その双子の兄弟の名は韻を踏んでいた。兄のほうはジェス・ギャロンといい、弟は、エルヴィス・アロンだった。貧しい生まれだった。父親のヴァーノン・プレスリーは、二〇歳。利益のなんパーセントかをもらう契約で綿農園で働く雇われ農夫だった。妻のグラディスは一九歳。パートタイムの仕事がみつかれば、それですこしずつかせいで家計に加えた。国内は不景気だった。ミシシッピー州のそのあたりには、当時のアメリカでももっとも景気のよくない農園がそろっていた。
ジェス・ギャロンは、生まれてまもなく死んでしまった。エルヴィス・アロンも、はじめは順調ではなく、生まれてからひと月ほどは、長くもつ命ではないであろうと考えられていた。しかし、ひと月をこえると、その赤ん坊は、丈夫になっていった。この双子の兄弟が生まれたのは、社会保障法が成立した一九三五年の一月八日の夜だった。ひどい嵐で、はげしい雨が東テュペロの赤土を叩いていたという。
ミシシッピー州東テュペロは、テュペロから三マイルはなれている。この東テュペロからアラバマに向かう道を二マイルほど車で走ったところに、プレスリー家の建物があった。事実上はひと部屋しかない木造平屋の、家というよりは小屋と呼んだほうが正確な住居だった。門が一五フィート、長さはそのちょうど倍の三〇フィート。床は高床式のまねごとみたいに高くなっていて、ポーチへは階段を五段あがる。
グラディス・アンド・ヴァーノン・プレスリー夫妻は、宗教に熱心だった。テュペロのファースト・アセンブリー・オヴ・ゴッド教会が、ふたりの宗教の場だった。ひとりっ子のエルヴィスは、まだひとつにもならないうちから、この教会となじむことになった。七五人分の席しかない、小さな教会だった。
エルヴィスは、四歳になると、母親のひざから降りて、教会の中央通路を歩いてプラットフォームの下までいき、そのうえでうたう聖歌隊に聞き入るのだった。言葉はまだわからないため、リズムやメロディを、エルヴィスはおぼえるのだ。
両親といっしょにゴスペルをうたうエルヴィスは、数年後には、その教会の名物になっていた。教会がおこなうバザー、キャンプ・ミーティング、リヴァイヴァル・ミーティングなどで、プレスリー一家のトリオはよくうたった。エルヴィスは、教会とゴスペルを中心に、かなり厳しく育てられた。おとなしい子供だったエルヴィスは、両親と讃美歌をうたっているときは、楽しそうだった。
テュペロにある公立学校のほとんどでは、朝、一日の授業がはじまる前に、みじかいおいのりがおこなわれていた。エルヴィスが東テュペロ・スクール(現在はローホーン・スクール)の五年生だったとき、担任の先生、ミセス・J・C・グライムズが、
「みなさんのなかでおいのりの文句をちゃんと知っている人はいますか?」
と、二日つづけて、生徒たちに訊いた。
三日目にも、グライムズ先生は、おなじことを訊いた。手をあげたのは、エルヴィス・プレスリーだけだった。
彼は、おいのりの文句をまちがえずに言い、さらに、両親といつもうたっている讃美歌を数曲、うたってみせた。グライムズ先生はこれを非常にうれしく思い、母親のグラディスに伝えてほめたたえ、校長のJ・D・コールにも話しておいた。
しばらくあと、テュペロで、アラバマ・ミシシッピー・フェアが、開催された。もよおし物のひとつとして、歌やフィドリングのアマチュア・タレント・コンテストがおこなわれることになり、グライムズ先生から聞かされたエルヴィス・プレスリーのことを覚えていた校長は、エルヴィスにこのコンテストに出てみることをすすめた。
エルヴィスの出番は、いちばん最後だった。五〇〇〇人の観衆の前で、エルヴィスは『オールド・シェップ』を、うたった。子供が一匹の犬を大切にしていたがその犬は年をとって動けなくなり、子供は涙をのんで犬を射殺する、という内容のバラッドだった。たいへんな拍手だった。エルヴィスは、一等になってしまった。これによろこんだ父のヴァーノンは、ほうびにギターを買ってあたえた。
一九四八年九月、プレスリー家は、ミシシッピー州東テュペロから、テネシー州メンフィスにひっこした。政府が計画してつくった住宅難解消のための住宅に入ることができたのだ。エルヴィスは、L・C・ヒュームズ・ハイスクールにかよった。母のグラディスは、高校生になった息子といっしょに、毎日、学校まで歩いていた。グラディスは、やさしくて同時に厳しかった。不況の時代に人の親となったアメリカ人は、みな厳しかった。
父親は仕事をかえてトラックの運転手になった。安定した職ではなく、主としてトラックの運転によって生活費をかせいだのだ。野菜を市場にはこぶトラックを運転することが多かった。家にトラックでそのままかえると、エルヴィスはなん時間でもそのトラックの運転台にいた。ダッシュボードのラジオで、音楽が聞けたからだ。自分もトラック・ドライヴァーになりたいと、エルヴィスは考えた。巨大なトラックをあやつるドライヴァーは、野生的な英雄にみえた。一六歳になると、エルヴィスは、サイドバーンズ(もみあげ)を長くのばしはじめた。多くのトラック・ドライヴァーが、そうしていたからだ。
エルヴィスは、学力はそれほどではなかった。しかし、フットボールの好きなアメリカ的な少年で、しつけによくしたがい、もの静かで無口だが人には好かれる明るい少年といわれた。朝食で特に大食いをするのがクセで、白いパンにピーナッツ・バター、ねりつぶしたバナナなどを塗りこめてサンドイッチにこしらえ、ペプシ・コーラとミルクで交互にながしこむのだ。
父は、また仕事をかわった。塗装会社の班長みたいな職が手に入った。エルヴィスの成長とともにアメリカは豊かになり、プレスリー家の家計もすこしは楽になった。エルヴィス自身、映画館で場内案内人のアルバイトをして、週に一四ドルをかせいでいた。彼はレコードやラジオを聞くのが好きで、覚えたメロディをギターでよく弾いた。クリスマスのときには、学校で歌をうたった。当時のカントリー・アンド・ウエスタンのヒット曲だった『冷たい冷たい氷のような指』を彼はうたい、メンフィスのラジオ局でアナウンサーのアルバイトをやっていたクラスメートに、忘れることのできない経験として記憶されることになった。母のグラディスは、とても満足していた。そして、ウエートレスや看護婦助手などのパートタイム・ジョッブをもって働きつづけた。
一九五三年、エルヴィス・プレスリーは、高校を卒業した。クラウン・エレクトリック・カンパニーという会社のトラック・ドライヴァーになった。給料は、週に三五ドルだった。このトラック・ドライヴァーのころのある日、エルヴィスは自費でレコードをつくることを思いたった。母親の誕生日のプレゼントにしようと考えたのだ。
地元の小さなレコード会社、サン・レコードをエルヴィスはたずね、四ドルでシングル盤を一枚、カットしてもらった。母親の好きな『マイ・パピネス』と『ザッツ・ホエン・ユア・ハートエイクス・ビギン』の二曲だった。このレコードをつくるときに立ちあった社長のサム・C・フィリップスは、
「歌は練習をつづけてみたらどうだろう。またそのうち電話するかもしれない」
と、エルヴィスに伝えた。彼の名前、住所、電話番号をファイルし、「面白いうたいかた。バラッドにいいかもしれない」と、簡単にメモしておいた。
一年近くあとになって、サムはエルヴィスに電話をかけた。歌手としてレコードをつくってみないか、というのだ。
プラクティスがはじまった。リード・ギターにスコティ・ムーア、ベースにビル・ブラックがつき、数週間にわたってリハーサルがおこなわれた。経過は、あまりかんばしくなかった。サムは、エルヴィスにポップなバラッドをうたわせようとしていた。
ある日、プラクティスの途中でひと休みしているとき、エルヴィスは、
「ぼくはこういうのがいいのだが」
と、『ザッツ・オールライト、ママ』をうたいはじめた。聞いていたサムは、やはりこの青年にはこれだ、とその場で結論をだし、B面には『ケンタッキーの青い月』を入れ、45回転シングル盤を一枚、つくった(サン209)。エルヴィスは、サン・レコードの専属歌手、という契約になった。
レコードは、一九五四年の夏に、かぎられた地域で発売された。はじめにこのレコードをとりあげたDJは、メンフィスの放送局WHBQのデューイー・フィリップスだった。三時間にわたる彼のレコード番組でエルヴィスの歌が紹介された夜、エルヴィスはひとりで映画をみにいってしまった。みんなの笑いものになるのを、彼はおそれたのだ。
「さっきのレコードをもういちどかけろ」
というリクエストを、フィリップスは、電話で四七回、電報で一四回、うけとった。三時間の番組のなかで、フィリップスは『ザッツ・オールライト、ママ』を七回もかけることになった。次の週、そのレコードはメンフィスで七〇〇〇枚、売れた。
〈ザ・ヒルビリー・キャット〉と愛称をつけられたエルヴィス・プレスリーは、ボブ・ニールのマネジメントのもとに、カントリー・アンド・ウエスタンのショウに加わり、巡業公演に出た。ハンク・スノウやジョニー・キャッシュといっしょになることもあった。
テクサカーナのディスク・ジョッキー、アンクル・ダドレイからエルヴィスの人気を聞かされたトム・パーカーという男が、エルヴィスのマネジャーになった。かつてはエディ・アーノルドのマネージをしていたこともある男で、興行の世界で厳しい体験をつんだすぐれたマネジャーだった。
一年たたないうちにエルヴィスは自分のジャンボリーを持ち、シュレヴポートのKWKH局の有名な番組『ルイジアナ・ヘイライド』の常連になった。ロイ・エイカフのショウに加わって北部をまわり、一九五四年七月にはメンフィスのオヴァトン・パーク・シェルでスリム・ホイットマンやビリー・ウォーカー、ルーヴィン・ブラザーズたちとともに、二〇〇〇名の観客の前に出た。
カントリー・アンド・ウエスタンのさかんな地域だけに限られていたのだが、エルヴィスの人気は急速にたかまった。一九五五年の夏には、業界の人たちやDJの口づてで、エルヴィスのレコードは南部をはなれてニューヨークやクリーヴランドでも放送された。反応は、すばらしかった。
テネシー州ナッシュヴィルでは、カントリー・アンド・ウエスタンのDJたちの大会が毎年おこなわれる。これによばれたとき、エルヴィスはヴィクターのスティーヴ・ショールスの興味をひいた。トム・パーカーの売りこみとうまくかさなりあい、サン・レコードでつくったマスター・テープとともに、エルヴィスの専属料は三万五〇〇〇ドルでヴィクターに買いとられ、エルヴィスはヴィクターの歌手になった。ヴィクターは彼に五〇〇〇ドルのボーナスをあたえ、彼はこれでさっそくはじめてのキャデラックを買った。ピンクのキャデラックだった。
サン・レコードがプレスしたエルヴィスのレコードは、一九五五年いっぱい販売できることになっていた。ヴィクターは、サンから買ったマスターをもとに、五枚のシングルをつくりなおし、五枚を同時に発売した。あらたなレコーディングもはじまり、『アイ・ガット・ア・ウーマン』がヴィクターでの最初の吹きこみになった。つづく『ハートブレイク・ホテル』は、はじめて出演したテレビで紹介されることになった。一九五六年一月二八日、土曜の夜のジャッキー・グリースンの『ステージ・ショウ』だった。
ドーシー・ブラザーズのショウに六回の出演をすませたころには『ハートブレイク・ホテル』は、ポップの分野で一位、カントリー・アンド・ウエスタンでは三位、リズム・アンド・ブルースでは五位のポジションにあった。
ハリウッドでスクリーン・テストをうけ、ミルトン・バールやスティーブ・アレンのテレビ・ショウの出演がつづいた。エド・サリヴァンのショウには、三万五〇〇〇ドルの出演料で登場した。
スクリーン・テストは成功し、パラマウントと一年一本の七年間契約を結び、第一作は二〇世紀フォックスのためにつくられ、当時のエルヴィスのヒット『ラヴ・ミー・テンダー』をタイトルにし、おしまいに彼がこの歌をうたう部分をくっつけて、一九五六年一一月一五日、ニューヨークのパラマウント劇場で封切られた。タイムズ・スクェアをみおろすビルの壁にはギターをかかえたエルヴィスの巨大なカットアウトが飾られ、それにかぶせられていたカヴァーは、盛大なおまつりさわぎとともに、封切りの日にとりはらわれた。第二作の『さまよう青春』は五七年の六月に、三作目の『監獄ロック』は、一一月に、それぞれ封切られた。
五六年の秋、テネシー州で〈反エルヴィス・プレスリー・クラブ〉がつくられた。いつどこのラジオ局でもプレスリーのレコードが放送されている、なんとか彼を追いはらってくれ、と五〇名ほどのメンバーがDJたちに嘆願書を送ったのだが、DJたちから逆につぶされてしまった。
〈エルヴィス・プレスリー〉の名を冠したさまざまな商品がつくられはじめた。『ハウンド・ドッグ』にひっかけた犬のぬいぐるみ、『テディ・ベア』の熊、帽子、Tシャツ、ジーンズ、ハンカチ、口紅(ハウンド・ドッグ・オレンジ、ハートブレイク・レッド、など)、手ぶくろ、セーター、スニーカー、ブラウス、ネックレス、ブレスレット、便箋、本立て、グリーティング・カードなどの年間売りあげが、五六年には二〇〇〇万ドルにまでなった。暗いところに置いておくと二時間だけ光りつづけているシカケのプレスリー・ポートレート、というようなものまでつくられた。
彼のレコードのタイトルをつづりあわせたファン・レターが、一〇万ドルで買ったグレースランドの自宅によくとどいた。
Dear Big Hunk of Love,
I want you, I need you, I love you. All shook up over you so Don't be cruel Just because … Treat me nice I beg of you, Let me be your teddy bear. Don't let this be a one-sided love affair. There'd just be one broken heart for sale. Loving you.
ボストンのDJは、エルヴィスの肉体的なトレード・マークのひとつである長いもみあげから、七本の髪を手に入れてきた。
「欲しい理由として、もっともバカげた理由をあげた七人の人たちに進呈しよう」
とラジオでしゃべったら、それから一週間のあいだに、一万八四〇〇人の人が応募してきた。
プレスリーの自宅の芝生はファンによってひき抜かれ、小さなビンに入れてフォルマリンづけにし、いまでも持っている人がいる。
彼のキャデラックにちかづくことのできた女のこは、ブラウスを脱いでキャデラックをふき、ブラウスについたホコリごと大切に保管した。
「エルヴィスが好き」「エルヴィスは嫌い」と印刷したふたつのボタンが、同じ会社でつくられ、どちらもよく売れた。
いっしょに写真をとった女のこが、
「私はプレスリーに強姦された」
と狂言をでっちあげて裁判にもちこみ、示談で五〇〇〇ドルをせしめた。
やはり一九五六年、エルヴィスは、故郷のテュペロで、コンサートを二回おこなった。一度は、子供のときタレント・コンテストに出たアラバマ・ミシシッピー・フェアだった。三万の人たちが、彼をみにやってきた。テュペロの商店のすべてが、エルヴィス・プレスリーをテーマにした飾りつけをウインドーにこしらえ、パレードがおこなわれた。あくる年ふたたび彼はテュペロにでかけ、そのコンサートであげた二万五〇〇〇ドルの収益を市長のジェームス・F・バラッドに託した。この資金で、エルヴィスの生家のちかくに、ユース・センターとエルヴィス・プレスリー公園がつくられた。
シンシナティでは、プレスリーのレコードに熱狂しておなじものをなん枚も買いこむ妻を、夫が射殺したりしていた。
一九五八年一月一五日、エルヴィスは、アメリカ陸軍から徴兵命令をうけとった。四作目の映画『闇に響く声』にすでにとりかかっていて、ここで軍隊に入るとパラマウントその他にめいわくがかかるから、という理由で入隊をのばしてもらい、三月二四日、アーカンソーのフォート・チャックスに出頭した。そして、テキサス州のフォート・フードで基礎訓練をうけはじめた。このフォート・フードにいたとき、エルヴィスの母親が死んだ。
死因は、肝臓障害による心臓マヒ。四二歳だった。葬儀はメンフィスで一般公開のかたちでおこなわれた。ジェイムス・E・ハミル牧師がおいのりをあげ、ブラックウッド・ブラザーズ・カルテットが『主よ、我が手をみちびきたまえ』をうたった。いよいよおわかれのときは、エルヴィスは母の棺にもたれて気絶寸前だった。あくる日、母親にわかれをつげるエルヴィスの言葉が新聞にでかでかと報道され、彼自身はカゼをひいて寝こんでしまった。
エルヴィスの母親思いは有名で、彼の母の死をテーマにして歌がつくられた。デイヴ・マックェナリイに作詞されたその歌は、次のような内容だった。
「輝くみ空に、今夜、またひとり、天使がつくられた。その天使は、我らのロックンロール・キングの母親だ。いま陸軍で兵隊をやっている自分の息子を、母親は天から見守っている。なつかしい数々の思い出を胸に」
その年の九月二二日、エルヴィスはドイツにあるアメリカ陸軍基地に駐留することになり、ニューヨークのブルックリンから船出した。このとき、『ムーヴィランド・アンド・TVタイム』の編集長ジェームズ・グレゴリとのあいだにおこなわれた一問一答は、『エルヴィスの船出』という一枚のシングル盤にまとめられて発売された。
アメリカ陸軍兵士としてのエルヴィス・プレスリーは立派だったという。ベーシック・トレーニングのときすでにアシスタント・スクォッド・リーダーとなり、カービン銃ではマークスマン、ピストルではシャープ・シューター、そして戦車の銃砲操作はエキスパート、という評価だった。
軍籍番号は53310761。西ドイツ、フリードバーグの第三機甲師団に配属され、ジープやトラックの運転手をつとめた。すぐに一等兵になり、五九年のはじめには、四級特技兵に昇進した。これは大佐の位にあたり、給料は月に一二二ドルだった。一週間に一万通前後のファン・レターが、基地にとどいた。
一九六〇年三月二四日、エルヴィス・プレスリーはアメリカ陸軍から名誉除隊をとげ、基地から歩いて出てくる現場の写真撮影権をマネジャーのトム・パーカーは、『ライフ』に三〇〇〇ドルで売ろうとして断られた。
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フロンティアが消滅すると同時に、アメリカの価値は変転しはじめた。アメリカはもはや唯一無二の希望の土地ではなくなり、世界の動きとともに、アメリカの価値もかわっていったのだ。アメリカは単独では存在できなくなり、世界の影響をうけなければならなくなった。
第二次大戦中のアメリカは、自由諸国のうしろにひかえている巨大なる富であった。そしてその富は、ほかの国が持ちたくてもとうてい持つことのできない大量の物資を供給してくれる国でもあった。しかし、戦後のアメリカからは、単一の価値が消えていった。そして、ことなったふたつの価値が対立するようになった。資本主義と共産主義との対立であり、資本主義のほうがはるかにまさっているという証明を、アメリカは、世界の自由諸国に、身をもって示さなければいけないことになってしまった。これまでどおり進むか、それともなにか新しいものを発見していくか。アメリカンネス(アメリカ性)の、厳しい追及がはじまっていった。
大勢は、中間を歩んだ。一九四五年四月一二日、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトが死に、ハリー・S・トルーマンは、大統領にあがった。そして、その年の八月一五日、第二次大戦は、みんな終わった。
トルーマンは、FDRのニュー・ディールを継続することにした。ヨーロッパの戦線がなくなってすぐに動員の解除がはじまり、一九四六年の夏には、一四〇〇万のアメリカ兵は二〇〇万に減っていて、四〇年代の終りにかけて、さらにすくなくなっていった。軍事産業も、縮小されるかあるいは平時のそれに転換されなければならなかった。ニュー・ディールのあいだ、本来なら失業者になるはずの人たちは、軍事産業ですくわれていた。解除された人たちがいちどにあふれたら、アメリカは失業者でうまったことだろう。しかし、一九四六年雇用法が成立し、四四年にできたGI憲章で除隊兵が大学に入ったために、一九四六年はじめには失業者の数は無視してしまってよいほどのミニマムで、好況だった。
そのかわりに、物価の値上がりとストライキが、おこった。一九五三年を100とする消費者物価指数は、四五年に70・2、四六年には74・9、四七年には84・7と、あがっていった。大戦中は価格統制局が物価を押えていたが、戦後になると、企業は物価値上げと賃金の規制、労働者たちは、賃金規制の廃止、賃上げ、低物価を要求した。軍事産業で高い賃金をとっていた労働者たちは、平時にきりかえられると、賃金がさがった。賃上げを要求するストライキがおこり、企業はこれに応じたため、生産コストがあがり、物価の上昇をまねいた。
一九四六年の中間選挙ではニュー・ディール以来はじめて共和党が多数党をとり、第八〇議会では、トルーマンのニュー・ディールと共和党の保守政策が対立し、トルーマンのほうが押されぎみだった。四七年六月のタフト=ハートレー法の成立は、共和党の保守的な態度のひとつの頂点だった。団体交渉権を制約し、クローズド・ショップを非合法にし、ストライキをおこなう前に六〇日間の冷却期間を設けなければいけないとするなど、労働者の権利を大きく制限するものだった。共和党の上院議員ロバート・タフトが議会に提出し、労働組合は反対、トルーマンも拒否権を行使したが、それをオーヴァーライドして、成立してしまったのだ。
一九四八年の大統領選挙は、しかし、トルーマンの勝利だった。一月の就任演説で、これからの国内政策を、トルーマンは、フェア・ディールと名づけた。最低賃金法が通過し、一時間四〇セントが、七五セントにあがった。議会は民主党が多数党だったのだが、その保守派と南部議員が共和党と力をあわせ、フェア・ディールの前に立ちふさがった。だから、タフト=ハートレー法の修正すら、できなかった。
終戦のあくる年には、ウインストン・チャーチルのフルトン演説によって、「鉄のカーテン」という言葉が、有名になっていた。冷戦体制は次第にかたまっていき、四七年、アメリカには国防省ができ、トルーマンは、連邦政府職員の「忠誠審査」をおこなうことにした。四八年、平時徴兵法がしかれ、当時はカリフォルニア出身の上院議員だったリチャード・ニクソンは、アルジャー・ヒスやホイッティカー・チェインバースの共産圏スパイ容疑調査事件で重要な役を果たした。そして五〇年、カリフォルニアの民主党員、ヘレン・ゲヘイガン・ダグラスを、おなじく共産主義者容疑で自分の対抗者の位置から落すことに成功した。朝鮮動乱がおこされた。
二月九日、ジョゼフ・R・マッカーシーがウエスト・ヴァージニアのホイーリングで、赤狩ヒステリアを全米的なものにするきっかけをつくった演説をおこなった。国防省内部では二〇五名の共産主義者がいまだに重要なポストにいてアメリカのポリシー決定に参画し、そのうちのひとりはオーエン・ラティモアである、とでたらめを言ったのだ。九月には〈国内治安法(マッキャラン法)〉が成立した。共産主義団体の届出制、共産主義者の入国禁止などを認めた法律だった。
二年あと、一九五二年には、アメリカは大統領選挙をむかえなければならなかった。共和党からの候補者には、パリでNATOの最高指令官をやっていたアイゼンハワー元帥が、えらばれた。民主党の候補者は、トルーマンは法的には出馬できたのだがその意志はなく、イリノイ州知事のアドレイ・スティーヴンスンに、決った。
アイゼンハワーとスティーヴンスンとは、好対照だった。アイクは人柄と人気と朝鮮動乱の「早期にして名誉ある終結」を人々に提示し、スティーヴンスンは、知性派だった。マッカーシーの赤狩りが極端なかたちで示しえたように、アメリカの国内は、不健康に緊張していた。だから、それに対立するものとして、大統領には、アメリカに対して忠誠で、身をささげることができ、複雑でわかりにくいところのない安定した人格を持った人間が、のぞまれていた。アイクは、うってつけだった。
一般投票で五五〇万票、選挙人団投票では三五三票の差をスティーヴンスンにつけて、アイクは、ランドスライドをおこなった。
アイクの政策は、中庸だった。個人的には、自分が軍隊で成功したのと同じように、大企業のなかで経営技術者として成功している人たちが、アイクは好きだった。チャールズ・E・ウイルスン、ジョージ・ハンフリー、シンクレア・ウイークス、ジョン・フォスター・ダレスなどが入閣し、アイクの組閣は「一〇人の億万長者とひとりの配管工」と呼ばれた。一〇人の億万長者とは、ジェネラル・モーターズのチャールズ・E・ウイルスンや企業弁護士のジョン・フォスター・ダレスなどのことで、ひとりの配管工とは、配管工ユニオンのリーダー層からえらばれた労働相のことだ。この組閣は、大統領と民間企業との結びつき、というかたちで一般に理解され、企業優位、テクノロジー優先という結論を生むのだった。
一九五四年五月一七日、公立学校での人種差別は違憲である、という判決が、最高裁判所の全判事の一致によってなされた。最低賃金は一ドル二〇セントまでなった。物価は、上昇しつづけた。五六年、アイクは、四年前よりもさらに大きな地すべりで、再選された。五七年九月にはリトル・ロックの暴動がおこり、次の月には、ソヴィエトのスプトニク

アイクの八年間は、とりあえず繁栄の時だった。年間の経済成長率は二・四パーセントにすぎなかったけれど、統計上の数字のほとんどが、上昇を示していた。GNPは、一九四九年が二五〇〇億ドルだったが、五五年には三九七〇億ドルにのぼった。人口は一億七〇〇〇万人を突破し、アメリカはマス・マーケットになった。黒人、農村、老人、低所得者たちが、豊かな中産階級の影に、とりのこされていった。人口の配置もかわった。カリフォルニアでのミサイル・軍需産業のため、人口が西に移動し、カリフォルニア州が西海岸の中心となり、人口は、ニューヨークについで第二位になった。
マス・マーケット内での大量生産機構と、コミュニズムとの対抗が生んだ、アメリカへの忠誠は、大勢への順応を、人々に強制したのだ。大勢としてのアメリカに対立するような価値は、非アメリカ的なものとして、しりぞけられていた。女子学生の寮に男子学生が押しかけ、パンティをうばってよろこぶ「パンティ・レイド」に熱中していた学生たちは、当然のようにリースマンの他人志向説、ガルブレイスの豊かな社会、ミルズのホワイトカラー、パワーエリートなどの意味するところをとりちがえて、地位を求める歯車となっていた。たとえば、ソコニー・ヴァキュアム・オイル・カンパニーが大学の就職係りに三〇万部も配った就職ガイダンス本に書かれていた「個人的な見解を語ると、いろいろと面倒なことになります。保守的な意見をのべるにこしたことはありません。なにごとにせよ、主義、と名のつくものは時代の主流ではありませんし、よくないことなのです」というような考え方に彼らは順応したし、チャールズ・E・ウイルスンの失言である「ジェネラル・モーターズの利益はアメリカの利益」をもぼんやりと信じていたのだ。彼らにとって、いい就職さきをみつけられないことは、こわいことだった。この、こわいことをさけるためには、人間としての尊厳を犠牲にしなければならなかった。
非アメリカ活動調査委員会は、一九五八年まで、盛大な活躍をつづけた。共産党は、五四年に法律で禁止され、五〇年代の終りには、メンバーは一万人になってしまった。委員会は、人種差別に対抗する黒人たちの活動をもとりしまろうとしたのだが、これは、はたせなかった。動いていく時代の重みが、黒人たちに味方していた。一九五五年一二月、アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークスという黒人女性が、バスの後部座席(黒人の席)にすわることを拒否し、これをきっかけにモンゴメリーでは一〇か月にわたる黒人によるバスのボイコットが成功し、座席差別はおこなわれないことになった。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが、表面に出ていった。
白人たちのあいだで、他人志向は忠実に守られた。他人たちは、冷たくて注意深かった。危いと思われるようなことはなにもしないでいるのが最も得策だった。クールで傍観的でシニカルで、コミットしないでいることが、精神構造まで含めた生活態度のうえでの、通俗的な流行だった。
日本ではジラードが執行猶予の刑をうけていた。一九五七年一〇月のスプトニク

「アメリカは物質主義に狂っている。警察国家アメリカ、性の感情も魂もないアメリカは、誤った権利の偶像を擁護しようとして、世界を相手に戦おうとしている。ウオルト・ホイットマンの同志たちの、あの粗野で美しいアメリカではない」(一九五七年、アレン・ギンズバーグ)
ジャック・ケルーアクの『オン・ザ・ロード』は、出版される五、六年まえに完成していたのだが、世のなかに出たのは、一九五七年だったということだ。当時のスクェアなベストセラー、『積極的なものの考え方』などに対立する本として、『オン・ザ・ロード』やアレン・ギンズバーグの『ハウル』を、とらえることができる。
アメリカのなかでなにが失われつつあるのかを、ビート・ジェネレーションは、知っていた。アメリカに対するビート・ジェネレーションによる批判は、まずたいへんに個人的な次元からはじまった。アメリカ社会が持っている偽善とか品性の下劣さをひとりひとりが認識し、そのようなアメリカと正面から対立する人間としての価値をみつけ、それにもとづいて行動することが、ビートとしての第一の基本だった。しかし、ビートの行動は、結局、社会的な広がりを持たなかった。アメリカのどこがいけないのかはよくわかっていながら、そのいけない部分を改革しようとするための、方向のみつかった怒りの推進力が、ビートの世代には欠けていた、怒りや反抗をそのままのかたちで社会にぶつけても、どうにもならなかったし、ビートは悪い意味でのアメリカンネスからできるだけ自分を遠ざけることに専念したので、ビートの考え方は具体的なプロテストへのインスピレーションにはなりえず、したがってビートは非政治的だった。
ビートは、アメリカから、離れた。抵抗するよりも当時としては離れていったほうが、より強力なプロテストの手段だった。アメリカが強要してくるいっさいの制約からはなれ、ヒゲを自由にはやすのが、ビートとしての精神的な勇気だった。ヒゲは、はやすものというよりも、剃りととのえる必要のないものだった。ビート・ジェネレーションとは、アメリカから離れていく必要を自分のために感じた若者のことなのだ。
ビート・ジェネレーションがすてたものこそ、じつはビートの敵になるべきだった。無視された敵は無事でなにごともなく、スクェアなアメリカは、ビートのエゴセントリックな精神世界とは無関係だった。
文学的なことをはなれたビートが、あとにくる時代のために、なにを示しただろうか。
精神的な自己に内向すると同時に、ビートは、意識してヒップスタになろうとこころみた。ときとしてこのヒップスタは、スクェアなアメリカよりもさらに非知性的な聖なる野蛮人だったが、ヒップに生きようとするこころみは、ビートの世代へ個別にしかし広くいきわたったのだ。ヒップスタになることは、アメリカン・ウエイ・オヴ・ライフの主流から、意識してはずれることだった。アメリカン・ウエイ・オヴ・ライフ以外の生き方をさがす知的な冒険者が、ヒップスタだった。六〇年代のヒッピーは、この冒険者が世のなかに立ちむかいはじめたときの姿なのだ。ビートは、文学でも風俗でもなく、ものの考え方であり、それはそのまま、ひとつの生き方を構成していた。
ヒップスタは、日常の生活者ではなく、精神主義者だった。六〇年代の終りちかくになって、blowing the mind(心を爆発させる)という言葉がヒッピーの旗印になるのだが、これのプロトタイプを、ビートのたとえばジョン・クレロン・ホルムズのなかに、みつけ出すことができる。彼は、『ザ・ホーン』や『GO』などの著作を持ち、アレン・ギンズバーグを「意識をひろげてくれる人」と呼んでいる。一九五二年、ジャック・ケルーアクはこれまでのさだめられたかたちを越えて、どこまでもワイルドなものとして知力や精神が広がっていく事実を「私の心は爆発している」という言葉をつかって、ホルムズあての手紙のなかで説明している。理論的な説明はできないのだがすべてのことを書きとめたいという衝動におそわれる、と彼は語っていて、これは六〇年代のボブ・ディランの「ボクのなかでいろんなことが同時におこっている」の、予告だった。「いろんなことが同時におこる」は、ひとつひとつ順番に、一本の線のようなかたちで、これまでどおりにおこってくる世界との、鋭い対立だ。水平思考というかたちでこれの一部分が日本で流行したのは、一九六〇年代も終りちかくなってからであり、しかも、雇人としてのテクノクラートの地位をより固定させるためのひとつの道具としてであった。一九五二年に、すでに「心が爆発する」と言っていたジャック・ケルーアクは、やはりおどろきに価する。
「心の爆発」を人工的につくる手段として、六〇年代のLSDのさきがけは、五〇年代のマリワナだった。人間の精神的知力にどれだけの幅、自由、許容性などがあるかを、無理やりにしかも自分の心のなかに見るために、マリワナが用いられた。マリワナは、幻想体験や人工的で一時的な狂気のためにつかわれたのではなく、もっとしたたかに覚めた状態で冷静に用いられた。六〇年代のLSDもおなじことで、幻覚は、心の爆発とは表裏ではあっても関係はない。マリワナやLSDを幻覚の側からとらえるのは、心が爆発することを知らない人たちの、基本的でひどく恥しらずなまちがいなのだ。疎外された自分の実存を再び社会のなかに持ちこむとき、どうしても必要なのは、自分の心がなにに対してどこまで目覚められるかという自信なのだ。ビートにとっての英雄は黒人のジャズマンであり、彼らの信念や生命力を自分の現実にあてはめてヒップスタとなるホワイト・ニグロに、マリワナはやはり必要だった。マリワナは、肉体のなかの幻覚ではなく、官能のなかの冒険だった。
ヒップとして生きるか、スクェアのまま死ぬか。ヒップになるほうをとったビートの若者の心は、はじめからアメリカの主流とは切りはなされてしか存在しなかった黒人に、最も近かった。しかしジャズは、やはり悲劇だった。たとえばチャーリー・パーカーでは、創造する人間の内面での苦しみを表現する手段が彼のジャズであり、インスピレーションやその場での天啓に頼りきる方法でもたしかにパーカーのジャズとなって外にあらわれたし、鈴木大拙が書いたように、実存を内面からつかむことにもなりえたのだが、個人的な感性の強烈な表現は、エルヴィス・プレスリーのロックンロールがそうだったように、ロマンティックではありえても、政治的にはなり得なかった。
ビートは、文学的には、詩を生んだ。アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、ローレンス・ファリンゲティ、ローレンス・リプトン、テュリ・カプファバーグ、マイケル・マクルーアなど、みな、生きのこっている。彼らは、しかし、詩を文学としてつくったのではなかった。目覚めた人間の心を伝える最もすぐれた方法として詩をみつけ、メッセージとしての詩を書いたのだ。グレゴリ・コルソによると「私たちの世代のなかでの意識の変化を、私たちは表現しようとしていた。なにが人間としての尊厳でなにがそうではないかを、詩であらわそうとしていた。詩人として、私たちはまず革命をおこした。詩を、大学から切りはなしてひっぱり出し、道路にさらしたのだ。あらゆるものを用いて、私たちは詩をつくった」ということなのだ。
Blowing the mind(心の爆発)にDo your own thing(自分が人間としてやらなければならないことをやれ)を加えた六〇年代後半のヒッピーは、ついに政治に目覚めていた。生き方としてのヒップが一〇年を経過すると、こうなるのだ。そしてこの一〇年のあいだ、大統領になることだけしか考えていなかったリチャード・ニクソンは、スクェアでありつづけた人間のリヴァイヴァルの代表として、なにものにも目覚めずにいる。ソ連が攻めてくる、とメルヴィン・レアードに言わせてカンボディアに進攻し、アポロで国家や技術を優先させ、長いスカートの復活を、よろこんでいる。五〇年代前半で赤狩りを利用したのとまったくおなじように六〇年代後半で法と秩序を利用し、大統領になっている。いまになってもまだ目覚めることを知らないこの人は驚きに価する。
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一九二〇年代から三〇年代、そして四〇年、五〇年とつづいてきたダンス用のビッグバンド・ジャズでも踊ることは踊れたのだが、若い人たちには、むかなかった。中年のビジネスマンたちによって、現実に対する付属品としてそれに併置されたかたちのメイク・ビリーヴとしてつくられていたいわゆるポピュラー・ソングは、大人の価値と感情の世界に完全に依存していた。そのような音楽はビートとか現実感などのほかに、まずなによりも緊迫感を欠いていた。
これでは若い人たちには受け入れられないだろう、と気のついたミュージシャンが、一九四〇年代の終りにひとりいた。
ビル・ヘイリーは、フィラデルフィアの小さな放送局WPWAで、六年間、




おなじラジオ局の仕事を六年やって、ビルは、あることに気がつきはじめた。いっそのことこのへんでカントリー・アンド・ウエスタンをやめにして、リズム・アンド・ブルースにかえたほうがいいのではないか、ということだった。局で仕事をしているときに、聴取者から電話のかかってくることが、たまにあった。「もっとビートのきつい激しいのをやったらどうか。いまラジオにかかっているようなのは、すこしも面白くない」と、電話をかけてきた人は、言うのだ。
どんなのがいいのか、ビルは訊いた。相手のこたえは、はっきりしない。黒人かもしれない、とビルは思った。名前や年齢、それに、かよっているハイスクールの所在地を、たずねた。こたえを総合してみると、白人の一六、七歳の少年なのだ。たとえばどんな楽器の音が好きかと訊くと、少年は、サキソフォンという名前がわからずに、その形をビルに説明するのだった。
サキソフォンが加わっていて激しいビートのある音楽といえば、リズム・アンド・ブルースだ。そうか、とビルは思った。ビル・ヘイリーは、プロフェッショナルだった。電話の少年に言われた音が魅力的であることは、知っていた。黒人のブルース・レコードを聞きなおしてみた。グループの楽器編成をかえ、ニグロ・ブルースのビートを、カントリーふうな感じをのこしたまま、電気ギターとサキソフォンで、まねしてみたのだ。そして、




ビル・ヘイリーとおなじことを考えた人が、クリーヴランドにもいた。アラン・フリードは、一九五一年、地もとのWJW局で、ムーンドッグ・ロックンロール・パーティというラジオ・ショウをつくり、DJを受持っていた。これよりすこし以前にもべつな放送局でこころみたのだが、失敗した。しかし、こんどは、成功だった。ドリス・デイ、エディ・フィッシャー、ペリー・コモ、ケイ・スターたちが主流だったラジオで、アラン・フリードのリズム・アンド・ブルース・レヴューの公開録音には、彼が予定していた三倍ちかくの若者が、やってきたのだ。
一九五二年、ビル・ヘイリーは『クレイジー、マン、クレイジー』をつくった。ジューク・ボックスでは人気が出たが、ラジオのDJたちには、まだ、とりあげてはもらえなかった。直接には関係ないことだが、五一年には、電気ベースが考案され、実用に入った。一九五四年に、ジョー・ターナーのヒット『シェイク・ラトル・アンド・ロール』を、ビルは、つくりなおして自分のレコードにした。この頃、ビルは、メンフィスを中心に人気の出はじめたエルヴィス・プレスリーとともに、一夜だけの公演のため、各地をまわったことがある。ビルのレコードは次第に大きなヒットになり、やはり五四年の『ロック・アラウンド・ザ・クロック』は、ソニー・ディーのもののつくりなおしだったが、ポップのベストセラー・チャートに顔を出した。映画『暴力教室』のテーマにつかわれ、決定的なヒットになった。少年時代のフランク・ザパが、映画館でこのロックを聞き、新鮮なショックと天啓を受けていた。
ビル・ヘイリーのレコードに対する反応は、はじめのうちは、一種の珍品に対する反応とおなじだった。しかし、彼のロックンロールは、当時の白人社会にはあまり競争相手がいなかったため、たとえば『ディム・ディム・ザ・ライツ』のように、リズム・アンド・ブルースのヒット・チャートに登場できるほどの力を持ったのだ。黒人のヒットを白人がつくりなおしたレコードには、とうていできる芸当ではないのだが、これだけは、そうなった。アラン・フリードはニューヨークに出ていて、WINS局でロックンロールを放送していた。
『シー・ユー・レイター、アリゲーター』あたりから、ビル・ヘイリーは、自分自身のコピーをはじめる。そして、一九五六年がエルヴィス・プレスリーの年になると同時にかすんでしまい、まだロックがそれほど伝わっていなかったイギリスへ、成功をおさめるためにいかなければならなくなるのだ。
本物ではなかったけれど、ビルは、方向を指さしてはくれていた。ビルは、カントリー・ギターの腕はかなりのものだが、歌手ではなく、したがって、うたうというよりは、主に叫んだ。リズムセクションを前面に出し、電気ギターとともに、レコーディングの際の技術や電気的な操作によって、レコードはいいけれど公演で聞くとがっかりするという効果を出すことができていた。
「若い人が踊れる音楽をつくろうとしただけだ」と言っているビルは、たしかに自分の役を果たした。当時すでに三〇歳をこえていたビルは、六〇年代の終りちかく、ロックンロール・リヴァイヴァルの、主として表面的な部分で再び姿を見せた。おでこにヘア・オイルではりついたようになっているスピットカールや笑いかた、それにギターが昔とおなじで、もうすこし肥り世帯やつれしていた。意味もなくただニヤニヤと笑うのが相かわらず得意なビルに、成功の量はすくなかったけれども役割りは果たしたプロフェッショナルとして、敬愛の思いを禁じ得ない。
ビル・ヘイリーと彼のコメッツによって、自分たちのための踊れる音楽が、ティーンエージャーたちの手にわたることになった。非行少年のことが社会的な問題になっていて、映画『暴力教室』、それにロックンロール・コンサートでの若い人たちの陽気で健康な活動が大人たちには暴動のように受けとめられたおかげで、ロックンロールは、親に反抗するティーンエージャーの音楽ともなった。誰かひとり、ビルのような五人の子供がいる三〇歳の大人ではないヒーローが、必要とされていて、エルヴィス・プレスリーが、そのヒーローになった。そしてロックンロールは、まずはじめに、商品になった。
