少女時代

片岡義男




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たしかに一度だけ咲いた



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「アイロンをかけてたとき、思いついたの。きりも素敵だなと、私は思いました」
 リカが言った。
「霧もいいですね」
 ハチミがなかば叫んだ。人の意見に賛成するとき、いつも彼女はなかば叫ぶ。彼女の名は初美という。はつみ、と読む。しかし、クラスの仲の良い仲間たちは誰もが、彼女をハチミと呼んでいた。
「でも」
 ナナエがハチミとリカのふたりに言った。
「小さな霧吹きで、しゅっしゅっと、二度や三度吹いたくらいでは、リカはなくならないでしょう」
「そうね」
「大きな霧吹きを使うのです」
「誰が吹いてくれるの?」
「それが問題ですね」
「どこか広い場所で、私の全部が、いっきに霧になるの」
「それなら素敵」
「赤い霧」
 リカが言った。
「赤がいいの?」
「すこし寒いような日で、空は曇っていて、しーんとして静かなのね。町ではなくて、どこか遠いところ。山のなかというわけでもないけれど、高原の奥のほうで、いったん峠のように高くなって、そこからすこし低くなった場所。見とおしのいい、広い場所」
「素敵です」
「高い崖みたいなところから、私は身を投げるの。すうっと落ちていく途中、自分の意志によるタイミングで、ぱっと霧になれるの。まっ赤な霧」
「誰も見てないの?」
「見てて。ハチミとナナエとトモには、絶対に見ててほしい」
「見ます。手袋をして、イア・マフをかけて」
「あ、可愛い。そいうの、トモにぴったり」
「ダッフル・コートを着て」
「そう、そう」
「リカは赤い霧になるのね。風が吹いて来て、その赤い霧が、さあっと空中を流れるのね」
「そうよ。でも、すぐに空間にのみこまれて、見えなくなってしまうの。私はそれで終わり」
 リカがしめくくった。
「完全に見えなくなるまで、見ててあげます。安心してて。でも、見えなくなったら、悲しいな」
「写真に撮っておけばいいかしら」
「そうね」
「写真ですか」
「曇った空に、赤い霧がさあっと流れてるの。ほかの人が見ても、なんのことだかわからないわ」
「書いておいて。その写真の下に。私の名前を」
「リカは霧と消えた」
 トモが言った。
「それがいい」
「赤い霧の午後、私たちはリカを見送りました」
 ナナエが言った。
「それもいいね」
 リカはうれしそうだった。
「赤霧リカの最後」
 ハチミが言った。そして四人の少女たちは、はじけるようにいっせいに笑った。
「それが最高」
 リカと呼ばれている彼女の名は、赤桐里花という。
「自分の名前から思いついたことなのかしら、霧になって死にたいというのは」
 トモがリカにきいた。
 リカは力をこめて首を振った。
「そんなことないのよ。人の言った冗談がやっとわかったみたいに、いま初めて自分でも気がついたの」
 ほかの三人が楽しく笑った。
「ということは、リカは語呂あわせで死んでしまうのね」
 ナナエが言った。
「悪くないよ」
「いいね。こういう洒落は、仲間のほかは、誰にもわからないから」
「TVの天気予報で言ってくれるといいな。なお本日、関東甲信越地方のとある一角で、午後三時十五分頃、赤い霧がさっと流れて消えるという、不思議な現象がありました」
「それは賛成」
「霧の色は赤なのね」
 トモの質問に、
「リカには赤がいちばん似合う色だから」
 とハチミが答えた。
 掘りごたつのテーブルをはさんで、ナナエのむかい側にハチミがいた。ハチミからふと視線をはずして窓を見たナナエは、窓の外に降りはじめている雪を見た。
「あ、雪」
 ほかの三人が窓をふりかえった。
「ほんとだ」
「降ってますね」
「積もるといい」
「大雪」
「そう!」
「学校、休み」
「明日は日曜だよ」
「だから、月曜まで降り続け」
「それなら積もるね」
「雪もいいな。死んだ私は、雪になるの。雪になって空から降って来て、どこかに積もって、太陽が出て来て溶けて流れて、あるいは蒸発して、それで私はおしまい」
「いいね。海に降ると、もっといい」
「山の奥に半年ほど積もってるのも、悪くないわ」
「冬に降って、夏になってもまだすこしあるの」
「会いにいけるわね、みんなで。手ですくってあげて、指先で触れて、ハチミ、ハチミと、名を呼んであげる」
「いいわ、それ。でも私は雪だから、返事は出来ないね」
 ハチミが言った。
「丸めて球にして、みんなで雪合戦をしましょう」
「当たるとハチミのほうが痛いよ」
 ハチミの自宅の二階にある五つの部屋のうちのひとつに、この四人の少女たちはいた。畳敷きの十畳の部屋だ。まんなかに掘りごたつがあり、彼女たちはこたつに入っていた。おなじクラスの仲の良いグループだ。四人とも十四歳だ。
「雪に色はつかないのかしら?」
 トモがハチミにきいた。
 ハチミは首を振った。
「色はつきません」
「どの雪がハチミなのか、わからないわ。どうしましょう」
「いいのよ、わからなくても」
「どれがハチミかしらと、私たちは捜すのに苦労するね、きっと」
「これだと思えば、それが私なのよ」
「降る場所をきめておいて」
「それは便利でいいね」
「みんなの家の庭に降ろう」
「時間をきめておかないと」
「そうだね」
「その時間に雪が降るのを、私たちは待ってるのね?」
 多少の不満の気持ちをこめて、ナナエが言った。
「そうねえ。そういうことになるかしら」
「時間はきめないでほしいわ。朝、目が覚めたら雪が降っていて、どれがハチミかなと思いつつ、夜になってもまだ降っていて、ハチミはもう降ったかなと思いながら、私は眠りたいから」
「雪の結晶ひとつ、というのはどう」
「雪のひとひら」
「きれいね」
「平凡に美しい」
「結晶って、小さいでしょう」
「そうね」
「降りかたが難しい」
「そうね」
「花のなかに降ります」
 ハチミが言い、ほかの三人はそれぞれに声を上げた。
「それはあまり感心しない」
「出来すぎよ。絵になりすぎ。イメージ先行」
「駄目か」
「それに、花は気持ち悪いです」
「花が不気味なときって、確かにあるからね」
「私の家の庭にある池に降るといいかもしれない」
「鯉がいますね」
「池の水の上に、雪の結晶がひとつ、はらりと落ちてそれでおしまい」
 ハチミの言葉にナナエは首をかしげた。リカは、
「なるほど」
 と言い、ナナエは首を振った。
陳腐ちんぷよ」
「そうかしら」
 今日、冬の土曜日の午後、いっしょに勉強をするという理由をつけて、四人は集まった。二階でこたつに入るとすぐに、ハチミの母親が汁粉しるこを持って来た。甘さを上品におさえた、よく出来た汁粉だった。
 それを食べ、食器を階下へ持っていき、そのあと四人は話を続けた。勉強はまだ始まっていない。本当に勉強するつもりは、四人のなかの誰にもなかった。
 四人は死ぬことについて話をしていた。どんなふうに死ぬともっともきれいで気分がいいかという話題は、この四人が好む話題のひとつだ。
 自分にとってもっとも望ましい死にかたに関して、四人はそれぞれにイメージを作っては、それを仲間のまえで披露する。批判や賛成を受け、おかしいアイディアには心から笑い、さまざまな修正を加えては、次々にヴァリエーションを生み出していく。ヴァリエーションもアイディアも、そしてもとになるイメージも、つきることはなかった。
「ナナエの死にかたをまだ聞いてませんね」
 リカに催促されて、ナナエはほかの三人を順番に見た。
「これまでに出したアイディアは、みんな取り消します」
 と、ナナエは言った。
「いいアイディアがいくつもあったのに、みんな取り消してしまうの?」
「残念」
「取り消し。なぜかというと、やはり問題は血なのよ。さっきリカが言ったように、赤い霧になるというアイディアも、血がどこへ消えるべきかについての、ひとつのアイディアだと私は思います」
「血というものは大変だからね」
「大量にあるし」
「とにかく血がなくなるといいなと思って、そればかり考えてたら、いいこと思いついたの。血を湖に吸い取ってもらいます」
「血と湖」
「あるいは、湖と血」
「説明して」
「あのね」
 テーブルの上数センチの空間を、ナナエは両方の掌で平らにならした。
「季節は五月。よく晴れた美しい日の午後。どこか高原のなかの、さほど大きくない、しかも人のまったくいない静かな湖のまんなかへ、私はボートで出ていきます。湖のまんなかまで来たら、ボートをとめ、ボートの上であおむけに寝て、空を眺めるの。一時間ほどそうしていて、空や湖とうまく気持ちがひとつになったら、剃刀かみそりで左の手首を切り、湖のなかにつけます。そのまま空を見ていれば、血は湖のなかに吸いこまれていき、私はやがて気を失い、血はなおも流れ、限度を超えて流れ出てしまうと、そのときはすでに私は死んでます」
 ほかの三人が拍手をした。
「きれい!」
「すごいっ!」
「立体的ですね。ナナエにぴったり」
「血が大量に出てしまうと、色は白くなって、顔なんかほっそりしてしまうのですって。最高。ひきしまって青白くなって、私はもうどこにもいません」
「ボートに乗ったままなの?」
「リカとハチミとトモが、桟橋さんばしから別のボートで来てくれて、私のボートを桟橋まで引いていってくれます。そして私を岸に上げて、あとは霊柩車れいきゅうしゃに乗せてくれれば、それでおしまい」
「最後まできちんと出来てるね」
「無理がないわ。まったくの空想ではないし、現実にあり得ることだから。いいよ、ナナエ。それ、たいへんいい」
「その湖は、いくらなんでも、急にはなくならないでしょう。私に会いたくなったら、湖まで来てください」
「その湖で泳いでしまいます」
「くすぐってあげましょう」
 みんなが笑った。
「最高ですね」
「とてもいい」
「だから私は、これにきめました。絶対に、いま言ったとおりに、私は死にます。これ以外は、いまのところ、絶対に嫌です」
 いかに死ぬといいかについて好んで語り合う四人は、早死にしたいという希望において一致していた。中学に入るまえから、この四人は自分たちの早い死とそのかたちについて、何度も語り合って来た。ハチミは、ほかの三人への年賀状に書いた自分の名前のあとに、『早く死に隊のメンバー』などと書いたりする。
「この願いをかなえたい」
 せつなく、ナナエが言った。
「いつも思ってれば、かなえられるよ」
「赤い霧になるのはちょっと大変ですけど、いまのナナエのアイディアなら、実現性があります」
「だいじょうぶよ、ナナエ」
「かなえてね」
「どの人の願いも、すべてかなうといい」
「早く死にたい」
「私も」
「みんなそう思っています」
「死にましょう」
「いなくなりましょう」
「最高です」
 この四人がここでともにおこなう予定だった勉強は、小論文の宿題だ。『私の将来の希望』というタイトルで、四百字詰めの原稿用紙七枚に、文章を書く。十二月二十三日から彼女たちの学校では冬休みが始まる。それまでに提出する宿題だ。
 どのようなかたちで早死にするといいかについて、彼女たちは語り合い、好きなだけ笑った。そしてそのあと、それぞれにノートブックを取り出し、なにも書いてないページを開き、宿題の小論文について考えた。
 四人に共通した将来の希望は、自分が思い描き、親しい仲間たちから賛同を得たかたちでの、きれいな早死にをすることだった。
「でも、これは書けないね」
「先生は喜ばないです」
「四人そろって早死にする希望について書いたら、父母は呼び出しをくうにきまってる」
「手紙が来ます」
「そして私たちは、お説教されるね」
「とても退屈なことを書いたら、逆にほめられるかなと思います」
「退屈な希望を四つ、みんなで考えましょうよ。誰がどれを書くか、あみだくじできめませんか」
 将来の退屈な希望に関して、四人はアイディアを出していった。ノートブックに落書きのようなメモをとりながら、いくつもの候補について語り合い、笑い、一時間以上かけて四つにしぼりこんだ。ナナエが自分のノートにあみだくじを書き、四人はそれぞれにくじを引き、なにについて書くかきめた。
 冬休みがすぐに来た。十二月最後の一週間はたちまち過ぎ去り、大晦日おおみそかがあって正月となった。そしてナナエが死んだ。
 ナナエの家では、今年の正月はホテルで過ごすことになっていた。大晦日から四日まで都心のホテルに泊まる。スイートをふたつ借りる。ひとつは両親が使う。そしてもうひとつには、ナナエの姉とナナエ、そして弟の三人が泊まった。姉とナナエは、ベッド・ルームにふたつならんだベッドを使い、弟は居間の片隅に置いてもらったエクストラ・ベッドに寝た。
 大晦日には父親は不在だった。会社の仕事で十二月の初めから彼は外国へ出ていた。一月一日の午後に帰国し、空港からまっすぐそのホテルへ来ることになっていた。だから大晦日は父親なしでひとつのスイートに集まり、四人でTVを見て過ごした。
 元旦の朝、九時三十分に、彼ら四人はルーム・サーヴィスで朝食をとった。正月の特別メニューがあり、そのなかから彼らは元旦雑煮定食というものを選んだ。柔らかくてまっ白で、ひどく粘りのある奇妙な餅が、雑煮に入っていた。とろけているようでいてうまく噛み切ることのできない、食べにくい餅だった。その餅をナナエは喉につめた。
 食事用の長方形のテーブルの片隅で、四人はむかい合ってすわり、それぞれに雑煮を食べていた。突然、ナナエが椅子いすを立った。言葉にならない声を喉の奥で発しながらナナエは椅子のかたわらに立ち、飛びはねるように一回転した。両手で胸を叩き、天井を仰ぎ、体を深く二つに折って頭を垂れた。
 母親と姉、そして弟が、不思議なものを見る目でナナエを見た。ナナエはテーブルを離れ、無秩序に走りまわった。顔から血の気が引き、まっ青だった。完璧にパニックを起こした人の目で、ナナエはテーブルの三人を見た。ナナエの胸の中で妙な音がしていた。
 母親が、さすがにまっ先に事態に気づいた。椅子を立ってテーブルの端をまわり、ナナエに駈け寄った。母親はナナエの肩をつかもうとした。
 その手を逃げるかのように、ナナエはフロアに崩れた。
「なにやってるの?」
 高校生の姉が冷たく言った。弟は無表情に雑煮を食べていた。
「菜菜絵!」
 母親が叫んだ。
 フロアに倒れたナナエは、呼吸が出来ないまま七転八倒していた。苦しまぎれに反射的に体を動かしていた。その動きは正常な脈絡を完全に欠いた動きだった。
 そのナナエを、母親は抑えこんだ。片手で娘の背中を叩いた。
「菜菜絵! 吐きなさい!」
 母親は叫んだ。
 転げまわり、のけぞり、虚空こくうをつかんで必死に目をむくナナエの顔は、いまはそのぜんたいが不気味に濃い赤だった。
「美奈ちゃん!」
 母親が鋭く姉を呼んだ。
「なによ」
「電話して!」
「なぜ?」
「ホテルの医者」
「医者?」
「早くしなさい、美奈!」
 母親の剣幕に、姉はのっそりと椅子を立った。フロアを転げまわる妹を、彼女はのび上がってテーブルごしに見た。
「美奈子!」
「わかったわよ。どこに電話するの?」
 しゃがんでいた母親は立ち上がった。ソファにむけて彼女は走った。ソファのむこうの丸いテーブルに電話機が置いてあった。受話器を取った母親は、フロントの番号を押した。
 スイートのフロアを受け持っている人が駈けつけたのは、それから四分後だった。そのとき母親はナナエを逆さにしてかかえ、かかえた娘とともに飛び跳ねながら、片手でナナエの背中を必死に叩いていた。ナナエはほとんど動いていなかった。
 救急車が呼ばれ、出動し、正月の町を走り、ホテルに到着した。スイートのフロアまで救急隊員が上がって来たとき、ナナエは絶命していた。
 午後の二時三十分に、父親はホテルに到着した。フロント・デスクの手落ちでメッセージは伝わらないまま、彼はスイートのフロアへ上がっていった。
 どちらのスイートのドアもロックされていた。いくらチャイムのボタンを押しても、誰も出てこなかった。廊下のハウス・フォーンで、父親はフロント・デスクに電話をかけた。自分宛てにメッセージがあるかどうか、彼はきいてみた。メッセージを彼はそのとき受け取った。
 ハチミとトモは、正月の休みのあいだ外国に出ていて留守だった。だからもっとも親しい三人の仲間のうち、リカだけがナナエの葬儀に参列した。最初から最後まで彼女は泣いていた。
 ハチミとトモが外国から帰って、三人は集まった。
「嘘です、それは絶対に嘘」
 ナナエが死んだということを、ハチミは信じなかった。ホテルで食べた正月の雑煮の餅を喉に詰まらせた、という直接の死因をリカからきかされて、ハチミは笑っていた。
「まさか。それは昔のお笑い番組のギャグですよ。おじさんのコメディアンがやるギャグです」
「ほんとだと、この私が言ってるじゃないですか」
「信じませんね」
「ナナエちゃんいますか、などと自宅に電話をしたら駄目よ」
「なぜ?」
「ナナエはいないのですから。お母さんは悲しみます」
「さっき私は電話をしたよ」
 ハチミはそう言い、リカとトモは悲鳴を上げた。トモは両手で顔を覆っていた。
「誰も出なかった」
「なぜ電話をしたの」
「おみやげがあるから。ナナエに頼まれたもの」
「なになの?」
「化粧品」
「ナナエは、もうどこにもいないのよ」
「嘘だね」
「初七日が三日まえで、私はお墓へもいって来たのだから」
 リカがハチミとトモに言った。
「ほんとなの?」
「立派なお墓。私だったら辞退するようなお墓でした。ぴかぴかしてました。無表情な字が深く彫ってあって。悲しいです」
 ハチミとトモはしばらく黙っていた。
「お墓へいってみましょう」
 黙っているふたりの友人に、リカが言った。
「電車で一時間。そしてそこからバスに乗ります。バスに乗っている時間は十五分くらいでした」
「餅が喉に詰まったのですって?」
 ハチミの質問に、リカはうなずいた。
「そんなの、ないよ」
「私だって、困りました。泣きました。可哀そうだもの、そんな死にかた」
「赤い霧になって、空中で消えてしまうのではなかったかしら」
「それは私」
「あ、そうでした。ナナエは湖ね。湖の上にボートを受かべ、手首を切って湖のなかに入れ、そのまま死んでしまうというのがナナエの望みだったはず」
「こともあろうに、餅ですよ、餅。正月の雑煮を、ホテルのスイートで家族といっしょに食べているときに」
「なんと可哀そう」
「ナナエがイメージしていた死にかたとは、まったくちがいます」
「大変だわ」
「困ったね」
「とにかくお墓を見るといいのよ」
「いってみましょうか」
「いまからいけば、夕方には帰って来ることが出来ます」
「いきましょう」
「ショックですねえ。餅は、大ショックです」
「本当のことなのよ。もうどこへいってもナナエは見かけないし、葬儀にはたくさんの人が来て、陰気で大変だったし、お母さんは泣いていました。お父さんはまっ青です。お姉さんと弟が、黒い服を着て神妙な顔をしてました。あれがお芝居ということはまずないですから、ナナエは本当に死んだのね。墓もあることだし」
「その墓を見にいきましょう」
 一月のよく晴れた、風に冷たさのある日だった。三人は歩いて駅までいき、電車に乗った。途中で急行に乗り換えた。西へむかって一時間、その急行に乗っていた。
 どこの田舎へ来たのだろうか、と誰もが思うような駅で三人は降りた。午後の閑散とした駅を出てくると、タクシー乗り場とバス・ターミナル、そして噴水の広場があった。噴水が平凡に水を噴き上げ、一月の薄い陽ざしがそれを照らしていた。
「お墓へいくバスは、あれです」
 ターミナルのむこうの端を、リカが示した。風はここのほうが強かった。ダッフル・コートのフードをハチミは両手で押さえ、リカは髪を風になびかせながらダウン・ジャケットの襟のなかに首をすくめていた。
 人のいない広場を、バス・ターミナルのむこうの端にむけて、三人は横切っていった。噴水のかたわらを歩いた。噴き上げられた水が地面に落ちて来るときの音が、風にからめ取られて三人の後方へ飛んでいった。
 バスには乗客がまばらに乗っていた。いちばんうしろの席に、三人はならんですわった。やがて運転手がどこからともなくあらわれ、運転席に入った。ドアが閉じ、エンジンが始動し、バスは平凡に発車した。停車する停留所名を、録音テープ合成音声が順番に告げた。
「霊園前、というところで降ります」
 リカが言った。
「十番目くらいでしたね」
「八っつめの停留所。実際には、前ではないのね。下。坂道を登っていくから」
 バス・ルートは国道に沿っていた。停留所ひとつごとに、周囲の景色のなかから民家が少なくなっていった。両側に畑がせまり、雑木林の丘がつらなりはじめた。そして低い山なみが前方に見えてきた。
「あの山よ」
 リカが指さした。
「あんなとこなの?」
「ナナエは嫌がってるはずだ」
「きっと」
 霊園前という停留所で三人はバスを降りた。降りたのは彼女たちだけだった。乗る人はいなかった。
 停留所の標識に取りつけてある時刻表を、三人は見た。
「一時間あとね」
「それに乗ればいい」
「お墓まで、どのくらい?」
「歩いて十五分」
「いきましょう」
 冷たい風と澄んだ陽ざしのなかを、三人は歩いた。坂道を上り、霊園のゲートを入った。山裾のスロープが何段にも造成してあり、どの段にも墓がびっしりと並んでいた。段ごとに名称がつけてあり、列の番号が表示版に書いてあった。
「迷うとわからなくなるのよ」
「ナナエはどこにいるの?」
「ヒナギクの段」
 リカの返事に、ハチミとトモは笑った。
「笑うしかないですね」
「そうです」
「ナナエが聞いたら、きっと怒ります」
「ヒナギクは嫌い、と言って」
 そのヒナギクの段に三人は到達した。段のなかへ入っていき、何とおりかある経路を奥へ向かった。
「大きいお墓ばかりね」
「まわりに合わせると、そうなるのでしょう」
「どれもみなよく似てます」
「区別がつかないね」
「みんな死んだ人ばかりなのかしら」
 ひときわ大きな墓の前に、リカが立ちどまった。
「ここです」
 彼女が言った。
 ハチミとトモも立ちどまり、リカが片手で示す墓にむきなおった。三人は無言でその墓を見た。黒みを帯びた荘厳な色調の、大理石の墓だった。高さは彼女たちの身長を超えていた。さえぎるもののない陽ざしを、墓の正面と左の側面が、冷たく反射させていた。
 何段にもなった凝った台の上に、墓石は重く大きく乗っていた。線香を立てるところには、淡い色の灰が線香のかたちのままに、大量に残っていた。まだ枯れきってはいない花が、花立てに豊富にあった。
「最近、誰か来たのね」
「家族でしょう」
「ほんとにナナエはもういないの?」
 トモがリカにきいた。白い小さな顎の先を、リカは指先でこねまわしていた。
「いません」
「どうして?」
「死んだからよ」
「望んでいた死にかたとは、まったくちがうのに」
「だからナナエは可愛そう」
「ほんとですね」
「死ぬのは五月だったはずなのに」
「五月のきれいに晴れた日。湖の上で」
「かなわなかったのね、ナナエの願いは」
「かなえてあげたい」
「ナナエはこの中にいるの?」
「台の下。空洞になってるところがあって、そこに灰を入れた壺が置いてあるの」
「ひとりぼっち?」
「そうですよ」
「いつもここにいるの?」
 ハチミの質問にリカはうなずいた。
「いつも、ここです。ここしかありません」
「毎日?」
「そうね」
「おなじ景色を見てるの?」
 雛段ひなだんになった墓地の一角から、霊園のぜんたいをトモは眺めわたした。
「毎日、いつも」
「ナナエ、そこから出て来て」
 ハチミが泣き声で言った。
「四人いないと、寂しいです」
 トモがそう言い、リカは泣きはじめた。
「ナナエ。私たちに話をして」
「いつもみたいに」
「ナナエ」
「出て来てください」
 墓の前で三人はしばらく泣いていた。晴れた空から冬の風が吹き、陽ざしの角度が深くなった。夕方にむけて、気温がすこしずつ低くなり始めていた。
 泣き終わって、三人は墓の前を離れた。段の出入り口にむけて歩いていき、ところどころに階段の作ってある道を下っていった。三人はどちらかと言えば小柄な、よく似た雰囲気の十四歳の少女だ。トモのソックスは赤、ハチミのソックスは黒、そしてリカのソックスはグリーンだった。どれにも淡い陽ざしが斜めに当たった。
 霊園のなかの坂道を下り、バスの停留所まで三人は歩いた。標識のかたわらで十数分待ち、時間どおりに来たバスに乗った。バスには乗客がひとりいるだけだった。電車の駅が終点だった。そこでバスを降り、駅に入って急行に乗った。
 一月が終わった。二月になった。そして梅の花が咲き、それと前後して、学年末の試験があった。学校は休みになり、新しい学年がやがて始まった。少女たちは進級した。ひとつ上の学年になった。桜の花がすぐに散った。
 ナナエの突然の死から、三か月以上が経過した。その三か月以上のあいだに、ハチミとトモそしてリカの三人は、ナナエの死にかたに関して、ことあるごとに語り合った。そしてひとつの結論に到達した。
 ナナエの死にかたは、彼女が望んでいた死にかたとはまるで異なっている。だからナナエは可愛そうだ。出来ることならナナエの死をやりなおさせてあげたい。という結論だ。
「ナナエが願っていたとおりに、やりなおさせてあげたいですね」
成仏じょうぶつしてないわ、きっと」
「ナナエはあのお墓にいないの?」
「おそらく」
「どこにいるの?」
「さまよってます」
「どこを?」
「どこか暗いところを。ひとりで」
「泣いてますか?」
 トモの質問にリカは首をかしげた。そしてうなずき、
「ときどき」
 と答えた。
「ほんとに、やりなおしさせてあげたいです」
「でも、生き返ることは無理でしょう」
「どうしたらいいかしら。ほんと可愛そうです。こういうとき、どうしたらいいの?」
「もうじき五月なのね」
「でもナナエは、今年の五月に死にたいと言っていたわけではないのよ」
「やりなおさせてあげるなら、出来るだけ早いほうがいいよ」
「そうね」
「五月のよく晴れた、きれいで静かな日。ナナエが望んでいたとおり、湖の上で」
「ボートの上にあおむけに横たわって、青い空を見ながら」
「素敵ですね」
「餅はないですよ、絶対にやめてほしいわ。いまごろナナエは、顔をまっ赤にして、嫌だ、嫌だ、と言ってます」
「ああ、どうしたらいいの」
「困ったね」
「こんなに困ったことは、私、これまでに一度もなかった」
「私も」
「知恵をしぼるべきよ」
「私たちが」
「そう。私たち三人。ここで知恵をしぼってナナエを助けてあげられなかったなら、仲良しだった意味がないです」
 このような会話を何度となく重ねたあげく、三人はついにひとつの名案を手にした。三人の誰もが名案だと信じた。だからそれは最高の名案だ。
「身代わり」
 最初にそう言ったのは、ハチミだった。
「そう!」
 リカが賛成した。
「あ、わかりました!」
 トモが叫んだ。
「私たち三人のうちの誰かが、ナナエの身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりに、死になおしてあげます。気持ちを集中させてナナエになりきれば、ナナエはいっしょについて来てくれます」
「そのとおり!」
「ナナエが望んでいたとおりに、身代わりの人がナナエになりきって、死んでみせてあげます」
「素敵」
「ナナエは喜びます」
「五月のある日」
「もうすぐだ」
梅雨つゆになる前、ということね。梅雨のあとに来るはずの夏を感じさせるけれど、春の感触もまだ充分に残した、さわやかな美しい日です」
「そのとおり」
「ナナエは待ってます」
「絶対、待ってるわ」
「このままでは、ナナエはあまりにも可愛そう」
「私もそう思います」
「身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりに死んであげて、その人がナナエを連れて天国へいくのね」
「そのとおりよ」
「それは素敵なアイディア」
「なぜいままで、これを思いつかなかったのかしら」
「ナナエは待っています」
「きっとそうだと、私も思う」
「五月のある日」
「ということは、もうあまり時間はないね」
「準備をしましょう」
「湖を探す」
「ナナエが言っていたような湖」
「ナナエが言った言葉を、私はよく覚えています。どこか高原のなかの、さほど大きくない、まわりに人のいない静かな湖」
「低い山で囲まれているのね」
「そしてその山のスロープに生えている林が、そのまま湖の水面に接しているような」
「よく写真で見るね」
「探しましょう」
「方向としては、どちらかしら」
「北だよ。東北のほう」
「そうね。信州」
「そうです」
「観光案内を見るといいのかしら。日本全国の湖の、画像によるインデックスがあるといいな」
「きっとあります」
「画像で探していくのよ」
「あるはずだ」
「では、手分けしましょう。私は画像のインデックスを探します。トモは本で探して。リカは人づてに捜してみて」
 ふさわしい湖を探すことに関して、三人の意見は以上のようにたやすくまとまった。
「ボートで湖の上へ出ていくのよ」
 トモが言った。
「ボートがなくてはいけない」
「ということはまず、桟橋でしょう」
「そうね」
「その湖の岸のどこかに、桟橋が必要です。そしてボートも」
「貸しボート屋さんがある湖は、人がたくさんいるはずだから、だからそういうところではナナエが望んでいたような雰囲気は望めないわね」
「夏の観光シーズンのまえだから、人のことはそんなに心配しなくてもいいのではないかしら。まわりになにもない、小さな湖を探せばいいのよ。周囲が観光的に開発されていなくて、道路からはずれた場所にあり、アクセスが限定されていて、観光の人たちは車でどんどんとおり過ぎてしまうような」
「あるはずだ」
「まだ残ってると思います。ひとつくらいは」
 そう言ってハチミは楽しそうに笑った。
「身代わりの人をきめるのは、いつにしましょうか」
「当日、湖のほとりで」
「それがいい!」
 叫ぶように、リカが言った。
「誰が身代わりになるのか、そのときまで、わからない」
「いいわ、とても素敵です」
「湖のほとりできめましょう」
「ふさわしい湖がみつかったら、一度はそこへいってみなければいけないね」
「現場はよく観察しておく必要がある。ナナエのためだから、慎重に」
「雰囲気を壊すものがないかどうか、よく調べておかないといけない」
「では、今日、いまから、みんなで湖を探しましょう」
 ナナエが自分の死に場所として希望していたような湖を探す作業を、その日から三人は開始した。そして一週間後には、ひとつの成果があった。
 画像によるインデックスで、ハチミは三つの候補を拾い上げてきた。三つの湖をTVモニターに写し出しながら、それをカラー・プリントしたものを、彼女はほかのふたりに見せた。どの湖も、ナナエが望んでいた湖のイメージに、すくなくとも画像の上では適合していた。
 トモは観光用のガイド・ブックのなかから、普通の観光客はほとんどいくことのない、観光ルートからはずれた場所にある、しかも山に囲まれた静かで小さな湖に関する記述のある部分を、四個所みつけてきた。そのコピーを、トモはほかのふたりに見せた。
 リカは友人から手がかりをひとつ得ていた。探している湖とぴったり重なり合うイメージの湖が、かつて自分が読んだ小説のなかにあったとその友人は言い、その小説から湖が描写されている部分をコピーしてリカに提供してくれた。それをリカはハチミとトモに読んでもらった。
「これです。ぴったり。これ以上は望めないわ」
 ハチミが感心してそう言った。
「ほんとうにこのとおりなら、素敵ね。こんな湖が現実にあるのかしら」
 トモがふたりにきいた。
 リカは次のように説明した。
「友人は、その小説を書いた小説家に、電話できいてくれたの。この湖は実在するのですかと友人がきいたら、実在します、と小説家は答えたのですって。小説家がその湖を実際に見たのは、いまから六年ほど前なのですって。当時のとおりに描写したら、こんなふうになるのですって。現実のままを僕は書きました、と小説家は答えたのだと、その友人は言っていたわ。湖の名前も教えてもらったの。そしてその名前は、ハチミが持ってきたカラー・プリントのなかにあるし、トモがガイド・ブックからみつけてきた湖のなかにも、入っているの」
 三人は抱き合って喜んだ。
「ではこの湖にしましょう」
「見て来なくてはいけないね」
「桟橋まであるんだよ。このとおりの桟橋が、いまでもあるのかしら」
「小説家が見たときには、かなり古いけれどもまだ充分に人が歩けるような桟橋だったそうよ」
「いまはもう、朽ちているかもしれない」
「ここに書いてあるとおり、ほんとにボートが舫ってあるの?」
「どうかしら。とにかく、いってみましょう。桟橋はほんのすこしでも残っていれば、充分に役に立つと思うから」
「ここへ、三人でいってみましょう」
 その週の日曜日、三人は朝早くに出発し、その湖までいってみた。特急で乗り換えなしに湖に最も近い駅までいき、そこからは別の電車あるいはバス、どちらでもよかった。電車なら高原のふもとからバスに乗りなおす。バスなら、その湖がある高原を抜けていくルートを走る。湖の近くにあるバス停留所を降りると、湖まで普通に歩いて十五分だった。
 四月なかば、快晴の日の正午過ぎに、三人の少女たちは高原を越えていくバスをそこで降りた。峠には明るく陽がさし、その陽ざしのなかを、三人は地図を見ながら歩いた。
「バスの停留所から湖まで、普通に歩いて十五分ですって」
 観光ガイドのコピーを見ながら、トモが言った。
「バス停留所から湖へ下りていく小径こみちの入口まで、十分。そして、小径の入口から湖まで、これは下り坂で五分。そう書いてあるわ」
