物のかたちのバラッド

片岡義男




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バスを待つうしろ姿



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 昼食には洋食の店でコロッケを食べた。右隣の席にいる三年だけ先輩の同僚が教えてくれた店だ。初めてのその店で食べたあと、まだ歩いたことのない道を経由して会社へ向かった。途中に画材の店があった。本来は卸問屋なのだが、店先では小売りもしていた。スケッチ・ブックが目玉商品として安く出ていた。B6サイズで百枚綴じのを一冊、北原亜紀男は買った。
 会社の建物へ戻り、エレヴェーターで六階へ上がった。このワン・フロアが営業の大部屋だ。片方の壁にタイム・カードとその印字機があり、その前を横へ奥に入ると、そこは湯沸かし室だった。正面には曇りガラスのドアが観音開きにあった。ドアを入ると右手のスペースがタイピスト・プールで、通路をはさんで左側には営業庶務の人たちの机がならんでいた。その向こうに会議室がふたつあり、さらにその奥はテレックス・マシーンとそのオペレーターのコーナーだった。
 新卒で入社してまだ三か月にならない北原の席は、大部屋のほぼまんなかあたりにあった。昼休みはまだ終わっていない。だから部屋に人は少なかった。女性たちはまだ全員が席に戻っていなかった。自分の机までいき、椅子にすわり、買ったばかりのスケッチ・ブックを手に持って開いた。B6のサイズで白い画用紙が連続していた。裏と表では感触が違った。表は鉛筆のひっかかりが良さそうだ、と北原は思った。
 濃紺のスーツ・ジャケットの内ポケットから、彼は黒いシャープ・ペンシルを取り出した。速記者が使うものだということで、0・9ミリで2Bの芯が入っていた。芯を繰り出しながら彼がふと思ったのは、今日もエレヴェーターを使って何度も出たり入ったりしたが、まだ長谷川裕子の姿を見ていない、ということだった。
 右開きのスケッチ・ブックを半回転させて左開きとした彼は、表紙を開いた。最初のページの白いスペースのなかの、ある一点にシャープ・ペンシルの芯先を下ろした彼は、そこから絶妙な滑らかさと素早さで、まるでひと筆描きのように若い女性をひとり、描き出した。ドアの開いているエレヴェーターから、ふと外に出てみたというポーズの、制服のエレヴェーター・ガールだ。九階まであるこの建物は、ワン・ブロックのほとんどをふさいでいた。一階の長方形のロビーの片側に、五基のエレヴェーターがならんでいた。六人のエレヴェーター・ガールが、交代でこの五基を操作していた。スケッチ・ブックに北原亜紀男が描いたのは、そのうちのひとりである、長谷川裕子だった。
 昼食から帰って来た隣の部の課長代理が、北原の椅子のうしろをとおりかかった。スケッチ・ブックに目をとめて立ちどまり、北原の肩ごしにかがみ込んだ。
「うわっ、うまい」
 倉本というその男が言った。
「長谷川じゃないか。おまえが描いたのか」
「そうです」
「ものすごくうまいねえ」
「そうですか」
「そうですかじゃないんだよ。どうやって描いたんだ」
「僕が、これで」
 と、北原はシャープ・ペンシルを見せた。
 大部屋のいちばん奥にある第三部の男が、通路をとおりかかった。倉本は彼を呼びとめた。
「おい、見てみろ。傑作だよ」
 そう言って北原の背後から、北原の手のなかのスケッチ・ブックを、彼は示した。呼ばれた男も北原のうしろへ来た。そしてスケッチ・ブックをのぞき込み、
「ほほう、長谷川だ。あのこの感じが出てるね。いまにも動きそうだ。エレヴェーターのなかへ入っていきそうだ」
「こんなに絵のうまい男が、なぜ商社の営業にいるんだ」
 倉本がそう言い、第三部の男は笑った。北原とおなじ部にいる、北原よりも七、八年は先輩の男が、足早に北原のかたわらへ来た。三、四人以上の人たちがかたまってなにか話をしていると、かならず顔を突っ込むことで知られている、山中という男だった。
「この絵を見ろ」
「長谷川の裕子じゃないか。すごいね、これは。そっくりだ。六人のうち、あのこがいちばんの美人だからなあ」
「この絵はこれで完成かい」
 倉本に言われて、北原はエレヴェーターのドア枠そして壁などを、ほんの少しだけ描き加えた。
「長谷川がさらに浮き立つね」
「傑作だよ」
 と、山中が言った。
「これだけ描ければ、末は画伯だ。末まで待たなくても、たちまち画伯だ。日付けを入れとけよ。まずこのビルの名前を書いて。長浜ビル。そう。日本橋蠣殻町。絵は描けるけど、字は大丈夫か。日付け。一九六三年六月十九日。長谷川、なんと言ったっけ。裕子か。よし、それでいい。彼女のサインをもらっとけ。自筆の署名入りだと、値打ちもまた違ってくるよ。俺がいまサインをもらって来てやる」
 山中が北原のスケッチ・ブックに片手を差しのべたとき、
「おい、山中」
 と、部長が席から呼んだ。山中は足早に部長の席へ向かった。
「あいつを追っ払うには、部長に呼んでもらうのがいちばんだな」
 倉本が言い、第三部の男は北原の肩に手をかけて揺すった。そして、
「そんなに絵の才能があって、どうするんだよ」
 と言いながら、通路へ出ていった。倉本は自分の席へいき、ベルの鳴った隣の席の電話に出た。北原はスケッチ・ブックを閉じた。そして長谷川裕子のことを思った。昨日、彼女と交わした短い会話を、彼は思い起こした。
 外出する彼が、六階で壁のボタンを押して待っていると、正面のドアが開いた。エレヴェーター・ガールは長谷川裕子だった。なかに入った彼は、
「九階」
 と言った。
 いぶかしげな表情が、裕子の顔に淡く浮かんだ。
「かしこまりました」
 と彼女は言い、ドアを閉じた。
「いつでもいいですから、僕と会ってください。一日の仕事のあと。あるいは休みの日に」
 エレヴェーターの奥の壁を背にして、北原は裕子のうしろ姿にそう言った。振り返って彼を見た彼女は、
「私は会社の営業の人が、大っ嫌いなのよ」
 と答えた。
「営業の人が嫌いということは、サラリーマンが嫌いということですね」
「そう言ってもいいわね」
 目の前にある操作盤に向けて、彼女は静かに言った。
「営業の人でなければ、どうですか。会社を辞めれば」
 九階に着くまで彼女は無言だった。エレヴェーターは停止し、彼女はドアを開いた。ドアまで歩いた北原は、彼女に顔を向けた。
「会社を辞めれば、会ってもらえますか」
 彼の顔からはずした視線を、長谷川裕子は操作盤のボタンの列に戻した。至近距離にあるいくつかのボタンを見て、しばらくのあいだ彼女は無言でいた。
「誘ってみて」
 と、彼女は言った。
 北原はエレヴェーターを出た。裕子はドアを閉じた。階数表示の矢印が、九階から順に下っていくのを、北原は確認した。九階にはなにもなかった。エレヴェーターと平行に廊下があり、どちらの端も屋上へのドアだった。北原は壁のボタンを押した。ここには下へいくためのボタンしかなかった。一のところで止まっていた矢印が動き出し、二、三、四と上昇して来るのを、彼は見守った。やがて九階に着き、ドアが開いた。なかにいるのは裕子だった。微笑してエレヴェーターのなかに入る彼に、裕子はきわめて淡く、微笑を返した。
 昼休みが終わり、営業の大部屋は騒がしくなった。あの淡い微笑を自分は絵に描くことが出来るだろうか、と北原亜紀男は思った。もう一度、裕子の顔を見ることが出来れば、おそらく描けるだろう。北原はスケッチ・ブックを机の引き出しに入れた。ほかのサイズのも含めて、この安いスケッチ・ブックはもっと買っておこう、と彼は思った。
 次の日、六月二十日、おなじ部の島崎という課長と昼食を食べることになった北原は、昨日の洋食の店を提案した。ではそこへいこうと課長は言い、ふたりで店へ向かう途中、北原は退職の意志を島崎に伝えた。
「なんだよ、いきなり。しかも、こんなに早く。入社してまだ三か月たってないよ。もう辞めるのかよ」
 という島崎の反応はすぐに慰留の説得に変わり、昼食のあいだずっと、島崎は北原を慰留し、退職の意志を翻意するよう、説得した。
「この会社のいまの仕事に適した人材ではないので、もうこれ以上いても、あとあと迷惑をかけるだけですから、早い段階で退きます。今月いっぱいのつもりです」
 北原が言うべきことの中心はそれだけであり、それを何度か繰り返して伝えてしまうと、あとは島崎の慰留や説得を、ひとつずつ受け流すだけとなった。食事が終わってコーヒーとなり、島崎はさらに続けた。
「言ってることはよくわかるんだよ。俺もそういうことを言ってみたいよ。気持ちがきまってるなら、それはそれでいいよ、部長につないでやるよ。しかし、いまここで会社を辞めて、そのあと、どうするんだよ」
「なんとかします」
「なにかあてがあるのか」
「なにもありません」
「それは困るだろう」
「あわてずに、ゆっくり」
「あわてずに、ゆっくりと、困るのか。それもいいや」
「はい」
「どこでなにをするにしても、それは仕事だから、せっかく入ったうちの会社の仕事でも、いいじゃないか。人あたりは穏やかだし、いやな奴ではないし、能力は人なみなら、すぐに一人前に育っていくよ」
「これからずっととなると、ちょっと」
「なにをやるにしても、ずっとやるんだよ。男はそういうもんだろう」
「それは確かにそのとおりなのですけど、それとは別に、自分自身の問題がありますから」
「なんだ、それは」
「自分をどうするのか、という問題です」
「商社マンになるんだよ」
「商社マンとは別に、自分自身というものがあるとすると」
「ないよ、そんなもの」
「そうですか」
「言ってることは、俺だってわかるんだ。これが自分の人生になっていくのかなと思うと、違う道があるんじゃないかと迷ったりするということだろう」
「はあ」
「迷ったり困ったりするのも、いいかもしれない。いまいくつだ、お前」
「二十二です」
「馬鹿野郎。俺は三十三だよ」
 課長の島崎はなんとか納得してくれた。その日のうちに部長に話をし、引き止めろ、と島崎は言われた。だから明くる日の金曜日、そして次の週の月曜日と二日にわたって、島崎は北原の説得と慰留に努めた。北原の意見と態度は変わらず、島崎はあきらめ、その旨を部長に伝えた。部長は北原の退社を了承し、火曜日に北原は人事部長に辞表を提出して受理された。六月二十八日付けで退社、という辞表だった。事務引き継ぎのため、七月一日の月曜日から五日の金曜日まで、北原は出社することになった。
 その七月一日の午後、銀行の外為をまわる仕事で外出するとき、六階からひとりで乗ったエレヴェーターに、長谷川裕子がいた。ほかに乗っている人はいず、エレヴェーターのなかで彼らはふたりだけとなった。裕子は九階のボタンを押し、ドアが閉じた。エレヴェーターは上昇を始めた。斜めうしろの位置から、北原は彼女の肩や腕の線を見た。そのすぐ向こうで、操作盤にならんでいる階数のボタンが、七、八、九と、順番に点灯していった。エレヴェーターは九階に着き、裕子はドアを開いた。そしてドアを開いて停止させたままの状態に保ち、北原を振り返った。
「なにか話をしたそうな顔だったから」
 と、裕子は言った。
「僕は会社を辞めました」
「ほんと?」
「もう社員ではないのです。事務の引き継ぎで五日までは出社します」
「ほんとに辞めたの?」
 スーツの襟を彼は示した。
「バッヂがないでしょう。辞表を受理した人事部長に、バッヂを返還しろと言われて、返したのです」
「私、下北沢であなたを見かけたのよ。これまでに二度。近くに住んでるの?」
「代田です」
「私は松原」
「土曜日に下北沢で会いませんか」
 裕子は小さくうなずいた。そして喫茶店の名をあげた。その店がどこにあるか、北原は知っていた。
「午後三時に」
 そう言って裕子はドアを閉じた。
「六階で呼んでるわ。七階で停めるから、そこで降りて」
 エレヴェーターは下降していった。七階に停まった。開いたドアから出ていく北原に、裕子は右手を差しのべた。北原と手を握り合い、
「おめでとう」
 と、笑顔で言った。
 土曜日の午後、三時前に、北原亜紀男はスケッチ・ブックを持って自宅を出た。下北沢まで歩いて七分ほどだ。裕子の指定した喫茶店に、約束の時間どおりに着いた。中二階の席に裕子はすでに来ていた。差し向かいにすわった北原は、両膝に手を置き、裕子に一礼した。
「北原です。よろしくお願いします」
 と言った。
 裕子は笑っていた。
「ほんとに会社を辞めたの?」
「辞めましたよ」
「いまはなにをしてるの?」
「なにもしてません」
「これから、どうするの?」
「なんとかします」
「なにかあてはあるの?」
 会社の島崎とおなじ台詞だ、と北原は思った。そう思うと彼の顔に微笑が浮かんだ。
「なにもありません」
「自宅にいるのね」
「そうです」
「ご両親といっしょ?」
「はい」
「お父さんは、なにをなさってるの?」
「大学の先生でした。会計学です。いまは友だちといっしょに丸ビルに事務所を持って、実業界を相手に仕事をしてます」
「お母さんは?」
「母も会計の人なのです。いまは近所の親しい人が経営している、料理の学校の経理を見てます」
「あなたはひとりっ子でしょう」
「そうです」
「恵まれて育ったのね」
 身辺調査のように続く裕子の質問は、裕子が自分よりもはるかに現実的な立場に立っているからだ、と北原は判断した。
「私もいまの仕事を辞めたいのよ。もう辞めるわ。高校を出てすぐにいまの仕事について、エレヴェーターで上へまいりますとか、下でございますとか。それで二十歳になって、もうたくさん」
「次の仕事は、なにですか」
「まだなにもきめてないわ」
「僕とおなじですね」
「いったん辞めたら、ぶらぶらしてるわけにはいかないし。今日は土曜日だからいいけれど、月曜日になったら、あなたはどうするの?」
「鉛筆を削ります」
「鉛筆?」
「絵を描くのです。2Hから8Bまで、十二種類の鉛筆を、五本ずつ買いました。それを全部、小さなナイフで削るのです。合計で六十本です」
「あなたは絵を描く人なの?」
 かたわらに置いていたスケッチ・ブックを、北原は手に取った。表紙を開いて半回転させ、裕子に差し出した。受け取った彼女は、開いてあるページに視線を落とし、そこに描かれているものを見つめた。そして顔を上げ、整った顔立ちを真剣な表情で引き締め、北原を見た。
「これは私よ」
 と、裕子は言った。
「まさにこの私よ。私そのものよ」
「そうです」
「ほんとにあなたが描いたの?」
「昼休みにそのスケッチ・ブックを買い、会社に戻ってから自分の席で描きました」
「これはすごいわ。どうしてこんなふうに描けるの」
「簡単です」
「私そのものよ。私の全部が、この絵のなかにあるのよ」
「そうですか」
「エレヴェーター・ガールの制服を着てるけど、じっと見てると裸に見えるわ。私の裸の体が描いてあるのとおなじよ」
「人は体ですから」
「なぜこんなに描けるの? 私の裸を見てもいないのに」
「体は骨格で、そこに内臓が詰まっていて、神経や血管が縦横に走り、筋肉があって皮膚に覆われているのです。動きかたは無限の変化をしますし、たとえば立っているときのふとしたポーズでも、立ちかたはさまざまにありますから、表情もいろいろです」
「この絵を、さらさらっと描いてしまうのね」
「そうです」
「これだけ描けて、なぜあなたは芸術家にならないの?」
 裕子の言葉に北原は笑顔になった。健康な楽天性に支えられたまっすぐな熱意が、半袖のシャツにかろうじて覆われている彼女の肩や腕そして胸など、上半身のぜんたいから、自分に向けて注がれるのを受けとめるのは、快感の一種だと言ってよかった。
「芸術家ですか」
「なぜ、商社の営業なの?」
「それはもう辞めました」
「大学ではなにを勉強したの?」
「なにも勉強はしてません」
「学部は?」
「法学部です」
「法学部を出ると、法律家になるのではないかしら。弁護士とか」
「入学試験にたまたま受かっただけですから。弁護士になるつもりは、ありませんでした」
「これからなにになるの?」
「わかりません」
「なにかにならなくてはいけないのよ。なにかをしなくてはいけないのよ。会社でもらってたお給料くらい、稼がないと」
「はあ」
「はあではないのよ、まったく」
 鼻すじのきれいにとおった、目もとの涼しい美人にこうして問いつめられ、片隅へと追い込まれていくいまの自分こそ、自分自身として実感することの出来る自分なのだ、と北原は思った。
「その絵にサインをしてください。長谷川さんの直筆で、お名前を書いてほしいのです」
「私のサインが、なにになるの?」
「記念です。会社でこの絵を見せたら、そう言われました。サインをもらっておくのも、悪くないかなと思います」
 小さなバッグを膝に置いて開き、裕子はなかから赤いボールペンを取り出した。ノックして芯を出し、
「どこに?」
 と、北原に訊いた。
「画面の両端、どちらか。縦に書いてください」
 言われたとおり、裕子は自分の名前を書いた。そして背をのばし、まっすぐに北原を見た。
「私、いま、閃いたわ。エレヴェーター・ガールの私は、いまこの瞬間で終わりなのよ。あなたが描いてくれた絵にサインして、日本橋のあの建物で働いている私は、終わったの。今日、いまから、次の私よ」
「それは、なにですか」
「なにかしら」
 指先に持ったボールペンを見つめて、裕子は言った。
「とにかく、いまの仕事は辞めるわ。来週、すぐにも」
「そのあと、なにをするのですか」
「なにかしら」
「お父さんは、なにをなさってるかたですか」
「映画の仕事。砧の撮影所で、美術。セットをデザインしたり、いろんなこと。映画を見ると、監督、撮影、音楽、編集などと、画面に名前が出てくるでしょう。いちばん最後が助手で、その前に出てくるのが、美術なの。社長室の壁に絵を掛けたい、と監督が言えば、たちまち絵を描くのが父親の仕事の一部分よ。私の顔を描いたりするけれど、ぜんぜん似てないの。その絵が画面にあらわれる映画があるのよ」
「女優はどうですか」
「私が?」
「はい」
「脇役ならいつでも、と言われたことがあるわね。社長にお茶を持ってくる、制服姿の女子社員。はい、かしこまりました、という台詞がひとつだけあって。でも、そんな役でも、大部屋というところがあって、いったんはそこに埋まって、いろいろと苦労しなくてはいけないんですって。私にそんな暇はないのよ」
「僕たちはほぼ同時に仕事を辞めた人になるのです」
「そうね」
「僕に出来るのは、絵を描くことだけです」
「だったら、それを仕事にすればいいのよ。いま雑誌がどんどん増えていて、そこに絵を描く人はイラストレーターと言うのですって。需要は多い、という話を父から聞いたわ。あなたは幼い頃から、いろんな人に絵を褒められたでしょう」
「小学校や中学校では、全国コンクールがあると、北原は出品するな、と言われてました。僕が応募すると、きまって僕が入賞するからです」
「絵で稼いだことはないの?」
「高校の先輩が雑誌の編集をしていて、そこに短編小説の挿絵を描いたことがあります。おなじひとりの作家の短編が、一度に三つ掲載されて、なんとなくつながったようなストーリーなのです。その三つの短編に挿絵を五つ描いて、四千円もらったことがあります」
「ではその先輩のところへいけばいいのよ。挿絵の仕事をさせてください、とお願いして」
「なるほど」
「いろんな仕事をかたっぱしから引き受けて、思いっきりたくさん描いてみたら。これから七、八年ほど」
「はあ」
「私、あなたにお説教をしてるかしら」
「いいえ」
「私は、なにをすればいいかしら」
「お好きなことは」
「料理よ」
 と、裕子は即答した。と同時に、表情に華やぎが宿った。
「私が作ると褒められるのよ。撮影所の人たちが、いつも家に来てるから、お酒や食事になると、母は大変なの。だから私が作って、それはいつも好評」
 そう言った裕子は、スケッチ・ブックの表紙を閉じ、北原に差し出した。北原はそれを受け取った。
「僕の自宅のすぐ近くに住んでいる人で、母が親しくしている人がいて、僕がまだ中学生の頃に、料理教室を開いたのです。初めはごく小規模なものだったのですが、次第に大きくなり、長女のかたが引き継ぎ、いまでは教室があちこちにあります。集まる生徒たちのなかから、これはと思う人を助手にして育てていき、先生にしたりしているのですが、いい人はいないかと、いつも言っています。料理のセンスがあって、頭が良くて、化粧すると華やかになる、姿のいい美人だとなおいいそうです」
「美人と料理と、なんの関係があるの?」
「教室で教えて、みんなに見せる人ですから。作りかたとか、出来上がったものとか、とにかくすべてを披露して、みんなに受けとめてもらって、納得してもらわないといけません。接客業というか、俳優の一種のような、要するに演出する人ですから、当人の外観の出来ばえも、深く関係してきます」
「私、習おうかしら」
「その長女のかたに、会ってみませんか。紹介します」
「きちんと勉強したいとは思ってたのよ。試験を受けて、免状をいただいて」
「これからいってみませんか。本部は渋谷です。母がいってるはずです。電話してみます」
 席を立った北原は一階へ降りた。レジの脇の壁に寄せて赤い電話機があった。渋谷の料理教室へ電話をしてみた。母親は経理の仕事でそこにいた。長谷川裕子について手短に語った彼に、
「恵利子さんがそばにいるので、いま話をしてみるわよ。どこからかけてるの。喫茶店? ちょっと待てる?」
 と、母親は言った。恵利子さんとは、料理教室を始めた人の長女だ。
 受話器を耳に当てて待っていると、
「もしもし」
 と、母親はいつもの切り口上で言った。
「はい」
「会ってみたいと言ってるわよ。今日、これから。話は早ければ早いほどいい、という恵利子さんだから。私もそう思うし」
「では、早い話を」
「その裕子さんという人。いまからここへ来られるのね」
「いきます」
「いまどこなの?」
「下北沢」
「あなたは家へ帰ってちょうだい。物を持って訪ねて来る人が、夕方までにふたりいるのよ。家にいてあなたが応対して。出るとき頼もうと思って、忘れたのよ」
「裕子さんがひとりでそこを訪ねます」
「受け付けに言っておくから。長谷川さんね」
「長谷川裕子。美人です」
「あなたは余計なことを言わなくてもいいの。恵利子さんがすべて判断します」
 席に戻った北原は、ことの成りゆきを裕子に伝えた。
「これからそこへうかがえば、会っていただけるのね」
「生徒として入学する人ではなく、助手の候補として面接する、ということらしいよ」
 ふたりは店を出た。北原の自宅を経由して高台の下のバス通りまでいき、そこから裕子はバスに乗ることにした。北原の自宅までふたりは歩いた。ついでに料理教室の経営者の家の前をとおり、バス通りに向けて坂を下りた。停留所でふたりはバスを待った。
「助手として働けたら素敵だわ」
 ふと肩を寄せて、裕子はそう言った。北原は彼女の足もとを見た。夏の赤いハイヒール・サンダルを履いている両足、その指やくるぶし、踵、そして足首から上へ向かうふくらはぎの曲面などが、彼の視界のなかにあった。
「助手になれますよ」
「だったらあなたは、絵を描かなくてはいけないのよ」
「描きます」
 ほどなく渋谷行きのバスが来た。裕子はそれに乗り、走り去るバスを北原は見送った。ゆるやかなカーヴの向こうへバスは見えなくなり、歩道のバス停に北原は視線を戻した。いま片手に持っているスケッチ・ブックの二ページめに、自宅に帰ったらすぐに裕子を描こう、と彼は思った。ひとりでバスを待っている彼女の、うしろ姿だ。
 次の週の火曜日の午前中に、北原の自宅に長谷川裕子から電話があった。今日の午後、先日の喫茶店でぜひ会いたい、と彼女は言った。時間を彼女が指定した。そして午後、彼は自宅から下北沢まで歩いた。片手にはスケッチ・ブックを持っていた。裕子にサインをしてもらった第一ページは、切り離した。二ページめには、バス停でバスを待つ裕子のうしろ姿が、描いてあった。先週とおなじ席に裕子はすわっていた。
「昨日、実技のテストをしていただいたの。生徒さんに教える時間に、助手のひとりとして参加して、いきなり手際や知識を試験されたのよ。ほんとにびっくり。助手の見習いとして採用していただけるのですって。テストのあと、すぐにきまったの。もうほんとにうれしくて。来週の月曜日から、渋谷の教室でお仕事なの。昨日は会社を休んで、今日はこれから会社へいって、退職してくるわ。明日から今週いっぱい、私は心身ともに整えなおすための休暇なのよ」
「よかったですね」
「うれしいのよ。有り難う。ほんとにうれしいのよ。お母さまにもお目にかかったわ」
「僕は先輩の編集者に連絡をとりました。挿絵の仕事ならたくさんあるよ、と言われました。今週の木曜日に、会うことになってます」
「それはいいわ。たくさん絵を描いて」
 裕子のその言葉に促されたかのように、北原は座席のかたわらに置いていたスケッチ・ブックを手に取り、表紙を開いた。横画面に描かれた、バス停の裕子の絵があった。スケッチ・ブックを彼は裕子に差し出した。受け取ってしばらく見つめた彼女は、スケッチ・ブックを膝に置いた。そして両手で顔を覆い、泣き始めた。
「どうしたのですか」
 しばらく待っても泣きやまない裕子に、北原が言った。
 なおも泣いた裕子は、やがて顔から手を離した。泣いた顔を伏せていると、頬や口もとに幼い無防備さがあった。目じりを指先でぬぐって顔を上げると、幼さや無防備さは消えた。
「私そのものよ、この絵は」
「裕子さんを描いたからです」
「あのバス停なのね」
「そうです」
「私の気持ちのなかまで描いてあるわ」
「どんな気持ちだったのですか」
「不安だったわ。お仕事のことで思いがけず人にお目にかかることになって」
「家へ帰ってすぐに描きました」
 バス停とその周辺、そして背後にある高台の住宅地などを、気の利いた省略のしかたで処理したなかに、バス停にひとりで立つ裕子のうしろ姿が描いてあった。バスを待つあいだの、短いけれども所在のない時間のなかで、ふと見せたうしろ姿だ。
「描かれた当人としては、泣いてしまうほどの絵なのよ、これは」
「そうですか」
「日本橋のあの建物には、エレヴェーター・ガールが私のほかに五人いるのに、なぜ私を描いたの?」
「姿の良さが群を抜いているからです」
 裕子はふたたび両手で顔を覆った。泣いてはいない。彼女はしばらくそのままでいた。ほどなく顔から両手を離した。
「バス停には、バスが来るまで、あなたとふたりでいたのよ。この絵に描いてあるような私の姿を、あなたは見てないでしょう。見なくても描けるの?」
「見なくても描けるときもあります」
「でも、一度は見ないと、描けないでしょう」
「見ればそのたびに、発見はあります」
 北原の言葉に、裕子はひとまず納得した表情となった。そして腕時計を見て、
「もういかなくてはいけないわ。渋谷へ出て、地下鉄で日本橋まで」
 ふたりは席を立った。割り勘で支払いをし、店を出た。駅に向けて歩きながら北原が言った。
「僕が長谷川さんを悲しませて泣かせたのだと思って、ウェイトレスが敵意そのもののような目で僕を睨んでいました」
 なにも答えないままにしばらく歩いてから、裕子は次のように言った。
「見れば見るほど描けるのなら、私は裸だってなんだって、あなたに見せるのよ」
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紙の上に鉛筆の線



