両膝を深く折って乗っていたエマニュエルが、波にあわせて両脚をのばし、サーフボードの上にまっすぐに立った。そのときの彼の体の動きをそのまま、スクリーンの映像をとおして僕たちは感じた。
 エマニュエルは頭にヘルメットをかむっていた。撮影カメラはそのヘルメットに取り付けられている。カメラの位置が高くなると、そのカメラによってとらえられた光景もまた、変化した。緑色の海の沖に向かって、カメラは起きあがるような姿勢をとった。数百フィート離れたところで黄金色に輝いている部分を映しとってさらに水平線を、そして、早朝の淡いブルーの空や、まだ暗さの抜けきっていない低くこもった雲を、カメラはとらえた。
 エマニュエルがサーフボードの上に立ちあがった瞬間、その大波の頂は、彼のサーフボードの直下にあった。波をつかまえるポイントをたくみにつかんだエマニュエルは、そのときすでに五十フィートの高さを持っていた波のいちばん高いところまで、サーフボードに乗ってのぼりついていた。
 水平線や空までをも含めた遠いところをとらえる位置にカメラがあるとき、高低の差にして五十フィートほどの移動は、スクリーンに映し出された画面のなかでは、さほどの変化をともなわない。十五メートルの大波の頂に立ちあがっていく連続した瞬間という、体のバランスがもっとも強く要求されている重要なとき、ヘルメットをかむった頭を動かすことにより、カメラがとらえる光景をエマニュエルはみごとに変化させた。
 十五メートルの波がその高さをきわめたとき、エマニュエルはすでにサーフボードの上に立っていた。ボードの上に腹ばいになり、必死のパドリングでたった一度のその一瞬しかあり得ないテイクオフのタイミングをつかまえ、大波の頂上にロングボードを十文字に交叉させるかたちでひっかけた。そして、そこから彼はひと息に立ちあがった。
 そこまで見ただけでも、充分に息の根が止まるほどにスリリングだった。映写室のフロアにすわりこんだ僕たちは、ろくに呼吸も出来ないほどの状態で、スクリーンを見つめていた。
 ボードの上に立ちあがると同時に、エマニュエルはまず空を仰ぎ見るようにのけぞった。すさまじい飛沫を無限に跳ね飛ばしながら、身の丈いっぱいに分厚く盛りあがった波の裏側の暗い斜面を、僕たちはスクリーンの上に見ることが出来た。吸いこまれ、暗い底めがけてどこまでも落ちていきそうな斜面だった。
 エマニュエルが頭を前に倒すと、カメラは彼の背後にある波をとらえた。切り立った水のスロープの向こうに、広角で撮影された海が続き、さらに空がスクリーンにあらわれた。現実の時間にすれば二秒か三秒でしかないのだが、スローモーションでひき延ばされると、そのわずかな時間は永遠へと接近した。
 サーフボードの上でスタンスを整えるために、エマニュエルの体は絶えず動いて不安定だ。ノーマルなスピードの撮影なら、動きが速すぎてなんのことだかわからない画面になってしまう。だがスローモーションのおかげで、ひとつひとつの細かくて素早い動きが、遠い大海原の夢のようなうねりの延長として実感出来た。
 大波の頂にエマニュエルがのぼりついたまま、すべてはそのときそこに静止するかに思えた。そしてそこから波の前面のスロープを滑り降りる直前の、心臓を絞りあげられるような瞬間が、耐えがたい長さを持った一瞬へと、ひき延ばされていった。
「これは、いったい」
 と、僕のうしろにすわっていたラリー・デイヴィスが、心の底から驚嘆して囁いた。囁くような声しか、そのときの彼には出せなかった。
「これはいったい、なんということだ。化け物じゃないか。五十フィートの高さを超えているのにこんなにもおだやかな波は、化け物としか言いようがない」
 波頭の頂点にいっさいが静止していた時間が過ぎ去ると、それに続いてはるかに信じがたい光景が、スクリーンの上に展開されていった。
 飛沫のひとつひとつにさえエネルギーのありったけをつめこんで、海面から五十フィートの高さの空中にのしあがったその大波は、カワイロア海岸にエネルギーをぶちまけて解消すべく、持っている力のすべてを出しきって、いっせいに崩れかかった。
 海岸へ向かって前へ倒れこみ始めた巨大な三角形の波は、自分の内側に向かって徐々に弧を描いていった。その弧が深くなるにつれて、重い水のかたまりを砲丸のようにまき散らしながら、波頭は頭上に厚い壁となってのしかかり、下へ崩れていった。
 そのときの音が、僕の耳の内部に聞こえて来た。砕け落ちる大波の内側に閉じこめられているのだから、音があらゆる方向から僕をめがけておそいかかって来る。頭。背。腰。体のいたるところに、ひとかかえ以上もある水のかたまりが、ぶち当たっては砕け散っていく。その力の強さに、サーフボードの上から何度も弾き落とされそうになる。
 おそらく波乗りのための理想的なかたちをしていたはずの、信じがたいほどに大きくてきれいなその波の弧を、エマニュエルは滑り降りていった。滑り降りつつ刻々と後方へと送っていく光景を、彼のヘルメットにうしろ向きに取り付けられていたカメラが、とらえていった。レンズからほんの一フィートか二フィートのところに、厚い波の壁が次から次へとそそり立つ。その壁から、猛烈な水しぶきが、沸きあがって来る。
 岸から見て右のほうから崩れていくその大波の内側を、エマニュエルは海面に対してほぼ水平に、波が崩れる速度よりもほんのわずかに速いスピードで、滑っていった。
 サーフボードの上で両足の位置を変える動作や、折りまげていた膝をのばす動作、さらには、全身で必死にバランスを保とうとするエマニュエルの試みのすべてが、スクリーンに映し出される光景の動きをとおして、細かくうかがえる。それを見つめていると、ボードがくいこんでいる海の水の動きと厚みとが、僕の両足の裏から全身を突き抜けていく。
 どこまでも水平に滑っていく彼の動きが、スローモーションで長く続いた。こんなことが実際にあったとはとても思えないという確信を何度も反復させられたあとで、やっとエマニュエルの進路は下を向き始めた。スクリーンの下から上に向かって、波の壁が、初めて見る不思議な生き物のように、動いていった。
 大波が自分の腹にかかえこんだ弧の、いちばん深い部分にそのときのエマニュエルはいた。ワイアナエの山の上に昇って来た太陽に、波は直面していた。彼のすぐ背後にある波の壁は、その太陽の光をまともに受けとめていた。
 刻々と変化する乱反射のかぎりをつくして、フィルムにとらえなおされた太陽の光が、スクリーンを見守っている僕たちの目を射た。まぶしすぎるため、目を細くしないとスクリーンに向かっていられない。
 大波のボトムに向かって滑り降りながら、エマニュエルの体の重心が、前足へゆっくりと移動していくのがわかった。そして、そのことがわかるのと同時に、当のエマニュエルをのぞいて、僕とラリー・デイヴィスそしてジェニファーの三人は、思わず声をあげた。この大波のボトムまで降りきってから、エマニュエルはボトム・ターンをするつもりだ。彼の体重の移動は、このターンの準備だった。
 高さ十二フィートのパイプラインが、最後になって二百メートル近く出来た、とエマニュエルは言っていた。そのパイプラインを予測してのボトム・ターンだ。チューブ状になった波であるパイプラインの内部を、エマニュエルは無事にくぐり抜けた。カメラがとらえたそのときのありさまは、想像を絶しているに違いない。いま、まもなく、想像も出来ないその光景を見ることが出来る。だから僕たちは声をあげたのだ。
 ボトムに降りるとすぐに、エマニュエルの重心は、ボードの上でそのときうしろにひいていた足、つまり右足に、移しかえられた。移し終わったその足で、ボードを前へ押し出すように、思いきって力をこめていく。エマニュエルの背後を流れていく波を見るだけで、その動作のいっさいがわかる。スローモーションでそれを見ている僕たちは、スクリーンの波に完璧に同化していた。
 ボトム・ターンはスピードの損失をともなう。だがエマニュエルは、ボトム・ターンによってさらにスピードを得た。スクリーンの上の波の動きが、そのぶんだけ速くなっていった。
 エマニュエルは体をかがめた。その動作に続いて、スクリーンのなかの波の壁は、ゆっくりと波のチューブへと変化していった。頭上へ張り出しきって崩れていく波頭は、波が内側に抱きこんでいる弧の底辺と接する。そのとき波の内部に空洞のチューブが出来る。
 チューブ状になって進む波の内側に入りこんだエマニュエルは、サーフボードの右側のデッキをしっかりと波の壁にくいこませて走っている。エマニュエルが走り抜け、うしろに置き去りにした波のチューブが、スクリーンの奥のほうで、置き去りにされるはじから、自爆するように砕けていく。
 チューブは、縦位置に置いた高さ十二フィートの楕円を片方に押しつぶしたようなかたちをしていた。そのチューブをとおした向こうに、海や空がくっきりと見える。頭上を覆うチューブの屋根になっている波が、スクリーンの奥へと流れ去る。
 エマニュエルがチューブを抜けきると、奇跡としか呼びようのない大波は、それでおしまいだった。エマニュエルはボードの上で両脚をのばした。たったいままで五十フィートの高さにそそり立っていた波がほぼ砕け終わったあとの、まっ白くて途方もなく分厚い泡立ちだけが、スクリーンの上に残った。
 フィルムもそこで終わりだった。画面のいっさいが消え、ハロゲン・ランプの明かりだけが、スクリーンに映った。
 僕は映写機を止めた。部屋の明かりをつけた。四人とも、一様に興奮していた。
「これはいったい、ほんとうなのか」
 ラリー・デイヴィスは、右手をこぶしにして左の掌に打ちつけながら、部屋のなかを歩きまわった。肩までのばしているきれいな金髪を、デイヴィスは首のうしろに輪ゴムでひとつに束ねていた。
「ほんとうなのよ」
 ジェニファーが答えた。
「いま見たフィルムは、エマニュエルがかむったヘルメット・カメラの、左側のカメラが撮ったフィルムだ」
 と、僕は説明した。
「こんどは右側のカメラが撮ったフィルムを映すから、この大波を乗りきったときにエマニュエルが見たのとおなじ光景を見ることになる」
 フィルムを巻きとり終えた僕は、次のフィルムを映写機にかけた。
「待ってくれ」
 ラリーが両手をあげて言った。
「こんなすごいものをたて続けに何本も見たら、死んでしまう」
 輪ゴムでうなじに束ねた髪に両手で触れながら、フロアにすわりこんだままのラリー・デイヴィスはジェニファーを見上げた。
「ジェニファー、俺たちにコーヒーをいれてくれ。くたびれた。ひと休みしよう」
 ラリーの言うことに誇張はなかった。いまのフィルムを見ながら、五十フィートのあの大波を乗りきっていったときのエマニュエルを、少しのとりこぼしもなく追体験することが、僕たちには可能だった。
 エマニュエルの後方へと去っていく波を見るだけで、サーフボードの上での彼の一挙手一投足が、そっくりそのまま自分たちのものになる。わずかな映写時間のスローモーションによるカラー・フィルムであり、映っているものはただの波でしかないのだが、僕たちを高揚の極点まで引っぱりあげ、同時に、完璧に近く虚脱させるに充分だった。
 ジェニファーがコーヒーを持って来た。そのコーヒーを半分ほど飲んだところで、僕は部屋の明かりを消し、映写機のスイッチをオンにした。さきほどとおなじように、リーダー・フィルムの透明さがまずスクリーンに投射され、数字がカウント・ダウンされていって2で止まった。そして波が始まった。
 エマニュエルがかむっていたヘルメットに、前方を向けて取り付けられていたカメラが撮影したフィルムだ。レンズの位置は、ヘルメットをかむったエマニュエルの目の位置と、ほぼおなじだ。だから五十フィートの大波を、エマニュエルとおなじ立場で体験出来る。
 見終わった僕たちは、ただ声もなくフロアにうずくまった。
「フィルムは、もっとあるよ」
 明かりをつけないまま、暗いなかでフィルムの交換を僕はおこなった。
「もういい。この波に立会えなかった自分がいかに不幸だか、これでよくわかった」
 ラリー・デイヴィスが、そう言った。
「こんどは、途中でワイプアウトした僕のフィルムだ」
 エマニュエルとともに僕も、カワイロア海岸の沖合いでその大波を迎えた。その波の巨大な斜面を滑り降りていく途中、僕はバランスを失って波のなかにほうり出され、ワイプアウトした。
 たいへんな速度で運動する水分子のなかでもみくちゃになり、僕はひどい目にあった。僕のヘルメットのカメラが撮影したフィルムの大部分は、僕をもみくちゃにした波のなかのありさまで占められているはずだ。
 いま初めて見るそのフィルムは、僕が考えていたとおりの内容だった。巨大な波がせりあがりきったピークを、サーフボードに腹ばいになって両手でパドリングしてつかまえ、ボードの上に立ちあがる。ここまではエマニュエルのフィルムと大差なかった。
 ワイプアウトが、きれいにとらえられていた。ワイプアウトして波のさなかにほうり出される寸前、僕は両足で力まかせにボードを蹴り飛ばしていた。サーフボードが波の頂上へ巻きあげられながら、波の壁の表面を削りつつ波頭の上に出て空中に舞い、垂直に立ってきりもみをしながら、なおも上空へと昇っていく。黄色と赤と白の三色で塗りわけられた僕のボードが、波の重なり合う山を抜けて、空中へ輝きながら上昇していく。この様子がフレームの中央に、ぴたりととらえられていた。ボードはフレームの上辺を突っ切り、ゆっくり、気が遠くなるほどゆっくり、画面から消えていった。
 僕が海のなかに落ちてからの画面は、光と波の乱舞の連続だった。
「すごい」
 ラリーが言った。
「ほんとうに、すごい。たいへんな映画が出来る」
 さきほどまでとは少し違った方向に向かって、ラリーは興奮していた。波そのものに対する高揚した気持が、その波をとらえきったフィルムのほうに、方向を変えていた。スクリーンから波が消えて明かりがつくと、白いペイントで塗られた部屋には、波とは別の熱狂が戻った。
「きみたち三人だけしか体験していないのに、これだけのフィルムがあるのだ。二時間の映画が作れる。一瞬も退屈することのない、二時間にわたる波の映画だ」
 ラリー・デイヴィスはそう言った。
 僕がかむっていたヘルメットには、うしろ向きにカメラが装備されていた。そのカメラが撮ったフィルムを、次に僕たちは見た。
「近いうち、映写機を二台ならべて、前うしろ二本のフィルムを同時に映写してみよう」
 ラリーが言った。次はジェニファーが撮ったフィルムだった。
「広角の据えっぱなしと、ジェニファーが肩にかついだ望遠の、二本がある」
 広角でとらえられた大波は、そのぜんたいをもう一度、僕たちにくまなく見せてくれた。朝の陽に照らされた海が、あるとき、左右一キロに近い長さで五十フィートの高さにまで、盛りあがっていく。
 気味の悪いほどに大きな主翼だけを持った怪獣が、海の底から飛び立とうとしている前触れのようだった。せりあがった波の壁は、太陽が持ち得るすべての輝きをひきついだ、黄金の長旅だった。エマニュエルと僕の姿が、その光景のなかに小さくとらえられていた。大波が自らを海岸に叩きつけて消えるまで、そのいっさいをフィルムは克明に記録していた。
 遠望で撮影されたフィルムは、僕とエマニュエルとをほぼ均等に撮りわけていた。ひとりはワイプアウトし、もうひとりはみごとに乗りきるのだから、編集によってこのフィルムがいかにスリリングになり得るかを考えると、僕の全身には鳥肌が立った。
 フィルムをすべて見終わって、僕たちはフロアにあお向けに横たわった。文字どおりくたくたに疲労したからだ。ジェニファーは、なにかよく聞き取れないことをひとりで喋りながら、ドアに向けて転がっていった。そしてそこで僕たちに背を向け、体を「く」の字に折ってじっとしていた。
「信じられない」
 ラリーが言った。
「五十フィートの、あんなにおだやかで滑らかな波が、朝のあのような絶好の時間に来るなんて。しかも、たったひとつだけ。ひょっとしたら、ハワイ諸島が始まって以来のことかもしれない」
「僕だって信じられない」
 エマニュエルが言った。
「あの波を乗りきったのが、ほんとうにこの自分なのかどうか、信じられない」
「あなたなのよ。フィルムに、すべて撮影されているわ」
 ジェニファーが僕たちに言った。最後にもう一本だけ、僕たちはフィルムを見た。あの大波が来る前の日の夕方、小屋の外のやぐらに三脚を据えつけて僕が撮影したカワイロア海岸の、なんの変哲もない景色だ。だがこの景色を撮影した次の日の朝、たしかにあの大波が来たことによって、なんの変わりばえもしない見なれた景色は、なにか例外的な特別の意味をはらんで、スクリーンから僕たちに語りかけていた。


「波が来る」
 と、最初に言ったのはエマニュエルだった。僕が北海岸の小屋へいくとエマニュエルがそこにいて、ひとりで興奮していた。
「波が来る。一昼夜のうちには、かならずこのサンセット・ビーチに来る」
 いつものエマニュエルはひどく冷静だ。どこか遠いところに自分の心を置き、そのままそれを忘れてしまっているような彼が、その日はトランクス一枚のいでたちで、小屋のなかを歩きまわっていた。小屋に入って来た僕をつかまえた彼は、いきなり、
「波だ」
 と、言った。
「波がこっちに向かっているのが、はっきりと感じられる。ここに」
 エマニュエルは自分の心臓のあたりを右手で叩いた。
「準備をしよう。バリー、きみも早く自分の準備をしてくれ」
 16ミリ映画の撮影のための備品や器材の置いてある部屋に、エマニュエルは入っていった。はいているスイミング・トランクスはふたまわりも大きく、金髪のうぶ毛がいっぱいに生えた胴体から、そのはき古したトランクスはいまにもずり落ちそうだった。
 エマニュエルに続いて、僕もその部屋に入った。
「たいへんな映画が撮れるに違いない。こうなったら、カメラ・ヘルメットを使うことだ」
 棚に三つならべて置いてある、重いカメラ・ヘルメットのひとつを取りあげて、エマニュエルは細かな点検を始めた。
 壁の高い位置に取り付けてあるふたつのスピーカーから、無断で傍受している無線の声が常に聞こえていた。アメリカ海軍および空軍の海洋観測船や気象観測機から、ディリンガム空軍基地や真珠湾に向けて発信されている、さまざまな気象情報だ。
 ハワイ諸島周辺の海洋の様子から、アリューシャンに吹き荒れている台風の規模まで、この小屋にいればいつでもすぐにわかる。オアフ島北海岸の波の状況をいちはやくつかむためには、このような装置も必要だ。ふたとおりの電波を同時に受けとめ、部屋ごとにふたつのスピーカーを使って、かけっぱなしにしている。慣れるまでは聞き分けにくい。
「カラー・フィルムのストックは、充分にあるだろうか」
 エマニュエルが僕に訊いた。
「だいじょうぶだ」
「ジェニファーは、今日はここへ来るのか」
「来るよ」
「彼女にも撮影を手伝ってもらおう。しかし彼女が海に入るのは無理だ。来る波は彼女には大きすぎる」
 カメラ・ヘルメットのカメラは、どれも正常に作動した。沖に出て大きな波に乗りながら、その波のありさまを映画フィルムに撮影するために工夫されたヘルメットだ。モーターサイクル用の、フルフェイスではないヘルメットと形状は似ている。耳の部分に左右両側とも、四角な防水箱がネジどめしてある。この箱のなかに、それぞれエルモの16ミリ高速度カメラが装置してある。露光は自動調節だ。
 ヘルメットをかむって右側の箱のカメラは前方を、そして左側のカメラは後方を、撮影するようになっている。波乗りを撮影するには、サーフボードの先端やテールにカメラをマウントする方法もあるのだが、オアフ島北海岸の大きな波のなかでは、カメラはサーファーの少なくとも目の位置にまでは上げておいたほうが、スリリングなフィルムが撮れる。
 たとえばサーファーが自分のボードの上で体をかがめたりスタンスを変えたりするとき、その動きにつれてカメラの位置も変化するのはいいことだし、ワイプアウトしてサーフボードから波へ落ちるときには、そのときの様子が当のサーファーが自分の目で見ながら体で感じたのとほぼおなじように、フィルムに記録される。
 フィルム保存用の冷蔵庫を僕は調べてみた。冷蔵庫のなかには合計で二千フィートのカラー・フィルムが入っていた。
「今夜は徹夜だ。波は、おそらく朝早くに来るだろう」
 エマニュエルは真剣な顔で僕にそう言った。彼はあきらかに興奮していた。
 傍受している海軍あるいは空軍の気象情報をもとに、大波の来訪が近いことを自分なりに判断して興奮しているのに違いない、と僕は思った。アリューシャンに大嵐が起こっている、という情報でも聞いたのだろうか。大きな嵐によってアリューシャンの海上にひき起こされた波は、半日ほど太平洋をうねったあとハワイに届く。
 二個のカメラ・ヘルメットのカメラ四基に、僕とエマニュエルはカラー・フィルムを装填した。そのあと隣の部屋へいき、いつでも着用出来るよう、ウエット・スーツを整えた。居間へ引き返したエマニュエルは、東側の壁の前に立った。この壁はフロアから天井まできれいな板張りになっていて、白いペイントがいちめんに塗りこめてある。その白いペイントの上に、カワイロア海岸を中心にした北海岸一帯の波地図が、さまざまな色のペイントで描きこまれている。
 フロアに近い下のほうに海岸線が引いてあり、そこから上はすべて海だった。海底の深さをあらわす等深線。珊瑚礁がどこにどのように広がっているか。波はいつもおよそどの方向から来て、どこでどんなふうに砕けるか。冬の季節の風の吹きぐあい。これまでにカワイロア海岸で体験された大きな波の位置。そのような何種類もの情報が、その壁いっぱいに描きこんであった。
 その壁の前に立ったエマニュエルは、まず僕たちの小屋を右手の人さし指で押さえ、そこから海岸に向かって指を滑らせていった。
「ここから海へ出る。こんなふうに沖へ進んでいき、このあたりで波を待つ」
 エマニュエルは、海岸から五百メートルほどの地点を、指先で押さえた。かつて大きな波がいくつも体験された場所からは、かなり離れた地点だった。
「ここだ。ここに波が来る」
 自分に言って聞かせるように、エマニュエルはそう繰り返した。波が来る、と僕たちが言うとき、その波は、このオアフ島北海岸での、波乗りに適した波だけを意味する。
 僕たちが小屋と呼んでいるこの建物は、カワイロア海岸の南の岬に近い位置に建っている。カメハメハ・ハイウエイで南からハイレワの町を抜け、河を渡ってさらに北へ向かう。ハイウエイから離れたずっと東、山の近くにカワイロアの町がある。
 その町への道路が見え始める少し手前で、カメハメハ・ハイウエイを降りる。小さな道が海へ向かって左に曲がりこんでいるから、その道へ入っていく。短い滑走路が一本だけある飛行場につうじる道路だ。
 飛行場のほうへ向かわず、カワイロア海岸の岬に向かう廃道のような道をいくと、林とも畑ともつかない土地を抜けた先に、僕たちの小屋がある。平屋建てのバンガローのような建物だ。昔のハワイにはたくさんあって、少しも珍しくはなかった。しかしいまでは、このような建物はもう数は少ない。
 部屋は七つある。建物ぜんたいは白いペイントできれいに塗られていたのだが、ペイントはあらかたはげ落ちてしまっている。太陽と風と雨とにさらされ、塗られている板からペイントだけふくれあがってひび割れ、ささくれ立ち、それがひとつひとつ、はがれ落ちていった。
 この建物を建てたのは、夫婦ともに喘息を病んでいたアメリカ人だったという。社会の第一線を早くに引退したのち、北アメリカ大陸からハワイに渡って来て、このバンガローを建てた。花粉が鼻に入ると喘息にはよくないから、花粉が風に乗って来ないところを探しまわったあげく、ここになったのだそうだ。ハワイでは、あちこち場所を変えることによって、いろんな条件の風に吹かれることが出来る。
 喘息の夫婦がここに住んでいたのは、真珠湾攻撃以前の数年間だ。パール・ハーバーのすぐあと、夫婦は北アメリカ大陸に引き揚げていった。それから長いあいだ、このバンガローは空き家になっていた。画家が住みついたり、スコフィールド兵営の下士官が女性を囲ったりしたこともあったのだが、いずれも短期間だった。
 僕たちがこの小屋を買い取ったのは三年前だ。資金があまりないせいもあるのだが、買い取ったままほとんど改造したり手を加えたりせずに、僕たちはここになかば住みついている。僕たちをひとつにまとめている中心的な存在は、今年で三十歳になったラリー・デイヴィスという男だ。マカハで毎年おこなわれる、デューク・カハナモク記念のサーフィン・チャンピオンシップで、二年連続して総合的な優勝をしたこのラリー・デイヴィスが、とりあえずいまの僕たちの生活を支えてくれている。
 チャンピオンになると、いろいろとあぶく銭が入って来る。自分がデザインしたサーフボード、あるいは、サーフボードに取り付けるフィンをメーカーと組んで売り出したり、トランクスやウエット・スーツに自分の名前を提供して名義使用料をとったり、たいした額ではないけれど収入は収入だから、そのあぶく銭を、自分自身をも含めた僕たちのグループに、ラリーはいわば投資している。
 ラリー・デイヴィスは、チューブ状になった波のなかをサーフボードに乗ってくぐり抜けるパイプラインが得意だ。だから、それにちなんで「パイプライナーズ」という名前の会社を作った。オフィスはアラモアナにある。ハワイのサーフィンに関する総合的なセンターみたいなものを、彼は目ざしている。しかし、いまは社員はオフィスにまだふたりしかいない。
 サーフィンを映画に撮る仕事も、僕たちはおこなっている。仕事はかなりのところまで進んでいる。ラリー・デイヴィスのソロ・ライディングを撮影した五十分のフィルムが、すでに三本、一般公開されている。
 北海岸の波乗りに関した一時間から一時間二十分のフィルムが、七本、出来あがっている。どのフィルムも、南カリフォルニアを中心に公開され、レンタル料をかせいでいる。すぐれたマーケットになりつつあるオーストラリアでも、僕たちの作った映画は評判がいい。TVのコマーシャル用にサーフィンを撮影することもあるし、劇場用の映画のためにも、もう何度も波乗りを撮影した。
 ラリー・デイヴィスはハワイ大学で農業を専攻していた。根っからの北海岸育ちである彼は、サーフィンから離れることがついに出来なかった。チャンピオンになる三年前から、定職もなにもない、ただひとりのサーファーになった。
 僕はハイスクールのドロップ・アウトだ。二十七歳になるから、ハイスクールから脱落したのも、ずいぶん昔のことだ。ドロップ・アウトたちを救済する教育事業の一環である、アメリカ海軍の経理オフィスの仕事をしていたこともある。そしてそこからも、僕はドロップ・アウトした。海軍兵士の給料計算の手伝いをしながら、簿記を習っていくという仕事だった。
 ラリー・デイヴィスのグループに加わるまで、いつも北海岸にいて僕は波に乗っていた。ラリーが僕に目をつけたのは、僕が北海岸のことをよく知っていて、便利だからだろう。僕はバリー・キミトシ・カネシロという。
 ジェニファーは、僕たちの仲間の、ただひとりの女性だ。いま二十一歳で、大学にいきながら、観光客相手の店でアルバイトをしている。そして彼女はサーファーでもある。ハワイ。ポルトガル。オランダ。中国。日本。スペイン。そのほか少なくとも七とおりの血がジェニファーには混じっている。
 だから彼女のファースト・ネームからラスト・ネームまでのあいだに、五種類のミドル・ネームがある。ラスト・ネームはマッキノンという。一年後には彼女のサーフィン・フィルムを撮ってみよう、と僕たちは思っている。
 エマニュエル。彼は一年前のある日、小屋にやって来た。北アメリカ大陸から飛行機でホノルルに到着してすぐに、彼はヒッチハイクでアラモアナの「パイプライナーズ」に来た。北海岸でサーフィンのために共同生活を送れるコミューンのようなものはないかと、オフィスにいたオフィス・ガールに彼は訊いた。オフィスに立ち寄ったラリー・デイヴィスは、ひきあわされたエマニュエルを、なぜだか気に入った。その日からエマニュエルは、僕たちの仲間となった。ラリーが自動車で小屋までつれて来て、エマニュエルはそのまま小屋に住みついた。
 北海岸の大きな波に乗るための、いくぶん細身に仕上げた長いボードを一本と、身のまわりのものや着替えをしまいこんだアメリカ陸軍払い下げのバッグをひとつ、エマニュエルは持っていた。百二十八ポンドほどのエマニュエルの体重に合わせて、彼のサーフボードは二十六ポンドの重さだった。
 二十八歳だというエマニュエルは、あまり口をきかない。肩まである濃い色の髪を頭の中央から分けて垂らし、口のまわりのひげや顎ひげ、そしてもみあげは、生えるままにまかせてある。エマニュエルは、やせている。あまりものを食べず、波乗りを中心にして波と海とに没頭しているように見えた。波以外のことは、ほとんどなにも考えてはいないらしい。ただし、その波に関する知識は詳しく豊富で、僕たちをも圧倒した。
 北海岸に大きな波が来る冬には、なにかに憑かれたように北海岸一帯をうろつきまわり、二、三日、そしてときには一週間も、帰って来ないことがよくある。波のない夏には郵便局の試験を受けてアルバイトをし、休みの日にはビショップ博物館や図書館にかよい、ハワイの海と波について研究していた。
 僕とラリー、それにジェニファーの三人は、エマニュエルといっしょにすでに一年、この小屋で生活してきた。だが、エマニュエルについて、これ以上のことはなにもわかってはいない。エマニュエルという名が、ファースト・ネームなのかラスト・ネームなのかすら、僕たちは知らない。知ってはいないと同時に、知る必要はどこにもないのだという、暗黙の了解のようなものが、エマニュエルがこの小屋に住みついて三日とたたないうちに、僕たちのあいだには出来あがった。
 エマニュエルが波乗りを知ったのは、南カリフォルニアの海岸だったようだ。だから初めのうち、ハワイの大きな波を、彼はうまくこなすことが出来ずにいた。しかし一年を経過したいまでは、僕やラリーに一歩もひけをとらない。サンセット・ビーチという言葉の語感が気に入っているらしく、エマニュエルは北海岸の全域をサンセット・ビーチと呼んでいる。
「波が来る」
 と言ってエマニュエルが興奮した日、ラリー・デイヴィスは「パイプライナーズ」の商用で北アメリカ大陸にいって留守だった。すでに冬のシーズンに入っていた。その年の最初の大波が来てもいい時期だった。
「ワイメアのジョゼフたちも呼んで来ようか」
 壁の波地図の前に立っているエマニュエルに、僕は言った。
「それに、カウエラにはオニールやチェン・ホーたちがいるし」
 エマニュエルは長いあいだ僕の顔を見つめた。なぜそんなに長い時間、人の顔を見つめるのだろうかと僕が思い始めたとき、エマニュエルは答えた。
「よそう。俺たちだけでやろう」
 エマニュエルに、僕は同意した。大きな波に遭遇するときには、その場にいあわせる人の数は出来るだけ少ないほうがいい。その波が大きければ大きいほど、そして、立会人が少なければ少ないほど、その波は希少価値を高める。そしてその波がフィルムに撮影された場合には、伝説としてのスケールをより高めていく。
「どのくらいの波が来るのだ」
 と、僕はエマニュエルに訊いた。
「五十フィートに近い波だ」
 エマニュエルは即答した。自分の顔が複雑な微笑に崩れていくのを、僕は感じた。
 それほどの高さを持った波が、現実にこのカワイロア海岸に来たらどんなにいいだろうかという、実際にはまずあり得ないことへの期待が、その微笑の土台だった。そんな波が来るわけないのだという気持が、その土台のぜんたいに塗りこめられていた。
「バリー。きみが笑いたくなる気持は、よくわかる」
 エマニュエルが言った。
「しかし、波はほんとうに来る」
 遠い海の彼方に大嵐が荒れているときですら、波高はせいぜい四メートルから五メートルだ。それ以上の高さの波は、希有な例外としてしか存在しない。嵐の海で波高を正確に計測するのは至難事だから、波高に関するいっさいの記録はあまり当てに出来ない。
 これまでの記録によると、北大西洋で十五メートル、西南太平洋で十八メートルという波がある。信じられない波の典型として、アメリカの測量船が三十五メートルの波を、北太平洋の嵐のなかで報告している。五十フィート、つまり十五メートルの高さの波は、かなり例外的な波なのだ。
 16ミリの撮影カメラとフィルム・マガジンそして三脚などを、僕とエマニュエルは居間に運び出した。居間から外へ出てみた。丈の高いウハロアの草や、ハワイアン・ティーと呼ばれて食べるとおいしいスパニッシュ・ニードルの茂みを抜けると、そこは砂浜だ。
 一九五二年、カムチャッカの沖で津波が発生したとき、南アメリカのチリ南部まで波は太平洋を伝わっていった。その途中、ハワイにも高い波が押し寄せた。そのときの波がここまで届いたとされている地点に、材木でやぐらが組んである。文字どおりそれはやぐらであり、手すりもなにもない。五メートルほどの高さに、頑丈に作られている。階段をのぼって、僕とエマニュエルは、そのやぐらの上に立った。
 曇り空だった。水平線までいっぱいに、重い灰色に塗りこめられていた。北のほうほど、その灰色の重さは分厚かった。不規則な鋭い波が海を埋めていた。僕とエマニュエルの髪が、吹きあげられたまま舞い続けるほどの強い風が吹いていた。近くに立つ椰子の樹に風は吹きつけ、葉のあいだを抜けていくときの音が聞こえ続けた。
 南へ目を向けると、空を覆いつくしている暗い雲は、その厚みを薄くしていた。太陽の明かりが透けて見えた。灰色の雲は、そこだけ、生命の始まりのような複雑な色に染まっていた。人の姿は海岸のどこにも見えなかった。すでに何万年となく続いている海や海岸が、僕たちの視界のなかに静かにあった。
「陽が沈む頃になると、空は晴れてしまう」
「きっとそうだ」
「沈む陽を見ることが出来たら、明日は晴天だ」
「波は夜には来ないだろう。でも、来たら音だけでも聞きたいから、今夜はやはり徹夜だ」
 エマニュエルは海を振り返ってそう言った。
 ワイアナエ山塊の北端が、暗い緑色の険しい斜面を遠くに描いていた。山の頂上から下へ向かって、斜面には鋭い峡谷が幾すじも刻みこまれていて、すべての谷を樹木が覆いつくしていた。雲にさえぎられて山は一部分しか見えなかった。山を越えた向こう、カネオヘ湾のあたりは、どしゃ降りの雨だろう。僕とエマニュエルは、やがて小屋のなかに戻った。ふたりのカメラ・ヘルメットをいつでもかむって飛び出せるようにし、ウエット・スーツをまるで消防夫たちのように、ならべて壁にかけた。サーフボードの準備をしながら、あとは陽が沈むのを待つだけだった。
 居間の両隣のふた部屋が、サーフボードのための作業室になっている。エマニュエルは東の部屋に入った。自分の気に入っている長いサーフボードを作業台に乗せ、ボードのデッキにびっしりと擦りこんであるワックスを、油絵に使うときのナイフで、ていねいに削り落とし始めた。
 ボードに乗ったとき、両足が滑らないよう、滑り止めにワックスを塗る。新しいワックスのほうが、滑りを止める効果は大きい。古いのをすべて削り落とし、エマニュエルはあらたにワックスを塗りなおすつもりだ。

 夕方、六時を過ぎて西の空が晴れ始めた頃、ジェニファーが来た。
 僕たちが共同で使っている一九五八年の白いフォードの4ドアで、いつものように彼女はリヴァースで走って来た。カメハメハ・ハイウエイからここまで、彼女は常にリヴァースで入って来る。リヴァース・ギアのときはアクセルを踏みこんでは浮かす動作を反復する癖があり、そのエンジン音ですぐにジェニファーだとわかる。
 いつものいでたちだった。無漂白ダンガリーのフレアード・ジーンズに、濃いオリーヴ色の洗いざらしたTシャツだ。その服装は彼女の肌になりきったみたいで、これ以外のものをジェニファーが着るとひどく似つかわしくなく、したがっておかしい。
 革のサンダルを脱いでラナイから小屋のなかに入って来た彼女は、居間に出してあるカメラ・ヘルメットを見て、
「波が来るのね」
 と、言った。
「今夜は徹夜だ」
「私はまた肥るわ。おかげで」
 少しも肥ってはいない腹のあたりを、彼女は手で叩いた。
「玄米とコーヒーとマーマレード。みんな、いけないものばかり」
 波を待って夜を明かすとき、玄米をとろとろに煮たものを、ボウルにすくってはおやつがわりに食べる。海の状態がどう変化したかを知るため、ときたま沖に出る。体が冷える。ワインを入れて熱く煮つめたマーマレードを、少しずつスプーンですくっては食べながら、コーヒーを飲む。
「私もヘルメットをかむらなくてはいけないの?」
「もしかしたら」
「私には重すぎてだめよ。ボードの上でバランスがとれないし、ワイプアウトしたら顎のストラップで首がしまって窒息しそう」
「十五メートルの波だ。陸にいてやりすごすという手はない」
「高さを言うのは、現物を見てからだわ」
 エマニュエルが作業室から出て来た。
「その現物を見ることが出来る。明日の朝には、かならず」
 彼はジェニファーに言った。
「でも、私はヘルメットは、かむらない」
 ジェニファーは栗色の長い髪を振った。夏のあいだは太陽光線に照りつけられて、ジェニファーの髪は色素が抜けて色が淡くなる。そして冬は陽ざしが弱いから、彼女の髪の色は濃い。ジェニファーは徹夜の準備にとりかかった。玄米を煮こみ始めた。
 僕は居間の西側の作業室で、自分のサーフボードに取り付けるフィンの位置を、細かく修正した。
 エマニュエルはふたたび作業室にこもり、ボードのデッキからていねいにワックスを落とし続けた。それぞれが自分のことをおこないながら、キチンとふたつの作業室という、おたがいにかなり離れた場所から、三人はときたま会話をした。
 陽がやがて沈んだ。陽が沈むときには、僕たちはいつもひとりずつ外に出て、西の海と空とを眺める。今日は最初にジェニファーが外に出た。すぐに引き返して来た彼女と入れ違いに、エマニュエルが出ていった。ワックスを落としていたのとは違う、別のサーフボードを一本、彼は右腕にかかえていた。
 エマニュエルが出ていって三十分ほどしてから、僕も外へ出た。やぐらのあるところまで歩き、やぐらの上にあがって僕は海を眺めた。ここで海に向かうと、見えるものは海と空しかない。海岸が南北にのびている。南には小さな岬があり、その岬を越えたところで砂浜は終わりになる。北はワイメアの手前までずっと砂浜だ。
 波の音と潮の香りと風のなかに立ち、海と空だけを見る。構図的には単純なその光景は、観察すればするほど、気の遠くなるような複雑さと厚みとを常にはらんで、見る者の前に立ちふさがる。
 太陽が、どこかコニー・アイランドのような遊園地の造りものに似て、おかしいほどに丸かった。その丸い太陽が、水平線へ半分まで落ちている。オレンジ色の半円が海と空とを照らし続けている。
 その様子を見ていると、球形の地球の一部を覆っている太平洋という海の、はるか遠くに浮かんでいるやはり球体の太陽との、すさまじいまでのへだたりが、やがてかならず実感される。陽が落ちる時刻に、僕たちの仲間が小屋の外に出るのは、この実感を自分の体で確かめたいからに違いない。
 頭上の空は、濃いブルーをとおり越して、紫色に変わり始めていた。雲がひとつ、その空に、ちぎれてとり残されていた。そのじっと動かない雲の西側の腹が、下から黄金色に輝いていた。そこからさらに西へ、宇宙の丸い天蓋沿いに、僕は視線を移動させた。空はまっ青な部分を存分に持ちながら、いかめしいまでに燦然としたオレンジ色の空間へと、変わっていく。
 青い部分の空を見つめていると、地上から舞いあがってそのなかに吸いこまれていきそうな錯覚を、常に覚える。単一なブルーのなかに無限の空間が現実に存在するはずであり、ほんのわずか、何万分の一ミリという単位で視線を移動させても、そのことによって信じがたいまでに光年の積み重なった宇宙の距離を、僕たちは見る。
 海は空とは様相を異にしている。太陽を照り返す海は、半円形の発光体を中心にして、油でみがきあげた銅板のような色に染まっている。太陽を乱反射させている無数に近い波が、三角形の広がりをかたちづくっている。底辺を向こうに、頂点をこちらに向けたその光の三角形のなかに、無数の波頭が瞬間ごとに生まれては消えていた。
 太陽の光を受けとめ得る角度を持った波頭が、一瞬、海から盛りあがり、次の瞬間にはもう消えている。これが海のいたるところで、飽くことなく、かたときも休まずに繰り返されているのだから、それだけを考えても、海がたずさえている厚みを前にして、僕たちは無言になる。波による太陽の乱反射のパターンについて、いつだったかエマニュエルは僕たちに語って聞かせてくれた。
 海原を僕はていねいに探したのだが、エマニュエルの姿は見えなかった。岬の向こうで海に入っているのだろう。僕は小屋に引き返した。16ミリ撮影機に標準のレンズをつけ、三脚といっしょにかついでやぐらまで持っていった。やぐらのフロアには、三脚の足を固定する穴がくり抜いてある。
 エマニュエルが言うように、もし十五メートルを超える大波が来たら、その大波が来る前の日の光景として、いま僕が撮影しているフィルムは、編集上の値打ちを獲得する。撮影を終わって、僕はカメラと三脚とをかつぎ小屋に戻った。僕が小屋に帰ってかなりの時間がたってやっと、エマニュエルが戻って来た。髪が濡れて首にはりついていた。
 待ちかまえていたように、ジェニファーが、
「海はどうだったの?」
 と、訊いた。
「だいじょうぶだ。波はかならず来る」
 そう答えたエマニュエルは、浴室へ歩きながら僕を振り返り、こう言った。
「波の来る前の海がどんなだか知りたければ、いま沖へ出てみるといい」
 夜になった。波が砂浜に砕ける音。風。椰子の葉、そして傍受している気象観測情報のほかには、なんの音も聞こえない。それぞれの仕事をしながら、僕たち三人は夜の時間を経過させていった。
 新しいデザインのサーフボードのシェーピングを、僕はおこなった。ラリー・デイヴィスが北アメリカから帰って来るまでに、仕上げておかなくてはいけない。ラリーが考案した新しいデザインのボードだ。真上から見ると魚に似たかたちをしている。テールに近づいたところでいったん細くすぼまってから、魚の尾ひれのように広がっている。
 くびれた部分で水との摩擦抵抗が増し、やっかいなことが起こるに違いない、と推測出来る。真剣な波乗りのためのボードというよりも、サーフ・ショップに飾るノヴェルティに近い。だが実際に波に乗ってみるまでは、なんとも言えない。何枚もの精密な図面をもとに、ナイフやサンドペーパーでグラスファイバーのブランクを少しずつ削り落とすという根気のいる作業をへて、そのサーフボードは出来あがる。
 自分のしていることが単調になりすぎると、僕たちはキチンに集まって玄米を食べ、コーヒーを飲み、マーマレードをなめて話をした。三人がキチンにいるとき、エマニュエルは、
「この夜の終わりには波が来ることはもうわかっているのだから、ラジオは止めてしまおう」
 と言って無線のスイッチをオフにした。そして波にまつわる面白いエピソードをひとつ、語って聞かせた。
 アラスカの太平洋に面した南部に、人口が二十四人の小さな村がかつてあった、とエマニュエルは言った。この村の人たち全員がカヌーで海に出ていたとき、津波がやって来た。二十四人全員が大波に巻きこまれ、命を落とした。そしてその小さな村は、その日から以前にも増して静かな廃村になった、というエピソードだ。何十年かあと、廃村になったままの村を訪ねた人から聞いた話だと、エマニュエルは言った。
「エマニュエル。あなたはきっとなにかの象徴なのね。あなたはこの一年間、なにごとかが終わる話ばかりしてきたわよ」
 いたずらな子供をさとすような口調で、ジェニファーはそう言った。
「僕自身がほんとうに興味を持っていることしか、僕は喋らないからだ」
「小さな村が廃村になることが、あなたの興味の対象なのね」
「そうではない」
「では、なんなの?」
「よくわからない」
 サーファーである僕たちは、不思議な習性を持っている。信頼しあっている仲間の誰かが、今日は波が来そうだと言えば、その言葉にしたがって全員でその波を待つ。波が来ると言いだした当人が、やはり今日は駄目らしい、と自分で自分の言葉をくつがえすまでは、波のための準備を整え、北海岸の冬のどしゃ降りのなかででも、小屋にこもって待ち続ける。波に乗るだけではなく、どんなふうにしてその波を待つかも、僕たちにとっては重要だ。
 夜のあいだに三度、僕たちは海岸に出た。砂浜を歩いてみた。夜の海岸へ出るたびに、光と影とがつくりだす景色は、おなじ海岸をそのつど一変させていた。月の位置が変化すると、砂浜に出来る影と月光によって白く光る部分とが、やはり変わっていく。さきほどまでは白く盛りあがって月光を受けていた部分が、深い影へと落ちこんでいる。
 夜が明けるのはとても早い。三時をまわらないうちに空が白み始め、空気の香りが変化した。風の吹く方向が、そのとき変わるからだ。吹きかたも違ってくる。
「波が来るぞ。俺の波だ」
 と、エマニュエルが言って立ちあがったのは、四時近くだった。
 16ミリ撮影カメラと三脚とをやぐらまで運び出して据えつけた。海に向けて位置を固定し、広角レンズを取り付けた。このカメラはここに据えたまま、まわしっぱなしにする。いざ波が来たとき、このやぐらのわきを走り抜けながら16ミリ・カメラのレリーズ・ボタンを押せるよう、やぐらのわきにコードを垂らしておいた。
 エマニュエルと僕はウエット・スーツを着た。ネオプレーン・スポンジの、黒いウエット・スーツだ。ネオプレーンで小さな細胞をいくつも作り、それをぎっしりと何層にも封じこめたスーツだ。軽くて身動きがしやすい。
 ハイネックになった首のまわりが、柔らかにしかし確実にシールされる。両手首それに両方の足首も、快適にしまっている。みぞおちから股間にかけて、リングを引いてジッパーを降ろすと、どのような波にでも乗れそうな気分になる。
 ウエット・スーツを着てから、カメラ・ヘルメットをかむった。高速度カメラが二台のほかに、それぞれの電池とフィルムまで入っているのだから、このヘルメットをかむると首の筋肉に重量がかかる。大波に巻きこまれて運が悪ければ、このヘルメットのために首の骨を折るようなことがあるかもしれない。
 カメラのレリーズ・シャッターは、ヘルメットのカメラから垂れ下がっている。これを左右の腕に巻きつけ、スナップつきの小さなベルトで掌にとめておく。波に乗る寸前にこのレリーズを押す。いったん押すと、カメラはフィルムがなくなるまで回転し続けるから、シャッターのチャンスを逃すことは、あり得ない。
 三人は、小屋の外に出た。目にとまるすべてのものが、薄く溶かした灰色の空気のなかに冷たくひたっていた。陽が昇れば晴天であることは、全身で感じとることが出来た。霧が残っているから、遠くが見えたり見えなかったりする。ずっと遠くまで突き抜けてきれいに見える部分のすぐ隣の視界は、霧でふさがれてなにも見えない。遠近の感覚に自信が持てなくなる。夜どおし眠らずにいて鈍っている頭に、自信が持てなくなったそのあやふやな感覚が、逆に鋭く知覚される。
 暗かった空が次第に薄い灰色へと解消されていき、もっとも淡い灰色が来た次の瞬間、その色は早くも薄いブルーに変わっている。それは文句のつけようのない手品のようで、何度これを経験しても飽きることはない。
 シルエットになっている背後の山なみの輪郭が、オレンジ色によっていっせいにくまどられ、そのくまどりは空いっぱいに見るまに広がっていく。広がっていくにしたがって、山なみは単純なシルエットであるのをやめ、険しい斜面に光を受けることによって自らの厚みをふたたび見せ始める。
 太陽の光が山を越えてこちら側に届く瞬間、海のずっと沖のほうが、南北へかなりの横幅で、さっとひと刷毛、黄金色に塗られる。そして太陽が昇るスピードにあわせて、この黄金色の波は海岸へと寄せて来る。
「ジェニファー」
 と、エマニュエルは、16ミリのカメラが据えつけてあるやぐらを指さした。
「きみはカメラを担当してくれ」
「いいわよ」
「岸から五百メートルほどのところを中央にして、据えっぱなしでいい。ただし沖に出ている僕を、画面の左右中央にしてくれ」
「もう一台、ズームで撮るわ」
 三フィートから五フィートの波が沖合で砕ける朝の海をしばらく眺めていたジェニファーは、やがて小屋へ引き返していった。ふたりだけになったエマニュエルと僕は、波打ちぎわまで歩いた。立ちどまって、僕はエマニュエルに訊いた。
「どうなんだ」
「来る。沖へ出よう。一時間は待つかもしれない」
 僕たちは波に入っていった。サーフボードを浮かべ、その上に腹ばいに乗る。そして両手で水をかき、パドリングでまっすぐに沖へ向かった。奇妙な気分になるのは、このときだ。来るのか来ないのか、正確にはなにもわかってはいない波に向けて、海へ出ていくのだから。
 数フィートの距離をおいて、僕とエマニュエルは横にならんで沖へ出ていった。沖の波が大きいところは、サーフボードから降りて海に入り、サーフボードの下にもぐる。そして下からボードにつかまって、波の底を抜けていく。
 四百メートルほども沖に出ると、時間の感覚が急速に薄れた。海原のかなたから次々に来ては海岸に向けて去っていく波のつらなりが、人の頭から時間の感覚を奪う。いま自分たちは海の波の上にいるのだという自覚すら淡くなっていく。なにか不思議で得体の知れない中空を漂っている錯覚へと、落ちこんでいく。
 ボードに腹ばいとなり、一定の位置を保つように波と戦いながら、僕たちは波を待った。二度、僕たちは海岸に戻った。ジェニファーが持って来てくれている、マーマレード入りの熱いコーヒーをすすり、砂浜を飛び跳ねるように走っては、冷えた全身に体温をとり戻した。
 三度目に沖へ出たとき、その大きな波が来た。
 フィルムにスローモーションでとらえられたものとは違い、現実の大波はいきなり来て、あっと言う間に過ぎ去っていった。盛りあがった海が、僕たちに向けて押し寄せて来るのが見えた。丸みをおびたその波の頂上が、朝陽を受けて輝いていた。波頭は砕けては飛び散るので、波が近づいて来るにしたがって、熱く溶けた黄金が空中に舞い昇っているかのように見えた。
 サーフボードの先端を岸に向け、波とボードとが直角に交わるようパドリングで調節しながら、僕たちは振り返ってその大波を見ていた。海底そのものがいきなり高く持ちあげられるような錯覚とともに、サーフボードに乗った僕たちの体は空中にほうりあげられた。そのとき大波の波頭は、僕たちのボードのすぐ下にあった。
 もっとも高くあがりきってそこに静止する一瞬、全身のあらゆる感覚が極限にまで研ぎすまされた。波頭の上からワイアナエの山が見え、カワイロアの海岸が見えた。飛沫とともに波の上の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。ボードは波とともに走っていく。そのボードの上に立ちあがり、両腕をのばしてバランスをとり終えた次の瞬間には、海を巻きあげつつ岸へ向かう大波の斜面を、滑り降りている。
 空中にほうりあげられたときの無重力に近い不思議な状態は、サーフボードの下に海と波のエネルギーのありったけを受けとめる、きわめて重い状態へと急変する。慣れないうちは、この重さに他愛なくサーフボードからほうり出される。僕がワイプアウトしたのは、このすぐあとだった。
 撮影したフィルムは、あくる日、現像ラボラトリーにまわし、編集作業用にコピー・プリントを一本だけ作った。フィルムが出来あがってくると、僕はほかのこといっさいをほうり出し、そのフィルムの編集に没頭した。小屋にこもりきって、そのフィルムを何度も繰り返して見た。
 スローモーションでフィルムにとらえられている光景は、あまりにも素晴らしい。おそらくそのせいだと思うが、何度も見るその回数を重ねるにしたがって、フィルムにとらえられているぜんたいが、すべて嘘に思え始めて来た。嘘か、あるいは、幻だろう。
 あの五十フィートの不思議な波は、あの日の朝、たしかに、カワイロア海岸の僕たちのところにやって来た。エマニュエルも、そして僕も、その波に乗った。五十フィートの高みから滑降し始めたときのまっ白な官能の極点は、いまでも自分の体が記憶している。波の内部に巻きこまれ、ひきずりまわされた苦しさも、忘れてはいない。だが、それらすべての記憶を超えて、嘘ないしは幻に対して熱狂している錯覚は、日ごとに強まっていった。
 どんなふうに編集していいものか、そのおおまかなプロットさえ立たないまま、そのスローモーション・フィルムだけを、何日もかけて幾度となく繰り返し、僕は見た。そして見るたびに、いっさいがより純度の高い幻に思えた。
 スローモーションの世界にひたりきっていると、ジェニファーやエマニュエルの身のこなしのスピードが速すぎて、彼らが奇怪な操り人形に思えることすらあった。ひどくせっかちな持主に操られている、こまごまと動きの速い人形だ。
 フィルムを見ていないときの僕をつかまえて、エマニュエルはこの五十フィートの波について、説明してくれた。海洋学、わけても波に関する詳しい知識のありったけを注ぎこんで、奇妙な熱狂を保ちつつ、ていねいに説明してくれた。このような五十フィートもの高さを持った孤立波がなぜ出来たのか、その原因は不明であるという結論を、エマニュエルは下した。
「地震あるいは台風の波だろう。それが太平洋をおそらく北からうねって来て、オアフ島の沖で砕け波になり、波頭だけが表面波として伝わったのだ」
「おそらくそうだ。しかし、なぜ、ひとつだけなのだろう」
「偶然だよ。砕け波がおたがいに次々に前の波に追いつき、最後に波頭がひとつだけ残った」
「そうだね」
「津波の波なら、あんなにおだやかであるはずがない」
 自分に言い聞かせるように、あの波に関して自分が作り得る仮説のすべてを、エマニュエルは僕に語った。あの大波が来る、とエマニュエルが判断した根拠を、このときになって初めて僕は彼に訊いた。
「根拠は、なにもない」
 当然のことのように、エマニュエルはそう答えた。
「北太平洋の嵐の情報が頼りだったのではないのか」
「関係ない」
「まったくのあてずっぽうだったのかい」
「他人から見れば、そういうことになる」
 エマニュエルは、ふと微笑した。
「感じたのだから、あてずっぽうではない。ここで感じた」
 と、あの日とおなじように、エマニュエルは、自分の心臓のあたりを叩いてみせた。
 あの波がどうして出来たのか、その原因は不明であるという結論を出してから、エマニュエルはあまり口をきかなくなった。そして海に出て波に乗ってばかりいた。
 あの波のもとになった波が、なんらかのきっかけで太平洋のどこかに発生したことは確かだ。その波はハワイに向かって伝わって来る。海岸に近づくにしたがって、海底に波の底をひきずるようにしてスピードを落とす。その波は表面波としての性質を失い、そのあとで海底の珊瑚礁の棚に乗りあげる。波は高く盛りあがる。波にはさらに風の影響も加わり、チューブ状になる。いちばん初めの、すべてのもとになった波がなぜ出来たのかについて、僕は興味がない。
 フィルムは、へたに切ったりつないだりの細工をせずに、そのままつなぐことにした。二度や三度続けて見ても、飽きるようなフィルムでは絶対になかった。
 まず実際のシークエンスどおりにつなぎ、さらに、おなじフィルムをいろんな順番でつないだ。冒頭には、大波が来る前日に僕が撮った、カワイロア海岸の光景をつけ加えた。これもおなじフィルムを三度繰り返し、この部分にだけナレーションをかぶせることにした。それでいいだろう、とラリー・デイヴィスは言っていた。フィルムの編集よりも、完成した映画の公開のしかたを計画していくことのほうに、ラリーは熱心だった。
 すべてのフィルムを何度繰り返してどうつなぎあわせるかを、僕が最終的に決定した頃に、エマニュエルがいなくなった。なんの説明もなく、突然、彼はいなくなった。日本からの観光客の団体を空港へ送りにいったジェニファーが、空港でエマニュエルにばったり会った。そのときジェニファーが見たエマニュエルが、僕たちにとってのおそらく最後のエマニュエルだった。
「南へいく、と言ってたわ」
「タヒチからオーストラリアにまわるつもりだろう」
「そうでしょうね。波があるから南へいくという以外、ひと言も口をきかないの」
 たいていのサーファーは、あるとき、この病気にかかる。自分の理想とする、幻としか呼びようのない波を探し求めて、主として南半球の海を、あてもなく移動するという病気だ。サーフ・サファリ、という病名がつけられている。
「いい旅をしてほしい」
 つぶやくように、ジェニファーは言った。
 大波のフィルムは、つなぎあわされた。現実だったのか、それとも完全に嘘だったのか、いまとなってはまるっきりわからないあの五十フィートの波が映っているフィルムだ。冒頭のラリー・デイヴィスによるナレーションの部分をのぞいて、全篇にダビングする音楽の選定が、これから先の僕にとっての至難事だ。
 映画のおしまいに、冬の北海岸のある日の、ただひたすら灰色にきわまったどしゃ降りのシーンを、つけ加えることにした。たいした理由はない。そのようなシーンを加えたくなっただけだ。エマニュエルが僕たちのところからいなくなって十日目に、激しい雨が降った。ジェニファーに手伝ってもらい、僕はその雨を撮影した。
 叩きつける雨に洗われる小屋の、白い板張りの壁。強烈な風にしなう椰子の樹。その葉。黒く切り立っているワイアナエ山塊。海の広がり。波打ちぎわ。そんな光景を、僕はカメラ・ヘルメットを使って、撮影した。ヘルメットを胸に抱くようにし、ずぶ濡れになりながら撮影した。やはりずぶ濡れのジェニファーの姿も、少しだけ撮った。
 小屋に帰って熱いシャワーを浴び、彼女と僕はベッドに入った。ジェニファーがワイキキまでアルバイトに出かけるまでには、まだ時間があったからだ。冬の雨の日の北海岸での、時間のすごしかたの一例を、ベッドのなかでジェニファーとふたりで見つけることが出来た。
 時間が来た。僕はジェニファーをワイキキまで送り届けた。ワヒアワの手前で雨から抜け出すことが出来た。パール・シティを過ぎ、ステート・ハイウエイ1でパンチボウルのふもとまで来ると、空は晴れていた。タンタラスに淡い二重の虹が見えた。
 ガラスを降ろした窓から吹きこむ風に、ワイキキの町の香りがあった。干いていく雨の香りのなかに、排気ガスとみやげ物屋の香りが混ざっていた。カラカウア通りに面したワイキキ・ビジネス・プラザの前で、ジェニファーは車を降りた。
 車を降りようとするジェニファーに、
「ようけ働かんと食えんがの」
 と、なんの意味もなく僕は言った。
「なんと言ったの?」
「知らない」
「ヒンズー語みたいね。ヒンズーに凝っている人が、友だちにいるのよ」
「日本語だ」
「そうなの」
「おじいさんが口ぐせのように言っていた。なんという意味だか、忘れてしまった」
「もう一度言ってみて」
「そう言われると出てこない」
 僕は、笑った。
「あるときふと、思い出すだけだ」
 ジェニファーは手を振って車を離れ、歩道を歩いていった。彼女の頭上、高いところで椰子の葉が風に吹かれ、硬い音で鳴った。
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アロハ・オエ



