東京青年

片岡義男



[#ページの左右中央]


名前は仮にスーザン



[#改ページ]


 ヨシオは私立の高校に通う三年生だ。彼のいるクラスの人数は男女十二名ずつで、合計二十四名だ。十二名の女性のなかに美人がふたりいる。特別の教科以外はいつもおなじ教室だ。その教室の、右端の列の前から三番めの席に美人がひとりいる。もうひとりは、中央からひとつだけ左に寄った席の、うしろからふたつめの席にすわっている。
 本来ならヨシオの席はいちばん窓側のうしろから二番めだ。彼は右隣りの人と席を代わってもらった。だから彼の席は美人の左隣りだ。授業中、ふと、彼はその美人を見る。頭のかたちのいい、したがって彫りの効いた、すっきりとまとまった横顔をしている彼女は、端正な雰囲気の常にある理知的な美人だ。冷たい、と多くの人は彼女を評した。しかし、印象は冷たくても美人であることになんら変わりはなかった。身のこなしは常に静かで、りんとした声でよく質問した。
 自分は美人が好きだということを、ヨシオはよく自覚していた。ごく幼い頃からそうだったと両親から聞かされていたし、彼自身で記憶している幼児体験のなかには、美人が大きな場所を占めていた。まだ小学校に入る前、幼いヨシオはひとりで駅まで歩いていき、改札口の前に立ち、出入りする人を観察する。美人がとおりかかるとヨシオは彼女に歩み寄り、「お姉さんどこへいくの?」と、彼女を見上げて聞く。「お家へ帰るのよ」とその女性が答えると、「僕もいく」とヨシオは言い、彼女についていく。当時のヨシオはまだたいへんに可愛く、連れていかれたまま夜になっても帰って来ないということが何度もあった。自宅を訪ねて来た人が美人だと、その人が帰るとき、「僕も帰る」と言い張るのがヨシオの常だった。
 クラスにいる十二名の女性のうち、ふたりが美人。まあいいか、というのがヨシオの結論だ。授業はつまらなかった。おそらく誰にとってもそうだろう。つまらないなあと思うとき、彼は右隣りの美人、日比谷優子を見る。なぜだか理由はわからないが、気持ちを集中させ、たいへん熱心に優子は先生の語ることを聞いている。不思議だ、とヨシオは思う。この若い美人はいまいったいなにを思っているのか。まったく見当もつかないところが不思議、つまりヨシオにとっては面白いのであり、だから彼は近い距離から彼女をときどき見るだけで充分に満足だった。おなじクラスでしかも隣りどうしの席なのだから、親しく会話を交わすことは常にあった。しかしそれ以上のことを、ヨシオは望んではいなかった。
 ヨシオが通っているその私立高校には、校内に売店がいくつかあった。書店、文房具店、スポーツ用品店、時計店、それにパンや飲み物を売る店などだ。五月のある日、パン店の店員が、それまでのきわめておとなしい青年から、女性に代わった。ヨシオはそのパン店の常連だった。毎日のようにそこでパンや飲み物を買った。店員が女性に交代したその日、彼女はたいへんな美人だ、という評価をヨシオは下した。彼女が並はずれた美人であることは、ひと目見れば、誰の目にも明らかだった。
 その日以後、授業中にふと彼女について思うことが、何度かあった。ただ席にすわっているだけの授業中、退屈さの反対側にあるものとして、ヨシオは右隣りの美人を見た。そして連鎖反応のように、パン店の女性について思った。彼女はいまどうしているだろうか。いま彼女も見たい。そんな思いを何度か繰り返したあと、ヨシオの頭に突然にひらめくものがあった。いまは授業中だ。ということは、全校の生徒はみな教室のなかにいる。売店はどこも客はいず、パン店もそうであるに違いない。そして美しいあの女性は、ひとりでパン店にいるはずだ。
 彼女がひとりで店番をしているときに自分がそこへいけば、客としての自分は彼女をひとり占めにすることが出来るではないか。思いつきはすぐに実行する性格ないしは癖のヨシオは、さっそく次の授業を欠席した。図書館で始業のベルをやり過ごし、どの教室でも授業が始まって校舎のなかが静かになってから、彼は図書館を出た。誰もいない廊下を彼は歩いた。長く直線で続く校舎のいっぽうの端に図書館があり、もういっぽうの端に売店が位置していた。どの教室のなかでも授業がおこなわれていた。あるクラスの授業は英語だった。廊下に面した窓ガラスの、上から二段までが透明だ。背のびしたヨシオの目は、黒板に書いてあることをとらえた。not only...but also と、黒板には書いてあった。
 パンの店には彼女がひとりでいた。客はいなかった。サンドイッチを三種類とカレーパンをひとつ彼は買った。売店のうしろには食べるためのスペースがあった。細長いテーブルがいくつか並んでいて、どのテーブルも多くのストゥールが囲んでいた。ただそれだけのスペースだが、昼食の時間にはここに生徒たちがいっぱいに入り、理由もなく大騒ぎになった。いまは誰もいないそのスペースのなかで、ヨシオはひとりでまずカレーパンを食べた。そしてストゥールを立ち、売店へまわった。彼はコーヒー牛乳を一本、買った。
 それは牛乳とおなじガラスの容器に入っていた。厚紙のふたを短い千枚通しのような道具で突き刺し、店番の女性は蓋を取ってくれた。その手つきと指の動きをヨシオは見ていた。指の動きかたはたいへんに美しい、と彼は思った。手渡してくれるコーヒー牛乳をヨシオが受け取るとき、ふたりの目が合った。彼女は微笑した。彼も微笑した。
「僕はヨシオと言います」
 と、彼は言った。
「ヨシオさん?」
「そうです」
「ヨシオさんという苗字みょうじなの」
「いいえ。名前です」
「なにヨシオさんと言うの?」
「苗字はどうでもいいですから、名前だけ覚えてください」
「どういう字を書くの?」
「片仮名でいいです」
 彼女はヨシオを見た。なんと返答すればいいのか、つまりこの少年を自分はどう扱えばいいのか、彼女は考えた。そしてその結果として、
「私は高木節子よ」
 と、彼女は言った。
 いい声だ、とヨシオは思った。声になった彼女の言葉は、のどの円柱の底から、曇ることなくまっすぐに出て来ていた。
「僕はヨシオです」
「わかったわよ」
 コーヒー牛乳を持って、彼は食べるためのスペースに戻った。サンドイッチをひと種類食べ終え、コーヒー牛乳を半分ほど飲んだとき、彼女が入って来た。入口の近くでストゥールにすわり、背後の壁に背をもたせかけ、脚を組んだ。そして持っていた雑誌を開いた。『スクリーン』というタイトルの日本語の雑誌だった。表紙にはハリウッドの女優の顔がカラーで印刷してあった。ジャネット・リーではないか、とヨシオは思った。
 ヨシオの位置から高木節子を右側面から見ることが出来た。彼女の横顔の出来ばえを彼は観察した。ゆとりのあるスカートに、節子は半袖はんそでのシャツを着ていた。肩の作りの良さ。腕のつけ根の安定した太さ。そしてそこから指先までの、すんなりときれいに流れる線。髪のまとめかたの巧みさと、節子に良く似合っている様子。腕のつけ根の心地良い太さと対応している、張りのある胸のふくらみ。たいへんな美人ではないか。映画スターになれそうなほどだ。ジャネット・リーを軽く越えているのではないか。これほどの美人がなぜ私立高校でパン店の店番をしているのか。そのことの不思議さに完全にからめ取られているヨシオに、
「いまはなにの時間なの?」
 と、雑誌に視線を落としたまま、節子は言った。
「いまはサンドイッチを食べています」
「授業中でしょう」
「欠席しました」
「なぜ?」
「お腹が空いたからです」
 この日以後、おなじ時間におなじことを、ヨシオは何度も繰り返した。十一時から十二時のあいだに、高木節子もサンドイッチに牛乳の昼食を食べることを、ヨシオは発見した。だから彼はその時間に合わせてしばしば授業を欠席し、パン店へいくこととなった。
「このところ欠席が多いぞ」
 と、三人の先生からヨシオは注意された。そのうちのひとりは欠席の理由を問いただした。
「僕の不注意です」
 というヨシオの返答に、クラスの何人かが笑った。
「不注意?」
「そうです」
「どういう意味だ」
「うっかりしていたり、忘れたりしたのです」
 何人かがまた笑った。
「うっかりするのと忘れるのと、どう違うんだ」
「宿題にさせてください」
 その授業でヨシオは教壇へ引き出され、復習から発展していく応用問題で、最初から最後まで絞られた。そのようなことと引き換えに、高木節子と差し向かいで昼食を食べる時間を、ヨシオは誰にも知られることなく手に入れた。
 ヨシオは節子の観察を続けた。横顔の出来ばえが素晴らしい。髪の作りの特徴のひとつは、耳を出すことだ。横顔の良さを、おそらく節子は自覚しているのだろう。だから耳を出す。耳を出すと、頬からあごにかけての曲面の魅力が、一目瞭然りょうぜんとなる。顎から喉へ、そして首の円柱。首をうしろへまわり込むと、そこにはうなじが待っている。肩にかかりそうでかからない長さの髪は、うなじの魅力の秘密をなかば隠し、なかば明らかにしていた。耳になにかあるといい、とヨシオは結論した。なにかとは、装身具、つまりこの場合はイアリングだ。正しい選択のイヤリングを耳につけるなら、高木節子の美しさは何倍にも増幅される。ヨシオはそう確信した。


 日比谷で都電を降りたヨシオは店まで歩いた。歩道に面して並んでいる店のなかに、すっきりした造りで人の目を引く装身具の店があった。ヨシオはそこに入った。店のなかは空調が効いて心地良かった。制服のように見えてそうではない服を着た、日本の女性店員が彼を迎えた。彼のことを覚えていた彼女は、ごく軽く会釈し奥へ入っていった。そして彼女とともに、ジョイスリン・カネシゲという中年の女性が、奥から出て来た。ハワイで生まれ育った日系の二世だ。日本の名は金重菊江という。現在はこの店を経営して、東京に住んでいた。
 鮮やかなドレスを姿勢良く着こなし、目尻めじりり上がった眼鏡をかけたジョイスリンは、
「おや、まあ、久しぶり」
 と日本語で言い、
「ハウ・ユー・ドゥーイン、ヨシオ。ユ・ルック・グッド」
 と、ハワイふうの英語で続けた。
「僕は元気です」
「グッド。こないだ、ヨ・マザーが来てくれた。新しいドレスを着てね。よく似合ってた。きれいな人は得ね。おなじおかね出して服を買っても、二倍にも三倍にも引き立つから」
 そう言いながらヨシオのかたわらまで歩いて来たジョイスリンは、英語で次のように続けた。
「エヴリタイム・アイ・シー・ヨ・マザー、シー・ルックス・ヤンガ。ホワッツ・ザ・シークレット。テル・ミー、ヨシオ、ジャスト・ビトゥイーン・ユーアンミ。ホワッツ・ザ・シークレット」
「イッツ・ヨ・アイボールズ・ザット・ゲット・ヤンガ。スルー・ヨ・アイボールズ・シー・ルックス・ヤンガ・ザッツ・ザ・シークレット。シンプル」
「バッチュ・ルック・モアンモ・グロウンナップ」
「ヨ・アイボールズ・リフューズ・トゥ・フィール・ヤング・ホェン・ユー・シー・ミ」
 ヨシオの返答に対して、ジョイスリンは困ったような顔をした。その表情を意図的に長びかせつつ、相手をひとまず許容するかのように、彼女は何度かうなずいた。
「ソー。ユ・ア・ザ・ファニー・ワンね。ちょうどいい。お父さんはシリアスでインテンス。お母さんは美人。ヨシオはおかしなことを言う人」
 ガラス・ケースのなかにめりはりを効かせて陳列してある装身具を、ヨシオは見ていった。イアリングがたくさんあるところまで歩いていき、彼はそこで立ちどまった。
「ユ・ジャスト・ドロップド・バイ、ヨシオ? エニイ・ウエイ・アイ・キャン・ヘルプ・ユー?」
 半分は親しい人としての優しい口調、そして残りの半分は客に対する口調で、ジョイスリンは言った。少し離れたところに女性の店員が立ち、ふたりを真面目に見守っていた。
 やがてヨシオは、ケースのなかの一点を指さした。歩み寄ったジョイスリンはそれを見た。そしてうなずき、
「ア・ペア・オヴ・イアリングス」
 と、初級英語講座のように言った。
「きれいですね」
「イエス。ヴェリ・ナイス。ザッツ・ホワイ・アイ・キャリー・ゼム」
「きれいです」
「赤が素晴らしい。若い美人に似合う」
「買います」
 と、ヨシオは言った。
「フー・アー・ゼイ・フォ?」
 反射的に、ジョイスリンはそう聞き返した。ヨシオは黙っていた。
「オ・アム・アイ・ビーイング・トゥー・インクイジティヴ? お母さんのためにではないわね。お母さんはゴールドとグリーンが好きだから」
「僕はこれを買います」
「ハウ・オールド・ア・ユー・ナウ、ヨシオ」
「セヴンティーン」
 というヨシオの答えに、ジョイスリンはうなずいた。そして、
「連れて来なさい」
 と言った。
「連れて来れば、ほんとに似合うかどうか、よくわかるから」
「美人です」
「ジ・イアリングス・クッド・ルック・アウト・オヴ・プレイス・オン・ア・ガール・オヴ・セヴンティーン。ゼイ・メイ・テンド・トゥ・スタンド・アウト」
「二十三歳の人です」
「ずっと昔、一度だけ、私も二十三歳だったのよ。でもあと三年で時代は一九六〇年で、私は五十歳よ。ブリング・ザ・ガール・ヒア。アイム・ノット・セイイング・ジス・トゥワイス、バット、一度言えば確かよ、連れて来れば値札の半分にしてあげる。クッド・カム・ダウン・トゥ・イーヴン・ア・サード。ほんとにこれを買うの?」
「買います」
「連れて来て」
「連れて来るためにも、今日は買っていきます」
 ジョイスリンはうなずいた。
「自分の店で売ったものが、よく似合っているところを見たいから」
「連れて来ます」
「プロミス?」
「シュア」
「ダズ・ヨ・マザー・ノウ・アバウト・ジス・ガール?」
 彼女の質問にヨシオは首を振った。
「かならず連れて来ます」
 そう言いながら、ヨシオはケースのなかのイアリングをふたたび示した。
「ですから今日はこれを買います」
 うなずいたジョイスリンはケースを開いた。成り行きを見守っていた女性の店員が、素早くジョイスリンのかたわらへ来た。
「箱に入れて、ギフト・ラップしてあげて」
 ジョイスリンはイアリングを店員に渡した。ふたり連れの客が店に入って来た。ジョイスリンとは親しい仲のようで、ジョイスリンはその客の応対にまわった。
 居心地の良い店の奥へいき、ヨシオは店員がイアリングの箱を包んでくれるのを待った。やがて包みは出来上がり、店員はそれをさらに紙袋に入れてくれた。彼は支払いをすませた。正面のドアに向けて歩いていくヨシオを店員が送った。ジョイスリンもドアのところまで来た。
「ご両親によろしく」
 と、彼女は日本語でヨシオに言った。


 雨の日の木曜日、三時間めの授業を欠席にしたヨシオは、校内のパン店にいた。昼食のサンドイッチといつものカレーパン、そしてコーヒー牛乳を前にして、彼は店の奥の食べるためのスペースでストゥールにすわっていた。
 高木節子が入って来た。彼女も昼食のパンと飲み物を持っていた。ヨシオのところまで来て、持っていたものをテーブルに置いた。そしてスカートを広げ、ヨシオと差し向かいにストゥールにすわった。
「お昼の時間になると、あなたが来るのを待っている自分に気がつくのよ」
 美しい笑顔でヨシオを見て、節子は言った。
「さあ、今日もいっしょに、食べましょう」
「その前に」
 と、ヨシオは言った。
「その前にどうしたの?」
 節子は聞き返した。
 ジャケットのポケットから、イアリングの入った箱の包みをヨシオは取り出した。節子に向けて差し出し、
「これを、あげます」
 と、彼はいった。
「私に?」
「そうです」
「なになの?」
「節子さんはたいへんにきれいな人です。これがよく似合うはずですから、差し上げます」
「いったい、なにがどうしたの?」
 ささやくような声で、節子は聞いた。年下の高校三年生を相手に、目の前の出来事に対して彼女は純粋に夢中になっていた。
「私に?」
「開いて、見てください」
 節子は包みを手に取った。
「きれいな紙。開くのはもったいないわ」
 掌に載せていくつかの方向から観察したのち、節子は包みを開いていった。ヴェルヴェットを張った小さな横長の箱があらわれた。箱を彼女は開いた。なかにあるものをしばらく眺めてから、彼女は顔を上げた。
「イアリング?」
 と、彼女は聞いた。イアリングという言葉の、最後のグという音がそのまま疑問形になっている様子を、ヨシオは面白いと思った。彼は微笑した。
「きれいだわ。これは、ほんとにきれいよ」
 節子はイアリングに視線を落とした。ひとつをはずして指先に持ち、箱をテーブルに置いた。節子のきれいな指が、イアリングを丁寧に扱う様子をヨシオは見た。
「私は装身具をつけたことがないのよ」
 節子が言った。
「スカーフすら持ってないの。指輪はしたことないし、ネックレスも持ってないし」
「あげます」
「私に?」
 ヨシオはうなずいた。
「なぜ?」
「似合うはずだからです」
 節子はイアリングのねじをまわし、間隔を広げた。左の耳へ持っていき、目を伏せ、両手の指先で見当をつけながら、それを彼女は耳たぶに取りつけた。節子は、ほんの一瞬、見てはいけない秘めごとのなかの女性だった。右の耳にも、彼女はイアリングをつけた。耳を出す作りの髪を両手の指先でうしろへまわし、手をテーブルに降ろし、彼女は首を振った。両手の指先をごく軽く左右のイアリングに触れさせ、もう一度、彼女は首を振った。
「揺れてるわ」
 節子は囁いた。
「よく似合います」
 ヨシオが言った。まさにそのとおりだった。赤く華やかな、しかし端正に身を引き締めた造形のそのイアリングによって、節子の美しさは何倍にも増幅されていた。
「イアリングをつけるのは初めてなのよ。いまの私は、どんなふうに見えてるの?」
 途方に暮れたように甘くそう言った節子は、
「わかったわ。あそこにいけばいいのよ」
 と言い、ストゥールから立ち上がった。
「いっしょに来て」
 彼女はヨシオに手を指しのべた。ヨシオもストゥールを立ち、ふたりは店を出た。校舎の正面玄関へ、ふたりはまわっていった。玄関を入るとロビーがあり、いっぽうの壁に大きな横長の鏡が取りつけてあった。卒業生たちが寄付したものだ。創立何周年記念の金文字が鏡の縁に読めた。ヨシオの手をとってその鏡の前へいき、節子は鏡に向かって立った。
 鏡のなかの自分を節子は観察した。二歩、彼女は鏡に接近した。そして一歩下がり、顔を右に向け、左に向け、真剣に自分の観察を続けた。鏡のなかの節子の全身をヨシオは見た。これだけの美人が、なぜ私立高校で生徒たちを相手にパンを売っていなければならないのか。そのことの不思議さのすぐかたわらに、自分がいることの奇妙さをヨシオは受けとめた。
「イアリングをつけるのは、初めてよ」
 節子は言った。
「似合う?」
「よく似合います」
「揺れる感触が素敵。慣れたら癖になりそう」
「慣れてください」
 ふたりは店に戻った。さきほどの場所にふたたび差し向かいにすわり、節子は片方だけイアリングをはずした。指先に持ち、彼女はそれを観察した。
「よく出来てるわ。とってもきれい。高かったでしょう」
「半値にしてくれました。両親がよく知っている人の店です」
「それでも高かったでしょう。そのお店はどこにあるの?」
「日比谷です」
「教えて」
「いっしょにいきましょう」
 節子はイアリングを耳につけた。
「もう癖になったわ」
 両手を頬に当て、節子は顔をゆっくり左右に振った。
「うれしい。お昼を食べましょう。授業はもうじき終わるわ」
 ふたりで昼食を食べた。食べ終わると同時に、授業の終わりのベルが鳴った。そしてすぐに、生徒たちがパンを買いに来た。
 午後からの最初の授業は国語だった。先生が語ることを、ヨシオは自分の席で聞くともなく聞いていた。授業が半分ほど経過してから、教室の教壇側のドアにノックがあった。
「はいよ」
 とひとり言のように言った先生はドアへ歩いた。先生はドアを開いた。ヨシオの位置から節子の姿が少しだけ見えた。節子は低い声で先生になにか丁寧に言っていた。
「はい、わかりました」
 と先生は言い、振り返ってクラスを見渡し、ヨシオを視線でとらえた。
「美人が急ぎの用だそうだ」
 と先生は言った。
 ヨシオは立ち上がり、教室のうしろのドアに向けて歩いた。先生はドアを閉じ、教壇へ戻った。ヨシオは教室の外へ出た。いまにも泣きそうな顔で、節子が歩み寄って来た。ヨシオの手を取り、
「お店まで来て」
 と、彼女は言った。廊下の端にあるドアへ節子は彼を導いた。そのドアからふたりは校舎の外の遊歩道に出た。そこを売店のある一角へ向けて歩いた。
 店の裏にある食べるためのスペースに入って、節子はドアを閉じた。ロックをかけて外からは開かないようにし、ヨシオに向きなおって彼の両手を取った。節子は泣いていた。
「ひとりでここにいたら、涙が出て来たの。ひとりで泣くのは嫌だから、いまはこうしてふたりなのよ」
 節子はヨシオを抱いた。両腕いっぱいに彼を深く抱き込み、体を親密に重ね、涙にれた頬を彼女はヨシオの頬につけた。そして節子は彼の唇をとらえ、口づけをした。ヨシオはこたえるほかなく、しばらくそれは続いた。ごく素直な反射として節子の舌はヨシオの口のなかに入り、彼は節子の涙とともに彼女の舌も口のなかに受けとめた。張りのある若さに包まれた、優しい許容力の奥行きが節子の魅力だ。その魅力は、彼女の体にも、そのまま存在していた。いま自分を抱き、自分も抱き返している節子の体の量感のなかに、自分を引き込んでやまない迷路をヨシオは感じた。
 唇が離れて、節子はささやいた。
「こういうことは、初めて?」
 ヨシオはうなずいた。
「ほんと?」
 いっさいの作為を抜きにして底なしに甘く、節子は聞き返した。
「ほんとです」
「女の人とキッスするの、ほんとに初めて?」
「初めてです」
「よかったわ」
 そう言って節子は彼を抱きなおした。ふたりの唇がふたたび重なった。節子の引き締まった胴から背中へ、そして肩へ、ヨシオの手は移動した。彼の手はさらに肩から節子のうなじへいき、髪をくぐって彼女の後頭部をとらえた。彼の両手の親指のつけ根あたりに、節子の左右の耳に下がるイアリングが、同時に、ごく軽く、触れた。


 梅雨に入る前に、校内のパン店から高木節子はいなくなった。ある日、彼女の代わりに、四十代の女性が店にいた。そしてそのまま節子は戻っては来なかった。いなくなって一週間後に、ヨシオは学校の帰りに下北沢で節子と偶然に会った。彼女に誘われて喫茶店に入った。地下一階から三階にかけて、中間的なフロアのたくさんある店だった。何階とも言いがたいフロアの、窓辺の席でふたりは向かい合った。ふたりともソーダ水を注文した。
「パンのお店は辞めたのよ」
 節子が言った。
「美容院で仕事をすることになったの。このすぐ近く。あなたは下北沢に住んでるから、会えるかなと思ってたらそのとおりになったわ。手紙を書こうかな、とも思ってたの。さほど遠くもないけれど近くもない親戚しんせきの人が経営している美容院なの。女は手に職を持たなくてはいけない、と店主が言うのよ。女性の店主。その人が経営してるの。これからは女がひとりで生きていく時代なのですって。ひとりで生きていけて、その途中のどこかで好きな人にめぐりったなら、結婚してもいいのですって。あなたはどう思う?」
「僕もそう思います」
「高校ではそんなことも教えてくれるの?」
 ソーダ水がテーブルに届いた。ふたりは世間話をした。ソーダ水を半分まで飲むあいだに、店のスピーカーから聞こえていたレコードによる英語の歌は、キティ・カレン、ゲイル・ストーム、ジョニー・レイ、そしてパイド・パイパーズをへてダイナ・ショアへと、五曲が経過した。ガイ・ロンバードの演奏で『ストーミー・ウエザー』がそのあとに続いた。
「私は昨日からもう店に出てるのよ。下北沢は、いい町だわ。私もここに住むことにしたの。どこかに部屋を探さなくては」
「どのへんがいいのですか」
「歩いて帰ることが出来れば、どこでもいいのよ。静かなとこがいいわ」
「父親の友人に、不動産の仕事をしている人がいます。このへんでよく取引をしています。アパートメントも経営しているはずです。聞いてみましょうか」
「助かるわ」
「すぐに聞いておきます」
「これからお家に帰るの?」
「そうです」
「美容院までいっしょに歩いて。場所を覚えて」
 喫茶店を出たふたりは井の頭線のガードをくぐり、南口の商店街を歩いていった。商店街を出て、ふたつに分かれる道の左をいき、その道が別の道と合流してすぐ、右側に美容院があった。隣りの建物は一階がビリヤードで二階はダンス教室だった。
「このお店」
 店を示して節子は言った。
「僕の髪も切ってもらえますか」
「いいわよ」
「切りたいのです」
「ばっさりと切るの?」
「二センチほど」
 ヨシオにそう言われて、節子は彼の髪を見た。
「そうね。少し長くなりすぎてるわね。切りましょうか」
「いま」
「いいわよ」
「これから」
「どうぞ」
 節子が店のドアを開き、彼女のあとについてヨシオは店に入った。鏡に面して並んでいる椅子のうち、ふたつだけが空いていた。
「いらっしゃいませ」
 ヨシオに向きなおってそう言い、節子はいちばん端の椅子を彼に示した。椅子にすわった彼の周囲を、節子はひとまわりした。
「まず、洗いましょう」
 彼女は言った。
「これだけポマードがついてると、はさみも使えないわ」
 椅子を降りるよう、彼女はヨシオに言った。シャンプーのためのシンクが店の奥にあった。そこへヨシオを導き、椅子にすわらせ、節子は店の奥に姿を消した。すぐに出て来た彼女は、店で仕事をするときのための白衣のような服を身につけていた。
 シンクに向けて上体を乗り出させ、節子はヨシオの髪のシャンプーを始めた。湯の温度を調節し、ポマードでなでつけた彼の長い髪に、まんべんなく湯をかけた。
「ポマードは、柳屋?」
 自分たちふたりだけしかいない場所での会話と同じ口調で、節子が聞いた。
「そうです」
「あの、緑色の?」
「はい」
「こんなにつけてると、毎日洗わないといけないわね」
「そうなのです」
「たいへんだわ、これは」
 シャンプーの液を掌に受け、節子はそれをヨシオの髪にまぶした。まぶすはじから、白く細かい泡が盛大に盛り上がった。その泡のなかで、節子の両手はヨシオの髪からポマードを洗い落としていった。シャンプーを終え、タオルで水をき取り、さらにドライアーを使って、節子はヨシオの髪を乾かせた。そして鏡の前の椅子に戻らせた。
 くしですきながら、片手を軽く添え、節子はヨシオの髪のかたちを作ってみた。鏡に映るのを節子は冷静に検討した。
「やはりポマードを使ってまとめたいの?」
 と、節子は聞いた。
「はい」
「あの人みたいにしたいのね。なんと言ったかしら。歌うアメリカの青年」
「エルヴィス・プレスリーです」
「彼のようにしたいのね」
「そうです」
 節子は椅子のうしろにまわった。背後からヨシオの頭に両手を当て、鏡のなかの彼を節子は見た。
「気持はよくわかるわ。でも、頭のかたちが、まるで違うのよ」
 前段としてそう言った節子は、後段つまり結論として、次のように言った。
「あなたの頭は、猿蟹さるかに合戦に出て来る栗がはじけたようなかたちをしてるのよ」
 隣りの椅子にすわっていた三十代の女性が、思わず笑った。
「髪の質だって、まったく違うし。あの青年のは、細くて柔らかくて、無理しなくてもぴたっと寝る髪なのよ。ところがあなたのは、固くてまっすぐで、しかもいろんな方向に向けて生えてるわ」
「そうなのです」
「こてを当てましょうか。分けるところにこてを当てて倒して、その流れのなかで前髪をカールぎみに額に垂らして。でも、トッポすぎるといけないわね」
 ヨシオを相手に語りながら方針をさぐった節子は、
「とにかく、少し切りましょう」
 と、言った。
 二センチほど切ったあと、左側の分けめを中心に、節子はこてを使った。こてで分けめを両側に倒し、その倒れた流れに沿わせて、前髪を作った。
「朝起きたら、めちゃくちゃになってるでしょう」
「そうです」
「ポマードで抑えつけるほかないのかしら」
「いまはそうしています」
「洗ったままでなにも使わずにまとめようとすると、まとまらないわね。ねぎ坊主がはじけたみたいになるだけで」
「そのとおりです」
「では、ポマードでまとめましょう」
 気持ちを集中させて作業する節子を、ヨシオは鏡のなかに見続けた。鏡を経由することによって、思いがけないいくつもの角度から、ヨシオは節子を見ることが出来た。節子のじつに良く出来た美しさを、鏡はさまざまに分解して見せてくれている、とヨシオは思った。彼女の身のこなしの、きちんとしたしんのある柔らかな優しさも、鏡は映し出した。ヨシオの頭と髪に対する彼女の指の感触は、鏡のなかに彼が見る彼女の身のこなしと、完全に同調していた。
「両側をぴたっとでつけて、頭のうしろで鳥の羽のように合わさらなくてはいけないのね」
「そうです」
「ポマードをたくさん使わないと、かたちが出来ないわ。もう少しだけ短いと、ポマードで止めやすいのだけど」
 ほどなくヨシオの髪は出来上がった。
「どうお?」
 椅子のかたわらに立ち、鏡のなかのヨシオを節子は見た。
「出来上がりすぎてるから、少し変ね。でも、これでちょっと乱れて来ると、ちょうどいいわ」
 ヨシオの体を覆っていた白い布を節子は取った。巧みにはたいてたたみ、鏡の前の台に置いた。ヨシオは椅子を降りた。ドアを入ったすぐのところに、レジスターを置いたカウンターがあった。四十歳になったかならないかという年齢の、この店の女主人がそこにいた。ヨシオは支払いをした。
 女主人は彼の頭を点検した。そして微笑を浮かべ、
「よかったわね」
 と言った。
「きれいなお姉さんに、してもらえて。下北沢でときどき見かけるわよ。レコード店に、よくいるでしょう」
 節子が店の名刺をヨシオに渡した。店の名と所在地、電話番号が印刷してあり、裏には略地図があった。担当美容師、と肩書のように小さく印刷した下に、高木節子、とボールペンで名前が書いてあった。


 梅雨のあいだに高木節子は引っ越しをした。部屋はすぐに見つかった。勤めている美容院からは歩いて五分、そしてヨシオの自宅からなら三分とかからない場所だ。下北沢の駅から見て南西の方向に、高台になった住宅地があった。その高台の南の縁は、高台を作っている急なスロープだ。そのスロープの坂道を上がりきり、脇道へ入って少しだけいくと、高台の縁に沿って、なににも使われていない空き地がかなり広くあった。その空き地のまんなかに、南に面して斜めに、二階建てのアパートメントがあった。
 どの部屋も二階式で、八世帯あった。アパートメントの部屋を探している人がいることを、ヨシオは父親に伝えた。父親は不動産業を営む友人に話を伝えた。そのアパートメントに空いている部屋がふたつあった。友人から託されたそのふたつの部屋のかぎを、ヨシオの父親はヨシオに渡した。だからヨシオが、そのアパートメントへ節子を案内した。節子は部屋を気にいった。西の端の部屋にきめ、ヨシオの父親の友人の事務所を訪ね、賃貸の契約をした。
 それまで住んでいた京王線の明大前から、節子は引っ越して来た。かつて働いていたヨシオの高校のパン店も、節子の遠い親戚の人が経営していた。節子の引っ越しの日、学校へいくために駅へ向かう途中、ヨシオはアパートメントへ寄ってみた。パン店の小さなトラックが到着していて、荷台からはすでに荷物はすべて降ろされていた。
 開いたままのドアからなかを見ると、節子が一階で荷物を整理していた。スラックスをはいてシャツのそでひじの上までまくり、髪は大判のハンカチで覆っていた。
「ほんのちょっとの荷物なのよ」
 と、節子は笑って言った。
「でも、一週間や十日は、落ちつかないわ。お店は水曜日が定休なの。その他に、週のうちもう一日、交代で休めるのよ。再来週の水曜日に、遊びに来て。お招きします。カルピス一杯でも、お招きはお招きよ」
 だから二週後の水曜日、昼食を自宅で食べたあと、ヨシオは節子の部屋へいってみた。今日から梅雨明けだと誰もが思うような、快晴の夏の日だった。気温の高さのなかに風が心地良く吹いていた。節子は部屋にいた。淡い水色のショート・パンツに、たいへん薄い黄色のフレンチ・スリーヴのシャツを着て、花模様のハンカチで髪をうしろに束ねていた。
「あら、どうしたの?」
 招き入れながら、節子は言った。
「夕方に来ると思ってたのに。学校は?」
「創立記念日で、休みです」
「まあ。記念日にこそ、お勉強すればいいのに。試験すればいいのに」
「昨日、記念の行事がありました」
「なになの、それは」
「ブラス・バンドの演奏と、クラブ活動で舞踏をしている人たちの踊りの発表と。それから、講演です。男性の講師と女性の講師と、ひとりずつ。舞踏をあいだにはさんで」
「部屋はほとんどかたづいたの。二階が寝室。とても素敵。朝から、あれを動かしたり、これを動かしたり」
 そう言いながら節子は奥へ姿を消した。ポーチから玄関のドアを入ると、そこは居間のスペースだ。間取りはそこから奥に向けて縦に長い。居間の奥の、いっぽうの隅に、二階への階段があった。居間を奥へ抜けてその先のスペースに入ると、そこはキチンだ。キチンのさらに奥は、食事のためのスペースだ。キチンおよび食事のためのスペースと廊下をはさんで向き合うかたちで、浴室と洗面、そして南に面して部屋がひとつ、あった。居間はぜんたいが吹き抜けとなっていた。二階から、あるいは二階からの階段を降りながら、居間のぜんたいを見下ろすことが出来た。
 カルピスを満たしたグラスをふたつ、小さな盆に載せて、節子は居間に戻って来た。居間の中央に丸い小さなテーブルがあり、椅子がふたつ、そのテーブルに寄せてあった。カルピスの入ったグラスを節子はそのテーブルに置いた。ふたりは差し向かいに椅子にすわった。
「あちらの壁に寄せて、ソファがあるといいのね。そして、ソファの前に低いテーブル。それだけで、ずいぶん楽になるわ。向かい側の壁は、あのままでいいかしら」
 節子が示したその壁には、本棚とレコードを再生するための装置が、寄せてあった。本棚にはどの棚にも本がならび、レコードの再生装置はひとかかえほどある縦長の箱だった。スピーカーのグリルやコントロールのつまみ、そしてラジオのダイアルが、正面に見えていた。
「不動産屋さんのおじさまが、先週、訪ねて来てくださったの。住み心地はどうですかって。とても気さくなかた。言葉がときどき英語なの。二世のかたなの?」
「父親の友人で、子供の頃からハワイでいっしょだったそうです」
「あなたのお父さんも、日系二世なのね」
「そうです。子供の頃はハワイで、少年期の終わりからは、ふたりともカリフォルニアです」
「お部屋代は安くしてくださったの。だから私、扇風機を買ったわ。いまは二階に置いてあるの。ここは風がよくとおるのね。扇風機は必要ないほどだけど、なにか新しいものを買いたくて。無駄なものを買わずに、おかねを貯めなくてはいけません、と言われてるの。お店の主人に。これからの時代は女ひとりで生きていく時代なのですって。仕事をして手に職をつけて、同時にお金を貯めて土地を買って、アパートメントを建てるのがいちばんいいと言ってるのよ。お家賃が入るようになって、ようやく一人前ですって。この話は、したかしら」
 ふたりはカルピスを飲んだ。椅子を立った節子は、グラスを持ったまま居間を端から端まで歩いた。向こうへ歩いていくときの彼女の、ショート・パンツをはいた姿の良さ、そしてこちらへ戻って来るときの、正面から見る太腿ふとももひざ、そして向こうずねのかたちの良さなどを、ヨシオは見た。
「扇風機よりもソファを買うべきだったわね。あちらの壁に三人はすわれるソファを寄せて、その前に低いテーブルを置いて。そのかたわらに、フロア・ランプ。そうすると、このテーブルはいらないのよ。居間のまんなかはなにもないスペースになって、動きやすいわ」
「このテーブルは、どうするのですか」
「キチンの奥の、食事のスペースに置けばいいのよ。食卓」
「おかねを貯めて、このアパートメントぜんたいを買えばいいのです。土地ごと」
「それはいい考えだわ」
「安くしてもらって」
「これから東京には、人がどんどん増えるのですって。若い人が増えて、その人たちの住む場所として、アパートメントは需要が多くて追いつかない、とおっしゃってたわ」
 歩きながら話をし、節子はカルピスを飲んだ。空になったグラスをテーブルに置き、本棚のあるほうの壁へ歩いた。
「レコードを聞きましょうか」
 棚に並んでいる本のあいだに、シングル盤のレコードが五十枚ほど、立てて並べてあった。指先でレコードを選んでいく節子の姿を、ヨシオはうしろから見た。一枚のシングル盤を選び出した節子は、再生装置のかたわらへいき、きわめて優美に滑らかに、そこにしゃがんだ。その動き、そしてショート・パンツ姿でしゃがんでいる節子の体を、ヨシオは斜めうしろから見た。
 再生装置の上がふたになっていた。それを節子は開いた。なかにはターン・テーブルがあった。電源スイッチをオンにし、袋からレコードを抜き出し、ターン・テーブルに置いた。ラジオからレコード再生に切り替え、アームの小さな把手とってに指先をかけ、節子はカートリッジの針先をレコードに降ろした。
「父親が作ってくれたの。ラジオを作ったり、いろんな電気製品を修理したりするのが、大好きな人なの。ちゃんと鳴るのよ」
 レコードの再生が始まった。モノーラルだが驚くほど豊かな深みのある音で、コニー・フランシスの『アマング・マイ・スーヴェニアズ』がスピーカーから再生され、居間の空間に放たれた。節子は装置のかたわらにしゃがんだまま、そしてヨシオは居間の中央でテーブルに向かって椅子にすわって、その歌を聞きとおした。
「いい歌でしょう」
 ターン・テーブルからレコードをはずしながら、節子が言った。
 ヨシオはうなずいた。そして椅子を立って、再生装置へ歩き、その前にしゃがんだ。キャビネットの塗装は素人の仕事だったが、それ以外の造りはしっかりと重厚に出来ていた。
「暗いときにもレコードがかけられるように、ほら、明かりがつくのよ」
 ターン・テーブルのかたわらの小さなスイッチを、節子はオンにした。明かりが灯った。その明かりを消して、節子は本棚へいった。レコードを棚に戻し、別の棚から大学ノートを一冊、彼女は抜き出した。
「歌詞を聞き取って書いておくのが、私の趣味なの。こっちへ来て」
 節子はテーブルへ歩いた。ヨシオもテーブルへ戻って椅子にすわった。
「いまの歌はね、これ」
 そう言って節子はノートを開いた。開いたページを彼女はヨシオの前に置いた。丁寧な筆記体で、いま聞いた歌の歌詞が、一ページのぜんたいを使って書いてあった。ヨシオはそれを読んだ。一か所を別にして、ほかはすべて、コニー・フランシスが歌っているとおりに書き取ってあった。私の手もとに残った思い出の品々のなかには、写真も二、三枚ある、というくだりの、ア・フォトグラフ・オア・トゥーの部分が、ア・フォトグラフ・オヴ・トゥーになっていた。
「オヴではなくて、オアなのね」
 ヨシオの指摘を、節子は確認した。
「トゥーとは、ふたりのことだと思ったの。ふたりで写っている写真だから、ア・フォトグラフ・オヴ・トゥー。でも、そうではないのね。ワン・フォトグラフ・オア・トゥー・フォトグラフ、という意味なのね」
「写真が二、三枚。何枚かの写真」
「そうだったのね。私には、オヴに聞こえたわ」
 聞こえる聞こえないではなく、ごく単純に構文の問題なのだということを、ヨシオは説明した。そしてなにげなく、ほかのページを開いた。節子は手をのばし、ノートをヨシオから取り上げた。閉じてテーブルに置き、その上に彼女は両手を重ねた。
「いまはまだ見たら駄目。聞き取れてない部分がたくさんあるし、いまみたいに間違ってるところも多いでしょうし」
 ノートを持って節子は立ち上がった。本棚へ歩き、棚のなかにノートを返した。そして振り返ってヨシオを見た。
「カルピスを一杯飲んで、レコードを一枚聞いたから、あとはひと泳ぎしましょう。今日は今年の夏の初日で、きれいに晴れていて暑くて、泳がないでいるのはもったいないわ。井の頭公園のプール。電車ですぐよ。いきましょう」
 提案して誘いつつ、同時に節子は命令もしていた。節子の命令には、甘美な縁取りが自動的に生まれていた。テーブルまで歩いて来て、彼女はヨシオに手を差しのべた。その手をヨシオは取り、椅子を立った。
「待ってて。すぐにしたくをするから」
 節子は二階への階段を上がっていった。階段を上がりきるまで、ヨシオは節子の姿を見送った。階段を上がった彼女は、吹き抜けの手すりからヨシオを見下ろして手を振った。奥の寝室へ彼女は姿を消した。
 ヨシオは本棚へ歩いた。立てて並べてあるシングル盤を一枚ずつ見ていった。すべてを見終わらないうちに、節子が階段の上にあらわれた。
「今度、レコードを聴きながら、歌詞の書き取りを教えてね」
 そう言いながら、節子は階段を降りて来た。ヨシオは階段を振り返った。節子は水着姿だった。ボトムは光沢のある黒地の布で、彼女の腰をぴったりと覆っていた。上半身は黒地の部分と花模様の部分とが、クリス・クロスになっていた。肩から胸に向けてV字が深く切れ込み、胸のふくらみを支えつつ、胴にまわってそれを引き締めていた。花模様の花の大きさが、節子の体の容積と完璧かんぺきに調和していた。
 階段を降りた節子はそこに立ちどまり、かすかにポーズを取った。
「どうしたの?」
 と、彼女は言った。
 ヨシオは茫然ぼうぜんとしていた。水着姿の節子が発揮しているすさまじいまでの魅力の吸引力に、十七歳の彼はなすすべがなかった。
「映画スターです」
 と、彼は言った。
「映画に出てみませんか、と言われることがよくあるのよ。小田急線に乗ってるとき、多いわね。成城の近くに撮影所があるのですって? 男の人がふっと私のそばに来て、名刺を渡してくれたりするの。物腰の柔らかな、しかし強引そうな人。映画会社の人かしら」
「節子さんは女優になれます」
「主演がトニー・カーティスなら、私も女優になってみてもいいのよ」
 節子は笑ってそう言った。トート・バッグとスカート、そしてさきほどまで着ていたシャツを、彼女は手に持っていた。バッグを足もとに置き、夏の簡単な巻きスカートを身につけた。そしてシャツをはおってボタンをかけ、トート・バッグを持ち上げた。
「いきましょう」
 ふたりは節子の部屋を出た。アパートメントの建っている敷地から脇道へ出て、節子は建物を振り返った。
「このアパートメントは、みんなうらやましがるのよ。設計が日本のアパートメントとは、まるで違ってるのね。ハワイふうなの? 洒落しゃれてるわねえ、とみんなが言うの」
 ヨシオは自宅に寄った。水泳のトランクスとタオルを一枚、持って出て来た。門から少し離れたところで、節子は陽ざしのなかに立って待っていた。
「お母さんは、いらしたの?」
 彼女が聞いた。
「珍しく、いらした」
 タオルとトランクスを節子のトート・バッグに入れ、ヨシオがそれを持った。ふたりは下北沢の駅まで歩いた。そして井の頭線の吉祥寺行きに乗った。
 井の頭公園の駅で降り、駅を出て公園の入口に向けて歩いた。公園に入り、奥に向けて歩いていくと、やがて前方左手に木立ちがあった。そのなかの木造二階建ての建物がプールだった。一階は更衣室や事務所、そしてプールは二階にあった。ふたりはそれぞれに更衣室に入った。ヨシオはすぐに二階へ上がった。そのあと、節子があらわれた。
 二階は板張りの広いサン・デッキのようになっていた。その中央がプールだった。サン・デッキのぜんたいが木立ちに囲まれていた。取り囲んでいる樹々は頂上までかなり高く、プールとサン・デッキはその中間に沈んでいるような印象があった。数人の客はみなデッキの椅子にすわっていた。いまはまだデッキのぜんたいに暑く陽が当たっていた。
「ここは水が冷たいのよ」
 ヨシオのかたわらに立って、節子が言った。彼女の白い肌は、内部から真珠色に発光しているかのように、つやをたたえていた。ふたりはプールの端にあるステップまで歩いた。手すりにつかまり、うしろ向きに、ヨシオは水に向けて降りた。腰まで水につかった彼は、
「冷たい」
 と言ってすぐに上がって来た。
 節子が同じようにして水に入った。手すりにつかまったまま、しゃがんで肩まで水につかった。水のなかで体を縮め、
「ほんとに冷たいわ。入って来て」
 と、ヨシオを見上げて言った。
 手すりを離れた節子は、プールの中央に向けて泳いでいった。泳ぎながら振り返り、
「泳げば冷たくないのよ」
 と言った。その笑顔に水がかかり、水の膜に陽ざしが反射した。ヨシオもプールに入り、泳いだ。ふたりだけでしばらく泳いだ。視覚がとらえる夏の陽ざしの暑い強さと、プールを満たしている井戸水の冷たさとの落差のなかに、このプールの魅力があった。
 あお向けになって泳ぎ、プールを何周もしてから、ヨシオは縁までいってそこに片手をかけ、水に浮かんで空を仰いでいた。そこへ節子が来た。水にれた彼女の顔を、彼は至近距離に見た。赤く口紅を塗った唇が、濡れていた。濡れた髪の先が、頬のうしろやうなじに貼りついていた。ヨシオはプールの縁に両手でつかまりなおした。水のなかで壁に両足をついて支えているヨシオを、節子はうしろから抱いた。
「あったかいわ。あなたの体温が伝わって来るのよ」
 楽しそうに、節子は彼の頭のうしろで言った。
「私は、あったかい?」
 背中から腰にかけて、彼女の水着の生地の感触だけを、彼は感じていた。脚が水のなかで直接に触れ合った。彼はなかば振り向いた。節子の髪が彼の額に触れた。化粧した彼女の顔の香りを、水面のすぐ上で彼は受けとめた。