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 彼は階段を見上げた。幅の狭い急な階段だ。両側には板壁が垂直にあるだけで、なかほどの天井に蛍光灯がひとつだけ灯っていた。鞄を左手に持ち、右手の指先を壁に添え、彼は階段を上がり始めた。階段に対して体を斜めにした。そうしないと体はうしろへ反り、上体がうしろ向きに階段の下へと落ちそうになる、と彼は思ったからだ。階段を上がりきると、そこには一軒のバーがある。中年の酔客が踏みはずし、階段を転げ落ちることはないのだろうかと、二十五歳の彼は心配になった。
 階段の頂上は小さな面積の踊り場だった。木製のドアがひとつ、斜めにあった。そのドアは内側へ開いた。彼はバーのなかに入り、うしろ手にドアを閉じた。正面にカウンターの角があり、その向こうに北沢直子がいた。この店の主人だということだが、それ以上のことを彼は知らない。自分に笑顔を向ける彼女を、彼は見た。美人であることは確かだが、これほどだったかと彼は思いなおした。これほどの美人が、いまここでひとり、なにをしているのか。バーの主人である彼女は、こうして客を待っている。自分はその客のひとりか、と立原洋平は思った。
「おひとり?」
 直子が訊いた。
「そうです」
「来てくださったのね」
 カウンターの角にあるストゥールに彼はすわり、右となりの席に鞄を置いた。水彩画を描くためのごく簡単な道具ひと揃いを入れて、たとえば旅行に持っていくための、小ぶりで平たい、カンヴァス製の四角い鞄だ。直子の背後の棚に小さな丸い置き時計があった。九時ちょうどを針は示していた。
「今日も絵を描いたの?」
 直子が言った。
「描きました」
「どんな絵なの?」
「雑誌に掲載される短編小説の、最初の二ページに入れる左側のページ全面の、挿絵です。小説の舞台になっている場所へ、今日は朝からいってました。北区の滝野川です」
「その場所の絵を描けばいいの?」
「商店街があって、そこを中心にして路地が網の目のようにあるのです。路地のなかで進展していく短編ですし、現実の地名や番地まで出てきますから、現実を描いたほうが面白いだろうと言われて、朝からいろんな場所をスケッチし、午後もしばらくいて、篠崎さんの会社へいき、そこで仕上げました」
「完成したのね」
「今日の日付を入れて完成しました。一九六五年九月十八日。気にいってもらえて、使ったあとは俺にくれよと言われました。額に入れるとおっしゃるので、裏に署名もしておきました」
「一人前に仕事をしたのね」
「そうです」
「それでいくらになるの?」
「さあ」
「五千円くらい?」
「三千六百円が妥当なとこでしょう」
「ひと月に十枚も描けば、あなたの歳で会社勤めをしてる人の給料の、ふた月分にはなるでしょう」
 直子のその台詞に立原は答えず、微妙に微笑していた。
「女優の本はどうなったのかしら」
「もうじき出来るそうです」
「篠崎さんから一冊いただけることになってるのよ」
 篠崎とは、自分で小さな出版社を経営している四十代なかばの男性で、このバーの常連だ。立原洋平の自宅の近くに高校の同級生が住んでいて、彼とその父親を経由してひき合わされ、立原は篠崎と知り合った。私立大学を卒業した立原は、会社に勤めたが一年で辞めた。絵がうまい彼は、雑誌に挿絵その他なんでも描く仕事を、篠崎からもらっている。篠崎の求めに応じてなんでも描くのが、いまの立原の仕事だ。立原は重宝されている。この秋深くで一年になる。
 直子が言う女優の本とは、篠崎のところから刊行される、欧米の女優たちの名鑑だ。写真ではなくリアルな筆致の挿絵を、どの女優にも一点ずつ添えるという編集だった。その絵を描くことを、立原はまかされた。どの女優の絵も、篠崎の案ではおなじサイズだったが、いろんなかたちとサイズにすることを立原は提案し、受け入れられた。おかげで女優の絵をたくさん描くことになったが、篠崎が刊行している映画雑誌のバック・ナンバーを、一冊ずつすべて、資料として立原はもらった。
 このバーへ立原が来るのはこれで三度めだ。最初のときは七月の終わり近くで、篠崎ともうひとり、雑誌に雑文を書いている三十代の男性と、いっしょだった。二度めは八月のなかばに、立原がひとりで来た。女優たちの絵を描いていた頃だ。雑誌の新刊を篠崎から託され、それを届けるために立原はここへ来た。いますわっているのとおなじ席に彼はすわり、直子に問われるままに彼は自分のことについて語った。あなたがどんな絵を描くのか、たいへん興味がある、ぜひ見てみたい、と直子は言った。だから立原は鞄からスケッチ・ブックと鉛筆を取り出し、
「描いていいですか」
 と言った。
「私を?」
「そうです」
「見たいわ。描いて」
 ほんの二、三十秒のうちに、立原は直子の胸像を描いた。ページを簡単にちぎることの出来るスケッチ・ブックだった。そのページを切り離し、立原は直子に差し出した。受け取って直子は驚いた。驚きは当然だった。鉛筆の線がきわめて簡潔に紙の上を走っているだけなのだが、そこには直子がそっくりそのまま、生き写しのように描き出されていた。ただ単に似ている、という次元をはるか高く越えていた。表情は生きているようであり、視線には命があり、唇はいまにも動いて声を出しそうに思えた。直子はその絵を気に入り、立原は進呈した。
 その時間まで客は彼ひとりだったのだが、そのすぐあと、中年の男性たち三人連れの客があらわれた。賑やかなその三人の相手を直子はしなければならず、立原には席を立つきっかけとなった。その立原に、
「あいだを空けずにまた来て。ひとりで来て。話をしたいわ」
 と、直子は言った。
 その三度めが今夜になった。
 カウンターをはさんで正面にいる直子を、彼は見た。胸と腹の中間あたりの高さのカウンターに彼女は右腕を軽く置き、彼に対して上体を斜めにひねっていた。半袖のシャツ、ないしは半袖のシャツ・ドレスを、彼女は着ていた。まだ夏の服だ。今年は残暑が厳しく長い。素晴らしい出来ばえの肩から、立原の視線はそのまんなかに立つ首を、顎までたどった。両肩を左右にしたがえた首という白い魅力的な円柱は、そのすぐ下にある胸の隆起の秘密を、問わず語りに語っていた。カウンターに置いた腕の、長さといい容積といい、完璧である様子を、さまざまな可能性として、彼の視線はとらえた。彼女の手も、スケッチの対象として、興味はつきないのではないか。自分より年上であることは確かだが、いくつくらいの開きがあるものなのか、と立原はふと思った。
「お酒を忘れてたわ」
 直子が言った。
「なにかお飲みになるわね」
 スコッチの炭酸ソーダ割りを彼は注文した。それを直子は作り、コースターを敷いて彼の手もとに置いた。
「これで三度め。おなじお酒」
「これならなんとか飲めます」
「無理する必要はないのよ」
「一杯だけなら飲みたいです」
「夕食は?」
「食べました。篠崎さんたちと」
 直子は微笑した。
「なにを食べたの?」
「蕎麦の店で。うるめ鰯や冷や奴。天麩羅や刺し身もありました。仕上げはざる蕎麦です」
「あの人たちは、冷や酒を際限なく飲むでしょう」
「お好きですね」
 うしろの棚の置き時計を直子は見た。
「十時までに客がなければ、今夜はもう店を閉めるわ」
「そうですか」
「私といっしょに帰って。話をしたいことがあるのよ。自宅はどこだったかしら」
「小田急線の代々木上原です」
「私は京王線で笹塚なのよ」
 直子は場所を説明した。
「僕の自宅から歩いて五、六分のところです」
「だったら、私のところへ寄って、そこから歩いて帰るといいわ」
「そうします」
「頼みたいことがあるのよ」
 どんなことですか、と訊き返したりはしない立原に、直子は次のように言った。
「この前、ここで私を描いてくれたでしょう。自宅にあるわ。あれから何度も見てるのよ。好きなの、私、あの絵が。見るたびに感心してるのよ」
「そうですか」
「見たものを見たとおりに描くと、あのような絵になるものなのかしら」
「そうです」
「見てないものは、描けないの? 今日の滝野川のように」
「あれは見たほうがいいから、見にいったのです。番地や道順が、現実のとおりに、短編のなかに登場してますから。現実を描いたほうがいい、という篠崎さんの判断でした。見なくても描けるものはあります」
「私の全身は描ける?」
「描けます」
「描いてみて」
 かたわらのストゥールから彼は鞄を取り上げた。先日とおなじスケッチ・ブック、そして鉛筆を取り出し、
「全身ですか」
 と、立原は言った。
「そうよ」
 紙の上を鉛筆の芯の先端が滑った。紙のさまざまな部分に向けて、それは自在に滑った。その動きは、鉛筆を持っている彼の右手の動きなのだが、紙の表面と鉛筆の芯とのあいだにあらかじめ密約があり、そのとおりに鉛筆が動いているようにも思えた。
 描き終えた彼はそのページを穏やかに切り離し、直子に差し出した。彼女は受け取った。そしてそこに描かれている自分の裸像を見た。カウンターに右腕を置き、軽くよりかかっている立ち姿はいまの直子そのままだが、その直子はものの見事に裸だった。ヒールのあるサンダルだけを、絵のなかの彼女は履いていた。カウンターを透視したかたちで、カウンターの外からとらえた直子の姿が、裸で描いてあった。単なる裸ではなく、その裸身のどの部分にも、肌の感触とその体温が、見る人の視覚のなかに宿った。
「こうなるのね」
 直子が言った。
「私とそっくりよ。裸になると、私はこうなのよ。あきれると言うか、感心すると言うべきか、あっけにとられるわね。うまいだけではなくて、とてもいい絵だと私は思うわ」
 ひとしきり感心した直子は、
「もらっていい?」
 と言った。
「どうぞ」
「悔しいわ、その言いかた。そんなものはいくらでも描けます、というような言いかたよ。私の自宅へいくまで、スケッチ・ブックにはさんでおいて」
 客は来なかった。十時に近くなり、直子は店を閉めるしたくを始めた。カウンターの明かりを消し、小さなくぐり戸から外へ出て来た彼女は、華奢なヒールのある夏のサンダルを、両足とも脱いだ。
「これを持って、先に階段を降りて」
 サンダルを受け取って鞄とともに持ち、立原はドアを開いた。壁に片手を添えながら、体を斜めにして彼は急な階段を下まで降りた。少し離れたところに立ち、直子を待った。階段を降りて来る気配がやがてあり、そちらに向けた彼の視線は、下着姿で降りて来る直子の全身をとらえた。横長のクラッチ・バッグを片手に持ち、脱いだシャツ・ドレスを片腕にかけていた。
 骨格とその均整の良さに恵まれた直子の体は、鍛えられた筋肉による造形の、逞しい強さをもっとも大きな魅力としていた。階段を降りきった彼女は、立原に向けて歩いた。あまりにも平然としているから、直子がいま下着姿でいるのはごく当然のことなのだ、という雰囲気があった。彼女は半袖のシャツ・ドレスに腕をとおした。前に一列にあるボタンをかけながら、
「前開きって便利なのよ」
 と言った。
 立原は彼女の前にしゃがみ、サンダルを地面に置き、彼女の片足の踵を軽くつかみ、その足にサンダルを履かせた。かがみ込んだ彼女がストラップを留めた。もういっぽうの足についても、彼はおなじようにした。そして立ち上がった彼に直子は体を寄せ、彼の左肩に右手をかけ、右肩に顔を横にして軽く置いた。彼の目のすぐ下に彼女の髪があった。石鹸と思える匂いが髪のなかにごく淡くあった。歓楽街となっている地区のまんなかを横切って、ふたりは駅に向けて歩いた。
「あのお店は今週で終わりなのよ。私は代理なの。本来の店主は、四十代の女性なの。今年の二月からだから、半年以上になるわ」
「直子さんが店主だと思っていました」
「違うのよ。私は暇になるわ。どうしようかしら」
「仕事はないのですか」
「ないわよ。なにもないわ。あなたはいま、おいくつなの?」
「二十五です」
「私はちょうど十歳年上で、仕事はなにもないわ」
「怖いものもないように見えます」
「そうねえ。なにか怖がるといいかしら」
 そう言って直子は笑った。
「僕はいま反省しています」
 立原が言った。
「あら。なにを?」
「直子さんの裸の全身像を僕は描きましたけれど、現物とはまるで違っていました。僕はただきれいな裸像を描いただけでした。そしてそれは、誰にでもあてはまるものなのです。直子さんではなかったのです」
「私を絵に描くときも、私という現物をよく見たほうがいい、ということなのね」
「そうです」
「いくらでも見せるわ。さっきみたいに」
「直子さんの体は鍛えてありますね。なにかが、たいへんに良く出来る体です」
「空手なのよ。父親が柔道や空手の道場をやってて、女も戦えなくてはいけないという主義だから、やらざるを得なくて。姉は逃げまわったけれど、私は空手を続けたの」
「空手を見せてください」
「私をもっと描きたい?」
「描きたいです」
「よかったわ。あなたに頼もうとしてるのは、私を絵に描くことなのよ。詳しくは自宅へ帰ってから」
 夜のこの時間の歓楽街には人の数がもっとも多かった。そこを抜けてふたりは大通りへ出た。そしてそれを越え、駅の手前で脇へそれ、地下道で線路をくぐり西口へ出た。
「会社にはもう勤めないのね」
「勤めません」
「これからも絵を描いていくのね」
「そうです」
「それがいまの自分の仕事、という認識かしら」
「認識です」
「私は真面目な話をしてるのよ」
「僕もです」
「仕事はたくさんあるの?」
「あります。篠崎さんとこの仕事だけでも、手いっぱいです。ほかにもあるのですけれど」
「なんでも描く、という方針ね」
「なんでも描きます」
「それをずっと続けるの?」
「これしか出来ませんから」
「絵は子供の頃から描いてたのね、きっと」
「はい。小学校の六年間は絵画教室にかよって、鍛えられました。いい先生がいたのです」
「いつまでもずっと続けることの出来るものがあって、しかもそれが好きなら、それをやり続けるのがいちばんいいのよ」
 立原に肩を寄せて歩きながら、直子はそんなふうに言った。
「おそらくそうなのだろう、と僕も思っています」
「続けたら」
「はい」
「絵で苦労してみたら」
「苦労ですか」
「いまは篠崎さんの便利屋さんでもいいのよ。経験を積めばそれでいいのだわ。でも、ずっと続けていくなら、それは一生の仕事になるから、名を成さないと」
「一流の画家になる、ということですか」
「そうではなくて、自分との折り合いだわ。いまはここで折り合っていても、三十年、四十年あとになってもそのままだと、困ることになるのではないかしら」
「絵を描くのは作業だと思います。作業ごとに、それを正しくこなせばいいのだ、といまの僕は思っています。だから、作業は続けます」
「完結してるわね。自分の内側に向けて、エネルギーがきれいに集まって、その結果としてひとつの絵が生まれて、それでそのひとつの作業は完結するのね」
「それをたくさん重ねていくと、そこからまた別の展開があるでしょう」
「楽しみね」
 立原に顔を向けて、直子はそう言った。その直子の顔を立原も見た。自分たちふたりの視線の位置がまったくおなじであり、おたがいの視線は一本に重なり合い、それはいま歩いている路面に対して平行であることを、立原は全身の感覚として受けとめた。
 京王線の電車に乗り、彼とならんで立って片手を吊り革にかけ、直子は次のように言った。
「あの階段を降りるときには、私はいつもサンダルを脱ぐのよ。裸足なら階段がいくら急でも平気だから」
「服も脱ぐのですか」
 真顔でそう言った立原に、直子は微笑した。
「タイト・スカートのときには、裾を腰までたくし上げるわ。太腿あらわにあの階段を降りて来る私を、閉店までいる篠崎さんたちは、何度も見てるのよ」
「直子さんは仕事はしないのですか」
「するしないではなくて、なにも出来ないのよ。父親の道場へいけば、手伝うことはたくさんあるの。道場を閉じないなら、私が継ぐことになるのかな、とも思うのよ。女のこたちに教えたい、という気持ちもあるの。身のこなしとか、立ち居振る舞い、あるいは体の使いかた。護身術というようなことでもいいし。相手と組み合ったなら、あっと言うまにかたをつけて絶対に負けない、というような体の使いかた」
「それは希望が持てます」
 駅を出たふたりは、住宅地のなかに向けて駅を離れた。
「この道をこのままいくと、僕の住んでいる家からの脇道を出たところになると思います」
「ご両親といっしょなの?」
「おなじ敷地のなかの、別棟の小さな家を僕が使ってます。僕にあたえるアトリエのつもりで、僕が高校生のときに母親が作った家です。小さな箱みたいな二階建てで、面白いですよ。一階は南向きのアトリエと、小さな台所と食事のスペース、そして浴室と洗面にトイレットです。二階はひと部屋で、そこに寝てます」
「私のところと、なんとなく似てるわ。父親が人に頼まれて買い取った、小さな家。二階は部屋がひとつに、南側にヴェランダ。六畳ほどあって、ここが快適なのよ。あとはあなたのとこと、ほとんどおなじだわ」
 ほどなく直子のその家だった。脇道から少しだけ引っ込んで階段が四段だけあり、そこから玄関に向けて四角いコンクリートの飛び石があった。直子はドアの鍵を開け、明かりをつけた。サンダルを脱いで板張りの廊下に上がった。廊下の脇にある部屋が、南側の小さな庭に面したひとつの部屋だった。机、椅子、本棚、ソファ、そしてフロア・スタンド。壁に寄せて置いた横長のテーブル。その上にはさまざまな物があった。
「ここが私の日常生活」
「僕のとことそっくりです。庭もこんな感じですよ」
「小さな家って、似てしまうのよ」
「そうですね」
 ソファにすわった立原は、鞄を開いてなかからスケッチ・ブックを取り出した。バーで描いた直子の裸像のページを指先に持ち、直子に差し出した。受け取った彼女は横長のテーブルへいき、一冊の小さな本を手に取り、ソファへ戻って彼のかたわらに腰を下ろした。そして、
「これなのよ」
 と、その本を彼に見せた。
「本に見えるけど、手帳かしら。スケッチ・ブックの紙と似てるから、画帳かもしれないわ。ページの紙は二百枚。だから四百ページ。きれいだわ」
 それを彼女は立原に手渡した。受け取った彼は興味を持って点検した。丸みを帯びた背は革で作ってあり、厚みのある固い表紙は、美しくくすんだ深い緑色の布でくるまれていた。ぜんたいは四センチほどの厚みがあり、淡いクリーム色の紙は直子が言うとおり、スケッチを目的としたもののように思われた。
「日本の文庫本とおなじサイズですね」
「商社に勤めている人の、西ドイツからのおみやげ。ブレーメンだったかしら、それともハノーヴァー」
「スケッチ・ブックでしょうか」
「そうね。なんでも帳ね。自分にとって大事なことを、なんでも書きとめておくための。文字でも絵でも」
「そうですね」
「文房具店で買ったのですって。ここからすぐ近くに小学校があって、その斜め前に文房具の店があるけれど、そこでは絶対に買えないものよ。貧相な国語書き取り帳があるだけだから。オリンピックをやったからと言って、まったくたいしたことないのよ、日本は」
 直子の言葉を受けとめながら、その手帳を立原はさまざまに観察した。
「きれいな作りだけど、けっして豪華ではなくて、ほどがいいでしょう」
「そのとおりです」
「なにに使おうかと思ってたの」
「日記帳にいかがですか」
「私の字で私の生活を書いても、しょうがないの。絵を描いて。私の絵」
「はあ、なるほど」
「いいアイディアでしょう」
「そう思います」
「あなたもその手帳を気にいっているようだし」
「素晴らしいです」
「私を描いて。いろんな私。一年ほどかけて。大事なものだから、預けたくはないのよ。ここに置いておき、あなたが通って来て、そのたびに描いてくださると、素敵だわ」
「そうします」
「四百ページあるのよ」
「それは別に、どうということもありません」
「頼もしいわ」
「鉛筆と色鉛筆ですね。水彩もいいかもしれない」
「楽しみだわ、うれしい」
 立原は手帳を直子に返した。受け取って最初のページを開き、
「第一ページを、いま、これから描いて」
 と、直子は言った。
「それは出来ません」
 立原は答えた。
「心の準備が必要です」
「考えをまとめるのね」
「覚悟のようなものを、自分のなかに作らないと」
「では、この次から」
「そうです」
 手帳を閉じて直子は立ち上がり、壁ぎわのテーブルへいき、所定の位置とおぼしきところに手帳を置いた。そのテーブルの浅い引き出しから、彼女は名刺を一枚、取り出した。引き出しを閉じてソファへ戻り、彼に名刺を渡した。
「いつでも来ていいのよ。あるいは、電話を」
「そうします」
 立原は鞄を持って立ち上がった。
「それでは僕は帰ります」
「私は楽しみにしてるのよ」
「僕もです」
 玄関までふたりは廊下を歩いた。立原は靴を履き、ドアを開いて外へ出た。軽く会釈して、彼はドアを閉じた。鍵をかけた直子は、廊下を奥へ歩いた。歩きながら彼女はシャツ・ドレスを脱いだ。下着姿になり、脱いだ服を片手に持ち、彼女は奥の階段を駆け上がった。見る人の誰もいないなかで、彼女の体は階段を相手に見事な動きを見せた。
 二階へ上がり、手前の部屋の明かりをつけてそこを横切り、ヴェランダのガラス戸を彼女は開いた。そしてヴェランダに出た。木製の手すりの角までいくと、家の前の道を見下ろすことが出来た。彼女の視界の外へ出ていこうとしている立原のうしろ姿を、彼女は斜め上からとらえた。
「立原・さん」
 と、歌うような口調で、彼女は彼を呼んだ。足をとめた立原は、ヴェランダの角を振り仰いだ。蛍光灯の街灯の光を斜め下から受けて、夜のなかに直子の裸身が白く際立って見えた。直子は手を振った。立原はなぜかおじぎをした。そして歩き始め、すぐに彼女の視界をはずれた。
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後悔を同封します



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 残暑は昨日が最後だったのではないか。半袖のシャツは風を受けとめる。その風は袖口から腕の裏へ、そして肩のほうまで、夏の終わりを感じさせる。秋だ、と高杉俊介は胸のなかで言った。この秋深く、彼は四十五歳になる。夕方の六時ちょうどだが、すでに暗い。夜だと言っていい。事務所まで戻って来た彼はエレヴェーターで四階へ上がった。
 事務所には木村恵理子がひとりでいた。美人の恵理子は見るたびに印象が異なる、と高杉は思っている。だから今日の恵理子は今日の恵理子だ。彼女は彼が主宰しているこのデザイン事務所の、いろんな意味におけるチーフ格だ。仕事は出来る。まかせて安心、というタイプだ。型のなかにうまくはめるデザインではなく、その外へ魅力的にはみ出すデザインで、これは多くのクライアントに好評だ。総勢七人の事務所をまとめる能力も、彼女は充分に持っている。仕事は手いっぱいだ。契約デザイナーをさらにふたり増やす話を恵理子はしている。夏のあいだずっと、事務所は忙しすぎた。明日から一週間、事務所ぜんたいが遅い夏休みとなる。現場の責任者として、恵理子はひとり事務所で高杉を待っていた。
「みんな帰りました。今日はこれでおしまいです」
「僕もすぐに出る。お疲れさん」
「いろんなところにすべて連絡はしてありますから、休みのあいだ、不都合は起きないはずです」
「なにかあったら僕の責任だ」
「島田小夜子さんというかたから、ついさきほど電話がありました」
「僕に」
「はい」
「予定どおりでよろしいでしょうか、という確認のお電話だとおっしゃってました」
「そうだ、僕から電話をしておかなければいけないんだ」
 恵理子は椅子から立ち上がった。椅子をデスクに寄せ、
「まだここにいらっしゃいますか」
 と、言った。
「その電話をしていく。どうぞお先に」
「明かりを消すだけでいいようになってます」
「ありがとう。ほんの一週間、のんびり過ごして」
「高杉さんも」
「島田小夜子さんというのは、僕のかつての奥さんだよ。再婚していまでは子供がひとりいる。自宅を建てたので、そこに僕は招かれている」
「なぜですか」
 と、恵理子は訊いた。
 恵理子は質問の意味がときどきわかりにくい。彼女の特徴のひとつだ。離婚したかつての夫を、新築の自宅へなぜ招くのか、というような意味だろう。
「離婚はしたけれど、顔を見るのも嫌、声も聞きたくない、という関係ではないから。自分の現状が、いろんなかたちで間接的に僕に伝わるのではなく、直接に見せたり話したりしておきたいのだろう。自宅を建てた、というような節目なら特に」
 恵理子は帰っていき、高杉は事務所のなかでひとりになった。自分のデスクへいって椅子にすわり、デスクの上にあるさまざまなものを整理した。三十四歳のときに彼は小夜子と結婚した。そして五年後、三十九歳のときに離婚した。四歳年下の小夜子はそのとき三十五歳だった。次の年に彼女は再婚し、さら一年後、子供を生んだ。それから四年が経過し、いまの小夜子は四十一歳だ。
 新築した自宅に高杉は招かれている。ごく個人的な、親しい雰囲気すらともなうはずの、ごく普通の夕食への招待だ。夫の島田という男性に、高杉はそこで初めて会うことになる。四歳のひとり息子の姿も見ることになるだろう。小夜子の手料理を食べるのはいつだって楽しみだ、と思いながら高杉は時計を見た。そしてアドレス・ブックを開いて番号を見ながら、彼は島田小夜子の自宅に電話をかけた。
「はい、島田です」
 と、男性の声が電話に出た。
 高杉は名を名乗り、簡単に挨拶した。島田は気さくに応対した。
「小夜子はいま隣の実家へいってます。僕の実家です。今夜はそこで夕食なものですから」
 と、島田は言った。
「小夜子さんが料理の担当ですか」
「はりきってますよ」
「夕食にご招待を受けてます。新築なさったご自宅に」
「聞いてます。お見えいただけますね」
「予定どおりうかがいます、とお伝えください。今日、確認の電話をいただきまして」
「電話させましょうか」
「お伝えいただければそれで充分です」
 電話を終わってからも、彼はデスクに向かって椅子にすわったままだった。一週間の休みのための整理を、彼は続けた。
 高杉俊介が主宰しているのはデザイン事務所だが、彼はデザイナーではなく本来は絵を描く人だ。デザインの仕事は苦にならないし、こなしていかざるを得ないのだが、彼個人が引き受ける仕事は、絵を描いてなおかつそれをいかにデザインするか、という領域に最近では限定することにしている。
 フリーランスのイラストレーターとして二十代を過ごし、三十歳のときに引き受けた週刊誌の連載小説の挿絵の仕事から、彼は急に忙しくなった。挿絵を描き、それを誌面ぜんたいにいかにデサイン的に処理するかに、彼は心を砕いた。そしてその出来ばえは時代の要請に合致していたのだろう、さまざまなイラストレーションの仕事が彼の手もとに発生し、それをすべてこなすという多忙な日々がそこから始まった。事務所を設立したのは一九七四年のことで、小夜子との結婚もおなじ年の出来事となった。
 日常生活のなかの時間の配分を、規則的に一定させるのが小夜子の基本方針だった。きちんとした静かな生活が、安定して続くのを彼女はなによりも望んだ。彼との結婚生活はその正反対となった、というほどではないのだが、いろいろあった。すべては自分がいけない、といまの高杉は思っていた。いたらなかった、という平凡な言いかたが、もっとも無理なくあてはまる。自分は気が利かなかった、それにつきる、という思いのなかに、消えることなくいまも続く苦さのようなものが、離婚して以後の高杉を独身のままにしていた。
 事務所を作ってから十年が経過した。多忙さは変わることなく続いている。と言うよりも、以前にも増して忙しい。この事務所は木村恵理子にまかせようか、と彼は思い始めていた。彼女にすべてを譲って、自分は退いてもいい。絵を描くことに戻りたい、という願望が強さを増していた。初心、というような言葉すら、最近の彼の脳裏をしばしばかすめた。彼の事務所だから彼が社長だが、社長は恵理子が務めても、そのことに支障はまったくない。むしろそのほうがいいのではないか。自分は名目上の経営者ないしは所有者で、実際に切りまわしていくのは木村恵理子にする。高杉に対して恵理子は愛人の立場である、とする噂を本気にしている人たちが、かなりいるようだ。あれだけの美人で仕事も出来れば、そのような噂は彼女がどこでなにをしていようとも、ほぼ自動的についてまわるのではないか。恵理子を社長にしたなら、噂は事実として確定されることにもなるだろう。そこまで考えて高杉はひとりで苦笑した。
 いずれにせよ、自分は絵に戻りたい。イラストレーションではなく、なににも付随することのない、独立した絵画だ。ということは、自分はひとりにならなければいけない。事務所を経営して多忙をきわめるような状態は、絵に専念するのとは対極にあることだ。自分は前面から引き下がり、どうしても断れないものだけを引き受ける、という妥協はどうか。ひとまずそのあたりから始めるといいかもしれない。いっそのこと、少なくとも一年くらい、どこかへ消えるという手もある。すっきりさせるなら、そのほうがはるかに好ましい。
 高杉は椅子から立ち上がった。窓まで歩き、外にある夜の街なみを眺めた。この景色にも自分は飽きたのではないか。飽きたと言うよりも、もっと正確には、自分には適合していないのではないか。もっとも正しいありかたの自分は、ひとりで絵を描いている自分ではないか。離婚が確定したあと、小夜子もそのような意味のことを言っていた。
 高杉はドアへ歩いた。壁の三つならんでいるスイッチに手をのばし、三つとも同時に消したのがまるで合図だったかのように、彼のデスクで電話が鳴った。どうしよう、と彼は思った。この電話には出ない。それが正解だ。という考えを打ち消すのは、ひょっとしたら小夜子かもしれない、という可能性だった。彼は明かりを灯けなおした。そして自分のデスクへ歩いた。
 電話をかけてきたのは中原美奈子という女性だった。推理小説を書く作家だ。彼女の単行本をこれまでに五冊、彼がイラストレーションを描きデザインもした。だから彼女とはつきあいがあると言うならそうも言えるのだが、そこからさらに先へ彼女は関係を進展させたいのかな、と彼は感じている。食事を一度、そして酒を二度、つきあった。いずれの場合にも彼女を担当している編集者、そして広告代理店の人などが同席した。食事にせよ酒にせよ、ふたりだけで過ごしたことがまだない。彼女からの誘いを先のばししてきた自分を意識しながら、
「まだそちらにいらっしゃるかなと思ったのよ」
 と言う美奈子の声を彼は受けとめた。美奈子は高杉と生まれ月までおなじ同年齢だ。そのことが彼女にとってかなりの意味を持っていることを、彼は承知していた。おなじ年齢であることだけを根拠に、仲間のような親しさを彼女は彼に対して感じているようだ。そして出身地が高杉は静岡、中原美奈子は沼津だった。
「そのとおりまだここにいます」
 という彼の返答に、美奈子は笑った。
「お会いしたいものだと思ってるのよ。思いは届いているかしら」
 気の利いた言葉を返したい、と高杉は切実に思った。
「届いてます。目の前にぶら下がってます」
 という程度の台詞は、反射的に出た。
 美奈子はまた笑った。
「天井から下げてあるのね」
「重要課題はみなそうなってます」
「たくさんありすぎると、せっかく吊るしても意味はないのよ」
「では、降ろしましょう」
「ポケットに入れておいて」
「そうします」
「お会い出来ないものかしら」
「明日から一週間、休みになります。事務所ぜんたいが」
「ではぜひ会いましょうよ」
「四日後にはちょっとした出来事があるので、緊張を持続させておかないといけません」
「なにかしら、それは」
「かつての妻が再婚していて、いまでは子供もいて、自宅を新築したのです。そこに招待されてます。別れた妻の手料理を、久しぶりに食べます。初対面のご主人も加えて」
「面白いわねえ」
 美奈子が言った。美奈子の喋りかたは、彼女が書く推理小説のなかの、探偵役を務める女性の主人公と、ほとんどおなじであることに、高杉は気づいていた。美奈子に会ったら、そのことをそろそろ話題にしてもいいだろう、と彼は思っていた。
「小説に使えますか」
「使えるわ。体験を語っていただきたいわね」
「語りますよ」
「いつがいいかしら。もちろん、そのあとになるわね」
「そのあとは静岡の実家へいきます。遺言状を書くから読みに来い、と父親に言われてまして」
「それも面白いわ。それも使えます」
「推理小説向きですね」
「お父さまは、ご健在なのかしら」
「元気にしてます」
「では、せっかくだから、その話もうかがうことにして」
「帰ったら連絡を取ります」
「楽しみだわ」
「おみやげは、なにがいいですか」
 高杉のその言葉に、電話の向こうで美奈子は笑っていた。
 事務所を木村恵理子に譲ることをめぐって、その夜から高杉は真剣に考え始めた。ある程度まで考えがまとまり、前方に向けて展望が開けていくことは確かだと結論すると、彼は恵理子と相談したくなった。だから次の日、彼は恵理子に電話をした。彼女は自宅にいた。休みのあいだこれと言って予定はない、と彼女は言った。用件を伝えると、恵理子は興味を示した。夕食をともにしながら話をすることにし、彼が店を選び、そこで落ち合う時間をきめた。話はその夜の一回では終わらず、したがってその延長として次の日の夜も、ふたりはおなじ店で夕食のテーブルで向き合った。
「こうしてふたりでいるところを見られたら、それはたちまち根も葉もない噂になって、業界を駆けめぐるんだ」
 高杉の言葉に恵理子は複雑に微笑してみせた。
「僕ときみは、男と女として出来ている、という話を信じている人は多いようだ」
「私の耳にも入ってます」
「いっそ、出来てしまおうか」
「あらあら、口説いてくださってるの?」
 自分よりも十歳年下の恵理子から、いまのような台詞を受けとめるのは、それだけで純粋に快感だった。
「社長を引き受けてくれよ」
「おまえがやれ、とおっしゃるなら、私は全力をつくします」
「むやみに頑張ることはない。無理のないところで持ち味を充分に生かしながら、すんなりと」
「それしかないですね。私にはそうしか出来ないし」
「僕は絵に戻る」
「一介の画家として、社長を口説いてください」
「胸板が厚くて肩幅の広い女性が、僕は好みなんだ」
「私は単なるいかり肩です」
「なかなかだよ。なかなかと言えば、推理作家の中原美奈子さんも、かなりの美人だね」
「事務所によく電話がありますよ。私が出ることが、なぜか多いんです」
「僕を相手に、男と女の関係をめざしているかな、と思うことが、なくもない」
「気弱ですねえ。はっきりおっしゃってくださいよ」
「僕は別になにも目ざしてはいない」
「中原さんは、かつてはダンサーだったのです」
「前衛舞踏の踊り手だって?」
「そうです」
「それにしては、文章はやや平凡だね」
「でもアイディアぜんたいは、これは一本取られた、と読むたびに思いますから」
「自殺する画家の話は面白かったね。完全犯罪の他殺に見せかけた、完璧な自殺。そんな死にかたを、彼はなぜ、みずからにあたえなくてはいけなかったのか。自分の記憶のなかに生き続けている、ひとりの人を殺すために」
「そうでしたね」
「そして、記憶のなかに生き続けているその人を、彼はかつて完全犯罪で殺している」
「あの画家は、高杉さんがモデルですか」
「彼女と知り合う以前のものだよ、あの作品は」
「中原さんが裸同然の姿で踊っている舞台写真を、私は見たことがあります。肩幅や胸の厚みは、相当なものですよ」
「おそらく今週のうちに、食事をすることになる」
「中原さんと」
「木村恵理子も加わってくれないか」
「微妙な三人になりますね。関係ニュアンスの微妙な三人」
「日がきまったら、連絡する」
「夕食と言えば、明後日でしょう。かつての奥さんご一家との、夕食へのお呼ばれは」
 恵理子の言葉に高杉はうなずいた。
「明後日だ。明後日のいま頃は、かつての妻、小夜子の料理を僕は食べている」
「予行演習をしておきましょうか。リハーサル。話題のとりかたとか」
「どことなく似てるよ」
「私が小夜子さんに」
「そう」
 高杉の短い返答に、恵理子は顔の前で掌を左右に振った。
「嫌ですよ、私。別れた奥さんの代役なんて」
 高杉は苦笑するほかなく、店の人がワインを注いでくれるのを、苦笑のままに見守った。
 静岡の実家へいく予定が早まった。仲間と外国へ旅行する計画が急にきまった父親は、遺言状を書くのを繰り上げるという。だから高杉は、次の日の午後、東京から静岡へ向かった。久しぶりの実家は、けっして居心地の悪いところではなかった。父親の遺言状を読んで感想を述べたあと、すぐに東京へ戻るつもりでいた高杉は、その日を実家で過ごした。そして小夜子の自宅を訪問する日の午後、彼は東京へ戻った。ひとり暮らしの自宅へいったん帰り、二時間あと、着替えをしてそこを出た。そして小夜子の自宅へと向かった。
 駅から七分と小夜子は言っていたが、そのとおりだった。南に面した斜面が作る高台の、ゆったりと長く続く坂の途中に、見るからに新築の家があった。夫の実家はそのすぐ裏、つまり上だという。斜面の奥に向けて横に広そうな敷地に、凝った造りの邸宅があった。その下にある小夜子たちの家は、比較するとかなり小ぢんまりとして見えた。そして高杉はそのことになぜか好感を抱いた。
 坂道から斜面の敷地の奥に向けて、自動車を停めておくスペースを兼ねて、アプローチがあった。そこを入っていくと、建物のほぼ中央に玄関があった。ドアに向かって立ち、チャイムのボタンを押した高杉に、この家の間取りがどんなだか、およその見当がついた。小夜子がドアを開いた。離婚したとき、一年後にとにかく会おう、とふたりは約束した。その約束は守られた。それ以来の小夜子だった。なんら変わることのない小夜子のままだが、生活とその環境のありかたや質が、完全に別物であることを高杉は感じた。離婚して一年後に会ったときには、感じなかったことだ。小夜子はまったく違う世界に入り、そこに自分の居場所を見つけて幸せなのだ、と高杉は直感した。
「すべてはうまくいってるようだね」
 直感を高杉はそのような言葉にしてみた。小夜子は微笑していた。玄関を入ったところに立つと、左右にのびる廊下と向き合うことになった。廊下へ上がった高杉は、静岡から持って来たものを小夜子に渡した。
「おみやげのお茶。用があって実家へいってた」
「お母さまからよくいただいてた、あのお茶でしょう」
「そうかもしれない」
「懐かしいわ」
「こっちがキチンで、こちらが洗面や浴室だね」
 廊下の左右を示しながら、高杉は言った。
「そのとおりよ」
「そしてこの廊下をはさんで南側に、居間と寝室、それから子供の部屋かな」
「そのとおりよ」
 おなじ言葉を小夜子は笑顔で繰り返した。
「南側には建物の横幅いっぱいに、ヴェランダがあるの」
「そこがいちばん快適な場所かな」
「お茶を飲んでると、いい気分よ」
「ではここは、きみの御殿だ」
 高杉の言いかたに小夜子は笑った。
 居間は当然のこととして、食事のためのスペースでもあった。キチンに近いところにテーブルがあり、椅子は六脚あった。ヴェランダに向かって右側の壁に寄せて、ソファや低いコーヒー・テーブルが配置してあった。ソファにすわっていた小夜子の夫が、立ち上がって高杉を迎えた。初対面のふたりは挨拶を交わした。そして向き合ってソファにすわった。
「私の御殿、という評価をいただいたのよ」
 小夜子が夫の島田に言った。
「大きな家は絶対に作らないでくれと言われまして。もっけの幸いでこうなりました」
「住みやすそうですよ」
「満足はしてます」
「場所もいいし」
「坂を上がってくる感じがね。自分で住む家はこれで五軒目ですけど、五軒ともすべて、坂を上がっていく途中にあったのです。逆からいけば坂の下る途中だけど」
 そう言って島田は笑った。研究者あるいは学者に近い印象を、高杉は島田から受けた。やがて小夜子はキチンへ立ち、高杉と島田ふたりが話をすることとなった。
「夕食は大人たち三人ですから。息子は隣の実家へいってます。お祖父さんっ子とお祖母さんっ子の両面を、フルに享受してますよ」
「それは最高です」
 島田は右手を上げた。そして居間の向こう側の壁を示した。居間の東側にあたる壁だ。キチンからヴェランダまで、そこはぜんたいが壁であり、その壁にいま飾りはなにもなかった。壁に寄せて置いてあるもの、たとえば花瓶を載せておく小さなテーブルのようなものも、いっさいなかった。
「あの壁ですけどね」
 島田が言った。
「せっかくこれだけの壁だから、余計な物をごちゃごちゃと置いて邪魔したりしないで、絵をひとつだけ掛けることにしよう、ということになったのです。どんな絵がいいか、折にふれて相談した結論は、高杉さんに描いてもらおう、ということです」
 島田の言葉を受けとめながらその壁を見ていた高杉は、キチンにいる小夜子に視線を向けた。居間のふたりに横顔を見せて、彼女は夕食を整える作業に気持ちを集中させていた。その横顔に、高杉は強烈な郷愁を覚えた。自分で自分にうろたえるほどの、かつてなにに対しても感じたことのないような、内部に向けて強く求心した懐かしさのような感情だった。それは小夜子に向けられた感情ではなく、絵を描く自分、というものに対していまあらたに沸き上がった、純粋な憧れの気持ちなのだ、と高杉は自分で自分をねじ伏せた。
「いかがですか。お願いしますよ」
 島田の言葉に高杉はうなずいた。事務所は木村恵理子に譲って自分は絵に戻る、という選択の正しさを自分のなかで確認しながら、彼は居間の東側の壁を見た。画架に張ったばかりのカンヴァスとして、彼はその壁を見た。
「描きます」
 と、高杉は言った。
「ただし、しばらく時間をください」
「もちろんです。納期が設定出来るようなことではありませんから。待ちますよ」
 うなずきながら高杉は、この居間の昼間の明るさを想像してみた。それを夜のいまの時間に重ねてみた。その重なり合いのなかから、いくつかの色が浮かんで来た。と同時に、この壁に掛ける絵の、適正な大きさも彼は判断した。
「大きさだけはきまりました」
 高杉は島田にそう言った。
「楽しみですねえ。楽しみに待ちます」
 テーブルに夕食の用意が出来た。島田に促され、高杉はソファを立った。島田がワインの栓を抜いてテーブルに置き、三人は食卓についた。そしてその食卓の話題は、男性たちふたりそれぞれの、仕事をめぐるものとなった。多忙なイラストレーター兼デザイナーであるいまの自分をやめにして、ひとりの絵描きに戻ることについて、高杉は語った。
「三十歳から現在まで、ずっと忙しくしてきて、ちょうど十五年です。これからもっと忙しくなりそうなので、ここで僕はかたわらへ退き、事務所は有能な女性たちにまかせようと考えています」
「一九七〇年からということですね。そしていまは一九八五年ですから、高度経済成長の次の段階の、さらなる拡大の時代ですよ。しかし、続きますかね、これが。土地はめちゃくちゃに値上がりしてますよ。ここは親の土地ですからただみたいなものですけど、そうでなかったらとうてい無理です」
「フリーランスの貧乏なイラストレーターが、急に忙しくなって、いまでは事務所を主宰してるわけですから。でも、冷静に俯瞰してみると、あってもなくても世のなかに困る人は誰もいないような仕事で、事務所は動いてますねえ。次々にやみくもに作り出す、という方針で動きの維持されてる社会というか、商品を作って世に送り出すにあたっては、誰かがそれらしくデザインする必要があります」
「ひとりで絵を描く、というのが本来の方針だとすると、それとはほとんど逆の方向ですね」
「どさくさにまぎれてここまで来た、という印象は強くあります」
「そしてそこから、抜け出すわけだ」
「そうです」
 意見や感想をなにひとつ述べることをせず、小夜子は聞き役に徹していた。画家に戻るという高杉の考えに自分が全面的に賛成であることを、そうすることによって小夜子が自分に伝えようとしていることを、高杉は確かな手ごたえのように受けとめた。
「次々にやみくもに作り出す社会、といまおっしゃったけれど、確実にそれはひとつの側面ですよ。食いつぶしていくわけです、地球の資源を。そして地球の資源という言葉が出ると、私の仕事の話になります。次々にやみくもに作り出して、はっきり言ってどうでもいいようなもので地表が埋めつくされていくいっぽうで、ものすごい勢いで細っていくものがあるわけです。ひと言で言ってそれは資源ですけど、私の仕事としては水です」
「そうでしたか」
「僕と高杉さんとでは、学年が一年違うだけですから、これはすぐわかってもらえるはずですけれど、子供の頃、まだ戦後間もなく、たとえば学校の水飲み場とか、駅のホームの水飲み場で、水道の蛇口を開いて水を出し、その下へ顔を横にして持っていき、水をじかに口に受けて飲んだでしょう」
「うまい水でした」
「確かにいい水だったのです。当時はね。だから、おっしゃるとおり、うまい水だったのですけれど、いまではあれはもう出来ないのです。かたちだけはやれば出来ますけれど、水がまったく違います。厳密に言えば、水道水でも飲料には適してません。それほどに水はやられてしまったわけです。水道の蛇口からまともな水を好きなだけ飲む、ということがもう二度と出来ないのです。これからもっとひどくなります。だからそこに僕の仕事が発生するんですよ」
 そう言って島田は笑った。
「自戒の笑いですよ。なにごとも余裕を持ってあたらないと。事態は深刻ですけど。水道水が深刻です。だから最末端は家庭の浄水器ですね。これを研究開発して製品化し、ほどよく儲けながら、おおもとの水源の改善も仕事にするんですけど、これはほとんど無報酬の啓蒙事業ですよ、いまのところ。あと十年もすれば、かなり違ってくるでしょう。そしてあと十年というと、二十世紀があますところ数年になってしまう。水の問題は今世紀じゅうに、世界のいたるところで顕在化します。水をめぐる戦争とか。農業国の年間降水量が投機の対象になるとか」
「僕も浄水器を使ってますよ」
「うちのを使ってください、送りますから。水道システムや、瓶詰のミネラル・ウォーターといった、人間の作った制度をとおさず、地表から直接にいい水を飲むことが、この国ではいまも未来も、二度と出来ないことなのです。どこか山奥の、川の源流の小さな清流で、流れる水を手にすくって飲み、うまい、と叫ぶ体験はもちろん出来ますけれど、年間に百人くらいですよ。しかもひとすくい、ふたすくいです。一億二千万人対百人では、統計上は見事にゼロです。中国、アメリカ、アフリカ、インド、ヨーロッパの大部分、ロシアと、世界じゅうがすでに全滅ですよ、水に限っては。水に限らないですけれどね」
 水の問題は世界じゅうで大問題となりつつあるから、自分たちにとっての仕事は世界のいたるところで発生する。したがって自分たちは世界を相手にする覚悟を持たなくてはいけない、と島田は語った。
「ただし、ひとつの大きな難問は、利益を追求する一介の私企業という立脚点に立っていると同時に、利益などまったく見込めないけれども、技術や知識そして経験を持っているなら、やらずにはすまされない仕事をする自分たち、という立脚点があって、このふたつがいったいどんなふうに両立するのか、という難問です」
「水道システムすらない国、というものがありますからね」
「そのとおりです。国として体をなしてないから、なにからなにまですべてがなくて、汚れた水を飲んだだけで、幼い子供たちがばたばた死んでいく国が、たくさんあります。そういうところに水道システムのぜんたいを移植して、きちんと維持させて機能させ、それを国づくりの基礎のひとつにしていく、というような仕事ですよ。水道を民間に委託したとたん、水道料が倍になり、それを払えない人たちが汚染された水をしかたなしに飲み、罹病率がはね上がった、というようなところに仕事があるわけです」
 大人たち三人の夕食を充実させたのは、小夜子の料理だけではなかった。島田は熱意を込めて存分に語り、それに引き出されるようにして、高杉も自分と絵について充分に語った。久しぶりのことだ、と彼は思った。
 食後のひととき、高杉はヴェランダに出てみた。もっとも居心地の良いのはここではないか、という彼の予測は的中した。広々とした板張りのヴェランダのどこに立っても、視界をさえぎることなしに斜面が下に向けてのびていた。視線は遠くまで届いた。虫の鳴き声が盛んに聞こえていた。島田が出て来て、このあたりの地形について説明した。島田はやがて居間に入り、入れ違いに小夜子がヴェランダに出て来た。
「ここはいい家だ」
 高杉は言った。
「きみは幸せそうだ。島田さんは立派な男性だ。僕はなにも言うことがない」
「あの壁に掛ける絵を、描いてくださいね」
「初心復帰への第一作としよう」
「楽しみだわ」
 というようなやりとりがふと途切れたとき、
「島田小夜子さん」
 と、高杉は言った。
 小夜子は夜のなかで彼に顔を向けた。
「僕たちの離婚という結論、そしてそこに至った過程のぜんたいを、僕は後悔している」
 高杉はそう言った。一歩だけ彼に近づいた小夜子は、彼の腕に片手を軽く置き、すぐに離した。ふたりは居間に入り、高杉は腕の時計を見た。帰るのにちょうどいい時間だ、と彼は思った。
 その夜遅く、日付はすでに次の日となった時刻に、彼はデスクに向かって椅子にすわり、引き出しからカードを二枚、そしてそれと対になっている封筒を一枚、取り出した。挨拶やお礼の言葉などを、ごく簡潔に書いて送るために使うカードだ。紙質がやや凝っていて、四辺には落ち着いた色でさりげなく縁取りがしてあった。その二枚のカードのうちの一枚に、彼は万年筆で次のように書いた。