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 山の向こうから、通り雨の雲が張り出して来た。青空を幅広く灰色にふさぎ、雲は山なみに沿って走った。砂糖キビ畑に向かって斜めに降る雨が、銀色に見えた。雨雲がカメハメハ・ハイウエイを横切った。僕の車は雨のなかを走った。ワイパーのスイッチをオンにした。ハイウエイに出て来てまだ二十分とたっていないのだが、雨はこれで三度目だ。北海岸はいま冬の通り雨の季節だ。
 出て来たときとおなじように素早く、雨雲は去った。陽が射した。太陽とは反対の方向に虹が出来た。大きなアーチの虹だ。空中の雨がなくなると、虹は向こうの端から消えていった。こちらの端だけ、まっすぐな柱のように、虹が空に残った。
 ハレイワの町にさしかかって、もう一度、雨が来た。そして町のまんなかで、雨はいきなり消えてなくなった。風が吹いた。ジャンクションを曲がるとき、向こうのガス・ステーションの給油ポンプのわきで、アテンダントのジョーが手を振った。
 水曜日の朝、八時四十分。田舎町ハレイワは、いつもとおなじたたずまいだ。雨に濡れた椰子の葉が風に揺れ、きらめいて鮮明に光った。
 この町も、しかし、いつのまにか人口が増えていた。新しい民家が町の外周に増え、古い建物が次々に消えていった。今日も懐かしい店がひとつ消える。
 町の南のはずれ近く、ニシモト・カントリー・ストアの前には、すでに人が集まっていた。いまは使用されていない古い木造の倉庫のわきに、僕はフォルクスワーゲンを停めた。車を出てニシモト・カントリー・ストアに向かって歩いた。
 ラジオ局の中継車が来ていた。ヴィデオ・カメラをかついだTV局の人もいた。近所の人たちや環境保全協会の人たちに混じって、仲間のサーファーたちの顔も数多く見えた。
 大きなトラックから黄色いブルドーザーが一台、カントリー・ストアの前に降ろされているところだった。不用になった建物を破壊し、土地を更地になおすのを仕事にしている会社のブルドーザーだ。トラックの近くに立ち、ブルドーザーを降ろす作業を、僕は見守った。
 ギターの音が、うしろから風に乗って、聞こえた。僕は振り返った。道路の向こう、椰子の樹の下の芝生にすわり、マイケル・ヘレアウカラニがギターを弾きながら歌っていた。手を振ってみた。マイケルは自分の歌に没頭していて、気づかなかった。
 周囲に人が増え始めた。自動車で来ては、ニシモト・カントリー・ストアの前まで歩いて来るのだ。トラックの荷台に、スタンドにつけたマイクロフォンと小さなアンプが、設置された。スピーカーを組みこんだ簡単なアンプだ。
 黄色いブルドーザーに作業員が乗りこんだ。エンジンが始動した。ブルドーザーはシャベルを高くあげた。車体の前部に、車幅いっぱいに大きく凶悪な雰囲気で顎のように突き出ている、鉄のシャベルだ。
 ブルドーザーは後退した。キャタピラーでアスファルトの道路を踏みつけ、椰子の樹をかすめて芝生に入った。そして前進した。ニシモト・カントリー・ストアの西側の壁に、シャベルから先に衝突した。重い音があたりに広がった。
 小さく後退したブルドーザーは、ふたたび前進した。三度目に建物にぶち当たったとき、古い木造の壁から土煙があがった。屋根が揺れた。ブルドーザーのエンジン音と、シャベルが建物に衝突する音が重なり合い、柱が折れ板が裂ける音が次第に大きくなった。
 建物ぜんたいが、ぐらりと傾いだ。見物している人たちから、「オー」と声があがった。ニシモト・カントリー・ストアは、やがてあっけなく崩れ、倒れ、平たくなった。舞いあがる土埃に、朝の通り雨が降った。
 一八九九年に創業した古い店だ。建物は何度か建て替えられたが、代々受けつがれてきた店だ。ハレイワのランドマークとなって久しい。僕も子供の頃からこの店でいろんなものを買った。思い出がたくさんある。しかし、ニシモト・カントリー・ストアは、もうない。この店の土地も含めて、付近一帯を再開発し、巨大なショッピング・センターがやがてつくられる。
 ベンジャミン・ニシモトがトラックにあがった。マイクの前に立った。拍手が起こった。僕も手を叩いた。アロハ・シャツに白いスラックス、そして黒い樹の実で作ったレイを一本、彼は首にかけていた。シャツの襟や裾が、風にはためいた。集まった人たちを笑顔で見渡し、ベンジャミン・ニシモトはマイクに向かって喋った。
「みなさん、今日ここへ来てくれて、ありがとう。いまご覧になったとおり、ハレイワのニシモト・カントリー・ストアは、これで終わりです。長く続いてきたのですが、果たしてほんとうに長かったのか、あるいは短かったのか、よくわかりません。時代のほうが、ずっと続いていくからです。時代は、さまざまな変化をもたらします。きっと、我々は、変化を必要としているのでしょう。新しいものを歓迎しようではありませんか」
 拍手が起こった。つらい気持を抑え、勇敢な笑顔をいまニシモトはみんなに向けていた。陽焼けした初老の顔に朝陽が当たった。ポマードでなでつけた白髪まじりの髪が、風にあおられて逆立った。
「私はハワイ島のコナに場所を変え、カントリー・ストアを開きます。アナザー・ニシモト・カントリー・ストア、と命名しました。売る品物の値段は、こことぜんぶおなじです。ありがとう」
 盛んな拍手があった。ニシモトのかたわらに白人の初老の男が立った。新しく出来るショッピング・センターの経営者だと、ニシモトは紹介した。男は短いスピーチをおこなった。ニシモトの人格を讃え、新しい変化が良きものとなるよう最善をつくすことをみなさんに約束する、と彼は結んだ。
 ブルドーザーの運転手に拍手を、とニシモトが言った。ブルドーザーの上で作業員が手をあげ、拍手に応えた。ギターをかかえたマイケル・ヘレアウカラニが、トラックの近くに来ていた。トラックを降りたふたりの男と入れ違いに、マイケルは荷台にあがった。目を閉じてマイクロフォンに向かい、悲しいコードを鳴らしながら、マイケルはこう言った。
「僕の作った歌を聴いてください。歌の題名は『ニシモト・カントリー・ストア』と言います」
 マイケルは歌い始めた。
 全員が聴いた。消えていくニシモト・カントリー・ストアに対する追憶の悲歌だった。子供の頃の思い出や、ストアに集まって来る地元の人たちのスケッチなどが、美しくセンチメンタルに歌われた。甘くおだやかなメロディの向こうに、マイケルの得意とする澄んだ悲しみが宿っていた。
 昔から身のまわりにあったものが、次々に消えていく。僕たちのこの小さな島で、次はなにがなくなるのだろう。自分の歌を、マイケルはそんなふうにしめくくった。拍手があがった。盛大な拍手だった。おだやかな笑顔で人々を見渡し、マイケルはトラックを降りた。
 ブルドーザーが動き始めた。ニシモト・カントリー・ストアの残骸を、自らの重量を利用して細かく砕き始めた。あと二時間もすれば、残骸はトラックに積みこまれて運び去られ、跡かたもないだろう。
 マイケル・ヘレアウカラニは、仲間のサーファーたちに囲まれていた。優秀なサーファーであるマイケルは、シンガー・ソングライターとしても、ハワイではその名を知られている。
「よう、バリー」
 僕の顔を見て、マイケルが微笑した。
「歌を聴いてくれたかい」
「聴いた。今朝のこの気持に、ぴったりだった。素晴らしい歌だ」
「ありがとう」
 ほかのサーファーたちも、マイケルの歌を讃えた。
「ニシモト・カントリー・ストアが取り壊しになると聞いてから、少しずつ作ってきた歌なんだ。二、三日前に、ほぼ完成した。今朝、この現場へ来て、歌と現実がうまく重なり合ったら、歌おうと思ってた」
「歌ってくれて、うれしいよ」
「この店のかき氷は、うまかったね」
「うちの父親は、ベンジャミンといっしょにイタリーへ戦争にいったんだ」
 仲間たちが口々にそんなことを語った。
「いまの歌はレコードにするといい」
 僕が言った。マイケルは、うなずいた。
「ほんとにそう思うか」
「ほんとに」
「やってみよう」
「たくさんの人が、好いてくれるよ」
「出来るだけ多くの人たちに聴いてもらいたい」
 マイケルの顔には、彼がいつも持ち続けている純粋な熱意が、あふれていた。
 僕たちは、ニシモト・カントリー・ストアに別れを告げた。ベンジャミンと握手をしてはげまし、それぞれの車に向かった。今日は北海岸に波は立たない。気象ニュースによると、これからさらに数日、波のない日が続く。
 カントリー・ストアの周辺から車が散り始めた。僕も黄色いフォルクスワーゲンに乗った。これからホノルルに向かわなくてはいけない。車を走らせ、天井のミラーにうしろの光景を見たとき、妙な胸さわぎが僕の体のどこかを横切った。予感、と言ってもいい。あまりいい予感ではなかった。
 いつもとまったく変わらない陽ざしと青空と風、それに通り雨。ふと悲しさを覚えてしまうほどのいつに変わらぬハレイワだが、その不変の陽ざしのなかで、僕はたったいま、古いものが永久に姿を消す現場をひとつ見た。
 今日、この瞬間から、なにかが尾を引きそうだ。運転席の窓から吹きこむ風に、そんな予感を僕は受けとめた。


 地図でよく見ると、その島は変形された四角だ。四辺を構成する四つの海岸線が、それぞれ東西南北に向いている。北、西、および南では、日没の時間が長い。
 大きく傾いた太陽が太平洋に向かって落ちていき、水平線に接し、地球の曲面の反対側へ深く落ちこんでいくまで、落日のオレンジ色の時間が続く。この時間のなかで風がいったん止まり、吹いて来る方向を変える。
 オレンジ色の夕陽のなかを、僕は空港に向かって車を走らせた。僕が所属しているオフィスのボスであり、チャンピオン・サーファーでもあるラリー・デイヴィスを迎えにいく。
 いま運転している車は、キャデラック・エルドラードという。ボディぜんたいがハワイアン・ゴールドに輝いている。ハワイ州知事のオフィスが貸してくれた。こんな車を運転するのは久しぶりだ。車の前部に重量がありすぎる。重い。ひどいアンダー・ステアで、町のなかのほんのちょっとしたカーヴでも、タイアが鳴く。
 大きなエンジン・フードが、西陽を照り返してまぶしい。このフードの上に、戦闘用のヘリコプターを着陸させることの出来る古参の海兵隊員を、僕は知っている。
 ラリー・デイヴィスが西海岸から帰って来る。このところボスも忙しい。まるで島と西海岸とのあいだのコミューターのようだ。帰って来るのがラリーだけならいいのだが、ハリウッドの連中がいっしょだと思うと、気は重い。ハリウッドの映画資本が、ようやく、波乗りをテーマに劇映画を撮る。にわかには信じがたい途方もない額の費用をかけたハリウッド大作だという。
 ラリー・デイヴィスは、この映画に出演する本物のサーファーのひとりだ。出演するだけではなく、監督を直接に補佐するテクニカル・アドヴァイザーの役をも、彼は引き受けている。波乗りが単なる背景としてではなく、主人公たちの生活の舞台として前面に押し出されている映画なので、テクニカル・アドヴァイザーは責任重大だ。
 波乗りのシーンに合成技術やトリックを使わせないよう気を配るばかりではなく、主演の男たちを短期間で立派なサーファーに仕立てあげ、波乗りのシークエンスを完璧なものにすると同時に、画面の細かなところまで出来るだけ「本物」が映るよう、注意しなくてはいけない。ほんとのサーファーたちの姿を画面に残したくて、ラリーはこの仕事を引き受けた。これまでのハリウッド製の波乗り映画は、ひどすぎた。
 監督やカメラマン、主演の俳優たち、それにセカンド・ユニットまで、映画づくりのためのスタッフが、チャーター機でいっぺんに島へやって来る。この六十日ほど、彼らを迎え入れるための準備に、僕は走りまわった。いま乗っているキャデラック・エルドラードは、このハリウッド大作映画のテクニカル・アドヴァイザー専用に、知事のオフィスが貸し出してくれた。
 そして今日、ラリーよりも二時間遅れて、ジェニファーがやはり西海岸からハワイに帰って来る。ジェニファーとは二か月ぶりで会う。空港には少し早く着きすぎた。待つこと三十分。チャーター機は時間どおりに到着した。
 映画スタッフのおもだった連中には、ドライヴァーつきでそれぞれ車が用意されていた。そのほかの人たちは、特別じたての空港リムジーンだ。この映画のために設立されたホノルル・オフィスが、すべてを準備した。ラリー・デイヴィスはヘア・スタイルを変えていた。
「西海岸では、ひどいカツラを売ってるみたいだね」
 と、僕は言った。
 肩を抱き合い、チャンピオン・サーファーのホームカミングを確認した。
「映画の連中をつれて来たよ。さあ、これから大変だ。仕事が増えた」
「ひっかきまわされるんじゃないかって、みんな心配してる」
「戦おう。どうだい、調子は」
「ニシモト・カントリー・ストアが取り壊しになった」
「奴ら、次はなにを壊すつもりなんだ」
「マイケルが、おなじことを言ってた。彼は、『ニシモト・カントリー・ストア』という歌を作ったんだ」
「聴きたい」
 州知事オフィスの黄金色燦然たるキャデラックに、ラリーは単純に喜んだ。
「俺にくれたのか」
 と、彼は言った。
「まさか」
「どうもありがとうございました、大事に使いますって、丁重な礼状を出しとけ。もらったつもりで書けば、くれるよ」
 ラリーがうしろの席に乗り、助手席には二十八歳くらいの女性が、乗りこんだ。名前はキャロリンといった。美人だ、と言えなくもない。着ている服に、きつい匂いの香りが、たきこんであった。
 映画の撮影がスタートするまで、スタッフはワイキキに滞在する。次々に開かれるパーティを、そこでこなすのだ。そのあと、北海岸での撮影に便利な場所へ、移動する。そのための家やコンドミニアムが、すでに何軒も借りてある。
 キャデラックが空港の構内を出てから、僕は車のオーディオ装置のスイッチを入れた。スピーカーから歌が流れた。マイケルのギターの弾き語りで、『ニシモト・カントリー・ストア』だ。帰って来るラリー・デイヴィスに聴かせたいと僕が言ったら、マイケルは自宅で歌ってカセットに録音してくれた。ラリーは黙って聴いていた。歌が終わると、「もう一度」と言った。二度目を聴き終え、ラリーは無口になった。
 キャロリンをホテルで降ろした。パーティで会いましょう、と彼女はラリーに熱い視線を向けていた。今夜さっそく、第一回のパーティがある。この映画のためにワイキキに作られたラリーたちのオフィスに向かった。途中でラリーが言った。
「いまのキャロリンを、誰か引き受けてくれ。しつこくてかなわない」
「美人じゃないか」
「もとをただせば、俺がいけない」
「どんなへまをやったんだ」
「波乗りをしているときのサーファーはどんな喜びを感じるのかと訊くから、太平洋のエネルギーと性交する喜びだと答えた」
 僕は笑った。
「そしたら、太平洋と性交する人と性交したい、と言い始めた」
 キャロリンはロケーション・マネジャーのアシスタントのひとりだという。
 オフィスに着くと、僕宛てに電話が入っていた。メモ用紙にマウイ島の電話番号が書いてあり、〈ディーンに電話してください〉とメッセージが走り書きされていた。ディーン・ワイアウも、ハリウッド大作に出演するハワイのサーファーのひとりだ。僕は電話をした。ディーンが電話に出た。今夜のパーティには出席出来ない、とディーンは言った。
「いいんだよ。ただのパーティだから」
「今夜だけではなく」
「いずれはこっちへ帰って来るんだろう?」
「わからない。映画よりも重要なことがある」
 ディーンがいま身も心も捧げている対象があることを、僕は知っている。
「話し合おうか」
 と、僕は言った。
「こっちへ来れるのかい」
 ディーンのその言葉に、僕は急にディーンに会いたくなった。
「いくよ。アイランダーの最終便で」
「待ってる」
 ディーンに会いにマウイ島へいくのは、今夜のパーティを途中で抜け出すための口実になる。あのキャロリンをラリーから押しつけられるにきまっている。


 双発のアイランダーは、昼間に見ると美しく可愛い。胴体や翼の上半分は燃え立つようなまっ赤だ。そして下半分は銀色。海上を低く飛ぶときには、海面を機体の影が走る。僕のほかにはプロ・ゴルファーが六人、乗っていた。ひとりは女性だ。夜間飛行のアイランダーは強く揺れた。機体が強風にあおられてきしんだ。
「砂糖キビ畑の上に不時着すれば、怪我はしませんよ。キビの林が、このくらいの機体なら支えてくれるから」
 パイロットがそんな冗談を言った。
 カアナパリの小さな滑走路に、アイランダーは着陸した。空港オフィスにディーン・ワイアウが迎えに来てくれていた。ディーンたちがオロワルに借りている家へ、車で向かった。白いボディが赤錆だらけになった、クライスラーのハードトップだ。平坦な路面の上でも、その車は常に左に大きく傾いて走った。
「ジェニファーは元気かい」
 ディーンが訊いた。
「空港に出迎えてキッスしたら、ロサンゼルスのスモッグの香りがした」
 僕たちの古いジョークだ。いまではワイキキから来た僕も、排気ガスの臭いがするはずだ。
 ディーンたちの家は海のすぐ近くだった。ビーチパークに寄せる波の音は、次第に強さを増していく風のなかで、椰子の葉の音にかき消されていた。白くペンキを塗った板張りの部屋で、僕とディーンは話をした。ラリー・デイヴィスといっしょに来たハリウッドの連中のことを、僕はディーンに聞かせた。カーペットを敷いたフロアにディーンはすわり、僕は壁ぎわのソファに横たわった。
「僕たちの運動が、思わしくない」
 ディーンが重く言った。顔の下半分が、濃いひげに覆われていた。細かくカールした髪が、長くのび始めている。
「アメリカ海軍も海兵隊も、あの島を手放すつもりはまったくない。役所のいろんな部署や外郭の団体が、僕たちの運動の敵にまわりつつある」
「新聞で読んで知っている」
「新聞に出るのは、おもてむきのほんの一部分だ。それに、この運動に関して、地元の新聞は論調を変えつつある」
 ディーンは、プロテクト・カフーラウェ・オハナ、という運動に深くかかわっている。マウイ島の西側、たとえばラハイナから海のほうを見渡せば、北から南へ順に、モロカイ島、ラナイ島、そして、カフーラウェ島が、いずれも海の向こう、さほど遠くないところに見える。
 カフーラウェ島がいちばん小さい。島の中心となる山、ルア・マキカが標高千五百フィート足らずだから、赤茶けた平たい島に見える。この島の上空に雲があるのを、僕は一度も見たことがない。
 このカフーラウェ島は、昔は個人の所有地だった。かつては牧場が経営されていたこともあったが、島の土地そのものの性質や気候が不利で、牧場は失敗した。やがてアメリカ軍の管理下になり、いまでは無人島だ。島にはなにもない。民間人の立入りや接近は厳禁されている。無断で島に渡ると不法侵入罪に問われる。島じたい、非常に危険だ。全島が海軍や海兵隊の爆撃演習の標的として使用されていて、不発の模擬爆弾が陸といわず周辺の海といわず、ごろごろしている。
 この島をハワイ人たちの手にとり戻そうという運動が、プロテクト・カフーラウェ・オハナだ。中心となる何人かのリーダーのひとりが、サーファーのディーン・ワイアウだ。大学で彼は精神障害児童の心理指導を勉強している。
 ディーンがこの運動にことのほか熱心なのは、ディーンの遠い祖先がカフーラウェ島の出身だからだ。この島は重要な宗教儀式のおこなわれた神聖な島でもある。運動に対する賛同者は多いのだが、暗礁に乗りあげた感じがある。アメリカ軍がこの島を手放さないことが、誰の目にもはっきりしてきたからだ。
 爆撃演習の標的として、あらゆる条件が整いすぎている。気象は良く、いつも雲がない。乱気流もないし、人口密集地から離れた海の上なので、騒音の心配もない。爆弾の誤投下の危険もゼロだ。それに、ハワイに集結している軍事施設から、至近距離にある。
「島を占拠しようと思う」
「占拠?」
「無断で島に渡り、ストライキのようなデモンストレーションをおこなう。それに、カフナ(僧侶)を呼んで来て、宗教儀式も」
「よく考えた行動なのか」
「これしかない」
「僕は支持する」
「ありがとう、バリー」
 風はいちだんと強くなっていた。フロアにすわっているディーンの、ハワイ系のたくましい顔に影が濃かった。
 あくる朝、夜明けが来てすぐに、僕は叩き起こされた。
「バリー、起きてちょうだい、バリー!」
 と、僕の肩をつかんで揺する人がいた。
 ソファの上に、僕は体を起こした。ジェーンが不安そうに体を寄せた。
「なにかたいへんなことが起こったのよ。バリー、どうしよう」
 ジェーンは僕の手をとった。外は雨嵐だった。風に吹きちぎられそうになっている椰子の葉の音に、家の板壁を叩きまくる大粒の雨の音が、分厚く重なっていた。
「バリー」
「どうしたんだ」
 ジェーンはディーンたちの運動の広報関係の責任者だ。赤く陽焼けした顔にそばかすが一面に散っている。
「ディーンとロジャーが、どこにもいないの」
「仕事に出たんだろう」
「たったいま、警察から電話があったわ」
「警察?」
「ディーンとロジャーのふたりが、サーフボードをかかえて海のほうへ歩いていくのを見た人がいるの。びしょ濡れになって、風によろめきながら、ハイウエイを裸足で歩いていったって言うの。車でとおりかかった人が見たのよ。車から声をかけたら、ディーンが振り向いて手を振って、そのまま海のほうへいってしまったって。その人が警察に通報し、警察からここに電話があったの」
「ディーン!」
 ソファを飛び降り、僕は大声で叫んだ。いきなり不安感にとりつかれたのだ。理由はない。両脚から力が抜けて軽く、心臓が喉もとで鼓動した。
 いくつかあるほかの部屋に走った。どの部屋も、からっぽだった。ジェーンがついて来た。
「どこにもいないのよ。私も探したの」
「サーフボードは?」
「ディーンが赤、ロジャーが黄色。ディーンのは、おもてにDEANと名前が入ってる。目撃者の証言」
 サーフボードを置いておく部屋に、僕は走った。ふたりのサーフボードは、なかった。
「いっしょに来てくれ」
 ジェーンの手を引き、僕はポーチへ走った。ドアを開け、外に飛び出した。とたんに風をくらい、ジェーンがよろけた。
 横なぐりの激しい雨のなかに、ディーンのおんぼろのクライスラーが、いまにも自己解体してしまいそうな風情で、停まっていた。キーはイグニションに差しこんだままだった。苦痛そうにスターターが回転し、エンジンは始動した。いったん始動すると、エンジンは元気そうだった。
 路面を雨が河のように流れていた。椰子の樹の長い幹が、強風を受けながら雨のなかにしなっていた。椰子の葉が灰色の空に狂ったように乱舞した。ハイウエイに出て、ジェーンが言う方向に向かった。しばらく走ると、ジェーンが叫んだ。
「停めて! このあたり。ふたりがここから海に向かうのを、目撃者はこのあたりで見たの」
 クライスラーを停め、僕は雨のなかに飛び出した。ハイウエイから公園のわきを未舗装の道が海へ抜けている。僕は走った。砂浜の縁にある草の生えた土手を越え、そこから海岸に飛び降りた。荒れ狂う重い灰色の海の向こうに、カフーラウェ島が不気味に見えた。風に叩かれ、僕は砂浜に尻もちをついた。ディーン! と叫んだ口に、雨と風がひとかたまりになって飛びこんだ。
 クライスラーに引き返すと、うしろにパトロール・カーがいた。ジェーンが運転席にいた。助手席に僕は入った。Uターンし、家へ戻った。パトロール・カーがついて来た。僕たちに続いて、パトロール・カーの警官が家へ入って来た。目撃者の通報を受けてからの経過を、ポリネシア系のたくましい警官は説明した。沿岸警備隊と海軍に、救助のための出動依頼がしてあるという。
「海に入ったことが確定すれば、ただちに出動出来るようになっている。しかし」
 警官はハンカチで首をぬぐいながら窓へ歩いた。
「この暴風で、まさか海には入らんだろうなあ」
 僕たちは救助を依頼した。ふたりはたしかに海に入ったのだと僕の責任で断定し、警官に行動をとらせた。警官はパトロール・カーから無線で連絡をとった。マウイ島西海岸全域にも陸からの捜索隊を出すよう、警官は手配した。いったん海に出たあと、島へ叩き返されている可能性もあるからだ。
 ジェーンの知らせを受け、ディーンの仲間たちが次々に集まって来た。重い不安が全員を覆った。ディーンが僕に語った島を占拠するアイディアは、秘密裡にきちんとした計画が進んでいたという。島へ渡るための動力船も手配がついていて、数日中にはラハイナに回航されて来る予定だった。
 サーフボードでカフーラウェ島へ渡る計画はなかった。海流が複雑で、流れの急なところがいくつもある。巻きこまれて流れたら、それでおしまいだ。鮫もいる。いくら海に慣れた波乗りの達人でも、ボードに腹ばいになってカフーラウェ島までパドリングで渡るには、距離がありすぎる。しかもこの嵐に。
 しかし僕には、ジェーンから聞いた目撃者の話が、奇妙に現実味をおびて納得出来た。豪雨のなか、サーフボードをかかえてハイウエイを裸足で歩いていくディーンとロジャーの姿が、まるで自分が目撃したかのように、目に浮かんだ。たしかにふたりは海に入った。確信に近かった。ごく親しい人にだけ、僕はそのことを喋った。
「不合理だよ。きみはセンチメンタルになりすぎてるんだ」
 グレン・ナカザトという男が反論した。
「カフーラウェ島へいきたかったら、あんな地点から海に入るもんか。どんどん流されて、とんでもない方向へいってしまう。パドリングだけで海流を乗りきれるわけがない。ディーンもロジャーも、それはよく知ってるはずだ」
 そのとおりだ。しかし僕の体の内部では、絶望がかたちを整えつつあった。
 昼前にニュースが入った。ケアライカヒキ海峡のまんなかで波間に漂う赤いサーフボードを一本、海軍の飛行機が見つけたという。DEANという名前が、双眼鏡ではっきり確認出来たのだ。
 誰もが悲しんでいる部屋で、僕はホノルルから僕宛てにかかって来た電話をとらなくてはいけなかった。ハリウッド大作映画の監督、ウォーレン・シュローダーだった。彼にはホノルル空港でラリーから紹介された。軽飛行機の教習所によくいる、初老の頑固な教官のような男だ。
「とても重要なことをきみはこの俺に教えてくれてないじゃないか」
「なんですか」
「ワイメアの五十フィートの大波に挑戦する、三人の馬鹿なティーンエージャーのことだ」
「はあ」
 シュローダーは昨夜のパーティでしたたかに酒に酔いながらも、新聞社がごく最近発行したハワイの波乗りの現状についての特集号を、広告にいたるまですべて読んだのだという。ワイメアの大波に挑戦する三人の少年のことを、彼はそこで知った。
「彼らは、馬鹿ではないですよ」
「言葉のあやさ。馬鹿ほど、映画に撮れば、さまになる。ぜひ挑戦の現場を撮りたい」
「考えます」
「考えてくれと言っているのではない。撮らせろ、と言ってるのだ」
「風がおさまったら、すぐに帰ります」


「スタジオに、ぜひ来て」
 と、ジェニファーは言っていた。
「今夜、録音なのよ。リハーサルをずっと見てたのだけど、マイケルは素晴らしい。でも不思議な雰囲気だわ。悲しくて、なんだかこわくて」
 マイケル・ヘレアウカラニが、自作の歌『ニシモト・カントリー・ストア』をシングル盤のレコードにする。そのための録音が、今夜、スタジオでおこなわれる。
 ワイメアの大波を撮影するための打ち合わせが、夜までワイキキのオフィスで続けられた。監督のウォーレン・シュローダーがワイキキを気に入っていて、北海岸に出向いてもすぐに帰って来てしまう。なにかといえばワイキキなのだ。
 ほぼ終わったところで、僕は打ち合わせの席を抜け出した。ワイキキでは冬の観光客たちのために、夜の時間が始まっていた。夕方のラッシュ・アワーはすでに終わりだ。月が昇っていた。アラモアナの近くにあるスタジオへ、僕は車で向かった。スタジオはなんの変哲もない倉庫のような建物だ。だがこのスタジオでは、これまでに数多くの歴史に残る名演奏が録音されてきた。
 顔を知った連中が、たくさん来ていた。くつろいだ親密な雰囲気が、スタジオいっぱいに広がっていた。マイケルをサポートする地元のミュージシャンたちが、バックの演奏部分の練習をしていた。曲にはきれいな編曲がほどこされていた。簡素な楽器編成が、いい効果をあげていた。
 今夜の録音では、マイケルの歌とバックの演奏を、いっしょにワン・テイクでテープにおさめてしまう。マイケルの希望で、そうすることになった。ミュージシャンたちの調子は、やがて完璧に仕上がった。スタジオのマイクの前に立って、マイケルはうなずいていた。
 本番の準備が進められた。
 マイクの前にギターをかかえて立ったマイケルは、目を閉じてじっとしていた。ミュージシャンたちが位置についた。最終的な音の調整がなされ、スタジオのドアが閉じられた。分厚い壁と二重ガラスの窓で仕切られたモニター・ルームに、僕たちは移った。コントロール・ルームのディレクターが、マイクをとおしてミュージシャンひとりひとりに呼びかけた。短い言葉を交わしあい、最後に、
「マイケル。歌を聞かせてくれないか」
 と、言った。
 マイケルは静かに目を開いた。僕の位置から彼の横顔が見えた。
「今夜ここに集まってくれた友人たちみんなに、この歌を捧げよう」
 マイケルが言った。
「ありがとう」
 ディレクターが答えた。
「ありがとう、マイケル」
 編曲者が、そうつけ加えた。
〈録音中〉の赤いランプがスタジオに灯った。歌と演奏が始まった。ジェニファーが言っていたとおり、マイケルの歌は素晴らしい仕上がりだった。古いもの、そして昔から続いてきたものが少しずつ確実に失われていく自分たちの島について、若い島育ちたちがハートのありったけをこめて歌った。
 長い歌詞が三番まであった。古くからの友人であるミュージシャンたちの絶妙のサポートを得て、マイケルは夢のように歌った。聴く者の心臓を、いつのまにかしっかりとつかんだ。おだやかで切ない甘さに、強い説得力があった。
 マイケルは歌い終わった。スタジオのなかでミュージシャンたちがマイケルを囲み、肩を叩き抱き合い、祝福した。ドアが開いて全員が外へ出て来た。誰もがマイケルとミュージシャンたちを讃えた。プレイバックがモニター・スピーカーから静かに流れた。
 場所を移して、簡単な祝賀のパーティがあった。TV局が提供してくれたヴィデオ・テープを、再生してみんなで眺めた。ニシモト・カントリー・ストアが取り壊しになる朝の、現場の模様を撮影したテープだ。
 TVの明るい画面を見ながら、あの朝の風に確実に感じた不吉な予感が、僕の内部によみがえった。あの予感は、ディーンとロジャーの死をまえもって知らせてくれていたのだろうか。
 全力をあげて十日間にわたっておこなわれた捜索のあと、ディーンとロジャーの生存は絶望であるという発表がなされた。ディーンの赤いサーフボードに続いて、黄色いサーフボードが半分だけ発見され、回収された。ロジャーのボードだった。それはまんなかからふたつに折れていた。ふたりの謎の行動をミステリーに仕立てあげ、新聞は大きく書いていた。太古の昔からカフーラウェ島には呪いがあるのだ、というような内容の記事だ。
 パーティのあと僕は北海岸に向かった。ジェニファーとウエイン・ニシモトがいっしょだった。ウエインは、ニシモト・カントリー・ストアの経営者ベンジャミン・ニシモトの甥にあたる。ワイメア湾できたえぬかれた、有望な若いサーファーだ。この冬、ワイメアの五十フィートの波に挑戦しようとしている三人のティーンエージャーのうちの最年長、十七歳だ。
 ワイメア湾に大波が出来る日は、ひと冬に二週間もあればいいほうだ。十二月から一月にほぼ集中する。今年は少し遅れている。だが高さ二十フィートから三十フィートの波は、すでに十日ほど前からワイメア湾を叩いている。ハリウッドの撮影隊は、ワイメアに連日、カメラを据えつけている。
 大波が来ることが確実になると、北海岸の海沿いの一帯には、大波警報が発令される。カメハメハ・ハイウエイが海に沿っている部分を車で走ると、勢いあまって陸にあがって来た波に車はつかまる。まっ白い飛沫のかたまりが屋根や側面に激突し、潮の匂いが車に満ち、窓を開けていればずぶ濡れになる。小さな車が横あいからまともに波をくらうと、車は路肩まで飛んでいく。
 ワイメアに波が立ちあがり始めてから毎日、北海岸の腕に覚えのあるサーファーたちが波に挑戦している。TV局がその模様を中継する。高さ三十フィートのまっ白い怪物のような大波が、もうもうたる飛沫を天に向けて噴出させつつ、内部から自らを不気味に拡大させながら、湾の入口を目ざして沖から立ちあがって来る。
 ワイキキのホテルの小さなTVで見ても、海を少しでも知っている人なら、TVの前に釘づけになって興奮する。その巨大な波の峰に、点々とサーファーがとりついているのを見て、たいていの人は驚愕する。監督のウォーレン・シュローダーも、そうだった。オフィスの24インチ・モニターの前にすわりこみ、口をあけて大波を見ていた。
「これを撮るんだ、俺はこれを撮るんだ!」
 と、連発し、彼は僕を脅しにかかった。
「やい、カネシロ。おまえ、へまをやってこの俺にこの波を撮れなくしてみろ、殺すからな」
 冗談ではなく真剣に、シュローダーの目には殺気が満ちていた。
 撮れるも撮れないもありはしない、大波の立つ日にワイメアまでいけばいいのだ。TV局のヴィデオ班ですら、すさまじいシークエンスをものにしている。シュローダーにそう言ったら、彼は、
「このクールな糞ったれめ!」
 と、僕をにらみつけた。
 このシュローダーは、暴力が極限にまで発散される状況をフィルムに撮ることに関して、すぐれた腕を発揮する。僕をにらみつけた彼の目の殺気に、僕は少しだけ期待した。

 ワイメアで夜を明かした。夜明けと同時に、北海岸全域に、緊急避難命令が出された。電柱のような木の柱の上にあるサイレンが、霧に満ちた朝の空気を射しつらぬいた。
 屋根の赤い回転ライトを灯して、パトロール・カーが走りまわった。PAで避難を告げていた。北のサンセット・ビーチに向かうハイウエイには、朝のこの時間なのに、自動車がたくさん出ていた。Tシャツ一枚の陽に焼けた男たちが、薄暗い車のなかで目を輝かせ、興奮していた。
 朝のニュースは最初にワイメアの波の状況を伝えた。今日こそついに、この冬で最大の五十フィートを波はマークするだろう、とアナウンサーは興奮していた。ニュースの時間は波の情報に終始した。そして気象ニュースが始まった。ふたたびワイメアの波情報だ。
 アリューシャンに冬の嵐が吹き荒れている。この嵐によって北太平洋にひき起こされた波は、太平洋をえんえんとうねり、ハワイ諸島までやって来る。太平洋を越えて来たうねり波の途方もないエネルギーは、オアフ島の北海岸に接近しつつ、次第に海底を感じ始める。そしてワイメア湾口の浅瀬にいきなり乗りあげ、大波となって立ちあがり、持って来たエネルギーのありったけをぶちまけ、壮大に自爆してみせる。
 この自爆の瞬間を、サーファーたちはとらえる。波に乗る、などという生やさしいものではない。太平洋のエネルギーの大爆発の深内部に、愛するサーフボードとともに飛びこみ、見えざる巨大な神と格闘する。
 昨日、ワイメアの波は四十フィートに達した。多くのサーファーがその波と戦った。その様子を僕はTVで何度も見た。右から左へ走りながら天をふさぐように立ちあがる大波の、肩先の部分でお茶をにごしているサーファーも多かった。
 だが、真に勇敢でしかもワイメアを知りつくしているサーファーたちは、波の頂上にいつもいた。ウエイン・ニシモトもそのひとりだ。アラモアナの録音スタジオでマイケルの歌をいっしょに聴いていたとき、ウエインは小きざみにふるえていた。
 ワイメアの四十フィートを相手にして一時間がかりで陸へあがって来たときから、ウエインの体はふるえていた。恐怖や極度の緊張、筋肉疲労などでふるえが来るというのだが、大波が砕けて消えるときのエネルギーがひとりのサーファーの肉体に乗り移り、そのエネルギーの発振で肉体はふるえ続ける、とサーファーたちは言う。
 夜のあいだ仮眠をとった映画スタッフが、ワイメアの現場に夜明けとともに戻って来た。五十フィートに挑戦する三人、ウエイン・ニシモト、アルバート・イアウケア、ロニー・カマイを、僕は監督のシュローダーにひきあわせた。
「撮るからな」
 と、シュローダーは三人に言った。
「なにが撮れるんですか」
 僕が訊いた。シュローダーの反応は、単純明快だった。
「おまえの糞でないことはたしかだ」
 と、彼は僕に言った。