 小径への入口までの十分は、そのぜんたいがゆるやかな登り坂だった。傾斜はゆるやかなのだが、いつも都会のなかにいる三人の少女たちは、たちまち、そして一様に、脚の疲労を強く覚えた。脚は急に重くなり、筋肉は自分が思ったとおりには動かなくなった。目には見えないほどの登り傾斜が、おかしてく笑ってしまうほどにつらかった。
「うわあ、大変」
「脚が動かないです」
「どうしましょう」
「階段とはちがったつらさなのね」
「なんだか不思議な感じ」
「押してあげる」
 トモはハチミの背中に両手を当てた。頭を垂れ、ハチミの背を押しはじめた。
「引っぱってあげましょう」
 リカがハチミの片手を取り、先頭を歩いた。
 体を前へ傾けたハチミは、膝に手を当て、一歩ごとに力をこめて自分の膝を押していた。
 途中で一度、彼女たちは路面にすわって休んだ。
「あとどのくらい、あるのかしら?」
「時間にして、ここがちょうど半分」
「ほんの五分なのに、こんなに疲れるの?」
「おかしいですね」
「登り坂のせいだ」
「ほとんど登ってないのに」
「でも、傾斜していることは確かだよ」
 うしろから押したり前から手を引き合ったりして、三人は残りの五分を歩いた。
「小さな標識があるのですって」
 トモの言葉に、リカが前方を指さした。
「あれでしょう」
「標識だね」
「あそこが、小径への入口です」
 標識のかたわらに、やがて三人は立った。湖の名前と湖面標高の数字が、その小さな標識に書いてあった。
「いきましょう。こちら」
 路線バスの走る峠道から、三人はわき道へ入っていった。すぐに下り坂になった。下りの傾斜はかなり急だった。蛇行している小径を下りていくと、樹々のあいだから湖が見えはじめた。
「見えた。静かな湖だ」
「素敵」
「なんだか玩具みたい」
「水の色はブルーなのね。グリーンかと思ってたけど」
 小径を下りきって、三人は湖のほとりに出た。湖の縁に立ち、彼女たちは湖を観察した。
「どうかしら」
「素敵だ」
「ぴったりだ」
「ナナエが言っていたのと、そっくりおなじような湖」
「ひょっとしたらナナエは、この湖を知っていたのかしら」
 トモの発言に、ほかのふたりは首をかしげた。
「知らないでしょう」
 リカが言い、
「知らないと思います」
 とハチミも言った。
 見渡したところほぼ円形の、作りもののような雰囲気をたたえた、小さくて静かな湖だった。あと二、三歩で水に触れるあたりに、湖のかたちに沿って、小径がつけてあった。三人が立っている場所から、左右どちらの方向へも、その小径はのびていた。
「湖を一周出来るのかしら」
「観光案内には、一周は出来ないと書いてある」
「この湖です。ぴったり。ナナエは喜ぶわ」
「ここにきめましょうか」
「これ以上の場所は、望めないでしょう」
「そうね。私もそう思う」
「人がいないのね」
「なんにもないし」
「あるのは、あの桟橋だけ」
 湖にむかって立っている三人から見て左前方に、桟橋が一本あった。木製の簡単な作りの桟橋だ。湖の縁から十五メートルほどまっすぐ突き出たあと、浅い角度で一度だけ折れ曲がっていた。そして曲がり角から突端まで、ほんの数メートルだった。曲がり角を中心にして、桟橋は水面にむけて落ち窪んでいた。張り渡してある板はいたるところ穴があき、支柱は朽ち、桟橋ぜんたいは右に左に傾いていた。
「だいじょうぶかしら」
「ほんのすこしだけ足場があればいい。桟橋の根もとにボートをぴったりつけて、腰を低くしてひょいと乗り移れば、それでいいんだから」
「では、これで充分ね」
 三人は桟橋へ歩いた。桟橋のつけ根に立ち、あたりの様子を眺めた。
「ぴったりだ」
「いい雰囲気」
「ほんとにナナエが言っていたとおりの場所です」
 はじめにトモが、そしてハチミ、リカの順に、三人は桟橋に上がった。湖を縁取ふちどる草の生えた湿地のような部分から、三人は湖水の上へと出ていった。
「思いのほか、しっかりしてる」
「でも揺れるよ。ほら」
「そうよ」
「そっと歩いて」
「このくらいなら、だいじょうぶ」
「ボートはないのね」
「ここにひとつだけある」
 桟橋の曲がり角まで出ていったハチミは、曲がり角の内側を指さした。ほとんど水没したボートが一隻、縁だけを水面の外に出して、じっとしていた。
「これでは使えない」
「どうしましょう」
「いいアイディア!」
 そう言って、ハチミが指を鳴らした。
「カヌーを持ってくればいい。私の父親は、カヌーが好きなの。いくつかカヌーを持ってるけど、ひとり用の折りたたみ式のカヌーがある。それを持ってくればいいんだ」
 そう言ったハチミを、リカとトモが見た。
「それは大きいの?」
「折りたたむと、たいしたことないよ。私ひとりでも持てるから。持つと言っても、背中にかつぐのだけど」
「オールは?」
「パドルもあるよ」
「完璧ね」
「完璧」
 右手を高く上げたハチミは、人さし指と親指とで、ひとつにつながった輪を作ってみせた。そしてその輪を右目に当て、湖を見渡した。
「ここにしましょう」
「決定だ」
「ほんと」
「ここは最高」
「ナナエに感想をきいてみたいね」
「この径を、いけるところまで歩いてみましょうか」
 桟橋の根もとから湖の縁に沿ってのびている小径を、リカが指さした。
「そうしましょう」
 三人は桟橋を下りた。両側に夏草が盛んに生えようとしている細い小径を、一列になって歩いていった。百メートルほどでその径はいきどまりになった。夏草に覆われた灌木林が正面に立ちふさがり、小径はその手前で終わっていた。
「こんないいところなのに、誰もいないのね」
「ホテルやレストランがないから」
「静かだわ」
「昼寝をしたらいいでしょうね。どこかにハンモックを吊って」
「死ぬにも最適」
「そうね」
「来てみて、よかった」
「帰りましょうか」
 桟橋までひきかえし、三人はそこにしばらくいた。そして、スロープのなかを蛇行する小径を、上の道路まで登っていった。舗装された二車線の峠道にも、四月の快晴の日の陽ざしが明るく当たっていた。
「さて」
 等しく風に吹かれながら、三人はそれぞれに峠道の左右を見渡した。平凡なセダンが一台、三人のまえを走って去った。
「バスに乗って帰る?」
「そうね」
「バス停まで歩きましょう」
「ああ、うれしい。こんどは下り坂」
 路線バスの停留所まで、三人は歩いた。標識に取りつけてある時刻表を彼女たちは見た。次のバスまで二十分あった。そのバスを待つことにし、三人は道路のわきの草の上に腰を下ろした。
「いつにしましょうか」
 リカとトモを対等に見て、ハチミが言った。
「五月のある日」
「天気のいい日」
「天気図を見続けてるといいよ」
「明日はかならず晴れるという日が来たなら、その日にここへ来ることにしましょう。日曜日や休日ではなくても、学校は休めばいいのだから」
「そうね」
「電話で連絡を取り合って」
「ハチミがカヌーを持って来るのね」
「そうよ。パドルも」
「カッター・ナイフ」
 トモが言った。
「なにに使うの?」
「手首を切るのです」
「あ、そうか」
「手首を切って、その手首を湖のなかにつけておけば、血は流れ出て湖に吸い取られ、死にます」
「死んだあと、そのカヌーをどうやって桟橋まで戻すの?」
 リカが質問した。ハチミはしばらく考えていた。そして、
「簡単」
 と答えた。
「ロープを持って来ればいいのよ。細くて丈夫なロープがあるわ。それをカヌーにくくりつけておいて、終わったら岸からたぐり寄せればいいの」
「なるほど」
「ほかにはなんにもいらないわね」
「電話があるといいね。携帯電話」
「私、それを持ってくる」
「なにに使うの?」
「霊柩車を呼ぶ」
「そうか」
「ナナエが言っていたことを、みんなでよく思い出しておきましょう。メモに書いて、三人でつきあわせ、慎重に検討しましょう」
 四月の後半がすぐに終わった。五月になった。一日、二日、三日と経過していき、第二週のはじめに天気図が安定しはじめた。日本列島のほぼぜんたいが、高気圧に覆われるときの天気図だった。
 これなら明日でもいい、と学校で三人の意見はまとまった。明日、あの湖へ出かけることにきめ、持っていくものの分担を確認した。特急の時間を調べ、切符を買った。夕食を三人そろって外で食べ、九時すぎに彼女たちはそれぞれの自宅に帰った。
 ハチミの家ではガレージが二階建ての別棟になっていた。自動車が三台は楽に入る広さのガレージが下にあり、二階はふたつの部屋だった。ひとつは広い物置、そしてもうひとつは、なぜか畳を敷いた四畳半だ。
 物置には父親の持ち物が整理して置いてあった。カヌーは三隻あった。そのうちの二隻は天井に吊ってあり、もうひとつ、折りたたみ式のカヌーは、キャリング・バッグにおさめられて、奥の壁に立てかけてあった。
 ハチミはこのカヌーで、父親といっしょに湖や川で何度か遊んだことがあった。ほんのちょっとした水遊びだが、カヌーの組み立てかたはほぼ記憶していた。マニュアルがバッグのなかにあるのを確認し、一本のパドルとともに、それを彼女は自分の部屋へ持っていった。細いけれどもきわめて丈夫なナイロンのロープが三百メートル、スプールに巻いてあった。それも、ハチミは部屋へ持っていった。
 トモは携帯電話機を用意し、リカは三人の弁当を作った。サンドイッチだった。明日、学校で食べるのだと母親に言い、手伝わせて丁寧に作った。飲み物を二種類用意し、デザートも作って添えると、大きな籐のバスケットはいっぱいになった。
 次の日、三人の少女たちは、学校へいくのと同じ時間に家を出た。リカは歩いて駅へいき、電車に乗った。トモはバスで駅までいき、電車に乗って待ち合わせの駅へむかった。ハチミは部屋の電話でタクシーを呼び、家のすぐ近くまで来てもらった。ガレージのまえでカヌーをかついでパドルを持ち、タクシーが待っている場所まで五十メートルほどを、ハチミはゆっくり歩いた。
 きめておいた時間どおりに、三人は乗り換えの駅で落ち合った。ラッシュ・アワーが終わる時間のターミナル駅で、彼女たちは高原へむかう特急に乗った。
 早朝から絵に描いたような快晴だった。特急に乗って三十分もたつと空はさらに青くなり、陽ざしはよりいっそう透明な明るさを増した。
 下見に来たときとおなじルートをたどって、三人は正午前に高原に到着した。峠を越えていくバスを、先日とおなじ停留所で降りた。
「ものすごくきれいな日になったね」
「最高」
「ナナエに気持ちが通じてるんだ」
「ナナエは今日まで待っていてくれたのね」
「早くナナエを喜ばせてあげたいです」
「それにしても、この坂道はこたえる」
 ハチミがかついでいるカヌーを、トモとリカのふたりが、それぞれ片手でうしろから支えた。しばらく歩いてから、三人は道路のわきに腰を下ろして休んだ。ハチミとトモがふたりでカヌーをかついだ。リカはパドルそして弁当の入った籐のバスケットを持ち、先頭に立った。三人とも前かがみになり、一歩ごとに声を上げては、自分の膝を手で押して歩いた。
 湖への入口まで三人はたどり着いた。そして小径へ入っていき、下りのスロープを蛇行して湖まで下りた。四月に来たときにくらべると、草の密度と丈の高さがまるでちがっていた。
「見えてきました。ナナエの湖」
「水の色が、先日とはちがうのね」
「ナナエが言っていたとおりの色だ」
「ほんとだ」
「今日も、誰もいませんね」
「静かだわ」
「ほんとに人がいないのね」
「真夏のシーズンになると、すこしは人が来るのではないかしら」
 桟橋のつけ根に三人は荷物を下ろした。リカが作って来た弁当の中から、飲み物だけを取り出して三人は飲んだ。静かに平らに広がる水面、そしてその水面ぜんたいを取り囲むようにして斜めに落ちてくる緑の丘のつらなりを、三人は眺めた。
「低い山でぐるっと囲まれてるのね」
「囲まれてなかったら、湖の水はどこかへ流れていってしまうよ」
「そのとおりです」
「木の生えた山のスロープが、いきなり水のなかへ入っていくのね」
 飲み物を飲み、しばらく時間を過ごしたあと、ハチミはバッグからカヌーを取り出した。桟橋のつけ根に桟橋と平行になるよう、折りたたまれたカヌーを置いた。そしてマニュアルを見ながら、組み立てていった。リカとトモがそれを見ていた。
 やがて組み立てが終わった。
「わ、素敵な船」
「ナナエはなんと言うかしら」
「手を叩いて喜んでるわ、きっと」
 スプールに巻いてあるロープを、ハチミはバッグのなかから取り出した。ロープの一端をカヌーのなかにくくりつけ、ロープをのばしてスプールをすこし離れた草の上に置いた。
「浮かべましょう」
「まっすぐ押せばいいのよ」
 ハチミがカヌーのうしろにまわり、リカとトモはそれぞれカヌーの両側についた。そして草の上を湖にむけて押した。
 カヌーは軽く草の上を滑り、すぐに水に浮いた。その様子を三人はしばらく眺めていた。
「さあ」
 ハチミが言った。
「身代わりをきめましょう」
「ナナエの身代わりになって、ナナエが望んでいたとおりの死にかたで、もう一度だけ死んであげる人」
「どうやってきめましょうか」
「ナナエの好みは、ジャンケンだった」
「そうね。なにかといえばすぐにジャンケンだった」
「では」
「ジャンケン」
 小さな輪を作っておたがいにむき合い、三人は気持ちをひとつに合わせた。そして、
「ジャン、ケン」
 と三人そろって言った。そして次の瞬間、
「ポン」
 と三人が言おうとする寸前、
「待って!」
 とハチミが叫んだ。
「ちょっと待って。勝った人が身代わりになるの、それとも、負けた人なの?」
「負けた人」
「どうして?」
「ナナエはジャンケンばかりするのに、いつも負けてたから」
「そうです。ナナエはジャンケンに負けてばかりいました」
「では、負けた人が身代わりね」
 確認し合い、三人は再び気持ちをひとつにした。
「ジャン、ケン」
 と声をそろえた三人は、右腕をうしろへ引く動作を同時におこなった。
「ポン」
 ハチミが石、そしてリカとトモがそろって鋏だった。
「ああ、残念」
 ハチミが言った。リカとトモがジャンケンをしなおした。リカは鋏、そしてトモは紙だった。三人は歓声を上げた。
「このカヌーに、どうやって乗ればいいの?」
 トモが言った。
 三人は桟橋へ歩いた。ハチミはカヌーのうしろ、そしてリカはカヌーの前部で、それぞれ桟橋に腹ばいとなった。両手でカヌーを桟橋に引き寄せ、押さえた。
「腰を低くして、片足をカヌーに入れるの。そしてカヌーのまんなかに、その足を置くのよ」
 ハチミの言うとおり、トモはカヌーの中央で桟橋の上にしゃがんだ。湖に浮かぶカヌーにむけて片脚をのばし、底の中央に足をついた。
「そのまま、もういっぽうの脚をそうっと引きこんで、静かにすわるの。両手で縁につかまって」
 ハチミの言うとおりに、トモはカヌーのなかに入った。シートにすわってから、一度だけぐらついた。ハチミとリカがそれを押さえ、カヌーは安定した。
「水の上にすわっているみたい」
 桟橋のハチミとリカを見上げて、トモが言った。
「感じはわかったでしょう」
「面白い」
「はい、これがパドル」
 一本だけのパドルを、ハチミはトモに差し出した。トモはそれを受け取った。正確な使いかたではないのだが、ハチミの言うとおりにトモがパドルで水をかくと、カヌーは水面を軽く滑って桟橋を離れた。
「わ、面白い!」
 左右交互に、トモはパドルを使った。蛇行しながらカヌーはさらに桟橋を離れた。ロープのスプールまで歩いたハチミは、しゃがんでロープをつかみ、たぐり寄せた。カヌーは桟橋にむけて戻って来た。
「トモ」
「なあに」
「ナナエによろしく」
「伝えます」
「ナナエが望んでいたとおりだから」
「そうね」
「はい、カッター・ナイフ」
「そうだ、それが必要なんだ」
 ハチミが差し出すカッター・ナイフを、トモは受け取った。
「湖のまんなかまで出ていって」
「うん」
「ゆっくりでいいよ」
「だいじょうぶ」
「ナナエの気持ちになりきって」
「まかせて」
「バイバイ」
 ハチミとリカが桟橋の上で手を振り、カヌーのなかからトモがそれに応えた。カッター・ナイフをトモはシートの下に置いた。パドルを両手に持ちなおし、水をかいた。きわめて軽く、カヌーは桟橋を離れた。
 左右交互に、トモはパドルを操った。船首は大きく振れるのだが、方向としては湖の中央にむけて、おりたたみ式のカヌーは進んでいった。
 途中でトモはカヌーを一回転させた。回転させるつもりではなく、パドルを操るテンポをまちがえただけだ。水面上でカヌーは鋭く軽快に一回転した。このカヌーは回転性能がたいへんすぐれていた。
 桟橋の上でハチミとリカが笑った。声を上げて笑っているトモを、ハチミとリカは桟橋から見た。桟橋とカヌーとのあいだに少しずつ距離が出来ていった。桟橋の根もとの地面に置いてあるスプールから、細く白いロープが少しずつほどけては、湖のなかに引きこまれた。
 桟橋の突端までハチミはひとりで歩いた。桟橋の古い板は、ハチミの体重を受けてきしんだりぐらついたりした。
「水のなかに落ちるよ」
 リカが言った。
「だいじょうぶ」
 ハチミは空を仰いだ。青い晴天の空が、頭上いっぱいにまぶしく広がっていた。
「こんな空、ひょっとしたら、私は初めて」
 空を指さしてハチミが言った。
「私も」
「ナナエに早くこの空を見せてあげたい」
「もうじきです」
 リカは桟橋に腰を下ろし、ハチミは突端から引き返してきた。そしてリカのかたわらにすわった。
 ほぼ丸い形をした小さな湖だ、とトモは思っていた。しかし、その湖の中央にむけてカヌーで出ていくにしたがって、湖は大きさを増していくようにトモは感じた。たとえば桟橋とのあいだの距離が大きくなればなるほど、湖も大きくなっていく。湖の中央へ出ていくにしたがって、どの方向へも岸は遠のいた。
 そしてそれに対応して、頭上の空が広がった。湖が大きくなり、空は広がり、その中間で、カヌーに乗った自分はどんどん小さくなっていくように、トモは感じた。
 どの方向へ視線をむけても、岸までの距離が等しく遠く思えるあたりまで到達して、トモはパドリングを止めた。パドルをカヌーのなかに入れた。両肘をカヌーの縁で支え、小さなシートの上で腰をまえにずらせていき、せまい船体のなかに両脚をそろえてのばした。さらに腰をずらし、すぐうしろにある縁に頭のうしろを預けると、トモはカヌーのなかであおむけに横たわることが出来た。
 しばらく彼女は空を眺めていた。水面の上をさまざまな方向から風が吹いて来た。カヌーの上にいるトモを撫でて通過していき、どの風もどこかへ消えた。
 風のままに、カヌーは湖の中央でゆっくりと回転していた。あおむけになっているトモがすこしだけ視線の方向を変化させると、その視線がまっすぐにのびた正面に桟橋が見えた。桟橋の根もとにハチミとリカが立っていた。なにごとかに関して、ふたりは熱心に語りあっているように見えた。突然、ハチミが体を動かした。踊りのパターンの一部を、ハチミはリカにおこなってみせた。そしてリカも、そのパターンのヴァリエーションをおこなった。
 ハチミとリカにトモ、そしてすでに死んでいるナナエの、学校でのサークル活動は舞踏だった。舞踏の練習で覚えた踊りの一部をおこなっているハチミとリカを、水面すれすれに遠く見て、一瞬、トモは強烈な懐かしさを覚えた。その懐かしさに、彼女は泣きたくなった。
 涙をかろうじて抑えこみ、トモはあおむけのまま桟橋にむけて手を振った。リカとハチミは気づかなかった。手を下ろして水のなかにひたして休め、再びその手を上げて、トモは桟橋にむけて振った。やがてハチミが気づいた。ハチミが湖にむきなおってさかんに手を振り、リカもおなじように手を振った。
 桟橋やその背後にある潅木林の斜面、そして湖をとり囲んでいる山なみなど、見えている景色のすべてが、いまのトモには精巧に作られたディオラマのように見えていた。陽ざしのなかで手を振っているリカとハチミは、良く出来たふたつの小さな人形だった。
 リカとハチミが手を振るテンポに自分の手の動きをしばらく重ねて、トモは安心した。泣きたい気持ちは遠のき、彼女は右手を下ろした。そのまま、水のなかに手をひたした。水は冷たく、指先に彼女はその湖の深さを感じた。そしてその深さは、自分から岸までの距離の大きさであり、空の広さでもあった。
 カヌーの上にあおむけとなっているトモは、自分が小さくなっていくのを感じ始めた。彼女の気持ちのなかで、彼女は縮小しはじめた。湖の中央で水面の上に横たわっているも同然の彼女は、空の巨大さと直接に関係を持ちつつあった。空の巨大さを自分の体で受けとめ続けていると、ある瞬間から、自分が小さくなっていくのをトモははっきりと感じた。空の中へ気持ちがのびればのびるほど空は大きくなり、それに比例して、彼女自身は彼女の感覚のなかで小さくなっていった。
 カヌーの安定をそこなわないように注意を払いながら、トモは上体を起こした。シートの下に手をのばし、カッター・ナイフをさぐり当てた。ナイフを手に取り、柄についているネジをゆるめ、彼女は刃を出した。刃をいっぱいにのばし、ねじを締めなおした。
 上体を再び横たえ、左にむけてねじり、左腕をカヌーの外に出した。カッター・ナイフを逆手さかてに持ったトモは、刃を左手首の内側に当てた。そして力をこめて刃を手首に食いこませ、ひと息に横へ切り裂いた。
 充分な手ごたえがあった。すっぱりと絶ち切られた動脈から、血が噴き出る決定的な感触を、トモは空気のなかに感じた。噴き出た血は水面の上を小さな弧を描いて飛んだ。水の上に落ちる音を、トモは聞いた。彼女は目を閉じていた。
 深く避けた切り口から、血は律動して噴出した。血管の断面から飛び出てくるときの音を、そして律動に乗ったひとかたまりの血が空中を飛ぶ感触、さらにはその血が水面に落ちる音など、すべてをトモは感覚の中で受けとめた。
 トモはカッター・ナイフから手を離した。カッター・ナイフは水に沈んですぐに見えなくなり、左腕を肘まで彼女は水につけた。そして、左にむけてねじっていた上体をもとに戻した。カヌーの上で全身から力を抜き、まっ青な空を仰ぎ、右腕も水面にもぐらせた。両腕を肘まで水につけて、彼女はひとりだけのカヌーの上で目を閉じた。
 左手首に、痛みはほとんどなかった。そのかわり、手首に一か所だけ、外に向けて開かれた部分が生まれているのを、トモは自覚していた。その開かれたひとつの口からは、血が律動とともに体の外へ出ていた。血は湖のなかで水の抵抗に遭いながら、その水をかきわけては吹き出ていき、トモの左手首の周囲でゆっくりと水になじんだ。そして水に薄められ、水のなかへ溶けていった。
 カヌーの上であおむけになり、トモは空を見ていた。見れば見るほど空は大きく、奥行きを増した。それに比例して、自分自身は小さくなっていった。湖の中に流れ出ていく血は、自分が小さくなっていくことの、ひとつのたしかな実感だった。空の大きさと奥行きの深さをまえにして、自分は小さくなり続け、血は湖に吸い込まれ、やがて自分はなくなってしまうのだと、トモは覚悟をきめた。そのような覚悟は、きわめて快適だった。
 意識が薄くなっていくのを、ほどなくトモは感じた。軽く小さくなっていく自分を愛しく思いながら、トモは目を閉じた。意識は薄れ続け、やがて彼女は、おだやかに静かに、気を失った。
 桟橋ではハチミがあぐらをかいてすわっていた。そのかたわらにリカが両脚をまっすぐにのばしてすわり、腰のうしろに両手をついて上体を支えていた。ハチミは湖に視線をむけ、リカは潅木林のほうをぼんやりと見ていた。
「お昼にしましょうか」
 ハチミが言った。
「そうね」
「お腹が空いた」
「私も」
「食べましょう」
「トモは?」
「もうずいぶんまえから、おなじ姿勢のまま、動いてないですよ」
「見てみます」
 ハチミの足もとに置いてあった双眼鏡に、リカは手をのばした。携帯電話機といっしょに、トモが持って来た双眼鏡だ。
 リカは双眼鏡を目に当て、湖に顔を向けた。湖の中央から反対側の山なみにむけて、カヌーは大きく移動していた。桟橋からはかなりの距離だった。
「トモはあおむけです」
「目を閉じてるでしょう」
「カヌーがこちらをむいているので、トモの顔は見えない」
「やがてカヌーの向きが変化すると、トモの顔が見えます」
「トモは両腕を水のなかに入れてます」
「眠っているみたいね」
「そう見えるわ」
「死んだのかしら」
「さあ」
「呼んでみましょうか」
「そうしましょう」
 ハチミが立ち上がり、リカも双眼鏡を持って立った。ふたりで湖にむきなおった。
「トモーォッ!」
 声を重ね合わせて、叫んだ。
 ふたりは何度かくりかえして叫んだ。
 リカが双眼鏡を目に当てた。視界のなかにカヌーをとらえた。倍率は十倍だ。桟橋とカヌーとのあいだにある距離は、双眼鏡を介すかぎりにおいて、十分の一に縮んでいた。
「トモはまるっきり動かない」
 リカが言った。
「私たちの声がきこえない、ということはないよね」
「きこえてます」
「もう一度、呼んでみましょう」
 リカは双眼鏡を下ろし、ふたりはタイミングを整えた。そして声をひとつに重ね合わせ、トモの名を湖にむけて叫んだ。
 リカは双眼鏡で再びカヌーを見た。カヌーの向きがすこしだけ変化していた。あおむけになって横たわっているトモの横顔を、リカは右側から見た。
「目を閉じています」
「眠ってるのかもしれない」
「眠くなる気持ちは、よくわかります」
「この素晴らしい天気で、しかも湖の上にカヌーでひとりきりだもの。あおむけになって空を見ていたら、眠くなる」
「眠くなると言うよりも、ゆっくり気絶してしまう感じ」
「そのとおりだね」
「弁当を食べよう」
 桟橋を歩いて根もとまでいき、バスケットが草の上に置いてあるところまで、ふたりは歩いた。バスケットの上には携帯電話機が載せてあった。
「使いかたを知ってる?」
 電話機を指さして、ハチミがきいた。
 リカはうなずいた。
「知ってます」
「ここで食べましょう」
 バスケットをあいだにして、ふたりは草の上にすわった。バスケットを開いた。あぐらをかいた脚の上に、大きな紙ナプキンをそれぞれに広げた。
「うわあ、いろんなものがたくさんある」
 ハチミが歓声を上げた。
「これがサラダ」
「すごい」
「母親に手伝わせたの」
「おいしそう」
「母親はサラダが得意なのよ」
「これは凝ってます」
「食べて」
「トーストしたサンドイッチがある」
「薄く切ったパンを二枚合わせて、トースト・サンドイッチを作る機械で焼くのよ。焼くと二枚のパンは縁がくっつくの。一辺だけを開いて、そこから中にいろんなものをぎっちり詰めるの」
「こんなにふくらんでますね」
「食べて」
「食べる」
 ふたりの少女は食べはじめた。空は青く気温は高い。あたりには草や樹の匂いが充満していた。風がほどよく吹き、顔を上げると湖が見えた。湖は静かな濃いブルーの、平らな広がりだった。その広がりの周囲を、低い山なみの連続が囲んでいた。湖の中央からむこうへ向けて遠のきつつ、トモを乗せたカヌーは風のままに漂っていた。
 ふたりの少女たちは、昼食に一時間以上かけた。食べ終わって完全に満足し、彼女たちは草の上に体を横たえた。横たわった姿勢による視界で、ふたりはそれぞれに湖を眺めた。どちらの視界のなかにも、遠く小さく、カヌーが見えていた。
「あんなに遠くまでいってしまったよ」
 リカが言った。
「だいじょうぶ。ロープはつながっているから」
「トモはどうしたのかしら」
「寝てるかもしれないですね」
「トモは寝るのが得意よ。学校でも、授業中にすぐ寝てるから」
「双眼鏡は?」
「ここ」
 上体をなかば起こしたリカは、双眼鏡を手に取ってハチミに渡した。ハチミは双眼鏡でカヌーを見た。
「さっきのまま」
 ハチミが言った。
「寝てるのかな」
「さあ。なんとも言えないね」
「起こしてみましょうか」
「と言うよりも」
 双眼鏡を、ハチミはリカに手渡した。
「ロープを引っぱってみればいいんだ」
 ロープのスプールが地面に置いてある場所までハチミは歩いた。そのうしろにリカが走った。しゃがんでロープをつかんだハチミは、立ち上がって湖の岸へ歩きながら、ロープを両手でたくしこんだ。ハチミの足もとに不規則な円を描いて、濡れたロープが何重にも重なっていた。
「カヌーはロープにひっぱられて動いているはずよ」
 ハチミが言った。
「トモは起きませんね」
 双眼鏡で見ながら、リカが言った。
「カヌーを岸まで引っぱってみましょうか」
「そうしましょう」
 歩み寄ったリカは双眼鏡を足もとに置き、ハチミよりまえに出て、白く細いロープを湖の中からたぐり出した。ふたりの両手が、そして膝やくるぶしのあたりが、水に濡れた。
 トモがあおむけに横たわったままのカヌーは、湖の中央まで戻って来た。
「いまちょうど、まんなかあたりね」
 ふりかえってリカが言った。ハチミは微笑した。そしてうなずき、
「トモはまったく動かないよ」
 と答えた。
 ふたりの少女はロープをたぐり続けた。カヌーは少しずつ近くなっていった。
「トモ!」
 リカが叫んだ。
「トモ! きこえたら、返事をして!」
「手を振って!」
「起きるのよ、トモ!」
 ふたりはカヌーにむけて交互に叫んだ。カヌーの上のトモは、しかし、あおむけに横たわったままだった。
 カヌーは岸に近くなった。ほんの数メートルのところまで近づき、そのあとすぐに船尾が岸に接した。
「引っぱって!」
 ハチミが叫んだ。リカと力を合わせて、ハチミはカヌーをうしろむきに岸の草の上へロープだけで引き上げようとした。そこは岸のスロープがもっともゆるやかな部分だった。
 ロープを離したハチミとリカは、それぞれにカヌーの側面へまわり、腰を落としてカヌーに両手をかけ、草の上へさらに引き上げた。カヌーは船体の前半分が、草の生えた岸に上がった。
「トモ!」
 カヌーのなかで動かないトモに、ふたりは叫んだ。
「トモ、返事をして!」
「トモ!」
 トモの足に手をかけ、ハチミが左右にゆすった。リカはトモの膝に手を添え、おなじように左右に揺すった。トモは静止したままだった。閉じた目は開かず、両腕はカヌーの外に出て草に接したままであり、あおむけの顔は陽ざしのなかで青ざめていた。
 草の上を滑らせて、ふたりはカヌーを完全に陸に上げた。カヌーの両側にしゃがんだリカとハチミは、左右からそれぞれにトモの肩や顔に触れてみた。
「トモ」
 優しく、リカが囁いた。
「トモってば。ほら、私たちの友達のトモ」
 トモは返事をしなかった。
「トモは死んでるのです」
 ハチミが言った。
「そうかな」
「そうよ」
「くすぐってみよう」
 トモのわきの下に指先を入れ、リカはトモをくすぐった。トモからはなんの反応もなかった。
「ひんやりしています」
 トモの頬に手を当てたハチミが、リカを見て真剣に言った。
「ああっ、これを見て!」
 リカが声を上げた。彼女が指さすところをハチミも見た。
 カヌーの縁から草の上に垂れているトモの左腕を、ふたりは見た。手首には水平に切り裂かれた傷口があり、その傷口は水につかってふやけ、大きくぱっくりと開いていた。まだすこしずつ、そこから血が流れ出ていた。血はいったんトモの掌にたまり、指のあいだから草の上へ落ちた。
「ハチミ!」
 リカが叫んだ。そしてハチミにむけて、カヌーとトモごしに、リカは両手をのばした。ハチミも、おなじようにリカの名を叫んだ。
「リカ!」
「トモは完全に死んでます」
「トモの血は湖の中なのよ!」
「ナナエに会えたのだろうか」
「会えてるわ」
「絶対?」
「まちがいない。ナナエが望んでいたとおりに、トモは死になおしてあげたのだから」
「絶対ね」
「だいじょうぶです」
「ナナエとトモは、いまはいっしょにいるのね」
「夢中になって話をしてるわ。ずいぶん会ってないから」
「私もナナエに会いたい。思いっきり話をして、むちゃくちゃに笑いたい。みんなで」
「トモが私たちにかわって、みんなやってくれてる」
「トモはナナエといっしょなのね」
「それは絶対にまちがいない」
「ナナエは喜んでいるのね」
「望んでいたとおりにやりなおしてあげたのだから、もうなにも不足はないはず」
「よかった。これでよかったのね」
「完璧です」
「トモをカヌーから降ろしてあげよう」
 リカはトモの両脚をかかえこみ、ハチミはトモのわきの下に両腕をさしこんだ。そしてタイミングを合わせて抱き上げた。トモの体をふたりはカヌーの外に出した。すこし離れたところまでトモをかかえていき、陽の照る草の上にトモを下ろした。妙にぎこちなく、トモの死体は草の上に横たわった。
「あとは霊柩車に乗せて、自宅まで送ればいいのよ」
 ハチミが言った。
「私は電話をかけます」
「どこへ?」
「お葬式の会社へ。霊柩車を一台、上の道路までさしむけてもらいます」
「この地元にある会社がいいわね」
「104で聞いてみます」
 リカは双眼鏡をバスケットのなかに入れ、携帯電話機で電話をかけはじめた。
 カヌーまで歩いたハチミは、カヌーの内部にくくりつけたロープの先端をほどき、スプールに巻き取った。そしてカヌーの解体をはじめた。
「電話がかからないです」
 ハチミのかたわらまで歩いて来て、リカが言った。電話機を耳に当てて、リカは首をかしげていた。
「エリアからはずれてるのかな」
「そうかもしれない」
「上の道路へ上がって、歩きながらかけてみる」
「そうして」
「かかったら、ここへ戻って来るから」
「私はここにいるよ」
 カヌーの解体を続けながら、ハチミが言った。
 リカは上の道路へつながる小径へ歩いた。色の淡いブルー・ジーンズに白いテニス・シューズの彼女は、生地を裏がえしに使ったアロハ・シャツを着ていた。肩を超える長さの髪を、うなじで束ねていた。小径を上がっていく彼女のうしろから、風が吹いた。電話機を耳に当て、シャツの裾を風にはためかせ、リカの姿は灌木の陰になかばかくれた。
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自分のことが気になって