一九五〇年代のはじまる前後から、ティーンエージャーたちが持っている経済的な購買力に誰がいちばんはじめに目をつけたのか、それはわからない。彼らの経済力をあてにして、いろんな商品が、売られはじめた。ブルージーン、ポニーテールのリボン、ヘアオイル、ミルクシェーク、モーターサイクル、トランジスタ・ラジオ。そしてトランジスタ・ラジオは、さらにディスク・ジョッキーをとおして、ニキビとりの薬を、ティーンエージャーたちに売った。はっきりとティーンに狙いをさだめた商品のなかで、ロックンロールのレコードは、偶然に頼っていた。ポピュラー音楽でのカネもうけに従事している人たちには、どんな音楽をつくっていいのかわからず、プレスリーやビル・ヘイリーのようなかたちで、歴史の波動がその波間からいつのまにかつくり出している、必要な偶然に、依存していた。
どうやらこんな音楽らしい、とポピュラー音楽専門職の大人たちが気がついたのは、一九五四年の夏から秋にかけてだった。どのような事情がかさなりあってそうなったのかわからないのだが、一九五四年の夏、若い五人の黒人が、アトランティック・レコードのスタジオで、『シュ・ブーン』という曲をつくり、つくったその日のうちに、レコーディングした。スタジオで五人が共同してその場で一曲つくった、という事実もスリリングなのだが、これについてはあとでふれよう。
ザ・コーズというこの五人がつくった『シュ・ブーン』は、アトランティックのレイベルからは発売されず、キャットのレイベルで出された。アトランティックの商標のもとに売り出す商品としての自信が、アトランティックになかったからだ。そのレコードは次第に人気をたかめ、ついに、全米的なヒットになった。これだ、といろんな人たちがとびつき、つくりなおしのレコードがたくさん出た。カナダのザ・クルーカッツというグループのものがいちばん有名で、夏じゅうヒットし、よく売れた。日本では、ダーク・ダックスが、うたっていた。
黒人のヒットを白人がうたいなおす作業は、この頃、さかんにおこなわれた。白人社会のラジオに彼らが登場できずにいた事情があり、また、黒人のオリジナル版は、あまりにも強烈で新鮮すぎたこともある。白人による水ましのつくりなおしロックンロールが多すぎるので、ラヴァーン・ベイカーが一九五五年、法的な規制を求めて訴えて出た。しかし、一九五六年になると、カヴァー(つくりなおしレコードの、業界での呼称)は市場価値がなくなっていた。ニセモノが商品として成立しなくなるほどに、ホンモノに目覚めた人たちが多くなっていたからだ。オリジナルとカヴァーのちがいは、すぐにわかる。うたう声と演奏が緊密に一体化しているのがオリジナルで、楽器がいまだに伴奏の役しかあたえられていないのが、まちがいなくカヴァーだった。カヴァーのほうがよく売れた理由は、もうひとつ、大きなレコード会社の資本による宣伝があっただろう。リズム・アンド・ブルースのレコードをつくる会社は、ほとんどが規模の小さい独立プロ的な会社であり、黒人のマーケットを専門に、リズム・アンド・ブルースだけを商品にしていた。『ビルボード』誌が一九四九年にリズム・アンド・ブルースをレイス・ミュージック(黒人音楽)と呼ぶことをやめた。カヴァーがヒットしなくなるのとは逆に、リズム・アンド・ブルースの会社はふえ、そのような音楽を白人社会に広げていくために、一説によるとアラン・フリード、またちがう説によるとビル・ヘイリーによって、ロックンロールという名前が、一九五〇年代のはじめに、つくられた。ビル・ヘイリーの一九五二年のレコード『ロッカビーティンブギー』には、「ロック、ロック、ロック、エヴリバディ。ロール、ロール、ロール、エヴリバディ」という詞があるのだ。
第二次世界大戦中にアメリカ政府は、シェラックの供給を制限した。そのため、78回転レコードがつくりにくくなり、かわる手段として、RCAが、一九四九年に45回転レコードをビニールを主原料として完成し発表していた。一九五〇年代前半にはもう45回転レコードは珍しくはなかった。しかし、回転数がちがうため、放送局は機械を入れかえ、一般の消費者は、新しいプレーヤーを買わなければならなかった。
やがて安いプレーヤーが市場に出されてからの45回転レコードの進展は、カール・ベルツによると、次のようであった。メージャー系のレコード会社が、ディスク・ジョッキーたちには45回転レコードを送ることに決めて以来、ティーンエージャーの購買力上昇とロックンロールの広がりとかさなり、45回転は78回転と完全に入れかわった。面白いのは、リズム・アンド・ブルースだ。この分野では、経済的に白人よりは低い位置にいた黒人を相手にしていたため、プレーヤーの買いかえを必要とした45回転レコードはなかなかいきわたらず、一九五〇年代の終わりちかくまで、大勢は78回転の、重くて大きいレコードだった。
軽くて小さいレコードが当時のティーンエージャーにあたえたトータルな影響は、小さくない。気軽に買ってきて自分でプレーヤーにかけ、気に入ればよし、気に入らなければそれまでという、音楽に対する、その場その場での自由で正直で本能的で感覚的な反応をすることが可能になった。たくさん買ってきて、いろんな種類のサウンドに自分たちを次々にさらすことも、できた。ロックンロールのために軽くて小さい45回転レコードが、直接的には戦争が原因で一九五〇年代の前半に出現し、商品としてのそれはティーンたちの経済力に依存していた。
小さくて軽いレコードは、つくるのも輸送するのも、扱うのも売るのも、また、すてるのもひどく簡単だった。丈夫だから、むき出しのまま封筒に入れて郵便で送ることすらできた。レコード業界にとっては、ヒットすれば大量にはけるけれども、総体的に動きのはげしい商品に、45回転レコードは、なった。
45回転レコードとなったロックンロールは、アーティストがマイクの前でうたっている生の現場に比較すると、まぎれもなく複製品だった。しかし、聞く人にとっては、レコードという物体はすこしも問題ではなく、そこにきざみこまれている音、つまり、聞いた人がその音をどう受けとめたかが、唯一の重要事項だった。すぐれたロックンロールをレコードで耳にした瞬間の衝撃は、確実にオリジナルだった。オリジナルとしての複製を無数にちかくばらまいていくアメリカ文明のひとつの顔がここにあり、45回転レコードというオリジナルはラジオをとおして人の耳にとどく場合も多く、レコードは「
ラジオのDJたちは、ロックンロールのレコードをかける役と同時に、へらず口を叩く役、天気予報を告げる役、コマーシャルをおそろしく早口で読みあげる役、なんでもいいから語りかける役、意味なく叫ぶ役、ニュースを読む役、などのさまざまな役をはたした。たとえば、一九五六年八月四日、アメリカ陸軍のヘリコプターが、アメリカ大陸をワシントンDCからサンディエゴまで三七時間かかってノン・ストップで横断飛行したというニュースを聞いたあとでロックンロールを聞くと、ニュースとロックは、聞き手の心のなかでひとつに溶けあうのだ。音楽が音楽だけで心に入るということは、当時のロックンロールに関しては、まずなかった。自分が身を置いている世界の、ほとんどあらゆることが、ロックンロールと練りあわされて聞き手の心にぶつけられた。トータル・インヴォルヴメントの先がけが、ここにみられる。ラジオやレコードをとおして、ティーンエージャーは、さまざまなものからマッサージをうけた。
レコードがオリジナルだから、歌手が生ま身であらわれる公演は、逆に複製だった。レコードは電気的な助けをかりてつくられるが、公演ではそれがない。聞く人それぞれがレコードによってつくりあげたその音のイメージに勝つためには、歌手は、エルヴィス・プレスリーやリトル・リチャードのような、すさまじいステージ・プレゼンスを持っていなければならなかった。
ロックンロールが社会にあたえた影響は、こうして考えてくると、音楽的なものよりもそうでないもののほうが大きかった事実が、わかるのだ。まず、ポピュラー音楽のなかで忠実に守られていた、ポップ、カントリー・アンド・ウエスタン、リズム・アンド・ブルースなどのカテゴリーが、ロックンロールによって、とり払われた。ここでは、エルヴィス・プレスリーが、大きな役割を果たした。たとえば彼は、自分の好きな歌手として、アーサー・ビッグボーイ・クラダップ、インク・スポッツ、フランク・シナトラ、そしてハンク・スノウを、あげている。彼自身、幼少のときから少年時代にかけて、いろんな音楽にさらされてきたわけで、その音楽的な体験を、いく人かの好きな歌手として逆に具体化していくと、この三人の歌手とひとつのグループになるのだ。そしてこの選択は、アメリカのポピュラー音楽の、ほぼ全域をカヴァーしている。インク・スポッツはたしかに黒人のグループだが、正確にはリズム・アンド・ブルースではないだろう。しかし、リズム・アンド・ブルース・アーティストの選択としては、ジョー・ターナー、クライド・マクファター、ファッツ・ドミノ、ウイリー・メイ・ソーントンなどよりは、白人世間一般の人に対する戦術としてはまさっている。アーサー・クラダップは、エルヴィスのヴォーカル・スタイルとショーマンシップの源流だ。初期のエルヴィスに対する、質の高いブルース・シンガーとしての評価は、アーサー・クラダップの真似にある。フランク・シナトラは、極限ちかくまで普遍化されたポップスのシンボルとしての選択だろう。そしてハンク・スノウは、エルヴィスの底に深く流れているカントリー・アンド・ウエスタンの表現だ。エルヴィスは、すべての人たちにとって非常に幸福なことに、南部での生活のなかで自然につくりあげられていった、音楽的にトータルな複合体だった。
音楽の世界での、黒人と白人との差別も、かなりとりはらわれた。おたがいにおたがいを利用し、ともに得をするという、ちょっとした民主主義のかたちで、黒人でもスターになれる時代がきたのだ。
音楽というインヴォルヴメントをいくつかのカテゴリーに分けることの無意味さを、プレスリーは身をもって証明している。プレスリーのシングル盤が、AB両面とも、ふたつ以上のカテゴリーにまたがってヒットするという、すでになん度も実現されてきた事実が、その証明だ。音楽的にトータルな複合体といっても、マネジャーのトム・パーカーがやらせたように、エディ・アーノルドのヒット『キャトル・コール』を、ヒューゴ・ウインターハルターのバックでエルヴィスにうたわせる、ということではないのだ。プレスリー版『キャトル・コール』は、さすがに評判はわるかった。
すぐれたロックンロールは、ビートによって切迫感をあたえられた日常生活のリアリズムが、聞き手の心にトータルな衝撃をあたえる音楽だった。心のなかにつくりあげられるその衝撃は、聞き手の全存在にかかわりを持ってくるだけに、スピリチュアルな体験であると同時に、日常的でリアルだった。ロックは、基本的には、現実との対決だった。たとえば、夕食後の一時間をロックを聞いてすごすというような、そんな部分的なつまらないことではなかった。ロックは、生き方だった。
45回転シングル・レコードは、ティーンエージャー専用だった。一九五〇年代の終りにはアメリカにはジューク・ボックスが五〇万台ちかくあり、シングル盤売り上げの大半がジューク・ボックスに依存していた事実をみても、45回転レコードがいかにティーンに対して強く向けられていたか、わかるのだ。
アメリカのなかに、ティーンというまたべつの国が、ひとつできた。一九五五年、ジェームズ・ディーンが主演した映画『理由なき反抗』によって、アメリカのなかのティーンは、理由なき反抗の世代とされてしまった。彼らの反抗に、理由がないというのは、まちがいだ。理由(正しくは〔目的〕と訳すべきだった)は、あった。しかしその反抗は、大人の世界との境界線上にいる両親に向けられていて、結局、その両親をこえることはできなかった。逆に考えれば、両親たちが、それぞれの子供たちの反抗を、とりあえずまだ押えることができていた。
ティーンの世界と、両親に象徴される大人の世界とは、変化していく社会が生んだ、対立するふたつの異なった価値だった。ロックンロールにも、このふたつの価値は、持ちこまれていた。一九五〇年代の後半、特に五六年から五九年にかけて、この事実が目立った。
エルヴィス・プレスリー、ロイド・プライス、リトル・アンソニー、エヴァリー・ブラザーズ、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、リッチー・ヴァレンス、ザ・ドリフターズ、ザ・シルエッツ、フィル・スペクターたちがひとつの価値だとすると、これに対立する、従来どおりの、なんの変化も改革もない、つまらない大人の世界の価値として、コニー・フランシス、ニール・セダカ、ボビー・ライデル、ボビー・ヴィー、リッキー・ネルスン、フランキー・アヴァロン、フェビアン、ポール・アンカ、パット・ブーンたちがいて、彼らのすこしもすぐれてはいないロックンロールは、すぐれたものとおなじように、そして時にはそれ以上に、売れていた。大人の世界の価値のほうが、ティーンたちのそれよりまだ力がはるかにまさっていたからでもあるのだが、ロックンロールのいまだ力の足らない部分、社会的な広がりを持った影響力が欠けていた部分に、テレビの力が、ものをダメにする力として働いたからでもある。
いっこうに売れないロックンロールのレコードでも、テレビでさらされると、とたんにヒットになる傾向は、一九五四年頃から、顕著にはじまった。そして、それより前、一九五二年、フィラデルフィアのABCテレビで




一九五七年、このテレビ・ショウは、全米にネットされることになり、ホストは交代し、DJをやっていたディック・クラークが選ばれた。あくる年の八月には、全米で一〇五のテレビ局が、この番組を放映していた。ディック・クラークは、道徳を守って仕事に忠実で、たびたび床屋にかよい月賦の支払いはおくれず、シャワーを浴びたばかりでとても清潔なよきアメリカ市民、というイメージの視覚上の権化のような顔と姿をしていた。番組そのもののなかでは押しつけがましく表面に出てくることはなかったが、パット・ブーンとおなじように、古いモラルにべったりと密着したお説教の本を書き健康明朗なティーンエージャーの守護神のようなイメージが、クラークにはあたえられた。


ロックンロールにあわせて踊るティーンエージャーたちの踊りは、基本的には、一九二〇年代のリンディ、四〇年代のジタバグ、チャールストンなどと、おなじだった。ただ面白いのは、踊りのヴァリエーションが、週のはじめと終りではもうちがっている、という事実だった。興味を持たない大人の目でみるとおなじような踊りなのだが、それぞれに、明確にちがっている部分があったのだ。この番組を中心に考案された踊りを全部あつめるのは、不可能だろう。その場で即興的につくられ、おたがいに真似しあって、せまい範囲の人たちのあいだに広まっていったのだから。ヒッチハイク、マディスン、フライ、ポニー、ドック、ワツシ、マッシュドポテト、ブーガルー、モンキー、ハリーガリー、リンボ、スイム、フラッグ、シェイク、ボストン・モンキーなど、さまざまにあった。
ステップのどこがどうちがうかは、しかしさほどの重要事ではなかった。大切なのは、最も新しいステップでロックンロールに反応することだった。新しい踊りを知っているということは、ロックンロールに対して全生命的でしかも真剣な反応をしていることの証明だった。ロックンロールが持っていたトータルなインパクトを、ティーンエージャーたちは受けとめ、受けとめている証拠を、逆に自分の体をつかって表現してみせた。
踊りのヴァリエーションの多さは、おなじような、正確には、ただひとつの、ロックンロールに対して、さまざまな反応が可能である事実をも示していた。眼を閉じて腕を組み悩み深い哲学的な顔で「クラシック音楽を鑑賞」している人たちのグロテスクでワイセツな姿と比較すると、ディック・クラークの番組で踊っていたティーンエージャーたちは、やはり救世主だった。この若者たちのなかに、あとでフランク・ザパのマザーズ・オブ・インヴェンションに加わるデニー・ブルースのような少年もいたのだから。
ロックの天啓的な衝撃は、個人的な体験だった。どうあらねばならない、ということは絶対にないのだが、衝撃と接続できる人は接続(コネクト)し、どう接続してなにを考えるかは、個人の問題だった。だから、天啓をたまたまなんらかの理由によって受けられなかった人は、それっきりなのだ。六〇年代なかばのゴーゴーではっきりするのだが、ロックンロールで踊る踊りは、革命的だった。完全にそうではないものもあったけれど、その場にいあわせた人はみんな、それぞれひとりで踊った。手を握りあうことすらまれで、かつてのグレン・ミラーやベニー・グッドマンの演奏にあわせて踊られたソーシャル・ダンスのように、男女が一定のフォームで触れあうことは、なかった。ロックが、密度の高い個人的な体験である事実が、このことにはっきり証明されている。トランジスタ・ラジオは、ティーンエージャーたちをさらに個々に切りはなす役を果たした。かわっていく時代のなかで、ものの考え方は、もっと劇的にかわっていきつつあり、これに気づかないことは、おそろしいことだった。ティーンエージャーたちの踊りは、ツイストとして、大人たちの世界でも、流行になった。一九五九年にハンク・バラッドとミッドナイターズというグループが『ザ・ツイスト』を出し、あくる年、黒人のチャビー・チェッカーが白人的なカヴァーをつくり、六一年の一〇月、エド・サリヴァン・ショーに出て、ツイストは大人の流行になった。ニューヨークのペパミント・ラウンジというディスコテークが、その風俗的な中心だった。流行が若者からつくられていくその後の歴史の、はじまりだった。
除隊してきたエルヴィス・プレスリーが、ハリウッドでつまらない映画づくりに専念しはじめたのとおなじように、つまらないロックンロールのスターたちは、多くが映画に向った。リッキー・ネルスン、フランキー・アヴァロン、フェビアンたちがその代表で、この三人は、プレスリーとほとんどおなじように、安全で健康で、まだ世になれていない未熟な、しかしやがては良識ある市民に成長するであろうところの青年として、大衆に提供された。フロリダからきた、五代前がダニエル・ブーンの、パット・ブーンも映画に主演し、ニグロのカヴァーでヒットをつくり、「私の今日の成功は神のたまものです」と言っていた。コニー・フランシスは、これもカヴァーだが、いい歌をあたえられていた。しかしそのサウンドは、殺菌のきいた清潔な白い冷蔵庫のようであり、内部のペンキを塗りかえたばかりのアメリカ中産階級の住居のような香りを持っていた。商品としてはよくできていて、マーケットに出れば役を立派に果たしたが、スピリチュアルには、いずれもどうしようもなかった。
ロックンロールには、当然、批判があった。すぐれたロックでもつまらないロックでもごっちゃに批判されたのだから、批判の程度がいかに低かったかは見当がつく。ソヴィエトの『プラウダ』紙は、エルヴィス・プレスリーのことを、資本主義国の若者をダメにするためのアメリカの陰謀だ、と表現した。ロックに対するおろかな批判の、これが頂点だろう。ロックンロールになんとか水をぶちかけようとはかる良識派の動きが、アメリカのあちこちにあった。
そんなとき、都合のよい事件がひとつ、おこった。大学教授がテレビのインチキなクイズ番組に加担していたことが発覚し、クイズ番組が議会の調べを受けた。そのあと、ロックンロール番組も、調べられることになった。レコードをテレビやラジオで流してもらい、売り上げをのばすために、レコード会社がDJたちにワイロを提供していて、DJたちはそれを受けとり、レコード会社の言うなりになっていた、というのだ。ワイロ(〔ペイオラ〕と呼ばれた)は、昔からあった。いろんなかたちで、存在した。歌手やレコード会社が、曲をDJにプレゼントし、版権も彼にあげてしまう。すると、レコードになってヒットした場合、版権所有者は印税でたいそうもうかる、というようなシカケのワイロもあった。ロックンロールが盛況で、しかもレコード会社間の競争が厳しかったため、ワイロも、数が多くなった。アラン・フリード、ディック・クラーク、その他、たくさんのDJたちが調べられ、アラン・フリードはワイロを受けとったことを泣きながら認めたため、一九六〇年にはこの世界での生命を断たれてしまった。ディック・クラークは、ワイロで自分が動いた事実はない、と主張しとおし、いまでも、


ロックンロールは、このペイオラ事件で、やっつけられたような印象をあたえられてしまった。ロックンロールはやはり悪い音楽だった、一時の気ちがいじみた流行でしかなかった、ということになった。一九五九年、ロックンロールのシングル盤の売り上げは、二五パーセントちかく、ダウンしたという。
ロックンロールは、悪くはなかったし、一時的なものでもなかったが、やはり幼稚だった。テレビによって新風俗として平たく押しなべられると、ロックは力を失った。たとえば、社会的な自覚としての第一歩であった両親に対する反抗は、結局、両親どまりで、それを越えていくことはできなかった。新しい価値観の蜂起を予言してはいたが、五〇年代から六〇年に移っていく時代の思想や哲学は、支えきれなかった。そのためにはもっとタフで鋭いものでなければならなかった。8トラックの録音が実用になっても、ロックンロールには、まだ足らない部分があった。
エルヴィス・プレスリーが陸軍に入ったとき、彼が除隊するまでの二年分のカレンダーを一枚ずつはがして自室の壁へ順番にはりつけ、七三〇日をすべて×印で消すということが流行した。消された日々は、死んだロックンロールの墓石ではなく、さらに新しくてはるかにタフなものの登場の予言であり、どうか出現してくれという祈りであった。
くりかえすけれども、ようするに音楽そのものはどうでもよくて、たまたまなにかのロックンロールによって、多くの人たちのひとりひとりが、なににどれだけ目覚めたかということが、最も重要なのだった。
自分を目覚めさせてくれるようなものといきあったり、そのようなものが存在するところにいあわせたり、現場を経験したりしなければどうにもならず、いあわせなかったり経験できなかった人たちは、すくなくともロックンロールによる目覚めに関するかぎり、それまで、であった。たとえば一九五〇年代のなかばには、エルヴィス・プレスリーと同時に、結局は四〇〇万枚も売れたビル・ドゲットの『ホンキイ・トンク』もあったのだが、ほかにもヒットソングはさまざまにあった。そのいずれもが、いま思いおこせば、ノスタルジアをさしひいたとしてもなお当時の時代的共感をたたえてよみがえるから、目をまどわすための色彩は、一九五〇年代には、とても豊かだった。五一年、ナット・キング・コールの『トゥー・ヤング』は、恋をするために年齢がまだ充分ではないということなどあるものか、大人たちよ、いまにみていろ、という内容の歌詞がはっきり意味をもっていて、これを支持してヒット・パレードの第一位にした人たちもいたし、チャック・ベリーの『メイベリーン』を、リズム・アンド・ブルース、カントリー・アンド・ウエスタン、ポップ、の三つのチャートですべて第一位に推しあげた人たちもいた。もっとまえにはザ・ウィーバーズが顔を出し、五〇年代のまんなかでは、ハリー・ベラフォンテもスターだった。ペリー・コモ、キティ・カレン、ローズマリー・クルーニー、パティ・ペイジ、ダイナ・ショア、フランキー・レイン。みんな、それぞれに、スターだった。しわがれたすごみのある声をはりあげていろんなことをラジオでしゃべり、ロックのレコードをかけ、話にアフタービートをつけるため、ニューヨークの電話帳を、マイクロフォンが乗っているデスクに叩きつけるのを自分の仕事の一部としていたDJ、アラン・フリードも、スターだった。
ポピュラー・ソングか、ロックか。選択は、厳しかった。ポピュラー・ソングをただ聞き流しただけに終ったのか。それとも、ロックを、自分のなかに入れることができたか。歌手の名や曲のタイトルなど、ひとつも記憶していなくても、いっこうにさしつかえはない。小さなプラスティックのトランジスタ・ラジオでロックンロールの番組をかけっぱなしにしてなにかをやっていて、歌手も曲も覚えてはいないけれど、ある曲がかかったとき、片手をのばしてラジオの音量をあげたくなってほんとうにそうしたことが、一度もなかったのか。
すぐれたロックンロールのシングル盤の役目は、それをラジオで聞いている人に音量をあげさせることなのだ。それさえ果たせば、充分だった。ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、あるいは、バディ・ホリーたちのレコードは、聞いている人たちに音量をあげさせる力を持っていた。エディ・コクランは、よかった。早い時期にイギリスで自動車事故にまきこまれ、死んでしまった。なにもかもごっちゃになってぼんやりとした印象しか残っていない一九五〇年代のアメリカン・ロックンロールのなかでも、最も匿名性の高い、完結したロックンローラーだった。ジーン・ヴィンセントは、エディ・コクランが死んだときにいっしょにイギリスにいて、脚を片方、いためてしまった。日本に来たときはすでに脚はそうなっていて、その脚をまっすぐにうしろにひき、ジョニー・レイとおなじように、肉体的な苦痛や個人的な苦悩をうたっているようだった。ジョニー・レイはラヴァーン・ベイカーにブルースを教えてもらったできのいい生徒で、子供のときに頭から地面に落ちたのが原因で耳の聞えが悪くなり、同時に、ひっきりなしに頭痛に悩まされることになった。彼のステージは、歌というよりも、彼の全人格の必死の提示のようだった。しかし、あとになってみるとやはり音が記憶に残っていて、うたうときの姿は、エルヴィス・プレスリーがはじめての映画でみせてくれたうたい方や、もうすこしあとでジェームズ・ディーンが映画『理由なき反抗』でみせてくれた、ブルー・ジーンズにマクレガーの赤いスコッチ・ドリズラーのえりを立てて猫背ぎみにどこかへ歩いていく姿とかさなっていた。ジーン・ヴィンセントは、タフでとがった音だった。リード・ギターのグリフ・ギャラップやジョニー・ミークスの、おそろしく定石的で耳に入りやすくありながらなにか新しいものをつけ加えている電気ギターに支えられて、ヴィンセントの声は、存分に気ちがい的だった。リッキー・ネルスンやフェビアンたちとくらべてみるといい。ジーン・ヴィンセントも、無名氏にちかかった。脚の痛みのせいで、カムバックしてはまたいなくなり、レコード会社はよくかわり、いつのまにか、死んだエディ・コクランとおなじように、忘れられていった。
バディ・ホリーも、死んだ。
〔二月三日、アイオワ州クリア・レイク発、UPI。わが国のロックンロール・スター――リッチー・ヴァレンス、J・P・(ザ・ビッグ・ボッパー)リチャードスンとバディ・ホリーの三人は、チャーターした飛行機が墜落し、パイロットとともに、今日、死亡した。この三人の歌手たちは、中西部をいま公演してまわっているロックンロール・トループのメンバーで、シャツを洗濯する時間がほしくて巡業先から次の公演地に急いでいてこの事故にあったものである。昨夜、クリア・レイクで千名の熱心な聴衆を前に公演したのち、当地から二マイル東のメイスン・シティ・エア・ポートから飛行機をチャーターし、午前一時五〇分、北ダコタ州ファーゴに向けて飛び立った。四人乗り単発のボナンザ機は、離陸後まもなく墜落した。機体は、雪の上を五五八フィートもスキッドしていた。ホリー(21)は、機から二〇フィートはなれたところで、死体となって発見された。ふたりめのエルヴィス・プレスリーとしてさわがれていたヴァレンス(17)は、四〇フィートはなれたところまで、投げ出されていた。カリフォルニア州パコイマ出身のヴァレンスは、我が国の最もホットな歌手として、急速にその人気をたかめつつあった。自らの手になるはじめてのレコード『カムオン・レッツ・ゴー』は昨年の夏に発売され、これによってヴァレンスは有名になった。墜落した機体と死体は、明け方おそくなるまで発見されなかった。公演メンバーのほかの歌手たち、フランキー・サルド、バディ・ホリーのバンドだったザ・クリケッツ、それにディオン・アンド・ザ・ベルモンツは、バスで公演さきに向かった。メンバーは悲しみにうちひしがれてはいたが、ミネソタ州ムアヘッドでの今夜の公演は、予定どおりおこなわれた〕(グレイル・マーカス)
ジェームズ・ディーンも、死んだ。死ぬと、彼に関するいろんなものが、当人の死後の他人におけるカネもうけとして、売り出された。そのなかに、バンパー・スティッカーが、あった。その文句は、こうだった。
JAMES DEAN DIED FOR YOUR SINS.「ジェームズ・ディーンは、おまえの罪を背負って死んだ」
天啓へのきっかけは、ロックンロールではなくて、ジェームズ・ディーンでもよかった。
「アメリカの小さな町、金曜日の夜。放浪者、一時的な滞在者、そしてもうじき生まれてくるはずの子供まで数に入れて、人口は三二〇〇。金曜の夜になると、やることはふたつしかない。コインを投げて表なら、この町に一軒しかない映画館へいく。裏が出たら、ティーンタウン。ティーンタウン。これは、新しくできた、石炭がらをまぜたコンクリートづくりの掩蔽壕のような建物で、周囲の茂みのなかで悪いことができないように、まわりにフラッドライトがたくさんある。以前はエピスコパル教会の地下のふた部屋で、そこにはレコード・プレーヤーと球突き台とがあった。裏には、暗い墓があった。メソディストとカトリックとが、なぜおまえのところにもこのような部屋をつくらないのかとみんなに言われたし、エピスコパルの地下は、町の少年たちがみんなやってきてしかも大人の監督がいないので、土地がもっと安くて歩いていけるところに新しく部屋がつくられ、そこにはエイシー・デューシーからシャフルボード(ともにポピュラーな室内ゲーム)まであったのだが、球突きのテーブルはなかった。このような小さな町の金曜の夜。わかるだろうか。真夏のどまんなかの、死んだような日々。街灯の明かりに虫があつまり、その虫は、歩道に影ができるほどたくさんいる。あまりにも暑いので、稲妻がときたま光る。するとそれを見て、老人たちが、かつての雨について語りはじめる。こんなふうな感じの夜。外へ出ては来たものの、なにもすることがないので、みんなそのへんに立ったり坐ったりで、ごろごろしている。交通事故でもあればいい、とみんな思っている。事故は、ひどければひどいほど、いいのだ。そうすれば、話しのタネができる。おたがいの、聞きあきたことをしゃべり、見あきた顔をみないですむようになるなら、車の事故だっていいのだ。アメリカの小さな町、金曜日の夜。ボクは一五歳、一九五四年。コインを投げたら表とでたので、映画にいったのだ。映画にそれほどの期待をかけたわけではなかった。二本立て。その二本目のやつに出てくるナタリー・ウッドは、わりあいにいい体をしていたし、サル・ミネオが画面にあらわれたなら売店までポップコーンを買いにいこうと考えていた。ところが、結局、ポップコーンどころではなかった。『理由なき反抗』を二度つづけて見て映画館から出てきたとき、外の世界がさっきとまったくかわっていないことを発見しても、ボクはべつにおどろかなかった。建物はいぜんとしてそこにあり、車はひっくりかえってはいず、みんなおなじ。しかし、ボクだけは、確実に変化していた。ジェームズ・ディーンが、ボクを変化させた。映画館から出てくるのは、核爆発のあとで防空壕から出てくるような感じだった。放射能で洗われたのは、じつは映画館の外の人たちではなく、なかにいた自分だけだった。美しい放射能だった。映画を見なかった人たちが、気の毒だ。映画そのものは、つまらないものだった。ディーンだけが、よかった。ごく普通な男にしかみえないこのディーンが、ものごとを自分のやりたいようにはこんでいく。これまでとは、かわっていた。かわっていながら、映画のなかのディーンは、ボクとおなじくらいの年齢だった」(ジェームズ・トムスン『ジェームズ・ディーンは生きていて三十歳すぎて、ひどい怪我のあとが残っている』より)
なぜ、ジェームズ・ディーンが、そんなによかったのか。ディーンではなくて、あの役をタブ・ハンターが演じていたら、どうだったか。やはり、よかった、と思っただろうか。感動しなかったにちがいない。
ジェームズ・ディーンが死んでから、「ジェームズ・ディーンに似ている男」のコンテストが、たくさんあった。日本ですら、おこなわれた。ディーンに似ている男が、たくさんいた。オレはディーンに似ている、と考えた男が、たくさんいたのだ。ディーンは、英雄を演ずるタイプの俳優ではなかった。背が低くて頭が大きく、すこしガニまたで、はっきりと猫背で、近眼で、美男子でもなんでもなく、三〇歳ちかくてまだ少年のように見えた。
ディーンはオレだ、と感動した少年たちは、ディーンのなかに自分を見ていた。ジェームズ・ディーンは、だから、曲名も歌手名も記憶してはいないけれど、ラジオのヴォリューム・コントロールをあげたときのロックンロールのシングル盤とおなじ性質の匿名性を持っていた。ディーンはオレに似ている、と思うだけでも、その少年にとっては、天啓だった。心の爆発の、基本だった。
ディーンは、それまでの世の中をしばっていた道徳や習慣などを、断ち切るというよりも、そのようなものとは関係を持たずにいた。生きていくうえでなにかの本質にふれるには、社会から、いちど、脱出する必要があった。ディーンは、脱出していた。ひとりだけでいられる人間の勇気を、ディーンは持っていた。孤独な男の哀愁、などというバカげたものではなく、すでに存在するものへの妥協を蹴ってすこしもこわくない、精神主義上でのヒップスタが、ジェームズ・ディーンだった。この精神主義のわからない人たちにとっては、既存の社会に非行というかたちでもっと深くまきこまれていくことだけを、『理由なき反抗』は、示していた。
「ジェームズ・ディーンは、おまえの罪を背負って死んだ」は、やはり意味を持っていた。そして、今でも、持っている。おまえの罪とは、アイゼン・ハワーがゴルフをしているあいだにもうひとつ戦争がなぜかおこらない、という幸運のなかで、なにものにも目覚めなかった罪なのだ。目覚めるきっかけは、いくらでもあったのに。
たとえば――。
メンフィスの七月。暑い夜に、一六歳の高校生アン・ポウリヌは、自室の窓をみんな閉めきって、なるべく動かないようにしていた。学校の予習をやりながら、ラジオを聞いていたのだ。彼女は、自分のすぐうしろの本棚に置いたラジオの音を、大きくするのが好きだった。音が外に聞こえたりすると父親がうるさいので、暑いのをがまんして窓をみんな閉めていたのだ。
聞きつづけていたレコード番組で、ある曲がかかったとき、はじめのほんの一瞬、彼女は、それまでとおなじ状態で、聞きながしていた。だが、すぐに、彼女は、消しゴムのついた鉛筆の尻で、あけていた英語の教科書を軽く叩くのをやめた。それどころではなくなったのだ。
彼女は、鉛筆をデスクの上に置き、次に自分の両手を平たくデスクの端に突き、立ちあがる寸前のような姿勢をとった。頭のうしろで、ラジオが、音を彼女に送りつづけた。聞いたことのある歌だった。うたい方やビートは、まるっきりちがうのだが、歌詞には、覚えがあった。よくラジオで聞く、カントリー・アンド・ウエスタンの、古い曲のようだった。曲名を思い出そうとしたのだが、記憶はよみがえらなかった。
あっというまに、曲は終った。彼女は、まっ青になっていた。放心したように半開きになった口でなにか言っていたのだが、声にはならなかった。彼女は、立ちあがった。本棚のラジオを、デスクにおろした。どこへでも持っていけるよう、彼女はいつもラジオは電池で聞いていた。ラジオを見つめながら、彼女は、みじかい感嘆の言葉を、心の底から驚嘆した人の低い声で、吐き出した。
ラジオを右手にさげて彼女は部屋をとび出し、父親がいつも車のキーを置いている居間の電気スタンドの横のテーブルまで走り、車のキーをつかみ、母親が台所にいるので、正面玄関のドアとスクリーン・ドアを蹴りあげ、ポーチをかけ降り、ガレージに走った。車の運転席に入ると、彼女はベンチシートのとなりにラジオを置き、音量をいちだんと大きくした。
車をバックさせ、急いでいたからうしろ半分を芝生に乗りあげ、ステアリングをフル・ロックさせて車をドライヴウェイの外に向けると、かまわずにアクセルを踏みこんだ。
聞いている番組がどこの放送局から送られているのか、彼女は知っていた。WHBQ局なら、いつもその建物を見ている。彼女は、車でそこに向おうとしたのだ。さっき聞いたあのレコードを、もう一度かけてくれるよう頼むためだった。
車で走っているあいだに、奇跡がおきた。DJのデューイー・フィリップスが「さきほどかけたレコードをまたかけます。リクエストしてくる人がたくさんいるからです」と言ったのだ。そして、さっきの曲が、またラジオから流れた。彼女は車を歩道に寄せてとめ、ステアリングを両手で握りしめたまま、じっと聞いていた。自分が泣いていることに、彼女は、気がつかなかった。
曲が終って車を走らせると、またしばらくして、おなじ曲が、かかった。彼女は再び車をとめ、全身で聞いた。とおりかかったパトロール・カーの警官が、心配して車から降りてきてくれた。いま聞いていた曲がきっとまたかかるから、それまでここに車をとめてラジオを聞いていてもいいか、と彼女は警官に言った。レコード番組をラジオで聞いていてそのなかの一曲に彼女がたいへん感動しているのだ、という事実を警官に納得させるのにすこし手間がかかった。
車のなかにすわったまま、彼女は、三時間のレコード番組を聞き終った。あの曲は、都合、七回、かかった。へとへとになって車で自宅へ帰る途中、彼女は、自分が今夜なにかに目覚めたことを知り、再び感動していた。なにに目覚めたのかは、自分でもわからなかったのだが。
エルヴィス・プレスリーに対しては、もっとちがったかたちでの目覚めも、可能だった。アビー・ホフマンは、次のような意味のことを『ウッドストック・ネイション』で語っている。
彼がハイスクールを放校になって玉突き屋で時間をつぶしたりしていたころ、彼や彼の仲間たちが聞いたレコード音楽は、当時はまだ「レイス・レコード」と呼ばれていた、黒人マーケット用のリズム・アンド・ブルースだった。パティ・ペイジやトニー・ベネットのレコードしか置いていないレコード店を、ジェームズ・ムーディ、ジョー・ターナー、アール・ボスティックたちのものを求めて、さがしまわったのだ。
そんなとき、ひとりの歌手が登場した。サウンドはブラックで、アビー・ホフマンや彼の仲間を興奮させた。ブラックなのは音だけで、白人だと知ってみんなおどろいた。とにかくオレの靴だけは踏むな、という『ブルー・スエード・シューズ』の歌詞が、象徴的だった。やがてそのエルヴィス・プレスリーがテレビに出るときがきた。エド・サリヴァン・ショウに出るというので、アビー・ホフマンは、仲間といっしょにあつまって、テレビを見た。
うたうときのエルヴィス・プレスリーは、独特なスタイルを持っていた。ペルヴィス(骨盤)とあだ名されただけあって特に下半身がよく動き、本人は歌とともにごく自然にやっているつもりなのだが、大人たちはその彼の動きを、性的な表現として、批難していた。エド・サリヴァン・ショウに出るころにはその批判はかなり大きくなっていたので、サリヴァンは、テレビ・カメラでエルヴィスの全身をとらえることをやめさせ、上半身だけをアップでとって放映させたのだ。
二分の一のエルヴィス・プレスリーに、アビー・ホフマンは、新鮮な怒りを覚えることができた。ホフマンの言葉によると「浴槽のなかで浮き沈みしている釣りのウキのような」プレスリーの上半身に、エド・サリヴァン、つまりそのときのアメリカを支配していた観念のグロテスクさを見たのだ。「エド・サリヴァンに会うようなことがあったら、叩きのめしてやる」一九五六年のある日曜の夜、仲間にそう言いながら、アビー・ホフマンは、二分の一のプレスリーをとおしてアメリカに怒れる自分に、感動していた。
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一九二〇年には一億六〇〇万人だったアメリカの人口は、一九三〇年には、一億二三〇〇万人にまで増加した。この一〇年のあいだに、アメリカのなかでは、禁酒法をすべてのかくれみのとして、資本主義、つまり、実業と享楽が、勝ちほこっていきつつあった。
一九二〇年の禁酒法と同時に、アメリカの女性たちは、参政権を得ていた。なぜこのふたつのことがうまくかさなりあったのか、あとからながめると不思議でならないが、禁酒法と女性参政権とは、資本主義の大切な裏打ちである享楽主義の風俗的なシンボル、みじかい(ヒザのすこし下あたりまで)スカートを、生んだ。第一次大戦のために軍需工場で働いてとりあえず参政権において男性と対等となった女性たちは、資本主義の尖兵として、フラッパーにさせられてしまった。
大戦によって、それまでとは比較にならないほどに工業化したアメリカは、自動車と電気製品の大量生産に熱中していた。労働時間がみじかくなって給料があがり、中産階級が増えていった。移民が禁止され、アメリカの人たちは、国の内部でひとつの思想や生活体系に順応していかなければならなくなった。都市と機械が勝ちを示していく日々の影で、農村、黒人、そして都市の低所得者たちが、とりのこされていった。
都市化と機械化を支えるメンタリティは、しかしまだ中世的だった。進化論はバイブルの教えに反する、という理由で、反進化論の立場に立つ社会的なアジテーションが一九二一年におこり、一九二五年、テネシー州では、バイブルが描いているもの以外の人間の進化論を、公立学校では教えてはいけないことになった。KKKの影響力が一九二五年には頂点に達し、禁酒法によって労働者は酒を飲まなくなり、飲まなければ飲まないほどよく働き、社会のためになるのだと、信じられていた。大戦によって外国に対して一〇億ドル以上の貸しのできた大国アメリカが、アメリカをひとつの理想あるいは国として世界のほかの国々とは明確に差をつけて個性的に完成させようとしていた時期の、それなりに真剣な努力であった。
戦争とそのあとの資本主義は、ロスト・ジェネレーションという、絶望に立ちむかう思想を生んでいた。しかし、大勢はやはりジャズ・エイジであり、はなやかな享楽と繁栄だけをみて、鉄道、トラスト、ウォール街などのかくされた部分は、見ていなかった。