 湾は馬蹄のかたちをしている。奥は広い砂浜で、その両側は黒い岩で出来た、可愛らしい岬だ。湾の内部の水深はとても浅い。海底が透けて見える。ぜんたいの大きさは、とても手ごろだ。サーファーたちが、湾と呼ぶにふさわしい。北西を向いている湾に対して北から、太平洋のうねりが押し寄せて来る。
 波乗りのための波は、砂浜から湾の外に向かって右側に出来る。右の岬のすぐ左側には十五フィートくらいまでの波が立ち、少し左に寄ってすぐ裏に二十フィート、その後方が三十フィートくらいの波だ。もちろん、乗れるような波が出来る日に限ってのことだが。そんなときには、湾のすぐ外を右から左へいっぱいにまっすぐ、四十フィート級の波が立ちふさがる。
 灰色の朝だ。空気が重い。波の細かな飛沫がびっしりと空中にいつまでも漂っているようで、湿っぽい。そして息苦しい。湾の内部から沖にかけて、まっ白い波が、おたがいに少しずつずれては何段にも重なり合い、砕けている。地鳴りのような音が空気中に充満し続ける。その音は地面を伝わって両脚から体にのぼって来る。そして心臓をとり囲む。水平線はぼうっと灰色にかすんでいる。くすんだブルーと紫色を溶かしこんだような、不思議な灰色だ。
 湾の周辺に人がたくさんいた。誰もが興奮していた。砂浜から一段高くなった草地は、セミ・プロやアマチュアたちのムーヴィ・カメラの砲列だった。岬の突端にも大勢の人が出ていた。高台のようになっている道路の両側には、自動車がつらなった。どの車の屋根にもサーフボードがあった。サンセット・ビーチのほうから、人と車が押し返されて来た。波は砂浜を越えて住宅を叩き、ラニアケアでは勇敢になりすぎた見物人たちのあいだで、怪我人が出た。
 海軍や空軍の気象情報、それに人工衛星からの観測結果などを専門的に総合すれば、いつもいきなりやって来るので知られているワイメアの大波も、だいたいは予測がつく。波乗り情報のDJは、五十フィートの怪物がすでに湾の入口に立ちあがっているかのような興奮ぶりだ。異様に高揚した熱気をはらんで、朝の時間はスリリングに、サスペンスに満ちて展開した。刻一刻と、人々の興奮は、緊密に絞りあげられていった。
 ハリウッド映画の撮影カメラは、歴戦の機関銃手のように、要所にぴたりとついていた。全部で五台。そのうち二台は、油圧の無振動マウントに支えられ、ヘリコプターに乗って空中だ。ヘリコプターは湾の上空を、いまや遅しと待ちかまえ、旋回中だ。
 監督のシュローダーはヘリコプターに乗りこんでいる。陸上でいちばん重要なカメラのわきにラリー・デイヴィスがつきっきりになり、無線で空中のシュローダーとやりとりをしている。何日もかけて、ラリーは、シュローダーにワイメア湾の波を説明した。詳細なチャートを何枚も描き、ワイメアに命を賭けているサーファーたちの協力を得て、この湾について知り得るすべての知識を、シュローダーに叩きこんだ。
 きちんと理解し記憶しているなら、いまのシュローダーは、車の屋根に見当違いなサーフボードを乗せてサーフ・バムを気どっている連中よりはるかに詳しく、ワイメアについて知っているはずだ。
 三十フィートの波に、数人のサーファーがくらいついている。五十フィートに挑戦するサーファーたちは、かつておなじ大波に立ち向かった先輩のサーファーたちといっしょに、砂浜の奥にいた。
 僕はラリー・デイヴィスのそばへいってみた。
「これを聞いてみろ。ものすごく面白い」
 ヘリコプターと交信するためのヘッドフォーンを、ラリーは僕に渡してくれた。
 シュローダーが救助隊のヘリコプター操縦士と無線でやりあっていた。
「ミスタ・シュローダー。二機のヘリコプターのうち少なくとも一機は、湾の上空から撤退してください」
「いやだ、撤退しない!」
 シュローダーが怒鳴った。
「危険です」
「危険は承知だ。我々のパイロットは海兵隊あがりの猛者だ。危険なんて、いつも朝食といっしょに、おいしく食べている」
「私も海兵隊にいました」
「面白い、勝負しようじゃないか」
「ミスタ・シュローダー」
「うるせえ!」
 怒鳴ったシュローダーは、僕の隣で望遠レンズつきの撮影カメラをのぞいているスティーヴ・レイマーを呼んだ。
「スティーヴ」
「なんですか、ボス」
「呑気な声を出すな! これは戦争だ。救助隊のヘリコプターを射ち落とせ。邪魔だ!」
「ヘリコプターどうしで射ちあったらどうですか」
「対空機関砲はないのか」
「ありません」
「それでおまえはよく俺の仕事が務まるな!」
 スティーヴは僕にウインクしてみせた。救助隊のヘリコプターが交信に割って入った。
「ミスタ・シュローダー、命令を聞いていただかないと逮捕されますよ」
「きみらは」
 と、シュローダーが怒鳴った。
「きみらは、この俺がどんなふうに仕事をするか、知らないようだな。俺は、撮ると言ったものはかならず撮るんだ!」
 ラリー・デイヴィスが僕の肩を叩いた。砂浜の奥を示した。挑戦する三人の若いサーファーが、ほかのサーファーたちと握手をしていた。
「シュローダー、波が来る」
 顎の前に突き出ている小さなマイクに、僕は言った。湾の外は狂気の波でいっぱいだった。轟々と押し寄せる大波がまっ白に砕け、沸き立ち、海岸を叩きのめした。
 三人のサーファーは海に入った。岸にすさまじい体あたりをくらわせてから、沖へ猛然と引いていく潮流がある。海岸の右側をなめ、浜のほぼ中央から沖へ向かって、その流れはカーヴしていく。この流れに乗ってサーファーたちは急速に沖に出た。上空から落下して白く噴きあがる巨大な爆発の陰に、何度もサーファーたちは見えなくなった。
 はるか沖に、接近しつつあるうねりが見えた。今日はくすんだインディゴ・ブルーの海原に、横に長く一直線に、峰が盛りあがる。一直線のまま、それは湾に向かって来る。峰の丸みをおびた背が高さを増す。奇怪な生き物が海底から背をもたげて来るように思える。圧倒的な量感をたたえ、すさまじいエネルギーを内部にはらんだ波は、湾の入口でいきなり急斜面の浅瀬に乗りあげる。巨大なうねりの水とエネルギーは、突然、行き場を失うのだ。海底を轟々と揺るがせて、波は空へ向かう。立ちあがる。長い一直線のうねりが、そのまま海をひきずって空中に立ちあがる。
 空に助けを求め、自らに可能なかぎりのびあがった波は、湾の入口をいっぱいにふさぐ。そして右から、白く砕けていく。砕けかたは尋常ではない。まっ白い炸裂は波の内部から猛然と始まり、煮えたぎり、噴きあがる。地鳴りが轟く。
 一直線の峰がすべて砕け落ちると、人の背たけの数倍はある高さの白い波の段丘が、海面から幅広く盛りあがったまま、いっせいに湾の奥めがけて突進していく。白い狂気だ。せっかくのエネルギーを小さな島の浅瀬に足をすくわれて失わなくてはならない無念さが、白く牙をむいて轟々と砂浜を攻撃する。
 砂浜が待っている。小さな浜だが、微動だにしない壁だ。乗りあげた白い波の段丘は、最後の炸裂を雄哮びとともに砂浜に向かっておこない、純白の混沌のなかにみごとに果てる。うねりがいくつも重なり合い、湾に向かって来る。その光景が、灰色の空の下に見えた。
 ヘッドフォーンをかけ、無線機を手に提げ、戦場の通信兵のように、僕は走った。ジェニファーが望遠レンズつきのムーヴィ・カメラを立てているところまで、全力疾走した。ジェニファーは、興奮するとカメラのファインダーをのぞくのを忘れ、あたりを跳びまわる。だから僕がかわりにカメラを操作する。
 レンズは沖に向けられていた。望遠レンズは遠くの光景を手もとにたぐり寄せる。うねりとうねりのあいだの距離がレンズによって圧縮されていた。巨大なうねりが、いくつも重なり合いながら、怪物のように、こちらへ向かっていた。恐怖に僕の両脚から力が抜けた。
 手前にレンズを向けなおし、焦点を合わせた。湾の入口でもっとも高く盛りあがって炸裂する波だ。波の高さは四十フィートを軽く超えていた。三人のサーファーが見えた。高くほうりあげられたり深く落ちこんだりしながら、彼らは波を待っている。落ち着いている。ひとつ、ふたつ、みっつ、と惜しげもなく、うねりをやりすごす。いくつまで数えただろう。あるときいきなり、「波が来る!」と、僕は夢中で叫んでいた。
 同時に、沖にいる三人のサーファーたちが、波をつかまえる態勢に入った。波がもっとも高くなるピークの地点で、三人は正確に波を迎えた。望遠レンズの視界いっぱいに、波がせりあがった。波の底辺が大きく広がり、そこを土台にして巨大な水の壁が、空に向けてのびあがった。
 増していく高さにあわせて、僕はレンズを上に向けていった。もう止まるだろうと思う地点を軽々と越え、容赦なく波は背をもたげた。底なしのエネルギーが膨大な量の水を、海底から空に向けて突きあげた。
 レンズの角度をあげながら、僕は心のなかで絶叫していた。重く分厚く、海底から突然に昇り出た山のように、波はそびえ立った。限度いっぱいの高さまでのびあがると、一瞬、波はそのままそこに静止するかに見えた。オフ・ショアの風に、怪物波の頂上は、白熱した飛沫のたてがみへと逆立った。
 風で波はその頂上を削り取られ、飛沫の幕が渦を巻いて空中に舞いあがった。そして波の彼方へ吹き飛ばされた。その白い飛沫の嵐を勇敢にもかいくぐり、波の頂上でサーフボードになかば立ちあがったサーファーが、淡いシルエットになって見えた。望遠レンズ越しに見ている光景が、僕の心臓をつかんではなさなかった。アルバート・イアウケアだ。立ちあがりかたで、すぐにわかった。
 立ちあがったときには波の頂上を越え、サーフボードの大部分が前方のなにもない空間へ突き出ていた。高さ五十フィート。陸からの風にボードごとあおられつつ、砲丸のように飛び交う飛沫に全身を叩かれ、サーファーは直滑降に入った。内側にえぐれこんでいる大波のスロープに、サーファーは自分のボードに両足でぴたりと吸いつき、逆落としに落ちていった。波の腹に白い航跡が鮮明に刻みこまれた。
 ロニー・カマイがアルバートに続いた。独特の強引なスタイルで飛沫のたてがみを突き破り、緻密な計算をひたかくしにして、委細かまわず魔のスロープに飛びこんだ。波の頂上にウエイン・ニシモトが姿を見せた。テイクオフをぎりぎりまでおくらせている。遅すぎる! ひき延ばしすぎる! ムーヴィ・カメラのファインダー・アイピースを目のなかに埋めこむようにして、僕は絶体絶命の悲鳴をあげた。
 ウエインがテイクオフした次の瞬間、空間に向かって逆落としになっている彼の背後へ、大波はその巨大な頂上から、おもむろに崩れこんだ。山としてそびえていた波は、頂上からの白い大爆発に変わった。爆発は裾野に向かって猛然と広がり、レンズの視界は白さでいっぱいになった。ウエインは爆発の内部へのみこまれた。ファインダーから僕は目をはなした。
 王者にふさわしくたっぷりと時間をかけ、身もだえのかぎりをつくし、波は平らに砕け落ちた。十メートルを超える厚みの、内部から白い噴出を繰り返し続ける段丘が、湾のなかへ入って来た。あと数十秒のちには、砂浜に自らを叩きつけ、草地を越えて這いあがりつつ息絶える運命だ。しかし、いまはそんなことなどいっこうに意に介さず、湾いっぱいに広がりつつまっ白に堂々と突進した。
 この冬で最大のワイメアの波の断末魔を目のあたりにしながら、僕はヘッドフォーンから聞こえて来るシュローダーの声を聞いていた。自分が乗っているヘリコプターのパイロットと、すぐ近くにいる僚機のパイロットに対して冷静に怒鳴り続ける指示は、聞いているだけで全身に鳥肌が立つほどに鋭く適切なものだった。


 いま太陽が地球の向こうへ沈もうとしている。落日だ。空がいちめんオレンジ色に燃えている。雲の多い夕暮れだ。雲の薄い部分から、夕陽が雲を射しつらぬいて来る。いまにも燃え立ちそうなほどに鮮烈な輝きを、薄い雲は放っている。厚い雲は灰色であったりくすんだ紫色であったりする。空いっぱいに濃淡さまざまに雲が埋めつくし、夕陽と雲のドラマが劇的に展開されていた。
 海は黒い。沖の波も、黒く盛りあがるシルエットだ。だが波が高く盛りあがると、水の壁は薄くなる。北海岸でも特に薄くなるところを選んだ。波の壁が半透明になり、うっすらと明るくなる。あと少しで水平線に接する太陽の光を、波の壁はなかばとおすのだ。
 太陽の周囲にだけ雲がない。燃える空に、ことのほか大きく、完璧に丸く、太陽が宙吊りだ。まわりの雲は、ハリウッドの美術監督が入念に作りあげたセットのようにみごとに、太陽をひきたてていた。沖の波にサーファーがいた。
 波は右から左へ美しく走り、きれいにのびあがって自らをチューブに巻きこみ、砕けていく。左へ左へと進みながら、波の壁がのびあがる。その波の斜面を、サーファーは限度いっぱいに飛ばしていた。波のスピードと互角の競争だ。
 波のスロープのなかほどを使い、淡いシルエットのサーファーは、アップ・アンド・ダウンを繰り返した。体重を乗せた鋭い切りかえしでスロープを軽々と上下しつつ速度をたくわえ、波よりも早く進もうと試みる。
 サーファーの頭上を越えて、波の頂上は水のアーチになって空中に突き出し、自らの裾野に向かって斜めに落下していく。この水のアーチに抱きこまれて、内部には楕円形の空洞が出来る。
 アーチが左に向かって猛烈なスピードで進む。空洞がのびていく。のびたぶんだけ、サーファーのすぐ後方で、アーチが崩れて閉じられる。閉じるとき、行き場をなくした空気が、ガラス玉のような飛沫を巻きこみながら、チューブの前方に噴き出て来る。サーファーは背後からそれを浴びる。
 サーファーはなおもアップ・アンド・ダウンを繰り返す。スピードを充満させて追いすがるチューブを振りきり、波の壁を彼はひとりで滑走した。ボトムへ降りていき、鋭いカーヴでターンをすると、いっきに波の壁のてっぺんに駆けあがった。頂上に到達したサーファーは、せりあがっている波の壁を征服した。舞い立つ銀色の飛沫をボードで空中へ蹴り飛ばし、波の頂上に躍り出た。
 丸い大きなオレンジ色の太陽を背景に、くっきりとした黒いシルエットのサーファーがサーフボードごと、空中に舞いあがった。燃える太陽のなかで、一瞬、サーファーは鳥のように飛んだ。サーフボードがきりもみしてさらに高く飛んでいき、サーファーは空中で両腕と両脚を広げ、二転、三転しつつ波に向かって落ちた。チューブが走り去り、波は崩れ落ちて平たくなり、黒い海の広がりの向こうにオレンジ色の太陽が静かな狂気をたたえて、ひとつ残った。映像はそこで終わった。
 スクリーンに黄色い四角が映った。数字や図形がたて続けに映り、ふたたび黄色い四角になった。部屋ぜんたいが、おだやかなスピードで明るくなっていった。拍手が起こった。僕も手を叩いた。
「いまのサーファーが、みなさん、ラリー・デイヴィスです。この夕陽とサーファーをとらえたワン・ショットは、今回の私たちの映画のなかで重要なモーメントとして使用されます。見事なパフォーマンスをしてくれたラリー・デイヴィスに感謝しなくてはいけません」
 監督のシュローダーが映写室からマイクでそう言った。ふたたび盛大な拍手があった。両手をあげてラリーは拍手に応えた。
「では次のショットを見ます。これも、おそるべきワン・ショットで撮ったものです」
 シュローダーは上機嫌だ。
 部屋の照明が暗く落ちた。ワイメアの大波がスクリーンに映った。望遠レンズで沖合いをとらえたものだ。巨大なうねりがいくつも重なり合い、スクリーンの奥からこちらに向けて突進して来た。この奇怪な生き物は波なのだということがわかって、部屋のなかにはどよめきが起こった。
 うねりは浅瀬に乗りあげ、四十フィートを超える高さまでせりあがり、そこで雄大に爆発して白く砕けた。底に近い部分のスロープを、ボードの上で美しくポーズをきめながら、ひとりのサーファーが必死で逃げていた。
 崩れた波は白い巨大な連続爆発だった。海面から少し距離を置いて浮かんだ凶悪な白雲のかたまりのように、湾の奥に向かって進んで来た。轟々たる海底のうめきを、視覚だけが頼りのいまでも、感じることが出来た。
 さらに浅瀬に乗りあげ、湾を右から左へいっぱいにふさいだ白い段丘は、巨大な爆発を続けながら湾の奥を襲った。砂浜に轟然と白い波が襲いかかり、人々は逃げた。逃げる人を手前に、そして白い大波をその背後に、望遠レンズは絶妙の重ねあわせでとらえていた。逃げる人のスピードと追いかけて来る白い怪物の速度の一致が、スクリーンを見る人たちを内部からしめあげた。
 海岸に自らを激突させた白い波は、高さがまだ十数メートルはある。分厚く横に広がりながら、波はハイウエイに跳ねあがった。停まっていた何台もの自動車に人々が逃げこみ、自動車はまるで機械じかけの蟻の子のように散り散りに走った。
 そこへ上空から波が襲いかかった。二台の自動車がおたがいに進路をふさぎあい、衝突した。そのわきを、ほかの車が全速力ですり抜けた。どの車をも一様に波が押さえこんだ。あやういところで波の牙を逃れ、こちらに向かって走って来る車があった。民家が、椰子の樹が、波のなかに抱きこまれた。
 そして一瞬のうちに、波は引いた。自動車がハイウエイ上にふたたびあらわれた。退いていく波に方向を変えられたりしながら、ハイウエイを自動車が逃げまどった。
「俺の右腕だ」
 シュローダーの太い声が、暗いままの室内にひびいた。
「俺の右腕であるカメラマン、スティーヴ・レイマーが、いま見たフィルムをワン・ショットで撮った。スティーヴがもし死ぬようなことがあれば、俺は自分の右腕を切り落とす」
 酔っ払ってはいるが気迫と誠意のこもったシュローダーの言葉に、重厚な拍手が長く続いた。
「さて。悲しいものをお見せしなくてはならない」
 静かになった室内に、シュローダーはおごそかに言った。
「悲しみは、ふたつある。ひとつは、若きサーファーのウエイン・ニシモト。もうひとつは、おなじくサーファーの、マイケル・ヘレアウカラニ。ともに死体としてお目にかけなくてはならない」
 スクリーンに灰色の空が映った。あの大波の日のワイメアの空だ。横あいからヘリコプターが飛んで来た。救助隊のヘリコプターだ。シュローダーが乗っていたヘリコプターから空中撮影したフィルムだった。
 くすんだ銀と黄色に塗り分けたヘリコプターは、胴体の下からワイア・ロープをまっすぐに垂らしていた。吊り下げている籠のなかに、ぐったりとふたつに折れた小さなものが、収まっていた。ウエイン・ニシモトの死体だ。あの大波からワイプアウトした彼は、海底の岩に叩きつけられ、頭を割られて死んだ。
 ウエインの死体を空中に吊り、ヘリコプターはワイメア教会の上空を飛び去った。続いて雨嵐の海が映った。このフィルムが撮影された日、僕はハワイ島にいた。撮影隊がハワイ島でも時間をかけて撮影するので、そのための最終的な調整に、僕は出かけていた。いろんな人たちから聞かされたマイケルの最期を、いま初めてフィルムで見る。
 サンセットのバックヤードで撮影されたフィルムが、スクリーンに映写された。雨嵐の海だ。僕はディーンとロジャーのふたりのことを思い出した。ふたりが行方不明になったあの朝のマウイ島の雨嵐が心のなかで二重写しになり、スクリーンを見る僕の気持は重くふさいだ。
 雨嵐は雷鳴をともなっていた。ときたま稲妻が画面に青白く走った。荒れる海にサーファーがひとり、出ていた。マイケル・ヘレアウカラニだ。スクリーンを見ている仲間のサーファーたちから、うめき声があがった。
 波と戦うマイケルは、普通ならちょっと乗れそうにない波に、何度か乗った。そして、何度目かに波の頂に立ち、亡霊のような飛沫の向こうからテイクオフしてボードに立ちあがった瞬間、雷に打たれた。
 マイケルは、両手を天に向かってのばしていた。そこを雷は直撃した。太い稲妻がほぼ一直線にマイケルを撃ち、波ぜんたいがまぶしく白く光った。まっぷたつになったサーフボードが空高く跳ねあげられ、舞った。風に吹き飛ばされ、高く盛りあがる波の彼方へ、散っていった。フィルムはあっけなく終わった。
 部屋が明るくなった。ロイヤル・ハワイアン・ホテルの、シネマスコープ映写設備を持つ、特別に豪華な造りの広い部屋だ。盛大な拍手が起こった。いま見たフィルムの内容と、自分をとりまいている部屋の違和感が、かろうじて僕を救ってくれていた。ジェニファーが僕の隣にいた。彼女は僕の腕を握りしめていた。
 撮影が快調に進んでいるため、監督のシュローダーはすっかり上機嫌だった。ラッシュ・プリントの一部分を、今夜、関係者全員に見せてくれた。このあと、おなじホテル内の別な会場で、パーティがある。
 廊下でシュローダーが僕の姿を見つけ、歩み寄って来た。
「よう、カネシロ。これで週末は大休暇だ。体をやすめて、来週からはハワイ島だな」
 差し出して来る彼の右手を、とにかく僕は握り返した。
 ホテルの広い庭を歩き、カラカウア通りに出た。クヒオ・ビーチパークのほうに向かって僕は歩いた。黙ってジェニファーがついて来た。夜の観光客たちのあいだを、僕は茫然となって歩いた。モアナ・ホテルの前を通りすぎたあたりで、ジェニファーが言った。
「誰もあの嵐の海に入りたがらなかったの。マイケルが志願したのよ。全員が制止したのに、マイケルはあの海に入ると言い張り、シュローダーはただ黙って見てたわ」
 海から吹いて来る風に、カラカウア通りの排気ガスの臭いがからみあった。
「あの歌の録音のときに、私はマイケルに不思議なものを感じたわ。ニシモト・カントリー・ストアに託して、マイケルの心は完璧に過去に向かってたみたい」
「いまだから、そんなふうに思うんだ」
「違うわ。あのときすでに、彼は現在を離れてたのよ」
 僕には反論は出来ない。したいとも思わない。いまの僕には、マイケル、ウエイン、そしてディーンにロジャーと、四人もの親友をたて続けに失ったという事実があるだけだ。
「シュローダーは有頂天よ」
 ジェニファーが静かに言った。
「嵐の海でサーファーが雷に打たれるシーンは、スペシャル・エフェクトでやろうとしたのですって。だけど本物が撮れたから。映画の最後に、重要な象徴として入れるのよ」
 シュローダーのこの波乗り映画は、十年の時間経過をはさんでいる。かつて若いサーファーだった男たちが、十年という時間が経過したのちに、昔の海で再会する。海は変わらずに海だが、自分たちは無残に変化してしまった。かつて自分たちが海の波に見た真理の象徴として、雷に打たれて波間に消えるサーファーが登場する。
「葬儀の手はずは整ったの?」
 ジェニファーが訊いた。
「映画の連中がハワイ島にいっているあいだに葬儀をおこなう」
 正式には葬儀ではなく、お別れの儀式だ。


 ニシモト・カントリー・ストアの跡地に、人々は正午から集合し始めた。僕もそのひとりだった。ミュージシャンたちが、たくさん来ていた。ハワイ音楽の長老や古参など、国宝級の人たちの顔も見えた。若いミュージシャンも大勢いた。
 風のある、快晴の日だった。残酷なまでに空は青く、山の頂に白く雲がとまっていた。大合唱が始まった。マイケルが残してくれた、『ニシモト・カントリー・ストア』の歌だ。全員が歌い、ミュージシャンが思い思いにソロをとった。自分の持ち味とスタイルを生かし、何度も繰り返して歌った。
 やがて人々は自動車に乗った。自動車の長い列がワイメアに向かった。白バイやパトロール・カーが先導し、上空には海軍と海兵隊、それに海難救助隊、沿岸警備隊のヘリコプターが、飛び交った。
 ワイメアの湾に出た。湾の上空を飛んでいたヘリコプターは、隊列を作って湾の入口から沖へ向かった。そして海へ花束を投下した。沖にいる沿岸警備隊の白い巡視艇が、快晴の海に長く引っぱって霧笛を鳴らした。
 海岸には鉄パイプと板で簡単なステージが作ってあった。ステージから波打ちぎわまで、二百本以上を超えるサーフボードが、砂のなかに立ててあった。さまざまな色のボードが、強い陽光にきらめいていた。
 ステージのまわりにサーファーたちが待っていた。ハワイじゅうのサーファーの、ほぼ全員が来ているはずだ。波乗りの大会のために世界各国から来たサーファーもいる。人々は海岸へ降りた。ミュージシャンたちがステージにあがった。
 ライヴァルどうしとして、いつもは絶対に顔を合わせないホノルル市長とハワイ州知事が、ステージの前にならんで立っていた。代表としてラリー・デイヴィスが、PAをとおして簡単な挨拶をおこなった。
「ワイメアに挑戦した親友。雷で天に召された親友。信じることに命を捧げた親友。忘れがたきアイランド・ボーイズのために、これから海に出て黙祷します」
 ミュージシャンたちが歌い始めた。古いハワイの歌だ。歌が、そして演奏が、北海岸の風に乗って海に運ばれた。サーファーたちが海へ歩いた。砂に立てておいたサーフボードを抜き、わきにかかえて波打ちぎわまで歩き、海に浮かべて腹ばいになった。いっせいに沖へ向かった。僕も海へ出た。
 今日は波がない。このところ、北海岸では波のない日が続いている。真夏とおなじだ。青い空の下にある一直線の水平線に向かい、サーファーたちが波間をパドリングで沖に出た。上空をヘリコプターがきれいな編隊で飛んだ。海の上のサーファーたちを追い越し、高度を下げ、太平洋に向かって頭を下げるような姿勢で、次々に花束を投げ下ろした。
 ハワイで花を栽培しているすべての農園が提供してくれた花だ。赤、青、黄色。そして、白。鮮やかな花が風に吹かれ、陽に照り映え、空から海へ舞った。
 陸から、『アロハ・オエ』の歌が、白い無数の波頭を渡って来た。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


アイランド・スタイル



[#改ページ]


 湾に月が昇った。暗い夜の彼方から顔を出した、丸く巨大でのっぺらぼうの月だ。海のなかから出て来たようにも思えた。まといついて自分を濡らす海の波を振りきり、月はひとりで夜空に浮かんだ。
 海から昇ったばかりの月は、狂気のように大きい。深内部で冷たく燐光が燃えさかっているような青さだ。夜の海がその青さを映した。無数に生まれては消えている小さな波の斜面が、さまざまに揺れ動きつつ、月光を照り返した。月から湾の入口に向かって、月光を反射させている波の道が、長くのびた。
 深い馬蹄形に陸へ入りこんでいる湾の両側に、岬が突き出ている。両方とも細長い岩山のような岬だ。北側の岬の突端をすれすれにかすめ、月は暗い海の上空に浮かんだ。湾の沖に向かって、岬のなかばあたりまで、遠浅が長く続いている。上空から見下ろしたら、月光に海底が透けて見えるはずだ。
 岬の先端からその沖合い百メートルほどのあいだに、湾の入口を南の岬から北の岬までぴったりふさぐように、数百メートルの長さの直線のうねり波が五本、おたがいに距離をとって沖から順に盛りあがった。月の光を受けて五本の波の峰が白く輝いた。
 沖から数えて三本目の波が、いちばん高くせりあがる。湾の中心からかなり南へ下がったあたりに、高さのピークが出来る。盛りあがって長い峰になった波は、そのピークの地点から、空間を内部に抱きこんだチューブ状の波になる。夜の南太平洋をうねって来て、ついに乗りあげた浅瀬の上で、夜空に向かい限度いっぱいまでせりあがりきった波は、前方の空間へアーチのように張り出していく。
 アーチのてっぺんから、陸風にあおられた白い飛沫が、たてがみのように舞いあがる。月光を受けて、その飛沫は白く燃えさかる火だ。まっすぐにのびた波の、南太平洋の広さにつながる外側は、海面ぜんたいが高さを増すようにせりあがる。海底にいる巨大な生き物が背をもたげるかのようだ。
 その波の、湾に面した内側は、自らの横腹を深く内部にえぐりこみつつ、星空へのびあがる。高さの限度をきわめたとき、波の頂上はその下に大きな空間を抱きこんで月光に輝きつつ、アーチとして夜のなかへ触手をのばす。
 えぐれこんでいる波のスロープの上空を、水のアーチは、初めのうち海面と平行にのびていく。やがて下へ向かって落ち始める。
 背中からまっ白い飛沫の幕を風にひきはがされては噴きあげつつ、高くのびあがった自分のスロープの裾をめがけて、重く落ちる。轟音とともに落下し、そこに白い爆発が起こる。
 裾に向かって斜めに落ちていくアーチは、深くえぐれているスロープと自分のあいだに、チューブ状の別世界空間を作る。一端のとがった楕円形を斜めに立てたような断面を持つチューブだ。
 スロープの裾に轟々と落ちながら、水のアーチは湾の北側に向けて走り出す。自分が作ったチューブを後方へ置き去りにしては刻々と閉じつつ、アーチは走る。せりあがった峰は、湾の奥にある夜の空間へ自らをほうり出すようにアーチとなり、そのまま湾の北へ向かってまっすぐに進む。
 チューブが出来始めた地点から、湾の北側の岬近くで最終的に閉じるまで、全長百五十メートルを超えるチューブが、生まれては消え、そしてまた生まれる。大海原の途方もないエネルギーの律動をともなった、規則的な繰り返しだ。月光に照らされた湾の沖に出来るこの波は、完璧な生物だ。
 南太平洋の広がりは、はるか遠い隅々にまで、その生命力をおよぼしている。その生命力が波のかたちをとってこの島と触れあうとき、海ぜんたいが永遠にかかえている生命力のほんの小さな一部分が、華麗に燃焼する。
 たとえばこの小さな湾の沖で、海のエネルギーが波のうねりとして浅瀬に乗りあげると、青い月光のもとでいまも繰り返されているとおり、百五十メートルのチューブ波が出来ては砕ける。
 砕けたチューブは海面上に高く段差を作り、平たくまっ白に吹きあがる波の段丘として、湾の奥へ突き進む。黒い遠浅の砂浜に自ら叩きつけて這いあがる。溶岩が細かく砕けて出来た、黒い砂の海岸だ。砂浜と草地が接するあたりに、椰子の樹の林がある。椰子の根もとまで薄く這いのぼった波は、力つきて引き返す。燃焼はこのときほぼ終わる。
 愛するサーフボードとともに、僕はいまひとりで湾の沖にいる。ボードにまたがって湾の入口に向き、海面に浮いている。手をのばせば届きそうなところに、狂った月が丸く青い。振り向くと、暗い底なしの海から、うねりが来る。細かな銀色のかけらを無数にぶちまけた海を、横に一直線の峰に盛りあがった波が、湾の入口に向かって来る。その波のスロープが月光を鏡のように反射させる。
 波は浮かんでいる僕に近づく。横に長い隆起が、黒く音もなく、のしかかって来る。視界がふさがれて沖が見えなくなった次の瞬間、僕はサーフボードごと高く持ちあげられる。すさまじい力で、僕は夜空にかかえあげられていく。
 高くほうりあげられたその頂点で、波がサーフボードと僕の両脚の下を通過していく。ほんの短い時間だが、無重力のように自分が軽くなる瞬間がある。その短い時間のなかで、湾の奥のすべてを僕は見渡す。
 陸からの甘い風が、濡れた僕の体を撫でる。僕を持ちあげた力は、湾の奥に向けてさらに進んでいく。
 僕は下へ降ろされる。圧倒的な量の水の広がりが、しっかりと僕を支えている。と同時に、前方の海面が斜めのスロープになって、せりあがる。スロープは角度を急にしていく。暗い海面が、水のありったけをひきつれ、壁のように立ちはだかる。視界は完全にさえぎられ、岸は見えなくなる。スロープの底にいる僕は、盛りあがる波をその背面から見上げる。
 横長にのびる波は、もっとも高くのびあがった頂点から、星空へいっせいに飛沫を放つ。月光を受けとめて冷たく銀色に輝く飛沫を中空に置き去りにして、波の頂点はアーチになって向こうの空間へのびていく。アーチの落下する重い音が、やがて聞こえる。
 湾の北へ走るチューブ波を、僕は後方から見守る。チューブの先端とともに、舞いあがる飛沫も北の岬に向かって走る。まっすぐな峰を中心に、海面が内部からふくらむように、斜めにせりあがる。数百メートルにわたってそれが続く。なにか奇怪な生き物が、湾の北に向けて海底を走り抜けていくようだ。
 不気味だ。月とその静かな青い光が、波の神秘さを増幅する。北側の岬に向かって走りきって、波は消える。チューブは閉じられ、峰は丈を低くし、やがて周囲の海面とおなじく平らになる。
 チューブが閉じたあとの、段丘状に高さを得た白い波が砂浜に向かう。湾の奥へいくにしたがって、その波は湾をいっぱいにふさぐ。そして黒い砂浜に乗りあげる。夜の暗さと区別のつかない漆黒の海岸が、まっ白になる。
 月が光を注ぐ。白い波はさらに鮮明に白く、砂浜のスロープに広がる。砂浜に吸いこまれるようにして白さが消えると、黒い海岸だけが残る。星空を背景に、椰子の林から高く飛び出ている一本が、くっきりと黒いシルエットだ。
 この湾に、いまのような波が出来るときのコンスタントな周期を、僕は知り抜いている。大きな波が来たあと、小さいのが三つ続く。月や星空、そして、海岸沿いの椰子の林を越えた向こうの山裾に点在する民家の明かりなどを眺めて、小さな波を三つ、僕はやりすごした。
 そのあと、ポジションを変えた。ボードに腹ばいになり、パドリングで前方に出た。着こんでいるヴェストとボードの表面が触れあい、キュッ、キュッと小さな音を作った。黒い林から一本だけ高く頭を出している椰子と、山裾にある真言宗のお寺の明かりを、直線で結ぶ。その直線の延長上に自分を乗せつつ前に出ていくと、波がチューブを巻き始める地点に自分を正確に置くことが出来る。
 横位置のライニング・アップには、湾の南北にあるふたつの岬を利用する。夜間用の、僕だけの目印がそこにある。いま月の位置はとてもいい。この湾の沖で、月とチューブ波との関係が密かに結ばれている。その関係のなかに僕が入りこむことによって、素晴らしい世界が僕だけのために作り出される。


 暗い海を僕は振り返った。ボードの上にのびあがり、遠くを見た。横に一直線のうねりが、こちらに向かっている。充分な高さ、そしてその底に秘めたパワーが、すでに感じられる。この波だ。これを僕はつかまえる。
 僕の全身に心地良い緊張が走った。ほどよくゆるんでいた感覚のぜんたいが、近づいて来る波を見て、いっせいにひき締まっていく。ボードに腹ばいになり、波の接近を待った。右肩越しに振り向いた。
 前面のスロープを銀色に輝かせ、夜の海そのもののような黒い隆起が僕に向かって来る。充分にひき寄せてからタイミングをはかり、僕は猛然とパドリングを始めた。波の上をボードが滑りだした。両腕から肩に、たしかな手ごたえがあった。
 波が僕に追いついた。ボードのテールから夜空に向かって、僕はいっきにほうりあげられる。脚から先に高くあがり、そのまま波の頂上へもんどり打つのではないかと、一瞬、錯覚が走る。次の瞬間、波の力は、僕の腹から胸のあたりにかかる。
 下から僕を押しあげる波の水量とそのパワーが、ものすごくうれしい。このうれしい瞬間から、時間は止まる。僕の存在を支えているすべての感覚が、一点に絞りこまれる。
 その一点で、僕はあらゆることを感じ抜く。
 星空に向かって高くほうりあげられながら、僕はパドリングに最後の力をこめる。背中の筋肉や腹筋が、絞りあげられる。波はなおも大きく盛りあがりつつ、湾の奥に向かって進んでいく。そのスピードとパワーの中心に僕は両腕を突きこみ、必死で水をかく。
 さらに波はせりあがる。前へ進む。その頂点に、波のスピードにおくれることなく、僕がサーフボードごとへばりついている。ボード越しに波のパワーを全身に感じる。高く、さらに高く、波はのびあがる。
 永遠のようにひき延ばされた時間のなかで、自分をとりまく海のすべてを僕は見る。僕をまんなかにはさみこみ、横に長い峰が一直線にのびている。峰が白く光る。高さを増しつつ、それは湾の入口に向かう。急激に傾斜が強まるスロープの頂上から見ると、黒い海面ははるか下だ。
 波がそのパワーの限度ぎりぎりまでのびあがったとき、無重力に酷似した世界が始まる。僕の顔に陸風が当たる。甘い香りを胸いっぱいに吸いこみつつ、僕は両腕を立て、利き足からボードの上に体を引き起こす。ほんの一瞬の出来事だ。ボードに立ちあがると同時に、陸風は波の頂上から水をはぎとる。はぎとられた水は、飛沫となって夜空に弾け飛ぶ。
 顔や胸に飛沫を浴びる。痛い。飛沫は月光を受けて内部から青く輝く。その飛沫の滝をボードで突き破り、中空に舞う無数のガラス玉のような飛沫に体当たりをくらわせ、僕はボードごと前に出る。ボードの前部に重心をかけ、内側へ深くえぐれたスロープの頂上から底をのぞきこむ。のぞきこんだおなじ瞬間、逆落としのテイクオフだ。
 ボードに乗って空中を飛んでいるようだ。体の両側を最後の飛沫が飛び去る。芳しい夜の空間だけが、僕のまわりに残る。スロープの底から、アーチになろうとする波の頂上へ、水の壁が力強くたくしあげられていく。その動きが、頂上にいる僕に見える。
 オーヴァーハングになりかかる波の、ほんのわずかしか水量のない頂上に、無重力のまま僕はいる。翼を得て高いところから空中へ飛び立った瞬間は、ひょっとしてこんなだろうか。全身の感覚が異次元のそれへと、早くも変化している。
 高くのびあがった波のエネルギーが、僕をそこに支えてくれている。ボードのスケッグが波にくいこむ。とたんに波のパワーが、サーフボードぜんたいにいきわたり、充満する。両脚をとおして、そのパワーは、僕の体に乗り移って来る。波とサーフボードと僕とが、ひとつにつながる瞬間だ。
 えぐれこんだ急スロープの波の腹を、僕はまっすぐに滑り降りる。降りながら加速でたくわえるスピードが、全身にみなぎっていく。ボトムまで降りてターンをする。いちばんスピードがついている地点でのターンだ。
 のびあがった波の壁は、僕の背後にそそり立つ。たったいま滑り降りて来た水の壁だ。ボトムに降りきった僕は、その壁に顔を向けた。連動して上半身がひねられ、腹を中心にして体重の移動がなかば本能的におこなわれた。ボードの右側のレールがしっかりと波にくいこんだ。ボードによって切り裂かれた波から、白い航跡が空中に放射された。
 ターンする方向に傾いたボードの上で両膝を曲げ、前に倒した体は波の面と平行に空間に張り出している。両腕を広げ、もう少しで波をなめることが出来そうなほどに倒れこむ。ターンしながら僕は頭上を見た。頂上からオーヴァーハングとして空中に突き出た波は、幅広くまっ白い牙をむき、僕にめがけて落下しつつあった。
 オーヴァーハングの先端から、飛沫が猛然と噴きあがる。その飛沫の奥から、のびあがりきって前に倒れる波の壁が、轟々と落ちて来る。落ちながら、湾の北へ向かって進んでいく。スピードに乗りきったターンから、そのままスロープをのぼった。裾から頂上に向かってたくしあげられていく水の動きよりも早く、僕はのぼった。
 ショルダーの上限で切りかえし、全身でローラーコースターに飛びこんだ。ショルダーの部分をいっぱいに使いながら、波の斜面をのぼったり降りたりを繰り返し、スピードをたくわえる。
 最初の切りかえしを終えたとき、巨大なオーヴァーハングが追いついて来た。そして僕の頭上に覆いかぶさった。月の光がさえぎられ、薄暗くなった。
 ショルダーを、僕は飛ばした。ボードの前部に体重をかけたノーズ・ライディングだ。頂上に向かってのぼっていく水のパワーに勝つため、ボードをスロープの下に向け続ける。たくわえた加速に体重を乗せてこうしているだけで、ショルダーを飛ばしていける。
 オーヴァーハングはアーチを作って僕の頭上を越え、左下に落ちた。すさまじい水量のアーチが、自らを波の裾野に叩きつける。重い轟音が巻きあがっているはずなのだが、もうなにも聞こえない。聞こえてはいるのだろうが、記憶に残らない。
 空間を芯のように巻きこみ、完璧なチューブ波が出来た。僕はそのチューブの内部にいる。ボトムから頂上へ水が上昇し続け、同時にチューブぜんたいが、僕とおなじ方向へ走っていく。楕円形のチューブ空間のなかで、僕は水のアーチを頭上に感じながら滑り続ける。
 うしろに引いた右脚にほんの少し体重を移す。ボードの速度がわずかに落ちる。そのすきをついて、頭上のアーチが前に出ていく。チューブのなかから僕はアーチを見上げる。月光を浴びたアーチの先端が、揺れながら青く光る。
 ショルダーの下部まで、僕はいっきに下がった。落下していくアーチに、もう少しで左肩を叩かれる。切りかえして、ショルダーの上部にあがった。頭のすぐ上を、分厚い水のアーチが左へ飛んでいる。
 右手を波の壁に軽く触れた。指にあたる波の力で、いまの自分のスピードやパワーを推しはかる。波のパワーも察知出来る。軽く波の壁に触れた右手で、波と自分との調和の度合いをさぐる。
 調和は完璧だった。アップ・アンド・ダウンの繰り返しでスピードをためこみながら、僕はチューブのなかを走る。波が抱きこんでいるチューブのなかに、僕も抱かれている。いまこの瞬間、ここにひとつあるだけの空間の内部に、僕は溶けこんでいる。
 故意にボードのスピードを落とす。そのとたん、僕は幻想の異次元空間にひきずりこまれる。斜めに立った楕円形のチューブが、僕の前方へのびる。まわりはすべて水だ。僕の左下からボードの下をかいくぐり、水は右側の壁を垂直に上昇し、頭上でアーチへと流れこむ。
 なんの物音も聞こえない極度の興奮状態のなかで、あるときは全身が視神経になり、あるときは自動バランス調整器のジャイロコンパスになる。チューブの奥に僕はいる。楕円形の出口が、前方にぽっかりと浮かんで見える。その出口から、月光がチューブのなかに射しこんで来る。チューブの外の、まだチューブになっていない波のスロープを、静かに無言のうちにきらめきながら、月光が走って来る。チューブの底を、壁を、そして天井を、月光が照らす。
 裾野から頂上へ高く巻きあがっては落下していく水の壁は、絶えず動き続ける無数の微妙な凹凸を持っている。そのどれひとつをも見逃すことなく、月光が洗う。銀色に白く、あるいは青く、チューブの内部が燐光に輝く。波が持つパワーの、もっとも中心的な部分に出来た異世界に、僕はいる。
 僕の後方で置き去りにされたチューブが、閉じられていく。後方で次第に低くなっていく水のアーチは、見えざる巨大な手で握りつぶされ、すぼんでいく。閉じこめられた空気は、うしろから僕に向かって押し出され、吹き出て来る。飛沫まじりのその風圧を、僕は背中や太腿の裏に感じる。
 ローラーコースターでスピードをあげる。前方へとのびていくチューブの先端に、僕は追いつく。と同時に、チューブは少しずつ小さくなっていく。北の岬に向かって湾の入口を走りきったこの波は、まもなくチューブを閉じる。
 左脚でボードの先端に重心をかけ、深く両膝を折る。頭を低くする。風に逆立った濡れた髪を、アーチがすれすれにかすめていく。すぼまりきったアーチが僕をつかまえようとする瞬間、ためこんでいたスピードとパワーのありったけを、僕はいっきに絞り出す。
 チューブの小さな出口をすり抜け、外の波のリップまで、跳ねあがる。壁のように立ちあがった波の頂上を突き破り、波の外に出る。飛沫が全身を包む。月光を正面から浴びて、どんな小さなものまで、飛沫のすべてが光る。まぶしい。光と水の渦のなかを、僕は波の向こうへ突き抜ける。
 夜の海のすぐ上に、大きな月が浮かんでいる。チューブを閉じきった波は、抱きこんでいた空気を爆発音とともに夜のなかへ解き放つ。すっかり低くなった峰が、さらに北へ走る。スピードを失ったボードの上に立ち、僕はそれを見送る。
 チューブ・ライディングは終わった。チューブのなかにいるあいだ、僕は絶叫のような叫び声をあげ続けていたように思う。実際に声を出したのか、それとも、心の底で叫んでいただけなのか。狂ったように丸い月が、僕を見て笑っていた。荒い呼吸を繰り返しながら、僕は静かに正気に戻っていく。