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 ハチミがひとりで部屋にいた。二階の東側の部屋だ。普段はなににも使っていない部屋だ。週に一度、母親は友人を集めて、この部屋で麻雀をおこなう。
 部屋のまんなかに、ハチミはあぐらをかいてすわっていた。ショート・パンツに袖のないTシャツを、十四歳の彼女は着ていた。部屋を吹き抜けていく風が、彼女の肌に心地良かった。盛夏の寸前の季節だ。
 受話器を耳に当て、ハチミはすでに三十分以上、電話で話をしていた。相手は中学校の同級生、リカだった。ふたりはいま、待ち合わせの場所と時間をきめようとしていた。
「出来るだけ暑い場所がいいよ。いっそのこと」
 ハチミがリカに言った。
「そうね」
「私が知っている、いちばん暑い場所」
「ぜひそこにしようか」
 ふたりとも好きでよくいくショッピング・センターのすぐ近くに、その場所はあった。
「駅を出て道路のほうへいくんだよ」
「ごちゃごちゃした広場があるよね」
「その広場を越えると、階段を上がって道路でしょう。国道かな」
「そうだね」
「その道路を、右へいく」
「川を渡るね」
「川は渡らないの。橋の手前のとこ。たもと」
「そこがいちばん暑いの?」
「毎年、夏のいちばん暑いときに、私はそこをとおる用事が出来るの。なぜだか、かならず。そしてそこを通ると、ものすごく暑い。いちばん暑い」
「そこで待ち合わせをするの?」
「今年はまだそこをとおってないから、なんとなくいってみたい。確認したい。ああ、やっぱりここはいちばん暑いところだ、という確認」
「そこで待ち合わせようか」
「そうしましょう」
「きめた」
「橋のたもとですよ」
「オッケー」
「ものすごく暑いから」
「だいじょうぶ」
「暑いだけではなくて、ほんとにうんざりする場所だから、覚悟してて」
「すぐに冷房のあるところに入ればいい」
「ショッピング・センターだよね」
「明日」
「午後三時」
「うへえ」
「そうですよ。いちばん暑い時間」
 ハチミが笑い、電話のむこうでリカも軽やかに笑っていた。
 次の日、約束した時間どおりに、ふたりは待ち合わせの場所へ来た。駅を出たリカが広場を越えて道路への階段を上がっていくと、ハチミがほんの数歩まえを歩いていた。
「ハチミ」
 リカが呼んだ。
 ハチミが笑顔でふりかえった。
「ハチミ、肥ったよ」
「わかってる。夏は肥るのよ。私の体質」
「おばさんになったら、夏は二サイズ大きな服を着て、たいぎそうに歩く人になるよ」
「私はもっと早く死ぬからいいの」
 ふたりは歩道を橋にむけて歩いた。晴れて気温の高い、真夏の午後だった。前橋で午前中に三十八度五分、というニュースを外出するまえにリカはTVで見た。
 うなりを上げて走る無数の自動車で、六車線の国道はびっしりと埋まっていた。道路の両側には建物が密集して重なり合い、その建物の三階あたりの高さを、何本もの電線が秩序なく走っていた。どの建物も、故意にそうしたかのように、思いっきり美しくなかった。陽ざしを照り返す道路の匂いのなかに、排気ガスが濃厚に立ちこめていた。
 ふたりは橋のたもとまで歩いた。
「暑いね」
「それに、臭い」
「これはすげえや」
「すさまじい光景」
「絵葉書にするといい」
「誰も買いませんよ」
「そうね。でも、外人が買うかもしれない。私はいまこんなところにいます、とか書いてロッテルダムの母親に送るの」
 ふたりは笑った。
 橋のたもとでしばらくあたりを見渡してから、ふたりは川に沿った道へ下りていった。長く続く階段を下りきると、そこからの道は平坦だった。川のいちばん外側にある土手の上の、遊歩道のような道だった。
「ここも暑い」
「樹がないからよ」
「川には水がほとんどないし」
「川も臭い」
「でも、草の匂いはしてますね」
「夏草に、きたないほこりがかぶさった匂い」
「早く死にたい」
「私も」
 歩いていく途中、かき氷を売っている屋台が一台だけ出ていた。褐色に陽焼けしたしわの深い初老の男性が、屋台の内側にすわって、手拭いで顔をふいていた。
「あの人も暑いのね」
「暑いでしょう」
 ショッピング・センターの建物は、外から見ると殺風景で巨大な箱の、いくつもの連なりだった。川に沿って駐車場が広くあり、その内側にはさらに駐車のためだけの建物がいくつかあった。そしてその内側に、ショッピング・センターの建物が連なっていた。
 ふたりはいちばん手前の建物に入った。冷房された空気に、ふたりは包みこまれた。
「少し歩いて体が涼しくなったら、なにか飲んで食べましょう」
「それがいい」
 まず化粧室に、ふたりは入った。顔や腕を洗い、ペーパー・タオルを何枚も使って水を拭った。
「この液体石鹸は、使う気になれないね」
 ハチミが液体石鹸の容器を示した。
「毒みたいな匂い。それに色も」
 物を買う、なにか食べる、あるいは飲む、そのいずれに関しても、ふたりは好きな店を何軒か知っていた。どの店もふたりが共通して好いている店だった。そのうちのひとつに、やがてふたりは入った。
 大きな観葉樹の影の、空気のよく冷えた席で、ふたりはケーキを食べた。ハチミはアッサム、そしてリカはダージリンを飲んだ。熱い紅茶はそれぞれ白い大きなポットにたくさん入っていた。
「トモとナナエも、この店が好きだったね」
「来てるかと思ったけれど、いないですね」
「どこにもいない」
「今日は会えるかな、といつも思うよ」
「学校でも、そう。あそこにいるかな、と思って走っていってみるけど、いないのね。ふっと会えそうな場所って、たくさんあるでしょう」
「そうなんだよ」
「コンサートとか」
「ばったり会って、えー、来てたの! と、おたがいにびっくりしてみたい」
「買物も、そうね。かならず来てるはず、と思って出かけていくのだけど、会えないです」
「どこにもいないのね」
「ナナエもトモも」
「私、ふたりの顔を忘れそうなの」
「私も」
「どんな顔をしてたか、思い出せないことがあるよ。そんな自分にびっくりして、心臓が止まりそうになります。呼吸が乱れて」
「私もおんなじ。食べものの好みや着るものの趣味なんかも、次々に忘れていくの。だから買物をするときには、ナナエやトモはこれが好きかな、などと思いながら買うの」
「私も」
「しかし恐怖だ。あのふたりの顔を忘れてしまうのだもの。ふたりの顔が、記憶からすこしずつ消えていくのよ」
「悲しい」
「ほんとに悲しい」
 顔を両手で覆って、ふたりの少女はしばらく泣いた。
「恐怖よ。私の心はパニックを起こします。ナナエの顔もトモの顔も、消えていくのだもの」
「ナナエとトモの日をきめておくと、いいかもしれない。私がナナエになり、リカがトモになるの。その日は一日じゅう、出来るかぎりトモやナナエになりきって過ごすの。ものの考えかたもなにもかも、トモとナナエになりきる」
「それ、いいかもしれない」
「やってみましょうか」
「ナナエとトモが好きだった店を、これからまわってみよう」
「どこかにいるかもしれない」
「ばったり会えたら、ものすごくうれしい」
「うれしすぎて、私は狂う。狂ってしまって、一生そのまま」
「トモが湖で死んだときは、まいったね」
「ほんと」
「私たちは、自殺幇助ほうじょですって。いったい奴らはなにを考えているの」
「幇助、という漢字はいまでも書けない」
「私も。一生、あんな字は書かないから」
「あれが五月」
「そしていまは、真夏」
「秋になったら悲しいな」
「なぜ?」
「セーターを着るでしょう」
 ハチミの言葉に、リカは再び両手で顔を覆った。そして、
「それを言わないで」
 と、うめくように言った。
「ナナエとトモは、セーターがとても好きだったから」
 ほどなくふたりはその店を出た。
 何軒かの店を、時間をかけてめぐり歩いてみた。どこにも、ナナエとトモはいなかった。買物客が数多くいきかう通路の壁ぎわに立ちどまり、ハチミとリカは途方にくれた。
「ナナエ。トモ」
「どこにいるの?」
 しばらくのあいだ、ふたりはそこで茫然としていた。そして、どこへむかうでもなく、歩きはじめた。
「ふたりとも骨は灰になって、いまはお墓のなかです」
「ふたりはお墓のなかにいるの?」
 リカの質問に、首をかしげてしばらく考えてから、ハチミは次のように答えた。
「半分はお墓のなかです」
「残りの半分は?」
「どこでも好きなところを、自由に飛びまわってるのよ」
「いま、私たちを見てるかな」
 次に入った店では、ハチミもリカもすこしだけ買物をした。ソックスに蛍光ペン、そして小さなドルフィンの縫いぐるみだった。
 その店を出て、ふたりは再びあてもなく歩いた。このショッピング・センターは巨大だから、その気になれば一日いても飽きることはなかった。
「人が多いね」
「そう」
「どの人もみんな、物を買ってるの?」
「そうよ」
「なぜそんなに物を買うの?」
「物を買わないと自分になれない人が、たくさんいるから」
 肩をならべて歩きながら、ふたりの少女は話をした。
「お墓と言えば」
 とリカが言った。
「ほかのクラスなのだけれど、小学校からの友達がいるの。田中葉月という名前の女の子」
「名前だけは知ってる。テニスのうまい人でしょう」
「そう、その子」
「その子が、どうしたの?」
「昔から変わった子で、いまも変わっていて、とにかく出来るだけ早く死んで自分のお墓に入り、ほっと安心したいのですって」
「早く死にたいという願望は、私たちと同じね」
「だからその部分で、私は彼女と話が合うのよ。ほら、昨年の年末にハチミの家に集まって、宿題をしたでしょう。ナナエとトモもいて、早く死ぬ話をしていて、どんな死にかたがいいか、みんなで話をしたでしょう」
「覚えてる」
「あのときの宿題の小論文のテーマは、全学共通だった」
「そうね」
「だから田中葉月も、書いて提出したのですって。なにを書いたと思う?」
「早く死ぬ願望」
「早く死ぬのはもちろん願望なのだけど、葉月の場合は、自分のお墓に入りたいのね。死ぬというよりも、自分のお墓に入りたい人なの」
「ニュアンスはわかった」
「小論文を私に読ませてくれたの。最初から最後まで、お墓の話なのね。お墓に入りたい、入りたいなのよ。お墓こそ自分の場所なのですって。生きているいまは、どこにいてなにをしていても、自分は仮の場所にいて仮のことをしている、という気持ちにしかなれない人なの。自分のお墓に入って、ほっと安心して、しかもそれは最終的な安心だから、その安心はずうっと続くというわけ。自分のお墓のなかで安心した気持ちになって、いろんなことを考えてみたいのですって。そういうことが論文に書いてあるの。墓という字がいくつあったかしら。ぱっとぜんたいを見ると、墓の字ばっかりなのね」
「それは相当だ。でもそういうのって、私よくわかる」
「私もよ」
「お墓を買えばいいのに」
 ハチミが言った。
「そうなのよ。私もそれを勧めたの。母親に相談したら、気持ち悪いことを言わないで、というひと言で終わりですって」
「親はみんなそうだ」
「でも必死に食い下がって、泣いて頼んだら、お墓を買うための積み立てをはじめてくれたのだって」
「お墓貯金」
「ナナエとトモのお墓をハツキに見せてあげた。感激してた。暗くなっても帰ろうとしないのよ」
「気持ちはわかる」
「自分の墓が手に入ったら、毎日でも見にいきたい、とハツキは言ってる」
「手に入ったらすぐに死んで、お墓に入るのかなあ」
「きっとね」
「小論文を読んで、担任がなにか言ったはずよ」
「親が学校へ呼ばれたのですって」
「うちの学校は、なにかあるとすぐにそれだから」
「お父さんが会社を休んで、担任のところへいったのですって。そして、娘の書いた論文を読まされたの。読んだあと、お父さんはなんと言ったと思う?」
 リカの質問にハチミはしばらく考えた。
 首を左右に振ったハチミは、
「わからない。でも、なにか馬鹿なことを言ったのね」
「これのコピーをください、とお父さんは言ったの。私は担任から聞いたのだから」
「会社の書類みたい」
「これは一種の小説だと思います、とお父さんは言ったのだって。でも、顔はまっ青なのね、これは心配ですとか、この年頃の女の子はとか、なにを考えているのやらとか、そういうことを担任と喋って、お父さんは帰っていったそうです」
「コピーといっしょに、担任は責任もお父さんに返したわけだ」
「よくあること。でも、お墓に入りたいという気持ちに、担任の責任はないですよ」
「そのあとどうなったの?」
「ハツキのお父さんは、言えばなんでも買ってくれるようになったのだって」
「お墓は?」
「それだけはまだのよう」
「うちの父親も似たようなものだと思うな」
 ハチミが言った。
「うちも」
「日経なんかいつも読んでますよ」
「ちらっと見ると、どこもかしこもまっ黒な新聞」
「そう。字がびっしりあって。特に数字のとこ。まともに見たら気が狂いそう」
「朝、さっと開いて、数字ばかりのところをじっと見てます」
「ときどき、うーん、とうなったりしない?」
「する、する」
 リカは手を叩いて喜んだ。
「そうかー、と言ったりもする」
「気味悪いのね」
「流通とか株式とか」
「ハツキのお父さんは、その後どうしたのだろう」
「ときどきコピーを取り出しては、読んでるかもしれない」
「お墓の話は家のなかではタブーなのだって。ハツキがそう言ってた」
「全員のお墓を買えばいいのに」
「私もそう思う」
「その子はテニスが上手なのですって?」
「そうよ。特にストローク・プレー。でも、試合に出ると負けるの」
「前に出て叩かないからだ」
「下品だもの、あれは。ハツキのはとても素敵なストロークなの。ラケットのコントロールが正確で、狙ったとおりのところへ打つのよ。本気で打つとすごい球が来る。私なんか、ラケットで顔をかくしてよけてしまう」
「お母さんがテニスに狂ってる、という話を聞いたわ」
「そうなのよ。テニスに夢中になってて、まだ四十代前半だから、試合にばかり出て勝つんですって。前へ出ていって叩くのが得意だから」
「あれは、私、嫌い」
「私も」
「きめたときなんか、やったぜ、という顔をするでしょう。下品だ」
「ハツキのお母さんもそれなの。おまけに、ぐあーっ、とか言って声を出すの」
「たまんない」
「でもハツキは、コーチに好かれてるのよ。小さい頃から個人コーチについてもらって、いまでもコーチを相手に延々とストロークをやってる。見ているときれいで、気持ちいい」
「どんな子だっけ」
「陽に焼けた、ひきしまった子。小柄だけど、きびきびしてて。とてもお墓に執着しているようには見えない。だから余計に面白いのよ。髪はいつもうしろで束ねていて。きりっとした、性格のいい明るい子です」
「小学校の頃から、リカはその子を知ってるのね」
「知ってます。昔からずいぶん変わってた。いつも手紙を書いていたのを、私は覚えてるわ。そしてその手紙を、自分宛てに出すの」
 ハチミは大きく首をかしげた。
「自分で書いて自分に出すの?」
 ハチミの質問にリカはうなずいた。
「そう」
「変わってる」
「いつも夢中になって読んでました」
「自分で書いたのだから、なにが書いてあるのかよくわかってるはずでしょう。読んでも退屈なはずよ」
「私もそう思った。だからハツキにきいてみたのよ。そしたらハツキが言ってたわ。書いた人とそれを受け取って読む人とは、まったく別な人なのですって」
「書いたのは自分でしょう」
「書いたのは自分でも、読む時には別の人になってるということ」
「よくわからない。自分のお墓に入りたいという気持ちは、よくわかったけれど」
「私だって、完全にハツキを理解しているわけではないよ」
「いまでも自分に宛てて手紙を書いてるのかなあ」
「さあ。こんど、きいてみます」
 小学生の頃の田中葉月が自分に宛てて手紙を書いていたのには、はっきりした理由があった。その理由についてハツキは、当時の彼女に可能なかぎり明晰に、リカに語った。だがその部分に関して、リカはすでに忘れていた。したがって、ハチミを相手にハツキについてリカがいま語った内容は、いささか不正確だった。