  今夜の僕がいちばん期待していたのは、きみのそばで親しく話をして過ごす、二時間ほど  の時間でした。期待していたとおりになりました、感謝します。
  ご主人はいい男性で、安心しました。
  僕は絵に戻ります。
  ヴェランダで言ったとおり、僕は後悔しています。
  後悔を同封します。

 そしてもう一枚のカードには、誰が見ても小夜子に見える女性の全身像を鉛筆で見事に描き、彼女の前に幼い少女をひとり立たせ、その肩に小夜子の両手の指先をかけさせた。少女は小夜子と生き写しであり、彼女が小夜子の娘に想定されていることは、これも誰の目にも明らかなことだった。カードに向かって小夜子の左側に、高杉は自分を描いた。三人家族の鉛筆画によるポートレートが、たちまち完成した。ポートレートのなかでふたりの男女は夫婦であり、幼い少女は彼らのひとり娘だ。現実の小夜子には息子がひとりいる。だから子供は息子にはせず、小学校に入る前の年齢の少女を高杉は描いた。片隅に『後悔』と題名を書き、署名を添えた。
 その二枚のカードを彼は封筒に入れ、封をして切手を貼った。小夜子宛てに宛て名を書き、封書の重さを計るスケールに載せてみた。いま貼った切手でカヴァーすることの出来る範囲内の重さであることを、彼はひとりで確認した。この封筒をいますぐに投函しよう、と高杉は思った。住んでいるこの集合住宅の前の道をバス通りまで出ていき、少しだけ駅のほうへ歩くと、そこに郵便ポストがある。彼は椅子をうしろに引いて立ち上がった。
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坂の下の焼肉の店



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 雨の日の午後、自宅でその電話を受けたとき、五郎には直感のようなものが働いた。
「三田村さまのお宅でございましょうか」
 と、中年の女性が電話の向こうで丁寧に言った。おだやかに隅々まで優しい、品のある口調と声だった。はい、そうです、と自分が答えると、お母さまはいらっしゃるかしら、とこの女性は訊くのではないか、と五郎は思ったのだ。根拠はなにもない。直感としか言いようがなかった。そしてその直感は的中した。
「わたくし、博多に住んでおります、杉浦由起子と申します」
 そこでひと区切りだったから、
「はあ」
 と、五郎は言った。
「お声がお若いですから、息子さんでしょうか。五郎さんとおっしゃる」
「そうです」
「まあ、それはそれは、わたくし、こうして初めて電話でお話をしますけど、じつはお母さまの昔の友人で、杉浦と申します」
「はあ」
「初めまして」
「どうかよろしく」
「こちらこそ。突然の電話でびっくりなさるでしょうね、ごめんなさい」
「とんでもありません」
「小学校に入る以前から、ずっとお母さまとは友だちで、博多の短大もいっしょに卒業した仲なんですよ」
「そうですか」
「杉浦と申します」
「三田村五郎です」
「いまおいくつかしら、二十七、八歳ね、きっと」
「二十七です」
「お父さまは、お元気?」
「はい。元気にしています」
「お仕事をなさってるわよね」
「忙しくしてますよ」
「それはたいへん結構だわ。お父さまには、一度だけお目にかかったことがあるのよ。ずいぶん前のことですけど。じつはいまこうして電話でお話しさせていただいてるのは、来月にわたくしはほんとに久しぶりに、東京へいきますの。もしお時間をとっていただけるなら、ぜひ息子さんに会っておきたいと思いましたの。美穂ちゃんの息子さんに」
 五郎の母親の名は美穂子と言った。彼が三歳のときに彼女は心臓の疾患で急死した。それから二十四年が経過した。
「四半世紀と言いますけれど、もうじきなのね。ほんとに早いものだわ」
「お目にかかりましょう」
「うれしいですわ。いまこうしてお話をしてるだけでも、どきどきしますよ。お子さんが出来たときには、美穂ちゃんはほんとに喜んでいて」
「いろいろ話を聞かせてください」
 上京の日時を杉浦由起子は五郎に伝えた。電話機を置いてある小さなテーブルには、卓上のカレンダーやメモ用紙、そしてボールペンなどがあった。ご自宅を訪ねたいと杉浦由起子は言った。カレンダーのその日の下に、五郎はボールペンで線を引いた。そして日付の枠のなかの余白に、来客、博多、杉浦さん、と走り書きした。その日の午後、二時から三時のあいだに自宅を訪ねる、と彼女は言った。最寄りの私鉄駅そしてバス停留所からの、自宅までの略地図を手紙で送ることを、五郎は約束した。彼女が電話の向こうで言う博多の住所を、彼は書きとめた。そして電話を終えてすぐに、彼は略地図を描いた。短い文面の手紙を添えて封筒に入れた。夕方に外へ出たとき、彼はそれを投函した。
 そして次の月のその日、午後二時すぎに、彼女はあらわれた。アトリエに改造した部屋に五郎はいた。庭とその向こうの生け垣、門、そこからの玄関までの飛び石など、低い窓ごしに見渡すことが出来た。彼女が門からなかへ入って来たとき、五郎は彼女を目にとめた。電話でやりとりしたときの声や口調の印象と、目にする姿との間にある落差を五郎は面白いと思った。歩きかたや身のこなしには骨格の良さがそのままあらわれている、と五郎は思った。ゆったりと大柄で、おおらかな表情の美人だった。彼女も窓ごしに五郎を見た。ふたりは会釈し合った。
 玄関のすぐ脇に来客をとおす長方形の部屋があった。片方には丸いカフェ・テーブルに椅子が四脚、そしてもういっぽうの壁に寄せて、長いソファと短いソファが低いガラス・トップのテーブルに面していた。杉浦由起子は長いソファのまんなかにすわった。短いほうのソファにすわった五郎に、彼女は親しみを込めた視線を向けた。
「想像してましたのよ、どんなお顔のかたかしらと思って。似てらっしゃるのね、お母さまに。面影を感じるわ。子供の頃から思春期をとおして短大を出るまで、わたくしはずっと美穂ちゃんと友だちでしたから、美穂ちゃんがどんな顔の人だったか、よく知ってますのよ。はっきりと面影があるわ」
 気持ちを込めてそう言った彼女の目に、涙が浮かんだ。しかしその涙は頬にこぼれるようなことはなく、いつしか消えた。
「僕の名前は五郎といいますが、五という字は母親の旧姓から取ったものでしょうか」
 五郎の母親の旧姓は五島という。
「そうですよ。生まれてすぐに電話をかけてくれたとき、美穂ちゃんはそう言ってましたわ」
「五島という名は、五島列島と関係してますか」
「ずっとたどっていくと、親戚筋に当たる人に五島のかたがいたのですって。ごくかすかにつながりはあるのね」
 そう答えて杉浦由起子はアトリエを見渡した。人としての奥行きを感じさせる笑顔を、五郎は観察した。母親が生きていればいまはこのくらいの年格好なのか、と彼は頭の片隅で思った。
「ここはアトリエね」
「そうです」
「絵をお描きになるの?」
「はい」
「うれしいわ、なんとも言えずにわたくしはうれしいのよ。門を入ってすぐにあのお部屋が見えて、あっ、アトリエだわ、と思ったのよ。そのときのうれしさを、いまわたくしは確認してます。血を引いてるのね、お母さんの。美穂ちゃんの」
「僕の母は絵を描く人だったのですか」
「そうよ」
 という短い返答は、次の瞬間、鋭い閃光のようなものへと、かたちを変えた。目には見えないその閃光は、彼の五感のぜんたいを射し貫いて走り抜けた。そのあとに残った自分は、生まれ変わったような自分だ、と彼は思った。その思いに誇張はどこにもなかった。
「そうだったのですか」
 自分の声が叫ぶように上ずっているのを、彼は自覚していた。
「ご存じなかった?」
 ふたりのあいだにある空間をかいくぐって、優しい問いかけが彼に届いた。
「知りませんでした」
「美穂ちゃんは絵がとてもうまくて、絵のご褒美は賞状やカップ、楯など、いくつもらったかわからないほどよ。小学校のときからずっとそうだったから」
 なにか言おうとしてもいまこの瞬間の彼には声がなかった。
「ご実家にはみんなとってあったのではないかしら。お父さまもお母さまも、美穂ちゃんの絵のことでは鼻高々だったから」
「知りませんでした」
「そんなものなのね。お父さまからはこんな話をお聞きになってないの?」
「聞いてません」
「わたくしの宝物は、美穂ちゃんに描いてもらった、このわたくしの絵なのよ。若い頃のわたくしを、おなじく若い頃の美穂ちゃんが描いてくれて。素晴らしい油絵なのよ。私の部屋の壁に掛けてあるわ。一日に一度は、じっとその絵を見るのよ。そのたびに、わたくしは目に涙が浮かんでくるの」
「その絵を僕は見たいです」
「いつでもご覧にいらして。地元の美術館にも、一点だけ、所蔵されてるのよ。それは風景画なの。これも素晴らしいものよ。地元の人たちの作品を展示するコーナーがあって、一定の周期で作品は入れ代わるのですけれど、美穂ちゃんのあの絵は人気があって、もうずっとおなじ場所に掛けてありますよ」
「それも見たいです」
「博多へいらして」
 絵を描く自分、というものが母親と直接につながっている事実を彼が知るのは、いまが正真正銘の初めてだった。父親の三田村良彦には絵の才能はまったくない。母親のほうから引き継いだのだろうと思ったことが、ずっと以前に一度か二度あった。彼にとって母親は最初からいないも同然だから、なにかについて考えるとき、思考が母親に向かうことは習慣としてまずなかった。だから母親は抜け落ちたままだ。父親は結婚して三年とちょっとで、妻と死別している。自分の妻となった女性が絵を描く人だったことを、彼は知らないままなのではないか。これまでそんな話が彼からひと言も出なかったことを思うと、知らないままということは充分にあり得る。母親のほうも、なにかのきっかけがあれば絵について語っただろうけれど、きっかけがなければ少なくとも二、三年は喋らないままであっても、そこに不思議さはなにもない。
「そうだったのですか」
 五郎が言った。
「美穂ちゃんの才能を引き継いでいらっしゃるのよ」
「母親だったのですか」
「美穂ちゃんが亡くなったとき、五郎さんは三歳でしたわね」
「そうです」
「なにか覚えてる?」
「背の高い女性が、まだ幼くて小さい僕のかたわらにいつもいた、というごく淡い記憶はあります。スカートをはいているその腰のあたりにその女性の手があって、その手が僕に向けて動いては、なにかをしてくれる、というような記憶もあります」
「三歳ですものねえ」
 弁護士を仕事としている父親にならって、自分も私立大学の法学部に進むつもりでいたこと、そして入試の直前に予定を変更し、芸術学部のある大学の受け付け最終日に願書を出し、そこを受験して合格したことなど、五郎は母親の友人に語った。小学生の頃は学校で絵を描けばかならず褒められた。コンテストに入賞したことも何度かある。しかし中学に入るまでは、絵に関しては受動的だった。積極的になったのは中学の二年生からだ。高校生になったのをきっかけにして、この家に引っ越した。アトリエを持て、と父親が熱心に説いたからだ。庭に面した居間をアトリエに改造することの出来るこの家を、父親が不動産屋のかかえる物件のなかから見つけた。それ以前に住んでいた場所から、ここは歩いて七分ほどのところだ。
「絵と自分とのつながりが、はっきりしました。やはり母親だったのですね。じつにうれしいです」
「わたくしもよ。東京へ来た甲斐があるというものよ」
「自分の根っこが、いま突然、完璧に出来上がったような気持ちです」
「自信にもなるわね」
「なります。絵を選んだのは間違いではなかった、ということですから」
「ぜひ博多へいらして」
 あなたの描いた絵を見たい、と杉浦由起子は言った。アトリエにあるもの、そして外の廊下の棚にあるものを、彼は見せた。芸術学部の学生だった頃から、彼は商業的な雑誌にイラストレーションを描き始めた。いくつかの雑誌に何度か掲載されると、そこからあとはなぜか需要が続いた。依頼される仕事が少しずつ増えていき、いまの彼はイラストレーターとして業界では知られてきた。雑誌から領域は広がり、広告に関連した仕事を数多くこなしていた。額縁に入った油絵、というような意味での絵は、学校のときの友人たちと昨年に画廊で開いた個展に出した作品が、一点だけ自宅にあった。熱心に見た彼女が彼に柔和な笑顔で言ったのは、精進なさってね、というひと言だった。
 杉浦由起子が訪ねて来た次の週の週末、三田村五郎は飛行機で博多へ飛んだ。そして彼女の自宅を訪ねた。待ち受けていた彼女に彼は歓待された。自室にとおされた。十二畳の部屋のドアを開いて入った正面の、壁布を貼った壁に額に収めた油絵が掛けてあった。
 その絵と向き合って、五郎はしばらくその場に立ちつくした。縦の長方形の画面のなかに、若い女性の全身像が描いてあった。杉浦由起子であることは、すぐにわかった。ただし、三十年以上前の。剣道の胴衣をつけた彼女は、黒光りする板張りの廊下に、すっくと立っていた。左腕で面をかかえ、右手には木刀を持ち、その腕を斜めに下ろしていた。美青年にも見えるたおやかな凛々しさのなかに、色気とは別物の香気とも言うべきものが、描かれている女性の内部から、絵ぜんたいから漂い出ているように思えた。絵のなかには杉浦由起子が確実にいた。そしてその絵そのものは、五郎にはほとんど記憶のない母親だった。
「美穂ちゃんは絵がうまくて、わたくしは剣道ひと筋。いまでも子供たちに教えてますのよ。市が作った体育施設に、子供用の道場も出来ましたから」
「美剣士ですね」
「強そうかしら」
「袈裟がけにまっぷたつですね、僕なんか」
 彼女は笑った。絵のなかの若き彼女も、ほんの一瞬、微笑したかのように思えた。
「出色の出来ばえです」
「十八歳のわたくし。誕生日のお祝いにと言って、美穂ちゃんが描いてくれたものなの」
「まともな絵描きですよ。ものすごくまともな。まっすぐに正面から主題に立ち向かってます」
「おわかりになるのね」
「わかります。これはすごい」
「学校の道場の、外の廊下です」
「秋の午後でしょう、ここに届いている陽ざしは」
「十月の十二日。わたくしの誕生日に、最初にポーズしたの」
「この絵を僕は誇りに思います」
「美穂ちゃんに聞かせたいわねえ。きっと聞いてるわよ。この絵のなかには、私といっしょに美穂ちゃんもいるのよ」
「筆のストロークのひとつひとつが、僕の母親ですから」
「一日に一回、かならず、きちんとこの絵と向き合うのよ。だから毎日、わたくしは心を洗ってます」
「これはすごい」
「お母さんにお負けにならないように」
「負けてもいいですよ」
 あっさりとそう言った五郎に、杉浦由起子は声を上げて笑った。
「いまの言いかたって、どことは言いがたく、美穂ちゃんに似てるのよ」
「そうですか」
 杉浦由起子は美術館へ案内してくれた。地元の人たちの作品の、常設の展示室で、三田村五郎は母親が残したもう一点の絵と向き合った。これも縦長の画面の油絵だった。木造の古い住宅が両側に壁を接するようにしてならぶ、くねった細い登り坂の坂道が、画面を下から上へ貫いていた。でこぼこしたその坂道から左に向けて、浅い角度で細い道が分かれていた。その道は素人が作業したような階段となっていた。階段を上がりきったところには、懐かしい昔の雰囲気をそのままに残した床屋があった。画面のなかのさまざまなディテールを、そしてぜんたいを、何度もつくづくと見てしまう。そんな力がその絵にはあった。
「傑作ですね」
「実在する床屋さんなのよ。美術館の絵で見ました、と言って髪を切りに来るお客さんが、いまでもいるのですって」
「画面の左から光が来てますね。午後遅くの光です」
「そうなのね」
「窓のなかに、床屋さんのうしろ姿が見えます」
 額縁のすぐ下にはプレートがあり、なかの白い紙に題名と作者名が印刷してあった。題名は、坂道と床屋、そして作者名は、五島美穂子だった。
「学校を卒業する直前に完成したのよ。展覧会に出して、それからこちらの美術館に、ぜひにと言われて寄贈したと、美穂ちゃんは言ってました」
「お見事と言うほかないです。じっと見ていると、この絵の景色のなかに入っていけるような気がしてきますね」
「現地をご案内させて。少し離れたところにあるから、タクシーでまわりましょう」
 五島美穂子の両親はすでに他界している、と杉浦由起子はタクシーのなかで語った。美穂子は末っ子で、上に兄がふたりいたという。長男もすでに亡く、下の兄は焼津に住んでいる、ということだった。
「美穂ちゃんが描いた水彩とかスケッチ・ブックとか、たくさんあったはずなのよ。結婚したときに実家に残していったとして、捨てずに保管されているなら、下のお兄さんのところね」
「母親が描いた絵なんて、僕の自宅には一枚もありませんよ」
「お父さんのお話には、出てこないのかしら」
「父から聞いた記憶はありません。父は知らなかったのではないでしょうか。自分の妻が絵を描くことを」
「そうね。ご無沙汰をお詫びするというような手紙を出して、下のお兄さんにうかがってみたいわ」
 床屋のある坂道は、幅の狭さはそのままに、すっかり補修されていた。歩きやすい平坦な、しかしきわめて平凡な坂道に変わっていた。母親が描いたような風情は、どこにもなかった。坂道の両側にならぶ家も、改築されたものが多かった。かろうじて床屋だけが、おなじたたずまいだった。
「こうなってみると、美穂ちゃんのあの絵が、いっそう貴重なものになるわね」
 待ってもらっていたタクシーへ、ふたりは戻った。彼はこのまま東京へ帰る予定だった。空港まで送ると彼女は言い、そのとおりにしてもらった。空港では搭乗までロビーで話をし、時間となってそこでふたりは別れた。
 夕方、五郎は自宅に帰った。父親がいた。
「どうしたの?」
 五郎が訊いた。
「どうもしてないよ」
「久しぶりだね」
「そうだな」
 父親の三田村良彦には女性がひとりいる。一日の仕事を終えると、彼女のところへ帰ることが多い。ときどきこの自宅にあらわれる。この習慣がすでに十年以上続いていた。ごく初期の頃、五郎はその女性に一度だけ会ったことがある。父親とおなじく弁護士をしている女性で、自分たちの事務所を共同で作った関係だ。
「週末はここにいるよ」
「どうぞ。僕は博多へいってた」
「博多?」
「杉浦由起子という人を知ってる?」
「さて、ねえ。聞いたことがあるような名前だけど。博多の人かい」
「うん」
「博多ということは、美穂子と関係してるのか」
「お母さんの幼友だち。小学校から短大まで、ずっといっしょで仲良しだった人」
「そうだ、その人だ。剣道をやる女性だろう」
「先週、ここを訪ねて来たんだ。その少し前に博多から電話があって。一度この僕に会っておきたい、ということで。お母さんは絵を描く人だということを、お父さんは知ってた?」
「絵かい」
「油絵。素晴らしい才能だよ。見事なものだった。博多で見てきた」
「それは知らない。まったく知らない」
「絵の話はしなかったの?」
「してない。なにしろ三年とちょっとだからね。しかもすぐにきみが生まれて、僕は僕で忙しくて。大変だった。ゆっくりいろんな話をした記憶がないよ」
「その杉浦さんの若い頃を描いた絵が、杉浦さんのところにあって。もう一点は風景画で、これは博多の美術館の常設展に出ている。それも見てきた」
「油絵か」
「小学生の頃からずっと、絵では褒められどおしで、入賞とか賞状とか、数えきれないほどだったと、杉浦さんは言ってた。きっとそのとおりなのだと思う」
「知らない。知らなかった」
「博多から羽田に着いて、まっすぐ帰って来た」
「そうか。絵がうまかったのか」
「うまい、という段階ではないよ。それを飛び越えている」
「してみるときみは、母親の血を引いてるのか」
「二十七歳になって初めて、ようやくそのことがわかった。僕はじつにうれしい。本当の自分を、突然に見つけたようで」
「僕の遺伝ということはありっこないから、美穂子だね」
「夕食は?」
「まだ」
「お腹が空いた。なにもないよ。食べにいこう」
「どこへ」
「坂の下のバス通りに、焼き肉の店がある。坂を下りて電器店の角を曲がり、バス停のほうへ歩いていくと、美容院やバー、ラーメン店、不動産屋があって、そこに焼き肉の店もある。そこへいこう」
「それはいい。そういうものが食べたかった」
 ふたりはすぐに家を出た。坂道までいき、それを下り、電器店の角を曲がった。焼き肉店は営業していた。すでに数人の客がいた。ふたりはテーブル席で差し向かいとなった。注文を告げたあと、五郎が言った。
「杉浦さんは毎年、遺言を書くのだって。私が死んだら、この絵は五郎さんのところに帰るようにと書いておきます、と言ってくれた」
「会ったことがあるな、一度だけ」
「そう言ってた」
「忘れもしない、一九五七年の十月だよ、美穂子が亡くなったのは。あと一年で四半世紀か。遠いねえ。遠くなった。あのときのきみが、いまはもう二十七歳だからな」
 五郎は一九五四年に生まれた。そのとき父親は二十九歳だった。だから一九八一年のいま、父親は五十六歳だ。
「あの年の五月に有楽町のそごうが開店してね。有楽町で逢いましょう、というやつさ。そのそごうへ、三人でいこうとして、出かけるしたくをしていたときだ。きみが僕のところへ来て、ママが眠っちゃった、起こしても起きないよ、と言ったんだ。だから僕は部屋へいき、どうした、と言いながらなかに入ったら、美穂子が倒れていた。ひと目見て、これはいかん、と直感したよ。倒れていると言うよりも、崩れ落ちてそのまま、という様子で、要するにそれはもう亡骸なんだよ。直感した」
「僕はほとんど覚えてない。記憶に脈絡がないんだね。断片的にはいろいろ覚えていて、それらをひとまとめにすると、いつもとはまったく違った状況が続いた、という記憶になる」
「それで正しいよ。僕たちの状況は急変したのだから。絵の展覧会も見る予定だったかな。そごうで、あるいは、その近くのどこかで」
「僕が法学部ではなく、芸術学部へ進んだのは、間違いではなかった」
「あらためて納得がいくねえ」
 ビールに続いてカルビの皿がテーブルに届いた。ビールを飲み、炭火の上の金網にカルビを並べていても、三田村良彦には居ずまいを正した端正な雰囲気があった。弁護士という職業の人にとって、これは有利に作用する場合が多かった。
「ごく近い身内の数人だけで葬儀をすませた。出棺のときには、きみが泣いてね。あれには参った。決定的な別れの瞬間を、三歳児は全身の感覚で知るんだよ。台所のまんなかに立って、いきなりたいへんな勢いで泣き始めた。手放しで泣く、という言いかたが、ぴったりだった。参ったよ、あれには」
「覚えてない」
「記憶の底にはかならずあるはずだ」
「そうかな」
「思い出すときが来るよ。僕が思い出すのは、喜びも悲しみも幾歳月、という映画だな。評判だから見たのだけど、妙に身につまされてね。涙がとまらなかった。くしゃみ三回ルル三錠。ジンジン仁丹ジンタカタッタター」
「なんですか、それは」
「自宅へ帰るとTVはそんなコマーシャルをやっていた」
「幸子さん以後は、はっきりした記憶がある」
 と、五郎は言った。父親はうなずいた。
「小学校一年生からだからね。そのあたりになると、記憶はあって当然だ」
 幸子とは父親の六歳年下の妹だ。五郎ちゃんには母親代わりが絶対に必要だから、小学校を出るまでは私がその役を務めると言い、ふたりのところへ引っ越して来て、同居を始めたのだ。完璧な母親代わりだった。
「食事がいつもおいしかった。あれは幸せの土台だよ」
「料理はあいつの専門だからね」
「美人だというのも、よかったなあ。いろんな友だちに、何度も言われたよ。おまえんとこのお母さんは、すげえ美人だなあって」
「三歳から小学校に入るまでの三年間は、僕が面倒を見たよ。仕事は自宅でしてね。幼稚園の送り迎え。庭が広くて、あれはよかったなあ。よくふたりでボール投げをした。キャッチ・ボールとか」
「雪だるまも作ったね」
「いま、仕事は、どうなんだ」
「忙しい」
「精進しろよ」
「あ、杉浦さんも、おなじことを言った」
 ふたりはビールを飲んでカルビを食べ、さらにロースを注文した。
「まだ入籍はしないの?」
 五郎が訊いた。
「まだいいだろう。僕たちはおなじ歳なんだよ。仕事はおなじで、考えかたはよく似ている。体が歳を取っていくペースもおなじだから、このままにしておけば、いつかぽんと収まるよ」
「ふうん」
「きみの女性問題は、どうなんだ。あの自宅へ僕が帰ったら、きれいな人がいて、あら、お父さまですか、と迎えてくれるような状況を、期待しなくもない」
「いないよ、そんな人は」
「どこにもいないのか」
「きれいな人は、あちこちにいるでしょう」
「きみの身辺には?」
「いない」
「見つけろよ」
「杉浦さんが訪ねて来たとき、渋谷に用事があると言うので、タクシーで送っていった。その帰りにおなじバスに乗って来て、そこの停留所で降りた人が、素敵な人だった。二十五歳くらいかなあ。停留所からこちらに向けて、彼女が先に歩いて、そのうしろを僕が歩いた。うしろ姿が素晴らしかった。きれいな、いい体なんだ。この店の隣の隣にバーがあるでしょう。そのバーに入っていった」
「そこのホステスかい」
「そんな感じだった。ドアを開いてなかに入るとき、肩ごしに振り返って、ちらっと僕を見た。美人だったよ」
「帰りにそのバーへ寄ってみようか」
「なるほど」
「もっと食べろ」
「ご飯がほしい」
「もらえよ。ビールの続きはその店で飲もう。僕もご飯だ」
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都電からいつも見ていた