 梅雨の明けたその日から、真夏の暑い日が、まったくおなじ感触で二週間続いた。そして雨が降った。雨は一週間、続いた。その雨の日の夜、夕食を自宅ですませたヨシオは、節子の部屋へいった。分厚い英語の童話の本を六冊、腕の下にかかえてレインコートをはおり、傘はささずにフードをかぶった。雨のなかを三分も歩かずに、彼は節子のアパートメントに着いた。いつ遊びに来てもいい、と彼は節子に言われていた。
 ノックをすると返事があった。ドアが開いた。節子はヨシオを招き入れた。ドアの外で彼はレインコートを脱いだ。ドアの外側のノブに、そのレインコートを掛けた。中に入ってドアを閉じ、
「本を持って来ました」
 と、ヨシオは言った。かかえていた六冊の本を、彼は節子に見せた。
「私のために?」
 英語を勉強したい、と節子はヨシオに言っていた。教材を見つけてあげます、と彼は約束した。自宅にあった自分の本のなかから、六冊を選んで彼は持って来た。子供のための童話の本だ。幼かった頃のヨシオの遊び道具だ。本を受け取り、
「お上がりなさいよ」
 と、節子は言った。今夜の彼女は、薄い生地に細いプリーツのたくさんある、くるぶしまで届く丈のスカートをはいていた。それに白い長袖ながそでのシャツだ。彼女がかつて言っていたとおり、居間のいっぽうの壁に寄せて、ソファが置いてあった。その前には低いテーブル、そしてソファのかたわらにはフロア・ランプが立っていた。ふたりはソファに並んですわった。
 それぞれに硬い表紙のついた六冊の厚い本を、節子はテーブルに重ねて置いた。そしてその上に片手を載せ、
「あなたが読んだ本なの?」
 と、聞いた。
「そうです」
「これで勉強したのね」
「読むといいですよ」
 いちばん上の一冊を手に取り、組んだ脚の上で節子はそれを広げた。
「この話、知ってるわ」
 色彩の着いた挿絵を指さして、彼女は言った。
「ヘンゼルとグレーテルよ」
「読んでみてください。声を出して」
「それが勉強なのね」
「そうです」
「私、勉強するわ」
 数ページにわたるヘンゼルとグレーテルの話を、最初から最後まで、節子は英語で声に出して読みとおした。そしてヨシオを見た。
「ほんとに勉強したいのなら、ほんとに勉強しなくてはいけません」
 と、ヨシオは言った。
 彼のその言葉を受けとめた節子は、指を揃えた両手で伏せた顔を覆った。
「いまのままではまったく無駄なのだ、という意味なのね」
 ヨシオは黙っていた。
「ね」
 顔を覆ったまま、節子は言った。
「駄目だったのね」
「そうです」
 顔から両手を離した節子は、ヨシオに顔を向けた。
「どうしましょう」
「僕が読みます」
 彼は節子から本を受け取り、節子は彼に体を寄せた。そして彼はヘンゼルとグレーテルの話を読んだ。強弱や音がひとつにまとまる部分、それに息つぎの休止など、やや誇張して彼は読んだ。
「私の読みかたとはずいぶん違うということくらいなら、いまの私にもよくわかるのよ」
「真似すればいいのです」
「教えて」
 強拍やひとつにつながる部分、そしてブレスなどを鉛筆で印しながら、彼はおなじ話をもう一度読んだ。彼を真似して、そして彼に訂正してもらいながら、節子はさらに二度、おなじストーリーを声に出して読んだ。
「言葉は声に出せば音なのです。音であるからには、音の出しかたがあります。強弱のリズムや、言葉のつながりかたのなかにあるテンポです。それが正しく出来ないと英語になりませんし、それが正しく出来ると、構文の成り立ちが無理なく覚えられます」
 ヨシオの言ったことを、節子はしばらく考えた。そして、
「音の出発点は、どこなの?」
 と、聞いた。
「主語です。主語を動詞が引っ張ります。動詞が文章を前へ進めていくのです」
 もうひとつ、別な話をヨシオは読んだ。節子が何度か繰り返して読み、注意すべき部分にヨシオが鉛筆で印をつけていった。
 お盆になるまで、ほとんど毎日、夜のほぼおなじ時間に、ヨシオは節子の部屋を訪ねた。六冊の本のすべてを節子は何度も音読し、ヨシオがそれを訂正して、その理由を説明した。分厚い六冊をそのようにしてこなし、身につけていくと、節子の英語は格段に良くなった。この女性は勘のいい人だ、とヨシオは思った。
 お盆休みで高木節子は静岡の実家へ帰ることになった。休みは一週間だ。急行の指定席の切符を買ったと節子は言い、ヨシオは彼女を東京駅で見送ることにした。当日、時間が今日だけは止まっているように思える晴れた日、午後一時に、ふたりは東京駅に到着した。
 ヒールの充分にある白いパンプスに、スカートの広がったシャツ・ドレスを節子は着ていた。小旅行用のスーツケースひとつが荷物だった。それをアパートメントを出たときからヨシオが持った。節子が乗る急行の発車時間までに一時間三十分あった。節子があのイヤリングをつけているのを見て、ジョイスリン・カネシゲの装身具店へ彼女を連れて行くことを、ヨシオは思いついた。ぜひいきたい、と節子は言った。国電で有楽町までいき、そこで降りた。日比谷にある店まで、駅から歩いてすぐだった。
 外の歩道から、ふたりはショー・ウインドーをしばらく観察した。ドアが開き、ジョイスリンが斜めに体を出し、ふたりを笑顔で見た。きわめて優しく、
「カミンサイ」
 と、彼女は言った。
 ふたりは陽ざしのなかを店の入口へ歩いた。
「わかったわ」
 と、節子は言った。
「カム・インサイド、とおっしゃったのよ」
 ふたりは店に入り、ヨシオは節子をジョイスリンに紹介した。節子にイアリングがこの上なく似合う様子に、ジョイスリンは喜び感銘を受けていた。
 店の奥に応接のためのスペースがあった。気のきいた造りの部屋のなかに、ソファや低いテーブルなどが居心地良く配置してあった。ジョイスリンは節子をそこへ招き入れた。いつもいる若い女性の店員が、節子とヨシオにコカコーラを出してくれた。
 ジョイスリンに聞かれるままに、節子はいまの自分の生活について語った。ジョイスリンはハワイやアメリカの話をし、一度はいってみたいとか英語を勉強をしているといったことを、節子は話題にした。ヨシオはやがてその部屋を出た。店のなかを歩き、陳列していある装身具を見物した。ジョイスリンは言葉を日本語から英語に変え、それに対して節子が英語で応答しているのを、ヨシオは部分的に聞いた。節子の英語が基本的には充分に合格であることを知って、彼は少なからず驚いた。
 三十分足らずでふたりは店を出た。ジョイスリンが外まで送ってくれた。ふたりは銀座までいった。そこで節子は実家へのみやげ物を、大きな紙袋にふたつ、買った。ふたりは有楽町の駅まで引き返し、そこから東京駅に戻った。
 時間のゆとりを、ふたりは待合室で話をして過ごした。やがて改札のアナウンスがあった。改札口までヨシオが荷物を持っていった。片手にスーツケース、そしてもういっぽうの手には紙袋をふたつ下げて、節子は改札を抜けた。歩いていく途中、節子は一度だけ振り返って微笑した。


 九月第一週の晴れた静かな日、下北沢の午後三時過ぎは、明るくて人が少なかった。駅の南口からの商店街の道を、ヨシオは島村冬彦という高校で同級の友人とふたりで歩いていた。写真を撮るのが趣味の島村は、ほとんどいつもカメラを持っていた。今日の彼も、学校からの帰り道、写真をさまざまに撮った。ヨシオがつきあっていた。
 一軒の映画館の前で、ウインドーのなかに貼ってある写真やポスター、入場券売り場の窓、入口など、冬彦は何枚も写真に撮った。映画館が奥にあるその脇道から、ふたりはおもての通りへ出て来た。そこでヨシオは女性の声に呼びとめられた。高木節子が働いている美容院の店主だった。立ちどまったヨシオに向けて、彼女は大股おおまたに歩み寄った。
「学校が退ける時間だから、見かけたら伝えて欲しいと頼まれたのよ」
 と、彼女は言った。
 ヨシオは彼女の言葉の続きを待った。
「うちの節子からの伝言」
「そうですか」
 お盆の休みで静岡の実家へ帰るのを東京駅に送って以来、ヨシオは節子に会っていなかった。
「そうなのよ」
「どんな伝言ですか」
「相談したいことがあるから、連絡してくださいって」
「わかりました。これから店へ寄ってみます」
「かならずよ」
「はい」
「いまは暇な時間だから」
「寄ります」
「学校の帰り?」
「そうです」
 ヨシオと彼女のやりとりをかたわらで見ていた島村冬彦は、彼女に向けて一歩、歩み寄った。
 そして彼女に次のように言った。
「僕は島村と言います。ヨシオくんとは、おなじ高校のおなじ学年です。写真を撮らせていただけませんか」
「私の?」
 自分を指さして、彼女は聞いた。
「そうです」
「私の写真を撮るの?」
 島村は彼女にカメラを見せた。
「僕は写真を撮るのが好きなのです。いまもヨシオくんといっしょに、奥の映画館の写真を撮っていたところです」
「いいわよ。撮って」
「あの薬局の前を、駅に向けて歩いていくところを、真横から」
 島村が指さした薬局を、彼女は見た。
「どうぞ。そうしたければ、そうしましょう」
 薬局の前まで三人は移動した。九月の午後の西陽が薬局に直射していた。陽よけが深く斜めに張り出し、それにさえぎられた陽ざしは、ガラス戸の下から三分の一ほどに当たっているだけだった。
「この前を、駅に向かって歩いてください。まっすぐに前を見て。さきほどとおなじように、大股で歩いていただけますか」
 薬局の隣の商店まで下がった彼女は、そこから指定されたとおりに歩いた。島村はすでに位置を取っていた。歩いていく彼女にカメラを向けて、三度、彼はシャッター・ボタンを押した。
「ありがとうございました」
 頭を下げて礼を言う島村に、そのまま歩いていきながら肩ごしに振り返り、
「出来たらちょうだいね」
 と、彼女は言った。
 ごくゆるやかな下り坂の道を、島村とヨシオは歩いていった。
「人物も撮るのか」
 と、ヨシオは聞いた。
「撮るよ。いまみたいに、知らない人でも話しかけて、許しをもらって。もちろん、許しなしでうしろから撮ったり、斜め横から撮ることも多いけれど」
「いまの人は、なぜ撮ったのだい」
「たいへん魅力的な人だから」
「美人だね」
「ヨシオがそう言うなら、確かだよ。魅力的な人は自分の良さを知ってるから、かならず撮らせてくれるよ。少なくとも僕の経験した範囲では」
「いまの人は魅力的だ」
「自信の塊のような女性だね」
「なぜ、薬局の前なんだ」
「ひとりの女性の魅力と自信が、九月の下北沢という日常のなかにある。その日常的な時間のなかの、一瞬」
 島村の説明にヨシオは納得した。
 商店街を抜けると道は三つに分かれた。立ちどまったヨシオは、
「僕はこっちへいく」
 と、方向を示した。そして、
「僕といっしょにこっちへいけば、もうひとり美人に会える。いまの人よりもっと美人だよ」
 と、つけ加えた。
「これからその人に会うのか」
「店へ寄ると、さっき僕があの人に言っただろう」
「なんの店だい」
「美容院」
「そこで働いている人なのか」
「そう。映画スターみたいな人だ」
 思案する、という言葉がぴったり来るような表情で、島村はしばらく考えた。
「今日でなくてもいいよ。写真を撮らせてもらえるかどうか、聞いておいてくれ。撮らせてもらえるなら、その人が休みの日に、午後に多摩川へでもいってみよう。午後いっぱい写真を撮って、三人で夕食だ。親戚しんせきが成城でやっている、あのとんかつの店でよかったら」
「それもいいね」
「そうしよう」
「聞いておく」
 ヨシオと島村はそこで別れた。ヨシオは節子のいる美容院に向けて歩いた。店主が言っていたとおり、美容院は暇な時間だった。客は椅子にひとりだけいた。奥にいた節子はドアまで歩いて来た。そして外に出て、隣りのビリヤードの植え込みの前で、ヨシオと向き合って立った。
「店主に駅の近くで会いました」
「伝言を頼んだの。あなたと偶然に会うのではないかと、なんとなく思ったから」
「会いました」
「だから寄ってくれたのね」
「そうです」
「ジョイスリンさんからお店に電話をいただいたの。お盆で静岡に帰るとき、あなたとお店に寄ったでしょう。あのとき、私はここの名刺をお渡ししておいたの。基地の学校に通わないかとおっしゃるの。府中の基地。英語の勉強をしたいとか、ハワイやアメリカへいってみたいというような、夢みたいな話をお店でしたのよ。その話の、真面目な続き。基地のなかに学校があって、私でも入れるのですって」
「いけばいいじゃないですか」
「午後からのコース。終了して試験を受けて合格すれば、高卒の資格なのですって。アメリカの高校よ」
 最後の言葉を、節子は純粋に強調した。
「こういう話は、ほんとなの?」
「僕もおなじコースに通うことになるかもしれないのです」
「本当に、私でも入れるの?」
「入れると思います」
「これが民主主義なの?」
「きっと、そうでしょう」
「これが本当の民主主義なら、日本は民主主義でもなんでもないのよ」
「そうですか」
「どうしましょう」
「勉強はしたいのですか」
「したいのよ」
「では、そのコースに通えばいいのです」
「来週のお休みの日に、ジョイスリンさんと日比谷のお店でまた会うことになってるの」
「はい」
「こんなことって、あるの?」
「ありますよ」
「あなた、わざと気取って、平気な顔をしてるのでしょう」
「そんなこと、ありません」
「通えるなら、私は通うわ。お店は午前中だけにしてもらって。という話をしたかったの。ジョイスリンさんに会ってから、また相談するわ」
 また相談する、と節子は言っていた。しかし、相談するもしないもなく、九月の一日からすでに始まっているそのコースに、節子は九月の第二週の月曜日から、編入することになった。そのことはジョイスリンからヨシオの母親に伝わり、母親から父親を経由してヨシオにも届いた。それはそれでいい、とヨシオは思った。彼は高校の期末の試験に気を取られていた。
 期末の試験は一週間続いた。試験が終わって次の週は、一週間にわたって休みとなった。その中間、水曜日の夕方、ヨシオは節子のアパートメントの前で彼女の帰りを待った。島村冬彦に節子を紹介する約束をまだ果していなかった。そのこともあって、ヨシオは節子に会いたいと思った。
「オー、ハーイ、ヨシーオ」などといきなり言われたらどうしようという思いを、高木節子にかぎってそのようなことはありっこない、と思って打ち消したりしながら、彼は五時過ぎまで待った。節子は帰って来た。
 彼女の服は微妙に秋だった。ポーチの階段にすわっていたヨシオは、立ち上がった。節子は彼に歩み寄り、ふたりはポーチの前でしばらく話をした。基地の学校はたいへん楽しい、と節子は言った。私は本気になって勉強している、とも彼女は言った。それだけ聞けばヨシオにとっては充分だった。あとはいつものとおり、節子の美しさをさまざまに受けとめながら、彼女の話に受け答えしていればよかった。
「この服は、本当によそいきなのよ。だから着替えて来るわね」
 そう言って節子は部屋に入った。彼は外で待ち、節子はすぐに出て来た。気さくなスカートと長袖ながそでのシャツに、彼女は着替えていた。この部屋に風呂ふろはあるのだが、節子は銭湯へいくための道具を持っていた。
「今日は銭湯へいきたい気持ちなのよ。いきましょう。お夕食の買い物はして来たから、お風呂から帰ったら作るわ。だから、私のところで食べていって」
 アパートメントの敷地を出て脇道をいき、坂を降りた。道路を越えて少しだけいくと銭湯があった。
「お風呂のタオルがないわね」
 坂の途中で節子が言った。
「お家へ帰って、お母さまにタオルをいただいて来る?」
「手で洗いますよ」
「お風呂を上がったら、どうするの?」
「体重を計ったりしてれば、すぐに乾きます」
「一枚よけいに持って来たから、私のでよかったら貸してあげられるわ」
「貸してください」
「でも、赤いタオルなのよ」
 タオルを取り出して、節子はヨシオに手渡した。坂を降りながらヨシオはそれを広げてみた。赤い、と節子は言った。赤であることを通り越して、そのタオルは見事なまでに真紅だった。


 十月から数えて次の年の三月までに、六か月が経過していった。ヨシオは高校を卒業し、ある私立大学の入試試験に合格した。せっかくだから、というだけの理由で、彼はひとまず日本で大学生をしてみることになった。高木節子は基地のなかの学校へ一日も休むことなく通い、六月の終わりには高校卒業資格試験に合格した。アメリカの高等学校を卒業したのとおなじ資格が、二十四歳の彼女のものとなった。
「二十代の人が私のほかに五人いたの。三十代の人だって、ふたりいたのよ」
 と、彼女はヨシオに報告した。
 ハワイやアメリカへいってみたいという願いは、節子にとってはいまのところ夢以外のなにものでもなかった。しかし、すっかり相談相手となっているジョイスリンや、駐留アメリカ軍の一員として日本で仕事をしている彼女の夫にとっては、ただの平凡な現実だった。ハワイへ移ってそこで仕事をしてみるのもいいのではないか、と彼らは勝手にきめ、話を進めてしまった。
 ホノルルに何人もいる親しい友人や知人、あるいは親戚しんせきの人たちと連絡を取り合ううちに、美容院のチェーン店を経営して成功している人が、日本女性ならぜひうちの店に欲しい、と申し出た。節子の身元引受人になることを、その人はふたつ返事で承諾してくれた。オフィシャルな手続きを併せて進行させていき、それがある程度まで進むと、およそこのあたりに日本を発つというかたちで、渡航の日をきめなくてはいけないところまで到達した。
 相談を受けたヨシオは、
「いきたければ、いけばいいのです」
 と答えた。
「それだけ?」
「いまは、それだけです」
「あなたは下北沢にいるの?」
「僕もいくかもしれません」
「あなたは初めてではなくても、私は初めてなのよ」
「美容院の仕事なら、すぐに慣れるでしょう。仕事をしながら大学へもいけます」
「いまでなければ出来ないことをしなさい、とお店の店主は言ってくれてるの」
「いくことに賛成なのですね」
「そう」
「僕も賛成です」
「ジョイスリンさんのご主人が、私の名前をきめてくださったの。節子の頭文字のSを取って、スーザンはどうかとおっしゃるのよ。はい、結構です、と答えて私は顔がまっ赤になったわ」
「なぜですか」
「スーザン・ヘイワードのスーザンなのよ。この私が、スーザン・ヘイワードとおなじ名前になるのよ」
 節子の渡航の手続きは進行していき、あるときすべて完了した。そしてそのときには、彼女が日本を離れる日がきまっていた。その日に向けて、節子は多忙だった。その多忙さは、最終的には彼女の個人的な身辺のことへと、収斂しゅうれんされていった。アパートメントの部屋はヨシオが引き継いで使うことになった。
「それはうれしい」
 と、節子は喜んだ。
「この部屋宛てに、私は手紙を書くことが出来るのね。写真も送るわ。返事を書いてね。写真も送って」
「僕はここでひとり暮らしをします」
「それはいいことよ。それにここは、私の故郷。帰って来るところよ。いつになるか、わからないけれど。あの場所とあの部屋が、いまもあそこにあるのだと思えると、心強いわ」
 節子にやがて送る写真は島村に撮ってもらおう、とヨシオは思った。彼は島村に節子を紹介した。昨年の九月の終わり、節子の休みの日に、三人は多摩川へいった。島村は節子を写真に撮った。出来たのをヨシオは見た。女優の休日、というタイトルのスナップ集のようだ、と彼は島村の写真を評した。節子のパスポートに使う写真も島村が撮った。
 ハワイへ持っていく荷物、部屋に残していくもの、そして静岡の実家へ送るものと、仕分けしなければいけない段階がすぐに来た。ヨシオが少しだけ手伝った。
「家具はみんな置いていくわ。ソファも、ベッドも」
「僕が使います」
「ほんとに安心だわ。ほっとしたわ。ここをこのままにしておけるのは、とても安心なのよ」
「静岡へ送るものは、ひとまとめにしておいてください。僕が箱に入れて送ります」
「そんなことまで頼んでいいの?」
「いいですよ」
「レコードも置いていくわ。プレーヤーも」
「僕が聴きます」
「あの子は私が引き受けるわよ、とお店の主人の杉山美代子さんが言ってるの。あの子とは、あなたのことよ。引き受けるって、なにかしら。杉山さんは三十八歳よ。年上の人が好きなあなたでも、二十歳も年上だと、年上過ぎるでしょう?」
 節子の言葉にヨシオは笑った。冗談として彼は受けとめたのだが、節子は真剣だった。だから彼女は、
「年上過ぎるでしょう? ねえ、年上過ぎるでしょう?」
 と、彼の同意を求めた。
 出発の日が来た。あとひとしきり雨が降れば今年の梅雨も明けるのだという、最後の梅雨の晴れ間の、きれいに洗い上げたような晴天の日の午前中、ヨシオの父親のデソートで、四人は羽田空港へ向かった。節子、ヨシオ、そしてヨシオの父親と母親の四人だ。節子の荷物の大部分はすでに送ってあった。静岡へ帰ったときに持っていた小旅行用のケースにバッグ、そしてジャケットだけを、節子は持っていた。ヨシオと節子がデソートのうしろの席にすわった。走り始めてすぐに節子はヨシオの手を取り、空港につくまでその手を離さずにいた。あの赤いイアリングが節子の耳にあるのをヨシオは見た。
 空港に着くと、建物の外でハリー中村とその妻が、待っていた。ハリーはヨシオの父親の幼い頃からの親友だ。節子が住んでいたアパートメントは、彼が所有して経営しているもののひとつだ。階段を上がってなかに入ると、横に長いスペースに航空会社のカウンターが並んでいた。節子の両親、そして妹が、そこにいた。パン・アメリカン航空のカウンターで節子がチェック・インしているところへ、美容院店主の杉山美代子が主任の女性とともにあらわれた。一行はそれだけで十人を超えた。カウンターのまんなかに階段があった。彼らはその階段を上がっていった。
 ロビーのソファにすわって、搭乗の時間が来るのを待った。ジョイスリン・カネシゲとその夫が来た。紹介し合って、全員がその場で知り合いとなった。ソファにすわりなおした節子は、
「ハワイまで飛行機に乗ったことがあるの?」
 と、ヨシオに聞いた。
「あります」
「なにか忠告して」
「緊張する必要はいっさいないのです。どこもみな、自分の家だと思えばいいのです。すべては自分のためにあるのだという気持ちと態度でいれば、ちょうどいいのです」
「あなたは本当にそういう方針の人なの?」
 節子が聞き返した。
「私の知ってるあなたは、かなり人見知りする人なのよ」
 節子は再びヨシオの手を取った。彼に肩を寄せ、
「十年たったら、私を探しに来て」
 と、小さな声で言った。
「いきます」
「ほんとに」
「ほんとです」
 搭乗を開始するというアナウンスが、英語と日本語で、きわめて丁寧におこなわれた。ヨシオの両親、そしてジョイスリンと彼女の夫の四人が、立ち上がった。ほかの人たちがそれに続いた。
「きみもいっしょにいけよ」
 ヨシオの父親が言い、なぜだか全員が笑った。空港ロビーのなかでひときわ目立つ美人の節子は、いまにも泣き出しそうな顔をしていた。ジョイスリンとヨシオの母親が節子に餞別せんべつを手渡した。
「ドルだから着いたらすぐに使える」
 と、ジョイスリンが現実的なことを言った。
「使いやすいように、ワンダラー・ビルがたくさん」
 ジョイスリンが重ねてそう言い、四人は笑った。お別れの挨拶あいさつをし合い、節子を送って全員がゲートへの通路の入口まで歩いた。
「デッキにいるよ」
 ハリー中村が節子に言った。歩いていく彼女を、そこに立ちどまった誰もが見ていた。角を曲がるとき、節子は振り向いた。肩まで上げた片手を節子は振った。
 残された全員が、ロビーから送迎デッキへまわった。デッキはまぶしい陽ざしのなかにあり、風が吹いていた。見送りの女性たちのスカートが、風になびいていた。手すりの前に並んで立ち、節子があらわれるのを待った。やがて節子が、おなじ飛行機に搭乗する人たちとともに、陽ざしのなかにあらわれた。全員が斜めに見下ろす下を、節子は歩いた。ふと気づいて、彼女は顔を上げた。笑顔になり、手を振った。彼女が歩いていく先には、ストラトクルーザーという呼び名の機体が、陽ざしを受けとめ反射させていた。
「晴れてよかったね」
 ハリーが妻に言った。
「ほんとにきれいな人」
 ジョイスリンが言った。
「うちの娘です」
 美容院の杉山美和子が、宣言するような口調で言った。歩いていく節子に、横から風が当たった。服が風で体に押しつけられ、彼女の体の側面の線がはっきりと出ているうしろ姿を、全員が見送った。機体の横につけてある階段に節子は到達した。階段を彼女は上がった。上がりきったところでデッキを振り返り、手を高く上げた。そして機体のなかに入っていった。
 離陸するまで、全員が見届けた。機体の美しさに合わせた造形の階段が引き離され、四つのプロペラが回転を始め、機体はおもむろにタクシーイングを始めた。導かれて滑走路へ出ていき、所定の位置までいき、そこで待機した。そして発進し、加速し、必要な距離を走りきったあと、なにごともなかったかのように、機体は滑走路から浮き上がった。晴れた夏の空に向けて、斜めに上昇していった。海のうえに広がる空のなかの、小さな点になるまで、彼らは見送った。
「ソー」
 と、ヨシオの父親が言った。
「ザッツ・イット」
「今年のクリスマスは僕はホノルルだから、そのときまた会える」
 ハリー中村が言った。


 雨の日、大学へいくつもりで、ヨシオは自宅を出た。途中でやめにし、節子の部屋があったアパートメントへ向かった。いつも持っているかぎで、かつての節子の部屋のドアを開き、彼はなかに入った。ここを彼が使うことになっていたが、まだ引っ越しはしていなかった。節子の静岡の実家へ送る荷物は、すでに彼が送り出した。それ以外は、節子が住んでいたときのままになっていた。
 彼女の痕跡こんせきが、二階式の部屋のいたるところにあった。本棚には本が入ったままだし、レコード、そしてその再生装置も、かつてのとおりだ。ヨシオはひとりでソファにすわってみた。そして居間から奥に入り、キチンを見た。冷蔵庫、調理道具、食卓として使っていた丸いテーブル、そして椅子いす。キチンには節子の跡がもっとも顕著だった。洗面室には化粧品が残っていたし、風呂ふろには石鹸せっけんおけがきちんと置いてあった。
 二階の寝室へも、彼はいってみた。ベッドの上にはブランケットやシーツ、そして枕などがあり、クロゼットのなかには水着が一着、針金のハンガーに掛かっていた。この水着は、ヨシオにとって、ちょっとした謎だった。持っていこうと思いつつ節子は荷物に入れ忘れたのか。それとも、意図してここへ置いていったのか。井の頭公園のプールへいっしょにいったとき、節子が身につけていた水着だ。自分の一部分はまだこの部屋にある、という意味を込めて節子はこの水着を置いていったのだろう、とヨシオは解釈した。
 正午まで、彼はその部屋にいた。そしていったん自宅に戻り、昼食を済ませた。そして再び家を出た。傘をさして節子のいた美容院へ向かった。美容院には客が三人いた。店主の杉山美代子が、ヨシオに応対した。
「あら、いらっしゃい。でも、節子はもういないのよ」
 そう言う彼女に、ヨシオは自分の頭を指さした。
「頭がどうにかしたかしら」
「切ってください」
「頭を?」
「髪です」
「切れと言われれば、切りますよ。でも、ねえ。そんなにポマードのたくさん塗ってある髪には、誰も触りたくないものなのよ。だから私が切るわ」
「坊主刈りです」
「なんですって?」
 美代子は聞き返した。
「今日は坊主刈りにしてください」
 彼の頭を、美代子は見た。
「ほんとに?」
 と、彼女は聞いた。
「ほんとです」
「そのほうが手間がかからなくていいわよ。伸びて来たら、別のスタイルにしなさい」
「とにかく、坊主刈りにしてください」
「バリカンで切るのだわ」
 そう言った彼女は、バリカンの使える人はいるかと、店の女性たちに聞いた。使える人はひとりもいなかった。
「では、私が。いいでしょ、私で」
「お願いします」
「バリカンを使うのは久しぶりだから、きっと虎刈りになるわ。虎と言うよりも、西瓜すいかね。まず洗いましょう。洗って乾かしてから、ばっさりいきましょう」
 シャンプー台へ、彼女はヨシオを連れていった。椅子にすわらせ、シンクに向けて上体を傾けて突き出させ、湯の温度を調節した。湯でらしたヨシオの髪に、掌に取った大量のシャンプーを、彼女は何度も彼の髪にまぶした。そして洗い始めた。
 美代子の指の感触と手の力を頭に感じながら、ヨシオは思った。坊主刈りにしたなら島村冬彦に写真を撮ってもらおう。あのアパートメントの敷地で、アパートメントの建物を背景にして撮ればいい。坊主刈りにした僕を節子さんは初めて見る。ホノルルにいる彼女宛てに書く最初の手紙に同封する写真として、その写真はこの上ない正解であるはずだ、と彼は結論した。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


肩はいかにセクシーか



[#改ページ]


 島村冬彦が伊東夏子を初めて写真に撮ったのは、彼が高校生になってひと月後、五月の最初の日曜日の午後だった。買ってもらったばかりの、そして高校の三年間ずっと愛用することとなった写真機を持って、彼は外出した。一軒おいて右隣りに、夏子が両親と住んでいる家があった。渡り廊下でつながった離れが庭にある、二階建ての家だ。その家の前を冬彦がとおりかかると、門とは別にある通用ドアを開けて、夏子が外へ出てくるところだった。冬彦は彼女に挨拶あいさつし、夏子は笑顔でこたえた。
「私は下北沢の駅まで歩くの」
 夏子が言った。
「僕もです」
 冬彦が答えた。彼にとっての目的地は、かならずしも下北沢の駅ではなくてもよかった。ふたりは肩をならべて住宅地のなかを歩いていった。冬彦は幼い頃から夏子を知っていた。冬彦という自分の名に対して彼女が夏子であることが、小学校に入った頃の彼にとって、彼女の印象とひとつに重なった。ふたりが歩いていく道は、ごくゆるやかな登り坂だった。
「高校生になったのですって?」
 夏子が聞いた。
「そうです」
「早いわねえ」
 心からの感慨を込めて、夏子はそう言った。
「私はあなたを小さい頃から知ってるのよ。私が夏子であなたが冬彦ちゃんだから、面白いなと思ったのがいつだったかしら。もうずいぶん前のこと」
「僕は今の家で生まれたのです」
「小さな三輪車で遊んでたわ」
「この道です」
「そうよ、この道。向こうからあなたが三輪車で下ってくるの。下り坂だから、ペダルをこがなくてもいいのよ」
 ふたりの家の前を通過して、坂道を下りきると、もっと急な坂道と直角に交差する。左に向けて降りていく急な坂だ。
「あなたが向こうの坂道へ出ていかないように、私があそこに立っててあげたの」
 振り返ってその場所を示す夏子を、冬彦は至近距離から見た。きれいな人だ、と彼は思った。美しさの内部には、ありとあらゆる聡明そうめいさや怜悧れいりさがそなわっている印象があった。もっとも基本になる彼女の印象は、静かな人だった。その静かさを土台にして、端正さや明るい華やぎ、優しい丁寧さなどが、なんの無理もなしに常に一定の振幅で維持されていた。
「三輪車の止め方も、教えてあげたわ」
「覚えてます」
「靴で路面をこすって止まろうとすると、靴が脱げるのよ」
「あの三輪車は、いまでも物置のなかにあります」
「もう高校生になったのね」
「そうです」
「早いわ。早いと言えば、私は二十一歳になったの」
「そうですか」
「今日が誕生日なのよ」
 夏子の言葉を受けとめ、しばらく考えてから、冬彦は言った。
「写真を撮らせてください」
「私の?」
「記念写真です。二十一歳の誕生日の」
「撮ってくれるの?」
「撮らせてください」
「うれしいわ。あなたがいつも写真機を持っていることも、私は知ってるのよ」
 住宅地のなかの道をふたりは歩いていた。道の片側は邸宅の庭を縁取る生け垣だ。冬彦は何メートルか前へ歩いた。そしてそこに立ちどまり、ファインダー越しに夏子を見た。晴れた五月の日の陽ざしは、夏子にとって順光だった。
「歩いて来てください」
 歩いて来る夏子を三ショット、冬彦は撮った。三ショットめはしゃがんで低い位置から撮った。
 歩み寄ってかたわらに立ちどまった夏子に、道に面して庭のある家を冬彦は示した。
「高校でおなじクラスの、ヨシオという友だちの家です。庭で撮らせてもらおうかな。時間はありますか」
「だいじょうぶよ」
 黒く塗った鉄パイプで作ったごく簡単な門は、左右に大きく開いてあった。なにもないおおざっぱな庭に、デソートのセダンが一台、斜めに停まっていた。その向こうに、平たい屋根の平屋建ての家があった。ふたりは庭に入った。
「いるかな。聞いて来ます」
 そう言って冬彦は玄関へ歩いた。彼はブザーのボタンを押した。すぐに内側からドアが開いた。なかにいる人と短く言葉を交わしてから、冬彦は夏子のところへ戻って来た。玄関のドアは閉じた。
「ヨシオはいなくて、お母さんがいました。庭で写真を撮ってもいいそうです」
 デソートを背景にして、冬彦は構図を作ってみた。ごく自然に、夏子はポーズを取った。何枚か撮ったあと、冬彦は運転席のドアを開いた。
「なかに入ってみてください」
 冬彦にそう言われて、夏子は運転席に入った。夏子と運転席のよく調和する様子に触発され、彼はさらに何枚か撮った。彼女が運転席から出て来るところを、低い位置から彼は写真におさめた。開いたままのドアのかたわらに立ち、ふたりはデソートの運転席を見た。
「私は運転免許を取ったのよ」
 夏子が言った。
「運転してみたいわ」
「させてくれますよ。今度、頼んでみます」
 冬彦は運転席のドアを閉じた。デソートの前でさらに一枚だけ撮り、ふたりはヨシオの家の庭を出た。下北沢の駅に向けて、ふたりは歩いた。
「私は代々木上原までいくの」
 夏子が言った。
「ピアノを教えに。四歳の女の子。日曜日だからお父さんもいっしょに習うの。だから今日は、ふたりに教えるのよ」
 駅の南口までいき、
「写真が出来たらちょうだいね」
 と夏子は言い、階段を上がっていった。そのうしろ姿の良さを、一枚だけ冬彦は写真に撮った。そして彼はそこから代沢を経由して三軒茶屋まで歩いた。三軒茶屋では写真を撮って一時間ほど過ごし、若林まで歩き、そこから玉電に乗った。豪徳寺までいって玉電を降り、ひとしきり歩きまわって写真を撮ったあと、ふたたび彼は玉電に乗った。終点の下高井戸までいき、そこでも写真を撮り、明大前を経由して井の頭線で下北沢まで戻った。夕方になる前に自宅に帰り、冬彦は撮影したばかりの何本かのフィルムを自分で現像した。彼の部屋の北側に物置があり、そこは暗室に改造してあった。そして夕食のあと、彼は印画紙にプリントする作業をおこなった。


 次の週の金曜日、島村冬彦がかよっている私立高校は、全校が休みだった。先週に撮影した伊東夏子の写真のプリントを、彼は金曜日にすべてやりなおした。満足出来るものを仕上げた彼は、次の日、土曜日、夏子の自宅へプリントを持っていった。このときも彼は写真機を肩にかけていた。
 夏子は在宅だった。庭へ冬彦を招き入れた。居間の外に、広い庭に面して、煉瓦れんが敷きになったスペースがあった。何本かの柱で支えられて、そのスペースのぜんたいにガラスの屋根が平たくあった。大きな窓のように、屋根のぜんたいはいくつもの四角に仕切られていた。両親はいま外出している、と夏子は言った。
 煉瓦敷きのスペースに置くためのテーブルと椅子があった。その椅子にふたりは向き合ってすわった。今日も晴れていた。五月の明るい陽が、ガラス越しにふたりに降り注いだ。冬彦が持って来たプリントを、その光のなかで夏子は見た。
「素晴らしい写真だわ」
 と言い、何枚ものプリントを彼女は繰り返し観察した。
「私のことが良く撮れているから、そう言うのではないのよ。これは素晴らしい写真よ」
 さらに時間をかけて、夏子はプリントを見た。
「いい写真だわ。うまいのね。私としては、まるで映画スターのような気持ちで、この写真ぜんぶにサインをしたくなるわ」
 そう言って夏子は笑い、
「今日も写真機を持ってるのね」
 と言った。
「撮らせてください」
「撮って」
 冬彦は彼女を写真に撮り始めた。たいへんいいモデルだ、と彼は思った。顔や体の造形が美しいだけではなく、写真機に対する反応のしかたが、鋭く正しかった。そして写真に撮ると、伊東夏子という女性は、完全に別の存在となった。現実の夏子をきれいに離れて、写真のなかの夏子として、虚像は独立した。プリントしながら暗室のなかで感じたことを、撮影しながら冬彦は確認した。
 テーブルと椅子を陽ざしのなかに持ち出し、直射する光のなかで彼は夏子を写真に撮った。六月になると光はさらに明るい。日本では六月に太陽はもっとも高くなるからだ。六月の光について冬彦は思い、その思いは梅雨の雨につながった。梅雨の雨と夏子。いいのではないか。撮りたい、と彼は思った。場面がいくつか、彼の想像のなかに見えた。
 撮影の途中で夏子は家のなかへ入った。丈の高いグラスに氷を加えたカルピスを入れて、彼女は持って来てくれた。彼は椅子にすわってそれを飲んだ。向かい側にいる夏子の視線と声を、陽ざしをフィルターのようにして彼は受けとめた。
「写真を撮るのが、ほんとに好きなのね」
「写真に撮るとどうなるのかを見るのが、好きなのです」
「そのためには、たくさん撮らなくてはいけないわね」
 夏子は言った。脚を組みかえると、彼女の白いひざや向こうずねが、陽光を反射させた。
「私を写真に撮ると、どうなるの?」
 という夏子の質問に、冬彦は、
「別な物語になります」
 と、答えた。
「別の、いくつもの物語です」
 冬彦の言いかたは、夏子につうじた。
「現実の私はひとりで、物語もひとつしかないのに」
 冬彦がカルピスを飲んでいるあいだに、夏子は家のなかに入り着替えをして来た。服がややあらたまったものになり、髪や化粧も整えなおしてあった。夏子には外出の予定があるのだろうか、と冬彦は思った。
「お出かけですか」
 と、彼は聞いてみた。
「いいえ」
 夏子が美しく首を振るのとほとんど同時に、玄関のチャイムの鳴る音が、家のなかから聞こえてきた。
「残念だわ」
 夏子が言った。
「ピアノの時間。現実の私は、小さな女の子たちの、ピアノの先生なのよ。そして、大学の三年生」
 夏子は庭から玄関の前へまわっていった。五歳くらいの女の子とそのお母さんが、玄関に立っていた。夏子と彼女たちは、親しく挨拶あいさつを交わした。そして夏子は冬彦に向きなおり、
「写真が出来たらまた見せてね」
 と言った。冬彦が持って来たプリントの入っている封筒を掲げ、
「これは、どうもありがとう」
 と、夏子はつけ加えた。
 夏子と別れたあと、気のすむまで冬彦は歩き、写真を撮った。そして自宅へ帰った。夕食までの時間をフィルムの現像にあて、夕食のあとはプリントをおこなった。露光した印画紙を現像液にひたすと、液の底から印画紙の表面に、夏子という美しい謎がいくつも立ちあらわれた。
 小さい女の子たちにピアノを教えている、と夏子は言った。夏子が弾くピアノの音を、一軒おいて隣りに住みながら、これまで一度も聞いたことがない事実について冬彦は思った。
「離れが防音なのよ」
 二度めの写真を夏子に進呈したとき、彼女は彼に説明した。
「私のピアノの練習のために、両親が建ててくださったの。音は聞こえないでしょう」
 大学へ通いながら、小さな女の子たちに夏子はピアノを教えていた。土曜日には自宅へふたりの女の子が来る。日曜日には相手の家まで教えにいく。大学は三年だから講義は少なく、しかもすべては午後からだ。夏子自身がピアノを習ったのは三歳からで、最初に鍵盤けんばんに指を触れて音を出したとき、あ、これは好きだ、と思ったという。
「大人になったら先生になるのがいいかな、と私は思ったの。音楽の先生」
 冬彦は三度、そして四度と、夏子を撮影した。夏子も熱心につきあった。写真を撮る撮られるの関係は、ほどなくふたりのあいだで習慣のように定着した。写真のための服や靴を、夏子はさまざまに用意した。髪のスタイルや化粧も数多く試した。服をほんの少し変えることによって、写真のなかの夏子の物語が劇的に変化することに、冬彦は強くかれるものを感じた。
 梅雨の雨になった。雨と夏子。十五歳の少年にとっては、手にあまる主題だ。梅雨になってからの最初の撮影のとき、冬彦と高校でおなじクラスのヨシオが、初めて加わった。ヨシオにとっても夏子は、幼いときからの近所での顔見知りだった。雨の日曜日の午前中、三人は撮影にいった。世田谷代田の駅の向こうに、地元の人たちは根津山と呼んでいる、いくつものほどよい起伏がひとつにつながった雑木林の丘があった。そのなかに何本かの道があった。梅ヶ丘の駅のすぐ近くまで、その丘づたいにいくことも出来た。人の手のさほど入っていない、漠然とした丘だ。工夫によっては面白い写真が撮れるかもしれない、と冬彦は思った。
 ヨシオはきれいな模様の和傘をさしていた。これを使うといいと彼は冬彦に言い、傘を夏子と交換した。梅雨の雨が降る雑木林の丘を、夏子は良く似合う和傘をさして歩いた。その様子を冬彦は数多く撮った。冬彦にヨシオが傘をさしかけた。ひとしきり撮影してから、
「水着だといいね」
 と、ヨシオは言った。
「水着にあの傘でここを歩いていると、写真として不思議さはいっきょに高まる」
 ヨシオの言葉を受けとめ、写真として想像し、
「それは当たり前だよ」
 と、冬彦は言った。
「当たり前なら撮ってみろ」
「不思議にならないほうがおかしい」
 水着の夏子を写真に撮るというテーマが、それ以来、冬彦の頭の片隅に住みついた。
 梅雨が明けた。夏になった。海へいけば水着の写真を撮ることは可能だ、と冬彦は思った。夏子を誘って三人で海へいくことを、冬彦はヨシオと相談した。ヨシオは乗り気だった。夏子の都合のいい日を選び、その日にきめた。午前十時に冬彦の家の前で落ち合うことにした。
 当日、午前十時ちょうどに、ヨシオは父親のデソートを無免許で運転し、冬彦の自宅の前まで来た。車を降りた彼は、自分で手書きした一枚の略地図を、夏子に渡した。ヨシオの父親の親友であるハリー中村という人の葉山の自宅までの道のりが、その地図には描いてあった。道順を彼は夏子に説明した。
「僕たちは電車でいきますから、夏子さんはこの車で来てください」
「私だけが車でいくの?」
「ひとりで運転して走ってみたいでしょう」
「そう言われると、むしょうにそんな気分よ」
「ではそうしてください」
 夏子がデソートで出発していくのを見送ったあと、冬彦とヨシオは下北沢の駅まで歩いた。電車を乗り継いで葉山へ向かった。葉山の駅前からバスに乗った。そしてお昼前に、彼らふたりはハリー中村の自宅に到着した。夫妻が上機嫌でふたりを迎えた。彼らには子供がなかった。夏子が正午に到着した。ハリー中村の自宅の庭にはプールがあった。絵に描いたように晴れて暑い夏の一日を、そのプールで泳いで過ごすというのがヨシオの計画だった。
 客用の部屋がひとつ、夏子にはあてがわれた。全員で昼食を食べたあと、夏子はその部屋で水着に着替えて庭に出て来た。その夏子を見て、まるでムーヴィ・スターだと言ってハリー中村は喜んだ。冬彦は彼女を写真に撮り、その様子をヨシオが第三者として観察した。場面やアングルを、ときたまヨシオは冬彦に提案した。ハイヒールのミュールを履いてプールの縁になにげなく立っている夏子のうしろ姿の全身を、芝生にしゃがんだ低い位置から撮るというような提案だ。
 夏子の写真を撮り、泳いで遊び、さらに冬彦は写真を撮った。水のなかからプールの縁へ上がるときの夏子のうしろ姿を、プールの反対側からとらえることも、ヨシオが提案した。全身から水をしたたらせながら、両腕の力だけで自分の体をプールの縁へ引き上げる夏子の動きが、途中まで完成していったんそこで静止する瞬間を、ヨシオはシャッターのタイミングとして冬彦に指示した。
「海よりもプールのほうが、はるかに写真的だよ」
 というヨシオの意見に、冬彦は同意せざるを得なかった。
 ハリー中村夫妻を加えて、五人で記念写真を撮った。光の角度を選んで位置をきめ、ポーズを作った。冬彦は三脚を立てた。画角をきめセルフ・タイマーをかけ、冬彦は自分の位置へ小走りに戻った。もう一枚撮ろう、とヨシオが言った。今度はヨシオがタイマーをかけにいった。タイマーをかけてシャッター・ボタンを押し、四人のところへ戻ると思わせながら、途中から彼はプールへ走って、水へダイヴした。四人が揃ってプールのほうに顔を向けているとき、シャッター・ボタンが落ちた。夕方、庭でバーベキューをした。デソートは置いたままにし、三人は電車で帰った。
 その夏のほとんどを、三人はともに過ごした。暑くるしい街のなかでも夏子を撮るべきだとヨシオは提案した。その提案に沿って、銀座、有楽町、五反田、日暮里、新宿などを連日のように歩きまわり、街のなかの夏子を冬彦は写真に撮った。浦安へもいき、仕上げは三人で日帰りした内房の小さな町とその海岸だった。海岸ではヨシオは冬彦を水着の夏子の前に立たせ、彼女のあごのすぐ下から両肩の広がりをへて胸板までを取り込んで、海を背景にして西陽のなかで撮影させた。どう撮れているかぜひとも見たい、と彼は言った。
 三人にとって等しく鮮明な輪郭を持った夏は、あっさりと終わった。薄れていく残暑のなかに、秋がごく淡く重なり始めた。冬彦は十六歳になった。