 月の位置が低いあいだに、僕はもう一度、チューブ・ライディングをおこなった。月が高くに昇ってしまうと、チューブの出口から内部の深いところまで月光が射しこんで来るという、神秘的な空間は楽しめなくなる。
 さきほどとほぼおなじだった。だが、寸分たがわずおなじ波は地球上にあり得ない。それに、ライディングする僕だって、さきほどの僕ではない。ライディングのかたちはほぼおなじなのだが、体験は完全に独立した別物だ。
 閉じたチューブの名残りが低い波の峰となって北の岬へ走っていくのを、僕は見守った。その僕に、月がけしかける。表情を崩さないままに不気味に笑っているような青く丸い月が、もう一度チューブに入れ、と僕に語りかけた。いまとおなじ場所にいてやるから、もうひとつだけチューブを体験しろ。月の大きな丸い輪郭と青い光が、僕をそんなふうに誘っていた。
 いったん少し沖に出てから、チューブ波をつかまえる地点まで、僕はパドリングで引き返した。黒い砂の岸に砕ける波の音が、風に乗って沖まで届いて来る。ボードに腹ばいの僕は、体を波に洗われながら、その音を聞いた。そして波を待った。
 湾に面している小さな田舎町の明かりが、夜の深い黒さのなかに、鮮明に輝く宝石のようだ。山裾の道路を、明かりの点がひとつ、動いていく。山の中腹に向かってのぼっていく自動車だ。林にさえぎられてその明かりは見えなくなり、しばらくしてかなり離れたところに、ふたたび登場した。
 夜の湾の広がりは、静かで堂々としている。海がたたえている水の量は、太陽の照る昼間よりも、はるかに多いように思える。そしてこの夜の海ぜんたいが、不思議な生き物になっている。サーフボードと僕を操るリズムは、その海の呼吸のリズムだ。
 僕がひとりだけ、その律動の内部にいる。今夜の海は僕を許容し、僕につきあってくれている。もし海が機嫌をそこねたら、僕などひとたまりもない。チューブ波の海底のことを僕は思った。チューブが出来る部分の水深は二メートルない。海底は珊瑚礁の棚だ。大根おろしのおろしがねを巨大に引きのばしたような岩棚だ。
 ワイプアウトして波に巻かれたら、海底に叩きつけられる。波ぜんたいで体を珊瑚礁に押しつけられ、さんざんに叩きのめされ、そしてひきずられる。その結果、人間の体がどんなふうになるか、僕は実際の例を何度も見ている。
 振り向いて見つめる暗い海の向こうから、波が来た。僕に接近し、サーフボードごと僕を高く逆落としのように、持ちあげる。僕は必死でパドリングする。波の高さのピークをつかまえてはなさないまま、波のスピードとパワーに負けないよう、腹ばいになった全身の力を振り絞った。
 そして両腕をボードに立てようとする瞬間、僕は音を聞いた。聞いたとたん、言いようのない戦慄が、全身をつらぬいた。あまりの怖さに体ぜんたいに鳥肌が立った。腕や太腿の鳥肌のひとつひとつに、水がひっかかるのがわかった。
 サーフボードとともに海に出始めてすでに十数年になる。さまざまな波を体験してきたが、いまのような音を聞くのは初めてだ。重い音だった。いつまでも体の内部に残響が宿るような、気味の悪い重低音だ。音は、明らかに海のなかから、聞こえて来た。海底から沸きあがる音だった。大きな岩が海底で動きだし、岩どうし何度かぶつかりあうような、そんな音だった。
 説明不可能な戦慄に全身がすくみあがりつつも、僕の体の反射的な動きに狂いはなかった。筋力を限界まで絞りきった最後のパドリングのあと、僕はボードに立ちあがった。立ちあがると同時に、ボードの先端に重心をかけ、オーヴァーハングの頂上を突き破り、空間へ飛び出した。
 飛沫を全身に浴びた。月光の乱反射で、自分の体が青白い光の発光体になったように錯覚する。その錯覚の一瞬、僕はふたたび音を聞いた。間違いない。その音は海の底から来る。重い音波が、サーフボード越しに僕の両脚に伝わるのを、はっきり感じた。
 見えない恐怖でしばりあげられたように硬くなった体で、深くえぐれてそそり立つ波のスロープに僕は飛びこんだ。自分のまわりに広がる夜の空間に、いつもなら五感のありったけが飛翔していく。だがいまは違っていた。感覚は僕の内部で臆病に小さく固まっていた。そしてその感覚は、恐怖しか感じていない。スケッグとテールが波の腹にくいこむ瞬間の、強烈な手ごたえと同時に、またあの音が聞こえた。
 海底の巨岩がふわりと浮きあがり、仲間の岩の上に落下するような音。海底よりもさらに深い、地殻のもっと奥の暗黒から聞こえて来るような音。あるいは、地底の秘密の場所には常に満ちていて、地殻に亀裂が走ったときにだけ海のなかにもれて来る奇怪な音。そんな想像が、ごく自然に沸きあがって来るような音だった。
 僕と美しい調和を保っていた海や波、それに月や星空が、一転して怖いものに変わった。サーフボードの下の海は、底なしの奈落だ。背後には巨大な夜の空間が、いつでも僕をのみこめるよう、大口を開けている。
 湾が急激に広がっていくように思える。すぐうしろに立ちはだかっている波の水量が、僕の気持を圧倒してこっぱみじんに砕く。星空が狂っている。青い月が哄笑している。
 チューブに入るのを、僕はとっくにあきらめていた。ボードに腹ばいのまま、ボードの先端に重心をかけきり、湾の奥に向かって波を一直線に滑り降りた。そのまま、いけるところまでいった。ボードのスピードが落ちてからパドリングを始めた。
 パドリングで岸に向かいながら、僕は振り返った。チューブが出来始める瞬間だった。落下して来るアーチの部分だけ、月光を受けとめてまっ白だ。胸の高鳴りを覚えずにはいられない、みごとなチューブの誕生の瞬間だ。
 だがこのチューブが、このときほど恐ろしく不気味に感じられたことはない。脱出せずにチューブに入ろうとしていたら、僕はかならずワイプアウトし、あのアーチの下で岩のあいだに押さえこまれ、波に叩きまくられていたに違いない。
 まっ白な砕け波が背後から来た。海底から僕をつかまえに来る、白い使者のようだった。白い段丘のようなその波になかばつかまったまま、僕は力まかせのパドリングを続けた。浅瀬のこのあたりになると、波の表面の水じたいも動いていく。それに乗って僕は岸に向かった。
 スケッグが砂をこすった。僕はボードに立ちあがり、飛び降りた。体のまわりを白い波はとおり越していった。サーフボードは黒い砂浜に乗りあげた。
 ボードをかかえあげ、波を蹴り散らして走り、砂浜に駆けあがった。黒い砂に自分の両足が白く見えた。砂浜を椰子の樹まで這いのぼった波は、力つきて引き返して来た。走る僕の両足を洗った。一度だけ海を振り返り、椰子の林のなかの道へ飛びこんだ。林の向こうへ抜けるせまい道だ。葉のあいだをもれてくる月光に、深い影が交錯していた。
 ビーチハウスでシャワーを浴びた。冷たい水に全身を叩かせながら、沖の波の上で聞いた音を僕は体の内部で反芻した。ひとまわり小さくなってはいるものの、波の上にいたときに感じたのと同質の恐怖が、僕の内部によみがえった。あの音は、いったいなにの音だったのか。素朴な疑問は、そのまま底なしの恐怖だった。なにの音にせよ、不気味な音だった。海底の雷鳴のような音だ。錯覚ではなく、たしかに聞いた。
 ビーチハウスの外でサーフボードをジープに積んだ。アメリカ陸軍払い下げのジープだ。見かけはおんぼろだが、エンジンやトランスミッションは、まだ壮年期に達したばかりのタフさだった。ジープに乗りエンジンを始動した。湾に面した町の裏側を抜けていく道路に向かって、僕はジープで走り始めた。
 月が正面にまわった。位置は少し高さを増していた。湾の沖で僕に語りかけたときよりも、ふたまわりは小さくなっていた。


 なだらかな丘の斜面は日本人墓地だった。平凡に起伏する斜面だ。しかし夜の暗さのなかでは、なにか特別なことのためにつくった土地のような、独特の雰囲気が生まれていた。湾のほうに向いて大小さまざまな墓石が立っていた。月の光を受け、どれもみな白く光った。
 丘と丘とのあいだを北にまわりこむと、眼下に河が見えた。遊覧船がのぼり降りする、幅のあるゆるやかな流れだ。河は銀色にうねりつつ、山裾の谷間に消えていた。
 コンクリートの橋を渡った。太鼓橋のように丸みのついた古風な橋だ。橋の上から見下ろす川沿いの小さな平野は、タロイモ畑だ。水田のような畑と重なり合うイモの葉が、ここでも濡れたように銀色に輝いて見えた。
 もうひとつ小さな橋を渡った。シダの葉の茂みの下に、まっ赤なアンスリアムの花がいくつも咲いていた。そのさらに下に、ささやかな地下水脈から流れ出た渓流が走っていた。
 道の片側に牧場が広がった。シルエットになっているユウカリプタスの並木の向こうに、牧草が月明かりに濡れていた。反対側は畑だ。キャベツが出来ている。地面にならぶひとつひとつのキャベツが、複雑な小さい影だった。
 風の香りや肌ざわりが変わった。標高のある谷間の風だ。湾からここまで、たいした距離ではない。だが高度はかなり増している。山裾をぬう道路は意外な急勾配だ。
 遠く眼下に湾が見えた。押し寄せて来る何本ものうねり波が月光に輝いた。月の位置が高くなったから、海ぜんたいが彫りの深さを失っていた。チューブ波が右から左へ、夜の彼方に可愛らしく走った。
 道路は二本に分かれた。分岐点の三角地帯にオヒア・レフアの樹が、何本も立っていた。深紅の花がいくつもついていた。ぜんたいをトゲで囲まれた、栗の実をまっ赤にしたような花だ。
 左の道にジープを向けた。このままさらにのぼっていくと、このジープを貸してくれたサンフォード・カマカニの家がある。サンフォードはもう六十歳を越える、ハワイ系の血を濃くひいた男だ。誰もが彼のことをパニオロと呼んでいる。
 パニオロとは、ハワイ語でカウボーイのことだ。僕がさきほど途中で見た牧場で、彼は少年の頃からカウボーイとして働いてきた。このあたりでパニオロといえば、サンフォード・カマカニのことだ。
 カウボーイであると同時に、パニオロはミュージシャンでもある。ハワイの伝統音楽に深く根ざした音楽をこよなく愛し、自分が生まれて育ったハワイに対する愛情を音楽で表現することに関して、いつだってたいへんな情熱を持っている。スティール・ギター、十二弦ギター、ウクレレ、ハワイアン・パーカッション、普通のギター、ベースと、手近な楽器はなんでもこなす、練達のミュージシャンだ。
 涼しい谷間の風に乗って、音楽が聞こえて来た。パニオロの家のテラスで、パニオロや息子たち、そして近くに住むミュージシャンの友人たちが、今夜も音楽を作っている。それが聞こえて来るのだ。
 パニオロたちの音楽が、夜の風のなかにふっと聞こえる瞬間を言葉で説明するのは、とても難しい。月光や風の香り、花の甘さなどに絶妙に溶けこんだその音楽は、人が作ったものとは思えない。ハワイの自然のなかに、太古の昔から生き続けてきた生き物のようだ。自分たちの音楽を、パニオロたちは、自分たちの島に対する永遠に変わらないラヴ・ソングだ、と言っている。
 道の行きどまりにパニオロの家があった。もともと樹が多いところへ、ハワイにある植物の全種類をパニオロが家のまわりに植えたから、うっそうたる熱帯樹林のなかに埋まるようにして、パニオロの家は建っている。
 木造二階建ての立派な家だ。まわりの自然に溶けこむよう、凝った部分はなにもないが、頑丈に素朴につくった建物には、独特の風格があった。昔、ハワイに宣教のために渡って来た宣教師の子孫が、住んでいた家だ。家の裏にはアヒルを飼う池もある。宣教師の子孫が事情あってアメリカ本土に帰ることになったとき、送別パーティで聴いたパニオロの音楽に感激し、彼にこの家を進呈した。
 家の前の、林に囲まれたスペースの奥に、僕はジープを停めた。そして家に入った。居間の籐椅子にカメハメハがいた。パニオロの家の、賢い飼犬だ。精悍な顔を僕に向けた。声をかける僕に、カメハメハはうなずいた。カメハメハというハワイ名をアメリカ人ふうに縮めると、キャームだ。この犬をキャームと呼ぶと、犬は知らん顔をしている。
 手すりのついた階段を僕は二階へあがった。そしてテラスに出た。パニオロといつもの常連たちが全員、テラスにいた。全員が合奏をしていた。少しはずれて、パニオロの奥さん、マティルダが、巨体を椅子に預け、音楽に聴き入っていた。
 テラスに入って来た僕を見て、マティルダは足もとのアイスボックスを示した。冷やしたビールが、大きなアイスボックスのなかにつまっていた。
 瓶入りのプリモを二本取り出し、僕は栓抜きで蓋を開けた。空いているアルミ・パイプの椅子をふたつ、テラスの端まで引っぱっていき、それにすわった。もうひとつの椅子は、両脚を乗せるためだ。谷間の涼しい風が、テラスに心地良く吹き渡った。星空を仰いで僕はビールを飲んだ。冷たさが気絶しそうなほど心地良かった。
 音楽を作り出している人たちを、僕は見た。中央にパニオロ。いまはスティール・ギターを弾いている。彼の左側に四人の息子たちがいた。キース。レイモンド。ハーバート、そしてアルバート。四人とも父親にそっくりだ。ハワイ系のたくましい体だ。キースがウクレレ。レイモンドがティプル。ハーバートとアルバートはギターを持っていた。
 サンフォード・パニオロ・カマカニの右側には、彼の古くからの友人がふたりいた。大きなウッド・ベースをギターのように膝にかかえて弾いている、白髪のハイラム・フォン。中国系の名前だが、彫刻のように美しく際立った顔に東洋は感じられない。その隣にマーカス・カアイラウ。体ぜんたいどこもかしこもまん丸に肥っていて、突き出た太鼓腹の上にギターを乗せている。彼もフォンとおなじく、パニオロの幼な友だちだ。
 マーカス・カアイラウの右隣に、ダナ・ホワイトフィールド。ほかの人たちとおなじく彼もハワイ屈指のミュージシャンであり、硬い張りのあるバリトンで歌うカントリー・ソングは、この二十年、地元のジュークボックスで人気を保ち続けている。ダナの隣に、パニオロのひとり娘、セシリア。母親のマティルダに似たポリネシア美人だ。
 半円形に椅子をならべているこの九人に向かいあうようにして、テラスのフロアにボブ・ラインハートが、あぐらをかいてすわっていた。ラインハートは有名な白人のミュージシャンだ。アメリカのさまざまな地域に土着している人たちの伝統音楽を掘り起こし、現代に生き続ける音楽としての力強さや優しさを、ポピュラーなかたちで紹介している。
 西海岸で仕事をしていたとき、僕たちのボスであるチャンピオン・サーファー、ラリー・デイヴィスと知り合い、パニオロたちの音楽をテープで聞かされて感激した彼は、いまこうしてパニオロの前で仲間に加わり、十二弦ギターを遠慮がちに弾いている。
 ラインハートはLPを一枚、作ろうとしている。パニオロとその音楽仲間に自分も加わったかたちで、現代のハワイ音楽を現地録音しようというのだ。録音のための器材やスタッフが、あと二日か三日で到着する。先にひとりで来たラインハートは、夜になると毎日、パニオロたちと合奏しては、彼らの音楽に溶けこむ努力を重ねてきた。
 おだやかな、優しい気持を持った男だ。アメリカの白人とはとても思えない。演奏技術も理解力も一流だ。そしてパニオロたちは彼を非常に気に入っている。作ろうとしているLPのプロデューサーは、ラインハート自身だ。ラリー・デイヴィスのオフィスが、全力をあげてこのプロジェクトを成功させようとしている。
 僕が二本のプリモを空けるまで、演奏と歌が続いた。
 音楽を作り出すとき、パニオロたちにはリーダーというものが存在しなくなる。おたがいに気心を知りつくしている連中だから、ハーモニーの素晴らしさは比類がない。ハーモニーは音楽の内部だけにとどまらない。彼らが音楽を作るときの状況、たとえばいまなら、星空、山から吹く風、花の香り、深い緑の樹々の匂い、島の夜ぜんたいの時間の流れ、太平洋のまっただなかで宇宙を仰いでいるという空間意識などに、彼らの音楽は完璧に溶けあって一体だ。
 ハワイの夜の、青い月明かりについての歌を、彼らは演奏し始めた。僕の大好きな歌だ。それを知っていて、誰かがリードしてこの歌の演奏を始めたに違いないが、いま誰がリーダーになっているのか、僕には見当もつかなかった。
 パニオロのスティール・ギターは神業のようだった。いまこのテラスの全員に降り注いでいる月光を音楽に変えたら、きっとこのような音になるはずだと誰もが確信する、そんな音色だ。マーカス・カアイラウやダナ・ホワイトフィールドのギターは、風だ。そして、ハイラム・フォンのベースは、かすかに聞こえて来る海の音。息子たち、それにセシリアの楽器が出す音は、花の香りであり、風に揺れて触れあう葉の音だった。
 このうえもなくゆったりした流れのなかですべての音が緊密にからみあい、ハワイのいまこの瞬間を、作り出していた。聴いている僕も、月光や風になってしまいそうだ。チューブ・ライディングのあとの心地良い疲労に、ビールの酔いが淡く重なった。あらゆる緊張が僕の内部で溶解した。
 男たちが合唱した。ダナが途中でソロをとった。僕のハートの内側を、彼らの歌と演奏が洗い流した。歌が終わった。フロアにすわっているラインハートが、振り向いて微笑した。椅子から立ちあがった僕は、ラインハートのそばへ歩き、そこにすわった。マティルダが全員にビールを配った。
「きみの友だちのチューブは、どんな様子だった?」
 ダナが訊いた。
「素晴らしかった。だけど最後に、じつに奇怪な音を聞いたんだ」
「奇怪な音?」
「海底で大きな岩がぶつかりあうような」
「海が喜んで声をあげたんじゃないかな」
レイモンド・カマカニが、言葉をはさんだ。みんなが笑った。
「だとしたら、海は僕をあんなに怖がらせたりはしない」
 海底から聞こえたあの音に恐怖を覚え、湾の沖から逃げ帰って来たことを、僕は語った。
「バリー。ほんとにあなたは、そんな音を聞いたの」
 マティルダが僕とラインハートの前まで来て訊いた。
「たしかに」
「どんな音だったの?」
 あの音から想像出来るイメージを、僕はマティルダに語った。
「ダンがいるといいんだがなあ」
 パニオロが言った。
 ダンもパニオロやマーカスたちの幼な友だちで、音楽仲間でもある。ダン・オヘロという。先祖代々、ハワイではカフナの職にあった家系だ。タヒチから双胴のカヌーでハワイに渡って来た人たちまで、家系をたどることが可能だという。自分でもカフナを名乗っている。ハワイの古い伝説や宗教儀式に非常に詳しい。
「そうね。ダンに訊けば、なんの音だかすぐわかるのに」
「こんど訊いてみよう」
 パニオロの息子たちが演奏を始めた。ダナがそれに加わり、やがてハイラムとマーカス、それにセシリアも加わった。セシリアが歌い始めた。めりはりの効いた涼しい声だ。途中からパニオロがスティール・ギターで入って来た。
 ラインハートはギターをかかえたまま聴き入っていた。風がテラスを吹き渡った。
「調子はどうだい」
 僕はラインハートの横顔に囁いた。
 ラインハートは僕に顔を向けた。おだやかな彼の顔を月が照らした。たとえようもなくうれしそうに、満足げに、彼は微笑していた。
「最高!」
 と、ラインハートは囁き返した。
 しばらくして、僕はその場に横たわった。あお向けになって無数の星を数えようとしていたら、他愛なく眠ってしまった。


 湾に面したこの小さな町は、いまのハワイに現存する古き佳きハワイとしては、最後のものではないだろうか。観光地としての開発はおどろくべきことにまだゼロだし、ホテルは湾のなかの小さな港の向かいに、木造二階建てのが一軒あるきりだ。町のメイン・ストリートは、湾のいちばん奥の部分に沿って、ゆっくり歩いても二十分とかからない短さだ。この短いメイン・ストリートが、町の中心になっている。
 町なみは時代を超越している。建物はまだほとんどが木造で、どれもみな相当の年代ものだ。戦前のものすらある。あまりにも古い建物は、ひなびた田舎町の風情をとおり越して危険ですらあるのだが、建て替えて新しくすることは、出来るかぎり控えられている。
 日没の時間、たとえばいまのように、メイン・ストリートの端に立って町の中心のほうを見ると、海に面した建物はくすんだ黄金色に染まり、海を背にした家なみは淡いシャドーのなかだ。
 人どおりが早くもなくなっている。だが店はまだ開いている。建物のたたずまいは一九二〇年代のハワイだと言っても充分に通用する。いくつかの看板に目かくしをすれば、一九〇〇年代と言ってもおかしくはない。タイム・マシーンで遠い過去に帰った気分になる町だ。
 ジープで走って来た僕は、町の西のはずれにあるショッピング・センターの駐車場に入った。空いているスペースにジープを停め、郵便局へいった。階段をあがった正面の壁に、私書箱がならんでいる。
 パニオロ宛てに届いている郵便物を、僕は箱から出した。奥さんのマティルダに頼まれたのだ。定期購読の雑誌が三種類に、ダイレクト・メールらしいものが何通かあった。
 ジープの運転席の下に郵便物を置き、僕はショッピング・センターを出た。町の中心に向かって歩いた。雑貨店の隣に玉突き屋があった。道路に面した古風な窓が、つっかい棒に支えられて開いていた。開け放ったドアに寄りかかり、地元のティーンエージャーが罐ビールを飲んでいた。
 いちばん奥の台で、ラリー・デイヴィスが常連を相手にローテーションをしていた。パニオロの自宅に、さきほど、ラリーは電話をした。空港から町の玉突き屋までヒッチハイクして来たから、車で迎えに来てくれと彼は言った。
 玉を狙って台にかがみこんでいたラリーは、顔をあげた。人好きのする顔の片側だけを使って、彼は微笑した。
「よう」
「ご苦労さん」
「チューブはどうだい」
 サーファーの言うことは、いつもきまっている。ふた言めには波の話だ。
「海に哮えられたというじゃないか。ほんとなのか」
「ラッセルが言うには、不吉な出来事の前兆だそうだ」
「あいつは、なんだって不吉な出来事にしてしまう」
 ラッセルはサーファー仲間のひとりだ。昨年から大学にかよいなおし、ハワイ史を勉強している。
「不吉な出来事ではあるけれど、ちっぽけな人間の個々の意志や運命を超越したスケールの出来事だと、彼は言ってた」
「そのうち空でも落ちて来るんだろう」
 冗談のような口をきいているが、ラリーはじつは真剣なのだ。湾の沖のチューブ波で僕が聞いたあの奇怪な音を、自分も聞いてみたいという。サーファーとしての熱意と好奇心に支えられ、彼はこの島へ来た。
 玉のコースを見るために台のまわりを歩きながら、
「そうだ。忘れるところだった」
 と、ラリーは、古びたフレンチ・ジーンズのポケットに手を入れた。折りたたんだ航空便の手紙を一通、引っぱり出した。台越しに僕に差し出した。
 日本のサーファーからだった。彼が日本からハワイの波を体験しに来ると、僕はいつも彼に会っている。空いている玉突き台に腰を降ろし、僕は手紙の封を切った。手書きしてある英文の手紙を読んだ。これが英文と呼べるかどうかは大いに疑問だが、彼が英語で喋るときのことを思い出しながら読むと、意味はつかめる。
 ハワイの波を讃える言葉と、ハワイや僕に対する懐かしさを表現する言葉が、最初の二枚のレターペーパーを埋めていた。本題は三枚目からだった。
 自分の友人の友人に、ハワイ音楽のバンドを作っている日本人青年たちがいる。本格的なハワイ音楽を熱心に演奏している彼らが、このたびハワイへ初めて旅をすることになった。あなたの電話番号と住所を教え、ぜひ訪ねるように言ってあるので、よろしく頼む。
 以上のような内容だ。パニオロたちに紹介したら楽しいだろう。僕はその楽しさを想像してみた。
「空が落ちて来る日時は書いてないかい」
 ラリー・デイヴィスが冗談を言った。
 玉突き屋で一時間ほどすごし、僕とラリーはショッピング・センターの駐車場まで歩いた。空も海も、そして町なみも、燃えるような黄金色だった。陽が沈むのだ。
 ジープでパニオロの自宅に帰った。玄関のポーチで利口なカメハメハが僕たちを迎えてくれた。居間にパニオロがいた。ボブ・ラインハートやジェニファー、それに録音のための技師たちもいっしょだった。録音スタッフと器材は、昨日、この島に到着した。
 ジェニファーがラインハートと腕を組んでいた。僕とジェニファーのつきあいも十年以上になる。このところ忙しさにかまけて、ジェニファーの相手をしていない。ジェニファーはラインハートの底なしの優しさに惹かれている。だから彼女はラインハートといつもいっしょだ。彼女はラインハートにまかせておこう。
「録音はここですることになった」
 パニオロが居間を示した。
「音響特性がものすごくいいんだそうだ」
「特別注文してスタジオをつくっても、こうはいかないよ」
 録音のいっさいに関する最高責任者、グレン・ペパマンがそう言った。グレンはたくましい男だ。陸軍官給品のくすんだオリーヴ色のTシャツの、両袖を切り落としたものを着ている。胸の厚みは岩のようだし、両腕の太くて節くれだった様子は、古代ハワイの戦士を思わせた。兵隊用の作業ズボンに重いブーツでしなやかに歩きまわる姿は、海兵隊あがりのタフでプロに徹した傭兵を連想させる。
 だが彼は録音のエキスパートであると同時に、優秀な音楽家でもある。現代音楽の傑作として後世に残るオーケストラ作品を、いくつも作っている。
「ここで録音するのはいいけれど、カメハメハをどうするかだな」
 と、パニオロが言った。
 この居間にある籐椅子が、カメハメハのお気に入りだ。大きな丸い貝がらを垂直に立てたような背もたれのある籐椅子だ。カメハメハはいつもその椅子の上にすわっている。
「いさせてやろう」
 グレンが言った。
「利口な犬だ。じっと黙ってろと言えば、そのとおりにしてるはずだ」
 録音器材の運びこみを、グレンは部下たちに指図した。居間からひとつ置いて隣の部屋が、エンジニアたちのコントロール・ルームになる。
 マティルダが部屋に入って来た。LPの録音のために自分の家に人の出入りが急に増えたから、マティルダはうれしくてたまらない。子供たちも久しぶりに全員揃っている。
「若い男の人が家のなかに何人もいると、エネルギーがみなぎって素敵よ」
「俺だって若いぞ」
 パニオロが言った。
 マティルダは、
「おいで」
 と、ジェニファーを招き寄せた。歩み寄った彼女の肩に腕をまわし、
「もうひとり男の面倒が見られるんだったら、この男の人、あなたにあげる」
 と、パニオロを示した。
 腹が少し出ているが、パニオロは風格のある美丈夫だ。冗談に乗ったジェニファーは、品定めをする好色な目つきでパニオロを見た。
 グレンがマティルダの耳に口を近づけて言った。
「録音スタッフにオカマがひとりいるから、パニオロはそいつにまかせましょう」
「よし、それでいこう。マティルダ、きみの口紅とタヒチで買ったフランス製のパンツを貸してくれ」
 パニオロの言葉に全員が笑った。
 僕とラリーはパニオロといっしょに二階へあがった。そしてテラスに出た。東西そして南と、三つの方向にテラスが四角く張り出ている。おたがいに段差のある、凝った造りだ。このテラスをひとまわりすると、ここは山の中腹だということがよくわかる。北を見上げると、深い森に覆われた険しい山なみが、のしかかるようにそびえている。平らな土地が家の東西に広がっているが、これは背後の高い山から出ている一本の谷の底なのだ。
 西にも東にも、背後の山からのびている山脚の尾根が長く盛りあがりつつ、山裾を下っている。目に入る風景は、人間の手によって加工された部分のまったくない、手つかずの自然だ。西に面しているテラスに、僕とラリーはあがった。風に吹かれながら、しばらく山なみを眺めた。
「ここが人工の保養地になってしまうのか」
 風に向かって自分の嘆きをつぶやくように、ラリーが言った。
「やめておけばいいのに」
 一年をとおして涼しい風の吹くこの高原が、ついに観光開発事業の攻撃目標になろうとしている。ハワイの政治や経済をコントロールしている大企業のひとつが、このあたりの広大な土地を所有している。湾をヨット・ハーバーに変え、町はブティークやレストランのならぶスーヴェニア・タウンに変貌させる計画も含めて、高原に高級保養地としての施設を徹底的に整えるという大計画が、すでに完成している。政府の正式認可も取りつけてあるという。
 極秘裡に進行したこの計画の一端が初めて明らかになったのは、この谷間の高原に住む住民たちに退去明け渡し命令が届いてからだ。パニオロのところにも、一通の命令書が届いた。期限が明示してあった。あとひと月もすれば、その期限が来る。パニオロが所有しているのは建物だけであり、土地はその大企業の傘下にある不動産業者から、借りている。適当な予告期間を置けばいつでも明け渡しを要求することが出来るという項目が、契約書のなかにある。
 立ち退きを命じられている住民は、独立して別のところに住んでいるパニオロの子供たちを含めて、百人をわずかに超えるだけだ。パニオロのようなハワイ系の、どちらかといえば低所得の人たちがほとんどだ。
 パニオロの家は、保養地計画の東端にある。西側には来週にもブルドーザーが入って来る。民家を取り壊し、建設作業車のための道路づくりがスタートする。
 サーファーのラリー・デイヴィスはこの島の出身だ。彼のオフィスを拠点にして抵抗運動が組織され、運動を展開中だ。だが計画を知るのが遅すぎ、そのことは運動の立ちあがりにとって決定的に不利だった。
「バリー」
 ラリーが言った。両腕を広げて目の前の風景を示し、
「見おさめだ」
 と、彼は言った。


 北の岬のなかほどから、僕たちは湾を見ていた。空がまっ青だ。岬の上空に、岬のかたちのままに、白い雲が浮かんでいる。まぶしく銀色に光る雲だ。
 湾の海底が透けて見える。浅い部分の海水は淡いグリーンだ。海底にある岩のひとつひとつが、手にとるようにわかった。いきなり深くなる珊瑚礁の棚の縁が、直線になって湾の沖を南から北へふさいでいる。海の色がその部分で急に深いブルーに変化している。これも一目瞭然だ。
 沖から波が来る。直線の峰が海面上を走るように湾に向かい、浅瀬に乗りあげ、高くのびあがる。そしてチューブ波へと、自らを巻きこんでいく。美しい光景だった。ぜんたいの、すべてが、美しい。
 水平線。その上空に積み重なっている、たくましい雲。海原の広がり。青い空。充満している鮮烈な太陽光線。白いアーチを逆落としにしてこちらへ走って来るチューブ波。湾内の浅瀬。黒い砂の海岸。椰子の林。その向こうに見える町なみ。山裾のスロープ。深い谷間。牧場。畑。そして、そういったものすべての背後にそびえている険しい山の量感。そこにあるべきものすべての、あるがままの姿は、やはり美しい。
 岬の足場に僕は三脚を立てた。望遠レンズをつけた一眼レフ・カメラを三脚に取り付け、チューブ波に焦点を合わせた。チューブはいつに変わらぬ見事さだ。少し強いオフ・ショアの風を正面から受けて、波のスロープは鏡のように滑らかだ。
 空間に張り出して来る水のアーチが、今日は分厚い。風に押し戻されるため、アーチの張り出していく速度はいつもよりわずかに遅く、そのためにアーチの内部に粘りのあるパワーが張りつめる。
 僕はファインダーから目を離した。かたわらに立っているボブ・ラインハートを見上げた。ラインハートの栗色の髪が風に吹き乱れた。
「見えるかい」
 彼が訊いた。
「見える。素晴らしい」
 僕はラインハートと位置を変わった。そして両腕を高くあげ、湾の沖にいるラリー・デイヴィスたちに合図を送った。赤、白、そして黄色のサーフボードにまたがって、ラリー、ジェニファー、そしてパニオロの美しいひとり娘セシリアが、沖に浮かんでいた。
 高い波が沖から進んで来る。振り返って僕たちを見ていたラリーが、パドリング開始のポイントまで出ていった。
「最初にラリーがチューブに入る。そのままカメラを動かさずに見ていれば、彼のチューブ・ライディングのすべてが見える」
 ラインハートは、ファインダーに目を押しつけていた。
 波が近づいた。ジェニファーとセシリアがその波をやりすごした。珊瑚礁の棚に激突して行き場を失い、空中へふくれあがっていく波の背面で、ラリーが完璧に波と一体になったパドリングをしていた。
 のびあがりきった波の頂上でボードに立ちあがったラリーは、上体をのけぞらせて陸風をやりすごし、次の瞬間、ボードの先端に体重をフルに移し、テイクオフをおこなった。風にあおられて舞いあがる飛沫の内部に、ラリーの体は隠れた。赤いサーフボードの先端が突き出て来て陽にきらめき、両腕を広げて腰を低くしたラリーが、スロープの頂上に出て来た。
 チューブ波が進む方向に向かって斜めのテイクオフだ。スロープを斜めに切り裂き、ボトムめがけて滑降して来る。ボードのテールからまっ白い航跡がのび、アーチになろうとする頂上へ急速にたくしあげられ、巻きこまれていく。陽焼けしたラリーの体が波に濡れ、陽に輝く。
 華麗さとパワーをみごとに融合させたターンで、ラリーはボトムをえぐり取った。飛沫が噴水のようにあがるなかを、垂直に近いスロープを下から上へ、ラリーはのぼった。リップまであがっていき、叩き返してよこす水の力を完全に利用し、すさまじい反転をこなしてショルダーに飛びこんだ。見なれている僕でさえ、思わず声をあげる。
 ラリー・デイヴィスは、生きながらにしてすでに伝説のチューブ・ライダーだ。波のパワーに対して果敢な挑戦を限度いっぱいにおこなうことにより、波のパワーをフルに引っぱり出す。そしてそのパワーを、ほかのサーファーの誰にも真似の出来ない流麗さと力強さとで、常にイマジネーションに満ちたチューブ・ライディングにと、転換させていく。
 こちらの岬に向かって走って来るチューブを、カメラの望遠レンズは真横よりやや波の前面にまわった角度から、とらえている。チューブの内部にすっぽりとおさまったラリーが、チューブを相手に抜きつ抜かれつする様子を、ラインハートは望遠レンズで目の前に見た。
 絞られて次第に小さくなるチューブの出口に、ラリーの姿が見えた。チューブが閉じるときの飛沫とともに、ラリーはチューブから絞り出されるように飛び出し、二度とおなじものは体験出来ないこのチューブに別れを告げるようにポーズをきめ、波の外側に出ていった。
 このようなサーフ・ライディングの現場を、ボブ・ラインハートはいま初めて見る。ファインダーから目を離して立ちあがり、僕に顔を向けたラインハートは、
「なんというパフォーマンスなんだ!」
 と、叫んだ。
 ラインハートが持っている柔軟な感受性の深さが、彼の表情に出ていた。伝説のチューブ・ライダーのパフォーマンスに、彼はたったいま、心臓をわしづかみにされた。
 次のセットではジェニファーがチューブに入ってみせた。強引なテイクオフのあとは、すんなりとチューブのパワーにしたがっていた。続いてセシリアも、ライディングを見せた。チューブに入ってからチューブがなくなるまで、彼女はハング・ファイヴしたままだった。
 南太平洋とこの小さな島との決定的な触れ合いの瞬間の深内部に、どのチューブ・ライダーもその生き身を置く。その体験の素晴らしさに、ラインハートは声もなかった。頭上で椰子の葉が風に鳴っていた。
 パニオロの家に泊まっている全員が、その日の朝は早くに起きた。キチンで朝食をとった。好みの果物のジュースを大きなグラスに注いで飲み、この四十年ほどパニオロが好んで食べているという、ドッグ・フードのような乾パンをみんなでかじった。カメハメハも僕のそばでいっしょに食べた。量も種類もある朝食をマティルダは作りたがったのだが、朝食はそれだけで簡単にすませた。
 すぐに僕たちは出かけた。ジープやほかの自動車に分乗して現場に向かった。淡い朝霧が、しっとりと高原を覆っていた。霧の向こうから、小鳥の鳴く声がさかんに聞こえた。風の冷たさが心地良かった。黒い砂の海岸までいったん下り、海沿いにしばらく走ってから、山に向かって山裾のスロープをのぼった。
 途中にパトロール・カーが一台、停まっていた。警官がひとり、ドアにもたれて立っていた。すぐ前を走り去る僕たちを、警官は無表情に見守った。
 パニオロの家とおなじくらいの標高がある谷間の高原に、やがてのぼりついた。古い木造の民家が、深い熱帯樹林に埋もれるようにして、そこかしこに見えた。保養地計画によって立ち退きと明け渡しを命令されている民家だ。いちばん高い地点にある家に、僕たちはまもなく到着した。せまい道路の片側に、自動車が一列になって何台も停まっていた。
 抵抗運動を押し進めている人たちの大部分がすでに来ていた。庭にたたずんだり、すわったりしていた。樹に囲まれて、いまにも崩れ落ちそうに見える板張りの小さな家があった。家というよりも小屋だろうか。保養地計画を進めている企業側に言わせると、「各種の見地からしてまことに好ましくない貧民窟」だ。
 素人大工があちこち板を打ちつけたり、つっかい棒をしたりして補修したその住居は、たしかにいまの文化住宅のように小ぎれいではなかった。だがプラスチック細工のような文化住宅には絶対に見られない、住みこんだ年輪と温かさにあふれていた。
 家のまわりに雑然といろんなものが置いてあり、高床式のフロアの下は犬や猫、ニワトリの小屋であると同時にありとあらゆるガラクタをつめこんだ物置きだった。建物ぜんたいに、薔薇が何重にもからみあっていた。赤い花が無数に咲いていた。雲の切れ目から明るい陽が射した。薔薇の花が陽に輝いた。
 抵抗運動の人たちは、そろいのTシャツを着ていた。「ハッピー・ヴァレー・アライアンス」(幸せの谷間同盟)という言葉を、赤とブルーを使ってきれいにデザイン化したTシャツだ。古くから住みついている人たちは、この高原の谷間をハッピー・ヴァレーと呼んでいる。それにちなみ、抵抗運動はハッピー・ヴァレー・アライアンスと呼ばれることになった。ラリー・デイヴィスがその命名者だ。
 建物の正面の階段の上に、ジョー・カラマが姿を見せた。この家の主人だ。小柄で細身の、柔和な顔をした老人だ。ハワイ系なのだが、ヨーロッパの血が多く混じり、陽焼けした端正な顔立ちにしわが深い。白髪で、足もとが少しおぼつかない。
 ふたりの息子が両側から父親を支えた。そのうしろにジョー・カラマの奥さん、ビアトリスが顔を見せた。庭に集まっている人たちに彼女は手を振った。家のなかに冷たいチェリー・パンチがたくさん用意してあります、とビアトリスは可愛い声で言った。
 今日、朝の七時に、最初のブルドーザーがここへ来る。ハッピー・ヴァレーのもっとも標高の高いところにある、ジョー・カラマの家から取り壊しと整地を開始する。抵抗運動があることを企業側は知っているから、何人かの警官もいっしょに来るだろう。
 あと一時間足らずで七時だ。建物に横長の幕が張り渡された。白地に赤く、「ここは私たちの家だ。誰も私たちを追い払うことは出来ない」と、染め抜いてあった。幕が朝の風にはためいた。染め抜いてあるシンプルな真実が、奇妙に説得力を失っていた。
 抵抗運動が最大限に成功しても、住居の取り壊しがせいぜい何日か延期されるだけだろう。敗北はたしかな予感として、誰の胸にもあった。新聞記者がひとり、フリーランスのカメラマンをつれてやって来た。それに続いて、録音機械を肩にかけたラジオ局の人が、抵抗運動の取材に来た。
 景気をつけるため、僕たち何人かが建物の屋根にあがった。ブルドーザーが取り壊しを開始しても僕たちは屋根から降りない、と記者たちに向かってステートメントを発表した。ジョー・カラマとビアトリスを両腕に抱き、階段の上からラリー・デイヴィスが演説をした。
 抵抗運動の書記を務めている若い女性が、一枚の大きな絵を披露した。ハッピー・ヴァレーの住民たちがここを追い出されてから収容される予定になっている、高層アパートメントの写真から起こした絵だった。のっぺらぼうな平たい四角の、高い建物だ。建築費を極限まで切りつめた設計および造りだから、無数の窓と小さなテラスがコンクリートの壁面に殺風景にならぶだけの、悪い夢のようなアパートメントだ。
 ハッピー・ヴァレーの素晴らしい環境を強制的に捨てさせ、こんな高層ビルに追いこむなんて精神的な殺人行為だ、と彼女は演説した。さかんな拍手があった。ブルドーザーの重いエンジン音が、スロープの林の下から聞こえて来た。
 全員に緊張が走った。ラインハートのギターが鳴り始めた。合唱が始まった。『ニシモト・カントリー・ストア』の歌を、みんなが歌った。レコードになってハワイ全土でいまもヒットを続けている、あの歌だ。
 両側を林に囲まれた道路を、黄色いブルドーザーが重くのぼって来た。全員の合唱がそれを迎えた。数人の制服警官が、ブルドーザーのうしろにしたがっていた。
 全員がブルドーザーの前に立ちふさがった。庭まで入って来て、ブルドーザーは停まった。エンジンが停止した。ラリー・デイヴィスが、ブルドーザーに歩み寄った。ラリーのうしろに、雇われた喧嘩屋のような雰囲気を濃厚にただよわせたグレン・ペパマンが、立った。警官が遠まきに見守った。
 ブルドーザーのオペレーターは、肥った白人の男性だった。居心地悪そうにグレンに視線を向けながら、彼はラリーとやりとりをおこなった。
「どこで生まれたんだい、あなたは」
 ラリーが訊いた。
「この島。西側だけど」
「島育ちかい」
「そう」
「きみがほんとうの島育ちなら、いまここでブルドーザーの向きを反対にし、帰っていくはずだ」
 オペレーターは頬をふくらませた。火の消えた短い葉巻きを唇の右端から左へ移動させ、Tシャツがはちきれそうになっている腹を揺すった。
「言いたいことはわかるんだけどね。しかし俺は、会社に雇われて仕事をやってるわけで、今朝の仕事はこのおんぼろ小屋を壊すことなんだ」
「これがおんぼろ小屋なら、きみはなにかい、宮殿にでも住んでるのか」
 ラリーのうしろでグレンが大声で笑った。
「宮殿ではないね、いまのところ」
「帰ったらどうだ」
「私は仕事をしに来たんだから。法律的にはなんの問題もないんだ。書類も揃っている。見せようか」
 企業側が法律的に完全武装しているのは、僕たちもよく知っている。住民代表が市長に直訴したとき、
「私の力ではもはやどうすることも出来ない。いま私があなたがたの思いに加担すれば、ハワイで進行中のいっさいの開発や発展に、私はストップをかけなくてはならない」
 と、市長は言った。
「もう一度だけ言おう。帰りなよ」
「仕事をさせてくれ。俺は何度でも言うよ」
「よし。では、仕事をしたらいい」
 ラリーは建物を手で示した。
「屋根に人がいるじゃないか」
「危険は承知で屋根にいるんだ。無視すればいい」
「怪我させるのはいやだからね」
「おどかせば降りるよ」
「おどかす?」
「建物にひとまずブルドーザーをぶつけてみるのさ。今朝の仕事がいい仕事がどうか、ぶつけてみればわかるよ」
 ブルドーザーのオペレーターは葉巻きを噛んで考えた。屋根の僕たちを見上げ、まわりの人々を見渡した。決断は早かった。仕事を請負っている建物取り壊し業者は、おそらくこんな気性の作業員を選んで、送りこんで来たに違いない。エンジンをかけ、ギアを入れた。ブルドーザーは建物に向かって動き始めた。
 ジェニファーが写真を撮っているのが、屋根の僕から見えた。人々が左右に退き、ブルドーザーのために道をあけた。ブルドーザーはスピードをあげて建物に向かった。
「NO!」
 誰かが鋭く声をあげた。
 ブルドーザーは正面の階段に、建物破壊用の鉄の歯を衝突させた。木材のへし折れる音がし、階段が半分ほどゆがんで持ちあがった。建物ぜんたいに衝撃が走った。屋根の上で、僕たちは姿勢を低くした。
 ブルドーザーは後退し、エンジンのうなりをあげ、ふたたび建物に向かった。さきほどよりも激しいショックが、古い建物を揺るがせた。誰か女性が悲鳴をあげた。
 見守っていた人の輪から、男が走り出た。ジョー・カラマの長男だ。ブルドーザーに駆け寄り、運転席にのぼりついた。ふたたび悲鳴があがった。
 なにか叫びながら、警官たちが鋭くブルドーザーへ走った。カラマの次男が反対側からブルドーザーに飛び乗り、兄といっしょにオペレーターを押さえこんだ。警官たちが三人をひき離そうとし、その背後から人々がいっせいにのしかかった。
 朝の明るい陽のなかで、ジョー・カラマの家の庭は大混乱におちいった。警官を中心に殴り合いになった。二、三人の警官が、大声で人々を制しつつ警棒を抜いた。
 結局、ジョー・カラマの息子ふたりと、ほかに男性が三名、逮捕された。彼らは警官に連行された。ビアトリスが女性たちに抱きかかえられて泣いていた。ポーチの上に立ちつくすジョー・カラマは、声もなかった。
 前部を階段に食いこませたまま、ブルドーザーは動かなくなっていた。騒ぎにまぎれて、誰かがエンジンの電気系統を素早く巧みに破壊したのだ。オペレーターがエンジン・フードを開いてあちこちいじっていたが、ブルドーザーは重く静止したままだった。

 午後まだ早い時間に、逮捕者たちは釈放された。保釈金を弁護士に持たせ、ラリー・デイヴィスが警察へ出向いた。近くの公園の噴水にすわりこみ、ラリーと逮捕者五名は記者会見を受け、新聞社のカメラマンたちに写真を撮られた。
 全員でパニオロの家へ帰った。居間では録音器材やマイクの設置がおこなわれていた。ダン・オヘロが来ていた。ハワイ系以外の血は入っていないという男で、パニオロたちの幼な友だちであり音楽仲間である。居間の奥にひとりで椅子にすわり、スラック・キーでギターを弾いていた。遅い昼食のあと、僕とラリーそれにラインハートとジェニファーは、ダン・オヘロにつれられて、山にのぼった。
 ダン・オヘロの家系は、タヒチからハワイに来たときすでに僧侶だったという。大地を司る神の代理を務めていたといい、ダン自身、僧侶を自認している。ハワイの古事や宗教に関するあらゆることを、彼は正確に詳しく知っている。
 途中までジープでいき、そこから先のせまい急坂の道を、歩いてのぼった。険しい山を見上げると尾根の頂上に、ヘイアウがあった。
 石を積みあげて四角に囲ったもので、小さな建物の土台だけが残っているように見える。ヨーロッパと接触する以前のハワイの遺跡のひとつだと、ダン・オヘロは言う。
 山からスロープの下に向かって強い風が吹いた。ダンはヘイアウのなかに立ち、ひとりで儀式をおこなった。ハッピー・ヴァレーでの今日の出来事を、神に報告するのだという。儀式のあと、ダンは僕に言った。
「バリー。きみが聞いた音だが」
「はい」
「夜、湾の沖で、海底から聞こえて来たという音」
「はあ」
「その音は、前兆だ」
「波乗りの友人に、大学でハワイ史を勉強している男がいるのです。その男も、そう言ってました」
 ダン・オヘロはうなずいた。海を見た。青い空に白い雲、そして輝く海、まっすぐな水平線。海は今日も変わらない。
「たしかに前兆だ」
 ダンは言った。
「なにが起こるかは、私にはわからない。しかし、なにが起こってもいいように、覚悟だけはしておこう」
「友人は不吉な前兆だと言ってましたが」
「そこまでは言いきれないだろう」
 ラッセルが本で学んだことよりも、堂々たる体格のダン・オヘロがヘイアウを背におごそかに言う言葉のほうを、僕は信じた。

 パニオロの家の居間では、録音のための準備が進められていた。マイクロフォンのセッティングをほぼ終わり、テープをまわして試験録音しつつ、最後の調整がおこなわれた。
 パニオロの音楽仲間が全員、顔を見せていた。ハイラム・フォンやマーカス・カアイラウ。ダナ・ホワイトフィールドに、彼とよくデュエットで歌う女性、ダイアナ。パニオロの四人の息子たちも揃っていた。
 パニオロたちは、いつもとまったく変わりない、くつろいだ調子だ。録音スタッフはプロフェッショナルらしく緊張していた。グレン・ペパマンは局地ゲリラ戦の指揮をとる、冷徹な傭兵の雰囲気をますます濃くしていた。
 ボブ・ラインハートが僕に歩み寄り、うれしそうに言った。
「LPのタイトルがきまった」
「ハワイアン・ゴールデン・ヒット大全集」
 ラインハートは笑った。
「アイランド・スタイル、というんだ」
「アイランド・スタイル、か」
「いいだろう。録音は明後日からだ。ハッピー・ヴァレーからの音楽、と副題がつく」
「なるほど」
「ジェニファーといっしょに考えたんだ。いろんなアイディアが出たのだが、結局、これがいちばんいい」
 演奏しているパニオロたちを、ラインハートは示した。
「彼らはまさに、アイランド・スタイルだから」
 ラインハートの意見に、僕は全面的に賛成だった。
 パニオロの次男、レイモンドといっしょに、僕は家の外へ出た。これから島の北側にある空港まで、ホームシック・アイランド・ボーイズというハワイ音楽のグループを迎えにいく。東京にいる日本人の波乗り友だちから、カセット・テープと手紙が数日前に届いた。僕を訪ねて来る東京のハワイ音楽のグループは、ホームシック・アイランド・ボーイズという。パニオロやラインハートがテープを聴いて、楽しんでくれた。
 レイモンドの車で空港に向かった。空港のそばにレイモンドが勤めている観光会社がある。8ドアのキャデラック・リムジーンを、レイモンドはガレージから出して来た。片側にドアが四つならんでいる。特別注文の長大なキャデラックだ。観光客を乗せて遊覧ツアーに出るときに使う。
 アロハ・エアラインの定期便が、時間どおり滑走路に降りた。東京からの五人は、すぐにわかった。僕たちの出迎えに彼らは感激していた。レイモンドが用意したレイを、五人にかけた。写真を撮りたい、と彼らは言った。五人ともカメラを持っていて、おたがいに全員を撮りあった。
 レイモンドはパニオロの次男であり、これから自分たちはパニオロの家へいくのだと知ると、彼らは歓声をあげた。彼らにとって、パニオロは神のような存在だ。東京から送って来たテープは、パニオロのバンドの、彼らなりの精いっぱいのコピーだった。空港ロビーを出て、8ドアのキャデラックに五人は子供のように喜んだ。