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 都電の車体の前部にあるドアから、彼は雨の停留所に降りた。降りたのは彼ひとりだった。だから彼はその場に立ったまま、車道に向けて傾けた傘を開いた。うしろのドアからも、降りた客はいなかった。夜はまだ浅いのだが、この系統を走る都電にとっては、乗客が急に少なくなる時間だった。自動車が走って来ないのを確かめた彼は、並木のある歩道に向けて、雨の降る車道を渡った。走り去った都電とおなじ方向へ少しだけいくと、四つ角があった。その角を彼は右へ曲がった。
 二十メートルほど向こうに、今夜もその店の看板のなかに明かりが灯っていた。ほどよい大きさの縦長の明かり看板だ。淡い紫色のプラスティックの板に、明るいオレンジ色で異邦人という店名があり、四角い箱になっているその看板のなかから、明かりが透過してくるというだけの、単純な看板だ。その店がある建物の板壁の、ドアの脇にある小さな窓のかたわらに、その看板は取り付けてあった。
 看板に向けて雨のなかを歩きながら、店のある建物の様子を彼は夜のなかに受けとめた。なんの変哲もない、木造二階建ての民家だ。店の部分だけ改造したのではないか、と彼は思った。道から少し引っ込んでドアがあった。ドアのすぐ前に立つと雨を避けることが出来た。彼は傘をたたみ、ドアを引いて開き、店のなかに入った。入ってすぐ脇の壁に寄せて、傘を立てる壺があった。雨滴の垂れる傘を彼はそこに立てた。
「いらっしゃいませ」
と、女性ふたりの声が重なった。店の空間に向きなおった彼は、ふたりの女性たち、そして店の奥行きや造作、雰囲気などを、同時に受けとめた。女性たちふたりの笑顔に対して、彼も笑顔となった。店に客はいなかった。
「どうぞこちらへ」
と、若いほうの女性がカウンターごしにストゥールを片手で示した。だから彼はそこへいき、隣の席に鞄を置き、ストゥールにすわった。
「私は賭けに勝ったのよ」
 若い彼女が彼にそう言った。この店にはこんな美人がいたのか、と彼は思った。その思いのまま、彼は彼女の言葉を受けとめた。
「今日のような雨の日は、お客さんは来ないわよと、こちらの叔母が言うんです。残暑が今日で終わるような、急に肌寒い日でしょう。朝から冷たい雨が降っていて。ふたりで賭けをしたの。ひとりはかならずお客さんが来る、というほうに私が賭けて」
「勝ちましたね」
「今日は最初のお客さん」
 カウンターの奥にとどまっている、叔母さんという着物姿の女性が、彼にそう言った。
「一杯だけ飲んで、すぐに店を出て、しばらくしてまた来たら、僕はふたりめの客になりますか」
 彼の言葉に若い彼女は明るく笑い、叔母さんのほうは複雑に微笑してみせた。
「妙なことをおっしゃるのね。理屈のお好きなかたなのかしら」
 三人は笑った。
「なにを差し上げましょう」
「ハイボール」
「なにかおつまみは」
「チーズはありますか」
「あるわよ」
「では、一センチほどの厚さに切って、それをさらに小さなサイコロに切ってください」
「おつまみのこういう注文も、私は初めてだわ」
 半分は自分に向けて言うかのように、叔母さんという女性が静かに言った。カウンターの下にある小さな調理台で、彼女は手早くチーズを切った。それを小さな器に入れ、彼の手もとに差し出した。絵を描くことを仕事にしている彼の目に、その器はきわめて趣味の良い、美しいものだった。ほどなくハイボールが、その器のかたわらでコースターに載った。
「なにか飲みますか」
 彼の誘いに若い彼女は首を振った。彼は叔母さんに顔を向けた。
「私はいただこうかしら。おなじものを。夏の終わりのハイボール」
 叔母さんは彼の斜め前まで来た。若い彼女は二杯目のハイボールを作り始め、彼はグラスを手に取ってひと口だけ飲んだ。グラスを持ったまま彼は次のように言った。
「おもての道路を都電が走ってるでしょう。あの都電に僕はしばしば乗るのです。どちらが終点だか知りませんけれど、起点から終点まで、毎日のように乗ることもよくあります。その都電の窓から、いつもこの店の看板が見えていたのです。帰り道にいつか寄ってみようと思いながら、いつも停留所を過ぎてから、ああ、しまった、今日も気づくのが遅かった、と思ってばかりいたのです。そして今日、ついに、ふたつ手前の停留所で気づいて、すぐに席を立って、ドアの前までいって待っていた、というわけです」
「そうね。都電から看板は見えるわね」
「僕がいつも乗るのは、起点から終点までですから、一時間以上かかるのです。窓から沿線を見ていて、気になる店がいくつもあります。銭湯。焼き鳥の店。トンカツの店。古本屋。いろいろ入ってみましたよ。バーはここだけです」
「昼間は喫茶店なの」
「そうですか」
「始まりも喫茶店だったのよ。コーヒー豆販売のチェーン店のような。コーヒー豆を割引で卸してもらえて、いろいろと商売の知恵もつけてくれて、というようなチェーン店ね」
「異邦人というチェーンですか」
 叔母さんのハイボールをコースターに置きながら、若い彼女が笑った。
「店の名前は好きにつけていいのよ。なににしようか、いろいろ考えて、さっきのお話じゃないけれど、古本屋さんに入って本の題名を眺めて、異邦人にきめました」
「なんと読むのか、わからない人もいますよ」
「きっとね。あまり変な人に来てはもらいたくないし。ちょっとだけ気取って。路傍の石なんて、いいかなとも思ったのよ」
 叔母さんはハイボールを飲んだ。彼も飲んだ。そしてチーズのサイコロをひとつ、口に入れた。
「マゾッホも、いいと思ったの。サドマゾのマゾなんですってね、知らなかったわ。帰路、というのも覚えてるわ。それから、空?」
「それも読めない人はたくさんいますよ。そらぜみ」
 叔母さんは笑った。相手をじっくりと取り囲むような叔母さんの魅力と、若いほうの彼女の魅力とのあいだに、姻戚的なつながりはあるのだろうか、などと彼は思った。
「残りの雪。これもいいわね。ほかに覚えているのは、散華。これも読めないかしら。散る華、という読みかたにしてもいいのね」
「昼間は喫茶店なら、僕は昼間に来てもよかったわけですね」
「でも昼間には、美樹子はいないのよ。お勤めだから。夜はバーにしてから、もう五年になるわ。東京オリンピックの二年前からだから。お客さんは、美樹子とおなじくらいのお歳かしら」
 叔母さんにそう訊かれて、
「僕は二十七歳の中原啓介です」
 と、彼は答えた。
「美樹子のひとつ上だわ。私は千鶴子といって、美樹ちゃんのお母さんの妹。鶴はいいとしても、千羽はいらないのよ、私としては。いらないというなら、半分もいらないわね」
 そう言って彼女は笑った。
 九月第三週の金曜日、長く続いた残暑を終わらせる冷たい雨の夜、しばしば乗る都電から看板だけはいつも見ていた異邦人というバーそして喫茶店を、中原啓介はこんなふうに初めて体験した。
 ドアを入るとすぐ左に小さな窓があり、その窓に寄せてふたり用の丸いテーブルがあった。窓に向き合っている椅子のすぐうしろから、カウンターが店の奥に向けて、まっすぐにのびていた。カウンターの向かい側には、煉瓦の壁に沿って四人用のテーブル席が三つならんでいた。店の奥にも多少のスペースがあり、そこでは低いテーブルをソファが四方から囲んでいた。
 次の週の後半にも、前の週とまったくおなじように、仕事の帰りに都電を降りて、中原は異邦人に寄った。酒の味はわかるけれど、飲む人ではない。ハイボールなら二杯が限度だ。時間をかけたとしても三杯までだ。いつも乗る都電から眺めていて、気になる店には立ち寄ってみるという習慣の延長として、そして店の雰囲気や居心地の良さ、さらには千鶴子との会話の楽しさ、美樹子の怜悧そうな美人ぶりなどを理由として、一週間を経ずして彼は二度目の客となった。店の奥のソファに、地元の人たちらしい年配の男たちが何人かいて、和服の千鶴子は彼らの相手をしていた。中原が帰るまで、カウンターの客は彼ひとりだった。
「今日も都電を降りたの?」
 ハイボールを作りながら美樹子が訊いた。
「そうです」
「お仕事の帰り?」
「そうです」
「昼間の喫茶店のときも、なかなかいいものよ」
「それは僕も思っています」
「土曜日の午後、ふと来てみることがあるのよ」
「美樹子さんがですか」
「そうよ」
「そのとき僕も来れば、ふたりは客どうしですね」
「それもいいわね」
 昼間は地味な会社に勤めて経理の仕事をしている、と美樹子は言った。高校を出たあと簿記の学校に通い、そこを卒業していまの会社に入ったという。
「父親の昔からの知り合いの人が、その会社の重役のひとりなのよ。ちょうど経理に空きがあって、私が雇われることになったの。平凡なお勤め。でもいまは、ちょっとだけ憂鬱なことがあるのよ」
「それはなにですか」
 という中原の質問に、美樹子は笑って答えなかった。そのかわりに、
「お仕事は会社に勤めてるの?」
 と、中原に訊いた。
「都電で僕が通っていくのは、出版社なのです。ほとんど社員みたいに通いつめることもありますけど、社員ではないのです」
「どんなお仕事なの?」
「絵を描くのです」
「雑誌の挿絵とか」
「それもあります。絵が必要なら、それを僕が描くのです」
「どんな絵なのかしら」
「なんでも描きます」
「頼もしいわね。絵の勉強をなさったのね」
「美大はいちおう卒業しました」
「どんな絵なのか、見てみたいわ」
「今度、見せます」
「きっとよ」
 都電で中原が通う出版社は、数多くの雑誌を出版している。そのなかのひとつ、彼がしばしば挿絵を描く雑誌の編集デスクを務める三十代後半の男性を、中原は信頼していた。そのデスクに、今年の夏前にふと言われたひと言を、折りにふれて中原は思い出す。いまもそのときのひとつだった。「とにかく、きみ自身の本を一冊、まとめるといいね。絵はたいへんなものだし、文章もいけるのだから、どちらもフルに活用して、画文集かな。いまのきみのありったけを注いで。どんな絵を描くのですかと訊かれて、名刺がわりに差し出せるような。最初のステップは、うちやその他の出版社のいろんな仕事で、もう充分に踏んでるのだから、その次のステップだね」編集デスクは中原にそう言った。
「私もこの都電にいつも乗ってるのよ。勤めてる会社は、ここから四つ先の停留所で降りてすぐのところにあって、自宅は反対の方向に停留所の数で五つのとこなの。そしてその途中にこのお店があって。おなじ系統の都電で、往ったり来たりしてるわ」
「弟がいるでしょう」
 中原はそう言ってみた。
「あら、なぜ知ってるの?」
「あてずっぽうです。当たりましたか」
「まぐれ当たりね。工学系の大学にいってて、来年は卒業だわ。父親は公務員なの。夜はバーに勤めるなんて、絶対に許してくれないけれど、母の妹ということで、特別の例外なのよ」
「土曜日にこの店で落ち合って、都電で古本屋を何軒かまわり、銭湯に入ってから焼き鳥をふたりで食べませんか」
「そういうの、私も好きなのよ」
 美樹子は熱意を示した。
「また来ますから、そのときにでも、予定を作りましょう」
 三度目に異邦人へいく前に、中原は一点の絵を描いた。異邦人の入口の前に立っている、美樹子の全身像だ。横置きの画面の左端から順に、異邦人の看板、その脇の小さな窓、そして入口のドアがある。ドアから道へと出て来た位置に、美樹子がすっきりと立っている。ドアが彼女の左側にあり、そのドアに対して彼女は体をやや斜めにしている。彼女の背後には店の建物とそれに続く民家や商店のつらなりがあり、それが終わるとその向こうは並木のある道で、その道には都電が走っている。
 鉛筆一本でいっきに描き、水彩であっさりと色をつけただけの、しかしリアリズムと情緒との中間をいく、見事な出来ばえとなっていた。立ち姿の美しい美樹子は、微笑していた。彼女が視線を向けている相手に対して、安心しきって自分のすべてを委ねているような、その絵を見る人の気持ちをまず最初にとらえる、若い微笑だった。
 バーとしての異邦人は夕方の五時から開くという。いつもの出版社での仕事が早めに終わった中原は、六時過ぎに異邦人に入った。千鶴子が今日も着物でカウンターの外にいた。客はまだいなかった。
「あら。お早い」
「今晩は」
「お仕事は終わったの?」
「今日は早くに終わりました」
 客がほかにいないとき、千鶴子はあらわれた客をカウンターのまんなかのストゥールにすわらせる。中原はその位置にすわり、かたわらのストゥールに鞄を置いた。そして反対側に千鶴子がストゥールを背にして至近距離に立った。
「美樹ちゃんは、今日は休みなのよ」
「それは残念です」
「お見合いですって」
「ほんとですか」
 中原の言葉に思わず勢いが宿った。千鶴子は微笑した。
「勤めている会社の、経理の部長さんにぜひにと言われて、お見合いなのよ」
「はあ」
「断ることにきまってるから、心配しなくていいのよ」
「誰が心配するのですか」
「ハイボールにしましょうか」
「それとチーズも」
「小さなサイコロね」
「そうです」
 微笑のニュアンスを深めて、千鶴子は中原のかたわらを離れ、カウンターの奥までいき、なかに入った。
「美樹ちゃんは、ああ見えても、気の強いこなのよ。見合いなんかでは絶対に結婚しない、と言ってるわ。子供の頃はものすごいお転婆で。いまでも近所の人たちの語り草よ」
 ハイボールを作りながら千鶴子はそう言った。会社でちょっと憂鬱なことがある、と美樹子は言っていた。それは部長から来た見合いの話のことだったか、と中原は思った。
「お見合いの席は上野の精養軒ですって。想像すると笑えてくるのよ。フォークを引っ繰り返してご飯を載せて、澄ました顔して食べてるのかしら。甘く煮た付け合わせの人参とか」
 笑いながら中原に向きなおり、左手でコースター、そして右手でその上にハイボールを置いた。
「叔母さんは美樹子さんに似てるでしょうか」
 中原が言った。
「似てるとおっしゃるお客さんは、多いのよ」
「どこが似てますか。性格ですか」
「おなじようなところは、かならずあるはずよ。美樹の母の妹だから、私は」
「目もとが似てますね。笑ったとき」
「そうね。それは自分でも思うわ」
「見合いをして、断るのですね」
「そう。部長のあきらめが悪いから、とにかく見合いだけして、次の日には断ると言ってたわ」
「次の日とは、明日ですね」
「そうよ。会社には居づらくなるかな、とも言ってたわ。地味な会社だけど安定してて、そこで経理をやって信頼されてれば、この先さらに十年はそのままやれるのよ。その頃には、その会社の経理のヴェテランになってるでしょうし」
「でも、居づらくなるわけですね」
「美樹子はそう言ってるわ」
「だったら、辞めればいいのです」
「潮時というものかしら」
 中原はチーズをつまんで口に入れ、ハイボールを飲んだ。
「おもてを走ってる都電が、来年の秋には廃止になるのよ」
「そうなのですか」
「そうよ」
「知りませんでした」
「都電が廃止になって、線路をはがすのかしら。そして道路が拡幅されるの」
「カクフク」
「幅を広げることね。道路の幅」
「なるほど」
「こちら側の歩道に面してる家や商店が、ずらっと全部、立ち退きになるの」
「この店は、どうなのですか」
「広げた道路の歩道の内側に、この家の敷地の境界が、すれすれで重なるのですって」
「嫌ですね」
「そうなのよ。そのとおりなのよ。嫌だわ」
「店はどうするのですか」
「閉めようと思ってるわ。都電が走ってて、その停留所のすぐ近く、という立地で始めた店だから。都電の停留所があれば、人の通りはあるから商売はやっていける、という時代があったのよ」
「そしてそれは、なくなるのですね」
「というような話」
 千鶴子のその言葉が合図だったかのように、中年の男性客が三人連れで入って来た。カウンターの奥に彼らはならんですわった。
「見合いが終わったらここに寄るかもしれない、と美樹子は言ってたわ」
 カウンターの縁に体をつけ、中原に向けて少しだけ上体を傾けて、千鶴子はそう言った。
「僕はしばらくここにいます」
「ハイボールを作っておきましょうか」
「そうしてください」
 位置を変えた千鶴子は、三人の男客の相手をしながら、中原のハイボールを作った。それを彼の手もとに置き、カウンターの奥に戻った。
 しばらくして次の客が来た。中原とおなじような年齢の男性ひとりに、女性がふたりの三人連れだった。彼らは中原のすぐうしろのテーブル席についた。カウンターから出て来て、千鶴子は彼らの注文を聞いた。カウンターのなかで千鶴子は手際良く三人の飲み物を作った。そしてふたたびカウンターの外に出て、三人のテーブルに飲み物を置いた。カウンターのなかに戻ろうとする千鶴子を、中原は引きとめた。
 隣のストゥールから鞄を取り上げ、なかから書類ばさみを引き出した。厚紙を半分に折っただけの、A4の書類フォルダーだ。なかにはさんである絵を、中原は千鶴子に見せた。店の前に立って微笑している美樹子を描いた絵だ。
「これを」
 と、中原は言った。
「美樹子さんに渡してください」
 中原が持つその絵を、千鶴子はのぞき込んだ。
「この店の前だわ。そしてこれは美樹子よ」
「都電も走ってます」
「これをあなたがお描きになったの?」
「そうです」
「出版社で絵の仕事をしてるかた、とは美樹子から聞いてたけど。これはびっくりだわ、これほどの絵をお描きになるの?」
「これを美樹子さんに渡してください。どんな絵を描くのか、見たいと言ってましたので」
 千鶴子は棚の置き時計を見た。
「あと一時間もすれば、美樹子はここに来ると思うけど」
「僕はもう帰ります。渡しておいてください」
 と言った瞬間、中原には閃くものがあった。次のステップとしてとにかく自分の本を一冊作るべきだね、と言った編集デスクの言葉が、中原の頭のなかを走り抜けた。そしてそのあとに閃いたのが、作るべきだと自分でも思っているその一冊の本の、内容と方針だった。都電の本を作ればいい。自分がいつも起点から終点まで乗っている、おもての道路を走っている都電だ。来年の秋には廃止になるという。それまでに一年の時間がある。充分ではないか。この系統の都電を中心軸にし、都電の走る風景をさまざまに見つけてそれを描く。文章を添える。これまでに訪ねた店も描く。当然のこととしてこの異邦人もそのなかに入る。美樹子も加える。都電の走る風景のなかに、ここぞとばかりに、あるいはきわめてさりげなく、美樹子がいる。美樹子とともに都電に乗り、あちこち歩いて風景を探す。美樹子が会社勤めを辞めるなら、なおいっそう好都合ではないか。
 閃いたあとの、なぜかそのぶんだけ軽くなったような自分を意識しながら、中原はストゥールを降りた。支払いを済ませた彼を、千鶴子はドアまで送った。絵をはさんだ書類フォルダーを、彼女は胸に抱くように片手で押さえていた。
 店を出た彼はおもての道路に向けて歩いた。そして途中で立ちどまった。彼は店を振り返ってみた。なかに明かりの灯っている、異邦人の看板を見た。まず最初に描くのはこの看板のある風景だ、と彼は思った。この看板を中心とした、夜の風景だ。こちら側からではなく、向こう側から見た風景にすると、夜のなかの看板と、その向こうの道路をいく都電とを、ひとつの画面に収めることが出来る。千鶴子に託してきた美樹子の絵と、おなじような構図となる。そんなことを考えながら、彼はおもての道路へと歩いた。
 中原が乗った都電の四本あとに、美樹子が乗っていた。車体の後部ドアから彼女は停留所に降り、走り去るその都電を見送りつつ自動車を二台やり過ごし、歩道に向けて道路を渡った。夜のなかに明るい異邦人の看板の、淡い紫色とオレンジ色とが、いまの彼女には目にしみるようだった。
 店に客はいず、千鶴子だけがカウンターの外でストゥールにすわっていた。その隣にすわった美樹子に、
「お疲れさん」
 と、千鶴子は言った。
「明日、出勤したらすぐに、断る」
「そうしなさい」
「これでこの話はおしまい」
「でも会社は、無理に辞めることもないでしょう」
「様子を見るわ」
「なにか飲む?」
「今夜は必要ね。ハイボールを一杯だけ」
 美樹子の言葉を受けて、千鶴子はストゥールを降りた。
「チーズを小さなサイコロに切れと言う人が、今日も来たのよ」
「中原さん?」
「そうね」
 カウンターのなかに入った千鶴子は、中原から託された書類フォルダーを、美樹子の前に持って来た。美樹子の手もとにそれを平らに置き、
「これを預かったの。渡してくださいって」
「私に?」
「他に誰がいるの」
 千鶴子はハイボールを作り始め、美樹子はフォルダーを開いた。なかにはさんである絵を横位置に置き、美樹子はそれを見た。ハイボールが出来ても、美樹子は無言のままだった。
「なぜそんなにいつまでも黙ってるの?」
 叔母に優しく促されて、美樹子は顔を上げた。
「ここに描いてあるのは、私よ。このお店の前だわ」
「見ればわかるわね」
「こんなにいい絵を描く人なの?」
「そのようですよ」
 美樹子はハイボールを飲んだ。
「空想でここまで描けるものなの?」
 美樹子の質問に千鶴子は、
「空想かしら」
 と、答えた。
「こういう場面を、彼はまだ見てないのよ」
「あなたは何度か見てるでしょう。そこに描いてあるのは、まぎれもなく美樹子、あなたなのだから」
 美樹子はハイボールを飲み、絵に視線を戻した。その美樹子に千鶴子は次のように言った。
「あなたに対する彼の気持ちがよくあらわれてるのよ。私はそう思うわ。そこに描いてあるあなたの笑顔は、そのまま彼の気持ちなのね。その笑顔の、その視線で、あなたに自分を見てもらいたい、という気持ち。わかるかしら」
「わかるわよ」
「見合いの結果を断ってせいせいしたら、中原さんとつきあってごらんなさい。せっかくまだ独身なのだし。けっして悪いようにはならない、というのが叔母さんの意見なのよ。歳の功としての意見」
 絵を見つめ続ける美樹子に、あらためて品定めをするかのような視線を、千鶴子は向けた。
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もう痛くない彼女



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 山手線の日暮里駅の隣に京成日暮里駅がある。その京成に乗り換える。京成の電車で荒川区を隅田川に向けて横切る。町屋という駅で降りる。町屋一丁目の停留所でバスに乗り、尾竹橋の手前で降りる。歩いてもいい。「若いきみだ、歩くといいよ」と、この仕事を紹介してくれた加納英人という雑誌編集者は言っていた。
「尾竹橋公園の川上の隣、だから北東にあたるか、隅田川に敷地の裏を接して、玩具の製造工場とその事務所があるんだよ。倉庫もそこだったかな。優秀な工場でね、輸出用の高級な玩具を作ってる。その事務所へいって、宣伝庶務の大畑という男に会ってくれ。話はすべてつないであるから、会えばわかる」
 加納に言われたとおりの経路で、深町康祐はその工場を訪ねた。場所はすぐにわかった。道路に面して漠然とした入口があり、その入口にもっとも近い建物の壁に、玩具製造会社の名前がペンキでじかに書いてあった。敷地に入るとそこは入口とおなじように漠然とした空き地のようなスペースで、それを取り巻いていくつもの建物があった。必要に応じてひとつずつ建てていったらこうなった、という雰囲気が濃厚にあった。
 加納が言ったとおり敷地のすぐ裏は隅田川で、対岸には発電所の煙突が四本、おたがいに近接して高く立っていた。敷地のなかを歩いていく自分に向けて、四本の煙突が動いてくるような錯覚を深町はふと覚えた。
 空き地を囲んでひとつずつ無頓着に建てた建物のなかから、ここが事務所ではないかと思える建物を選び、彼はそれに向かって歩いた。ガラス戸のなかに見えるのは、雑然としているけれど事務所だった。彼はガラス戸を開き、なかに入ってうしろ手に戸を閉じた。かたわらに木製の短いカウンターがあり、ボール紙を三角の筒に折って「受付」と手書きしたものが、その上に置いてあった。カウンターにもっとも近い事務机では、制服を着た中年の女性が分厚い伝票の束を繰りながら、早い指の動きで算盤を入れていた。その指が止まるのを彼は待った。
 おなじ制服を着た若い女性がひとり、大部屋の奥から机のあいだを歩いて来た。彼女に目を向けた深町は、そのまま彼女に見とれた。ここになぜこんな美人がいるのか、と彼は思った。こんなきれいな女性がここでなにをしているのか。カウンターの少し手前で立ちどまった彼女は、微笑してまっすぐに彼を見た。そしてかすかに鼻にかかった、しかしはっきりした声で、
「深町さんでいらっしゃいますか」
 と訊ねた。
「そうです」
「お待ちしておりました。それではどうぞこちらへ」
 彼のかたわらまで歩いた彼女は、片手でガラス戸を示した。そしてそれを開き、先に外へ出た。深町が出るのを待ってガラス戸を閉じ、
「部長が兼任で別の建物におります」
 と言った。
 空き地を斜めに横切り、ふたつの建物のあいだを入り、その裏にある小さな建物に向かった。先を歩く彼女の、くるぶしやアキレス腱の周囲のきれいな造形が、じつに好ましく動く様子を彼は見ていた。この建物も入口はガラス戸だった。木製の階段を二段だけ上がり、ガラス戸を開いてなかに入り、彼女は深町を招き入れた。
 ここにはひとつの部署だけがあるように思えた。入ってすぐの片隅にソファと小さなテーブルがあった。応接のためのスペースだ。彼女はソファを片手で示した。
「どうぞおかけください。部長を呼んでまいります」
 そう言って彼女は部屋の奥へ歩いた。ソファにすわると彼の体は深く沈み込み、彼女の姿は見えなくなった。中年の男性とともに彼女は戻って来た。
「宣伝庶務の部長をしております杉浦です。こちらは深町さん」
 彼女がそう言い、ふたりの男性は挨拶を交わした。杉浦が名刺を出した。深町はいつもは名刺を持っていない。名刺を作って持っていけ、と加納に言われた。下北沢の名刺屋で作ったばかりの名刺を、彼は彼女と杉浦に渡した。彼女も名刺をくれた。ソファにすわって向き合い、
「お若いですね」
 と、杉浦は言った。
「こんなお若いかたとは」
「二十五です」
「今年、一九六五年、アメリカ向けのクリスマスのカタログに載せる絵なんですよ。製品ひとつにつき一枚ずつチラシを作って、それにはカラー写真と説明文が英語でつきます。その何枚ものチラシをひとまとめに収める、なんと言ったかね」
 と、杉浦は彼女に顔を向けた。
「フォルダーです」
「そう、そのフォルダー。書類ばさみのようなものですね。ふたつに開く。下が折り返してあって、そこにチラシを差しておくと下へ落ちない」
「よくわかります」
「そのフォルダーの表紙にあたる面に楽しげな絵をひとつ。もちろんカラーです。そしてフォルダーを開いたぜんたいに、おなじく楽しげな絵をひとつ。どちらもクリスマスの雰囲気で」
「はあ」
「設定はアメリカの日常生活ですよ。ごく普通の、中流とでも言いますか。お父さんがいてお母さんがいて、ときあたかもクリスマス、そして子供たちはプレゼントをもらって大喜び、そのプレゼントがうちで輸出している玩具であると、こういうことです」
「わかります」
「表紙は製品を主体にしてくださいよ。ショー・ウインドーに魅力的にならんでいる様子など、どうですか」
「いいですね」
「開いた二ページにあるのは、プレゼントをもらって喜んでいる子供たちの様子ですね」
「なるほど」
「描けますか」
「なんでも描けます」
 という深町の返答に、杉浦はほんの一瞬、不愉快そうな表情となった。しかしそれを苦笑へとつなげ、
「それは心強い。いいものが出来ればそれでいいのです」
 と言った。
「私からの説明はこれだけですね。アメリカ向けですから、まさにアメリカとして描いてくださいよ。いまのアメリカです」
「わかりました」
 杉浦は立ち上がった。
「では、あとはこちらの三崎くんが担当します。絵を描かれるときの参考用に、当社の輸出用の玩具を、一点ずつすべてお貸しします。貸与ですから仕事が終わったならお返しいただけるように」
「承知しました」
 杉浦はガラス戸を出ていった。彼女の名刺に印刷されている名前を深町は見た。三崎順子。彼女に戻した彼の視線を受けとめて、
「こちらにメモしておきました」
 と、彼女はメモ用紙を一枚、差し出した。受け取った彼は、丁寧な字でそこに書いてあることを読んだ。フォルダーのサイズ、下描きを見せていただく期日、納期、支払い期日、などだった。
「宣伝庶務部宛てに、納期月内の日付で請求書を出していただいて、翌々月の当社支払い期日に小切手でお支払いいたします。こちらまでご足労いただくことになりますけれど」
「わかりました」
「今年のクリスマス向けなのです。いまは四月の終わりですけど、六月じゅうにはフォルダーとチラシをアメリカへ発送しなくてはいけません」
「下描きは来週にでも」
「まあ、そんなに早くに」
「連絡します」
「私からも」
「玩具はたくさんありますの。今日は半分だけお持ちいただくとして、ただいま準備いたします」
 そう言って三崎順子は立ち上がった。ソファを離れながら彼を振り向き、
「よろしかったらご覧ください」
 と言った。一瞬の表情のなかを、清冽な色気が走り抜けるのを、彼は見た。頭のなかに常にあるスケッチ・ブックの白いページに、彼女のその顔を彼は描いてみた。部屋の奥へ歩く彼女の、背中や肩の線も、彼は架空のスケッチ・ブックのなかにとらえた。
 部屋のいちばん奥に大きな作業台があり、その上に大小さまざまなボール紙の箱が、いくつもあった。どれもブリキの玩具の入った箱だった。茶色の包装紙を広げた彼女は、その中央に玩具の箱を積み上げていった。幅は狭いが高さのある立方体へと、いくつもの箱が見事にまとまった。それを包装紙でくるみ、十文字に紐をかけた。驚くほどの手際の良さのなかで、じつに器用に彼女の手は動いた。
「どうぞ」
 と言われて彼はそれを持ってみた。思いのほか軽かった。プラスティックの持ち手を彼女は紐につけてくれた。
「もっとあるのよ。この次でいいわね。早くに必要でしたら、また取りにいらして」
 彼女といっしょに彼は建物を出た。道路へ出るところまで彼女は送ってくれた。彼が四歳年下の三崎順子と知り合ったいきさつは、以上のようだった。


 都電を停留所で降り、自動車の流れが途切れたのを確かめてから、道路の反対側へ渡る。そこから少しだけ左へ歩いたところに、都電の引込線がある。道路のまんなかの本線から離れた引込線は、道路の半分を斜めに横切り、歩道も断ち切ったのち、専用の軌道へと入っていく。この軌道の片側に、なぜか歩道が作ってある。石を敷きつめた文字どおり石畳の歩道だ。幅は狭いと言っていい。人は無理なくすれ違えるが、ふたりとも傘をさしている雨の日には、おたがいに傘の高さを変えなくてはいけない。傘をさした人がふたりならんで歩くのも窮屈だ。どちらかが傘をたたみ、相合い傘となる。  
 軌道の反対側は壁を接して建ちならぶ飲み屋の裏手だが、この引込線と歩道には風情がある。ひと頃は映画の撮影が頻繁におこなわれていた。
 この歩道を歩いていくと、軌道を横切る道に出る。その道のとおりに軌道を渡ると目の前にアーチがある。仲通り飲食店街、という文字を掲げたアーチだ。このアーチをくぐらず、アーチの手前を軌道に沿っていくと、ここにもならんでいる飲み屋やバーの列のなかに、ミロンガというバーがある。間口はドアだけのように見える、小さな店だ。
 平日の夕方、六時前に、深町康祐はこの店の前に立った。腕時計を見た。もういっぽうの手には鞄を下げていた。彼はいつもこの鞄を持っている。絵を描く人がポートフォリオを入れて歩くような、薄い鞄だ。店のドアは閉じられていた。歩み寄った彼はドアをノックした。中野江利子の声でなかから返事があった。彼はドアを開いた。
 美人そのものと言っていい中野江利子が、カウンターの外に立っていた。彼より五歳年上のちょうど三十歳だ。
「あら」
 というひと言、そしてそれにともなう表情や、ほんのちょっとした体の動きなど、美人のものでしかあり得ない様子に、いつ見ても深町は感銘に近いものを覚える。
「早すぎますか」
「そんなことないのよ」
 彼女はカウンターのなかに入った。白いシャツに灰色のスカート、細いヒールのある赤いサンダルという全身は、カウンターのすぐ向こうで上半身だけとなった。小さな赤いペンダントが、左右の鎖骨が出会うすぐ下で、シャツの白さと拮抗し、どちらにとっても安定を作り出していた。江利子の性格がここにそのまま出ている、と深町は思った。なにごとかが対立のなかで均衡して併存し、それが彼女にとってのエネルギーとなっている。
「おすわりなさいよ」
 カウンターの外にならぶストゥールを彼女は示した。彼はストゥールにすわった。鞄を隣の席に横たえた。
「今日は夏のような日だったわね。カルピスでもあげましょうか。あるのよ。買ってきたの。ふと飲みたくなって。季節なのね」
 江利子はカルピスの用意を始めた。彼女の体の作りとその動きを、いまはカウンターの外の彼だけが見ていた。
「加納さんは来るでしょうか」
「さあ」
 と、江利子は答えた。
「来るとすれば、一週間ぶりくらいね。来るわね、きっと。でも、七時過ぎよ。はしごの晩酌がうちから始まるの。加納さんになにか用なの?」
「紹介していただいた仕事のことで」
「絵の仕事?」
「そうです」
「どんな絵なの?」
「玩具の会社がアメリカ向けに作るクリスマスのカタログです」
「いいわねえ、絵が描けて。私は小学校一年生のときに目玉焼きを描いたら、それは水たまりかい、と先生に言われたのよ」
 ふたりは笑った。
 ふたつならべたコースターの上に、江利子はカルピスのグラスを置いた。
「ストローで飲みたい?」
「いいえ、このまま」
 ふたりはそれぞれにカルピスを飲んだ。
「ミロンガという店は神保町にもありますね」
「知ってるわ。いったこともあるのよ、何度か。タンゴのような音楽のリズムのことだ、と誰かに教えられたけど、そうではなくて、下町の心意気、というような意味なのですって。タンゴにあるわね。ミロンガの嘆き。ではなくて、ミロンガの泣くとき。嘆くのはバンドネオンだわ。ミロンガは泣くのよ。私のことかしら」
 隣の席から鞄を取り、深町はそれを膝の上に置いた。そしてジパーを開き、大きな封筒を取り出した。なかには分厚くなにか入っていた。
「ヨシオから預かりました。江利子さんの翻訳の原稿です。添削をすべて終えた、とヨシオは言ってました」
「あら、うれしい。電話をして催促しようと思ってたのよ」
 彼女は封筒を受け取った。そしてなかから原稿を引き出した。四百字詰めの原稿用紙で二百枚ほどあった。鉛筆できれいに書いた原稿に細長い付箋が何枚も貼ってあった。
「これでちょうど半分くらいなの。私の二冊目の翻訳。アメリカのミステリー。昨年に出した一冊目の評判が良くて、うかうかと引き受けたこの二冊目に、苦労してるのよ」
「ヨシオから伝言があるのですが」
「なにかしら」
「そのまま伝えていいですか」
「どうぞ」
「わからないところや間違えるところがこれだけあるなら、翻訳の仕事はやめたほうがいい、と伝えてくれと言われました」
「言うわねえ、あのこも。ちきしょうめ。でも、そのとおりよ。翻訳は二冊で終わり。あとは自分で小説を書くわ」
 そう言ってカルピスを飲み、彼女は自分の書いた原稿を見た。
「きちんと直してあるわね。あらあ、ここはこんな意味だったの」
 ひととおり見た彼女は、二百枚の原稿用紙をふたつに折り、封筒に戻した。
「ありがとう。ヨシオにも来るように言ってよ」
「ひとりでは来ないでしょう」
「なぜ?」
「人見知りするんです」
「私をいまも人見知りしてるの?」
「客に人見知りしたりするのです」
「連れて来て」
 江利子はカルピスのグラスの表面を指先で撫でた。
「ヨシオとは高校で同級だったと言ってたわね」
「そうです。いまでも友だちです」
「あなたとヨシオは似てるのよ。だから気が合って、友だちでいられるのよ」
「そうですか」
「そうよ。人のことをクールによく見てて、見抜くことが出来て、遠慮なくすぱっとなにか言うと、憎らしいほど正しくて」
「僕はそれほどでもないんです」
「似てるわ。でも、ヨシオの言うとおりよ。翻訳はもうやめにするわ。外国の商社の丸の内支社に勤めてたから英語は出来る、なんて思ったのは浅はかね。好評だった最初の翻訳は下訳があって、私はその日本語を直しただけだから。ひどい日本語だったわ。でも英語はほんとに出来るかたなんですって」
「江利子さんは小説を書きたいのですか」
「最初の翻訳を読んだ人たちが、文章がこれだけしっかりしてるなら、小説が書けるはずだなんて言うのよ。加納さんもそのひとり。それに彼は小説雑誌の人でしょう。私はすっかりその気なのよ。独身の私はいま三十歳よ。なんとかしなくてはいけないの。叔母は体が直ったらここに戻ると言ってるから、それまでは私が預かりながら、この一年か二年でスタートは切りたいわ」
「書けばいいんですよ」
「そうね。書けばいいのね。うちの新人賞に応募すれば、出来さえ良ければなんとかするよ、と加納さんは言うのよ。そんなことがあるのかしら。出来レースで勝ってもしょうがないけれど」
「加納さんの雑誌には、僕も挿絵を描いています」
「あなたはこれからずっと、挿絵を描く人なの?」
「なんでも描きます」
「若いとは言っても、もう二十代の後半でしょう。あっと言うまにいまの私の歳になるのよ。ずっと挿絵画家でいいの?」
「いろんな絵を描きます」
「画伯になってよ」
「これを描くんだときめて、ひとりでつきつめて描く、というタイプではないのです。いろんな人のいろんな注文に応えて、喜んでもらえれば」
「そういう人を、私は、便利屋だと思ってしまうのよ」
「新人賞を取ったら、僕に挿絵を描かせてください」
 江利子は美しく笑った。
「お抱えの挿絵画家ね。ヨシオはなにをしてるの?」
「よくわかりません」
「彼から基地の仕事を紹介してもらったとか言ってたわね」
「立川の米軍基地の、兵隊たちのクラブのような部屋の、壁画です。大きな殺風景な部屋で、ピアノやステージがあって、バンド演奏も出来るのですが、いつもはいくつものテーブルをスティール・パイプの折りたたみ椅子が囲んでいるという、そんな部屋です。ぐるっとほとんどひとまわりの壁面に、僕が壁画を描きました。プレイボーイという雑誌のプレイメイトの写真を参考にして、水着美人をいろんなポーズでずらっと派手に描いて、戦車や大砲を加え、関係している兵隊たちの顔も描いて、好評でした。俺も描いてくれ、と言ってる兵隊がいまでもいるそうです」
「ヨシオのあのリーゼントの頭は、なんとかならないかしら。頭の両サイドなんか、いつもポマードでべったりよ。自分ではあれでいかしてるつもりなの?」
「こうでもしないと、ねぎ坊主が弾けたような頭になる、とヨシオは言ってました」
 江利子は笑った。
「いいわよ、そのほうがいいわ。顔にも合ってるし」
 深町も笑った。
「そう言っておきます」
「私からの伝言。あの頭を女性は嫌うわよ。そう言っといて」
「江利子さんはどんな小説を書くのですか」
「貧乏小説にきまってるでしょう。貧乏ならよく知ってるし、貧乏って面白いのよ、次々にいろんなことがあって」
 三人連れの早い客が店に入って来た。なじみの男たちだった。店のなかは急ににぎやかになった。
「それでは僕は帰ります」
 そう言って深町はストゥールを降りた。
「加納さんには伝えておくわ。これからどこ? 近くにいるなら、あとで電話をくれてもいいのよ」
「今日はもう帰ります」
 鞄を持ってドアに向かう深町に、
「すまないねえ、追い出して」
 と、客のひとりが言った。
「お姉さんのお使いをしてくれたのよ」
 江利子がその客に言った。
 深町が店を出ていったあと、その男はカウンターのグラスを指さして言った。
「青年はなにを飲んだのだい」
「カルピスよ」
 江利子の返答に三人の男たちはどっと笑った。
「甘いねえ、そりゃあ甘い」
「初恋の味って言うほどだからね」
「こりゃあ、甘い」
 三人はさらに笑った。