 小学生の頃のある日、ハツキとリカは次のような会話を交わした。
「私は夢を見るの」
 とハツキはリカに言った。
「私も見る」
「私は毎日。かならず」
「ひょっとしたら私も、毎日夢を見てるかもしれない」
「私の夢は、はっきりしてるの。ものすごく具体的で、写実的で、現実そのままなの。話が遠くて、なんのことだかわからないままにぼやっとした、いわゆるよくある非現実的な夢ではなくて、自分の毎日の生活が夢のなかにもうひとつある、という感じ」
「はっきりしてるんだ」
「場面がぱっと変わることはあるけれど、とにかく夢のなかでも、起きてるときとおなじように、あらゆることが鮮明なの。夢ではないみたいに、はっきりしてるの。夜、ベッドに入って明かりを消して、じっとしてると眠くなってくるでしょう。そしてそのまま眠るのよ。普段とおんなじ。でも、完全に眠ると、起きているときとおなじように、はっきりした世界がそこにあるの。起きてるときの延長みたい」
「おなじ自分の世界が、そこにあるの?」
 リカが質問した。
「おなじ自分ではないのよ。ほんのすこしだけ、ちがってるの。でもとにかく、ものすごくはっきりしてる。眠ってから夢がはじまると、現実の具体的な世界が、もうひとつそこにある。だから私は、ふたつの世界に生きてる」
「面白い夢だ」
「起きてるときの、いまここでこうしてる世界がひとつあって、その世界にはこの私がいるけれど、眠るともうひとつ別の世界があり、そこにはこの私とはすこしだけちがう、もうひとりの私がいるの」
「眠ると、起きてるときとおなじになるんだ」
「そう。眠ると、起きてるときとおなじになるの。でも、眠ってるのね。起きてはいないの。だから夢なの。でも、起きてるときとまったくおなじように、あらゆるものがはっきりしている。世界はふたつある、といっていいほどに」
「眠っている時間を八時間だとすると、そのもうひとつの世界は、毎日八時間だけ続く世界なんだ」
「十時間眠ると、ちゃんと十時間続くよ」
「たくさん眠りたいでしょう」
「そうなのだけど、私は十時間以上は眠れないの。十時間で目が覚めてしまう」
「寝てるときと起きてるときと、世界がふたつあるんだ」
「そう。そしてどっちも、本当なの」
「自分がふたりいるのね」
「すこしだけちがうの。ほかは、みんなおんなじ。両方とも私なの。起きてるときの私は、ほら、いまみたいに一人称の私でしょう。眠っているときに出て来る私も、一人称の私なの。でも、目が覚めてからいろいろと思い出してくらべてみると、すこしだけちがうのね」
「住んでる場所は? 両親は?」
 リカの質問に、ハツキは熱意を持続させて答えていった。
「まるでちがうのよ。住んでいる場所も、家も両親も、学校も町も、なにもかも、起きているときの私の世界とは、まるでちがうの。どこか別のところ。そして、別の両親。でも、主人公はこの私」
「完全にふたつなんだ」
「そう。自分がふたりいて、それぞれに別の生活をしていて、私はその両方を知っている。起きているときの世界と、眠っているときの世界と。眠っているときに体験するもうひとつの世界の自分について、作文を書こうと思ったなら延々と書くことが出来るよ」
「面白い」
「私はふたりいる」
「疲れない?」
 リカの質問に、ハツキは首を左右に振った。
「ぜんぜん。ぐっすり眠っているんだもの。そしていったん眠ってしまうと、夢の中のもうひとつの世界は、現実のこの世界みたいに、はっきりした具体的な世界なの」
「夢ではないかもしれない」
「そうなのよ。もっと小さい頃の私は、まだものがよくわからなかったから、起きているときと眠っているときの世界の区別が出来なかったの。だから母親をよく困らせたよ。眠っているときの体験の続きを、起きてからやろうとしたり、両親がちがうのでひどく泣いたり、とにかくふたつの世界がごっちゃになって、はっきり区別がつかなかったの」
「当然だよ」
「でも、すこしずつ成長してくると、起きているときの世界と眠ってからの世界とを、私は区別出来るようになったのね」
「ふたつのそれぞれにまったくちがった世界なのに、自分はおなじ自分なんだ」
 リカの理解のしかたに、ハツキは首を振って否定した。
「自分ももうひとり、別な自分がいるの。おなじではないの」
「あ、そうか」
「自分がもうひとりいて、その自分はいまの自分と同じなのだけれど、生い立ちや生活の背景は、まるでちがうの。たとえば病院で自分が生まれたとき、隣りのやはり生まれたばかりの赤ちゃんと入れちがってしまったら、両親から生い立ちまでなにからなにまで、みんなちがってしまうでしょう。そんな感じ。同じ自分なのだけれど、起きているときと眠ってからとでは、人生がまったくちがうのよ」
「いまここにいるハツキとは、まったくちがった人生の、しかしおなじハツキが、眠ってからの世界のなかにいる」
「そう」
「お母さんは、なんて言ってるの?」
 リカの質問にハツキは笑った。
「母親にはなにも語ってないよ。なにを言ってもわかろうとしないし、私はあきらめたし。母親は相手にしていないの。わかってくれる友達にだけ、話をしてるのよ。リカはわかってくれるから」
「自分がもうひとりいるなんて楽しいね」
「眠るとかならず、自分はもうひとりの自分になれるの」
「待ちどおしいでしょう」
「起きていて、つまらないときはね。でも、起きていて楽しいときは、もうひとりの自分は寝る時間までちゃんと取っておく」
「普通の夢みたいに、無責任でとりとめのない世界ではないんだ」
「とてもはっきりしてるよ。人の存在のしかたも、言ってることも、そして出来事も、みんなきちんとしていて、普通の夢のようにめちゃくちゃなところは、なにひとつないの。ぜんたいにわたって、きちんと統一が取れている」
「眠ったときだけ、もうひとりの自分になれるの?」
「そうね。目が覚めてから全部はっきりと思い出すことが出来るから、起きているときでももうひとりの自分になることが出来るの。でも生活の状況がまったく違うから、起きているときにもうひとりの自分になってみても、あんまり意味がないんだよね」
 ハツキの説明に、リカは言いかたを変えて次のように確認した。
「もうひとりの自分になってそれを楽しむには、眠らないといけないんだ」
「そう。眠る以外に、もうひとりの自分とコンタクトする方法はないかと、私はいろいろと考えてみたの」
「なにか方法はみつけた?」
「ひとつだけ。それは手紙」
「手紙を書くの?」
「そう。わたしが手紙を書くの。返事が届くよ」
「眠りの世界から?」
「私が私宛てに手紙を書いて、自分に宛てて投函すると、それが私に届くの。読むとすっごく面白い。なぜならば、それはもうひとりの自分からの手紙だから」
 現実の理論としては、ハツキのいま言ったことは、あっさりと破綻をきたしていた。しかしハツキ自身にとっては、破綻はどこにもなかった。もうひとりの自分に宛てて手紙を書く。そのもうひとりの自分は、自分が眠ったときの世界のなかにいる。だからその自分宛てにその手紙を投函する。次の日、その手紙は自分に届く。そしてそれを夢中になって読む。あまりに夢中だから、自分が書いたその手紙の内容を、ハツキは完全に忘れている。
「でも」
 反論しようとするリカを、ハツキは笑顔でさえぎった。
「だいじょうぶ。わかってるの。もう手紙はやめたから、だいじょうぶ。私が眠ったあとの夢のなかの世界、あるいは、現実にはいくことも触れることも出来ないもうひとつの世界のなかに、もうひとりの自分がいるの。そのことがはっきりわかっているから、もう手紙は書いてないの」
「あくまでも眠らないかぎり、もうひとりの自分には会えないのね」
 リカの言葉にハツキは首を振った。
「ちがうのよ。起きているときの私は、いまここにいるこの私なのね。その私が眠ると、まったくおなじ自分なのだけれども、状況は最初から完全にちがってしまったもうひとりの自分に、この私がなってるの。私はひとりなのよ。あるいは、ふたりいると考えてもいいけれど、もとの私はおなじひとりの私なの」
「ひとりが二重になっているんだ」
「そう。完全に二重。起きているときと、眠っているときと」
「眠っているときのハツキは、もうひとりの別な自分に変わってしまう」
「そうよ。そしてそのもうひとりの自分は、起きているときの私のことを、よく知ってるの」
「どうして?」
「私が眠っているあいだに、起きているときの私になってるから」
「ということは」
「私が眠ると、そのとたんに、この私はもうひとりの私になるの。そしてそのもうひとりの自分が眠るとき、私は起きるのよ」
「ああ、そうか。ぐるぐる回転するように、交替しているわけだ。二交替だ」
「そう」
「面白い。でも、ふたりが会うことは出来ないのね」
 リカの決定的な質問に、ハツキはしばらく考えていた。そして次のように答えた。
「死んだら、会えるかもしれない」
「わかる!」
 叫ぶように、リカが言った。
「ふたりが考えてることを総合すると、死んだら会えるような気がしている」
 ハツキが言った。
「ふたりとは、いまここにいるハツキと、眠ってからのもうひとりのハツキね」
「そう」
「死んだら、ふたりは会えるのね」
「ふたりとも死んだら」
「片方だけだと、どうなるの?」
 リカの質問に、ハツキは真剣に次のように答えた。
「いまのこの私が死んだら、おそらく、眠っているときの私だけになってしまう。起きているときの私は、眠っているときのもうひとりの私のなかに吸収され、結果としてひとりになるの」
「眠っているときに出て来るハツキが先に死んだら?」
「夢を見なくなるか、あるいは、眠っているときのもうひとりの私が死んでからの続きを、いままでとおなじように夢に見ることになると思う」
「ふたりが同時に死んだら?」
「それが一番最高」
「どうして?」
「いっしょにお墓に入って、これまでのおたがいについていつまでも話をして、笑ったり悲しんだりして楽しめるから」
「ふたりが同時に死んだら、ふたりはひとつのお墓のなかで会えるわけだ」
「そうよ」
「別々のお墓になったら、どうするの?」
「まだ幼い頃から、私は自分のお墓が欲しかったの。いまでもお墓が欲しい。眠ってからの世界に生きているもうひとりの私も、お墓が欲しいと言ってる。ふたりの気持ちは一致してるの。それに、眠ってからの私は、起きているときの私の存在をちゃんと知ってるのね。ふたりとも死んだらお墓のなかで会える、とその私が言ってるの。そしてそれはずっと以前から、起きているときの私も、信じてきたことなのよ」
「完璧だね」
「だから私はお墓が欲しい。そしてもうひとりの私といっしょに、早くそのお墓に入りたい」
「ハツキはそれを一番望んでいるのね」

 ショッピング・センターでハチミを相手にハツキについて語ってから数日後に、リカはふと思い出してハツキに電話をかけてみた。ハツキは自宅にいた。会いたい、とリカが言うと、ハツキも会いたがった。次の日に会うことにして、場所と時間をふたりはきめた。
 そして次の日、リカとハツキは待ち合わせの場所で落ち合った。自宅を出るまえに、リカはハチミに電話をかけて誘った。少し遅れて到着する、とハチミは言った。自分とハツキがどこにいるか、リカはハチミに説明しておいた。
 駅の改札口で時間どおりに落ち合ったリカとハツキは、駅の建物と合体している百貨店の地下で、コーンに入ったアイスクリームをひとつずつ買った。それを持ってエスカレーターで七階まで上がった。
 エスカレーターのわきに休憩用のスペースが広く取ってあり、クッションのきいたベンチがいくつも配してあった。外側のベンチは、天井からフロアまで全面が透明なガラスとなった壁と、むきあっていた。そのガラスごしに、七階の高さから外の光景を広く見渡すことが出来た。
 リカは色白のままだが、ハツキは濃く陽に焼けていた。白いスニーカーに淡いグリーンのソックス、そしてカーキ色のショート・パンツに黒い半袖のシャツを、今日のハツキは着ていた。そしていつものように、髪をうしろで束ねていた。
 積もる話を交換し合い、おたがいの近況について語り合っていると、ハチミがあらわれた。コーンに入ったアイスクリームを、彼女も片手に持っていた。
 自分宛てに書く手紙や、出来るだけ早くに入りたいと願っている墓の話についての復習を、ハツキはリカとハチミに対しておこなった。リカが不正確にハチミに伝えた部分をハツキは訂正し、その後に起こった考えかたの変化に関して補った。
「いまの私がいちばん真剣に考えていることは、もうひとりの自分にはこのままいつまでも会えないかもしれない、ということなの。眠ったら夢のなかにあるもうひとつの世界に生きているもうひとりの自分に、起きているときのこの私は絶対に会えないのよ。会うと、理論的に矛盾するでしょう」
 結論を先に言うかたちで、ハツキはふたりにそう言った。
「死んだら会えるという話はどうなったの?」
 リカがきいた。
「可能性としては残ってる。でも、どっちかが先に死んだとき、あとに残ったほうがどうなるのか、まだ私にはよくわからないのよ」
「お墓は?」
「ふたりともお墓を欲しがっているけれど、別々にちがうお墓を手に入れる可能性のほうが大きいな、と私は思いはじめてる。最後まで私たちは別々かもしれない」
「もうひとりのハツキは元気なの?」
「元気だよ」
「もうひとりのハツキのことを、ハツキはいまでもよく知ってるのね」
「眠るとかならずもうひとりの自分になるから。よく知ってる。もうひとりの自分の伝記だって、私には書ける」
「もうひとりのハツキが住んでいるのは、どこなの?」
 ハチミの質問にハツキは首を左右に振った。束ねた髪が、彼女の頭のうしろで右に左に飛び跳ねた。
「わからない。場所の名前は、いつまでたっても出てこないのよ。でも、日本のどこかなの。どこにでもあるような、とても平凡な、どこか」
「その場所へハツキが偶然にいったら、どんなことになるかしら」
「起きているときの私が、その場所へいくのね」
「そう」
「ひょっとしたら、そういうことだってあるかもしれない」
 真面目な表情でハツキが答えた。
「夢が現実になるわけだ」
 ハチミが言った。
「そうね」
「ある日ハツキが、どこでもいいけれどそれまで一度もいったことのない、どこだか知らない町へいくの。そしてその町を歩いていたら、ある瞬間、ハツキにはわかるの。これはいつも夢のなかに出てくる、もうひとりの自分が住んでいる町だ、と」
 ハチミの説明にハツキはうなずいた。そして、
「怖いね、それは」
 と言った。
「どうして?」
 リカがきいた。
「夢のなかにいるもうひとりの自分は、その町にいるのだから」
「必死に捜せば、もうひとりの自分に会えるわけだ」
 リカが言った。
 ハツキはしばらく考えた。眼の前にある透明なガラスをとおして、ハツキの視線は遠くへのびていた。近くにも遠くにも、秩序なく建物の建てこんだ陳腐な光景が、退屈に連続していた。
「夢のなかに出てくるその町は、現実にあるかもしれない。でも、もうひとりの自分には、たとえその町でも、会うことは出来ないと私は思う」
 と、ハツキが言った。
「なぜ?」
 ハチミがきいた。
「もうひとりの自分は、夢のなかだけの出来事かもしれないから。どこまでいっても、すべてはあくまでも夢」
「ハツキが眠らないことには、もうひとりのハツキがいる世界はなにも始まらないのね」
「そう」
「ということは」
 今度はハチミがしばらく考えた。
「ハツキが眠らなくなったら、もうひとりの自分がいる世界は、どこにも存在しないのだ」
「そう、それは正しい」
 勢いをこめてハツキが答えた。
「ハツキが眠らなくなったら」
 自分に言い聞かせるように、リカが言った。
「ハツキが眠る必要なくなったら」
 とリカは言いかえた。そして、
「ハツキが死んだら」
 と最終的に言った。
「正しい」
 リカを指さしてハツキが言った。
「私が死んだら、私は夢を見ることがなくなるのだから、夢のなかに出てくるもうひとりの自分も、そのときすべて消えてしまう」
「それっきり」
「そうね」
「面白い」
 リカが手を叩いた。
「だから私は、滅多なことでは死ねないのよ」
 ハツキが言った。
「お墓にはまだ入れないね」
 ハチミの言葉にハツキは首を振った。
「まだまだ」
「夢の中に出てくるもうひとりのハツキが先に死んだら、どういうことになるかな」
 ハツキとハチミに、リカが言った。
「それについても、私は考えたの」
 ハツキが答えた。
「いろんなことについて、ハツキはすでによく考えてあるんだ」
「そうだよ。いまここにいるこの私と、眠ると夢のなかに出てくるもうひとりの私との関係について、ありとあらゆる可能性を私は考えたの。何年もかかったよ。頭のなかだけで考えていると、混乱するし忘れたりするから、大きな分厚いノートブックを買って来て、それに書きこみをしながら、毎日のように考えた」
「夢のなかのハツキが死んだら、どうなるの?」
 リカの質問にハツキは次のように答えた。
「もうひとりの私は死ぬのよ。そしてここにいるこの私は、朝が来たらいつものように目が覚めて、私は私のまま生きてるの。そしてその日の夜、私が眠るともうひとりの私はもうどこにもいなくて、いなくなったあとの毎日を、私はいつまでも夢に見ていくような気がする」
「でも、眠って夢を見始めると、ハツキはもうひとりの自分になるのだったよね」
「そう。もうひとりの私の、一人称になってる。もうひとりのかたわらにこの私がいて、その私がもうひとりの私を見ている、という感じではなくて。夢のなかでは、私はもうひとりの、まったく別な私なの」
「そしてその人は死んでいなくなるのだから、いなくなったあとの世界を見ることはもう出来ないでしょう」
 リカの質問にハツキはうなずいた。そして次のように答えた。
「もうひとりの私がいなくなったあとの世界を、いまここにいるこの私が、眠りながら夢として見るの。もうひとりの私がいなくなったあとの世界を、この私が眠って夢に見るの」
「そしてその世界をいくら見ても、もうひとりのハツキはどこにもいないのだ」
「いない」
「つらいね」
「つらいけど面白い。いなくなったあと、どんなふうに周囲の生活が続いていくのか、よくわかるから」
「もうひとりのハツキは消えても、両親や家、あるいは町は、そのままあり続けるのね」
「ここにいるこのハツキが先に死んだら、どうなるんだっけ」
 リカがきいた。
「この私が消えるだけ。夢のなかのもうひとりの私は、この私がいなくてもそのまま続いていく」
「起きているときのハツキが死んだことを、夢のなかのハツキは知ってるの?」
「知ってる。この私がいなくなったあとの世界を、もうひとりの私もずっと見ていくことになる」
「複雑だ。面白い」
「こんなに厚いノートブックが、書きこみでいっぱいになったのだから、考えるのは大変なのよ。いろんな方向から考えなくてはいけないから。それに、理論的に破綻してもいけないし。どちらの自分にとっても公平でなくてはいけないのね。そこがいちばん難しい。でも、いちばん大切なポイントでもあるのよ」
「どちらが先に死ぬにしても、いまのままずっと続くんだ」
「そうね」
「夢のなかのハツキは、ほんとうにもうひとりのハツキなのかなあ。誰か別の人ではなくて」
「私よ」
「名前も田中葉月なの?」
 リカの質問にハツキは首を振った。
「別な名前」
 と、ハツキは答えた。
「顔は?」
 ハチミがきいた。
「まったくちがう顔よ。この私にはぜんぜん似ていない」
「背丈や体型は?」
「別の人。似たところは、なにもないよ。でも、私なのよ。たとえて言えば、まったくちがう人に生まれ変わったあとの、この私のような。私だけども、いまのこの私とおなじ私ではなくて、まるでちがう私。でも、私なのよ」
「どうして、そうだとわかるの?」
 リカが質問した。
「心は私だから、眠って夢がはじまって、もうひとりの自分があらわれてくると、その人は私なの。夢のなかにその人が出てくるのを、この私が夢のなかで見るのではなくて、私が眠って夢を見はじめると、私はその人になってるの」
「ハツキはいま、ふたとおりの自分を楽しんでいるわけだ」
 ハチミが言った。
「そのとおり。最初に言わなかったかしら。起きているときは、この私。そして眠って夢を見はじめると、もうひとりの別な私」
「別なハツキは、眠っているあいだだけなのね」
「そう」
「睡眠は何時間?」
「八時間」
「もうひとりのハツキには、眠っているあいだのその八時間だけ、なれるんだ」
「そのとおりね」
「途中で起きたら?」
「起きたくない。せっかく別の私になって、別な生活をしてるんだもの。起きたくない。だから途中では、起きないようにしてるの。いったん眠ったら、八時間ストレートに眠りっぱなし」
「早く起きなくてはいけないときは、どうするの?」
「そのぶんだけ早く寝て、八時間の睡眠を確保する」
「眠れないときは?」
 ハチミがきいた。
「それが怖いの」
 あっさりと、ハツキが答えた。
「年を取って老人になってくると、寝つきが悪くなったり、眠っていてもすぐに目が覚めたり、途中で何度も起きたりすると言うでしょう。だから私はそれがとても怖い。不眠症も嫌だ。睡眠時間が短くなるのも嫌」
「老人になるまで、別な自分の夢を見続けるつもり?」
「なにも問題が起こらなければ、もうひとりの自分と、いつまでもつきあっていけると思うわ」
「ハツキはよく眠れるの?」
「寝るための準備をととのえ、ひとりで寝室に入って部屋のなかを暗くし、ベッドに体を横たえると、三分後にはもう眠ってる」
「健康なんだ」
「そうね」
「でも、なんだか早く死にそう」
 ハチミがそう言い、リカが賛成した。
「私もいま、そう思った。ハツキは早く死にそう」
「どっちが?」
「どっちかが」
「ほんと?」
「ほぼ絶対」
「不思議だ。私自身もそう思ってるの。どっちかが、早くに死んでしまいそうな予感があるの。長くは続かないわ。どっちが先に死ぬと思う?」
「わからない」
 リカが首を振った。
「私にもわからない」
 ハチミが言った。
「どっちでもいいのよ」
 最終的な結論のように、ハツキが言った。
「どっちでもいいのよ。どっちが先でも、私は満足よ。どちらが先にいなくなっても、いなくなったあとの様子を、もうひとりの自分が、毎日見てくれているのだから」
「最後はそうなるんだ」
 感心したようにハチミが言った。
「だからとても安心なの」
「わかる、わかる」
「この私が先に死ぬのもいいな、と思うのね」
「そうなるかもしれない」
「先にこの私が死んで、自分のお墓に入るでしょう。もうひとりの自分は、この私がいなくなったあとを、いつも見てくれているの。だから安心。早くお墓に入りたいと私が言うのは、いまではそういう意味なのよ」
 ハツキが言い、リカとハチミは拍手をした。
「いい、いい、とってもいい」
 心から喜んで、リカが言った。
「それは最高」
 ハチミが言った。
 ガラスごしにハツキは遠くを見た。低い位置に浮かんで横につらなる遠い雲のかたちを視線でたどりながら、ハツキは自分のために次のように言った。
「でも、よく考えなくてはいけないことが、まだたくさんあるのよ。私のノートブックのなかには、疑問な点や理論的に解決されていない部分が、まだたくさん残ってる。私の考えがこの先どんなふうにまとまっていくかによって、結論はちがってくるかもしれない」
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どこにもいない私