繁栄のなかで特別に見はなされた部分がひとつあり、それは、農村だった。生産過剰、物価の上昇、輸出の制限などで、農村にとって救いの道は、どこにもなかった。反対に、株式はどんどんあがった。配当を一度も払ったことのない株が、いつまでもあがりつづけるのだ。株が投機のためにしか存在していない事実は、はっきりしていた。
本物の繁栄ではなく、多分に心理的な繁栄だったから、それをかろうじて支えているいくつかの要素のバランスがどこかで崩れると繁栄はひとたまりもなく平らにつぶれてしまうはずだった。一九二三年から二六年にかけてのフロリダでの土地ブームによる一夜成金熱が、ウォール街にそのまま持ちこまれていたのだから、一九二九年から三〇年にかけての株の大暴落、そしてそのあとにつづく不況の日々は、歴史の進展と呼ぶよりも、当然の悪しき結果といったほうが正しいのだ。
一九二二年に、アメリカにはラジオ局が、五一〇局、あった。このうち、九〇局ちかくが、南部と呼ばれているいくつかの州に散らばっていた。二五年には、テネシー州ナッシュヴィルで、保険会社がラジオ局をひとつつくり、WSM(「万人の生活を守る」という意味のスローガンの頭文字)と名づけ、一〇月に開局した。そしてその年の一一月に、『グランド・オール・オプリイ』という番組がスタートした。五万ワットの出力を持つこの放送局は、ハワイでも聞くことができるし、ニューヨークの中継ステーションをへると、ニューイングランドのいちばん隅にまで、電波は届くのだった。
『グランド・オール・オプリイ』のオープニング・ナイトは、アンクル・ジミー・トムスンというフィドラーが、六五分間、自分ひとりでヴァイオリンを弾きまくったのだ。
カントリー・ミュージックのまず最初の楽器は、ヴァイオリンだった。スコットランドやアイルランドからの移民が故郷から手軽に持ってこれた楽器はヴァイオリンくらいのもので、北はニューイングランド、南は南カロライナ、西はせいぜいケンタッキー、イリノイあたりまでの山のなかに定住したさびしくて貧しい農民たちには、日が暮れてしまうと、自家製のウイスキーと音楽しか、娯楽はなかった。
音楽は、彼らにとって、完全にひとつの生活だった。字がろくに読めないから、たとえば個人的な宗教活動のときも、説教文を読むよりもさきに讃美歌を、彼らはうたった。厳しい生活をま正面から支えてくれる激烈な宗教感情はまず歌となってほとばしったし、さびしさをいくらかでもなぐさめるためと宗教活動のために人々のあつまりがひんぱんにあり、そこがまたそれぞれの人たちの音楽の発表の現場になった。その音楽は、宗教にまでたかめられた自分たちだけの生き方の、シンボルであった。歌はアイルランドやスコットランドで自分たちがうたっていたものが主流であり、歌詞、メロディにさまざまなヴァリエーションができ、ホーム・メードの楽器が加わり、新天地での新しい影響、たとえば黒人の歌やリズム、黒人がつくったバンジョーなどがさらに加えられ、最も素朴な原型としてのカントリー・ミュージックが、一九二〇年代に入るまでにはできあがっていて、二〇年代のなかばにすでにカントリー・ミュージックは、商品としての可能性を持つまでになっていたのだ。
聴取者からの反応がいいので、ラジオ局はカントリー・ミュージックをながすようになり、二五年の『グランド・オール・オプリイ』の開始で、ラジオはカントリー・ミュージックの単なる発表の場ではなく、カントリー・ミュージックでカネを稼ぐ場になった。なぜカントリー・ミュージックが選ばれたかというと、人々はオペラなどよりもアパラチア山中のフィドラーのフィドル(ヴァイオリンとは呼ばずに、フィドルと呼ぶ)を聞きたがったからであり、聞きたいものを聞かせておけば、コマーシャルにも有利だったのだ。曲と曲とのあいだには薬、日用雑貨、衣服、宗教上の必需品、などのコマーシャルが、アナウンサーによって叫ぶように電波に乗せられていた。人里を遠くはなれたところにいる人たちは、このコマーシャルだけを頼りに、通信販売によって、気に入った商品を買うのだった。カントリー・ミュージックは、アパラチアの山のなかからでてきたとたんに、コマーシャリズムと表裏の関係を結ばなくてはいけなかった。
第一次大戦後、アメリカ国内ではレコード産業も急速にのびた。一九二〇年代に入ると、貧乏な地帯である南部も、レコード産業のマーケットとして目をつけられ、一九二三年には、オケーというレーベルのレコード会社が、南部では最も近代的で進歩的だったジョージア州アトランタで、ジョン・カースンのフィドルをレコードに入れている。このレコードは、一週間で五〇〇枚も売れた。
南部は、市場であると同時に、タレントがいっぱいうもれているところでもあった。レコーディング機械を自動車につんで、レコード会社が録音にやってきた。
レコードとラジオが重なれば、そこにスターが生まれる。オペラ歌手から転向したヴァーノン・ダルハートは、コマーシャルなカントリー・シンガーの初期の典型だろう。ディヴ・メイコン、カーソン・ロビソンたちの名がうかびあがり、一九二七年には、ふたつの重要な才能、オリジナル・カーター・ファミリーと、ジミー(ジェームズ・チャールズ)・ロジャーズが、レコードになった。テネシーとヴァージニアの州ざかいにあるプリストルで、カーター・ファミリーは八月四日に、ジミー・ロジャーズはその二日あとに、ラルフ・ピアによって、録音されたのだ。
不況は大悲劇だった。
一九二九年にピークに達したGNPは、一九三三年には半分ちかくにまで落ちた。四四五万五一七八台の自動車が一九二九年には製造されたのだが、三二年には、一一〇万三五五七台にまですくなくなってしまったのだ。ごく平均的な都会での働きざかりの失業男性の一日の稼ぎは、一個二セントで買ったリンゴを通行人に五セントで売ってもうけた三セントであったから、不況下の生活がどうであったかは、想像がつく。あらゆる想像をさらに下まわるどん底だった。
大統領のハーバート・フーヴァーは、自由放任の個人競争を信じていて、それによって財をなした都会の男だった。不況はたいしたことはなく、失業して食えないのは、その人の努力が足らないからだと考え、自分の飼犬においしそうなエサをあたえているポーズで写真を撮らせ、それを平気で新聞にのせた。不況は生やさしいものではなく、その原因は、政府が国の経済をコントロールしていなかったからだ、と気づいたときには、フーヴァーは、次の大統領、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトにとってかわられなければならなかった。
レコードも、不況のなかでは、売れなかった。一九二〇年には一億一〇〇〇万枚ちかくのレコードが売れたのに、三二年では、六〇〇万枚が、やっとだった。しかし、さいわいなことにラジオはいきわたっていて、三〇年には、全米で一二〇〇万台のゼニスの電池ラジオが、所有されていた。
不況のなか、そしてそこから立ちなおろうとしている人たちにとって、おそらく唯一の娯楽は、カントリー・ミュージックだったろう。ダイアル650をさがせばWSM局の『グランド・オール・オプリイ』が土曜日には必ずあったし、バーン・ダンスのかたちで、多くの局が、カントリー・ミュージックをながしていた。バーン・ダンスは、似たようなものが日本にないので想像するのがむずかしいけれど、農園の大きな納屋に人々があつまり、フィドルとギターを中心にしたカントリー・ミュージックにあわせてスクェア・ダンスをし、ミュージシャンたちの歌を聞いたり、また、自らうたったりして楽しむ娯楽なのだ。
このバーン・ダンスによるカントリー・ミュージックが、一九三〇年代には、さらにひろがっていった。メキシコとの国境ちかくの放送局は、ほかの局が一日の放送を終了した深夜から早朝にかけて電波を出し、夜おそくあるいは夜どおし働く人たちに、自分と同化できる音楽を提供したのだ。
WSL局の『ナショナル・バーン・ダンス』やWSM局の『グランド・オール・オプリイ』の人気は、カントリー・ミュージックのロード・ショウとプロモーションを生んだ。たとえばシカゴのWSL局で放送されていた『ナショナル・バーン・ダンス』の実況を見るために、一九三二年から一九四二年のあいだに、一〇〇万人以上の人たちが七〇万ドルちかいおかねを払ったのだ。
ラジオの発達で興味ぶかいのは、一九三〇年、アメリカとメキシコの国境に、強力なワッテージを持つ放送局がいくつかできたことだ。電波はカナダまで届き、いつ終るともわからないコマーシャルのあいまに音楽がながされるのだった。慈善興行、ボールルーム、テントショウ、バーン・ダンス、公会堂などでのカントリー・ミュージックが、商品になった。おかねを払って聞きにくる人たちがいたからだ。
フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトは、不況を相手に、よく戦った。金融経済、農業、そして失業者、の三つの大問題は、しかし、第二次世界大戦の軍需景気を待たなければ解決されないことだった。TVA、社会保障法と、これまでのアメリカの伝統の枠内ぎりぎりのところでFDRは改革をこころみ、ラジオをとおして、親密な感じで国民に語りかけ、前進していった。FDRの放送があるときには、WSM局の『グランド・オール・オプリイ』も、さすがにお休みした。
FDRは再選され、一九四一年、日本がハワイのパール・ハーバーを奇襲した。大統領は三選をめざして選挙に出ることはできないことになっていたのだが、FDRは、このルールを破って、大統領になった。
軍需景気は、すさまじかった。あふれていた失業者は次々に労働力となり、ついには、逆に労働者が不足しはじめた。そして、ここで、アメリカの文化にとって非常に重要なことがおこった。貧しい地帯、つまり東南部や南部から、軍需工場での賃金を求めて、人口の移動がはじまったのだ。それ以前の一九三〇年代にも、スタインベックの『怒りの葡萄』にすこしも誇張ではなく描かれているように、新天地カリフォルニアをめざした、オクラホマ、アーカンソー、テキサス、ミズーリ、カンザスなどからの、移動があった。高地を一度、山を二度、そして砂漠も二度、それぞれ越えてカリフォルニアに向かったのだ。
四〇年代の人口移動は、もっと重い影響力を持った。貧しいよそ者が、全米に散らばることになったし、一九四四年には、南部から二〇〇万人以上の黒人が、軍需工場で働くために出ていった。国内での異文化の交流がおこり、戦場でもGIたちのあいだにおなじことがおこった。ついでだが、都市黒人の暴動は、すでに一九四三年に、デトロイトとニューヨークで、おこっている。
この文化の交流期にカントリー・ミュージックが受けた大切な影響は、三つあった。
ひとつは、ホンキイ・トンクの発見だった。日本語でのイメージは、「大衆酒場」だろうか。労働者たちが酒を飲み、踊り、女をみつけ、ケンカをするところだ。ここでのエンタテインメントのにない手となったカントリー・ミュージックは、酒場の喧噪と、ジューク・ボックスという奇怪な装置が発する、電気的に増幅された音と、はりあわなければならなかった。フラット・トップの生の音には、しかし、勝ち目はなかった。ギターは、電気ギターにならなければいけなかった。ギターの音が大きくなければ、ビートをつけるリズム・セクションも音を大きくしなければならず、ドラムが、重要なサウンドとして、カントリー・ミュージックに加わった。ホンキイ・トンクで経験をつんだアーネスト・タブが、このようなことの創始者となり、彼は、一九四七年、カントリー・ミュージックでははじめて、カーネギー・ホールに出ることになるのだ。スティール・ギターも、加わった。これは、一九三〇年代のハワイ音楽からの影響だ。
ふたつ目は、ハリウッドの映画と結びついた結果の、西部フロンティアあるいはカウボーイのイメージとの重なりあいだ。カントリー・ミュージックは、西部とはもともとなんの関係もない。しかし、日本でもそうだが、カントリー・ミュージックは、カウボーイ・ソングあるいはウエスタン、と呼ばれることが多い。
第二次大戦のときまでに、カウボーイはすでにアメリカの美しい伝説のなかの、孤独なヒーローだった。
カウボーイとカントリー・ミュージックのコマーシャルな結びつきは、一九二四年、オットー・グレイのオクラホマ・カウボーイにすでにみられるのだが、マス・アート(大量生産商品的な芸術)としてのウエスタンのはじまりは、ジーン(オルヴォン)・オートリイだった。彼はテキサスに生まれて子供のときは教会の聖歌隊でうたい、まだ十代のときすでにナイトクラブでかせぎ、メディシン・ショー(田舎で人々に薬を売る、一種の興行。テント小屋あるいは野外のステージをつくり、日本の香具師とおなじように口上をのべて薬を売り、余興に歌やひとり漫才がある。田舎では貴重な娯楽と社交の場だった)に加わって流れあるいた。一九二九年にはヴィクターでレコードをつくり、三〇年から三四年にかけて、オートリイは、WSL局『ナショナル・バーン・ダンス』のメイン・アトラクションになって人気をたかめ、通信販売デパートのシアズ・ローバック社のレーベルで、レコードをつくった。また、九ドル九五セントのジーン・オートリイ「ラウンドアップ」ギターも、通信販売で売られた。シアズ・ローバックのカタログにのせられて、シンギング・カウボーイとしてのオートリイのイメージは、強力にひろがった。
一九三四年、オートリイは、ハリウッドに出た。当時のハリウッドは、クララ・ボウのイット・ガール以来つづいた、性をおもてに出した映画が頂点をすぎていて、かわりにこんどはなにか健康明朗で安全で、人々から批難されない材料をさがしていた。
一九二八年にはサウンド・フィルムができていた。ジョン・フォードの初期の映画は、伝統的なほうのカウボーイ・ソングを、音楽に用いていた。音痴のジョン・ウェインまでが、歌をうたわせられていたのだ。オートリイのハリウッド第一作ができる五、六年まえから、ドラマを前にすすめていく力として、劇中にカウボーイ・ソングがうたわれるということが、普通のこととして、西部劇ではおこなわれていた。ケン・メイナードが、一九三〇年、西部劇のなかではじめて四曲、うたったのだ。
オートリイはメイナードの映画にわき役で出てファンをつくり、すぐに主役に転じ、一〇〇本を軽くこえるフィルムをつくった。『ボタンとリボン』や『赤鼻のトナカイ』などの最初のヒットは、オートリイなのだ。
ロイ・ロジャーズ(レナード・スライ)、ウイルフ・カーター、レックス・アレン、スチュアート・ハンブレン、スペイド・クーリー、ジミー・ウエイクリー、テックス(ウッドワード・モーリス)・リターなど、たくさんのシンギング・カウボーイがつくられ、派手な、というよりも気ちがいじみて薄気味のわるいシンギング・カウボーイの衣裳が、カントリー・アンド・ウエスタン歌手やバンドのステージ・コスチュームとして定着した。ホンキイ・トンク系のカントリー・アンド・ウエスタン・バンドでジャズふうなビッグ・バンド、ウエスタン・スイングも、一九五〇年代はじめまで、力を持った。ハンク・トムスンのブラゾス・ヴァレー・ボーイズに、当時をみることができる。
大切な影響の三番目は、黒人との訣別だった。アメリカの伝統的な音楽としてあげうる唯一のものは彼らのブルースで、これの影響をうけることなしに、カントリー・ミュージックもまたミュージシャン個人も、自分の音楽を完成することはできなかった。
ジミー・ロジャーズは鉄道の黒人工夫から、ハンク・ウイリアムズはアラバマの黒人のストリート・シンガーから、チェット・アトキンズは、黒人の影響をうけたマール・トラヴィスから、ビル・モンローはケンタッキーの黒人労働者から、そのほか、ほとんどのアーティストが、黒人からほぼ直接に、天啓ないしは手ほどきをうけている。アパラチア山中の厳しい生活者たちの状況は、表面的には黒人と似ていて、おたがいに、音楽のうえで影響をあたえあった。しかし、カントリー・ミュージックが商品として二〇世紀なかばに確立すると、白人たちはこぞってナッシュヴィルに逃げ、ナッシュヴィル・サウンドの影にかくれて、黒人にはいっさい触れずにすごすことになるのだ。チャーリイ・プライドは、彼らのカントリー・スターとしてはただひとりにちかいめずらしい存在だが、彼の『ラヴシック・ブルース』はハンク・ウイリアムズのそれよりもうまく、つまり、ハンク以上にブラックで、「ブルースの一変形としてのカントリー・ミュージックのソウルがほんとはどこにあるかを示してくれている」(ポール・ヘンフィル)実際にはたくさんいた黒人カウボーイが、西部劇にはいっこうに登場しなかったのとおなじことが、カントリー・アンド・ウエスタンの世界でも忠実に守られている。ナッシュヴィルがあるテネシー州では、州の歴史と発展を写真と文章で説明したプロモーション用の本が、州政府から発行されている。この本をみると、州の人口構成のところでは黒人はひとりもいないことになっているし、チャタヌーガやメンフィス、その他、町や工場、農園などを撮った写真にも、おどろくべきことに、黒人はひとりも見あたらないのだ。
『グランド・オール・オプリイ』がまだ初期のころ、放送がはじまるまえに、番組の担当者は、出演者たちに「地に足をつけていきましょう」と、いつも言っていた。
カントリー・ミュージックは、地についた単純な真実を語る音楽である、と信じられている。たとえばボブ・ディランがナッシュヴィルでLP『ナッシュヴィル・スカイライン』をつくったときとか、ザ・バーズがLP『ロディオの恋人』をつくったときなどに、田園の単純な価値観への回帰、というような説明がなされた。
これは、完全にまちがいだから、正しくしておかなければならない。
アパラチアの山のなかでは、カントリー・ミュージックは、音だけでほかの人たちを同化させる力を持っていたが、商品になったら、ソングにかわってしまった。なんらかの真実を単純な言葉で語る詞を持った歌なのだ。真実とは、カントリー・ソングの場合、あくまでも日常生活だった。日常生活のなかでの、ごく普通な人たちの平凡な心の反応だった。
一九六八年に、ハンク・スノウやマーティ・ロビンスはジョージ・ウォレスに投票し、巡業さきではウォレスの宣伝をさかんにやった。テックス・リターやロイ・エイカフは、ニクソン大統領の就任式に、大統領から個人的に招待された。ジョニー・キャッシュは、「アメリカ政府がやっていることだから」という理由でヴェトナム戦争に賛成している。マーティ・ロビンスは、『ラヴシック・ブルース』をじつにうまくうたい、ヴェトナム戦争に反対している。理由は、「アメリカが勝ったら、またひとつやしなうべき国を背負いこむことになるから」なのだ。こういったことは、いわゆる保守的な心情ではなく、ただひと言、真実であるだけだ。
このようなメンタリティの人たちにとってたとえばジャン・ハワードがうたう『私の息子』という歌など、最も「真実」にちかいものなのだ。この歌は、ジャンが実際にヴェトナムへ戦争しにいっている自分の息子からもらった手紙を材料にしてつくった歌で、歌ができてレコードになってから、その息子は戦死してしまった。『私の息子』は、ジャン・ハワードのおハコになっている。感きわまって、途中で泣き出すこともあり、アナウンサーとかそのときのショウの主役が「じつはジャンの息子がヴェトナムでその命をアメリカにささげたのです、ジャンも息子も立派ですね」というようなことを、必ず言う。
観客は、ワッとくる。きたところでジャンは泣きながらソデにひっこみ、バンドは『兵士の恋人』のような、アメリカを讃えるたぐいの曲を、派手に演奏する。また、ワーッと拍手や歓声がくる。と、ポール・ヘンフィルは、『ナッシュヴィル・サウンド』のなかで描写している。『私の息子』のレコード売上げがあがり、ジャン・ハワードのリクエストがふえる。観客は、「真実」に同化したとたんに、おかねを失っている。しかし、そのことには、まず気がつかない。気がついていたら、ナッシュヴィル・サウンドが、ナッシュヴィルに対して年間純益一億ドルの産業になるはずがないのだ。
このような調子だから、「真実」であればどんなことでもソングになる。カントリー・アンド・ウエスタンにうたわれている世界の広さは、ここに原因がある。
朝鮮戦争のときには、パッシィ・クラインの『ディア・ジョン』の書き出しで、じつは申しわけないけどわかれさせてください、という手紙を送る。そんな歌だ。無事に帰るのをいつまでも待っています、もやはり対等の「真実」なのだが、それでは歌にならない。したがって、商売にもならない。
テックス・リターが商用でマイアミに向かったとき、乗っていたジェット機がハイジャックにあい、リターは、ハヴァナまでつれていかれた。この真実は、たちまち、『マイアミへいく途中でおかしなことがおこった』という歌になってしまった。
戦争で息子が死んだら、かわいそうだと感じるのは人間として基本的な感情で、そのかぎりでは真実なのだが、かわいそうだ、ほんとだ、かわいそうだ、と言っているだけでは、どこへも出口のない袋小路でどうどうめぐりをしているにすぎず、基本的な感情の同化はあっても、その同化は、戦争そのものに対してはむしろ目かくしになるのだ。どちらかといえば決して金持ちではないアングロサクソンの世帯持ち、つまり、サイレント・マジョリティの世界が、ここにある。
日常の真実と同時に、カントリー・ソングは、人生に対してま正面からぶつかっていこうとする態度と、心のなかの正直な表現とを、持っている。
男の側からみたカントリー・ソングの世界には、つきつめるひとつのはっきりしたテーマが、ほとんどいつもあるように思えてならない。男が、とにかくひとりになりたい、という、制御することのほぼ不可能で、本能的な衝動なのだ。この、ひとりになりたい、という衝動は、一九七〇年にむかうほど強烈に、カントリー・ソングの詞のなかにあらわれている。一九六〇年代も終りにちかいアメリカのなかに生きていると、いつのまにかこのような衝動が身についてきて、それが作詞、特にカントリー・ソングのなかにあらわれたとなると、やはりこれはみのがすわけにはいかないのだ。
一九六九年にボビー・ボンドが詞を書き、ジョージ・ハミルトン四世がうたってヒットした『デンヴァーに帰る』という歌。日本語訳では『なつかしのデンヴァー』となっている。なつかしの、ときたらこれは恋の歌だと思ったらまちがいで、妻を自分からすてた男がひとりでデンヴァーに帰ってゆく、したたかな歌なのだ。
1
ジュディ、おまえがつくってくれる朝ごはんは、とってもよかった
できることならもっと食べたいのだけれど
おまえがつくってくれたビスケットとおまえの愛が、ボクを満腹にしてくれた
美しいおまえがそばにいると、ボクは落着いてしまうのだった
おまえはボクを王様のように扱ってくれる
明日がどういうことになるのか、だいだいわかっている
なんとなく安心できる、安定した気分だ
できることならもっと食べたいのだけれど
おまえがつくってくれたビスケットとおまえの愛が、ボクを満腹にしてくれた
美しいおまえがそばにいると、ボクは落着いてしまうのだった
おまえはボクを王様のように扱ってくれる
明日がどういうことになるのか、だいだいわかっている
なんとなく安心できる、安定した気分だ
2
しかし、ときたま、ボクは、デンヴァーに帰りたくなる
心配事はなにもなく
青い空とハイウェイと時間とがあるきりのデンヴァーに
心配事はなにもなく
青い空とハイウェイと時間とがあるきりのデンヴァーに
3
夜になるとおまえはきちんと戸じまりする
シャツにかけてくれるアイロンの具合は、ちょうどいい
おまえがいれてくれるコーヒー、つくってくれるケーキ
うたってくれる歌
みんな素敵なのだが、しかし、ボクはたまに
おまえがボクに微笑むのをもうやめにしてくれればいいのにと、思う
おまえはボクを大事にしてくれているのだけれど
シャツにかけてくれるアイロンの具合は、ちょうどいい
おまえがいれてくれるコーヒー、つくってくれるケーキ
うたってくれる歌
みんな素敵なのだが、しかし、ボクはたまに
おまえがボクに微笑むのをもうやめにしてくれればいいのにと、思う
おまえはボクを大事にしてくれているのだけれど
4
たまにボクは、自分がいまデンヴァーに帰りつつあるのだといいなあ、と考える
デンヴァーに帰ろう
心配事はなにもなく
あるのはただ青い空、ハイウェイ、時間だけで
デンヴァーに帰ろう
心配事はなにもなく
あるのはただ青い空、ハイウェイ、時間だけで
妻がいやになったとか、ただ単に疎外された男の歌ではなく、これは基本的な疑問の歌なのだ。
都会でつくられたカントリー・ソングは、恋や愛に破れた男性がそれを嘆く歌がほとんどだと思われていた。一見、たしかにそのとおりなのだが、よく聞くと、カントリー・ソングのなかの男性たちは、女性を失って、ほっとしている感じなのだ。悲しい、せつない、キミのことは忘れない、などと言いながら、心の底では、男ひとりになれた解放感や自由をよろこんでいるふしがある。
というよりも、そんなことよりはるかに深いところにあるよろこび、たとえば妻と家庭を持って子供をつくり、あかるい明日を信じて社会のルールを守りながら、がんじがらめになりつつ、他人が定めた価値の世界のなかで自分を失っていく生活すべてをご破算にして、自分をとりもどすよろこび、そのようなものを、失恋にカモフラージュさせてうたっているような気がしてならない。男性が自分をとりもどす第一のきっかけは女性にふられることであり、ふられてはじめて、他人や社会とのあらゆるつながりを断ち切って「個」に回帰することができるのだ。
一九六七年には、『バーミンガムに歩いて帰る』という歌があった。詩は、こうだ。
1
靴は救世軍からもらい
時計は親切な友人がくれた
バッファロで時計を質に入れ
酒を一本と、ノミだらけの宿を手に入れた
時計は親切な友人がくれた
バッファロで時計を質に入れ
酒を一本と、ノミだらけの宿を手に入れた
2
朝になって陽がのぼり
酒がのこりすくなくなると
オレは足に靴をはき頭に帽子をかぶり
歩いてバーミンガムに帰るのだ
酒がのこりすくなくなると
オレは足に靴をはき頭に帽子をかぶり
歩いてバーミンガムに帰るのだ
3
三エーカーの農場と、なまずのいる池がある
スモーク・ハウスにはカントリー・ハムがいっぱい
なん千マイルの道のりも、そう遠くは思えない
バーミンガムにオレは歩いて帰るのだから
スモーク・ハウスにはカントリー・ハムがいっぱい
なん千マイルの道のりも、そう遠くは思えない
バーミンガムにオレは歩いて帰るのだから
4
朝になって陽がのぼり
酒がのこりすくなくなると
オレは足に靴をはき頭に帽子をのせ
歩いてバーミンガムに帰るのだ
酒がのこりすくなくなると
オレは足に靴をはき頭に帽子をのせ
歩いてバーミンガムに帰るのだ
女性にふられたという描写が出てこず、どちらかといえば、ホボ(放浪者)・ソングに似ている。しかし、おなじホボ・ソングでも、ジミー・ロジャーズのときは肺病でひとりさびしく死んだり、あたたかい家庭をほしがったりしていたのだが、時代がすすむと、こうまでかわる。
この六七年のホボは、田舎の小さな農場でひとりで暮らすつもりだ、とうたっている。ハムやなまずは話題になっても、その農場にきれいなお嫁さんが来るとは絶対に言っていない。ここがホボのえらいところで、女性なんか関係ないのだ。ひとりで何日もぶっつづけに草原で馬や牛を追って暮らしているカウボーイにも、おなじようなところがある。女性にはやさしくするのだが、馬にまたがるとテンガロン・ハットにちょっと手をふれてあいさつし、荒野のずっとむこうにいってしまう。
これまでのカントリー・ソングは、ほんとうにうたいたいことを、あまりにも巧みに失恋にカモフラージュしすぎていた。アーネスト・タブは、その典型だろう。ほとんどいつも失恋ばかりうたっているが、あれほどの歌唱力と雰囲気を持つ人が、失恋ばかりうたっていて楽しいはずがない。禁酒をとなえ悪魔を信じ、バイブルを生活の指針にしているが、心はブルースにある。
彼のバックアップ・バンド、テキサス・トルーバドアズの五人も、五人とも世のなかとは関係ないような顔をしてニヤニヤ笑いながら、失恋の歌をうたっている。キャル・スミスがうたう、ビル・ブロックの『コーヒーを一杯のんだらボクはキミの前からいなくなるよ』は傑作だ。かつては恋していた女性に、男のほうから「もういいや」と、自分の貯金通帳を彼女にあげてどこかへいってしまう歌だった。
これがもうすこしすすむと、一九六九年、ロイ・クラークの『オーク・ストリート、右か左か』のような歌になる。
1
目覚し時計が、今朝の七時に、鳴った
昨日も、おなじ時間だった
七時半が朝食の時間
妻がどんなことをしゃべるか、聞かなくてもわかっている
おとなりのクロフォードさんとこは新しくプールをつくったわよ
ミラーさんのとこではカラー・テレビを買ったのですって
ウイルスンさんのお仕事はあなたほどはよくないけれど、奥さんは私よりいい服を着ているわ
2
学校へは八時五分につく
校門で子供たちを車から降ろす
そして私は銀行の向こうにある時計塔の前を走りすぎる
八時一五分すぎちょうど
オーク・ストリートの信号で車をとめるたびに、いつもおなじことを私は考える
いつもとおなじようにここで右に曲がるべきか、それとも、左に折れてすべてをすてて逃げるべきか
3
オーク・ストリート、右か左か
毎日、私はこの問題に直面する
どちらがより大きな勇気を必要とするのだろうか
とどまるのと逃げるのとでは
左に曲がればどこかへいける
目覚し時計やスケジュールをほうり出せる
決められた時間に
私が、決められた場所にいなくても
誰も文句をいわない
したいことができて
いつも決まったおなじことをする必要のないところ
人生は一度しかない
毎日、私はこの問題に直面する
どちらがより大きな勇気を必要とするのだろうか
とどまるのと逃げるのとでは
左に曲がればどこかへいける
目覚し時計やスケジュールをほうり出せる
決められた時間に
私が、決められた場所にいなくても
誰も文句をいわない
したいことができて
いつも決まったおなじことをする必要のないところ
人生は一度しかない
4
どちらにすればいいのかよくわからない
これまで私は、オーク・ストリートでいつも右に折れていた
男には決断の時が必要だが
決断によってなにを失いなにを得るか、よく考えなければいけない
誰にとっても人生はギャンブル
どっちに曲がるかによって決まってくる
これまで私は、オーク・ストリートでいつも右に折れていた
男には決断の時が必要だが
決断によってなにを失いなにを得るか、よく考えなければいけない
誰にとっても人生はギャンブル
どっちに曲がるかによって決まってくる
男なら誰でもその初期に考えることだが、この真実が商品として歌になった時代が、面白い。
カントリー・ソングには、昔から、離婚の歌が多い。昔は、悲劇的な愛のほうが聞く人にとってエモーショナルな衝撃力がより大きいために離婚がうたわれたのだが、現代では意味がすこしちがってくる。
一九六八年、ジーニー・C・ライリーがうたった『小さなこと』は、次のような内容だった。
1
お電話でおじゃましてゴメンなさい
この町には、私、ほんのちょっとしかいないの
でも、お聞かせしたらよろこんでもらえるのではないかと思って
ジニーは学校でいちばんの成績になりました
ビリーは、ほんとにあなたそっくりになっていきます
あなたのもうひとりの息子さんも、あなたに似ているのですってね
ビリーが「お父さん大好きって伝えてね」ですって
こんな小さなことですけれど、あなたにお知らせしておこうと思って
この町には、私、ほんのちょっとしかいないの
でも、お聞かせしたらよろこんでもらえるのではないかと思って
ジニーは学校でいちばんの成績になりました
ビリーは、ほんとにあなたそっくりになっていきます
あなたのもうひとりの息子さんも、あなたに似ているのですってね
ビリーが「お父さん大好きって伝えてね」ですって
こんな小さなことですけれど、あなたにお知らせしておこうと思って
2
おとなりのサムとケリーのご夫婦、おぼえてらっしゃるかしら
あのご夫婦と私たちは、いつも楽しく笑っていたような気がしますけれど
私たちとおなじように離婚してしまったのですって
私たちが住んでいた家は取りこわされました
私たちの家は、私たちがいっしょに大切にしていた最後のものでしたね
家があったところに、いまはフリーウェイが走っています
こんな小さなことでも、お知らせすればよろこんでいただけるのではないかと思って
あのご夫婦と私たちは、いつも楽しく笑っていたような気がしますけれど
私たちとおなじように離婚してしまったのですって
私たちが住んでいた家は取りこわされました
私たちの家は、私たちがいっしょに大切にしていた最後のものでしたね
家があったところに、いまはフリーウェイが走っています
こんな小さなことでも、お知らせすればよろこんでいただけるのではないかと思って
わかれた夫にはまだ未練がある感じだが、家はとりこわされてハイウェイになっている、というくだりが泣かせる。
おなじくジーニー・C・ライリーの『ダラスの裏通り』では、さびしくひとりで生きる女性が娼婦になっていく歴程が、うたわれていた。
ダラスで恋人にふられた彼女が、故郷へ帰るにも帰れず、いつのまにか裏通りで、そのような女になってしまった、という歌だった。
ふられた理由のあげられていないところが、すぐれていた。歌詞の第二番によると、
「ところがいきなり彼は彼女をすてた
その理由は、いまだに彼女にもわからない」
となっていた。
一九六八年、レイ・クラークがうたった、『愛とはそのときの心の持ちよう』の、三番の歌詞が面白い。
3
すこしは自由をあたえてほしい
たまには大声を出して自分だけの考えを追ってみたいのだ
もしこれができれば、キミの鎖は海の底から天までとどくだろう
でもその鎖がすこしでもきつく感じられはじめたら
自由がきかなくなったら
それはボクが逃げ出すときだ
自由に呼吸するために
愛とは、そのときの心の持ちようなのだから
たまには大声を出して自分だけの考えを追ってみたいのだ
もしこれができれば、キミの鎖は海の底から天までとどくだろう
でもその鎖がすこしでもきつく感じられはじめたら
自由がきかなくなったら
それはボクが逃げ出すときだ
自由に呼吸するために
愛とは、そのときの心の持ちようなのだから
いわゆる「愛」が、男と女とを結びつけると同時に、結びついたそのふたりをあらゆるかたちで抑圧し束縛している事実に、アメリカのカントリー・ソングの人たちですら、気がつきはじめた。離別の歌でも、わかれたときの一時的な悲しさをうたうだけではなく、悲しさと同時に、人間の限界みたいなものまでを含めて考えてみようとする、深刻な歌が多くなった。
メル・ティリスがうたった『ジュリーって、誰?』は、一九六八年、ウェイン・カースン・トムスンの作。眠っている夫が、妻以外の女性の名前すなわちジュリーを寝言で口にし、朝おきて朝食のとき、
「ジュリーって、誰?」
と、妻に問いつめられる歌だ。
この歌では、男の愛は、ただひとりの女性だけにしかむけられないケチなものではなく、妻以外の女性に対しても、妻に対するのとはちがうかたちで(浮気、というようなものではなく)真剣な人間の関係が可能なのだ、とうたわれていた。
カントリー・シンガーは「真実」をうたうという。パット・ブーンはナッシュヴィルで育ったのだが、彼よりはグレン・キャンベルのほうがカントリー的だし、キャンベルよりはバック・オウエンズだろう。そしてオウエンズよりもジョニー・キャッシュのほうが、顔をみただけで「真実」にちかい。チェロキー・インディアンの血をひいた沈痛そうな顔は、ステージに出てきただけで「真実」にみえる。西部劇のジョン・ウェインと同質の「真実」なのだ。
キャッシュの自作曲『綿つみのころ』は、アーカンソーですごした貧乏な少年時代の真実そのままだが『フォルサム・プリズン・ブルース』は、テレビの深夜劇場で『フォルサム・プリズン』という、ひところ流行した監獄映画のひとつをみていてヒントをうけ、つくったものだという。
フォルサム監獄に入って自由をうばわれている男が、監獄の外に汽車の汽笛を聞く。なぜだかしらないが、カントリー・ソングにあらわれる汽車のほとんどにちかい多くが、線路が大きくカーヴしているむこうからあらわれてくるようにうたわれている。無意味な殺人をおかした自分がいまここにいるのは自業自得だからあきらめるとして、もういちど自分が自由になれるなら自分はあの汽車にのって遠くへいくだろう、とジョニー・キャッシュはうたっている。汽車にのっている人たちについては、次のような想像がなされている。「その金持ちたちはいま、きれいなダイニング・カーでコーヒーを飲み、太い葉巻きを喫っているにちがいない」
ジョニー・キャッシュがフォルサム監獄をたずねてコンサートをおこなったとき、『フォルサム・プリズン・ブルース』を聞いていた囚人たちがいっせいに声をあげて拍手したのは、
「オレはリノで人を殺した。そいつが死ぬのを見たかったから」
というくだりだった。
この囚人のなかに、マール・ハガードがいた。ジョニー・キャッシュは、一夜だけだが留置所ですごしたことがあり、デキセドリンの中毒でジョージア州の道ばたで死にかけたこともある。刑務所のなかで合計七年をすごしたハガードのほうが監獄という「真実」をうたうにはジョニー・キャッシュより適任だし「真実」にちかいはずだ。しかしフォルサム監獄でのジョニー・キャッシュのコンサートは実況録音LPになり、ミリオン・セラーとなった。
カントリー・ソングの「真実」とは、詞のなかにうたわれている写実主義的な手法による現実の点景描写ではなく聞く人が詞に対して持つ同化作用をいうのだ。真実の名のもとに、一種のまぼろしが、そこではうたわれている。聞く人が、詞のなかのどこかに、自分と同化できる部分をみつけだすことができれば、その歌は「真実」をうたったことになる。ひとつのカントリー・ソングは唯一の「真実」をうたっているのではなく、無数にちかい人々による同化の可能性をうたっている。
ナッシュヴィルで、カントリー・ソング名所案内の観光バスにのると、ハンク・ウイリアムズの家をみることができる。カーポートには、一九五二年モデルのキャデラックが、いまでも置いてある。このキャデラックのうしろの席でハンクは、一九五三年一月一日、死んだのだ。彼がのこした歌やレコードの印税は、いまでも、一年で一〇万ドルに達する。息子のハンク・ウイリアムズ・ジュニアは、父の歌をうたうときは、その場を暗くし、スライドで父の顔を大きく壁に映し、そのわきに立ってうたうのだ。
ナッシュヴィル・サウンドは、なにしろカネになる。
ナッシュヴィルに生活と仕事の本拠をかまえているサイドメンたちは、なんらかのヒット・レコードに何度も参加して一流とされている人たちならば、レコーディングのときのスタジオ・セッションだけで、一回に八五ドルとれる。他人のレコードづくりでちょっとギターを弾くだけで、年収五万ドルは楽につくれるのだ。
歌手でヒットが出ると、そのヒットが姿を消さないうちに、巡業のワン・ナイター(ここで一夜、あそこで一夜と、バスや飛行機でとびまわるコンサート旅行のこと)にでかける。これは、カントリー・シンガーにとっては、貴重な財源だ。『グランド・オール・オプリイ』のステージに立っても、ヴェテランのハンク・スノウやアーネスト・タブでも、おもてむきは一夜が七〇ドルくらいにしかならず、一曲だけのゲスト出演なら、悪くすれば無料にされる。しかし、ワン・ナイターなら平均して一夜で三〇〇〇ドルにはなる。
ワン・ナイターが三〇〇〇ドルの歌手になるためには、まずどこからかナッシュヴィルにやってきて、誰かのバンドにバックアップ・メンのひとりとしてもぐりこむ。レギュラーとしてそのバンドで人気をとり、スタジオの録音にも参加し、腕をあげると同時に、ファンをつかむ。そして自分でも曲をつくってみる。その曲を誰よりもうまくうたえるのは自分であることを、デモンストレーション・レコードでレコード会社に示し、自分でレコードにし、売り出してヒット。ヒットの程度にもよるが、大きければすぐに自分のバンドを持てる。そしてワン・ナイターに出る。
一台が五万ドルから七万ドルもする、カスタムメイドのバスが持てるようになれば、ナッシュヴィルでも超一流だ。このバスに、楽器からコスチューム、バンドのメンバーすべてをつみこみ、一年に最小限一〇万マイルのハイウェイをワン・ナイターを追いかけて走りまわる。経済的な理由から、また、ファンに生の姿を見せる必要から、ほとんどのスターが、一年にすくなくても一〇〇のワン・ナイターをこなしている。テックス・リターですらそうだし、キティ・ウエルズは、最近でもワン・ナイターに出ていないのは、一年のうち一〇〇日くらいのものなのだ。ジョニー・キャッシュほどになると、一回のコンサートで四万ドルくらいの利益をあげることができる。サイドメンの給料、場所代、広告費、税金、保険などを払ったのこりからキャッシュがギャランティの七万五〇〇〇ドルをとり、さらにそののこりの五〇パーセントが、キャッシュにいく。最後にのこった金額は、キャッシュのショウのプロモーターの手に入るのだと、ポール・ヘンフィルは『ナッシュヴィル・サウンド』のなかで書いている。
ジミー・ロジャーズやハンク・ウイリアムズは、貧乏から身をおこしてチャンスと努力で大金持ちのスターになった。アメリカの夢としての成功物語りの主人公でもある。彼らの歌に影響をうけて自分のサウンドをつくり、それぞれスターになっていった人たちは多いのだが、歌以上に、成功やおかねのほうからも強い衝撃をうけたにちがいないのだ。
ナッシュヴィル・サウンドは、技術が生んだものではなく、雰囲気がつくりあげたものだ。カントリー・ソング地帯に入る田舎の貧乏な家に生まれ、幼いころから教会やギターで音楽になじみ、二十代に入ったときにはすでにほとんどのことがこなせるカントリー・ミュージシャンになっていて、ホンキイ・トンク、ワン・ナイター、スタジオのレコーディング・セッションなどを渡り歩いてさらにタフになり、ヒット・レコードづくりに何度も加わり、ナッシュヴィルにたくさんいる優秀なサイドメンのひとりとなる。
サイドメンたちはナッシュヴィルに長くいるから、ミュージシャンたちどうしよく知りあった仲だし、レコード会社の人たちも顔なじみでスターとは友人のつきあい。おたがいに相手を、そして相手のサウンドを知りぬいているから、新曲のレコーディングでも、歌手がメロディを口ずさんだだけでリード・ギターはその場で頭のなかで編曲してしまい、バックのヴォーカル・グループは、コード進行をのみこみ、掌にチェンジを書きとめ、それを見るだけでいきなりレコーディングに入りヴォーカルのバックを見事につけ、一回でマスター・テープができあがってしまうことだって珍しくはない。