 三崎順子から深町の自宅に電話があった。玩具の残りをお渡ししたい、という用件だった。新宿まで出るついでがあるので、その日に新宿でお会い出来れば、と順子は言った。
「大きな荷物になるでしょう」
「それほどでもありません」
「僕がうかがいますよ」
「用事がありますので、それと併せて、と思いました。絵の資料ですから、気になっておりました」
「ラフ・スケッチは出来てます」
「そうなのですか。こんなに早くに。ではぜひとも、そのことも併せまして」
 伊勢丹に用があり、その正面入口ならわかりやすくていい、と順子は言った。だからそこで待ち合わせることにした。ふたりは時間をきめた。
 その日、時間どおりにそこへいくと、三崎順子はすでに来ていた。先日とおなじ包装紙でくるみ、紐をかけた荷物が彼女のかたわらにあった。先日よりもサイズは大きいように思えた。
「これで全部なの」
 荷物を指さして彼女は言った。
「伝票を起こしたわけではないので、返却は必要ないと思うのよ。いただいときなさいよ」
「それもいいね。自宅にあるのは、すべて詳しく観察しました。良く出来た玩具ですね」
 待ち合わせの時間は夕食の時間でもあった。伊勢丹で用事を済ませたら中村屋でチキン・カレーを食べたい、と彼女は言った。
「一度だけ食べたことがあるの。とってもおいしくて、また食べたいと思っていて、なかなか機会がなくて。今日は食べたいわ」
「ではチキン・カレーを食べましょう」
「ここの呉服売り場に用があるの。母に頼まれた帯留を買うのよ。それだけ。つきあって。それともここで待っててくださる?」
 深町はつきあうことにした。荷物を持ち、彼女のかたわらを歩いた。エスカレーターで上がっていくのが好きだと彼女は言い、呉服売り場までエスカレーターを乗り継いだ。売り場の中年の店員とのやりとりを、深町は聞くともなく聞いて過ごした。彼女の母親が使う帯留ではなく、親戚の人への贈り物であり、どのような帯留なのか母親が細かく指定したようだ。店員との気さくなやりとりは要領が良く、無理なく積み重なっていく論理は的確な結論を引き出した。彼女は帯留を買うことが出来た。支払いをして包装してもらい、店員は彼女と深町をエスカレーターまで送った。
伊勢丹を出て中村屋へと向かった。そしてそこのレストランでチキン・カレーを食べた。その席で彼はラフ・スケッチを見せた。その出来ばえに順子は感嘆していた。
 中村屋を出て深町は順子をミロンガへ誘ってみた。順子は熱意を示した。
「いってみたいわ。どんなところかしら。新宿のバーなんて、初めてよ」
 ミロンガまでふたりは歩いた。彼女と肩をならべて歩くときの、自分の歩調との一致のなかに、知り合ってからこれでまだ二度である彼女という人の、奥行きのようなものを彼は感じた。ミロンガには男の先客がふたりいた。ひとりは小説雑誌の加納という編集者、そしてもうひとりは、加納とおなじ世界で仕事をしている飲み仲間だった。
 深町は順子を加納に紹介した。あの玩具製作会社の副社長として活躍している人が、加納の昔からの親しい知り合いだという。アメリカ向けのクリスマスのカタログの仕事は、加納から副社長を経由して、深町に依頼されたものだった。
「そうか、こんなきれいな人が担当なのか。それでもうおふたりはデートかい」
「今日はラフ・スケッチをいただきましたの」
「何度でも描いてもらうといいよ。そのたびにデートしてさ。カレー・ライスくらいおごってくれるよ」
 加納のその言葉に順子は声をあげて笑った。華やいだ明るい笑いかたにはくっきりとした輪郭があり、その輪郭は彼女の性格であると同時に、無理なく身についている人あしらいの巧みさでもあった。
「私たち、中村屋でカレー・ライスを食べて来たのです」
「きみは彼女におごってあげたか」
 加納が深町に言った。
「僕が支払いました」
「よし、よし」
「そうだ、加納さんに見せるものがあるのです」
 深町は鞄を開き、なかからスケッチ・ブックを取り出した。この鞄のなかにこれはいつでもかならず入れてあった。スケッチ・ブックを開き、はさんであった絵を取り出し、深町はそれを加納に差し出した。受け取った加納はそれを見た。そして、
「あー」
 と、語尾を長く引っぱった。
「あー。これはいい。これは、素晴らしい」
「江利子さんの花模様のシャツです」
「うーむ。四月のとても暑い日、この店の中野江利子はこのシャツを着てここにいた。ほら」
 その絵を加納はカウンターのなかの江利子に見せた。
「あのシャツだわ。しかも、シャツの下にあるのは、まさにこの私の体なのね」
「透視が出来てしまうからね、すぐれた画家という種類の人には。ちょうどこの位置だよ。正面のちょっと左にずれたところに江利子がいて、ほら、うしろの棚にジョニ黒の瓶がある」
 加納の言うとおり、この店のカウンターのなか、いま江利子が立っている位置に、四月のある日、花模様のシャツを着て、おなじ江利子が立っていた。カウンターとその上に置いた彼女の右腕、そして花模様のシャツの胴から胸、そして肩にいたるまでが、深町の描いた絵のなかにあった。シャツの花模様に、美しくはかなく、彩色がほどこしてあった。
「自分で見ると、よけいに自分の体を感じるわね。このシャツを着ている、この自分の体」
「美人の体が持つ、秘密の量感というか奥行きと呼ぶべきか、そういうものを確かに感じるね。目で絵を見ているだけなのに、体を接し合わせて感じ取っているような」
 そう言ってかたわらの飲み仲間にその絵を見せた加納は、いきさつを説明した。
「江利子がこのシャツを着てここにいた夜、俺は例によってここで晩酌を始めて、作家の北村雄二郎がいっしょにいた。花模様のシャツの、俺たちには手の届かない美しさや、それが江利子によく似合う様子などが話題になってね。そこへこの深町画伯があらわれて、深町くんもおなじ思いを共有してくれたのだろう、こんな絵を描いてくれたというわけさ。そして北村はさすがに作家だね、花模様のシャツをさっそくネタにして短編を書いて、うちの雑誌の今月号に掲載されてるよ。挿絵は深町画伯に依頼すべきだった。ついうっかりしてしまった」
「今月号のあの短編かい」
 飲み仲間が訊いた。
「読んだか」
「いや、まだだけど」
「なんと言うこともない話になってるんだけど、引き込まれて読んでしまう。作家の腕だね。北村自身とおぼしき中年の作家がいてね、若い愛人がきれいな花模様の半袖のシャツを着てるんだよ。あまりにも良く似合っているから、脱いでほしくない、と彼は思う。その思いを彼女に伝える。だから彼女は、情交を交わす段になっても、そのシャツだけは脱がないんだ。情交は終わり、午後の時間が夕暮れへと移っていくほの暗い部屋のなかで、花模様の半袖シャツ一枚の彼女がベッドから立ち上がり、髪を両手でときつけながら窓へ歩き、ブラインドを指先で開いて外を見て、降って来たわ、と言うような場面が巧みに書いてあって、花模様のシャツがさらに似合うという、そんな短編だよ」
「読みたいわ」
「江利子には送ってあるよ。もう届く。そして中野江利子も早く小説を書けよ」
 加納は絵を深町に返した。
「この絵は、いい」
 加納の晩酌はすでに始まっていて、彼はほろ酔いの段階に達していた。
「あげます」
 深町はその絵を江利子に差し出した。江利子は受け取った。
「まあ、うれしい。額に入れて飾るわ。早く有名な絵描きさんになってよ。これが高値を呼ぶような、画伯の先生に」
 自分はもう帰る時間だと順子は言い、深町も彼女と店を出ることにした。
「駅まで送ってあげて。そして戻って来て。あなたもまたいらしてね。ひとりでも入れる気楽な店なのよ」
 深町は順子と駅まで歩いた。
「面白い人たちなのね。それに、素敵な女性。小説を書くかたなの?」
「書く、と言っている人。きっと書く、と僕は思う」
「いただいたラフ・スケッチを部長に見せます。意見があるかもしれませんから、連絡するわ」
「僕も電話をします」
「ご足労いただくことになるかもしれないわね」
「いきますよ」
「そしたらまた会えるわね」
 駅で彼女と別れ、深町はミロンガへ戻った。加納がひとりでカウンターの手前にいて、奥に男のふたり連れがいた。深町は加納の隣にすわった。
「玩具会社の事務に、あんなにきれいなこがいるのかい」
 加納の言葉に深町はうなずいた。
「僕もびっくりしました。高校を出て普通に就職して、最初は組み立てラインにいたと言ってました。旅客機の玩具に主翼を取りつけたり」
「若いのに色気がある。たくさんスケッチしておくといいよ、深町くん。いまちょっと、彼女を描いてみてくれないか」
 加納の求めに深町は鞄からスケッチ・ブックを取り出した。新しいページを開き、鉛筆をカウンターに置いた。
「あぶな絵を見たいね、彼女をモデルにして」
「あぶな絵って、なんですか」
「知らないか」
「知りません」
「部屋に布団が敷いてあってさ。女の人がそこに裸で横たわっていて、その上に男が覆いかぶさって、ふたりでやるべきことをやっている様子を絵にしたものさ。彼女には和風が似合うよ。畳の部屋に布団を敷いてくれ。いつか僕が小説家をホテルの部屋に缶詰にしたとき、挿絵を描くためにきみが原稿を読みに来てくれただろう。あのときの和室のような、妖しい密室感のある、自己完結した和室。そこに布団が敷いてある。せんべい布団じゃないよ」
 加納の言うとおりに深町は描いた。一度だけだがその和室を見ているから、描くのは記憶を再現して絵として整理すればそれでよかった。
「うまいもんだねえ」
 かたわらからのぞき込みながら、加納が言った。
「布団のこちら側のかたわらに、裸の彼女。片膝をつかせようか。全身これ色気の風情、という雰囲気で」
 深町は描いていった。加納が見守り、江利子がカウンターの内側から上半身をのばした。
「その場でとっさに、これだけ注文に応えられるんだよ。才能としか言いようがないね、これは」
「逆さに見てても、順子さんにそっくりよ」
「こんなもんですか」
 絵はたちまち完成した。
「うはあ、これはいい。そっくりだねえ、見事にとらえたねえ」
 深町はそのページを切り取った。
「ではこれは加納さんにあげます」
 加納に差し出したその絵を、江利子が手を出して指先につまみ取った。
「駄目よ、加納さんにあげたら。なにに使われるか、わかったものではないわ」
 加納は笑った。
「小説の挿絵にしようか。花模様のブラウスを短編にしたあいつの、次の短編。この絵を見せて、話を作らせようか」
「自分で持ってなさい」
 指先につまんだままの絵を、江利子は深町に返した。深町の腕を引き寄せて、加納はなおもその絵を見た。
「よく見ると、やや不思議な状況だね、この絵は。畳の部屋に布団が敷いてあり、そのかたわらに丸裸で片膝をついているというあぶない状態なのに、なぜか彼女はうれしそうな笑顔だ。そしてその視線は、彼女よりもこちら側にいる人を、見ているね。誰だ、その人は。なにかを提案しているような、判定を求めているようなとも言える、期待のこもった目だ」
「そう言えばそうですね」
「ひょっとして彼女は、きみを見てるのか」
「こんな状況になるには、まだとても遠い関係ですから」
「しかし、きれいな人だよ。あれで二十一歳だって? しっかりした女性の色気だ。我がミロンガの江利子と、どこか通じるものがある」


 いただいたラフ・スケッチに会社は全面的に賛成している、という連絡が順子から深町のところにあった。だから深町は二点の絵を仕上げた。表紙の絵は、玩具店のショー・ウインドーに玩具が魅力的にならんでいる光景だった。それを男の子供が熱心に見ている。まだ小さい弟が、必死に背のびして、兄の視線をたどろうとしている。ふたりの背後に美しいアメリカのお母さんの姿が見えている。フォルダーを開いた見開きに使う絵は、クリスマスの日の家庭の居間だ。玩具店のウインドーを熱心に見ていた男のこが、ウインドーの棚にあった玩具のひとつをプレゼントにもらい、夢中になっている。大きな旅客機だ。幼い弟は兎のぬいぐるみをもらった。片方の耳でそのぬいぐるみを持った弟は、兄がかかげ持っている旅客機を見上げている。お父さんが絵の右側に、そしてお母さんが左側にいる。そして彼らの背後には、丁寧に飾りつけられたクリスマス・トゥリーが立っている。
 仕上げた絵を深町は順子の会社まで持っていった。文句なしに気に入りました、と部長の杉浦は言った。他に三人の男たちが、二点の絵を見た。出来ばえに彼らも感嘆していた。昨年は日系二世のデザイン事務所に依頼してひどい目にあった、という話を彼らは深町に聞かせた。絵を受け取ってもらい、その仕事はそこで完了した。
「アメリカを知らない我々が見ても、まさにこの絵はアメリカですけれど、なにか資料に当たられましたか」
 杉浦は深町にそんなふうに訊いた。
 高校で同級だったヨシオの父親は、カリフォルニア生まれの二世だ。彼の自宅へいくと、納戸のなかにアメリカの雑誌が山のようにあった。『ルック』や『サタデー・イーヴニング・ポスト』といった家庭雑誌だ。それらの雑誌をヨシオとふたりで点検し、ディテールを丹念に拾い集め、それらを深町は合成して自分の絵として仕上げた。玩具は借り受けた現物をどれもそのとおりに描いた。そのようなことを深町は杉浦に説明した。
「アメリカで配布されますからね。この絵は引き写しだ、と指摘されるような心配は、ないでしょうね」
「ありません」
「あなたの創作物と言い切れますね」
「そのとおりです。とんでもないかけ離れたあちこちからディテールを集め、それを僕の創作した場面のなかの、おなじく創作の人物に当てはめているだけです」
 男たちは引き上げ、順子と深町はふたりだけとなった。
「ほんとにありがとう。いい絵が出来てよかったわ」
 建物の外へ、順子は深町を送って出た。数歩だけ歩いたところで立ちどまり、
「あと一時間で就業時間は終わりなの。どこかで会えない?」
「いいですよ」
 北千住駅のすぐ近く、わかりやすい場所にある喫茶店の名を、彼女は深町に教えた。その場所を彼女は簡単に説明し、待ち合わせの時間をきめた。
「ミロンガは?」
「あれ以来、いってません」
「私、女の友だちと、いってみたの。新宿のバーへ自分でいくなんて、初めてで楽しかったわ。友だちも喜んでたの。江利子さんは私たちを歓迎してくださって。江利子さんって、素敵なかたね。二時間ほどお店にいたの。前半の一時間はお客さんが少なく静かで、江利子さんがいろんなお話をしてくださったわ。そして後半の一時間はお客さんが急に増えてにぎやかになって、それはそれでとっても楽しいのね」
「いつも楽しい店ですよ」
「それでは、のちほど」
 順子は事務所の建物へ引き返し、深町は玩具工場の敷地を出た。北千住の駅までいき、順子が指定した喫茶店を見つけ、そこに入った。すぐに彼女があらわれた。ふたり用のテーブルで差し向かいとなり、順子はソーダ水を注文した。
「あなたは絵描きさんになるの?」
 ストローをソーダ水のなかに入れながら、順子が訊いた。
「もうなってるわね。あれだけ巧いんですもの。でも、絵描きさんって、貧乏するんですって?」
「江利子さんがそう言ったのでしょう」
「そうよ。おっしゃってたわ」
「貧乏するかもしれません」
「でも私、貧乏はよく知ってるから、平気なのよ。よく知ってれば怖くないでしょう。柳原へ引っ越してからは安定してるけど、それ以前は長屋に住んだことだってあるし。学校へ持っていくおかねがなくて学校を休むとか、そんなことも経験してるのよ」
 ソーダ水を飲み終わるまで順子はそのような話をした。そして飲み終わると、
「夕食の時間よ」
 と、言った。
「いつもここまではバスで帰って来て、ここからは歩くのよ。駅の向こう側。柳原というところ。荒川の近く。赤羽に餃子のおいしい店があるの。でもそこはこの次にして、今日はうちで夕食になさったら?」
「お腹は空いてます」
「だったら、うちへいらっしゃいよ。母は誰が来ても驚く人ではないし。三軒隣がお惣菜屋さんで、揚げ物ならなんでもあって、どれもみなおいしいの。馬鈴薯のコロッケにメンチ・カツ、そして海老フライが、それぞれふたつずつもあれば、充分でしょう。野菜のお料理は母がかならず作ってるし、お汁があって漬物。白いご飯は母の自慢なのよ。茨城の実家がお米を送ってくださるの」
 彼女が段取りをきめ、そのとおりに行動すると、すべては滑らかに進展していく。そのことのなかにある居心地の良さをいまも感じながら、深町は彼女とともに喫茶店を出た。
 駅の東側は少しだけ不便なのだと彼女が言うその東側へ、ふたりはまわっていった。彼女と肩をならべて歩くときの、彼女から伝わってくる安定感のようなもの、そしてそれを受けとめる自分が彼女と分け合おうとすることによって明確となる、ふたりに共通したなにごとかを、深町は三崎順子の好ましい足音に感じた。
「母は家にいて、父は工場の職工なの。職人気質の人よ。班長ですって。これからは時代の大きな変わり目だから、なにかと大変なのだと、いつも言ってるわ。日本の人口がもうじき一億人になるんですって。妹がひとりいるわ」
 道幅の狭い商店街に入り、それを抜けきるまでいき、そこで道を渡り、民家がびっしりとならんでいる路地を右に左に曲がりながらいくと、角に街灯が立っていた。その明かりを正面に受けて精米店があり、その隣が惣菜の店だった。そこから三軒目の小さな二階建ての家が、彼女の自宅だった。玄関の戸は開けてあった。
「ただいま。お客さんよ」
 順子の声に奥から中年の女性が出て来た。奥と言ってもスペースはほとんどなく、どこでもないどこからか、ふと立ちあらわれたかのように、深町には思えた。上がってすぐ奥の部屋には卓袱台があり、食事の支度がしてあった。
「今日は間がいいねえ。おかずが余計にあるから」
「買ってこなくていい?」
「よほどの大食いなら別だけど」
 そう言って順子の母は深町に顔を向け、笑った。笑うと母親はどこかかすかに、順子と似ていた。
「手を洗うのはこちら」
 板の間の狭い台所から左に向けて、人がひとり体を斜めにすればとおれる隙間があり、その奥が洗面台、そしてその隣が便所だった。深町は洗面台で手を洗い、卓袱台のかたわらへ戻った。順子の母親が片手で曖昧に示したあたりに、深町は腰を下ろした。
「妹は塾へいってて、うちの人は碁会所。碁の会に三つも入ってて、毎日のように集まりがあるから」
 深町がどこの誰なのか娘に訊くこともなく、深町には名を訊ねることもせず、ずっと以前からの知り合いのように接する母親に、順子が持つ気さくさとおなじ質のものを、深町は感じた。
 深町のかたわらで卓袱台に向かってすわった順子は、
「碁は打てるの?」
 と、深町に訊いた。
「高校生のときには囲碁クラブのキャプテンで、大学でも囲碁クラブにいました」
「まあ、それはうってつけねえ」
 と純粋に感嘆し、
「お父さんは喜ぶわね」
 と、母親に言った。
「負かしてあげてくださいな。若い人に一度はぎゃふんと言わせてもらうと、家んなかの空気がすっきり入れ替わるから」
 そう言いながら母親は茶碗にお櫃からご飯をよそった。深町と順子は夕食を食べた。順子が言ったとおりの惣菜があり、どれもおいしいと深町は思った。出されたものは平らげ、ご飯はお代わりをした。玩具のカタログに深町が絵を描いたことなど、順子は母親にいろいろと喋った。深町に対してことさらに興味を示すわけではなく、かといってけっしておざなりでもない母親の対応のしかたにある感触は、深町にとっては珍しいものだった。ふたりの夕食はやがて終わった。
「お父さんはもっと遅くなるわね」
 順子は母親にそう確認して、
「そのへんまで送るわ。ついでにちょっと散歩をしましょうよ」
 と、深町に言った。
 深町は夕食の礼を述べ、ふたりは家を出た。ならんで建っているどの家のなかも、見ずにおこうと思っても見えてしまう路地を歩きながら、
「私が住んでるのは、こういうところよ」
 と、順子は言った。
 路地の右折や左折を繰り返し、大きくひとまわりして商店街の入口に出た。そこで順子は立ちどまった。
「さっき銭湯の前を歩いたでしょう。私はこれからそこでお風呂なの」
「僕も入ろうかな」
「ほんと?」
 と、順子は喜んだ。
「もちろんあなたは男湯に入るのよ」
「そうだろうね」
 ふたりは笑った。銭湯まで引き返した。
「私はいつもバッグのなかに手拭いと石鹸を入れてるの。会社で遅くなったときには、お風呂に入ってから家に帰るのよ」
「僕も入っていく」
「手拭いと石鹸はなかで売ってるわ」
「僕が先に出たら、ここで待ってる」
「私はちょっとゆっくり」
「どうぞ」
 ふたりは男湯と女湯とに別れた。
 深町が銭湯に入るのは久しぶりだった。勝手を忘れていてまごついたが、石鹸と手拭いを買ってなかに入り、銭湯の匂いと湯気に包まれると、彼の体の感覚は銭湯という場所にいっきになじんだ。
 かなり時間をかけて銭湯を楽しみ、髪まで洗って彼は脱衣所に戻った。隅にある体重計で体重を量り、固くしぼった手拭いで体を拭き、髪を乾かした。櫛と一回分のポマードをセットにしたものが、番台で売られているのを彼は発見した。ひとつ買ってみた。洗ってまだ乾ききっていない髪を、彼は櫛を使ってポマードでまとめた。彼の髪はいつもは坊ちゃん刈りを二十五歳なりに修正したようなスタイルだ。少しのびてくると床屋で短くしてもらう。ただそれだけの手のかからない髪形だ。ヨシオを真似してリーゼントのように整えてみた。鏡に映る自分に深町はひとりで笑った。外に出てしばらく待つと順子が出て来た。彼のポマードの髪を順子も笑った。
「違う人になったみたい。でもそのほうが、大人のように見えるわ」
「透明なビニールの小さな袋に、緑色のポマードが一回分だけ入っている。緑色がきれいだった」
「それをつけた髪も、よく見れば緑色なのかしら」
 商店街まで順子はいっしょに来た。
「お母さんに挨拶は?」
「いいわよ。その代わりに、ミロンガで江利子さんに聞いた話」
「なんですか」
「裸の私をとってもうまく描いてみせたのですって?」
 加納という雑誌編集者の求めに応じて描いたいきさつを、深町はかいつまんで説明した。
「それは江利子さんからうかがったわ。その絵を私にも見せて」
「見せていいものなら、見せますよ」
「見たいのよ。かならず見せて。今度の土曜日がいいわ」
「北千住まで来ましょうか」
「お昼をいっしょに食べましょうよ。またあそこのカレー・ライスがいいわ。カリーって言うのね」
 待ち合わせの時間と場所を、ふたりはきめた。
「私の裸の絵を持って来てね」
 順子の言葉に深町はうなずくほかなかった。
「きっとよ」


 店の奥、壁に沿ってならんでいるふたり用の席には、空席がいくつかあった。そのひとつに深町と順子は差し向かいにすわった。ふたりともチキン・カリーを注文した。
「絵を持って来てくださった?」
 テーブルの向こうで上体を彼に向けて傾け、順子が訊いた。
「持って来た」
 鞄から深町はスケッチ・ブックを取り出し、あいだにはさんだままのあの絵を抜き出した。そして順子に手渡した。壁に肩を寄せ、その方向に体を傾けて、順子は絵を見た。チキン・カリーが届くまで、順子は絵を見ていた。ウェイトレスがテーブルへ来ると、順子は絵を膝に伏せた。そして上体をのばし、なにごともないかのように澄ました表情となった。若いのにあれだけの色気、と加納は言った。その色気とは、一例としていまのような順子なのか、と深町は思った。ウェイトレスが下がってから、順子は伏せたままの絵を深町に返した。
「そっくりだわ。江利子さんがおっしゃってたとおり」
 順子は笑顔でそう言った。そしてチキン・カリーを食べ始めた。
「私の裸をあなたは見てないのに、よくこれだけそっくりに描けるわね。どこに秘訣があるの?」
「似てますか」
「そっくりよ」
「それは良かった」
「いつも、こうなの?」
「いつもとは?」
「見ないで描くの? それとも、見なくても描けるのかしら」
「見たほうがいいかな」
「見ないまま描いて、よく似ていて、絵は完成して、それでいいの?」
 彼女との会話がどこへたどり着くのか、まだ見当がつかないままに、深町は順子の食べかたにも気を取られていた。両手や顔の動きが端正で、食べかたはきれいだった。よく食べる人という印象がそこに重なると、彼女という人の元気さが、食べかたのぜんたいとして浮かび上がった。
「私は見なくてもいいの?」
「いまこうして見てるよ」
「裸の私。現実の、生身の、現物の私。しかも裸の」
「見ることが出来るなら」
「見せるわよ」
「見ますよ」
「見たら、どうなるのかしら。もう一度、描いたりするの?」
「描くにきまってます」
「では、描いて。見せるから。裸くらい、いくらでも見せるのよ」
 順子といまこうして向き合っている自分は、彼女によってあっけなく問いつめられ、追い込まれ、どこかへ囲い込まれた自分であるように、深町は感じた。
「いくらでも見せる、と私は言ってるのよ」
「見たいです」
「ホテルの部屋があの絵の背景として、ヒントになってるのですって? 江利子さんがおっしゃってたわ」
 加納に頼まれた挿絵の仕事でホテルの和室を訪ねたいきさつを、深町は説明した。
「そこで見せてあげる。そのホテルの、その部屋で」
「絵に現実を重ねるわけだ」
「いま、これから」
「なるほど」
 食事を終えてふたりは店を出た。店の入口のかたわらに赤電話があった。仕事に関係したあらゆる事柄を書きとめておく手帳を、深町は鞄から取り出した。たしかこの手帳の前のほうだと思いながら、彼はページを繰った。あのホテルの名や電話番号、そして部屋の番号まで、書いてあった。その番号に彼は電話をかけた。おなじ和室が空いているという。彼はその部屋を予約した。
 地下街へ降りていく階段の上で、順子は彼と腕を組んだ。ふたりは地下鉄に乗った。五つ目の駅で降り、地上に出ると道路の向かい側にそのホテルがあった。彼女はロビーのソファで待ち、彼がチェック・インして部屋の鍵を受け取った。ナイト・クラブの入口にエレヴェーターがあり、ふたりはそれで部屋のある階まで上がった。そして部屋に入った。
「不思議なお部屋なのね」
 空間のぜんたいを見渡しながら、順子が言った。彼女の言うとおりだった。畳の敷いてあるスペースは、縁側としか呼びようのない木製の縁に上がり、障子を開いたなかにあった。縁側をへて障子で仕切られたそのほぼ正方形のスペースは、部屋ぜんたいのおなじく正方形の広がりの奥に、“いれこ”となっていた。縁側と障子のある二辺は直角に交わり、その直角の角が部屋に入ると正面にあった。二辺のうちひとつはソファのある壁に面し、もうひとつはドレッサーや小さなデスクのある壁に面していた。深町は靴を脱いで縁側に上がり、障子を開いた。彼女も上がって来た。
「絵にあるとおりだわ」
 そう言って彼女はバッグから絵を取り出した。布団の敷いてある位置を、絵のなかの布団と突き合わせた。そして布団のかたわらへいき、そこにしゃがんで片膝をついた。
「こういうポーズなのね」
「そうだね」
「私、裸になるわ。障子の外に出て、障子を閉めて待ってて。どうぞ、と言ったら入って来ていいのよ」
 深町はそのとおりにした。待つほどもなく、
「どうぞ」
 という順子の声を、彼は障子ごしに受けとめた。障子を開いて彼はなかに入った。裸の彼女が布団のかたわらでさきほどとおなじポーズをとっていた。自分が絵に描いたのとおなじだ、と深町は思った。その彼に順子は絵を差し出した。
「くらべてみて」
 絵を受け取った彼は障子の近くまで下がった。そして順子を見た。
 布団のかたわらで片膝をついたポーズの順子の、自分を斜めに見上げる視線を彼は受けとめた。彼はかなりの衝撃を受けた。自分が絵に描いたのは、いまのこの彼女なのだ、という認識がもたらす衝撃だった。いま目の前にいる裸の彼女を、自分は予見してそれを絵に描いたのだろうか。彼女は誰かを見ている、と加納は言った。なにかを提案しているような、判定を求めているような、期待を込めた視線を、彼女は自分を見ている人に向けている、と加納は言った。彼女が見ているのはこの自分だ。ほんの戯れに描いた絵がいま目の前で現実となり、その現実のなかに自分もその身を置いている。
「どう?」
 順子のひと言に促されて、
「そっくりだ。絵とまったくおなじだ」
 と、深町は言った。
「この絵のなかできみはすぐそばにいる誰かを見ているけれど、それは僕だったのだ」
「見るだけでは済まないのよ。あなたも裸になって」
 そう言って順子はポーズを変えた。彼に背を向けた順子は、布団にさらに近いところで正座した。深町は障子を閉じた。そして服を脱いでいき、裸になり、どうしていいかわからないままに、彼女のかたわらで彼も正座した。順子は彼の腕に内側から自分の腕をからめ、彼の手を取ってその上にもういっぽうの手を重ねた。そして彼に顔を向けた。彼としては彼女に上体を向け、空いているほうの腕を彼女の肩にまわすほかなかった。
 裸のふたりはそのようにして抱き合い、すぐに布団の上に体を倒した。口づけや愛撫がひとしきり続いた。そのなかで彼女は仰向けとなり、脚を開いて両膝を立て、腰で彼を受けとめ、太腿の内側に彼を迎えた。
「私、初めてなのよ」
 いつもと変わらない口調で、しかし声は低く落として囁くように、順子は言った。
「だから本を読んだの。膜が裂けて血が出るんですって?」
 そのとおりになった。薄いけれども張りのある膜が、その一端からやや無理に裂けていくときの、その発端の感触を彼は感じると同時に、裂ける痛みにすくむ順子の全身をとおして、彼女が受けとめている痛みをなかば共有した。彼女の内部へさらに進もうとする自分を、止めなくてはと思いつつ止められない彼の腰に、順子は両手を当てて力を込めた。
「止めて。もうやめて、痛いの」
 切迫した囁きで動きを止められた彼の体は、彼女がほんのちょっとした動きに込めた意味を、正しく受けとめた。抜去してほしい、と彼女の体は言っていた。だから彼はそのとおりにし、彼女のかたわらに体を横たえなおした。
「ほんとに裂けたわ」
 囁く声でそう言い、なぜか順子は笑った。
「血が出てるのよ。感触でわかるわ」
 彼女は深町の腕のなかでのび上がった。脱いだ服がたたんであるあたりへ、仰向けにのけぞるようにして、手をのばした。その彼女を至近距離に見て、たいそう美しい、と彼は思った。彼女はハンカチを手に取り、その手を自分と彼とのあいだに滑り込ませた。そしてふたりはふたたび抱き合った。
「まだ勃起してるのね」
 順子が囁いた。
「読んだ本に書いてあったわ。痛くて途中でやめたら、彼の勃起に優しく手を添えて射精に導くのも、ふたりの心がひとつになる方法のひとつです、と書いてあったの。どんなふうにすればいいの?」
 そう囁いたあと、彼女はなぜかふたたび笑った。深町は順子を抱き寄せた。彼女の髪と頬に彼の顔が重なった。その香りと感触を、彼女そのものとして、彼は受けとめた。
「いまも痛いけれど、このくらいなら三日か四日で治るわ」