 十月に入ってから夏子は冬彦に頼みごとをひとつした。友人が見合いをすることになり、先方に渡す写真が必要になった。気楽なスナップ写真を自分のアルバムから探したけれど、いいのがない。五、六枚取ってほしいと言っているけれど、引き受けてもらえないか、という頼みだった。冬彦は引き受けた。十月初旬の土曜日の午後を使って、冬彦は夏子が連れて来たその女性を、何枚ものスナップ写真に撮った。出来上がった写真は夏子を経由してその女性に渡った。彼女はとても喜んでいた、と夏子は冬彦に伝えた。
 なかばにはピアノの発表会があった。夏子が教えている女の子たち五人の発表会だ。彼女たちの親のひとりが、成城学園の教会を会場として借りる話を取り付けた。その発表会に冬彦も出席した。参加者たち全員の写真を、場面ごとにまんべんなく撮る写真家の役を、彼は引き受けることとなった。五人の小さな女の子たち、それに彼女たちの両親や兄弟そして姉妹たちなどが集まり、会場はかなりにぎやかになった。祭壇の前にグランド・ピアノが出してあり、そのピアノを大きく半円形に囲んで、出席者たちのための席が作ってあった。
 子どもたちの世話をしているドレス姿の夏子は、冬彦にとって新しく発見する魅力だった。独奏を披露する前の女の子たちを、夏子はひとりずつ巧みに落ちつかせていた。女の子たちの誰もが、夏子を信頼していた。発表にはさまざまな形式があった。ぜんたいは学芸会の劇を音楽を中心にして組み立てたような雰囲気で、参加者たちは楽しそうに興じた。夏子の両親も見に来ていた。冬彦は忙しく写真を撮った。
 発表がひととおり終わると、先生も弾いてください、と女の子たちが希望した。親たちの拍手がごく自然に重なり、夏子はピアノまで出ていった。ストゥールにすわって参加者たちをひとわたり笑顔で見渡し、いきなり弾き始めた。冬彦は題名など知らないし、幼い娘たちといっしょに来たどの親も知らないはずだが、『ストンピング・アット・ザ・サヴォイ』に『プア・バタフライ』そして『アフタ・ユーヴ・ゴーン』の三曲を、夏子は続けて弾いた。女の子たちが弾いた練習曲とはまるで異なった世界が、夏子の両手の指から始まってピアノを経由して、会場に解き放たれた。夏子が体の底で感じている音楽がそのままに表現されたものだ、と冬彦は判断した。誘ったのだが来ることの出来なかったヨシオに、これはぜひ聴かせたかった、と冬彦は思った。夏子が弾き終わり、盛大な拍手があった。
 夏子は簡単に挨拶あいさつし、発表会はそこで終わりとなった。あとはお茶とお菓子で歓談だ。それも終わると、親たちは会場の整理を手伝い、帰っていった。最後には夏子と冬彦のふたりが残った。いっしょに教会を出て駅まで歩いた。駅に入ってプラットフォームへ降りていき、ベンチにならんですわった。
「疲れたでしょう」
 楽しそうな笑顔で、夏子は冬彦に言った。
「ピアノがうまいのですね」
「たいしたことないのよ」
「ジャズですか」
「そうね。私ふうのジャズかしら。トレーニングを受けたのはクラシカル・ピアノだけど、自分で弾くならジャズかな、と思ってるところよ」
「女の子たちが、あとで真似して遊んでいましたね。足でリズムを取るところなど」
「写真はうまく撮れた?」
「撮れました」
「プリントするのが大変ね」
「ピアノを弾いているところを、撮らせてください」
「撮って。あの防音の離れへ、私のジャズを聴きに来て」
「いつですか」
「いつでもいいわ。たとえば、今度の土曜日。午後から。三時に最初の女の子が来るから、それまでなら。そして、よかったら夜でも」
 夏子が言ったとおり、次の土曜日の午後一時過ぎに、冬彦はヨシオとともに夏子の家へいった。玄関に出て来た夏子は、ふたりを庭から離れへ招き入れた。ふたりがその離れにいたあいだずっと、夏子はピアノでジャズを弾きとおした。続けて何曲でも弾いた。ヨシオは壁にもたれて聴いていた。冬彦はピアノを弾く夏子を写真に撮った。夏子のピアノに圧倒されたまま、ふたりは三時前に夏子の家を出た。
 ヨシオの家の方向に向けて、ふたりは歩いた。家の建物が取り壊され、玄関への石段だけが残っている敷地の前を、ふたりはとおりかかった。ヨシオはその石段にすわった。
「まいったなあ」
 と、ヨシオは言った。夏子のピアノに対する、ヨシオなりの感嘆の表現だった。
「どうしたんだ」
 立っている冬彦が聞いた。しばらく黙っていたヨシオは、やがてゆっくりと首を左右に振った。そして、
「ふたたび水着だ。それしかない」
 と言った。
「どういう意味だい」
 冬彦が聞いた。
「水着でピアノを弾いているところを撮れ」
 顎に片手を当て、地面に視線を伏せて、冬彦は考えた。
「夏の写真を早くくれよ」
 思案している冬彦を見上げて、ヨシオが言った。
「ぜんぶ出来てる。家にあるから、いま渡すよ。いこう」
 促されて、ヨシオは立ち上がった。
 夏子の家の前を歩き、ふたりは冬彦の家まで戻った。冬彦は家のなかへ入っていき、ヨシオは外で待った。冬彦はすぐに出て来た。ふくらんだ大きな封筒を冬彦はヨシオに渡した。夏にハリー中村の自宅のプールで撮った写真のすべてだ。
 自宅に帰って、ヨシオはその写真を見た。自分が指定したポーズやアングルの写真が、狙いどおりに撮れているかどうかを彼は確認した。冬彦の理解度は鋭く高いことを、ヨシオは認識した。だから彼は、写真の出来ばえに満足した。自分がセルフ・タイマーをかけてプールに飛び込んだ写真では、ほかの四人の誰もがプールに顔を向け、しかも全員が笑っていた。
 冬が来て、春になった。夏子は大学の四年生、そして冬彦とヨシオは、おなじクラスのまま、ともに高校の二年生に進級した。夏子の二十二歳の誕生日に、冬彦は彼女の写真を撮った。昨年の誕生日から始まったこの一年間の夏子の写真が、早くもたいへんな量になっていることを冬彦は自覚した。


 夏子が水着姿でピアノを弾いている場面を写真に撮る試みは、その年の五月に実現した。実現に向けての助走路は、ヨシオの部屋でおこなった冬彦の写真展だった。壁に写真をたくさん貼って眺めてみよう、とヨシオは冬彦に提案した。ヨシオが住んでいる平屋建ての家はL字形になっていた。南北にのびている部分の南の端がヨシオの部屋だった。そしてその部屋は二十畳の広さがあった。北側の壁は、本棚をひとつ移動させると、ドアを別にしてそのほかの部分が、すべて壁だけとなった。その壁に、冬彦が厳選した夏子の写真を、出来るだけ多く、しかしバランス良く、押しピンで留めた。
 壮観だった。冬彦にとっては初めての体験だ。一枚の壁に貼った何点もの写真を見渡しながら、夏子という女性の魅力をふたりの少年は確認しなおした。
「写真もうまいよ。しかし、モデルはもっといい」
 というのがヨシオの結論だった。
 夏子に見てもらった。彼女は喜び、熱心に見た。その様子を冬彦はさらに写真に撮った。選び抜いても夏子の写真はたくさんあり過ぎた。一度には貼れなかった。冬彦とヨシオのふたりで写真をすべて貼りかえ、ふたたび夏子に見せた。
「ほんとに、一枚ずつが物語なのね」
 と、夏子は言った。
「被写体はこの自分なのに、この人はいったいなになのかしらと、自分でも不思議に思うわ」
「また水着姿を撮りたいそうです」
 ヨシオが言った。
「撮ってもらうのよ」
「水着姿でピアノを弾いているところです」
 夏子は面白がった。
「グランド・ピアノは大きな黒いまとまりです。鍵盤が端正な白で、夏子さんの髪と水着が、黒です。そして肌が、端正な白です。靴は、どうしますか」
「ハイヒールね。黒でしょう」
 すべて用意しておく、と夏子は言った。
「でも、両親が留守のときがいいわね。今度の土曜日の午後、おそらく夕方まで留守よ」
 そしてその土曜日、冬彦は写真機とフィルムを持って、一軒おいて隣りの夏子の家へいった。夏子がひとりでいた。両親は予定どおり外出した、と彼女は言った。冬彦はヨシオを呼びにいった。彼は自宅にいなかった。冬彦が夏子の家へ戻ると、夏子はすでに水着姿だった。
 ジャズを弾き続ける夏子を、冬彦は写真に撮った。充分過ぎるほどに撮ったあと、庭に出て庭でも撮影した。そのあと屋内に入り、廊下、洗面室、キチン、そして居間などでも水着の夏子を撮った。居間のソファに水着ですわっている夏子をファインダー越しに見ると、不思議な写真の出来上がりを冬彦は確実に予測することが出来た。
 二日後、冬彦が持って来た何枚ものプリントを見て、ヨシオは言った。
「人が水に入るということが、そもそも奇妙なんだ。水には裸で入ればいいのに、水着という専用の服を作って身につける。しかし、水に入るための専用の服である水着を身につけた美しい女性が日常の場にいると、一枚の水着がすべてのものを奇妙な世界にしてしまう。美しい顔立ちと姿態の女性だと、その奇妙さには強調の縁取りが加わる」
 ヨシオの意見に冬彦も同感だった。キチンや居間での写真を示して、ヨシオはさらに言った。
「ひとしきり水着を撮ったら、次はヌードだ。水着を越えて、ヌードも面白いはずだから」
 ヨシオの言葉を受けとめてみ砕き、冬彦は飲み込んだ。そしてうなずいた。
 夏子の誕生日からスタートする四季の移り変わりは、冬彦にとって今年は二度めの体験だった。だから昨年よりも自覚的に、四季に沿って冬彦は夏子を写真に撮った。四季とともにある夏子。四季の体現者としての夏子。その四季のなかに自分もいる。夏子と自分とを結ぶもの、それは日付とともに進行していく季節だ。そのことを強く感じながら、冬彦は夏子を写真に撮った。夏子という人の生理的な内面が季節感とうまくつながって写真になると、その写真を撮る人である自分は、より強く夏子とつながっていく、と冬彦は思った。
 夏子とともに、あるいは夏子をとおして、写真に写し取る季節感を意識することは、物語の背景をより明確にすることでもあった。桜が散り始めた日。このままいつまでも夏が続くように思えた、もっとも夏らしかった一日。背景として連続するそのような日々がくっきりとすればするほど、そのなかでの夏子の物語は謎になった。この美しい人は、いったいなになのか。この女性はなにを思っているのか。なにをめざしているのか。なににどう笑い、なにに泣くのか。いつもどこでなにをしているのか。写真に撮ると謎を感じさせる彼女は、撮るたびに謎であることを深めた。
 夏が終わって秋になった。昨年の秋の夏子の写真と、つい昨日の夏子の写真とを、冬彦は見くらべた。その二枚の写真のあいだに、一年というすでに経過して去った時間のへだたりがあった。本当にそんなことがあったのだろうかと思わざるを得ないほどに、一年という時間の経過速度は速かった。一年というへだたりは、夏子の内部に蓄積されたのか。昨年の謎と今年の謎とのあいだに、その蓄積が見えるだろうか。二枚の写真をどう観察しても、冬彦にとっては両者ともに謎だった。
 昨年の夏子の誕生日から、今年の誕生日までのあいだに撮った夏子の写真を、冬彦は整理してみた。時間順にならべ、厳選して選びだした数多いプリントを、彼は一冊の分厚いアルバムに貼ってみた。ごく淡い上品なブルーの色のついた台紙に、さらに淡いブルーの薄い覆い紙がページごとについていた。選び抜いてそれぞれのサイズをきめ、冬彦は全点をプリントしなおした。そしてアルバムに貼り込み、完成させた。そのアルバムを彼は何度も見た。写真に撮るとは、いったいなになのか。それはとにかく記憶だろう、と彼は思った。このアルバムのなかの夏子は、もはやどこにもいない。刻一刻かたっぱしから彼女は消えていくのだから、自分としては撮り続けるほかない。そのような結論に到達したあと、そのアルバムを冬彦は夏子に進呈した。


 年が明けた。春が来た。夏子は大学を卒業した。そして冬彦は、誕生日の夏子を写真に撮ることの三度めを体験した。写真を撮ったあと、ふたりは話をした。夏子は自分について語った。
「先生にはならないことにしたの」
 と、彼女は言った。
「なるときが来るかもしれないわ。でも、いまはまだ、そのときではないのよ。幼い子供たちの相手よりも先に、自分のことをしないと。自分のことは、まだまったく出来てないの。あなたからもらったあのアルバムを見ながら、私は考えたの。自分とはなになのか。自分がしたいことは、いったいなになのか。私になにがあるの? 私になにが出来るの? 私はあなたの専属モデルよ。そしてピアノではジャズを弾きたいの」
 冬彦とヨシオは、夏子の家の防音の離れをしばしば訪れた。大学を卒業したあとなにもしていない夏子は、女の子たちに引き続きピアノを教える時間以外は、彼女の自由に使うことが出来た。冬彦とヨシオは夏子の弾くジャズを聴いた。ピアノでジャズを弾くことを、自分はレコードをとおしてひとりで学んだ、と夏子は言っていた。壁の棚にはレコードがたくさんあった。ジェイ・マクシャン。ドド・マーマローサ。アート・テイタム。エロール・ガーナー。フランキー・カール楽団。リズム・アンド・ブルースのEPも数多くならんでいたし、グレン・ミラーもあればチェット・ベイカーやバルネ・ウィランもあった。夏子の部屋を訪ねて彼女のジャズを聴くことは、冬彦とヨシオにとって、なにも知らないジャズについて少しずつ知っていくことでもあった。
 ピアノ・ロールを真似たホンキートンク・ピアノ。ブギウギ。ブルースの感触を色濃く持った曲。ロマンティックな曲のきわめて甘い処理。バップ。明快な抽象性に裏打ちされたスイング・ピアノ。小粋な曲の小粋な解釈。さまざまなスタイルで夏子は彼らに演奏を聴かせた。
「いちばん好きなのは、こういうピアノなのよ」
 そう言って彼女は、棚から一枚のレコードを抜き取ってふたりに見せた。エディ・ヘイウッドという人が、ドラムスとベースのトリオで演奏しているLPだった。A面の最初の曲を彼らに再生して聴かせた夏子は、次には自分のピアノで、そっくりに演奏してみせた。
「いまのは、物真似。でも、こんなのが私は好きなの。カクテル・ピアノって、知ってる? カクテル・ピアノすれすれのジャズ・ピアノを、ひとまず私は目指すわ」
 覚えた曲は何回でも繰り返して弾き、その曲の内部の成り立ちを隅々まで知り抜く。それが夏子の演奏の土台になっていた。自分の音楽をピアノで作っていくにあたっての、基本的なルールだ。覚えたものはすべて彼女の体のなかにあった。彼女の体のなかから、今度は彼女自身の演奏が外へ出て来る。そしてその音がふたたび彼女に戻っていくとき、違和感が少なければ少ないほどいい。自分が作る音楽のなかに、あ、これだ、と自分を発見する。自分は充実感を、そして聴いているほかの人たちは、なんらかの意味で快感を感じてくれるなら、そこがおそらく到達点だろう、と夏子はふたりに語った。
「私がピアノを教えている女の子のお父さんに、レコード会社のかたがいるの。冬彦くんが来てくれた昨年の発表会で、私のピアノを聴いてくださったの。レコードを作らないか、というお話を私はそのかたからいただいてるのよ。ピアノ・ソロで、ジャズのスタンダード集。ひょっとしたら、リズム・セクションがつくかもしれないの。ご返事は保留してあるけれど、曲は選んでみてるの」
 夏子以外の女性も写真に撮れ、とヨシオは冬彦に言った。
「なにかのための写真なら撮れるよ。目的のきまっている写真。いつだったか夏子さんの友人に頼まれた、お見合い用の写真みたいに」
「それ以外には、撮れないのか」
「夏子さんを撮るようにしか、いまの僕には撮れない」
「だったら、夏子さんに集中したほうがいいね」
「ほかの人を撮る余裕はない」
「夏子さんのヌードは? 夏子さんのヌードを撮ったら、ほかの女性を撮る余裕が生まれるかもしれない」
「ものには順番というものがあるよ」
 というのが冬彦の返答だった。
 春が終わった。梅雨の雨になり、それもやがて終わり、夏が来た。高等学校は夏休みとなった。来年は卒業だ。卒業したあとのことについて、冬彦とヨシオは、考えていることをおたがいに照合し合った。冬彦は芸術学部のある大学へいき、写真を勉強するという計画だった。ヨシオには、時間稼ぎが必要、という自覚しかなかった。受験科目が三科目だけの私立大学を早い順に受験していき、どこでもいいから受かったところへいく、と彼は言った。
 受験のための勉強は秋から、ということにふたりで勝手にきめた。だからその年の夏は、時間が止まったような夏となった。このままずっとこうなのではないか、としか思えない日が続いた。そしてそのような日々は、ある日のこと、ふと終わった。
 秋にはふたりとも勉強を始めた。高校のパン店をやめ、下北沢の美容院に仕事をかえた高木節子は、府中にあるアメリカ軍の基地の学校で勉強していた。秋は思っていたよりずっと早くに進んでいき、冬になった。次の年になるとすぐに、受験が始まった。冬彦は目標としていた大学の学部に合格し、ヨシオも最初に受けた私立大学の法学部に合格した。ふたりは高等学校を卒業した。


 五月に高木節子はハワイに移住した。彼女がひとりで住んでいたアパートメントの部屋を、そのままヨシオが引き継いで住むことになった。自宅からすぐ近くの、彼にとっての別室だ。独立に向けての助走路のなかに見つけた、最初の拠点のような部屋だ。
 冬彦がしばしばその部屋を訪ねるようになり、彼もその部屋を気にいった。どれかひとつ部屋は空かないだろうか、と冬彦はヨシオに聞いた。八つある部屋のどれもが、いまは埋まっていた。五月にひとつ空く予定だった。予定はのびて、六月にその部屋は空いた。冬彦がその部屋を借りることになった。厚いヴェルヴェットのカーテンを自宅から持って来て居間の半分近くを仕切り、そこを暗室にした。部屋代やフィルムを買うおかねのためにアルバイトをしなくてはならないと冬彦は言い、写真に関係した技術系のアルバイトを探し始めた。
 七月なかば、まだ梅雨は始まっていない曇った日の午後、伊東夏子はアパートメントの冬彦の部屋へ来た。冬彦の部屋での、最初の撮影をおこなうことになっていた。夏の薄いスカートに半袖はんそでのシャツという、なんの変哲もない服装の夏子を、二階への階段やキチンの奥の食事のためのスペースで、冬彦は写真に撮った。
 二階の寝室へ上がり、そこでも撮影した。寝室には冬彦のベッドがあった。窓にヘッドボードを寄せてシングル・ベッドがあり、ドアのある壁に接して、ベンチともテーブルともつかない横に長い台があった。作りつけのクロゼットを別にすると、寝室の家具はいまのところそれだけだ。ベッドにすわったりなかば横たわったり、さまざまなポースをとる夏子を、冬彦はひとしきり撮った。そして、
「ヌードは撮らないの?」
 と、夏子は聞いた。
「撮りたいです」
 冬彦は答えた。
「私のヌード」
「撮りたいと思っています」
「裸はいつ撮ってもらえるのかなあ、と思ってたのよ。いま撮って」
「撮ります」
 スカートのポケットから夏子はハンカチを取り出した。縁がレースになっている白いハンカチを広げ、左右の頬、そして額などを、彼女は軽くおさえた。ベッドの縁にすわって冬彦と向き合った彼女は、自分のかたわらにハンカチを置いた。そしてシャツのボタンを上からはずしていった。
「脱いでいくところから撮って」
 窓から入って来る光は、見た目よりもはるかに明るかった。ボタンをすべてはずし、すそをスカートのなかから引き出していく夏子を、冬彦はその光のなかで写真に撮った。シャツを脱いで上半身はブラジャーだけとなった。スカートの脇のジパーを下げ、一瞬だけ腰を上げてその下からスカートを抜き取り、両膝りょうひざを越えて彼女はスカートを足もとへ落とした。
 冬彦が自分に向けて構えている写真機のレンズを、夏子は見た。写真に撮るときわめて純度の高い謎となるはずの、淡く美しい微笑を彼女は浮かべた。背中に両手をまわし、フックをはずし、彼女はブラジャーを取った。フロアの上にあるシャツとスカートの上に、ブラジャーも落とした。彼女を斜めに見上げる位置に膝をつき、冬彦は夏子を撮った。フロアに腹ばいになってさらに撮り、立ち上がってショーツを脱ぐ彼女の一連の動作も、低い位置から彼はフィルムに収めた。
 裸になった夏子は、ベッドから立ち上がった。窓へ歩き、その前に立った。開いてある窓の枠に両手を軽く置き、まっすぐに立って彼女は外を見た。うしろ姿を、冬彦は撮影した。胸と腹との中間あたりの高さの窓枠に、夏子は両肘りょうひじを載せた。裸の上体は窓枠に対して少しだけ前かがみとなった。片方の脚から緊張を抜いてポーズをわずかに変えると、裸の夏子のうしろ姿の物語は、まったく別のものになった。そのような様子も彼は逃さなかった。上体をひねり、夏子は彼を振り返って微笑した。台を寄せてある壁に体をつけて、斜め横からその夏子の全身を、冬彦は撮った。写真機に入っていた何本めかのフィルムは、そこで終わりになった。彼はフィルムを巻き取った。
 夏子は窓から彼のかたわらへ来た。彼の腕を取って、ベッドへ導き、そのかたわらで彼と向き合って立った。
「私はこんなに裸なのよ」
 夏子は言った。
「あなたも裸になって」
 そう言って彼女は彼のシャツのボタンをはずし始めた。ボタンをすべてはずし、シャツのなかに両手を差し込み、彼の肩から背中へと両手を滑らせていき、シャツを脱がせた。シャツはフロアに落ち、夏子の脱いだ服となかば重なり合った。
「脱いで」
 夏子は彼のチノ・パンツを示した。彼はベルトのバックルをゆるめ、チノ・パンツを脱いだ。トランクス一枚になった彼のかたわらで、夏子はベッドの縁にすわった。隣りにすわった彼を、夏子は横から抱いた。ベッドの縁にすわったまま、ふたりは抱き合った。抱いた彼を自分に向けて引き寄せつつ、夏子は自分の上体をベッドに向けて倒した。ふたりともベッドの縁からフロアに向けて両脚を残したまま、シーツの上に横たわった。
「ベッドに脚を上げて」
 抱いている彼に夏子はささやいた。両脚をベッドに上げて、彼は横たわった。その彼に全身を接し、夏子も裸の体をのばした。ふたりは抱き合い、口づけをした。しばらく続けてから、夏子は唇をかすかに浮かせた。自分の唇を彼の唇と触れ合わせたまま、
「初めて?」
 と、夏子は聞いた。
「そうです」
「私もよ」
 ふたたび口づけの時間が続いた。さきほどとおなじように少しだけ唇を離し、
「私たちは、こうなるべきなのよ」
 と、夏子は言った。
「あなたもそう思う?」
「思います」
「ヌードの次は、これを心配してたのよ。いつなのかなあ、と思って。写真は撮っても、これはないのかしらと思うと、不安だったの。でも、もう心配しなくていいのね」
「はい」
 としか、いまの冬彦には答えられなかった。
 夏子は彼を自分の上に導いた。両脚を開いてそのあいだに彼を迎え、腹から胸にかけての美しい造形の容積の上に、彼を受けとめた。おたがいに相手を抱きなおし、ふたりは口づけを交わした。口づけのままに夏子は右手で彼の肩から背中をで、その手は腰へ降りていき、トランクスの縁からそのなかへ手を滑り込ませた。
「脱ぎましょう」
 その言葉とともに、夏子はトランクスの縁に手の甲をかけ、彼の腰の下に向けて掌を滑らせた。トランクスはなかば脱げた。彼が片手をのばして、トランクスを太腿ふとももまで降ろし、そこからさらに膝まで下げ、あとは両足の動きで脱ぎ去った。
 脚をさらに開いて両膝を立てた夏子は、片肘をベッドについて上体を斜めに起こした。男性の勃起ぼっきというものを、彼女は初めて見た。理にかなったその形状に対する全身での賛意の表現として、夏子は彼の肩に手をかけ、自分に向けて引き寄せつつ、自分もシーツに上体を降ろした。全身を開いて彼を受けとめ、彼の腕に両手を添え、夏子は至近距離の彼の顔を見た。
「入って来て。私に入って来て」
 切迫して囁くその声とともに、夏子の左腕が彼の股間こかんに白くのびた。彼女の手は彼の勃起をとらえた。導く彼女の手の動きに合わせて、彼は腰を進めた。彼の勃起が接した場所の正しさは、初めての彼女にも直感的にわかった。だから彼女は手を離し、両手を彼の肩にかけた。
「入って来て」
 勃起の先端が接しているれた柔らかさの奥行きを、彼は全身を貫く軸で感知していた。そのままの位置で水平に進めると、勃起は下向きに修正されつつ、なかば近くまで彼女の内部に入った。夏子が短く声を上げた。その声に促されて、彼は腰を進めきった。しっくりしていないという判断に反射して、彼は腰を少しだけ引いた。そしてそこから進めなおすと、これ以上ではあり得ないと初めての彼ですら思う状態となった。彼としてはそれ以上にはなにも出来ず、そのままその状態を保つほかなかった。だから彼はそうした。
 彼の下半身には余裕がなかった。下半身は動きを止めて位置を固定したまま、彼は両肘の位置を模索した。自分の体重を自分で支えるための、適正な位置だ。夏子の胸をつぶさないよう、夏子の胸はごく軽く接しているよう、彼は自分の上体を保った。そのようにして上半身が安定したあと、彼は両膝の位置を修正した。両足の指のための足場を、シーツの上に彼は見つけようとした。これはいつもの自分のベッドのシーツだ、と彼は意識の遠い片隅で思った。そしてここは自分の寝室だ。ついさきほどまでは、夏子の写真を撮影していた。そしていまは、おたがいに裸で、こうなっている。
 かたわらに彼は視線を向けた。壁に寄せて台があり、その上に写真機やフィルムがあった。顔を上げて窓を見た。空が見えた。窓から室内に入って来る光は、さきほどまでとおなじだった。自分たちの状態だけが激変している、と彼は思った。自分たち。夏子、そしてこの自分。
 冬彦は夏子を見下ろした。その瞬間、自分の感覚のすべてが彼女に向けて集中していくのを、彼は知覚した。それまではほかのことに気をとられていたが、たったいま、この瞬間から、夏子の内部へ引きずり込まれるかのように、彼の感覚の対象は彼女だけとなった。いまの自分の視線のなかにある夏子の美しさ、そしてその体の優しい端麗な量感に向けて、自分の感覚が急激に流れ始めることに対して、彼は完全に無防備だった。夏子の内部に入っている部分に向けてすべてが流れ込み、それは快感でふくれ上がり、抑制しきれない状態を甘美な瞬間として越えた。そしてすべては深いところから爆発した。
 入っている部分をさらに奥へ進める本能的な動きはどうにもならないとして、それ以外の部分で自分はどうすべきか、冬彦は頭の片隅で考え続けた。両肩から背中へ、そして背中のぜんたいから腰へ、さらに腰を経由して左右の太腿に、ひざに、そして足指まで、可能なかぎりの力を込めることによって、冬彦は射精の反応を受けとめ、それに耐えた。
 ほどなくすべては治まった。夏子を両腕にかかえ上げるようにして抱きなおし、その動きの連鎖的な一端として、
「夏子さん」
 と、彼は名を呼んだ。
「心配しなくていいの。これでいいのよ」
 両腕におたがいを深く抱き込み、胸を合わせて顔を重ね、しばらくふたりはそのままでいた。夏子が体のわずかな動きで伝える意思表示に正しく反応して、冬彦は彼女のかたわらへ横向きに体を降ろした。彼に対して夏子も、体の側面を下にした。横向きに抱き合ったあと、夏子は上体を少しだけ起こした。彼女の片手はハンカチを探し当てた。掌のなかになかば丸め込むように持ち、股間へ深くはさみ、肩をシーツに降ろして彼を抱きなおした。
「私も初めてだから、今日はあまり上手ではないのよ。でも、これから何度も抱いてくれたら、私は上手になるわ。それに、初めてだから少し切れたみたいよ」
 聞こえるか聞こえないかまでに低く落とした声で、夏子はそう言った。
「痛いの。きっと血が出てるわ」
「夏子さん」
「だいじょうぶ。私がついてるから」
 裸の夏子を抱きながら、彼女のいまの言葉の意味をさぐることの不思議さを、冬彦は全身で受けとめた。
「あなたがよちよち歩きのときから、私はあなたを知ってるのよ」
「はい」
「私は五歳年上なのよ。あなたが満一歳のとき、私は六歳だったの。そして私たちは、いまこうなったのね。これは正しいことなのよ」
「僕もそう思います」
「名前からして、私たちは一対なのよ。そして私たちは、好き合ってるのね」
「そうです」
 しばらく抱き合っていたあと、夏子は彼から少しだけ上体を離した。彼の顔と両肩、そして胸板を視界のなかに入れ、彼の鎖骨に指先を触れた。
「私がずっといっしょに住んで来た両親のことを、私は本当の両親だと思っているけれど、本当は違うのよ」
 と、夏子は普通の声で言った。
「そうなのですか」
「本当の父は神戸の有名な実業家で、私は彼のおめかけさんのひとりが産んだ子供なの。そのお妾さんとはとっくに別れて、彼女は独立して彼とはもはやなんの関係もなくて、普通に結婚して子供がふたりいるの」
 冬彦は彼女の言葉を受けとめた。
「私は三歳のときに、いまの両親に引き取られたの。いまの父は本当の父の弟さんで、弟さん夫婦には子供がなくて、引き取った私を実の子として育ててくださったの」
「大事にされているひとり娘だとばかり思っていました」
「みんなそう思ってるわ。そして、私も。本当の父にも母にも、私はもう何年も会ってないわ。父には、会おうと思うなら、いつでも簡単に会えるのよ。でも、母は。本当の母のところへ移る話が、小学生のときにあったの。本当の父が勝手にそうしたがって、母に相談したのね。母が彼に言うには、自分には自分の生活が出来ていて、いまさら夏子の入り込む余地はないということだったの。気持ちはよくわかるわ。いまの両親も反対したし、私はもちろん移る気はなかったわ。私たちのところにいるのがいちばんいい、と両親はおっしゃってくださって、ほんとにそのとおりになったの。私がこっちへ移って以来、神戸の本当の父は、毎月、養育費を送ってくれてるの。もともと多すぎる額だし、使い道はないから、貯めておくほかないのね。いまではたいへんな額になってるわ。両親に使ってもらいたいけれど、両親は両親でおかね持ちだし、堅実な生活だから使い道はないのよ」
「だから防音の離れと、外国製のグランド・ピアノなのですね」
「そうね」
 夏子は体の右側を下にして横たわった。左手で彼女は冬彦の右肩をでた。肩ぜんたいを、そして首を、彼女の手は撫でた。いったん胸へ降りて肩へ戻り、肩から夏子の手は冬彦の腕へと、降りていった。
「写真を勉強して、写真家になるの?」
「そうです」
「なれるわ。そして私は、そのあなたの、専属のモデルよ。必要ならどんなことでもするから、これからも撮ってね」
 夏子は彼に体を寄せた。彼を抱き、胸を合わせ、口づけをした。彼の右腕をひじまで撫で降ろした夏子の左手は、彼の肩へ戻った。そしてそこから胸へと滑っていき、脇の下へ降り、脇腹を指先はたどり、掌は彼の腰に落ちついた。口づけをしながら夏子の掌は彼の腰ぜんたいを撫で、やがて指は股間へまわり込み、彼の勃起をとらえた。
 自分の指に対する彼の反応を、夏子は敏感に正しく感じ取った。とらえかたによる彼の反応の差異を微細に仕分けして、彼がもっとも強く反応するとらえかたを瞬時に的確に選び取り、優しく複雑微妙に、夏子はぜんたいを愛撫あいぶした。夏子は彼の勃起を両手でとらえ、彼を促して自分の骨盤にまたがらせた。冬彦は両腕をまっすぐにのばして夏子の首の両側に手をつき、斜めに起こした自分の上半身を支えた。彼女の指はやがて彼によってれ始めた。濡れた夏子の指や掌が作る摩擦に対する、冬彦の体のもっとも正直な反応は、腰を前後に動かすことだった。彼にとってその動きがどのような意味を持つのか、夏子は正確に知覚した。彼女の両手の指や掌は、その意味により深くこたえた。彼としてはそのまま動くほかなく、動き続けてほどなく、彼女の両手にとらえられたまま、彼女の腹から胸にかけて射精した。
 ハンカチを取って自分の両手や腹を、そして彼をあらましぬぐい、夏子は彼の両肩に手をかけた。彼の上体を自分に向けて引き降ろし、深く抱いた。両肘で上体を支えつつ、夏子の胸から下腹にかけて、彼は自分を重ねた。
「三日くらいあとに、また私を抱いて」
 と、夏子は言った。
「その頃には、もう痛くないと思うから」
 ふたりは抱き合ったままでいた。夏子の首の下にある自分の左腕の位置を、夏子にとってもっと楽なように冬彦は修正した。枕の位置もなおし、その上に夏子の頭が載るようにし、自分の左腕を枕の縁に沿わせた。
「いまの私を撮って」
 夏子が言った。
「撮っていいのですか」
「撮って」
 夏子の腕を離れた冬彦は、彼女の裸の体を越えてベッドからフロアに降りた。壁に寄せた台に向かい合って立ち、巻き戻したままのフィルムを冬彦は写真機から取り出した。そしてあらたにフィルムを装填そうてんし、あお向けに横たわる夏子の顔を中心に明るさを計った。光量は充分にあった。
「私にまたがって」
 夏子に言われるまま、冬彦は写真機を持って彼女の骨盤にまたがった。両足と両膝で自分を支え、上体をまっすぐに立て、冬彦は夏子を見下ろした。初めての体験という緊張を向こう側へくぐり抜け、いまはその緊張がほどよく溶けたなかに浮かんでいる夏子は、十八歳の冬彦にはどうしていいのかまるで見当もつかないほどに、美しかった。自分の未来のすべてを、このひとりの女性はすでに知っているのではないか。そんな思いが、一瞬、冬彦の知覚の内部を走り抜けた。その思いは戦慄せんりつに似ていた。彼の全身に鳥肌が浮かんだ。
 彼の太腿ふとももに夏子は両手を添えた。その感触の引き起こす興奮が股間こかんに集まってひとかたまりになるのを、冬彦は自覚した。斜めに見下ろすいまの夏子は、ファインダー越しに構図を作るまでもなく、あらゆる部分が美しさとして完結していた。その様子を彼は写真機をとおして、フィルムに写し取った。顔を傾ける角度の微妙な変化ごとに、完全な夏子があった。だから冬彦は、その微妙な変化ごとに、シャッター・ボタンを押さなくてはならなかった。
 表情の変化。枕の上でのけぞる角度。右の横顔、左の横顔。のどを魅力の中心にした首という不思議な円柱。乱れた髪から鎖骨までを画面に取り込む。両肩まで広げる。胸板まで入れる。胸のふくらみのスロープとその影。両腕を画面の両端とする。一本のフィルムを彼はすぐに撮りつくした。ベッドを降りてフィルムを装填し、ふたたび裸の夏子にまたがる。そして彼女を写真に撮る。その作業を彼は何度も繰り返した。
 窓の外は少しだけ暗くなりつつあった。ベッドへ、そしてその上の夏子に届いて来る光が、微妙さの度合いを深めていった。いまこそこの顔を撮るべきだ、と冬彦は思った。だから彼は夏子の顔に気持ちを集中させた。股間では三度めの勃起ぼっきが完成していた。顔を写真に撮られながら、夏子の手は冬彦の勃起をとらえていた。
 何本めかのフィルムを装填するためにベッドを降りた冬彦に、
「全身を撮って」
 と、夏子は言った。
「足もとから」
 フィルムを装填した冬彦はベッドの足もとへまわった。あお向けに横たわる裸の夏子を、彼は縦位置でファインダーのなかに見た。自分が直立している位置から撮り始めた彼は、ワン・ショットごとに視点の位置を低くしていった。
 窓から入って来る光は、ベッドに横たわる夏子の頭の部分でもっとも明るく、そこから彼女の裸の体を肩、胸、腹、腰と下に向かうにつれて、ほの暗くなっていた。足先のあたりがもっとも暗かった。絶妙な無限階調の、息がつまるほどに美しい具現の一例として、そのような光のなかに夏子の裸の体は存在していた。
 ベッドの上に立った位置からも、冬彦は夏子を撮影した。なかば広げ、なかば丸められた白いハンカチが、彼女の股間にあった。それ以外は完全に裸の彼女は、冬彦の写真機のシャッター音のテンポに同調させて、少しずつポーズを変化させた。どの変化も、そのときその一瞬における、夏子という人のありったけだった。ベッドを降り、かたわらの低い位置から斜めに、彼は夏子をとらえた。ベッドとすれすれの高さから撮った、横たわる夏子の体の側面のショットで、フィルムは終わった。
「ここにすわって」
 片肘をついて上体を斜めに起こし、夏子は体の左側を下にして横たわりなおした。写真機を台に置いた冬彦は、夏子に言われるままに、ベッドの縁に腰を降ろした。すわった彼を夏子は側面から見た。そして上体を起こし、彼のうしろに横ずわりし、彼を背中から抱いた。彼は夏子に顔を向けた。彼の肩に片手をかけたまま、夏子は彼の背後から太腿に向けて上体を降ろしていった。降ろしきるよりも先に、彼女の顔は彼の勃起に触れた。腰から下をベッドの上で後方にのばし、片腕を彼の腰にまわして、夏子は彼の太腿の上に上体をうつ向きに位置させた。彼の勃起の先端を、夏子は口でとらえた。


 七月なかばのある夜、アパートメントの部屋に帰ったヨシオを、冬彦が訪ねて来た。
「部屋に明かりがつくのを待っていた」
 と、冬彦は言った。
 ふくらんだ大きな封筒を、冬彦は持っていた。居間のソファにすわってから、テーブルに置いたその封筒を冬彦は示した。
「昨年の夏が終わって以来の、夏子さんの写真。葉山のプールや内房の海での写真などのあとからのもの。そこから、つい二、三日前までの期間にわたる写真」
 封筒のなかの写真を、冬彦はテーブルにすべて出した。
「時間順になっている。見てくれ」
 上から順に一枚ずつ、ヨシオは見ていった。見たものは裏返しに置き、次々にその上に重ねていった。
 三十枚ほど見てから、
「いい。たいへん、いい。面白い。興味深い」
 と、ヨシオは言った。
「まずとにかく、ひとつはっきり断言出来るのは、伊東夏子さんという女性は、たぐいまれな写真モデルだということだね」
「いくら撮っても、撮りつくせないんだ。ポーズがちょっと変わるだけで、別人になってしまうし。背景が変わると、最初から撮りなおしみたいに、物語が変わっていく。服が変わっただけでも、撮るべき写真はつきない」
「いつまでも撮り続ければいいんだ」
「だから、撮ってるんだよ」
 一定のテンポで写真を見ていくヨシオに、
「ヌードもあるよ」
 と、冬彦は言った。
「それがどうした」
 おなじこのアパートメントに冬彦が借りた部屋を、夏子が初めて訪れたときの一連の写真に、やがてヨシオは到達した。
「このアパートメントの部屋だ」
 と、ヨシオは言った。
「モデルがこれだけいいと、撮るための背景や場所が無限に近く必要だね。ありとあらゆる状況と場所で、撮ってみたいだろう」
 冬彦の部屋の二階の寝室で夏子が裸になっていく写真を、ヨシオは見始めた。
「島村も写真の腕を上げて来たよ。こうなったら、島村は写真家になるほかないね」
「僕もそのつもりだ」
 夏子の裸の写真を、ヨシオは見ていった。
「夏子さんの圧倒的な魅力に、島村は果敢に立ち向かってる」
 そう言ったヨシオは、夏子と冬彦とのあいだに性的な関係が生まれた直後の写真の、最初の一枚を手に取った。あお向けに横たわる裸の夏子に冬彦がまたがって撮影した写真の、最初の一枚だ。
「おめでとう」
 ヨシオはその写真に言った。
「でかしたぞ、島村、これは上出来だ。この写真以後、伊東夏子さんと島村冬彦とは、男と女の仲だ」
 ヨシオのその言葉を受けとめてから、
「わかるかい」
 と、冬彦は聞いた。ヨシオは笑った。
「見れば誰にでもわかるよ」
 写真を最後の一枚まで見終わって、
「おめでとう」
 と、もう一度ヨシオは言った。そしてすべての写真をおもてに戻し、きれいにそろえた。
「貴重な記録だよ。夏子さんという謎が、一枚ごとに記録されている」
「どの写真も、なぜこれほどまでに謎めいて撮れるのだろう」
「謎だからだよ」
「しかし、写真に人の内面なんか撮れっこないはずだ」
「外見だけでも、充分すぎるほどに謎である、ということさ」
「美しいと謎になるのか」
「基本的にはそうだね」
「謎とは?」
「物語だよ。たとえば夏子さんの写真なら、それを見る人の誰もが、一枚ごとにそのなかに物語を読んでいく」
 そう言ったヨシオはテーブルに両足を上げ、ソファの縁に向けて腰を滑らせ、背もたれに体を預けて両手の指を頭の上で組み合わせた。
「こういう写真は本にまとめるといい。夏子さんの写真集を作れ。一年ごとに。あるいは、何年かごとに、まとめて。主題別でもいい。冬彦による夏子のシリーズ。たとえばこれから十年という期間のなかで、そのことを考えろ。夏子さんを撮った写真による、何冊もの写真集」
「それは僕も、考えなくはない」
「考えろ」
「そうだね」
「いずれ夏子さんと結婚しろ。いますぐでなくてもいいよ。いずれ。島村をリードしつつ、ともにどこへでも来てくれるパートナーとして。最高の人だよ。そして島村は、写真家になれ。夏子さん以外の写真も撮る。いつだったか街で撮ったときには、いろんな写真が撮れたじゃないか。東京は激変するよ。だから東京を撮っておくといい。いま撮れば二十年後にはどれもみな傑作になってるから。夏子さんと結婚して、写真家として生きて、死後も写真集を出してもらえるような写真家になれ。美しい未亡人は、膨大な量のネガを整理しながら、静かに余生を生きていく」
「そうなるのか」
 という冬彦の言葉に、
「ストーリーとしては、それがいちばんいい」
 と、ヨシオは答えた。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