スタジオのなかの全員に美しいインタプレイがあり、ひとりひとりが、素晴らしくタフなミュージシャンなのだ。たとえば、グレン・キャンベルでさえ、そうだ。五歳でギターを自由にこなし、教会、ラジオでソウルフルなゴスペルからフランク・シナトラまで、全身でうけとめた。十代で修業に出た。ホンキイ・トンクめぐりでどんなものでもこなせるようになり、スタジオ・ミュージシャンとして、マール・ハガード、ディーン・マーティン、ボビー・ダーリン、ビーチボーイズと、多様なタレントのバックをつとめ、デモンストレーション・レコード用の歌い手になり、自分にぴったりの曲をみつけて吹きこみ、スターになった。六弦、十二弦のギター、五弦バンジョー、ベース、マンドリンを、思うままに奏することができる。
ミュージシャンを、そしてカントリー・ソングを聞く人たちをタフにしたものに、忘れてはならないラジオがある。カントリー・ミュージシャンのスタート初期には、たいてい、ラジオ局で演奏あるいはDJの仕事をやっていた時期がある。ワンダ・ジャクスンは一三歳のとき、オクラホマの高校のすぐちかくにあったKLPR局で毎週おこなわれていたタレント・コンテストで一等をとり、これが縁でその局で毎日一五分間、自分ひとりのショウ番組を持たされた。ギターを弾き、歌をうたい、語った。番組は人気があり、すぐに三〇分にのばされ、高校をでるまで、つづいた。このようなことが、ごく普通に、アメリカではいまでもおこりうる。
カントリー・ソングがひとつのサウンドとして持っている影響力は、「田園の素朴な真実」ではなかった。農業するよろこびをうたったカントリー・ソングがあるだろうか。農業につながった歌は、ハード・タイムズ(つらかった日々)の歌であり、カントリー・ソングは田園をはなれたところで成立している。
アパラチアの山中でストラデヴァリアスのフィドルを弾きながらうたっていた人たちにとって、自分たちの音楽は、音楽のよろこびにひたることによってしばし現実を忘れるというような効果を持った。大泣きしたあとに気分が晴れるあの心理上の効果があり、音楽のよろこびは別世界へいく楽しさであった。来世を唯一の目標とする激烈な宗教感情と似ていて、来世へのつたない希望をすてるまでの黒人ゴスペルと共通したものを持っていた。ブルーグラスが、袋小路のなかの音楽のように聞こえるのは、おそらくこのへんに理由がある。
カントリー・ソング、特にジミー・ロジャーズ以後の都会派のそれは、人間関係の歌となると同時に、サウンドは人をしてどこか外へむかわしめる力を持ちはじめた。純粋に音だけを考えても、黒人ブルースからの影響が大きく、この点でもカントリー・ソングのサウンドは、自分の外にむかってなにかを表現する力を持った音でありうるのだが、白人は白人で、黒人のブルース・マンとはちがった事情により、外へ出ていかなければならなかった。
アメリカの、カントリー・ソング地帯と呼ばれている現場へいってみなければ絶対に理解できないことだ。テキサスやニューメキシコあたりの田舎で生まれてそこに育ち、貧乏な生活のなかでラジオ、特にトラックのカー・ラジオでカントリー・サウンドを毎日くりかえし聞いていると、どこかへ出ていきたくなるし、出ていくことはむしろ救いでもあるのだ。はじめから貧しい生活なので、どこへいってもいま以上にひどくなることは考えられず、自動車とハイウェイ、鉄道と汽車は、カントリー・サウンドが持つ奇妙な楽天主義の裏打ちとなっている。ハイウェイや鉄道のはてにあるものは都会であり、この都会で成功をつかむ歌はカントリー・ソングにはすくなく、都会ではむしろ三悪や失恋が主要なテーマになっている。農業が次第に労働人口を都会へ解放していった時代の流れにカントリー・ソングは、やはりのっているのだ。
カントリー・サウンドを支える楽器は、ギター、ベース、ドラムスであり、ロックンロールとおなじだ。これらの楽器が、音として人間の体や心にどう作用するかは、あとで書くことにしよう。
カントリー・ソングの音は、人を外に出ていかせる音、外へまねき出す音だった。くりかえすけれども決して「田園」の音ではない。そして、楽しい音でもない。むしろペシミスティックであり、ペシミスティックでありながら、体に作用してくる不思議な音だった。体は、動きたくなってくるのだ。
外に出ていくことは、他者との激烈な対立を意味した。解きはなされた自分が他者と対立したとき、精神は内向し、自分をみつめた。他者との対立は、したがって、自分の発見にほかならなかった。そして、自分の発見のための最大のきっかけは、リズム・アンド・ブルースとの溶合によってロックンロールとなったときだった。
(注・カントリー・アンド・ウエスタンの歴史上のデータは、すべてロバート・シェルトンの『カントリー・アンド・ウエスタン音楽の歴史』によっている。)
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一六一九年の[#「一六一九年の」は底本では「一九一九年の」]夏、アメリカ植民地の労働力としてはじめてのアフリカ人が、二〇名、ヴァージニア州のジェームズタウンに揚げられた。総計七〇〇〇万人にちかい黒人の新大陸への輸入の、最初だった。
新大陸アメリカにとって、彼らは、二重の役に立った。ヨーロッパに輸出するタバコの交換品としてアフリカの黒人を受けとり、その彼らは、奴隷として、こんどはタバコを栽培するための労働力となった。
黒人たちは、安く買えて魅力のたかい労働力だった。はじめにカネをはらってしまえばあとは維持費だけで、子供は無料でもうけたおまけであった。タバコを栽培している人にとって、彼らは安くて安定した労働力の源であり、奴隷商人たちにとっては、もうけの多いすぐれた商品だった。アフリカで船につみこむとき「歩け」とひとこと命令するだけでこの商品たちはひとりで歩いたのだ。この商品の第一の魅力は、船につみこむときに労働力をまったく必要としない点だった。
黒人を終身奴隷とする法律ができ、アメリカ新大陸はイギリスから独立し、一九世紀に入って綿花がアメリカの南部で巨大な産業になると、黒人たちはその基本的な労働力となった。
南北戦争によって黒人たちは奴隷から解放されたが、南北が統一されて全米に資本主義が勢よくひろがっていく社会のなかに、なんの防備もなくほうり出されることになってしまった。彼らがみじめな労働力であることにかわりはなく、フロンティアがなくなると同時にアメリカは工業国にかわり、一九世紀の終り、黒人と白人とは「隔離はしても平等」の最高裁判所判決がくだった。
第一次大戦、第二次大戦と、ふたつの大きな戦争で黒人たちはブラック・ベルトから出て、工業都市に安い労働力としてさらに分散された。
アメリカの黒人たちは、白人たちから、肌の色のちがいを中心にして偏見を持たれているのではない。肌の黒さはほとんど関係なく、「黒人」は「労働力」と同義なのだ。黒人は、色の黒い人間、として差別されているのではなく、「安い労働力」としてアメリカの独占資本主義に搾取されている。これを偏見あるいは差別としてのみとらえると、黒人に関するほとんどのことがわからなくなってしまう。色の黒さに対する恐怖や心情的な偏見もたしかにあるのだが、それらは結局のところ、搾取の土台がためをしているにすぎない。
労働力としての黒人たちは、高度な労働にはまわされず、常に労働としては最も基本的な、最もブルーな部分のブルー・カラー労働にあてられる。白人たちは、生活が向上するにしたがって、ブルー・カラーからはなれていくからだ。
このことは、白人たちにとって、皮肉な結果を生んでいる。黒人はアメリカの総人口からみると二〇パーセントにみたないマイノリティなのだが、労働力としては貴重で、しかも重要な産業でのパーセンテージは五〇パーセントにちかい。
ニグロ問題は、アメリカにとっては労働問題であり、労働問題とは、言葉をかえれば、アメリカを支えている資本主義そのものの問題なのだ。決して、人種問題ではない。黒人を人種問題として枠づけることは、資本主義に対して人々に目かくしをすることだ。
人種問題としての解決は、とっくに終っている。アメリカの法にしたがったうえでの白人社会へのおだやかな同化は、黒人の心を資本主義の金銭と白人優越思想に従わせることでしかない。アフリカへの回帰もすでに意味はなく、白人との隔離は、不可能にちかい。あとにのこされたのは、アメリカ人としてのナショナリズムしかなく、とりあえず自由とか平等を、いますぐ、求めているのだ。
フリーダム・ナウ! の「ナウ」は、たしかに「いまただちに」だが、「本物の」と解釈したほうが、より正しい。公民権法はジョンソンのサインを得はしたが、実際はみせかけにすぎないのだから。
さんざん耐えてきて、まだこれからも、みせかけの平等に耐えなければならない。アメリカで耐えていくことをとおしてアフリカからはなれた彼らは、もう耐えることはやめた、と宣言することによって、こんどはブラック・アメリカンとなるのだ。
黒人たちがなぜブルースをうたうのか、誰にもわからない。彼ら自身に訊いてみても、はじまらない。「自分が知っている唯一の音楽だから」とか、あるいは「これが自分の生き方だから」とか、こたえるだけだろう。
真実として、ブルースほど真実なものはない。生きることぜんたいの表現が、ブルースなのだから。ブルースをうたう黒人にとって、自分のブルースの原動力は自分の心であり、自分の心以上に真実なものはない。ブルースは、黒人が集った教会や、彼らが働いた綿花畑から生まれた、といわれている。まちがいではない。しかし、教会や綿花畑だけでは、ブルースのほんとうの説明はできないのだ。ブルースは、奴隷のつらい生活、という単一な状況から出てきた音楽ではなく、アメリカでの黒人の変化にあわせてできた、黒人の心、思想、と呼んでもよい、歌なのだ。
奴隷黒人たちは、アフリカからもってきた神々までが、白人によって禁じられた。しかたなく、黒人は、白人たちのキリスト教を、とり入れた。キリスト教徒になることは、また、白人にすこしは近づくことでもあった。つらいのは奴隷としての生活ではなく、来たくもないアメリカ新大陸に無理やりつれてこられてしかも人間として認めてもらえないことだった。
奴隷労働者たちが教会でうたったスピリチュアルな歌は、このつらさの歌であり、世代がすすむにつれて、いつかは死によってこの求めざる土地から解放され天国にいけるのだという、宗教上の希望によって支えられたペシミスティックな生の肯定の歌にかわった。
綿花畑で仕事をしながら叫ぶようにうたわれたフィールド・ホラーは、これは単純に実用音楽だった。仕事の伴奏として、自分たちのそのときの生活がそのままうたわれた。
ブルースがもしスピリチュアルやフィールド・ホラーといまでもつながっているとするならば、そのつながりは精神的なものではなく、むしろ、スピリチュアルもフィールド・ホラーもブルースも、いずれもアフリカからもってきた音楽としての、純粋に音楽上の同一性だけだろう。
アフリカの音楽は、ヨーロッパの全音階にあてはまらない。リズムの構成がまったくちがい、ヨーロッパのそれとは比較にならないほどに複雑で豊かだ。アフリカ音楽とヨーロッパの音楽の決定的なちがいは、ヨーロッパ音楽が楽器をとおしてつくられる音であったのに対して、アフリカ音楽は、人間の声の真似あるいは延長のようなものだった、ということだ。いくつかのドラムでかさねあわされるアフリカのリズムは非常に柔軟性に富み、いろんなものの影響をたやすくうけた。たとえばジャズは、アフリカン・リズムの柔軟性が西洋の楽器をすんなり受けとめた結果の産物だと、すくなくとも音楽的にはそう考えることができる。ブルースは、歌というよりは、リズムに乗せられた話し声なのだ。そして、その話し声は、歌い手によってさまざまにちがいうる。
黒人たちにとって、ブルースをうたうということは、自分が奴隷であることの徹底的な確認だった。決して、魂を一時的になぐさめる安全弁ではなかった。ブルースは、もっとタフなのだ。
ブルースが、一見、マゾヒスティックなまでに受身にみえるのは、黒人がアメリカ人としてのナショナリティをいつの日か手に入れるには、ひとまず耐えることしかなかったからだ。ブラック・アメリカンの思想史は、疎外のなかで耐えることからはじまったのだが、ただひたすら耐えるのではなく、たとえば両腕で相手の攻撃をかわしつつ、どこかに攻撃用のとらえどころのない腕がもう一本、自由にゆれ動いているような、そんな耐えかただった。ブルースの単純な歌詞が、単純でありながら決して露骨でも限定的でもない事実のなかに、ブルースの詩としての芸術性よりも、攻撃性をみることができる。
ブルースは、アメリカの土地や自然をうたっていない。生活そのままをうたうなら、自然をテーマにしたブルースがあってもよさそうだが、ひとつもない。好きで来たのではなく、労働力として無理やりにつれてこられた土地の美しさは、うたえというほうが無理だが、それ以上に重要なのは、土地に密着した奴隷でありながら、黒人は土地に精神を支配されることのない、土地からはいつもはなれた、観念の人だったということだ。これは、あとになって、彼らのために非常に有利に作用する。
ブルースは、家庭生活の楽しさも、うたっていない。黒人たちは、白人によって故意にバラバラにひきはなされたので、楽しい家庭は持てなかった。労働力としての黒人の数をふやすために、白人は、馬をかけあわせるのとおなじように、黒人に子供を生ませた。子供は、単に生まれてくるだけで、すぐに自分とおなじに救いがたく不幸であり、生まれるよりは死んだほうがましだった。事実、子供たちは、生まれるとすぐ、多くが母親の手によって殺された。黒人たちは、大地からも家庭からも、はじめから切りはなされていた。したがってブルースのなかでうたえるのは、自分の心のなかだけだった。
奴隷解放によって、ブルースは、宗教からも訣別することができた。南北戦争は、奴隷を解放するかしないかの戦争ではなく、アメリカに資本主義を押しひろげるための経済戦争だった。奴隷から解放されてとりあえず一個の人間になった黒人は、自分にとってはこれまでよりもさらにひどいアメリカを見た。「個」になれたことはなれたのだが、アメリカは自分をそのなかに含んでいてはくれないのだ。労働が、黒人にとってはじめて、つらくなった。
「約束の土地」天国は、こんなところに生きているかぎり、なんど死んでも自分の手には入りっこない、と黒人は考えた。しかも、「約束の土地」を約束してくれたのは、ひたすら激情的に耐えることのみを教え、自分たちを白人に順応させるためにつかわれた、このひどいアメリカを支配する白人のキリスト教ではないか。ブルースは天国をあきらめ、感傷を致命的に欠いてすさまじく正直でリアルな、この世の音楽となった。天国のかわりに、死があらわれた。死は、最も現世的なものの極点だった。
仕事のためでも天国のためでもなんのためでもなく、すべてから切りはなされてひとりだけになった黒人は、自由に自分だけの歌をうたえるようになった。なにものにもたよらずに精神を独立させ、その独立のなかから、なにだかはわからないけれどもなにか新しいものをみつけ出そうという絶叫がブルースになった。このときすでに、ブルースは、資本主義に対する革命の意味を持っていた。
自分ひとりで、自分のために自分の心だけをうたうブルースは、だから、個人的な内向する歌なのだ。ブルースに、外向する力が大きく加わったのは、ブルースをうたうことがカネのとれる芸になったときだ。
すでに自分の身のまわりにあるアメリカのすべてがいやになり、いやになるというよりも自らすすんでそのようなものから遠ざかっていきたくなるあきれはてた気持ちを持ちながら、たとえば、あくまでも抵抗をやめない、というようなかたちででもいいから新しいものをつくっていこうとする心が、ブルースの魂、ミスタ・ブルースなのだ。
ブルースをいつまでも黒人のフォーク・アートにとどめるのは、ブルースにとっての大きな不幸だ。そのようなブルースは、歴史的な記念品にしかなれない。ブルースは、アメリカの南部でつらいしいたげられた生活をしてきた年よりの黒人にしかうたえない、というものでは断じてない。アメリカのなかで奴隷にされたのは、結局、黒人だけではなかったのだから。
ブルースの思想的な発展は、ブラック・アメリカンのアメリカに対する考え方の変化としてとらえなければならない。
まったく個人的な体験であった南部ブルースが、奴隷解放によって、自己を黒人として確認した世界になり、それがさらにブラック・アメリカンのナショナリズムにたかまり、最後に、劣等感のまったく消えた、闘争や改革の原動力のための自らの誇り、つまり、ブラック・アメリカン、そしてアフリカン・アメリカンにまで、煮つまっていくのだ。
黒人たちを、ブラック・アメリカンのナショナリズムに目覚めさせたのは、第一次世界大戦だった。ひとたびアメリカを出れば、自分たちが人間として扱ってもらえることを、黒人たちは知った。アメリカを外からながめてみると、アメリカの悪いところがよくわかった。自分たちを人間として扱わないのはアメリカだけではないか。アメリカだけのことなのだから、アメリカさえ改革すれば、自分たちも、アメリカンになれるのだ。現状が必ずしも絶望的ではない事実を、黒人たちは、知ることができた。ブルースのなかの個人は、いますこし広がりをみせた。一九四〇年代には、黒人による暴動がさかんにおこった。ブルースが持っていた、つかみどころのない攻撃性が、目標をみつけたからだ。
と同時に、南部体験が、黒人にとって、普遍性を持たなくなった。黒人人口は南部から都市に散っていく。南部体験をまったく新しいものとしてとらえなおすのでないかぎり、南部体験は、南部のブルースをうたう黒人の数だけしか存在しえない個人的な体験の世界でしかなく、黒人自身にとってすら、ブルースは、フォーク・アートになりそうだった。
レコードのブルースが商品になり、これによってブルースのかたちの最大公約数がほぼできあがったのは、よいことだった。かたちがきまると、ブルースから個人的な要素がぬけ去り、ブラック・アメリカンのナショナリズムがさらに鋭く蒸溜されようとする時期に必要な、非個性的ではあるがひとつにしぼられた統一目的のようなものを、ブルースに託すことができはじめたからだ。ブルースは、南部黒人だけの個人的体験ではなく、万人のものにちかくなった。そしてこの万人のなかには、白人すら含まれることになる。
ブルースに白人も含まれるということは、黒人にとって重要なのだ。ある時期のジャズにみられたように、中産階級的な白人との同化をめざす黒人によって白人と協力してつくられた、それほどブラックではないジャズに対抗して、あくまでも白人から遠くはなれた、黒人だけのブルースを黒人がつくりつづけていく動機として作用したからだ。黒人でありつづける心理的なスタミナ、白人とのあいだに存在する距離の遠さだけが真実のような、特に電気楽器を多くつかいサキソフォンが歌手とともに絶叫するブルースのなかに、黒人を見ることができる。このブルースのなかで黒人に最もポピュラーなかたちがリズム・アンド・ブルースであり、白人にポピュラーなのが、ロックンロールだ。
黒人が白人とちかづく状況は、ブルースの進展のなかには見ることができない。白人が、黒人にちかづくのだ。しかし、ジャズは、ブルースから発しながら、ブルースとは大いにちがった発展のしかたを、みせている。
ブルースに楽器をあてはめたのが、ニューオリンズを中心にした初期のジャズ、マーチング・バンドだった。このときすでに、ジャズはよりブラックなジャズと、よりホワイトなジャズとにわかれていて、たとえばジャズにとっての最終的な楽器だと考えられていたピアノがつくるジャズに、ラグタイムとブギウギとができ、ラグタイムは様式の音楽、ブギは自由なアドリブの音楽として、わかれたままつづいていった。
古いスタイルのブルースをジャズにしたもののひとつの頂点はルイ・アームストロングだ。このあと、白人のためのつまらないスイングがおこり、スイングと同時に、アメリカのなかで白人に認められる黒人芸術としての集団ジャズがあり、これが、ビーバップという緊張したジャズに解体されると、アメリカから自ら遠くはなれようとする黒人の心の動きになるのだ。黒人であるかぎり白人としては認めてもらえない。アメリカ白人文明の底を見てしまった彼らは、自らアメリカとの離反をはかった。ジャズは、黒人民衆の表現だとか、私たちの音楽にあわせてダンスができます、などとつまらないことを言ってはいられなくなったのだ。アメリカから自分を切りはなそうとする心の動きは、ブルースが万人のものになったのとおなじように、白人にもあった。ビートの詩人たち同様に、ビーバップの白人たちは、自分の音の世界に内向することによる自己の確認のよろこびに支えられ、黒人たちは、アフリカの複合リズムのなかに再びみつけた黒人の誇りに、支えられていた。だからブルースでもジャズでも、黒人のそれには、白人とはまったく関係ない部分が、必ずある。アメリカ文明のなかで黒人は最初からアウトサイダーだったが、白人は、アウトサイダーになることを選んで、アメリカの否定にむかった。白人によるアメリカ否定を支えたものは、音楽的には技術であり、思想的には、改革的な力を持った一種のいや気だった。ブルースでもジャズでも、最優秀な前衛はアメリカからはなれていることで黒人も白人も共通していて、資本主義文明の外に立つ勇気は共に同質だ。
「カナダからメキシコまで、アメリカのすべてが南部だ」
と、マルカムが、言った。
アメリカ全土に、ブラック・アメリカンによる革命が広がっている事実をこの言葉は示しているし、それと同時に、ブラックの問題が、単独にはとうてい解決できないことをも、示している。
一九六三年八月二八日、二〇万人の人たちが、首都ワシントンで、黒人問題解決のために、大行進をおこなった。
「黒人のプロテストの終焉を告げ、新たにアメリカ人のプロテストを示す」行進である、とフロイド・マッキシクが言い、全米の白いアメリカ人たちは、自分たちよりは一段下であるはずの人間、黒人が、立派に行進しプロテストするのをはじめてテレビでながめ、ショックを受けた。
このワシントン大行進のひと月あとには、バーミングハムの教会で、白人によってしかけられた爆弾で四人の黒人の子供が殺された。殺されて当然なのだ。ワシントン大行進の日、ワシントンの酒場や酒類販売店は、一日、休業するよう、アメリカ政府から命令され、忠実にそれにしたがった。黒人たちが酒を飲んであばれるといけないので、行進の日には酒は売らないことに決定されたからだ。
あくる年の七月二日、ジョンソン大統領が、公民権法にサインした。
そして、次の年、一九六五年八月一一日から一七日まで、ロサンゼルスで、ブラック・アメリカンの暴動がおこった。
「我々の主張に人々の耳をかたむけさせることのできる唯一の方法は、暴動をはじめることだ」というブラック・アメリカンの言葉はなにを意味しているか。
一九六六年も六七年も、夏になるとゲットーで暴動がおこった。六六年には、ブラック・アメリカンはゲットー以外のところでも白人と闘い、六七年には、敵である白人のなかに、黒人中産階級までが含められるようになった。一九六七年一月一〇日の、ジョンソン大統領の年頭教書は、公民権について触れた部分は、わずかに数語しか持っていなかった。夏の黒人暴動は、長くて暑い夏の季語になり、そうなればなるほど、白人による反黒人感情はたかまり、法と秩序が要求されるようになり、ロナルド・レーガンのような超反動分子がカリフォルニア州知事になれてしまう。
白いアメリカ人たちは、結局のところ、自分自身について問いただされると、やはり「すべての黒人がラルフ・バンチのような人間なら、ランチ・カウンターでともにハンバーガーを食べよう」という態度のなかにひきこもるのだ。ハンバーガーを買うためのカネもないのに、白人といっしょにランチ・カウンターにすわって、いったい腹はふくれるのか。「もしわれわれが魂を救済するとともにカネをためることができるならば、われわれの問題の多くは解決するだろう」と、ミリタントな運動に反対しているS・B・フラーは、言うのだ。しかし、なぜいつまでたっても、ブラック・アメリカンは、カネをためることができないのか。
黒人の教育が低くていい職につけないからでもなく、白人が職をあたえてくれないからでもない。黒人はただ単純に失業しているからカネがたまらないのであり、なぜいつまでも失業しているかというと、かつては安い労働力として彼らを土台にしたアメリカの資本主義が、労働力をそれほど必要としなくなっているからだ。黒人は安い労働者群として、白人労働者をおびやかす存在ですら、なくなっている。
黒人問題が、肌色のちがいに根ざす簡単な差別や偏見であるならば、そんなものはとっくに解決しているか、あるいは解決していなくても、ワッツの暴動のようなことにはならないのだ。
ロサンゼルスは、白人と黒人とが平和を保っている、アメリカでもまれにみる大都会だと一般には思われていた。実際はしかしそうではなく、ロサンゼルスの黒人たちの失業率は三〇パーセント以上、生活保護をうけている家庭は六〇パーセント、そして、一六歳から二四歳までの男性の失業率は二人にひとりで、これは白人のそれに比較すると、三倍ちかい数字だった。
だからブラック・アメリカンの暴動は、肌の黒い人たちの暴動ではなく、資本主義社会のなかのアウトサイダーである失業者の暴動としてとらえなければいけない。黒人問題はアメリカ資本主義の最重要問題と緊密にかみあっている。
いまのアメリカのなかの労働者は、一八世紀的な労働者ではない。オートメーション参加者とでも言いなおすべきで、このオートメーションがじつは、アメリカ資本主義社会のなかで、皮肉な結果を生みつつある。
オートメーションは、労働者をかたっぱしから整理していく。いらなくなった労働者は失業者となる。失業者は、労働者の税金によって、社会保障をとおして、かろうじて支えられる。失業者をなんとかまた職につけようとして、いろんな工夫がなされる。失業者個人も、人は働かなければならない、という考え方に支配されているから、職をさがそうと努力する。このへんに、重大なまちがいがあるのだ。
資本主義があげる利益は、さらに真剣なオートメーションに投資される。民間の資本も政府も、ともにこれをおこなう。オートメーションがすいあげる利益は、どれだけ生産をあげたか、という開拓の結果ではなく、つくり出されたマーケットが持っている一定の購買力が生む一定の利益の、自由競争による分配の結果でしかない。
これまで、資本主義は、人間がつくり出した最善の生存形態だと考えられていた。そうではない事実を、ほかでもないオートメーションが、現実に見せてくれている。
オートメーションは、人間の生命を、労働から切りはなしてくれつつある、と考えなくてはいけない。これまでとまったくことなった新しい考え方ができるかできないかで、歴史はちがってくる。いまは、その新しい考え方が必要とされているときなのだ。
ほんのすこしの人間がオートメーションを操ることにより、すべての人の消費をみたすことが、すでにできる。生産のための労働から解かれた人は、失業者となって暴動をおこさなければならないのか、それとも、一八世紀的な労働者世界から解放された、新しい人種になるのか。
言葉にしてしまうと、あっけないほどに簡単だ。
「人間には、労働するしないにかかわらず、すべて完全な生命、自由および幸福の追求の権利がある。完全な生命の権利の問題と労働の問題とは、ここではっきり切り離して考えなければならない」
ジェームズ・ボッグズのこの天啓のような言葉にスリルをおぼえることのできない人は、もうだめなのではないだろうか。人間が生命の権利のために労働を強制されるのは、明らかにまちがっている。人間は、労働よりも貴重だ。資本主義の次にくる社会は、働かなくていい人たちが大部分を占め、失業者というアウトサイダーのいない社会だ。
「コンピュータが、そんなにこわいか」
と、アビー・ホフマンが、言った。
「電源を切れば、コンピュータにはなにもできないではないか」
オートメーションとの対抗、そしてそれの征服が人間の仕事ではないことを、アビー・ホフマンは語ってくれている。仕事はオートメーションにやらせておけばいい。人間には、もっとほかにすることがあるのだ。
オートメーションによる失業者を、ばらばらなアウトサイダーの群れではなく、働かなくてもいい人たちとして、新しいパワーを持った世界にするためには、そのアウトサイダーは、ばらばらではだめで、やはり組織化しなければならない。黒人にいま最も必要とされているのは、組織化のための現実的な第一歩である政治的な力だ。同時に、ウッドストックの三日間に集った四〇万人のアウトサイダーにも、組織が必要だ。
古い価値がまだ絶対的な支配力を持っている世界で、これまで誰も考えおよばなかった新しい価値を樹立するには、やはり古いものにたてついていかなければいけない。ブラック・パンサーの銃が持つ攻撃的な性格は、この意味でとらえるべきだ。現実にはそうではなくても。
プロフェッショナルな歌手によってうたわれるブルースがレコードをとおして娯楽のひとつになり、また、劇場で人々に聞かせるものになったのは、一九二〇年代がはじまる前後のことだ。一九二〇年の二月、マミー・スミスがオケーに吹きこんだ二枚目のブルース・レコード『クレイジー・ブルース』が売れたのが、レイス・レコード(黒人市場専用のレコード)時代の本格的にコマーシャルなはじまりだとされている。
『クレイジー・ブルース』がペリー・ブラッドフォードによって作曲されたように、レコード用のブルースはあきらかに作曲されたもので、レコードは、南部から出てきた黒人たちに売る商品であり、録音されているブルースは、南部を思い出させたり逆に南部から黒人を切りはなしたり、あるいはもっと単純に、娯楽をあたえるものだった。
一九二九年の大不況でだめになるまで、このブルース・レコードの時代はつづいた。女性歌手が多かったのは、面白い。アルバータ・ハンター。クララ・スミス。ローラ・スミス。トリクシー・スミス。ベッシー・スミス。ガートルード・レイニ。ヴィクトリア・スパイヴィー。
男の黒人でブルースをうたうものは、まだ仕事を求めて、あるいは病身で仕事がないため、さまざまな土地を流れ歩いている時代だった。女性たちはすでに定職にありつき、黒人中産階級になっていた。放浪している男性のブルース・シンガーをみつけだしてレコードをつくるのはたいへんなことだった。だから、まず女性が、商品になった。そして、この女性ブルースのレコードをとおして、男のブルース・シンガー、たとえばアーロン・ウオーカー、ライトニン・ホプキンズ、レッドベリ(ハディ・レッドベタ)、ブラインド・レモン・ジェファスン、マディ・ウオーターズ(マッキンレー・モーガンフィールド)たちの存在が知られていったのだ。
奴隷解放から一九二〇年代のレイス・レコードの時代までに、音楽的形式としてのブルースの基本が、できあがった。
ブルースの三行詩がなぜ三行なのかは、リロイ・ジョーンズが面白く説明している。まずはじめの一行がうたわれ、それとおなじものが、二行目として、もういちどくりかえされる。なぜくりかえすかというと、おなじ文句を何度もくりかえすフィールド・ホラーの影響と、三行目を考えだすための
三行の詩のそれぞれ一行が、楽譜でいう4小節になっている。全体は12小節構成のA―B―Bのフォームで、使用されるコードは、1、4、5度の三つのコードであり、3、5、7、9度が、フラットされて、いわゆるブルー・ノートになっている。
ブルースを、ヨーロッパの全音階音楽にあてはめて考えると、ブルースは基本的にはこうなっているといえるだけで、なぜこうなのかは、わからない。こうなっていったプロセスを状況だけでとらえると、リロイ・ジョーンズが言うように、黒人が放浪しつつ自由なスタイルでうたっているうちに、誰のスタイルがいちばんいい、というような一定のスタンダードができあがり、やがてほとんどの人が、それに自分をあわせていくようになった、ということだろう。ブルーな音は、たとえばギターなら、ストリングを押えている指先を、フレットにそってネックの外に向けてグイとひっぱれば、最もブルーな音がつくれる。なぜそれがブルースにあるかは、アフリカ音楽あるいは、アフリカ人がしゃべるときの音声を徹底的に研究すれば、ひょっとしたらわかるかもしれない。
一九三〇年代から四〇年代の後半にかけて、白人のジャズ世界は、ビッグ・バンドの時期だった。それまでに、受け手の側からとらえたレイス・レコードのブルースは、どんな役をはたしただろうか。なぜ、ブルースが、商品になったのか。ブルースは、なんの役に立ったのか。ブルース・レコードは、どのような状況の反映だったのか。
ブルース・レコードは、都市黒人に売れた。そのときの都市黒人の感情の集約がブルースだったとすると、その感情は、なにか。極端に簡単に言ってしまうと、それは、南部体験の都市における普遍化だった。普遍化された南部体験が、都市におかれている黒人の状況の変化にそって、次のなにか新しいものに成長していく過渡期として、一九四〇年代があった。グレン・ミラーの人気。ベニー・グッドマンの人気。それを支えた黒人編曲者、フレッチャー・ヘンダスンのブラックさ。それよりもさらにブラックなものとして、デューク・エリントンやカウント・ベイシー。そして、もっとブラックで激しいものは、リズム・アンド・ブルースの名で総括される、新しいかたちの都市ブルースだった。
ブルースの歌手は、絶叫のようなうたい方をするようになった。バックアップ・バンドの楽器編成の変化、それによってつくり出されるリズム・セクションのサウンドと張りあうためには絶叫するよりほかなかった、というのは外面の説明で、内面はどう説明できるのか。なぜ音が大きくなり、うたい方が、激情的になっていったか。
ゴスペルをとおした、黒人としての現世の再認識に、すべてはむかっていた。
たとえば、一九四〇年代の終りから、一九五〇年代のはじめにかけて、ナット・キング・コールのまねをやっていたレイ・チャールズは、一九五二年、アトランティック・レコードと契約し、五四年に、『女を手に入れた』というヒットをつくった。この歌は『私の世界はイエスがすべて』というゴスペルから曲をかり、新しくブルースの詩をつけたものだった。
これは、意味を失った12小節ブルースの脱出であり、ブラックなプライドとしての現世への回帰だった。ニグロの世代は、交代しつつあった。ブラック・アメリカンとして、どこかなにかの方向をみつけはじめたときの激情のかたまりが、アメリカの再発見だった。アメリカに対してはじめに怒ったのは、黒人のジャズマンだろう。彼らは、白人のクール・ジャズをけとばしたのだ。
一九四〇年から一九五〇年代のなかばまで、黒人のリズム・アンド・ブルースの世界は、白人たちにはほとんど知られていなかった。
一九四〇年、B・B・キングがメンフィスからカリフォルニアに出ていった。おなじ年、ファッツ・ドミノは、インペリアルからヒット『でぶ』を出した。四四年ころには、オハイオのシンシナティで、シドニー・ナザンが、氷倉庫を改造したスタジオで、キングというレーベルのもとに、録音をはじめた。ラッキー・ミリンダー、アイヴォリー・ジョー・ハンター、ブルムース・ジャクスン、ザ・ドミノスのクライド・マクファター、あとでツイストのスタートをつくった、ミッドナイターズのリーダー、ハンク・バラード。このようなタレントが、キングに入った。
一九四八年になると、シカゴのサウスサイドに、チェスができた。マディ・ウオーターズ、プレスリーの体の動かし方のお手本となったボ・ディドレー(エリス・マクダニエル)、ハウリン・ウルフ、やはりプレスリーに、歌唱上の見本をみせたアーサー・クラダップ。こんな人たちを、チェス・レコードは、ひろいあげた。あくる年には、ヒューストンに、ピーコック・レコードができた。
一九五四年にレイ・チャールズが、五五年にはチャック・ベリーの『メイベリーン』、五六年にエルヴィス・プレスリーの年なのに、リトル・リチャードは、人気順位で第一位まであがったレコードを四枚も出した。
「彼(リチャード・ペニマン)は美しかった――だぶだぶの上衣に象の脚のようなズボン、裾幅は二六インチで、髪はうしろにとかしつけ、水がいっせいに噴きあげたときの噴水を思わせる奇怪なかたちに仕上げられていた。細い口ヒゲが唇にそってたくわえられてあり、完璧に恍惚な丸い顔をしていた。
ピアノを弾くときには両脚のヒザをくっつけるようにしてキーボードの前に立ち、ピアノを叩きこわそうとでもするかのごとき勢いで、弾きまくるのだ。クライマックスに達すると、彼は片足をあげてそのかかとでキーを叩きつけ、ズボンの裾が凧のようにふくらみはためくのだった。
絶叫のたてつづけだった。奇怪な声だった。疲れを知らず、ヒステリカルでなにものにも完全にうち勝ち、怒り狂った牛のうなり声よりも低い声でうたったことは一度もなかった。どのフレーズも、引き裂くような悲鳴、しゃがれ声、金切り声で飾られた。スタミナやドライヴは無限だった。歌は、ほとんどが、ただ単なる歌を超越していた。彼は必死の確信を持ってうたい、真に宗教的な激情をこめていた」(ニック・コーン)
五七年にビル・ドゲットの『ホンキイ・トンク』と、アリーサ・フランクリンの、アトランティックからのデビュー。五八年にジェームズ・ブラウンの『プリーズ・プリーズ・プリーズ』そして、デトロイトでの、モータウン(モーター・タウン)の創生。一九五〇年代のなかば、白人のカントリー・アンド・ウエスタンと、黒人のリズム・アンド・ブルースがひとつになり、白人による水増し版ではないブラック・オリジナルが白人の世界に、コマーシャリズムの力を背後にして、入っていった。そして、エルヴィス・プレスリーが、あらゆる意味で、ホワイトとブラックとの中間に、そのときはいた。
ブルースがリズム・アンド・ブルースにまで進展しながら、そのときどきの時代のなかで白人にうけ入れられていく歴史は、白人に真似されていく歴史だった。リトル・リチャードの『トゥティ・フルッティ』を最も真似しやすい体質を持っていたのがエルヴィス・プレスリーであり、プレスリーを真似することは誰にもできず(スローな曲でエコーの助けをかりて、エディ・コクランが、うまくやっていた)、バディ・ホリーを真似るのはたやすく、ザ・ビートルズだってそれをやっていた。
白人が黒人を真似るのは白人にとって商売になることだったし、黒人が、たとえばモータウン・サウンドのように、白人むけにもなるようにソウルのポップ版をつくることも、またおなじように商売になることだった。
あらゆるものの本物と、その本物に新しい意義をあたえていく前衛との中間にコマーシャリズムという怪物がいて、本物や前衛が社会と接するときのクッションになり、ショック・アブソーバーの役をはたすのだ。と同時に、本物をひろめ、前衛を前進させる推進力に、コマーシャリズムはなっていく。
ヒットとはラジオでひんぱんに放送されることであると悟ったモータウンは、カー・ラジオでできるだけ多くの人たちに聞かれることを目標に、一定の方程式にのっとってヒットをつくった。そしてそのヒットが、ポップの水準からいくと、ほかのヒットよりはすこしよくできている、という事実を持っていて、このような数多いヒットは、人々をモータウンのあとで本物に目覚めさせる役すらはたすのだ。
相手の外側をただ真似するだけであるならば、白人が黒人を真似ても、黒人が白人を真似ても、できのわるいジョークにしかならない。ところが、アメリカのポピュラー音楽のなかでは、白人が黒人的な音楽をつくる作業が、歴史のひとつの中心になっている。トミー・ドーシーという白人、そして彼のジャズ・バンドは知っていても、ロイアル・サンセット・セリネイダーズという、黒人のジャズ・バンドのことは誰も知らない。ラルフ・グリースンに指摘されるまでもなく、トミー・ドーシー楽団のヒットのひとつ『マリイ』は、このフィラデルフィア黒人バンドのレパートリイの、コピーだった。グレン・ミラーはテナー・サキソフォンのジョー・ガーランド(もちろん、黒人)に負うところが多く、ベニー・グッドマンは、編曲料としてフレッチャー・ヘンダスンやチック・ウエッブに、一曲につき五〇ドルを大幅に下まわる、しかもおかしなはんぱのついた金額の報酬しか支払っていなかった。
黒人にしかブルースはできない、つまり、黒人とまったくおなじ生活を体験しないことにはブルースはできない、とする説がある。黒人であることが、ブルースに対する唯一の権利証だと定めるこの考え方は、ある特定の音楽はある特定の生活環境からのみ発生するという考え方に、とらわれすぎている。
レッドベリが言った「白人にブルースは一度もなかった。白人に心配事は一度もなかったから」は、生活のみが音楽を生むという考えのなかでは、これ以上に正しくなれないほどに正しい。
「ロックは電池だ。充電するにはブルースが必要だ」と、エリック・クラプトンは、言った。アーネスト・タブは「ブルースは、人間におこりうる最悪のことをうたっている。ブルースにうたわれていることがまだあなたの身におこっていなければ、それらはやがてあなたにふりかかってくるだろう」と言う。ジャニス・ジョプリンは、「ブルースのようにしか、やりようがない。田舎でひとりなにかに目覚めかけているとき、まわりの状況に耐えきれず、そんなときレッドベリを聞いてショックを受け、サンフランシスコに家出した。私は、いまでもそうだが、常にひとりだ」と言った。白人中産階級の若い女性にも真剣な心配事があることに、レッドベリは気がつかなかった。
クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのジョン・フォガティは、自分のブルースを次のように表現した。
「世の中と極度に緊張した関係に立ったとき、フリーウェイをひとりで車で走り、肺活量のありったけをしぼって意味のない絶叫をあげる」
チャールズ・カイルは「この四〇〇年のあいだ黒人を悩ませてきたのとおなじ強さで、白人の若者たちがなにかに悩まされている」と言い、アルバート・キングは「いまの若い白人たちは、私があの年代に感じていたのとまったくおなじことを感じている」と言う。レッドベリは白人の悩みに気がつかなかったが、アルバート・キングは、うっすらと気がついているようだ。
白人のブルース・プレーヤーに、なぜブルースをうたい演奏するのかと訊けば、ブルースが好きだからだ、とこたえるだろう。好きになるきっかけは、子供のときに聞いたロイ・ロジャーズのギターが好きになり、ずっとあとになって、それとおなじ音が、もっと豊かにジョシュ・ホワイトのギターにあることを知り、よし、自分の音楽はこれだ、と決めるようなことでも、すでに充分なのだ。
ブルースは、非常にすぐれた、力のある面白い音なので、白人の若者が真似したがっても当然だ。
なぜ、ブルースの音が好きになるのか?