 四日後の祝日に江利子から深町の自宅に電話があった。
「翻訳の原稿がまた少したまったのよ。ヨシオに見てもらいたいのだけれど、連絡がつかないのよ。彼はいったい、どこにいてなにをしてるのかしら」
「いったん僕が受け取りましょうか」
「それでもいいわ。でも、使い立てしてしまうわね」
「いっこうに構いません」
「お店でもいいかしら」
「どこでも」
「お店はちょっと直すところがあって、人が入って工事してるのよ。午前中にほとんど終わると言ってるわ」
「午後三時くらいならいいですか」
「三時ね。店にいるわ」
 そして三時ちょうどに、深町はミロンガへいった。ドアは開いていた。なかに江利子がひとりでいた。彼女はカウンターを示した。原稿の入っているA4の封筒が斜めに置いてあった。
「これですね」
「電話してるのだけれど、ヨシオはまだつかまらないのよ」
「僕がかならず渡します」
「どこでなにをしてるのかしら。休みの日に引っぱり出して、ごめんなさいね」
 原稿の入った封筒を深町は鞄に入れた。
「順子さんがまた来てくれたのよ。友だちとふたりで。水曜日だったかな」
「聞いてます」
「あら、そう」
「二時間いて、後半はお客さんがたくさんいて、楽しかったと言ってました」
「カウンターに入ってもらったのよ。こういうところにどのくらい似合うか、試してみたくて。いい女性ね。あれだけきれいで、頭が良くて、よく気がついて。しかもいろんな人と話が出来て。たちまち人気だったわ。ここは順子さんに代わってもらいたいくらいよ。私は小説に専念して」
 彼女は店の奥へ歩いた。
「こっちへいらっしゃい」
 振り返って江利子は深町にそう言った。
 カウンターの奥の端まで、彼は歩いた。カウンターの縁に腰を軽くもたせかけて、江利子はまっすぐに立った。両腕を開き、
「ここへいらっしゃい」
 と江利子は言った。
 彼女のすぐ前に深町は立った。
「もっと近く。遠慮しなくていいのよ」
 彼の腰に片手をかけ、江利子は彼を引き寄せた。
「体を重ねて。ぴったりと」
 彼を両腕で抱き寄せた江利子は、顔をうしろに引いて彼を見た。
「僕のお嫁さんになる人に水商売はさせられない、とあなたの顔に書いてあるわよ」
 そう言った江利子は、ない、と平仮名で、深町の口もとに人さし指の先で書いた。
「抱いて。腕をまわして、しっかりと」
 両腕に江利子を抱き込むと、彼女の骨格の良さを彼ははっきりと感じた。シャツのすぐ下にある胸のふくらみは思いのほか固さをたたえていた。彼女の太腿の曲面を彼は自分の脚に受けとめた。その曲面には引き込まれる奥行きがあると同時に、撥ねのける反発力のようなものも充分にある、と彼は感じた。しっかり深く抱けと言われてそのとおりにしていると、やがて自分の体に伝わってくるのは、中野江利子という人の異性そのものの体の魅力だった。
「順子さんと結婚するの?」
 江利子が訊いた。
「そんなこと、まだなにもきめてませんよ。知り合ったばかりだし」
「順子さんは完全にその気よ」
 さらに深く彼を抱き寄せた江利子は、彼の肩に顔を軽く横たえ、
「残念だわ」
 と、小さな声で彼のうなじに言った。
「タッチの差だったわ。あなたを口説いて、あるいは誘って、体の関係を作って、私の体で発散することを覚えさせて、私の言うことを聞く人にしようかな、と思ってたのよ。いまの私は男はいらないけれど、あなたならいいわ。あなたが私に一途になるようだったら、私はそれに応えてもいいのだし。でも、ほんのちょっと、遅かったわね。急ぐことはない、なんて思ったのが失敗ね」
 抱き合ったままで江利子の言葉を彼は受けとめた。江利子の言葉が江利子そのものとして、体から体へ、直接に伝わってくるような錯覚があった。
「どう?」
「ヨシオがいいですよ」
 深町が言った。
「私にヨシオを押しつけるの?」
「ヨシオは江利子さんのような成熟した美人が好きです。たいへん妙な奴ですけれど、いい奴です。ひどいことはしません」
「そうね。そう言われると、ヨシオでもいいような気がしてくるわ。さっそく、誘ってみよう」
「僕からも言っておきましょうか」
「リーゼントのことを言っといてよ。嫌われるからそれはもうやめろ、と言って。ねぎ坊主のはじけたような髪をした、英語の出来る青年を、私の体になじませよう。楽しみだわ」
 そう言って笑った江利子は、
「あら、あなた」
 腰を彼に押しつけ、彼女は左右の太腿を前後に動かした。
「勃起してるの?」
 左右の太腿で彼女は交互にさぐった。彼は腰を引いた。
「駄目よ、逃げないで」
 彼の腰を両手で引き寄せ、それを自分の下腹で迎えた。
「立ってるわ」
「あたりまえですよ」
「なぜ?」
「江利子さんとこうすれば、誰だって立ちます」
「いくら立ててもいいけれど、順子さんに貧乏させたらいけないのよ」
「させません」
「絵描きは貧乏の代名詞ではなかったかしら」
「僕は違います」
「順子さんが所帯やつれしても、あれだけきれいなら、かえって色気が深まっていいかもしれないわね」
「僕は大丈夫です」
「今日はこれからどうするの?」
「もう自宅へ帰ります」
 今日は夕方から順子さんがうちへ遊びに来ます、という台詞を深町は頭のなかで言ってみた。ひとりの女性ゆえに、もうひとりの女性にうしろめたさのような気持ちを抱くという、彼にとっては初めての体験がそこにあった。
「帰ってヨシオをつかまえます。自宅はおたがいにすぐ近くなのです」
「ここへ来るように言っといて」
「僕はもう帰ります」
「残念ねえ、こんなに勃起してるのに。これをどうやって鎮めるの?」
「駅まで歩いていくあいだに、おさまります」
「鞄で前を隠して歩くといいわ」
 両腕から江利子は彼を解放した。彼は鞄を置いたところまで歩いた。江利子が店のドアを開き、彼は外へ出た。
「ヨシオに言っといて」
「かならず」
 江利子はいったんドアを閉じた。少しだけ間を置いて、彼女はドアを開いて外に出た。鞄を前に持って歩いていく深町を、
「康祐さん」
 と、声を可愛く張り上げて呼んだ。
 深町は振り返った。
「鞄がよく似合うわよ」
 それだけ言って江利子は店に入り、ドアを閉じた。
 順子と約束した時間ちょうどに、深町は下北沢の駅に着いた。小田急線の改札口を出て少しだけ離れたところに、順子はすでに来ていた。南口の階段を降り、商店街を抜けて彼の自宅まで、ふたりは歩いた。
 自宅には母親がいた。深町は一人っ子だ。父親は間もなく帰ってくるという。
「夕食のしたくを始めようかと思ってたとこなのよ。手伝って」
 丁寧に挨拶する順子に、深町の母親はそう言った。知り合った相手が気にいると、その瞬間から、ずっと昔から知っている親しい間柄のようになる。
「着物の着つけの専門家なんだよ。ひと頃は映画の撮影所で仕事をしていた。時代劇の」
 順子にそう言う息子の言葉にうなずきつつ、母親は二、三歩下がって順子の体のバランスを視線で読み取った。
「やはりいまの人ねえ。いきなり訪問着を着たりすると、おみやげのこけしさんのようになるわね。でも、珍しいタイプよ、あなたは。芸者の着つけが似合うわね。あとで着てみて。好きなのがあれば、あげますよ」
 そんなことを喋りながら、母親は順子を洗面室へ案内した。手を洗いながら、順子は訊いた。
「康祐さんの絵の才能は、お母さまからのものでしょうか」
「私は、からっきし。うちの人もおなじく。私の母なのよ。飛び越して遺伝したのね。絵がうまい人で、何度もいろんなところに入選して、絵を教える教室をずっと続けてたわ。絵がいくつか残ってるのよ。小学生の頃に康祐に見せたら、びっくり。ちょっと目を離してるあいだに見事に模写して。学校で使うクレヨンで画用紙に。しかも康祐のほうがうまいのよ。母は昔の人だから、クラシックなきっちりした絵を描くのね。康祐はいまの人だから、まるで違うのよ。しかも子供でしょう、自由なの。私にすらそれがはっきりわかったほどよ」
 息子自慢はそれで終わった。彼女は順子をキチンへ連れていき、エプロンを一枚取り出して順子に手渡した。
「これが似合うでしょう」
 順子がエプロンを身につけると、そこからいきなり食事のしたくが始まった。何重にも重なった作業を手際良く進めながら、的確に指示を出した。そしてそれに順子はよく応えた。夕食が食堂のテーブルに整う頃には、順子とのあいだには娘同然のつながりがあった。出来たものを順子が食卓にならべているところへ、深町があらわれた。テーブルのかたわらに立った彼とならび、
「今日は私はこちらに泊まれるのよ」
 と、順子は言った。
「お母さまが勧めてくださったの。空いてるお部屋があるんですって」
 そしてふと彼に体を寄せ、腕を触れ合わせて、
「私はもう痛くないのよ」
 と、囁く声でつけ加えた。
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いまはそれどころではない



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 改札口を抜けて目の前の階段を上がり、線路を越えて上りのプラットフォームへ階段を降りていく。駅に入って来た上りの電車が停止する寸前に、柴崎夏彦は階段を降りきった。プラットフォームは直線で前方にのびていた。なかばあたりまでは屋根があり、板壁と一体になって木製のベンチがあった。停止した電車から車掌が降りた。彼はドアを開いた。電車を待っていたのは、ベンチの手前にすわっていた女性ひとりだけだった。立ち上がった彼女は、いちばんうしろの車両の、まんなかあたりのドアに向けて歩いた。柴崎はおなじ車両の最後部のドアへと歩きながら、彼女の姿の良さや体の動きかたの美しさに目をとめた。前方の車両から数人の乗客が降りた。
 柴崎は車両に入った。午後の各駅停車は空いていた。自分とおなじ車両に入ったその女性が席にすわるのを、彼は見た。彼女の横顔にも惹かれるものが充分にあった。車掌は発車の合図を声に出し、ドアを閉じた。電車はゆっくりと発進した。彼女の姿や顔だちを、少しでいいから観察したいと、彼は反射的に思った。だから彼女のほうへ歩いていき、見るともなく彼女のぜんたいを見ながら、彼女の前をとおりすぎた。そして彼女が目を上げて彼を見た。
「あら、柴崎さん」
 そう言って彼女は軽やかに立ち上がった。吊り革に軽く片手をかけ、彼と向き合って立った。自分とほぼおなじ背丈をした、彫りの利いた顔の、全身に魅力のいきわたったこの女性が誰なのか、柴崎には考える時間が必要だった。そのあいだ彼女は、微笑を浮かべて彼を見ていた。高校の三年間、おなじクラスだった津田雄二という親友の母親だと、柴崎はやがて気づいた。
「お元気?」
 彼女が言った。
「津田はどうしてますか」
 微笑を返して柴崎が言った。
「あれから葉書一枚くれないのよ」
 津田と柴崎は昨年、それぞれに大学を出た。そして就職し、半年後に津田は大阪に転勤となった。昨年の秋に送別会を開き、柴崎は幹事のひとりだった。あれからとは、そのときのことだ。高校二年生の春に、柴崎は津田の母親に初めて会った。そのときこの女性は津田の姉なのだ、と彼は思った。昨年の送別会のときでも、おなじく姉だと思った。そしていまは、彼女が誰なのかしばらく思い出せなかった。津田の母親はそれほどに若く見える。柴崎は就職した会社を三か月で辞めた。それ以来、フリーランスのイラストレーターだ。
「津田は仕事が忙しいのでしょう」
 柴崎が言った。
「あなたは?」
「いまの僕はイラストレーターです」
 イラストレーターという言葉はまだ新しい言葉だった。
「雑誌その他に、いろんなイラストレーションを描くのです。挿絵のような」
 と、柴崎は説明した。
「あら、そうなの。絵を描く人だったのね」
 柴崎は次の下北沢で降りる。電車は減速を始めていた。
「僕はここで降ります」
「またお会いしたいわね。雄二からあなたになにか連絡があったら、私にも教えてね」
 親しさを込めた言いかたを、彼女の魅力の一部分として、柴崎は受けとめた。ドアまでいっしょに歩いた彼女は、車両を降りた彼に手を振った。そしてドアが閉じた。発進していく電車のドア・ガラスの向こうで、成熟したひとりの美人がきわめて親しく微笑しながら自分に手を振っている不思議さを感じながら、柴崎は軽くおじぎをした。最後部の車両は彼の前を走り去った。
 彼は井の頭線に乗り換えた。高校で三年間おなじクラスだった津田雄二のことを、彼は思った。あのような女性が彼の母親なのかと、あらためて認識すると同時に、柴崎は自分の母親のことを思い、ひとりで苦笑した。
 その日、快晴で気温の高い四月なかばの夕方、柴崎は渋谷でふたたび津田雄二の母親と偶然に出会った。国電の渋谷駅東口のターミナルで都電を降りた彼は、国電の下を抜けて北口へまわり、東横百貨店の前へと歩いた。たくさんの人がいろんな方向へと急ぎ足で歩くなかに、まるでここで待ち合わせでもしたかのように、くっきりと美しく際立った彼女が、自分に向けて歩いて来るのを彼は見た。
「あら、まあ、こんなところで」
 ふたりは向き合って立ちどまった。そしてそこからどうするのか、すべてを相手である自分に委ねている彼女の様子を、彼は受けとめた。
「今日は絵を描いたの?」
 彼の手を取りながら彼女が訊いた。
「絵のためのスケッチをしてきました。スケッチと観察です」
「なにをスケッチしたの?」
「都電です」
 行き交う人々の流れからはずれた場所へ、ふたりは移った。
「私は東横に用があったの。事務所長に頼まれた贈り物を発送して、もう帰るのよ。井の頭線に乗ろうとしてたの。あなたは?」
「餃子を食べようと思いました」
「餃子が好きなの? そしてそれは、夕食なのかしら」
「そうです」
「お寿司にしない?」
 自分に対してなされるほんのちょっとした小さな提案が、彼女の魅力の全開のように作用するのを、柴崎は不思議な気持ちで受けとめた。今日の午後早く、いつものあの駅で乗った電車のなかで彼女に感じたのと、おなじ質の不思議さだった。
「お寿司を食べたいな、と思ってたところなの。だけどひとりだし、早く帰ってお魚屋さんに寄れば、なにかあるかなと考えてたのよ」
「では、お寿司を食べましょう」
「お寿司でいいの?」
「食べたいです」
「百軒店のなかのお店」
 ふたりは歩き始めた。横断歩道で道を渡り、道玄坂に向かった。その坂を下って来た路面電車をやり過ごして向こう側へ渡り、道玄坂を上がっていき、やがて百軒店の坂を右へ入った。坂を上がりきって左へいき、ふと路地に入ったような場所にある寿司屋に、彼女は彼とともに入った。カウンターにならんですわり、
「まかせるから握って。ふたりおなじものを」
 と、若い職人に言った。
 主人らしき男性があらわれ、
「先日は所長がお見えに」
 と、挨拶した。
「ここは事務所でよく使うお店なの」
「なんの事務所ですか」
「私が働いてるとこ。会計事務所。私は会計士なのよ。若い頃は看護婦だったわ。いまから何年前かしら。国家総動員の頃よ。知ってる?」
「知識としては、なんとなく知ってます」
「勤労動員とか灯火管制。スフ、というものを、知らないでしょう。木綿の代用繊維。東京のバスが木炭を焚いて走って。そんな時代だから私もひとつかふたつ間違えば、大陸の花嫁ね。その東京ではオリンピックが予定されてたけれど、戦争で中止になって、それが今年ようやく、十月十日からですって」
「幼い頃の東京は、ごく淡く、記憶にあります」
「ずっと東京にいたの?」
「そうです」
「よく無事だったわね。うちの雄二とおなじ歳でしょう。あなたも大変なときに生まれたのよ。紀元二六〇〇年で、八紘一宇で、贅沢は敵だったのだから」
「空襲警報というのを知ってます」
「なんとか無事に生きのびて、いま私は四十三歳なの」
「若く見えますね。十歳以上、若く見えます」
「三十三歳?」
「もっと若いです。初めて会ったときには、津田のお姉さんだと思いました。こんなきれいなお姉さんがいて、うらやましいなと思ったのを、いまでも覚えてます。昨年の歓送会でも、お姉さんだと思いました」
「あれ以来ね。と言っても、半年ちょっとだわ」
 ふたりの前に握り寿司がならび始めた。小皿に醤油を注いでくれる彼女の手の動きを、彼は見た。
「早くに死別した夫の親友が会計事務所を主宰していて、幼子をかかえた私に、うちで働きませんか、と誘ってくれたのよ。漫然と事務をしてもしょうがないから、勉強して会計士になったの。今日のあなたは、都電をスケッチしたのですって? 今日はスケッチの日なの?」
 柴崎はいつも持っている鞄からスケッチ・ブックを取り出した。そして今日のスケッチの最初のページを開き、彼女に見せた。
「そこから最後のページまで、今日のスケッチです」
 受け取って彼女はスケッチを見た。次のページ、そしてさらにその次のページを開き、
「うまいのねえ」
 と、感嘆した。
「このうまさは、半端ではないわ」
 都電やその停留所がさまざまにスケッチしてある様子を、彼女はさらに見た。
「これは須田町でしょう」
「そうです」
「事務所の支所があるのよ。毎週のように見てる景色だわ。生き生きしてるのね。音が聞こえてくるような錯覚があるわ。鉛筆で描いてあるのに、今日の陽ざしが見えるような気がするし」
 スケッチの後半には女性が登場した。停留所に立っているうしろ姿や、都電に乗ろうとしてステップに片足をかけている様子など、彼女の部分が、そしてぜんたいが、さまざまに描いてあった。スケッチ・ブックの最後のページには、停留所で都電に乗ろうとしている彼女と、その都電の前部とをひとつの画面に取り込んで統合させたかたちで、スケッチとしてはひとまず完成した様子の絵があった。乗るときに片足を載せるステップが都電のドア口にある。停留所からそのステップまで、かなりの高さだ。乗ろうとしている女性は、脚を高く上げ、ステップに左足をかけている。左手で入口の手すりをつかんでいる。タイトぎみなスカートが、太腿のなかばあたりまで、たくし上げられている。ステップにかけた足に力を込め、ステップの上に自分を引き上げる寸前の状態だ。
「すごいわねえ。ありありと、まるで目の前にあるように。生きてるわよ、この女性のこのお尻や脚」
 柴崎のスケッチをそのように評価した彼女は、柴崎に顔を向けた。そして、
「この人、私に似てない?」
 と言った。
「わかりますか」
「似てるわ。私よりずっと若いけれど」
「駅で電車に乗るとき偶然に会った印象が強くて、それが自然に出てしまったのです。描き始めれば、あとはなにも考えずに手が動きますから」
「そんなに私の印象が強かったの?」
「そうです」
「二十七、八歳の頃の私は、まさにこんなだったわ。服装はまるで違うけれど。こういう絵を、あなたは仕事で描くのね」
「雑誌の編集者に頼まれたのです。小説の挿絵だそうです。都電に乗ろうとしている瞬間の、二十代後半のきれいな女性を描いてくれ、という注文です」
「しかし、見事なものね。これで完成なの?」
「それはスケッチです。これからいろいろ考えて、画面も女性も構成しなおします」
「いまにも動きそう。もっと私に似せて」
 隣の席から柴崎の顔をのぞき込むようにして、彼女は言った。
「そうしてもいいですか」
「お願い。小説の挿絵のなかに自分がいるなんて、面白いわ。いったいどうすれば、これだけ似るものなの?」
 彼女の問いに若い柴崎は次のように答えた。
「顔にしろ体にしろ、きれいな人を描くのは簡単なのです」
「どうして?」
「ルールどおりでいいのですから。きれいな人のかたちには、法則があるのです」
「その法則をはずれると、おへちゃやおかめになるのね」
「そうです」
「クールに言いきるのね」
 握り寿司をさらに食べてお茶を飲み、彼女の質問は別な方向に向かった。
「本格的な絵は描かないの? 額縁に収まった油絵のような」
「描きます」
「楽しみだわ。時間に束縛されなくていいわね。自由なのね」
「自由には厳しいルールがあるんだ、と父親はいつも言ってます」
「お父さまはなにをなさってるの?」
「学者です。本来は日本の近現代史なのですが、いまはドイツにいます。サバティカルといって、一年間の休暇です。それが終わったら、そのままドイツに留まるでしょう。仕上げはドイツだと言ってましたから、帰っては来ないはずです」
「お母さまは?」
「絵を描く人です。女子大で教えたりしてました。ヨーロッパに住めるというので、喜んで父親についていきました」
「あなたはひとりなの?」
「独身です。子供は僕ひとりで、僕が家にいます」
「いつも電車に乗るのは、今日のあの駅からなの?」
「そうです」
「私は祖師谷大蔵なの。家を見にいったのよ。私がひとりで住む家。信用の出来る不動産屋さんを知人に紹介してもらって、売りに出るかもしれないという家を、場所だけでも見ておこうと思って、見にいったの。場所はいいし、家は素敵だったわ。小ぢんまりしてて。ひょっとして、あなたの家の近くかしら。間取り図をもらってあるのよ」
 バッグを開いた彼女は、四つに折りたたんだ紙を取り出し、広げて彼に差し出した。ひと目見た彼は、
「父親の所有する土地と建物です」
 と言った。
「まさか」
「お話を聞いていて、そうかな、と思いました」
「表札は出てなかったわ。どなたも住んでないという話だったし」
「父親の先輩にあたる教授が、奥さんとふたりで住んでいたのです。退官して四国へ移り、頼まれて父が買い取りました。僕が使ったりしてます」
「驚くわねえ。こういうのを、ほんとの偶然と言うのかしら」
 彼から受け取った間取りの紙を、彼女はバッグのなかに戻した。
「住みやすい家ですよ」
「売っていただけるかしら」
「買い取ってまだ五年たっていませんから、どうかなとは思いますけど、不動産屋さんに話がいってるなら、売らないというわけでもないのでしょう」
「私が買えますように」
「父親に伝えておきます」
「実家はあのお家の近くなの?」
「早足で歩いて、二分ほどのところです。おなじ道に面しているのですが、あの家とは反対側です」
 これでひととおりですと職人に言われて、彼だけはさらに二種類食べて、早めの夕食は終わりとなった。お茶を飲んでいると客が増え始めた。彼女が支払いをしてふたりは店を出た。春の夜が始まろうとしていた。その時刻にふさわしい感触と香りの空気が、昼間とは別の世界をふたりの周囲に作った。
「神泉から井の頭線に乗って、下北沢で乗り換えませんか」
 彼が提案し、
「それもいいわね」
 と、彼女が応じた。
 ふたりは丸山町へ入っていった。料亭と旅館のならぶ、ほどよく幅の狭い道がどの方向にも静かにあり、角を曲がるそのたびに、人目を忍ぶような雰囲気が少しずつ高まった。そして彼は道に迷った。確かこちらだったと思う方向へ歩くと、迷い道のさらに奥へと入っていくような気がした。だから途中で右や左に方向を変えると、さらにわからなくなった。
 腕を組んで寄り添ったふたり連れと、何組もすれ違った。すれ違うときにはきまって女性のほうが顔を伏せた。そしてどのふたり連れも、旅荘あるいはホテルなどと看板の出ている建物の、目立たない入口へふと入っては姿を消した。
「僕たちは道に迷ってます」
「そのようね」
「確かこっちなのですが」
「面白い地形なのよ。迷うとぐるぐるまわるようになっていて、坂や階段が多いでしょう、だから下ったり上がったりでも迷うし。さっき歩いたのはあの道よ、きっと」
 斜め頭上の高台の縁にある小径を、彼女は指さした。
「神泉の駅は低いところにあったと思うわ。だから低いほうへと、降りていきましょうよ」
 彼女のその提案は、さらに迷うきっかけとなった。街灯のある角を曲がると、その明かりの届く向こうにある旅荘の入口へ、ふたり連れが入っていくところだった。
「私たちも、どこかへ入ろうとしてるふたり連れに見えるわよ」
「どこかに入りましょうか」 
「私でいいの?」
「入ってみましょう。道に迷ってるより、そのほうがいいかもしれません」
 彼女は彼と腕を組み、体を寄せた。
「ここでいいですか」
 歩いていく道のなかばにある旅荘の入口を、彼は片手で示した。
「入っていくところを、私たちも誰かに見せたいわね」
 彼は立ちどまった。腕を深く組みなおす彼女を、彼は抱き寄せた。上体を彼に預けた彼女は、
「ほら、来るわよ」
 と、囁いた。
 ふたりが歩いて来たのとおなじ方向から、ふたり連れが寄り添って歩いて来た。彼らが充分に近づいてから、彼女は彼から体を離し、彼の腕を引いて促しつつ、自分から旅荘の入口に向けて歩んだ。背後をふたり連れが歩いていくのを感じながら、両側に植え込みのある飛び石を微妙な曲線のままにいくと、ガラスの自動ドアが開いた。なかに入ったふたりを女性の従業員が迎えた。ご休憩でございますかと訊かれ、そうですと彼が答え、靴を脱いだふたりは、廊下を先へいく従業員のあとを歩いた。
 彼と腕を組み、その手を握り込み、
「私、なにをしてるのかしら」
 と、切迫した声で彼女が言った。
 ふたりは部屋にとおされた。
「お茶をお持ちいたします」
 そう言って従業員は部屋を出た。
 入ったところに立ったまま、
「こんなこと、初めてよ。私、いったい、なにをしてるの?」
 と、彼女は繰り返した。
 彼は彼女を抱きとめた。彼女も彼を抱き寄せ、
「私たち、こんなところで抱き合ってるのよ。これでいいの?」
 と、夢中で彼に訊いた。
「僕たちもどこかへ入ってみましょうかなんて、半分はとっさに口をついて出た冗談でしょう」
「今日はこういう日なのです」
 というのが彼の返答だった。
「今日がこういう日なら、私はこういう女よ。よくって?」
「だいじょうぶです」
「抱いて。名前を呼んで。美枝子よ」
 ふたりは限度いっぱいに深く抱き合った。
「名前を呼んで」
「美枝子さん」
「美枝子さんではなくて、ただの美枝子よ」
 ドアにノックがあり、そのドアはすぐに開き、お茶を用意した盆を持って、さきほどの従業員がドアの外に立っていた。彼女の目の前でふたりは抱き合っていた。ふたりは体を離した。手は取り合ったままそこに立ち、従業員がテーブルにお茶を置いて立ち去るのを見守った。
 彼がドアをロックし、その彼の手を引いて、美枝子は奥の部屋の襖の前まで歩いた。彼女は襖を開いた。部屋のスペースほぼいっぱいに布団が敷いてあった。彼を促してその部屋に入り、美枝子はうしろ手に襖を閉じた。部屋のなかはほの暗くなった。ふたりは抱き合い、ひとしきり口づけを交わした。愛撫のためには服が邪魔だった。だからふたりは服を脱いだ。裸で抱き合い、布団に倒れ込み、
「名前を呼んで、名前を呼んで」
 と、囁く声で繰り返す美枝子に、彼は体を重ねた。
「今日はなんという日でしょう」
 彼女は感嘆した。
「こんなこと、夫以外では、体験してないのよ。ほとんど二十五年ぶりだわ」
「誘惑は多くありませんか」
 彼が訊いた。
「どういう意味?」
「これだけきれいな人なら、なんとかしようと男は思うのです」
「街を歩いてて声をかけられるのは、しょっちゅうよ。どの人もほんとに無礼で失礼で、キャーッと金切り声を上げるのを防御策にしてた時期もあったわ。知ってる人を介していろんな話が持ち込まれて、これまたろくな話ではないのよ。相手の男というのは、私と同年齢か年上でしょう。世間に首までどっぷりつかって、いろんな事情をかかえてる中年や初老の男たちと、いったいなにをしろと言いたいのかしら。ひとまわりも年上の人の後妻に入らないかとか、ひと月にこれだけで囲われてみないか、けっして悪いようにはしないはずだからとか、とんでもない、まっぴらだわ」
「嫌ですね」
「でもあなたならいいのよ。だからいまここでこうしてるのね。十九歳も年下で、知らない関係ではなくて、ご両親は外国で、ひとりっ子のひとり暮らしで、時間に束縛されてなくて。坊ちゃん刈りの頭が少しだけ歳を取ってて、可愛いのよ」
「二十四歳です」
「まだ子供ね。肌なんかこんなにつるつる。でも、それほど子供でもなくて、面白いわ」
「スケッチに加えて、神保町で古本屋をめぐり、喫茶店でコーヒーを飲み、ついでに出版社を三つまわって、どこでも仕事をもらいました」
「私とは一日に二度も偶然に会って、いまはこんなことをしてるのよ」
 そして美枝子は囁いた。
「名前を呼んで。いらっしゃい、私に入ってらっしゃい」


 四日後の土曜日は朝から雨だった。約束したとおり、午後三時に美枝子が訪ねてきた。美枝子が買いたいという、もう一軒の家のほうだ。彼女のオリーヴ色の半袖のシャツ・ドレスは、一列にならんだボタンで前あきだった。共布のベルトを結んでいた。大きな黒いこうもり傘をたたみ、玄関わきの壺に入れた。彼女は玄関のなかに入りドアを閉じた。ヒールのあるサンダルのストラップを、軽く腰を落としてはずした。
「足は濡れてるのよ」
「かまいません」
「外からしばらく見てたの。素敵な家ね。庭がよく考えてあるわ。ここに住めるかもしれないと思うと、胸がどきどきしてくるわ」
「父親には手紙を出しました」
「うれしいわ」
 柴崎の腕に美枝子は指を添えた。その手を彼が取ると、ふたりはおたがいを抱き寄せ、彼は美枝子の名を彼女の耳のなかに呼び、シャツ・ドレスの下の彼女の全身が、彼の求めに応じた。
「こうなるにきまってると思ったわ」
 両肩を抱かれたまま、美枝子は指先でベルトをほどいた。ベルトは足もとに落ちた。
「ボタンを上からはずして」
 美枝子は彼の手を胸もとのボタンへ導いた。上から順に彼はボタンをはずしていった。美枝子はスカートの裾のいちばん下からはずした。ふたりの手はやがて彼女の胸の下で出会った。彼の手を彼女は胸のふくらみに押し当てた。
 玄関のすぐ左に半開きのドアがあった。ドレッシング・ルームだ。そこへ柴崎は美枝子を導いた。
「ヨーロッパの間取りです。ひとりないしはふたり用の、新しい家の提案としての間取りだ、と父親から聞いてます。その世界ではよく知られたいくつもの間取りのなかの、ひとつだそうです。父親の先輩の学者が、その間取りのとおりに建てたのです」
「ここで服を着替えたり、お化粧したりするのね」
 壁の三面鏡を彼女は見た。
「家具はほとんどそのまま買い取りました」
 ドレッシング・ルームの奥は浴室だ。そして三面鏡のある壁と向き合った壁は、寝室へのドアを別にすると、残りの部分はクロゼットとしてふさがっていた。ふたりは寝室に入った。彼がドアを閉じた。壁にヘッド・ボードを接して、ベッドがふたつ、接し合ってならんでいた。
「なぜふたつなの?」
「買い取ったとき、こうでした。ご夫婦の寝室でしたから」
「ここで寝るときもあるの?」
「あります」
 美枝子はシャツ・ドレスを、そして下着を脱ぎ、裸となった。彼も服を脱いだ。裸のふたりはそこで抱き合い、抱き合ったままベッドへと移動し、体の動きを合わせて同時にベッドに体を横たえた。
「美枝子」
「ここにいるわよ」
「美枝子」
「それは私よ」
「美枝子」
「あなたの女よ。それでいいのね?」
 経過していく時間のなかで雨はおなじように降り続け、部屋のなかのほの暗さはおだやかにその深みを増していった。
「ドレッシング・ルームが女の気持ちをとらえるわ。あそこからお風呂場に入ることが出来て、寝室ともつながっていて」
「あの壁の向こうが居間です」
 ベッドの足もとの方向を彼は片手で示した。
「居間のさらに向こうは、ドアのある壁でへだてられて、父親の先輩の学者が書斎として使っていた部屋です」
「学者の書斎は、書架がずらっと壁にならんでいて、どの棚にも分厚い原書がぎっしりという、重厚なものではないの? この家は軽快で洒落てるわ」
「自宅にそのような書斎を持つ人ではなかったのです。本は大学にありますし、そこにはご自分の研究室もありますから。自宅の書斎は個人的なもので、さすがに居心地が良いのです。僕はそこで過ごすことが多いですね」
「絵を描くの?」
「スケッチ・ブックにいろいろと描いてみたり。あるいは、考えごとですね」
「なにを考えるの?」
「たとえばこの家のことです。間取りには興味深いものがあります。いろんな好ましい空間が、さりげなくあちこちにあるのです。それを発見しては、スケッチに描いてみて、姿のいい女性が、この空間になにげなくふといるといいだろうな、などと思ったり」
「私ではいけないかしら」
「最高です」
「見ていただけるなら、どんな私でも見せるのよ」
「どうして体がこんなにすっきりしてるのですか。余計なでこぼこや、たるんだような部分が、いっさいありませんね」
「身持ちがいいからよ。食べるものも大きく影響してるでしょう。食事は和風なのよ。酒も煙草もなしで、性格も関係してるわね、きっと」
「どんな性格なのですか」
 柴崎の質問に美枝子は笑った。
「いまにいろいろとわかってくるわ。辟易とさせるのではないかしら」
「楽しみにしてます」
「そうねえ、それしかないわね。でも、裸になると、自分でもきまり悪いほどに、女の体なのよ。どこもかしこも白くて、むっちりしてて。これからの季節は、裸に近い恰好で横ずわりしたり、横たわったりするでしょう。そうすると、よくわかるわね。まるでなにかを待ちかまえてるような体だということが」
 美枝子は彼を微妙に抱き変えた。裸の体が触れ合う面積を最大限に広げ、
「ほら。こんな体」
 と、囁いた。そして次のように続けた。
「私、夢に見たの。夢のなかで私は、都電の停留所にひとりで立ってるの。都電を待ってるのね。そして都電が来て停止してドアが開き、私がステップに高く足をかけて、都電のなかに入ろうとするの。あなたがスケッチした、あの都電なのよ。そしてその都電は、ステップに上がるときによく見たら、油絵なの。油絵に顔を近づけると、筆の動いた跡とか絵の具が重ねてある部分が、はっきり見えるでしょう。都電の前部、ドア、その周囲、そして入った内部など、すべてが油絵になってるのよ。そこへ私が入っていくの。夢のなかで私は、あなたがスケッチしたあの女性になってるの。あ、これはあの絵のなかだ、と思ったら目が覚めたわ」
「都電や美枝子さんに、斜め前から明るい陽ざしが当たっていたでしょう」
「そうなの。ステップに上がろうとする私の顔の左側が、とても明るくまぶしくて。夢のなかにあのスケッチが油絵で登場して、そのなかに私が入っていくという、不思議な夢」
 柴崎は上体を起こした。美枝子に腰から上を重ねなおし、彼女を深く抱いた。彼の肩に彼女は両手をかけた。
「ここに住めたらいいわ。借りるのでもいいのよ」
「父親から返事はすぐに届くと思います」
「私がここに住んだら、居心地のいい書斎からあなたを追い出すことになるの?」
「そうはなりません」
「あなたの女がここに住むのよ。抱きに来てね」
 そのひと言は、柴崎を二度目へと促すきっかけとなった。
「あとのためにとっておいて」
 彼の顔を引き寄せ、頬を重ねて彼女は優しくそう言った。
「間取りを見せて。そして夕食にしましょう。ここに材料があれば、私がなにか作ってもいいのよ。餃子が好きだと言ってたわね」
「好きです」
「祖師谷にいいお店があるのよ。年配のご夫婦の店で、戦後すぐから続いてるの。餃子とタンメンが評判よ」
「どちらも好きです」
「そこで食べましょうか。それから私の家へ来て、野菜の料理を少し食べれば。野菜を食べなくてはいけないのよ。それから魚と」
 夕食の時間は確かに近づいていた。柴崎は空腹だった。食べるものの話が具体的に出ると、それに向けて行動を起こしたくなった。ふたりは服を着た。
 寝室から居間に入り、ふたりはそこから庭に出てみた。正方形の大きなタイル敷きの部分のヴェランダは、巧みに配置された植え込みによって、なかば囲い込まれたスペースとなっていた。庭の南側は、その下にある脇道に向けて、七、八メートルほどの段差だった。居間へ戻って書斎に入り、そこから洗面室、そして洗濯機などが置いてある作業部屋を、ふたりは見た。その部屋からも庭の西側の部分へ出ることが出来た。キチンには食事をするためのスペースがあり、そこにテーブルと椅子がある様子は、小さいけれども無理なくまとまった居心地良さの見本のようだった。窓からは玄関の外にある庭を見ることが出来た。美枝子はどの部分をもたいそう気にいった。
 やがてふたりは玄関を出た。ドアに鍵をかけ、柴崎は美枝子のこうもり傘を開いた。左手に鞄を下げ、右手で傘を持った。その傘のなかに入って、美枝子は彼の手に自分の手を重ねた。ふたりは雨のなかを駅へ歩いた。祖師谷大蔵で降りたふたりは、駅前から北へ長く続く商店街をしばらくいき、やがて脇道に入った。入ってすぐにその店があった。餃子は上出来だった。柴崎はタンメンも食べた。どちらも大学生になってから初めて食べて、それ以来の好物だと彼は説明した。
「お寿司、とんかつ、お蕎麦、洋食。祖師谷にはおいしい店がなんでもあるのよ。いい魚屋さんが三軒、八百屋さんは何軒も」
「なぜ、家を探してるのですか」
 と、柴崎は訊いた。
「いまの家は、来ればわかるけど、もはや限界的に古いのよ。でも土地は百坪あるから、そこを壊してアパートを建てる、という計画なの。これまでどおりの、木造モルタル二階建てというのではなくて、もっときれいで住みやすくて、お風呂もあるアパートね。事務所の所長が、率先して社員にアパートを持たせてるの。私の番がまわって来たのよ」
「住む家も買うとなると、大変ですね」
「いろんな工面をすると、なんとかなるかな、というところね。その段階で行動しないと、いつまでたっても実現しない、と所長は力説してるわ。いまの家は、雄二が小学校に入ったときからだから、十七年になるわね。子供には一軒の家が必要だと思って、無理して買ったのよ。いま思えば安い買い物だったけど。でも古さは限界よ。戦前の建物ですもの」
 餃子とタンメンのあと、美枝子はその家へ柴崎を連れていった。野菜の料理を彼女は要領良く作り、ふたりはそれを食べてお茶を飲んだ。
「絵は幼い頃から得意だったのでしょう」
 美枝子が訊いた。
「描けばなんでも描けてしまいますから、とりたてて得意というわけでもありませんでした」
「美術の学校へいく、というような気持ちはなかったのね」
「私大の商学部ですから。絵はずっと描いてましたけど。普通に就職したのですが、そうなってみると、自分はこうではない、ということがはっきりするわけです」
「だからすぐにそこを辞めて」
「高校では絵新聞というものを、新聞部の活動の一部分として、僕は続けたのです。僕とは入れ違いに卒業した先輩から受け継いだかたちで、その先輩からなにくれとなく忠告や提案をもらっていて、僕が会社を辞めたらすぐに仕事を紹介してくださったのです。先輩は高校を出た頃にはすでにイラストレーターを名乗ってましたから。マンガや似顔絵も描く、多才なデザイナーです。その仕事でいきなり僕は多忙になり、必死にこなしていまに至るわけです。いまは少し楽になりました」
「人とのつながりが出来ていくのね」
「年上の人ばかりですね。三十代後半や四十代初めの人たちです」
「私は四十三だわ」
「集まりがあるから来いと言われていくと、僕がいちばん若かったりします。飲み屋やバーなど、どこへ連れていかれても」
「おなじ年齢の友人たちは?」
「いません」
「彼女は?」
「いません」
「ひとりが苦にならないのね」
「まったくなりません」
「画伯の素質だわ。あの都電のスケッチは、油絵に発展させなさいよ。もったいないわ」
 美枝子はあとかたづけをした。そのあと奥の部屋へいき、やがてあらわれたときは浴衣姿だった。
「お風呂はあとにする?」
 と、彼女は訊いた。
 彼は美枝子に歩み寄った。彼の手を取った美枝子は廊下に出た。その廊下に面して、一枚だけ襖があった。その前に美枝子は立ちどまった。柴崎は彼女を抱きとめ、ふたりは深く抱き合い、柴崎は彼女の名を呼んだ。一枚だけの襖に向けて美枝子は片手をのばした。その手が襖に届くところまで、ふたりは移動した。
 襖を開くとそこがその部屋への入口だった。なかに入るよう、美枝子は柴崎を全身で促した。ふたりはなかに入った。部屋には布団が敷いてあり、襖を閉じるとほの暗くなった。美枝子は浴衣の帯をほどいた。それを柴崎に手渡す動作で浴衣は前が開き、彼女の白い裸身を柴崎は見ることになった。布団のかたわらに美枝子はしゃがんだ。両膝を布団の縁につき、うしろで軽く束ねていた髪をほどく動作に、浴衣が肩から滑り落ちていく動きが重なった。