 僕から少し離れたところに、ラリー・デイヴィスがサーフボードに腹ばいになっている。僕はボードの中央にまたがり、上体を起こしている。夜だ。湾の出口近くの海に、僕たちふたりは浮かんでいる。
 今夜も星空に青い月が君臨している。月の位置はすでに高い。月が昇る時間に合わせて、僕とラリーは、パニオロの家から黒い砂の海岸へ、ジープでやって来た。そしてサーフボードで沖に出た。
 ラリーは何度もチューブ波に挑戦した。そのたびに、いつものラリーそのままに、限りなく美しくチューブと対決し、調和した。海底からはなんの音も聞こえない、とラリーは言った。僕もチューブに入ってみた。あの夜の恐怖がよみがえった。だがあの不気味な音は聞こえなかった。
 波の上で体を休めながら、僕たちはチューブ波を見ている。波の裾野から仰ぎ見るチューブは、月光を浴びて壮絶な美しさだ。浅瀬の上で高さをきわめた波がアーチになって空間へ張り出す瞬間から、スロープの根もとにまっ白い噴火のように落下しつつ北へ走るまで、息を止めて見守ってしまう。
 チューブが走りきって消滅すると、夜の海の広がりが、見ているだけですくみあがるような量感をたたえて、目の前に横たわる。星空と海が接する水平線のあたりを見つめていると、無限の空間の彼方へ引きこまれていくような錯覚が、全身をつかまえる。
「おい、バリー!」
 波の向こうから叫ぶように、ラリーが言った。ボードに腹ばいになったまま、彼は顔を横向きにボードに横たえていた。小さな波が、彼の顔に覆いかぶさった。顔の上を流れ去る波を、口をすぼめて吹きとばした。
「保養地をつくる連中は、この湾をヨット・ハーバーにするつもりだ」
「完成模型がもう出来てるよ」
「どこにあるんだ」
「郡庁オフィス」
「見たのか」
「見た。夢のように美しい。この地球に最後まで生き残ったひとりの男の、死にぎわの夢のように」
「ヨット・ハーバーになったら、この波もなくなるぞ。海底は深く掘りなおされるにきまってるから」
「準備段階の測量が、すでに終わってる」
「とにかく、抵抗しような」
「やるよ」
 陸から湾を渡って海原へ、風が吹いた。濡れた体を撫でるその風のどこかに、音楽を聞いたように思った。
 パニオロの家では、録音がおこなわれているはずだ。彼らの演奏が、風に乗って聞こえたのだろうか。僕は夜を振り仰いだ。流れ星が、夜空のまんなかを、斜めに長く飛んだ。
「流れ星だ」
 ラリーが言った。
「きれいなもんだ」
「願いごとはしたかい」
「うっかりしてた」
 夜の海が、広すぎるゆりかごのように、浮かんでいる僕たちを揺り動かし続けた。しばらくして、僕たちはチューブ波の外に向かった。もう一度ずつ、チューブに入ることにしたのだ。外に出て位置をとった。ラリーが先に波をつかまえる。彼は波を待った。
 月が頭上ほぼ真上だ。僕たちを中心にして、海いっぱいに、銀の鱗片が無数に浮かび、そのひとつひとつが揺れ動いていた。波が近づいた。振り向いて距離とスピードをはかっていたラリーが、ふと空を仰いだ。なにかを探すように夜空のあちこちに目を向けた。そして僕を見た。
「バリー。聞いたか」
 と、ラリーが言った。
 その瞬間、僕もおなじ言葉を叫んでいた。
「ラリー! 聞いたかっ!」
 うしろから接近して来る波が、海面を大きく隆起させた。いつに変わらぬうねり波のパワーをサーフボード越しに全身に感じながら、海底ごと高く持ちあげられるような錯覚の奥にひそむ不気味さに、あの音が重なった。
 遠い戦場から聞こえる砲撃のような、地を這う重低音だ。テイクオフには完全におくれたまま、せりあがった波の頂上で、ふたたび僕たちは音を聞いた。あの夜の音に似ている。大地が割れて動くような音だ。だが、伝わって来るのは海底からではない。夜の空間のなかを、その音は重く波動して来る。
 ふたりの浮かんでいる波が高さをきわめていく動きと、音が急激に大きくなっていくことが、重なり合っていた。だから音の発生源はこの波だという錯覚が、ごく自然にふたりをとらえた。
「バリー!」
 と叫んだラリーは、サーフボードに腹ばいとなった。両手でレールをつかんでいた。僕もサーフボードの上に伏せた。
 やりすごした波がアーチになり、北の岬に向かって走り出すと、波の隆起は低く落ちていった。しかし音はさらに大きくなった。重い音波が体感出来るほどだ。
「ラリー!」
「バリー!」
 おたがいに名前を叫びあうのが、やっとだった。顔をあげて僕は湾の奥を見た。音はその方向から来ているように思えた。周囲の空気が揺れていた。重くて奇怪な音が、完全に湾を覆っていた。その音の下で僕たちはふるえた。
 湾の広がり。黒い砂の海岸。椰子の林。見なれた夜の光景が、僕の目に映った。音は大きくなりつつ、なおも続いていた。その音がどこから来るのか。広がりのある重い音だから、発生源を特定しにくい。
 湾に面した小さな町の明かり。その町のすぐ裏に黒く迫っている山裾。畑や牧場。さらに視線をあげ、険しくそびえる山を僕は見た。
「バリー! バリー!」
 サーフボードになかば立ちあがったラリー・デイヴィスは、必死に山の頂上を指さしていた。山は中腹からいきなり垂直に切り立つ。深い林は月光を吸いこんで黒々と底なしだ。いつ見ても量感のあるその山が、横に屏風のようにつらなっている。平たく夜空に向かって突き出ている頂上のひとつから、火が噴き出ていた。
 ゆらめく炎ではなく、噴火だった。噴水のように、まっ赤な火のかたまりが夜空へ噴きあがり、空中で粉々に砕けて飛び散った。山なみの底から絞り出すような律動をともなった太い火柱が、まっすぐ星空に向かって立った。山の頂上は真紅に溶け、小さく何度も爆発していた。不気味な重い音は、すべてそこから来ていた。
「バリー! 火山だ! 噴火してる!」
 ラリーが絶叫した。
 それからしばらく、僕たちは口がきけなかった。動くことも出来なかった。黒い山の頂上に視線をしばりつけられたまま、噴火に見入った。
 山ぜんたいが吹っ飛ぶのではないかと思うような勢いで、火柱が夜空をつらぬいて立ちあがった。火柱は立ちあがったまま、小さくならなかった。ふもとの町から山頂までの高さとおなじほどの高さがあるように思えた。
 周囲の山が赤く浮かびあがった。火柱は轟音を発し、火を噴きあげ続けた。夜空へ火のかたまりが打ちあげられ、中空で大きく傘に開き、赤く燃えながら山裾に降り注いだ。
 町にサイレンの音が聞こえた。明かりを消して山裾の闇に溶けこんでいた民家に、次々に明かりが灯った。
「バリー! パニオロの家が危ない!」
 ラリーが叫んだ。
 僕もおなじことを考えていた。大きな波のあいだをぬって寄せて来る小ぶりな波を、ふたりで同時につかまえた。高く三角の峰に盛りあがるけれども、チューブにはならない。
 波の頂上で僕たちはサーフボードに立ちあがり、スロープを一直線に滑り降りた。スピードをたくわえて滑れるところまで滑っていき、あとは腹ばいになって無我夢中でパドリングした。砂浜に乗りあげ、ボードをかかえて椰子の林のなかの道へ走った。山の頂上で、大地を引き裂くような爆発音が、たて続けに起こった。鼻をつく鉱物質な臭いが、すでに風に乗っていた。
 ジープにサーフボードを固定し、山裾に向かった。
「前兆とは、このことだったのか!」
 クラッシュ・バーにつかまり、飛び去る風のなかへ、ラリーが叫んだ。
 日本人墓地へあがっていく坂道の下で、パトロール・カーとすれ違った。屋根の赤色灯を回転させ、サイレンを鳴らしていた。サイレンのあいまに、スピーカーから住民全員に緊急避難を呼びかけていた。
 この世のものとは思えないものを見たのは、牧場とキャベツ畑の広がりのあいだを走っていたときだった。行手の山の頂上に立ちあがっていた火柱が、すうっと丈を低くした。二度、三度と、自らを夜の空へ押しあげるように曝したあと、さらに小さくなった。
 と同時に、垂直に切り立っている山の壁面に、縦に長く、まっ赤な線が走った。線は幅を広げ、やがてそこから爆発をし、山の側面のぜんたいが弾け飛んだ。轟音が山を揺るがした。
 爆発がおさまると、山には赤く溶解してただれた巨大な傷口が、縦に出来ていた。町や湾を夜の上空から見下ろす目のようだった。そしてその傷口から、溶岩が噴き出て流れ落ちた。まぶしいほどに赤い、灼熱をとおりこして透明感すらたたえた、溶岩の滝だった。深い地殻の底から暗黒の旅をへて、いま垂直の山から地鳴りとともにあふれ出て来る。


 パニオロの家の近くまでのぼって来て、急激に視界が浅くなった。風で煙が吹きおろされ、林のなかに渦を巻いていた。正面のポーチではカメハメハが哮えていた。音楽仲間が乗って来た車やレイモンドのブルーのコルヴェットなどが、前庭に一台残らず停まっていた。
「みんな、どうしたんだ!」
 ラリーが叫んだ。
 僕たちは家のなかに飛びこんだ。居間には誰もいなかった。明かりが灯り、録音器材がならび、コードが何本もフロアを這っていた。たったいままで録音がおこなわれていた様子だが、人はひとりもいなかった。叫んでも返事はなかった。各自の楽器が椅子に立てかけてあった。
 ラリーを先頭に二階へ駆けあがった。テラスに出てみた。全員がこちらに背を向け、夜の山の噴火を見上げていた。濃い煙が吹きつけた。僕は煙にむせた。溶岩の細かな燃えかすが、テラスの上にばらばらと降った。灰が夜空に舞い狂っていた。みんなのうしろ姿は、まるで花火見物でもしているかのように、のんびりしていた。
 駆け寄った僕とラリーが、同時に叫んだ。
「なにしてるんだ!」
「早く避難しろ!」
 全員が振り返った。恐怖と畏敬の念が交錯した表情が、誰の顔にもあった。火山の噴火を、誰もが、憑かれたように見ていたのだ。
「避難するんだ!」
 怒鳴りながらラリーもその場に釘づけになり、山を見上げた。
 夜のなかにいちだんと黒く、谷のスロープが広がっている。スロープの頂上から山の壁がいきなり垂直に立ちあがっている。その影のうちのひとつ、テラスから北に向けてまっすぐに見上げたところにある壁が、ぱっくりと縦に大きく、赤い口を開いていた。赤い溶岩が大滝を流れ落ちる奔流のように、あふれ出て来る。壁を伝って落ち、勢いよく空中に噴出し、火のアーチとなって夜のなかへ落下していく。
 息をのんで茫然と見上げた。燃えたぎって赤く溶けている地底が、目の前の山から噴出して来るのだ。爆発が起こった。山頂だった。小さな火柱が夜のなかへ屹立し、無数の火玉を跳ね飛ばした。
 全員が我に返った。テラスのいちばん端まで下がった。
「溶岩が流れて来る。こちらへ!」
 録音スタッフのひとりが叫んだ。
 山の壁を縦に切り裂いた噴火口から流出した溶岩は、山の下のスロープをゆっくりと、低いほうに向かって流れ出していた。溶岩の河が出来つつあった。
 その河は、表面が黒い燃えかすで覆われている。さらに流れて河幅が広がると、燃えかすの表面に複雑に亀裂が走り、その亀裂はまっ赤に燃える網の目になって夜の底に浮かびあがる。建物が揺れ続けていることに、僕はようやく気づいた。
「逃げろ!」
 誰かが怒鳴った。
 誰も動かなかった。風が強くなっていた。灰が顔や胸に当たった。思わずひるむほどに熱いものもあった。
 空のどこかに爆音が聞こえた。ヘリコプターの音だ。煙が吹き飛ばされた空の一角に、ヘリコプターの赤と青の飛行灯が見えた。ヘリコプターから照明弾が射ちあげられた。夜の山を部分的に明るく照らしつつ、照明弾はパラシュートで落ちていった。
 いきなり大地が揺れた。地鳴りが空気を揺るがし、大爆発が起こった。垂直の山に出来た噴火口が、山の根もとまで裂けきった。山が吹っ飛び、そのかわりに、猛然と噴きあげる丸く巨大な溶岩の山が現出した。上空を旋回するヘリコプターの腹が、爆発の明かりに照らし出された。溶岩の山は底から噴きあげて火を散らし、丸く盛りあがる端から四方へ流れていった。
「逃げよう」
 パニオロが言った。
 全員が弾かれたように走った。一階へ降りた。
「グレン。器材はどうしよう」
 スタッフのひとりが訊いた。
 グレンは首を横に振った。
「火山にくれてやれ」
「テープは?」
「ぜんぶ、この罐に入ってる」
 足もとの機関銃の弾丸箱のような大きな四角い罐をふたつ、グレンは指さした。
「こいつだけ持って逃げろ」
 家の外で自動車のホーンが鳴った。続いて制服の警官がふたり、飛び込んで来た。
「なにしてるんだ、早く避難しろ!」
 血相を変えて警官は怒鳴った。
「とっくに逃げたと思ったのに」
「町は全滅するぞ」
 建物ぜんたいがひときわ激しく揺れた。西側の大きな窓のガラスが、大音響とともに割れて飛んだ。セシリアが悲鳴をあげた。楽器だけを持ち、全員が家を出た。トランクに楽器を入れ、何台もの車に分乗した。ジープに乗ろうとした僕は、パニオロが家の裏へ走るのを見た。カメハメハが彼を追った。
「パニオロ!」
 僕も彼を追った。
「こら!」
 背後から警官の怒声が飛んだ。
「引き返せ!」
 家の裏のアヒル池のほとりにしゃがみ、パニオロはアヒルを呼んでいた。走って来た僕を見て、
「七羽いるんだ」
 と、彼は言った。
 アヒルが池の暗い水面を渡って来た。空を飛んで来た溶岩の小さなかけらが、まわりの林にいくつも落下した。池にも落ちた。油が煮えたぎるような音とともに、湯気が立った。
「アヒルなんか、ほっとけ!」
 背後で怒鳴り声がした。警官だった。
 陸にあがった七羽のアヒルを、カメハメハが前庭へ優しく追いたてた。
 ほかの人たちは車で走り去っていた。ジープとパトロール・カーだけが、前庭にとどまっていた。ジープにはラリーが待っていた。
 七羽のアヒルとカメハメハ、それにパニオロと僕が、ジープに乗りこんだ。
「もう残ってる人は、いないな!」
 確認の言葉を警官が怒鳴った。もうひとりの警官が、家のなかから走り出て来た。
「誰もいない。確認した。OKだ」
 キチンの冷蔵庫から持って来たプリモを一本、警官はラッパ飲みした。相棒にまわし、相棒は僕にも飲ませてくれた。
 ジープのあとをパトロール・カーが追い、道路を下った。少し降りたところで、ラリーはブレーキを踏んだ。ジープの速度を徐行に落とし、そして停めた。
「なんだ、あれは」
 道路をヘッドライトが照らしていた。前方で道路はなくなっていた。左側のスロープから流れ落ちて来た溶岩に埋まっているのだ。溶岩は動いていた。ときどき網の目のような亀裂が黒い表層に走り、その下の赤いマグマが不気味に輝いた。
「駄目だ。降りて歩こう」
「右側のスロープならまだ歩ける」
 七羽のアヒルを腕いっぱいに抱き、パニオロはカメハメハをつれてスロープを降りていった。
「バリー。いっしょに来い」
 ラリーは固定してあった僕たちのサーフボードをはずした。
「火山の生けにえにしよう」
 サーフボードをかかえ、彼は溶岩流の近くまで歩いた。
「なにするんだ! 引き返せ!」
 うしろで警官がまた怒鳴った。
 サーフボードを持ちなおし、ラリーは溶岩の河の上に投げた。溶岩流にしばらく浮いていたボードは、いきなり燃えあがって透明に近い炎へと変わった。ボードにはしわが無数に寄り、流されていきつつ小さくなり、やがて溶岩にのみこまれた。僕のサーフボードもおなじ運命をたどった。
 ジープとパトロール・カーを置き去りにし、僕たちはスロープを歩いて降りた。道路からあふれた溶岩が、スロープに落ちこぼれて来た。懐中電灯で照らす足もとを、溶岩は丸く燃える赤い玉になって走った。
 湾の南側にある岬の根もとに、公園が広がっている。小高くなった丘の上だ。そこに町の人々は集まっていた。ここでも危険だからと、警官や州兵たちが人々を強制的に避難させていた。湾とそして湾の北側に向かって、溶岩は刻々と量を増しながら流れて来ているという。この丘から見た光景は、一生、忘れない。
 真紅の炸裂を繰り返す溶岩の山が夜の向こうにそびえ立ち、町に向かって大きく広がりつつ、溶岩の大河が流れて来ていた。表面は黒い河だ。夜の暗さと見分けがつかない。流れつつ亀裂が何重にも複雑に走り、赤いマグマが闇を走るのが見えた。そのマグマの、意外で急速な広がりかたに、人々はうめき声をあげた。
「なるほど。これは全滅だ」
 ラリーが言った。
「保養地もくそもないんだ。ハッピー・ヴァレーも町も、溶岩で埋まってしまう。湾へも流れこむから、チューブもなくなる。さっきのがまさに乗りおさめだった」
 自分たちがトランクスとヴェスト姿であることに、僕は初めて気づいた。
 町の子供たちを全員避難させたあと、住民を輸送しているスクール・バスに乗り、僕たちも島の反対側に避難した。


 島の北側からセスナで飛び立ったときには、これ以上の快晴はあり得ないような晴天だった。島の南へまわりこむと、灰色の曇天となった。火山が吐き出し続ける煙と、溶岩が海へ入りこむときに噴きあがる水蒸気とで、高度六千フィートくらいまで視界は完全にふさがっていた。
 島の南端ぜんたいが、煙をあげて燃えているように見えた。煙と白い水蒸気の山が、火山の山よりも高く、巨大にいくつも立ちあがり、もくもくと内部から脈動しつつ、西に向かって吹き流されていた。火柱が立ったり、灼熱の溶岩が大滝のように流れ出る光景はもうないが、溶岩の流出は続いていた。煙と灰がすさまじい。
 町はあとかたもなかった。濃い灰色の溶岩の河が、町のすべてを埋めていた。木造の建物はすべて燃えてしまい、廃虚は溶岩の下だ。ショッピング・センターのコンクリートの屋根が、半分だけ見えた。ところどころ、赤や青の小さな点が、溶岩流のなかに見えた。埋まっている自動車の屋根なのだ。
 全滅とはまさにこのことだ。溶岩の流れが町をのみこんだ。そして溶岩は湾に注いだ。湾ぜんたいが溶岩で煮えたぎり、水蒸気の山が空中へ巨大にそびえていた。おそらく湾は溶岩ですっかりふさがれ、なくなってしまうに違いない。
 町も消えていた。牧場も、花畑も、すべて溶岩の分厚い層が、何重にも覆いつくした。まだ冷えてもいなければ固まってもいない溶岩の下だ。
 ハッピー・ヴァレーは、もはや保養地どころではなかった。緑の林など、どこにも見えない。降り積もった火山灰が、地形をすっかり変えていた。ハッピー・ヴァレーは、溶岩と火山灰の山の下に埋まっていた。
 誰も町に近寄ることは出来なかった。上空から遠まきにして見守るだけだ。湾の北にも南にも、溶岩は流れこんでいた。最初に避難した南側の岬の根もとにある丘の公園は、頂上だけがぽつんと小さく、溶岩のなかにとり残されていた。
 次から次に流れこんで来る溶岩を受け入れ、海から煙と水蒸気が猛然と立ちのぼった。その高さは、山の頂上をはるかに越えていた。
 遠くの上空から島を見た。島そのものは見えず、噴火の煙と水蒸気の山だけが、いくつも見えた。何億年も前、島がこの海に出来始めたときの様子は、おそらくこんなだっただろう。
 島の南端に沿ってしばらく飛んでみた。島の南端は活火山帯だ。何年おきかに噴火が繰り返された。今回とおなじスケールの爆発は、二十年前に一度あった。そのときは山あいの小さな村が溶岩の下になって全滅した。
 山から海へ流れこんだ溶岩が、固まっていまもそのままに残っている。古いカルデラの内部には観測所や展望台があり、カルデラの中心で現在も溶岩をかかえる丸い火口が、展望台から見下ろせる。
 ウエーキ島のさらに西からここまで、いくつもの火山が太平洋のまんなかにつらなっている。西から順に噴火して島を次々につくり、東へ進んで来た。西のほうではすでに火山は死に絶え、島は海中に没しようとしている。最東端のここでは、まだ火山は生きている。地動計による観測では噴火活動の予測などほとんどつけることの出来ない活火山だ。
 島の北側へ帰るために山の上空を飛びながら、僕は振り返ってみた。巨大な煙の山が天に向かって立ち、後方の視界を完全にふさいでいた。あの月光の湾のチューブ波の、幻想的な銀色の輝きが、一瞬、目に見えた。
 噴火から一週間後。ボブ・ラインハートの送別パーティがおこなわれた。島の北側にあるジェニファーの親類の別荘に、全員がふたたび集まった。グレン・ペパマンと録音スタッフは、テープを持って先に帰った。LP五枚分の歌や演奏を完璧にテープに収めきったとき、噴火寸前の最初の地鳴りが響いたのだ。
 用事でホノルルへいって来たジェニファーが、僕宛てにオフィスに届いていた手紙を持って来てくれた。東京からのが一通あった。ホームシック・アイランド・ボーイスからだ。
 彼らの旅は四泊五日の短い旅だった。初めてハワイに来たその初日に、彼らにとっては神であるパニオロやその音楽仲間に会って大感激し、二日後には録音をモニター・ルームで聴いて打ちのめされ、同時に、ハワイの火山が噴火するのを目のあたりにした。そして、あくる日、早くも東京へ帰った。
 五人の名を僕は思い出してみた。トミオ。オサム。ヒロシ。タケアキ。ハルミチ。「なにがなんだかわからないままに、不思議なショックがまだ去りません。僕たちは、ものすごい体験をしたのです」。彼らは、手紙にそんなふうに書いていた。
 パニオロやラインハートたちの演奏が始まっているテラスに寝そべって、僕はその手紙を読んだ。夜空を見上げた。月が出ていた。たしかにたいへんな体験の内部をくぐり抜けて来たのだという事実を、このとき僕は初めて強く実感した。パニオロたちの音楽にからめとられ、体ぜんたいが夜の風のなかに軽く持ちあげられたようになっている僕の上に、夜空の無数の星が、いっせいにのしかかった。
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シュガー・トレイン



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 横長の小さな四角いフレームの中央に、飛行艇が一機、真正面から鮮明にとらえられていた。飛行艇はまっすぐこちらに向かって飛びながら、高度を下げつつあった。山なみの頂上を越えたばかりの、朝のまだ早い時間の太陽をまともに浴び、飛行艇は鈍い銀色に輝いた。
 太い船体のような胴の背に、主翼を背負っていた。主翼には片側二基ずつ、四つのプロペラ・エンジンがついていた。一基で二千八百を超える馬力を軽々と絞り出す。全長三十四メートル。総重量は四十トンを超える、最新式の飛行艇だ。主翼の端にフロートがひとつずつ下がり、水平尾翼は垂直尾翼の頂上に一直線だ。
 飛行艇はさらに高度を下げた。小さな四角いフレームの下部に、濃いエメラルド・グリーンの海が見えた。その海に向かって飛行艇は降りていった。大きなプロペラ機に特有の、自分の重さをもてあましたような表情を機体ぜんたいに漂わせ、飛行艇は海に向かった。
 浅い侵入角度をとって海との距離を次第にせばめていき、やがて着水した。太い胴体の船底のような腹が、海面を重く叩いた。主翼のちょうど下あたりで胴体はもっともふくらんでいて、そこからまっ白く、飛沫が機体の両側へ斜めにあがった。
 エメラルド・グリーンの海が鈍い銀色の飛行艇の胴体によって削りとられ、天へのびる滝のように噴きあがった。胴体の最前部から後尾にかけて、そして主翼の両端のフロートが、いっせいに海面を削った。
 この飛行艇は、必要とあらば時速五十キロの強風に逆らいつつ、波高四メートルを超える荒天の海でも、たやすく離着水出来る。着水時に胴体が跳ねあげる大量の海水を、いかにして主翼のプロペラに当てずにおくかが、飛行艇を設計するときの重要なポイントになる。飛行艇の胴体に叩き割られて舞いあがる海の水は、四つのプロペラをきれいにクリアしていた。
 機首の黒く塗ったレーダーの上に、真剣に眉を寄せた人間の顔のように、操縦席の窓があった。窓のなかにパイロットの姿が小さく見えた。着水した飛行艇はスピードを落とした。プロペラの回転が急激に下がった。黒い四つのプロペラがはっきりと見えるまで回転は落ち、やがて停止した。
 真正面から着水した飛行艇は、機首をわずかに右に向けて海に乗っていた。サングラスをかけたパイロットが、かたわらの副操縦士に、笑いながらなにか言っていた。主翼の下のドアが開いた。
 まっ赤なサーフボードが一本、ドアのなかから海の上へ、ほうり出された。小さく空中にアーチを描いた赤いボードは、ノーズから海に落ちて波間に軽く浮かんだ。続いて白いサーフボードが、おなじようにほうり出された。赤いボードのかたわらに落ち、浮かんだ。
 トランクス一枚の陽に焼けたサーファーがひとり、飛行艇から海へダイヴした。もうひとり、そのあとを追った。ふたりのサーファーは、波間に漂うサーフボードに向かって、軽く抜き手をきった。ボードに泳ぎつき、ボードの上に腹ばいになり、ふたりならんでこちらに向けてパドリングを始めた。
 飛行艇とふたりの距離が次第に開いた。飛行艇の上半分が画面の外となり、やがて小さな横長の四角いフレームの上部から、飛行艇はゆっくりフレーム・アウトした。パドリングするふたりのサーファーが、フレームのなかに残った。ふたりの濡れた腕や背中が朝陽を斜めに受けて輝いた。赤と白のサーフボードが海のなかに美しかった。
 フレーム内部の視界が微妙に変化した。ふたりのサーファーが小さくなり、周囲の海が大きく広がった。変化は気がつかないうちに起こり、気づいたときにはふたりのサーファーは点のように小さく、彼らの行手に高く盛りあがるサーフが、フレームの前面に大きく横たわっていた。
 きれいなサーフだ。海の平面に何本もの峰が、横に長く盛りあがる。沖から数えて四本目の峰が、もっとも高くのびあがっていく。フレームの横幅いっぱいにのびたその峰は、裾のあたりをダーク・ブルーの影にひたしつつ、高さを増す。太平洋をうねって来た波が海底の浅瀬に乗りあげ、エネルギーを空中めがけてのばしていく。
 長く高い三角の峰に屹立した波は、そのもっとも高い頂上から、白く崩れていく。一年のうち何日かは巨大なチューブ波となるのだが、それ意外の日々にはチューブにはならず、頂上から白く爆発するかのように、雪崩に似た砕けかたをする。砕けつつ雪崩は左へ走っていく。
 長い峰に沿って走りきり、峰は次第に低くなる。低くなりきったところで、走って来た雪崩はせきとめられ、何重にも重なり合う飛沫は内部からふくらみ続ける白い小山のようになって、そこにとどまる。
 しっかりした大きなスロープの上で、うしろから追いかけて来る白い雪崩と追いつ追われつ滑走すると、サーファーにとってはもっとも楽しい。
 今朝のサーフの出来ぐあいは完璧だった。風はオフ・ショアに変わっていた。サーフの岸に面したスロープをその風は平らにならし、頂上から崩れて来る雪崩の上層を、純白の飛沫の幕として空中へほうりあげた。
 ふたりのサーファーはそのサーフのうしろにまわった。そしておたがいのあいだに距離を置いた。場所とタイミングをずらせつつ、同時にテイクオフするつもりだ。サーフが高く盛りあがる周期をふたりは待った。白いボードのサーファーが、先にテイクオフした。
 波の頂上が雪崩さながらに、スロープの上を裾へ向けて豪快に砕ける。その頂上からずっと右に寄った肩の部分を、サーファーは白いサーフボードのボトムで切り裂いた。波のパワーのすべてをボードと自分の体に引き受けつつ、サーファーは峰の頂上を越えてこちら側のスロープへ、スピードいっぱいに飛びこんで来た。濡れた髪が風にあおられて逆立ち、頬が風に押されてくぼんだ。テイクオフと同時に自分から見て右へ、サーファーは方向を変えた。波のスロープを斜めに滑降した。
 横長の四角い画面のなかで、あらゆるものが鮮明に輝いた。波のスロープ。サーファーの肉体。純白のサーフボード。ボードのテールが波のスロープに刻みつける白い航跡。岸から吹いて来る澄みきった風すら、陽光のなかをきらめいて飛んでいるように見えた。
 スロープの裾まで、白いボードのサーファーは、いっきに滑って降りた。力をたくわえた上での鋭いボトム・ターンで体を前に倒しながら、サーファーは頭上を仰ぎ見た。高くのびあがりきった波の頂上が、サーファーの眼前に立ちふさがっているスロープに向けて、白い雪崩を起こし始めていた。
 その雪崩の中央から、赤いサーフボードが飛沫を突き飛ばし、躍り出て来た。胸のあたりまで白い雪崩に埋まりつつ、サーファーは勇敢なテイクオフをきれいに成功させた。雪崩を背後へ置き去りにして、風で平らにならされたスロープにサーファーは出て来た。
 白いボードのサーファーはボトム・ターンを終えていた。ボードが跳ねあげた飛沫が、空中高く舞いあがって広がり銀色に光った。ボトムから頂上をめがけて、サーファーはスロープを逆さまにのぼった。
 その航跡と直角に交叉して、赤いボードのサーファーが、スロープの底へ急滑降して来た。交わった航跡はひとつになって広がり、たくしあげられて波の頂上へのぼった。
 ふたりのサーファーは、以後、みごとなインタプレーを見せた。白いボードと赤いボードが、濃いグリーンの波のスロープを、自在に飛び交った。高くせりあがった頂上から白い雪崩がスロープの上に分厚く覆いかぶさり、そのぜんたいが長い峰に沿って左へ走った。
 それと追いかけっこをしながら、ふたりのサーファーは、おたがいに相手とは完璧にあるいは微妙ではあるけれども決定的に違う方法で、波との美しい格闘を繰り広げた。
 人間の存在とはまったく無関係に、浅瀬の上でエネルギーの持っていき場を求めて高くのびあがる波のスロープに、ふたりのサーファーは強引に割りこみつつ、そのなかにみごとに抱かれていた。
 妙技のありったけを、ふたりは披露した。うしろから追って来る白く分厚い雪崩にサーフボードのうしろ半分をのみこまれつつ、スロープに上下一列にならび、ふたりは手をつないで滑った。手をつないだままボトムへ降りていき、おたがいに相手をスロープの上にほうりあげるようにターンをきめ、波の頂上へ向けてのぼった。
 一直線にのびている峰の長さいっぱいにわたって、ふたりのサーファーは、それぞれの白い航跡を、思いっきり刻みつけた。おなじものをもう一度作れと言われても絶対に作ることの出来ない、一瞬に生きて一瞬に消えていく航跡だ。
 走る雪崩がせきとめられる地点まで来て、白いサーフボードのサーファーは、内部から猛然と沸きあがる白い爆発を突き破り、波の向こう側にプルアウトした。海上に盛りあがった白い丘のような波の背後に、そのサーファーは見えなくなった。
 赤いボードのサーファーは、波が行きどまりになる手前で、スロープのなかほどから体重をいっぱいに乗せきって頂上のリップまで、いっきに駆けのぼった。リップの波に下から叩かれ、サーフボードは空中に跳ねあげられた。
 ボードの上のサーファーも空中に飛んだ。まだ空中にある自分のボードへ馬乗りに落ちて来たサーファーは、またがったボードを両手でつかみ、リップの向こう側へ落ちて見えなくなった。
 波が消える地点からさらに大きく左にまわりこみつつ、ふたりのサーファーはパドリングで視界にあらわれた。
 岸に向かって来るそのサーファーたちを、小さな四角いフレームはその中央にとらえ続けた。ふたりのサーファーは、ほぼ同時にサーフボードの上に立ちあがった。砂浜に向かって寄せていく波に乗り、波打ちぎわまで運ばれて来た。ボードから飛沫をあげて遠浅の水のなかに飛び降り、ボードを片腕にかかえあげた。
 水を蹴散らし、サーファーは砂浜にあがって来た。笑いながらなにかを語り合うふたりの顔がアップになり、四角いフレームをいっぱいにふさいだ。話をしながらふたりはまっすぐこちらへ歩いて来る。ふたりの濡れた顔が、次第にぼけていった。さらにぼけて輪郭がいっさい不明になり、そのぼやっとしたものがフレームを占領した。
「OK!」
 と、僕が言った。アリフレックスのフィルムを止めた。長尺マガジンに収めたカラー・フィルムは、あと何フィートも残っていないはずだ。ファインダーから目を離し、僕は上体をのばした。
 三脚に取り付けた撮影カメラの、シャープなズーム・レンズのすぐ前に、ふたりのサーファー、ラリー・デイヴィスとクレイトン・カウアが、笑いながら立っていた。
「どうだった?」
 ラリーが僕に訊いた。
「大成功。素晴らしいシークエンスが、ワン・ショットで撮れた」
 僕はファインダーをのぞいていただけだ。ズーム・レンズの操作は、すべてジェニファーがおこなった。
「オープニングに、いきなりいまのシークエンスが来るのよ。そして、それが終わってから、タイトルが出るの」
 ジェニファーが言った。
 沖の海にすわりこんでいる飛行艇に向かって、クレイトン・カウアが両腕で信号を送った。すべてはうまくいった、という意味の信号だ。
 飛行艇のプロペラが回転を始めた。ゆっくり向きを変えた飛行艇は、プロペラの回転をあげた。尾翼をこちらに向けた飛行艇は、沖に向かってまっすぐ、海面を滑り始めた。水を両側へ白く蹴り飛ばしながら、ほんの短い距離を滑走しただけで、意外に軽く浮かびあがった。
 朝陽の当たる砂浜に立ち、飛び去る飛行艇を僕たちは見送った。
 青い空に飛行艇が小さな点になってから、ジェニファーが、
「第57番サーフ最後の日々」
 と、言った。
 クレイトンが振り向いた。
「なんの最後だって?」
「第57番サーフ。最後の日々」
「こんなに美しいものが、終わってしまうのか」
 うめくように、クレイトンはそう言った。沖のサーフに視線を戻し、そこを見つめた。
 ハワイのサーフィン・エリアに北から順に番号をつけていくと、この島のこの波は57番になる。そして57番の波は、早ければ一週間以内に、永久に消えてなくなる。ひとつのサーフがなくなってしまうことをテーマに、ジェニファーは16ミリの映画を撮っている。一時間三十分ほどの映画にするのだという。その映画の冒頭に使う美しいシークエンスを、飛行艇がらみでジェニファーが考え出し、シューティング・スクリプトに書いた。そしてたったいま、それを僕たちは撮影した。


 島の西側はおだやかな起伏の広い山裾だ。いちめんの緑だ。上空から見ると、その緑のなかに、不規則に道が出来ている。赤土がむきだしの、作業用の道だ。いちめんの緑は砂糖キビ畑だ。遠くに、島の中心となっている山が見える。海抜三千メートルを超える山だ。なだらかな山裾をどこまでものぼっていくと、垂直に近い険しい山なみが、重く目の前に立ちはだかり、のしかかって来る。
 海岸線はとても単純だ。北西の部分が大きく半円形に海へ向かって突き出し、そこから南西へ、ほぼまっすぐに下って来る。南の湾まで直線なのだが、その単調さが一か所だけ破られるのは、第57番サーフの出来るところだ。
 直線の海岸線の途中に、ちょうど若い女性の乳房を横から見たようなかたちに、突起が出来ている。突起の尖端には、乳首に相当する岩まである。その突起は小高い丘だ。丘ぜんたいが公園になっている。上空から見たかたちが乳房であることから、さまざまな呼び名で呼ばれているが、正式にはオロマナ・ビーチパークという。
 海岸線と砂糖キビ畑とのあいだを、海岸線に沿ってハイウエイが走っている。北からそのハイウエイを下って来てオロマナ・ビーチパークに出るには、走行車線から分かれている車線に入ればいい。南から来た場合は、走行車線から分かれた道路でいったん右へ大きくそれたのち、ハイウエイの下を立体交叉でくぐり抜け、ピーチパークの丘のふもとに出る。
 ハイウエイの少し内側に、ハイウエイと並行して、鉄道の線路が敷いてあった。南の湾の近くに砂糖の精製工場があり、北西の林のなかからこの工場まで、線路はつながっていた。林のなかには機関車庫のような木造の古風な建物があった。線路はハイウエイよりもいちだんと高くなった土手の上をのびていた。
 オロマナ・ビーチパークからハイウエイと線路をはさんだ内側には、土手とおなじ高さの林が、帯状に長くある。その林の裏から砂糖キビ畑は広がっていて、畑の向こう、いちだんと高くなったところに、ピンクの長方形の建物がある。病院だ。病院からは、線路、ハイウエイ、ビーチパークなど、すべてを遠くに見渡すことが出来る。
 第57番サーフは、オロマナ・ビーチパークの乳房状の突起と、海底でつながっている。乳房の先端にひっかけられるようにして、沖の海にサーフが何本も出来る。乳房の下の、ちょうどみぞおちにあたる部分が、第57番サーフに出ていくための砂浜だ。
 林のなかの機関車庫から、濃いグリーンに塗られた蒸気機関車が一台、出て来た。古風な蒸気機関車だ。前部にはカウ・キャッチャーが装備してあり、煙突の前、ボイラーの突端には、ランタンのようなヘッドランプが乗っていた。
 線路の上を、その蒸気機関車は、滑らかに走った。海岸線に沿って下っていき、オロマナ・ビーチパークにさしかかった。この部分で線路は大きくカーヴしている。内側につらなる林をかすめるようにそのカーヴを出ると、あとはふたたび南の湾まで一直線だ。湾の近くにある砂糖精製工場に、ダーク・グリーンの蒸気機関車は到着した。
 マニュエル・パヴァオが、小さなコントロール台のスイッチをオフにした。HOゲージの電気で走る模型の蒸気機関車は、精製工場の建物のわきにぴたりと停まった。五メートル四方ほどの大きさの木製の台の上に、海もハイウエイもそして線路も、風景のすべてが乗っていた。現実を模し、紙粘土や塗料、それに鉄道模型用品を巧みに使って、作りあげたものだ。
 第57番サーフも、感じを出して巧みに作ってあった。ひとりのサーファーがいままさにテイクオフする瞬間であり、もうひとり、そのサーフに向かって砂浜からパドリングしているサーファーがいた。
「こいつは、俺かな」
 ラリー・デイヴィスが台にかがみこみ、小さな模型のサーファーを見た。
「誰ということはないんだ」
 いつもの真面目な口調で、マニュエル・パヴァオが言った。
「あのサーフを愛してきた数多くの人たちの象徴として作ってみた」
「なるほど」
「しかし、この蒸気機関車はよく出来ている」
 かがみこんで模型をしげしげと見ていたクレイトン・カウアが、感心して言った。
「これも、きみたちが作ったのかい」
「それは違うんだ。僕たちは色を塗っただけさ」
 マニュエルの答えに、彼の親しい仲間であるボブ・サントスが言葉をつけ加えた。
「日本製の鉄道模型だ。未塗装の完成品を日本から取り寄せ、色を塗ったんだ」
「昔ここで走ってたのと、おなじ型式のものなのかい」
「まったくおなじだ」
「そんなものが、よくあったね」
「日本には、なんでもある」
 ボブ・サントスの言葉に、模型レイアウトを眺めていたふたりの中年女性が、軽く笑った。ふたりとも初老に近い年齢だった。ひとりは日系、もうひとりはフィリピン系。日系の女性はゴムぞうりにバミューダ・ショーツ。袖なしの白いシャツ。目尻の吊りあがった眼鏡をかけていた。フィリピン系の女性は、膝の上で切った古いブルージーンズに、リーヴァイ・ストラウスの赤いマークをプリントしたTシャツを着ていた。
 マニュエル・パヴァオは、ふたりを僕たちに紹介してくれた。古い写真の複写を、資料として提供しに来てくれたのだという。彼女たちがまだ十歳にもならない子供だった頃、島のここには実際に鉄道があり、いまマニュエルが走らせたのとおなじ型の蒸気機関車が、煙を吐いて走っていた。
 砂糖会社が砂糖キビの刈り入れ作業用につくった鉄道だ。客車も購入し、旅客列車の定期便もあった。何年も前に線路はとり払われ、かつて線路の敷かれていた土手が一部分、残っているだけだ。砂糖キビの輸送はトラックが受け持っている。
 彼女たちが持って来た古い写真の複写を、マニュエルは僕たちに見せてくれた。一九二〇年代だろうか。炎天下の砂糖キビ畑で働くための作業衣に身をかためた女性たちが、線路のわきで昼食をとっている。写真の端に機関車の前部が写っていた。機関車庫の前に停まった蒸気機関車のいたるところに畑仕事の男たちが乗り、なにかの記念写真のようにして撮った写真もあった。そんな昔の光景の断片が、複写された写真でひと束あった。
「ミカド型という蒸気機関車だ」
 写真を指さしながら、マニュエルが説明した。
「鉄道の最盛期には、ハワイ諸島にいろんなタイプの蒸気機関車が走っていた。これとおなじミカド・タイプは四台あった。しかしいまでは、一台しか残っていない」
 その一台を、マニュエルたちは、実際に石炭を焚いて走らすことが出来るよう、レストアの作業を進めている。その作業の実行委員長のような役を引き受けているのが、このマニュエル・パヴァオだ。機関車のレストアと並行して、線路を敷く作業もおこなう。北西部の林のなかにある機関車庫から、南の湾の近くの砂糖精製工場まで、線路を敷きなおして走らせる計画だ。
「過去がよみがえるのねえ」
 日系の女性が言った。
「こういう素敵な過去なら、大歓迎よ。私は子供の頃から汽車が好きだったから」
「私もだわ」
「年とった人たちは、みんなよろこんでるわね。あのミカドがまた走るんだ、と言って」
「そうよ。うちのおじいさんなんか、これは祝福に値するとか言って、医者に止められているお酒を、また飲み始めたから」
「昔は誰もが、この汽車のことをシュガー・トレインと呼んでいたのよ」
「そう。シュガー・トレイン。ミカドが引っぱるの」
「よし。ではその本物のミカドを、見にいこう」
 ラリー・デイヴィスが言った。
 マニュエルはラリーに向きなおった。
「機関車庫へいく道は、わかるかい」
 道ならよく知っている、とフィリピン系の女性が言った。自分たちもこれから機関車庫へいくという。
「だったら、彼女たちのあとについていけばいい」
 偉大なる真理を説き明かすような口調で、マニュエルが言った。彼はいつもこうだ。
 腕も胴も脚も、どこもかしこも頑丈そうに太い、たくましい青年だ。ポルトガルや中国など、いろんな血が混ざっている。ハワイ系の血がいちばん濃いようだ。顔じゅうにひげを生やし、長くのばした縮れ毛を首のうしろでひとつに束ねている。いつ見ても、家の軒下で何年も雨ざらしになったような、Tシャツと半ズボンだ。
 マニュエルたちのオフィスを僕たちは出た。まっ赤なプリムスで先をいく彼女たちを、僕とラリー・デイヴィス、そしてクレイトン・カウアが、フォルクスワーゲンで追った。
 機関車庫は林の陽陰にあり、涼しかった。建物はいまにも崩れ落ちそうなほどに古い。ミカドの本格的な修復作業が始まる前に、まずこの建物を新しくつくりなおすという。建物の前には、レールがほんの数メートル、赤く錆びて残っていた。かたわらの草むらのなかには、これもまっ赤に錆びて、車軸のついた動輪が一対、重く転がっていた。
 建物の内部には、機関車が三台引き込めるよう、間隔を置いて六本のレールがあった。中央のレールにミカドが静かに停まっていた。屋根の破れた部分から、陽が射しこんだ。屋根を覆っている樹の葉が風に揺れると、蒸気機関車に当たっている陽も、揺れ動いた。
 ミカドは思ったよりも新しく見えた。埃や汚れを完全に洗い流し、外観だけはきれいになっているからだ。ミカドの正面にまわってみた。ボイラーの正面に、エンジン・ナンバーを浮き彫りにした鉄の円盤が取り付けてあった。その番号の周囲に、アメリカン・ロコモーティヴ・カンパニー1928と、小さな文字が読めた。
 カウ・キャッチャーの中央にある重い連結器を、ラリー・デイヴィスは両手で押してみた。びくともしなかった。僕たち五人は、それぞれに蒸気機関車を眺めた。
「すげえや」
 クレイトンが感嘆した。
「馬力がありそうだ」
「何馬力くらいだ」
「さあ。マニュエルに訊いてみよう」
「これが煙を吐いて動き始めたら、過去を引っぱり出して来るような感じがするだろうなあ」
 女性たちがラリーに同意した。ラリーの言うとおりだった。過ぎ去った昔の香りをまだ全身に濃密にたたえているこのミカドが動き始めたら、その瞬間から、それまで眠っていた数多くの過去が、かたっぱしから揺り起こされそうな予感が確実にあった。
「いろんな人のいろんな思い出が、よみがえるわよ」
 日系の女性が言った。
「なにしろ私ときたら、小学生の頃はこの汽車に乗って学校にかよったのだから」
 計画どおりに線路を敷き、このミカドがそこを走るまでにするには、さらに六か月かかる、とマニュエル・パヴァオは言っていた。