ある種の心の動きができる人たちは、おなじ音を本能的に好みあう。音は、土地や生活にもたしかに密着するだろうが、心の最も抽象的な部分に強く働きかけるひとつの確実な力を持っている。
では、どんなふうに働きかける、どのような力なのか?
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一九六〇年は、アメリカのロックンロールにとって、最低の年だったといわれている。ロックンロールは死んだようにみえ、やはりロックは一時的で気ちがいじみた流行でしかなかった、と早くも思いこんだ人たちは、多かった。『もっとキリストのことをうたい、ロックンロールをすくなくしては』という、信じがたいタイトルのカントリー・アンド・ウエスタン曲が、一九五七年に発売されていた。
ロックンロールが死んだようにみえたのは、プレスリーにすこし似ているフェビアン(フェビアノ・フォルテ)がまったく歌をうたえなかったからでも、フランキー・アヴァロンがビキニ映画にばかり出ていたからでもない。
一九五〇年代アメリカのロックンローラーは、自分たちの時代にあまりにも深くかかわりすぎた。進んでいく時代には、したがって、そのようなロックンローラーは、ついていけなかった。エディ・コクランのように、名前からして一九五〇年代にふさわしい人物は、一九五〇年代が終れば、それと共に死ぬよりほかなく、実際に死んでしまった。彼や、映画のジェームズ・ディーンは、死ぬことによって中断されたのではなく、完璧にしあがったのだ。
アラン・フリードは、一九六五年まで生きたが、一九五八年の九月、ボストン・アリーナでのロックンロール・ショウで、致命傷をうけていた。あまりにたくさんの若者が彼のショウにやってきて大さわぎするので警察が出動し、フリードは、騒乱罪のような罪名で警察にひっぱられた。ショウの最中に警官が踏みこんだとき、フリードはステージからマイクをとおし、
「あなたがた若者が楽しむのはいけないことだと警察が言っている」
と呼びかけ、当時まだつとめていたニューヨークのWINS局のDJをクビになり、以後は各地の放送局を転々とし、ペイオラのスキャンダルにまきこまれ、六五年一月二〇日、パームスプリングスで、手のほどこしようのないアルコール中毒者として死んでしまった。DJのときにヘッドフォーンのヴォリュームをいっぱいにあげるくせがあり、このため耳をいためて、ほとんど聞えないほどの難聴だった。
フリードは、一九五〇年代のロックンローラーのうちもっとも時代に深入りしていたひとりだった。一九二一年の生まれだからスイングの時代に育ち、音楽的な教育は高く、本来はクラシックのトロンボーン奏者だった。バップ以後のジャズが大嫌いで、クリーヴランドのWJW局でムーンドック・ロックンロール・パーティのDJをはじめたときから Hey, kids, they can't do that to us ! という五〇年代ロックンロールのシンボルみたいな言葉を黒人そっくりの声で怒鳴り、マイクがのっているデスクに電話帳を両手で交代に叩きつけてはビートをつけ、アール・ボスティック、アイヴォリー・ジョー・ハンター、マディ・ウォーターズなど、黒人のリズム・アンド・ブルースやブルースのレコードばかりかけていた。
一九五一年の六月からはじまったこのWJW局のロックンロール・パーティは、五万ワットの出力で北ダコタからニューオリンズまでとどいた。劇場でのショウもよくおこなった。やってくるのは、ほとんど黒人だった。DJのときのフリードのしゃべり方は、クリーヴランドにくる以前、すでにほかの局の黒人のジョッキーたちを聞いて真似し、おぼえてしまったものだった。私たちをあまり真似するな、という黒人側の訴えがときたま出されると同時に、フリードはチャック・ベリーの『メイベリーン』の共作者でもあり、彼からは「フリードはブラザーであった」と、黒人として認められてもいた。
一九五三年に自動車事故にあい、体のあちこちをいため、せいぜい生きたとしてあと一〇年だ、と医者に言われた。次の五四年には、ニューヨークではじめてつくられた黒人専門の放送局WNJR(五〇〇〇ワット)に移り、その年の秋、やはりニューヨークのWINS局にかわった。
ディック・クラークは生き残っているがアラン・フリードは見事に死んだ。五年から七年間のサイクルで動いた当時の時代のなかで完全に燃焼したロックンローラーだったのだ。
一九五〇年代のなかで死んだ人は、まだほかにいた。映画のなかのカウボーイたちが、ほぼ完全に死んだ。
ロイ・ロジャーズが自動車に乗ってあらわれたとき、ああ、もうだめだ、これで終りだ、すべてはなくなってしまった、と子供ごころにも悲しく直感したのだった。すでにその商業的な生命が終りにちかづきつつあったリパブリック製ロイ・ロジャーズのシリーズ西部劇の白黒スタンダードのスクリーンに自動車が登場したときのグロテスクさは忘れることができない。あのときのあの自動車は、すべてのものに似つかわしくなかった。ロイ・ロジャーズの恋人ないしは奥さん役をやっていた、現実にロジャーズ夫人であるデイル・エヴァンスの、くっきりと口紅を塗ったアメリカ的に横に大きな唇にさえ、あの自動車は似つかわしくなかった。
自動車に乗ったロイ・ロジャーズをみたときから、悪いこと、好ましくないことのすべてがはじまったように思えてならない。一九五〇年、やはりリパブリックでつくられたロイ・ロジャーズ西部劇『ベルズ・オヴ・コロナド』には、当時としてもかなり大きな飛行機が登場したのだ。
西部劇だけにかぎっても、やはりすべては終りだった。ほかのもっと面白い西部劇でいちどみたのとおなじようなシーンに何度もぶつかることがあった。牛の暴走とか駅馬車を追いかけるとか、悪漢が追われて荒野を馬で逃げるとか、そのようなシーンが、よくおなじだった。『ジェロニモ』は、そんな西部劇の頂点だっただろう。ほかの西部劇から、うまく利用できるシーンを適当に切ってきてつなぎあわせたのだ。一九三〇年代にBクラスの西部劇を一本つくるには二万ドルあれば充分だった。それが一九五〇年代に入ると、一本の制作費は五万ドルをこえるところまでいっていて、五万ドルをかけると商売にするのがむずかしかった。だから、節約の意味で、特に野外アクション・シーンが、ほかのフィルムからぬきとられたのだ。
悪漢たちの人数が、すくなくなった。ほんのすこし前まではぞろりと大勢いたのに、ロイ・ロジャーズが自動車に乗るころになると、悪漢はわずか三人、気勢のいっこうにあがらないようすで山を降りてくるのだった。馬のひづめの音が電気的に増幅されすぎてインチキくさくなり、ピストルの発射音が、これも人をバカにしたような音をあげはじめていた。
一九五〇年代なかばで、このような西部劇はつくられなくなってしまった。一九五六年あたりがさかいだった。夢の世界は終っていた。しかも、とっくに。
一九五〇年の『折れた矢』は、もっともすぐれていたころのジーン・オートリイやロイ・ロジャーズの西部劇とはちがった面白さを持ってはいた。これとか、やはり一九五〇年の『ガン・ファイター』、五二年の『ハイヌーン』などが、「大人の西部劇」と呼ばれていた。これが大人なら、ロイ・ロジャーズのほうが、ずっとよかった。
フレッド・ジンネマンの『ハイヌーン』については、危機のなかにおけるノン・ヒーロー(英雄的ならざる人物)の勇気をたたえ、当時すでにはやりはじめていたノン・コミットメントとか非参加的傍観者の価値観を批判したものだ、という説明がなされていた。あの映画だけを、しかも西部劇とはみずに、時代をうつす鏡としてみて、それに対してもっとも都合よい解釈ないしは説明をあたえるならば、ノン・ヒーローや非参加がテーマになれるのだろう。
危機は、汽車に乗ってやってくる悪漢たちが象徴しているという。ゲーリー・クーパーが演じたあの主人公は、たしかに危機を倒した。では、あの西部劇は、危機に際しては強い人も弱い人も立ちあがらなければならない、という教訓映画だったのか。だとすれば『折れた矢』は、いったいなにか。白人の男がインディアンの女性と結婚すると、さきに都合よく女性のほうが死ぬべきである、という教訓映画か。『ハイヌーン』はアメリカの危機を、『折れた矢』は人種問題を、それぞれテーマとしてかくれて意図していたのかもしれない。
ただの西部劇を「大人の西部劇」としてよろこんでいると、早くも一九五三には『シェーン』に対して感動の拍手をおくることになってしまうのだ。『シェーン』のテーマは、人間対自然であったという。ちがうだろう。有効な画面構成要素のひとつとして自然を利用した完全主義者の作品が、テーマ音楽の助けとともに、観客にあたえるロマンティックな衝撃力を、そしてそれだけを『シェーン』は持っていた。もっとも強くならなければならないはずのアラン・ラッドの役がもっとも弱かったのはラッドの責任として、彼が最後にいやいやながら再び馬に乗るのは、まちがっていた。最後の台詞として彼は「ピストルは持つなよ」というようなことをしゃべるのだが、これは「馬に乗ることをやめるなよ」でなければいけなかった。しかし、このことには気づかずに、アメリカの西部劇は進行した。そして一九五八年以降には『大いなる西部』や『西部開拓史』となり、みごとに息が切れてしまうのだ。
『ハイヌーン』の主人公は、結局、危機にたちむかうために腰をあげた男でしかなかったのか。町の法と秩序のため、というよりも保安官である自分の責任をとるために、彼は汽車から降りてくる悪漢と対面したのだ。一九五〇年代のはじめ、西部劇の主人公が単なるカウボーイであることをやめると同時に、主人公たちは、それぞれに一種の責任をあたえられた。『折れた矢』のジェームズ・スチュアートは、インディアンの女性と結婚してみせる責任を持たされた男だった。『シェーン』のアラン・ラッドは、小さな町のなかの対立関係を解決し、よき市民であるように、とのメッセージをひとりの少年にあたえて去る責任を持った男だった。
ひとりの男がひとつの責任を持つとは、社会に対してなんらかの約束を結び、その約束をはたすことなのだ。一九五〇年代のはじまりは、世のなかのひとりひとりが、社会と約束をとりかわし、その約束がゆえに社会のなかにがんじがらめにしばりつけられていくことのはじまりを予言していた。
たとえば、いくらかの頭金を払って自動車を手に入れ、あとは月賦でかえしていくことを約束するのも、ひとつの責任だった。そしてこの場合は、月賦を払い終るまでは約束ははたされず、はたしおえたときには、再びちがうかたちの自動車に対して、おなじような約束をしなければならなかった。
このような約束をできるだけたくさん社会に対して結び、そのひとつひとつを立派にはたすよう努力することが、社会に対して忠実であることであり、また、アメリカでは、アメリカの理想をかかげたより完璧なアメリカ人になっていくことを意味した。
責任とか約束とかは、つまり、仕事、であった。『ハイヌーン』の主人公は、仕事をしているにすぎなかった。立派に自分の仕事をなしとげ、夕方の五時になったら自動車で郊外の自宅にひきあげていく自分を、人々は『ハイヌーン』のなかにみた。「大人の西部劇」とは、仕事をする主人公の出てくる映画であり、大人の世界は、したがって仕事をするだけの世界であった。
仕事、というものがいかに自然に反しているかにアメリカの西部劇が気づきはじめたとき、アメリカの西部劇は行き場を失った。だから、一九五七年、サミュエル・フラーの『矢の飛びゆく道』というような西部劇が可能になった。これは『折れた矢』とおなじように主人公がインディアン女性と結婚するのだが、女性も男性も死なず、ふたりで生きていくことを暗示している映画だった。
おなじ年にポピュラー音楽の世界では、ユリシーズ・アンド・バグビイ・ミュージックという音楽出版社が、『就職しなさい』とタイトルをつけられたひどく愉快な新しい歌の版権を手に入れていた。この歌は、その年、ザ・シルエッツというグループによってレコードになり、ヒットした。
歌詞の半分以上が、シャナナシャナナナナとかイップイップイップといった意味のない音で埋められていて、意味のある部分の大意は次のようだった。
「毎朝この時間になると、母親は、就職しなさい、とボクを叩きおこす。朝食のあと、母親はかならずボクをにらみ、就職しなさい、という。新聞は隅から隅まで読む。あなたにむいた就職口がないかしら、あなたに職さえあれば、と恋人はいう。家に帰ると、母親がまた説教する。職をさがすといいながら、まだみつけていないじゃないの、と」
この『就職しなさい』は、一九五〇年代なかばのすぐれたロックンロールのひとつにかぞえられている。なにごとかに目覚めていくプロセスの第一歩として、ロックンロールは、まず、大人の世界、そしてとりわけ身近かな両親たちにたてつき反抗し、やがてそのような大人たちの世界の価値観を否定し、無視した。
大人たちの世界を代表する価値観は、WORK(仕事)というワイセツな四文字が象徴していた。『就職しなさい』は、そのワイセツなWORKに対する訣別の宣言であった。社会は、あきらかに二重だった。歯車としてさらに深みにはまっていく人たちと、そのような深みとは無関係でいようとはかる人たちだ。自動車に乗ったロイ・ロジャーズをみたときのショックは、楽しくもない現実にひきもどされたショックだった。自動車は、はっきりとWORKだった。それ以外のなにものをも意味していなかった。
一九五〇年代をさかいに、アメリカの西部劇は変質したという。つまらない変質だった。カウボーイが馬から降りて、町に住む職業人になっただけなのだから。社会に対して責任をとろうとするけなげな歯車でアメリカの西部劇がいっぱいになり、どうにもならなくなってしまったとき、イタリー製の西部劇が大きな魅力を持った。
イタリー製の西部劇は、たしかに血が自由にほとばしり、殺される人間はむごたらしく死んだ。道路はアメリカの西部劇のそれよりもはるかにこれみよがしにぬかるみであり、ヒロインはあまり口をきかず、よく男たちにはりとばされ地べたにころがった。しかし、イタリー西部劇の魅力は、もっとほかのところにあった。
なによりもまず、主人公に責任が欠けていた。人を射ち殺すのは自分のためであった。世の中のためではなかった。人を殺すプロセスそのものが西部劇のパロディになったのだから、主人公における責任のなさは、徹底していた。アメリカの西部劇にはとうていできないことだった。
イタリー西部劇の主人公は、職業的な殺し屋であり自由人であり、世の中とはピストルの弾を媒介にしてしか関係しない放浪者だったが、ついにカウボーイにはなりえなかった。ピストルを一発射ったあと、ガンベルトから弾をひとつぬきとり、弾倉から空の薬きょうをすて、あらたに弾をこめなおしておくもったいぶったリアリズムはあったが、おなじリアリズムが、馬についてはいちどもみられなかった。
ロイ・ロジャーズやジーン・オートリイは俳優としては無能に近かったが、スクリーンでみせてくれたのは、カウボーイの理想だった。なによりもさきに、彼らには、馬がいた。ロイ・ロジャーズにはトリッガー。オートリイにはチャンピオン。おなじくシンギング・カウボーイのステュアート・ハンブリンにはトムボーイ。テックス・リターにはホワイトフラッシュという馬がいた。馬は彼らカウボーイの所有物ではなく、彼らの生命の一部分だった。馬は、乗って楽をするもの、走らせてどこかへいくものではけっしてなく、カウボーイとしての全存在をかけたシンボルであった。ロイ・ロジャーズは馬から降りたとき、かならず馬の横面を、愛をこめて軽く叩いたのだ。イタリー西部劇のヒーローが、このようなことをしただろうか。彼らは馬上にあるときは比較的に無力で、両脚でぬかるみのなかに突っ立ち、銃を構えているときが本領を発揮するときだった。
カウボーイは、明らかに完璧にちかい遊民としての観念の人だ。財産や道具としての自動車を手に入れてよろこぶ人ではない。そして彼の観念は、彼の行動律が支えている。たとえば、彼の行動律は、酒を飲まないことにきめたならば酒瓶を紐でつるし、柱に打ちこんだ釘にかけてそのままにいつまでも放置しておくことを彼に要求する。やがてその釘はくさり、酒瓶の重みに耐えかねて折れる。酒瓶が床に落ちるのをみとどけるのがカウボーイであり、鉄釘がさびつくして折れるまでには二〇年くらいは楽に経過する。
馬に乗ったカウボーイと、車に乗ったドライヴァーとでは、生きるうえでの大前提が根本的にちがっている。ドライヴァーは、平坦なハイウェイが無事にどこまでもつづいているものと信じて車に乗っている。カウボーイは、小さなモグラの穴に馬が片足を突っこんだだけで、生命の一部である馬を失ってしまう。だからカウボーイは、常にモグラの穴を、しかしあくまでもひとつの象徴として、考えている。
ドライヴァーにとって、車は、たとえばタバコを買いにいくような小さなことでもいいから、なにかを達成するために存在する。カウボーイは、馬に乗ると同時に完結する。したがって、カウボーイは、なにごとをも達成しない。なにかをカウボーイがなしとげることがあるとすれば、それは、風に吹かれながらテンガロンで風をさえぎりつつ片手で巧みにタバコを巻いて火をつけるくらいのことなのだ。
一九五〇年代以前の西部劇のなかのカウボーイは、伝説上のカウボーイだ。そして、本物よりむしろこの伝説上のカウボーイのほうが、アメリカにとっては貴重なものだ。特に、劇中でギターをかかえて歌をうたうのを得意としたシンギング・カウボーイは、これの代表だ。ロイ・ロジャーズの愛馬トリッガーが死んだとき、ロイ自身のカウボーイ・スターとしての命も終るのではないかと、ファンはみなそのことを真剣に心配した。一代目のトリッガーは、人々の希望によって、剥製となってのこっている。
シンギング・カウボーイは、落着きはらい気楽にしていた。殺気だった悪漢が背後からピストルを向けると、微笑をうかべてゆっくり肩ごしにふりかえり、ギターをとりあげ「まず歌をうたってからだ」と言い、ほんとうにうたうのだ。たとえば『ハイヌーン』の主人公のように、悲愴な決意でガンベルトを腰にまいたりはしない。『ハイヌーン』が猛烈社員のようなものの原型なら、シンギング・カウボーイは、日本でも風俗的に言われてはじめた、ビューティフルの原点のひとつだろう。
カウボーイにとって、人生はひとつの偉大なるジョークであり、ただちに許すことができるものなのだが、車に乗る人のように歯車になってまでその人生にしがみつこうとは考えない。カウボーイは、人生をあまり真剣に考えない。車に乗る人が来月の給料のために真剣になりすぎるとどのようなことになるか、一九七〇年四月二二日、アメリカでの「地球の日」が、ひとつのほぼ最終的な結論として示してくれていた。人々はニューヨークの五番街に車で乗り入れるのをやめ、歩くことにしなければならなかった。
シンギング・カウボーイの活躍する映画を見終ったあとの印象は、ようするにカウボーイたちは楽しく遊んだ、ということだけなのだ。彼らは、土地に密着した農民を軽んじ、馬にまたがって地球をかけることで完結する、なにものをも目ざさない観念の人だった。女性に関してはごく簡単な価値判断の基準を持っていて、それは、ジーン・オートリイがアニタ・ブライアントのLP『カントリーズ・ベスト』のライナー・ノートで言っているように「馬にうまく乗る」ことだ。カウボーイにとって馬は自分と同体だが、女性は馬をとおしてはじめてなんらかの判断がくだされる存在にすぎない。
伝説上のカウボーイは、一九六九年、サム・ペキンパーによって『ワイルドバンチ』のなかで、ねんごろに、しかも銃弾で血まみれのハチの巣にされて、ほうむられた。あの映画のなかにも、かわりゆく時代のシンボルとして自動車が登場する。主人公のカウボーイたちはほとんどなんの反応も示さず、ジョークとしての人生の終りを、あのスロー・モーションの殺戮場面でみごとに死ぬ。いまはすでに馬に乗っているだけではどうにもならない時代なのだが、だからこそ、『ワイルドバンチ』の死にざまは、無限にうらやましくもありえた。
一九五〇年のロックンローラーがおこなった時代へのコミットのしかたは、態度としても音楽としても、単一なものだった。自分に対して抵抗してくる力と張りあいながらとにかく外にむけて出ていこうとする、比較的単純で荒けずりな力へのコミットメントだった。
この力が、ひとまず時代のなかでいけるところまでいきぬき、ついに燃えつきたのが一九五八年だった。白人と黒人のサウンドがひとつに合流し、それに対して白人の若者から「YEAH!」(そのとおりだ!)という全面的な肯定をうけ、その肯定を推進力として外へ出ていこうとし、なかばそれに成功し、それまでにとどまった。一九五〇年代から六〇年代のはじめにかけてのロックンロールに決定的に欠けていたのは、内省的な力だった。
しかし、これは、やがておぎなわれる運命にあった。
チャック・ベリーの存在はまったく知らなくて、エルヴィス・プレスリーだけにひかれていた白人たちにすら、ロックのビートはなにかを語りかけることができた。なにを語りかけたかは明確に定義づけることができないのだが、
「すべてはこうでなければならないのだ」
あるいは、
「これは正しいもののひとつなのだ」
という確信のようなものが、ロックンロールのビートをうけとめた人たちの内面につくりあげられた。
ビートを文句なしにうけとめることができた人たちのなかに、あいまいなかたちではあったけれど、ある種の確信がつくられた。けっして唯一無二の真実をみつけたわけではなく、なにものかを力強く肯定するまずはじめのチャンスが、ロックのビートによってもたらされた。
一九五〇年代なかばのアメリカの若者にとって、このチャンスはうれしかった。なにごとかを自分が肯定するとは、つまり、自分だけの足場がひとつしっかりと存在することであったのだから。自分の存在に目覚める、と言いかえてもよいだろう。ロックは、単なる音楽ではなく、自分の全存在をかけた体験だった。
一九五八年にプレスリーが陸軍に入り、アラン・フリードがDJをやれなくなってしまうと、ロックは死んだようにみえた。カリフォルニアにはザ・ビーチボーイズ、デトロイトにモータウン、そしてテレビにはディック・クラークの「アメリカン・バンドスタンド」という概括がひとつの真実味ある現実となっていた。
ニューヨークのWINS局は、一九六二年に、ロック局からほかの種類の音楽局に転ずるとき、そのきっかけとして、「シナトラ・マラソン」と称し、フランク・シナトラのレコードばかり六六時間、ぶっとおしに放送した。ソ連の『プラウダ』が、好ましいことである、とこれをほめた。
除隊後はじめてのプレスリーのレコードが『オーソレミオ』のうたいなおしであったことも、すこしも不思議ではない。五八年までのプレスリーが黒人的なプレスリーであったとするなら、除隊後の彼は、白人の世界で売りさばかれるホワイトでスイートな商品だった。
一九五八年以後の白人のロックは、あまりすぐれたものではなかった。フィル・スペクターとザ・ビーチボーイズが、その代表例だろう。
フィル・スペクターは、二一歳のとき、ロサンゼルスでザ・テディベアーズというグループをつくり、一九五八年、『トゥ・ノウ・ヒム・イズ・トゥ・ラヴ・ヒム』をヒットにした。この歌のタイトルは、フィルの父親の墓にきざまれていた文章の現在形であるという。このような一見ふざけた態度は、すぐあとにくるビートルズを理解するうえで重要なのだ。
五九年にフィルはレコード・プロデューサーになり、ザ・ドリフターズやベン・E・キングのヒットをつくった。マルティ・トラックのテープにダビングをかさね、音を合成して「音の壁」をつくることをはじめ、一枚のシングルのサウンドに多額のおかねと大勢のミュージシャンをつかうという、ビートルズ後期の音楽づくりとおなじく、コンサートの場ではなくスタジオ内で完成されるロックづくりにむかっていった。
ザ・ビーチボーイズにも、おなじことがみられた。一九六一年につくられた南カリフォルニアのこのグループは、親族関係的な緊密さをはじめから持っていた。左耳が聞えないブライアン・ウイルスンが、いとこのマイク・ラヴとアマチュア・バンドをつくり、ブライアンのふたりの弟、カールとデニスがそこに加わり、さらにアル・ジャーディーンが入った。
キャンディスのレーベルから発売されたはじめてのレコード『サーフィン』は、一九六一年の後半に五万枚ちかく売れた。二枚目のレコードが出てから、キャピトルとの契約ができた。
「ボクたちは白人だし、白人のような音をつくる」
というブライアン・ウイルスンの言葉どおり、ザ・ビーチボーイズのはじめのころのレコードは、ごく普通の定石的なロックだった。ブギのリズムにウォーキング・ベース、ギターのソロ、コーラス、リード・ヴォーカル。彼らが影響をうけた源泉は、チャック・ベリーとフォア・フレッシュマン。
三枚目のLP『サーファー・ガール』から彼らはロック・グループとして新しい方向をみつけた。作曲、演奏、歌はもちろん、プロデュースからアルバムのパッケージングまですべて自分たちでやることになった。単なるショウ・ビジネスのための集合ではなく、メンバーのひとりひとりが自己発見をして自分のことをおこないながら全体は緊密に結ばれあい、録音スタジオのなかで有機的に発酵するというグループになった。彼らのサウンドは、コンサートでではなく、スタジオの電子技術の駆使をとおしてLPのなかに具体化するのだった。
一九六六年のLP『ペット・サウンズ』はコンサートから身をひいたブライアンが、ひとりでスタジオにこもってアイデアをつくり、自分で各種の楽器を演奏したりうたってみたりしてダビングをかさねて実験し、一年がかりでつくったものだ。次に出たシングル『グッド・ヴィブレーションズ』は、半年かけて四〇万フィートのテープをつぶしてできあがったものだった。難解だ、というような批判が、ファンたちのあいだから出された。
ロックンロールは表面的にはハッピーなサウンドであった。だから、いつのまにか人々の心のなかに入りこむことができた。入りこんでしまうと、人と人とをきりはなそうとする社会のなかで逆に人々を結びつけあう力を持った。たとえばファシズムのように、なにかひとつの考え方で人々をなかば強制的にひっくくるのではなく、ひとりひとりが自分自身のことに目覚めたあとで、「YEAH!」なら「YEAH!」のひと言で、物理的なものよりもさきにヘッドによるコミュニティをつくりあげる役をはたす、というかたちの結びつきだ。
すぐれたロックンロールに対する肯定的な反応のもっとも基本的なかたちは、ジェリー・ホプキンズが言うように「聞いていると気分がよくなる」という反応だろう。気分がよくなる人にとって、ロックは、よくいわれるように、生命への全的な参加なのだ。
Doing Your own thing(自分自身のことをする)ことによって自己をみつけ出し、人間の生命とはどのようなことなのかをひとりひとりが体得して悟り、そのあとでひとまずの結論が、「YEAH!」とか「NO!」などにまとめることができる。裏からみればロックはアナーキーであり、表からみれば、直接民主主義の原型のようでもある。精神的なコミュニティへのかかわりあいは、自己発見をひとりひとりがつづけていくことにより、さらに強固にされていく。ロックが政治的であり革命的であるのは、人間のこのような存在のしかたをみつけたからにほかならない。ロックという音楽が存在するだけではどうにもならないのだ。
ロックは一種の官能作業であるため、それについて書くときはどうしても抽象的にならざるをえない。聴く人たちにロックが要求しているのは、結局は抽象能力なのだから、しかたのないことだろう。わからなければそれまでなのだ。
黒人に対するのとホワイトに対するのとでは、ロックの意味するところが大きくちがってくるので、そこにふれておこう。
たとえば失業について考えるならば、黒人青年の失業者とホワイトのジョッブレスとは、失業者という点では共通なのだが、失業に対する精神的な態度は、まったくといっていいほどにことなっている。
ホワイトの場合は、全アメリカへの嫌悪感を自分のなかにつくりあげることによって、失業を、自分でえらびとった失業、つまり社会からの自分の意志によるドロップ・アウトに、価値の逆転をすることができる。黒人にこれはできない。ヒッピーになぜ黒人がいないか、その理由はこのへんからたやすく想像がつくはずだ。白人は、ドロップ・アウトでありながら、いまのアメリカに最小限ではあるけれど依存している。黒人に、この依存は許されていない。
彼らは、失業というリアリティをのがれることができず、そのなかで人種差別闘争と労働者闘争とを二本立てで交錯させつつ、あくまでも具体的にすべてをすすめていかなければならない。
この、どうしても逃げることのできないリアリティと、それに対して感じないわけにはいかない個人としての無力感が、いまのアメリカで黒人たちに「銃を!」「分離を!」と言わせているのだ。
白人は、黒人よりもやはりぜいたくだった。おなじ失業でも、白人にはそれを抽象的にとらえなおす余裕があり、自分たちを失業者としては意識せず、したがって「いますぐ職を!」とは言わないから、そのぜいたくさの中から、失業という状態に関して、新しい観念が生まれてくる。
黒人音楽はリアリティでありつづけるのに対し、白人のロックは、全霊での知覚というような精神作業になっていくのも、これでわかるはずだ。ブルースで黒人にちかづいた白人は、ブルースが音として持っている力をほかのことに変質させつつ、黒人からまたはなれていく。音楽上のコンテクストが、まるでちがってくるのだ。
ロックンロールは、アメリカのなかでの白い音楽と黒い音楽との結合だった、とよくいわれる。白い音楽とは、この場合は、カントリー・アンド・ウエスタンであり、黒い音楽とは、広く言ってブルース、時代背景を区切る意味でせまく言えば、リズム・アンド・ブルースだ。
そしてこの意味でのカントリー・アンド・ウエスタンは、アパラチアの山のなかにとどまっていた当時の音楽とは区別して考えるべきであり、ロックンロールと結合しえたカントリー・アンド・ウエスタンは、充分に商業的になってからのものでなければいけない。一八万五〇〇〇平方マイルにわたるアパラチアンの貧民が、いまではアメリカの経済や歴史からは独立した別個の存在となっているのとおなじく、もっとも純粋なかたちでのマウンテン・ミュージックは、ノスタルジアとか素朴な音楽ではありえても、リズム・アンド・ブルースとは、たとえばいまのブルーグラスが保守的であるのと同様、結合はできないのだから。
カントリー・アンド・ウエスタンがひとつのサウンドとして持っている抽象的な力は、人を外に向かわせる外向的な力だった、とすでに書いた。音の性質がそうであるのと同時に、カントリー・アンド・ウエスタンがもっとも大きな影響力となっている地帯の地理的な状況も、人を外に向かわせる力となった。
カントリー・アンド・ウエスタン地帯は、だだっ広くて人口がすくなく、どちらかといえば貧乏な地帯なのだ。人を結びつけるのはラジオと自動車だけであり、農業のための自然は、人をうけとめてはくれず、農業の機械化によって人を逆に追いはらっている。いまでは一年に四〇万ちかくの人間が、農業の機械化によって、土地から解きはなされている。土地をはなれたら都市に向うしかなく、都市の過密な黒人ゲットーのリズム・アンド・ブルースに、カントリー・アンド・ウエスタンは正面からぶつかることになる。
カントリー・アンド・ウエスタンとリズム・アンド・ブルースとの結合は、単におたがいが音楽的に吸収しあった結果のことではなく、時代の背景やそのなかの人間が持つ精神状況、そしてあくまでも地理的な条件などが複雑にからみあった結果のことなのだ。
カントリー・アンド・ウエスタンのサウンドを支えているもうひとつの力は、生きることのうえでのなにごとかに対して楽天的であるアメリカ独特なものの考え方だった。
ヨーロッパからは断ち切られた、地理的な意味においてすら完全に新しい大陸で、だれからも批判されない唯一の社会制度としての民主主義のなかで、産業革命と資本主義とに支えられ、個人の努力、機会、才能の三つによって経済的な向上をめざすというアメリカの理想がかつては持っていた、外へ向かう力、前進し拡大しようとする楽観的な力を、カントリー・アンド・ウエスタンはそのサウンドのなかに持っていた。
利益こそ最高の価値で、技術的に可能なことは道徳的にも承認されたことであるとするアメリカの理想の、音による象徴だったのだ。したがってカントリー・アンド・ウエスタンのメンタリティは、すくなくともロックンロールと結びつくまでは、純粋に音楽的な面でのかなりの柔軟性をふくめて、視野はせまく頑迷なものであった。
このカントリー・アンド・ウエスタンに対して、水をかける役を持ちつつ結合したのがリズム・アンド・ブルースのブルース性と現代性だった。カントリー・アンド・ウエスタンの楽観主義に対して、リズム・アンド・ブルースは、完全な否定の悲観主義ではなく、あなたの歴史はあなたが信じているようには動いてはいかないかもしれない、という新しい歴史観の提示としてのペシミズムととらえることができる。自分がいまどのような歴史のなかに置かれているかの認識を欠いていたカントリー・アンド・ウエスタンに、リズム・アンド・ブルースは、結合してロックになることによって、ひとつの歴史的な視点をあたえた。
なるほどアメリカの理想はまちがっているようだ、とひとまず意見の一致をみた場所が、ロックだった。
アメリカの理想に対して疑問を投げかける役として、黒人以上の適役がいないことはすでに書いた。白人たちがはじめて正式な困難に直面したのが一九二九年にはじまった大不況なのだが、白人たちは戦争によって不況からすくわれながら黒人たちは以前のままであり、さらに、都市ゲットーに追いこまれ、戦争からあがる利益にさえ参加させてもらえず、経済的にはまったく非アメリカ的な位置に落されたのだ。
個人の努力による経済的成功が現実になりうるとして、それをもっとも小さい状況でながめなおすと、自分の成功は他人の犠牲にほかならない。犠牲者は黒人だけではない、オレたちもここにいるのだ、とブルースをとおして白人がはじめて発言できたのが、ロックンロールだった。
アダム・スミスの『国富論』が世に出たのとアメリカの独立とは、おなじ年のことだ。アメリカがようやく自分のかかげてきた理想に不安を持ちはじめた一九五〇年代なかばにチャック・ベリーやエルヴィス・プレスリーがあらわれている。歴史の歩みは偶然でも目にみえないほどに小きざみでもなく、はっきりと意図をもって突然にやってくるのだ。
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アメリカは万人が自由かつ平等な民主主義の国である、とされてきたが、これがまず伝説上の美しいお話、あるいは、もっと簡単には、ウソなのだった。
万人が平等であれば、競争はその万人が参加しておこなわれなければならない。自由な競争に万人が加われば、ひとりひとりが現実に成功を達成できるチャンスは、加わった人の数に比例してすくなくなる。それよりもさきに、アメリカでは、すべての人が自由競争に参加しなければならない。「いやだ」と言う人がいれば、その人は、精神分析医におかねを払って精神状態をみてもらわねばならずそれをも拒否すれば、アメリカ人として行動しない共産主義者、とされてしまう。幻想としての平等への適応は、その適応した人たちを、かたっぱしから画一化する。自由競争で世に出れば、まず月賦で自動車を買わねばならない。
とりあえずアメリカではすべての人が平等であるというイメージは、自由競争のなかで早くも画一化されてしまった無気力な人たちにとって、心理上の安全弁となる。平等に競争しているのだという錯覚が、毎日を支えてくれる。
個人ひとりひとりが自由で平等であることは、個人がまったく無防備で社会のなかにほうり出されていて、個人の弱さを心理的にカヴァーするため、強くして全能の神であるアメリカ社会が、ひとつの理想として、個人の頭上に常にかかることになる。
みんなと競争しているのだから、その競争に自分がすこしでもおくれているようであれば、たちまち不安になる。おくれまいとしてあせり、そのあせりは、なんのことはない、その人をさらにコンフォーミズムのかわいそうな虜にするだけなのだ。
さらに、アメリカは、民主主義と資本主義を、同一不可分なものとして考えつづけている。資本主義はなくても民主主義は可能なのに、アメリカはこのことに気がつかない。ほんのすこし冷静に考えればわかりそうなことなのに、いっこうに気がつかない。そして資本主義と民主主義とをかさねあわせたため、いまのアメリカの保守的な独占資本主義ができあがった。
個人による健康な自由競争は、アメリカが工業国になって資本主義を変質させると同時になくなってしまい、競争よりも安定を求める、相互依存の社会ができあがった。
その社会の主役が、賃金労働者だ。これには、アメリカの夢である中間階級も当然ふくまれていて、いつもなにごとに対しても防備はなく、大資本のいいなりで、なにを考えるかよりもどのていどの経済的成功をなしとげるかのほうが重要とされているから、個人はそのまま、一個の商品となってしまう。商品としての個人は、官僚社会のなかではその社会が必要とする以上にはなにごとも考えず、マスとエリートとに両極分解するときには、もちろん、マスのほうに入っている。
中間階級マスは、社会に対してなんの武器も持っていない。労働力としての商品価値は極度に機能化されていて、自分のたとえば人間としての生命力が仕事に関与することなど、まずありえない。と同時に、大量生産機構のなかで、消費者としての商品価値を持たされていて、消費のなかですら、大資本のいいなりにしかなれない。
エリートは、オートメーションの管理者としてのスペシャリストになる。思想よりも技術のほうがはるかに優先し、イデオロギーぬきの技術社会がつくられる。マスはこれに対してただしたがうよりほかに方法はなく、したがえばしたがうほど、自分の決断力というようなものはなくなってしまい、自分の存在意義、自分がなにをどう進展させているのかといった手ごたえをなくし、よくいわれる疎外された中間階級大衆になっていく。