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 九月の第四週、金曜日の最後の授業が終わった。生徒たちは教室を出た。二階にある教室から一階のロッカー・ルームを経由して、生徒たちは建物の外へ出た。ほとんどの生徒たちは自宅へ帰っていく。ごく少数は図書館へいき、それよりもすこしだけ多い数の生徒たちは、それぞれのクラブ活動の場へむかった。
 学校の広い敷地は起伏の連続だった。学校へ来ると、誰もが何度も坂を登り、いくつも坂を下らなければならなかった。ハチミとリカは、ふたりだけで肩をならべ、坂を下っていた。
 半袖のシャツの上に、リカはごく薄い生地のジャケットを着ていた。ハチミは長袖のシャツの上に花模様のヴェストだ。彼女はシャツの両袖をまくっていた。
「秋だね」
 ハチミが言った。
「汗をかかなくなりましたよ」
 リカが答えた。
「日曜日の昼過ぎに起きて、半袖とショート・パンツでいると、一時間ほどでくしゃみが出て、二時間するとだるくなって、三時間たつとお腹が痛くなったり、風邪の始まりみたいに頭がぼうっとしてくる」
「それ、よくわかる。ベッドで布団にくるまってると、そのうち直るよ」
「私も、長袖のシャツとジーンズに着替えると、いつのまにか直ってる」
「だから秋なんだ」
「そうだね」
 坂を下りたふたりは、水路沿いの道に出た。広い敷地のなかに三キロにわたって、直線で水路が作ってある。大学のボート部がボートの練習をするためのものだ。
 それは運河にも見えるし、川にも見える。両側に道があり、ベンチのある植え込みや花壇をへて、さくが作ってある。その柵の外が水路だ。柵を越えて人が落ちても、直接には水のなかへ落ちないよう、人工的な川原がある。草の生えた川原だ。その川原のむこうが、水路だ。
 リカとハチミはベンチにすわった。ジャケットのポケットに手を入れたリカは、小さな四角い紙の箱を取り出した。透明なセロファンでくるんであるその箱には、写実的なオレンジの絵が鮮やかに印刷してあった。
 指紋のほとんどない小さなてのひらにその箱を載せたリカは、それをハチミに見せた。
「懐かしい!」
 箱をひと目見て、ハチミが叫んだ。
「それは、オレンジ・ガム!」
 オレンジ・ガムの箱をひとつ載せた自分の掌を、リカは顔の高さにかかげた。
「ものすっごく懐かしい」
 ハチミが言った。
「涙が出てくるほど、懐かしい」
 そう言っているハチミの目は、早くもうっすらと浮かんだ涙でうるんでいた。
 三センチ四方、そして厚さは一センチほどのその小さな箱を、ふたりの十四歳の少女は、熱意をこめて観察した。
「今朝、買ったの。学校へ来る途中」
 リカが言った。
「あの店?」
 ハチミの質問にリカはうなずいた。
 駅を出て学校の正門へ向かう途中、商店のならぶなかに、菓子とパンの店があった。ありとあらゆる菓子、そしておなじくありとあらゆる菓子パンを売っている店だ。
「これを私はひとつだけ買ったの」
 リカが言った。
「気持ちはすっごくわかる」
 叫ぶように、ハチミが言った。
「今日はどの授業もつまらないでしょう。だから、これをひとつだけ買って、ジャケットのポケットに入れておいたの。ときどき手を入れて、この小さな箱を指先に持つの。今日はこのオレンジ・ガムが私を救ってくれた」
「わかる、わかる」
 ベンチを立ったハチミは、リカの前で跳びはねた。
「ポケットのなかで箱を指先に持って振ると、箱の中でオレンジ・ガムがころころしてるんだよね」
「可愛い! 懐かしい!」
 ハチミが叫んだ。
「私にも持たせて」
 そう言ったハチミは、リカにむけて手をのばした。なにかたいへんに貴重な、そしてきわめて繊細な細工物を持つかのように、ハチミはオレンジ・ガムの箱をリカの掌から丁寧に指先でつまみ上げた。
「うれしい。可愛い。あ、ほんとだ、なかでガムがころころしてる。音がしてる」
「小さい頃、よく食べたよ」
「私も。いまでもおんなじだ。ぜんぜん変わっていない」
「いっしょに食べよう」
 リカは箱をハチミから受け取り、透明なセロファンをはがした。箱を開き、なかに入っているものをすべて、掌の上に出した。
 オレンジ色すぎるオレンジ色の、パチンコの玉ほどの大きさの玉が六個、リカの白い小さな掌の上に転がり出てきた。うれしさに、ハチミは悲鳴を上げた。
「いまでも六つなんだ!」
「三つずつ食べよう」
「ひょっとしたら、二年以上、私はガムを食べていない」
「私も、そう」
 リカの掌からオレンジ・ガムをひとつ、ハチミはつまみ取った。鼻先へ持っていき、香りをかいでみた。
「香りも昔とおんなじ!」
 ハチミは感激した。
「幼稚園からはじまって小学校いっぱい、私はほんとによくこれを食べた」
 リカが言った。
「私も。ガムといえば、これだったから」
「いまでも私は、ゲップやシャックリが出ると、このオレンジ・ガムの香りがする」
「それは、リカ、おおげさだよ」
 そう言ってハチミは笑った。ベンチにすわりなおしたハチミは、指先にあるオレンジ色の玉を口に入れた。唇を閉じた彼女は、口のなかに広がる合成されたオレンジの香りと味に、目を閉じて歓声をあげた。
「懐かしい。昔のまんま!」
 リカもオレンジ・ガムを口に入れた。ふたりはそれぞれにガムを噛んだ。
「おんなじだ。昔に帰ったみたい」
 感慨をこめて、ハチミが言った。
「私も、昔の私とおなじ私なの?」
 リカの質問に、ハチミはうなずいた。
「幼稚園の頃にくらべると、私もリカもすこしだけ年を取ってるけれど、このオレンジ・ガムを食べているときの私は、昔の私に戻ってる。リカも、昔のリカだ」
「オレンジ・ガムは、タイム・マシーンね」
「そう。いまの私たちは、完全に昔に帰っている」
「昔の時間がいまも続いているの?」
 リカが質問した。
 その質問に、ガムを噛みながらハチミは首を左右に振った。
「昔も時間が流れていて、たとえば幼稚園の頃の私たちは、そのとき流れていた時間のなかにいたのよ。いまも時間は流れていて、いまの私たちはいまの時間のなかにいます」
 ハチミの回答にリカは首をかしげた。ふと遠くを見て、リカは次のように言った。
「私たちの誰もが、時間の上に乗っているのよ。昔の私たちは、そのとき流れていた時間の上に乗っていて、そのままずっとそこに乗り続けてきたから、私たちはいまでもおなじ流れの時間の上に乗ってます」
「それでもいいのよ。時間は飛行機みたいで、私たちはそれに乗っている」
「どこへいくの?」
「とりあえず明日へ」
 ハチミの返事にリカは笑った。ハチミも笑った。
「いつも流れているわりには、時間は私たちをどこへも連れていってくれないね」
 リカが言った。
「かなり遠くまで来てるよ。私たちが幼稚園にかよっていた頃は、十年まえでしょう。時間は、あのときから十年後といういまへ、私たちを運んでくれてる」
「でも、オレンジ・ガムはおんなじ」
「おなじ材料を使って、おなじ作りかたをしてるから、味や感触はおなじなのよ」
「私の気持ちがおなじ。あれから十年もたった私なのに、オレンジ・ガムを噛んでいるときの私は、十年まえとおんなじ」
「いまと十年まえと、気持ちがおんなじなのよ。いまリカはオレンジ・ガムを噛んでいて、いいなあ、おいしいなあ、と思ってるでしょう。それは、いまという感覚なのよ。十年まえにも、おなじように、オレンジ・ガムでいまという感覚をリカは体験していて、それが記憶のなかでいま重なり合ってるのね」
「いまがいくつもあるの?」
「そう。頭のなかには」
「ということは」
 リカは空を仰いだ。秋の長雨が始まる季節だ。その前兆の、雨の気配をたたえた灰色の空が、頭上に低くあった。
「ということは、いまはみんなおなじなのね」
「これはいまだなあ、と思う気持ちはおなじですね」
「いまは、いまなの?」
「そうねえ。いまはいまでしょうね」
「気持ちは昔に戻ってるのに」
「だからさっき言ったでしょう。頭のなかで、いくつものいまが、記憶というものとして、ひとつに重なり合ってるのよ」
「そう言ってしまうと、ハチミ、時間は頭のなかだけにしか流れないことになるよ」
 言い返されたハチミは、とっさに、
「あ、リカは鋭い」
 と答えた。
「リカの言うとおり、たとえば私たちがこうして生きているから、時間もあるのよ。私がどこにもいなかったら、私の時間はどこにもないでしょう」
「ふむむ」
 口を閉じたまま、リカはそう言った。
「人がいるから、時間もあるのね。関係してるのよ。ほんとになんにもない空間には、時間もなにもないはずだから。あっても、くらべることが出来ないよ。ほかになにかが存在していて、それとの関係のなかではじめて、時間がきまってくるんだから」
「人の頭が時間を作るの?」
「そうだね」
「いまって、なに?」
 リカが質問した。
 口のなかの柔らかい小さなかたまりであるオレンジ・ガムを、ハチミは左の頬と歯ぐきとのあいだへ舌の先で移動させた。ガムが邪魔にならないようにしておき、ハチミは次のように言った。
「いまは、たとえば、オレンジ・ガム。懐かしいとか、おいしいとか、いろんなことを強く感じながら、オレンジ・ガムを食べてうれしい気持ちでいるリカの、そのうれしい気持ちが、いま。それが、いまのリカ」
「いまとは、気持ちなのね」
「そう言ってもいいよ」
「いまの私は、幼稚園のときの私とはまるで別人なのに、気持ちだけはおんなじ」
「面影はあるよ。いまのリカは、昔のリカと、よく似てるはずよ」
「時間の流れに沿って、いま、あるいは、いまの私が、次々にいくつも、ずらっとならんでいるんだ」
「絵にすると、そうなるね。不思議な絵だけど」
「すこしずつ変わっていく私を、次々にたくさん描かなくてはいけない」
「毎日、たとえば十秒ずつ、自分を正面からヴィデオに撮っておくといいのよ。二時間のテープだと、一日十秒で何日撮れるだろう」
「七百二十日分、撮ることが出来る」
 とっさに暗算して、リカが答えた。
「二年分だね。テープ一本で」
「そう」
「それを、画面に横筋が入ったりしない早送りで逆に見ると、時間を見ることが出来るよ。二年を二時間に圧縮して見ることが出来る。たとえばいまのリカは、一時間たつと一歳だけ若くなっている。今日は、とりあえず、いまなのよ。でも、夜になって朝をふりかえると、その朝には今朝という言葉があって、今朝はいまよりすこしだけ過去なのね。そしてそれは、もはや記憶でしかないわけ。昨日になってしまうと、それはもっと過去だよ。時間のなかには、今日がたくさんあるのよ」
「どれが本当なの?」
「どれも、そのときどきに、本当」
「いちばん本当なのは、どれ?」
「死ぬ直前かもしれない。あと〇・五秒で死ぬ、というようなとき」
 しばらくリカは黙っていた。やがて次のように言った。
「みんな頭のなかの出来事なのね。あらゆることは、頭のなかだけにしか存在しないのね」
「心理的にとらえると、そうだね」
「心理的とは正反対のとらえかたは、どんなとらえかたなの?」
「物理的なとらえかたかな」
 自分で自分に確認するような口調で、ハチミが答えた。
「物理的にとらえたいまは、どんなふうなの?」
 リカの質問にハチミはすこしだけ考えた。そして次のように答えた。
「横に長く、一本の線を描くとするでしょう。その線は時間なのね。時間は流れてるはずだから、その一本の線には速度があるのよね。でも、その速度のなかに、いまという時間を固定することは、出来ないね」
「だから、いまというものは、どこにもないの?」
 ハチミは首を振った。
「ないよ」
「物理的には、いまという時間は、どこにもないの?」
 リカの質問に、ハチミは、
「ありません」
 と答えた。
「いまがどこにもなければ、私だってどこにもいないはず」
 うれしそうに、リカが言った。そして、掌の上に残っている四個のオレンジ・ガムのなかから、ひとつをつまんで自分の口のなかに入れた。掌を、彼女は、ハチミのまえに差し出した。オレンジ色の小さな玉を、ハチミもひとつ、つまみ上げた。そしてそれを口に入れ、それまで噛んでいたのといっしょにして、噛みはじめた。
「うわあ、素敵」
 ハチミが言った。
「新しいのを口に入れて噛みはじめたとき、オレンジの味と香りのする水が、口のなかへどっと出てくるような感じがあるのね。それが、たまらなくうれしい」
「私はどこにもいない」
 リカが言った。
 そのリカに、ハチミはさらに次のように説明した。
「さっき私が言った、横に引いた一本の線という時間は、要するに過去から現在をとおって未来へむかっている時間ね。だからその線の先端には、矢印がついてるわけ」
「あ、なるほど」
「矢印のついた時間は、物理学ではもう相手にしてないのよ」
「どうして?」
「矢印の方向にむかう運動があるとするなら、その運動を逆に見ることだって出来るでしょう」
「そのときは、時間が逆に戻るんだ!」
 リカが叫んだ。
「さっきのヴィデオの逆まわしのように」
「ぜんぶの時間がいっせいに逆になるといいのに」
「ヴィデオの巻き戻しが、この地球ぜんたいで、現実に起こると面白い」
「そう。それは面白い。そうなりたい」
 水路のそばのベンチにすわって、リカとハチミはオレンジ・ガムを三個ずつ噛んだ。噛んでいるものはやがてただのガムになり、オレンジの味と香りが口のなかにほのかに残るだけになって、ふたりはベンチを立った。学校の敷地のなかの坂道を登ったり下ったりして、正門までゆっくり歩いていった。
 次の週のおなじ日、リカとハチミは、学校の授業が終わるとすぐに学校を出た。駅へいき上りの電車に乗った。途中で急行に乗り換え、二十分ほどでその急行を降り、その駅で交差している別の路線の電車に乗った。三つ目の駅でふたりは電車を降りた。
 線路に沿った道を駅から数分歩くと、幼稚園があった。道の行手をふさぐようにしてその幼稚園の敷地があり、敷地に沿って道は大きく右に曲がっていた。敷地につき当った地点では、敷地を取り囲む塀は高い位置にあった。道を歩いていく人たちを見下ろすその塀は、その塀に沿って歩くにしたがって、低くなった。道は登り坂の坂道なのだ。
 途中から塀ごしに幼稚園の運動場を見ることが出来るようになった。そして正門の近くまで来ると、道を歩く人の誰もが、幼稚園の敷地ぜんたい、そして奥に建っている建物を、眺めることが出来た。
 リカとハチミは正門の近くに立った。午後のこの時間には、園児たちはすでに自宅へ帰っていた。広い遊び場に人の姿はなく、建物のなかにも人の気配はなかった。遊び場と建物とが、幼稚園らしい定石さで、静かに存在していた。
「誰もいないね」
 ハチミが言った。
「もうみんな家へ帰ってるよ」
 リカが答えた。
「リカはここへかよったんだ」
「三年間」
「懐かしい?」
 ハチミの質問に、リカは大きくうなずいた。
「懐かしい。私がかよってた頃とおんなじ。なにひとつ変わってない」
「まだ最近のことだものね」
「でも、かなり昔だよ」
「思い出すことがたくさんあるのかなあ」
「こうして見てると、次々に思い出す。遊び場の土の感じとか、あそこのブランコの、揺れる感じや音。教室のなかの匂いやピアノの音。お遊戯のときの歌や音楽。みんな覚えてるし、みんな思い出す」
「あそこの教室のドアから、四歳とか五歳のリカが、いまひょこっと出てきたら面白いね」
「私もいま、おなじことを考えてた」
「時間が逆まわりになったら、リカはもう一度ここへかようんだよ」
 ハチミがそう言い、リカは笑った。
「あらゆる動きが、ぜんぶ逆になるんだね。走るのも歌うのも、みんな逆」
「オレンジ・ガムも、噛んで味のなくなったのが、ごみ箱からリカの手にぴょんと飛び乗ってそこからリカの口に入り、しばらく噛んだあと、新品のオレンジ色の玉になってリカの口から出てくる」
「そして私はそれを箱にしまうのね」
「噛んでるときの味が逆になるのは、面白いね」
「噛めば噛むほど新しくなっていく」
「最後にはまだ噛んでない新品の玉になるんだよ」
「噛んですっかり味のなくなったのが、ごみ箱から私の手に飛び乗る。それを口に入れて噛んでると、新品のオレンジ・ガムになっていく」
 そう言って、ハチミは手を叩いてよろこんだ。
「逆でもガムの味は楽しむことが出来るよ」
「噛むほどに、味が新しくなっていくんだ」
「それは最高」
「食事もそうだよ、リカ。皿の上に口から出していくんだよ。出し終わったとき、皿の上には料理があって、それをキチンへ下げるの。お腹のなかから、どんどん出してばかりいる」
「水も吐くね」
「空気も吐いてる」
「私はどんどん小さくなっていき、ついには生まれたばかりの赤ちゃんになり、お母さんのお腹のなかへ戻っていくの。お母さんのお腹はすこしずつ平らになり、妊娠するまえに戻り、さらには結婚するまえに戻って、私はもうどこにもいなくて、若いお母さんがどこかでにこにこしてるの。あ、最高にいい」
「みんなどこかへ戻っていくんだね」
「巻き戻しボタンを押してくれないかなあ。私がかよったこの幼稚園は、カトリック系なのよ。イエス・キリストに誰もが導かれるの。時間を巻き戻してくれないかなあ。ほんとにお願い、時間を巻き戻してもらえたら、最高!」
「リカはいなくなるよ」
「それがいちばん最高!」
「リカは影もかたちもなくなるんだよ」
「それが最高!」
「自分が消えるのよ」
「死ぬのではなく、もとに戻って、いなくなってしまうんだ」
「そう」
「最高!それがいちばんいい!」
「どこにもいない自分」
「それが本当の自分だ、という気がする」
「私もなんとなくそう思う」
 人のいない幼稚園の運動場と建物を眺めながら、リカとハチミは話を続けた。
「時間がVCRのテープみたいなものだったら、ものすごく面白いね。あるところまで時間が進んでくると、テープがいっぱいになってしまって、それ以上は時間が進まないの。だからそこで巻き戻しのスイッチがオンになって、時間が逆まわしになるの。世界中で時間は逆転をはじめるの。最高」
「紅茶に角砂糖を入れて飲んだすぐあとに、時間がいっぱいになって逆回転がスタートするといい」
 ハチミが笑いながら言った。
「どうして?」
「だって、面白いよ。想像してみて。私が紅茶のカップを持っては、そのなかへ口から紅茶をひと口ずつ出していくの。カップ一杯に紅茶を吐いたところで、その紅茶のなかから角砂糖がひとつひょいと出て来て、私が持っているスプーンに乗っかるの。そして私は受け皿にスプーンを戻し、角砂糖を指先でつまんで、砂糖入れに戻すの」
「時間の逆転がはじまったら、あらゆることがそんなふうになるんだ」
「そうよ。リカはこれまでにオレンジ・ガムをいくつ噛んだと思う?」
 ハチミの質問にリカはしばらく考えた。そして首をかしげ、
「五百個くらいかな」
 と答えた。
「はじめて噛んだのは、何歳のときだと思う?」
「四歳くらい」
「いま時間の逆まわりがはじまると、リカが四歳に戻るまでに、オレンジ・ガムを五百個、リカは口から出すんだよ」
 ふたりの少女は体をよじって笑った。
「逆もどりしていく時間を、ずっと見ていたら面白いだろうね」
「自分も逆戻りしながら」
「すっかり忘れてたことが、いっぱいあるよ。逆戻りしていくと、忘れてたいろんなことを、突然に思い出させられるんだ」
「出来事の順番は、みんな逆だね」
「順番がよくわかっていいよ。忘れてることは思い出すし、逆にもう一度体験出来るし。どっちが先だったか順番を忘れてたことなんか、みんなすっきりする。思い出を整理するのにいいね」
「最後には、リカはいなくなるよ」
「そしてそこからあとは、見ることは出来ないんだ」
「それがいちばん残念」
「ほんとだね。ずっと見ていることが出来たらいいね」
「自分だけではなく、ほかの人たちの誰もが、順番にどんどん赤ちゃんに戻って、いなくなるんだ。世界じゅう、どこでも。人類はいなくなる。クロマニヨン人までいってしまう。お猿さんになるのかなあ」
「地球で最初の人間が、はじめて二本の脚で立つ瞬間を、見ることが出来るよ」
「なくなったものが次々に出て来て、すでにあるものは次々に消えていく」
「なくなったものが再び登場して、それがなかった状態へ戻っていくんだ。こうして言葉で言ってると、混乱してくるね」
「実際に起こったら、もっと混乱するよ」
「言葉はどうなるんだろう。声になって口から出てくる言葉」
「逆になるんだ」
「だんるなにくゃぎ」
「なに、それ」
「いまのハチミの台詞の、逆まわし」
 ハチミは笑った。
「困っちゃうね。みんな逆になると、なにを言ってるのかわからなくなるよ」
「わからなくてもいいのよ。もとに戻っていくだけなんだから。新しく作るものはなにもないのだし。逆戻りしていく時間に、すべてまかせておけばいいのよ」
「なにも考えなくてもいいんだ」
「そう」
「あ、それも、最高」
「人類だけではなく、銀河系や宇宙も巻きこんで、とにかくみんな逆戻りするといい」
「最後はどうなるんだろう」
「私の直感では、最後に残るのはひと筋の光」
「わかる気がする」
「一本の光が闇のなかに残って、それが、どこへとも言えない遠いところへ、なんにもないまっ暗ななかを、すうっと遠のいていくの。果てしなく吸いこまれていくように」
「終わりだね」
「だから、それをもういちど逆に言うと、それがすべての始まりでもあったわけ」
「なるほど。そうだ。底なしの暗闇のむこうから、一本の光がどこからともなくすうっと出てきて、そこから宇宙がはじまったんだ」
「ほんとにみんな終わるといいね」
「でも、何億年とかかるよ」
「巻き戻しにも早送りがあるといい」
「いいね。試験のとことかね」
「寝てる時間も」
「そうだ」
「なんだか気持ちがすっきりしてきた。いままででいちばんすっきりしてるかもしれない」
 しばらくしてふたりは幼稚園をあとにした。歩いて来たのとおなじ道をひきかえし、駅へ戻った。駅に入り上りの電車に乗った。四つめの駅が終点だった。地下鉄も数えると六本の路線が重なり合う、多忙なターミナル駅だ。
 いちばんうしろの車輛から、ふたりはプラットフォームに出た。いまのふたりから見てプラットフォームの奥、つまり改札口のあたりには、プラットフォームの幅いっぱいに人がぎっしりとつまっていた。改札口の数に比例して乗降客の数が多すぎるから、ここではいつもこうなる。ハチミとリカはゆっくりと歩いた。
 電車に乗るため、改札口を抜けてこちらにむけて歩いてくる人たちが、何人もいた。そのうちのひとり、リカやハチミの母親とおなじような年齢の女性が、ハチミに視線をとめた。淡く微笑したその女性は、ハチミにむけて斜めに近づいた。そして、
「初美ちゃん」
 と、優しく呼びとめた。
 立ちどまったハチミはあたりを見まわした。自分の近くにいるのは、リカとその中年の女性だけだった。中年の女性にハチミは視線を戻した。
「初美ちゃん。お久しぶり」
 彼女の淡い微笑に、ほんの一瞬、悲しそうな影が走った。
「すいぶん大人になったのねえ」
 心から感嘆してそう言う彼女が誰なのか、ハチミはようやく気づいた。大人たちと話をするときにはかならずそうするように、ハチミは急に愛想が良くなった。意味もなくにこにこし、派手で大きなジェスチュアを見せた。しかし、相手の顔に視線をとめることは、出来るかぎり避けていた。
「初美ちゃん。ほんとに久しぶり。お元気?」
「ユリエちゃんのお母さん」
「そうよ。覚えていてくださった?」
「覚えています。とても懐かしいです。お元気ですか」
「なんとか元気よ。初美ちゃんも元気そう。うれしいわ。大きくなったのね。ずいぶん背がのびたわ」
「ユリエちゃんはどうしてますか」
「あい変わらずよ。寝坊で朝が大変」
 ハチミはその女性としばらく立ち話をした。少し離れたところに立って、リカは、ふたりを見るでもなく見ていた。ふたりの話をリカはきいていた。
「学校は面白い?」
 ユリエの母親がハチミにきいた。
「楽しいです。いい友だちがたくさんいて。いまここにいっしょにいるのは、リカといいます。おなじクラスの、親友のひとりです」
 ハチミにそう言われてリカはユリエの母親に軽く会釈した。母親もリカに笑顔をむけた。そしてハチミにむきなおった。
「中学生になってからは、ユリエに会ってないでしょう」
「そうなんです。ときどきユリエちゃんのことを思い出すのですけれど、学校はちがってしまいましたし、私は引っ越しをしましたから。ユリエちゃんは、いまでも引っ越しをしてますか」
 ハチミが笑いながらきいた。ユリエの母親はハチミの質問に答えず、ただおだやかに微笑していた。
「ユリエちゃんには私から電話をかけます」
 ハチミが言った。
「どうもありがとう。でも、あのこは手紙のほうが好きだわ。いまの住所を教えるから、暇なときに手紙を書いてね」
 ユリエの母親はバッグから手帳を出した。手帳についている細い鉛筆で、清水百合絵という名と現在の住所を、白紙のページに書いた。そしてそのページをちぎり、ハチミに渡した。
「初美ちゃんに会えてよかったわ。偶然に、こんなところで。また百合絵と遊んでね。いっしょに学校にかよってね」
 愛想良く笑いながら、ハチミは鞄を開いた。鞄のなかの小さなポケットに、手帳の一ページをしまった。鞄を閉じたハチミに、
「引き止めてごめんなさいね」
 と母親は丁寧ていねいに言った。彼女はハチミにおじぎをし、リカにも会釈をした。そしてそこで別れた。
 人の数が少なくなった改札口にむけて歩きながら、ハチミが言った。
「小学校のとき、一年から六年までずっとおなじクラスだった、清水百合絵という子のお母さん。私は小学校を卒業してから、いまのところへ引っ越して来て、いまの中学に入ったけれど、ユリエは別の中学へいったの。それっきり会ってないなあ。卒業してすぐに電話で話をして、手紙をもらって返事を書いて。それっきり。会いたいな」
「丁寧なお母さんだね」
「昔からあんなよ。小学生低学年の小さな私に、丁寧におじぎをしたり」
「ちょっと悲しそうなお母さん」
「いろいろと悲しくなってくる歳でしょう、そろそろ」
「うちのお母さんもおなじような歳だけど、なんにも悲しくないみたいだよ」
「元気なのよ」
 ハチミとリカは改札口を出た。
「せっかくだから、何軒か店を見て、なにか食べていこうか」
 ハチミが言い、
「賛成」
 とリカは答えた。
「ユリエという女の子は、しょっちゅう引っ越しをしてたんだよ。引っ越しがお父さんの趣味なのだと、ユリエが言ってた。学校から歩いて数分ないし十五分くらいの範囲内に、八軒だか九軒だか家を持っていて、どれもみんな自分の家なのね。いつもは人に貸してあるんだけど、一年とか二年とかの間隔でひとつずつ順番に空き家にしていき、次々に引っ越していくの」
「変わってるね」
「お父さんもお母さんも、どことなく変わってた」
 十月、十一月、そして十二月が経過していき、その年は終わった。ハチミもリカもともに十五歳になる年が、やがて始まった。一月の休みが終わり、学校が始まって二日めに、ハチミはリカといっしょに学校を出た。駅から電車に乗り、ふたつ先の駅で降りた。駅まえの百貨店に入り、ふたりが共通の友人たちとよく来る店に入った。紅茶とケーキの店だ。
 大きな楕円形のテーブルの片隅へ、ふたりは案内された。ドライ・フラワーを華やかにたくさん飾った高さ四十センチほどの壺が、テーブルの中央に置いてあった。壁を背にしてその壺にかくれるように、ふたりは椅子にすわった。それぞれに紅茶とケーキを注文して、ハチミはリカに肩を寄せた。そして声を低く落とし、
「やばいんだよ、リカ。これはもう、ほんとにやばいんだよ、どうしよう」
 と言った。
 リカはハチミの顔を見た。ハチミは真剣な表情をしていた。気持ちを集中させてなにごとかを考えている表情だった。
「どうしたの。なにがそんなに、やばいの」
「私は本当に困った」
「どうしたのよ」
「ユリエって、覚えてる?」
「女の子?」
「そう。ユリエ。清水百合絵」
「どこの女の子だっけ」
「去年の十月に、学校が終わってからオレンジ・ガムを食べて、そのあと電車に乗って幼稚園へいったでしょう。私がかよった幼稚園。ヴィデオ・テープの逆回転みたいに、時間が逆戻りし始めたらどんなにいいだろうという話をして、ふたりで笑ったでしょう」
「覚えてる。あのときは楽しかった」
「幼稚園から駅までひきかえして電車に乗り、ターミナル駅までいったでしょう」
「うん」
「その駅のプラットフォームで、私はユリエのお母さんに呼びとめられた」
「あ、思い出した」
 ふたりのテーブルに紅茶とケーキが届いた。熱い紅茶の香りが、ふたりのまえに漂った。
「覚えてる」
 リカがくりかえした。
「丁寧なお母さん。ほっそりした人で、優しそうで、どことなく悲しそうだった。覚えてる」
「ユリエと私は、小学校がおなじだったの。ずっとおなじクラス。仲良しで、いつもいっしょに学校へかよったんだよ。でも、中学校は別々になったし、私は小学校を卒業してすぐに引っ越しをしたから、ユリエとは縁が遠くなったの。卒業してすぐにユリエから手紙が来て、私はユリエに電話をかけて、それっきり。ときどき思い出していたけれど、電話をかけるにしても手紙を書くにしても、なんとなくきっかけがなくて、そのままになったまま、そしてこの三月で、小学校を卒業してもう三年め」
 ハチミが語るのをリカはきいていた。紅茶のカップを両手で持ち、顔のまえに香りを漂わせながら、熱い紅茶を彼女はすこしずつ飲んでいた。
「ユリエのお母さんが私に言ったことを、リカは覚えてる?」
 ハチミの質問に、リカは首をかしげた。
「普通のことを言ってたような気がするけど。大きくなったわねとか、久しぶりね、元気そうとか、そんなこと」
「ユリエに電話をかけます、と私はお母さんに言ったの。そしたらお母さんは、百合絵は手紙のほうが好きなのよ、と答えたのね。だから私は、ユリエに手紙を書きます、と言ったわ」
「そうだった。思い出した。そしてお母さんは手帳を出し、住所を書いてハチミにくれたんだよね」
「そう。それから、また百合絵と遊んでねとか、また百合絵と学校へかよってね、とお母さんは私に言ったの」
「そうだった。なぜか悲しそうなお母さん」
「あのとき私は、すぐにユリエに手紙を書くつもりでいたのだけれど、忘れてしまってそれっきりになって、ふと思い出した私はユリエに電話をかけたの。クリスマスのまえの日。お母さんが出て、ユリエはいなくて、またかけてちょうだいね、と私は言われたのよ。そして、年賀状を出したの。ユリエから返事の年賀状が届いたわ。大人っぽい字になったなあと思いながら、ユリエの年賀状を見たあと、小学校のときの別の友達にふと電話をかけたの。正月で暇だったから。その友達からも年賀状が来ていて、電話番号が書いてあったのよ。電話をかけたらその友達は自宅にいたから、久しぶりに小学生の頃の気持ちになって、長話をしたのね。そのときにユリエのことを私が話したら、そこでびっくり。なにがあったと思う?」
「さあ」
「清水百合絵は、中学校に入ってすぐ、死んだのですって。五月に。急死。心不全のような死にかたで」
「つまりそのユリエという女の子は、じつは三年まえに死んでるの?」
「そうなのよ。だからびっくり」
「死んだときにハチミのところへは通知が来なかったの?」
 リカの現実的な質問に、ハチミは首を振った。
「来なかった。その友だちにきいてみると、誰にも通知は来なかったみたい」
「駅でお母さんに会ったときの話だと、ユリエさんは元気にしてるみたいな話だったね」
「私が出した年賀状の返事に書いてあった住所を見ると、私の記憶では、ユリエが三年まえに住んでいた家の住所なの」
「何度も引っ越しをした女の子だと、ハチミは言ってたよ」
「どれも小さなよく似た家なんだけど、一軒家を七つか八つ持っていて、一年に一度は引っ越しをするのが、お父さんの趣味だった」
「そのお父さん、変わってる」
 ケーキを食べ終わってリカはフォークを皿に置いた。ハチミのケーキはまだ半分残っていた。
「二年まえに住んでいた家の所番地が、住所として書いてあったの。そしてユリエが死んだのは、二年まえ」
「誰がその年賀状を書いたのだろう。当人はとっくに死んでいるとしたら」
「お母さん」
 なにか大変に重大なことのように、声をひそめてハチミが言った。
「あ、ひょっとしてわかった」
 と、リカが言った。
「お母さんにとっては、百合絵という女の子はまだ死んでいないんだ」
「そうなのよ。死んではいないの。しかも、時間が逆戻りになってるの。幼稚園を見にいったときにふたりで話をしたみたいに、時間はヴィデオ・テープの巻き戻し再生とまったくおなじ」
「どういうこと?」
「まさに時間の逆戻り。私が正月に電話をかけた別の友だちが言うところによると、ユリエのお母さんはユリエに関して、ユリエが死んだその日から、時間を逆にたどっているのですって」
「頭のなかで」
「そう。あのお母さんひとりだけの頭のなかで。ユリエにはお兄さんがいるのよ。そのお兄さんは、自分の家のことをなんでも喋ってしまう人らしくて、お母さんの秘密もみんな人に喋るんですって。ユリエのお母さんは、ずっと日記をつけて来た人なのね。その日記が、ユリエの死んだ日からは、逆戻りになったのですって。一日一ページの日記帳を、お母さんは一日ごとに逆に生きていくの、頭のなかで。ユリエが死んで三年。だからいまのユリエの住所は、死んだ日から逆にたどって、三年まえに住んでいた家の住所」
 ハチミのやや説明不足な語りを、リカはきき終えた。頭のなかで整理しながら考えなおしたリカは、
「面白い。それ、すっごく面白い!」
 と、叫ぶように言った。
「素晴らしいお母さんだ!」
「お母さんの日記帳が何冊もあって、いまはユリエが死ぬ三年まえの日記が、お母さんの机の上に開いてあるんですって。ユリエが死んで三年だから、もうお母さんは六年まえまで戻ってるの」
「一日ごとに、過去へ帰っていくんだ」
「そう」
「一日の終わりに、夜、ひとりで、お母さんは、六年まえにつけた日記のページを、毎日一ページずつ、逆戻りしているんだ」
「そう」
「それはすごいっ!」
「日記って、毎日つながった時間順だから、逆にたどりなおすことが出来るよね。ページを逆にくっていくと、過去へ逆むきに帰っていくことが出来る」
「これはもう、発明だよ、リカ。すごいお母さんだ」
「ほんとにすごいね。友だちから電話で話を聞いて、ぜんぶ理解し終わったときには、私は感動してた。ぼうっとなって、なんにも言えなかったよ」
「ユリエという人のお母さんは、本当に悲しいんだ」
「そう。ものすごく悲しんでいるはず」
「娘が死んで、悲しくて、あまりにも悲しいから、彼女の死を認めることが出来ないのね。彼女の死を認めていないから、お母さんとしては、娘がいなくなったところから、頭の中で時間を逆に生きるほかないのよ」
「わかる。そのとおりだ」
「お母さんの頭のなかでは、ユリエはいまでも生きてるの。生きているとは言っても、一日ずつ確実に、過去へ戻ってる。ユリエは一日ごとにもとに戻っていきつつあり、いまでは小学校四年生にまで戻ってる」
「すごい、すごい、これはすごい」
「あと十年たったら、ユリエの生まれた日が来て、その日を一日だけさらにうしろへ戻ったら、ユリエはそのときこそ完全に消えてしまう」
「お母さんのお腹のなかにいるよ」
「そうだ。お腹のなかに十か月いるとして、生まれた日から十か月後には、ユリエは本当にどこにもいなくなるんだ」
「素晴らしい。お母さんは、その日、満足してにっこりと微笑すると思うよ」
「ほっとするね」
「でも、これからさらに十年」
「毎日、毎日」
「日記帳を一日ごとに逆にめくっていくのね。その日になにがあったか、日記に書いてあるわけだから、かなり思い出せるのよね。思い出しながら頭のなかでは過去のその日を生きて、娘も自分も一日だけ過去へ戻っていく。うわあ、これは発明だ」
「自分のお腹のなかからユリエがいなくなったとき、お母さんは悲しみから解放されるだろうか」
「きっと解放される。私はそう思う」
「だからこそ、時間を逆に生きてるんだよ」
「あと十年後には、ユリエは完全に消える。そしてそのとき、あのお母さんは、にっこり笑うと私は思う。晴々とした笑顔で。十年も若くなって、きっときれいだよ」
「いまでもきれいな人だから」
「でもそのとき私たちは二十五歳」
「わ、いやだ、いやだ」
 漂って来た煙草の煙を追いはらうような手つきで、リカは顔の前で片手を何度も振った。
「私もいやだ」
「時間を逆むきにして。お願い」
「私のも」
「おたがいに。いますぐ。時間を逆にして。ハチミ、お願い、私の時間を逆むきにして」
「私も」
「おたがいにお願い」
「逆にして」
 椅子のなかでおたがいにむきあい、両腕を相手にさしのべ、大きなジェスチュアをくりかえしながら、ひとつの大きな願望にかかわる単純な言葉を、彼女たちは言い合った。ふたりとも願いは切実であり、気持ちは真剣だ。しかしはた目には、十五歳の少女ふたりが、自分たちだけにわかるなにごとかに関して、楽しくふざけているとしか見えなかった。
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真夏の夜の真実