美しき太腿のほとり



[#改ページ]

 五月の晴れた日、大学の近くにヨシオは一軒の喫茶店を見つけた。正門から歩いて七、八分、住宅地が始まる静かなあたりに、その喫茶店はあった。店から先は小さな丘の重なり合う複雑な地形だ。そのぜんたいが、奥に向けて住宅地となっていた。歩道のある道に面した角地に前庭があり、少し引っ込んで建っている店の玄関へ、歩道からまっすぐにアプローチがあった。アプローチのかたわらに、支柱に支えられて小さな看板が立っていた。コーヒーのおいしい店、喫茶店エイヴォン、と看板には書いてあった。片仮名のエイヴォンの下に、英文字が添えてあった。
 いい店かもしれない、とヨシオは思った。だから彼はその店に入った。アプローチからポーチへ四段の階段を上がり、ドアを開いてなかに入った。玄関ホールのようなスペースから二段だけ上がって、店の中心となっている板張りのフロアが、ほどよい広さで横たわっていた。そのスペースの中央には長方形の大きなテーブルがあり、いくつもの椅子が囲んでいた。その向こうが横に長くカウンターで、カウンターのなかが調理場だった。背後は壁いちめんに棚となっていた。
 長方形のテーブルの左側に、奥へ向けてさらにスペースがあった。そのスペースの両側にいくつかのテーブルと椅子があり、突き当りまでいくとその壁に沿って横に一列の席が作ってあった。いくつかの小さなテーブルと椅子が、その席と向き合っていた。店に入ってすぐ左にある柱を左へまわり込むと、二段だけ低くなったスペースが奥に向けて縦長にあった。ぜんたいのスペースを見渡したヨシオは、左の奥へ入っていった。そして壁を背にしてふたり用の椅子にすわった。
 ウエイトレスがすぐに水を持って来た。姿のいい美人だった。この美人は鑑賞に値する、とヨシオは思った。手渡された小さな手書きのメニューに、胡瓜きゅうりのサンドイッチがあるのをヨシオは見た。コーヒーには括弧してそのなかにフレンチと但し書きしてあった。コーヒーと胡瓜のサンドイッチを、ヨシオは注文した。
 魅力的に濃いコーヒーは、端正に小さめのカップで出て来た。胡瓜のサンドイッチは思いきって大きな皿に、かなりの量があった。かたわらにはポテトチップスがひとつかみ添えてあった。コーヒーの出来ばえは完璧かんぺきに近く、胡瓜のサンドイッチは正解だった。ポテトチップスはどちらにも良く調和した。大学の周辺に何軒もある喫茶店のなかで、エイヴォンというその店は、ヨシオにとってもっとも好ましい、したがっていきつけの店となった。
 二度めにいったときには、その店に彼は二時間近くいた。コーヒーは二杯飲んだ。ホノルルの高木節子に宛てて彼はそこで手紙を書いた。月に二度は、彼は彼女に手紙を書いていた。航空便用の薄いレター・ペーパーにいつも五枚、彼は万年筆を使ってびっしりと書いた。せっかくの手紙だから、受け取る節子としては五枚は読みたいだろう、と彼は思った。だからレター・ペーパーに五枚だ。えんじ色のパーカー51のデミ・サイズに、ブルー・ブラックのインキを彼は使った。
 すでに何通もの手紙を節子に宛てて書いたヨシオは、手紙とはストーリーである、という結論に到達していた。節子がハワイへいったあとの自分の身辺についてなんとなく書きつづるのではなく、主題をきちんときめた上で、それにふさわしい起承転結のなかで、一編のストーリーとして手紙を仕上げることを彼は心がけた。いろんなことを考えては、それを断片のままノートブックに書いていき、やがてひとつのプロットへとつなげ直していく。修正や加筆をしてぜんたいを整え、これでいいとなったら万年筆でレター・ペーパーに書く。
 もっとも気にいった喫茶店であるエイヴォンというその店にいくとき、ヨシオはいつもひとりだった。気にいったその店は自分ひとりだけの時間のものにしておきたい、と彼は思った。本を読んだりただぼうっとしていたり、あれやこれや思いつくことをノートブックに書いたりして過ごした。
 店は午前十一時から午後六時までだった。店主とおぼしき三十代後半の女性と、若い美人のウエイトレスのふたりが、店の人だ。ウエイトレスは、外見の出来ばえは素晴らしいと言っていい、大変な美人だった。午前十一時から店に出て、午後はそのときどきの自分の都合に合わせて適当に切り上げているようだと、ヨシオは観察した。
 美人を見ているのが好きなヨシオにとって、その喫茶店へいくことは、彼女を鑑賞することでもあった。きわめて精巧に出来たロボットとして彼女を受けとめるともっとも面白い、というひとまずの結論に彼は早い時期に到達した。彼女はほとんどいつも、おなじ表情をしていた。表情は固く、仏頂面と言ってもいいニュアンスもあった。身のこなしは一定のプログラムに沿っておこなわれ、そこから逸脱することがないように思えた。美人であることは間違いないのだが、彼女には固有の雰囲気が希薄だった。外見の美しさは確かに存在するが、そこから外に向けて発揮されて来るはずの魅力というものが、ほとんどなかった。彼女をどう受けとめればいいのか、多くの客が当惑しているのではないか、とヨシオは想像した。
 彼女について、彼はノートブックに書いた。高木節子について書いたことと比較をしていくと、興味深いものがあるのを、彼は発見した。高木節子からは、彼女が内部に持っている魅力が、惜しげもなく、常に全開で発揮されていた。発散されて来る魅力はきわめて豊富であり、雰囲気は尽きることなく、それに触れていると飽きることはなかった。もし節子がハワイへ移らなければ、いま頃は彼女のそのような魅力のなかへ、自分は完全にからめ取られているのではないか、とヨシオは思った。
 節子について、第三者の視点から、彼はノートブックにさまざまに書いた。ウエイトレスについても書いた。節子に関しては、書くことは尽きないように思えたが、ウエイトレスに関しては、ロボット、と書いてしまうとそこですべては終わりとなった。写真のモデルにいいのではないか、とヨシオは思った。顔立ちと姿がただひたすら美しいだけ、という種類の女性モデル。不特定多数に配布するカレンダーに、ひょっとしたら適役かもしれない。見に来るように島村に言っておこう。そのウエイトレスに対する彼の興味は、そこで終わった。そして、店主の女性の魅力に、彼は気づいた。
 三十代なかばあるいは後半の彼女も、ひと言で言うなら美人だった。そのことに間違いはなかった。年齢の見当をつけるなら、三十七歳。あるいは三十八歳。四十歳まではいってないだろう。高からず低からずの微妙な中間領域のなかに彼女の身長はあり、かたちはじつに良く出来ていた。体のかたちの良さとはバランスの良さだ、とヨシオは思った。バランスの良さとは、最終的には骨格の良さだ。生きて動く美しい骨格標本として、彼は彼女を観察した。
 身のこなしの良さ、そして外に向けて発揮されて来る魅力的な雰囲気の豊かさは、なによりもまず第一に骨格の動きによるのだ、と彼は思った。骨格を動かせているのは筋肉だ。そしてその筋肉に動きかたの命令を発しているのは、彼女にとっての彼女そのものと言っていい、神経のぜんたいだ。そしてその神経とは、ヨシオが考えたところによるなら、成熟をとげた大人の女性としての、ここに至るまでの時間の総体だった。
 もの静かな印象のなかに、魅力の奥行きと幅があった。魅力の奥行きと幅は、体験して来たものの量と質、そしてそれらの咀嚼度そしゃくどだ。彼女にはもはやどこにも不足はなく、あらゆることが足りているような物腰だった。表情も身のこなしも、明るかった。自給自足がある段階を越えてしまい、彼女ひとりですべてが完結する次元に達したような雰囲気も、どことは言いがたくぜんたいにわたって、確実に存在していた。寂しさとは言えないし悲しさはもっと遠いが、彼女ひとりだけの端正な居ずまいのようなものが、たとえば滑らかな身のこなしの要所要所にあった。
 常連の客であるヨシオが店に入って来たときなど、視線が合うと彼女は微笑した。コーヒーと胡瓜のサンドイッチをテーブルに持って来ると、お待ちどおさま、と彼女はかがみ込んで言った。そんなとき、ふたりきりで一対一という雰囲気が、なんのたくらみもなくごく自然に生まれた。常にコーヒーと胡瓜のサンドイッチを注文して来たヨシオが、ある日の試みとしてコーヒーだけを注文すると、絶妙の間を取ったあとで、「お胡瓜は?」と、彼女は聞いた。それが、彼女からヨシオに対する、なかば個人的な言葉の最初だった。
 すべてのものがとっくに間に合っている、成熟しきって落ちついた彼女の物腰や身のこなしかたは、ヨシオにとっては充分すぎるほどに観察に値した。観察を続けながら、彼女の体の動きの美しさの謎を、彼は解こうと試みた。動きの美しさとは、彼女の場合、無駄のなさだった。あらゆることがよくわかっているから、無駄の生まれる余地がない。よくわかっている、という言いかたよりも、深い心得がある、と言ったほうが正確だというのがヨシオの判断だった。
 ほどよくヒールのある靴。ストッキングをはかない白い脚。ややタイトめの、なんの変哲もないグレーのスカート。そして白いシャツ。肩にかかりそうでかからない、よくあるまとめかたの、しかし彼女にこそもっとも似合う作りの髪。頭のかたちの良さに恵まれているから、彼女は鼻の高いタイプの美人だった。したがって横顔が良かった。良いだけではなく、そこにかもし出される風情はただごとではなく、真横からうしろへと視線を移動させていくと、斜めうしろから見るときの魅力にもっとも深みがあった。
 肩から両腕へ。そして手をへて指先まで。おなじく肩から、背中をへて腰まで。正面においては胸のふくらみを越え、腹を落ちて骨盤まで。あらゆる部分のかたちの良さは、どうしていいかわからないほどの正解ぶりだ。しかもそれらすべての部分に、持ち味が存分にいき渡っていた。肩の幅の広さは毅然きぜんとした態度の象徴のようであり、背中の広さは許容して受けとめる力の、奥行きと幅だった。胸のふくらみの控え目な印象は、白い指の優しさとその動きの正確さと、どこかでつながっていた。腕のかたちの良さの根底には、哀愁のようなものがあると思えた。
 彼女について描写しつつ、感想や印象をノートブックに書いていくと、それはヨシオにとってはトレーニングの一種となった。いわく言いがたい部分を、的確な言葉にしなければならない。そして、書くためには見なければならず、見ていると飽きることも尽きることもなかった。だから彼はその店に足しげくかよい、彼女を観察した。
 五月の終わりに近いある日の午後、彼が店に入ると、店主の女性は大きな長方形のテーブルのかたわらに立っていた。ヨシオを見て微笑し、
「今日も書きもの?」
 と、彼女は聞いた。
 カキモノとはなにか、と彼は一瞬、思った。そして書きものだとわかり、
「そうです」
 と、彼女に答えた。
「落ちつける秘密の席があるのよ」
 彼女は言った。声は大人の女性の落ちつき払った声であり、口調はそれにふさわしく静かで、おだやかだった。
 落ちつける秘密の席へ、彼女はヨシオを案内した。カウンターの左端は、柱でいきどまりだ。しかしスペースとしてはさらに奥へ続いていた。背後の壁との狭い通路を奥へ入ると、窓と向き合って四角い小さなスペースがあった。ふたり用のテーブルと、それをあいだにはさんで二脚の椅子が、そのスペースに配置してあった。
「ここよ」
 ヨシオと至近距離に立って、彼女はそのスペースを示した。彼女の体の容積を、自分に対して発揮される魅力の力として、彼は感じた。相手を受けとめる力と、自分を外に向けて発散させていく力だ。窓に向かって、彼はすわってみた。
「コーヒーとお胡瓜きゅうりね」
 彼女が言った。
 胡瓜のサンドイッチのことをお胡瓜と言うのが彼女の癖なのだ、とヨシオは思った。
 フレンチ・コーヒーと胡瓜のサンドイッチを、彼女はほどなく彼のテーブルへ持って来た。コーヒーを飲み、胡瓜のサンドイッチを食べながら、彼はノートブックを開いた。自分が書いた文章を読むともなく読んだ。コーヒーを飲み終わり、胡瓜のサンドイッチを食べてしまい、彼はノートブックを閉じた。窓に顔を向けてしばらくぼんやりしていた。やがて彼は落ちつかない気持ちになった。狭いスペースのなかに閉じ込められている気持ちが強くなった。立ちあがった彼はノートブックを脇の下にはさみ、サンドイッチの皿と受け皿に載ったコーヒー・カップを持ち、そのスペースを出た。
 彼女はカウンターのなかにいた。皿とコーヒー・カップをカウンターに置いた彼は、
「席を替えます」
 と、彼女に言った。
「あそこでは、落ち着かないかしら」
「狭いところは苦手です」
「落ち着くと言う人もいるけれど、あなたとおなじことを言う人もいるのよ」
「コーヒーをもう一杯ください」
 二段だけ低くなったスペースに彼は入り、隅の席にすわった。そこでは落ちついた気持ちになることが出来た。ノートブックを開き、万年筆で彼は書き始めた。店主が二杯めのコーヒーを持って来た。さきほどのとは違うカップのフレンチ・コーヒーを受け皿とともにノートブックのかたわらに置き、彼女は一歩だけ下がった。そして、
「いつも、なにを書いてるの?」
 と聞いた。
 彼は彼女の顔を仰いだ。相手に対して純粋に関心を寄せている種類の笑顔で彼女が自分を見ているのを、ヨシオは受けとめた。
「学校の勉強?」
 と、彼女は聞いた。そして彼の返答を待たずに、
「そうでもないような気がするのよ。なにかしら」
「小説です」
 とっさの思いつきで、彼はそう答えた。
「どんな小説なの?」
「探偵小説です」
「犯人は誰なの?」
「まだそこまで進んでいません」
「あなたは大学の一年生?」
「はい」
 そこまで会話が進んだとき、店に客が入って来た。教授仲間の中年男性の三人連れだった。彼女は彼らに応対した。
 あの魅力的な美しい大人の女性が、この自分にかすかながら興味を持ってくれている、とヨシオは思った。その思いは彼のなかで広がり、やがて不思議な感触を持った。うれしいような、そわそわしたような、奇妙になにごとも手につかないときの、あの感触だ。いつだかおなじようなことがあった、と彼は思った。高木節子にイアリングを進呈し、授業中に彼女に呼び出され、口づけされたあとの気持ちと良く似ている、と彼は断定した。それから何日かかけてヨシオにはっきりとわかったのは、あのエイヴォンという喫茶店の店主を観察するだけではなく、たとえば交わし合う言葉をとおして、自分は彼女を具体的に知りたいと思っている、ということだった。
 六月第一週の月曜日にも、彼はその喫茶店へいった。一時間いて店を出るとき、代金の支払いをする場所の背後の壁に、小さく貼り紙がしてあるのを彼は見た。「学生アルバイト募集。一名。当店のウエイター。午後一時から六時まで。時間の都合は相談に応じます」と、その紙には手書きしてあった。応募して採用されたなら、店員として自分は店主であるこの女性とかなり親しくなれるはずだ、とヨシオは思った。思ったとおりを言い、思いついたらそのとおりすぐに実行するのが、ヨシオの性格だった。
「応募します」
 と、彼は貼り紙を示して言った。
「あら」
「もうきまりましたか」
「ついさっき貼ったのよ」
「そう言えば、女性はいなくなりましたね」
「ひとりだけ募集してるの」
「僕は応募します」
「ほんと?」
 という彼女の言葉は、彼にとって意外だった。
「ほんとです」
「条件はここに書いてあるとおり」
 と、彼女は言った。
「時間はご自分の都合に合わせてもいいのよ。どうしても出席しなくてはいけない講義など、きっとあるはずだから。時間給かけるその日働いた時間が、その日のお給料。日払いです」
「応募します」
「ほんとなら採用するわ」
「ほんとです」
 壁に向き直った彼女は、押しピンで四隅をとめたその貼り紙を、壁からはずした。
「では採用しましょう」
 と、彼女は言った。
「履歴書を持って来ましょうか」
 ヨシオの言葉に彼女は笑った。
「学生証を写させて」
 彼は学生証を取り出し、彼女に手渡した。名前や学籍番号などを、彼女は棚の引出しから出したノートに写した。そして学生証を彼に返し、
「いつから来てくださるの?」
 と、聞いた。
「明日からでも」
「そうしましょう。午後一時」
「はい」
 彼女は名刺を一枚、彼に渡した。藤村直子、と名が印刷してあり、コーヒーのおいしい店、喫茶店エイヴォン店主、とならべて二行で印刷してあった。所番地と電話番号が、その下に小さくあった。
「その紙をください」
 直子が手に持っている貼り紙を、ヨシオは示した。
「これを?」
「そうです」
 微笑して直子は貼り紙を彼に差し出した。ヨシオはそれを受け取った。あのアパートメントへ持って帰り、部屋の壁のコルク・ボードに押しピンでとめておくといい、と彼は思った。
 喫茶店の店員アルバイトの日々は、なにごともなく経過していった。仕事はたいしたことなかった。直子のコーヒーのいれかたを、ヨシオは教わった。教えられたとおりに彼はコーヒーをいれてみた。それを直子は飲み、これなら合格だと言った。客が来れば水を席へ持っていき、注文を受ける。飲み物はフレンチ・コーヒーだけだ。客が混んでいるときには彼女がコーヒーをいれる。それを彼が客席へ持っていく。食べるものはポテトチップスをひとつかみ添えた胡瓜きゅうりのサンドイッチと、かたゆで卵だけだ。かたゆで卵はエッグ・カップに入れて皿に載せ、小さなふたつの容器に塩とマヨネーズをそれぞれ入れ、エッグ・カップに添える。
「もうひとつ、食べるものをなにか出したいかな、とも思うのよ。ここで火を使わなくてもいいもの。つまり、調理してその匂いが店に立ち込めたりしないもの。なにかないかしら。考えて」
 と、直子は言っていた。
羊羹ようかんはどうですか」
「切ればいいだけね」
 そう言って直子は笑った。
「私も考えたのよ。なにか甘いものは、いいかもしれないわ。この店は常連のかたが多くて、年齢は明らかに高いの。大学の教授や助教授のかたたち。院生。学生だと、静かな人たち。甘いものは、受けるかもしれないわね。らくがんのような。娘に京都で探させようかしら」
「お嬢さんがいらっしゃるのですか」
「あなたとおなじ、大学一年生。ここの大学へいく予定だったのだけれど、別にここでなくてもいいのだ、とあるとき私は気づいたのよ。京都なんかいいかもしれないわね、と私が言ったら、娘がものすごくうれしそうな顔をしたの。生まれたときからずっとここで私といっしょで、三歳のときからは母と娘のふたりだけだったから。私から離れることが、この女の子にとってはまったく新しい可能性なのだと私は気づいたから、京都の大学に目標を変え、勉強して現役で合格して、いまは親戚しんせきの家の離れに居候してるわ。楽しんでるみたい」
「専攻はなにですか」
「あなたとおなじ」
 ヨシオは法学部の学生だった。
「弁護士になってほしい、と私としては思ってるのよ。ちゃんとした職業だし、誰にでもなれるというものではないでしょうし。それに、ひとりで自分の生活を作って、支えていけると思うから」
「いいですね」
「あなたもひょっとして、弁護士になるのかしら」
「僕は違います」
「なにになるの?」
「わかりません」
 店は六時で終わる。グラスやコーヒー・カップ、そして受け皿などをヨシオは洗い整え、所定の場所に収める。フロアを掃除し、テーブルと椅子をいてまわる。位置を整える。トイレットの掃除も彼の役。店を閉めたあと、彼がそのような仕事をしているあいだ、直子は伝票を整理する。合計して現金とつき合わせる。小さな手提げ金庫に入れる。生ごみをヨシオは店の裏のごみバケツに捨てる。直子は彼を送り出し、店のドアに内側からかぎをかけ、明かりを消す。直子が住んでいる自宅は店の裏にあった。裏口を出ると、狭い裏庭の向こうに斜めの積み石で三メートルほど高くなった土地があり、裏庭の正面に階段があった。その階段を上がると直子の自宅の玄関前だ。二階建てのその家で、いまの直子はひとり暮らしをしていた。
「娘が三歳のときに、夫は病死したのよ。心不全。仕事のしすぎ。演出家だったの。演劇畑の人。この店は、じつは稽古場けいこばだったのよ。演劇のための空間。カウンターのここは、建物の幅いっぱいに、教壇みたいに高くなってたの。あちらの奥も、おなじように高くなってたわ。そして、正面のあそこは低くしてあって。たいして広くはない場所だけれど、空間としては凝った三層になってたの。それをこんなふうに改装して、喫茶店にしたの。それ以来、ずっとここ。自宅は裏にあって、そこも家族のための家というよりは、劇団員が寝泊まりする場所として夫は考えてたのね。二階はひとつのスペースでがらんとしてて、そこも稽古場に使ってたし」
 六月はすぐに終わった。梅雨が始まった。そして七月になり、その七月も終わりが近くなって、梅雨は明けた。月曜から金曜まで、午後一時から六時まで、店で直子とともにいることが出来るのは、ヨシオにとってうれしいことだった。直子とともにいる快感とはなになのか、彼なりに考えてひとまずの結論を出した。魅力を豊かに持っている女性の、その魅力の直接の発散半径内に自分がいるときの幸せに充実した状態は、たとえるなら自然の大摂理の流れやリズムのなかに身を置いているのとおなじだ、という結論だった。頭の中で思考するはじから、直子はそのとおりを言葉にしていく。だから彼女がしゃべることはそのまま彼女の思考の経路であり、それ以外に裏はまったくないことを、ヨシオは七月の終わりまでに知った。
 喫茶店エイヴォンは八月いっぱい休業だ。七月三十一日、いつものとおり六時に店を閉め、仕事をすべて終わって帰るヨシオに、
「九月一日から、ほんとにまた来てね」
 と、藤村直子は言った。
「夏はどう過ごすの?」
 という彼女の質問に、彼は答えようがなかった。だから、
「まったく予定はありません」
 と言った。
「途中で遊びに来てもいいのよ。私は裏の自宅にいるわ。お盆には娘が帰って来るし」
 大学の構内を抜けて、ヨシオは駅まで歩いた。喫茶店エイヴォンが自分の背後に遠ざかっていくことに、彼は名残なごり惜しさのような感情を持った。どこか寂しく思う気持ちもあった。心にぽっかりと穴があいたような、という定型的な言いかたに彼は親近感を覚えた。頭を深く垂れてその穴をのぞき込むと、喫茶店エイヴォンだけが見えるような気がした。
 そして八月は幻のようなひと月となった。八月一日の朝、ハリー中村がアパートメントのヨシオの部屋を訪ねて来た。ドアのノックにこたえて玄関まで出て来たヨシオに、
「いるかね。出て来なさい」
 と、ハリー中村は言った。ヨシオはドアを開いた。
「車のなかで話をしよう」
 自分の背後をハリーは親指で示した。目の覚めるような水色のプリムスが、アパートメントの前のなにもない敷地に、斜めに大きく停まっていた。ふたりは車へ歩き、左右からほぼ同時に前のシートに入った。車のなかは冷房が快適に効いていた。ふたりはドアを閉じた。
「お父さんから聞いたかい」
 ハリー中村がヨシオに言った。
「このところ会っていません。なんの話ですか」
「僕はハワイへ帰るんだよ」
「はあ」
「戦後の日本は商売にいいと思って、ハワイの仕事をたたんで東京へ来たのさ。商売はうまくいったよ。これからも、新しい状況についていくかぎり、うまくいくよ、きっと。しかし、時代はいま、ひとつ向こうへ変わりつつあるね。日本には日本のシステムが出来てきてるよ。僕らみたいな半端な人間には、居場所がなくなりつつあるんだ。わかるかい」
「なんとなく」
「僕はハワイへ帰るよ。懐かしくてね、あそこが。ここはハワイなんだ、ハワイなんだと自分に言い聞かせて日本に住んで来たけれど、懐かしいところへ戻ったほうがいいと思って。潮時だね」
「そうですか」
「商売はきみのお父さんに引き継いでもらって、僕は明日の飛行機に乗るんだ」
 ヨシオは幼い頃からこのハリー中村を親しく知っている。いまのように突然にあらわれ、いきなり話が進展していくのは、彼の性格のもっとも特徴的な部分だった。
「このアパートメントをきみにまかせるから、管理してくれないか。ひき続ききみにも住んでもらって。部屋が空いたら、きみの責任で入居者を見つけてくれ。修理その他、すべてまかせる。お父さんが銀行の口座を知ってるから、部屋代はそこに振り込んでくれたらいい。難しいことではないよ。このアパートメントぜんたいを、きみが買ってくれるのが本当はいちばんいいんだ」
「そんなおかねはありませんよ」
「あると思ってないよ。理想的な話としてさ」
「わかりました」
「引き受けてくれるかい」
「引き受けます」
「建てたときの図面だとかなんだとか、とにかくこのアパートメントに関するすべてのものを、持って来た。きみに預ける」
 うしろのシートを中村は示した。
「権利証や登記の書類などは、お父さんが持っている。それからもうひとつ」
 そう言って中村はヨシオの顔を見た。
「なんですか」
「住んでいた家が、まだ売れないんだ。葉山のあの家」
「はい」
「その家も、きみにまかせる」
「売ればいいのですか」
「うん。あの家も、きみに買ってもらうのがいちばんいい。きみのお父さんにも言ったのだけど葉山は遠いと言うんだよ、サニーは」
 サニーというのは、ヨシオの父親の愛称だ。正式にはサンフォードという。
「預かります」
「そうしてくれ。あの家に関しても、図面その他、いっさいを持って来た。法律的なものは別だよ。それはきみのお父さんが持っている」
「買い手を見つけます」
「いい人に買って住んでもらいたい。これからの人に」
「それを心がけます」
「とりあえず、きみの別宅でもいい。ここよりも落ちついて勉強が出来るよ。大学はどうだい。法律は」
「楽です」
「法律の勉強が楽なら、将来は心配ないね」
「どうなるかわかりません」
「誰だってそうさ。うしろのシートにあるものを、部屋に運ぼう」
 ふたりはプリムスを出た。うしろのドアを左右から開き、筒状に丸めてある図面その他、そこにあるものすべてをふたりでかかえ、ヨシオの部屋へ運んだ。ふたりの一往復でその作業は終わった。
「では、頼んだよ」
「引き受けました」
「これが葉山の家のかぎだ」
 鍵をヨシオに手渡したハリー中村は、プリムスの運転席に入った。ドアを閉じてから窓ガラスを降ろし、彼はヨシオに言った。
「プールの水を入れ換えておいたよ。今日なんか、どうだい、いってごらん。泳ぐのにいい日だよ」
 喋っているのは日本語だがほぼ完全にアメリカ人に戻って、ハリー中村はヨシオにそう言った。そしてエンジンを始動させた。発進して敷地のなかで半円を描き、外の道へ浅い角度で出て行くプリムスを、ヨシオは見送った。陽ざしをまぶしく反射させているその車に、彼は手を振った。運転席のハリー中村も手を振っていた。
 午前中にヨシオはアパートメントの部屋を出た。電車を乗り継いで彼は葉山までいった。ハリー中村の自宅は、おおざっぱな間取りの、平らな屋根の一階建ての家だ。庭に向けてすべてが開放されているような間取りだ。そのような間取りが好きな人にとっては、住みやすい家であるに違いない。すべては庭に向けて開放されていて、その広い庭の中心はプールだ。ヨシオはプールの縁に立ってみた。プールというコンクリートの四角い容器のなかに、入れ替えたとハリー中村の言った新鮮な水が満ちていた。夏の陽ざしを吸収しつつ反射させてもいる水の様子を、ヨシオは観察した。空気のなかを降って来る陽ざしが自然の生命力だとするなら、それを受けとめているプールの水もおなじ生命力を持っている、などと彼は思った。
 その日は夕方まで彼はプールで泳いで過ごした。その家のあるあたりは静かで、家の敷地は外の道よりも人の背丈ほど高くなっていた。プールはどこからも見えず、夏の陽ざしと空気のなかであたりは一日じゅう静かだった。プールにはダイヴィング・ボードがあった。その先端にあお向けに横たわり、この家を誰が買うといいか、知っている人を思い浮かべながら彼はぼんやりと考えた。
 高木節子には、ふさわしい。しかし、彼女はハワイへいってしまった。ほどなく、このくらいの家には住むようになるのではないか。藤村直子もこの家に似つかわしい。提案してみようか。しかし彼女は、いまのあの場所で充分に快適そうだ。伊東夏子がいいのではないか。数年後には彼女と島村冬彦は結婚するだろう。ふたりの場所として、この家は適している。夏子に言えば、ぽんと買うのではないか。ぽんと買うと言うなら、節子が働いていた美容院の店主の美代子という女性も、魅力的な不動産には手を出しそうだ。
 その日からヨシオはその家にひとりで住んだ。それまでとはまったく異なった場所が自分の自由になることの不思議な快感を、彼は家やプールとともに楽しんだ。快晴の日が続いた。ヨシオの記憶によるなら、雨が降った日は一日しかなかった。毎日、彼はプールで泳いだ。一日の終わりには、彼は泳ぎ疲れていた。夜は本を読んだ。本棚に英語の本が置いたままになっていた。ハリー中村の妻は読書家だ。本棚のなかのどの本にも、読んだ部分ごとに、読んだ日付が記入してあった。
 プールで泳ぐこと、そして数日ごとに水を取り替えることが、ヨシオにとっての労働となった。頭の使い道は、夜になって読む本棚のなかの本だ。八月がゆっくりと進行していった。このままいつまでもつづくのではないかと思い始めたとき、八月の日々は残り少なくなっていた。そして八月三十一日が来た。朝から夕方まで、彼はプールで泳いだ。夕方が終わり、夜になった。夕食のあと、彼はプールの縁に立ってみた。泳いで過ごした八月は、もはやどこにもなかった。明日から九月だ。直子に会える、と彼は思った。ひとりで過ごした八月の快適さのすべてが、直子に会うことの期待へと流れ込んでいくのを、彼は自覚した。本棚の前に立ち、読んだ本を眺めた。彼がもっとも強く感銘を覚えたのは、『ワインズバーグ・オハイオ』という小説だった。
 九月一日、朝から曇って湿度の高い日、午後十二時三十分に、ヨシオは喫茶店エイヴォンへいった。客が数人いた。直子はひとりでカウンターのなかにいた。ヨシオを迎えて彼女は笑顔になった。カウンターと向き合っている椅子のひとつを、彼女は示した。
「コーヒーをいれるわ。飲んで」
 ひと月ぶりに聞く彼女の声に、彼は安堵あんどに似た気持ちを覚えた。この声の届く範囲内に自分はいればいい、という安心感だ。八月という三十一日間、自分が直子と会うことなく過ごした事実が、後悔に似た感情として、彼の胸の内部に広がった。会わないでいたあいだに、直子は別の人になってしまったのではないか、とも彼は思った。
 いつものフレンチ・コーヒーを、直子はカウンターの向こうから彼に差し出した。受け皿に載った小さめのカップを、彼は手もとに引き寄せた。
「陽に焼けてるのね」
 直子が言った。
「毎日、泳いでました」
「海?」
「プールです」
「たくましくなったのかな、という気がするわ」
「僕と家族が親しく知っている人の家が、葉山にあるのです。その人は家を売りに出して、僕に売買をまかせたのです。僕が買って住んでもいいのです。もしそれだけのおかねがあるなら」
「その家にプールがあるの?」
「そうです。八月はずっとそこにいました。その家を、買いませんか」
「私が?」
「はい」
「いつもいっしょに泳いでくれるなら、買ってもいいわ」
 冗談として、直子はそのように答えた。カウンター越しに、直子の体の容積を、ヨシオはひと月ぶりに感じた。彼が全身の感覚で受けとめる彼女のその容積感のなかに、直子という女性のすべてがあった。コーヒーを飲み終わると、ヨシオはその店のアルバイト店員として仕事を始めた。暇な時間には、直子はまるで客のように適当な位置の席にすわり、雑誌を読んだ。その姿を彼はカウンターから凝視した。凝視とは観察だった。そして観察はやがて思考となった。直子、という女性についての思考だ。
 一週間は金曜日で終わった。土曜日の午前中、ヨシオはふたたび葉山へいった。今度は駅からバスに乗り、高台の下の停留所で降りた。敷地に入るにあたっての低い扉は、外から誰でも開くことが出来た。玄関のドア・ロックを解除し、彼は家のなかに入った。空気がかすかによどんでいた。窓やガラス戸を、彼は開け放った。
 彼は庭に出てみた。プールの周囲を歩いた。明るい九月の陽ざしの底で、プールは真夏とおなじプールだった。最後に水を取り替えてから十日ほどたっていた。緑色に向けて色のつき始めた水は、コンクリートの容器のなかに満ちているかなりの量の水でしかなく、そのなかに自分の体をひたして泳いだり潜ったりする水ではなかった。夏はとっくに終わっていた。
 家のなかに入った彼は、キチンにあったパーコレーターでコーヒーを入れた。大きなマグに熱いコーヒーを満たし、庭に持って出て芝の上にすわり、彼はそれを飲んだ。漠然といろんなことを考えているうちに、この家はやはり伊東夏子と島村冬彦のための場所としてもっともふさわしい、という結論に彼は到達した。
 彼は冬彦に電話をかけた。アパートメントの部屋に彼はいた。葉山のハリー中村の自宅を買わないか、というヨシオの提案を冬彦は面白がった。
「アパートメントの部屋もいいけれど、狭いだろう。それに夏子さんの写真を撮るスタジオのように使うなら、ここのほうがずっといい。いろんな写真が撮れるよ」
「いまそこにいるのか」
「遊びに来ないか。いっしょに来るといい」
「うん」
「夏子さんと」
「いこうか」
「来い。待ってる」
 午後三時過ぎに、冬彦は夏子とともに到着した。それまでにヨシオはプールの水を抜き、空になった四角いコンクリートの空間の内部を掃除し、新しく水を満たした。冬彦と夏子はすぐに水着姿になった。夏とおなじ気分で、少なくとも一時間は、彼ら三人はプールで遊ぶことが出来た。美しく出来た二十四歳の全身から水をしたたらせつつ、夏子はプールの縁にヨシオと向き合って立ち、
「このお家を、私は買うわ。おいくら?」
 と、笑いながら言った。マーケットで旬の魚を買うような気楽さを、夏子という女性のたいへん好ましい持ち味として、彼は受けとめた。
 夕方、三人で買い物に出た。夕食の材料を買い、家へ戻り、三人で夕食を作って食べた。そのあと、夏子と冬彦を残し、ヨシオは電車を乗り継いでアパートメントの部屋へ帰った。
 九月が進行していった。夏の薄れゆく度合いが、それにぴったりと重なった。九月二十日、夏の服もそろそろ終わりかと誰もが思う頃、気温が午前中で三十二度という高さになった。湿度はなく、晴れた空の下に満ちた暑い空気は、人々の気持ちを夏へと引き戻した。いつものとおり、ヨシオは午後一時からエイヴォンで店員の仕事についた。三時過ぎに直子は外出した。六時までには帰って来る、と彼女は言っていた。
 午後五時から空は暗くなっていった。分厚くて黒い雲が空ぜんたいに広がり、ある瞬間を境に、急激に雨が降り始めた。すさまじいどしゃ降りが六時を過ぎても続いた。遠くから雷鳴の音が絶えることなく届いていた。しかし雷は接近せず、雨だけが集中豪雨さながらに降った。
 ヨシオは六時で店を閉めた。正面のドアのかぎはかけないまま、本日は閉店しました、と書いたボール紙を内側から把手とってるした。ヨシオが店の掃除をすべて終わったとき、直子が帰って来た。ドアを開いてずぶれの直子が店に入って来た。真夏の薄いスカートに半袖はんそでのシャツは、完全に水にひたしてから身につけたかのように、直子の体のあらゆる曲面に張りついていた。簡潔な下着がその下に浮き出ていた。裸とは質の異なった衝撃力を、直子の全身はそれを見る人にあたえた。そして店のなかでその彼女を見ているのは、いまはヨシオだけだった。
「駅から歩いて来たのよ」
 直子は言った。
「駅を出て降り始めたけれど、たいしたことないと思ってそのまま歩いたの。交差点を渡っているときに、いきなりどしゃ降りになって、渡りきったときにはずぶ濡れになってたの。だからついでに歩いて来たわ」
 長方形の大きなテーブルのかたわらに両脚を開きぎみに立って、直子は太腿ふとももに張りついているスカートのすそから、雨水をしたたらせた。
「ほら、こんな」
 ヨシオが見ている前で、直子はじつに見事に、体を一回転して見せた。直子の全身が、濡れて貼りついている薄い服の下に見えていた。良く出来た美しい体がなんの無理もなく獲得している、容積感の魅力の深さそのものが、いまの直子だった。カウンターまで歩いてなかに入り、どこからか直子はタオルを取り出した。それを広げて持ち、そこに向けて頭を垂れ、濡れた髪ごと頭をタオルのなかに包み込んだ。上体を起こし、タオル越しに彼女は髪をかきまわした。
 明かりを消した店内はほの暗かった。濡れて密着し、肌と同化したかのような真夏の薄いシャツとスカートをとおして、直子の全身は淡く真珠色の光を放っているかのように、白く見えた。カウンターのなかから出て来た直子は、ふたたび大きなテーブルのかたわらに立った。ヨシオに対して斜めに背を向け、脚を開いて立った。タオル越しに髪をかきまわす両手の力に対して、腰に力を込めることによって、直子はバランスを取った。