大衆は不安をおぼえはじめる。自分は立派な社会的な秩序のあるアメリカに属しているのだという、幻想にしかすぎないのだけれどもしかしとりあえずよりかかることのできるシンボルを求めなければならない。たとえばアメリカの大衆がなんとなく不安をおぼえはじめたトルーマン時代の末期では、アメリカの国民的な英雄としてアイゼンハワーが大統領にえらばれ、これによって擬似的な統一感が大衆の心のなかになしとげられ、不安を自己満足にすりかえていったのだ。やはりアメリカの本格的な不安は、一九五〇年代にはじまっていた。
統一感と自己満足のためにアイゼンハワーのようなシンボルをえらぶ心理は、すでにひどく衰弱している。ものごとの本質を見ずに途中でごまかしてしまうから、かつての美しかった過去をふりかえることが、フォークソングのブームや復古風俗として、産業になったりするし、大統領でさえ、ニクソンのように、法と秩序へのノスタルジアだけに支えられて、出現することができる。同時にニクソンは、大衆がものごとの根本を見ようとしないでいることに乗じたデマゴーグの産物でもあり、マッカーシーといっしょに赤狩りのときに活躍した前科を思いおこせば、とうてい大統領にできる人物ではないのに、いま現に大統領として、戦争経済をすすめている。アメリカは体質的に右翼になりやすいものを持っていて、たとえば二大政党は対立などしていず、基本的なところでの利害関係は一致していて、政党はそのときそのときの支配原理をどうにでも好きなようにとりかえることのできるスポンジのようなものなのだ。二大政党は協力して均衡状態をつくりだし、この均衡は、目さきの利益追求に支えられた現状維持にかわっていき、そのことに対してアメリカは、なんの疑問も持たない。体質としては右よりだから、都合のわるいことは力で押えようとはかる好戦的な部分を必ず持ち、強大な軍事力が、民主主義の守護神になりうる。
個人の責任と努力にもとづいて節約と貯蓄をかさね、カネをもうければそれが現世での人間として最高の到達点であると定めるプロテスタントの世界観は、自由平等の資本主義の、このうえなく都合のよい推進力となった。
アメリカのすぐれた部分はすくなくなってきた。そして、このアメリカに、ほんのひとにぎりの人たちが、NO! と言い、同時に、自分たちが拒否したアメリカにかわる新しい価値を提示してみせた。
なぜアメリカがこうなってしまったのか、とことんまでさかのぼって真相をきわめようとする、反アメリカの極致みたいな人たちであり、彼らの主張は、ひとまずアメリカ的なもののすべてから自分を切りはなしてみせることをとおしてなされた。この少数者たちが最初にとなえたのは、PEACE(平和)だった。戦争で人を殺すのはいけないとか、むごたらしいことはやめなければいけないといった道義上の理由による平和ではなく、彼らが唱えた平和は、なによりもまずさきに、非常に反アメリカ的な観念であったのだ。
アメリカにとって有利なように書かれたものでもかまわないのだが、すこし詳しいアメリカ史を読めば、アメリカは、独立戦争以来、戦争、あるいは、他の国に対する武力による干渉、ばかりをおこなってきたことに気がつくはずだ。
カナダとキューバとを、武力ででもいいからアメリカの支配の下に置こうという考え方は、独立戦争のときからあった。ケネディがキューバでなぜあのようなおろかなことをおこなったか、その理由は、建国以来のアメリカの歴史のつみかさなりのなかにある。メキシコとの戦争で西はカリフォルニア、南はテキサス、北はオレゴンまで、広大な領土をいちどに自分のものにしたアメリカは、モンロー主義によってメキシコ、中南米、カリブ海の島々を、次々にねらいうちしていった。一八〇〇年代のなかばから、アルゼンチン、パナマ、ニカラグァ、コロンビア、ウルグァイ、パラグァイが、アメリカからの干渉をうけたのだ。
フロンティアが国内になくなってしまい、南北戦争をへて資本主義がアメリカを支配するようになる以前から、領土の拡大は、アメリカ国内の利害的対立関係を発散させるために、おこなわれていた。
資本主義が本格的にスタートしてアメリカが工業国になると、外国に産物を輸出する必要が生じてきた。領土の拡大は、広い土地を手に入れるという地理的な欲望から消費マーケットの確保に、変質していった。中南米の諸国が再び狙われ、たとえばキューバは、ハワイやサモアがアメリカに押えられたあと独立したのだが、一九五九年のカストロによる革命まで、実権はアメリカに握られたままだった。米西戦争でフィリピンを手に入れたアメリカは、そこからアジア、特に中国に、必死にむかっていった。ヨーロッパの国々によって中国はちょうど分割されつつあり、アメリカはその広いマーケットを失うまいとし、それが失敗すると、現在にいたってもまだ中国を承認しないというような態度にでるのだ。国内では黒人を奴隷にし、アメリカン・インディアンを、事実上の絶滅においこんだ。
アメリカにとって、独立とはどのようなことだったのか。ヨーロッパの支配を断ち切ることはもちろんなのだが、それ以上に、やがては自分の好きなように世界のなかで行動をとる、ということだった。一八二三年のモンロー・ドクトリンは、アメリカ外交の孤立主義を表明したものと理解されているようだがそうではなく、むしろ逆で、好き勝手に外国に干渉することを、意味していた。そしてその干渉は、建国のときには一三あった共和国内部の共和国のための利益確保の手段であった。アメリカ国内で工業が発展するにしたがって、アメリカは、ヨーロッパと対等の国際関係上の地位を得ることになるのだ。工業はなんとしてでも発展させなければならず、南北戦争を通過すると、独占のかたちで、産業資本主義が広がっていった。これは一八八〇年代に目立ってたかまり、やがて独占による支配、搾取への抗議がおこり、一八九三年の不況にかさなって、アメリカではじめて、独占資本主義の弱点のようなものがはっきりと表面に出たのだった。
海外に市場を求めてこの弱点をなくそうとはかったアメリカは、一八九八年、米西戦争に入ることになる。そして、フィリピンを手に入れた。一九〇〇年代には、海外マーケットの入手に、ひとつの政治上の理念が加えられた。海外のある特定の国をアメリカの市場とすると同時に、その国にアメリカの自由と民主主義とをわけあたえ、それをその国にとっての最良の政治形態にしたてあげる、という勝手な理念だった。一九〇一年のパナマにはじまって、ホンデュラス、ドミニカ、ニカラグァ、メキシコ、ハイチなどが、二度、三度と、武力的な干渉をアメリカからうけ、一九一四年に開通したパナマ運河を、アメリカは手に入れた。
一九一七年、ロシアに革命政府が生まれた。社会主義はすでにアメリカ民主主義の敵であった。第一次大戦をチャンスに、アメリカはヨーロッパにマーケットを広げ、おかげで、債務国から債権国になり、国内での社会主義(アメリカ民主主義以外のあらゆる思想)の発生をおさえるため、コンフォーミズムを国民に強要し、赤狩りをおこなった。
大戦後のヨーロッパで新しい革命がおこらないように手をうち、イギリスとはりあい、のこるはアジア、特に中国だった。一九二九年に不況がきて、国内の経済のたてなおしが当面のアメリカの仕事になった。国内経済のたてなおしには、有効な手段は輸出しかなかった。輸出は拡大したが一九三六年には国内の景気は悪くなり、三七年、日本は北京を占領してしまった。そして三九年、ヒトラーのドイツ軍がポーランドに入り、第二次世界大戦がはじまった。
アメリカが日本に落した原爆は、つきつめると、ただひとつの意味しか持っていない。アジアの諸民族が目覚めて独立し、しかもそれが社会主義国になったのではアメリカのマーケットがなくなってしまうので、反社会主義の態度表明の極致として、原爆を落したのだ。
反社会主義はヨーロッパのマーケットでも守られた。一九五〇年代に入るまでに、アメリカは、世界一の産業資本主義国になった。ニクソン副大統領は、ディエン・ビエン・フーが落ちかかっているとき、アメリカの軍隊を送らなくてはいけない、とさえ語った。この考え方はやがてアメリカが南ヴェトナムにつくったゴ・ディン・ディエムのアメリカのための政権になり、南ヴェトナム民族解放戦線の革命とは関係なく、しかし共同して、ヴェトナム民主共和国をなきものにしようとはかっているのだが、なにとげられるはずはなく、それで当然なのだ。
PEACE(平和)のひと言が、いまのアメリカの独占資本主義に対してどのような意味を持つか、これであきらかなはずだ。人殺しや侵略戦争はいけないことだからPEACEなのではなく、「資本主義に個人が必死に適応し、それによって生きていく時代は終った」からPEACEなのであり、これまでのアメリカが一度も考えてみたことすらないような新しい価値をさがせ、とPEACEは言っているのだ。
このような意味の「平和」でないかぎり、アメリカではあまり意味を持ちえない。PEACEはクラシックで牧歌的な平和では決してなく、もちろんそれを含みはするのだが、アメリカのなかで独特な進展をみせた自由平等、民主主義、資本主義、産軍複合体、黒人問題、オートメーションなどを基本的なところから考えないことには、PEACEは、軍隊による他民族殺害行為の一時的な中断にしかならないのだ。たとえば日本で考えられているヴェトナム戦争反対とアメリカでの「アメリカへの参加の拒否」とのあいだには、ばくぜんたる平和のイメージと、すべての根元にたちかえりそこから再び考えはじめるラディカル本来(ラディカルという語は、そのような意味を持っている)の姿との、厳しいへだたりがある。
ヴェトナム戦争がアメリカ独占資本主義にとってのごく自然な姿であることに少数のラディカルが気がつき、それが風俗的な力で社会のなかに広がりはじめたのは、比較的最近のことだ。日本では「ヒッピー・ボタン」と呼ばれているもののひとつに「戦争はいい商売・あなたの息子を投資しろ」というのがある。反戦を平板な風俗になおしてしまう力を持っているのだが、同時に、アメリカとヴェトナム戦争の核心をついてもいる。この War is good business, invest your son. と「戦争を主催したまではいいが、誰もこなかったらどういうことになるのか」 Suppose they gave war and nobody came. とのあいだに、「戦争にでかけるよりは性交を」、Make love, not war. に代表されるさまざまな反戦へのこころみがあるのだ。
PEACEは、それに参加するひとりひとりが、根本的なところで徹底的に目覚めることを要求している。だから、反戦は、アメリカの軍隊にいるひとりひとりの兵士に呼びかけるとか、たくさんの人が、各個人の力の結集をもって、ヴェトナム戦争を可能にしている力の根もとに抗議するという、特徴的なかたちを持つことになる。
ジェリー・ホプキンズが、ロサンゼルスのアンダグランド・ペーパー『オープン・シティ』で、次のようなことを言っている。
「体のどこかに、ワイセツな文字あるいは図柄のイレズミをしている者は、徴兵検査で4F(不適格)にされる。歩かずに、ただちに最寄りのイレズミ屋に、走れ」
イレズミをしろ、とすすめているわけではない。いまのアメリカ社会には意外に穴が多いから、自ら不適格者となる方法をみつけ、その穴からドロップ・アウトしろ、と呼びかけている。反戦は、個人がなにを考えるかの問題であり、全員そろってイレズミをすることではない。
やはりアンダグランド・ペーパーに、こんな投書が寄せられ、かならず紙面にのる。
「ダウ・ケミカル・カンパニーは圧倒的に多角生産であります。この会社は、エプソム・ソルト、サラン・ラップ、ハンディ・ラップ、雑草除去剤……」
と、日常生活でよく知られた、つまらない製品の名を列挙し、
「……そしてナパームを、製造しています。敬具」
この投書をきっかけに、あるいは、投書主と似かよった目覚めかたで、サラン・ラップのボイコットがはじまった。サラン・ラップをボイコットすると同時に、ダウ・ケミカルに、ナパームの製造中止を申し入れる。するとダウ・ケミカルは、うちではナパームはつくっていない、と嘘の発表をする。この嘘は、またほかの人たち、しかもアメリカにおけるナパーム製造の現状に精通した人たちが、ダウ・ケミカルのナパームについて、正確な公表あるいは秘密のデータを発表することによってくつがえされる。ダウ・ケミカルは、ナパームをつくるだけではなく、そのことについて嘘をつく、という事実が、人々の前にさらけ出されるのだ。サラン・ラップのボイコットに力が入ると同時に、ナパームの非人道的なすさまじさが身近に納得できるようになるし、アメリカの資本主義は人々に対して嘘をつく、ほかの会社もおなじように嘘を平気でつくのではないか、という素朴な疑問が広がっていくことにもなる。
結局、ダウ・ケミカルは、ナパームを製造していることを認め、ナパーム製造の現場をヨーロッパに移さなければいけないことになった。ナパームが製造されていることにかわりはないのだが、サラン・ラップのボイコットに参加したりあるいはそれを見守ったりした人たち、そしてダウ・ケミカルのものの考え方に、新しい変化をあたえた。
『プロヴォ』という地下新聞には、次のようなボイコット宣言の投書が、のせられた。
「ヴェトナムに平和がもたらされるまで、私は新たに自動車を買わないことをここに宣言します。平和のための宣言委員会がうしろだてとなっているこの運動は、全米にキャンペーンされています。ヴェトナム戦争にとってアメリカの自動車産業は欠かすことができないのです。委員会の目的は、新車を買わないという一〇万名の署名をあつめ、戦争遂行に対する強い反対がアメリカ国内に存在することを自動車産業に示し、この反対勢力が、自動車産業にとって威嚇になりうる事実を、彼らに示すことです。賛成の方は、署名をそえて、平和のための宣言委員会、3237ベンダ・ストリート、ロサンゼルス、カリフォルニア、90028に送ってください」
パン・アメリカン航空も、軍事輸送で莫大な利益をあげている事実を理由に、ボイコットの対象にあげられている。国内・国際線の両方で、座席の
ヴェトナムの軍事費の足しにするため、それまでは三パーセントでしかも一九六九年には全廃されることになっていた電話税が、一九六六年四月、恒久的に一〇パーセントにひきあげられた。この税金に反対の意志表示をし、おさめないでいると、電話会社によって電話をとめられてしまう。しかし、法律を詳しく調べると、電話会社にそのような権限はまったくなく、税金を払う払わないは個人と国税庁とのたたかいになる事実をつきとめた人がいて、その人は、広告費をつのって新聞にスペースを買い、そのことを詳しく説明する文章をのせた。
アメリカ市民ひとりの年間の税金のうち七〇パーセントほどが軍事にまわされ、そのうちのさらに二二パーセントが直接にヴェトナム戦争に関係しているというデータを新聞に発表した人もいる。この数字にのっとって、ジョーン・バイエズが「私は私に課せられた税金のうち七〇パーセントを支払わないことにしました」と、手紙を書いて国税庁に送った。しかし、払う払わないにかかわらず、政府がその気になりさえすれば、バイエズ個人の税金は、法に触れることなく自動的に、彼女の歌手活動に対する報酬から取り立てることができる。バイエズ自身がこのことは知っているはずであり、このへんが、資本主義のなかにいる人たちの、結局はどうにもならない限界となる。個人が、どのような考えに支えられてどう行動するかが、今ほど重要なときはない。
次に全文を紹介するのは、バークレーのアンダグランド・パーパー『バークレー・バーブ』(一九六七年九月二二日付)にのせられた、デヴィッド・マクレイノルズによる、アメリカの米兵にあてたオープン・レターだ。
「あなたがた兵士たちの心をつかまえるのはむずかしい。徴兵局のドアを入っていってしまうと、もうあなたがたにじっくりと話しをするのさえ、ほとんど不可能になってしまう。さて、とにかくあなたがたは、アメリカ軍隊内部の人たちだ。国内のどこかの基地で基本訓練をうけている最中かもしれない。あるいはドイツあたりに駐屯しているのかもしれない。ひょっとしたら、ヴェトナムへ出動する命令を受けとったところかもしれない。すでにヴェトナムにいる身かもしれない。
どこにいても、私のこの手紙があなたがたの目に触れるといいのだが。アメリカのアンダグランド新聞のすべて、それにカナダとイギリス、そして日本の友人たちにも、この手紙のコピーを送った。もしこの手紙の内容に反対ならば、反戦者連盟(5ビークマン・ストリート、NYC10038)気付で私あてに手紙をもらえないだろうか。私がどこでまちがっているのか、どのような点で私の意見に反対なのか、知らせてほしい。アメリカ政府によって私たちの連盟が解散させられないかぎり、私は、あなたがたからの手紙に返事を書く。もし私のこの手紙に賛成ならば、ほかの人たちにも読ませてあげてくれ。もしあなたがまだアメリカ国内にいるのなら、この手紙をヴェトナムに出動したあなたの友人に送ってあげてくれないか。
あなたがたのような“憂国者”たちは、反戦運動はあなたがたにたてつく運動だと言っている。私たちがあなたがたを支持していない、とあなたがたは思っているにちがいない。私たちみんながヴェトナムに送られたり銃弾を浴びせられたりあるいはすくなくとも、あなたがたが戦場にいて私たちは国内で安全に反戦運動をやっているということに対して私たちが恥を覚えるようにならなければいけないと、あなたがたは考えるだろう。アメリカ国旗を焼いたり徴兵カードに火をつけたりする話しを聞いているだろうし、そのようなことをする人たちを、あなたがたは共産主義の手さきだと考えるのだろう。しかし、そのような考えは、まったくまちがっている。
冷静に考えてみよう。
徴兵カードを焼けば、焼けるのは一枚の紙きれにしかすぎない。国旗を燃しても、燃えるのはただの布だ。しかし、ナパームを落せば、人間が焼けてしまう。徴兵カードは、焼かれるときにひどい苦痛を覚えるだろうか。国旗は、燃えながら苦しむとあなたは思うか。しかし、人間の子供は、焼かれれば明らかに苦痛を覚える。徴兵カードを焼くのと村をひとつなくしてしまうのと、どちらがよりいけないことだろうか。
あなたがたの“政治教育”を担当している将校たちは、反戦運動などはほんのひと握りの、しかも髪を長くのばした人たちがやっているにすぎない、と言っただろう。(髪がなんの関係を反戦と持ちうるだろうか。イエスの髪は長かったし、ジョージ・ワシントンは、飾り粉をふりかけた、長いかずらをつけていた。)アメリカ国民のほとんどがこの戦争を支持している、と教えられただろう。とんでもないことだ。今年の四月一五日には、三〇万以上の人たちが、戦争に反対してニューヨークでデモ行進をおこなった。サンフランシスコでは、八万人があつまった。合計すると四〇万人ちかくなる。私たちは暴力などいっさいふるわず、平和に行進した。この二週間あとで、四月二九日、戦争支持のデモンストレーションを“憂国者”たちがおこなった。カーディナル・スペルマン、ザ・ジョン・バーチ・ソサエティ、『ニューヨーク・デイリー・ニューズ』紙などが、全面的に支持した。“正真正銘の憂国者”たちが二五万人は集るだろうと、主催者たちは言っていた。だが、実際にやってきた人の数は、一万人たらずだった。三週間あとに、再びこころみられた。五月二〇日、ニューヨークで、“アメリカ兵士たち”を支持するデモがおこなわれた。やってきたのは、七万五〇〇〇以下の人たちだった。七万五〇〇〇人といえばたいへんな数だが、四〇万人とは比較にならない。
反戦デモには、共産主義者たちがまじっていた、とあなたがたを教育する将校は言うだろう。たしかに、共産主義者は、いた。しかし、共産主義者たち以上に多かったのは、カトリックの牧師や尼さんたちだった。
戦争を支持するデモに、あなたがたを支持するために、どのような種類の人が参加したかを、知っているだろうか。アメリカ在郷軍人団の、腹の突き出た酔いどれなのだ。自由を盲信するあまり、彼らは、自分と意見のちがう人たちをすべて、殴ったのだ。五月二〇日の“憂国者のデモ”で、黒人女性が〈ヴェトナムの人たちは私をクロンボとは呼ばない〉と書いたプラカードを持って歩いていた。アメリカ在郷軍人団の制服を着た男が、彼女を殴り、ほかに二〇名以上の男たち――男、という呼び名すらもったいない――が、ひとりの黒人女性を殴り倒すことに参加したのだ。警察はなにもしなかった。あなたがたを助けると同時に平和をもうちたてようとはかる若者たちも、このデモで行進した。アメリカの国旗をかかげていた。どういうことがおこったと思うか。新聞の記事を引用しよう。〈大人たちが、自分の娘くらいの年齢の女性を、さかんに殴り、蹴りとばした。アメリカの国旗を彼女たちの手からもぎとり、小さくひきちぎった〉
このようなかたちでの支持を、あなたがたは受けたいのか。女や子供を殴りつけてなされる支持を。
六月二三日にジョンソン大統領がロサンゼルスにやってきたとき、彼を出むかえたのは、民主党政治家がほんのすこしと、民主党に大きく肩入れしている人たちだけだった。しかし、ジョンソンの戦争に反対をとなえるためにつめかけていた人は一万人以上もいた。警官は彼らの頭をかち割り、女・子供を殴り、戦争に反対して平和のうちに行進しようとしたかどで人々を病院に送りこんだのだ。八月六日、やはりロサンゼルスで、二万人の人たちが、戦争に反対する行進をおこなっている。
私たちは、この戦争を支持しない。アメリカ本土の人たちは、大部分が、この戦争を望んでいない。ろくでもない戦争なのだ。私たちは、大統領をも支持しない。ジョンソンはひどい嘘つきだと思う。しかし、あなたがたは、私たちは、支持する。あなたがたはどちらをとるのか――ニクソンやジョンソンがあたえてくれる支持か、それとも、私たちの支持か。ニクソンやジョンソンは、あなたがたが戦場に出て人を殺すことを望んでいる。そして、あなたがたが死ぬことすら、望んでいる。絶対に自らが出かけておこなうことはないのだが、自分たちにかわってやっていてくれているあなたがたを“支持”するのだ。私たちは、あなたがたが人を殺さないことを望み、また、死なないことを望む。生きて無事に国へ帰ってきてほしい。木の箱に詰められて帰ってくることのないように。どちらの支持を、あなたがたは、とるのか。
冷静に考えてほしい。あなた自身の命だ。命は、ひとつしかない。私たちは、あなたがたにたてついているわけではない。ヴェトナムで戦死した兵士の実家に電話がかかり、いい気味だ、死んでよかった、などと言われたという話しを新聞で読んだ。ヴェトナムで戦死した青年の両親にそのようなことを言えるほどに病んだ人がいるとは、信じられない。そんな電話がほんとにあったのだろうか。あなたがたをして私たちに対立させるためにしくまれた嘘の話しではないのだろうか。あなたがたの誰が戦死しても、私たちは悲しい。アメリカの戦闘機が落されるたびによろこんだりはしない。私たちの敵は、あなたがたではない。“ヴェトコン”もまた、敵ではない。ジョンソンですら、ほんとの意味では、敵ではない。人を殺したり苦痛をあたえたりすることが、敵なのだ。言葉をかえよう――あなたがたの射つ弾が、すべて的をはずれるといい。ヴェトコンが発射する迫撃砲は、すべて不発に終るとよい。
あなたがたのなかには、ヴェトナムの人民がアメリカ兵の存在を希望しているのだ、と言う人がいるかもしれない。冗談ではない。自動ライフルを持っている兵士にむかって、正直に、あなたを嫌悪する、と言える人がどこにいるというのか。私はサイゴンまでいって見てきた。アメリカ軍の建物は、ひとつのこらず、鉄条網でかこわれ、サンドバッグがつまれ、歩哨が立てられていた。なぜか。あなたがたが、そこで望まれていないからだ。あなたがたは、ヴェトナムを“解放”しているのではない。ただ占領しているだけだ。あなたがたが、あるひとつの村を“解放”したとき、村人は、微笑と花であなたがたをむかえるだろうか。少女たちが接吻をしてくれるか。カネを払わずに当地の女性と寝ることが、一度でもできたか。カネぬきで、当地の女性から、好きよ、と言われたことがあるだろうか。バーで酒を飲み、正当な金額を払ったことがあるのか。
話題をかえよう。ジョージ・ハミルトンが徴兵されないのになぜあなたがたが戦争に出なければいけないのか、考えてみたことがあるか。なぜ、パトリック・ヌージェントが、ヴェトナムではなく予備兵役で安全にしていられるかについて、考えてみたことはないのか。上院議員の息子(あるいは、孫でもいい)や、有力な実業家の息子が、あなたとおなじ部隊にいるだろうか。金持ちの息子や政治家の息子で、実戦にかり出された例を聞いたことがあるか。この戦争がそんなに重要ならば、なぜ金持ちの息子たちも、参画しないのか。そして、戦死しないのか。
あなたがたの上官がこの手紙を読んだならこの手紙は破壊的な行為のひとつだと言うだろう。しかし“破壊的な”とは、いったいどういうことなのだろうか。陸軍准将ロバート・ヒューズは、破壊的だろうか。五月三〇日に、彼はつぎのように言った。〈専制的な政府が支持している非人道的な戦争を我々は遂行している。専制政府は道徳的にだめになったリーダーにひきいられていて、このような悲劇的な戦争からはいますぐにでも我々は手をひくべきだ〉 かつての海兵隊司令官でいまは陸軍大将のデヴィッド・シャウプはどうなのか。二月二一日に、彼は次のような発言をおこなっている。〈我々のいまわしい、血にまみれてドルによごれた手を、抑圧され搾取されつづけた人民からひきあげれば、この人民たちは、自分たちの力で解決の方法をみつけるだろう。東南アジア全域の現在および未来における安全と独立に関して、アメリカ人が生命を賭けたり傷ついたりしなければならないということは絶対にない〉シャウプ大将は、名誉勲章を持っている。ヒューズ准将はシルヴァ・スターと、オーク・リーフ・クラスタのブロンズ・スターだ。それに、名誉負傷章だ。ジョンソン大統領がヴェトナムの戦場でどんな勲章を手に入れたというのか。
ヴェトコンがいかに残忍であるか、また、私たちがヴェトコン全員を英雄にし、アメリカ兵をみんな一種の犯罪者みたいに扱っているではないかということに関して、二、三人の人たちから私は電話をもらったことがある。話しをはっきりさせよう。ヴェトコンすべてが英雄だとも聖人だとも、私は考えていない。人の喉仏を切り裂き、民間人を殺すことは私も知っている。このようなことは、よくないことなのだ。しかし、最も多く殺しているのは、ヴェトコンだろうか、それとも、アメリカ軍だろうか。この一〇年間に、ヴェトコンは一万人ほどの民間人を殺した。その一万名のうちの大部分は、現地の腐敗した官吏たちだ。このような殺人を、私は否定する。おなじ一〇年間に、私たちアメリカは、ヴェトナムで五〇万人以上の人間を殺してきた。どちらをより強く否定すべきだろう。ヴェトコンか、それとも、アメリカか。ヴェトコンは、あるひとつの村にしのびこみ、腐敗した指導者の喉を切り裂く。いけないことだ。たとえ指導者としてだめになってはいても、人間は人間で、殺されるべきではないのだから。しかし、村の上から爆撃機で爆弾をばらまき、村の人たちすべてを殺してしまうのは、さらにいけないことだ。そうは思わないか。
さらに、もうひとつ、微妙なことなのだが、考えなければいけないことがある。軍隊はあなたがたを男にするという。冗談ではない。軍隊は、あなたがたを、ロボットにするだけなのだ。殺人する機械。男とは、なにか。自分の気に入らないプラカードを持っていたからという理由で黒人女性を殴りつける、在郷軍人の酔っ払いが、男なのか。人間の腹に銃剣を突き立てる行為に、ほんとに男らしい部分があるのだろうか。殺人に“男らしい”部分など、絶対にない。人間がやるべきことは、子供をつくることで、殺すことではない。ほんとに男ならば、平和行進に参加している女性を殴ったりする必要はない。男なら、やさしくできるはずだ。やさしくすることができないうちは、まだ男ではない。ペニスや銃ゆえに男になれるのではない。ペニスを銃と混同するようになると、もはや重症だ。銃を射てば人が死に、ペニスからは、子供の命が発射される。子供をつくれない男が、自分の女性に対してやさしくできない男が、銃を射ちたがるのだ。男としてのほんとの仕事から逃げている人たちが、戦争をするのだ。
当面の話しにもどろう。人を殺すのは、いけないことだ。殺されるほうにまわってみれば、わかるだろう。反戦運動はあなたがたにたてつく運動だ、と上官たちは言うにちがいない。そうではない。私たちはあなたがたを支持し、戦争に反対しているのだ。あなたがたをヴェトナムから無事に帰国させ、仕事、学校、玉突き場、あるいは恋人のところへ、再び帰れるように、私たちはしてあげようとはかっているのだ。私たちは、あなたがたに反対しているのではない。いま、あなたがたは、軍隊にいる。これからのあなたがたに、いかなる道がのこされているのか。
事実を、冷静にみつめなくてはいけない。銃を射つまえに、この戦争についての正しい認識を持たなくてはいけない。この戦争についての正しい事実をのべているパンフレットを手に入れる権利が、あなたがたにはある。私たちに請求してくれれば、すぐに送る。私たちのパンフレットだけではなく、国防省に手紙を書き、政府がわのパンフレットも、手に入れてみるといい。両方をみくらべたうえで、どちらが正しいか、自分で決めてほしい。もし、国防省やジョンソンのほうが正しいと思うなら、戦争をするがよい。
国防省やジョンソンが嘘をついていて、私たちのほうが正しいと考えるなら、戦争をやめなければいけない。人間であることの義務のひとつは、自分がこれは正しいと信じることを実行することだ。上官に言われたことをただそのとおりにやるだけではだめだ。真の愛国者とは、国家が正しいと考えていることをそのまま実行する人ではなく、国のためにはなにが正しいかを自分で考えて行動する人だ。戦争がまちがっていると考えるならば、支持してはいけない。できることなら、軍隊からぬけ出すことだ。それには、三つの方法がある。
脱走することができる。アメリカ国内で脱走すれば、あなたが生きているかぎりいつでも、軍はあなたをつかまえ、刑務所に入れることができる。スウェーデンやフランスで脱走すれば、刑務所には入れられないかわりにその国にとどまらなくてはいけない。アメリカに帰ってくれば、必ず逮捕される。ドイツ、フランス、イギリス、あるいはスウェーデンのどこかに恋人がいて、一生をヨーロッパですごしてもいいというなら、そこでの脱走もひとつの方法だろう。『ニューヨーク・タイムズ』によると、ヨーロッパでは、日に六〇名ほどのアメリカ兵が、脱走しているという。
良心的戦争反対者として除隊させてもらうこともできる。私たちに手紙をくれれば、あなたが法の下で除隊できるかどうか、調べてあげよう。しかし、あまり多くを期待してはいけない。数百名にのぼる兵士たちが、良心的戦争拒否者として除隊を願い出ているが、まだ除隊できずにいる。除隊申請者のほとんど全員に対して、軍は、ノー! と言っている。しかし、申請する権利はある。軍隊にできることは、ノー! と言うことだけなのだ。
三番目の方法は、これからさき、いっさいの命令にしたがわず、軍法会議をうけ、刑務所に入り、不名誉除隊することだ。これは、つらい。現実に、そうなのだ。しかし、“不名誉除隊”した男たちのすべてが、アメリカの歴史が書きかえられたとき、新たに英雄になるのだ。この戦争で人を殺すことを拒否した英雄だ。ヒトラーの軍隊に入って戦争するのを拒否した男たちは、いま、英雄だ。ヴェトナム戦争でも、おなじことがおこる。一九五六年、ハンガリーの兵士を殺すことを拒否した共産主義兵士を、私たちはたたえる。
しかし、これからのあなたは、まだ楽ではない。軍隊の刑務所で、六か月から五年の刑に服さなければいけない。しかし、戦場に出るほどの勇気があるならば、刑務所だっておそれることはないだろう。海外にいるアメリカ兵で、この戦争について新たに考えてみたい人がいるなら、反戦者国際連盟、88パーク・アヴェニュー、エンフィールド、ミドルセクス、イングランドに手紙をくれ。あなたの基地にいちばんちかい平和運動の事務所を教えてくれるだろう。
反戦運動をおこなっている人たちの多くが、軍務不服従を実行するのとおなじくらいの危険をおかしているのだという事実を、あなたに知ってほしい。この一〇月一六日に、徴兵局にカードをかえしにいくことになっている若者たちのことを私は考えている。学生だから兵役につく時期をさきのばしにしてもらえたり、カナダに逃げたりすることが簡単にできるのだが、そうはせずに、逮捕されることはあきらかなのだが徴兵カードをかえそうとしている。なん百という若者たちがそれをやろうとしている。あからさまに闘争するのだ。たいへんに勇気がいる。一〇月一六日、この若者たちは、男になる。ヴェトナムの農民をすくうために、また、あなたがたが人を殺したり殺されたりするのをふせぐために、彼らは、この危険をおかすのだ。やらなくてもいいことなのだが、男としての勇気を持ちあわせているがゆえに、ジョンソンに対して、ノー! と、言えるのだ。
刑務所に入ることを覚悟している若者たちは、戦争をあなたがたに押しつけようとしているのではない。戦争を支持している人たちは、自分はすでに年をとりすぎているものだから、実戦はすべてあなたにやらせようとしている。私たち平和運動者は、ヴェトコンに味方しているのではない。私たちは、人間の味方なのだ。その人間には、あなたがたも、含まれている。線をこえて、私たちのほうにきて、人間の味方になってはどうか。あなたは刑務所にいくことになるだろうけれど、あなたはそこでひとりではない。
最後に、あなたがたの決断がどちらになろうと、私はセンチメンタルなことを書いておかなくてはいけない。笑いたければ、笑ってくれていい。私たちは、あなたがたのためにいのっているのだ。あなたがたが誰をも殺さず、また、殺されないことをいのる。戦場にでたら、どうか銃の的をはずしてくれ。私たちは、とことんまであなたがたを支持しているという事実を忘れずにいてほしい。私たちはあなたがたを軍隊から解きはなし、この戦争犯罪から関係を断たせようとしているのだ。男としてなにかをなしとげたければ、すこしずつおだやかに、軍隊をひっくりかえしていこう。文書を配布してくれ。上官の言うことを、あまり真剣になって聞いてはいけない。良いことのために刑務所に入るのは、悪いことのために戦場にでるより、ずっとましなのだ。
次の詩を、あなたの鉄カブトに、貼りつけておいてほしい。アメリカの偉大な詩人、ケネス・パッチェンの詩だ。
ここに人間が
あわれな生き物
殺してはいけない
ここに人間が
つらかったのだ
この地球で
だから殺してはいけない」
『バークレー・バーブ』紙は、デヴィッド・マクレイノルズのこのオープン・レターを、無断でかまわないから転載したければしてみてくれ、とアメリカの一般商業新聞や雑誌に、けしかけていた。アンダグランド・ペーパーをのぞいて、このオープン・レターを転載した新聞雑誌は、現在のところ、ひとつもない。あわれな生き物
殺してはいけない
ここに人間が
つらかったのだ
この地球で
だから殺してはいけない」
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一九六〇年のアメリカ大統領選挙でケネディはニクソンを破ったが、一般投票での得票差は一一万二〇〇〇にしかすぎなかった。アメリカの大統領は本質的には民主党でも共和党でもおなじことであり、ケネディであろうがニクソンであろうが、たいしたちがいはなかったことを、この得票差は教えてくれている。
ではなぜケネディはニクソンをおさえて大統領になれたのか。ケネディもニクソンも、それぞれ有利な点と不利な点を持ち、票がどちらにかたむくかは最初からまったくわからず、開票がはじまってからも大統領はニクソンであろうと考えられていた。
ふたりのあいだにちがいがあったとするなら、そのちがいは、ジェスチャの相違であった。ジェスチャは、戦術、と言いかえてもいい。戦術のちがいだけがこのふたりのあいだにはあり、そのちがいはどのようなちがいかというと、ケネディのほうが時代の新しさをかなり風俗的な面でとらえていた、ということだけなのだ。
候補者指名予備選挙で、ケネディは、ヒューバート・ハンフリーと競争した。一六州のうちケネディは七つをえらび、ハンフリーは五州とった。ふたりが正面から対立したのは、ハンフリーの地盤ミネソタのとなりにあるウイスコンシンでだった。ケネディは、票の五六パーセントを勝ちとった。しかし、プロテスタントの農民票が落ちていたので、西ヴァージニアでもういちどハンフリーとたたかわなくてはいけないことになった。西ヴァージニアは、アパラチアの貧困地帯のなかのひとつで、宗教的にはプロテスタントだ。アメリカ人はみな移民なのだが、ケネディにあたえられていた移民のイメージと根本的には同質のものが、アパラチアの人たちにも押しつけられていた。カトリックは五パーセントしかいないこの州で負けることは、自身がカトリックであるケネディにとっては政治生命の終りにちかいものを意味した。もし勝てば指名は決定的であり、ハンフリーはウイスコンシンですら負けたのだから、とうてい競争相手ではなくなってしまう。キャンペーンに、ケネディはジェット機を、ハンフリーはバスをつかった。そして、ケネディが勝った。ケネディは民主党の大統領候補に指名され、北と南の利害バランスをはかるため、テキサスのリンドン・ジョンソンを副大統領にえらんだ。
大統領選挙でのケネディの相手、ニクソンは、ケネディよりわずか三歳しか年上ではないのだが、実際には、そして特にテレビのスクリーンでは、はるかに老けてみえた。そしてこの事実は、ケネディのために有利に利用された。