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 台風十号は、最初はグアム島の西に発生した弱い熱帯性低気圧だった。北西にむけて進むにつれ、暴風圏を持つ中型の台風となった。夏の台風らしく不規則な進路をとって北上し、西日本に接近した。奄美諸島あまみしょとうをへて九州に上陸し、太平洋高気圧の縁に沿って北東に方向を変え、加速を始めた。そして西日本を北上し、八月八日には秋田沖の海に出た。
 激しい雨が東京に残った。八日は朝から降り続け、午後から夕方になるにつれて、雨は降りかたの激しさと量を増していった。今日の深夜から明日の朝への境い目にかけて、東京の雨量は頂点に達するだろうと、TVの気象ニュースは予報していた。その予報のとおり、夜になると雨はいちだんと激しさを増した。風はさほどでもなかった。
 九時過ぎの住宅地のなかを、十四歳のミヨコは、大きなこうもり傘をさして、雨のなかをひとりで歩いていた。傘を頭のすぐ上まで下ろして柄を両手で持ち、首をすくめてミヨコはゆっくり歩いた。素足に白いサンダルをはき、ミニ・スカートの両脚は雨に濡れていた。降る雨は歩道から跳ね返る雨といっしょになって、ミヨコの短いスカートの裾のすぐ下あたりまで、常に届いていた。乗用車が一台、前方から走って来た。歩いていくミヨコの脚を、密度の濃い雨をかいくぐったヘッド・ライトが、すれちがいながら照らした。すんなりとのびた、かたちの良い脚だった。
 その乗用車を見送るように立ちどまったミヨコは、傘を少しだけ上へ上げた。歩道のある二車線の道の左右を、彼女は見た。そしてむこう側へ渡った。大きく立ちふさがる二面の壁のように、十五階建ての集合住宅がL字型に建っていた。その集合住宅の駐車場へ、ミヨコは入っていった。
 集合住宅の広い駐車場の縁を歩いていったミヨコは、やがてふと駐車場のなかに入った。停めてある自動車の列のなかを蛇行して歩き、ミヨコは建物にむかった。自動車のかたわらを歩いていくとき、車体から跳ね返る雨は彼女のミニ・スカートの腰から半袖シャツの袖口まで、存分に濡らした。
 駐車場を抜けたミヨコは、建物の正面入口の軒下に入った。傘をさしたままドアまで歩いていき、ドアの前で傘をすぼめた。そしてロビーに入った。管理人室のカウンターに明かりがついていた。カウンターの奥に人の気配があった。ミヨコは一方の壁へ歩み寄った。電話機とおなじ配列の数字のボタンとインタフォーンがある前に立ち、ミヨコはヒトミの部屋の番号を押した。
「はーい」
 というヒトミの声が、インタフォーンから聞こえた。
「ミヨだよ」
 と、インタフォーンの送話口にむけて、ミヨコは言った。いまのヒトミの返事とよく似た陽気な口調だった。
「はーい」
 と、ヒトミはくりかえした。
 ミヨコは奥のガラス・ドアへ歩き、部屋にいるヒトミがロックを開放したその重いドアを全身で押して開き、なかに入った。
 ミヨコの目の前に、エレヴェーターがあった。ボタンを押した彼女は、三基あるエレヴェーターのうちどれが降りてくるのか、階数表示の明かりを見上げて待った。フロアに先端を下ろしているこうもり傘から、雨水が流れ落ちて彼女の足もとに広がっていった。
 エレヴェーターにひとりで乗ったミヨコは、六階で降りた。傘の先端から水を垂らしながら、彼女はヒトミの部屋まで歩いた。通路の両側に、部屋のドアが規則的にならんでいた。
 ミヨコはドア・チャイムのボタンを押した。すぐにドアの内側に人の気配があり、
「はーい」
 と、ヒトミの明るい声がした。ドアが開いた。ミヨコと良く似た体型と雰囲気の、おなじ十四歳の少女であるヒトミが、ミヨコを招き入れた。
「雨がすごいでしょう」
 ヒトミが言った。
「猛烈に降ってる。空気がみんな雨みたい」
 傘をドアのわきに立てかけ、ミヨコはサンダルを脱いでフロアに上がった。彼女が脱いだサンダルを、ヒトミはかがみこんで眺めた。
「こんな雨の日に、ミヨコはなにをはいて来るのかなあと、私は思ってたの。これをはいてきたんだあ。面白いサンダルだね、これは」
「いちおう女性用のかたちをしてて、ヒールだってあるんだよ。ゴムみたいなビニールで、ころんと一体形成。はきやすいよ。ヨーロッパから帰ってくるとき、お母さんが持って帰ったんだよ」
 ヒトミは立ち上がった。
「体も濡れたでしょう」
「濡れた」
「タオルでふくといいよ。こっち」
 玄関から廊下が左右へ、そしてまっすぐに奥へと、三つの方向へのびていた。左にむかう廊下の奥へ、ヒトミはミヨコを連れていった。
 洗面室の外に立ちどまったヒトミは、なかをミヨコに示した。
「タオルはどれを使ってもいいよ」
「ルミコは?」
 ミヨコがきいた。ヒトミは首を振った。
「まだ来てない」
「ルミコも濡れるね」
「ルミコは不器用だから、頭からシャワーをかけたみたいになって、怒りながら来るよ」
 そう言ってヒトミは笑った。
「ルミコは雨が降ると怒るんだから」
「雨が降り始めたときが、いちばん面白いよ。空を相手に本気で怒るから」
 両脚を、そして両腕を、ミヨコがタオルでぬぐうのを外で待ち、ふたりは廊下を歩いていった。途中で何個所も分岐する複雑な廊下を、左右に何度か曲がった。
「ヒトミの家のなかは、何度来ても私は迷子になるよ」
 キチン、そしてそれに隣接している食事のためのスペースのさらに奥の部屋に、ミヨコとヒトミは入った。本来は居間ではないのだが、食事を終わったあとにくつろぐ場所として、ごくプライヴェートな居間のように整えた部屋だった。低いテーブルをソファが囲んでいた。テーブルの手前で、ふたりの少女はむき合って立った。
 ほぼおなじ背丈のふたりは、ぜんたいの雰囲気が良く似ていた。顔立ちや容姿がおたがいにきわめて恵まれていることは、十四歳のいますでに誰の目にも明らかだった。表情や立ち姿に、すっきりと一点の曇りも濁りもなく、ふたりがそれぞれに持つ明確な芯は、美少女としての魅力を鋭角的に縁取りしていた。
「お寺の匂いがする」
 ミヨコは言った。
 ヒトミはテーブルを示した。テーブルの上には線香立てがあった。線香が一本だけ立ててあり、細い煙を立ち昇らせながら途中まで燃えつきていた。灰になって残っている部分が、湾曲していた。
「線香?」
 ミヨコはきいた。
 ヒトミはうなずいた。
「お母さんが線香をたきなさいと言っていったから。たくのかな、それとも、上げるのだったかな。線香を上げるって、言う?」
 ヒトミの質問に、
「言うような気がする」
 と、ミヨコは、答えた。
「誰に上げる線香なの?」
 ミヨコが重ねてきき、ヒトミは首をかしげた。そして、
「死んだ人にでしょう」
 と、答えた。
「そうか」
「お父さんが帰って来るのだったかな。それとも、帰って来ているお父さんが、戻っていくのだったかな。線香の煙に乗っていくんだって。だから」
 と、ヒトミはテーブルの上の線香をふたたび示した。ふたりの少女は、細く立ち昇る煙を見つめた。
「うちのお母さんは馬鹿かなと、いつも私は思うけれど、あれはやはり馬鹿だね」
 と、ヒトミは言った。ミヨコは笑い、その笑いの延長で、
「お母さんは、いまいないの?」
 ときいた。
 ヒトミは首を振った。
「クラス会へいってる。実家のある町でクラス会だって。だから今日は、帰ってこないよ。高校三年のクラス会だったかな。それとも、高校ぜんたいのクラス会だったかな」
「すごい雨だよ。水のなかを歩いてるみたいだった」
「まだ降るね」
「ここだと雨の音が聞こえない。傘を頭のすぐ上まで下ろして外を歩いてると、傘に当たる雨の音がすごかった」
 ヒトミは奥の窓へ歩いた。ミヨコも窓へいき、ふたりは窓辺にならんで立ち、外の夜に視線をのばした。ふたりがよく似ていることは、うしろ姿を見くらべるとなおさらはっきりとした。ヒトミは髪をポニーテールにまとめ、ミヨコはうしろにまとめて一本に編んだのを、左右の肩甲骨の中央に垂らしていた。
「雨は見えないね」
「電車で来るとき、川を渡ったでしょう」
「駅のすぐ手前が川だよ」
「川は見えた?」
「見なかった」
 と、ミヨコは答えた。
「川の水は増えてるだろうね」
「きっと。こんなに降ってるのだから。見ておけばよかった」
 電話のブザーが鳴った。部屋のドアを入って左側の隅に、小さな低い電話テーブルがあった。その上に電話機が置いてあった。テーブルのかたわらには、アーム・チェアがひとつ、背を壁につけて配置してあった。ヒトミは電話テーブルへ歩いた。
 受話器を取り、アーム・チェアにすわってから、彼女は受話器を耳に当てた。
「若林自然プラネタリウムです。誠に申しわけありません、本日は雨のためお休みさせていただいております」
 と、送話口にむけてヒトミは第三者的に滑らかに言った。電話に出ていきなりいまのような冗談を言うのは、幼い頃からのヒトミの癖のひとつだった。若林というのは、彼女の姓だ。彼女は若林仁美という。
「もしもし。もしもし、仁美?」
 と、母親の張り上げた声をヒトミは耳のなかにきいた。
「台風十号が本州を斜めに横断し、日本海へむかいつつあります。台風一過、明日の関東地方は晴天となり、夾竹桃きょうちくとうの赤さが夏の陽ざしのなかで目にしみるでしょう。高校野球が始まります。テレビでご覧のみなさまは、空の雲にご注目ください。甲子園の空に浮かぶ雲には、早くも秋の気配があります」
 TVの気象ニュースの歳時記的な部分を真似するのも、おなじく幼い頃からヒトミが得意にして来たことのひとつだ。
「もしもし。もしもし。仁美」
「私です」
「私よ」
「ですから、私は私です」
「なにを言ってるの、仁美。私ですよ」
「私も」
「仁美」
「お元気?」
「なにをしてるの、仁美」
「こうして電話に出てますよ」
 インタフォーンのチャイムが鳴った。ヒトミはミヨコに視線をむけた。
「キチンでインタフォーンに出て。ボタンを押してあげて。ルミコだよ。玄関を開けてあげて」
 と、ヒトミはミヨコに言った。ミヨコは部屋から廊下へ出ていった。
「なんですって、仁美。誰かいるの? 誰か来たの?」
「私のほかに、ミヨコがいます。それから、ルミコが、いま来たところみたい」
「なにしに来るの?」
「遊びに」
「台風の日なのに」
「雨が降ってるだけだよ」
「こっちも雨なのよ」
「傘をさせばいいでしょう」
「いままだクラス会なのよ」
「どうぞ」
「そっちは、大丈夫?」
「平気です」
「心配だから電話したのよ」
「なんにも心配はありません」
「気をつけてね」
「気をつけます。いろんなところに」
「いまは二次会なのよ。まだ続きそう。明日はお昼をこっちで食べてから、帰るわ。買い物をして。夕方までには、帰るわ。明日の予定は?」
「なにもないですよ」
「誰が来てるの?」
「ミヨコ。そしてルミコが、いま来たみたい」
「こんなに遅くに」
「泊まるからいいのよ」
「ふたりとも?」
「そうです」
「もっと来るの?」
「ミヨコとルミコだけ」
「気をつけて」
「大丈夫よ」
「明日の朝、食べるものはあるのかしら」
「買ってあります。明日は電話しなくてもいいですよ」
 母親との電話は、ほどなく終わった。受話器を戻してアーム・チェアから立ち上がったヒトミは、外の廊下へ出た。そして玄関まで歩いていった。
 玄関にミヨコとルミコがいた。このふたりも驚くほどよく似ていた。そこへヒトミが加わった。ヒトミはミヨコと良く似ていた。だからルミコとも、共通している部分がたくさんあった。三人はおたがいに強い相似形であり、三人がいっしょにいると、その相似形はかならず、その場にどこか不思議な雰囲気を漂わせた。
「ルミコはこれを着て来たのよ」
 玄関の靴脱ぎに横たわっているものを、ミヨコはヒトミに指さしてみせた。
「こっちのお父さんが趣味の山歩きに使うレイン・ウエアの上下」
 と、ルミコは説明した。
 ダーク・グリーンのレイン・ウエアは、ルミコが脱ぎ捨てたままに、雨に濡れて靴脱ぎのタイルの上にひとかたまりとなっていた。
「ボトムは足首まですっぽりと包みこんでくれるの。そしてトップにはフードがついてて、フードのまわりに紐が入ってるから、それを締めると顔だけが出るんだよ。フードには庇がついてて、それが雨や風をよけてくれるの。とても便利。でも夏は汗をかくけど」
「ぜんぜん濡れてないね」
「濡れなかったよ」
「ここに掛けておくといいよ」
 玄関に下りてヒトミは、レイン・ウエアを拾い上げ、壁のコートを掛けておくフックに上下ともに掛けた。雨水がタイルの上へしたたり落ちた。
「ものすごく降ってるよ。怖いくらい。地面に落ちた雨は、顎まで跳ねて来る」
 ルミコがそう言い、ミヨコはヒトミにむきなおった。
「電話は?」
 と、ミヨコはきいた。
「終わったよ」
「お母さん?」
「そう。いまは二次会だって」
 三人は廊下を奥にむけて歩き、さきほどの部屋へ入った。ミヨコはソファの端にすわり、ルミコはテーブルの前でフロアにあぐらをかいた。ドアを入ったところに立って、ヒトミはふたりの親友を見くらべた。
「もっと待ったほうがいいね」
 ルミコが言った。
 ヒトミがうなずいた。
「まだ十時前だから」
「十二時くらいがいいよ」
「深夜を境に、雨は次第におさまると言ってた。だから、十一時過ぎたら、いってみよう。電車で川の鉄橋を渡ったけれど、川は見えなかった」
 そう言ったルミコは、天井を仰いだ。部屋の天井ぜんたいを見渡し、
「ヒトミのとこに泊まるのは久しぶりだなあ」
 と、それがなにか特別に楽しいことのように、彼女は言った。
「なにか飲む?」
 ヒトミはふたりにきいた。
「紅茶とか」
「紅茶がいい」
「アラポムとかいうの」
「あるよ。林檎の香りの紅茶ね。いれてくる」
「手伝うよ」
 ソファを立ち上がったミヨコを、ヒトミは手を振って制した。
「簡単だから私がする。話をしてて」
 ヒトミは部屋を出ていった。
 フロアにあぐらをかいているルミコは、テーブルの上で細く煙となりつつある線香を見た。しばらくのあいだ煙をじっと見つめてから、ルミコはミヨコに視線をむけた。ルミコを見ていたミヨコと、視線が合った。ふたりは無言で微笑した。
 すぐにヒトミが部屋に戻って来た。揃いのマグ・カップを三つ、盆に載せて持っていた。
「受け皿は使わない。面倒だから」
 そう言って盆をテーブルに置き、香りの高い紅茶の入ったマグ・カップを、テーブルの三方に置いた。
 線香の束から丁寧に一本だけ抜き出したヒトミは、ライターで先端に火をつけ、小さな炎になって燃えるのを吹き消し、線香立てに立てた。そしてソファへまわっていき、ミヨコとならんですわった。三人は青林檎の香りのする紅茶を飲んだ。
「ちょうど一年?」
 マグ・カップの縁ごしに、ルミコがフロアからヒトミにきいた。ヒトミはうなずいた。
「ちょうど一年。昨年の今日」
「夜中だっけ?」
「真夜中。車の時計は、夜中の十二時二十八分で止まっていたから」
「水のなかに入ったから、止まったんだ」
「そうね。でも、腕時計は三〇〇〇メートル防水だから、動いてたよ。いまでも動いてるはずだよ。電池がなくなるまでは」
「もう一年たつのか」
「早いね」
「でも、ひとめぐりした実感があると、一年ってかなりの量の時間だよ」
「そうだね」
「一年前の、今日とまったくおなじような日だった。今日とほんとに良く似てる。そっくり。気温も湿度も。そして去年も、ちょうど台風が通過していきつつあって、ものすごく雨が降ってたよ」
「日本って、四つの季節がひとめぐりすると、一年前とおんなじ日が来るんだよ」
 ミヨコが言った。
「ヨーロッパから帰って来て、私はそれを痛感したから。おなじ印鑑をふたつならべて捺したみたいに、まったくおなじ日が来るんだよ」
「ミヨコが言うとおり」
 ヒトミが言った。そして、
「私の誕生日が、毎年いつもおんなじだから」
 と、つけ加えた。
「誕生日は三月だっけ」
「三月二十一日。今年はいつもとちがってるなあ、と思ったことがこれまで一度もないよ」
「どんな日なの?」
「曇ってる」
「寒いの? もう寒くはないか」
「暖かいような、まだちょっと寒いような、変な日。なんだか不安になるような日。一日じゅうおんなじ灰色で。これでいいのかなあ、今日はなにか嫌なことがあるのかなあ、と思うような日」
「生れて来るのが不安だったんだよ、ヒトミは」
「きっとね」
「誕生日がきれいに晴れたことは、まだ一度もないよ」
「花曇りだ」
 ルミコがそう言い、ヒトミは首をかしげた。
「なんだか不吉な感じが、どことなく漂うような日」
「今年は、どうだったの?」
「今年も。生暖かくて、灰色で、目に入るもの耳に届くものどれもみな、くだらなくて退屈で、とても平凡なものに感じてしまうような、すっごく低調な日」
「日本はそういう日ばっかりだよ」
「それに引きずられて、自分の気持ちも低いところに落ちていくしかないような日だった」
「三人でルミコの家に集まったよね」
「あれだけは楽しかった」
 と、ヒトミは強調した。
「誕生日に、家族ではなにもしなかったの?」
「次の日、レストランで食事をしたよ。フランス料理。ワインを飲んだ。私はいくらでも飲める」
「一年前の今日、私はなにをしてたかなあ」
 あぐらをかいてすわっているルミコは、天井を仰いでそう言った。
「思い出せない。ミヨコは?」
 ミヨコも首を左右に振った。
「家族とどこかへいってたかもしれない。八月の前半だから」
「ヒトミは、覚えてるよね」
「なにも出来事がなかったら、忘れてるよ。朝から雨だった。前の日からひどく降っていて、出かける予定だったけれど中止にして、ここにいたんだよ。お母さんと」
 話し言葉で記述するように語るヒトミを、ミヨコとルミコはきいていた。
「朝起きたらお父さんはもう出かけていて、お昼になってサンドイッチを作って食べて、夕方が来てそれから夜になってもまだ雨。お父さんは帰って来なくて、私はお風呂に入って寝てしまって、次の朝、お母さんが出かけようとすると、車がなかったの。お父さんは仕事で泊まることがよくあるから、お父さんが帰ってないことよりも、車が下の駐車場にないことのほうが、お母さんは不思議だったの。お母さんはお父さんの会社に電話をかけたけれど、お父さんはまだ出社してなかったの。九時半頃だったかなあ。そこへ警察の人が来たんだよ。それから大騒ぎ」
「ミヨコから聞いたときは、びっくりしたよ」
 と、ルミコが言った。
 ヒトミはさらに次のようにつけ加えた。
「ふたりに知らせたのは、お葬式が終わってからだったね。お葬式はお父さんの実家でお父さんのお兄さんがすべておこなって、私とお母さんは新幹線でいって喪服を着てお葬式に出て、帰って来ただけ」
「ほんとにびっくりしたよ。休みの日にヒトミに電話をかけると、たいていお父さんが電話に出てたよね」
「夜中の二時か三時頃に雨がやんで、朝の九時半には川の水の位置が少し低くなって、それで車が発見されたのだって」
「でも、勇気あるよね。こんな雨の夜に」
 ルミコがそう言い、ミヨコが賛成した。そしてルミコとミヨコはそろってヒトミに目をむけた。ふたりの視線を受けとめてヒトミは微笑し、首をかしげた。
 その話題はそこまでで終わりとなり、そのあと三人はその部屋でゲームをして十一時まで過ごした。ゲームを終わってキチンへいき、三人はスープを飲んだ。袋に入った粉末の、中華風チキン・スープだ。オランダ製だった。湯を沸かし、粉末を入れたスープ・ボウルに湯を注ぎ、かきまぜていればそれで出来上がりだ。
 スープを飲んで十一時三十分だった。三人は玄関へいった。ミヨコはサンダルをはき、大きなこうもり傘を持った。ヒトミも傘を持ち、夏の海岸ではくゴム草履ぞうりをはいた。黒い本体に鼻緒がピンクだった。ショート・パンツに半袖のシャツのルミコは、レイン・ウエアの上下を身につけた。フードはうしろに下ろしたまま、彼女も傘を持った。三人は玄関を出た。
 エレヴェーターで一階へ降り、ロビーを抜けて建物の外へ出た。駐車場ぜんたいが明かりのなかにあった。停めてある自動車の濡れた屋根の列が、明かりを受けて鈍く光っていた。
「さっきまでとおなじ」
 と、傘を高くかかげて、ルミコは声を張り上げた。激しく降る、というよりも大量に重く落下してくる、という降りかたで、雨は降り続いていた。
 三人は駐車場のなかへ入っていった。車の列のあいだを蛇行していき、空いている一台分のスペースのかたわらでヒトミは立ちどまった。ミヨコとルミコが彼女の両わきに立った。
「ここがうちの車のスペースなんだよ。今日はお母さんが乗っていったけれど、一年前の今日は、ここにまえの車が停めてあったんだよ。夜になるまでは、車はここにあったの。お母さんが車のなかに忘れていたものを、私は夕方になって取りに来たのだから。夜遅く、お父さんはここまで帰って来て、車に乗って川までいったのだと、警察の人は言ってた。あの道へ」
 傘を上げ、その下で右腕をのばし、ヒトミは駐車場の外から住宅地のなかへのびている道を示した。その道にむけて、三人は歩いていった。
 雨が大量に降っているということのほかには、いつもとなんら変わったところのない、平凡な住宅地のなかを抜けていった三人は、雨の夜の前方に川の土手を見た。彼女たちに対して横にのびる、高いコンクリートの壁のように、土手は見えていた。かなりの高さのあるその土手の下まで歩いた彼女たちは、スロープに作ってあるコンクリートの階段を上がった。
 途中に一度だけ踊り場のある階段を上がりきると、そこは土手の上だった。二メートルほどの幅のある、舗装された道がついていた。土手の内側はなだらかなスロープになっていて、普段ならそのスロープの下は川原だ。運動場やただの空き地が広くあり、草の生い茂る平坦な土地のさらにむこうに、川の流れがあった。いまは川幅のぜんたいを濁流が埋めていた。台風の雨で水量の増した川は、さかまいて流れる水の轟々たる音を、夜のなかに発し続けていた。
「うわっ、すごい!」
 土手の内側の縁まで歩いたミヨコはふたりをふりかえって叫んだ。スロープの下を、ミヨコは腕をのばして示した。勢いに乗りきっている大量の濁流は、スロープのすぐ下にまで達していた。
「ミヨコ、注意して」
 ヒトミが言った。
「落ちたらおしまいだよ」
「すっごい水。生きてるみたい」
「ミルクをたくさん入れたココアみたいな色なんだよ」
「警戒している人がいるはずだけど」
「見つかったら、家へ帰されるね」
 土手の縁からうしろへ下がり、三人は傘を寄せ合った。
「一年前の今日、夜遅く、おそらく十二時過ぎに駐車場まで帰って来たお父さんは、車に乗ってぐるっとひとまわりして、あそこからこの土手の道へ入って来たのだろうと、警察の人は言ってた」
 右手を上げてヒトミが指さした方向を、ルミコとミヨコは見た。彼女たちがいま立っている場所から二百メートルほど川上に、川をまたいで鉄橋がかかっていた。鉄橋と川を越えていく道路を、ヒトミは指さしていた。
 三人は鉄橋のほうにむけて歩き始めた。横に一列になった三人のまんなかに、ヒトミがいた。両隣りの親友に、ヒトミは次のように語った。
「夜中の十二時過ぎに車で駐車場を出たお父さんは、住宅地のなかを抜けて駅のむこうまでいって、あの鉄橋につながる道路に入ったのね、きっと。そこまでいかないとその道には入れないから。そして鉄橋のある橋にむけて雨のなかを走って来て、鉄橋のすぐ手前で直角に左に曲がって、土手の上のこの道へ入って来たのよ。これまでに私は何度もそのルートを歩いてみたから、まるで見ていたように光景が目に浮かぶ」
 三人は鉄橋のある橋のたもとに到達した。交通量の多い二車線の道路のわきに立った三人は、鉄橋にむけて雨のなかを走って来ては自分たちの前を通過し、鉄橋で川を越えていく自動車および対向車を、何台も見送った。
「むこうから走って来て、ここで減速して、左へ曲がりこんだのね。そして、土手の上のこの道に入ったの。この道をまっすぐに百メートルほど走って、川にむけて下りていったのよ、車のまま。台風の雨ですごい量になっている川の水のなかへ」
 鉄橋のたもとから、三人はさきほどまでいた場所へ戻っていった。ちょうど中間のところまで来て、ヒトミは立ちどまった。大きなこうもり傘の上に降る大量の雨の重さを片手に感じながら、ヒトミは右手をのばし、土手の上の道の内側を示した。
 土手のスロープの内側にむけて、土手の上の道から浅い角度で分かれていく緩やかな下り坂の道を、ヒトミの手は示していた。土手の上から下の川原まで、その道を使って自動車でも無理なく降りていくことが、普段なら可能だった。今はその分かれ道が下り坂になり始めてすぐのところまで、濁流がせり上がり渦を巻いて流れていた。
「いまとおんなじ状態だったのだなと、私は思う。ここまで来てその道のほうにれて、下り坂を川の水にむけて車ごと入っていったのね。エンジンが水につかって、エンジンは止まったの。でも、うしろから流れて来る水の勢いに押されて、ブレーキをかけてない車は、坂道をゆっくり下っていったの。発見されたとき、車はいちばん下にあったんだよ。運転席の窓ガラスが少しだけ下ろしてあって、水がどんどん入って来て、車のなかは完全に水でいっぱいになりながら水のなかの坂をいちばん下まで下っていき、お父さんはその車のなかで死んだの」
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いなくなりたい