 それからひと月後、五月のなかばには、津田美枝子と柴崎夏彦とのあいだに、ともに過ごす時間をめぐって、ゆるやかなきまりのようなものが出来上がっていた。土曜日あるいは日曜日のどちらかを、ふたりで過ごす。土曜と日曜の二日にまたがることも、少なくはない。週の初めから後半にいたるまでのどこかで、逢うこともなくはない。美枝子の仕事は忙しい。しかし、週末は自由な時間だ。だから五月なかば、土曜日、曇った日の午後、美枝子は柴崎の家へ来た。父親からの返信どおり、売却はまだためらわれるけれど、借りて住んでいただくのは歓迎する、ということにきまった、柴崎家の別宅のようなあの家だ。
 ふたりは買い物に出た。下北沢で材料を買い揃え、美枝子が柴崎の家で夕食を作る。作るとは、彼女が柴崎に料理を教える過程でもあった。白いシャツに灰色のスカート、そしてスカートよりも濃い灰色の、細いヒールのあるサンダルを、今日の美枝子は履いていた。南口商店街の通りへ入ったところで、柴崎はひとりの女性に呼びとめられた。道の反対側を足早に歩いていた彼女は、柴崎に気づいて斜めに歩み寄った。
「柴崎さん。久しぶり」
 声と笑顔を受けとめた柴崎は、時間が過去のなかへと逆行する錯覚を覚えた。逆行とは言っても、わずかに三年ほどだ。美人と世話女房の中間のような雰囲気は、以前のままだった。顔だちのなかにある華やかさが、よく出来た世話女房の座持ちの良さ、といったものを思わせた。
「変わりませんね」
 と、柴崎は言った。丁寧な言葉は両親のしつけによるものだ。年上の人に対して使う言葉というものを、特に母親から、柴崎は厳しく言われて育った。
「あなたも。懐かしいわ。絵は描いてるの?」
 水谷啓子が訊いた。
「会社はすぐに辞めたのですってね。木村さんに聞いたわ」
 木村とは柴崎の高校の同級生のひとりだ。
「エトワールには、ときどきいくのよ」
 その高校の生徒たちがもっとも多く利用する私鉄駅の近くに、商店街があった。そのなかのひときわ建て込んだ一角に、エトワールという喫茶店はいまでもある。高校生の頃にはそこが柴崎にとっても溜まり場のひとつだった。親族の経営する店だというエトワールで、啓子はウェイトレスをしていた。そしてなかば以上、店の切り盛りを引き受けてもいた。
「私はいま、中野にいるの」
 そう言って啓子は美枝子に顔を向け、視線を柴崎に返してから、
「お姉さんなの?」
 と言った。
 美枝子は柴崎に体を寄せ、腕を深く組み、その腕をシャツの下にある胸のふくらみに引き寄せ、甘えた微笑を浮かべて彼の横顔を見た。そしてその微笑をそのまま啓子に向けた。柴崎をめぐる関係において、啓子よりも美枝子のほうがはるかに密接で親密である事実は、それだけで明白となった。その明白さを、美枝子は次のような言葉で、念を押した。
「優しいお姉さんにもなれるのよ」
 美枝子が伝えようとしたことは、充分すぎるほどに啓子に伝わった。その啓子の反応は率直なものだった。一歩下がった啓子は心から驚いた表情となり、その驚きは全身のポーズへと広がった。見てはいけないものを見た人のような、複雑なものへと彼女の表情は変化し、
「いい絵を描いてね」
 と言い、さらにもう一歩だけ、下がった。
「仕事はしてるの?」
「してます」
「元気でね」
「啓子さんも」
 美枝子には視線を戻すことなく、したがって啓子なりに美枝子を無視して、啓子は歩み去り人通りのなかに見えなくなった。美枝子と柴崎も歩き始めた。
「尽くす奥さんになれる人よ」
 美枝子が言った。
「鳥取県出身の水谷啓子さんという人です。宍道湖に沈む夕陽で育った、という言葉を覚えています。自宅の二階に勉強部屋があり、その隣は布団を敷いて寝る部屋だったそうです。布団を敷かなければ、なにもない畳の部屋です。勉強部屋もそうなのですが、この布団を敷いて寝る部屋は、窓からまっすぐに射し込んだ夕陽が、いっぱいに満ちる部屋だったと、彼女は言ってました。壁に自分の影を写してみるのが好きで、裸で壁に写してみる自分の姿を、これが自分なのかと思ったりしたそうです。雄二も知っている人です」
 喫茶店エトワールについて、柴崎は美枝子に説明した。
「卒業してからも、みんなよくそこに集まってました。啓子さんは僕にはなぜか親切で、ある日の夕方、いっしょに新宿へいきました。そしてロール・キャベツを食べたのです。その席で、女をまだ知らないなら教えてあげる、私でよければ、と言われたのです」
「啓子さんが、あなたにとって初めての人になったの?」
 美枝子の質問に柴崎は、
「その先がもうひとりあるのです」
 と答えた。
「若いのに大変ね。忙しいのねえ」
「啓子さんとは、二十歳から二十一歳にかけてです。啓子さんは三歳年上ですから、いまは二十六歳か二十七歳です」
「絵に描いてあげたりしたの?」
「スケッチはしました。水彩でポートレートを描いて、それは進呈しました」
「最初の人とは、どんなふうに出来たの?」
 喫茶店に入ることを柴崎は提案した。駅の南口の脇を抜けて線路沿いの道に入り、すぐ右側にある喫茶店にふたりは入った。中二階の席にふたりはすわった。
「啓子さんは、驚いてましたよ」
 ウェイトレスが注文を聞いたあと、柴崎が言った。
「なぜあんなふうに、ばらさなくてはいけないんですか」
「だって、いまのあなたの女は、私なのよ」
 自信といたずら心が同居した魅力が、美枝子のぜんたいにいきわたっていた。その様子を受けとめながら、柴崎は高校で三年間にわたって同級だった、津田雄二について思った。雄二は無駄口をきかない静かで穏やかな少年だった。誰とも均等につきあい、言った言葉は額面どおりで裏表はいっさいなく、なにごともひとり集中して黙ってやりとげる。あのような性格は美枝子との生活のなかで、雄二が自前で獲得したものに違いない、と柴崎は確信した。
「初めての人について、聞かせて」
 美枝子に促された彼は、
「あの高校の先生です。美術の非常勤講師で、当時で二十三、四歳の人でした。必須科目ではないのですが、僕は彼女のクラスを受講したのです。クラスはすべて実習で、絵を描くのです。ひょっとしたら、雄二はこのクラスのことを知らないかもしれません」
「今度、聞いてみるわ」
「クラスはいつもその日の最後にありました。ある日のクラスで、いつものように絵を描いていたら、今日はいっしょに帰りましょう、終わったらここで待ってて、とその先生に言われたのです。クラスが終わって僕がひとりで待ってると、先生が来ました。そしていっしょに帰ったのですが、学校から歩いて三分くらいのところの、小さな一軒家なのです。そこに先生はひとりで住んでいるということでした。当時のあの高校の周囲は、畑ばかりです。ひばりの季節には麦畑でひばりが盛んに鳴いていました。先生は僕を家に招き入れて、僕に一冊の新品のスケッチ・ブックを手渡し、僕の目の前で裸になり、この私を描いて、と言ったのです」
「あなたの絵の力量に目をつけてたのよ」
「そうでしょうか」
「そうにきまってるでしょう」
「そのスケッチ・ブック一冊まるごと、先生の裸を描きました。いろんなポーズをしてくれて。裸の女性を目の前にして描いたのは、そのときが初めてでした」
「若い女の先生は、これはと目をつけた才能のある純情な少年に自分を描かせて、記念品を作りたかったのね」
「そうですか」
「面白い思いつきだわ。私も描いてね」
「僕も裸になるように言われて、裸になって、そのときが初めての体験となりました。夜になってから、僕は自宅に帰りました」
「それからは毎日のように」
 美枝子が笑いながら言った。
「そうなのです。そのとおりでした。先生はほかの学校でも教えていました。その日には駅で待っていたり。学校の二階の西の端から、先生の家が見えるのです。帰宅するのを待ちながら、そこからずっと見ている、というようなこともありました」
「毎日のように」
「ほとんど毎日です。ある期間が経過すると、僕は困りました。ほんとに毎日ですから、なんとか自制しなくてはと、悩みました。そして先生は転任になったのです。非常勤の講師ではなく、普通の専任の先生として、愛媛県へ」
 美枝子はまた笑った。
「少しだけ遠いわね」
「でも僕は、それで助かったのです。ほっとしました。残念な気持ちもありましたけれど」
「雄二はどんな体験をしてたのかしら」
「彼はもてましたよ。女性から信頼されるのです」
「そのあとが、さっきの啓子さんなの?」
「そうです」
「それからは?」
「誰もいません」
「私が三人目?」
「そうです」
「三度目の正直と言うのよ、それを」
 ほどなくふたりは喫茶店を出た。美枝子は彼と腕を組んだ。
「その先生に、下北沢でばったり会う、ということはないわね」
「ときどき葉書が届きます。自分で描いた妙な絵に、文脈がなくてよくわからないひと言が、走り書きしてあって」
 ふたりは夕食の材料を買った。そして電車に乗って世田谷代田までいき、そこから歩いた。美枝子が住むことになる家に入り、彼女はキチンへいき、柴崎は書斎で次の週の仕事の段取りを、カレンダーで点検した。すぐに美枝子が来た。彼女は手にサンダルを持っていた。庭へ出てみましょうと言う彼女とともに、柴崎は裸足で庭に出た。建物の西側に面した庭は芝生が雑草に変わりつつあり、そのなかを飛び石が南に面した庭へと、つながっていた。ふたりはそちらへ歩いた。
 建物の南側にある庭は、煉瓦のような質の正方形のタイルで敷きつめられてヴェランダのようになっていた。そのスペースの横幅は、書斎から居間そして寝室まで、またがっていた。庭の南の縁は、十メートルほどの高低差のある脇道と接していた。庭のこの部分にいると、植え込みの巧みな配置によって、どこからも見られることはなかった。引き寄せられて柴崎は美枝子と抱き合い、口づけが始まってそれはしばらく続き、高まっていく美枝子の性的な興奮は、そのまま直截な愛撫となった。
「なかに入りましょう」
 柴崎の唇のなかへ美枝子は囁いた。彼女の腰に手をまわして飛び石を歩き、書斎からなかに入り、居間からドレッシング・ルームへふたりは歩いた。三面鏡の前で美枝子は立ちどまった。
「ここに置いといてもらおうと思って、新しい浴衣を持って来たの。着替えさせて」


「スリップは持ってますか」
 柴崎が訊いた。
「スリップ?」
 美枝子が訊き返した。
「そうです」
「下着のスリップ?」
「はい」
「いろいろ持ってるわ」
「スリップ姿でアイロンをかけている、大人のいい女を絵にしてくれ、という注文を受けたのです。外国ふうというか、ヨーロッパ風味で、ということでした」
「いまはアイロンをかけているという、その女の人の日常の一場面ね」
「そうだと思います。アイロン台というものがありますね。立ってアイロンをかけるための。この家にもあります、洗濯機の脇に立てかけてあります」
「あるわね」
「アイロン台を使って、スリップ姿で立ってアイロンをかけている、大人のいい女だそうです。アイロン台から上を、彼女の頭のてっぺんくらいまで、画面に取り込めばいいのです。彫りの深い大人の美人が、スリップ一枚でアイロンをかけているところです」
 柴崎の説明を聞いた美枝子は、
「映画で見たような気がするわ」
 と言った。
「なんという映画だったかしら。確かフランス映画よ。そんな場面があったわ。有名な映画よ」
「注文してくれたのは美枝子さんとおなじ年代の編集者ですから、その映画のことが記憶にあるのかもしれません」
「きっとそうよ。私がスリップ一枚でアイロン台でアイロンをかけている姿を、あなたは見たいのね」
「そうです」
「今度、いろんなスリップを持って来るわ。すっきりしたのがいいわね、肩紐が細くて」
「髪は変えないでください。いまのその髪は、ぴったりですから」
「私が映画で見たのは、くわえ煙草だったような気がするわ。スリップ一枚のくわえ煙草で、アイロンをかけてるの。確かに大人のいい女だけど、どこか娼婦的でもあって」
「そういう絵を望んでいるのだと思います。小説雑誌の挿絵です」
「私にそっくりに描いてね」
 裸のふたりは横向きに抱き合っていた。彼にさらに深く体を預けた美枝子は、片方の太腿を大きく彼の腰にまわした。
「ね。そっくりに」
「そうします。なぜか女性の絵の注文が多いのです」
「あれだけうまければ。それに、そういう時代でもあるのよ。女がいろいろとおもてに出て来て、活躍するのね」
「主題としては不滅ですからね」
「そうね。自画像の次が女で、その次が裸婦かしら。そこから富士山とか南瓜などへ、分かれていくのよ」
 美枝子の言いかたに柴崎は笑った。
「あなたの絵は洒落てるわ。絵として作り出される雰囲気のなかに、どこか外国ふうなところがあって」
「女シリーズという企画の注文も受けました。毎号、いろんな人が、その人の思い描く女性を描くのです。カラーのページで、折りたたんであるのを開くと二ページになるのです」
「どんな人を描くの?」
「西瓜を食べる女、というタイトルにしようと思っています」
「きれいな女の人が、食卓で西瓜を食べてるの?」
「裸です」
 と、柴崎は答えた。
「この外の庭が、背景として最適です。タイル敷きのテラスがあって、デッキ・チェアが置いてあり、そこにすわった裸の女性が、テーブルに両足を上げて無心に西瓜を食べてます。夏の陽ざしを全身に浴びて」
「ビキニくらい着せたら?」
「それも考えましたけれど、裸のほうがいいようです。三日月に切った赤い西瓜です」
「そういうことを、自分もしてみたいと私は思うわ」
「ここに住んだら、いつでも出来ますよ。もうすぐ夏ですし」
「あなたの絵のとおりに再現してみたいわ」
「おなじ出版社の、別の企画も引き受けました。社長がアメリカで買って来た、ポストカード・ブックという企画です。切り離すと絵葉書になっていて、三十枚で一冊です。シリーズで何冊も刊行したいと言ってます。雑誌で試みる女シリーズを、そこへ延長させることは出来ないだろうかと相談を受けて、一冊まるごと、僕がいろんな女性を描くことになりました」
「大変だわ」
「印税という支払い方式で、前払いの半額を小切手でもらいました。六千部を印刷するそうです」
「遊んでるように見えても、責任はそれなりに伴うのね。三十人も女性を描くのは、大変なことだわ。場面も女性も、空想で作るの?」
 美枝子のその質問に、柴崎は次のように答えた。
「考えてもなかなか解決しないことでも、ひと目見れば、ああ、そうか、と解決することはたくさんあります」
「女を描くとき、この私は参考になるかしら」
「なります」
「どんなとこが?」
「一挙手一投足です。呼吸のひと息。なにげないひと言。ふとした視線の動き」
「観察するのね」
「そうです」
「そして記憶しておくの?」
「そうです。自分のものにするのです」
「よく見ておいて。なんでも見せるわ」
 彼の腰に上げていた太腿で、美枝子は彼の体を自分に引き寄せた。
「西瓜を食べる人も、私にそっくりに描いて」
「都電の人もそっくりですよ」
「アイロンをかける人も」
「そうです」
「最近のきみは、おなじ女ばかり描くね、と言われるわ、きっと」
 ふたりは笑った。
「女だけでなく、どんな絵でも描くの?」
「そうです」
「選り好みはしないの?」
「いまはそれどころではないのです」
「なんでも引き受けて、なんでも取り込むのね」
「はい」
「だからついでに、私も抱いてもらえるのね。よかったわ。うれしいのよ」
「僕もです」
「油絵は描かないの?」
「来年の夏に展覧会の予定があります。僕も含めて三人で作っている、自転の会、という私的なグループがあります。僕が十八歳のときに出品したコンクールで、次点になった三人で作ったものです。次点をもじって、自転としたのです。最年長の人は七十歳になります。この三人の展覧会が、来年の夏に予定されてます」
「出品するのね」
「します。踏切を描きます」
「電車がとおるのを人が待ってるのね」
「商店街のなかの踏切です。遮断棒が降りていて、何人もの人たちが、踏切のこちら側と向こう側で、電車の通過を待っています」
「人生にすればいいのよ。いろんな人が踏切の前に立っていて、よく見ると人生なの。生まれたばかりの赤子から、腰の曲がったおばあさんまで。いろんな年齢、つまり人生のいろんな段階の人たち。わざとらしくしなければいいのよ。ごく自然に」
「それはいいですね」
「なんとなくいろんな人がいるのではなく、人々は人生の象徴として、踏切にいるの」
「いいですね」
「私もそのなかに加えて。十歳は若く見える四十三歳の女」
「いろんな場所で踏切を観察しなくてはいけません」
「祖師谷にあるわ。隣の千歳船橋にも。それから経堂。下北沢にも」
「都電に乗る女性の絵も油絵にして、出品しようと思っています」
「その絵のなかの女性は、私ではないほうがいいわ。現実に若い女性。二十四、五歳の」
「そうですね」
 梅雨入りはまだしばらくあとだ。しかし今日の雨は梅雨そのもののような雨だった。雨の土曜日は暮れつつあり、寝室のなかにも雨の日の夕方があった。午後四時に美枝子はここへ来た。やがては彼女が住む家だ。今日はここで彼女が夕食を作る。
「私がここに住んだら、あなたが訪ねて来てくれるの?」
 美枝子が訊いた。
「美枝子さんがここに住んで、僕の実家を訪ねてくればいいのです」
「それもあるわね。祖師谷ではもう近所の評判ですって」
「なにがですか」
「私とあなた。若い燕と腕を組んで帰って来て、すぐに明かりが消えて、一時間ほどするとお風呂場の明かりが灯くとか。見てる人がいるのよ」
「気になりますか」
「なるもんですか」
「僕もです」
「私は訪ねるほうが好きだわ」
「ここが美枝子さんの自宅になるのですから、雄二が突然に帰って来る可能性があります」
「あるわね。私にはなんにも知らせずに。雄二ならそうするわ。土曜や日曜に、雄二がいきなり帰って来るのは、あり得るわね」
「美枝子さんがここに住んだら、雄二はここに帰ってきます」
「だから私があなたを訪ねるのね。歩いて二分のところへ」
 彼の腰にかけた太腿に力を込め、横向きになっている彼の上体を起こしつつ、その下へ美枝子は裸の体を滑り込ませた。
「でも、私、雄二が知っても平気なのよ」
 柴崎の喉に唇を当て、美枝子は囁くようにそう言った。
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孤独をさらに深める



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 七月になった。梅雨は明けていない。その梅雨の、今日は見事な晴れ間の日だ。矢野哲郎は駅から歩いた。四系統の都電の終点および起点の集まる大通りまで、五分とかからない。その大通りを越えると、そこから先が歓楽街の広がりだ。戦後すぐに出来始め、いまではひとまず完成の趣を呈している。歓楽に徹している地帯であるのが、最大の特徴だ。
 東西の幅は、大通りからその地帯へと入っていく道の数で数えるなら、六ブロックにおよんでいる。奥行きは充分にある。往復六車線の、歓楽とはおよそ関係のない、ただ交通量が多いだけの道路に出るまでが、その地帯の奥行きだ。西側の端をおさえる道のすぐ外側、つまりさらに西側は、歩道のある道をへだてて国電の高架だ。いちばん東側の通りから、矢野はその歓楽街に入っていった。
 夕方までにはまだ時間があった。しかし歩いている人の数は多く、ぜんたいとして賑わっている印象が強くあった。雰囲気は十年前とまったくおなじだが、賑わいの盛り上がりには、いまのほうが分厚いものがあるのを、矢野は感じた。ゆるやかな下り坂を降りきったあたりで、彼は右へ直角に曲がり、狭い道へと入った。区役所の南側をとおってトロリー・バスの走る道路へと抜けていく道だ。十年前にはしばしば目にした光景が、歓楽街としてよりいっそう増幅されたかたちで、いまもいたるところにそのままあった。
 その狭い道と交差する最初の路地を越えた。そしてすぐに二本目の路地そして三本目の路地と、交差した。その路地を矢野は左へと入った。この路地はかつては区役所の裏を抜けていく道だった。その路地は西に向けて拡張された区役所の敷地の一部となり、南北のどちらからその路地を来ても、区役所で行き止まりとなっていた。区役所のすぐ裏の道の両側に、壁や軒を接して建ちならんでいた酒や遊興の店は、道のその部分とともに、完全に消えていた。拡張された区役所の敷地の西端は、二本目の路地の東側まで到達していた。敷地の西端を構成しているのはほとんど意味のない植え込みであり、そしてその奥には区役所の高層建築の垂直の壁があるだけだ。十年前には健在だった路地の、その東側に密接してならんでいた小さな店舗の群れは、ここでも完全に消え去っていた。
 拡張された区役所によって、かつての飲み屋街の一部分が消えたことを、矢野は以前から聞いてはいた。その様子を実際に目のあたりにするのは、いまが初めてだ。騙されたような、あるいは嘘のような、不思議な感覚があった。自分の錯覚かもしれないと思い、路地の順番を確認した。場所を間違えているのではないことを確認して、矢野は区役所の建物の西端と向き合った。人の肩あたりまである高さの殺風景な壁の内側は、陰気な雰囲気の植え込みになっていた。長く続くその壁のまんなかあたりまでいき、矢野は立ちどまった。そして振り返った。区役所とは反対側、つまり路地の西側は以前のままに健在で、ならんでいる店のなかに見覚えのある縄のれんの飲み屋があった。この飲み屋の向かい側にあったのが、コンパルサという名のバーだ。そのコンパルサも含めて、路地の東側にあった飲食店その他の小さな建物の列は、区役所の敷地の幅ぜんたいにわたって、すべて忽然と消えていた。区役所の建物がなぜこうでなければならないのか、新聞に取り上げられて問題となった十五階建ての、重苦しい雰囲気の建物を矢野は呆然と見た。
 しばらくして彼は歩き始めた。区役所の南側を抜けていく路地に入り、そのまま東に向けて歩いた。かつての区役所の裏を抜けていた路地は、区役所の敷地に突き当たって行き止まりになっていた。このあたりになにがあったか、矢野には詳しい記憶はなかった。ここまで来ると急に暗くて寂しい雰囲気となり、さびれた様子も色濃くあったのを、彼はおぼろげに思い出した。三軒ならんだ木造二階建てのアパートはいまもあった。その隣の長屋は仮設の倉庫のような建物に変わっていた。シャッターを降ろした店、こういうところに誰が泊まるのかと、矢野ならずとも思う旅館、そして焼き鳥やラーメンの店などを確かめながら、彼は区役所が面している通りに出た。かつてのトロリー・バスはもう走ってはいなかった。
 区役所の敷地は西と北に向けて拡張された。その敷地の北に沿った道に入って西に向かい、区役所の裏を抜ける路地へ矢野は戻った。かつてコンパルサがあったところを、彼はもう一度歩いてみた。立ちどまるのが無意味なほどに、その路地の東側に当時の面影はいっさいなにもなかった。ここにあったコンパルサというバーへ彼が初めて連れて来られたのは、いまからちょうど十年前の一九六六年、矢野哲郎が二十四歳のときだった。それから十年が経過し、いまの彼は三十四歳となっていた。
 十年という時間など、なにほどの量でもない、という思いは確かなものとしてある。いまの自分と十年前の自分とでは、ほとんど変化がないからだ。少なくとも自分が自覚しているものとしては、変化はいっさいない。矢野にとっていまの自分は、十年前の自分とおなじだった。しかし、十年は十年だ、そしてそれが経過して去ったのは、まぎれもない事実だ。十年前の自分は二十四歳で、いまは三十四歳ではないか。
 コンパルサというバーもいまはない。ないのは十年という時間のせいではないが、区役所の拡張による立ち退きと、路地の片側の消滅は、時間のなかで起こった変化にほかならない。縄のれんの飲み屋の前に立ちどまっていた矢野は、コンパルサのあったあたりを眺めた。いまはコンクリートの壁とそのなかの植え込みがあるだけだが、コンパルサのドアとその周囲のたたずまいくらいなら、いまでも矢野はディテール豊かに思い起こすことが出来た。


 一九六六年の梅雨の頃、少なくとも十歳は年上の手塚という名の雑誌編集者に誘われて、二十四歳の矢野哲郎はコンパルサというバーへ初めて入った。手塚に依頼された雑誌の挿絵を、矢野は編集部まで届けにいった。平日の夕方だった。その出版社は矢野が美大の学生だった頃、アルバイトをしていたところだ。アルバイトとしての矢野の仕事場に、ある日、手塚があらわれた。きみは絵が描けるんだって、と手塚は矢野に訊いた。描けますと答えた矢野を手塚は編集部へ連れていき、短編小説の挿絵を三点、その場で描かせた。手塚とはそれ以来のつきあいだった。彼は若い矢野にいろんな仕事をくれた。連載小説の挿絵を、その完結までまかされたこともあった。
 挿絵を届けにいったその日の夕方、「飲みにいこう、すぐに出るからちょっと待ってくれ」と、手塚は矢野に言った。ふたりで会社を出て、駅前の蕎麦屋で月見うどんを食べてから、電車を乗り継いだ。コンパルサは初めてだったし、その歓楽街に入るのも、ほとんど初めてだと言ってよかった。ドアだけが間口のようなコンパルサは、奥に向けて深い店だった。片側にカウンターが長くあった。直線ではなく、妙に湾曲していたり段がついたりした、居心地の良いカウンターだ。カウンターのストゥールにすわる客たちの背後は、窓の代わりに窓枠だけを三つ取りつけた壁だった。店の奥は、ソファで囲まれたテーブルがひとつだけあるスペースとなっていた。そのさらに奥がトイレットのドアで、すぐとなりにあるおなじようなドアを間違えて開けた人は、客の忘れ物がぎっしりと詰まったいくつもの棚に直面した。カウンターの内側は、店にとってのさまざまな物の収納場所だった。
 カウンターのなかにいた女性が、ならんでストゥールにすわった手塚と矢野の前に立った。彼女を片手で示して矢野に向きなおり、
「見てのとおりの美人ママ。若い美人ママ」
 と、手塚が言った。
「若いと言うなら、彼のほうがずっと若いわよ」
 矢野に笑顔を向けて、彼女が言った。
「いくつなんだ、きみは」
 手塚は矢野に訊いた。
「二十四です」
「なぜそんなに若いんだ」
「あらまあ、私よりひとまわりも年下よ。一九三〇年生まれですもの、私は」
「昭和五年だね」
 手塚が言った。
「黄金バットの頃だ。エロ、グロ、ナンセンス。歌では祇園小唄。そして、すみれの花咲く頃。天津乙女。知ってるかい」
 矢野にそう言った手塚に、
「知らないわよ。知るわけないわ」
 と、美人の彼女が言った。
「映画では、なにが彼女をそうさせたか」
 手塚のその言葉に、
「自分でそうしたのよ」
 と、彼女は笑った。言葉の内容とその言いかた、声、笑いかたなど、きれいにひとつにまとまって、魅力的だった。
「うちの母がその頃ちょうど二十歳を超えたかという歳なのよ。母を見てるとよくわかるわ、自分でそうしたのよ。なにがそうさせたかなんて、とんでもない話」
「僕はきみよりさらに十歳近く年上だ。歴史年表に載ってないほどの昔の生まれさ」
 絵を描く人としての矢野から見て、整いきったと言っていい彼女の目鼻立ちの、どことは言いがたい多くの意外な部分に、華やいだ雰囲気がいきわたっていた。口紅が鮮やかに赤い様子を、矢野は観察した。白い長袖のシャツに黒い小さなボウ・タイ、そして黒いタイト・スカート。シャツの下の存分な肩幅、胸板の広がりと厚みなどを、矢野は視覚をとおして感じ取った。
「いつものやつ」
 と、手塚が言った。
「ウイスキーの炭酸ソーダ割りだよ。きみもそれにしたまえ。ここの炭酸はきついから、ウイスキーとよく合ってうまいんだ。それから、あれも。文字どおり、摘むやつ」
 手塚の注文を彼女は笑顔で受けた。
「美人だろう」
 手塚が矢野に言った。
「そうですね」
「絵心をかき立てられるかい」
「シャツの下にある体ですね」
「画家はモデルの骨格を透視するからね。彼女は三人姉妹のいちばん下で、上から順にひとつ、ふたつ、三つと数えて三つ目だから、三津子というんだ。服部三津子」
 ふたりのコースターの上にウイスキーのソーダ割りが置かれた。グリーン・ピーズを油で揚げたものが、やや深い皿にいっぱい、出て来た。
「摘むと指に油がつくから箸をくれ、と言ったお客さんがいたのよ」
 三津子が矢野に言った。
「割り箸でひとつずつつまんで食べてたわ。しかも飲むものが、私には作れないカクテルで。お客さんのなかに外国航路の船でバーテンダーをやってたというかたがいて、そのかたがカウンターのなかに入って、見事に作ってくださったわ」
「摘むんだよ」
 かたわらから手塚が言った。
 揚げたグリーン・ピーズを矢野は食べてみた。塩がいい、と彼は思った。
「うちの親戚の人が、瀬戸内で趣味で作ってる塩なの」
 三津子が言った。
「苦みがほどよく効いた、うまい塩だ」
 手塚がそう言い、次のように続けた。
「仕事が終わったらここへ来てね、ウイスキーの炭酸割りを飲んで、油で揚げたグリーン・ピーズを摘んでるとね、ひとつまたひとつと、いつのまにか歳を取るんだ。なかなかいいもんだよ」
 これが矢野にとっての、コンパルサの最初だった。奥に向けて長く続くカウンターぜんたいを三津子ひとりでこなすことは出来ず、まんなかあたりから奥までを、二十代の女性が受け持っていた。色白細面の見本のような顔立ちの、きわめて座持ちのいい彼女は、なぜかいつも浴衣を着ていた。
 二度目も矢野は手塚に誘われた。三度目は手塚とそこで待ち合わせた。その時間が九時過ぎというのは、三津子によれば「間違いよ」ということだった。待っていても手塚はあらわれず、十時になって店に電話があった。三津子がそれを矢野に取り次いだ。
「どこかのお店の女性。手塚さんは酔っていて、今日はうかがえそうにありませんから、お待ち合わせのかたにお伝えください、ということ。今度はひとりで来てよ、いつでもいいから」
 だから四度目には、矢野はひとりでコンパルサへいった。三津子が自分のことについて喋ったことを、矢野はいまも記憶している。一九六三年に大阪で踊り子を引退したという。踊り子になる前は学校の先生で、体育、家庭科、社会などを担当していた、と語った。コンパルサというこのバーは踊り子をしていた頃の仲間の母親のもので、頼まれて預かった自分が店に出ている、ということだった。その踊り子仲間は三津子より三つ年下で、いまは常磐ハワイアン・センターで踊っていて、三津子さんもこちらへ来て復帰しませんかと誘われた、と言って彼女は笑っていた。
「店を引き受けてちょうど一年になるのよ。区役所の敷地が、こちら側に向けて拡張されるんですって。敷地を拡張して、新しく大きな建物を建てるらしいのよ。区は早く進めようとしていて、区との個別の交渉も私が引き受けてるの。立ち退き料をもらって閉店ね」
 五度目に矢野がコンパルサを訪れたのは、仕事でだった。ある月刊雑誌で「ちょっと寄り道」という連載が始まることになり、矢野が絵と文章をまかされることになった。各界で名のある人たちが毎月ひとりずつ、自分の好みの寄り道、つまり酒の店を一軒、紹介する。当人から話を聞き、矢野はその店へいき、店内の様子や店の主人、看板娘などをイラストレーションに描き、軽妙な文章を添える、という仕事だ。矢野は文章も書く。絵よりも文章のほうを高く評価する人も、少なくない。
 コンパルサのドア、奥へと長くのびるカウンターの様子、服部三津子の顔、常連たちの似顔絵、そしていつも浴衣を着ている二十代の女性などを、矢野は描いた。浴衣の彼女は興が乗ると踊りを披露するという。三津子がかけたペレス・ブラード楽団のLPの、『サクラ、サクラ』や『ジャパニーズ・マンボ』などに合わせて、彼女は取材する矢野ひとりのために、踊ってみせた。彼女も本職は踊り子なのだと、三津子は説明した。
 取材を終え、開店前のカウンターで矢野はソーダ割りを一杯だけ飲んだ。梅雨はすでに明け、晴天の暑い日が連続していた。
「オリンピックの年みたいね。覚えてる? 東京の水不足。今年の夏を、あなたはどんなふうに過ごすの?」
「どんなふうも、こんなふうも、僕にはありません。忙しいのです」
「仕事で?」
「はい」
「どんな絵を描くの?」
「今日ここで取材した、ちょっと寄り道、という連載で、京都から神戸、尾道、広島にかけて、まとめて取材します。どの人もみなバーを推薦するんです」
「その地方のバーなのね」
「そうです」
「途中まで、私といきましょうか。新幹線に乗って」
「どこまでですか」
「ついて来て。来ればわかるわ」
「日時が合致すれば」
「新聞の天気図を見て、晴れる日が続きそうなときに」
「僕はいつでもいいです。取材の仕事はやや遅れぎみに進行してますから、明日にでも出発したっていいのです」
「平日の午前十時頃の、東京駅発の新幹線を選んで、そのなかで落ち合えばいいわ」
「日時と列車を僕が選んでみます。そしてここへ電話をします。あるいは、またここへ僕が来ます」
「そうしましょう」