四回にわたっておこなわれたテレビでのニクソンとケネディとの共同討論は、そしてそこで討論されたことは、大統領選挙とは本質的にはなんの関係もないただの戦術だった。一八五八年に、リンカンとスティーヴン・ダグラスとのあいだにおこなわれた共同討論の焼きなおしなのだ。このときとおなじく、討論された内容よりも、ニクソンとケネディとのイメージの差のほうが重要だった。
ケネディは、カトリックであった。宗教は自分の政治活動になんら影響をあたえない、という宣誓をおこなってケネディは人々を安心させ、投票にあとひと月もないというときになってマーティン・ルーサー・キング夫人に電話をかけ、夫が獄中の身である事実をなぐさめてみせた。戦術的にみて有利な州にだけ、ケネディはキャンペーンを集中した。ニクソンは、五〇州すべてにわたってキャンペーンをしくという約束を守りそのとおりにした。
ニクソンがとなえる中道的な保守主義は、そのときのアメリカの大勢だった。キングストン・トリオが着ていた赤と白のキャンデー・ストライプのボタン・ダウン・スポーツシャツのように、ニクソンがとなえることはアメリカ的であった。しかし、アメリカは、結局、わずかな得票差で、より若くみえるほうを大統領にえらんだ。ジャクリーヌがニコチン中毒にちかいチェーン・スモーカーで、ケネディが強度の近眼であった事実を知って投票した人たちは、得票差よりもさらにすくなかったにちがいない。
ケネディをおもてむきひきついだのはわずかひと月で、そのあとは「貧困との戦い」を「偉大なる社会」にかえてアメリカの利益の代弁者になったジョンソンは、一九六四年の大統領選挙でバリー・ゴールドウォーターを破った。
アメリカでは常に右翼の力は強いのだ。右翼のとなえる思想が、かつてはアメリカをつくりあげるための実際的な支柱となった真実であり理想だからだ。なにものをもってしても動かすことのできない保守的な中産階級でも、アメリカの理想とか反共とかを梃子にすれば、たやすく動く。
しかし、ゴールドウォーターの単純さにくらべると、ジョンソンのほうがまだ現代にふさわしく複雑だった。「自由のための過激主義は、たたえられるべきである」がゴールドウォーターの思想であり、彼によればアメリカがかかえている問題はすべて単純なものであり、したがって単純な策によってたやすく解決できるのだ、ということだった。
時代が、若くてしかも複雑であることは、あきらかだった。そのような時代のシンボルとして、強引にひとりの人間をえらび出すなら、その人間は、うたがいなくボブ・ディランなのだ。
ディランは、自分の時代について、
「いろんなことが同時におこる」
とだけ言った。
歴史的な便宜のために一〇年間ひと区切りにされた一九六〇年代について、これほどに正確になされたステートメントは、ほかにない。一九六〇年代は深い分裂と疎外の時代であったとよく言われるが、これは精神的には意志薄弱で肉体的には虚弱体質な観察的概括以上のものではありえない。
いろんなことが同時にたくさんおこった。ただそれだけのことであり、たとえばふたりのケネディが暗殺された事実が持つ暗いショックが時代の象徴にされるという、そのようなかたちでの統一は、一九六〇年代にはありえない。
統一がなければそれではばらばらに分裂していたかというとそのようなことはなく、目覚めない人たちは目覚めない人たちどうしで無形の団結を誇り、目覚めた人たちは、あらためて無限の独立性を持った個人にたちかえった。
「いろんなことが同時におこる」というステートメントは、その同時におこるさまざまなことのどれひとつにも、他に対する優位性がないことを語っている。ジョンソンのカウボーイ・ブーツがアメリカの好戦的保守主義のシンボルではありえないとおなじく、ボブ・ディランもまたアメリカの若い世代のメサイアではなく、『風に吹かれて』であやうくメサイアになりかけたディランは、自分がメサイアになることの不当性と不可能性に気づくと同時に電気ギターをとりあげた。私ひとりにすべてを託さず、自分は自分でひとりで勝手に独立した個人になれ、という別れの歌が『すべては終りだ、ベイビー・ブルー』だった。
象徴とかシンボルとかは、すべて自然に反し、まちがっている。
たとえば個人主義はアメリカのシンボルのひとつなのだが、この個人がまとめられてアメリカ社会としてひとつになると、個人は個人ではなくなり、マジョリティというひとつのあたらしい怪物となる。自分が怪物の一部分ではないのか、という新鮮な疑問を持つことは、個人は生まれながらにして平等であるというアメリカ原理にそむくことなので、マジョリティのなかの個人は、疑問を持つことを知らない愚鈍な消費者として、それにふさわしい穴のなかにはめこまれることになる。この穴のなかから、一九五〇年代のなかばに、ある種の人たちを這いあがらせてとりあえず解放したのが、すぐれてハッピーで同時にペシミスティックなあのロックンロールだった。その人たちのあいだに共通している特性をしいてさがすなら、それは、若い、という事実だった。解放された人たちは、自分が怪物の尻に生えている毛の一本であったことに気づき、一本の毛であることをやめてこんどはほんとの個人として、マイノリティとなるのだった。このマイノリティはアメリカニズムを否定し、人間とはいったいなになのかを、原点にできるだけちかいところで考えなおしていこうとする。ウッドストックでの雷雨のなかで、ぬかるみに腰をおろしひたすら雨にうたれてじっとしていた人間は、原点にできるだけちかい部分での人間を体験的に悟ったにちがいない。しかし、この原点はかならずしも実地に体験される必要はなく、それはLSDやマリワナを用いなくても心の爆発を自分のものにすることができるのとおなじことだ。
「病めるアメリカ」という間抜けな成句がある。いまのアメリカ(資本主義国、と言いかえてもよい)が病んでいるとするならば、病まないまえのアメリカあるいは病気がなおったあとのアメリカを前提としているはずなのだが、その前提はいったいどこにあるのだろうか。
アメリカはけっして病んでなどいなく、むしろはじめから現在にいたるまで終始一貫している点ではほめたたえられるべきであり現在ではその一貫性が極端に徹底してきたため、それだけをみると病んでいるようにみえるだけなのだ。
南部に黒人がいたことは、アメリカにとっては、巨大な幸せであった。南部(ブルース地帯)は、楽観的で単純で技術的なアメリカのなかでの、唯一のペシミズム地帯であった。この場合のペシミズムは、「つらい浮世のこの裏町で」というようないきどまりのすてばちさではなく、現状および現状の将来的延長の肯定に対するとらえどころなくてしかも断固たる疑問のかたちでのペシミズムであり、ギターの六本の弦からつくれる音にこのペシミズムを託しえた黒い人たちに対して、喝采を叫ばなければならない。ブルースは、ホワイト・アメリカのバカげた単純さに正面から対立する複雑さのはじまりであった。
ルイジアナ刑務所から一九四〇年に出所してきたレッドベリは『グッドナイト、アイリーン』をレコードにした。一〇年後に、ザ・ウィーバーズが、おなじ歌でヒット・レコードをつくった。さらに一〇年ちかくあと、一九五八年、ザ・キングストン・トリオと名のる三人のアメリカの白人の若者が、南北戦争時代の歌をむしかえし『トム・ドゥーリー』としてヒットさせた。LPから一曲ぬいてシングルにしたもののヒットだった。
あくる年、五九年、ニューポートのフォーク・フェスティヴァルでジョーン・バイエズがデビューし、モルモン・タバーナクル・クワイアの『リパブリック讃歌』がレコードになり、売れていた。
六〇年にはジョン・F・ケネディが大統領になり、六一年にはボブ・ディランが、ニュージャージーのグレイストーン病院で死にかけていたウディ・ガスリーに会い、ニューヨークのグリニジ・ヴィレジでは、フォーク・シンガーたちによるワシントン広場使用禁止の通達が出され、フォーク・シンガーたちは抗議に立ちあがり、通達を撤回させることに成功した。
六二年はピーター・ポール・アンド・メアリーのはじめてのLPが出た年だし、ABCテレビに『フーテナニー』という新番組ができた年でもある。
六三年にボブ・ディランはニューポート・フォーク・フェスティヴァルでスターになり、ワシントン大行進にはジョーン・バイエズといっしょにディランも参加し『ウィー・シャル・オーヴァカム』とか『風に吹かれて』が、テーマ・ソングになった。そして、一一月二二日、ケネディ大統領が暗殺された。
ケネディのニューフロンティアとフォークソングのブームがぴったりかさなっているのは、歴史のなかの偶然でもなく、この場かぎりのこじつけでもない。ふたつは、もともとおなじ性格を持っていたからこそ、かさなりえたのだ。
ロックンロールで育った若者が大学生となり、現在の社会の複雑さや不安定さに目覚めてそれに嫌気をおぼえ、田園の単純で素朴な安定した価値を求めはじめた。そしてフォークソングはその要求にこたえ、同時に、その歌は、現在おこりつつあることの正確な描写であった。
と、フォークソングのブームは、説明されてきた。大いにちがっている。
フォークソングは、消極的には、ロックンロールに対する解毒剤であった。ザ・キングストン・トリオのいでたちは、髪型から白いスニーカーにいたるまで、ロックンローラーのように批難される点はすこしも持っていなかった。昔ながらのアメリカが持っている価値観の具体像のようだった。
もうすこし積極的にみた場合のフォークソング・ブームは、アメリカ古来の伝統の再確認だった。フォークソングまでひっぱり出してきて、アメリカはいい国だ、とひとりで勝手に確認しなければならないところまで、アメリカは低下していたのだ。一九四九年に中国の革命が成功し、アメリカが中国という無限にちかい広大なマーケットを失ったとき、これの反動として、アメリカ国内では、共産主義者狩りがおこなわれた。中国を失ったショックは、ただちに国内での狂気にちかい威信がためを必要とした。
アナロジーではなく、ほんとに同性質のことが、ブームとしてのフォークソングのなかに、はっきりとみつけだすことができる。
「アメリカは目覚めて奮起しなくてはいけない」と、ケネディは説いて大統領になった。この言葉は、アメリカが世界のなかでいかに困った状態にあるかを、正直に告白していたのだ。ケネディは、アメリカのそのような状態を利用して、大統領になった。
これからさきアメリカの国際収支はずっと赤字をつづけることがはっきりしはじめたのは、一九五八年ころだった。予算は、軍事費が七、内政費が三の比率で、ヴェトナム戦争での出費がさらに大きく食いこみ、ケネディが提案した減税とか低金利は、たちまちのうちに、高い金利と一〇パーセントの増税となってしまった。
対外投資の利益は高く、第二次大戦後に過剰になったドルをばらまき、低開発国への投資とその投資圏につくる軍事基地によるなおいっそうの深入りとドルによる支配の完成をアメリカは目ざした。イランによる石油の国有化とイギリスのあいだに立ってイラン石油の支配権を握ったことなどは、ドル支配樹立の成功にかぞえられる。しかし中南米では失敗し、キューバでは革命が成功し、アフリカの新興諸国は独立をなしとげ、ヨーロッパではEECが力を得はじめ、ラオス、南ヴェトナムの重圧は、直接的にアメリカ中産階級や黒人の生活に悪い影響をあたえるまでになった。国内には、右翼の勢力がひろがっていった。対外的には軍事力を背後に持った孤立主義、国内的には、政府の干渉を許さない州権主義があり、ともに実現不可能なひどく矛盾したものなのだが、この反動勢力をひとつの影響力にしてしまうほどに、アメリカはおくれていた。
ドルの力が、なくなりはじめた。国内では物価があがり、公定価格(一九三四年)をきめたときにくらべると四倍の値あがりなので、ドルの購買力は四分の一でしかない。この公定価格はドルのねうちをさげないため、一九三四年以来、保持されつづけた。海外では、国際収支の赤字を改善しようという方向にアメリカが出るととたんに、ドルの価格が低下し、ドルは有効な支払手段にはならなくなった。
いまのアメリカ資本主義が海外での投資から利益をあげるには、ふたつの進み方がある。ひとつはヨーロッパへの投資で、ウォール街の金融資本に代表される、国際的には経済的な理由から安定的な平和を求めるグループだ。もうひとつは、低開発諸国に投資する石油利権グループで、経済のためには力ずくで押し進もうという考え方をする人たちだ。このふたつのグループは、海外での利益のみを目標に行動しているという点で共通し、世界征服からとてもいまとなっては手をひくことのできないアメリカをつくりだしている。
この人たちがたとえばヴェトナム戦争に反対する場合は、ドル価格の低下をまねくほどの深入りに対して反対する場合にかぎられ、ドルさえたしかならば戦争は利益をあげる商売でしかなく、その商売がいまアメリカでは増税、物価の値上がり、インフレ、赤字財政、失業を生んでいる。アメリカの軍部は独占資本のいいなりだから、朝鮮動乱のきっかけやトンキン湾事件のような、戦争のでっちあげですら、自由にできるのだ。
ケネディは、アメリカの若い革命を前進させるニューフロンティアの、伝説的な美しい悲劇の英雄とされている。これもまちがいだ。ニューフロンティアという架空の国(現実には、アメリカがドルで支配することを考えている海外の諸国)では平和部隊のような費用のかからないことしかできず、国内には軍事費の半分以下の予算しかふりむけることができなかった。ニューフロンティアは、たとえば『リパブリック讃歌』のなかのアメリカでしかなかった。現実には、どこにも存在しないのだ。
ケネディ自身は、たしかにリベラルなのだが、この場合のリベラルは前進的な意味を持たず、トルーマン以来、アメリカのなかで戦争経済を前進させていく大統領のひとりにしかすぎなかった。
自由放任の企業競争と、経済に干渉しない政府のなかで生まれたアメリカのリベラルは、不況で決定的に打撃をうけ、ニューディールで修正され、第二次世界大戦では政府の大きな力によりかかった軍事経済となり、これに反対するほんとのリベラルは共産主義者にされてしまい、リベラルとはもはや名前だけで、ケネディは現実的にはアメリカを支配する保守的資本主義機構の、とりあえずの代弁者だった。次のジョンソンですら、テキサスがまだ農業国だった第二次大戦以前は、ニューディールを支持したリベラルだった。戦後、テキサスが石油工業地帯になると、すぐにそれと結びつき、ヴェトナム戦争をすすめながら骨抜きの公民権法に署名してみせるリベラルとなったのだ。ケネディはケネディ以上に保守的なアメリカによって殺された。キューバもヴェトナムも失業も、すべてケネディのせいなのだ、という判決がすなわち暗殺だった。
このようなアメリカに対立する新しい価値として、キューバの革命とその成功をあげないわけにはいかない。ケネディの失策として伝えられているベイ・オブ・ピッグス事件はカストロが言ったように、「ハリウッドでも買わない」ような幼稚なプロットで、アメリカ政府の手ですすめられた。反カストロ革命軍としてアメリカによってしたてあげられた爆撃機がカストロ体制に攻撃をしかければ、それをきっかけにキューバ内部の反カストロ勢力がカストロを倒すために立ちあがるはずだ、というプロットだった。
実際にやってみるとまったく逆の結果になった。アメリカは世界に対して信用を失い、キューバへのソ連による核兵器の持ちこみでフルシチョフに会ったケネディは、アメリカにかえると、庭に原爆用の防空ごうを掘れ、としかアメリカ国民に言えなかった。
アメリカがなぜキューバにこだわるかというと、すぐ近くに社会主義国ができてアメリカの民主主義をおびやかすからでも、キューバでのアメリカ利権を確保しておきたいからでもない。
キューバ革命の成功、およびその後にキューバでおこったことすべてが、アメリカの独占資本主義にとっては、都合のわるいことばかりだからだ。アメリカに利用されるだけに終始してきたラテン・アメリカの国々にとって、キューバはひとつの理想となっている。キューバの政治的、経済的な独立は民族解放の勝利だし、人種差別の徹底的な廃止は、アメリカの黒人に力づよい影響をあたえている。アメリカによるキューバの侵略は、中南米民族の現実を無視することであり、おなじことが中国の否認でもおこなわれている。自分の利益以外はすべてを無視することが、アメリカが海外で利益をあげるための唯一の道なのだ。
すこしでも冷静に理論的に頭をはたらかすことのできる若者なら、アメリカはもうおそらくだめだろう、という事実が、おそくともケネディの死までには、わかっていなければならない。
オートメーションとサイバネーションは人間を生産からきりはなしている。しかし、社会は、これまでどおりの鋳型を自分たちにあてはめようとする。自分たちが拒否している時代が、自分たちを追いかけてくる。ヴェトナム戦争での最大の被害者は若い自分たちだし、その次が、中産階級なのだ。農業を機械化して黒人を都市のゲットーに追いこみ、その黒人を白人の半値の労働力にしておきながら、オートメーションで次々に整理し、失業者にしていく。自分たちもまた白人失業者のなかでは最大のパーセンテージを示していて、失業者というよりも、労働力の世代交代がなかなかこないため、はじめから職のない、アメリカのなかでの異人種なのだ。豊かな社会のなかでアメリカの伝統の正統なにない手であったはずのホワイトカラー中産階級は、インフレ、物価の値上がり、増税、失業など、すべての被害をま正面からうけている。中産階級を支えていた価値観は、個人的な生活の不安をきっかけに、もろくも崩れつつある。
ここで、自分たちは、なにをすればいいのか。
ひとまず、全アメリカに対して、NO! と宣言する必要があった。そして、そこから、生産になんら関与しない新人種として大胆な冒険をはじめたのが、ヒッピーだった。
「わが同胞であるアメリカ人諸君。諸君の国が諸君のためになにをなしうるかを問い給うな――諸君が諸君のためになにをなしうるかを問い給え」
ケネディの就任演説中にあったこの有名な文句は、ほとんど意味を持っていない。勇気を持って、ひと言、「ノー!」と叫んだらそれで終りで、「諸君」はアメリカをどうすることもできないのだ。平和運動で「反戦フォークソング」をうたうことはできたが、ジェームズ・ボッグズが提案しているように「わが国のミサイル産業労働者にミサイル生産の停止を呼びかけ、わが国の水兵たちに艦船出動の停止を呼びかけ」なければならなかったのに、それはしなかった。
トピカルな歌が、プロテストも含めてなんらかの政治的な意味を持ってうたわれることは、「反戦フォークソング」にはじまったことではなく、古い記録では、一七三四年、政治的な意味を持ちすぎるからという理由で、ある種の歌がニューヨークで抑圧されている。一九三〇年代の労働者運動のときにも歌がつかわれた。
一九六〇年代のはじめのフォークソング・リヴァイヴァルは、労働者の闘争意識の高揚にあわせて自然発生した抗議運動である、とする説明は、楽観的にすぎるし、ピート・シーガーが言うように、ギターで弾きうたうフォークソングは、日曜大工とおなじ、「あなたにもできる」ことのひとつだった、との説明も、やはりあたっていない。おなじギターでもロックはできない人たちが、もっと簡単なフォークソングにむかった、とみるべきだろうし、古い歌やすでに意味の失われてしまっているアメリカ民謡を、キングストン・トリオのようないでたちでうたうことは、ポップ・アートであり、そのポップ・アートは、アメリカをもはやどうすることもできない人たちの、自分自身に対する嘲笑あるいは、アメリカ全体に対してしかけたサタイアであった。バリー・マクガイアの『全壊の夜』は「詩」としての評価はしないとして、あのときのアメリカが自らを置いていた状況のなかでは、故意に意図されたとしか思いようのないほどに、見当ちがいだった。ピーター・ポール・アンド・メアリーがテレビの『フーテナニー』でうたう『この国はあなたの国』は、バリー・サドラーの『悲しき戦場』やデイヴ・ダドレイの『ヴェトナム・ブルース』とおなじく、反戦どころか戦意を逆に高揚させるタカ派の音楽であった。
歌には、なにもできなかった。ニューフロンティアは、うたい終られると同時に消えていく、ひとつの歌だった。
ヴェトナム反戦の運動と結びついたフォークソングについては、ふれておかなければならない。
いわゆるヒューマニズム的な立場からなされるヴェトナム反戦運動は、ほとんど力を持ちえない。アメリカの理想がじつは戦争にかかっていて、その戦争すらがアメリカにとっては不利な投資になっている、という冷たい事実に目ざめさせる反戦でないかぎり、どうにもならないのだ。
だから、反戦を目的としたフォークソングは、まずなによりもさきに、アメリカのGIたちにむかってうたわれた。テレビの『フーテナニー』などには絶対にあらわれることのない場所で、フォークソングは、すさまじく巧みにうたわれたのだ。
GIたちに反戦をうたいかけることを無報酬の仕事にしている人たちがアメリカにはたくさんいて、このなかには、バーバラ・ガースン、フィル・オクス、ピート・シーガー、ジョー・マクドナルド、ドナルド・ダンカンたちも含まれている。
どのようにしてGIたちに反戦をうたいかけるかというと、まず基地のある町まで、でかけていく。適当なコーヒー・ハウスでもみつかればよいのだが、みつからなければ、地もとYMCAのなかにあるUSOでおこなうことだってあるのだ。『シング・アウト』に、以下に紹介する実例を、バーバラ・デインがつたえた。
兵士たちに娯楽をあたえるためにアメリカの伝統であるブルース歌手たちが当地にきているが場所をつかわせてはもらえないだろうか、とUSOの管理者に申しこむ。反戦歌をうたうとはいわないから、許可はおりる。
路上、街頭で、GIたちにチラシをくばる。USOにあつまってフォーク・シンガーの歌を聞こう、と呼びかけるチラシだ。外出許可のある兵士たちはアメリカ国内で退屈しきっていることが多く、七、八〇名はあつまる。
なんの予備知識もない彼らに反戦を呼びかけるのだから、歌は慎重にえらばれる。ただなんでもいいから漠然とうたえばいいのではないのだ。
まず、あたりさわりのないブルースではじまる。おかねがないことをうたったブルースである場合も多い。GIたちは常におかねがないからそのようなブルースに同化できるし、うたいおわってからの語りかけで、おかねのないつらさをジョークにしてGIたちを笑わせようという意図があるからだ。
次に、プリティ・ボーイ・フロイドについての歌がうたわれる。ギャング・エイジの主役のひとりであるフロイドは、伝説やノスタルジアとしてうたわれるのではなく、トムスン軽機関銃で金銭をうばう者もいれば、大企業のように合法的な手段で人々からおかねをまきあげるものもいる、という事実を語るためだ。
こんどは外国の話しを持ち出す。トピカルなもの、たとえばメキシコで学生運動が弾圧されていたころなら、その話しをして、自国の軍隊が自国民にさしむけられることへの疑問と憤りを、かるくかき立てて、そして、エクアドルの歌をメキシコにあわせて歌詞をつくりかえたものをうたう。「私が死ぬときは革命家のように葬むってくれ。手にはライフルを持たせ、赤い旗に体をつつんで」といった文句でしめくくった歌だ。GIのヒロイズムをくすぐる。
ここで、ドナルド・ダンカンが登場する。ヴェトナム戦争に疑問を持ち、グリーン・ベレーをやめた男だ。ヴェトナムでアメリカ兵がいかにいつわりの目的のために戦争させられているかを、彼は説得力をもって語る。
これが終ると、軍人として最も正しい態度についていささか感情的な美文でうったえた歌をはなち、GIの気分を盛り立てる。拍手がくる。すかさず、ヴェトナムで死んだメキシコ系のアメリカ兵についての歌にうつる。テキサスとかカリフォルニアにはメキシコ系アメリカ人のGIが多いので、メキシコがひんぱんに登場する。地理的にも親近感があり、GIたちの気分をつなぐために有利なのだ。
最後は、よく知られたアメリカの古い歌の歌詞だけをとりかえた替え歌でしめくくられる。この替え歌は、重要だ。聞きなれたメロディに、もと歌からは想像もつかないような歌詞をつけることにより、新しい価値の世界が自分たちの目の前にひらけた感じを、GIたちにあたえるからだ。反戦フォークソングに替え歌はよくあった。単なる諷刺やあるいは下品にしただけのものではなかった事実に注意すべきだ。しかもその替え歌は、うたわれる状況を適確に判断したうえで、非常に効果的にうたわれた。
ハンター・デイヴィスの『ザ・ビートルズ』は、読む気になれない。日本語ではもちろん、英語でも、ちょっといやだ。面白そうだ、ということは、わかる。英語のを数行ひろい読みするだけでも、それはわかる。週刊誌にもごくたまによく書けた記事があるとするなら、この本はそれにあたる。ディテールが、快適な明快さとテンポで次々に受身の自分に提供されていくという、陽だまりにすわりこんで目を閉じたときのような快感がある。
本は読む気になれないのだが、数葉の写真のなかに一枚だけ、なんどながめても微笑せずにはいられない写真がある。
一九六〇年、彼らのグループ名がまだザ・シルヴァー・ビートルズだったころの写真で、ラリー・パーンズのためにオーディションしたときのものだ。リンゴ・スターはまだいなくて、そのかわりにベース・ギターのステュ・サトクリフがいる。写真にうつっているドラマーは、オーディションの現場で代役をつとめたジョニー・ハッチだ。ザ・シルヴァー・ビートルズは、オーディションにドラマーなしでやってきた。
ベース・ギターなどほとんど弾けなかったステュ・サトクリフはなかばうしろをむいているし、ドラマーのジョニー・ハッチは、退屈しきって面白くなさそうな顔をしている。
しかし、ほかの三人、ジョージ、ポール、ジョンは、面白い。この写真の三人をみるたびに、笑ってしまう。その笑いは共感の笑いであると同時に、その三人がいまのビートルズのなかの三人である事実がわかっていることからくる、奴らもやはりスタートはこのようだったのかという、たとえば赤ん坊のときに丸裸でとった写真の生殖器をみるような笑いなのだ。
三人ともジーン・ヴィンセントに似ているところがおかしい。しかも、場所は、イギリスのリヴァプールという、信じられないようなところなのだ。三人とも、おなじ靴をはいている。一九五〇年代の終りに流行した、ツー・トーン・カラーと呼ばれた、あの二色の靴を奴らもまたはいているからおかしい。ズボンとシャツは、やはり三人そろっておなじものらしく、色は黒ずくめにちがいない。ジーン・ヴィンセントが、よくこんなだった。ヘア・スタイルが、一九五〇年代後半のロックンロールそのものだからまた笑ってしまう。
このヘア・スタイルには、いやというほど身に覚えがある。基本はエルヴィス・プレスリーだ。左右の髪を、ポマードでべったりとうしろにむかってなでつけ、後頭部でダック・テイル(アヒルの尻)とする。両側からなでつけた髪が、後頭部のまんなかで、クシの目もあざやかに、アヒルが羽をあわせたように、出あうのだ。
左の、しかもかなり下から分けた髪は、うしろ半分はダック・テイルをこわさぬよう頭の頂きから右うしろにかけてなでつけ、まえ半分は、額に垂らした前髪を必須部分としつつ頭骨へ押えつけず極端なくらいに盛りあげた感じで頭の右へもっていく。
ジョン、ポール、ジョージ、三人ともこのようなヘア・スタイルをしている。この写真でみるかぎり、才能はジョンにもっとも多くあったようだ。ギターと一体化してとったポーズが、プレスリーとヴィンセントをたして二で割ったうまい雰囲気をだしている。ポールはこのときからすでに甘く、ジョージは過去においてもあいかわらずまごついている。このオーディションのとき、ザ・シルヴァー・ビートルズがなにを演奏したかを知るためだけに『ザ・ビートルズ』を読んでもいいのだが、ひょっとしたら書いてないかもしれないし、書いてあればあったで、なるほどと思うだけだから、やはりやめておこう。
写真をぼんやりながめているだけで、いろんな発見ができる。たとえば、リンゴ・スターにとってかわられるまでのドラマー、ピート・ベストだ。一九六二年一月、『マーシー・ビート』の第一三号の一面にジョン、ジョージ、ポール、ピートのザ・ビートルズの写真がのっている。ほかの三人を、たとえば子供っぽい、と形容するならば、ピート・ベストは、おなじ年齢の若者ではあってもすこし異質なものを持っている。どのように異質であるかはさまざまに表現できるのだが、ようするに、ピート・ベストだけは、かわいくないのだ。ほかの三人がすでにヘア・スタイルをかえているのにピートは一九五〇年代ふうのままで、あのころのロックンローラーのすご味みたいなものを顔にただよわせている。
ピート・ベストをリンゴ・スターにとりかえると、ザ・ビートルズの四人は、それぞれ均一なかわいらしさを持つことになる。奇妙な陰気くささも、四人それぞれの均等割りになっている。一九六三年の、リンゴが加わってからのザ・ビートルズの、オフィシャル・フォトグラフをみるとよい。このときすでに、オフィシャル・フォトグラフでありながら四人はギターを持っていない。かわいくなると同時に彼らはロックンローラーではなくなり、新種のポップとなったのだ。
一九五六年のザ・クオリーメン時代の写真から現在までの写真をながめていくと、ジョン・レノンの変化がもっとも激しい。その変化は気ちがいじみていて、彼をべつにすると、ほかの三人はほぼ均一だ。顔だけからいくと、リンゴ・スターがいちばん可能性に富んでいる。彼は玉突きと西部劇が好きだという。そのような顔をしている。ポールはソングライターのような顔であり、ジョージは、これはちょっと問題だ。
ビートルズについて書くことは、あまりない。彼らのスタートは、正しかった。プレスリーはもちろん、ジーン・ヴィンセント、エディ・コクラン、バディ・ホリー、エヴァリー・ブラザーズたちのコピーが最初の本能であったことは、すべての人たちの幸せだ。しかし、とりあえずの結論が『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド』であると、やはり失望する、つまらない。最終的な決断をせまられたなら、ビートルズよりも、やはりビル・ヘイリー・アンド・ヒズ・コメッツという、ほこりまみれのアメリカのプロフェッショナルたちをとったほうがましだ。
ロックをはなれたところで、ビートルズはほかのすぐれた価値を持っている。
ロンドンのパレイディアム・ホールでのコンサートのとき、ジョン・レノンは、客にむかって次のように言った。
「安い席の人は、手をつかって拍手してください。高い席の方々は、身につけた宝石類をうち鳴らしなさい」
またジョンはほかのときに、
「私たちはキリストとおなじほどポピュラーだ。どっちが長生きするだろうか」と、言った。
はじめのころ、ビートルズは、そのグループ名の由来についてたずねられることが多かった。
「ある日、私が海をながめていたら、海のなかから人が立ちあがり、私を指さし、おまえはビートルズだ、二番目のEをAにかえたビートルズだ、というのです。だから私たちは自分たちをBEATLESと呼ぶことにしたのです」
これは、ジョン・レノンの説明だ。ほかのメンバーが説明するときには、由来はそのたびにちがっていた。ジョンが持っているシュールレアリズムのようなもの、そして、その時まかせの、オフ・ビートで大胆な精神の自由さ。エヴァリー・ブラザーズのコピーが『サージェント・ペパーズ』にまで音楽的に複雑な合成物となっていくための原動力は、ここにあった。奇妙な面白さを持った文学的でさえある詞、『エリノア・リグビイ』、バカみたいに単純な結論の提供から、回答をまったく期待していない疑問の提示への変化、などはすべてこの原動力に付随する。
アメリカのシェイ・スタジアムのコンサートで、ビートルズは、一曲だけ、うたわず演奏せず動作だけやってみせた。いかにも力いっぱいやっているように口をあけ体を動かし楽器をあやつったのだが、ほんとはなにもしていなかった。観客のさわぎがあまりにも大きいため、動作だけであることに誰も気づかなかった。ビートルズの、ポップな価値の、おそらくこれが頂点だろう。彼らが日本へきたとき、ビートルズの音楽は騒音である、などと言っていた人たちがいかにバカであるか、これでわかるだろう。ある日本の作家が、現代の若い人を理解するため、などと言って神妙な顔で武道館の席にすわっていた写真が週刊誌にのっていた。
一九六四年にビートルズはアメリカでテレビのエド・サリヴァン・ショウに出演した。統計的にはアメリカの全人口の四五パーセントがその番組をみたことになっている。この数字が現実なら、みなかったのは黒人とテレビのない人と、どうしてもほかに用事のあった人たちだけだろう。ビリー・グラハムまでもが禁を破って土曜日にテレビをみた。そして、彼にふさわしい間抜けなコメントを発表していた。そのコメントはあまりにも馬鹿げているので、ここではくりかえさないことにしよう。
ビートルズのテレビ・ショウが放映されているあいだ、アメリカでは自動車が一台も盗まれなかった、というジョークがある。
カーネギー・ホールのコンサートでは、場内警備にあたった警官は、ガン・ベルトからピストルの弾を抜いて耳にさしこみ、「騒音」に対する耳栓にした。
単純であることと複雑であることの差をはっきりと認識しなければならない。単純であることは、すでに一種の犯罪なのだ。複雑であることも犯罪にはなりうるのだが、はらんでいる可能性は、単純さよりも複雑さのほうがはるかに多いし、まさっている。
たとえば、フォークソングのブームのころから、アメリカでは45回転のシングル盤にかわって、LPが売れはじめた。
ポピュラー音楽のレコード購買層の経済状態がシングル盤からLPにまで好転したという背景のなかで、シングル盤よりもLPのほうがもうけの多い事実にレコード企業が気づいたからだ、というような見解は、見解ではありえても、やはり単純であることはまぬがれない。
片面一曲のシングル盤があたえてくれる三分前後の音楽的体験にあきたらなくなってはじめてLPが成り立つのだ。そして、シングル盤の一曲的体験の延長である数曲的体験としてのLPの次には、LPの両面がひとつの音楽的体験となるLPが、予言されていた。そしてこのLPは、たとえばビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド』で、現実になった。時代の進展とは、このようなことをいうのだ。
しかし、いつまでも単純でありつづける人たちは常に存在する。そのような人のためにこそ、ハーブ・アルパートのティファナ・ブラスや、ザ・モンキーズや、バリー・サドラーが存在するのだ。
ティファナ・ブラスの最盛期は一九六六年だったから、彼らの出現タイミングは絶妙であったといえる。スタジオ・ミュージシャンだったハーブ・アルパートが二〇〇ドルを投じて『ザ・ロンリー・ブルー』をロサンゼルスのガレージで自主録音したのは、一九六二年だった。
基本的にはハッピーでノスタルジックでエキゾチックな、つまり単なる気ばらしとして単純な大人が聞いてよろこぶ音楽が、ティファナ・ブラスだった。これに対して、子供用のハッピー・ミュージックは、ザ・モンキーズだった。ビートルズの映画『ザ・ハード・デイズ・ナイト』に触発されたテレビのプロデューサーが、この映画をなぞったテレビ・シリーズをつくるべく決心し、ビートルズをお手本に無からつくりあげたのが、ザ・モンキーズなのだ。一般公募から選ばれたザ・モンキーズの四人は、役づくりまでビートルズに似せてあり、才能は四人のいずれにもほとんどなかったのだが、テレビと広告キャンペーンのおかげで、サブ・ティーンたちのあいだに一時的な人気があった。
バリー・サドラーは、ヴェトナムで負傷したグリーン・ベレーだった。好戦的、ときめつけるのもばかばかしいほどに伝統的なティンパン・アレー・ミュージックで、一九六七年三月に兵役を解かれてからの彼がなにをしているのか、誰も知らない。
ラジオのディスク・ジョッキーでさえ、複雑になっていた。たとえばひと月ならひと月ぶんのプログラムと解説を印刷した雑誌のようなものを聴取者に買ってもらうことにより、その売上げで経営していくFM局が増えた。アラン・フリードは電話帳をデスクに叩きつけたところで燃えつきたのだが、KPFK局で「クラブ86」という番組をやっていたマーシャル・エフロンは、雨の夜にコーフェンガ・ブールヴァードにマイクを持って出かけ、道路を走っていく車のタイプ、年式、ボディ・スタイル、色、速度などをかたっぱしから声をかぎりの絶叫で中継するというようなことをやっていた。メキシコとの国境ちかくのXERB局は、フランク・ザパのマザーズ・オヴ・インヴェンションのLPをはじめて電波にのせた局で、ロサンゼルスの黒人の靴みがき少年たちは、ほとんどがトランジスタ・ラジオのダイアルをこの局にあわせていたのだ。
単純なものと複雑なものとの接点を無理にみつけるなら、それはビートルズだろう。ビートルズは、その初期にティーン・マーケットに活を入れると同時に、コンサートをおこなわなくなった後半では、LPをステージにして、複雑になっていった。
「おなじ場所で三度コンサートをおこなうと、三度目には客はまえとおなじ曲をリクエストする。そしてそのリクエストにこたえての演奏が最悪のものであっても、客は盛大な拍手をおしまない。ロックの演奏は、こうしてほんとのなかみが抜きとられ、からっぽになっていくのだ」
ザ・グレートフル・デッドのマネジャーがこう言っている。
おなじことのくりかえしは、結局、単純さなのだ。ビートルズがこれに気づかないはずがなく、気づいたからこそコンサートをやめたのだし、LPで新しいこころみを自由におこなっていたほうが、はるかに楽しいのだ。