 直子はヨシオに向きなおった。タオルを頭から取り、椅子の背に掛けた。そして両手の指を使い、まだ湿っている髪を彼女はかき上げた。頭の両脇をうしろに向けて、そして額から頭の頂上に向けて、十本の指で濡れた髪をき上げる動作を、直子は何度も繰り返した。髪をかき上げる動作に合わせて、直子は大きくのけぞった。
 細く高くヒールのある夏のサンダルから、向こうずねが優しいひざに向けてまっすぐに立ち上がっていた。膝を越えると、それはいつのまにか太腿という魅惑に満ちた円柱となった。濡れて張りついたままの薄いスカートの内部で、円柱はひとつに溶け合って腰を作っていた。ショーツの浮き出た腰は完全に無防備だった。下着に支えられた胸のふくらみが、広い胸板のなかで肩幅と絶妙に調和して動いた。大きくのけぞるとき、直子の全身の魅力のすべては、のどを中心に首に集中した。
 ふたたび直子はタオルを頭に巻いた。両手でタオルを髪にこすりつけ、湿気を吸い取らせた。その動作をおこないながら、彼女は長方形のテーブルをひとまわりした。ヨシオから至近距離に立ちどまり、
「かたづけは終わったの?」
 と、直子は聞いた。
「終わりました」
「伝票はあとで整理するわ」
 タオルを頭から取り、彼女は両手でさまざまに髪を梳き上げた。店へ帰って来たときにくらべると彼女の髪は湿気を失い、ぜんたいにわたってふくらんでいた。乱れ髪と言っていい状態の直子の、新たな魅力をヨシオは観察した。
「冷蔵庫のなかのものも、あとで始末するわ。ドアに鍵をかけて」
 直子に言われるままに、ヨシオはドアに鍵をかけた。レジスターの代わりを果している小さなデスクの、いくつかある引出しのうちの所定の引出しに、彼はその鍵を入れた。ヨシオに歩み寄った直子は、
「出ましょう」
 と言った。
 ドアには鍵をかけたから、出るところは裏口しかなかった。先にヨシオが裏口へ歩き、そのすぐうしろから直子が来た。裏口のドアを開き、ふたりは外へ出た。直子の自宅の下にある、狭い裏庭だ。三メートルほど高くなっている自宅の敷地に向けて、直子が先に階段を上がった。雨はまだ激しく降っていた。
 階段を上がると直子の自宅の玄関先だった。ドアのロックを開放した直子は、
「入って」
 と、ヨシオに言った。
 ふたりは玄関に入った。直子がドアを閉じ、ロックした。玄関ホールの板の間を越えた正面に二階への階段があった。階段の左側を奥へ向かう廊下、そして玄関ホールから右へ向かう廊下の二本を、ヨシオは見た。直子の自宅に入るのは、彼にとっていまが初めてだった。ヨシオの腕に片手で軽くつかまり、腰をひねって上体を斜めに傾け、直子は左右のサンダルのストラップをはずした。ふたりはホールの板の間に上がった。
「着替えたほうがいいですよ」
 ヨシオが言った。片手で彼の腕を取り、体を寄せ、
「そう?」
 と、直子は言った。
 ホールの左側にある引き戸へ、直子は彼を導いた。落ちついた模様のある引き戸を、直子が開いた。ふたりはなかに入った。直子は引き戸を閉じた。八畳の畳の部屋だった。八枚の畳の上には、なにも置いてなかった。南側は横幅いっぱいに広縁だろう。そこと畳敷きの部分の境界にある四枚の障子は、すべて閉じてあった。厚い雲に覆われた空から雨の激しく降る九月二十日の午後六時三十分、部屋の空間はほの暗さのなかに静かに横たわっていた。持っていたタオルを直子はヨシオに差し出した。彼はそれを受け取った。指先につまんでシャツを肌からはがして、直子は上からボタンをはずしていった。
「二階に部屋が四つあるのよ。そのうちのふたつを、娘が使ってたわ。私はこの部屋で寝て、となりに洋間があって、そこが私の書斎のような部屋。ふたりとも二階で寝ると、不用心でしょう」
 親密な口調で直子はそのように言った。シャツを脱いで畳に落とし、おなじようにスカートも肌からぎとるように脱いだ。下着も彼女は取った。完全な裸の直子が、ヨシオの体といまにも触れそうな距離に出現した。
「濡れてるかしら」
 自分の肩や両腕を、直子は見下ろした。ヨシオはタオルで直子の肩をぬぐった。そして両腕を手まで。それから背中のぜんたい。正面にまわって肩から胸を、彼はタオルでふいていった。胸のふくらみは両手に広げたタオルで下から支えるように受け、ごく軽く拭った。直子の平たい腹を、そして張りの効いた腰の白く広い曲面を、彼はタオルででるように拭った。タオルを片手に持つときには、もういっぽうの手を裸の直子の体に添えて、支えなければならなかった。
 ヨシオは直子の前にしゃがんだ。下腹を撫で、うしろにまわって直子のしりにタオルを広げた。左右の太腿のおもてと裏、そして股間こかんへと、彼はタオルを使った。太腿の内側をひざに向けてタオルを滑らせ、膝、その裏、そしてふくらはぎと向こうずねの肌に残る湿気を、彼はタオルに吸い取った。直子の両足を拭って、彼は立ち上がった。
「あなたもずいぶん濡れたのよ。びしょ濡れをとおり越して、プールの底を歩いて来たみたい」
 ヨシオから受け取ったタオルを四つにたたみ、それを優しく使って直子は彼の顔をふいた。あごから首へタオルで撫で降ろし、
「着替えたほうがいいわ」
 と言い、タオルを自分の肩に掛け、直子はヨシオのシャツのボタンを上からはずした。すべてはずしてから、
「裸になって」
 と言った。これほどに深く優しく甘美な命令を、彼は彼女から受けたことがなかった。彼はシャツを脱いだ。肩から胸ぜんたい、腹、背中、そして両腕を、直子はタオルで拭った。彼の体に添えるもういっぽうの手とともに、直子の両手の動きは彼に対する完全な愛撫あいぶの動きとなった。
「裸になって」
 さきほどとおなじ言葉を、直子は繰り返した。そして彼のかたわらへ優美にしゃがんだ。彼はスラックスを脱いだ。トランクスも脱ぎ、足もとに落として両足をそこから抜いた。強烈な勃起ぼっきが、どうすることも出来ないまま直子の目の前にあらわになった事実を、天井を仰ぎながらヨシオは自覚した。彼の腰から足の先まで、直子は丁寧にタオルを滑らせていった。太腿の内側をタオルは上がっていき、彼の股間を勃起ごととらえた。そしてタオルは離れた。
 しゃがんだまま、直子は彼を仰いだ。彼女の視線の途中に、仰角を大きくして突き立っている彼の勃起があった。直子は彼の手を取った。その手を引き寄せられ、彼は直子のかたわらに膝をついた。直子は彼を裸の胸に抱きとめ、彼は両膝を畳についた。直子は腰を畳に降ろした。彼は直子の両腕に抱きすくめられ、ふたりは畳に横たわった。
 直子のどこをどう抱けばいいのか、ヨシオは模索した。ふたりの体が無理なく重なり合ったときには、直子は彼の下にいた。片腕を上げて彼の頭のうしろをとらえ、自分に向けて引き寄せて、顔を重ねさせ、直子は彼の唇をとらえた。ふたりは口づけをした。途中で直子は唇を離し、
「私はあなたが好きなのよ。好きでなければ、こんなことはしないのよ」
 と言った。
 彼女の口調のなかに満ちている切迫感に引き寄せられて、ヨシオは直子に唇を重ねた。ふたりは口づけを交わし合った。頭のほんの小さな片隅で、勃起が邪魔だ、と彼は思った。どうすればいいか思案した結果、腰を浮かすことを彼は思いついた。開いた直子の白い太腿ふともものあいだで、彼は腰を浮かせた。上体を直子に重ねた彼は、自分の背中を撫でる彼女の手の動きを知覚しつつ、顔を直子の肩に伏せた。鎖骨の出来ばえを唇で感じ取り、彼女ののどもとに口をつけ、頬を重ねた。
「好きなのよ」
 直子がささやいた。
「僕もです」
 という返答がもっとも正しいだろう、と彼は思った。だからそう答えた。
「私が?」
「そうです」
 直子の指が彼の勃起をとらえた。導かれるままにしていると、柔らかく濡れた部分を勃起の先端は感知した。
「そのまま前へ。押して」
 言われたとおりにすると、柔らかく濡れた部分をなかば押し開き、なかばかき分けて、彼の勃起は直子の内部へ入った。下腹が重なり合い、これ以上には進まなくなったとき、反射的に彼は数を数え始めた。顔を上げると、大きくのけぞっている直子の、顎の裏から喉にかけて、そして喉から胸へと落ちていく線と曲面、さらには頬の下をかいくぐってうなじへとつながるあたりの、素晴らしく美しい造形が彼の視界いっぱいにあった。彼の頭のなかにわずかに残って作動している冷静な部分が、その美しさを鑑賞した。
 冷静ではない部分は、ひたすら数を数えた。三十まで到達し、下半身のあらゆる部分に力を込めなおし、六十まで彼は数えた。濡れて柔らかく暖かい粘りから自分が受けとめている、複雑さをきわめた微妙な摩擦や圧迫による刺激の快感に、彼は正面から向き合おうと試みた。受けとめている刺激に対して、彼は自分の感覚を全開にしてみた。正面から受けとめる刺激に、彼のすべてはあっさりと飲み込まれた。次の瞬間、射精への強烈な反射が始まり、彼は声を上げて上体を反らせ、反射の急速な連続に耐えた。耐える作業のぜんたいが、そのまま、彼にとっては生まれて初めての快感だった。
 反射が治まってようやく、彼は直子を自分の体の下に抱き込むことが出来るようになった。両肘りょうひじと両膝で、彼は自分の体重を支えた。直子の肩甲骨の下から手をまわし、肩を掌のなかにとらえた。頬を重ね合わせた。直子は彼の脚に外から両脚をからめた。ふくらはぎで彼の太腿を自分に向けて引き寄せ、
「まだ離れないで。そのままにしていて」
 と言った。甘い言いかたのなかに、切迫感がまだ存分にいきわたっていた。彼女は彼の体のさまざまな部分を撫で、顔を自分に向けさせ、口づけをした。
「好きよ」
 直子は言った。
「好きでなければ、こんなことはしないものなのよ」
「僕も好きです」
「いつも私を見てるでしょう」
 直子が聞いた。
「アルバイトする以前から、何度めかにお客で来てくれたとき、私は気がついたの。それ以後、何度か確認したの。私を見てたでしょう」
「観察していました」
 と、ヨシオは答えた。
「なぜ?」
 という質問とともに、直子は彼を抱きなおした。彼の両脚に外からからめている脚の位置を修正した。彼女のふくらはぎは彼の太腿をうしろから自分に向けて押さえていた。射精したあとの彼は、そのため、彼女の内部にとどまったままだった。
「私に興味があるから見るのね。どんな興味なの? 性欲?」
 最後のひと言には直子という人の性格がそのまま出ている、とヨシオは思った。
「かたちのいいものを見るのが、好きなのです」
 と、彼は答えた。
「私は、いいかたちなの?」
「素晴らしいです」
「私のかたちがいいとは、あなたにとって好きなかたちであるということね」
「そうです」
「私の外見を、あなたは好いてくれてるの?」
「はい」
「中身は?」
「それもいいはずだ、という前提に立っています」
「性善説なの?」
「そうですね。百点満点からスタートしていきます」
「よく知るにしたがって、そこから減点していくの?」
「きっと、そうでしょう」
「点は甘くしておいて」
 というひと言の言いかたのなかに、相手である彼のすべてを自分の内部に引き込む力があった。
「八十点くらいにしておいて。せっかくだから」
「そんなに下がりません」
「八十点から下に下げないで。八十点ならいいでしょう?」
「何点でもいいのです。それに、文字どおり一点ずつ減点していくのではないのですから」
「私の体のかたちが好きなのね」
「好きです」
「どんなかたちなの?」
「いいかたちです」
 と言ったヨシオは、
「動きかたも、たいへんいいです」
 と、つけ加えた。
「好きなかたちのものが、きれいに動くのを見るのが好きなの?」
「そうです」
「私のほかには?」
「女性ですか」
「たとえば、女性は」
「いません」
「ほんと?」
「ほんとです」
「もっと見たい?」
「いつも見ていたいです」
「見ていいのよ。見せるわ、いくらでも。見て」
 彼の背中にまわしていた両腕をほどき、直子は彼の肩に両手を添えた。
「体を起こして、私を見て」
 言われたとおり、ヨシオは上体を起こした。自分の下にいる直子の、胸板の白い広がりとその上にあるふたつのふくらみ、そして喉やあご、頬、うなじ、なかば乾いた乱れ髪などを、彼は見下ろした。
「見てます」
「どう?」
「きれいです」
「体も見て。脚のほう」
 からみ合う自分たちの脚を、彼は見た。
「私の脚や腰」
「見てます」
「これから何度も見てくれるのよ」
 そう言って直子は彼を抱き寄せた。頬を自分の頬に重ねさせ、彼の耳のなかに直子は言った。
「また固くなってるわ。ほら」
 直子の腰の微妙な動きのすべてが、その内部にある彼に伝わった。彼という相手とともに存分に興奮している直子は、その興奮をみずからさらなる高みへと引き上げた。高みの上で直子は夢中になった。彼女のそのような状態を、いまこの自分が現出させているのだと自覚すると、その自覚はそのまま彼にとっては興奮の急激な上昇経路となった。
 興奮を自覚することは、それを受けとめることでもあった。受け取るとそれは快感であり、興奮の自覚と表裏にからんで、快感と興奮はともに上昇を続けた。その上昇に抵抗を試みる自分を、彼は頭の片隅で第三者的に見ていた。抵抗は半分までは成功した。だから彼は、今度は百まで数を数えることが可能だった。彼を引き込んで自分と一体にさせずにはおかない直子の魅力や美しさは、やがて彼の抵抗に対して圧倒的に勝った。抑えきれるものではない反射に、さきほどとおなじく、彼は声を上げて上体を反らせた。
 直子の上に上体を伏せ、彼女の髪を指できながら、彼は反射の終了したあとの自分を直子にゆだねた。やがて直子は彼の腰に両手を添えた。あお向けで受けとめていた彼を、彼女は自分の骨盤の上から優しく降ろした。ふたりは横向きになり、おたがいを深く抱きなおした。直子は彼の体のさまざまな部分をでた。
「つるつるなのね」
 低くした声で、直子は言った。彼の肌のことだ。
「十八歳はまだ子供の体でしょう。でも、たくましいわ」
 直子の肩甲骨を覆う肌のぜんたいに、畳の目が型押ししたかのようにつらなっているのを、彼は指先でたどった。直子は彼の顔を引き寄せ、口づけをした。しばらく続けてから唇を離し、
「初めて?」
 と聞いた。
「そうです」
「女の体を私で覚えて」
 直子が言った。彼の太腿ふともものあいだに、彼女は片方の太腿を割り込ませた。彼の股間こかんに自分の太股のつけ根をしっくりとはさみ込み、彼を抱きなおし、
「不思議だわ』
 と、吐息とともに彼女は言った。
「なにがですか」
「娘の話はしたわよね」
「僕と同じ年齢の」
「そう。京都の大学で、いまは法学部の一年生」
「聞きました」
「その娘とずっとここでいっしょに暮らして来て、今年の春に初めて彼女と離れて。そしてふた月あとには、あなたがあらわれたのよ。まるで入れ違いのように。息子だと思えば息子だし、でも私は息子のことなど、なにひとつ知らないし。それに、私が女ならあなたは男で、だから私たちは男と女でもあるし。娘の育ちかたについては、私はよく知ってるわ。私が育てて来たのだから。あなたについては、なにも知らないのよ。だから教えて。私が感じてることをそのとおりに言うなら、けっして悪い意味ではなく、あなたはほったらかしで育ったでしょう」
「そうです」
「でも、自分にとっての中心になる軸のようなものは、すでに見つけてるのね。ほとんどいつも無自覚でしょうけれど、だいたいはその軸に沿ってものを考えたり行動したりしてるのね。わたしはそう思うの。あなたはどんな人なの?」
「思ったことを、思ったとおりに言います」
「私はどう思ってるの?」
「好きなかたちです」
「だから見るのね」
「凝視します。凝視は観察となります。観察は思考です。思考していると、まとまってくるのです。世界はまとまってきますから、そのなかに自分がどう位置すればいいのか、わかるのです」
「私は好いてもらえてるの?」
「はい」
「いまの私たちを凝視してみて。こんなことをしてるのよ」
「もっと見て、もっと考えて、まとめます」
「女の体を私で覚えて。みんな覚えて」
 直子も思っていることはしゃべってしまう。喋ることによって、次が出て来る。考えや態度がまとまっていく。言ったことは額面どおりであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
「返事をして」
「はい」
「女の体をみんな私で覚えて」
「はい」
「覚えることはたくさんあるわよ」
「わかりました」
「時間がかかるのよ」
「はい」
「私はこの秋には、四十歳になるの」
「僕は来年で十九歳です」
「時間はあるわね」
「あるはずです」
 直子は彼に口づけをした。唇を半分だけはずし、
「体を撫でて」
 と、彼女は命令した。
「名前を呼んで。こうしているときは、直子と呼んで。ほかのときには、さんをつけてもいいから」
 彼は直子の名を呼び、彼女の体を撫でた。
「おしりを撫でて」
 直子の手はやがて彼の股間にのびた。彼女の指は彼の勃起ぼっきをとらえた。とらえかたの良さに、彼女という人の性格の一面が出ている、とヨシオは思った。彼女の性格に、いまはこうしたかたちで、自分は直接に触れている。そんなことを考えている彼に、
「またこんなに立つの?」
 と、直子は言った。
 導くともなく導かれて、彼は直子の上になった。上になるということは、直子の体のなかに三たび入ることだった。
「一度にたくさんするものではなくってよ」
 という直子の言葉を受けとめながら、今度は数を数えなくてもいいかもしれない、と彼は感じた。彼の余裕は直子にも伝わり、彼女はより大きく自由に乱れた。乱れながら彼女の両手は彼の腰を撫でた。さまざまに撫でて彼を抱き寄せ、口づけをし、
「雨はやんだわ」
 と、ささやいた。部屋のなかは、ほの暗い状態からさらに向こうへと、移っていきつつあった。
 彼を受け入れている直子の腰は、堂々と落ちついていた。深さと安定のなかにとらえきった彼を、外からからめた両脚の動きであやしつつ、味わった。
「あなたの好きなように動いて。私はついていくから」
 直子の声と口調の良さは、いまのヨシオにとっては衝撃だった。衝撃は彼をつらぬいた。なにをどうすればいいのかまったくわからないまま、彼はおなじ姿勢を保った。夢中になっている直子の、いま自分が組み敷いている裸体の容積の内部に、彼女のこれまでの歴史のすべてがあるのを彼は自覚した。歴史のぜんたいは、そのまま、生命力の律動だった。
 両肘りょうひじで上体を支えている彼は、両手の指で直子ののどに触れてみた。大きくのけぞっている直子は肩を畳から浮かし、後頭部で上体を支えていた。顎の裏から頬の下をとおり、彼の指は直子のうなじから髪のなかに入った。髪はまだほのかに湿っていた。直子の頭のかたちを彼の両手の指はとらえた。
 自分の状態を彼に伝えるための、おそろしく親密で切迫した直子の口調は、急激に高まった。直子は首が折れそうなほどにのけぞり、幅の広い彼女の肩の白い広がりに、彼はあっけなく引き込まれた。彼の射精の反射に本能的に同調させて、直子の両脚は力まかせに彼の太腿を引き寄せた。反射がやがて終わると、彼はおだやかに直子に上体を重ねた。直子の興奮もやがて治まった。両脚から力が抜けていき、からめていた彼の脚から外へはずれた。目を閉じ、両手を彼の腕に添え、
「しばらく介抱して」
 と、彼女は甘く言った。
「向こうにふすまがあるでしょう。右側を開くと、いつも私がここで使っているお布団があるの。上の段に掛け布団、そして下が敷き布団。敷き布団だけ出して、ここに敷いて」
 ふたりの体はすでに離れていた。ヨシオは立ち上がった。襖まで歩き、直子に言われたとおり敷き布団だけ出して、直子のかたわらへかかえていった。畳に敷いてから、
「シーツはどうしますか」
 と、彼は聞いた。
「このままでいいのよ」
 そう言って直子は体を起こし、ヨシオが初めて見る粘った重さとともに、布団に体を上げた。そして彼に手をのばし、ふたりで同時に布団に体を横たえた。ふたりは横向きに抱き合った。直子の片方の太腿ふとももの円柱は、彼の股間こかんに深く入った。彼を抱き寄せて自分を預け、
「介抱して」
 と、直子は言った。
 彼は直子の肩や背中をで、繰り返し名を呼んだ。部屋のなかはもう暗いと言ってよかった。雨は完全に終わっていた。雨のにおいが部屋のなかにあった。静かだった。抱き合ったふたりは、顔を接し合わせてじっとしていた。
「暮れるのが早いわ」
 直子が低い声で言った。
れながら歩いていたとき、すでに暮れかけていたから」
 ヨシオはくしゃみをした。直子は笑った。
「先にくしゃみをしたわね」
 さらにしばらく、ふたりはそのまま布団に横たわっていた。
「あなたの体温を感じるわ」
 直子が言った。
「ということは、気温が下がってるのよ。服を着ましょうか」
 片手をついて直子は起き上がった。ヨシオも体を起こした。自分とは反対の方向に腰をひねり、手をのばしてタオルを取る直子を彼は見た。布団に片膝をついて腰を上げ、立ち上がる動作に合わせながら、直子がタオルで左の太腿の内側を股間までで上げるようにぬぐうのを彼は見た。立ち上がった直子のかたわらに、彼も立った。トランクス、スラックス、そしてシャツを、彼は身につけた。
 布団が入っている押入れとは別に、部屋にはもうひとつ押入れがあった。歩み寄って直子はその襖を開いた。なかはクロゼットのようにいくつもの棚で仕切られていた。浴衣ゆかたを取り出した直子はそでに両腕をとおし、浴衣を広げて裸の体をうしろから包んだ。きっちりと前を合わせ、彼女は帯を結んだ。うなじへ両手をまわし、髪を外に向けてあおった。
 ふたりは引き戸へ歩き、直子がそれを開いた。外の廊下へ出た。家のなかは暗かった。直子は引き戸を閉じた。彼の腕に自分の腕をからめ、彼の手をとって掌のなかへ握り込んだ。そしてふと肩を寄せ、
「こんなこと、私は二十年ぶりなのよ。可哀相だと思わない?」
 と、直子は言った。
 玄関のホールを右へ、直子は彼を導いた。ホールの奥のスペースは居間だった。居間は南北に長方形で、北側は食堂だ。食事のためのテーブルがあった。その西側が、カウンターをへだててキチンになっていた。直子は明かりをつけた。
「もう八時なのよ」
 そう言って彼女は笑った。
「お腹が空いたでしょう。なにか作るから、食べていって」
「手伝います」
「いいのよ。椅子にすわって私を見てて。思考のもとになる、凝視をしてて」
 直子はキチンを出ていった。ヨシオはテーブルから椅子を引き出し、すわった。直子はすぐに戻って来た。花柄のハンカチを持っていた。両腕を上げて頭のうしろにまわし、髪をゆるやかにひとつにまとめ、ハンカチで束ねた。
「いつもなにを食べてるの?」
 直子が聞いた。
「学校の周辺では、タンメンと餃子ぎょうざが好きです」
 直子は笑った。
「タンメンとは、なんだったかしら。いためたきゃべつが上に載ってるの?」
「そうです」
「今日もそれを食べたの?」
「きょうは食べていません」
「それでは、きゃべつの油炒めを作りましょう」
 夕食を作り始める直子の姿を、ヨシオは観察した。生まれて初めての体験を可能にしてくれた女性を見ていると、その体験の彼に対する作用力が、いまになってようやく、彼の内部から強力に立ち昇って来た。それは彼を大きく動揺させた。自分の身に起こった出来事を、充分に咀嚼そしゃくして飲み込む必要がある、と彼は思った。椅子にすわっているのがつらかった。家の外に出てひたすら道を歩きたい、と彼は願った。
「お店で出すゆで卵が、ふたつ残ってるのよ。食べてね。温かい料理のなかに使いましょう」
 簡単な、しかし気のきいた夕食が、すぐにテーブルにならんだ。ふたりはテーブルのおなじ側にすわり、夕食を食べた。夕食が終わり、夜の時間は進行していき、ヨシオは帰っていく時間となった。直子は彼を玄関まで送った。ドアの内側で抱き合い、
「ではまた、月曜日に」
 と、直子は言った。
「午後一時に店へ来ます」
 直子は彼を送りだしてドアを閉じた。彼は大学の構内を抜けていき、駅に向けて歩いた。電車に乗って新宿へいき、小田急に乗り換えて下北沢で降りた。大まわりに歩いて、彼はアパートメントの部屋に帰った。島村の部屋は明かりが消えていた。
 ヨシオは自分の部屋に入った。一階のぜんたいを、なんの理由もないまま、くまなく見てまわった。そして二階へ上がった。寝室のクロゼットを開いてみた。自分の服とともに、高木節子がなぜか置いていった水着が、ハンガーにかかっていた。その水着を見たとたん、節子について記憶していることすべてを思い出し、彼は泣き出したい気持ちになった。節子に関して自分がそのような気持ちになることを、彼は興味深く受けとめた。クロゼットを閉じ、彼は下へ降りた。
 風呂桶ふろおけに水を満たし、窓を開き、キチンにある焚き口へまわり、ガス・バーナーに火をつけた。居間へいき、小さなデスクに向かって彼は椅子にすわった。ノートブックを開いた。なにも書いてないページを開き、直子との今日の出来事について思った。そのことについてノートに書くなら、自分はどのような言葉を使って、なにを書き得るか。いったい、どう書くのか。順番に書くほかない、と彼は自分に言った。物事はすべて順番だ。
 自分の状況は直子をとおして激変しただけではなく、おなじく直子をとおして、なにか大変なことを受けとめたのではないか。そのような思いが彼の頭のうしろにあった。自分はすべてを引き受けなくてはいけない。これは受けとめるけれどそれは受けとめない、という選別は許されない。直子というぜんたい、そして直子がもたらす状況のぜんたいを、自分は引き受けなくてはならない。「好きよ」と、直子は言った。「好きでなければこんなことはしないのよ」とも言った。それに対して自分は、「僕も好きです」と答えた。その言葉に関して、自分が守るべき有効期限はどのくらいだろうか、とヨシオは考えた。いつまでも、という答えしか見つからなかった。
 島村のことをヨシオは思った。夏子を相手に、島村もこうだったのか。夏子に対する自分の恋愛感情のすぐかたわらには強烈な性欲がある、と島村は言った。性欲が満たされることだけにかまけていると、結果として自分は夏子を私有することになり、夏子はその私有のシステムの内部に閉じ込められる。そして自分も同時に、その閉じた世界に封じ込められてしまう。開かれた世界にしておきたい、と島村は語った。私有の関係を越えて、そのずっと彼方かなたまでふたりで出て行くことの出来る経路を持っていたい、と彼は言った。そしてその経路とは、島村にとっては、伊東夏子の写真を撮ることだった。
 自分はどうなのか、とヨシオは思った。直子に対する恋愛感情は、確実に存在している。性欲はどうなのか。あって当然だろう。一度にたくさんするものではなくってよ、というひと言で直子はその性欲を肯定してくれた。自分と直子とのあいだに、私有の関係はおそらく成立するだろう。いわゆる男と女の仲だ。それだけでもいいけれど、それだけにはしたくないと言うなら、どうすればいいのか。私有関係の外に向けて、どこまでも出ていくための経路は、なになのか。ノートブックに書くことか。対象の大きさ、豊かさ、複雑さ、そして謎にとどまる部分など、とうてい自分には書きつくせないのではないか。島村の場合は、彼と夏子との関係は、夏子を主題にした彼の写真作品として、独立していく。直子との関係はとにかく続けるほかない、と彼はひとまず結論した。直子に会いたい、と彼は思った。
 次の日、土曜日、ヨシオは九時に目覚めた。ひとりで朝食を作って食べた。直子に会いたいという思いはつのった。彼は外出した。夏が秋と重なって消えていく最後の部分の、晴れた日だった。下北沢の駅へいき、小田急の下りの急行に乗った。なんのあてもなく藤沢までいき、目的地をきめるなら葉山しかなく、したがって彼はそこへ向かった。葉山の駅から歩き、プールのあるあの家へいってみた。
 庭とプールには、先週よりもさらに、夏が希薄になっていた。プールの水は緑色に向けて色がつき始めていた。プールの管理方法について、ハリー中村に聞いておくのを忘れた。手紙で問い合わせるほかない、とヨシオはぼんやりと思った。庭にいて陽ざしを受けとめていると、自分がいまひとりであることが際立っていった。直子に会いたい、と何度とも知れず彼は思った。彼女の豊かで幅の広い受容力のなかではなくともいいから、その力の作用範囲内で彼女のかたわらにいるだけでいい。家のなかで電話が鳴った。
 電話をかけて来たのは島村冬彦だった。
「部屋にいないので、そこかなと思って電話をしてみた」
 と、島村は言った。
「夏子さんが、またその家を見たいと言っている。買うことを本気で考えているみたいだよ」
「ぜひとも買ってくれ。ここをふたりの新居にすればいい」
 ヨシオの言葉に電話の向こうで島村は笑った。
「いまいっしょに、浜松町にいるんだ」
「ここへ来ればいい」
「いってもいいかな」
「待ってるよ」
 一時間ほどあと、夏子と島村は到着した。庭の半分にまだ陽が当たっていた。テラスで使うための椅子を三脚、ヨシオは陽ざしのなかに持ち出した。三人はそこにすわって話をした。
「この家の値段は、僕のノートブックに書いてあります。ノートはアパートメントの部屋に置いて来ました。正確な額は覚えていません」
 とヨシオは言った。
「見当はつくのよ」
「買ってください」
「ちょうどいいから、ぜひそうするわ。私もいい歳だから、独立しないと。いまの家の両親には、話をしたの。疎遠になることだけは避けてくれるなら、どこへ独立してもいいということになったの。疎遠にはならないわよ。私は本当の両親だと思ってるし」
 本当の両親だと思っていると夏子が言う人たちを、ヨシオはよく知っていた。幼い頃から近所の顔なじみだ。初老と言われる年齢を、その向こうに向けて静かに通過していきつつある夫婦だ。夏子のような女性が家にいることによる、明るい華やぎ、あるいは美しい端正さなどを、ヨシオは想像することが出来た。夏子を手放したくないと願う彼らの気持ちが、一瞬、ヨシオの胸のなかをも走り抜けた。
「あのアパートメントの部屋は?」
 ヨシオは島村に聞いた。
「これまでどおり、僕が借りるよ。純粋に僕の場所だ。僕の基地だ」
「あのアパートメントぜんたいも、よかったら買い取ってください」
 ヨシオは夏子にそう言った。
「売り物なの?」
 真剣な表情で、彼女は聞いた。
「売りに出してある、というわけではないのですが、買い取りたいと言えばあとは相談だけだと思います」
「どなたと相談すればいいの?」
「僕の父親が代理になってます。僕は代理の代理です」
「このお家の話をまとめるとき、お父さんにうかがってみるわ」
「きっと喜びます」
 三人の話はヨシオのアルバイトのことになった。
「なぜか妙に忙しくて、タイミングがつかめないの。一度、ぜひ、コーヒーを飲みにいくわ」
「来てください」
 直子との関係は夏子にはひと目でわかってしまうのだろう、とヨシオは思った。
「六月からですって?」
「そうです」
「なにを思って、アルバイトをすることにしたの?」
 見に来ればわかります、と胸のなかで言いながら、ヨシオは笑顔になった。
「いい店なのです」
 という平凡な言葉を、彼は返事とした。
 夕方は早くに来た。夕食の材料を買うために、三人はやがて外出した。葉山の駅のすぐ近くで彼らは天麩羅屋てんぷらやの前をとおった。入って食べてみたい、という気持ちを起こさせる造りと雰囲気の店だった。
「今日はここで食べましょうよ」
 夏子がふたりを誘った。
「私がご馳走ちそうするから」
 三人はその店で天麩羅を食べた。食後には喫茶店に入ってコーヒーを飲み、葉山の駅前でヨシオはふたりと別れた。家のかぎはふたたび夏子に預けた。
「僕はもういいですから、夏子さんが持っていてください」
 来たときとおなじルートで電車を乗り継ぎ、ヨシオは下北沢まで帰った。部屋に入って居間のソファにすわり、さらに明日、日曜日という日があることを、彼は思った。どう過ごせばいいのか。朝、目を覚まし、朝食を作って食べる。今日とおなじだ。冷蔵庫のなかにある材料は、少なくなっていた。買っておかなければいけない、と彼は思った。
 そしてその日曜日は、目を覚ましてから朝食を食べて、部屋を出るところまで、昨日とほとんどおなじだった。晴天の様子も、昨日の完全な繰り返しと言ってよかった。秋の晴天だった。夏の頃にくらべると、空間が広くなったように思えた。空が遠かった。部屋を出た彼は、とにかく歩くといい、と思った。だから彼は歩いた。経堂までいき、そこで小田急の下りに乗った。多摩川にさしかかる手前で思いつきを得て、彼は電車を降りた。川の縁まで出た彼は、川に沿ってその東側を、川下に向けて歩いた。
 ひたすら歩くと羽田に出た。羽田では高木節子のことを思い出した。空港へいってみた。近辺の食堂で昼食を食べた。知らない場所で外食するとき、ヨシオは天丼を食べるのが幼い頃からの癖だった。だから今日も、彼は食堂で天丼を注文した。昨日の夕食が天麩羅であったことについて、彼はひとりで思った。食べながら彼は高木節子のことを考えた。あの美しさのまま、ホノルルで彼女はなにを食べているか。マカロニ・サラダにテリヤキ・チキンか。食べるものに気をつけないと肥りますよ、と今度の手紙に書かなくてはいけない、と彼は思った。部屋に帰ったら節子に手紙を書こう。天丼のなかの海老えびみ切り、尻尾しっぽを漬物の小さな皿の端に置いた。
 羽田からは川の西側を川上へ歩いた。小田急線まで歩くと日はすでにほとんど暮れていた。一昨日のおなじ時間のことを、彼は思い起こした。布団を敷いてその上にふたりで横たわってから、暮れていくのが早い、と直子は言った。いま彼女はなにをしているのだろう。夕食の支度か。会いたい。明日、会える。切符を買い、彼は小田急の駅のプラットフォームへ上がった。ほとんど暮れてはいるけれど、時間はまだ中途半端だった。ベンチにひとりですわり、夕食のことを彼は考えた。
 下北沢で夕食の材料を買って帰り、ひとりで彼は夕食を作って食べた。節子に宛てて時間をかけて手紙を書き、そのあと散歩に出た。夜道をひとりで歩き、十一時に部屋に戻り、風呂ふろを沸かして入った。島村と夏子がエイヴォンへコーヒーを飲みに来ることについて、彼は風呂のなかで思った。直子と自分との関係は、夏子にはひと目でわかるだろう。夏子とはそのような洞察力のある女性だ。そして写真の被写体として、島村は直子に興味を示すだろうか。
 次の日、月曜日、ヨシオは朝食を食べてすぐに部屋を出た。大学の講義は午前中にひとつあるだけだった。それに間に合うように学校へいき、教室には定刻に入った。講義は一時間で終わった。書店をめぐって立ち読みをし、十二時三十分を過ぎて彼は好みのタンメンを食べる店に入った。タンメンを食べて満足し、喫茶店エイヴォンへ向かった。
 途中から、両足が地面につかないような錯覚を、彼は覚え始めた。体が妙に浮いているような気がした。すべては心理上の出来事なのだが、いまの彼には現実のこととしか思えなかった。浮き上がっている自分の体を、下げよう、下げようとしながら、彼は歩いた。店の前で心臓の鼓動が急に早くなった。ドアを開き、彼は店に入った。直子はカウンターのなかにいた。顔を上げた彼女と視線が合った。彼女は微笑した。生まれて初めて体験するほどの安堵感あんどかんを、彼は覚えた。涙が出るほどの安堵だった。
 直子は着物を着ていた。女性の着物に関して、ヨシオに知識はいっさいなかった。単なる色無地に袋帯だが、それは信じがたいほどに直子に似合っていた。自分を引きつけてやまない魅力が、もっとも広くて深くて複雑に、直子というかたちをとって美しさの頂点に立っている、と彼は思った。彼はカウンターへ歩いた。客は奥にふたりいるだけだった。ヨシオは直子に手をさしのべ、直子はその手を両手で取った。なんと言っていいのかわからないまま毅然きぜんとだけはしている直子だが、きわめて純粋に彼に甘えた表情が、顔よりも着物に包まれた体のポーズに出た。
「どうしてたの?」
 手を離して、直子が言った。
「元気です」
「私は元気そう?」
「きれいです」
「コーヒーをいれるわ」
「エイヴォンという店名は、シェークスピアのあのエイヴォンですか」
「そういうことをあなたは知ってるのね」
 コーヒーをカウンターで飲み、午後一時からヨシオは仕事を始めた。客が多く、午後五時を過ぎるまで、彼は動きとおした。五時半に客はひとりだけとなった。ヨシオにはカウンターのなかで立ちどまっている余裕が生まれた。直子もカウンターに入って来た。彼に歩み寄り、体を寄せ、内側から取った彼の手を掌に握り込み、着物に包まれた太腿ふとももの側面にその手を押しつけた。そうしながら店の奥に視線を向けている直子の横顔を、彼は見た。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