 シャワーを浴びて着替えをした体に、夜の海風が心地良かった。さきほどまでいたオロマナ・ビーチパークの砂浜へ、ふたたびやって来た。暗い砂浜にまだ誰もがいた。砂浜や沖のサーフを見下ろす丘の公園にも、人は多いようだった。
 今日は第57番サーフの最後の日だ。朝早くから、ハワイのサーファーたちが、オロマナの波に別れを告げるため、ビーチパークにあらわれた。地元のアマチュアも、北海岸のプロたちも、みんないっしょに海に入り、一日じゅうオロマナの波を楽しんだ。どのサーファーも、オロマナの波を相手に、自分だけのライディングを披露した。陽が高いあいだの時間を、僕も沖に出てすごした。
 オロマナ・ビーチパーク始まって以来の人出だ。公園の駐車場は自動車でいっぱいになり、ひとつの波にとりついている数多くのサーファーを見物しに、地元の人たちがさらに車でたくさん来ていた。陽が傾いてからは、お祭りさわぎになった。公園にいくつかあるバーベキュー・ピットで肉が焼かれ、ビールが大量に消費された。
 美人コンテストがおこなわれたし、乳房のかたちをしているオロマナ・ビーチパークの突端にある、まさに乳首としか言いようのない岩の上に何人の人間が乗ることが出来るかを競うコンテストもあった。
 落日のオレンジ色に燃える海に入っていき、最後の波乗りを夕陽のなかで楽しんだ。そしていまは夜だ。地元の見物人たちの多くは帰ってしまった。まだ砂浜や公園に残っている人たちは、夜の静かな時間のなかで、オロマナの波を相手に自分たちが体験したことを、語り合っていた。
 オロマナの波は、大きくてパワーに満ちているわりには、素直だった。波のまったく立たない真夏のわずかな期間をのぞいて、一年じゅういつでも、ここには波があった。オアフの北海岸がまっ平らなときでも、オロマナへ来れば巨大なチューブに入ることが出来た。
 いい波だった。素直な波だから、テイクオフさえ間違えなければ、すんなりと波に抱きこまれることがいつだって出来た。挑戦し立ち向かう波、というよりも、波のパワーに自分のライディングをどこまで無理なく調和させることが出来るかを試すための波、という感じが強かった。
 そのサーフも今日で終わりだ。沖の海は明日から正式に立入り禁止となる。去りがたい思いのサーファーたちが、砂浜にひとかたまりになっていた。僕を見つけたラリー・デイヴィスが、歩み寄って来た。
「なんだ、バリー。いなくなったと思ったら、服を着て来たのか」
「美人記者とやらのインタヴューを受けなくてはいけない」
「なるほど」
 白いコットンのスラックスに洗いざらしのアロハ・シャツを着た僕を、ラリーは眺めた。
「さっきまで彼女はここにいたんだがな。上の公園にいるんだろう」
「ほんとに美人かい」
 ラリーはうなずいた。
「いかにも翔んでるという感じの、金髪の美人だ。ジェーン・リンドバーグというんだ。公園へいってみな」
 僕は公園の丘へ歩いていった。ここにもサーファーたちがいた。いくつかのグループに分かれ、談笑していた。
 ジェーン・リンドバーグはすぐに見つかった。というよりも、彼女のほうから僕を見つけてくれた。敏腕なジャーナリストらしく、インタヴューの相手である僕を、初対面なのに鋭く嗅ぎつけ、華やかな微笑と自信に満ちた身のこなしを武器に、僕に歩み寄った。
「バリー・カネシロさん」
「そうです」
「楽しみにしてました」
 首を片方にかしげ、ジェーンは訓練しつくしてすでに完璧の域に達している微笑を、惜しげもなく見せた。
「あなたから素敵なお話が聞けるって、デイヴィスさんがおっしゃってたから」
「説明役はいつでも僕にまわって来るのです」
「頭脳明晰な人の運命なのよ」
「きっとね」
 月の明かりを受けて、彼女の金髪が青く輝いた。
 ジェーン・リンドバーグは、アメリカ西海岸の新聞に記事を書いている記者だ。友人であるラリー・デイヴィスから、永久に消えてなくなる第57番サーフについて聞かされて興味を持ち、記事にするためハワイへ取材に来た。サーフが消えるにいたるまでの基本的ないきさつを説明し、さらに深く細かな取材の手がかりを与える役が、僕に振り当てられた。
「なにか飲みますか」
「いただいたわ」
「もっと飲めば」
 ジェーンは首を振った。
「体重に気をつけなくてはいけないから」
 Tシャツの下で平たくひき締まっている腹を、彼女は軽く叩いた。体重の心配などまったくない、ほっそりしたきれいなプロポーションの体だった。その体に相手の視線を導くために、体重が心配などと彼女は言う。
「話をしましょうか」
「そうね」
 金髪を風になびかせ、彼女は夜の海を見渡した。そして僕に顔を向け、
「海沿いのハイウエイをドライヴしたら素敵だろうなと考えてたとこなの」
 と言った。
「では、そうしましょう」
 僕たちは丘の下の駐車場に降りた。
 車の列に入って立ちどまり、ジェーンは一台を指さして言った。
「この島の友人が、こんな怪物を貸してくれたのよ」
 一九五〇年代なかばの、フォード・サンダーバードのオープンだった。ていねいに細部までレストアされ、真紅の塗装をほどこされた大きな車体は、青い月光のなかで濡れたように輝いていた。
「夜の海辺のドライヴには、快適かもしれないわ」
 僕が運転を引き受けなくてはならなかった。こんな大きな自動車は、扱いにくくて持てあます。車の混んだ駐車場をリヴァース・ギアで出ていき、外の道路でもしばらくそのままリヴァースで走った。そしてUターンした。
 隣の席に、ジェーンは居心地良くポーズをきめていた。Tシャツの下で胸の隆起が丸く張っている。その丸い張りぐあいを、月明かりのなかに強調させずにはおかないポーズだった。
「オイル・パンからオイルがもれてるんじゃないかと思うの」
 ジェーンが言った。
「夕方、蒸気機関車を見にいったとき、オイル・パンを強くぶつけたから」
 海沿いのアイランド・ハイウエイを北に向かってゆっくり走りながら、第57番サーフが消えるにいたるまでのいきさつを、順序立てて僕はジェーンに語った。
 発端から語ると、充分に長い話だ。発端は発電所だ。オロマナ・ビーチパークから小さな岬をひとつへだてた南側の山裾に、火力発電所がある。地下に埋設されたコンクリートの大きなパイプによって、この発電所から冷却排水が海に捨てられている。岩場の多い海岸の下をくぐり、そのコンクリートのパイプは沖の海底に巨大な口を開いている。
 環境保全委員会がこの冷却排水パイプをめぐって海洋生態環境の調査をやりなおしたところ、冷却排水パイプをさらに沖へ向かって数百メートル延ばさなくてはいけないことになった。冷却排水パイプの延長を命じられた電力会社は、工事の方法をさまざまに検討した。もっとも工事がやりやすく、しかも環境保全委員会の命じるところに応え得る方法として、オロマナ・ビーチパークの沖にコンクリートの巨大な桶をつくり、そこに排水をいったんためこんでから、さらに沖合いへパイプを延ばしていくという方法を考え出した。
 委員会にはかったところ、許可になった。工事の細部にいたるまで検討がされなおし、建設用の資材の発注がすべて完了した段階で、このコンクリートの桶の建造計画が一般にもれた。それまでは企業秘密として、極秘裡にことが運ばれていたのだ。
 コンクリートの桶は、オロマナ・ビーチパークの沖に出来るサーフとおなじ位置に、建造される。横幅がサーフの長さとほぼおなじ、そして奥行きは横幅の三分の二強という、不気味に大きい四角だ。こんなものが出来たら、オロマナの波は消えてしまう。
 オロマナの波がなくなるというニュースが、ハワイじゅうのサーファーたちのあいだに広まった。コンクリート桶建設反対の抵抗運動が、サーファーたち有志によって組織された。地元の人たちの抵抗運動と合体して、運動はかなりの盛りあがりを見せた。
 手つかずの、したがって美しい海岸の沖に、毎日、灰色の不気味なコンクリートの四角いかたまりが、浮かび続ける。景観をはなはだしく損なうとして、少数だが地元の人たちが、まず反対の意志表示行動を展開した。
 初めのうち電力会社は抵抗運動にとりあわなかった。冷却排水パイプの延長にともなうコンクリート桶の建造はあらゆる意味で合法的であり、地域社会の発展に大きな利益をもたらす、というステートメントを発表したきりだった。運動はなおも続いた。
 抵抗運動に対してなんの反応も示さないことが、自分たちにとってマイナスのイメージとして作用し始めていることを知り、電力会社はコンクリート桶建造の一部変更をもったいつけて発表した。
 コンクリート桶が海面上に突き出る高さを九十八・五センチに変更した、と発表したのだ。一メートルに満たないこの高さでは、コンクリート桶はほとんどいつも波間に見えるか見えないかであり、海岸と沖の海の景観を鑑賞する人たちの気持のさまたげになるようなことはまずない、と電力会社は説明した。
 抵抗運動の人たちが対応策を考えているとき、電力会社で内部告発が起こった。手を下した人が誰だかはいまだに不明だが、コンクリート桶建設にかかわる電力会社側の資料のコピーが、抵抗運動宛てに送られて来た。資料を細かく調べた結果、意外なことが判明した。
 コンクリート桶が海面上から突き出る高さ、九十八・五センチは、抵抗運動に妥協したことによる再検討案ではなく、計画の最初からこの高さに決定されていたという事実だ。抵抗運動側の発表によって、このことが新聞の記事になった。電力会社は反論した。そのような資料は電力会社を一方的に中傷するため、内部スパイによって捏造されたものである、と彼らは言い張った。
 抵抗運動は力を得た。おもてむきは地域社会の発展をとなえつつ、電力会社は裏ではこんなことをやるのだと攻撃を鋭くしていくと、電力会社は肩すかしのような妥協案を出した。
 サーファーたちがもっともしつこく抵抗している事実を知った電力会社は、オロマナ・ビーチパークのすぐ北側の海の沖に、人工のサーフをつくる計画を発表した。どの方向からうねりが来ても、そのうねりをオロマナの波とおなじようなサーフに仕立てあげるための人工海底を、コンクリートで建造するという計画だった。
 サーファーたちの求めに応じた電力会社は、このコンクリート海底の計画の詳細を、時間をかけて小出しに発表した。ぜんたいを統合してみると、コンクリート海底の設計は立派なものだった。これならいつだってサーフが出来るに違いないと、練達のサーファーの誰もが納得するような、見事な出来ばえだった。
 人工サーフのためのコンクリート海底をつくる費用は、電力会社が負担すると発表された。ほぼピークに達していた抵抗運動は、この発表とともに、力を弱めていった。そんな素晴らしいサーフが新しく出来るのはとてもいいことではないか、と納得して散っていったサーファーたちが多かったからだ。
 しかし本格的に抵抗運動に取り組んでいたサーファーたちは、コンクリート海底の建設のほうにより強く反対した。コンクリートで半永久的に変形させられてしまう海底が二か所になるよりは、コンクリート桶の一か所にとどめておいたほうが賢明だという結論に達し、ステートメントにして発表した。
 コンクリート海底の建設プランを作成した人の名が判明した。西海岸の有名なサーファー、チャールズ・ファーデンスだった。彼は波乗りで知られていると同時に、大学では波の科学を専攻し、波乗りの波についての研究で博士号をとった男としても知られている。
 僕たちがコンクリート海底による人工サーフを蹴ったことを知ったファーデンスは、西海岸からハワイへ飛んで来た。そして波乗り仲間に、人工サーフの必要性を熱心に説いてまわった。人工サーフを求めるサーファーたちの運動を、彼は僕たちの運動とは別に作り、キャンペーンを展開した。
 僕たちの運動が弱体化したその間隙を埋めるように登場したのが、マニュエル・パヴァオたちの運動だった。昔のハワイの鉄道に興味を持っているマニュエルたちのグループは、すでに小さな蒸気機関車を一台、昔のとおりに修復して走らせている。
 彼らは砂糖会社の廃屋のような機関車庫に、埃まみれで眠っているミカド型の蒸気機関車に目をつけた。波乗りのための人工海底をつくる費用をそっくり自分たちの計画にまわしてもらえれば、昔の鉄道線路を敷きなおしてミカドを走らせてみせます、と売りこんだ。
 電力会社にとって、この話は渡りに船だったに違いない。マニュエルたちの申し出を好意的に迎えた会社は、抵抗運動のあらゆる分派の人たちを集め、話し合いの場を持った。集まったのは僕たちとマニュエルのグループ、そして地元の抵抗運動のなかの、もっとも穏健なグループだけだった。チャールズ・ファーデンスが組織した人工海底の支持グループは、早くも解体のきざしを見せていた。コンクリートの海底がつくるサーフで波乗りすることの気味悪さに気づき、メンバーの大半が脱落したからだ。
 結局、昔の鉄道の復活がいちばん大きな話題になり、実行委員会が作られて計画は具体的にスタートした。蒸気機関車による昔の鉄道が復活すれば、観光資源としての可能性が大いに期待出来る。地元も乗り気になった。
 昔の鉄道の物語が、企業の意のままである新聞に大きく報道された。コンクリートの排水桶はその陰に押しやられ、抵抗運動はなし崩しに解体した。抵抗運動のスタートが遅すぎたし、誰がどう抵抗しても、コンクリートの桶は建設されることに間違いはなかった。
 オロマナ・ビーチパークの沖で工事がスタートすると同時に、海は立入り禁止になる。サーフは消える。今日が、第57番サーフの最後の日だ。

 ハイウエイが行きどまりになるところまで走りきり、崖の上にサンダーバードを停めた。風に吹かれながら、月と星の明かりのなかで、以上のようなことを僕はジェーン・リンドバーグに語った。
「面白い記事になるだろうか」
 僕が言った。
 ジェーンは、深く息を吸いこんだ。反らせている胸をさらに反らせ、胸のふくらみを強調させて、
「なるわ」
 と、ジェーンは囁いた。
「とても面白い記事になるわ」
 座席のなかで僕はジェーンに向きなおった。いとしくてたまらない恋人の顔を隅々まで鑑賞する感じを出して、僕はジェーンを見つめた。座席の背に右腕をまわし、彼女の瞳を見た。色がないと言っていいほどに淡い彼女の瞳が、月の光を受けていた。
「ほんとに、そう思う?」
 僕が訊いた。
「思うわ」
「よかった」
「素敵なお話だった」
 しばらく無言で、僕はジェーンを見つめた。そして甘く低く抑えた声で、言った。
「じつは、ずっと考えてたことがあるんだ」
「なにかしら」
「いままでの話とは関係ないけれど」
「新しいお話なら大歓迎だわ」
 僕がしかけた罠に彼女がはまったのか、じつは僕こそ彼女の罠にかかったのか、正確な判断はむずかしい。
「どんな感じだろうかと考え続けてたんだ」
「なんのことかしら」
「掌に受ける感じが、どんなかと」
 ロープぎわへ誘いこむように、ジェーンの唇が開いた。僕は右腕を彼女の肩にのばした。見た目よりもひとまわり小づくりな感触で、ジェーンの肩が僕の掌の下に収まった。
「肩の感じなら、想像出来るんだ」
「想像どおり?」
「思っていたよりはるかに女性の肩だ」
「新聞記者として私がいつも守っている鉄則があるの。教えてあげましょうか」
「鉄則?」
「想像よりも現実の取材よ」
 ジェーンは歴戦の強者だった。しかし、負けているわけにはいかない。
「そうか。それはよかった」
 気軽にそう言い、僕は左腕をのばし、Tシャツの下で張っている彼女の胸に掌を触れさせた。ふくらみは掌に心地良かった。まばたきすらせずに、ジェーンは僕の反応を楽しんだ。


 モノクロームのフィルムはセピア色に変色していた。スクリーンに映った小さな四角いセピア色の世界に、映写機のハロゲン・ランプは、昔の快晴の日の、明るい陽ざしをよみがえらせていた。
 双発のDC―3が、その明るい陽ざしのなかに登場した。脚を出し、着陸態勢に入って機首を下げていた。全員が声をあげ、拍手した。昔を感じさせるずんぐりした胴体に、左右一基ずつエンジンのついた、いかにもバランスのよさそうな主翼には、誰もが懐かしさを禁じ得なかった。
 DC―3は着陸した。十八年前のハワイ島ヒロ空港だ。現在との違いに、ふたたび全員が歓声をあげた。カットが変わった。
 DC―3の主翼のうしろにドアがある。そのドアが外に開き、タラップから人が降りていた。小さな女のこが、ドア口に立った。そして片手を振った。
「ジェニファー。これが、きみかい」
 エドウィン・ナカムラという、僕たちの波乗り仲間が訊いた。
「そうよ」
 うしろの席からジェニファーが答えた。
 ジェニファーがタラップを降りて来た。五歳のジェニファーだ。すぐうしろに彼女の母親がいた。母親といっしょのジェニファーは、数人の出迎えを受けた。おたがいに抱き合い、頬に接吻を交わし、レイをかけあった。幼いジェニファーの首には三本のレイがかけられた。幼い彼女の顎が花のなかに埋まった。
 8ミリのホーム・ムーヴィは16ミリにブロー・アップされた。セピア色の世界が大きく粒子荒れしていた。スクリーンによみがえっているこの遠い日の陽ざしの明るさもまた、拡大されていた。昔のホーム・ムーヴィを映写すると常にかもし出されるせつなさが、いまスクリーンいっぱいにあった。
 五歳のジェニファーを、カメラはアップでとらえていた。ふと、彼女はカメラを見た。そして、人見知りして恥ずかしがったような表情とともに、かわいらしく微笑した。スクリーンを見ているみんなが、喜んで手を叩いた。
 ジェニファーは歩き始めた。カメラがその彼女を横から追った。そしてストップ・モーションになり、「ジェニファー・マッキノン 五歳」と、字幕が出た。カットが変わった。
 いきなり、まっ青な空とダーク・ブルーの海、白い波、そして波打ちぎわの黄金色に輝く砂浜が、スクリーンいっぱいに映し出された。
 粒子の荒れたセピア色の画面から一転してこうなると、非常に効果的だった。カメラはパン・ダウンした。波打ちぎわからこちらに向かって歩いて来るひとりの若い女性が、スクリーンの中央にとらえてあった。陽焼けした、姿の美しい女性だ。黒い髪が風になびいた。
 カメラに向かって接近すると、その女性はジェニファーだということがわかった。ビキニを身につけている。レインボー・カラーの、ニットのビキニだ。覆いかくす面積を極端に小さくしたビキニだ。胸の豊かさや腰の張りが、いやがうえにも強調されていた。
 強調するに足るだけの美しさを持った体だ。ジェニファーはなおもカメラに向かって歩いて来た。腰から上がスクリーンいっぱいにアップになったとき、ふたたび彼女の名前が白抜きの字幕で出た。男たちが口笛を吹き、手を叩いて歓声をあげた。
 海岸からあがって来た土手の上に、松の樹が生えている。その松の樹陰にジェニファーは立った。カメラに顔を向けて微笑し、喋り始めた。
「最初に見ていただいたのは五歳のときの私で、ホノルルから初めてハワイ島のヒロ空港に降り立ったときの情景でした。いまもこうして、私はハワイ島にいます。十八年前に初めて知ったハワイ島は、五歳の私にとってはオアフの田舎と変わりなかったのですが、いまの私にとってハワイ島は、いろんな意味を持っています。ハワイ島でのさまざまな出来事や体験のなかから、ぜひともみなさんにお伝えしたいことを、これから私の映画で見ていただきます。楽しんでいただけることを期待します」
 拍手がおこった。カットが変わった。スクリーンいっぱいに、青空だった。左端のほうに、白く輝く雲が見えた。四角いフレームの上部から斜めに、銀色の飛行艇が一機、入りこんで来た。やがて方向を変えたその飛行艇は、カメラに向かって、青い空からまっすぐに飛んで来た。
 オロマナ・ビーチパークで、六か月前、僕とジェニファーがいっしょに撮影したシークエンスだ。飛行艇は美しく着水し、プロペラが止まり、ふたりのサーファーが彼らのサーフボードに続いて、飛行艇から海へ飛びこんだ。ラリー・デイヴィスとクレイトン・カウアだ。
 あの日、僕たちが16ミリのムーヴィ・カメラのレンズ越しに見たふたりの波乗りが、オロマナの第57番サーフとともに、そのままスクリーンの上に再現された。誰もが歓声をあげた。この第57番サーフも、いまは存在しない。
 波乗りを終えたふたりのサーファーは、砂浜に向かって来る。波打ちぎわを砂浜にあがり、それぞれサーフボードをわきにかかえ、濡れた体を光らせながら、カメラに向かって歩いて来る。
 歩いて来るふたりの体がぼやけてスクリーンいっぱいに広がり、『第57番サーフ最後の日々』と、タイトルが出た。きれいなタイトルだった。全員が盛大な拍手をした。滑らかな美しい運びのなかに、快適なテンポが脈動している映画だということは、ここまで見ただけで充分にわかった。
 ジェニファーはついに我慢出来なくなった。自分が作っている16ミリの記録映画『第57番サーフ最後の日々』が九十パーセント完成したところで、仲間たちを集めた完成寸前の試写を、いまおこなっている。
 これから撮影してつけ加える最後の部分をのぞいて、全篇のエディティングは完成している。音楽以外の音も入った。音入れをおこなっているスタジオの映写室で、僕たちはこうしてジェニファーの映画を見ている。
 第57番サーフが消えるにいたるまでの事実経過を、けっして退屈にはならない画面の連続のなかに、ジェニファーは非常に要領よく的確に説明した。発電所の冷却排水管のことから始まって、抵抗運動、電力会社による詐欺的な妥協案とその発覚、コンクリートの人工海底、抵抗運動の分裂、そして昔の蒸気機関車の復活にいたるまでが、面白く画面に展開した。
 鉄道線路が敷きなおされるあたりの、現実の光景をヘリコプターから撮ったショットがあり、それが淡く溶けていくと、模型で作ったおなじ光景が、入れ違いに浮かびあがって来た。マニュエル・パヴァオたちのオフィスにある、あの模型だ。その模型の光景を走るミカド型蒸気機関車の模型が、近接撮影でとらえられていた。撮影はとても巧みだ。
 西海岸から来た美人の新聞記者、ジェーン・リンドバーグも画面に登場した。新聞がクロース・アップになった。ジェーンが第57番サーフの消滅に関して書いた記事だ。全員が手を叩き声をあげた。
 ジェーンが書いた記事は、抵抗運動の側に立って好意的に書かれた、明快な記事だった。左隣の席にいたラリー・デイヴィスが、僕の耳に顔を寄せて囁いた。
「ごくろうさん、バリー。きみのおかげだ」
 薄暗いなかで、ラリーは画面を見て微笑していた。ジェーンの相手を務めるのはかなりたいへんなことだった。彼女が取材をすませて西海岸へ帰っていくまでに、僕は何度、彼女と寝なくてはならなかっただろう。
 砂糖会社の機関車庫に眠っている埃だらけのミカドがスクリーンに映り、そこからその蒸気機関車の復活の話になった。この鉄道の歴史を紹介しつつ、鉄道の復活に期待を寄せる人たちの声をおりこみ、ジェニファーのカメラはレストアの作業を手際よく追った。蒸気機関車のレストアがほぼ完成し、罐のなかに蒸気を作れば動き出すという段階まで来たところで、ジェニファーの映画は終わっていた。
 スクリーンに四角い明かりだけが映り、やがて数字や図形がいくつも目まぐるしく走ったあと、ぜんたいがまっ暗になった。映写室の明かりがついた。見ていた全員がジェニファーを振り返り、盛大な拍手をした。映画の出来ばえを誰もが讃えた。
 サウンド・トラックを担当しているエンジニアが、みんなに熱いコーヒーをいれてくれた。この映画に使用する音楽をテープで聴きながら、僕たちはジェニファーと話をした。
「あとは蒸気機関車が走るところを撮ればいいだけだな」
「そうなの」
「どんなふうに撮るつもりだい」
「早朝の明るい光のなかで、機関車庫に向かって、線路の上をドリー・インしていくの。機関車庫の前で止まるとドアが左右に開いて、暗いなかでミカドがシリンダーから蒸気を吐くのよ。そして、走ってる様子を、いろんなふうに撮る」
「ラスト・シーンは?」
「夕陽を西に見ながら北へ走っていく蒸気機関車を美しくとらえてから、第57番サーフに出来たコンクリートの桶を、やはり夕陽をバックにシルエットでとらえ、望遠レンズで引っぱった大きな太陽が水平線に沈みきると、クレディットが水平線に向かってフレームの上から下がって来て、水平線で消えるの。そしてENDのマーク」
「きれいだ。早く見たい」
16ミリ記録映画のコンテストに参加するつもりなの」
 自分の映画の出来ばえに関して、ジェニファーは誰よりも深く満足しているようだった。
 三輛だけすでに復元された客車を牽引して、一九二八年製の蒸気機関車が全線公開試運転をおこなうのは、今日から一週間後だ。


 午前中の時間を、彼女はいつも窓辺ですごす。この四十年間、ほとんど毎日、そうしてきた。今日も彼女は窓辺にいた。
 七十二歳の、やせた老体を籐椅子に落ち着け、鉢植えの観葉植物がいくつか乗っている幅の広い窓枠に片腕をもたせかけ、彼女はいつもとおなじように窓の外を見ていた。病院の四階の窓から見える光景は、毎日おなじだ。
 明るい快晴の日なら、まっ青な空の広がりの下に、ダーク・ブルーの海と水平線が遠くに見える。太陽の光を受けて白くまぶしく輝く雲が、いつもおなじ場所におなじかたちで、浮かんでいるように思える。
 オロマナ・ビーチパークの小高くなった丘。その下の海岸。ハイウエイ。ハイウエイの内側をハイウエイと並行して走っている土手。ここには、すでに鉄道の線路が敷きなおされている。線路のさらに内側に沿って帯状にのびている林。そして、砂糖キビ畑の濃い緑の起伏。畑のなかをうねっている作業用の道路の赤土。砂糖キビ畑のなかで作業をしている黄色いトラック。
 こんなものいっさいが、強い陽ざしのなかに輝き続ける。見ていて変化を楽しめるような光景ではない。いつだってまったくおなじだから、午前中を窓辺ですごす彼女は、変化のほとんどないこの景色のぜんたいを飽かず眺めることにより、永遠というものの具現を見ているような気持に、次第になっていく。
 彼女の心は鎮静してくる。いつ見ても変化のない光景は、普通ならうんざりしてしまうのだが、彼女に対しては鎮静剤のような効果を持った。ベッドの上で目覚めてからの彼女ぜんたいを、かなり強く支配する不安定な気持、そして原因も理由もないのになぜだか感じる、ごく軽い恐怖のような心理状態を、こうして窓辺の籐椅子にすわって変化にとぼしい光景を午前中ずっと眺めることにより、彼女は自己治療する。
 お昼が近づく頃、彼女の気持は落ち着いてくる。籐椅子に腰だけ降ろして硬くしていた体は、ゆったりしたおだやかな状態をとり戻す。背もたれに背を預け、腕や脚から力を抜き、ほんのりと微笑すら浮かべて、彼女は窓の外を見続ける。
 雨期の雨の日や冬の終わりの雨嵐の日などには、彼女はほとんど一日、ベッドですごす。窓の外を見ていられないからだ。雨や風は動き続ける。窓の外の景色に変化をあたえる。このことに、不安定な彼女の情緒は、耐えられない。動き続ける雨や風が、窓の外の景色にさらに大きな変化をもたらし、その変化が彼女にのしかかっていく。
 雨や風の日に強く感じる不安を、彼女はそんなふうに看護婦に説明している。そんな日には、優しい看護婦が一日、彼女につきっきりになる。忍耐力において特にすぐれた、無限の優しさの権化のような看護婦が、その役にあたる。
 朝から夜まで、態度や気持になんの変化もなく自分に接し続けてくれる看護婦といっしょだと、彼女の不安は少しずつ小さくなっていく。部屋に明かりを灯す頃、彼女は普通と変わりのない状態になり、趣味の手芸を始めたりする。
 毎日、快晴の日が続いている。今日も素晴らしく明るい陽ざしだ。空も海も、そして海の波も、目に映じるあらゆるものが、くっきりと鮮明だ。
 いつもの景色を窓のガラス越しに見渡しながら、自分の気持が次第に鎮まっていくのを感じ、彼女はうれしかった。気持がうまく落ち着かないと、昼の食事を彼女の体が拒否してしまう。食べられなくなるのだ。お昼が食べられないと、夕方まで不安な状態が続く。
 毎日なんの変化もない窓の外の景色だが、この六か月間にふたつだけ、小さな変化があった。
 ひとつはオロマナ海岸の沖に出来た、コンクリートの四角い桶だ。近くから見ると、不気味に巨大な四角いコンクリートのお化けなのだが、彼女の窓からだと、波のなかに置いた玩具のようだ。海底の石油を採掘するための作業船のような船が、連日、沖に出て建設作業をしていた。いまは、もういない。コンクリートの桶は完成している。
 もうひとつの変化は、ハイウエイの内側の土手に敷かれた鉄道線路だ。土手に沿った帯状の林が途切れるところから、ある日いきなり、この線路は顔を出した。何人かの作業員たちが、路床を整地してはバラスを敷き、枕木をならべてその上にレールを少しずつ、敷いていった。
 この線路もすでに完成している。窓から何日にもわたって見えていた作業員たちの姿は、もう見えない。レールは二本の銀色の線として、土手の上に光っている。そしてこの線路も、彼女がいる窓辺から見ると、玩具の国のもののようだ。
 このふたつの変化が起き始めた頃、彼女は例によって、少なからぬ不安を覚えた。ふたつの小さな変化が、やがてもっと大きな変化を生み、それが自分にひどい影響をあたえるのではないか、という不安だ。
 だがその不安も、すでに消え去った。沖の波間のコンクリート桶も、土手の上に光っているレールも、いつも窓から見える光景の一部分として、完璧にぜんたいに溶けこんでいる。見ていても不安は感じない。
 というよりも、見ることが楽しくさえなっている。コンクリート桶のほうはあまり楽しくないのだが、線路は面白い。土手の上をくっきりと、おたがいに並行に、銀色に輝いてのびている。美しい軌跡だ。陽のあるあいだは、きらきらと光って楽しい。
 何度も彼女はそのレールを見る。林の途切れたところから始まって、内側に向かって大きくカーヴを描きつつ、砂糖キビ畑を縁取って、くっきりと銀色だ。窓から見える視界の左側へ、その線路は消えている。
 端から端まで何度も、彼女は視線でそのレールをたどる。風に揺れ続ける砂糖キビの葉の海とは対照的に、銀色の線路はぴたりと二本寄り添ったまま、動かない。いつ見ても変わりのない、おだやかな二本のカーヴは、彼女の心をなごませる。
 籐椅子にすわり、窓の外の光景を午前中ずっと眺め続ける彼女は、周期的にレールに視線を戻す。銀色に輝く軌跡を、視線でいつくしむ。いまも彼女はレールを見ていた。
 窓の端からレールのカーヴに沿って、二本の銀色の輝きを、ゆっくり静かに追っていた。おだやかに大きくカーヴしているありさまが、目に心地良い。左から静かにレールをたどっていった彼女は、レールの右の端まで視線を移動させた。土手の内側に帯状にある林の向こうに、銀色のレールは消えていた。
 林の突端までレールを目で追ってきた彼女は、視線を遠い水平線に戻そうとした。これこそ不動不変の象徴である水平線の、深い奥行きをたたえたまっすぐな線を楽しもうとした。林の向こうに消えているレールから視線をはずしたその瞬間、彼女のその視線に引き出されるようにして、蒸気機関車が一台、林から出て来た。
「OH!」
 と、彼女は叫んだ。細い両腕をあげ、両手の指先でこめかみを押さえた。両側から自分の顔を支えるようにし、
「OH!」
 とふたたび叫んだ。
 煙突から灰色の煙を噴きあげ、蒸気機関車は林の向こうから、姿をあらわした。ダーク・グリーンに塗られた車体に、パイプや手すりなど、ところどころ使ってある赤が美しい。客車もあらわれた。昔のままに作りなおした三輛の客車を引っぱり、蒸気機関車は土手の線路を軽快に走った。
 彼女は椅子から立ちあがった。
 砂糖キビ畑の外縁を大きくカーヴしている線路を、汽車は走った。昔のままに完璧に復元されたその汽車は、おなじく昔とほとんど変わらない風景のなかを、南へ向かって走った。昔の蒸気機関車が、古風な客車を三輛、引っぱって走っている。
 ただそれだけの光景だが、窓辺に立って両手でこめかみを押さえている彼女にとっては、すさまじい大変化だった。彼女は悲鳴をあげた。心の内部のもっとも深い部分から必死に助けを呼んでいるような、激烈な傷みをともなった金切声だった。
 汽車はカーヴを曲がった。窓から見える光景の中央をとおりすぎ、視界の左へと移動した。見えなくなるまで、彼女は汽車を見つめていた。汽車が視界から消えると、もう一度、彼女は絶叫した。窓の外にある景色のぜんたいに向かって絶叫し、彼女は自分の部屋に向きなおった。
「メリー!」
 彼女は看護婦を呼んだ。
 壁に寄せた小さなテーブルまでよろけながら歩き、看護婦たちの部屋につながっているブザーのボタンを押した。ブザーの上に片手を置き、もういっぽうの手をその上に重ね、わずかな体重を乗せきってボタンを押した。
 テーブルを離れた彼女はうしろ向きによろけ、壁に背がぶつかった。壁に背を預けたまま、彼女は部屋を見渡した。住みなれた部屋なのだが、いまの彼女の表情には、目に見えるものすべてが自分の理解を超えているときの、驚愕ととまどいがいっぱいに宿っていた。
「私はなぜここにいるの?」
 彼女は言った。
「なぜ、ここに!」
 部屋のドアが開いた。ポリネシア系の看護婦メリーが、入って来た。優しい顔に微笑を浮かべ、両腕を広げて彼女に歩み寄った。
「自分が誰なのか、たったいま、わかったわ!」
 七十二歳の老女の顔は、耐えがたいショックを体験した直後の人の顔だった。あまりのショックにフロアに倒れ、そのまま死んでしまうのではないか、と看護婦のメリーは感じた。
 駆け寄ったメリーは彼女を抱きとめた。
「私はマーシア・レイノルズよ。この町に住んでる小学校の先生だわ。いまの汽車で学校へいくのよ。だのに、なぜ、私はここにいるの?」


 ジェーン・リンドバーグは早業をやった。見事なものだ。決断と行動の素早さは、まさにジャーナリズムの世界を達者に泳いでいる人間のものだった。
 昔どおりによみがえった砂糖会社の鉄道が、全線公開試運転をおこなったその日、病院の窓から蒸気機関車を見た記憶喪失の老女が突然、記憶をとり戻した。そのニュースを、ハワイと西海岸の友人を介して、ジェーンはインディアナ州のフォート・ウエインで受け取った。ジェーンはハワイ島ヒロ行きのノースウエスト機に飛び乗った。
 今回は僕にはほとんど頼ることなく、取材して記事を書きあげ、僕には電話を一度くれただけで、西海岸へ帰っていった。前回にジェーンが書いた第57番サーフについての記事の続きという感じで、記憶をとり戻したマーシア・レイノルズのことが記事になった。
 ドラマチックな記事だった。すべてのいきさつをよく知っている僕でさえ、その記事が掲載された西海岸の新聞を、夢中で読んでしまった。新聞記事というよりも、読者を引っぱっていく要領を非常によく心得た娯楽読物になっていた。ジェーンの書き方もさることながら、出来事そのものがひどくロマンチックなのだ。
 試運転の機関車を病室から見た記憶喪失のマーシア・レイノルズは、彼女が看護婦のメリーに言ったように、たしかに島のこの田舎町の先生だった。小学校の先生だ。
 四十七年前、彼女がまだ二十四歳だったある日、自動車事故にあった。居眠り運転の対向車が車線へ斜めにはずれつつ猛スピードで突っこんでくるのをよけきれず、正面衝突した。
 頭部に損傷を受けた彼女は、一週間にわたって意識不明だった。そして意識が戻ったときには、重傷の記憶喪失となっていた。初めのうちは、言葉もほとんど駄目だった。各地の病院を転々とし、一時はアメリカ本土に帰ってもいた。数年をそこですごしたのち、事故からちょうど十年後に、かつて自分が先生をしていたこの島の病院に帰って来た。
 言葉に関する記憶はほとんど戻った。そのほかの記憶や知能も、日常生活にはなんら支障ないところまで回復したのだが、肝心の自分自身に関する記憶は、回復しなかった。かつての自分に関して、外部からいくら教えられても、マーシアは反応しなかった。
「わからない、わからない」を繰り返すだけで、自分が誰であるのかを自分自身がつかみきれないという、奇妙な空白の空間に宙吊りですごす年月が、二十年、三十年と、いつのまにか重なっていった。
 情緒不安定が目立つようになり、不安感や鬱病に似た症状にとりつかれ始め、記憶喪失よりもそちらのほうが、治療の対象としては重要になった。病んだ心は体を弱らせていった。精神安定剤の連用は心臓に負担をかけた。肝臓や腎臓などにも、連鎖反応的な影響があらわれて来た。
 記憶を喪失して四十年目に入る頃、マーシア・レイノルズの精神状態は少しだけ好転した。彼女を常に悩ませていた不安感や憂鬱感がやわらぎ、周期的なものへと変化した。不安感のおそって来る周期が、次第に長くなった。と同時に、不安感を彼女ひとりで多少はコントロール出来るようになった。
 そんな彼女は、病室の窓から、オロマナの海とその周囲の景色を、毎日眺めていた。そして土手にレールが敷かれていくのを見守り、林の向こうから昔の蒸気機関車が走り出して来るのを、目撃した。小学校の先生をしていた当時、このミカド型の蒸気機関車が引っぱる客車に乗って、毎日マーシアは学校にかよった。
 記憶を喪失した脳の、複雑に交錯したメカニズムが、ふとした小さな刺激をきっかけにどんな働きを見せるものなのか、見当もつかない。だがマーシアの場合は、昔とおなじたたずまいで走る蒸気機関車を見たとたん、四十七年間にわたって失われていた記憶の大半が、いきなり大量の輸血を受けたように、体内に戻って来た。
 復元されていく鉄道と、その新品の線路を見下ろす丘の上の病院にいる記憶喪失の女性との、スリリングな接近の物語を、ジェーン・リンドバーグはサスペンス豊かに描いていた。

 寺の広場では盆踊りがおこなわれていた。芝生の生えた広いスペースが寺の正面にあり、両わきは熱帯樹の林で黒い影になっている。広場の前は町を遠くはずれた田舎道だ。広場の中央に、背の高い椰子の樹が二本、寄り添うように立っている。その椰子の樹に寄せて、盆踊りのやぐらが組んであった。
 やぐらから周囲の熱帯樹やお寺の建物にロープが張り渡され、明かりの灯った提燈がいくつも華やかに下がっていた。日本の歌のレコードが鳴り、きれいな色の浴衣を着た女性たちが、デモンストレーションの踊りを見せていた。人々が輪になってやぐらを囲み、楽しそうに踊りを見ていた。
 今夜の寺は忙しい。日本から派遣されてこのお寺にいる僧侶は、五〇年代のダッジ・ダートを駆って檀家めぐりだ。奥さんは、手伝いに来てくれている近所の日系の老婦人たちを指揮して、冷たい飲み物や寿司、サンドイッチ、照り焼などを用意している。
 お寺の広間には、男たちが集まっていた。深く陽焼けした、日系の初老の男たちだ。五十代なかばから六十代の前半にかけての年齢だ。僕が来たとき、集会はすでに始まっていた。初老の男たちに混じって、鉄道をよみがえらせたマニュエル・パヴァオやボブ・サントスたちの顔も見えた。
 初老の男たちは、全員、かつての美しい白人の女教師、マーシア・レイノルズの教え子たちだ。記憶をとり戻したマーシアのために、合同でクラス会を開こう、という計画が持ちあがっている。その計画について語り合うのが、今夜の集会だ。マーシアにつきっきりになっている看護婦メリーのアシスタントである、ゲイル・モデストという女性が、マーシアの状態について説明した。
 記憶が戻ってから、一時、マーシアは情緒不安定のきわみにあったという。記憶が戻ったのはよかったけれど、それと入れ違いに、四十七年という時間の経過の実感が、すっぽりと抜け落ちた。ある日の朝、目覚めたら、四十七年も年月がたってしまっていたのと、おなじ状態なのだ。よみがえったほんとうの自分に対して、マーシアはまだ完全には反応出来ずにいる。
「急激な変化やショックは、可能なかぎり避けたいのです。しかし、まわりにいる人たちの誰もが、マーシアのことを心から気にかけているのだということは、チャンスあるごとに、具体的に示してあげるといいのです」
 ゲイル・モデストは、そんなふうに言った。
 四十七年にわたって記憶を失っているあいだに、自分に対して関心を持ってくれる人をすべて失ったのだ、とマーシアは強く思いこんでいるという。不安感に代わって、孤独感が、いまの彼女を強く支配しているのだ。
 マーシアのためにみんなでクラス会を開くのは、マーシアにとって非常にいいことだろうという結論が、盆踊りの寺の集会で導き出された。海辺にあるリゾート・ホテルの、美しい部屋でクラス会はおこなわれることになった。僕やラリー・デイヴィス、それにジェニファーたちも、招待された。
 当日の朝、波乗り仲間の家に泊まっている僕のところへ、ジェーン・リンドバーグから電話があった。
「今日、マーシアのクラス会のパーティがあるんですって?」
 と、ジェーンは訊いた。彼女の声はいつも以上にはずんでいた。
「素晴らしい偶然だわ」
「なんのことだい」
 それには答えず、ジェーンはパーティの会場と時間を訊いた。そして、
「びっくりするようなことがあるわよ」
 と、言った。
「とてもドラマチックなこと。西海岸でついに探し当てたの」
「いま、どこにいるんだ」
 ジェーンは笑っていた。
「パーティには私も出席するわ。会場で会いましょう」

 パーティは盛会だった。海に向かって広く張り出したバルコニーのある、大きな続き部屋だ。バルコニーには段差があり、熱帯樹の植えこみが巧みに配置されていた。夕方になると海から心地良い風が吹いた。
 マーシアは元気そうだった。昔の教え子たちが語る思い出話を、熱心に聞いた。ときたま頬に涙を流した。神経はたかぶっているのだろう。パーティが盛りあがったところへ、まるでタイミングをはかっていたかのように、ジェーン・リンドバーグが登場した。白髪の白人男性をひとり、彼女はつれていた。
 背の高い、やせた男だ。夕方のパーティに出るための、趣味のいい、おかねのかかった服に身を包んでいた。体の手入れと、ほどよい陽焼け、それに陽気な気質とによって実際の年齢は大幅に覆いかくされているが、歩き方から見て七十歳を越えていることはたしかだった。
 その男を、ジェーンは、まっすぐにマーシアのところへつれていった。椅子にすわったままのマーシアに、ジェーンはその男を紹介した。
「マーシア、おわかりになるかしら。こちら、メルヴィン・ペインさん。昔のあなたの恋人」
 マーシアはショックを受けたようだった。心の動揺を必死に抑えて、彼女はメルヴィンに応対した。メルヴィンのことを、彼女は思い出していた。
 抱き合って再会を喜びあい、マーシアは少しだけ泣いた。初めのうち、メルヴィンはマーシアの精神状態に気づかず、長いあいだ遠くにいて久しぶりに帰って来た人と会うような気楽さで、マーシアと接していた。だがいまのマーシアには細心の注意が必要なのだと察すると、パーティのあいだじゅう彼は彼女のそばを離れず、彼女をかばった。
 マニュエルの仲間のミュージシャンたちが、昔の歌をいくつも演奏した。ウクレレを借りたメルヴィンは、彼らの伴奏を得てマーシアのために歌った。椅子にすわったマーシアの前に片膝をつき、『恋人よ、君に、アロハ』という歌を歌った。渋い張りのあるいい声で、情感をこめた。目が涙でうるんでいた。
 その夜、マーシア・レイノルズは、心臓発作にみまわれた。大事にはいたらなかったが、かつてなかったほどの憂鬱感に深く落ちているということだった。メルヴィンのことを、ジェーンは、昔のマーシアの恋人だと言っていた。四十七年前から今夜の再会にいたるまでのドラマを、ジェーンはまたサスペンスたっぷりに新聞に書くつもりに違いない。


ジェニファーの映画『第57番サーフ最後の日々』の完成特別試写会のあと、僕とラリー・デイヴィスは、ふたりだけでアラモアナのオフィスに帰って来た。映画は素晴らしい出来ばえだった。友人のミュージシャンたちを総動員したオリジナル・スコアが、抜群の効果をあげていた。第57番サーフの消滅と、それをめぐって起きた出来事のすべてを、スクリーンの上で体験しなおし、確認することが出来た。
 オフィスには小さな小包みがひとつ届いていた。南アフリカからだった。差出人はチャールズ・ファーデンス。第57番サーフが消えるかわりに、コンクリートの人工海底でサーフを作り出すことを電力会社に売りこんだ、あの男だ。
「南アフリカか」
 小包みの重みを手で量りながら、ラリー・デイヴィスが言った。
「旅に出るとは聞いていたけれど」
 旅とは、サーフボードと8ミリの撮影機とともにおこなう、サーフ・サファリだ。
「この中身は五十フィートほどの8ミリ映画だよ」
 ラリーの言うとおりだった。小包みのなかから、リールに巻いた8ミリのカラー・フィルムが一本、出て来た。地図を描いた紙が添えてあり、「ラリー。この波なら、きみにも気に入ってもらえるだろう。きみの新しい恋人になれそうなら、アロハを言いに来てほしい」と、走り書きしてあった。
「映写機にかけてみてくれ」
 ラリーはフィルムを僕にほうった。
 奥の部屋のプロジェクターに、僕はフィルムをかけた。入って来たラリーは、スクリーンに向かって置いてあるソファにすわった。部屋の照明を消すため、僕は壁のスイッチまで歩いた。僕を振り返ってラリーは言った。
「おい、バリー。このところ俺たちは、映画ばかり見てるな」
「波乗りに映画はつきものだから」
「たしかにそうだ」
「ジェニファーの映画にもつきあったし」
「映画ってのは、しかし、影だよ。光と影だ」
「平面に映写された光と影を見てるわけだ」
「本物を見にいこう」
 ラリーは言った。
「チャールズが送ってくれた波のフィルムが素晴らしかったら、ただちに南アフリカへいこう」
「ジェニファーもいくと言うだろうな。また映画を撮るために」
 ラリーは笑った。
「ひそかに出かければいい」
「そうしよう」
「よし、きめた。映写してくれ」
 あのチャールズ・ファーデンスがわざわざ8ミリに撮り、送って来た波だ。相当なものに違いない。部屋の照明を消し、僕はプロジェクターへ歩いた。
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ベイル・アウト