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 十四歳の高村帆奈美は、学校の友人たちからは、ホミと呼ばれていた。ホナミと読む名を省略して。ホミだ。
 夏休みに入る直前、彼女が通っている私立中学校では、生徒生活意識動態調査、という名の調査がおこなわれた。調査とは言っても、数枚の書式を生徒たちに配り、その書式に印刷してある妙に答えにくい質問項目に対して、生徒たち自身に回答を記入させただけだ。ホーム・ルームの時間を使って生徒たちに記入させたその書式を、先生が回収した。
 数枚にわたっていたその書式のおしまいのほうに、『将来の希望』とだけ書かれた空白の欄があった。縦が五センチ、そして横が七センチほどのその長方形の空白のなかに、将来の自分に関してどのような希望を持っているか、生徒たちは書きこまなくてはいけなかった。
『将来の希望』というその空白のスペースに、高村帆奈美つまりホミは、「いなくなりたいです」と、まず2Bの鉛筆で書きこんだ。そしてしばらく考えてから、行を変えて次のように加えた。「とは言っても、死ぬということではありません」そしてさらにそのあとへ、おなじく行を変えて、ホミは次のとおり書いた。「私はこれまでずっと、自分の家にいました。そこが私にとっての自分の場所であり、いつも私はそこにいるのですが、そこに私はもういなくて、どこにいるのか誰にもわからないように、なってみたいのです」これで充分だとホミは思った。しかし、書式が回収される寸前、彼女はさらに一行だけ、次のとおりつけ加えた。「私は成長していきたいということです」この最後の一行は、ホミの本心というよりは、先生に対するエチケットと言ったほうが正確だった。


 夏休みになる三日前、ホミは母親と次のような会話を交わした。
「ほんとに、いいのね」
 強く念を押すようないつもの口調で、母親はホミに言った。
「私は、いいよ」
「大丈夫なのね」
「大丈夫です」
「平気なのね」
「平気ですよ」
「二週間なのよ」
「すぐに過ぎるよ。前半はトキといっしょなのだし」
 トキというのは、ホミとおなじクラスにいる親友の、時子という女のこだ。誰もがトキと呼んでいた。
「お母さんの実家には、よく頼んであるから」
「わかりました」
「時子ちゃんの別荘では、自分のことはちゃんと自分でするのよ」
「します」
「洗濯やお掃除」
「ええ」
「それに、食器を洗うこと。お風呂も使いっぱなしはいけないのよ」
「大丈夫」
「ほんとね」
「心配はいらないと言ってるのに」
「でも、お母さんは、心配」
「心配がお母さんの仕事」
「あら、よくわかってくれてるのね」
 ホミの父親は会社の仕事でヨーロッパにごく短期の単身赴任をしていた。先月、彼はヨーロッパへ渡った。
 夏休みを利用して、母親は夫に会うためにヨーロッパへいく予定を作った。ホミもいっしょにいくはずだった。だがホミはいきたくないと言い始め、母親の説得に応じず、母親だけがヨーロッパへいくことになった。最初の予定では、彼女が日本を留守にするのは、一週間のはずだった。
 それが間もなく十日にのび、最終的には二週間となった。それに合わせて、ホミも自分の予定を立てた。トキが軽井沢の別荘へ招いてくれているから、そこに一週間滞在する。そのあと、名古屋にある母親の実家へ移り、そこで一週間を過ごす。ホミが軽井沢へいく次の日に、母親はヨーロッパへ発つことにきまった。航空券、特急や新幹線の切符、実家にいる妹との打ち合わせなど、すべての手はずを母親は整えた。
「ほんとに、これで大丈夫なのかしら」
 母親はホミに問いただした。
「なにも心配はないはずよ」
「予定ではね」
「予定どおりいきます」
「ほんと?」
「だって、すんなり予定どおりにいかなくなるための理由が、どこにもないでしょう」
「それは確かにそうだけど」
「ヨーロッパでは迷子にならないで」
「パパがいるから」
「パパは会社の仕事で忙しいですよ。飛行機が空港に着いて、その空港を出るとき、どうするの?」
「どうするって?」
「出口、と書いてあるところから出ないと迷子になります。出口は、フランス語でなんと言いますか」
 母親は答えられなかった。だからすぐに話題を変えた。
「あなたが私と二週間も離れて暮らすのは、今度が初めてなのよ」
「そうなのか」
「特急でいくのだから、上野駅までは私が送っていきます」
「トキもいっしょだよ」
「よかったわね」
「そしてトキのお父さんも」
「心強いわ」
「トキのお姉さんとお母さんは、何日か前に別荘へいってるのだって」
「ということは、あなたを入れて五人になるのね」
「そう」
「ほんとに気をつけて。夏だし。パーマなんか、かけなければよかったのに」
 生まれて初めて、髪先にだけ、ホミはパーマネントをかけた。すっきりとした美しい細身の体をしたホミは、パーマをかけて見ちがえるほど大人びた雰囲気となった。いままさに少女である部分と、これから先の何年かを先取りをしたような大人びた雰囲気とが、ホミという美少女のなかに同居していた。


 親友のトキを相手に、ホミはかつて次のような会話を交わしたことがあった。
 ホミ「ほんとに、不思議」
 トキ「なにが?」
 ホミ「私。あるいは、時間。学校から家へ帰るでしょ。ずっと家にいるでしょ。明るい昼間だったのが、夕方になって、夜になるでしょう。時間はどこかへいってしまって、もうどこにもいないのよ。学校にいた時間は、どこへいったの。まだ明るかった昼間の時間は、どこへいくの? 私はおなじところにいるのに、時間は、ないんだよ」
 トキ「時間がたつのよ」
 ホミ「時間がたって、どうなるの?」
 トキ「地球は動いてるから」
 ホミ「それだけ?」
 トキ「難しいねえ」
 ホミ「地球が動くと、時間が出来るの? どこで出来てるの? 出来た時間は、どこへいくの?」
 トキ「ああ、わからないよ。ホミは面白いけど」
 ホミ「さっきまで私がいたところに、もう私はいないんだよ。あの時間と、そのなかの私は、どこへいったの?」
 トキ「ホミはここにいるよ。ほら、さわるとちゃんと体があるから。これはホミだよ」
 ホミ「時間だけが流れていくの?」
 トキ「ちがうね、きっと」
 ホミ「どうして?」
 トキ「だって、自分は変わっていくでしょう。朝は風邪を引いてなかったのに、夜は風邪をひいてるとか。それに成長していくし。三歳のときのホミといまとでは、まるでちがう」
 ホミ「時間は私のなかにあるんだ」
 トキ「みんなのなかに、時間が溜まっていくのかな。貯金みたいに」
 ホミ「いつまでたっても、おなじ私なの? それとも、いつも少しずつちがう自分なの?」
 トキ「ちがうかもしれない」
 ホミ「どうして?」
 トキ「成長していくから」
 ホミ「時間がたっていくと、それは順番に私のなかに入って、そこに留まって、私を成長させていくんだ」
 トキ「そう思えば、納得は出来るよ」
 ホミ「私は時間だ」
 トキ「うん」
 ホミ「時間はみんな、私のなかへ入るんだ」
 トキ「きっとね」
 ホミ「家にいてずっと自分の部屋のなかにいて、あるときふと、私は部屋の外へ出るの。たとえば下のキチンへいって水を飲んで、また階段を上がって廊下を歩いて、自分の部屋の前まで来て、ドアからなかをのぞいてみると、自分はどこにもいないよ」
 トキ「ドアの外にいるんだもの」
 ホミ「さっきまでずっと、私は部屋のなかにいたのに。どうして、いまはもういないの?」
 トキ「ホミの体はひとつ。どこかひとつのところにいるときは、ほかのどの場所にもホミはいないのよ」
 ホミ「その自分は、なに?」
 トキ「わからないよ、ホミ、わからない」
 ホミ「どうして、私はいるの?」
 トキ「生きてるから」
 ホミ「どうして、ここにいるの?」
 トキ「私の家へおいでよ。私の家へ来てごらんよ。そしたらホミは、私の家にいるから」
 ホミ「いなくなってみたい」
 トキ「死ぬの?」
 ホミ「死ぬとほんとにいなくなるみたいだから、死んでもいいけれど、二度とそこへは来ないというかたちで、いなくなってみたい。ふっといなくなって、それっきり。私は学校が終わったら家に帰って来るものだと、お母さんは信じてるの。でも、ある日、私は帰って来ないのよ。どこかへ消えて、それっきり」
 トキ「どこにいるの?」
 ホミ「どこだかわからないけれど、どこか別なところ。とんでもない別な場所」
 トキ「どこにいても、ホミはホミだから」
 ホミ「なぜ、ずっといるんだろう」
 トキ「ああ、わからない。やめてよ、ホミ」


 ホミには写真のアルバムが何冊かある。ゼロ歳から十四歳の現在までで、すでに数冊の分厚いアルバムが出来ている。それらはひとまとめに彼女の部屋の本棚におさめてある。彼女の父親は、カメラの会社、としていまの彼女が理解している会社に勤務している、技術系のサラリーマンだ。彼は写真が好きだ。スティルだけではなく、8ミリもそしてヴィデオも、なにかきっかけがあるたびに、好んで撮影する。ひとり娘のホミは、彼にとって常に恰好の被写体となって来た。そしてホミは、写真や8ミリに自分が撮影されることを、たいへんに喜ぶ。
 ホミが十二歳のときに撮影された数多くの写真が貼ってあるアルバムのなかに、おなじカラー・プリントを二枚ならべて貼ったページがある。初夏のきれいに晴れた日曜日の午後、父親が自宅の庭で撮ったホミの写真だ。じつに可愛い、頭の良さそうな、姿のいい十二歳のホミが、カメラのレンズに視線をむけて、にっこりと微笑している全身像だ。父親は腰を落とした低い位置から、そのときのホミを撮影した。
 縦位置の、まったくおなじカラー・プリントが二枚、そのページには左右にならべて貼ってある。左側に貼ってあるプリントには、なにも手が加えられていない。そしてプリントの下には、「私がいます」と、ホミは書いている。右側のプリントからは、ホミの全身がきれいに切り抜いてある。彼女が自分で切り抜いたのだ。庭だけが写っているプリントのなかに、切り抜かれたホミの形に、アルバムの黒い台紙が見えている。そのプリントの下には、「私はいません」と、ホミの字で書いてある。カラー・プリントから切り抜いた小さな紙切れとしてのホミは、ほかのページの片隅に裏がえしに貼ってある。ホミ自身がそのように貼った。