謎を記録する、謎を記憶する



[#改ページ]

 一年後の九月二十日は、昨年とおなじ日と、怖いほどによく似ていた。早朝から完璧かんぺきに晴れて暑かった。真夏にもどったようだった。しかし空気の質は、明らかに異なっていた。真夏の空気のように重くはなかった。肌に重なったままいつまでもじっとそこにあり、次第に湿度を高めていくという空気ではなかった。今日の空気は、肌に触れるとすぐに、どこかへいってしまう空気だ。ふと不安になるほどに、肌からの離れかたが軽かった。
 十九歳になったヨシオは、午前中はアパートメントの部屋で過ごした。午後、かばんを持って大学へいった。ノートブックや万年筆、本、着替えのトランクスやシャツ、そして歯ブラシやひげりなど、これさえあれば一日や二日はどこにいても間に合うだけのものが、鞄のなかには要領良く納まっていた。講義はひとつだけだった。午後四時に彼は暇になった。四時三十分に、彼は喫茶店エイヴォンへいった。
 彼のあとを継いだ女性の店員が、彼の席へ注文を聞きに来た。彼とおなじ大学の教育学部の三年生だ。六月三十日が引き継ぎの日で、その日はヨシオと彼女がふたりで店員を勤めた。店員のアルバイトは一年で終わりにしましょう、と直子が言った。五月の雨の夜、店の裏にある彼女の自宅の寝室で、真夜中近く、布団のなかで彼と抱き合って、直子はそう言った。
「満一年で、ちょうどいいわ。アルバイトは、それで区切りにしましょう。とてもいい店員さんなのよ。でも、このまま続けていると、若いあなたを喫茶店の主人にしてしまいそう」
「仕事は覚えました」
「そう?」
「喫茶店なら経営出来ます」
「七月一日から、別の人にするわ。これから募集するのよ。これからはずっと女性がいいと思ってるの。あなたとおなじ大学の、地方から来ている人のアルバイト」
「わかりました」
「女の体は覚えた?」
 暗い寝室の布団のなかで、おたがいに体と顔を触れ合わせている至近距離から、直子が聞いた。
「この体。あなたを好きになった女の体。あなたの女。覚えることは、まだたくさんあるのよ」
 だからこそ、昨年の初めての日からちょうど一年後の今日も、ヨシオはエイヴォンに来た。直子がコーヒーと胡瓜きゅうりのサンドイッチを彼のテーブルへ持って来た。直子は花模様の半袖はんそでの夏服を着ていた。薄い生地を体の前で合わせ、体の右側で共布のひもを結ぶという、簡素な作りの服だ。
 この時間に彼がエイヴォンに来ることの意味は、ふたりのあいだではすでに明白だ。彼は閉店まぎわまで店にいる。支払いをするとき、待っててね、と直子は彼に言う。店を出た彼は、おもてをひとまわりして、直子の自宅の玄関までいく。合鍵あいかぎでドアを開き、彼は家のなかに入る。直子の寝室の奥に、八畳ほどの広さの部屋がある。その部屋を直子は模様替えし、ベッドを置いた。ベッドで寝てみたくなったから、と娘には言ってあると直子は説明した。ヨシオが泊まる時の部屋だ。かたわらに人がいると、直子は寝つけない。喫茶店は一日の営業を終わる。ウエイトレスは掃除をして帰っていく。店を閉めた直子が自宅へ戻って来るのを、ベッドとデスクのある部屋で、あるいは居間で、ヨシオは待つ。
 喫茶店エイヴォンのなかで、午後の時間はゆっくりと経過していった。四時三十分は五時となり、五時はやがて五時三十分へと、接近していった。ヨシオは直子を観察した。成熟した美しい造形という外見のなかに、自信によって微妙さをきわめた深みというものがあった。それに関して、自分が知っている部分と知らない部分とを比較しようとすると、彼女を知れば知るほどに大きくなるまだ知らない部分に向けて、自分がさらに強くつき動かされていくのを、ヨシオは自覚していた。そのようにして経過したこの一年について、ヨシオは何度めとも知れない復習をした。
 昨年の六月から今年の六月まで、直子を中心軸として、彼の一年という時間は存在した。エイヴォンでの店員の仕事は、その彼にとって、生活の基本的リズムとなった。店での仕事は多忙だった。気楽にコーヒーを飲む学生の数が急激に増えている、と直子は言っていた。エイヴォンという喫茶店の売り上げは、ささやかなものではあるけれど、開店してからずっと上昇を続けているという。
 その一年が過ぎ去った。六月は終わり、七月となった。そして夏休みがあった。いまはもう九月だ。そして今日、九月二十日は、ヨシオと直子のふたりにとって、一年めの記念日だ。すでに何度も考え、ノートブックに書き込んだことの、今日という日における復習をヨシオはひとりで試みた。その試みのなかで、直子の姿がいま彼の視界にあった。
 昨年の今日、あの日というものは、彼の感覚のなかに、ぜんたい的な感触として記憶され、残っていた。あの日の早朝からの気温や湿度、そして夕方からの雷鳴や豪雨。雨が終わり、午後が急速に消えて夕方へと交代し、夕方が深まりきると、そこには秋のいちばん初めの、静かな夜があった。直子を中心にして始まった、いまはまだなにとも言えないなにごとかは、あの日というものの感触のぜんたいとともに、決定的なスタート地点として、彼の内部に固定されていた。
 そして今日は、それから一年後の、同一と言っていいほどによく似た、九月二十日だ。昨年の今日から今年の今日までのあいだに、一年が経過している。ヨシオも直子も、今日はともに一年後の人だ。しかし、今日という日の季節感としての感触は、昨年の今日とおなじだ。重なり合うふたとおりの九月二十日のあいだに、もうじき完全に消えようとしている一年という時間がある。経過して去る時間は、記憶として自分や直子の内部に残るほかない、とヨシオは考えた。ではその記憶とは、いったいなになのか。
 昨年の九月二十日からスタートした一年という時間の中心は、ヨシオにとっては直子だった。彼女をとおして、彼女とともに自分の内部に記憶として固定された、一年という時間、つまり四季のひと巡りという、季節感だ。今日から二年めが始まる。秋は深まっていく。知ったばかりの直子に対する、限りない懐かしさのような感情を、昨年のおなじ時期のヨシオは覚えた。今年もおなじだった。一年後の直子に対する、底なしだと言っていい懐かしい気持ちに、いまの自分の視覚がとらえる直子の、体の容積の内部にある陰影に満ちた深みを、ヨシオは重ねてみた。
 昨年の自分が、秋の深まりと同調して、直子に対してあらゆる感覚を集中させたことを、ヨシオは思い起こした。秋が深まって冬になっていくという季節感のぜんたいのなかに、自分のすべてを集中させるに値する直子がいた。肌が感知する冬の寒さは、外界との隔壁となった。寒さが深くなるにつれて隔壁は堅固になり、その堅固さの内側に自分が囲い込まれていくのを、彼は自覚した。内側にいるのは、彼ひとりではなかった。直子がそこにともにいた。冬に向かう季節、そして冬という季節のなかでの直子と彼とのつながりは、直子に対する高い集中度によるつながりだった。
 それは冬のあいだ持続した。長すぎもしなければ短すぎることもない、充分な期間として冬は経過していった。一月なかばには、日が少しだけ長くなっていることが明らかだった。陽ざしの色が、わずかずつ春のそれへと、変化していった。直子に対して、高まりきったヨシオの集中度は、ごく淡く始まった春によって、魅惑的に中和され始めた。中和の過程は絶妙の階調をたどった。
 中和がある段階まで到達すると、ヨシオは不安を覚えるようになった。このままどんどん中和されていき、その結果として直子は逃げていくのではないか、消えてしまうのではないか。自分は直子を失うことになるのではないか。このような不安な思いのなかから、直子をとらえなおす手がかりをあらたに見つけなおすという新しい作業が、ヨシオの内部で始まった。探せばすぐに見つかるいくつもの新しい魅力のひとつひとつに、春という季節が重なった。だから春のなかで直子の魅力は領域を広げ、深めた。
 初夏になった。陽ざしのきらめきに同調して、直子も輝きを放った。春のなかで広がり深まった彼女の魅力のひとつひとつが、夏のなかで美しい光を放った。どの光をも、どこまでも追いかけたい、とヨシオは願った。梅雨の雨のなかで、彼は直子を存分にとらえることが出来た。彼を受けとめて許容する直子の力の、幅や奥行きのあらゆる部分に、しっとりと落ちついた情緒が宿っていた。彼女だけで作られている、ほかにおそらくなにも必要としていない、完全に完結した世界をヨシオはそこに見た。
 彼女だけで作られているそのような世界のなかに、宇宙があった。梅雨の雨が降り続く夜の直子は、雨のなかに広がっていた。日本の気候条件の特徴的なひとつである梅雨の雨が極大だとすると、極小の位置には直子がいた。夏になると、安定した日々が来た。強い陽ざしとすべてを覆いつくす暑さのなかで、直子に合わせて自分も輪郭が明確になっていくのを、ヨシオは楽しんだ。輪郭が明確にになりきると、そこに夏の頂点があった。まるで時間が止まったかのように、このままの状態がいつまでも続くのだ、とたやすく信じることの出来る日々のなかで、夏休みが始まった。
 八月いっぱい、喫茶店エイヴォンは休みとなった。その八月のあいだ、直子は京都に滞在することになった。
「娘がここに帰って来ても、子供の頃からよく知っているこの街に、この家と店があって、そこには私がいるだけでしょう。以前とおなじになるだけだから、娘がここに帰って来るのはつまらないことなのよ。だから私が、京都へいくことにしたわ。私には初めてのことだし、娘もそのほうが楽しいはずよ。八月のひと月間だけ、一軒の小さな家を借りることが出来たの。そこにふたりで住みます」
 だから八月のあいだ、ヨシオは直子に会えないことになった。その八月に向けて、七月が進行していった。毎日がお別れであるかのように、ヨシオは毎日、エイヴォンへいった。八月のなかばに一度でいいから会えるといい、という話も出た。ヨシオが京都までいくのが、段取りとしてはもっとも単純だった。彼が京都へいったとして、直子が彼と会うためには、彼女は娘をうまくかわさなければならない。物事を出来るだけ単純にしておくのが、直子の生活の信条だった。複雑な操作は気持ちに負担がかかるだけだから、したくないと彼女は言った。
「八月三十日に私は汽車に乗るわ。三十一日にはもう朝から東京にいて、九月一日からお店を開きます。だから九月一日にお店へ来て」
 この夏をどう過ごす予定なのか、とヨシオは直子から聞かれた。彼は昨年の八月のことを思った。昨年の夏を彼は葉山にあるハリー中村の自宅で過ごした。プールで泳ぎ、夜は本を読んだ。いまあの家は伊東夏子のものだ。彼女の場所であり、おそらく週末には島村もそこで過ごしているはずだ。部屋は空いているから夏のあいだだけでも来ないか、とヨシオは島村に誘われていた。おそらく今年の夏も自分はそこで過ごすのだろう、と彼は思った。プールで泳ぎ、本を読み、ノートブックに文章を書いて。おなじ家に島村と夏子がいる。それに加えて三浦半島があれば、八月のひと月は無理なくやり過ごすことが出来るのではないか。
 そして現実はそのとおりになった。九月一日の午後五時に、ヨシオはエイヴォンへいった。いつもの空間に客がいた。おなじウエイトレスが新しいエプロンを身につけていた。夏服の直子が彼のテーブルへコーヒーを持って来た。
「元気?」
 とだけ彼女は聞いた。
 途中で直子は浴衣ゆかた姿になった。彼のいるテーブルのかたわらをとおるとき、ふと足を止めて、
「京都でずっと着てたのよ」
 と、直子は言った。浴衣の直子は美しかった。彼女の体の容積とその魅力のありかたが、一枚の浴衣によって、まったく異なった位相へと移っていた。閉店寸前に彼は席を立った。支払いをするとき、
かぎは持ってる?」
 と、直子は聞いた。
「持ってます」
「入って待ってて」
 店を出たヨシオは、歩道をひとまわりして坂道を上がり、店の裏の高くなったところにある直子の自宅へいった。歩道から数段だけの階段を上がり、奥へ向かって歩き、右に直角に曲がると突き当たりに直子の家の玄関があった。家に入った彼は洗面室で顔と手を洗った。そして居間のソファにすわって直子を待った。つい二十日前のことだ。
 直子との関係はきわめるといい、とヨシオは思っていた。直子にほうり出されるまでは、直子という女性が発揮する力の、有効半径のなかに自分はいればいい。そのなかで日々を体験し、学ぶべきことや知るべきことを知っていけばいい。直子について考えることは、結果として自分についても考えることだ。直子がなにであるのかがわかることは、自分というものを自分自身にとって、いまの段階で可能なかぎり、明確にすることでもあった。
 直子ではなく高木節子だったら、どんなふうだろうかとヨシオは思った。節子についても、おなじように真剣に考えたに違いない。しかし、直子にくらべると、節子は若い。伊東夏子とおなじ年齢だ。受け入れて尽きることなく引き込んでしまう許容力を直子は持っているが、若い節子にあっては、そのような力の土台はすでに存在しているにしても、いまは跳ね返す力として機能しているのではないか。直子だからこそ可能になる世界がある。そしてその世界のなかに、いまの自分はいる。
 午後六時になった。今日のエイヴォンはこれで閉店だ。ヨシオは支払いをした。直子が応対した。
「待ってて」
 とだけ、彼女は言った。
 店を出たヨシオは、坂を上がって店の裏手にあたる場所へ出た。店よりも高くなったところに、直子の自宅があった。歩道のある道から、家の玄関に向けて、彼は歩いていった。合鍵でドアを開き、彼はなかに入った。玄関ホールの板敷の部分に上がり、誰もいない家の内部の静かさを彼は受けとめた。これまでに何度も体験したことだが、してはいけないことをしているときのような、奇妙な冒険を始めるときに似た胸のときめきを、いまも彼は感じていた。静かな家の内部は、これからなにがあるかわからない、未知の世界だった。
 ホールからまっすぐ奥へ歩き、彼は洗面室に入った。顔と手を洗った。ホールへ戻り、そこに置いたかばんのかたわらに、彼は立ちどまった。鞄を取り上げ、居間へいき、ソファに鞄を置いた。そしてホールまで戻り、ふたたびそこに立った。二階への階段を彼は上がっていった。七月の終わりが近い暑い夜、この階段を裸で降りて来る直子を見たときのことを、ヨシオは思い出した。島村冬彦の被写体だ、とそのとき彼は思った。直子を写真に撮ることを、ヨシオは冬彦に提案した。撮りたい、と冬彦は答えた。しかしまだ実現はしていなかった。
 直子がかつて説明したところによれば、二階は芝居の演出家であった夫にとっての、練習のためのスペースだったという。階段を上がると、その周囲に二階のスペースぜんたいが、仕切るものはいっさいないままに、がらんと広がっていたと彼女は言った。いまは、サン・デッキも含めると、五つの部屋に完全に仕切られていた。
 階段を上がりきったところは、南に面して長方形に広がるドアのないスペースだ。そのスペースの横幅のほぼぜんたいが、サン・デッキとつながっていた。このスペースの西側に、階段と接して、廊下があった。廊下の西側にドアがひとつあった。そしてさらに奥、東側にも、ドアがあった。そのドアのなかは、階段を抱き込んだL字形の部屋だ。物置に使っている、と直子は言っていた。サン・デッキと接したスペースには、南に面してもうひとつ、部屋があった。西側に南北にならんでいるふたつの部屋は、直子の娘の勉強部屋そして寝室だ。どちらのドアも、常に閉じてあった。
「娘を京都の大学にいかせて、ほんとによかったわ」
 と、直子は言っていた。
「生まれてから大学一年生に育つまで、ずっとここだったのよ。大学生になってからもここに居続けるより、環境はがらっと変わったほうがいいのよ。そして現実にそうなったの。とてもいいタイミング。娘は京都のひとり暮らしを楽しんでるし。私のことをママと呼んで、なにかといえばママ、ママだったのに、あるときからぱたっと、なんにも言って来なくなったのよ。娘は私から解放されて、私は娘から解放され、ひとりの女に戻ってその女はあなたの女よ」
 ヨシオは階段を降りた。居間へいってソファにすわった。ほどなく直子が帰って来た。ソファを立ったヨシオは、ホールからの入口へ歩いた。ホールに上がって来た直子は、
「散歩しましょうよ」
 と言った。
 店から持って帰ったものを、直子はキチンの冷蔵庫に入れた。財布とハンカチくらいしか入らないようなクラッチ・バッグを持ち、店に出ていたときのままの服装で、直子は居間の明かりをつけた。ホールの明かり、そして玄関の外の明かりをつけ、彼女はヒールのあるサンダルを履いた。ヨシオも靴を履きなおした。ふたりは玄関を出た。直子がドアをロックした。
「どこかで夕食にしましょう」
 大学に向けてふたりは歩いた。大学の正門から入り、敷地を抜けて裏へまわった。曲がりくねった細い道の商店街を抜けると、やがて広い道路に出た。直子はヨシオの手を取って歩き、ほどなく腕を組んだ。
「あなたがアルバイトでお店にいてくれたときは、とても良かったのよ」
 直子が言った。どういう意味なのかは、続きの言葉を待たなければわからなかった。
「お店が終わったあと、ふたりでいっしょに裏の自宅へ帰ることが出来たから。いまは、あなたが夕方に店へ来て、待っててねと私が言って、あなたは合鍵で家に入って、私を待ってます。これはこれでいいのだけれど、私の好みとしては手が込みすぎているのよ。いい方法は、ないかしら」
「僕もあの家に住みましょうか」
「それもいいわね」
 体を寄せて親密に、直子はそう言った。ふたりは背たけがほぼおなじだ。だからいまのようなとき、直子の言葉は親密さを失わない最短距離で、彼に届いた。
「ご主人になってくださるの?」
 なってもいい、とヨシオは思っていた。
「なにかいい方法はないかと、考えてるの。もっとすっきりした、まっすぐで単純な方法」
 物事を可能なかぎり単純にしておくのが私の信条だ、と直子はいつも言っていた。
「土曜日と日曜日にしましょうか。たとえば土曜日は、あなたと過ごす時間。土曜日に家へ来てくださるなら」
「午後ですね」
「そうよ」
 一日の時間のなかで、性的なことへの希求感や期待感がもっとも高まるのはいつなのか、ふたりだけのきわめて親密な状態のなかで、直子はヨシオにすでに伝えてあった。四時を過ぎるとつらくなり、五時から六時がピークで七時になると治まる、と直子は言った。
「どう?」
「そうします」
「来週は、そうしてみましょうか」
「土曜日の三時過ぎに、僕は直子さんの自宅を訪ねます」
「そうね」
「では、そうします」
「それからの時間は、どんなふうにも過ごせるでしょう。あなたは泊まってもいいのだし。私は土曜日を待って、土曜日になれば午後三時が過ぎるのを待てばいいのよ。もちろん、ほかの日に来てくれてもいいし。コーヒーと胡瓜きゅうりのサンドイッチと、私を観察するためなら、いつ来てもいいの」
「土曜日に僕が来るという一方通行ではなく、双方向にしておけばもっといいですよ」
「私もあなたの部屋を訪ねるのね」
 それもふたりはすでに何度かおこなってきた。あのアパートメントの二階式の部屋を、直子は気にいっていた。
「定期的にかよっていくのは、私、きっと好きよ」
 そう言った直子は、しばらく考えてから、さらに次のように言った。
「どちらがどうするかは、その週のうちにきめればいいわね」
「僕は毎日のように店へいくのですから」
「来週から、そうしてみましょう」
 ふたりは都電に乗った。乗り換えて日比谷に出た。有楽町をへて銀座に向けて歩いた。ジョイスリンの装身具の店のことをヨシオは思った。直子をともなってあの店へいったなら、店主のジョイスリンはなんと言うか。彼女の店は六時三十分で閉店だった。腕を組んで銀座を歩き、裏通りへ入り、直子は一件のレストランを選んだ。
「初めてだけど、ここへ入ってみましょう」
 席について、ふたりの時間の流れは別の次元に移った。
「大学を卒業したら、どうするつもりなの?」
 テーブルの向こうから、直子はヨシオに聞いた。
「わかりません」
 とヨシオは答え、直子は笑った。
「新聞記者はどうかしら」
 直子の言葉にヨシオは首をかしげた。
「興味ないの?」
「なにを書くのですか」
「世のなかのいろんなこと。書くのは好きでしょう」
「無理に書くのは、好きではありません」
「どこかの記者になったら、好きも嫌いもなく、とにかく書かなくてはいけないわね」
「そうですね」
「あなたはいつもノートになにか書いてるでしょう。なにを書いてるの? 学校の勉強ではないのよ。それは見ただけで私にもわかるわ。あなたがお店に来始めて間もなくの頃、ノートに探偵小説を書いていると言わなかったかしら」
「言いました」
「書いたの?」
「いいえ」
「どうして?」
「事件は残っても、犯人はいないのです」
「どういうことかしら」
 いまこの場で直子の質問を受けるままにとっさに思いついたことを、ヨシオは語っていった。
「犯人は死亡しました」
「犯人とは、事件を起こした人ね」
「そうです」
「どんな事件なの?」
「ほんとは殺人です。男が女を殺すのです。自殺に見せかけた他殺です。完璧かんぺきに成功して、自殺として処理されます。彼は目的を達したのです」
「彼女を殺す、という目的ね」
「そうです。その目的は、完璧に達せられました。しかし」
「なぜ彼は彼女を殺したの」
「彼女という存在を、この世からなくしたかったからです。消したかったのです。彼女という人を、自分の手で、なしにしたかったのです」
「自殺に見せかけて殺して、それは見事に成功したのね」
「成功しました。彼女という人は、この世から消えました。死ぬと人はほんとにかき消えるのです」
「そうでしょうね」
「ところが」
 と言ったヨシオを、直子は笑顔で受けとめた。
「ところがそこで、ひとひねりあるのね」
「そうです。この世から自分の手で消してしまいたいと願っていて、そのとおりに消してしまったほどの女性ですから、彼にとっては強烈な存在だったのです。強烈な存在は、強い記憶を残します。この場合は、彼女を殺したその男性の頭のなかに」
「彼女という具体的な存在はかき消えても、彼女に関する記憶は、彼の頭のなかに残ったままであるということかしら」
「そうです。彼女の記憶は、強烈に残っています」
「せっかく苦労して殺しても、それでは意味がないわね」
「そのとおりです。殺したにもかかわらず、彼女は生きているのです。しかもこともあろうに、殺した当人の頭のなかに」
「困ったわね」
「困ります。しかもその記憶は、日がたつとともに、どんどん鮮明になっていくのです。忘れていたことも細かく思い出して、ディテール豊かに具体的に、彼女は彼の頭のなかに存在し続けていきます。消したはずの彼女は、頭のなかでいつも彼につきまとっています」
「それはとても嫌でしょうね」
「嫌です。なんとかしたい、と彼は思います。そして結論を得ます。決定的な結論です。自分の頭のなかに鮮明な記憶として生きている彼女を消すには、自分を殺すほかないのです」
「ああ、大変」
「彼はその作業にとりかかります。今度は、他殺に見せかけた自殺です。自分で自分を殺すのですからそれは自殺なのですが、彼が本当に殺したいのは、自分の頭のなかにしっかりとみついている、記憶としての彼女です。その彼女を殺すのですから、他殺です。だから彼としては、絶対に他殺に見せなくてはいけないのです」
「高級な探偵小説だわ」
「自分の頭のなかにある記憶としての彼女を、彼は見事に他殺します。他殺事件として、犯人が見つからないまま、それは迷宮入りとなります。犯人はもうどこにもいないのですから」
「彼という人の、そういう変わったものの考えかたを、読者に納得させるのは大変だと思うわ」
「ひとりの変わった男を、じっくりと書き込んでいけばいいのです」
「書いたらいいのに」
 と、直子は言った。
「コーヒーを飲みながら読み始めたら、お代わりをして半分くらいまではいっぺんに読んでしまうかもしれないわ。新聞記者よりも、作家かしら。その男はあなたで、女は私にすればいいのよ。年齢が私たちほど離れてるのは、小説として面白いと思うわ。苦労して殺したのに、頭のなかに生きているのを認識して愕然がくぜんとするのは、いいわね。現実の生き身よりも、頭のなかに居続けられるほうが、おそらくずっと嫌なはずよ。私は殺されたくはないけれど、誰かの頭のなかにずっと生き続けるのは、とてもいいわ」
 そんな話とともに夕食は始まり、やがて終わった。レストランを出て、ふたりはふたたび腕を組んで銀座を歩いた。
「エイヴォンに何度か来ている、島村冬彦という男がいます」
「写真家になる人ね」
「子供の頃から近くに住んでいて、高校はずっといっしょでした」
「ええ」
「彼に直子さんの写真を撮ることを、提案してあります。彼は熱意を示しています」
「私を撮ってどうするの?」
「たとえば、一年間の記録にします。今日から来年の今日まで、一年間、直子さんを撮り続けるのです。撮りためたものを、あとで選んで時間順にならべ、一冊の本にします」
「写真集ね」
「直子さんの、一年間の記録です」
「どこで撮るの?」
「店で。そして、自宅で。どちらも、面白い空間ですから」
「いつもの私の場所よ」
「そうです。直子さんが記録されると同時に、島村の作品にもなります」
「私は言われたとおりモデルになればいいの?」
「島村は才能がありますから、直子さんにはいっさい負担をかけることなく、いい写真を撮るはずです」
「いまの私の一年間が、一冊の本になって残るのね」
「そうです」
「いつまでも残るのね」
「その一年間の直子さんが、その本のなかに、いつまでもいます」
「奇妙だわ」
「だからいいのです」
 島村が夏子とともに最初にエイヴォンに来たあと、ヨシオは直子について島村に語った。島村と夏子との関係とほぼおなじ関係が、自分と直子とのあいだにあることを、ヨシオは島村に公開した。そのときの島村とのやりとりの一部分を、ヨシオは思い出した。
「いつだかヨシオが言ったとおり、僕はやがて夏子さんと結婚することになると思う」
 と、島村は言った。
「夏子さんとの関係は、一生、続くわけだ」
「ヨシオとあの女性は、どうなるんだ」
「直子さんは五十八歳で死ぬ。私はもう死ぬ、死んだらすることはないので、必死にあなたを守ってあげる、というのが直子さんの最後の言葉だ」
「ストーリーとしては、そうなってるのか」
「そのとき僕は、三十八歳だ。直子さんを亡くしてすぐに、四十歳となる。そしてふと見れば、冬彦、きみも四十歳を過ぎている。そして夏子さんは、四十代後半の人だ」
「ヨシオには終わりが見えてるんだ。だからストーリーが作れる。終わりを見て、そこから逆に作っていく。夏子さんが言ってたよ。私はヨシオちゃんほど残酷になれないし、ヨシオちゃんほど優しくもなれないって」
「夏子さんがそんなことを言ったのか」
「言ったよ。ノートに書いておくといい」
 組んでいたヨシオの腕を、直子は自分の腰のうしろにまわした。そして反対の手で、彼のその手を取った。自由になった腕を、彼女はヨシオの腰にまわした。
「記録するだけでいいの?」
 直子が聞いた。
「正しく記録すれば、そのなかにすべてを読み取ることが出来るのです。ことさらに表現をたくらむ必要はないのです」
「私なら私を撮るとして、私にポーズをつけさせればそれは演出でしょう」
「直子さんの魅力を、表面に引き出すための演出です。別なものにする演出ではないのです。いまの島村は、いっしょに店へ来た伊東夏子という女性を撮っています」
「ずっと近所に住んでいて、幼なじみだという人ね」
「そうです」
「ものすごい美人だったわ。あのくらいの人なら、写真にも撮りがいがあるでしょう」
「いまは『バーにいた女』というタイトルで、夏子さんを撮っています。タイトルとは、要するに方針ですね。東京にはじつにたくさんの、いろんなバーがあるのです。道に面した小さなドアをひとつ開くと、そのなかは、作ろうとしてもなかなか作れるものではない、バーという場所のセットなのです。現実にはバーですけれど、島村にとっては、精緻せいちに作り上げられたセットなのです」
「そこであの女性を撮るの?」
「そうです。バーにいる女にふさわしいような服装をした彼女を連れて、島村は夜の街を歩くのです。何日か前にひとりで入って、あらかじめ見当をつけておいた店に、彼女とふたりで入るのです。どう撮ればいいか、カウンターの席で彼女と相談します。まとまったら、写真を撮らせてください、と店の人に頼むのです。気さくに撮らせてくれるそうです。店の人も撮ってあげて、ふと思いついてついでに撮るという雰囲気で、夏子さんを撮るのです。カウンターのストゥールにすわって、脚を斜めうしろにのばして上体を向こうへひねっている全身を、低い位置から撮ったりします。脚の良さや腰や太腿ふとももの性的な魅力が、バーという空間の中で無防備にあらわになっていながら、それを見ている人はひとりもいない、というような一瞬の状況です。バーのディテールも、あわせて撮ります。出来た写真は、夏子さんのは別にして、後日、島村が店へ持っていって進呈します。『バーにいた女』というタイトルで、いつかそのうち、作品集を作ろうという計画です。撮影には僕も何度か同行しました」
 歩いていく直子の骨盤の動きを、彼女の腰にまわしている腕をとおして、ヨシオは感じていた。直子は立ち姿がたいへんに美しい。歩きかたから指の動きにいたるまで、身のこなしぜんたいに関して直子が無理なく持っている深い魅力について、ヨシオは思った。直子の歩きかたの魅力を中心にした、『歩く女』というような写真集は、かならず成立するはずだ。
 直子の身のこなしの美しさの秘密については、観察から導き出した結論をヨシオはすでにノートブックに書いていた。歩きかたの魅力は、脚の長さだった。長い脚で歩幅を大きく取る。結果としてその動きにはゆとりがあるから、ひとつの動作の途中から次の動作を重ね始め、いつの間にか次の動作へ滑らかに移行している。上半身が下半身の動きを微妙に精緻に修正している。体のバランスの良さは、そのような修正能力の高さとなって、全体的に機能している。腰のほんのちょっとしたひねりで、歩く動作に修正が加えられる。腕の位置や指のありかたによっても、それは充分に可能だ。すべての動きを絶妙にコントロールしている中枢は、直子の視覚が絶えず受けとめては全身にフィードバックさせている、情報ではないか。どこを見てなにを思うかが、直子の身のこなしの魅力の根源だ。
「いまの東京のいろんな場所を、直子さんがひとりで歩いているところを写真に撮りためれば、それは作品集になります」
「ただ歩けばいいの?」
「そうです。東京のいろんな場所を歩いていて、最初のページから最後のページに向けて、四季の流れがあるのです」
「面白いわね」
「撮る人が島村でモデルが直子さんなら、作品になります」
「それもいいわね」
「島村に提案しておきます」
「私も考えておくわ」
 ふたりは都電に乗った。乗客は少なかった。来たときとおなじように乗り継ぎ、ヨシオがかよっている大学の近くまで戻った。そして直子の自宅へ歩いた。家のなかに入り、ヨシオは洗面室で顔と手を洗った。直子は風呂ふろに水を満たし始めた。そして彼女も手を洗った。ひとつのタオルでともに手をぬぐい、洗面台の鏡に映っているヨシオに、
「今日は一周年よ」
 と、直子は言った。
「そうです」
 ふたりは抱き合い、口づけをした。洗面台の鏡に対して、直子は背を向けていた。自分に抱かれている直子の、腰の上から頭までが、横に長い鏡に写っていた。写真に撮れば記録になる。見ているだけなら、それは記憶だ。自分は記憶するだけでいい、と思いながら彼は直子の唇をさらに受けた。
「覚えきれないよ」
 と島村に言われたことを、ヨシオは思い出した。記録と記憶について語り合っていたときの、島村の言葉のひとつだ。
「覚えられるだけでいい」
 と、そのときヨシオは答えた。
「忘れるよ」
「思い出すよ」
「それがヨシオの人生だ」
 と、島村は言った。
「なにをどれだけ記憶し、なにをどう忘れ、なにをいつ、なぜ、思い出すのか」
「ほんとにそうなるかどうか」
「やってみるほかない」
 浴槽よくそうに水が満ちるまで、ふたりは洗面台の前にいた。水が満ちて、直子はガスのバーナーに火をつけた。焚き口は洗面室のフロアとおなじ高さにあった。
「居間で待ってて」
 ほんのりと甘く、直子が言った。ヨシオは洗面室を出ていき、廊下を歩き玄関のホールをへて、居間に入った。隣接している食堂からキチンに入り、水をグラスに一杯、彼は飲んだ。そして居間へ戻り、ソファにすわった。
 ヨシオが出てしばらくしてから、直子も洗面室を出た。廊下を歩き、畳敷きの寝室の引き戸を開いた。なかに入り、引き戸を閉じた。寝室に明かりは灯っていず、なかは暗かった。西側の窓の障子、そして南の広縁との仕切りの障子から、目が慣れればそれで充分なだけの光が入っていた。
 明かりを灯けないまま、直子はクロゼットになっている押入れのふすまを開いた。体の右側でひもで結んであるだけの夏服を脱ぎ、下着も取って裸になった。脱いだものをひとまとめに広い棚に押し込み、直子は裸の体に浴衣ゆかたを着た。帯を締め、襖を閉じた。すでに布団の敷いてある寝室を、彼女は出た。
 玄関ホールの明かりを消し、暗いなかを居間へ歩き、ドアのない入口から居間に入った。ソファにすわっていたヨシオは、彼女に視線を向けた。壁のライト・スイッチに手をのばし、直子は居間の明かりを消した。ソファを立ったヨシオが自分へ歩いてくるのを待ち、彼の手を取り、ホールを横切って寝室へ歩いた。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


可能性という謎



[#改ページ]


 日比谷優子からヨシオ宛てに自宅へ手紙が届いた。ヨシオは何週間も自宅へ帰っていなかった。アパートメントの彼の部屋の郵便受けに、母親がその手紙を入れておいた。郵便受けから取り出し、差出人の名を見たとき、日比谷優子とは誰なのか、しばらくのあいだヨシオにはわからなかった。
 そして彼は思い出した。三年前に卒業した私立高校で三年生だったとき、同じクラスにいたふたりの美人のうちのひとりだ。わざわざ人に席を代わってもらって、ヨシオは彼女の左隣りにすわった。授業の途中、ふと思いついては、彼女の美人ぶりを眺めるためだ。
 卒業して彼女は就職した。それから二年が経過していた。彼女から手紙が届くのは、久しぶりのことだった。アパートメントの居間のソファにすわって、ヨシオは彼女からの短い手紙を読んだ。
『元気にしてますでしょうか。私は毎日、丸の内の会社に中央線で通勤しています。すでに五件、上司からお見合いの話がありました。この二年間で五件です。すべて断りましたが、これからはそうもいかなくなるような気がします。結婚はまだしたくありません。私の心の視野のなかに、結婚はまだ入って来ていないのです。大学ではどんな勉強をしているのかなと思います。きっと勉強はしてないでしょう。間違っていたら御免なさい。
 会いたいと思ってこの手紙を書いています。時間を取ってください。仕事のある日はなにかとせわしないので、日曜日がいいのです。日曜日の午後、下北沢で。都合のいい日と時間を、教えてください。それに私は合わせますから。どこかで待ち合わせるとしたら、その場所もきめて、いっしょに教えてください。私はその時間にそこへいきます。
 相談したいことがあるのです。相談の結果によっては、いまの会社を私は辞めることになると思います。そうなる方向へ私はいきたい、ということです。真剣に考えています。どんなことなのか話をしますから、あなたの意見を聞かせてください。もう冬ですね』
 アパートメントの居間の、階段のある側の壁の横幅ほぼいっぱいに、木枠のついたコルク・ボードが取りつけてあった。ヨシオがここに住むようになってから取りつけたものだ。紙あるいはそれに類するもののすべてを、彼は押しピンでそのボードに留めておくことにしていた。引出しにしまったり書類箱、あるいはファイルに入れたりする代わりに、彼はここに押しピンで留めていた。どこかにまぎれ込んでなくなることはないし、ボードの前に立って見渡せば、一目瞭然りょうぜんではないか、というのがヨシオの理屈だった。日比谷優子からの手紙も、彼はそのボードにピンで留めた。
 彼はすぐに返事を書き、その日のうちに投函した。次の日曜日の午後の時間を指定し、最初に思いついた喫茶店の名を書き、駅からの略地図を添えた。そしてその日の午後、約束の時間に、彼はその喫茶店へアパートメントの部屋から歩いていった。冬が始まる季節の、曇った日だった。
 日比谷優子はすでに来ていた。美人ぶりには磨きがかかっていた。つまり、高校三年生だった頃にくらべると、卒業してからの二年分以上に、彼女はほぼ完全に大人になっていた。カシミアのセーターにウールのスカートをはき、中二階の席に脚を組んですわっていた。きれいにたたんだトレンチ・コートが、かたわらに置いてあった。
 彼女とならんですわったヨシオは、テーブルに両肘りょうひじをついて頬づえをつき、優子の顔を眺めた。しばらくそのままにさせておいた優子は、やがて笑った。
「高校のとき、授業中にあなたはいつもそうしてたでしょう。私のなにを見てたの? 席を代わって私の隣りに移って来たから、私のことが好きなのかな、と私は思ったりもしたのよ。でも、そうでもなかったのね」
「そうでもなくはない」
 広がったスカートをはいたウエイトレスが、ふたりの注文を取りに来た。ふたりともコーヒーを注文した。コーヒーはすぐに届いた。いつものとおり、コーヒーは濃く煮詰まって苦く酸っぱく、同時に酸化もしていた。砂糖とクリームがぜひとも必要だった。優子は両方を使い、ヨシオはブラックのまま飲んだ。
 高校三年の夏休みが終わり、新しい学期が始まってほどなく、ヨシオは学校からの帰り道に、駅で日比谷優子といっしょになった。帰る方向は、おなじ電車でおなじ方向だった。空いた電車に乗り、席にすわって、ふたりは話をした。なにかのきっかけで、話は母親のことになった。
 優子が二歳のときに母親を亡くしていることを、そのときヨシオは初めて知った。母親を自分はほとんどなにも記憶していないが、母親の記憶は自分にもあるのだという思いを、自分で自分に強制していることについて、まず優子は語った。強制はしているけれど、では母親のなにを記憶しているのかというと、優子に母の記憶はなにひとつなかった。顔も知らない。思い浮かべるための努力をすると、写真機のファインダー越しに見て焦点が合う寸前のように、ぼんやりと曖昧あいまいにしか、母親の顔は浮かばないのだと優子は言った。
 かばんから手帳を取り出した優子は、はさんであった一枚の黒白の写真をヨシオに見せた。これが私の母親、と優子は言った。おそらく初夏の晴れた日だろう、家の門を入って玄関まで続いている飛び石のようなところに、白いワンピースを端正に着こなした、若くたいへんにきれいな女性の全身が、そのプリントのなかにとらえられていた。自分に向けられているカメラのレンズをまっすぐに見て、その女性は華やかに微笑していた。
 そのときヨシオは、たまたま八倍のルーペを持っていた。それを取り出し、ルーペ越しに彼は写真のなかの優子の母を観察した。黒白のプリントという二次元に凝縮してとらえてある空間のなかへ、ルーペを介して片方の目だけで入っていくことを、ヨシオは優子に教えた。そしてそのルーペは彼女に進呈した。
「髪と耳とのあいだにある微妙な空間へ、ふと入っていける。頬から首へ、そして肩へ。その肩をふと越えると、彼女の背後にある空間へ、まわり込めるような気がする」
 ヨシオの説明を聞いて、優子はひとしきりルーペで母親の写真を観察した。
「拡大されて広がるのね。しかも視線がそこだけに限定されているから、なおさらだわ」
「自分は視線だけになり、その視線は写真のなかの空間に入っていける」
「それは発見よ」
「この人は、きみだ」
 と、ヨシオは言った。思ったとおりを言ってしまうのがヨシオだ。しかし、自分のこの言葉が優子を泣かせるとは、ヨシオは思ってもみなかった。優子は泣き始めた。彼女が降りる駅まで、あと三つあった。その三つの区間を、心の底から悲しそうに、彼女は泣きとおした。電車は駅に入り、停止してドアが開いた。
「さようなら」
 と言い、日比谷優子は写真を手帳にはさみなおし、その手帳を鞄に入れ、鞄を胸にかかえて席を立ち、電車を降りた。ドアが閉じ、電車は発進した。ゆっくりと動いていく電車のなかのヨシオに、優子は小さく手を振った。
 三年と三か月ほど以前のこの出来事について、かたわらの優子にヨシオは語ってみた。優子は笑った。そして、
「確かにあのとき、私は泣いたわ」
 と言った。
「この人はきみだよ、とあなたは言ったの。忘れないわ。日記にも書いてあります」
「なぜ泣いたの?」
「母はどこにもいない、ということをあらためて知らされたから。私は確かに母から生まれ、そのことをとおしてさまざまに引き継いでいるはずのもののなかにしか母はいないのだと、あなたはあのとき言ったのよ」
 かつてのヨシオの言葉を、優子はそのように解釈してみせた。
「母に会いたいわ」
「街を歩いていて、たとえば店のショー・ウインドーに自分の姿が映っているのが、ふと目に入る瞬間、その自分はきみのお母さんとそっくりなはずだ」
 ヨシオの言葉に優子は首を振った。
「私の母はたいへんな美人で、私は普通です」
「そっくりだよ」
「夢のなかで会える、という可能性があるのよ」
 肯定も否定もしないヨシオに、優子は次のように続けた。
「夢のなかで私は二歳の女の子。その私の手を引いて歩いてくれているのが、私の母。私が母を仰ぎ見ると、母は私を見下ろしてくれて、そのとき私は母の顔を見るのよ。そんな夢を見ることが出来るように、私はいつもお願いしてるの。念じてるの。特に、眠る前にはいつも」
「きみは結婚して女の子を作ればいい。二歳になったその子が見るきみは、きみが二歳のときに見たはずの、きみの母親だ」
「複雑ねえ」
 そう言って優子は笑った。
「二重構造になってるのね」
 バッグを太腿ふとももの上で開いた優子は、手帳を出した。なかにはさんであった黒白の写真を、彼女はヨシオに手渡した。ヨシオはそれを受け取った。かつて優子が電車のなかで見せてくれた、彼女の母親の全身写真だった。
「きみによく似てる。そっくりだ。生き写し、というやつだよ」
「母の写真は、この一枚しかないの。不思議よ。なぜかしら。ネガと最初のプリントが一枚、封筒に入ってたの。これは焼き増しのうちの一枚。オリジナルはアルバムからがした形跡があって、四隅に台紙の黒い紙が剥がれてついてるの。父はとっくに再婚して、私はその再婚相手とは仲が良くないの。とても現実主義の人で、頼りにはなりそうだし、まかせて安心というタイプ。けっして悪い人ではないのよ。たくらんだりする人ではなくて、意地悪でもないの。でも、特に仲良くする必要はないのだから、私との仲は良くないの。私は高校一年生のときからひとり暮らしで、いまはもう独立してるから、なおさらそうだわ。母は二十九歳のときに、私を産んだの。そして私がまだ二歳のとき、急性の心不全で、なんの前触れもなしに、突然に他界したの。オリジナルのプリントの裏には、順子、二十六歳、と書いてあるわ。太い鉛筆の字で。父に聞いてみたら、自分の字ではないし、二十六歳だった彼女とはまだ知り合っていなかったと言うのよ。知り合ったときはすでに二十七歳になっていた、と父は言うの」
「ほかに写真はないの?」
「僕は持ってない、と父は言ったのよ。家族のアルバムのなかになければ、少なくともうちにはないのですって。私の写真はたくさんあるのに。母といっしょのは、一枚もないの。気楽に写真を撮る時代でも生活でもなかったから、と父は説明してたわ。昔はそうだったの?」
「きっとね。結婚式の写真は?」
「式は挙げてないのよ。僕はカメラを一度も所有したことはないし、いまでも持ってないよ、と父は言うの」
「お母さんの実家にあるかもしれない」
「いきました」
 と、優子は答えた。
「母は九州の出身なの。中学生の頃に、一度いったわ。ご家族の写真帳のなかに、私の母の写真はありませんでしょうか、と聞いてみたの。母の両親はいまでも健在なの。でも母は、高校生の頃から、ひとり立ちしてたの。私と似てるわね。姉も弟もいて、みんなアルバムを持って来てくれて、母の写真を見せてくれました。おなじ町の写真屋さんへ持っていって、どれもみな複写してもらったの。小さなアルバムに、全部、貼ってあります」
「お父さんの実家は?」
「そこへもいったわ。父は北海道の人なのよ。父が言ってたのとおなじことを、実家のかたたちも言ってました。写真というものは生活のなかになかったのですって。母の写真も私の写真も、父の実家にはなかったわ。生まれたばかりの私を抱いている母の写真を撮らなかったの、と父に聞いたら、記憶しているかぎりではそんな写真は撮っていないと言うのよ。母の実家で見たのは、一九一一年に九州で生まれた女の子の写真でした。小学校に入ったときとか、お祭りの化粧をした女の子の写真、あるいは小学校の遠足の集合写真」
「お母さんの、かつての友人たちなら、持っているかもしれない」
「母の遺品のなかに、人からの手紙や年賀状などがかなりあったの。文面から推測して、この人は親しい友人だったのかなと思えるかたには、中学生の頃に私は手紙を書いたの。母の写真をお持ちでしたら貸していただけませんか、とお願いしたの。三枚、手に入ったわ。私がまだ見ていない母の写真がもっとどこかにある、という可能性はもう薄いの」
 ヨシオのコーヒー・カップのかたわらにある母親の写真を、優子は示した。
「母の写真は、そこで終わるのよ。二十六歳のときの写真。それがもっとも新しい写真なの。ほかはすべてそれ以前のもの。だから私は、いつもそれを持って歩いてます」
「いまきみは二十歳だから、あと六年たってから、この写真のなかのお母さんとおなじような服装でおなじようなポーズで写真を撮ったなら、見分けはつかないほどにそっくりになってるはずだ」
「楽しみだわ。撮るから見てね」
 島村冬彦に撮らせるといい、とヨシオは思った。
「母はどんな声だったのか、私にはもう永遠にわからないのよ。どんな笑い声だったのか。お風呂ふろに入っているときには、お湯の音はどんなだったのか。なにが好きだったのか。なにが悲しくて、なにを喜んだのか。歩く姿は、どんなだったのか。残っているものは、なにもないの。写真が何枚かあるだけ。母に会いたい」
「お母さんはきみのなかにいる」
 とヨシオは言った。それに対して優子は、
「それはもう聞いたわ。私はじつは女優にならないかと誘われてるの」
 と、答えた。最初のセンテンスでそれまでの話題を終わりにし、続くふたつめのセンテンスで彼女は次の話題に入った。それが今日の本題だった。
「なればいい」
 というヨシオの返答に、優子は笑った。
「そんなに簡単ではないのよ」
 諭すような口調で、彼女は言った。
「どうして?」
「決意するだけでも、たいへんなのだから」
「決意は要するに、するかしないかだよ」
「それまでに、いろんなことを考えなければいけないでしょう」
「考えろ」
「考えました」
「結論は?」
「会社の上司が映画会社のかたと親友で、その親友から話が来たのですって。第一線で活躍している有名な映画監督といっしょに、その映画会社のかたが私の勤めている会社へいらしたとき、監督が私を目にとめて、女優になってみないかと聞いておいてくれ、とおっしゃったということなの。その話がそのまま私に伝えられて、ある日のこと、仕事のあと、そのかたと私の上司とで、夕食をいただいたの。監督も来る予定だったのだけれど、ちょうど沼津で撮影をしていて、いらっしゃらなかったわ。でもお話はよくうかがって、今度お会いするときには、ご返事をしなくてはいけないの」
「OKの返事をすればいい」
「あなたの意見を聞けば、かならずそう言うと思ったわ」
 という自分の言葉を、優子は次のように言い換えた。
「あっさりそう言ってくれる人に会って、勇気づけてほしかったの」
「決意は出来てるわけだ」
「女優なんてたいへんだとか、苦労が多いとか、自分にそれだけの才能があるのかどうかよく考えてみろとか、女優をしてるとまともな結婚は出来ないとか、そんな意見ばっかりなの。否定的な意見、あるいは否定につながるあらさがしのような意見ばかり」
「承諾すればいい」
「テストを受けて合格すれば、契約ですって」
「有名な監督の推薦なら、少なくとも最初は、いい扱いになるはずだよ」
「撮影所では、やっかみや意地悪があるでしょうね」
「そんなこと、どうでもいいよ」
「私自身、そういうことは気にならない性格なの」
「それはいい」
「私は女優になれるかしら」
「なれるよ」
「なぜ?」
「きみを見るたびに、この美人はいったいなにを考えているのだろうかと、僕はとても不思議な気持ちになる。読もうと思うなら、いろんな物語をきみに読むことが出来る。女優になって役を演じれば、そのたびにその役になりきれるはずだ」
「なぜ私に、こんな話が来るの?」
「どこからどう見ても清楚せいそで上品な美人が、主演女優として欲しいからだよ。知的で頭は良さそうだし。高校を卒業するときには、きみは総代で挨拶あいさつした。あのときすでに、女優のようだった。いまは一九六〇年なんだよ。僕たちが高校生だった頃、もはや戦後ではない、と日本政府はわざわざ宣言した。敗戦から十年がひと時代だとすると、戦後ではないという宣言は十一年めにおこなわれた。それからすでに五年たっている。次の時代はとっくに始まっている。新しい時代を表現する女優は、誰だって欲しいよ」
「それが私なの?」
「これから使える人。これからの人。これまでの人たちに代わる人。佐田啓二とお見合いして結婚するお嬢さんの役」
「私が?」
「きみこそ」
「本当にそう思ってる?」
「僕は思ってることしか言わない。そのかわり、思ったことはみんな言う」
「ほんとに簡単そうに言うから、あなたという人はいい加減な人なのかなと思うことがなくもないのよ」
「どう思ってもいいよ。女優にはなればいい」
「興味はあるのよ。自分はどこまでいってもひとりのこの私だけれど、映画ごとに違う人になれるなんて、鳥肌が立つほどのスリルよ。何本もの映画のなかに、何人もの別な人として、存在してみたい」
「女優になるほかない」
「なれると思う?」
「なれると思えば、なれるよ」
 時間のずっと遠方へ思いがのびていくときの、明るい表情を優子は浮かべた。
「いまの顔。その顔。そこから女優だ」
 結論としてヨシオはそう言い、優子の母親の写真に視線を落とした。この写真のネガがある、と優子はさきほど言った。島村にプリントさせよう、とヨシオは思った。そしてそこから、さらに次のようなことは、彼は考えた。
 二十歳の日比谷優子を、島村に撮影させる。個人的に、そして女優として、島村がなかば専任のように、彼女を写真に撮っていく。撮り続ける。そして優子は二十六歳になる。この写真のなかの母親とおなじ年齢になったとき、写真のなかの母親とおなじ服装をさせ、おなじ季節の陽ざしのなかで、おなじポーズを取らせる。そしてそれを写真に撮る。この母親の写真とおなじようにプリントし、二枚をならべて撮影する。映画女優としてさまざまな女性を演じていく優子は、個人的には少しずつ母親に重なっていき、やがてひとつになって母親を吸収し、そのことをとおして母親を越えていく。二十六歳のとき、それが実現する。一冊の写真集になる。文章もつけるといい。島村に提案しておこう。
「私は女優になります」
 日比谷優子はヨシオにそう言った。そして喫茶店を出るとき、
「これは記念にあなたにあげる」
 と、母親の写真を彼女はヨシオに手渡した。
「大事にしなくてはいけなくってよ」
 自分に向けられた優子の言葉を、映画のなかの台詞せりふのように、ヨシオは聞いた。駅前で優子と別れ、ヨシオはアパートメントの部屋に戻った。居間の壁の大きなコルク・ボートに、優子の母親の写真を、彼は押しピンで留めた。おなじく押しピンで留めてある数多くのものを、彼は見渡した。一定の間隔でホノルルから届く節子の手紙や絵葉書、そして同封されて来る写真も、押しピンで留めてあった。白い縁が不規則にぎざぎざになっているカラー・プリントのなかの節子を、彼は見た。


 その年の暮れに近い寒い日の夜、島村冬彦はヨシオがひとりで住んでいるアパートメントの部屋を訪ねて来た。ダッフル・コートを着た彼は、手さげ式のふくらんだポートフォリオに、いつものとおりカメラを肩から掛けていた。居間には大きな電気ストーヴが二台あり、外から入って来た島村にとっては、ことのほか暖かだった。ヨシオは島村の好きな熱いココアをマグ一杯に作って、キチンから持って来た。
 ふたりはソファにならんですわった。ポートフォリオとカメラを、島村はテーブルに置いた。島村は日比谷優子についての話をした。
「今日の午後、撮影所で優子さんに会って来た。複写したアルバムと、いつも彼女が持ち歩いている、あのお母さんの写真のネガを、返却して来た。なくしたら大変だからね。アルバムの複写は、ふた組プリントした。ここに入ってる」
 と、島村はふくらんでいるポートフォリオに片手を置いた。
「ひと組はヨシオにあげるよ」
 ヨシオはうなずいた。ヨシオと島村、そして日比谷優子の三人は、高校三年生のときおなじクラスだった。
「じつにさばさばした、あけっぴろげの女性だね。僕はそういう印象を受けた。クラスでいっしょとは言っても、あまり口をきいた記憶はないなあ。彼女もそう言っていた。でも、当時のスナップ写真は、撮ってあるよ」
「どのくらい?」
「クラスの誰をも、平均して二十枚は撮っている。優子さんのスナップは二十六枚あった。それもあらたに焼いて来た。いっしょにここに入ってる。そちらのほうも、ひと組、ヨシオにあげる」
 両手のなかにマグを持ち、島村はココアを飲んだ。楽しそうにひとしきり飲んでから、彼はヨシオに顔を向けた。
「優子さんを二十六歳まで写真に撮り続けて、一冊の本を作る話を伝えておいた。面白がってたよ。ぜひ実現させましょう、と言っていた」
「彼女のデビュー映画をめぐる写真集も、作れるね」
 ヨシオに言葉に、島村はマグに唇をつけたままうなずいた。
「シナリオはもう出来るんだって。いまはいろいろと準備中で、年が明けたらすぐに撮影に入る予定だと言ってた。公開は五月。ひとまわり年上のスター女優と、対等にからむ役だそうだ。主役だと言っていい。会社は期待している。次の時代のスターになれるのではないか、という気がして来た」
「なれるよ」
「高校の頃にくらべると、たいへんな大人の女性になっていて、磨きがかかったね。僕なんか、思わず敬語を使ってしまった。デビュー作の監督に会ったよ。たまたま彼女の会社を訪ねて、彼女を見初めた人。デビュー作の撮影プロセスのすべてを撮影させてくださいとお願いして、承諾を得た。どの現場にも、自由に出入り出来ることになった。スティルはその監督の班に専任の人がいるし、宣伝用の写真を撮る人は、また別にいる。僕は日比谷優子が個人的に雇った、個人用の写真屋だね」
「デビュー作を製作していくプロセスの写真だけで、まず一冊の本が出来るかもしれない」
「出来るよ。そのつもりで撮る。優子さんのお母さんのことも、伝えておいた。熱心に賛成してたよ。協力は惜しまないって」
 女優になる決意を優子から聞かされたあの日曜日の夜、考えごとをしていたヨシオは、ひとつの思いつきを得た。日比谷優子の母親の足跡をたどりなおすと興味深いのではないか、という思いつきだ。その思いつきを、優子に会うという島村から、伝えてもらった。
「探偵みたいな気持ちになって面白いだろうけれど、なにしろ一九一一年の生まれだから、遠いよね」
「確かに、遠い。歴史年表を見たけれど、なにも知らないし、わからないよ。一九〇四年に日露戦争が始まっている。日本の外に向かって、主として武力によって、日本が自らを拡張させようとしていた時代だ。優子のお母さんが生まれた次の年、一九一二年の七月三十日から、時代は大正となった。大正生まれという言葉があるけれど、それよりも前なんだ」
 ヨシオの意見に、島村はうなずいて賛同した。ヨシオは続けた。
「優子さんの母親が二十歳だったとき、時代は一九三一年だ。この年に満州事変が始まっている。そして次の年には、満州国建国の宣言というものを、日本国家はおこなった。満州国というものを勝手に想定して、自らの利権の下に置こうとした」
「時代を勉強するだけでも、たいへんだね」
「しかも、スタートは九州の唐津だ」
「お母さんの両親は、唐津で健在なんだよ。お母さんのお母さん、つまり優子さんから見るとお祖母ばあさんになるその人は、一八九〇年生まれだ」
「いまちょうど七十歳か。来年すぐにも、僕は唐津へいってみる」
 ヨシオはそう言い、島村はポートフォリオを開いた。優子が持ち歩いている母親の写真の、おなじプリントを何枚か、島村はポートフォリオから取り出した。それをテーブルの上で横に並べ、島村は観察した。
「オリジナルのプリントの裏には、二十六歳、と書いてあるんだそうだ。確かに二十六歳だったのだろう、と僕は思う。そしてそれは、一九三七年のことだからね。いまから二十三年も前でこの姿なのだから、当時としてはおそろしく洒落しゃれた女性だったと言っていい。当時の最先端だよ」
「いまでも最先端の人として通用する」
「結婚する前は、日本橋の百貨店の店員をしていたのだって」
「評判の美人店員」
 というヨシオの言葉に、島村はうなずいた。そしてポートフォリオのなかから、茶色の封筒を取り出した。
「これが、優子さんが持っている母親の写真の、すべてのコピー。アルバムのページごとに複写してプリントした。ひと組はヨシオにあげる。太陽光の直射のなかで複写した。写真は黒い台紙に貼ってあり、コーナーやプリント自体の影が出来て、いい雰囲気になった。裏に番号が書いてあって、その番号順に、別の紙に優子さんが説明を書いてくれた。その紙も、いっしょに入れてある」
 ふくらんでいるその封筒を、ヨシオは島村から受け取った。
「優子さんのお父さんにヨシオが会うための手はずは、整えておくと優子さんは言っていた。父親の再婚相手と、優子さんは仲が良くないんだよ。父親はそれが気にいらなくて、私に対してことさらに冷たい態度を取っている、と優子さんは言っていた。でも、充分に協力はしてくれるはずだって」
「話を聞いて、文章にまとめる」
「たいへんだね」
「楽しいよ。会って話を聞かせてもらったすべての人について、その話を文章にまとめていく」
 そう言って、ヨシオは優子の母親の写真を示した。
「二十六歳でその写真に撮られるまでに、二十六年という時間が、過去に向けてのびてつながっている。その時間を、いまから逆に、たどりなおす。彼女をかつて知っていた人たちは、その時間のなかでのひとつひとつの点だ」
「大学の勉強は?」
 島村の質問に、
「そんなもの、ほっておけばいい」
 と、ヨシオは答えた。
「落第するよ」
「たまたま試験を受けたら合格しただけの大学だから。卒業したって会社の新入社員になる資格が手に入るだけなのだし」
「優子さんは、いまひとりで住んでいるところを引き払って、どこかへ移りたいと言っていた。このアパートメントのことを、提案しておいた」
「うまく部屋が空くといいな。ここを空けてもいい」
「きっと喜ぶよ。高木節子さん。伊東夏子さん。そして、日比谷優子さん。ひとまずは、美人たちをめぐる青春なのかな」
 笑顔で島村はそう言い、ヨシオはなにも返事をせずにいた。