 太平洋側は晴天が続く、という予報が出ていた。矢野は日を選び、新幹線の列車もきめて、コンパルサに電話をした。そのとおりにしましょうと三津子は言い、それで約束は出来た。そして当日、小旅行の鞄を持って、矢野は東京駅までいった。プラットフォームには列車がすでにいた。乗車が始まるのを待ち、ドアが開いたらすぐに車両に入った。いったん席にすわり、発車してから三津子を探した。自由席の三両目に彼女はいた。隣の席はおそらく空席だと彼女は言った。だから矢野はそこにすわった。走る新幹線の外は晴天の真夏日だった。
「一九四二年生まれなのね、あなたは」
「ですからいま二十四歳です」
「絵はどこで勉強したの?」
「美大です。物心ついたときにはすでに絵が得意で、いろんな人に褒められて。絵を描くことだけが出来るのです」
「手塚さんとは長いつきあいなの?」
「美大の学生の頃、手塚さんの会社で僕はアルバイトをしていました。そのときに手塚さんが僕に絵の仕事をさせてくれて、それ以来です。卒業してデザイン事務所に勤めたのですが、すぐに辞めて、それからはいまのようなフリーランスです。手塚さんが仕事をくれて、同業の仲間たちに紹介してくれて、忙しいです」
「今日の予定は?」
「明るいうちに京都に着ければ」
「私たちは普通の列車に乗り換えるのよ。あと一時間三十分くらいかしら。これを降りて乗り換えるの」
「降りて、乗り換えて」
「そしてそれも降りて、今度はバス」
「どこへ向かうのですか」
「海、とでも言っておきましょうか。毎年、いってるところなの。今年も、こんなふうにそこへいけるのが、ちょっと怖いような気持ちもあって、ほんとにそこに着くまでは、あまり言いたくないのよ。言うとなんだか実現しなくなるような気もするし」
「ついていきます。連れていってください」
 三津子が降りると言った停車駅でふたりは新幹線を降りた。長い跨線橋を渡り、従来からある駅へいき、そこで急行に乗り換えた。ふたつ目の駅で降りるとお昼だった。駅から少し離れたところにある商店街の食堂で、ふたりは昼食を食べた。そして駅前に戻った。バスの乗り場には、それぞれに行く先の異なるバスが、数台停まっていた。そのうちのひとつを指さし、
「あれに乗るのよ」
 と、三津子は言った。
 乗って料金を払い、座席にならんですわってしばらくすると、バスは発車した。すぐに市街地を出た。知らなければここが日本のどこともわからない田舎道をいき、やがて海沿いの県道に出た。走るバスの窓から海がすぐ近くに見えた。道路はやがて小さな岬の内側に入った。その岬の突端に向かっているのだということが、矢野にもわかった。海岸前という名のついた停留所で、ふたりはバスを降りた。
 道路から海に向けて少し下がったところが、見晴らし台のような地形になっていた。そこに海の家という屋号の店があった。岬は岩場で海と接しているように見えた。下の海まで、かなりの高低差があった。
「階段があるのよ」
 見晴らし台の端へ三津子は歩いた。鉄棒による手すりのついた狭いコンクリートの階段が、何度も折れ曲がりながら、下の岩場まで届いていた。
「降りましょう」
 そう言って三津子は階段を降りていった。矢野がそのあとに従った。
「こんないい天気なのに、人がひとりもいませんね」
「みんな忙しいのよ」
 笑いながら三津子が言った。
「冬の海が荒れている寒い日なら、ここは陰気な推理小説に描かれる、犯行現場ですよ」
「画家はそんなことを思うの?」
「すべては光ですから」
「どんな光が当たるかによって、おなじ景色でもまるで違ったものになるのね」
「そうです」
 そんな話をしながらふたりは階段を下まで降りた。最後の部分はなだらかな坂になっていて、黒い玉砂利の海岸のなかに浅い角度でめり込むように終わっていた。模型のような小さな海岸だった。濡れた黒い玉砂利の広がりは、玉砂利のひとつひとつをよく吟味して敷きつめたような、人工的な雰囲気を持っていた。
「天然の海岸でしょうか」
 矢野が訊いた。
「こんなところに、わざわざ作らないでしょう。でも、奇妙な海岸ね」
「スパイ小説だと、ひとり乗りの小型秘密潜水艇で、工作員が夜中に密かにここに上陸するのです」
「そういう小説が好きなの?」
「しきりに読んだ時期があります」
 持っていた紙の手提げ袋から、なにかでふくらんでいる小ぶりな紙袋、そしてクラッチ・バッグを、取り出した。そのふたつを矢野に持たせ、三津子は上体をかがめてサンダルを脱いだ。細いヒールのある、夏の赤いサンダルだった。それを三津子は手提げ袋の底に入れ、その上に小さな紙袋、そしてクラッチ・バッグを収めた。そして手提げ袋を矢野に持たせた。シャツのボタンを下からはずしていき、三津子はシャツを脱いだ。水着姿の上半身があらわになった。
「気合を入れるために、水着は自宅から身につけて来たのよ」
 シャツをたたんで手提げ袋に入れた彼女は、スカートを脱いだ。それも袋に入れ、髪をうしろで束ね、海の向こうの岬を示した。
「こことおなじような岬が、向こうにもあるのよ。ここからそこまで、私はこれからひとりで泳ぎます。一時間三十分かかるの」
 三津子の言葉を受けとめながら、真夏の陽ざしに輝く三津子の白い体を、矢野は見た。肩幅や厚い胸板は、コンパルサのカウンターでいつも想像していたとおりだった。矢野の想像よりもはるかに、彼女の筋骨は逞しく出来ていた。かつては踊り子だった女性の脚は、やはりこのような素晴らしい出来ばえなのか、と矢野は思った。
「あなたはバスでさっきの駅まで引き返し、灯台前行きという別のバスに乗って、向こうの岬の見晴らし台前という停留所で降りて。ここにあるのとおなじような階段で岩場まで降りるとそこは防波堤で、その突端に階段があって、下の玉砂利の海岸へ降りることが出来るから。防波堤で待ってて」
 黒い玉砂利の上を軽く歩いて、三津子は海のなかに入っていった。海面が腰を越えたあたりで三津子は海に体を預け、ゆったりと泳ぎ始めた。彼は腕時計を見た。三津子がいま自分に言った段取りを、彼は胸のなかで復唱した。海に向けて泳ぎ出ていく彼女が小さく見えるようになってから、彼は階段を上がっていった。見晴らし台まで上がり、海の家の前を歩いて停留所までいった。そしてそこで陽ざしのなかに立ってバスを待った。
 バスで駅まで引き返し、バス乗り場のいちばん端にあった、灯台前行きという標識のところで、矢野はふたたびバスを待った。やがて来たバスに乗った。おたがいに良く似たふたつの小さな岬に囲まれた湾の奥を、県道が海沿いに縫っていた。バスはそこを走り、やがて岬に入りそのなかほどを過ぎた。終点の灯台前のふたつ手前が、見晴らし台前という停留所だった。矢野はそこでバスを降りた。
 海の家がここには二軒あった。人の姿は見当たらず、見晴らし台も無人だった。そしてここにも、下の海に向けて降りていくための階段が、作ってあった。何度か折れ曲がる急な階段を下っていくと、防波堤の上に降り立った。浅く一度だけ内側に向けて曲がっている防波堤の、突端へ彼は歩いた。防波堤の突端は手すりを省いたコンクリートの階段で、それを降りきると黒い玉砂利の海岸だった。玉砂利はこちらのほうが少しだけ大きいように思えた。
 防波堤に立って矢野は沖の海を見た。泳いで来るはずの三津子の頭は、静かに平らな海のどこにも見つけることが出来なかった。防波堤を往ったり来たりを繰り返し、階段を途中まで上がって海を見渡し、防波堤に降りて腰を降ろし、寝そべってみたりした。何度も見る腕時計では、三津子が泳ぎ始めた時間から、一時間四十分が経過していた。一時間四十分が過ぎて五十分になろうとする頃、突然に三津子の頭が見えた。彼が見当をつけていたあたりよりも、かなり左にそれた位置だった。泳いで来る彼女の頭、顔、そして肩が、おだかな波間をこちらに向けて進んでいた。矢野は高く手をかかげ、左右に大きく振ってみた。三津子は片手を上げた。
 泳ぎ着くまでにさらに十数分かかった。海面が腹のあたりのところで、彼女は泳ぐのをやめて立ち上がり、歩いた。腰、太腿、膝と、海面は下がっていった。玉砂利の上をバランスを取って歩き、防波堤の突端へまわり込み、階段を上がった。濡れた水着姿の彼女は矢野のかたわらに立った。彼女の体から海水が足もとに落ちた。矢野に紙袋を広げさせた彼女は、なかから赤いサンダルを取り出した。そしてそれをコンクリートの上に置いて、両足に履き、腰をかがめてストラップをかけた。数歩だけ離れた位置に立ち、矢野は三津子を観察した。
「画家の目で見てるの?」
 そう言って三津子は笑った。
「素晴らしい体ですね」
「なにかのご参考までに」
「しばらくここで見せてください」
 矢野の言葉に三津子は踊りのステップを踏んでみせた。
「恒例なのよ」
 と、彼女が言った。
「最初にここを泳いで渡ったのは、二十五歳のとき。踊り子仲間の実家が近くにあって、遊びに来たとき向こう側の岬へいってみて、突然に閃いて、私だけ泳いでここへ渡ったのよ。あなたにしてもらったのとおなじように、バスでこちら側へ先まわりして、ここで待っててもらったの」
「これが年中行事ですか」
「そうよ。その年の夏の思い出。途中、一回だけ、抜けたことがあるの。そして雨の日が一回。そのときは怖かったわ。だからそれ以来、晴れてないと泳がないことにしてるけど、ずっと晴れ続きなのよ」
 ふたりは防波堤から階段を上がった。三津子が先に歩いた。海の家には、シャワー・着替え、という看板が出ていた。三津子はそこに入ってシャワーを浴び、着替えをした。矢野の待つ外へ出て来たとき、彼女の髪はまだ濡れていた。濡れた髪をうしろに向けてときつけた彼女には、いつもとは質の異なった精悍さがあった。
「これで今年も無事に終わったわ」
 バスを待ちながら、三津子が言った。
「毎年、誰かと来るのですか」
「おなじ人よ。ハワイアン・センターにいる踊り子。別の人が付き添いにつくのは、今年が初めて」
「なぜ僕なのですか」
「なぜって、別に理由はないのよ。おなじ方向に向かう用事があるというあなたを、誘ってみただけよ」
「たいへんいいものを見ました」
「まあ」
 ふたりはバスで駅へ戻った。京都へ向かう彼はここから新幹線の停まる駅までいき、そこで新幹線に乗り換える。
「私は、ちょっと引き返して、寄り道をするわ」
「ではまた、店で」
「そうしましょう」
 彼女が乗る列車が先に駅へ入って来た。彼女はそれに乗った。そのすぐあと、反対の方向に向かう列車に、彼が乗った。そして服部三津子とは、それっきりとなった。
 予定していた取材をすべて済ませ、矢野は新幹線で東京へ帰った。三津子が泳いだ海のそばをとおった。その海が見えた。もう一度あの海へいってみたい、という衝動を彼は自分の内部で受けとめた。小さな湾の両側にある岬へいってみたい、そしてどちらの側からも、夏の海を気のすむまで見たい、と彼は思った。三津子とふたりで乗り換えた駅では、降りかけたほどだ。
 東京へ着くまでずっと、矢野哲郎は服部三津子のことを考えた。さまざまに考えた結果として、ひとつのきわめて強い欲求が、彼のなかに結晶のように残った。彼女を絵に描きたい、という強い欲求だ。絵を描く前に、これほどの強さで描きたい衝動を覚えるのは、彼にとっては初めての経験だった。
 自宅に帰った彼はすぐにイーゼルにカンヴァスを用意した。絵の具や筆を点検した。必要なものはすべて彼のアトリエのなかにあった。夜遅くまで、彼はスケッチに没頭した。これでいい、と全面的に認めることの出来るスケッチをその夜のうちに完成させ、次の日から彼は描き始めた。
 数日間、彼は描くことに熱中した。そして絵は完成した。描きたいという衝動の強さと、彼の内部で均衡するだけの満足感を、彼はひとりで手にすることが出来た。いくつもの仕事の予定が、延ばしたまま重なっていた。それをこなしていく忙しさの途中で、夏はいきなり終わった。残暑がまだ厳しいはずの頃、秋も深まった時期に感じる肌寒さの日が続き、それはそのまま秋の終わりへとつながった。
 夏の途中から秋のあいだずっと、そして冬になっても、矢野はコンパルサへいかないままだった。三津子の絵を描くことによって、自分の意識の外へと出てしまったものが大きかったのではないかと、十年後のいまになって矢野は思ったりもする。なにかと言えば矢野をコンパルサへ誘った手塚の不在のほうが、ひょっとしたらより大きく作用したかもしれない。肝臓の障害で手塚は入院した。仕事を引き継いだ編集者は酒を飲まず、仕事を丁寧にこなすだけで、それ以上の関係は誰とも持たない人だった。
 手塚を見舞わなくてはいけない、と思いつつ冬が来た。師走という言葉を目にしたり聞いたりし始める頃、手塚が退院したことを矢野は聞かされた。だから矢野は彼の雑誌の編集部に電話をかけたが、手塚は出社せず自宅でさらに療養に努める、ということだった。手塚はいったん休職扱いになった、という話を聞いた前後、コンパルサが店を閉めたことを、これも矢野は人づてに聞いた。そして年が明けてすぐ、店は取り壊された。立ち退きの交渉がまとまった店は、かたっぱしから取り壊された。あの路地の東側はたちまち歯の抜けたようになり、そこからはいっきに残ったすべてが壊されて更地となり、春には路地の東側は跡かたなく消えた。それも矢野は人から聞き、自分では見届けないままとなった。


 バーや飲み屋へいくこと、そしてそこで夜遅くまで酒を飲んだりすることに関して、矢野哲郎はもともとさほど熱心ではなかった。何軒ものいきつけの店をめぐっては酒を飲む、という種類の酒飲みでもなかった。コンパルサへは五度しかいってない。コンパルサの他に、彼の知っている酒の店はなかった。コンパルサが東の端にあったあの歓楽街がそもそも、彼が自ら足を向ける場所ではなかった。そしてコンパルサは手塚とつながっていた。手塚に誘われ、彼とともにいく店だった。
 その手塚の体は回復した。しかし部署は編集とは関係のないところになった。手塚にしばらくは楽をさせるための、会社による配慮だということだった。銀座で偶然に会って以来、手塚とも疎遠になった。手塚に頼まれる仕事、そしてそれらを引き受ける自分の都合といった状況のぜんたいが、手塚に誘われて訪ねるコンパルサに重なっていた。そしてその状況を構成していたいくつかの要素が、ほぼ同時に消えた。
 時代が変わった、という言いかたは大げさにすぎるが、時代の急激な変化、つまり次の段階への移行というものは、矢野の身の上にすら変化をもたらした。仕事の内容がそれまでとは微妙に異なっていく、というような変化だ。それにともなって、つきあう編集者たちの顔ぶれが変わり、彼らと打ち合わせをしたり、あるいは食事や酒となるとき、そのための場所は以前とは異なるところになっていった。
 そして時間は経過していき、その経過は十年分へと積み重なった。コンパルサが消えてから数年後に、ある作家が雑誌に書いていたのを、矢野はいまでも記憶している。東京オリンピックの前と後、という時代や社会の区切りかたをめぐる文章だった。一九六四年を明確な一本の線のような境界として、そこでその前後にくっきりと日本社会が分かれるのではなく、前後少なくとも二、三年の幅で、つまりオリンピックを中心として五年ほどの時間のなかに、それ以前と以後を決定的に分けるさまざまな分岐点があるはずだ、という趣旨の文章だった。この文章はコンパルサや三津子にも触れていた。店が消えたあと三津子は鹿児島で母親とともに住み、学校の先生をしている、とそこには書いてあった。
 あれから十年が経過した。十年という時間などなにほどのこともない、という態度はあり得るとしても、十年は確実に経過して去ったのであり、そのなかで消えたり変化したりしたものは多いはずだ。あの頃の自分は二十四歳で、いまは三十四歳だ。独身のまま、そして両親は健在で、彼らが住んでいる家の敷地のなかに作った別棟が、いまの矢野の住処だ。
 この十年、イラストレーターの矢野哲郎は多忙だった。いまはさらに忙しい。いろんな注文に応じた。イラストレーション、そしてそれに添える場合とそうではない場合とを含めて、文章による仕事。それなりの存在になった。名前は知られている。しかし、なにかが違うかな、という思いは彼の感覚の片隅に確実にあった。なにが違うのかと自問すると、このままでは横這いが確定されていくだけ、というような自答をしなければならない。はまり込んでそこを自分の世界としている。はまり込んでいるなら、やがてそこに取り残されるのではないか。
 そしてこのような思いはおおむね不愉快だ。楽しくない。嫌だ。したがって、思いはするけれど、深くは考えないようにして退けている。しかし、自分はこの問題を意識的に退けている、という認識は常にあるのだから、そのことがさらに不愉快であり、その不愉快さをどこかで否定したり無視したりしなければならない。自分のこういった状態を、人から端的に指摘されるのは、けっして楽しいことではない。しかし、指摘には感謝しなくてはいけないのではないか。たとえば、荻野景子による指摘には。
 荻野景子は彼とおなじ年齢だ。スタジオ・ミュージシャンとして、ピアノを中心とする鍵盤楽器を演奏するのが仕事だが、彼女自身としては歌人であることが拠りどころになっている。ものごとのとらえかたや判断のしかたは、きわめて鋭く正しい。そしてそれを言いあらわす言葉は彼女独特のものだが、鋭く正しい判断にいたる論理の筋道は、共有することが出来る。
 絵を描く人である彼の鑑賞眼に堪える景子の美貌は、ひどくきつい性格の冷たい人にしか見えない、という方向で端正にまとまりすぎている。容姿は誰の目にも端麗そのものだ。しかしその端麗さは人の視線を撥ねつける性質を常に帯び、寄らば斬るぞ、というような雰囲気がかならず漂う。髪のつくりや化粧、そして服の好みなどを総合して彼女の容貌や容姿に重ねると、ほとんどの場合、彼女は銀座の店のホステスに見える。なにかのパーティに出席すると必ずコンパニオンに見られる。夜の八時頃に銀座を歩くと、黒いスーツに身をかためた男たちから、お早うございます、と挨拶される。十一時前後には、お疲れさまです、という挨拶に変わる。こうした外見が彼女の性格とどのように重なるのか、あるいははずれているのか、つきあって三年になるいまでも、矢野にはよくわからない。かたや男、かたや女としての相性はたいへんいい、と景子は言っている。
 いまの自分のありかたに関して、どこかでなにかが違い始めているという淡い認識は、景子の鋭さが以前にくらべるとより深く突き刺さる自分を作り出している、と矢野は思ったりする。そのような思いの延長として、自分を景子に診断させるようなきっかけを、矢野は少しだけ作ってみた。
「あなたは才能のある人なのよ。注文に応じてその才能を切り分け、いろんな人を喜ばせるのね。しかも絵だから、なんでも描くことが出来て。絵はひとまずかたちでしょう。かたちのあるものを絵にするわけだから、いつでも、いくらでも、なんでも描けるのね。まったくの想像で描くとしても、最後はかたちのあるものとして、絵になるのよ。そうではないと絵は出来ないわね」
「僕がいまの自分に関して、うっすらと感じている不満は、そこにあるのか」
「そことは、どこのことなの?」
「かたちのないものは描いて来なかった、というような空白」
「不満ないしは不安の発生源には、なるかもしれないわね」
 描けばなんでも描けてしまう。注文に応じて。それだけのこと、と言ってしまうと、確かにそのとおりだ。そしてそれを十年続けて来たから、ひとつのところにはまり込んでいる感覚は、少なからずある。
「見ればわかるもの、すでに存在しているもの、かたちを持っているもの」
「それを描く」
「いまのあなた」
「そしてそのような自分は、どこかでなにかが違い始めている、と思う」
「そう思うようになった、きっかけのようなものは、あるのかしら」
「ひとりの編集者だ」
「なにか言われたの?」
「絵筆をペンに持ちかえてみませんか、とその編集者は言った」
「ペンでなにを書くの?」
「小説」
「以前、私も言いましたよ」
「覚えてるよ。絵をなしにして、文章を小説まで練り上げると、どんなふうになるか興味がある、というような言いかたをした荻野景子」
 絵筆をペンに持ちかえませんかとは、小説を書きませんか、ということだ、それ以外に意味はない。もったいないですよ、とその編集者は言った。矢野をその気にさせるための言いかたとして半分を差し引いても、残りの半分は機能を失っていない。ちょうどいい年齢だと思います、と編集者は言った。絵を描いて来た経験は存分にあり、これはいろいろと有利に作用するにきまっている、そして文章は平明でこれはいちばんいいことです、とも彼は言った。これまで矢野が絵とともに書いて来た文章を、文章だけで独立させれば、最初の段階としてはそれでいい。
「たいへん書きたい」
 という矢野の言葉に対する景子の反応は、
「書いたら?」
 というものだった。
「たいへん書きたい、という思いに対する、もっとも誠実な態度は、書くことでしょう」
 矢野が景子に関してもっとも気にいっているのは、このような反応のしかただ。
「小説を、とひと言だけ言われたのに、それに対する僕の反応は、かつてないほどに強いものだった。書きたい、という反応は」
「大事になさい」
「絵とはまるで反対の世界だろうか」
「かたちがないから、どうなるかわからないわね。でもそのかわりに、他では得られない、なにかがあるはずよ」
「僕が小説を書くとしたら、なにを書くのだろう」
「いまのあなたは、その段階から始まるのね」
「そうするしかないよ」
「絵の場合は、出来上がるとそれは要するに場面でしょう。ひとつの場面ね。そしてその前後には時間が流れていて、その時間のなかに物語がさまざまにある、ということになるわね」
「僕が描いて来たものが、絵と言えるかどうか」
「描いたものすべてをひとくくりにすると、それは場面でしょう。物語として経過していく時間のなかの、そのときその場での、そのひとつの場面」
「なるほど、ストーリー・ボードのひと駒か」
「難しく考えることはないのよ」
「そうか」
「あなたの絵の、本気になったときの容赦ないリアリズムと、ちょっと真似の出来ない詩情。小説の場合でも、柱はやはりこのふたつでしょう」
「雲をつかむようだね」
「登場人物は男と女と、そのどちらでもない中間の人と。その三とおりしかいないのよ」
「男と女がなんらかのかたちで時間を共有して」
「なんらかの体験をくぐり抜けて、そのぶんだけ、ともに変化していきます」
「その積み重ねが人生か」
「そうね」
「それをどうやって小説にするか」 
 自分は男、そして景子は女。物語として経過していく時間、という景子の言葉を、この自分たちにあてはめると、どうなるか。自分の身の上で時間をさかのぼってみると、十年向こうにコンパルサや三津子、そして彼女が泳いだあの夏の海などがある。あれは強烈な体験だった。三津子その人が充分に強烈で、岬から岬まで彼女が海を泳いで渡ったのは、言うならば決定打だった。
 三津子をめぐる体験のぜんたいは、三津子を絵に描きたい、という強い衝動へと束ねられた。絵を描くことへと自分を駆り立てた衝動として、あのときの衝動は生まれて初めて体験したものだと言っていいほどに、強いものだった。三津子というひとりの女性に対する自分の感情があの絵を描かせたのではなく、三津子と共有した時間が、一点の絵というまったく別なものへと結実したのだ。小説を書くなら、とにかくまず最初の一作のためには、あれに匹敵するほどの衝動を、自分のなかに喚起しなくてはいけないのか。
 十年前、二十四歳のときに描いた服部三津子のポートレートが、いま矢野哲郎の目の前にあった。仕事をするための横長の大きなデスクに向かって椅子にすわり、重ねた本に立てかけた十年前のポートレートを、彼は見ていた。木枠に貼ったカンヴァスの油絵だ。かならずしもコンパルサではないが、バーのカウンターだとわかるその内側に三津子がいる。カウンターから上の上半身が描いてある。いい女性だ、なかなかの美人だ、ということは見ればわかる。描いた当人である矢野には特別な意味を持つ作品だが、彼以外の人にとっては、単なるよく描かれたポートレートだ。カウンターの縁に体を寄せ、左腕は肘から指先までがカウンターの上にある。カウンターに対して体の右側をややうしろに引いている。だから右手は掌と指だけがカウンターの表面と接している。白いシャツに小さなボウ・タイ。左肘の近くにガラスの灰皿。シャツの下にある体は、肩幅とその厚み、そして胸板の広がりとその奥行きの深さだった。腕が素晴らしい。あの海を泳いだ腕だ。何度目とも知れず、矢野はそう思った。
 この絵を自分に描かせた強い衝動のもとになった、コンパルサという店、そこにいた三津子、ふたつの小さな岬にはさまれたあの海といった、連続する出来事は本当にあったことなのかどうか。自分が描いたこのポートレートだけが残っているいま、矢野はふとそんなことも思った。これで何度目になるか。小説を書かないかと言われてから、矢野は主としてこのデスクで、いろんなことを考えた。景子が言ったことをきっかけにして、彼は三津子まで時間をさかのぼった。三津子とは、いま彼の目の前にある、この絵だ。この絵を彼に描かせた、十年前のあの強烈な衝動だ。
 かつてコンパルサのあった場所へ、矢野は十年ぶりにいってみた。いかに消えたか、そして消えたあとがどうなっているか、人づてに聞いてはいた。自分の目で確かめるのは、十年という時間をへだてておこなう、初めてのことだった。コンパルサは見事に消えていた。梅雨が明けて間もない頃という、偶然にもおなじ季節だったから、彼女が泳いだ海へも彼はいってみた。十年前とまったくおなじルートをたどった。岬へいくバス、東西ふたつの岬、そしてそれにはさまれた海など、十年前とおなじだった。
 泳ぎついた彼女が玉砂利の海岸から上がって来た防波堤で、矢野はひとりだけの時間を過ごした。十年前、そして十年後のふたとおりの時間が、彼のなかでなんの無理もなく重なり、ひとつになった。海水のしたたる水着姿でここに立った三津子を、いま絵に描いたらどうなるか。海や防波堤の取り込みかた、そして三津子のポーズによっては、美人画とも言いきれない面白い絵になるだろう。想像のなかに描いた絵を思い出しながら、いまの矢野は十年前の三津子のポートレートを眺めた。
 この絵を景子に見せようか。その間の事情をすべて説明して聞かせる。景子はなんと言うか。かたちのあるものはすべて消えた。しかしこの絵はこうしてここに残っている。この絵も、かたちあるもののひとつなのか。描きたいという抑えがたいあの衝動という、本来はかたちなどないものを、ひとまず自分にも出来ることとして、この絵に描きとめた。描く前は、なにもないひとつの空白のカンヴァスだった。
 小説を書こうとしている自分は、いまおなじような空白を目の前に見ているのか。絵はかたちを持っている。このかたちのまま、こうしてあり続ける。描かれている三津子を中心にして、前後左右あらゆる方向に、時間が流れている。その時間は物語だとすると、それはいまも不変でそのままあるのではないか。どのような物語も、その時間のなかで可能ではないか。それをひとつひとつ書きとめたいという強い希求を、彼は絵のなかの三津子に確認した。
[#改丁]


あとがき



 目次のいちばん最初にある『バスを待つうしろ姿』を書いたのは、いまから三年ほど前だろうか。そのあとほぼ一定の間隔を置いて、『紙の上に鉛筆の線』と『後悔を同封します』そして『坂の下の焼き肉の店』を書いた。いずれもこの順番に雑誌に発表した。『もう痛くない彼女』『いまはそれどころではない』『孤独をさらに深める』の三編は、二〇〇四年の夏に書き下ろした。『都電からいつも見ていた』を雑誌に書いたのはそのすぐあとだったが、内容から見て目次のこの位置に置くのがふさわしいという理由で、この位置にある。
 八編を書いた順番とその配列は、はっきりさせておきたいと思う。なぜならどの短編も、絵を描く才能のある青年が、その能力にまかせて、なんの無理もなくさまざまな絵を描くことをとおして、自らの物語とその方向をほんの少しだけ作っていく、という主題がどの短編にも共通していて、ひとつまたひとつと書いていくにしたがって、その主題は、少なくとも一段階くらいは上の次元へと、拡張ないしは進化されていったように、書いた当人としては思っているからだ。
 『バスを待つうしろ姿』『紙の上に鉛筆の線』『坂の下の焼き肉の店』『都電からいつも見ていた』『もう痛くない彼女』そして『いまはそれどころではない』の六編は、二十代の青年を主人公としている。どの彼もそれぞれに絵を描くのだが、注文に応じて商業的に絵を描く日々はまだ始まったばかりであり、彼の人生はもちろんのこと、いま現在の彼そのものが、海のものとも山のものともわからない状態だ。ただしその彼は絵を描くことが出来る。そしてその絵は、それを見た人の気持ちを強くひきつけてやまないほどの、奥行きのある素晴らしい出来ばえだ。
 『孤独をさらに深める』の主人公は、いま少し年齢を重ねて三十代に達している。『後悔を同封します』の人は四十五歳になっている。絵を描くことの出来る青年として人生をスタートさせた彼らは、絵を描く日々がうまくいき、その延長線上にいまもいる。ただし三十代そして四十代ともなると、自分がこれまでやってきたことを、肩ごしに振り返ることが、ときたまはある。振り返ってそこになにが見えるか、前方に視線を向けなおして、そこになにがあるのか。『孤独をさらに深める』と『後悔を同封します』では、そのようなことが書かれている。
 なにかはっきりしたことが出来ない人は小説の主人公にはなれない、という考えをおそらく僕は小説を書き始めた最初から、持っていたのだろう。いっさいなにも出来ない人を主人公にした小説はもちろん成立するけれど、ひとりの書き手によって書き得る数は少ないのではないか。たくさん書いてそのどれをも物語としてきちんと成立させようとするなら、それらの物語の主人公たちは、なにかが確かに出来ないといけない。一編の小説を書こうとするとき、なにがどの程度の質においてどのくらい出来る人を主人公に選ぶかという地点で、書き手はまずたいそう厳しく試されているような気がする。
 『バスを待つうしろ姿』を書くときすでに、絵を描くことの出来る青年を主人公にすることは、きまっていた。絵を描く人を主人公にしてひき続きいくつか書き、最終的には一冊の本を編むことが出来るほどの分量にしてみたい、とも僕は思った。その思いは現実になりつつある。本を一冊作りたいのではなく、合計してそのくらいの分量になるいくつかの物語を、書くことが出来るかどうか試してみたい、ということだった。
 八編の物語を書くために自分が使った言葉は、いったいどういう性質の言葉なのだろうか、と書いた当人の僕はいま思う。主人公たちそれぞれが絵を描く行為は、いまの彼らのありかたをそのままあらわしている。と同時に、彼らが生まれてから現在まで過ごして来た時間と、そしてそのなかで体験したことすべてが、いま絵を描くという彼らの行為を支えている。そしてさらには、彼らひとりひとりのこれからの日々のおそらくはぜんたいが、いま描く絵のなかにすでにあるはずだ。
 ひとりひとりの主人公をめぐって、おおざっぱにはこういうことを書くために、僕は言葉を使った。絵を描く才能は遺伝によっている、という説を僕は信じている。本人の思いはどうあろうとも、絵を描こうと思えばなにであれたちまち描くことが出来、その絵は誰もが驚くほどにうまい、というような才能だ。絵を描く行為は明らかに体の行為だが、その行為のなかには、たったいま触れたとおり、それぞれの主人公の来し方と行く末という、心の営みのすべてが溶け込んでいる。
 彼がなにを考え、そのことの延長としてどのような絵を描き、それによって自分をさらにどのようにしていくのか、といったことすべてが、僕の使う言葉によって記述され描写されていく。この本にある八編の短編小説は、内容を充分にともなった上で、起動しようと思えばいつでも起動させることが出来、そのまま持続させるなら好きなだけ持続させることが出来る、といった主人公たちそれぞれの、体の機能を描き出している。自分が描く絵をめぐって、それぞれの彼がいかに滑らかに、そして望むらくは充分な奥行きを持って、好ましく機能するか。このことのために僕は本一冊分の言葉を使った。
 八編のどれにも、男性の主人公とともに、女性がひとりずつ登場している。彼女たちもまた主人公だ。しかし彼女たちには絵を描く必要はなく、いまの彼女たちそれぞれのありかたが、そのまま彼女たちのぜんたいであり世界であるという強さのなかにいるから、この強さにおいて、彼とまったく対等の関係のなかで、彼の発揮する機能と呼応し、共振や共鳴をすることが出来る。彼と彼女とのこのような関係は、向き合ったふたりのあいだだけで常に完結し、それゆえにいずれ先細りとなって消滅にいたる、といった性質のものではない。ふたりの機能がおたがいに作用し合い、何倍にもふくらんでいくなかで、ふたりのどちらに対しても、新たな地平を見つけさせる作用をし、ふたりともをそこへ押し出していく力であるといい。
 どの彼も機能を発揮するのは絵を描くという行為をとおしてだが、彼女たちの場合はそれぞれの存在がそのまま機能だから、どの彼女たちも肉体的な存在としての機能を、自分自身のために楽しみ、彼との関係のなかでも楽しんでいる。彼女たちは純粋に肉体的な機能だと言ってもいい。だからこそ僕にとっては、彼女たちなしではどの彼の物語も成立しないのであり、彼の物語を作るなら彼女をも書かざるを得ないのだ。
 『孤独をさらに深める』に登場する服部三津子という女性は、肉体的な機能におけるわかりやすさでは、象徴的な存在だととらえていい。ひと夏のあいだに、湾の海をかならずひとりで泳いで渡る、という肉体的な機能を発揮する彼女は、その前身が肉体的な存在のひとつのきわみであるはずの、踊り子だったりする。『いまはそれどころではない』の津田美枝子は、息子とは高校で同級生だった若い彼に対して、性的な能力を発揮する。それをなんとか対等に受けとめることのなかに、いまはそれどころではない、という彼の状態があり、その状態を美枝子の能力は、彼にとっては思いがけない方向と質において、充実させ拡大してもいるはずだ。
 『バスを待つうしろ姿』『紙の上に鉛筆の線』『都電からいつも見ていた』『もう痛くない彼女』の四編に登場する女性たちは、三津子や美枝子の次元にはいたっていないものの、ゆとりある機能の蓄えをうしろだてのようにして、三津子や美枝子への可能性を充分にはらんでいる。『後悔を同封します』と『坂の下の焼き肉の店』では、女性がふたりの別々の女性へと造形されている。
 どんな絵を描くことが出来るのか。なにを思って描くのか。それによって彼はどうなるのか。絵を描く営みが蓄積されると、それは彼の人生へとなっていくのか。こうしたことをめぐって発揮される彼の機能に対して、共振や共感の関係で対等に呼応するという、肉体的な機能を発揮する女性を彼とともに置いて、それぞれの物語が始まったばかりの部分を、あるいはかなりのところまで進行したあたりを、僕は八編の短編で描いた。そしてそのために使った言葉は、まことに僕らしく、きわめてすんなりと機能した、とは思っている。

片岡義男





底本:「物のかたちのバラッド」アメーバブックス
   2005(平成17)年5月28日第1刷発行
入力:八巻美恵
校正:高橋雅康
2012年4月10日作成
2012年12月31日修正
青空文庫収録ファイル:
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