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 電話が鳴った。オフィスの手前の部屋と奥の部屋と、両方で鳴っていた。どちらでも取れる電話だ。鳴っている電話のあるデスクまで、僕は歩いた。あと一歩というところで、ベルは止まった。奥の部屋から、電話に出て応対しているラリー・デイヴィスの声が聞こえた。
 しばらくして、
「おい、バリー」
 と、ラリー・デイヴィスが僕を呼んだ。
「なんだい」
「電話に出てくれ。グッド・ニュースだ。マウイから」
 電話のあるデスクまで、僕は引き返した。そして、真珠貝の色をした、つるつるの受話器を取りあげた。落とさないように両手で持ち、耳に当てた。かたちとつるつるの手ざわりのせいだろう、僕がこの電話の受話器を持つと、三度に一度は滑らせて落としてしまう。
 電話はレイモンド・カアイラウからだった。冬のハワイにたくさんいる一流サーファーたちのあいだでも、真の意味でトップ・クラスに数えることの出来るひとりだ。ワイメア湾の大波を知り抜いていることにかけて、レイモンド・カアイラウの右に出るものはいない。大昔、このハワイにカヌーで移住して来たタヒチの祖先まで、その家系をたどることが出来るという。
「レイモンド」
「やあ、バリー」
「どうなんだ、マアラエアの波は」
「まだ待ち続けているよ」
 太い男性的な声で、レイモンドは低く笑った。
「あまり待つと、波の乗り方を忘れてしまうぞ」
「ここは夏の波だからな。ところで」
 レイモンドは、いつものように真剣な声に戻り、次のように言った。
「きみたちが探している、アランというサーファーについてだけど」
「グッド・ニュースだって?」
「完璧にグッドではないのだけど、アランを知っているという男たちと知り合った」
「なるほど」
「ホクレア号の航海のために、タヒチから来た男たちだ。知り合った男たちはふたりいて、そのうちのひとりは、こんどの航海でナヴィゲーターを務める男だ」
「ほんとにアランを知っているのかい」
「間違いない」
「よし。それでは」
「じつに面白い話なんだ。想像だけでは、ここまで面白くはならない。真実に違いない」
 レイモンドの声を受話器の奥に聞きながら、僕はデスクに腰を降ろした。そして上半身をひねり、向こうの窓から外を見た。
 アラモアナの空が見えた。冬の午後の、永遠の悲しさの具現のような通り雨が、陽光のなかを過ぎ去った直後だ。洗われて澄みきった青空に、白いちぎれ雲が白く輝いていた。窓枠によって四角に切りとられた空間の下のほうに、雨に濡れて風に揺れる椰子の葉が見えた。
 窓の右側の壁に、アランの写真が貼ってあった。僕たちのオフィスが作った、アランの尋ね人ポスターだ。やや上目づかいにカメラを見て微笑しているアランの、色刷りの顔写真の下に「アランという名のこのサーファーについて、情報の提供を皆さんにお願いします」という文句が見える。
「アランのポスターを見て、絶対にこの男だ、とふたりは言っている」
「よし」
「どうしたらいいだろう」
「僕がマウイへ出向こう」
「そうしてくれるか」
「アランを探している女性をつれていく」
「俺たちは、マアラエアの、ファーマー・ジョーのところにいる」
「いくよ。ホクレア号も見たいし」
「いつになる?」
「彼女の都合による。すぐに彼女と連絡をとり、折り返し電話する」
「その女性の名前は、なんといったっけ」
「ダフネ・ウォーカー」
「そうだ、ダフネといったな」
「彼女が持って来た映画を、レイモンドはまだ見てないだろう」
「見ていない」
「アランが映ってるんだ。七分ほどの短いフィルムだけど」
「素晴らしい波乗りのシーンがあるということは、見た人から聞いている」
「フィルムを持っていこう」
「それはありがたい」
「すぐに連絡する」
 電話を切った僕はデスクを降りた。窓まで歩いた。眼下にある光景、つまり走る自動車や道路、建物、アラモアナ公園の椰子の樹、そして向こうの海を、僕は眺めた。
「アランが見つかったのか」
 と、奥の部屋からラリーが叫んだ。
「アランを知っているというふたりの男が見つかった。タヒチから来た男たちだそうだ」
 そう答えながら、僕は壁に貼ってあるアランのポスターを見た。情報を提供してくれる人たちのために、連絡先の電話番号が印刷してある。このオフィスの電話番号と、ダフネ・ウォーカーが友人と住んでいる、カイムキの家の電話番号だ。
 さきほどの電話機まで引き返し、受話器を持ちあげた。耳に当てようとすると、受話器は滑って僕の手を飛び出した。両手で胸に抱きとめるようにしてデスクに落ちるのをふせぎ、左手に握りなおした。
 ダフネ・ウォーカーの家の番号を、僕はプッシュ・ボタンで押した。ダフネは外出中だった。週末の買物でスーパーマーケットまでいっているという。帰って来たら折り返しこのオフィスに電話をくれるよう、電話に出た女性に僕は頼んでおいた。
「マウイへいくのかい」
 受話器を置いた僕に、奥の部屋からラリーが訊いた。
「ダフネをつれていく」
「俺もいきたいんだがなあ」
 残念そうにラリーが言った。こなさなければならない仕事が山のようにあり、ラリーは当分はホノルルを離れることが出来ない。ラリー自身が直接に処理しなければならない仕事だから、僕が分担するわけにもいかない。
 奥の部屋へ僕は歩いた。
「老後にそなえて、事務所の重役にでもなる練習を積むには、いまが最適だ」
 笑いながら僕が言った。
 顔をしかめて椅子をずらし、ラリーは両脚をデスクにあげた。
「老後の計画は、もう出来あがっている」
 ラリーは言った。
「パンチョ・ゴールドスタインのタコス・スタンドを引きついで、北海岸でタコスを売るんだ。おまえの孫たちには安くしてやるよ」
 僕とラリーは短く笑った。オフィスの連中はいま休暇で出払っている。僕とラリーのふたりが留守番だ。
「しかし、それにしても、長かったな」
 ラリーが言った。
「ダフネが初めてここへ来たのは、いつだったかな」
「三か月前だ」
「そうか。三か月のあいだ、アランに関する情報は、なにひとつ入って来なかった」
「なんにもなかった」
「普通だったら、役に立たない情報や面白半分のでっちあげにしろ、いろいろと話は舞いこんで来るはずなのに」
 ラリーの言うとおりだ。アランという名のこのサーファーを探してもらえないか、とダフネ・ウォーカーに頼まれてから、すでに三か月になる。ハワイにあるサーファーたちのたまり場には、もれなくアランのポスターを配布し、掲示した。南アフリカ、オーストラリア、それに西海岸、さらには東海岸のサーフ・エリアにも、ポスターは配った。だが三か月間、アランに関する情報はなにひとつ得られなかった。
「アランを知っているのはタヒチから来た男たちだと、カアイラウは言っていた」
「そうか、タヒチか」
「ふたりいて、そのうちのひとりは、ホクレア号の大航海に参加するナヴィゲーターだそうだ」
 後頭部で両手の指を組み合わせたラリーは、上体を反らせて天井を仰ぎ見た。
「アランといえば、ダフネが見せてくれたあの短いフィルムのなかで俺がいちばん好きなのは、虹の出て来るとこだな。あれは、なかなかよかった」
 ラリーが言うシーンを僕は思い出した。海岸と、その海岸へせり出している岩山のような小さな岬の突端が、同時にスクリーンに映る。スクリーンの左半分が海岸、そしてその向こうに海。右半分は濃い褐色の岩山だ。
 カメラはその岩山に向かって接近し、突端をまわりこんで向こうに出ると、海から陸へ、大きく半円の虹が立っている。淡い灰色の空を背景に、くっきりと鮮明に、いかにも虹らしい虹だ。虹の根もとは波に埋まっている。埋まっているその地点が、陸から見て右から左へと走る長いサーフの、テイクオフ・ポイントだ。
 スクリーンを見ている人たちの視線が虹の根もとにごく自然に集まった瞬間、ひとりのサーファーがテイクオフする。強めのオフ・ショアの風を受けて、サーフの頂上からまっ白に水がはぎとられ、飛沫になって高く舞いあがる。そのなかからあらわれたサーファーは、ちょうどその瞬間、虹の根もとにいる。虹のなかからサーファーが躍り出たような錯覚を、スクリーンを見ている人たちは覚える。
 テイクオフしたサーファーは、虹を置き去りにして、あるいは、虹に見守られつつ、長いサーフを滑っていく。静かな美しさの底から沸きあがって来るような躍動感があり、見る人の心を素手でとらえる。
「偶然にあんなふうに撮れたのだろうな」
 ラリーが言った。
「きっとそうだろう」
「狙ったって、あんなにうまくはいかない」
「スティーヴが感心してた」
「スティーヴが?」
「僕がスティル写真でやっとどうにか撮ることを、ダフネは16ミリのムーヴィで、いとも簡単に流麗に撮っているって」
 スティーヴは僕たちの共通の友人だ。波乗りを専門にスティルやムーヴィで撮るカメラマンで、非常に優秀な感覚と練達した技術を持っている。
「彼女を遊ばせておくのは、もったいないな。いまダフネは、なにをしてるんだ」
「さあ」
「このオフィスの仕事として、映画を撮らせようか」
「いいかもしれない」
「いっしょにマウイへいくのだったら、そんな話もしてみてくれ」
 ラリーがそう言い終わったときに、電話が鳴った。
「ダフネだ」
 ラリーが言った。僕が電話に出た。
 ラリーの言うとおりだった。ダフネのクールで明晰な声を、僕は受話器の奥に聞いた。
「買い物に出てたの。電話をいただいたのですって?」
「明日、マウイへいくんだ。来れるかい」
「いいわよ。でも、なぜ?」
「アランのことなんだ」
「まあ!」
「アランを知っているというふたりの男を、仲間のサーファーが見つけてくれた」
「ついに。ぜひ、いきます」
「ホクレア号の航海のために、タヒチから来たふたりの男が、間違いなくアランを知ってるそうだ」
「ホクレア号って、ハワイからタヒチまで大昔とおなじやり方で航海するという、あの双胴のカヌーのことかしら」
「そう」
「面白そう」
「明日の午前中に出発しよう」
 彼女の住んでいる家まで迎えにいくことを僕は約束した。アランの波乗りを撮影した短いフィルムを持っていくよう、ダフネに頼んだ。
 アロハ・エアラインの時刻表で飛行機を選び、空港のオフィスに電話し、とりあえず片道の席をふたつ予約した。マウイ島にいるレイモンド・カアイラウに電話をかけた。明日そちらにいくからと伝えると、レイモンドは次のように言った。
「タヒチから来たふたりの男によると、アランはもうこの世にはいないだろうと言うんだ」
 どうしよう、とレイモンドは言う。どうすることも出来はしない。
「ダフネといっしょに、そのふたりから詳しく話を聞くことにしよう」
「そうだな」
「そのふたりの話は、たしかなのか」
「ふたりの話を聞くと、アランはもう生きてはいないだろうなということは、僕にも充分に納得がいく」
 僕の問いに、レイモンド・カアイラウは、そう答えた。


 ダフネ・ウォーカーはたいへんな美人だ。この断定に異論をさしはさむ人は、非常に少ないはずだ。理知的でクールな顔だちには、粘着した部分のまったくない優しさが、いかなるときにも静かに宿っている。体つきはよく見れば充分に女らしいのだが、女らしさを必要最小限以上には感じさせない。
 自分がなにをやろうとしているのか、よく承知している人だけが持つ自信が、身のこなしのあらゆる部分に感じられる。体の動き方は適格で無駄がない。だが、機械じかけのような張りつめた固さのある動きではなく、うるおいを含んだ滑らかな動きだ。女性としての冷静なうるおい、というようなものがもしあるなら、それをダフネ・ウォーカーは確実に持っていた。
 家のドアを出て前庭を歩き、広い階段を降りて来る彼女が、車から見えた。朝のきれいな陽ざしが、ダフネに正面から射していた。ダフネは輝いて見えた。
「俺にもやがてあんな女が口説けるだろうか」
 運転席のラリーが言った。
「試してみろよ」
 うしろの席の僕が答えた。ドアを開いて外に出た僕は、ダフネを迎えた。
「お早う。空港まで、ラリーが送ってくれる」
 ダフネは笑顔でラリーと挨拶を交わした。僕といっしょに車のうしろをまわった。後部ドアを僕が開いた。旅行鞄を、ダフネは後部座席に置いた。そして助手席のドアを自分で開き、乗りこんだ。僕はうしろの席に入った。
「アランのフィルムは?」
 僕が訊いた。
「持って来たわ」
 ラリーは車を発進させた。いつも彼がオフィスの駐車場に停めておく、マーキュリーの4ドアだ。
「意外に早かったわね。もっと時間がかかるかと思ってました」
「なにが?」
「アランについての情報」
「早いといっても、すでに三か月たってる」
 ラリーが言った。
「そうね」
「しかもその三か月のあいだ、舞いこんで来る情報は、なにひとつなかった」
「サーファーとしては知られていない人なのね、きっと」
「しかし、きみのフィルムで見るかぎり、アランの波乗りはたいへんな腕前だ。あのくらいの腕になっていくあいだには、かなりの数の波乗り仲間が自然に出来るはずなんだが」
「西海岸からも、情報はなにもなかったでしょう」
「なかった」
「以前にも言ったとおり、サンディエーゴで二度、会っただけなのよ。その二度で、あのフィルムのシークエンスを撮影したの。アランという名前しか知らない。彼についてはそれ以外、私はなにも知らないの。偶然に会って、波乗りを撮影し、ふっと別れてそれっきり」
 大学にかよって勉強するかたわら、ダフネは波乗りの映画を16ミリで撮っている。アランが映っているのとは別の、一時間十五分の長篇フィルムを見せてもらったのだが、いわゆるよくあるサーフィン・フィルムとは、趣きが明らかに違っていた。ダフネの興味の中心は海にあるのだ。
 海と人間の出会いの現場に自然に生まれて来る、力強くて美しい情景をフィルムにとらえることを主眼としている。波乗りは、海と人間との出会いの、興味ある一例にすぎない。しかし、ダフネの撮る波乗りは、非常に美しい。堂々たる静けさの彼方から、海の強さが、人間をとおして黙々と伝わって来る。そして画面の流れは企みのまったくない、きわめて流麗なものだ。
 撮りためたフィルムを編集し、音楽やナレーションを入れて作品に仕上げ、西海岸一帯のサーフ・エリアを自分でまわっては、有料の上映会を開く。貸し出しもおこなう。フィルム代や撮影にかかった実費をさしひくと、わずかだが収益が残る。その現金収入で、また次の作品を作る。作品と、その作品を作ることに関して得た体験とが、次々に彼女の内部に残っていく。
 彼女がアランを探しているのは、アランひとりを使って波乗り映画を撮るためだ。アランの登場するサーフィン・フィルムを見た西海岸のサーファーたちのあいだから、アランの波乗りをもっと見たい、という声がさかんにあがった。その要望に応えるため、ダフネはアランを探し始めた。
「アランの波乗りには、サーファーの心をとらえるなにかがあるのかしら」
 と、ダフネが言った。
「シーンぜんたいが美しいからな。虹といい、あのワイプアウトといい」
 アランを知るふたりの男たちが、アランはもう生きてはいないはずだと言っていることは、まだダフネには知らせていない。僕から知らせる必要はない。タヒチから来たふたりの男たちから、ダフネが直接に知ればいいことだ。
 ラリーの運転するマーキュリーは、カイムキの住宅街を抜けた。フリーウエイのH1にあがり、朝の光のなかを西に向かった。ワイキキの上空を、薄い雨雲が走っていた。霧吹きで吹いたような細かい雨が、アラワイの水路やカラカウア通りに舞っているはずだ。
 顔に風を受け、そんな光景を見ながら、僕は思い出していた。三か月前、僕たちのオフィスに初めてダフネが来たときのことだ。
 あの日の午後遅く、僕とラリーはオフィスにいた。そろそろ北海岸へ帰ろうとしている頃、電話が鳴った。ラリーが電話に出た。短いやりとりのあと、電話を切ってラリーが言った。
「客が来る。とてもクールな声の、若い女性だ。波乗りのフィルムを見せてくれるそうだ」
 三十分ほど待って、ドアのチャイムが鳴った。応対には僕が出た。ドアを開いたそのときが、僕とダフネとの初対面のときだった。
 客との応接用にしつらえた雰囲気のいい部屋で、僕とラリーはダフネの話を聞いた。これから自分が撮影したフィルムを上映してご覧に入れるけど、そこに映っているサーファーについてなにかご存知だったら、自分はいま彼を探しているところなので、出来るかぎりのご協力をお願いしたい、とダフネは言った。
 オフィスの奥の部屋で、僕たちは彼女のフィルムを映写機にかけた。ブラインドを降ろし、照明を消して暗くした部屋のスクリーンに、ダフネのフィルムが映写された。
 いちばん初めのシークエンスは、すさまじいワイプアウトだった。ゴム製のいかだに腹ばいになって波のふもとに位置をとり、防水のハウジングに閉じこめたアリフレックスで自分が撮った、とダフネは言っていた。
 南カリフォルニアの波なのだが、あそこでこんな波が出来るのを、僕はまだ見たことがない。サンセットの波が非常に猛々しくなり、内部に強烈なパワーを充満させているときと、ならび得る波だった。
 白い雲に覆われた曇天の空に向かって、海が盛りあがる。波は巨大な量感をたたえた濃い緑色の山だ。せりあがっていく様子をスクリーンで見るだけでも、その波のすさまじいパワーは充分に実感出来た。
 分厚くそびえ立った波は、頂上から前へ倒れるようにせり出し、水のアーチを空間に張り出させていく。アーチの背面から、そして立ちあがったままの波の頂上から、白い爆発のように飛沫が空中に舞いあがる。空を覆いつくす飛沫を、カメラは波の裾からとらえる。
 空に向かってまっ白に渦巻き、身悶えしている飛沫の頂上から、海面と平行に、赤いサーフボードが飛び出して来る。アーチになって轟々と自らの裾野に落下している波のこちら側、そのアーチの根もとである波の頂上から、飛沫を突き破ってサーフボードが出て来る。飛沫の陰に、両膝を折って腰を落としたサーファーが、見え隠れしている。
 そのサーファーの姿を見たとたん、僕は直感した。このサーファーは、頂上からまっ逆さまにワイプアウトして見せるだけのために、この波をつかまえたのだ。エネルギーの持っていき場を死にもの狂いで探しているこの大波を相手に、アランというサーファーは、見事なワイプアウトをして見せた。
 ワイプアウトとして壮絶であったばかりではなく、ダフネのテーマである海と人間との出会いの一瞬をとらえたフィルム・シークエンスとして、秀逸だった。これだけの大きさの波が虚しく空間に張り出したアーチとなって砕け、エネルギーを解き放してしまう現場では、ひとりの人間の肉体や一本のサーフボードなど、ひとたまりもない。
 波の頂上から空間へサーフボードとともに躍り出て来たサーファーは、せりあがる波に下から突きあげられ、外に向かって張り出して来るアーチに突き飛ばされ、あっけなく空中に舞った。
 波の裾から吹きあげて来るオフ・ショアの風に叩かれ、赤いサーフボードはきりきり舞いをしながら、波のスロープを上へ飛んでいった。アーチになろうとする水の壁を突き破り、波の頂上に出た。そして狂ったように逆立っている飛沫の彼方へ、木の葉のように飛び去った。
 サーファーは木っ端みじんだった。波と風の力のただなかで、彼はなにもすることが出来なかった。というよりも、そのときの彼には、ただひとつ、降服だけが可能だった。自分の存在などまったく意に介さずにエネルギーの行き場を探している波の進路のなかで、サーファーは飛沫に打ちのめされ、風に吹きとばされ、海に叩きつけられた。
 アーチと無残にからみあいつつ、彼は波の裾に落下した。自分の上に轟々と落ちて来る波に押さえつけられ、もみくちゃになった。とうていかないっこないものに対して、真の降服をするとはどういうことなのかを自ら肝に銘じて知りつつ、スクリーンを見る人にもアランはそれを確実に伝えた。
 このワイプアウトの次のシークエンスは、左から右に走るモンスターのようなチューブ波との、見事な格闘だった。北海岸のロッキー・ポイントが二十フィートの高さに立ちあがったときのような巨大な水の壁が、左から右へ、自らをチューブに巻きこみつつ、走っていく。
 そのチューブを、アランはバックサイドで完璧にこなした。そして、完璧さをさらに超えたものが、そこにはあった。波乗りの妙技を超えた向こうにあるはずのものを、アランは、なんの苦もなく見せてくれていた。ダフネのカメラ・ワークも、このことのために重要な役を果たしていた。二十フィートに立ちあがっている波の壁に対して、彼女の位置のとり方は絶妙だった。
 フレームの下部に、波の手前の平らな部分をわずかにとりこんでいた。そこから波が立ちあがる。フレームのなかばを越えてもまだ高くのびあがり続けると、その波はまさにモンスターだった。フレームの上部近くまで波の壁はのびていき、そこでおもむろに静止する。頂上からは、風にあおられた白い飛沫が、ぼうぼうとゆらめきつつ立ちのぼる。
 波の壁は、内側へ深く、へこんでいく。横っ腹を白く切り裂きつつ滑走して来るサーファーをのみこむための深い穴を作るかのように、波の壁は、前方に向けて深くえぐれこんでいく。
 この、深くえぐれつつ内側に向かって大きな弧を作っていく作業が、もっとも力強くしかも不気味におこなわれている地点の正面に、ダフネのカメラはいた。そして、波のパワーの左から右への動きに合わせて、カメラも水平移動した。テレフォト・レンズを三脚の上で動かしているのではなく、波を正面から見据えたまま、カメラごと波のスピードといっしょに、移動した。
 波の壁が深く湾曲したそのもっとも深い部分が、常にスクリーンの中心にあった。スクリーンを見ている人は、向こうへえぐられていく波の壁に吸い寄せられのみこまれていくような恐怖を、カメラのレンズと波の壁とのあいだにある空間のなかに、感じた。
 バックサイドのスタンスをとったサーファーは、いつもスクリーンの左半分にいた。チューブ波に勝とうとして必死に滑走を続ける彼は、内側へ深く不気味にえぐれこむ波のパワーに牽引されているように見える。スクリーンのさらに左、サーファーのうしろで、立ちあがった波の頂上がチューブになりつつ崩れ、轟々と落下して来る。波の壁に引っぱられ、チューブに追われ、サーファーは必死だ。
 波のパワーを相手に、一本のサーフボードとひとつの肉体を武器にしてわたりあうサーファーに、いったいどれだけのことが可能なのか。ほんのわずかしか彼はなし得ないのだが、そのわずかな高みに立つために、サーファーは全身と全霊を海のパワーに供物としてあらかじめ捧げる。
 次のシークエンスは虹だった。そして四番目は、スープ波に乗ってアランが波打ちぎわに帰って来るところだった。まっ白に泡立っているスープ波に、サーフボードが砂浜に向かって運ばれて来る。そのボードの上に、アランが、ゆったりしたポーズで立っている。ボードの先端には、利口そうな黒い犬が一匹いる。犬は砂浜に向かって哮えている。
 サーフボードのフィンが砂に食いこむ。アランが水のなかへ飛び降りる。同時に黒い犬も、水のなかへ跳ねるように飛び、浅瀬の水を蹴散らして砂浜へ走っていく。ただそれだけのシークエンスだが、美しくて感動的だった。
 最後はまた別のサーフ・エリアだ。アランが砂浜にあがって来るところだった。サーフボードに腹ばいになって波打ちぎわに帰って来たアランは、浅瀬に降りる。サーフボードを抱きあげて片腕にかかえ、アランは砂浜にあがって来る。
 砂浜をこちらに向かって歩いて来るアランを、ダフネのカメラはとらえ続ける。濡れた肩や腕、それに両脚の筋肉の動きかた、歩き方、ぜんたい的な雰囲気など、沖のサーフを相手に徹底的にやりあって来たサーファーだけが持つ、魂の軽やかさのようなものを、見事に表現していた。
 カメラは静止する。歩いて来るアランは、カメラの左側をとおりすぎる。彼がフレーム・アウトしたあとの画面には、砂浜と波打ちぎわ、そして沖のサーフだけが映っている。美しく砕けつつ右から左へ、サーフが長く走っていく。砕けるときの白さと、陽ざしのきらめきや海の青さとの対比が、息をのむほどに鮮烈だ。
 一本の作品に仕上げたもののなかから、アランの登場するシークエンスだけを別にコピーしたフィルムだという。アランというサーファーが自分の内部に蓄積している海の体験もたいへんなものだったが、それをムーヴィ・カメラで引き出したダフネの才能にも僕たちは感銘を受けた。
「このサーファーを、探したいのです」
 と、ダフネは言った。
「西海岸で尋ねまわったのですが、手がかりはまったくつかめないのです。冬のハワイなら、アランが見つからないまでも、なにか情報が手に入るのではないかと思って」
 アランを探すダフネへの協力を、ラリーは約束した。フィルムのなかのひと駒を使い、アランのポスターを作って配付することになった。ポスターの製作とその配付にかかる実費は自分で支払う、とダフネは言った。


 ホノルルからマウイのカフルイ空港まで、飛行機はよく揺れた。マウイは快晴で陽ざしが強かった。空港の小さな建物の外に、レンタ・カーの小さなオフィスがいくつか軒をつらねている。そこでダフネは車を借りた。アボカードの皮のような色をしたファイアバードだった。
 スターターのモーターが断末魔のような悲鳴をあげて回転し、ボディぜんたいが激しく振動してエンジンが始動した。そのファイアバードで、僕たちは島の西へ向かった。ダフネが運転し、僕が道順を教えた。
 マウイ島は、東西ふたつの方向にある火山が、ひとつにつながって出来た島だ。東側が大きく、西が小さい。地図で見ると、島ぜんたいは胸像のようなかたちだ。その胸像の顎のすぐ下、喉もとにあたる部分が、マアラエア湾だ。
 ファイアバードを走らせながら、ダフネはいつもよりはしゃいでいた。アランについての情報が得られるので、うれしいのだろう。タヒチから来たふたりの男たちは、アランはもう生きてはいないだろうと言っているという。このことを昨日のうちにダフネに伝えておけばよかったと、僕は軽い後悔を覚えた。
 マアラエア湾のすぐ近く、歩いても十五分とかからないところに、ジョーというサーファーが住んでいる。正式な名前をなんというのか、誰も知らない。マアラエアで農業にうちこむかたわら、めったに来ないことで有名なこの湾のサーフで波乗りをしている男だ。誰もが彼のことをファーマー・ジョーと呼んでいる。
 濃い緑の小さな森を背に、木造の四角い家が二軒ならんでいる。板張りの壁には白くペンキが塗られ、窓やドアの枠はくすんだグリーンだ。だが、そんな色がわからないほどに、家の外には熱帯の草木が茂っている。
 二軒の家は、以前は独立した家屋だったのだが、ヴェランダのような渡り廊下をファーマー・ジョーが作り、二軒の家を一軒につないでしまった。ヴェランダの裏は、森と接するまでの草の生えたスペースが、快適な陽陰のある中庭のかわりになっている。
 東側の建物の隣にファイアバードを停め、僕とダフネは車を降りた。高床式のポーチをあがり、スクリーン・ドアを開いてなかに入った。
「男の香りがするわ」
 ダフネが言った。部屋のなかを興味深そうに見渡し、
「居心地の良さそうな家ね」
 と、言った。
 この家の主人はファーマー・ジョーだ。いつここへ来ても、見るからにぐうたらそうな新顔のサーフ・バムが、社会保障を頼りに何人も共同生活をしている。ダフネが言うように、波乗りだけが仕事の男どうしなら、住み心地は良いだろう。
 奥の部屋へ歩いた。誰もいないようだった。ヴェランダまで出てみると、向こうの家から、地元のラジオ局の日本語放送が聞こえた。
「ジョー!」
 と、僕は呼んでみた。
 ヴェランダの向こうに、男がひとり、姿を見せた。白い半袖シャツにショート・パンツをはき、裸足だった。男は僕たちを見つめた。
 ミクロネシア系の男だろう。小柄だがものすごく頑丈そうな体格をしていた。頑健さの具現のような体は深く陽焼けし、奥行きのある力強さが不思議なおだやかさと溶けあい、彼の体の隅々にまでいきわたっていた。彼を見ていると安心感を覚えた。長い年月をかけた直接の体験をとおし、自分の世界を知り抜いたその男の自信は、静かな力強さとなって発散され、そばにいる人を安心させるのだ。
 この男は海の男だ、と僕は直感した。
「タヒチからいらしたかたですか」
 僕は訊いた。
「イエス」
 と、男は答えた。そして、僕たちに向かって歩み寄った。
「カアイラウが今日ここへ来ると言っていた、バリー・カネシロとダフネ・ウォーカーですね」
 フランスなまりのような癖のある英語で、男が言った。
「そうです」
 ダフネが答えた。
「私はピアイラグといいます」
 男は右手を差しのべた。僕たちは握手を交わした。ピアイラグの大きな手に包みこまれるような握手だった。ヴェランダの向こうにもうひとり、男が姿をあらわした。アメリカ人だということは、身のこなしや表情ですぐにわかった。
「やあ」
 と、彼が言った。肩のあたりをぼりぼりとかきながら僕たちのほうへ歩いて来て、
「ハワイで蚊帳を吊って昼寝をするのも久しぶりだ」
 と、陽気な口調で彼は言った。
「しかし、あの蚊帳には穴があいている。蚊に刺されてしまった」
 男はビル・ハミルトンといった。ピアイラグとは昔からつきあっている親友どうしで、タヒチからともにハワイまで来たのだという。
「ひとりでは心細いとピアイラグが言うので、エスコートのようについて来たのですよ。彼は陸の上だと、妙に人見知りしたり神経質になったりするから。それに僕はハワイにずいぶんごぶさただし」
 ファーマー・ジョーは畑に出ている、そしてレイモンド・カアイラウはマーケットへソーダを買いにいった、とピアイラグが言った。
 奥の部屋に引き返した僕たちは、すわって話をする場所を見つけた。壁に寄せて、ソファともベッドともつかない台が毛布に覆われてあり、ピアイラグとビル・ハミルトンがそこにならんで腰を降ろした。
 ピアイラグと向きあえるフロアにあぐらをかいたダフネは、化粧ダンスに背をもたせかけた。ドアのわきにあった小さな椅子に、僕は背もたれを前にしてまたがった。
「アランは、あそこにいる」
 腕をまっすぐにのばし、ピアイラグは壁を指さした。
 部屋の向こうの隅に、フロアから天井まで届く長さのサーフボードが、立てかけてあった。そのすぐわきの壁に、アランのポスターが押しピンでとめてあった。
「あそこにいるアランは、影にすぎない。現実のアランは、もうこの世にはいない」
 ダフネはクールだった。ピアイラグがまず最初に口にした決定的な結論に表情を変えず、
「では、アランは、どうなってしまったのですか?」
 と、ピアイラグに訊き返した。
 ピアイラグはダフネを見た。たとえようもなく澄んだピアイラグの視線が、負けず劣らずに純粋なダフネの視線に結ばれた。この一瞬、ふたりの心のもっとも深い部分に宿る結晶のようなものが、ふたりのあいだの空間のなかで溶けあってひとつになった。僕はそれをはっきり感じた。
「アランは」
 と、ピアイラグは言った。
「海に降服した」
 ダフネの顔に微笑が広がるのを、僕は横から見ていた。自分がひそかに考え期待し続けて来たことが、そっくりそのまま現実になっていたことを知ったうれしさが、その微笑にはあった。
「そのお話を、私は信じます」
 涼しい声でダフネが言った。
「アランについての物語の前半は、ビルが語ってくれる」
 ピアイラグはかたわらにすわっているビル・ハミルトンを片手で示した。ビルは目を伏せ、自分の両足を見た。大きな足だ。指の先まで、くすんだ栗色の毛がびっしりと生えていて、毛むくじゃらだ。自分の両足を見つめたまま、ビルは喋り始めた。
「アランに初めて会ったのは、タヒチのパペーテでした。十二月、雨期の午後だったのです。いまでも、はっきり覚えてますよ。港の近くにいた私は、ちょうどひどく雨が降って来たので、酒場に逃げこみました。反対の方向からおなじ酒場へ走りこんで来たのが、アランだったのです。サマセット・モームが喜びそうな雨だ、とアランが言い、それをきっかけに会話が始まり、おなじテーブルで雨を見ながらビールを飲んだのです。とりとめのない世間話をさかなに、おたがいに何本かビールを空けたのです。うちとけてきたところで、おたがいの自己紹介みたいな話になり、自分の仕事について喋りました。私は船員です。小さな貨物船で、ポリネシアの島々を往ったり来たりしています。多くの場合、ピアイラグといっしょに」
 顔をあげたビルは、ダフネを、そして僕を見た。僕の真面目な表情に安心し、ダフネのクールな微笑に勇気づけられ、ビルは話を続けた。
「アランは、自分はサーファーだ、と言ってました。南半球のサーフ・エリアはすべて体験してきたと言い、南アフリカのダーバンや西インド諸島などについて詳しく語ってくれました。西インド諸島での波乗りの可能性はとても大きいものだと、アランは言っていました。しばらく波乗りについて話をしていくうちに、私はあることを思い出しました。ピアイラグが持っている小さな貨物船が三か月に一度、立ち寄る島があるのです。タヒチから千五百キロ、トゥアモツ郡島の南の端近くの環礁です。この島の近くに無人の環礁があります。ピアイラグといっしょに私も乗り組んでいたとき、エンジンが不調をきたし、この無人の環礁で一夜を明かしたことがあるのです。この環礁のすぐ外に、サーフが出来ていました。完璧なサーフでした。波乗りの現場はハワイで何度も見ていますし、自分でも少しはやるので、それがサーファーの白日夢のような完璧なサーフであることは、私にもすぐにわかりました」
 その無人の環礁は、ビル・ハミルトンによれば、細長くひきのばした楕円形だという。波のない浅い礁湖をなかに抱きこみ、外側を細い陸地が円形にとり囲んでいる。南側にまわりこむと陸地がとぎれ、リーフの内側に飛び石のようにまっ白い砂地が点々とつながっている部分がある。
 サーフは、その飛び石の砂地もなくなってしまう部分のすぐ外側に、出来ていた。南からのうねりを環礁の珊瑚礁棚が受けとめ、サーフに盛りあげているのだ、とハミルトンは説明した。
「ものすごい美しさです。陸地のほうから見たのですが、鋭くきらめく灼熱の太陽に照りつけられている白い砂浜があって、その向こうが、底の透けて見える、澄みきって透明な礁湖です。鏡のように水面はまっ平らで、この礁湖を越えると、陸地のとぎれる飛び石の部分でした。双眼鏡で飽かず眺めました。サーフのパワーはかなり強いように思いました。ものすごい美しさなので、力の弱い静かなサーフだと思ってしまいがちなのですが、力はあります。深い外洋を背景に、きれいなブルーの丘へと海が盛りあがり、三角形に立ちあがるとチューブを巻きながら頂上からまっ白に砕けていくのです。はっきりした正確なリズムで、いつもほとんどおなじかたちに盛りあがっては、チューブになって砕けていました。ほんとに、見とれてしまいましたよ。南太平洋のまっただなかの、無人の小さな環礁ですから、よけいに不思議な感銘があったのでしょうね。僕はそう思います」
 静かな微笑を浮かべ、ダフネはビル・ハミルトンの話に聞き入っていた。
 ハミルトンは僕を見た。そして、
「そのサーフを眺め続けた僕の気持は、おわかりになるでしょう」
 と言った。
「わかります」
「まさに、あらゆるサーファーの白日夢です」
 ハミルトンは、僕とは反対のほうに顔を向けた。壁にピンでとめてあるアランのポスターを見た。
「アランにとっても、このサーフは白日夢だったのです。遠い幻としていつか夢に見た、自分だけの完璧なサーフでした」
 それだけ言うと、ハミルトンは顔を伏せた。そして自分の毛むくじゃらの両足を見つめた。部屋のなかは、静かだった。ヴェランダを越えて隣の家から、ラジオの音楽がかすかに聞こえていた。ハミルトンは話を続けた。
「僕はいつも、8ミリの撮影カメラを持って航海に出ます。ズームもなにもない簡単なものですが、重宝しています。南太平洋の風景を五十フィートのカセット・フィルムに撮っては、現像して本国の友人たちに絵葉書がわりに送ってあげるのです。喜んでくれます。砂浜に寄せる波とか、風に吹かれる椰子の樹にカメラを向けっぱなしで五十フィート撮影したものなどが、アメリカの都会に住む友人たちには好評なのです」
 顔をあげたハミルトンは、誰にともなく微笑した。
「あなたは16ミリをお撮りになるんですね」
 と、言った。
「ええ。アランを撮影したフィルムを持って来ています。あとでご覧に入れます」
「見たいです。ぜひとも、見たいです」
 ダフネがアランを撮影した期日を、ハミルトンはたずねた。ハミルトンがタヒチのパペーテでアランに会ったのは、アランがダフネによって撮影されたあとのことだった。
「彼は西海岸から南太平洋に渡ったのね」
 独り言のように、ダフネは言った。
 ハミルトンは話を続けた。
「僕は船から8ミリ・カメラを持って来て、そのサーフを撮影しました。五十フィートのカートリッジを一本、このサーフのために使ったのです。雨の午後、パペーテの酒場でアランとビールを飲みながら、僕はこのサーフを撮影した8ミリ・フィルムのことを思い出しました」
「アランにお見せになったのでしょう」
「はい、見せました。世間話の続きのつもりで、この無人の環礁と完璧なサーフのことを喋ったら、アランはたいへんな興味を示しました。8ミリ・フィルムのことも喋ると、ぜひ見せてほしい、と言うのです。その日は午後遅くから夜いっぱい、僕は用事があって時間がとれませんでしたので、次の日の夕方、アランに自宅へ来てもらい、8ミリを見せました。アランは興奮していました。おなじフィルムを、繰り返し六度、彼は見たのです。僕が海図を出して来て、そのサーフのある無人の環礁はここなのだと示すと、僕の指が示す一点を彼は見つめたままでいました」
 家の外に自動車の停まる音がした。エンジンが停止し、ドアの閉じる音に続いて、人が家に入って来る足音が、僕たちのいるところからも聞こえた。
「バリー」
 手前の部屋からレイモンド・カアイラウが呼んだ。
「みんなここにいるよ」
 僕は答えた。
 キチンでなにか音がしていたが、やがて盆にミント・ソーダを載せて、カアイラウが部屋に入って来た。無色透明、なんの味もついていないソーダ水にミントを溶かしたものだ。
 ピアイラグとビル・ハミルトンを、カアイラウはあらためて僕たちに紹介しなおした。
「アランについての話を聞かせてもらってるんだ」
「およそ半分まで、ビルが語ってくれました」
 と、ピアイラグが言った。
 レイモンド・カアイラウは、僕の椅子のそばにすわりこんだ。フロアにあぐらをかいて僕を見上げ、
「話は気に入ったかい」
 と訊いた。
「気に入っている。美しい物語だ」
 僕の返事に、レイモンドは安心したようにうなずいた。
 このレイモンドは、ハワイ屈指の伝統音楽のミュージシャン、マーカス・カアイラウの次男だ。タヒチの血が濃いことを雄弁に物語るたくましい体をしている。ただ単にたくましくて力強いだけではなく、どっしりした重みと等量の静けさを、彼の体はたたえている。いかなることにも容易には動ぜず、あらゆる出来事を真正面からのみこんで消化してしまうような容量の大きさが、重くて静かな印象を確実にかもし出している。
 そして顔には悲しみがある。造りの大きい、小気味のよい野性味をくっきりと残したレイモンドの顔には、南太平洋の孤島の砂浜で見る広大な水平線のような悲しみがある。表情が民族の伝承になり得るなら、何百年にもわたって来る日も来る日も太平洋のまんなかで水平線を眺めて暮らした人々の気持の結晶としての表情が、レイモンドの顔には伝えられている。
 レイモンドに会うといつでも、僕はなぜだか厳粛な気持になる。彼はハワイからタヒチまで航海するホクレア号の、正式な乗組員のひとりだ。
「では、話を続けてください」
 レイモンドがビル・ハミルトンに言った。ハミルトンは手に持ったミント・ソーダをひと口、飲んだ。大きな手の、太くて長い指が、水滴を宿したグラスに巻きついていた。
「その夜も雨が降っていました。アランに8ミリ・フィルムを見せた夜です。僕の指が示している海図上の一点を見つめて、アランは長いあいだ黙っていました。僕も無言でいました。熱帯樹の葉に当たる雨の音だけが聞こえていたのです。甘い空気が湿って部屋のなかに立ちこめ、とても静かでした」
 僕たちがいる部屋も、静かだった。
 ハミルトンが無人環礁のサーフのフィルムを見せてから三週間、アランには会わなかったという。一度だけ、パペーテの町を歩いているアランの姿を、ハミルトンは見かけた。改修工事中の教会の前を、雨があがって薄陽の射し始めた午後、アランはひとりで歩いていた。
「三週間後の夜、アランは僕の家を訪ねて来たのです。もう一度あの8ミリを見せてほしいというので、見せてあげました。フィルムを見たあとで、アランは、この無人の環礁へいきたい、と言いました。つれていってくれ、と僕に頼むのです。三か月に一度、ピアイラグの貨物船が、この島の近くをとおります。船賃さえ払ってもらえば、つれていくのはお安いご用です。ほんの少しまわり道をし、ボートで降ろしてあげればいいだけですから」
 フィルムで見たこのサーフをぜひ体験してみたいというアランの熱意に、ハミルトンはアランを島へつれていくことに同意した。往復の船賃の前払いという条件を、アランは承知した。
「その島に一年は住みたい、とアランは言ったのです」
 ハミルトンは話を続けた。
「でも僕は反対しました。ハリケーンのシーズンを、あの島でやりすごせるはずがありません。少し大きなハリケーンが来れば、猛り狂う波の下に、あの島は一時的に沈んでしまうはずです。アランの出発の日から起算して七か月後には、ハリケーンのシーズンでした。出発した日から六か月後にピアイラグの船が定期航海の途中で島に寄り、アランをつれて帰る、というとりきめに最終的には落ち着きました」
 そこで言葉を切り、ハミルトンは自分の掌のなかのミント・ソーダのグラスを見た。大きくひと口飲んでから、かたわらのピアイラグに顔を向けた。
「ここから先は、ピアイラグ、あなたが語ってくれないか」
 ピアイラグはうなずいた。部屋にいる全員の顔を見渡し、もう一度うなずいた。そして語り始めた。
「私の船は、タヒチのパペーテを基地にしています。出発のときには、島々を往き来する人たちと荷物とで、吃水線が深々と沈みこむほどに、船は満載の状態になります。アランは島で生活するための品物のほかに、赤いサーフボードを一本、持っていました、これの置き場所に困ったのを、いまでもよく覚えています」
 タヒチを出発したピアイラグの船は、いつものようにソサエティ諸島そしてトゥアモツ郡島の島々を転々としながら、航海を続けた。正確に守られるタイム・テーブルがあるわけではない。次の寄港地は都合によってどんなふうにでも変更になるし、碇泊日数も荷物の積み降ろしや天候によって、自由に変わる。自分がきめた時間どおりに目的地に着きたい人のための航海ではない。
 アランの目的地である無人の環礁にピアイラグの船が着いたのは、タヒチを出発してからじつに二か月後だった。
「アランは嫌な顔ひとつしませんでした。彼は南太平洋の生活のペースをよく知っていました。船の乗組員みたいになって、盛んに働いてくれましたし、航海を楽しんでもいました」
 無人の環礁の外側に船を停めてボートを降ろし、アランの荷物を積み、島へ運びあげた。最後にアランが、赤いサーフボードを持ち、白い砂浜にあがった。
「それから船はすぐに出発しました。アランは手を振って見送ってくれました。そして、それっきりです。私がアランを見たのは、その日が最後になりました」
 一か月後、アランが住んでいる島のすぐ近くを、ピアイラグの船とおなじような船が、とおりかかった。砂浜に立って元気そうに手を振っているアランの姿を、その船の船長は双眼鏡で確認している。
「さらに三か月後、約束の期日より三日早く、アランの島へいきました。アランは、どこにもいなかったのです。彼の赤いサーフボードが静かな礁湖に浮かんでいて、おだやかな風に椰子の葉が鳴り、まっ白な砂浜が灼熱の陽を照り返していました。それだけです。アランは、いませんでした。アランはここにはもういないのだ、と自分自身に言い聞かせたとき、私はかつてなかったほど強烈に、海の広さを自覚しました」
「ピアイラグといっしょに、僕もその島へいったのです」
 ハミルトンが話を引き取った。
「アランは、いませんでした。生活の跡も、持ちこんだ荷物も、ちゃんとありました。しかしどの品物にも、白い砂がうっすらとかかっていました。アランがいなくなって、すでに何日か経過していたのです。赤いサーフボードだけが、透明な礁湖に浮かんでいました」
 ハミルトンとピアイラグは二日間、その島に滞在した。アランがどこからか帰って来るのではないかという期待を、口にこそ出さないが、ふたりとも抱いていた。だが、とうてい無理な期待だった。周囲は南太平洋の、気絶しそうなほどに広い海原だけなのだから。
「あの島にアランがいないということは、もうこの世にアランはいないというのとおなじです」
 ピアイラグが結論を語った。
「三日後に島をあとにしました。アランの荷物はそのままにしておき、サーフボードだけ持って来ました。その日も、いつもと変わらずに、環礁のすぐ外に、あの完璧なサーフが、美しい緑色に立ちあがって白く砕けていたのです」


 ラハイナの町は夕陽の時間だった。ラナイ島の向こうに沈む太陽の光が、低い位置から海面とほぼ平行に、町に当たる。波長の長い赤い光だけが、町に届く。町はまず黄金色に染まる。そして時間とともに、赤い色の深みを増していく。
 フロント・ストリートには新しい建物が増えた。かつてのひなびた木造の町なみに調和するようにデザインされた建物だが、観光客相手の新しさは、覆いかくすことが出来ない。しかし、夕陽の時間の、赤見をおびた黄金色の陽を正面から浴びると、古い建物も新しい建物もみな一様に、ラハイナの町が持つ長い歴史の彼方に沈んでいくようだ。人どおりの少なくなったフロント・ストリートに、かつてはハワイの首都としてにぎわった港の面影は、やはりない。
 ヨット・ハーバーに面して、パイオニア・インというホテルがある。古いハワイをしのばせる、白いバルコニーを張りめぐらせた二階建てのホテルだ。オリジナルな部分は、一九〇一年に建てられた。部屋に入ると捕鯨船時代の残り香がまだあり、懐かしい南太平洋物語のなかへ、時間を飛びこえて身を置いた気分になる。
 パイオニア・インのバー・ルームのテーブルで、僕はダフネと向きあっていた。この町の人たちの正業は昼寝だと、昔から冗談に言われているラハイナの一日の時間のなかでも、もっともけだるくて静かな時間だ。観光客たちのための夜の時間は、まだ始まっていない。ダフネの手もとには、ホワイト・ラムのソーダ割りが置いてあった。半分ほど飲んであった。
 彼女が持って来たアランの波乗りのフィルムを、ファーマー・ジョーの家でみんなで見た。誰もが強い感銘を受けた。ダフネが持っている映像による表現力を、全員が讃えた。と同時に、アランというサーファーと海との対峙のしかたに、心のもっとも深い部分で誰もが共感を覚えた。
 ホワイト・ラムのソーダ割りのグラスに、ダフネは指先を触れた。
「ビル・ハミルトンが撮影した8ミリを、ぜひ見たいわ」
 彼女は言った。
「僕は、あの無人の環礁のサーフそのものを、見たい」
「それは、もちろんよ」
 アランを探している人にハワイで会うとは思ってもみなかったので、ハミルトンは自分で撮影したサーフの8ミリは持って来ていなかった。パペーテの自宅に置いてあるという。
 フィルムを見なくても、そのサーフがどのようなサーフだか、充分に想像がつく。あのアランをとりこにしたサーフだ。絶海の孤島にひとりで住むことを、アランに決意させたサーフだ。妖しいまでの魅力をはらんだサーフであることに、間違いはない。
「バリー」
 ダフネは顔をあげた。まっすぐに僕を見て、
「ラリー・デイヴィスを雇うことは、出来るかしら」
 と言った。
「雇う?」
「ええ。私が」
「なんのために」
「映画を作るの。四十五分くらいの。アランとあの完璧なサーフがある無人の孤島についての映画」
「ラリーはいま忙しいからなあ」
「わかっているわ、でも」
「ラリーに直接、訊いてみればいい」
 胸の高鳴りを出来るだけクールに抑えながら、僕は平凡な返事をした。ダフネのクールさにくらべると、努力したあげくの僕のクールさは野暮に近い。
「あの島へ、私とラリーがいくのよ。天候にもよるけれど、五日もあれば充分だわ。朝、夜、昼間、あの島でのさまざまな時間の、いろんな表情をフィルムに収め、サーフもあらゆる角度から撮って来るの。そして、ラリー・デイヴィスに、あのサーフに思う存分に乗ってもらって、それもフィルムに撮影するわ。いま私が持っているアランの波乗りのフィルムをつなぎ、雨のパペーテも撮って。いまは雨のシーズンだから、ちょうどいい」
 ダフネがなにを考えているのか、僕にはよくわかる。ダフネが撮りあげて完成させた四十五分の美しい映画が、目に見えるようだ。
「私が自分でナレーションを入れて、ラリーには出来るだけシルエットや遠景で出てもらう。私のナレーションをスクリーンの上で具体的に演じる役を、彼に引き受けてもらうの」
「素晴らしい」
「どうかしら」
「ラリーなら出来る。適役だ」
「南太平洋に消えたひとりのサーファーと、無人の環礁の物語」
 窓の外の赤い黄金色の陽ざしを僕は見つめた。観光で来たアメリカ人の中年女性たちが数人、額にかざした手で陽ざしをさえぎりながら、窓の外を歩いていった。
「ダフネ」
 と、僕は言った。
「きみは、その映画を作るべきだ」
「最高の激励だわ。ありがとう」