 年が明けてすぐに、ヨシオは日比谷優子の父親、日比谷敬一に会った。かつての彼の妻、順子について、お会いした上で話を聞きたい、というヨシオの希望を優子が取り次いだ。日比谷敬一からヨシオ宛てに葉書で速達が届いた。会うことの出来る日と時間、そして場所が、その葉書には書いてあった。
 約束の日、水曜日、約束の時間、午後六時十五分、指定された東京駅八重洲口の近くにある喫茶店に、ヨシオは出向いた。一階と中二階、そして二階と、その店内は三つの層になっていた。中二階の奥の席にひとりですわり、日比谷敬一はコーヒー・カップを片手に新聞を読んでいた。会社に勤めている人のスーツを着て、白いシャツにネクタイを締めていた。席のかたわらに黒いオーヴァーコートとマフラーが置いてあった。この人だということは、ヨシオにはすぐにわかった。
 確認するヨシオに、
「はい、そうです、私が日比谷です」
 と日比谷敬一は答えた。いまはまだ四十九歳であるはずの日比谷と、テーブルをはさんで差し向かいにヨシオはすわった。
「話の要点は娘から聞いています」
 と、日比谷は言った。
「時間をとっていただけることに、お礼を申し上げます」
「いや、なに、勤めの帰りだから。会社はおもての道路の斜め向かいです。私のかつての妻、順子についてのお話だとか」
 中肉中背という言葉がぴったり来る、ハンサムとは言いがたいが三枚目でもない、中年の日比谷敬一をヨシオは観察した。話のしやすい相手であることを、それまでの彼の口調から、ヨシオは判断した。日比谷優子がかつて自分に語った、母親に夢のなかでもいいから会いたいという願望について、ヨシオは優子の父親に語った。母親が二十六歳だったときの写真を一枚、優子が常に持ち歩いていること、九州の実家を訪ねて昔の写真をすべて複写して来たこと、遺品の手紙や葉書を頼りに母親の知人や友人に手紙を出し、母の写真を優子が求めたことなどについて、ヨシオは手短に語った。
「すべて私は知ってます。優子のもっとも好きな話題ですよ」
「さしつかえないかぎり、ご記憶のなかの順子さんについて、聞かせていただきたいのです」
「そんな話を私から聞いて、どうするんですか」
「ノートに文章で書きます」
「そして?」
「それ以上には、なんのあてもありません。優子さんには読んでいただくことになると思います」
「旧姓中原順子、二十七歳のとき私と知り合って結婚して、二十九歳であの優子を出産し、三十一歳で死去。急性心不全。ともに生活したのは五年足らず。遺品としての服、そしてさっききみの話に出て来た手紙や葉書そのほか、紙類つまり書類のようなものは、すべて優子が持ってますよ。写真などね。最後に残るのは、結局、そういうものだけだから。それ以外には、もうなにもないですよ。死去して十八年」
「ご記憶のなかには」
「いろいろありますよ。どこから語ればいいかね。遺品の話のついでに言うと、物を持ってなかった女でね。結婚して別のアパートの部屋にふたりで入ることになって、その部屋を見にいったとき、空き室だから当然のこととして、なにもなくてがらんとしてるよね。私と順子が入居したあとも、がらんとしてたよ。なにもないんだ。物が。私も物は持ってなかったし。いまでも、物は持たないよ。おたがい似てるな、とそのとき思ったのを記憶してる。狭い部屋なのだけど、物がなくてがらんとしていた。そのアパートに移る前までは、私は三畳の部屋で寝起きしてたからね」
「再婚なさったのは」
「優子が五歳のとき。家庭の道具、たとえば調理器具やほうき、塵取ちりとりなどは、古いものは捨てて新しく買っていくよね。いまはもう、順子の当時のものは、なにも残ってないよ。装身具なんて持ってなかったし。なにがあると言うんですか、あのひどい時代に。記憶だけだよ。思い出だけで充分。ここと、ここに」
 そう言って日比谷敬一は自分の頭と胸とを片手で示した。
「結婚したのが一九三八年だよ。その年の春。すぐに灯火管制の規則が出来て。秋に新聞用紙の制限なんかが始まって。前の年に日中戦争が始まってるから。結婚した年の十月には、広東占領だよ」
「大変な時代ですね」
「人ごとのように言うけれどね、きみは優子とおなじ年齢だから、きみだってその大変な時代に生まれてるんだ。いまさらぐちを言うわけではないけれど、生活の余裕はまったくなかったよ。僕の才覚の問題かもしらんけれど。順子の唐津の実家には、一度もいってないんだ。それだけの余裕がなかった。余裕とは、はっきり言って、おかねです。九州までの汽車賃がなかった。お姉さんが東京へ出て来たときがあって、会ったよ。アパートに泊まってもらった。それだけだね。僕は北海道だから。そこへも、一度も連れていけなかった。この道はいつか来た道、という歌があるだろう。あの道は僕の故郷の札幌にあるんだ。順子はその道を歩きたがってたよ」
「写真ではたいへんな美人ですね」
「現実にも、そうだった。文句なしのね。いわゆる不利なアングル、というものがひとつもないんだ。少なくとも、僕の記憶するかぎりでは。輝くような美人だよ。しかし、静かに落ちついた、きちっとした人だったから、あまり目立たなかったという側面もあるね。それよりも、性格の良さだよ。外面の美しさを、それは大きく上まわっていた。ごく日常的に言うと、順子のふくれっ面というものを、僕は一度も見たことがないんだ。娘の優子は、しかし、ふくれっ面の名人だ」
「優子さんは、いつも持っている写真のなかのお母さんに、よく似ています」
「母と娘だもの。それに、完全に母親似だね。少なくとも外面は。僕にはなにひとつ似ていない。似る必要はないし、似ていなくて幸いだったが。母と娘とは言っても、二者はあきらかに別物だよ」
「主演映画の撮影が、始まっています」
「単なるスターよりも、確たる演技者になってほしいね」
「順子さんの昔の知人や友人には、いまからでも連絡は取れるでしょうか」
 ヨシオの質問に日比谷敬一は首を振った。
「僕には出来ない。順子が人から受け取った手紙や葉書、それに住所録などは、優子が持っている。かつて優子は、その全員に手紙を出したはずだよ。さっき、きみもそう言っていた」
「順子さんと知り合われた頃、順子さんはなにをしていたのですか」
「優子から聞いてないのかい。日本橋の百貨店の店員だった」
「順子さんの職場の同僚とは、お会いになったことはありますか」
「仕事のあと僕と待ち合わせをしていて、同僚をひとりふたり連れて来て、僕に紹介したりしたことがたまにあった。その程度だね。彼女の職場、つまり彼女が店員をしているフロアへ僕がのこのこ顔を出したというようなことは、一度もない。いちばん良く覚えてるのは、僕たち新婚の部屋に、職場の女性たち六人が、お祝いの夕食に来てくれたときだ。おなじような年齢の、姿や顔かたち、それに雰囲気のよく似た女性たちが、妻も含めて狭い部屋に七名。男は僕ひとり。異様だったよ。それに、みんな酒が好きでね。あの夜はよく飲んだ」
「順子さんもですか」
「彼女も酒豪だったと言っていい」
「優子さんも、そうでしょうか」
「あれだけ似てれば、そのあたりも多分に引き継いでる可能性はある。きみが試してみろ」
「優子さんが一九四〇年に生まれて、順子さんが亡くなったのが一九四二年です。太平洋戦争はすでに始まっていました」
「大変な時代とさっききみは言ったけれど、大変にもいろいろとあってね。僕たちはえらい目にあった。よくやって来れたものだと、一九六一年のいまになって、つくづく思うよ。僕の妹が東京にいて、彼女を僕が丸がかえにして優子の面倒を見てもらい、僕は勤めに出ていた。日本はその戦争に勝つということだったけれど、アメリカの爆撃機が東京に爆弾を大量に落とすようになってね。空襲と言っていた。空襲を避けて右往左往だよ。このあたりは安全という噂を信じて、何度も引っ越しをした。越した直後に爆撃があって、住んでいた家も含めてあたり一帯が焼け野原になったことが、四度もあった。あのときは僕も妹も、ノイローゼのようだった。優子だけは元気でね。明かりを暗くしたアパートの部屋で、僕と妹が、三歳の優子と遊ぶんだよ。そして敗戦で、そこからがまた大変だった。そこからの苦労は、再婚した妻とともにして来た。そして世のなかは変わったね。贅沢ぜいたくになって来た。娘の優子は、贅沢な時代の人だと言っていい。大変な時代のなかを、母親同然に育ててくれた女性と、あえて仲良くしないなんて贅沢だよ」
「そう伝えます」
 と、ヨシオは言った。
「きみは優子に告げ口をするとでも言うのか」
 そう言って日比谷敬一は怒った。
「父親の考えをそのまま伝えると言っただけです。告げ口ではありません」
 日比谷敬一は話題の方向を変えた。
「順子の昔の友人たちとは、連絡はまったく途絶えているね。それはしかたのないことだよ。戦前、戦中、そして戦後だから。幾度も移り住んだアパートの住人や近所の人たちも、どこでどうしていることやら。しかし、所番地はみんな覚えてるよ」
 ヨシオが開いて差し出したノートブックに、中原順子と結婚して以来の、移り住んだアパートの名や当時の番地、そして略地図を、日比谷敬一は順番に書いていった。
「亡くなったのは、その最後のアパートで。急な階段を斜めにして、ひつぎを降ろしたよ。僕と中原順子との、別れだね」
「百貨店以前は、順子さんはなにをなさっていたのですか」
「電話の交換手。百貨店にも、電話の交換手として入ったんだ。交換室に閉じ込めておくよりも、接客させたほうが得になる、と店は思ったのだろうね。だから店員に配置換えになった」
「東京以前については、ご存じですか」
「名古屋。電話の交換手だったと聞いている。なにか政府関係の、当時としては大きな建物の。はっきり聞いた記憶がないか、聞いても忘れたか、どちらかだね。唐津から高校生のときに博多へ出て。高校生と言っても、戦前だから呼びかたはちがうよ。そこで学校を出て、次は神戸だったかな、大阪だったかな。神戸では劇場で働いていたと言ったような気がする。いまで言うアルバイトだったかもしれない。大阪では薬問屋。これはまちがいない。しかし、なんという問屋かは、もはや判明しないだろうなあ。薬の問屋ばかり集まっているところがあるよね。あそこだ。とにかく、博多から転々と東京に向かって来たんだよ」
 自分と結婚する以前の中原順子に関して、僕から聞き出すことの出来るのはせいぜいこのくらいだ、と日比谷敬一はヨシオに言った。
「こんな話を聞いて、どうするんだい。文章に書くって?」
「ノートブックに書きます」
「本にでもするのか」
「書いておくと、役に立つかもしれません」
「なぜ」
「優子さんは女優になります。一九一一年生まれの母親から、一九四〇年生まれの娘へと、物語は伝わっています。その物語です」
「それがなぜ役に立つんだ」
「ひとりの女優の背後にある物語として、さっきおっしゃったとおり、本にするようなことがあるかもしれません」
「きみは大学生だろう」
「そうです」
「専攻はなにだい。文学か」
「法律です」
「それなのに、女優の卵の卵の母親について、ほとんど消えている足跡をたどって、いったいどうするんだ」
「僕はしたいからそうしています」
「きみと優子とは、釣り合ってるよ。おなじ時代の人間だ。さっきも言ったとおり、贅沢だよ。きみたちは、贅沢な時代の人間だ」


 中原順子が電話交換手として職を得て、のちに店員となった日本橋の百貨店をヨシオは電話帳で見てみた。人事課、という部署の電話番号が掲載されていた。だから彼はその人事課に宛てて、中原順子に関する問い合わせの手紙を出した。一九三五年から一九三八年まで社員として在籍していたはずの、中原順子という女性についての記録が残っているなら、その記録を私に公開してもらえないか、という内容の手紙だ。
 丁寧な文面の返事が、すぐにヨシオに届いた。保存してある昔の記録を見たところ、中原順子は確かに一九三五年から一九三八年まで、在籍していたという。必要な社員を集めることを業務とした別会社にいったん雇われたのち、電話交換手として入社し、その後すぐに店員になったという、ヨシオがすでに知っている事実が、返信のなかに繰り返してあった。
『履歴書は当社の方針として本人の退社時に本人に返却したものと思われます。当社に残る記録としては、わら半紙に鉛筆で記載事項を書き写したものが残るのみです。ご参考までにそれを別紙のとおり転記して同封いたします。写真の保存はございません。中原順子さんの、当時の同僚および上司と推測される方々の記録もありますので、その方々の氏名、そして当時の住所など、ごく簡単なことのみですが、必要でしたらお伝えすることは可能です』
 おなじく丁寧な文面で、ヨシオは礼状を書いて投函した。履歴書に中原順子が書いたことを転記した紙によると、一九三一年に中原順子は神戸の女子短大を卒業していた。その短大の名も、書いてあった。
 一月、そして二月と、日比谷優子の出演する映画は、撮影が続いていった。島村冬彦は毎日のように現場へ出向き、優子を中心にして撮影作業を写真に撮影した。進行していく状況を、ヨシオは島村から間接的に聞いた。一度だけ島村といっしょに、撮影所でのセット撮影をヨシオは見にいった。
 三月の初め、夜まだ早い時間にヨシオはアパートメントに帰ると、珍しく優子の部屋に明かりがいていた。今年の一月に部屋がひとつ空き、優子はそこへ引っ越して来た。彼はドアをノックしてみた。優子が返事をし、ドアが開いた。
「まあ、久しぶり」
 ヨシオを見て、優子は純粋に喜んだ。
「入って。お茶をいれたところなの」
 ヨシオは居間に入った。板張りのフロアのほぼ中央に、丸いテーブルが置いてあった。それを囲んで椅子が四脚あった。テーブルに向けて、天井からペンダント・ライトが下がっていた。り下げる装置を天井に取り付けるのは、たいへんだったのではないか、とヨシオは思った。居間ぜんたいは、優子がくつろぐためのスペースと言うよりも、接客のためのスペースのような雰囲気があった。
「これを先に飲んで」
 自分のためにいれたお茶を、優子はヨシオに勧めた。そして自分はキチンへいき、もう一杯いれて持って来た。丸いテーブルでふたりは差し向かいとなった。映画の撮影に関して、優子はひとしきり語った。そのあとヨシオは、優子の父親に会った話をした。そのことについて優子に語るのは、ようやくいまだった。母親が神戸の短大を卒業していることを、優子は知らなかった。
「それはびっくり。知らなかったわ、私、そんなこと」
「お父さんとの話のなかに神戸が出て来たけれど、短大のことは出なかった。結婚する前に勤めていた日本橋の百貨店に提出した履歴書に、学歴として記載してあったそうだ」
「びっくり。初めて知ることよ」
「唐津の実家の人たちは会ったときには、そんな話が出なかったのかい」
 ヨシオの質問に優子は首を振った。
「お母さんの両親は知ってるはずだよ」
「一度もそんなことは聞いてないわ」
「もしかしたら、知らないのかな」
「今度、確かめておくわ」
 中原順子について知り得たことを順番に書き込んであるノートブックが、いつもヨシオのかばんのなかに入っていた。それを取り出し、彼は優子に読ませた。取材のような作業がひとまずすべて終わってから、ヨシオは全体を文章にまとめるつもりでいた。
「今月のうちに、僕は唐津へいくよ」
「実家のかたたちに、よろしく伝えて。ほんとに、くれぐれも、よろしく。映画が公開されたら、ご挨拶あいさつにうかがいますと伝えて。と言うよりも、あなたがいくことを、私から手紙に書いて前もって伝えておきます」
「実家で聞けるだけのことを聞いたあと、博多へいってみる」
「博多では、母は伯母おばさんのところに居候してたのよ。母の母の、お姉さん。伯母さんもそのご主人も、もう亡くなってるわ」
「学校くらい見てくるよ。それから、神戸へいく」
「この短大ね」
 ヨシオのノートブックのなかに書いてある短大の名称と所在地を、優子は指先で示した。ヨシオが調べたところによると、その女子短大は、中原順子が通っていた頃とおなじ場所に、いまも存在していた。
「そこへいけば、記録はあるはずだよ。卒業アルバムとか。お母さんを教えた先生たちが、ひょっとしたらまだいるかもしれない。当時三十代だったとして、現在はまだ六十代だから」
「私もいきたい」
「撮影が終わったら、いってみるといい。神戸から東京へつながる手がかりは、しかし、まず見つからないだろうなあ」
「その意味では、博多から先もね」
「落ち着く先々から、一通でもいいから実家に葉書でも出していれば、それがずっと保存されている可能性はある」
「私が訪ねたとき、ひととおりは調べてもらったはずなのよ」


 唐津の実家で、中原順子の両親は健在だった。ただし母親は、話を聞き出す相手としては、心もとなかった。体は健康そうなのだが、ヨシオを順子の夫だと思ったり、息子だと思ったりした。順子の娘の優子の、高校での同級生だと説明しなおすと、ああ、そうですかと返事をしながら、今度はヨシオを優子の夫や息子と取り違えた。
 中原順子の父親は、豊かな農家の長男だった。田畑は昔から大勢の人に貸し、家賃の取れる家も多く所有していた。それらの収入を合わせると、一家は充分に生活していくことが出来た。だから中原順子の父親は、これまでの人生のなかで一度も、定職についたことがなかった。町の名誉職ばかりをいくつも歴任し、自宅に人を集めて集会を開いたり宴会をしたりするのが、彼の仕事だった。農家から嫁いだ妻は、その世話役として日々を過ごして来た。
 中原順子には姉と弟がひとりずついた。警察官である弟は、実家からさほど遠くないところに、妻と子供たちとともに住んでいた。姉夫妻とその子供たちは、実家の近所に家を持っていた。姉の澄子、そして父親の雄一郎がヨシオに応対した。姉も父親も、中学生のときの優子が訪ねて来たことを、よく記憶していた。今度こうして自分が来たのは、女優になる日比谷優子について、母親の代からのライフ・ストーリーを書くためだ、とヨシオは説明した。雑誌に載せたり本にまとめたりするはずです、とヨシオは言っておいた。
「優子さんはお母さんの写真を探してたのよ」
 澄子がヨシオに言った。
「優子さんが中学生のときですね」
「そう。ほんとにしっかりした娘さんで、びっくりしましたよ」
「こちらに残っている写真は、そのとき優子さんがすべて見ましたか」
「私のとこからも、そして弟のところからもアルバムを持って来て、お母さんが写っている写真はみんな複写しましたよ。アルバムごと町の写真屋さんへ持っていって。私がいっしょにいったから、よく覚えてます」
「写真のほかに、なにか残ってませんか」
「順子が生まれたのは一九一一年で、十五のときにはもう博多へいってましたから。生まれてからの歳月も、今年でもう五十一年でしょう。それに、博多へいってからは、亡くなるまで唐津には一度も帰ってないし。ずっとここにいたのなら、いろんなものが残っているでしょうけれど、いなかった人のものは、なにもないのよ」
「古い手紙とか」
「優子さんが来たとき、私も弟も、そういうものはみんなここへ持って来て、みんなで見たのよ。それっきり、いまでも全部ここにあると思いますよ。押入れのなかに」
 屋敷の母屋の奥の、なににも使っていない部屋の押入れへ、澄子はヨシオを案内した。古いさまざまな物が、そのなかに雑然と入っていた。縁側へ持っていってほこりをはたいたりしながら、中原順子のものだと澄子が言うものを、ヨシオは部屋のまんなかで畳にならべてみた。
 習字の手本帳。そのなかに折ってはさんである、幼い子供の書いた習字。なかはらじゅんこ、と平仮名で名が書いてあった。古い教科書。おなじく古いノート。すっかり色せている紅白のはちまき。阿蘇あそ山の絵葉書のセット。神社のお守り札。おみくじ。学校の表彰状。博多にいたときに両親に宛てた葉書。
「葉書が一枚しかないのねえ。博多からはもっと来たはずだけれど、なくなるのね。取ってあればそのままずっと取ってあるのだから、なくなったのは当時すぐになくなったのよ。まちがって捨てたとか、どこかにまぎれ込んで、そのままちりとして捨てたとか」
 澄子はそんな説明を試みた。おそらくそのとおりなのだろう、とヨシオは思った。
 神戸からの葉書は三枚あった。三枚とも絵葉書だった。
「短大のころでしょう。ほら、差出人の所番地が三枚ともおなじ。おなじ所に住んでたからですよ。短大の寮。全寮制だったから。いまでもそうだと思いますよ」
 三枚の絵葉書には、なぜか時候の挨拶あいさつだけが、万年筆を使って短い文章でしたためてあった。一枚だけは澄子に宛てたものだった。
「だからこれは、私が自分の家から持って来たのですよ。アルバムにはさんで持って来たの。手さげ袋のなかにアルバムしか入れなかったのを、いまも覚えてますよ。私のところには、自分のアルバムに貼った写真と、こんな葉書しかなかったということね」
 東京からの葉書が四枚あった。四枚とも転居を伝えていた。
「日付のいちばん新しいのが、亡くなった当時に住んでいたアパートからのものでしょう。これね」
 澄子は四枚のなかから一枚を選び出した。
「葬式にはいけなかったわ。なにしろあの時代でしょう。いきたくても、汽車がろくに走ってなくてね。遺骨はこちらへ戻してもらって、墓は代々の墓地にありますよ。優子さんはお参りをしてくれました」
 七枚の葉書を預かりたい、とヨシオは言った。澄子は承諾した。優子は欲しがらなかったのだろうか、とヨシオは思った。押入れから出したものを押入れにしまうと、すべてはそこで終わりだった。ことによったら唐津に二、三泊することになるかな、ともヨシオは思っていた。その必要はまったくなかった。
 中原順子が通った学校へ、澄子はヨシオを連れていった。校舎も校庭も、そして周囲の景色も、昔とほとんど変わっていない、と澄子は説明した。お寺、よく遊んだ川、通学路などを、澄子はヨシオに見せた。それもすぐに終わり、バスの停留所まで歩いてヨシオはバスを待った。ともに待ちながら、
「神戸や大阪そして名古屋にも順子はいたのですけれど、住んでいたのがどこだったのかは、もうわからないわねえ」
 などと澄子は言った。澄子とはそこで別れた。バスに乗ってヨシオは国鉄の駅へいき、博多へいく汽車の切符を買った。
 博多では、順子が通った学校を、ヨシオは見ておいた。戦後になって名称が変わったということだった。汽車の時間の都合もあり、彼は校舎を眺めるだけにした。神戸までの汽車の旅は存分に長かったが、彼は退屈はしなかった。席にすわって窓枠に腕を置き、その上にあごを載せて外の景色を見ていると、飽きることはなかった。停車駅がほどよいアクセントとして機能した。
 神戸に着いてすぐ、戦前に中原順子が通って卒業した短大へいってみた。三月の晴れた日の午後だ。唐津ではもっとそうだったが、神戸でも陽ざしの色は完全に春のものだった。山裾やますそを少しだけ上がった静かな一帯に、背後におだやかな山なみを控えて、木造の校舎が広い敷地のなかに建っていた。戦前ではたいへんに洒落しゃれた建物だったのではないか、とヨシオは思った。現在でも、小ぢんまりと落ちついたたたずまいのなかに、敷地の造園も校舎の出来ばえと配置も、鑑賞の対象になり得るほどに瀟洒しょうしゃだった。
 正面の入口を入ると受付があった。窓口の女性にヨシオは来意を告げた。受付のかたわらにある小さな応接用のスペースで椅子にすわって待っていると、三十代の男性がひとり、やがてあらわれた。田中と名乗ったその男性は、校務主任補佐ということだった。長めの髪をポマードでかため、張りのある大きな声でしゃべった。態度は明らかに尊大だった。相手によっては尊大さを抑制するのだろう。しかしヨシオに対しては、抑制の必要を彼は認めていなかった。
 来意を告げなおしたヨシオに、田中は話の全体がのみ込めていない人を装い、
「うちの卒業生の中原順子という人が女優になったのですか」
 などと聞いた。
 ヨシオは説明しなおした。田中にとってとぼける余地のないまでに丁寧に説明すると、
「では調べて来ます」
 と言って田中は応接室を出ていった。待たせるつもりだろう、とヨシオは思った。そのとおり充分に待たせてから、田中は戻って来た。小さな紙に書きとめたことを見ながら
「確かに、中原順子という人は、おっしゃった年にここを卒業しています。ずいぶん昔ですなあ。確かに入学し、しかるべく在校し、しかるべく卒業したという事実だけが、いまはわかります」
「卒業アルバムのようなものがもしあれば、見せていただきたいのですが」
「そういうものが、当時、制作されたかどうか。それに、過去のアルバムはすべて、学長室にありますから」
「学長にお目にかかることは出来ませんか」
「あいにくと不在なんですよ」
「明日また、出直しましょうか」
「明日とおっしゃられても、いまはヨーロッパへいっておられて、アメリカを経由してお帰りになるのが、四月の終わり近くの予定なもので」
 卒業するとき、全員が集まって撮った記念写真くらいは残っているはずだ、とヨシオは思った。しかし、それ以外となると、入学時や卒業時の簡単な記録しか残されていないのは、事実かもしれない。田中が校務主任補佐ならその上の主任がいるはずだ、とヨシオは思った。その人の名と学長の名を、ヨシオは教えてもらった。学長は女性だった。
 中原順子が神戸から唐津の実家に書き送った三通の葉書を、ヨシオは田中に見せた。差出人である順子の住所が、この学校の寮を意味していることはまずまちがいない、と田中は言った。その寮をヨシオは見せてもらった。建物を外から見るだけにとどめた。中原順子を知っている年齢の人は、寮の管理関係者のなかにはひとりもいないはずだ、という田中の言葉をヨシオはそのとおりに受けとめた。田中とはそこで別れ、ヨシオは敷地のなかを歩いて校舎の正面へまわった。
 校舎の正面入口から門までの広いスペースは、その全体がアプローチになっていた。大きな円形の花壇を中心に、ロータリーのようになっていた。ロータリーから門に向けて、ゆるやかな下り坂だった。花壇から少し離れた正面に、一メートルほどの高さの台座に載せて、若い女性の等身大の全身像が立っていた。ひざまでの丈の薄い生地のスカートの裾、半袖はんそでのシャツののどもとに締めたながめボウ・タイの先端、そして肩に届きそうで届かない長さの髪先に風を受けてうしろへなびかせ、その美しい女性はまっすぐに正面に視線を向け、背をのばして歩いていた。門を出るとき、ヨシオはその像を振り返った。
 大阪、そして名古屋に関してはなにもわからないまま、ヨシオは東京行きのその日の特急に乗った。費やした時間と経費にくらべると、かたちのある収穫はゼロに近いほどに少なかったことを、ヨシオは自覚していた。一九一一年に生まれ一九四二年に他界したひとりの女性の足跡は、すでに遠すぎてほとんど消えていることを、ヨシオは知った。
 日比谷優子の第一回の主演映画は、五月の第一週に公開された。たいへん好評だったから、封切り館での上映は、二本立ての添え物のほうだけ次の作品に交代して、二週間にのばされた。ヨシオもその映画を観た。日比谷優子は美しく魅力的であることを越えて、俳優として逸材であることを彼はスクリーンの上に確認した。いい役者で脇をかためた、見ていて飽きることのない、それなりに説得力を持った作品に仕上がっていた。シナリオの出来が不十分だ、という感想を彼は最終的に持った。いっしょに観た島村冬彦に、ヨシオはそのことを語った。
「ヨシオがシナリオを書いたらいい。優子を念頭に置いて」
 と、島村は言った。
 そして五月の第三週の終わり、雨降りの金曜日、ヨシオはどこへも出ずにアパートメントの部屋にいた。夕方、島村からの電話を、彼は部屋で受けた。
「事件、事件」
 と、電話の向こうで島村は言った。島村が興奮している様子を、ヨシオは受けとめた。
「出来事だよ」
「どうしたんだ」
「優子さんのお母さんに関する発見」
「なにかあったのかい」
「なにかじゃないよ、大変だ」
「僕は今日はこのまま部屋にいるから、帰ってから聞かせてくれ」
「これからまっすぐに帰る。優子さんもいっしょに」
「いまどこにいるんだ」
「優子さんの映画会社。写真を届けにいって、廊下で優子さんと偶然に会った。そして僕は、この出来事について、優子さんから聞いた」
「帰って来い。待ってるよ」
「三月に唐津へいっただろう」
 と、島村は続けた。
「いったよ」
「帰りに神戸に寄っただろう」
「寄った」
「お母さんが卒業した短大に」
「いった」
 島村は笑った。
「なるほど」
 と、ヨシオは言った。
「出来事はそこにあるのか」
「そのとおりだよ。そこにあるんだ。まさに、そこにあるんだ。優子さんといっしょに、これから帰る」
「ここにいるよ。夕食は?」
「帰ってからにする。それとも、ヨシオがなにか作ってくれるなら、それはそれでうれしい」
「そうしよう」
 島村からの電話はそこで終わった。
 ヨシオは三人の夕食の材料を買いに出た。一時間後に彼は部屋に戻った。夕食を作るしたくをゆっくり開始し、ほとんど出来上がった頃、部屋のドアにノックがあった。島村と優子の話し声を、ヨシオはドアの外に聞いた。ドアを開いてふたりを招き入れ、三人はキチンの奥にある食事のためのスペースに入った。ヨシオは夕食の仕上げをし、島村がそれをテーブルにならべた。どの料理をも、優子は楽しそうに点検した。三人は食卓についた。
「さて。それでは。僕が語ろうか」
 と、島村は優子に顔を向けて言った。
「そうして」
「食べながら聞いてくれ。僕も食べながら喋るから」
 ジャケットの内ポケットから、島村は手帳を取り出して開いた。
「先週の木曜日の午後、優子さんの映画会社を、ひとりの中年女性が訪ねて来た。日比谷優子さんという女優のかたについてお話をうかがいたいと言うので、宣伝担当の佐々木という人が応対した。その中年女性は矢沢喜久子という人で、五十歳、東京の板橋在住、家庭の主婦。なかなか感じのいい女性だそうだ。僕は会ってない。優子さんが、今日、会った。宣伝担当の佐々木さんという人に矢沢さんが語ったのは、次のような話だった。優子さんの主演映画の広告を、新聞で見たのだって。矢沢さんは映画がなによりも好きで、新作には常に注目しているそうだ。日比谷優子という名を見て、なにか心の端っこにひっかかるものを、矢沢さんは感じたという。なぜかと言うと、矢沢喜久子さんは二十代の頃、日本橋の百貨店で店員をしていた。優子さんのお母さんとはおなじ職場で、ふたりは特に親しかった。優子さんのお母さんが結婚して日比谷という姓になったことは、矢沢さんはよく知っている。新婚のアパートの部屋に女性の同僚たちだけが招かれ、夕食を食べてお酒を飲んだことを、矢沢さんはよく覚えていた。結婚して娘が生まれ、優子という名をつけたことも、矢沢さんは順子さんから聞かされて知っていた。日比谷優子。まさかとは思うが、新聞に掲載されている広告のなかの新人女優、日比谷優子は、矢沢さんの親しかった中原順子と、いわゆるうりふたつだ。年齢を逆算していくと、中原順子の娘として、ぴったり整合する」
「気になった矢沢さんは、私の映画を見てくださったのですって」
 と、優子が言った。
「優子さんが初めて画面に出て来るところ、つまり田園調布の住宅地のなかの停留所で、バスを降りて来るところを見て、矢沢さんはあっと声を上げてしまった。日比谷優子は中原順子に生き写しなんだよ。うわっ、中原順子だ、という圧倒的な気持ちのなかに飲み込まれてしまって、そこから映画の終わりまで、なにがなんだかわからないまま、ただとにかく優子さんを呆気あっけにとられて見ているだけだったという。だから日をあらためて二度、おなじ映画を見たのだって。そして、矢沢さんは確信した。日比谷優子は中原順子の娘にちがいない、と」
「それで、先週の木曜日の午後、矢沢さんは映画会社を訪ねてくださったの」
「優子さんが提出した履歴書の写しが、資料として宣伝部にもあった。それを佐々木さんが見ると、矢沢さんが言うとおり、優子さんのお母さんの旧姓は確かに中原で、出身は唐津だ。そして、一九四二年に死去している。まちがいありません、日比谷優子さんは、私が昔親しくしていた同僚の、旧姓・中原順子さんの娘さんです、ということになった。そして、ぜひ一度、日比谷優子さんにお目にかかりたいと矢沢さんは言うので、佐々木さんは取り計らった」
「今日の午後、二時から五時まで、会社で仕事がある予定だったの。次の映画の衣裳がすでにきまっていたのだけれど、全部アメリカから買って来ることが急にきまって、私の体型に合わせてアメリカで買った服が何着か会社に届いたの。それを着てみる仕事。それが五時ちょうどに終わって、五時半に矢沢さんという人が会いに来ることになってます、と宣伝のかたが私に言うの。お母さんのお若い頃のご友人だそうですと聞かされて、今度は私が、圧倒的に飲み込まれてしまったの。五時半までの三十分間というもの、ほんとに私は落ちつかなかったわ。長い廊下を行ったり来たりして、いちばん上の階まで上がって屋上に出てみたり。そこから一階ずつ、廊下をぐるぐる歩いて二階まで降りて来て、また廊下を歩くの。一分ごとに時計を見ながら廊下を歩いていたら、宣伝のかたが私を探しにいらして、応接室にお見えになってますと言うの。応接室へ歩いていく間、足が廊下につかない感じ。あんなこと、初めて体験したわ。心臓の鼓動はもうひとつに連続してしまってるし」
 応接室のドアを優子はノックした。なかから女性の声で返事があった。優子はドアを開き、なかに入った。着物を着た、落ちついた風情の中年の女性が、壁に寄せたソファのかたわらに立っているのを視界の端にとらえつつ、優子はドアを閉じた。そしてその女性に向きなおり、足を揃えてまっすぐに立ち、深く礼をした。
「日比谷優子でございます」
 と、優子は言った。
 待っていた女性は、優子の顔を見つめたまま、ソファに向けて突然、よろよろと歩いた。そしてソファに片手を差しのべ、腰を降ろした。虚脱したような姿勢と表情で、彼女は優子を見たままでいた。
 優子はソファに歩み寄った。ソファから二、三歩離れた位置で、彼女はその女性に向けて軽くかがみ込んだ。そして、映画の台詞せりふのつもりで、
「どこかおかげんでもお悪いのでしょうか」
 と、きわめて優しく言った。
 矢沢喜久子は姿勢を正した。立ち上がろうとするのを優子は制し、小さな低いテーブルをはさんで自分もソファにすわった。矢沢喜久子と斜めに向き合い、
「日比谷優子でございます」
 と、彼女は繰り返した。それに対して矢沢喜久子が反応しようとする直前まで待って、
「中原順子のひとり娘でございます」
 と、優子はつけ加えた。
「そっくりでいらっしゃる」
 声は低く抑えているが、心から叫ぶようにそう言ったのが、矢沢喜久子の最初の言葉だった。
「そんなに似ておりますかしら」
 完全に中立な微笑を浮かべて、優子は言った。
「映画のなかでほんとにそっくりで、いまこうしてお目にかかると、中原順子さんそのものです」
 そう言って矢沢喜久子は泣き始めた。優子は彼女をしばらく泣くままにさせておいた。取り出したハンカチで目を抑えながら、
「順子さん。お懐かしい」
 と、矢沢喜久子は言った。
「順子さん。お久しぶり。順子さんはいつまでもお若くて」
 喜久子の言葉を、優子は受けとめた。優子のしゃべりかたのもっとも際立った特徴である、りんとして涼しげな明確な張りのある口調で、
「私は娘の優子です」
 と、彼女は言った。
 矢沢喜久子は顔を上げた。まだ涙を流しつつもハンカチを目から離し、ソファにすわった姿勢を正した。
「さきほどそのドアから入ってらしたときには、順子さんが生きかえったと思って、ほんとにみっともないことですけれど、腰が抜けそうになってしまって」
 彼女が言う中原順子と、自分の母親の中原順子が同一人であることを、確実ないくつかの事実を喜久子と照合して、優子は確認した。順子の突然の死とその葬儀では、通夜から告別まで、つきっきりで手伝ったことについて喜久子は優子に語った。ひとしきりそのことについて語ったのち、優子に聞かれるままに、百貨店の店員だった頃のことについて喜久子は語った。喜久子の記憶は正確で細かだった。ヨシオにもこの女性に会ってもらい、話を聞かせて書きとめさせよう、と優子は思った。
 ドアにノックの音があった。優子がどうぞと返事をした。ドアが開き、制服を着た女性の事務員が、盆に載せたお茶を持って入って来た。かたちどおりかしこまってお茶をテーブルに置き、一歩下がって丁寧に礼をして、彼女は部屋を出ていった。
「何人もいる同僚のなかでも、私と順子さんとは特に仲が良かったのですよ」
 矢沢喜久子は語った。
「おなじ年齢で干支えとはおなじで、誕生日も近くて、それにうまが合うというのかしら、話が合って相性が良くて、ほんとに仲良し。いろんな話をして、おたがいに相手について知らないことはもうなにもないような状態になって、ある日のこと、順子さんは写真を一枚、私にくださったの」
 ひざの上にバッグを置いた矢沢喜久子は、バッグを開いてなかから封筒を取り出し、その封筒から一枚の写真を指先で引き出した。
「この写真です。ご存じかしら」
 上体を前に傾けて腕をのばし、テーブル越しに喜久子はその写真を優子に手渡した。名刺ほどのサイズの黒白のプリントを、優子は両手に受け取って見た。台座の上に立つ銅像が、画面いっぱいに写っていた。若い女性の銅像だ。銅像には強い陽ざしが当たっていた。優子にとって初めて目にする写真であることは、彼女の表情から喜久子にはすぐにわかった。
「お母さんですよ」
 と、喜久子は言った。
 静かに顔を上げた優子は、
「はあ?」
 と、聞き返した。
 驚きと表裏一体になった優子の単純な質問を、矢沢喜久子は余裕を持って受けとめた。そして、
「お母さんですよ」
 と、繰り返した。
 無言で写真を凝視する優子に、喜久子は続けた。
「その銅像のことは、お聞きになってなかったのね。でも、お母さんが神戸の短大を卒業なさってたことは、ご存じね」
 顔を上げて優子は喜久子を見た。そして次のように答えた。
「私の高校のときの同級生が、母について少しだけ取材してくれまして、彼から聞かされて短大のことは初めて知りました。父からはまったく聞いていなかったのです」
 優子の返答に喜久子はうなずいた。そして優子の言葉を補うように、次のように言った。
「お母さんは神戸の女子短大を卒業なさってて、在校生のとき、この写真の銅像のモデルにおなりになったのよ。完全に順子さんひとりがモデルなのですって。お母さんが教えてくださったのよ。とっておきの秘密を分けてくださるかのように。そしてこの写真をくださったの。一枚しかない写真だとおっしゃったので、一枚しかないそんな貴重なものは自分で持っているべきよと言ったのですけど、銅像そのものはいまでもあの学校の正面入口の前に立っているはずだから、写真はいいの、持ってて、とおっしゃって。私としてはぜひとも欲しいから、いただいたのよ。大事にして来ました。私がいなくなったらこの写真を見て私のことを思い出してね、とおっしゃったのがまるで予見みたいで。等身大の像ですって」
 今度は日比谷優子がまっ青になる番だった。彼女の顔から、のどもとから、血の気が見るまに引いていった。十八歳、十九歳の頃の母親の、三次元の像に会える。その像の造形と全体の雰囲気のなかに、自分はとうてい知り得ない若い頃の母親が、封じ込めてある。そのようなかたちでいまも残っている母親を、この目で見ることが出来る。工夫するならその母親と自分は、ならんで立つことが可能だ。向かい合える。手を取ることが出来る。抱くことだって可能ではないか。優子は気を失いそうになった。そしてなんとか持ちこたえた。
 希薄になった優子の意識のなかへ、矢沢喜久子の丁寧な優しい言葉が、入り込んで来た。
「銅像は私にほんとによく似てるのよ、と順子さんはおっしゃってたわ。台座に載せる前の完成像を、順子さんはご覧になったのですって。卒業なさったあと、その年の夏の終わりに完成したの。そして秋の新学期にお披露目」
 手に持った写真を呆然ぼうせんと見ているうちに、優子は少しずつもとに戻った。自分が記憶している中原順子について、喜久子はさらに少しだけ思い出話をした。
「そのお写真は、これからはぜひ、優子さんがお持ちになっていただきたいの」
 という喜久子の言葉に、優子はうなずいた。島村冬彦に複写してもらえばいい、と優子は思った。
「友人に写真家がいますので、複写してもらいます。その間、しばらく拝借させてください」
 間を置かずにふたたび会うことを、ふたりは約束した。おたがいに住所を教え合い、冷めたお茶をふたりは飲んだ。喜久子に聞かれるままに、優子は父親について語った。妻を失ってからの日比谷敬一とその娘、優子の物語にさほどの波瀾はらんがなかったことを知って、矢沢喜久子は安心していた。その安心感のなかに優子と会えたうれしさを包み込み、矢沢喜久子は優子に玄関まで送られて帰っていった。
 優子は二階へ戻った。廊下の端においてあるベンチにすわり、銅像の写真を見ながらふたたび呆然として過ごした。そしてそこに、島村冬彦がとおりかかった。主演第一作の撮影過程における優子を撮った写真を、その監督から島村は所望された。百枚を選んでプリントし、会社に届けに来たのだった。
 宣伝部の担当者に写真を託したあと、島村は優子の待つベンチに戻って来た。そして矢沢喜久子のこと、中原順子が銅像のモデルを務めたことなどについて、優子から聞いた。優子はすでにその日の仕事を終わっていた。島村はヨシオに電話をかけた。会社の車で優子と島村は新宿まで送ってもらった。そこから小田急線で下北沢までいき、アパートメントまで歩いた。そしていま、島村と優子はヨシオと三人で夕食のテーブルを囲んでいた。
 バッグを膝に置いた優子は、それを開いて手帳を取り出した。手帳にはさんであった銅像の写真を貴重品のように持ち、彼女はそれをヨシオの手もとに置いた。ヨシオは写真へ視線を伏せた。銅像には強い陽ざしが当たっていた。その光の反射のせいで、銅像の造形は特に顔を中心にして上半身が、写真では明確ではなかった。しかし、足もとから腰にかけての若い魅力は、充分に見て取ることが出来た。
「これだよ」
 ヨシオは言った。
「この銅像だ。学校の門を入った正面に、これは確かに立っていた。入っていくときにも見たし、帰っていくときも、門を出ながら僕はこの銅像を振り返った」
「中原順子。十八歳、そして十九歳」
 と、島村が言った。
「まさか、これが」
 そう言いながらヨシオは、短大を訪ねたあの日、中原順子についてもっと詳しく調べてもらえば、この銅像について判明したかもしれないと思った。田中という尊大な校務主任補佐を、彼は思い出した。
「対面しにいかなければならない」
 島村が言った。
「会いにいきます」
 優子が言った。
「三人でいっしょにいこう」
 島村の提案に優子とヨシオは賛成した。優子の主演第二作はすでにシナリオが出来ていて、準備は進んでいた。撮影はまもなく始まる予定だった。デビュー作に対する観客の反応はたいへん良く、興行的にもその映画は成功した。新人の優子は、新しいスターという立場を、早くも獲得していた。
「撮影の途中、いつになるかまだ私は知らないけれど、京都でロケーション撮影があるのよ。私の出番も多いの。だから私も京都へいきます。そのとき、一日だけお休みをいただいて、神戸へいきます。その日にふたりが合わせてくれると、私はうれしい」
「そうするよ」
「京都での撮影がいつになるか、聞いておくわ。正確な日時がわかり次第、ふたりにはすぐに教えます」