 両親のアルバムを見るのが、ホミはことのほか好きだ。何度くりかえしそれらを見ても、ホミは飽きない。見るそのたびに、貼ってある写真のひとつひとつに対して、ホミは純度の高い熱意を示す。
 結婚するまでは、両親のアルバムは別々だ。ふたりがそれぞれに所有しているアルバムの終わり近くになると、知り合った頃の若い彼と彼女が、おたがいのアルバムのなかの写真に登場し始める。結婚してからは、彼らのアルバムは共同になる。その彼らのアルバムも数冊あり、その第一冊めの最初のページには、彼らの結婚式の写真が何枚も連続して貼ってある。
 自分がまだどこにもいず、文字どおり影も形もないのを、両親のアルバムの写真のなかに確認しては、ホミは面白がる。自分がまだどこにもいないという状態を、いまここにいる自分が、間接的に、そして時間差のなかで、好きなだけ見ていられることを、ホミは楽しむ。このことを、ホミは、幼い頃から何度もくりかえして来た。
 母親が大きなお腹をしている写真が何枚か続いたあと、彼女が出産直前に撮ったスナップ写真が、彼らのアルバムの右のページに貼ってある。ベビー・ベッドをまんなかにして、その両側にホミの父親と母親が笑顔で立っている写真だ。大きく引き伸ばした縦位置のカラー・プリントだ。アルバムの右のページのまんなかに、それは貼ってある。ママの大きなお腹を指で押え、このお腹のなかに私がいると言っては、ホミはこれまで何度もその写真を楽しんで来た。次のページには、産院で生まれた直後のホミおよび母親のスナップが何枚か貼ってある。


 ホミの自宅から小学校まで、歩いて七、八分だった。彼女が三年生、四年生、そして五年生だった頃を中心に、通学途中でよその家の前に立ちどまり、じっとその家を見ることを、彼女は頻繁ひんぱんにおこなっていた。通学路は住宅地のなかだ。歩いていく道の両側には、なんの変わりばえもしない民家が、平凡に連続していた。特定の一軒ではなく、ふと気になった一軒の前に立ちどまり、飽きることなくいつまでも、彼女はその家を眺めて過ごした。
 そのようなときのホミを、母親は、一度だけ目撃したことがあった。立ちどまったホミがじっと一軒の家を見ている道を、偶然に母親がとおりかかったからだ。その家を、母親は、ホミの友だちの家だと思った。友だちが家から出てくるのを娘は待っているのだと、母親は思った。
 娘のかたわらに立ちどまってしばらく待った母親は、
「来ないわね。どうしたのかしら」
 と言った。
「どうもしてないよ」
 ホミが答えた。
「呼んでらっしゃいよ」
「誰を?」
「友だち」
「誰の友だち?」
「友だちを待ってるのじゃないの?」
 その民家を示して、母親はホミにきいた。ホミは首を振った。
「いいえ」
「まあ」
「見てたの」
「なにを?」
「このお家を」
「なぜ?」
「この家にも私のような女のこが住んでるのかなあと思って」
「住んでるのかしら」
「知らない」
「お家を見てたの?」
「見て想像してたの。私とおなじような女のこが住んでるのを想像してたら、その女のこと私がどんどんひとつに重なって、私はこの家の子供になってしまった」
 まだ小学生の娘を、母親は不思議そうに見つめた。そして、
「お家へ帰りましょう」
 と言った。
「どこのお家?」
 ホミはききかえした。
「ホミのお家」
「私はここ」
 立ちどまって見ていたその民家を、ホミは示した。
「ここはよそのお家でしょう」
「女のこがいるの」
「いませんよ」
「いる」
「わからないわ、そんなこと」
「私とおんなじ女のこ」
「ホミ。帰りましょう。ママもちょうどお家へ帰るとこだったの。よかったわ、会えて。予定より遅くなったから、急いでたのよ。学校は早く終わったの?」
 母親の質問にホミは小さく一度うなずいた。
「帰りましょう」
 母親は娘に片手をさしのべた。ホミはその手を取った。母親は歩き始め、ホミもともに歩いた。歩き始めてすぐに、ホミはその家をふりかえった。
「私がふたつに分かれた」
 と、ホミは母親に言った。
「ひとりはあの家にいて、もうひとりはここにいます」
「ホミは全部ここよ」
 ホミの小さな手を握っている自分の手に、母親は力をこめなおした。しばらくそのまま歩いてから、
「痛いよ、ママ」
 と、ホミは言った。手にこめた力を、母親は少しだけゆるめた。


 自分の部屋の外で廊下に立ち、開いたドアごしに部屋のなかを観察するようにのぞきこんで時を過ごすことも、小学生の頃のホミはしばしばおこなった。現在でもそれをホミは好いている。ときどきおこなっている。
 小学校五年生のとき、一度だけ、母親はそのようなホミを見たことがあった。絨毯の敷いてある階段を、母親は静かにゆっくり、二階へ上がって来た。だから母親の足音はホミに聞こえなかった。階段を上がりきり、二階の廊下に立った母親は、斜め前方に娘を見た。自分の部屋の開いたドアのかたわらに立ち、部屋のなかを熱心に観察するように見ているホミのうしろ姿を、母親は見た。
「なにをしてるの?」
 歩み寄った母親は、ホミのかたわらに立ちどまり、なにげなくそうきいた。返事をせずにじっと部屋のなかを見ている娘の顔を、母親はのぞきこむように見た。娘が涙ぐんでいることに、母親はそのとき気づいた。
「ホミちゃん」
 心配する気持ちは、不可解なことに対するなかば立腹したような驚きに形を変えて、母親の声となった。ホミは母親をふり仰いだ。
「どうしたの、ホミ」
 怒ったような表情で驚きだけを自分にむけて来る母親の顔を見つめて、ホミは目に浮かべていた涙を頬へ落とした。
「ホミちゃん」
 驚きをさらに強め、叫ぶようにそう言った母親に、ホミは優しく首を振ってみせた。
「なんでもない」
「泣いてるじゃないの」
「私はときどき泣いている。いまは、そのときどきの、とき」
 幼い娘の謎のような言いかたに、母親は、
「どうしたの? なにかあったの?」
 としか、きくことが出来なかった。
 ホミはふたたび首を振った。
「なにもなかった」
「泣いてるじゃないの」
「なんでもない」
「部屋のなかになにかあるの?」
 娘の体を自分に引き寄せながら、母親は部屋のドアにむけて一歩だけ近寄った。
「部屋のなかには、なにもないの」
 ホミが言った。
「どうして泣いてるの?」
「悲しい」
「なぜ?」
「なぜでも」
「はっきり言ってちょうだい。ママに教えて。ママは心配だから」
「部屋のなかにはなにもないの。でも、悲しい」
「なんのことだか、わからないわね」
「さっきまで、私は部屋にいたの。でも、いまはもう、いない」
「ここにいるでしょう」
「ここにいるのは、なぜ?」
「ホミちゃん」
「さっきまで私がいた部屋を見てたら、悲しくなった」
「なんとなく、わかって来たわ」
「私が部屋のなかにいたのが、ずっと昔のように思えて来て、もう二度と私はこの部屋に入れないかと思ったの」
「いつでも入れるわよ。大丈夫よ。なにも泣くことはないのよ。元気にしてなさい」
「私は元気」
「なにか食べましょうか」
「お腹は空いてない」
「ママは買い物にいくわ。いっしょに来て」
「いってもいい」
「カーテンを選んでちょうだい。夏のカーテン。ホミのお部屋のも、取り替えましょう」
「いっしょにいく」
「したくしてちょうだい」
 ホミは母親から離れた。廊下を階段まで歩いていき、階段を降りていった。降りきって一階の間取りの奥のほうへ歩いていく彼女の気配を確認してから、母親は娘の部屋に入った。入ってすぐのところに立ちどまり、部屋のあちこちをなにごとかを確認する視線で眺めた。


 ホミの父親は写真が好きだ。写真機、8ミリの撮影機、そしてヴィデオ・カメラの三とおりを、彼は好んでいつも手にしていた。
 父親の趣味のために自分が被写体になることを、ホミは好んだ。いつでも、どんな要求にでも、被写体としてのホミは応えた。美少女のホミは父親にとって撮りがいがあった。急激に成長する時期でもあるいまは、撮るたびにホミは変化していた。だから父親は、頻繁に彼女を写真や8ミリに撮影した。
 髪先にだけパーマをかけることを許した、というよりも自ら提案したのは、父親だった。十四歳のホミは、パーマをかけるといっきに十七歳くらいにまで、イメージの上では成長した。化粧するとさらに雰囲気が変化した。幼い頃からホミに多くの服を買いあたえて来たのも、父親だった。着る服ごとにホミが変化して見えるその様子を、彼としてはスティル写真や8ミリ・フィルムに撮影したかったからだ。
 8ミリ・フィルムやスライドの映写、ヴィデオ・テープの再生、そしてスティル写真のプリントに、いつもまちがいなく、ホミは強い関心や熱意、そして喜びを示した。撮影されたのがつい先週の自分であっても、もはやどこにもいない過去の自分を、ホミは何度もくりかえして見ることが出来た。


 ホミの部屋の隣にクロゼットがあり、そのなかに彼女の服のすべてがあった。赤ちゃんの頃の服から現在にいたるまで、ほとんどすべての服やアクセサリー、そして持ち物などが、丁寧に保管してあった。ものを丁寧に取っておくのは、母親の信条的な方針だった。それを彼女は娘に教えた。
 自分が五、六歳だった頃、あるいは七、八歳だった頃の服をクロゼットから出して来ては、ベッドに置いて眺めたり、手にとってさまざまに観察するのが、ホミにとっては大きな楽しみのひとつだ。
 幼稚園の制服だったプリーツのあるスカートにジャケット、そして帽子や靴、靴下、鞄などをクロゼットから出して来てベッドにならべると、すべては玩具のようだった。冗談にしか見えないほどに、あらゆるものが小さく、そして可愛かった。その小ささや可愛さ、あるいは冗談のようなたたずまいを、ホミは飽きることなく感じ続けるのが好きだ。
 その服を着て幼稚園に通っていた頃の自分が、途方もなく遠い存在として、きわめておぼろげに、たいそう淡くよみがえるとき、ホミは現在という時間から完全に切り離されて幸せだった。
 この小さな玩具のような服を、自分は本当に着たのだろうか。それは自分ではなく、誰か別の幼い子供だったのではないか。こんな小さな服を、いったいどうすれば着ることが出来るのだろう。本当に自分はかつてこの服を着たのだろうか。そのときの小さな自分は、いったいどこへ消えたのか。
 いまのホミが思うことの出来る、ありとあらゆる不思議な思いが、彼女の頭のなかで渦を巻き始める。その渦をさらに複雑にさせ、加速をつけるために、彼女は写真アルバムを本棚から出して来る。幼稚園に通っていた頃の写真が貼ってあるページを開くと、何ページにもわたって、小さな制服を着たかつての自分を撮った写真が何枚も貼ってあるのを、ホミは見る。
 見ているとやがて、自分が過去へ戻っていくのを、ホミは感じることが出来る。自分が幼稚園に通っていた頃という、まださほど遠くない過去がアルバムの写真のなかにあり、ホミはそこへ戻っていく。と同時に、過去はあくまでも遠いままに、過去であり続けてもいる。その過去からの遠いこちら側に、いまの自分はいるらしい。
 過去から見たいまの自分の遠さを、ホミは堪能する。昨日でさえ、あるいはついさきほどですら、ホミにとっては常に遠すぎるほどに遠い。そしてその自分は、写真のなかでいつまでも小さなままでいる、どうやらかつての自分であるらしい女のこから、ものすごい速度で遠ざかりつつある。その速度に関して目眩めまいのような感覚を覚えるとき、ホミは至福の状態のなかにいる。

10


 上野駅まで母親はホミを送った。ホミはディ・パックを背中にかつぎ、小ぶりなボストン・バッグを片手に下げていた。特急の発車番線に入ってグリーン車の前で待っていると、トキとその父親がほどなくあらわれた。ホミの母親とトキの父親は、ともに大人の定型的な挨拶を交わした。軽井沢の別荘に娘を一週間にわたって同居させてもらうことに関して、ホミの母親は何度も礼を述べた。
 次の日にホミの母親は成田空港からヨーロッパへ飛び立った。そしてホミは、予定どおり、トキとその姉、そして両親たちとともに、軽井沢で一週間を過ごした。たいへんに楽しかった。ホミは別荘およびその周辺によくなじんだ。別荘のなかでの生活にも、ホミはたちどころに適応した。どんな場所にでもすぐになじめて、そこを以前からの自分の居場所のようにする能力を、ホミは幼い頃から発揮していた。
 朝起きてから夜寝るまでのあいだの、日常のこまごましたことをすべて喜んで引き受け、そのどれをも丁寧にこなして自分のルーティーンにしてしまうと、彼女はどこにでもすぐになじむことが出来た。なじんでしまうと、そこは以前からずっと自分の居場所だったのだと、ホミは信じることが出来た。
 一週間もあれば、トキたちと過ごした軽井沢の別荘は、完全にホミの場所となった。充分になじんですぐに、そこを去るときの不思議な感触も、ホミは楽しんだ。ひょっとしたら自分はもう二度とここへは来ないかもしれないと思いつつ、なじんで自分の場所となったその別荘をあとにするとき、そこに滞在していた自分と、そこを去っていく自分とが完全に対等に相殺そうさいされ、したがってどちらも消えてしまうような錯覚を、彼女は楽しむことが出来た。
 特急で上野までいき、そこからいったん自宅へ戻る予定だった。その予定のとおりにホミは行動した。駅までトキと彼女の父親に車で送ってもらい、切符を買ってあった午後の特急にホミは乗った。
 上野から東京駅へ、そして東京駅から中央線で新宿へ。新宿から私鉄の急行に乗ったホミは、降りるべき駅のひとつ先で降りた。急行は彼女の駅には停車しないのだ。彼女は図書館へいった。
 軽井沢へも持っていった勉強をさらに進め、そのあと本を借りて読んだ。閉館の六時まで図書館で過ごし、好みの店を何軒か見て歩いてから、ひとりで食事をした。駅へいき、上りの各駅停車に乗り、いつもの駅で彼女は降りた。
 自宅まで歩いた。低い門を開いて敷地に入り、玄関のドアの前に彼女が立ったとき、ちょうど午後七時だった。夕方が始まっていたが、外はまだ充分に明るかった。
 キーをふたつ使ってホミは玄関のドアを開いた。静かになかに入り、彼女は丁寧にドアを閉じた。手に下げていたボストン・バッグを玄関に置き、そのかたわらに背中からディ・パックを降ろした。そして彼女は靴を脱いだ。絨毯の敷いてある廊下へ上がった。
 廊下の奥にむかって立ち、ホミは家のなかの気配を全身で感じ取った。彼女が軽井沢へいった次の日に、母親はヨーロッパにむけて出発していた。だから今日で六日間、この家は人のいない留守の状態が続いていた。現在の無人の気配、そして六日間にわたってそのなかで人が動いたことのない状態が空気のなかに作り出す、空き家のようなあるいは博物館のような感触を、ホミは全身で確認した。
 人がいなくても、そしてすべての窓が閉じてあっても、空気そのものは常に入れ替わっていたようだ。ホミが想像していたような、真夏の暑い空気が家のなかにじっとよどんでいる状態は、まったくと言っていいほどに感じなかった。この家はヴェンティレーションに工夫がしてあり、外との空気の流通がとてもいいのだと、彼女の父親はいつも自慢していた。父親が自慢するとおりなのだと、彼女ははじめて実感をともなって納得した。
 六日間にわたって誰もいず、したがってなにも動かずに静止したままであった家のなかにむけて、ホミはゆっくりと歩いていった。自分好みの期待感が高まるにつれて、心臓の鼓動が早くなっていくのを、左の肋骨の内部にホミは自覚した。
 かつて遠い昔、自分はこの家に住んでいたことがあるのだ、と思いながら彼女は間取りの奥へむかった。何十年、さらには何百年、あるいは年の単位では数えきれないほどに遙か遠い昔。いまここにいるのは、その遠い昔の現場へ、時間のトンネルをさかのぼってくぐり抜け、一時的に帰還している自分だ。
 ここは、遠い昔、自分が置き去りにした抜け殻だ。かつてここに住んでいた自分の家、そしてその家のなかで使っていた物などが、なぜか昔のままに現在も保存されている。いまは完全に異なった時間の世界にいる自分は、かつての時間が虚空へ消え去り、各種の物体だけが残っているこの場所へ、来訪者として確認に来ている。廊下を奥にむけて四歩、五歩と歩いていくあいだに、ホミは自分を完璧にそのような自分に変えてしまった。
 キチンから始めて一階にある間取りのなかすべてを、ホミは静かに観察してまわった。なににも手を触れることなく、そして音を立てないように歩いては、視覚だけによる観察を彼女はおこなった。
 見るもののひとつひとつが、遙かな時間の彼方から懐かしい感情をつまみ出し、たぐり出した。自分の記憶のなかというよりも、とっくの昔に宇宙の果てにむけて消え去った時間の底から、その懐かしさは蘇って来るもののように、ホミは感じた。そうだ、かつてここにはこんなものがあった。あ、これは見覚えがある。あの頃の自分は、確かにこれを使っていた。これは父親のものだ。そしてこれは、母親の愛用品だ。
 そう言えばあの両親たちは、遠い昔の時間の分岐点で別れたきりだが、いまはどこでどうしているのだろう。時間の彼方で胸をじんわりと絞り上げられるような、ほのかなせつない気持ちをホミは楽しんだ。両親という奇妙なものを仲介して感じ取る遠い昔の自分が、その楽しみの出発点だった。
 かつてここに流れた時間のぜんたいを、そしてそのディテールひとつひとつを、ホミは回想して楽しんだ。外は少しずつ明るさを失っていきつつあった。しかしホミは家の中の明かりをつけなかった。外よりも少しだけ早く、ゆっくりと階段をへて暗くなっていくままに、彼女は一階をくまなく観察した。そして階段を二階へ上がっていった。
 階段は、さらに遠い時間への通路のように、ホミには思えた。遠い過去への通路だ。二階の廊下を歩いた彼女は、ドアが内側にむけてなかば開いている部屋の前に立ちどまった。外から、彼女はその部屋のなかを見た。彼女の心臓の鼓動は、それまでに増して早くなった。ひとつにつながったようにさえ思える鼓動を胸の内部に重く感じつつ、ホミはドアに近づいた。部屋のなかをのぞきこんだ。
 部屋のなかにあるものをひとつひとつ観察していくと、そのひとつひとつから、もはやどうにも取り返しのつかないほどに遠い別次元の時間の奥から、かつてここにいた自分の面影が霊気のように立ちのぼり、部屋のなかを満たしていくのをホミは茫然と見守った。
 その自分の面影は、思い出すと心踊るほどに楽しく、いきなり涙が出るほどに悲しかった。自分がとっくに抜け出し、完全に忘れていたかつての時間のすぐかたわらにまで帰還して、ホミはしばし呼吸を止めた。
 いまとなってはどこにも存在しない、遠い昔の自分にかかわる楽しい思い出の数々のなかから、せつなさや悲しさ、そして懐かしさなどが、かつて感じたことのないほどの強さと深さをともなって、ホミをそのなかにからめ取った。自分をからめ取るものに引きこまれるように、ホミは部屋のなかに入った。
 かつての自分の部屋だ。部屋のまんなかに立ち、ホミは周囲を見渡した。窓の外が見えた。夏の夕方はかすかに暗く、部屋のなかは静かでなにも動いていなかった。抜け殻にふさわしく、すべてが静止しきった世界だった。部屋のなかのあらゆるものが、物としての形だけを持っていた。
 しかし、物をひとつひとつ見つめていると、なにげないディテールから、あるいは陰の部分から、遠い自分の懐かしい面影が、胸を強力に絞め上げるせつなさとともに、あるときふっと、部屋の空気のなかへ流れ出て来るのだった。
 いまの自分が身を置いている時間とは、完全に異なった別種の時間の流れの、すでに遙か以前に消えてしまったそのさらに向こうに自分がいた頃、その自分はこの部屋を自分の部屋にしていた。その時間は消え去り、自分は別の時間へ移って久しく、いまここにあるのは物とその形という残骸だけだ。その残骸のすぐそばまで、いま自分は戻って来ている。物とその形には、ひとつひとつ見覚えがあった。見覚えは記憶であり、記憶は感傷を生んだ。かつてここにいたあの女のこは、いったいどこへ消えたのか。ホミは涙を流し始めた。
 かつてここにいたあの女のこを、自分はよく知っている。しかしいまの自分は、まったく別の人だ。ちがう時間から来た人だ。かつての自分はもういない。どこにもいない。自分は消えた。よく知っている人としての、かつての自分にまつわる記憶を、いまの自分はその女のこと共有している。途方もない時間のへだたりを経て、淡い思い出とその懐かしさだけを、共有している。
 涙はホミの頬を流れ落ちた。流れるままにして、彼女は窓へ歩み寄った。窓の外を見た。視覚がとらえる景色と、記憶の内部から立ち帰って来る景色との、ふたとおりの映像が、ホミの頭のなかで重なり、一致した。一致すると、そこから新たな懐かしさがこみ上げて来た。涙はさらに流れた。
 窓辺に立って部屋をふりかえったホミは、ベッドを見た。ベッド・カヴァーの模様が目に映じた。そうだ、カヴァーの模様はこんなだったのだ、とホミは思った。本棚のなかの本を、ホミの視線はたどっていった。必死に思い出してようやく思い起こすことの出来る、もうちょっとで自分の手の届かないところへいってしまう寸前のものとして、ならんでいる本のタイトルを彼女は読んだ。なんとも言いようのない気持ちで、彼女は部屋のなかを見渡した。
 ホミがこの家に入って来てから、三十分が経過した。夢のような時間だった。たいへんに長い時間として、ホミはその三十分をとらえた。ここにかつて住んでいた女のこの人生を、もう一度だけすべて生きたような時間だった。ホミはその部屋を出た。
 二階にあるほかのいくつかの部屋を、彼女はすべて観察した。そして一階へ降りた。階段を降りていくとき、自分の時間が本来の方向にむけて流れ始めるのを、ホミは自覚した。一時的に過去に戻っていた自分は、その過去から抜け出て本来の自分の時間へ移り、自分の場所へ戻らなくてはいけない。そのための時間に、自分は階段の途中で乗り換えたのだと、ホミは思った。
 一階にある部屋を、彼女はもう一度だけ見てまわった。キチン。居間。浴室。トイレット。洗面室。物置。あまり入ったことのない両親の寝室。居間の南側はヴェランダに面したガラス戸だった。レースのカーテンだけが、ガラス戸いっぱいに閉じてあった。カーテンごしに、ホミは庭を見た。庭のむこう、植え込みのなかの庭園灯が、夏の夕暮れのなかでいまはまだ淡く、灯っていた。遠い時間の彼方から、ごくかすかに、ホミはこの庭に関する事実をひとつ、思い出した。この庭は猫のとおり道だった。よくこの庭を歩いていたあの猫たちは、どうしただろうか。
 居間から廊下へ出たホミは、まっすぐ玄関にむかった。ディ・パックを背中にかつぎ、靴をはき、ボストン・バッグを持った。そしてドアを開いて外へ出た。ふたつのキーを使ってロックした。飛び石の上を門まで歩き、敷地の外へ出た。彼女は家をあとにした。
 ホミは駅にむけて歩いた。家のなかにいるあいだ、彼女はなににも触れなかった。かつての自分の家という残骸のなかへ、自分は別な時間のずっとむこうから、一時的に帰還していた。本来は別な時間のなかにいる自分だから、過去のなかに戻ってもその過去にいまも残っている物には、手を触れることは出来ないのだ。そんなふうに考えながら、彼女は駅にむかった。駅に近くなるにしたがって、彼女は過去から抜け出し、自分本来の時間のなかに戻った。
 駅で彼女は下りの各駅停車に乗った。次の駅で降り、駅と百貨店とが合体した建物のなかを二階へ降りた。改札を出て、彼女は名古屋にある母親の実家に電話をかけた。母親の妹が電話に出た。これからひかり号の下りに乗り、十時三十分に名古屋に到着する予定であることを、ホミは彼女に伝えた。迎えにいく、と母親の妹はしきりに言ったが、ホミはタクシーでいきますと言って断った。
 JRの駅まで連絡通路を歩き、新横浜までの切符を買ってJRの駅に入った。冷房してある東神奈川行きに乗り、ごく平凡に、まったくなにごともなく、彼女は新横浜に到着した。新幹線の改札を入り、エスカレーターでプラットフォームへ上がり、そこでひかり号を待った。
 ひかり号は定刻に駅に入って来た。ホミはグリーン車に入った。自分の席を見つけ、ディ・パックとボストン・バッグを棚に上げて、シートにすわった。ひかり号は発車した。すべてのものを背後に置き去りにしながら、ひかり号は加速していった。
 私はこうしていなくなる。さようなら。と、ホミは思った。いまはただ思うだけだ。自分の頭のなかでのシミュレーションにしか過ぎない。しかし、いつかは必ず、自分はいなくなる。それまでの自分の場所から、ある日ある時、ふっと自分はいなくなり、それっきりいないままに、必ずなる。
 十年後くらいには、それを実現することが出来るだろうか、とホミは思った。十年後の自分は二十四歳だ。どこかへいなくなり、いなくなった先でひとりで生きていくことは、二十四にもなれば充分に可能なはずだと、ホミは自分に言い聞かせた。
 では二十五歳のうちに、そのときの自分がどこにいようとも自分は必ずいなくなる。いなくなりたい、という願望を実現させよう。それまでの自分から、遠くへ、出来るかぎり遠くへ、いなくなろう。そう思いながら、ホミは窓の外を見ていた。頭の良さそうな、すっきりしたきれいな体つきの、もの静かな雰囲気のあるひとりの美少女だった。





底本:「少女時代」双葉文庫
   1993(平成5)年5月15日第1刷発行
入力:八巻美恵
校正:高橋雅康
2012年10月22日作成
2012年12月31日修正
青空文庫収録ファイル:
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●図書カード