 僕が考えていたとおり、話はすべて簡単にきまった。計画をダフネから訊かされたラリー・デイヴィスは、途中まで聞いてから、
「その役は絶対に俺がやる」
 と、言ったそうだ。
 さらに、映画を作るために必要な資金まで、ラリーのオフィスが出すことになった。映画が完成してからの版権や上映による収益を担保に、たてかえのかたちでオフィスがダフネに貸し出す。資金とはいっても、たいした額ではない。
 無人の環礁までの案内役およびチャーターする船の船長は、ビル・ハミルトンにきまった。ホクレア号の航海に関係しているのはピアイラグだけだ。つきそって来たハミルトンは、都合によってはいつでもタヒチに帰ることが出来る。
 人はこれで揃った。そして幸いなことに、ピアイラグの持ち船である貨物船が、いま空いているという。その船のチャーターを、ピアイラグは快諾してくれた。
 クールな熱意を深い部分で静かに燃やしているダフネにくらべると、ラリー・デイヴィスは、タヒチ行きをきめて子供のようなはしゃぎぶりだった。チャンピオン・サーファーも、いまや気楽で身軽なサーフ・バムではなく、多忙なビジネス・マンになりつつある。うれしさはよくわかる。それに行く先には、あのアランの心をつかまえてついに離さなかった、完璧なサーフがある。
 たいへんなスピードで計画が組みあげられ、準備が整えられた。ラリーとダフネがホノルルに帰って来る日は、ハワイでもっとも伝統のある波乗りコンテストの一週間前ときまった。
 空港まで送りにいった日も、ラリーは上機嫌だった。
「なあ、おい、バリー。ジェニファーがこの話を聞いたら、大変だ」
「西海岸へ電話して、すぐにタヒチへ向かうように言おうか」
「よせ、よせ!」
 冗談を真に受けて、ラリーは手を振った。
 ジェニファーは、自分の16ミリ映画『第57番サーフ最後の日々』のプリントを持ち、西海岸へプロモーションの仕事に出ている。
「きみにはフィルムを送るよ、バリー」
「なんのフィルムだい」
「ビルが撮ったサーフの8ミリ。パペーテで俺がまず見たら、すぐに航空便で送る」
「楽しみに待っていよう」
 そんなふうにしか、返事のしようがなかった。いますぐにも処理しなければならない仕事をすべてほうり出してラリーがタヒチへいっているあいだ、そのたくさんの仕事を主として出来るだけ先に延ばす役目を、僕はひとりで引き受けなくてはならなかった。
 空港にはレイモンド・カアイラウも来ていた。タヒチに着いたら自分の親類をぜひ訪ねてほしい、とカアイラウはラリーに言っていた。
「親類の人たちに伝えてほしいんだ。あとふた月もしたら、僕は大昔の人たちとおなじように、双胴のカヌーで海を渡っていくから、と」
「伝えよう」
 ダフネとラリー、それにビル・ハミルトンを見送ったあと、僕はカアイラウ、ファーマー・ジョー、そしてピアイラグの三人といっしょに、アロハ・エアラインの飛行機でマウイ島に引き返した。遅い午後の太陽を受け、眼下の海は銀色に輝いていた。その海を飛行機の窓から見ながら、カアイラウが僕に言った。
「ホクレア号にサーフボードを積みこむ許可が、今日、出たんだ。一本だけだが、サーフボードを持っていけることになった」


 リトル・リーグのための野球場から道路をへだてた向かい側に、巨大なモンキーポッドの樹が何本もならんで立っている。残酷なまでに青い空から照りつけるマウイの太陽のなかに、モンキーポッドの樹は快適な陽陰をつくってくれていた。
 徐行して来た僕は、その陽陰に車を停めた。エンジンを切り、歩道の側のドアを大きく開け放った。シートをうしろへいっぱいにずらし、腰を前に出してだらしなくすわりなおした僕は、ダッシュボードに裸足の両足をあげた。
 朝の十時前から西マウイの陽ざしはこの熱さだが、樹陰に入ると気持いい。風が少し吹いて来る。トランクス一枚の体に、その風は心地良い。右足の親指で、僕はカー・ラジオのスイッチを押しこんだ。
 地元の日本語放送がスピーカーから聞こえて来た。おかしな抑揚だということが僕にもわかる日本語で、人生相談がおこなわれていた。聴いている人たちから次々にかかって来る電話に応えながら、初老らしい男が人生の相談に乗っていく。電話をかけて来る人たちは老人ばかりだった。
 自動車の走らない、そして人の姿もまったくない静かな裏通りに、陽ざしだけが強烈に明るい。車のラジオからは、人生の最終コーナーをいま抜けていきつつある人たちの悩みごとの相談が、聞こえて来る。聞いていて三分の一くらいなら、僕にも理解出来た。
 リトル・リーグの野球場の斜め向かいは小学校だ。金網のフェンスの向こうに、濃い褐色の土をむきだしにした校庭があり、殺風景と呼んだほうがいい簡単な造りの校舎が、その校庭の端にあった。
 バスケットボールのコートが、半分だけ陽陰になっていた。白いショートパンツの女のこがひとり、バスケットボールをネットに入れていた。半円形にドリブルしながら走っていき、ボールを両手に持って、ジャンプ。ボールはボードに当たり、跳ね返ってかならずネットに落ちる。ジャンプしてそのボールを取り、ふたたび半円形にドリブルして走り、こんどは反対側からジャンプ。女のこは規則的にその作業を繰り返した。
 彼女のジャンプとシュートを遠くから眺めていると、校舎のまんなかの出入口から、子供たちが何人か校庭に出て来た。子供たちは白い大きな雪ダルマをかかえていた。雪で作ったダルマではない。骨組みをこしらえ、紙を貼りつけて白く塗り、目鼻や口を描きこんだものだ。ダルマの高さは、それをかかえている生徒たちの身長の、倍はあった。彼らの手作りのスノー・マンだ。
 大騒ぎしながら、スノー・マンを校庭のまんなかまで、生徒たちはかつぎ出した。照りつける陽ざしのなかに、スノー・マンは安置された。
 楽天家のような笑顔を浮かべているスノー・マンは、しかし、子供たちが手を離すとぐらりと重くかしぎ、なかば横倒しになった。
 生徒たちは歓声をあげてスノー・マンに駆け寄り、何人かが助け起こした。まっすぐに立てなおし、スノー・マンの尻を地面に押しつけてから、大半の生徒が手を離してうしろにさがった。残る生徒が同時に手を離すと、スノー・マンはそのまま直立しているかに見えてそうではなく、さきほどとおなじく傾き、笑顔を白い雲のきらめく青空に向けた。
 何度やっても、おなじことが繰り返された。ミニ・スカートをはいた、頑丈そうな体格の女の先生が、生徒たちを指導していた。腰に両手を当てて陽ざしのなかに突っ立ち、大声で怒鳴りつつ、先生は生徒たちから対策を引き出していった。
 生徒たちは校庭の隅から土くれを持ってきた。スノー・マンの丸い尻の下に、彼らは土を置いていった。土の量がある程度にまで達すると、スノー・マンは倒れなくなった。
 問題が解決されてもまだ先生は大声をあげ続け、生徒たちは直立したスノー・マンをしばらく眺めてから、走って教室へ引き揚げた。うしろから、先生が、ゆっくり歩いていった。
 この騒ぎのあいだずっと、バスケットボール・コートの女のこは、スノー・マンには目もくれず、ドリブルとジャンプとシュートを繰り返し続けた。校庭はふたたび静かになった。
 しばらくして、うしろから自動車の音が近づいた。トラックだということは見なくてもわかった。徐行して来たトラックは、僕の車のわきに停まった。マウイ郡の道路建設工事用のトラックだった。
 運転台のドアが開き、作業員が僕を見下ろした。ハワイ系のたくましい男だ。両袖をとってしまった白いTシャツが、厚い筋肉の胸に貼りついていた。
「働け、この馬鹿!」
 その男は、笑いながら僕に怒鳴った。
「朝からこんなとこで、なにやってんだ。不精をきめこんだ檻のなかの猿じゃないか」
「人間に近づこうと思って、こうしてラジオを聴きながら人生の哲学を勉強してるんだ」
 僕は、カー・ラジオを指さした。
「人間になりたかったら、汗をかいて働くことだ」
 と、その男は言った。
「働くことによって、猿は類人猿になり人間となった」
「いったい誰の学説だい」
 僕の言葉に、男は右手の親指で自分の胸を示した。
「この俺さまだよ。真の人間とは、俺みたいな人のことだ」
 男はかたわらのシートからなにか手に取り、僕にほうってよこした。両手でそれを僕は受けとめた。黄色いバナナだった。
「食え、エテ公!」
 男を見上げ、僕はバナナを振ってみせた。
「猿を甘やかしては駄目だよ。つけあがるばかりだ」
 男は深く何度もうなずいた。
「たしかに、そのとおりだ。マウイ島は猿を甘やかしてる。マアラエア湾にも、猿がたくさんいたからなあ」
 反射的に僕は両足をダッシュボードから降ろした。片手でラジオを切り、もういっぽうの手でエンジンをかけた。ドアを閉じ、シートを前に引き戻した。
 男を見上げ、
「餌をありがとう。湾の猿たちと分けて食うよ」
 そう言って車を発進させ、僕はマアラエア湾に向かった。
 湾には波が来ていた。なかなか来ないが、待てばかならず来る波だ。南あるいは西からのうねりは、ラナイ島やカフーラウェ島にはばまれ、マウイ島の西海岸には届きにくい。たとえ届いても、サーフになるための条件の整ったうねりは、数少ない。
 すぐ近くにカフーラウェ島が見える湾の海いっぱいに、マアラエアのサーフが走っていた。サーファーたちが貨物列車と呼んでいる波だ。陸から見て右から左へ、まっすぐに走る。初めてこの波を見るサーファーは、サーフの長さに仰天する。そして、サーフの走るスピードに、全身の毛が逆立つのを覚える。
 走る速度は、ものすごく速い。ひとつのサーフが左のヴァニシング・ポイントまで走りきらないうちに、もうひとつのサーフが右から走り始めて追いかける。スピードのある長い走りは、貨物列車という呼び名にまさにふさわしい。
 沖の海に数人のサーファーが見えた。石造りの低い土手のそばに、ファーマー・ジョーの車が停めてあった。年式不明の古いセダンの、ピラーと屋根を溶接機で焼き切ってオープンにしてある。余命いくばくもなさそうな、おんぼろの車だ。車にはサーフボードが三本、残っていた。一本をわきにかかえて持ち、僕は海に入った。
 何度も立て続けに、僕は貨物列車にひき殺された。テイクオフと同時に、と言うよりもテイクオフする以前に、スピードが充分についていなければならない。テイクオフした瞬間には、内側へ湾曲して立ちあがっている波の壁を、ものすごいスピードで疾走している必要がある。
 湾曲して立ちあがった波は、僕が沖に出たとき、すでに僕の身長の二倍の高さがあった。立ちあがりきった波の頂上は、楕円形のチューブ空間を内部に抱きこみつつ、まっ白に炸裂する水のアーチとなり、波の裾野に落下していく。このアーチが、途方もない速度で追いかけて来る。
 アーチは背後から僕を突き飛ばす。ボトムまで降下し、湾曲した波の壁のてっぺんめがけて自分とサーフボードをほうりあげようと全身の力をふりしぼる瞬間、頭上から水のアーチが僕の頭や肩を叩きのめす。純白に炸裂する狂気の波のなかに僕はのみこまれ、後続の分厚い水の壁によって波の裾野の内部へ沈められていく。水のアーチはとっくに走り去っている。
 水のなかで僕は方向の感覚を完全に失い、反転を繰り返す。次から次に落下して来る大量の水に押さえこまれ、浮かびあがれない。反転しながら見上げる海面は明るい。本来なら両脚のひと蹴りで浮上出来る浅さだ。だが、どうにもならない。仲間のサーファーのボードが水を切り裂くのを見ながら、したたかに海水を飲みこむ。そしてそこへ次の貨物列車が来る。
 やっとのことで浮かびあがる。胸いっぱいに空気を吸いこみ、空を仰ぐ。眼球の上を流れる水に増幅され、太陽の光がまぶしい。
 テイクオフ。そして疾走。うしろから来る水のアーチを、なんとか振り切ろうとする。内側にえぐれこんでいる波の壁に向きあい、必死で突っ走る。サーフボードの右側のレールが、鋭い音をあげて水を切り裂く。背後から水のアーチが轟々と迫る。なんとか振り切りたい。だが、駄目だ。アーチは僕の頭上にかぶさる。明るく照りつけていた陽が、水のアーチにさえぎられふっとかげる。
 アーチはさらに前へのびていく。アーチの内部は楕円形のチューブ状の空間だ。奥へいくにしたがって尻すぼみにせまくなる。透明なブルーの空気に満ちたチューブに抱きこまれ、僕の体は波の壁のなかほどに宙吊りだ。スケッグの食いこみだけが、僕をそこに支えていてくれる。
 次第に、そして確実に、僕はチューブの奥へ引き込まれる。チューブが完全に閉じるところでは、波のエネルギーが猛然と最終的な爆発をとげている。貨物列車に追い越されようとしているいま、僕はまもなくその爆発のなかに巻きこまれる。
 午前中の時間が経過するにしたがって、マアラエアの波はパワーを増した。スピードもあがった。高さはのびなかったが、スピードとパワーはすさまじく、昼をすぎると、アーチの落下する轟音が、午前中とはくらべものにならないほど獰猛になった。
 僕はついに貨物列車には乗れなかった。振り落とされ、叩きつぶされ、何度もひき殺された。なんの容赦もなく轟々と突っ走るサーフに、僕にとっての足がかりはまるでなかった。
 午後から急に数を増したサーファーたちにとっても、おなじことだった。ラリー・デイヴィスたちは、マアラエアに波が来た知らせを電話で受け、飛行機で飛んで来た。この湾の波を、最後まで何度か乗りきることが出来たのは、ラリーやレイモンド・カアイラウなど、ごく少数のサーファーだけだった。
 夕方、太陽の位置が低くなってから、僕は砂浜にあがった。全身がくたくたに疲労しているのだが、気持だけはたかぶっていた。砂の上にぐったりとすわりこみ、自動車のタイアに背をもたせかけ、沖の波を見た。
 気持は次第に静まった。疲労した肉体だけが砂の上に残り、心や頭は、たかまった気持がおさまるとともに、からっぽになった。完全ながらんどうになり、洗い清められ、軽くなった。自分はまもなく自分ではない別のものになってしまうのではないかと感じながら、波を見つめ続けた。潮で洗われた目に、夕陽が痛かった。
 オフ・ショアの風が強くなった。立ちあがっては突進し続ける波の壁が、そのオフ・ショアの風に叩かれ、でこぼこの少ない滑かな面になった。太陽が沈む直前の時間によくある、グラス・オフ現象だ。
 波頭から立ちあがる白い飛沫の量が増えた。長い壁になった波が、頂上の部分を水のアーチとして自分の前の空間に投げ出そうとするとき、強くなって来たオフ・ショアの風は、水の層を波頭からはぎとる。それが波の横幅いっぱいに、まっ白いたてがみのように、波そのものとおなじくらいの高さにまで、舞いあがる。そして波の向こうへ、いっせいになびいていく。
 太陽は西の海にその位置を低くした。光は波の頂上から舞いあがる飛沫の嵐を通過する。純白の飛沫を黄金色に染める。濃いグリーンの波が、人間の理解を超えた生き物のように、まっすぐ湾の沖に立ちあがる。波の壁は湾曲し、頂上から飛沫が狂いたつ。オフ・ショアの風にその飛沫をうしろになびかせ、波は走る。突進する。飛沫が黄金色に輝く。波にとりつこうとするサーファーが、かたっぱしからふるい落とされ、叩きのめされる。
 半日がかりで完全にノック・アウトをくらった僕は、夕陽の砂浜でマアラエアの波を見ながら、からっぽの置き物のようになっていた。


「バリー。これがそのフィルムだ!」
 ラリー・デイヴィスは、いちばん内側の包装紙にそう書いていた。
 ビル・ハミルトンがまだアランに出会う以前、南太平洋のトゥアモツ郡島の無人の環礁で撮った、五十フィートのカラー8ミリだ。
 フィルムがアラモアナのオフィスに航空便で届いたとき、オフィスには僕ひとりしかいなかった。だから僕は、ひとりでそのフィルムを見た。
「サーファーの白日夢のような、完璧なサーフ」
 と、ビル・ハミルトンは言っていた。
 ハミルトンは正しい。まさに白日夢だった。見渡すかぎり海と空以外なにもない。一直線に引かれた水平線をはるかな背景に、サーフが盛りあがる。南極大陸からのうねりが、海中のリーフに乗りあげてサーフになる。
 神々しいほどの美しさ、と言っても過言にはならない。波乗りに興味のない人でも、これを見せられたら、見とれてしまうはずだ。明るくそして悲しく、容赦の気持などどこにもないブルーの海に、横にまっすぐな稜線が一本、浮きあがる。見る人の心をしめあげる絶妙のスピードで、その稜線は高さと量を増す。
 横に長く、波のスロープが立ちあがる。底辺の長い美しい三角形へと盛りあがる。高さは僕の背丈の三倍に少し足らないだろうか。のびあがりきった波は、そのままそこに静止するかに見えて、次の瞬間、頂上からまっ白に砕けつつ、前へ倒れていく。チューブを巻きながら、左へ去っていく。
 あまりの美しさに、ハミルトンが言っていたとおり、パワーのさほどない波のように感じられる。だが底力を存分に秘めた、粘りのあるパワーを持った波だ。美しさに気をとられていると、稜線がさらなる高さを自らに加えていくときの、不気味に分厚い裾野にある途方もない力強さを見逃す。
 三脚を使ったのだろうか、ビル・ハミルトンの8ミリ・カメラは、サーフをとらえたままぴたりと動かなかった。サーフを真正面から狙ってわずかに右にずれた位置からだ。五十フィートぜんぶ、カメラを据えっぱなしだ。ハミルトンの撮影方法は非常に賢明であると言えた。
 何度も繰り返し、僕はそのフィルムを見た。数度、電話が鳴った。僕は無視した。そしてふと気がつくと、二時間たっていた。映写機のスイッチをオフにしてフィルムを巻きなおし、暗くしたままの部屋のソファに僕はひっくりかえった。全身の力を抜いてぐったりとなったまま、長いあいだそうしていた。
 予定の日よりも一日だけ早く、ダフネたちがホノルルに帰って来た。オフィスで仕事をしている僕のところへ、パン・アメリカンの空港オフィスから連絡が入った。午後の最初の到着便に、ダフネ、ラリー、そしてビル・ハミルトンが乗っているという。
 マーキュリーの4ドアで空港へ迎えにいった。三人とも元気だった。彼らのうれしそうな顔は、仕事が成功したことを物語っていた。ダフネが撮りあげた16ミリ・フィルムの入った重い罐を、三人で手分けしていくつも持っていた。
 車に乗りこんだダフネは、ひと言、
「現像ラボラトリー」
 と、言った。言われるままに、フィルムの現像ラボへまわった。
 仕事は大成功だった、とラリーが言っていた。いつもはもの静かに落ち着いているビル・ハミルトンも、いささか興奮ぎみだった。ダフネは普段より口数が少なかった。
「俺も波乗りはもうずいぶん長い」
 と、ラリーが言った。
「小学生の頃からだ。だけど、バリー、こんどのような経験は、初めてだ。あのアランというサーファーは正しい」
「どんなふうに正しいんだ」
 訊かなくてもいいことを、僕は訊いた。
「ビルの8ミリを見てあの島へいき、ひとりで住み、そして消えたということが、正しいんだ」
 ラリー・デイヴィスは素直な男だ。いかなる場合でも癖のない直球を投げる。いまの返事だってそうだ。
「なるほど、そうか」
 と僕は答えた。
「ビルのフィルムは受け取ってくれたか」
「たしかに」
「どうだった」
「そういう初歩的な質問に、なんと答えたらいいんだ」
「なにごとも初歩が大切だ」
 やりとりを聞いていたビル・ハミルトンが笑った。
「ほかの連中は、なんと言ってた」
「まだ見せてない」
「なんだって!」
「見せてない」
「この野郎」
「レイモンドには見せた。彼はきみたちが出発した次の日から毎日電話して来て、フィルムはまだか、フィルムはまだかと言うんだ」
「彼の反応はどうだった」
「繰り返し何度も見た。あのフィルムはコピーを五、六本作って一本につないでおこう。フィルムをかけ換える手間が省ける」
 ハミルトンがまた笑った。
「あのフィルムは、五十フィートぜんぶ、こんどの私の映画に使うわ」
 ダフネがとどめをさした。

 ホクレア号はとても小さく感じられた。マウイ島の北西端、ホノルアという可愛らしい湾の海に、いま浮かんでいる。丘を越えておだやかな貿易風が吹いた。快晴の午後だ。ホクレア号が湾の上で揺れ続けた。
 簡素で同時に優美な、双胴のカヌーだ。左右おなじかたちをした細い船体をデッキがまたいでかぶさり、そこに二本のマストが立っている。
 マストには一枚ずつ帆がつく。かたちも大きさも、少しずつ違っている。前に立っている帆のほうが大きい。帆のかたちは独特だ。蟹がハサミをふりかざしているような印象があるから、クラブ・クロー・セイルと誰もが呼んでいる。二本のマストのあいだには、覆いをつけた船室のような部分が見える。
 いまでは南太平洋から完全に消えている、古代ポリネシアの双胴のカヌーの復元だ。一七七八年、ハワイに初めて来たジェームズ・クック船長以来、多くのヨーロッパ人たちが、古代の双胴カヌーを絵に描き残した。ホクレア号の設計図は、そのような絵から作成された。
 材料も作りかたも現代のものだが、海に出てからの性能や特性は、大昔のそれと大差ないだろうという。エンジンは積んでいない。風が良く、しかも海が荒れていなければ、全長六十フィートのこのカヌーで、一日に百八十キロ近い距離をこなすことが出来る。凪いだときには櫂を使用する。
 ハワイからタヒチまで五千六百キロ。星と風だけを頼りに、ホクレア号はすでにこの距離の大航海を、一度だけ成功させている。三十五日間で、ハワイからタヒチまでの航海をなしとげたのだ。遠く離れてケッチが一隻ついて来たが、ホクレア号とは無線で交信しあうだけで、いっさいなんの手助けもしなかった。十七名の乗組員は、大昔とおなじやりかたで、海を越えた。じつに八百年ぶりのことだった。
 あと一時間とたたないうちに、ホクレア号はタヒチに向けて二度目の航海に出発する。乗組員のひとり、レイモンド・カアイラウを見送りに、今日、僕たちはここに来た。レイモンドのようなポリネシアの血を引く人たちにとって、ホクレア号の航海は特別な意味を持っている。
 ジェームズ・クック船長以来、白人によって政治も経済も支配されてきたハワイの近代史のなかで、ハワイ系の人たちは自己を見失うようにしむけられてきた。自分たちとはいったいなになのか、ハワイとはなになのかを根元的に考えなおし、民族の土台を現代のなかで新たに確認しようという動きに寄り添うように、ホクレア号の第一回の成功は、ハワイ系の人たちに大きな自信と誇りをもたらした。
 古代ポリネシア人たちは、双胴の小さなカヌーで南太平洋の五千キロ、六千キロを平然と相手にしていた。彼らの勇敢な行動力を現代によみがえらせたホクレア号は、いま重要な象徴になっている。
 カフナのダン・オヘロが、出発前の厳粛な儀式をおこなっていた。必死の思いをひたかくしにした表情で、オヘロは式をとり運ぶ。ただ眺めているだけでは意味のわからない複雑な儀式の手順のなかに、一度の成功が二度目の成功の約束をしてくれていないことが、無言のうちに物語られていた。
 儀式が終わると、最後のお別れだった。乗組員たちが肉親や友人と抱き合っておたがいの幸運を祈っているあいだ、乗組員を沖のホクレア号にまでつれていくボートが用意された。
 サーファーの仲間たちが、レイモンド・カアイラウを送りに来ていた。全員を代表して美しいダフネが、レイモンドの首にレイをかけた。肩を抱いて彼の両頬に接吻した。レイモンドの頬に自分の頬を押しつけたまま、ダフネは青い空を仰いだ。そのあと、うつむいているレイモンドに、長い祝福の言葉を捧げた。そしてサーファーたち全員が、レイモンドの肩を順番に抱いて航海の無事を祈った。
 レイモンドは、タヒチにたずさえていくおみやげとして、素晴らしいものを自分で自分にあたえた。昨日おこなわれた、ハワイでもっとも美しい伝統のある波乗りのコンテストで、レイモンドは優勝した。一昨年は三位、そして昨年は二位だった。
「これは階段だ。この階段をいま僕は、のぼっている」
 と、昨年、レイモンドは述べた。
「来年は、いちばん上まで、のぼる」
 レイモンドは約束を果たした。いくつも重なり合うラウンドのひとつひとつを、彼は無事に勝ち抜いた。荒れぎみの、パワーが生のままサーファーにつかみかかって来るような波の日だったが、レイモンドは誰の目にも、ほかのサーファーたちを大きく引き離して優美だった。
 乗組員たちはボートに分乗した。ボートは沖のホクレア号まで彼らを運んだ。乗組員はホクレア号に乗り移り、誰もが自分の位置についた。いくつものホラ貝の笛が、陸で吹き鳴らされた。その音は風に乗って湾を渡った。
 ホクレア号の錨が引きあげられた。帆が所定の位置に固定され、出航の瞬間があっけなく来て、とおりすぎた。思いのほか速いスピードで、ホクレア号は湾の外に出た。すぐ近くにある隣の島へ、いつもの渡し舟が向かうような、簡素な船出だった。その簡素なありさまは、これからホクレア号が相手にする海の巨大さと力強さに、ふさわしいように感じられた。波打ちぎわに立って、人々は双胴のカヌーを見送った。陽が射して風が吹いた。
 太陽が沈むまで、僕たちはホノルア湾にいた。草の生えた小高い丘の頂上で、ダフネは両膝をかかえ、すわっていた。ホクレア号の見えなくなった遠い水平線を、ひとりで見ていた。隣の丘にはビル・ハミルトンがいた。彼も水平線を見ていた。むっつりと押し黙っていた。サーファーたちがひとかたまりになり、砂浜に車座を作っていた。いつもの冗談もビールもなく、誰もが静かに話を交わした。
 そのサーファーたちからひとり離れて、なぜだか途方にくれたように、ラリー・デイヴィスが波打ちぎわを往ったり来たりしていた。


 アランが使っていた赤いサーフボードは、パペーテのビル・ハミルトンの自宅に置いてあった。それをラリーがホノルルに持って帰った。いまそのボードは僕たちのオフィスにある。奥の部屋の壁に作ってある、16ミリ・フィルム映写用のスクリーンのわきに、アランのサーフボードは立てかけてある。
「明かりを消してもいいかしら」
 ダフネが言った。
「いいよ」
 ラリーが答えた。
 部屋の明かりが消えた。暗くなった。ダフネは映写機のスイッチをオンにした。スクリーンが四角に明るくなった。
 ダフネが作った、アランについての映画の試写が、これから始まる。見るのはダフネと僕、それにラリー・デイヴィスとビル・ハミルトンの四人だけだ。タヒチからホノルルに帰って来て以来、ダフネはぶっとおしで働いた。ホクレア号の出発を見送りにホノルルへいった日をのぞいて、ほかの日は毎日、フィルムとの格闘だった。
 現像が出来て来ると、自分が撮ったフィルムのオール・ラッシュを映写して頭のなかに叩きこんだダフネは、ナレーションの台本作りにとりかかった。僕たちのオフィスの電動タイプライターで台本を作成しつつ、同時に頭のなかでラッシュ・フィルムの編集を彼女はおこなった。
 台本が出来あがり、推敲を終えると、その一部分をダフネは僕に読んで聞かせた。聞きながら、彼女の映画に対する僕の期待は、いちだんと高まった。
 それから彼女はフィルムの編集にとりかかった。ナレーションの分量とフィルムの長さをつきあわせ、ナレーションのない部分、音楽だけがかぶさる部分、そしてサウンドはいっさいなしに映像だけで見せる部分に区分けした。フィルムを映写しつつナレーションを自分で読んで録音したダフネは、フィルムの最終的な編集を終え、微調整をすませた。
 ナレーションと音楽の磁気テープをフィルムに光学録音しなおし、オプティカルもすませた。タイトル、そしてクレディットを作った。
 最初に彼女が考えていたよりも十分だけ長くなり、完成したフィルムの映写時間は五十五分だった。その完成品が、いま僕たちの目の前のスクリーンに映し出されている。
 フィルムは現実の時間の経過をほぼ忠実に追っていた。雨のパペーテから始まった。雨が降る南太平洋の島の午後だけを撮っても、ダフネの映像には底の知れないスリルがあった。雨に煙る湾と、その湾へ急激に落ちこんでいる深い緑の険しい山に、物語への期待が静かな律動となって感じられた。
 ダフネのクールで明晰な声は、映像に調和していた。ビル・ハミルトンがパペーテで初めてアランに会うところから、ダフネは静かに語っていった。雨の夜、ハミルトンが自宅で自分の8ミリを映写してみせる場面が再現され、ハミルトンの撮った8ミリが五十フィートぜんぶ、インサートされていた。色調や粒子の違いが、重なり合って進行する時間の経過を、痛いほどスリリングに感じさせた。
 8ミリ・フィルムのインサートのあと、ビル・ハミルトンがアランに会う以前へと、時間はフラッシュ・バックした。サンディエーゴでのアランとダフネの出会いが語られ、ダフネが撮影したアランの波乗りのフィルムのすべてが、インサートされた。
 ピアイラグの小さな貨物船。出航の準備をするハミルトン。そしてパペーテの港からの出航。大海原。沈む太陽。手ぎわよく時間は進行し、あの無人の環礁が、水平線の小さな島影となって、ついに登場した。
 島に近づき、高い太陽のもと、四十度の熱さを超える陽ざしのなかでボートによって環礁にあがっていくありさまが、カメラ・アイで紹介された。ラリー・デイヴィスはまだ登場しない。
 白日夢のようなサーフが、スクリーンに映った。ダフネの手にかかると、サーフは、なおいっそう妖しい魅力を発散した。環礁ぜんたいが、そして、それをとりまく南太平洋の海が、スクリーンから僕たちにのしかかり始めたのは、場面が夕方になってからだった。
 落日のシークエンスに、僕は息をのんだ。自分の呼吸がそのまま止まってしまわなかったのが、いまでも不思議だ。すべてのものが淡い黄金色に染まり、燃え立つような赤さから濃いオレンジ色へ落ちていき、やがて薄い闇が迫って来るまでの時間経過を、ダフネはこれ以上にはあり得ないほど感動的に、フィルムに撮っていた。
 スクリーンに映り続ける光と影に、僕たちは叩きのめされた。そして夜の空に星が出て月が昇ると、夢のなかにしかあり得ないはるか遠い世界に、僕たちは運びこまれた。
 星がすさまじい。濃紺の深い夜空を、星が埋めつくした。空の部分よりも、星のほうが多い。空のぜんたいが銀色に輝いている、と言ってかまわない。星はみな巨大だ。手をのばせば届きそうに思える。小さな環礁に向かって、星はいっせいに飛んで来るみたいだ。その轟々たる音が、いま聞こえるかいま聞こえるかと、僕は身をすくめつつ待ちかまえる。
 月は生き物だった。青く白い月光は、この小さな島を、風と波の音のほかにはなにもない静けさの底へ、突き落とした。リーフの外からいきなり落ちこんでいる底なしの海溝の深さは、そのまま、月光のすぐ隣にある夜の深さと密度だった。同時録音された波の音が、僕たちを圧倒しぶちのめした。海の広さと深さが、絶えまなく襲いかかって来た。
 月光を受けとめて、環礁もまた奇妙な生き物になった。月光の当たっている部分は白く輝き、当たっていないところは、果てのない奥行きをかかえた闇になった。月が位置を変えると、ついさっきまで影の底に沈んでいたものが白く輝いて生き、白かった部分が闇になった。ハイ・スピード撮影ではないのに、月の位置の変化とともに深い息をして生きる環礁ぜんたいが、スクリーンを見る人の内部を犯した。
 椰子やパンダナスの葉が風に鳴り、影と光を間断なく交錯させつつ、はためいた。落日の最後の時間、まっ赤に染まった砂浜に、西の端から東の端まで、鮮明な黒い影を長く落としていた椰子やパンダナスだ。
 不思議な湿り気をおびた、ひんやりと冷たい夜の空気を、誰もが感じた。波のない礁湖の湖面すれすれに構えたカメラは、リーフのすぐ外のサーフを、月光のなかにとらえた。ダフネをのぞく三人が、深くうめいた。カメラのすぐ近くで、湖面からきらめいて跳ねあがったものがあった。
 夜空に跳ねあがって反転し、月光を反射させ、湖面に落ちた。礁湖にいる魚だ。湖に銀色の波が広がった。礁湖の水中から月と星の夜空を仰いだショットもあった。魚がレンズのすぐ上を泳いでいき、ゆらめく透明な水に月と星が踊った。
 ラリー・デイヴィスが初めてスクリーンに姿を見せたときにも、僕たちは声をあげた。漆黒のパンダナスの林から、白い砂浜へ、シルエットになったラリーが、ふらりと出て来たのだ。
 ミルク色の霧が立ちこめる朝が来た。陽が昇り、霧は次第に薄れ、その薄れた霧のなかを海鳥が滑空した。霧が晴れると、まっ青な空から鮮明な陽が降り注いだ。サーフがスクリーンに映った。盛りあがっては砕ける様子が克明に描写されたあと、いきなり、波の頂上の向こうから、ラリーがテイクオフして来た。
 落日の時間まで、ラリーの波乗りが続いた。このシークエンスに重なったダフネのナレーションのなかで、次のような一節が僕の心のひだに食いこんだ。
「もう少しで彼方へ突き抜けることの出来る、ほんの少し手前の地点。こちらでもあちらでもない、中間地点。この地点をとおり抜け、自分を超えたものになりたい。だが、海の生命の力を知るには、降服を経験しなくてはいけない。彼の内部を海が埋めて彼を強くする。最後には、自分のあるべき位置がサーファーにはわかる。陸にいてはわからない、あの位置が」
 映画の最後の部分は、礁湖に浮かんだアランの赤いサーフボードだった。真上にある太陽の光をそのボードは鋭く照り返し、やがて陽が傾いて落日となり、夜が来た。月の光を受けて、サーフボードは礁湖の底に影をつくった。

 太平洋のまっただなか、荒れ狂う大波のなかに、僕がひとりでいる。僕は、「サーフボード! サーフボード!」と、叫んでいる。
 それ以外の音はなにも聞こえない。風の音も波の音も、いっさい聞こえない。山のようにせりあがる波のスロープを、サーフボードが頂上へ向かってのぼっていく。そのあとを僕が追う。僕の手はあと少しでサーフボードに届く。サーフボードのほうが速い。スロープを高くのぼりきったボードは、きりもみをしながら灰色の空へ舞いあがる。波の頂上から、僕はそのサーフボードに向かって両手をのばす。届かない。僕の下半身を波がとらえて離さない。巨大な波は低くなっていく。波にひきずられ、僕も落ちていく。入れ違いに、まわりの波が、高くそびえていく。
 波の谷底から空を見上げる僕に、空中のサーフボードが見える。ボードは落ちて来る。ボードに向かって僕は手をのばす。しかしボードは隣の波のスロープに落ちる。スロープをサーフボードがのぼっていく。僕が追いかける。間に合わない。サーフボードは空に舞いあがる。その繰り返しが、何度も何度も続く。僕は、「サーフボード! サーフボード!」と、叫び続ける。
 電話のベルが鳴っていた。僕が置かれている状況と電話のベルとのあまりのそぐわなさに、僕は眠りを破られた。苦しい眠りだった。ソファから起きあがった僕は、鳴っている電話のあるデスクまで歩いた。夜遅くまで仕事をした僕は、そのままオフィスのソファで寝た。
 受話器をはずし、耳に当てようとして、僕はその受話器をデスクに落とした。真珠貝色をしてつるつるの、よく落とすあの受話器だ。受話器を拾いあげ、両手で持って耳に当てた。
「バリー。バリー!」
 ラリー・デイヴィスが叫んでいた。
「お早う」
 僕が答えた。まだ夜中だ。
「バリー。だいじょうぶなのか?」
「受話器を落としたんだ」
「いま俺のところに連絡があった。海軍が電話して来た。友人がいるんだ。アメリカ海軍に」
「それがどうした」
「ホクレアが、ひっくりかえった」
「NO!」
 思わず、怒鳴った。
「出発して九日目、北緯で十度あたりだ。大嵐のなかであっけなく転覆したそうだ。ホクレアが打ちあげた照明弾を、海軍の飛行機が見つけた。そのときすでに、転覆から二十四時間たっていた」
「救助隊は?」
「いま頃は全員をヘリコプターで吊りあげたに違いない。生き残った全員だ」
「生き残った全員?」
「行方不明、つまり絶望が、何人かいる」
 あとは聞かなくてもわかった。
「まさか」
「これからずっと、生前のレイモンド・カアイラウを知っていた人たちは、言い続けるだろう。まさか、まさか、まさか」
 言葉を途中で切ったラリーは、そのまま電話の向こうで黙りこんだ。
 レイモンド・カアイラウを最後に見たのは、ピアイラグだった。救助されてハワイに戻って来たピアイラグは、そのときのことを次のように簡潔に語った。
「転覆したカヌーの船底にしがみついていた私は、すぐ向こうの大波の頂上から空に飛ばされていくレイモンドを見ました。船に積みこんでいたまっ白なサーフボードにテイクオフのときのように乗り、波の頂上から空中へ飛び、見えなくなりました。それっきりです」
 沿岸警備隊や海軍と空軍、それに民間の捜索会社も加わり、大がかりな捜索が一週間続けられた。行方不明者は、ひとりも見つからなかった。レイモンドのサーフボードも、発見されないままだ。あの白いサーフボードはいまどこだろう、とレイモンドの友人の誰もが思っている。
 デッド・カームの海原にぽつんと浮き、白く輝きつつ太陽を照り返しているか。ふたたび嵐にあい、波の力でまっぷたつに折れ、おたがいに遠く離ればなれか。あるいは、いまレイモンドなしで、大波の頂上から空へ飛んでいるか。落日の海で裏おもて逆さまになり、三角形のテール・フィンをオレンジ色の水平線に黒く小さく、シルエットにしているか。
 タヒチに帰るピアイラグとハミルトンに、僕が同行した。飛行機の窓から海ばかり見ていた。白い小さなサーフボードはどこにもなかった。鈍い銀色に太陽を照り返す重い波の、広大なつらなりだけがはるか眼下にあった。
[#改丁]

改訂文庫版のためのあとがき


『白い波の荒野へ』という短篇小説を、僕は雑誌『野生時代』の創刊号に書いた。一九七四年のことだったと思う。まもなく文芸雑誌を創刊するからそこに小説を書くように、と僕は角川春樹さんから依頼された。翻訳の仕事をとおして、その頃の僕はすでに角川さんと知り合っていた。文芸雑誌とはどのようなものなのか、僕にはよくわからなかったが、短篇ひとつならなにか書けるだろう、と僕は思った。
 当時の僕はたいへんに多忙だった。雑誌『ワンダーランド』とそのあとの『宝島』をめぐる作業、そして僕自身の雑誌ライターとしてあるいは翻訳者としての仕事が山のようにあった。角川さんはその何十倍も多忙だったはずだ。彼の文芸雑誌は準備期間を終え、創刊号のための作業に入った。僕が仕事で出向いている場所に角川さんは自らあらわれ、文芸雑誌の創刊号のための短篇をかならず書くように、と僕に念を押した。本気の依頼であることが、このとき僕にはようやくわかった。僕は締切りを告げられた。
 なにか書けるだろうとは、なにが書けるかの問題だ。書けることはほとんどない、という発見ないしは確認を、僕はしなくてはならなかった。この頃の僕は、『ワンダーランド』そしてその続きの『宝島』で、『ロンサム・カウボーイ』というタイトルのもとに、文章を連載していた。
 二十歳の頃から自分が書いてきた、どの文章とも異なるような文章だった。そういうものを書きたくなったから、僕は書いたのだ。評論でもなければノン・フィクションでもなく、感想文でも紀行文でもなく、要するに連載の毎回はそれぞれ独立した物語だった。だからそれは僕にとっては小説の始まりだった、と僕は考えることにしている。僕にとって小説のデビュー作は、『ロンサム・カウボーイ』だ。
『野生時代』の創刊号に書いた短篇は、この『ロンサム・カウボーイ』の延長線上に位置するものだ。そこでならやっとそれだけを書くことが出来た、という言いかたはたいへんに正確だと、二十数年後の当人が思う。『野生時代』という文芸雑誌の創刊号に書く小説として、『ロンサム・カウボーイ』の延長線上の、ハワイの波乗りの話しか、僕は書くことが出来なかった。
 書いた原稿を編集部に読んでもらい、支持を得たのち、僕はぜんたいを書きなおした。当人としては言葉づかいを引き締めなおしたつもりだった、というようなことをいま僕は思い出している。タイトルをつけたときのことを、ついでに書いておこう。さてタイトルをどうすればいいものか、考えてもアイディアは浮かばないまま、時間だけが経過していきそうな気配になった。
 なんとか早くにタイトルをきめたいと思った僕の目にふととまったのは、当時の角川文庫の新刊だった。帯のコピーに「白い荒野へ」という言葉があった。あてどない旅の途上にある青年の必携品としての文庫本、というイメージで角川文庫は宣伝されていた。このコピーのなかに「波の」という言葉を加えて、短篇のタイトルは『白い波の荒野へ』となった。
『アロハ・オエ』『アイランド・スタイル』『シュガー・トレイン』『ベイル・アウト』の四篇は、『野生時代』の創刊から三、四年あと、同誌に書いた。『白い波の荒野へ』の主人公とその周辺を使って、連作のようにいくつかさらに書いてはどうか、という提案を編集部から受けたからだ。言葉によるそのような試みが自分に可能かどうか、五分五分のところで僕は引き受け、この四篇を書くことが出来た。
『白い波の荒野へ』は、『いい旅を、と誰もが言った』というタイトルの単行本に、まず収録された。あらたに書いた四篇が揃ってから、『白い波の荒野へ』を加え、書いた時間順に配列し、『波乗りの島』というタイトルで文庫になった。一九八〇年のことだ。それから十年以上をへて、おそらく一九九〇年代に入ってから、おなじ内容のまま単行本になった。だからここにあるこの文庫本は、四度めのかたちだ。
 いい機会だから校正刷りは丁寧に読み、納得のいくところまで訂正や修正を加えてはどうかと、編集作業の全域を担当したフリーランスの編集者、吉田保さんが僕に提案した。まっとうな提案だから、僕は受けなければいけない。僕は校正刷りを細かく読んだ。訂正や修正を加えた。その結果として校正刷りは、業界の言葉で言うところの、「まっ赤なゲラ」となった。
 ゲラとは校正刷りのことだ。校正用にガラガラと音を立てて仮に刷るから、ガラ刷りと呼ばれた。それがいつのまにかゲラと訛って、いまもそのまま通用している。まっ赤とは、赤いボールペンで訂正や修正を書き込んだことによる、校正刷りの紙面ぜんたいの印象のことを言う。
 二十数年後におこなう推敲、などと僕は冗談を言いながら作業にとりかかったのだが、校正の作業はけっして冗談などではなかった。『波乗りの島』をつらぬく主題に、僕は初めて出会ったからだ。書いたときには主題の自覚などまったくなしに、書いていて心地良いことのみを反射的に書いていく、というスタイルで書いた。それから二十数年をへて、書いた当人が読みなおしてみると、『波乗りの島』を構成する五篇を、ひとつの主題がつらぬいている事実を、発見することとなった。
 その主題はごく簡単に書くと次のようなことだ。なににしろ存在するものは消えていく。消えていくにあたっては、どこかになんらかのかたちで、それは痕跡を残す。たとえば一度だけの大波は、それを撮影した映画フィルムのなかに、痕跡として残る。その痕跡を受け渡された次の人たちが、痕跡のなかからなんらかのクリエイティヴな力を引き出して、それを自分たちのものとしていく。
 人が島に生きることの象徴であるような古い民家や、懐かしいジェネラル・ストアが、開発の前に消えていく。古き佳きハワイを残す小さな町が、火山の噴火で溶岩に埋めつくされる。波乗りのために美しく使うことの出来る波が、発電所の工事で永久に消えてしまう。歴史を継承する双胴のカヌーが、そして優秀なサーファーが、嵐の海に消えていく。それらの痕跡は、人の記憶のなかに、映画フィルムのなかに、あるいは歌にかたちを変えて、とどまり続ける。
 五篇のうち四篇に、主役と言っていい重要さで、映画フィルムが登場している。おそらく五篇とも、少なくとも作者においては、きわめて視覚的に思い描かれた物語なのだ。『ロンサム・カウボーイ』は映画フィルムのなかの映像を言葉で書き写したものだ、と僕は理解している。『ロンサム・カウボーイ』の延長線上に『波乗りの島』があるというのは、まずなによりも先に、このような意味においてだ。
 頭のなかで映画フィルムが撮影しているか、あるいは撮影ずみのものが映写されているかしないと、小説を書くことが出来なかった僕。初めて目のあたりにした『波乗りの島』の主題を経由して、いまの僕はそのような僕と再会した。そしていまの僕は、そのような僕と、基本的にはまったく変わっていない。当然のことだろう。
 二十数年前の作者の、主として幼い言葉づかいを訂正し修正するだけなら、校正刷りは「まっ赤」にはならなかったはずだ。『野生時代』に掲載されたときには、おそらく僕が書いたままに印刷されたはずだ。それが単行本になったとき、「うちの方針」で漢字の多くが平仮名になったのではないか。そして文庫になるに際しては、読者が若い人たちに想定してあったことも手伝い、出来るだけ読みやすくという方針に沿って、漢字はさらに平仮名となった。文庫にする作業を急いだ記憶がある。文庫の校正者と僕が同時にそれぞれ校正をおこない、両者は重ね合わされた。
 そしてもう一度、単行本になるとき、僕は改行でかならず独立させるかぎ括弧に入った会話の台詞が、かたっぱしから地の文に追い込んであった。そのようにしていいかと訊かれて、僕は軽率にもどうぞと答えたに違いない。
 だからこの文章の校正を最初に見たとき、そこにある文章はとうてい自分の文章とは思えなかった。文章の内部には立ち入らず、とにかく外側を自分のものへと修復するだけで、校正刷りは「まっ赤」となった。二十数年ぶりに推敲すると、その推敲にはこのような作業も含まれる。
 若い読者のために出来るだけ読みやすくしたいから漢字を平仮名にする、という方針は定見でもなんでもない。漢字から片仮名へとなると、なおさらだ。煙草。罐。瓶。鼠。梟。蟹。蚊帳。螺旋。罐詰。見ればひと目でわかる、その意味でたいそう理解しやすいこのような漢字が、タバコ、カン、ビン、ネズミ、フクロウ、カニ、カヤ、ラセン、カン詰め、となってしまう。平仮名にとどめずさらにそれを越えて片仮名にした理由は、僕には見当もつかない。こういった漢字を片仮名で書くことの正当な根拠というものが、どこかにあるのだろうか。
 覆う。長く。始まる。浮かぶ。こういった書きかたも、そこになにごとがあるのか、ひと目でわかる。これを平仮名にして、おおう、ながく、はじまる、うかぶ、とすることに、効果も根拠もない。アイディアをアイデアと書き、カーヴをカーブとすることにも、根拠はないはずだ。
 片仮名による書きかたを、英語なら英語の原語の音になるべく近づけようとするのは、意味のないことだ。ある程度のところまででいい。しかし、ある程度をどこにするかは、書き手である僕の判断だ。そしてその判断は、とにかく読む端からすんなりとわかり、次々に気持良く読み進むことが出来、そのことの蓄積的な結果として、文章ぜんたいに前へ前へと進む力が発生して来る、ということを目標としている。
 漢字についても、まったくおなじだ。広い概念にしろ端的な具体物にしろ、真の理解はまた別のこととして、とにかく文字をぱっと見てひと目でわかるという特性が、日本の漢字にはある。それを使うべきところでは使うのが、僕の書きかたのルールだ。自分が書いたものではないように見える校正刷りを修正し訂正していく作業のなかで、僕はこんなことも確認することが出来た。
『波乗りの島』をこの四度目のかたちへと引き出したのは、吉田保さんだ。こうして本になるまでの編集作業のいっさいを、彼が担当した。彼との作業を重ねるたびに僕が確認するのは、彼の示す判断の正しさ、そしてその正しさを支えて持続させるための、純粋な熱意だ。彼の作った双葉文庫版『波乗りの島』が、これまでのどれよりも良い版として、ここにある。

一九九八年九月
片岡義男





底本:「波乗りの島」双葉文庫、双葉社
   1998(平成10)年10月30日第1刷発行
入力:八巻美恵
校正:高橋雅康
2011年1月10日作成
2012年12月31日修正
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