 京都でのロケーション撮影の日程は、四月の第四週の月曜日から次の週の月曜日まで、と確定した。日比谷優子は金曜日だけ丸一日、撮影がなかった。したがってその意味で、優子は金曜日を休みにすることが出来た。三月の最後の日、夜遅く、ひとりでアパートメントへ帰って来た優子は、ヨシオの部屋へ来た。居間のソファにすわって、優子は日程をヨシオに教えた。それを彼はノートブックに書き込んだ。
「来てね」
「いくよ」
「冬彦くんには伝わってます。来てくれるそうよ。あなたも彼といっしょに来てもいいわね。でも彼は、写真の撮影があるから、たいへんだわ」
 二十一歳の女優、日比谷優子をめぐって、ロケーション撮影現場での彼女というものを、可能なかぎり写真に撮っておくということを、ヨシオは思いついた。島村に提案し、島村は熱意を示した。主演第一作の制作過程の全体のなかに優子を追って彼が撮った大量の写真は、島村が思っていたよりもはるかに興味深いものとなった。島村の熱意は、その当然の延長線上にあった。
「私の専属みたいだから、彼はとても忙しいの。私以外の写真も撮らなければならないし、大学へもいくし」
「僕はどうにでもなる」
 とヨシオは言った。
「私と冬彦くんとは、京都からいっしょに神戸へいくことになると思うわ」
「僕は東京から直行する」
「前日に到着して、神戸に一泊かしら」
「成り行きでいいよ」
「汽車を選んで」
 向かい側の壁の本棚に時刻表があった。それを持って来て、ヨシオは優子とともに汽車を選んだ。
「午前中に現場に着いていたいわね。午前十時、あるいは遅くとも十一時」
 という優子の希望から逆算して、もっとも都合のいい特急を一本、彼らは選び出した。列車名、発車時刻、そして到着時刻などを、優子は手帳に写した。
「冬彦くんにも教えておいて」
「そうする」
「宿泊の手配は?」
「神戸に着いてから旅館を探すよ」
「それでいいの?」
「短大の銅像の前で、午前十時に会おう」
 一泊を間にはさんで神戸まで往復するという小さな旅行のための資金を、ヨシオは父親から借りた。父親は彼に借用書を書かせた。選んだ特急とその時間を、ヨシオは冬彦に伝えた。伊東夏子もいくことになった、と冬彦は折り返しヨシオに連絡した。ふたりの旅費を夏子が貸してくれることになった。だからヨシオは、父親から借りた現金を返却した。借用書はアパートメントの彼の部屋の郵便受けに、次の日、入れてあった。
 伊東夏子とともに、東京駅から、ヨシオは特急に乗った。子供の頃からおたがいに近所の顔見知りであり、この三、四年は島村冬彦を介してさらに距離の近くなった夏子だ。一点の非の打ちどころなく完成された大人の女性、という印象をヨシオは夏子に対して持った。
 伊東夏子は京都で降りた。優子の撮影現場で、夏子は島村冬彦と合流する予定だ。夜、ヨシオは神戸に到着した。夕食をすませ、手頃そうに見える旅館を見つけ、そこに泊まることにした。二階の廊下の端にある小さな部屋だった。いったんそこに入ってから、ヨシオは外出した。銭湯を探して風呂ふろに入り、コーヒー牛乳を買って飲み、旅館へ戻った。部屋へ上がる階段の踊り場に、浴衣ゆかたを着た若い女性がひとり、自分自身を持てあました風情の崩れた姿勢で、立っていた。あきらめた結果のような暗い表情で、彼女はヨシオを見た。かたわらをとおり過ぎようとするヨシオを、
「ねえ」
 と、彼女は呼び止めた。
 立ちどまった彼に、
「いくつ?」
 と、彼女は聞いた。
「なにがですか」
「歳」
「二十一歳です」
「私もここに泊まってるのよ」
 そう言った彼女は、品定めをするときの視線でヨシオを見た。
「坊やなの?」
 と、彼女は聞いた。ヨシオにはその意味がわからなかった。だから彼は、
「最近まで学生でした」
 と答えてみた。
「今夜の部屋代を払ってくれるなら、ショートで抱かれてあげる。ショートと言っても、二時間くらい」
 彼女の言葉にヨシオは首を振った。
「そんなおかねは持っていません」
「部屋代だけでいいのよ」
「持ってません」
「どこから来たの?」
「東京からです」
「だったら、持ってるはずよ」
「汽車で来て、明日は明石の友人のところへいきます。そしてそこで職を世話してもらう予定です。汽車賃はその友人からの借金です」
「ほんと?」
 と聞き返しつつ、彼女は半分は信じていた。というよりも、早くも半分は諦めていた。
 ヨシオは二階へ上がり、部屋に入った。布団を敷いてそこに腹ばいとなり、ノートブックに今日の書き込みをおこなった。それを終え、持って来た寝巻に着替え、明かりを消して布団に入った。
 眠りに落ちていこうとする頃、外の廊下との仕切りであるふすまが、ゆっくりと開いた。襖の内側は畳二枚ほどの広さの板の間だ。細長いそのスペースの片方には窓があり、窓の下には手を洗うための小さなシンクが取り付けてあった。反対側は造りつけの鏡台のようになっていた。その板張りのスペースの内側にもう一枚、襖があった。その襖も、静かに開いた。
「ねえ」
 女性の声が言った。先ほど階段の途中でヨシオに声をかけた女性だった。
「寝たの?」
「なんですか」
「部屋代だけでいいから」
「ないですよ」
「ほんとなの?」
「明石までの電車賃しかありません。部屋代は前払いを求められましたから」
 ヨシオの返答を受けとめ、しばらく考えてから、彼女は言った。
「だったら電車に乗せてもらえばいいわ。それっぽっちでは、私は乗せないから」
 開いたときとおなじように、なぜだか静かに二枚の襖を閉じて、彼女は廊下を奥へ歩き去った。ふたたび眠りへと落ちていきながら、彼女は夜中に盗みに来るのではないか、とヨシオは思った。財布は布団の頭の下にでも入れておくといい、などと思いつつヨシオは眠った。
 次の朝、財布は彼のスラックスのポケットのなかに無事だった。旅館を出た彼は、町の食堂でやや遅い朝食を食べ、電車を乗り継いであの女子短大に向かった。電車、そしてその窓から見る景色は、三月に彼が体験したものと、まったくおなじだった。四月の終わりの快晴の日、午前十時前の陽ざしのなかに、彼の記憶しているとおりに、女子短大の木造の校舎と門があった。
 門を入った彼は、いろんな角度から銅像を眺めた。台座の背面の高い位置に、文字をエッチングした小さな銅板が埋め込んであった。彼はそれを見た。制作者名と制作年月日に続いて、三行目には手本・中原順子、とあるのを、ヨシオは読んだ。手本とはモデルのことだ、当時はモデルとは言わずに手本と言ったのか、と彼はひとりで思った。
 十五分待って十時ちょうどに、優子そして伊東夏子と島村冬彦の三人が、門の外に姿を見せた。島村はカメラ・バッグをかつぎ、片手には三脚を持っていた。たいそう冷静に、優子は銅像と対面した。彼女の母親が十八歳そして十九歳だった頃をモデルに制作された、よく似てると当人が認めた銅像だ。島村は像を写真に撮り、優子はそれをさまざまに観察した。優子を銅像とともに画面のなかにとらえ、島村はさらに何枚も撮った。銅像のかたわらに全員がならび、三脚を立ててカメラを取り付け、全員の集合写真まで撮影した。
「約束の時間よ」
 優子が言った。四人は正面の入口から校舎に入った。受付で優子は学長への来意を告げた。二階にある学長室の隣りの応接室へ、四人は案内された。
「学長には手紙を差し上げて、私たちが今日ここへ来ることを、連絡しておいたの」
 と、優子は言った。
 応接室に女性がひとり、入って来た。七十代だろう、きれいな白髪に細身の体の背をまっすぐにのばし、優しくもあり厳しくもある雰囲気を発散させつつ、柔和な笑顔で彼女は歩み寄った。四人は立ち上がり、挨拶あいさつを述べて礼をした。学長の名は野中サチと言った。理想を追求する精神と、それを支える行動力との、明治生まれの日本女性における、たいへんに好ましい見本の一例だった。
 ソファにならんですわった四人に、彼女は低いテーブルをはさんで向き合った。この短大の卒業生である母親と、彼女がモデルを務めた銅像、そしてその銅像について知った自分に関して、優子は要領良く手短に語った。語り終え、優子はほかの三人を学長に紹介した。野中サチは純粋な熱意で四人を受けとめた。
 立ち上がった野中サチは、
「どうぞ皆さま、あちらへ」
 と、窓に近いほうのスペースを片手に示した。四人は立ち上がった。横にならんでいる窓の手前には、いくつかの椅子に囲まれた長方形の作業テーブルがあった。そのテーブルまで、野中サチは四人を促した。
「優子さんからのお手紙を拝見して、あるかぎりの資料を用意しておきました」
 野中サチはテーブルの上を示した。何枚かの写真、それに卒業アルバムらしいものが一冊、テーブルの上にあるのを四人は見た。
「どうぞ、ご覧になってください」
 そう言った野中サチの周囲に、四人は集まった。一枚の写真に、彼女は手をのばした。そしてそれを手に取り、四人に見せながら説明を加えた。
「入学したときの、その年の新入生全員の、記念写真です。中原順子さんは、このかた」
 野中サチの老いたと言ってさしつかえのない指先は、黒白のプリントという二次元のなかの、若く美しいひとりの女性を示していた。
「優子さんだ」
 と、島村が言った。優子も含めて、全員が笑った。
「それからこちらが、進級時の記念写真ですね。クラス別になっていて、中原さんはここにいます。そして、卒業のときの記念写真は、ほら、全員のと担任別のとがあって、中原さんがどこにいるか、もう皆さん、おわかりね」
 野中サチに代わって、優子が若い母を探し出しては、指先で示した。すべてのプリントを観察したのち、野中サチは卒業アルバムを引き寄せた。卒業生たち全員の写真が、ひとりひとりバスト・ショットでおさめてあるページが、何ページも連続した。バスト・ショットは縦長の楕円形だえんけいで、縁がきれいにぼかしてあった。写真は印刷ではなく、プリントしたものが貼ってあった。どの写真もきれいなセピアに変色していた。中原順子の写真を、全員が見た。
「これは初めてご覧になるの?」
 野中サチは優子に聞いた。
「初めてです」
 優子は答えた。
「卒業生はみんなこれを持っていたはずですね」
 優子の若くてまっすぐな質問を、野中サチは笑顔で受けとめた。そして次のように答えた。
「初めのうちは、皆さん、持ってらっしゃるでしょうね。でも、時間が経過していくと、いつのまにかどこかへいってしまって、なくなるアルバムも多いのよ」
「母のは、なくなったのですね」
「そうねえ」
 運動会、クラス別の小旅行、学園祭、課外活動、普段の講義の様子、寮での毎日、といったテーマの写真で、アルバムの後半は構成されていた。
「中原順子さんは課外活動では演劇のクラブにいて、二年生のときには学園祭で芝居を上演しました、ということがこのアルバムからわかるわね。ストーリーや配役が、ここに出てますよ。中原さんはカフェの女給を演じてます。ここに紹介してあるストーリーから判断すると、主役の次のような位置ではなかったかしら。ほら、これがそのときの舞台。セットはカフェで、中原さんは、ここ」
「これも優子さんだ」
 ふたたび島村が言った。若いころの母親に自分がよく似ていることを、優子も認めた。
「銅像関係の資料は、こちら」
 そう言った野中サチは、茶色の大きな封筒を取り上げ、ひもがかけてあるフラップを開き、なかのものをテーブルに出した。制作者である彫刻家のポートレート、製作中の彼の写真、完成して台座に載る前の銅像の写真、そしてそのかたわらに立っている中原順子の写真などを、四人は見た。等身大の像のかたわらで、像とおなじポーズをして笑っている順子の写真もあった。ひとしきり見たあと、すべての写真を島村が複写することになった。外の直射光のなかで撮りたいと島村は言い、夏子が手伝って写真やアルバムを応接室から持って出た。
「銅像の題名は、女の時代、というのですよ。台座のうしろに小さなプレートがあって、そこにその題名を入れる予定だったのですけれど、プレートを作った人がうっかりしてしまって、題名はなしになりました」
 優子とヨシオに、野中サチはそんなことを語った。
「女の時代というのは私の信念で、いずれかならずこの日本にも、女の時代が来るのだと私は昔から信じて来ました。その信念を銅像にすることを思い立って、制作者の彫刻家と相談したのですよ。ひとりの若く美しい女性の等身大の全身像、という結論になったのです。モデルは在校生のなかに探すといいということになって、その彫刻家の先生に探していただいたら、ぜひとも中原順子さんとおっしゃって。でも、中原さんは、最初は辞退なさったの。私から頼んで説得して、引き受けてもらったのね。いまでもはっきりと覚えています。私の信念を、あなたのその全身で表現してちょうだい、と私が頼んだのですよ」
 そう語った野中サチは、日比谷優子に向きなおった。そして、次のように言った。
「いまおなじ銅像を作るとして、モデルを探すとなったら、そのモデルは日比谷優子さんね」
 しばらくして島村と夏子が戻って来た。写真やアルバムをテーブルに置き、
「外へ出てみないか。面白いことになっている」
 と、島村はヨシオと優子に言った。
 野中サチとともに、四人は外に出た。銅像の台座に寄せて、教壇が重ねてあった。一段の高さは二十センチほどで、それを五段重ねると、台座とちょうどおなじ高さとなった。
「銅像と肩をならべて立ちたいというお願いを、学長先生への手紙に書いておいたの」
 ヨシオと島村そして夏子に、優子はそう言った。
 五段重ねた教壇には梯子はしごが立てかけてあった。校舎の正面入口の近くに、教壇を重ねる作業をしたらしい男性たちが三人、立っていた。彼らと野中サチ、そしてヨシオや島村、夏子たちが見守るなかを、優子は梯子を上がっていった。銅像と向きあって立った優子は、両手で顔を覆って泣き始めた。その様子を、島村はなんら遠慮することなく、写真に撮った。そして入口に立っている男性たちのところへ歩き、一メートルほどの高さの脚立があったら使わせてもらえないか、と頼んだ。
 いったん泣きやんだ優子は、銅像とおなじ方向を向き、銅像と手をつないだ。銅像としての母親が目を向けているはずの方向に、優子も視線をのばした。そして彼女は、ふたたび泣き出した。声を上げて彼女は泣いた。彼女のいつもはかたちの良い唇が、いまは数字の8の字を横に置いたようになっているのを、ヨシオは見た。誰はばかることなく、心ゆくまで存分に、いまの優子は泣いていた。
 島村の望んだ脚立が届いた。銅像から数メートル離してその正面に、島村は脚立を立てた。そしてその上に立ち、銅像と手をつないで泣いている優子を、四月の明るい陽光のなかで写真に撮った。
 野中サチのかたわらに立って見ていたヨシオは、校務主任補佐の田中という男を、ふと思い出した。彼は元気かどうか、ヨシオは野中サチに聞いてみた。
「不都合があって解雇しました」
 とだけ、彼女は答えた。
 脚立の位置を変化させ、あるいは接近させて、島村は何ショットも優子と銅像の写真を撮った。優子はやがて泣きやみ、ひとつのポーズのまま動くことのない銅像を相手に、島村の構えるカメラのために、そして自分自身のために、きわめて自然にさまざまなポーズを取って楽しんだ。撮りつくし、島村は脚立を降りた。脚立をたたみ、校舎の入口まで彼はそれを持っていった。
 優子も梯子を降りて来た。銅像の周囲を歩き、銅像を見上げ、門の外まで、あるいは校舎に沿ってかなり離れたところまでいき、優子は銅像を観察した。やがて銅像まで戻って来た優子は、その周囲をふたたび歩いた。立ちどまって銅像を見上げて、笑顔になった優子は、周囲にいた四人にその笑顔を向けた。
「なかでお茶でも」
 野中サチが言った。学長室の隣りの応接室に、全員が戻った。白い布のカヴァーを掛けたソファに彼らがすわりなおすと、すぐに女性の事務員がお茶を持ってきた。彼らはお茶を飲んだ。たいへんおいしいとヨシオは言い、彼だけが三杯飲んだ。
「彫刻家の先生が中原順子さんをお選びになって、私も大賛成でした。ほんとに輝くばかりの美しさで、そのまま銅像にしてしまいたいと思ったほど。卒業なさって、やがて東京まで出ていかれて、結婚なさって優子さんが生まれて。そして優子さんはいま二十一歳で、銅像のモデルになったころの順子さんとおなじね。姿も顔も生き写しで、映画女優になられて。優子さんからいただいたお手紙を読んで、私はほんとに感激しました」
 野中サチは、お茶を飲む四人にそんなことを語った。
「台座が出来て、銅像をその上に固定して、完成したときには写真を撮って、私が順子さんにお送りしたのよ。覚えてますよ」
 優子はバッグから手帳を取り出した。はさんであった写真を指先に持ち、野中サチに見せた。矢沢喜久子から預かっている写真だ。
「そうです。その写真」
 自分なりの感慨を込めて、野中サチは言った。
「その写真が、時間のなかをめぐりめぐって、いまここで、順子さんの娘である優子さんの手のなかにあるのね」
 野中サチのそのひと言で、銅像をめぐる出来事はいったんすべて終わった。過去の出来事は現在に到達し、現在との接点を得てそこで終わった。過去は四人の目の前まで引き寄せられたが、それ以上にはどうすることも不可能だった。四人の誰もが、そのことを鋭く知覚した。
「充分にお時間をいただきましたので、そろそろ失礼させていただきます」
 優子のその言葉に、
「そうですか」
 と、野中サチは応じた。単純な言葉の、陰影に満ちた言いかたのなかに、彼女の受けた感銘が宿っていた。
 彼女に送られて四人は校舎の外に出た。積み重ねた教壇と梯子が、銅像のかたわらから消えていた。野中サチにお礼と別れの挨拶あいさつをしてから、四人は銅像の前まで歩いた。さきほどとは光の性質が変化していると言い、島村は優子を銅像のそばでさまざまにポーズさせて、それを写真に撮った。そして四人は門を出た。振り返って優子が銅像に手を振った。


 四人は神戸から電車で京都へ向かった。電車は空いていた。ふたりずつ向かいあって席にすわり、四人は話をした。
「いま私が持っている銅像の写真は、矢沢さんにお返ししていいのね」
 優子が島村に聞いた。
「いいよ。複写した。プリントしておく。今日のも含めて」
「手帳にはさめるサイズに」
 と、優子は注文をつけた。
「もちろんだよ」
「中原順子さんは、ますます謎になっていく。そこがいちばん面白い」
 と、ヨシオが言った。
「謎とは?」
「ひとりの若く美しい女性が、彼女自身ではまったく意図することなく作りだす、いくつもの謎。若く美しい女性という存在そのもの、あるいは彼女の持っている可能性が、謎であるということ」
 ひとまずヨシオはそんなふうに言った。ほかの三人が黙って聞いているから、ヨシオはさらに続けた。
「中原順子さんがあの銅像のモデルになった頃、彼女に関して確かだったことは、唯一、彼女は若くて美しく、この世に生きている、ということだけだった。将来に向けての可能性は、じつに豊かで大きい。しかし、すべてはまだ、まったくの未知数だった。まったくの未知数、つまり謎だよ。彼女はこの先どうなっていくのか。そんな単純な謎なのに、その謎はそのときは誰にも解くことは出来ない。しかし彼女は十九年前に亡くなっているから、もはや絶対にと言っていいほどに、解けることのない謎だ。女の時代、とあの学長先生は言っていた。願望も含めて、確かにそう思ったのだろう。しかし、それにも増して、順子さんのような女性がそこに存在するだけで謎になるという事実に、学長はひかれていたのではないか」
「私の母は、謎として深まっていくいっぽうだということ?」
 優子がヨシオに問いただした。
「そうだよ。だから日比谷優子としては、自らの謎を深めて母親という謎に常に対抗し、バランスを取り続けていくほかない」
 ヨシオの言葉を聞いて、優子は笑った。
「また新しい理屈を考えたのね。私は母にかぎりなく近づいていき、母を吸収してひとつになって、母を乗り越えていくのではなかったかしら」
「それでもいい」
 と、ヨシオは言った。
「それもあり得る」
「あなたは現実を自分のなかに取り込んで、それをいつのまにか好みのフィクションに変えていくのね」
 優子の指摘はたいそう正しかった。しかしその正しさは、ヨシオ自身にも、そして島村や夏子にも、いまはまだ理解出来なかった。優子はひとりで笑い、それがおさまってから、話題の方向を変えた。
「こうして私たち四人は、やがて誰もが、あのアパートメントの部屋に帰っていくのね。いちばん目の前にある楽しいことは、それだわ」
 京都に着くまでのあいだに、日比谷優子は電車のなかで十数人もの人に話しかけられた。誰もが彼女の映画を見ていた。優子にサインを求める人もいた。京都に到着すると夕食の時間だった。ロケーション撮影で京都に来てから優子がなじみとなった店で、四人は夕食を食べた。
 夕食のあと、四人は別れた。優子は撮影隊の宿泊している旅館へ戻る。島村と夏子には、ふたりの予定があった。そしてヨシオは、神戸のときとおなじ要領で、旅館を探すことになった。持って来ていた第二作のシナリオを、優子はヨシオに渡した。
「読んで感想を聞かせて」
 と、優子は言った。
 次の日、東京へ帰る汽車のなかで、ヨシオはそのシナリオを読んだ。読んだあと彼は考えごとに没頭した。そして結果を、ノートブックに書き込んだ。優子が京都から東京のアパートメントに帰って来た日、彼女からおみやげを受け取ったついでに、ヨシオはシナリオの感想を述べた。
「良くない」
 というのが、彼の結論だった。
「いま頃になってそんなこと言わないで。そんなことを言うなら、あなた、書いて」
 ヨシオの部屋のドアの外にたって、なぜだかひどくうれしそうに、優子は言った。
[#改丁]
[#ページの左右中央]


電話を受けているうしろ姿



[#改ページ]

 優子の母親が若い頃に銅像のモデルを務めたこと、そしていまも神戸の女子短大の、正門を入ったところに立っているその銅像に優子が感激の対面をしたことなど、日比谷優子とその母親の物語のすべてを、優子が所属する映画会社の宣伝部が知るところとなった。優子自身が自分の担当者に語って聞かせたからだ。島村冬彦からもらってある写真も、彼女は担当者に見せた。担当者は優子と母親の物語に興味を持った。映画雑誌の秋の特別増刊号として、その物語だけで一冊を作ることを、その担当者は映画雑誌を発行している出版社に提案した。その提案は受け入れられた。そのような内容で、秋の特別増刊号を作ることが、六月のうちに正式に決定した。
 人々の夏服がすっかり秋の服に替わる頃、日比谷優子の主演する新作が封切られることになっていた。増刊号はそれに合わせた企画として成立した。宣伝部の優子の担当者は島村冬彦に連絡をつけ、増刊号への写真の提供を依頼した。編集部の担当者に紹介された島村は、自分とヨシオが中心になって増刊号を作ることを提案した。写真は島村が提供し、文章はヨシオが書く、という共同作業だ。提案は難なく承諾された。結果としては、島村とヨシオが、一冊の増刊のすべてを作成することになった。
 冬彦は写真の選択を開始した。選び出した数多くの写真を、アパートメントの部屋でヨシオとともに繰り返し検討した。選び抜くはじから、冬彦はプリントしなおした。トリミングして良くなるものは、すべてそうした。増刊号のページ数に合わせて、使用する写真とその数がほぼ決定した。いちばん初めのページに使う写真を、冬彦は優子をモデルにして、あらたに撮影した。
 公演のベンチにすわって脚を組んでいる優子が、いつも持ち歩いている手帳を太腿ふとももの上で開き、はさんである母親の写真を見ているところを、彼女の右肩のすぐうしろからのぞき下ろす角度で、アップに撮った写真となった。スカートのすそ。その下にあるひざの、かたちのいい若さ。そこからまっすぐにのびていく向こうずね、そして足に履いている白いパンプス。そこまでが写真の画面のなかにあった。パンプスのぼけ具合が絶妙だった。
「作りすぎかなあ」
 大きく引き伸ばしたその写真を部屋の壁に押しピンで留めて、冬彦は何度も思案した。
「優子は気にいってる」
「だったらそれでいいよ」
「ヨシオの意見は?」
「いい場面だよ。しかも、終わった場面ではない。これとおなじような場面を、生きているかぎりこれから何度も、優子は現実に繰り返すのだから」
 最初のページにはその写真を使うことにきめ、時間順に配列したすべての写真を、冬彦はヨシオに預けた。それをひとりで何度も見ては、ヨシオは日比谷優子とその母親の物語を、ノートブックのなかに組み立てていった。冬彦による写真の選択と、ヨシオによるストーリーの組み立てに、六月が費やされた。七月に入って、ヨシオは書き始めた。アパートメントの部屋にこもることが多くなった。エイヴォンでも書いた。
「なにを書いてるの。真剣な顔して」
 直子が興味を持った。
 組み立てたストーリーのとおりに、ヨシオはすべてを直子に語って聞かせた。
「それは本当の話なの?」
 というのが、直子の最初の反応だった。
「本当です」
「面白いわ。銅像の写真を見せて。お母さんの写真も。それから、優子さんに会わせて」
 ストーリーの最初から最後まで、ヨシオはひとまずノートブックに書いた。それを推敲すいこうしたあと、原稿用紙に清書した。原稿用紙というものを、彼は下北沢の文具店で初めて買った。何人もの著名な作家たちに愛用されている原稿用紙なのだと、店の人は彼に言った。清書を始める前に、彼はホノルルの高木節子に、万年筆を買って送ってくれるよう頼んだ。愛用して来たのとおなじ万年筆を彼は指定した。指定のとおりに、航空便ですぐに万年筆は届いた。箱のなかに二本、入っていた。『ひとつは私です。どちらかしら?』と、添えた手紙に節子は書いていた。
 ヨシオの原稿が仕上がる頃、映画雑誌の編集部から、冬彦はレイアウト用紙を大量にもらって来た。
「レイアウトも引き受けることにした」
 と、冬彦は言った。
 そしてすぐにその作業にとりかかった。原稿を書き終えたヨシオも、写真と文章をレイアウト用紙に割りつける作業に加わった。ふたりとも一日じゅうアパートメントの部屋を出ない日が、何日も続いた。そしてレイアウトは完成した。雑誌の編集部までふたりで持っていき、中年の女性の担当編集者に渡した。狭い応接室で、彼女は時間をかけて綿密にレイアウトを検討した。修正や訂正を要求されることはほとんどなく、表紙から最後のページにいたるまで、ふたりの意図はほぼそのまま生かされることとなった。
 八月に入って校正刷りが出た。それを見て返却すると、冬彦とヨシオの仕事は、そこですべて終わりとなった。昨年とおなじく、直子は八月いっぱいを京都で過ごす予定だった。校正が終わってからの八月の残りを、ヨシオは冬彦や夏子とともに、葉山の彼らの家で過ごした。夏はすぐに終わった。
 九月の第四週に、その増刊号は出来あがった。見本が何冊か午後遅くになってから完成し、そのうちの二冊を持って冬彦はアパートメントに帰って来た。ヨシオは部屋にいた。ヨシオの部屋で、ふたりはそれぞれに、増刊号の出来ばえを検討した。仕上がりかたにふたりはひとまず満足した。
「これが僕たちのデビューなんだ」
 と、冬彦が言った。
「そうだね」
「ふたり同時に、おなじ本で」
「おなじひとりの女性をめぐって」
「こうなるとは、思ってもみなかった」
「僕もだ」
「ヨシオが書いた中原順子さんには、僕は節子さんを強く感じた」
 と、冬彦は言った。
「まさか」
「ほんとだよ」
「僕は可能なかぎり、中原順子さんを書いたつもりだ」
「つもりと仕上がりとでは、違うことが多いだろう」
「そうか」
 と、そのときはそのひと言だけを、ヨシオは答えた。そしてひとりになってから、彼は考えた。
 自分が書いた日比谷優子とその母親の物語は、知り得たかぎりの事実にもとづいている。そのことに間違いはない、とヨシオは自分に言った。しかし、会ったこともない、しかも材料の少ない中原順子は、フィクションの主人公としてとらえるほかなかった。ストーリーを書いていくのは自分ひとりだ。事実関係は事実のままだが、そのなかに存在する中原順子は、自分にとってはフィクションだ。
 彼女をフィクションとしてとらえることは、自分にとってもっとも正解だったはずだ、と彼は自らに確認した。確認はゆるがなかった。自分はフィクションを書いた。うまくいった、と自分では思っている。現在の自分の能力を全面的に発揮して、自分は中原順子という人の物語を、フィクションとして書いた。だから自分の文章のなかでは、中原順子はフィクションの中原順子でなくてはならない。それなのに、その中原順子をとおして、現実に存在する人である高木節子を強く感じた、と島村冬彦は言う。
 冬彦の判断力をヨシオは信用していた。その冬彦が言うことだから根拠は充分にあるはずだ、とヨシオは論理の筋道をつけた。どのような根拠なのか。冬彦のほうから見るのではなく、自分のほうから見るべきだ、とヨシオは思った。自分のほうから見ると、いったいなにが見えるのか。節子が自分の心に残っている、という事実が見えるのに違いない、とヨシオは判断した。それしかない。節子が自分の心に残っているとは、どういうことなのか。自覚しているよりもはるかに大きな影響を、自分は節子から受けたのだ。増刊号を一冊、ヨシオはホノルルの節子に送った。
 店頭にならんだその特別増刊号は、売れ行きが良かった。発行もとの出版社は、増刊号の延長として日比谷優子の写真集を発想した。増刊号を担当した編集者が、上司である男性の社員とともに、冬彦に優子の写真集の計画を伝えた。そして彼の協力を求めた。優子が高校生だった頃の写真から、デビュー作を撮り終えるまでの写真で一冊の本を構成することを、冬彦は提案した。編集部で検討が加えられたのち、冬彦の提案はそのままのかたちで了承された。冬彦はすぐにヨシオに相談した。
「優子の写真を一貫して撮ってるのは、まだ僕しかいないからね」
「ぜひ作れ」
「手伝ってほしい」
「どこを?」
「文章だよ。写真とキャプションだけではなく、巻末には文章のページが、ある程度は欲しいと言っている。ヨシオがそれを書くといい。優子さんとは高校の同級生だった頃からの関係なのだから」
「おたがいに」
「もちろん、そうさ」
「なにを書けばいいのかな」
「優子さんのこと」
「優子の、なにを」
「高校生の頃の話。そして、映画スターになるまで」
「取材しなくてはいけない」
「すでにかなり知ってるよ」
 もし書くとして、日比谷優子についての文章のなかに、ふたたび冬彦は高木節子を感じることになるのだろうか、とヨシオは思った。
「書くことにしよう」
「ヨシオしかいない」
「刊行するのはいつだって?」
「来年の春」
「春とは、正確にはいつのことなんだ」
「日本で春と言えば桜の頃だ」
「四月か」
「四月の上旬」
「また忙しくなるね」
「今度は少しは楽だよ。時間だってもっとあるし」
 増刊号をヨシオは直子にも進呈した。面白く読んだと直子は言い、日比谷優子に早く会わせて、と催促した。ヨシオと冬彦が増刊号を作っているあいだ、優子は撮影に時間を取られたままだった。撮影はやがて終わり、秋の主演作は公開された。ヨシオと冬彦のあとを追って、優子も少しだけ時間にゆとりを取り戻した。
 仕事に関係した予定がなにもない日を、二週間続けて、優子は確保することが出来た。その最初の日の午前中に、大学へいくヨシオに優子は同行した。下北沢まで歩き、電車を乗り継ぎ、スクール・バスでふたりは大学までいった。スター女優の日比谷優子に気づく人が、そこまでひとりもいなかった。
「これはたいへん珍しいことよ」
 と、優子は笑っていた。
 ヨシオは優子をエイヴォンへ連れていった。直子に優子を会わせた。受けるべき講義の始まる時間まで、ヨシオは優子とともにエイヴォンにいた。
「今日はみんなで夕食にしましょう」
 コーヒーがテーブルに届いてから、優子が言った。
「みんなとは?」
「冬彦くんと夏子さん。そして、あなたと私。よろしかったら、直子さんも。冬彦くんは、昨日のうちに誘ってあるの。六時までに、夏子さんとここへ来ることになってるわ」
 自分で先に予定を作り、少し遅れてほかの人たちから承諾を取るのは、優子の癖のひとつだ。
「僕は賛成だ」
「直子さんにうかがってみて」
 ヨシオはカウンターへいき、直子に予定を聞いてみた。六時に店を閉めればそのあとの私は自由だと直子は答えた。そのとおりをヨシオは優子に伝えた。
「銀座のレストランを予約しておくわ」
 ヨシオは講義へいき、正午を過ぎてエイヴォンへ戻って来た。店のスペースのいちばん奥の席で、優子と直子は差し向かいで談笑していた。自分のかたわらにすわったヨシオに、
「お昼よ」
 と、優子は言った。
「うん」
「昼食をどこで食べるの?」
「ここで」
「今日もお胡瓜きゅうり?」
「そうだね」
 直子と優子が笑った。
「私もいまいただいたの。おいしかったわ」
「僕も胡瓜のサンドイッチにコーヒーをください」
 直子は席を立ち、カウンターへ戻った。
「あなたがここでアルバイトをしていた頃に、私はここへ来てあなたに給仕してもらいたかったわ」
「何度か誘ったじゃないか」
「とてもいい店員さんだったのですってね」
「午後一時から六時まで」
「あなたが、一年間も」
「ここで出るようなコーヒーと胡瓜のサンドイッチでよければ、いつでも僕が作ってあげる」
「今度、撮影に同行して」
「日比谷優子専属の、胡瓜のサンドイッチとコーヒーの係」
「最高だわ」
「実現させよう」
「居合と合気道のお話を、直子さんからうかがってたの」
「居合?」
「そうよ」
「なんだい、それは」
「居合抜き」
「刀のこと?」
 ヨシオの質問に優子は微笑した。
「直子さんは、居合と合気道の、高段位者なのですって」
「知らなかった」
 ほどなく直子がふたりの席へ戻って来た。胡瓜のサンドイッチとコーヒーを、ヨシオの前に置いた。ヨシオに向けて寄せた体の位置や雰囲気、そして両手の動きをとおして、自分とヨシオとの関係のありかたのすべてを、直子は優子の目の前に披露した。なにも気づいていない様子を装って、優子は背すじをのばして清楚せいそに微笑していた。その優子をヨシオは観察し、ヨシオと向き合って直子はすわった。
「居合と合気道の話を、僕にも聞かせてください」
 ヨシオが言った。
「知らないことも少しはあったほうがいいと思って、黙ってたのよ」
 たったいま優子にばらした自分と彼との関係に、直子はそのひと言で影をつけた。ヨシオはコーヒーを飲み、胡瓜のサンドイッチを食べた。優子もコーヒーを飲んだ。そのあとしばらく席にいてから、優子とともにヨシオは店を出た。大学の構内やその周辺を散歩し、ビリヤードに入って玉突きをした。優子に初歩を手ほどきしようと思っていたヨシオは、ナイン・ボールを静かで優美な動きで的確にこなす彼女に、少なからず驚いた。
「高校生のとき、自宅の近くのビリヤードでアルバイトしてたことがあるのよ」
「知らなかった」
「知らないことが少しはあったほうがいいと思って、黙ってたの」
 周囲の台で遊んでいた暇な学生たちが、日比谷優子に気づいた。すべての台から人が優子とヨシオの台のまわりに集まった。近くの麻雀屋や喫茶店へ友だちを呼びにいく学生が何人もいて、しばらくのあいだ優子とヨシオの周囲には人垣が出来た。やがて人は少なくなり、以前の状態に戻った。
「私は好きだから、飽きないわよ」
 テーブルにセットした九つの玉を示して、優子は言った。ヨシオも飽きることはなかった。それに優子は、彼の技量にとって、好敵手と言ってよかった。ヨシオはかなりの腕だが、隙はまだ多い。優子は周到だが、狙いがときたまはずれた。
「体の中心線と視線、そしてキューを、ひとつに重ねるといい」
 ふたりは五時過ぎまでその店にいた。帰るとき、優子は店主から色紙を所望された。近くの文具店でいま買ってきたばかりだというクレパスの箱とともに、店主は色紙を差し出した。緑色のクレパスを選んだ優子は、色紙の天地を一杯に使って、まさに映画スターのサインをした。クレパスを箱に戻す優子に、
「大事にします」
 と、中年の店主は言った。クレパスの箱と色紙をそれぞれ両手に持ち、
「いっしょに大事にします」
 と、彼は繰り返した。そしてヨシオには、
「またお連れになってください」
 と言った。
 店を出て肩をならべて歩きながら、優子はヨシオと腕を組んだ。
「また連れていって」
 と、優子は言った。
 エイヴォンへ戻り、しばらくすると冬彦と夏子があらわれた。ふたりがコーヒーを飲み終わると六時になり、直子は店を閉じた。アルバイトのウエイトレスは店の掃除とかたづけをし、すぐに帰っていった。四人だけ店に残り、ほどなく直子とともに店を出た。
 都電の停留所まで歩き、それに乗って日比谷へ出た。そして銀座へ歩いていき、優子が予約しておいたレストランに入った。部屋は個室だった。夕食の進行に合わせて、五人はそこでいい時間を過ごすことが出来た。直子を写真に撮る計画について冬彦とヨシオは語り、夏子はジャズ・ピアノのLPを作る話が正式になりつつあることについて、語った。この夕食は、冬彦は写真による、そしてヨシオは文章による、ふたりのデビューのお祝いだと優子は言った。
 夕食が終わり、店を出て、五人はしばらく散歩した。その散歩は有楽町の駅で終わった。冬彦と夏子は葉山へ帰ると言った。「お送りして」と、優子を示して直子はヨシオに言った。東京駅を経由して、三人は新宿まで戻った。そこで直子が別れ、優子とヨシオは小田急で下北沢まで帰った。そしてそこからアパートメントまで歩いた。
 自分の内部、あるいはその周囲に、なにか欠落感があることに、ヨシオは気づいた。大事なものを忘れているような空白感だ。下北沢の駅からあのアパートメントへ帰るという日常の行為のなかに、奇妙な違和感があった。直子だ、とすぐにヨシオは悟った。エイヴォンへいき、そこでいつものように時間を過ごしながら、直子とふたりだけの親密な時間を持たなかった。直子との関係が二年めを過ぎて、これは最初のことだ。気になり始めると、ヨシオの頭のなかは、次第にそのことでいっぱいになっていった。その状態がまるで目に見えるかのように、優子は直子を話題にした。
「ほんとに素敵なかたなのね。体の動きが、ものすごくきれい。うらやましいわ。私の動きかたは、自分ではぎくしゃくしてて、固いと思ってるの」
「細部まで折り目が正しくて、丁寧なんだよ。しかし、動きを意識し過ぎると、ひとつひとつの動作がくっきりし過ぎてくる」
「ラッシュ・フィルムを見て、ああ、またやってる、と思うことが何度もあるの」
「監督に指摘されたりするのかい」
「それはないわ。自分でそう思ってるだけ。居合と合気道のどちらかに、入門を勧めていただいたの。練習を見せてくださるそうだから、こんど見にいきましょうよ」
 住宅地のなかを歩き、やがてふたりはアパートメントの敷地に入った。敷地のまんなかあたりで、優子は次のように言った。
「私が三十歳になるとき、直子さんは五十歳なのよ。そしてそのときは、あなたも三十歳だわ」
 その言葉を受けとめて、ヨシオとしては、
「そうだね」
 と言うほかなかった。
「でも、三十歳になって五十歳のかたと張り合おうとは、私は思ってはいないのよ」
 この言葉を受けとめ、ヨシオは胸のなかで笑顔になった。優子の性格がそのまま出た言葉だった。なにか言いたいことがあると、優子は言わずにはいられない。そしてその言いかたには、必要ならくっきりとひねりを効かすことが出来る。たとえばいまのように。
 おやすみなさいと言い合い、ふたりはそれぞれの部屋のドアに向かった。ドアを入ったヨシオは、暗いまま靴を脱いでフロアに上がり、ソファにすわった。そして考えた。考えていくと、やがて彼の思考は、落ちつくべきところへ落ちついた。
「送ってあげて」と、有楽町の駅で優子を示して、直子はいった。いま自分はこのアパートメントへ優子を送り届けた。直子に電話をかけ、「優子は送りました」と言えばいい。
「僕はこれからそちらへ向かいます」とつけ加える。思いついたら実行しないと気のすまないヨシオは、そのとおりにした。直子が電話に出た。昼間は店につながる電話は、店を閉めてからは裏の自宅に切り換えてあった。
「優子さんを送りました」
 と言うヨシオに、
「そう?」
 と、直子は答えた。
「僕はこれからそちらに向かいます」
「待ってるわ」
 明るい声で直子は答えた。ごく短い電話は、そこで終わった。頭のなかで早くも記憶となっている直子の声に、可憐さと言っていい色調があることについて思いながら、ヨシオは靴を履いて部屋を出た。
 下北沢ではなく、世田谷代田の駅に向かって、彼は歩いた。改札を入るとき、上りの各駅停車がプラットフォームに入って来た。彼は階段を駆け上がった。線路をまたいでいる簡単な建物を向こうへ越えていき、階段を駆け降りた。車掌の吹く笛の音とともに、彼は最後部の車両のいちばんうしろのドアを入った。ドアが閉じ、電車は発車した。
 空席はたくさんあった。彼は席にすわらず、いちばんうしろの壁に背をもたせかけて立った。彼は直子のことを思った。場面が浮かんだ。直子の自宅に電話機がどこにあるか、彼は知っていた。さきほど自分がかけた電話を受けている直子のうしろ姿を、頭に浮かんだ場面のなかに、彼は見た。
[#改丁]

あとがき



 この小説が一九九六年に単行本で刊行されたときにジャケットに使った写真を、今回のこの文庫本でもジャケットに使うことが出来た。まったく同一の写真ではないが、おなじ被写体をおなじように撮ったものだ。僕はこの写真を気に入っている。一九五〇年代のおそらく前半、アメリカのごく一般的な雑誌に掲載されたファッション写真から、僕が五十ミリのマクロ・レンズを使って複写した。
 掲載されていたのは全身像だった。当時のアメリカで最先端だったはずの女性ファッションを身につけてポーズをとった、ひとりのモデルの全身像だ。その写真を僕は一眼レフのファインダー視野でいろんなふうにトリミングしながら、複写遊びをした。白黒の印刷物の複写に僕はカラーのリバーサル・フィルムを使う。たくさん撮ったなかでいちばん良かったのが、今回もジャケットに使ったこの写真だ。なぜこの写真がいちばん良かったのか。このように作り上げられた若い女性の足もとという光景は、普遍に到達していると言っていいほどの出来ばえのいくつかの要素によって、構成されているからだ。
 見るからに歩きにくそうな靴、そしてスカートではないか、なぜこれが普遍なのか、という意見もあるだろう。普遍という言葉の、ここで僕が使うにあたっての意味を、僕は説明しておかなくてはいけない。架空の物語のなかに、一定の役割をあたえられて登場し、その役割どおりに機能する女性の登場人物を、この一葉の写真から、僕は少なくとも何人かは作り出すことが出来る、というような意味で僕は普遍という言葉を使っている。
『東京青年』というこの小説の内容を、他の小説とおなじく、僕はゼロから考えて作った。まったくなにもないところに、ある日ふと、考えていくための小さな足場がひとつ、生まれる。物語の背景となる時代を、三、四十年ほど以前の東京に設定しよう、というような思いつきが、小さな足場作りの発端となった。一九九六年を背景にして小説を書くことなど、とても馬鹿馬鹿しくて出来ない、と思ったからだ。この思いはいまでも続いている。
 主人公となるべき青年は、一九五七年には十七歳、そして一九六〇年には二十歳というふうに、思いつきはやがていま少し具体的になっていく。年号と年齢がうまく重なり、照合するのがたやすい。この青年がさらに二十二歳、二十三歳となっていくあたりまでを背景にしよう、などと思う。東京オリンピックのちょっと手前までだ。一九五七年には十七歳の少年、そして一九六〇年には二十歳の青年という、ひとまずただそれだけではあるけれど、ひとりの男性が僕の頭のなかの小さな足場の上に立った。
 ジャケットの写真を複写したのは、ちょうどその頃だったと思う。いちばん気にいった足もとの写真をプリントしてみた。表紙に使える、とはさすがにそのときはまだ思わなかったが、節子、直子、夏子、優子、そして順子という五人の女性たちを、この足もとの写真から僕は作り出した。
 十七歳の少年であれ、それから三年後の二十歳の青年であれ、あの時代のひとりの若い男性にとって、容姿においてひざから下がこれほどの出来ばえである女性は、当然のこととしてまず年上ではないか。少しだけ年上である節子と夏子を僕はまず作り、続いて二十歳以上も年上の直子を引き出したのち、高校の同級生であるおなじ年齢の優子を、そして時代的にはかなりさかのぼるけれども、優子の母親である順子も、おなじ一葉の写真から、少なくとも彼女たちの基本は、発想した。
 十七歳から二十二、三歳までの期間に、ひとりの東京青年が五人の女性を引き受けるのは、いくらフィクションとは言え無理がある。折りにふれてなおも写真を眺めると、やがてこの五人の女性の割り振りが見えてきた。節子は途中で退場する。主人公の親友として冬彦という男性を作り、夏子は彼の相手役とする。女優になる優子は、彼らふたりからほぼ等しい距離をとって、やや脇にいる。そして順子は、いまはすでにこの世にはいない人だ。
 こうして四人がそれぞれの場所を得たあとに、直子が残った。残ったとはつまり、彼女の役がもっとも大きい、ということにほかならない。彼女をいちばん年上の女性にすればいい。この写真の女性は直子である、と思いながらさらに写真を観察していくと、やがてひとつ思いつく。このスカートにこのハイヒールで彼女がいつも歩くのは、板張りのフロアが好ましいのではないか、というアイディアだ。このアイディアを延長させていくと、彼女が店長である板張りのフロアの喫茶店、という場所が浮かんでくる。
『東京青年』という物語のすべてがこの写真のなかにある、とまでは言い切れないものの、かなりのところまでがこの写真にあらかじめ内蔵されていた、とは言っていい。じつに不思議な写真だ。手に取って眺めていると、あるときふと僕の頭のなかにアイディアを転送してくれる、魔法のような記憶媒体なのではないか。

片岡義男





底本:「東京青年」角川文庫、角川書店
   2002(平成14)年4月25日初版発行
底本の親本:「東京青年」早川書房
   1996(平成8)年7月31日発行
入力:八巻美恵
校正:高橋雅康
2015年7月1日作成
青空文庫収録ファイル:
このファイルは、著作権者自らの意思により、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)に収録されています。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
この 作品 は クリエイティブ・コモンズ「表示-非営利-改変禁止 2.1 日本」ライセンスの下に提供されています。




●表記について


●図書カード