数曲のよせあつめではなく、ひとつのまとまりを持った音楽的体験としてのLPは、確固たる哲学がないと、自殺行為になってしまう。ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリーハーツ・クラブ・バンド』は、悲しい世のなかに対する寛容的な傍観者の態度が、ひとつのはっきりしたテーマになっていた。『エリノア・リグビイ』のひきのばしでしかなかったのだが、それさえも欠いたたとえばローリング・ストーンズの『ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエスト』は結局のところ『サージェント・ペパーズ』には勝てないのだ。
ザ・バンドやクリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァルのLPには、意味としてはさほどの主張はないのだが、全体の音には、ひとつの確固たる哲学があり、それはなにかと問いつめていくと、すぐれたブルースである、としか言いようがない。すぐれたブルースであるからには、それは独特の影を持つ。優秀なロックと呼ぶよりもやはりブルースであり、すぐれていればいるほど、影の部分の力のほうが強いのだ。
1
「レコーディングのとき、ボクは、ミュージック・スタンドに、火のついたタバコを一本、のせておく。そして、それを見ながら、うたう。そうすると、安心できるのだ」2
ヤーン・ウエナー「ナッシュヴィル・スカイラインについての批評は読んだでしょ? 誰もが、あなたのシンギング・スタイルの変化について、語ってますよ」ボブ・ディラン「ボクのシンギング・スタイルにそれほどの変化はないんだよ。ほんとのことを言うとね、ボクはタバコをやめたんだ。タバコをやめたら、声がかわってね。かわりようがあんまり激しいので、ボク自身、信じられなかった。ほんとだよ。タバコをやめてごらんよ(笑い)、そうすれば、カルーソみたいにうたえるようになるから」
3
一九四一年五月二四日、ミネソタ州デュリュース生まれ。育ったのはヒビングという、鉄鉱石を掘り出す町で、人口は一万八〇〇〇。カナダ国境から七〇マイル。五つ違いの弟がひとりいる。4
ボブが一〇歳のとき、父親のエイブ・ジンママンはピアノを買った。自分の弾きたいものがすぐに弾けないのでボブは練習を一度であきらめたが、やがて独習でピアノ、ハーモニカ、ギターをこなせるようになり、ピアノではロックンロールばかり弾いていた。5
ボブ・ディランは、一九五五年、一〇歳のときはじめて家出をし、一八歳で最終的に故郷をあとにするまでに、五回、家出をしたといわれている。しかし、ヒビングのフェルドマンズ・デパートメント・ストアでパートタイムの売りことして働いている金髪の美しいミセス・ジンママンによると、息子のボブは家出などしたことは一度もなかったという。6
ジンママンというユダヤ系の名をディランにかえたのは、詩人ディラン・トーマスにあやかってのことだと信じられている。いまではディランは正式の名だ。しかし、ディランは、ディラン・トーマスにあやかったことを否定し、ネヴァダの賭博場で働いているおじさんにディロンという男がいて、その名からヒントをえた、などと言っている。ディランにはいまひとりの男の子供がいて、その名はジェス・バイロン・ディランという。「ジンママン、という名がまったく好きじゃなかったのよ。ディランは、母の結婚前の姓だとボブは言ってたけど、それがほんとじゃないことは、みんな知ってたわ」(エレン・ベイカー。ミネソタ大学でディランが知りあった女性)
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「ハワード・ストリートをふたりで歩くのよ。ボブはタイトなジーンズをはいて、両手をポケットに入るだけ深くねじこんで、クリッパとかほかのレコード店に私をつれて入るの。ジーンズはいて生意気な薄笑いうかべて店員にちかづき、その店になんかありっこないことがわかってるレコードを、ありませんかって訊くの。店員は、リトルなんですって、とか、ファッツだれ、とか訊きかえしてくるわけ。店員がもうちょっとで怒りだすところまで、ボブはそれをつづけるの。そして、店を出ていって大笑い」(エコ・スター・ヘルストロム。ヒビングでの、ボブのハイスクール時代のガールフレンド)8
奨学金を得てミネソタ大学に入った。すぐに寮を出てダウンタウンに部屋をかり、ミネアポリスのコーヒーハウス「一〇時の学者」でギター、ハーモニカ、歌をやりはじめた。一夜で二ドルの報酬。五ドルにあげてくれ、と要求し、クビになった。一九六〇年の一二月にミネソタ大学を中退し、ロックンロールをやるため、ニューヨークに出た。フェビアンとかフランキー・アヴァロンとかのロックンロールが最盛のときで、ディランのための場所はどこにもなかった。だから、ディランは、グリニジ・ヴィレジに入り、フォークソングをうたうことになった。9
自分の最初のレコーディングはビッグ・ジョー・ウイリアムズとともにおこなわれたと、ボブ・ディランは言っている。ヴィレジのゲルデス・フォーク・シティでうたっていたブルース歌手ヴィクトリア・スパイヴィにボブが会ったことからこのレコーディングはうまれた。スパイヴィはウイリアムズとともにレコーディングすることになっていて、若いディランにアイドルとともに演奏するチャンスをあたえたのだ。レコードになっていないのが二曲あるが、『スリー・キングス・アンド・ザ・クイーン』スパイヴィLP1004(ウイリアムズ・ルーズヴェルト・サイクス、ロニー・ジョンソン、ヴィクトリア・スパイヴィ)で、二曲が陽の目をみている。レコーディングは一九六一年、発売は六四年。ディランは『ウイチタ』でウイリアムズにハープでバックをつけ、『この世の頂上に坐って』では、ディープなブルースのバックアップ・ヴォーカルをおこなっている。「ボビーがニューヨークに来たとき、ウディ・ガスリーの歌なんかうたっていなかった。あれはもっとあとになってからだ。はじめは、ハリー・ベラフォンテをやっていた」と、ニューヨークのフォークの古参が言っている。かくて『ミッドナイト・スペシャル』ハリー・ベラフォンテ、RCA・SP2449、が一九六二年の五月にヒューゴ・モンテネグロのプロデュースによって発売され、ボブ・ディランは、タイトル・テューンの『ミッドナイト・スペシャル』でハーモニカを吹いている。
自分の最初のLPが発売される直前、ボブ・ディランは、コロムビアから出たキャロリン・ヘスターの最初にして唯一のLPで、彼女のバックをつとめた。キャロリン・ヘスターは、いい女なのだがどうしようもなく才能に欠けていて、いまではキャロリン・ヘスター・コアリションという「ロック・グループ」をつくっている。このLPは『キャロリン・ヘスター』(コロムビア1796)で、ボブ・ディランは、ハーモニカ。
昔のエレクトラの「ブルース・プロジェクト」(いまある同名のグループではない)のEKS7264にも、あきらかにボブ・ディラン(ボブ・ランディ、という別名で)が加わっていて『ダウンタウン・ブルース』でピアノを弾いている。(『ローリング・ストーン』グレイル・マーカス)
10
バディ・ホリーやボビー・ヴィーのグループに加わり、ロックンロールの演奏旅行に出ていた、というウワサがある。ディランは、ホンキイ・トンクふうなロック・ピアノを、うまくこなす。11
グリニジ・ヴィレジのマクドゥガル・ストリートには、イスラエル・ヤングのフォークロア・センターがあった。フォークソングに興味を持つあらゆる人たちの集会所のようなところで、歌手もよくやってきては自由にギターを弾き、うたった。ボブ・ディランも、ここに出入りした。かわいらしい感じだった彼はまず好感を持ってうけ入れられ、シンギング・スタイルとともに、音楽的、文学的才能は、誰の目にもとまった。
イスラエル・ヤングやロバート・シェルトンのあとおしで、ディランは、ゲルデス・フォーク・シティで、オーディション的にうたった。客の反応は、たいへん好ましいものだった。
一九六一年五月、ミネソタ大学のフーテナニーに参加。九月、『ニューヨーク・タイムズ』に、ロバート・シェルトンによる、PRにちかいような記事がのった。
12
「ヒーローとしての野球選手たちの消滅とともに、ハックルベリー・フィンが現代に生きかえった。ギターを持ち、河のかわりにハイウェイを、どこか遠くにむかってひとりいく。ハックルベリー・フィンは、バッド・ボーイだ。フォーク・シンガーも、プロテストによって社会にたてつく一種の悪役である。フォーク・シンガーは、少年たちのヒーローになった」(チェスター・アンダスン)13
「ボブがウディ・ガスリーをアイドルにしていたという話しは、ほんとよ。ニューヨークへいってウディに会うんだって、しょっちゅう言ってたもの。ボブがハーモニカを手に入れたころのことね。たとえばパーティでお酒を飲むでしょ。ボブが酔うと、誰かが、ボブ、ウディが外にいるよ、キミに会いたいってさ、と言うの。そうするとボブは、よろけながら立ちあがり、たまには大声で、いまいきますよ、ウディ、いまいきます、って叫びながら外へ出ていくの。あまりいいジョークじゃないけれど、これをすごく面白がった人たちもいたのよ」(エレン・ベイカー)14
一九六三年。ニューヨークのタウンホールでのコンサート。
エド・サリヴァンのテレビ・ショウ出演の交渉がもちこまれた。ボブ・ディランがうたうつもりでいたジョン・バーチ・ソサエティをテーマにした歌にテレビ局からクレームがつき、ディランはゆずらず、ショウへの出演は、とりやめになった。
ニューポート、フリーボディ・パークでのニューポート・フォーク・フェスティヴァル。土曜の夜のフィナーレでは、三万六〇〇〇の観客のまえにバイエズやジャック・エリオットたちによってひっぱりだされ、『風に吹かれて』をともにうたった。
そして、カーネギー・ホールでのワンマン・コンサート。
15
「ギターはあればいつでも弾くけれど、歌はうかんでくるときに書く。一度にぜんぶ。一度にみんな書けなければ、結局はダメなんだ。だから、いちばんいい歌は、モーテルの部屋とか自動車のなかとかで書ける。一時的な場所だね。書かざるをえなくなるから。というよりも、歌を書くことに無理にでも入っていかせてくれるから。そんな場所が」16
ある記者会見で。記者「映画に出演なさるそうですね」
ディラン(真顔で)「ええ、ボクは、ボクの母親役を演じます」
ディランは、シュールなユーモリストだ。
17
「アメリカの国旗には、赤いストライプがあることを、ボクは発見しました」赤いストライプとは、アメリカの日常語法では「共産主義、共産主義的なもの、共産主義者」というような意味を持つ。
18
ディランがコンサートまわりをやっていたころは、ロード・マネジャーと共に、双発の一三人乗りの飛行機で近距離をとび、長距離は民間航空のジェットだ。五人のバックアップ・バンドとひとりのサウンド・マンも同行する。三万ドルかけて特注したサウンド・システムは、二台のトラックで、楽器とともに、はこびまわる。会場の音響効果がわるいと、サウンド・マンはひどい目にあう。19
ディランのはじめの大きなヒット『風に吹かれて』は、一〇〇人ちかくの歌手たちによってレコードになっている。絶叫ゴスペルのザ・ステイプル・シンガーズからマレーネ・デートリッヒまで。商売、とはこのようなことをいうのだ。20
アメリカ人たちは、なにかというとTシャツをつくる。ミッキー・マウスのTシャツはまだ売れている。しかしディヴィー・クロケットのTシャツはもうなく、いまではスパイロ・アグニューのTシャツが売られている。ボブ・ディランのTシャツは、つくられたのだろうか。つくられなかったにちがいない。21
「他人のために歌をつくるのはもうやめだ。自分の内部から歌をつくっていきたい」これは、一九六四年の発言だ。
22
「イギリスの演奏旅行から帰ってきて、ボクはそれまでやっていたことをやめてしまった。ひとつのパタンにはまりこんでいたからだ。前半がフォーク、後半がロックのコンサート。アンコールを二度うけてひっこむ。ボクは、自分で自分をコピーしている自分を発見した」23
一九六四年の五月にボブ・ディランはイギリスで演奏旅行をおこない、成功をおさめた。24
一九六五年七月二五日。ニューポート・フォーク・フェスティヴァル。自分のステージの前半を、ボブはフォークソングでとおした。後半は電気ギターに持ちかえ、ポール・バタフィールド・ブルースバンドとともに、ステージにでた。観客の反応はひどく否定的で、ピーター・ヤロー(PPMのひとり)のとりなしでギターをアクースティックにかえ、ディランは泣きながら『すべては終った、ベイビー・ブルー』をうたわなければならなかった。
九月。フォレスト・ヒルでのコンサートでも、ロックをやるディランは罵倒されたが、こんどはニューポートのときのようにステージからひっこんだりせず、うたいとおした。
25
「客の前で毎晩うたっていれば、客がなにを聞きたがっているか、わかるようになるよ。そうなると、歌をつくるのはもっと簡単になってくる」26
ヴェトナム反戦を中心にしたトピカルなフォークソングは、人々に対してひとつの共通した目標ないしは真実をかかげてみせた。そして、その目標あるいは真実は、社会の改革を目ざして現在の社会を批難することであり、この批難のポーズを軸にして、人々のあいだにコミュニティ感覚のようなものがつくりあげられ、その頂点にすわらせられたのが、ディランだった。社会批難のポーズは、人々にとって唯一の真実であり、自分は現在にとどまったまま真実だけは唯一のものを人々は追っていこうとした。
ボブ・ディランは、このポーズを、蹴りとばした。ひとりの人間たとえば自分なら自分が、おなじ世代の無数にちかい他人たちの勇気の源泉になることなどとうていできない、という認識を、ディランはもったのだ。
27
「耳をひらくだけで、人はじつに多くのものから影響をうける」28
「ボブは、とても不明瞭な人だったのよ。ギターを持ってうたいかけることをとおして、聞いてる人とセックスしてるようなときとか、どんなのでもいいから帽子をかぶっているときとか、酔っぱらってるときはべつだったけれど。床にあぐらをかいてすわりこみ、すてきなのよ。パーティなんかでボブを知らない人がいたりすると、あれは誰だ、ってかならず人は訊いたものよ。そしてボブは、ずっとうたいつづけさせられて。床にすわり、ギターを弾いてうたうの。ハッシュ・パピーなんかはいちゃってさ」(エレン・ベイカー)29
「ボクはマッチ箱だ。小さな箱のなかに、マッチがいっぱい」30
「ブルースは、自宅にいて曲をひねくりまわしているうちにできてくるものではない。それ以上のものが必要だ」31
ボブ・ディランは、基本的には、かわいい白人のブルースマンなのだ。そして、ブルースマンとしての性格は、サウンドよりもことばのほうに大きくかたむいていた。ボブ・ディランは、ブルースの伝統である「ア・マン・ウィズ・ア・ギター」(ギターを持った男)の一種であった。32
「ブルースマンは、自分がかかえている問題を外からながめている」33
『風に吹かれて』は、ヴェトナム反戦のテーマ・ソングになってしまった。おそらく、一時期くっついていたジョーン・バイエズのイメージがディランにかさねあわされたからだろう。『風に吹かれて』の詞は、さほど明確なものではない。しかし、わかりやすく、うたいやすい曲だった。簡単におぼえられる美しいメロディという、ベートーヴェンも守ったポピュラー・ソングの鉄則をふまえてなおブルースにも忠実な曲だった。34
「ボブ・ディランには、イデオロギーもメッセージもない。個人的な救済への願望、自分ひとりになって自分の神をみつけていく権利の主張、だけがある」シティ・ユニヴァーシティ・オヴ・ニューヨーク。スティーヴン・ゴールドバーグ。
35
『ナッシュヴィル・スカイライン』についてボブ・ディランは次のように言っている。「ただの歌だ。それ以上でも以下でもない」
「ボクはいつもこのような歌をうたいたかった。ボクのあこがれはハンク・スノウやバディ・ホリーたちだ」
36
ボブ・ディランがミネソタのヒビングでエコ・ヘルストロムといっしょに聞いた78回転レコードは、みんなカントリー・アンド・ウエスタンだ。スペイド・クーリー。カウボーイ・コーパス。ピーウィー・キング。エディ・アーノルド。ハンク・スノウ。37
一九五六年のモーターサイクル事故を理由に、ボブ・ディランは、一年間、姿をみせずひきこもった。これを、巧妙窮りないパブリシティ戦術とみるプロフェッショナルがアメリカには多い。38
ヤーン・ウエナー「あなたがつくった歌を誰かほかのアーティストがうたう場合、特にこの人にうたってもらいたい、と思うような特定のアーティストがいますか?」ボブ・ディラン「エルヴィス・プレスリー」
ヒッピー・ムーヴメントは、風俗的な現象ではなく、精神面での新しい運動だった。アメリカ社会が持っている精神的な貧困さだけではなく、アメリカのすべてを否定するアナーキーな精神運動であり、強力なリーダーもきっかけもなしに、自然発生的に生まれた。
リーダーなしに自然発生したということは、アメリカ社会に対して若者が持っていた個人的な体験が、ひとつの思想として人と人とを結びつけあうだけの力を持ちうるまでに複雑にしかもかなり高度に抽象化されていたことを示している。多くの若者が、リーダーなしにおなじことをほぼ同時に感じたわけで、アメリカ社会の部分的な変化ではなく、トータルな否定をその若者たちが考えていた事実は、画期的なのだ。
アメリカの社会は、その創生から現在に至るまで、まずなによりも「仕事」を最優先させてきた点において、軍隊の組織と酷似している。「仕事」優先の社会は「技術」を重んじ、生活が持つ機械的な面の改良の洗練度をたかめていくことが、アメリカ社会内でなしとげられる「仕事」の目的だった。このような社会のなかでは、文化と呼びうるものはすべて仕事に対してはあくまでも従の位置にあり、もっともわかりやすくいえば、文化は気晴らしのひとつにしかすぎなかった。文化が物理的な環境と密接につながっていないため、気晴らしはどこへいってもおなじような気晴らしであり、逆に、自分たちがいま存在している環境は、進軍していく軍隊にとってとおなじく、まったく一時的なものであり、いつすて去ってもかまわないものだった。アメリカの社会が結局は技術改良主義にとどまったことが一九六〇年代なかばにヒッピー・ムーヴメントを生んだのだ。
技術改良主義が日常生活のなかでもっともひんぱんにその悪い面をみせるのは、豊かなアメリカ、という神話の権化にされている中産階級の生活においてだった。だから、アメリカ社会の偽善、不正直さ、物質主義、などに対して身をもって否定の考えをとった人間ヒッピーの本質的な部分を占める人たちの多くが、中産階級の子供たちであった事実は、当然のことだ。豊かさが手をのばせばすぐに届くところにあってはじめて、アメリカの豊かさが持つ悪に気づくのだろう。ヒッピーのなかに黒人はめったにみかけないし、物質的・経済的な豊かさがまだ自分たちの理想になっている中産階級以下のマイノリティは、ヒッピーに対して常に攻撃的だった。
若者がヒッピー・ムーヴメントに加わった理由は、個人によってさまざまにことなるだろう。現在のアメリカを全面的に否定する新しい価値の創造が直接の動機になったと同時に、まだ限られた適応力しか持っていない不安定な若者にとって、ヒッピー・ムーヴメントは、居心地のよい聖域となってくれたかもしれない。学校が休みのあいだだけヒッピーとなる夏のパートタイム・ヒッピーも多かったし、ヒッピーであろうがなかろうがはじめから一種の精神異常のような人たちも、多かった。
ヒッピー・ムーヴメントのもっとも大切な部分は、個人的な体験の抽象化にあった。風俗でも流行でもなく、LSDの幻覚や恍惚でも、単なる自由な愛でもないのだ。
ヒッピーのグループは、たとえばサンフランシスコのハイト・アシュベリー地区やニューヨークのイースト・ヴィレジでの最盛期でも、非常にあいまいな組織だった。リーダーシップが明確ではないし、メンバーは常に変化していてそれぞれの役がはっきりせず、グループとして一貫することもなく、すぐに解体したりなくなったりした。
このことには、ヒッピーが主張した、彼らの信念があきらかに影響をあたえている。合言葉のひとつであったLOVEは、最大限の愛を持った人間こそもっとも美しい人間だ、という考え方から出てきたものなのだが、結局はフィーリングとジェスチャと性的な自由さにとどまり、それらをのりこえたアクションにはならなかった。
愛のフィーリングが身辺にみたされているだけで充分であると考えてしまい、愛に必要な責任遂行のための行動力のようなものは、Do your own thing のはきちがえによって、否定されていた。責任、義務、期待などすべてからはなれきったところで各自が自分をフルに表現すれば理想の世界ができあがるという、一足とびの観念世界だけのためにしかLOVEは存在しなかった。
アメリカを全面的に否定していて、アメリカ政府とのかかわりあいなどまったく持とうとしなかったビートとおなじく不思議な非政治性あるいはアナーキズムに片方では支えられ、他方ではフィーリングとしての愛と薬品による恍惚境によって支えられていたため、ヒッピー・ムーヴメントは、ほとんどなにもなしとげなかった。LSDを服用すると得られる幻覚の世界は、なにか重要なことを達成したような錯覚をヒッピーたちにあたえた。
この段階で、風俗あるいは現象としてとらえられたヒッピー・ムーヴメントは終ってしまった。生きのこってまだヒッピーをやっている人間たちは、もともとかなり重症のミスフィットであるうえに麻薬によってほとんどいつも錯乱状態にあるため、完全に自由な人間の末路の、ひとつの見本となっている。
たとえば、サンディエゴからカリフォルニアの西側を北上していくUSハイウェイ101は、ヴェンテューラからサン・ルイ・オビスポあたりまでの部分がヒッピー・ハイウェイとして知られていて、ハイウェイを行動の拠点にして、一〇〇〇名ほどのヒッピーが、奇妙なノーマッドの生活を送っている。
麻薬、食料、女性、金銭まですべてを共有し、基本的にはパンハンドリング(物乞い)と盗みによって生活を支えている。ハイウェイのほかの部分にいるヒッピーたちとは連絡があり、麻薬や女性を融通しあうのだ。
ひとつの町でひとつの仕事をかかえて生きていくことのつまらなさと対比して考えるとたしかにすばらしい自由な生活で、寝袋さえあれば、栄養失調、性病、皮ふ病、麻薬常用による精神異常や虚脱症などになるのをいとわないかぎり、現金は一銭もなくても生きていける。
風俗を生きのびたヒッピーは「フリー」の思想をへて「ヒッピーの葬儀」をきっかけに、いまのアメリカをすこしでもましなほうに方向転換させるため、かつては全面的に否定したアメリカ社会のなかに再びもぐりこんだはずだ。
「フリー」(無料)の思想は、ハイト・アシュベリーの時代に、ザ・ディガーズというヒッピー団体によってひろめられた。彼らはヒッピーたちのためにフリー・ストア(無料の店)を開き、金銭をまったく使用せず、物々交換あるいは無料で、衣服、食料、本、などを配布した。
豊かさをすて、自らすすんで体験する貧困と、人間はすべてのものを分けあわなければいけない、という考え方を日常生活の現実のなかで支えるものとして、無料の思想は、ヒッピーの哲学をかためるうえで重要な役をはたした。一九六七年九月の『ロサンゼルス・フリー・プレス』には、次のような意見が発表されていた。
「アメリカ社会のジレンマから脱出するための唯一の道は、結局のところすべての人に一定の収入を保障することだ。それはどういうことかというと、店へ入って欲しいものを勝手に持ってこれるような時代へ、なるべく早くに移行していくことだ」
このフリー・ストアの思想は、現実のアメリカ社会にあてはめられたときには、独占的私企業の横暴な利益追求とからみあわせて、グッド・プライス・ストア(適正価格の店)の思想にまで修正され、さらに自然食品や公害への運動につながっている。ノーマッドなヒッピーと、アメリカ社会のなかに帰ってアメリカを正面から相手にしはじめたヒッピーとの中間あたりに、ヒッピー・コンミューンが存在する。
いまヒッピーのコンミューンは、都市のなかにあるものは除外して、アメリカに五〇〇はある。多くて五〇名ほどのヒッピーがひとつのグループをつくって、かつてのアメリカ・インディアンたちのような種族を形成し、山や畑のなかに土地を買い、そこに自分たちの手でテントをはり小屋をつくり、ごく初歩的な農耕と現体制の片すみでのアルバイト的な労働によって、自給自足の生活をしていこうというのだ。アポロが月に降りたとき、そのことをまったく知らないまま、粗末な野菜の収穫に歓声をあげていた若者たちが、アメリカにはいたのだ。
しかしこのヒッピー・コンミューンも、成功させていくことはたいへんむずかしい。LSDがすべてである、というような状態でのコンミューンは、失敗が目にみえている。LSDよりも冬にそなえたマキ割りのための組織力と、グループのために自分のオナニスティックなエゴをあるていど埋没させる必要を学んだコンミューンもすでにあり、歴史を逆行させる実験のなかで、アメリカを相手にするための戦術的な思想が、かたちづくられつつあるのだ。
「ヒッピーの葬儀」は、一九六七年の冬に、ハイト・アシュベリー地区でおこなわれた。現象としてのヒッピーを、ヒッピーが自らほうむった儀式で、大きな火のなかで、ヒッピー・ポスター、ボタン、レコード、ヒッピーふうなレディメードの服などが、ヒッピーの本質とは関係ないものすべてが、焼かれたのだった。
このときのヒッピーたちにとって、信念はすでにLOVEでも Do your own thing でもなく、「ムーヴメントはそれぞれの頭と手のなかにある。ここをはなれて、ほかの土地へいけ。散れ!」であった。
ヒッピー・ムーヴメントはアメリカ社会の否定あるいはその内部での改革力であると同時に、きたるべきサイバネーション社会のなかでの大多数の人間のあり方を予言してもいる。いまの社会では「仕事」が主で「楽しみ」は従なのだが、これが逆転したとき、仕事をしなくてもいい長い期間を人間がどうやって毎日をなんらかの存在意義のようなものをもったうえですごしていくかに対する、初期的な回答であるのかもしれない。
ゲイリー・スナイダーが言うように、サイバネーションの巨大な中心地以外はバッファローの遊ぶ草原になったとき、いまのヒッピーの放浪生活やコンミューンづくり、あるいは麻薬による錯覚の人生は、あらたな意義を持つ。だからヒッピーは、働かなくてもいい人、としての最前衛でもあり、この点でも充分に革新された人間であるのだ。
ヒッピーは、ぜいたくなアメリカのなかでももっともぜいたくな人たちだった。ヒッピーの最初の聖地、サンフランシスコのハイト・アシュベリー地区は、一九六五年の秋から六六年のはじめにかけて、一〇〇〇名のヒッピーからなるコミュニティを持った。この地区は、ハイト・ストリートとアシュベリー・ストリートが交叉する点を中心に一〇〇ブロック平方ほどの広がりを持った土地だ。ダウンタウンからゴールデンゲート橋までの自動車による便をはかるため、この地区は、新設されるフリーウェイでつぶされることになっていた。ここにフリーウェイをとおすと、ダウンタウンからゴールデンゲート橋まで、自動車による所要時間が六分みじかくなるというのだ。
フリーウェイの計画は、数年前から出されていた。周辺の人たちはフリーウェイに反対していて、一九六六年三月、フリーウェイ建設は中止にきまった。だが、フリーウェイをのがれるためにほかへ移転していった人たちはすでに多く、ハイト・アシュベリー地区は、そのために無人になった土地の中心だった。したがって家賃が安く、ヒッピーが住みつくには最適で、気候はよく、町の人たちは進歩的でヒッピーに思想的に共鳴してくれた。パーキング・メーターに二五セント貨をひとつ入れておけば、道路の駐車スペースに三〇分ねそべって陽にあたっていることもできた。
最低限の生活は、物乞いだけでも確保できた。アルバイト的な仕事につくことによっても、最低生活の保証は手に入った。いまのアメリカでの、ひとりの生活資金は、一年に五〇〇ドルがギリギリだ。この金額は、郵便局でのもっとも簡単な職種への試験にうかれば、七時間労働の一か月で誰でもかせぐことができる。だから、一二名のヒッピーがコミュニティをつくれば、その一二名は、それぞれが一年にひと月だけ働けば全員が生活していけるのだ。
「フラワー・パワー」という、風俗ヒッピーすれすれのところにいるヒッピーたちは、ゴールデンゲート公園の花を摘んでは人々にくばった。ある日、パトロール・カーがやってきて、
「その花はすべての人たちのものだから、摘んでくばりたければ自分たちの花を植えなければいけない」
と、ヒッピーたちをさとした。
自分たちの花を植える運動は、たとえばあとになってバークレーの人民公園ムーヴメントにあらわれるのだが、これはもののみごとに弾圧されてしまった。
人間の心のなかに、通常は作動していない部分がどれだけあるかを知るために、LSDやマリワナは使用された。幻覚や恍惚状態を人工的に手に入れるためではなかった。
あるひとつのかたちにこりかたまってしまった人間の心を強制的に解放させるのが、LSDやマリワナであったのだ。LSDを服用すると、幻覚がおこるのではなく、感覚能力が変化するのだ。その変化は個体によってさまざまにことなり、音が光りになってみえたり、時間が延長されたり、窓がトンネルにみえたりする。自分の心のなかにも、このような知覚の能力が存在したのか、というおどろきのともなった発見があればそれでよく、その発見がその個体に対してどのような影響をあたえていくかは、再び千差万別なのだ。ほんの少量の薬品で感覚がまったく変化してしまうのだから、それは新しい発見であると同時に、恐怖でもあった。人間の知覚の厚みと幅の広さを知ると同時に、人間のもろさみたいなものも、同時に悟ることができた。
この体験が重要なのであり、LSDを用いることなくおなじことが悟れるのであれば、LSDは必ずしも必要ではないのだ。LSDを飲まなければほんとうのことはわからないとか、たとえばLSDの影響下にあるときのロック演奏はすばらしいとかの説はすべて嘘であり、嘘であると同時に、風俗であった。
ティモシー・リアリイは、LSDを「脳のためのビタミン剤」と呼んだ。無色無臭無味であることも、魅力のひとつだった。なんのへんてつもない薬剤が、自分の知覚を完全にちがうものにかえてくれる。マリワナの主成分であると考えられているTHCよりも合成はたやすく、口から飲みこめばそれでいい。郵便切手のうらの糊にLSDを混入するとか、飲料用水道の貯水池にLSDを投入して全アメリカを幻覚化する、というような話がなかばジョークとして語られた。LSDは、水に溶くと急速にその効力を失う。
ヒッピー・ムーヴメントのたかまりとともに、LSDが急激にひろまった。この背景には、アメリカは精神に対して作用する薬の中毒にちかい常用国だという事情がある。つまらない数字だが一例としてあげておくと、一九六五年の一年間に、医師がアンフェタミンを処方した回数は二四〇〇万回。各種のトランキライザーの処方が、一億二三〇〇万回。これは正式に記録されているものだけだから、実際にはもっと多い。そして、ベロナールの適量をこえた服用による死亡は三〇〇〇件に達しているのだ。アメリカ人の五人にひとりくらいは、軽い精神病だと考えてさしつかえないだろう。
麻薬に対する警察のとりしまりが厳しいのは、このせいだ。精神がいささか異常でも、普通にしていれば無害な人間が、麻薬によってきっかけをあたえられて本格的に気が狂い、その麻薬がヘロインやメセドリンであったりすると、狂暴な異常者となる。
マリワナもLSDも麻薬ではないのだが、いまのアメリカでは、いずれをも所持しただけで重罪となる。マリワナやLSD自体が麻薬ではなくても、殺人や暴行のきっかけにはなりうるので、このへんを理由に、警察はとりしまるのだ。
しかし、マリワナやLSDの禁止は、落し穴をひとつ持っている。感覚変化作用を持つだけで中毒性はなく、精神安定剤でも興奮剤でもないマリワナやLSDをとりしまると、ほかのほんとの意味での麻薬に人々が移行していくという事実だ。マリワナのとりしまりは、麻薬中毒になりやすい人たちを中毒症状へとけしかけていく効果しか持たず、精神の不安定な人を強制的に自然淘汰するのだという、アビー・ホフマンみたいな考え方もできるのだが、マリワナまでが重罪になると、またちがったところで問題がおこる。
マリワナの所持や喫煙を理由に警察につかまることを、多くの若者はなんとも思っていない。つかまえたほうとしては手間とカネがかかるし、つかまったほうは、警察に対する反感をさらにつのらせるか、あるいは、軽蔑するようになる。『タイム』とか『ニューズウィーク』とかのつまらない雑誌は、だいたいこのへんを心配している。
アメリカは、アルコール中毒的な社会でもある。大人の世界がアルコールなら、若者はマリワナなのだ。
「アルコールは、人間の感覚を鈍感にして不安をかくし、楽観的にする。自分も、また自分が属している社会をも、アルコールは肯定してしまう」
エドガー・フリーデンバーグによるこのアルコール観は、正しいのだ。タバコを喫いながら酔いつぶれ、二日酔の頭でしかたなしにすべてを認めてしまう大人の世界は、対立するものとしてマリワナを持ち出すまでもなく、だらしがない。アルコホリック・ソサエティに対する本能的な反発や嫌悪の感情が、マリワナをよりいっそう若者たちのあいだにひろめている事実は、みのがせない。また、単に新しくて珍しいものとしてではなく、アルコールやタバコよりもすぐれたものとして、大人たちもマリワナを認めはじめている。
マリワナをタバコ状にして喫う、あるいは粉末にしてクッキーに混入して焼いたり、サラダにふりかけて食べたりしたあとの症状は、個人によってLSDよりもさらに大きくちがってくる。幸せに放心した状態から、うまくいけば時間と肉体との相関関係に変化がおこり、五分が一五分くらいに感じられたりするマリワナは、アルコールやほかの麻薬のように、人を暴力的にしない。逆にマリワナを喫うと目立って受動的となり、体を動かすことを忘れてしまうほどだ。
アメリカで売られているマリワナは、東洋やメキシコのにくらべると、効力はずっと低いのだ。なんの効力もない雄の葉が大量に混ぜてあることがしばしばで、すくなくとも麻薬とおなじに考えることだけは、おかしい。
マリワナやLSDが性的な能力をたかめるというのも嘘だ。効果としてはむしろ逆で、性衝動は押えられる。しかし、平常の心理的な抑制はとりはらわれることが多いので、ここから生まれる性的な自由さが、性能力の高まりとして誤解されていったにすぎない。抑制がとりはらわれるということは妊娠の機会が多くなるということでもあり、人工妊娠中絶を許可する法律の成立は、マリワナの普及と無関係ではない。
LSDもマリワナも、それ自体はたいして意味を持たない。それをいく度か用いたことによって、その人がどのようなメッセージをうけとるかが問題なのだ。いつまでたってもメッセージを発見できない人には、LSDやマリワナは、せいぜいが遊び道具でしかない。
ステート・ユニヴァーシティ・オヴ・ニューヨークのウイリアム・アブルッジの報告するところによると、ウッドストックのフェスティヴァルでは、四〇万人の若者のなかでマリワナやLSDによる好ましからぬトリップは八〇〇件だったのだが、パウダーリッジでは、三万五〇〇〇名しか人間はいなかったのに、第一夜ですでにバッド・トリップは一〇〇〇件にのぼった。ウッドストックでは単純なマリワナがほとんどだったのだが、パウダーリッジになると、LSDにストリキニーネ、メセドリン、動物用のトランキライザーなどを無秩序に混ぜあわせたひどいものが多かったのだ。薬品の迷信がどこへいきつくかは、これでだいたいの見当はつく。
いまはすでにLSDを飲んだりマリワナを喫ったりするときではない。それらを用いて自分が悟りえたなにごとか、あるいは、うけとめることのできたなにかのメッセージを、冷静に抽象するときなのだ。
アメリカにとってマリワナやLSDが持っているもっとも都合のよい性質は、麻薬とりしまりをかくれみのに、どんな荒技でもできる、ということなのだ。たとえばブラック・パンサーの一員をヘロイン所持の疑いで一〇年くらい刑務所に入れておくのはたやすいことだ。そしてこの荒技が、体制への批判として投げかえされるとき、一九六三年八月、ワシントン・デモでジョン・ルイスが言おうとした、
「私は知りたい。連邦政府はどちらの味方なのか」
という言葉が、意味を持ってくる。
ときには一時間ちかくかけて、楽器のテューニングや増幅装置その他のエレクトロニック・エクイップメントの調整がおこなわれる。そのあいだずっと、小柄で肥り気味の、あけっぴろげな性的魅力のある女のこが、なにもしていないのだが、すでに髪をふり乱した感じで、大きなアンプのそばに立っている。
演奏がはじまる段になるとビル・グレアムが出てきて、長い一語のような早口で、
「四人のソウル・ジェントルマンと、偉大な偉大な偉大な、ビッグ・ブラザー」
と、ステージの五人を紹介してひっこむ。そのあとにはじまる音は、たとえばLP『チープ・スリルズ』の、『ふたりだけで』でも聞けば、どんなものであるかおよそわかる。
ビッグ・ブラザー、つまりジャニス・ジョプリンは、ただひたすら狂っているとしか思えない。彼女のステージ姿をはじめてみれば、誰でもそう思うだろう。ジュディ・ガーランドが正気の歌手であったとするならば、ジャニス・ジョプリンは、あきらかに狂気のさたなのだ。
意味のほとんどない叫び声を、ジャニスは肺活量と声帯の限界いっぱいにふりしぼって、聞いている人たちに叩きつける。
楽譜なんかまったく読めない彼女の歌は、ようするに Fuck now ! という金切り声の絶叫に要約できる。
FUCKは日本語では「オ○ンコ」であり、NOWは「いまただちに」だ。
ジャニス・ジョプリンにとってFUCKとは、
「自分が持っているものでいちばん大切なのは、フィーリングなのよ。自分を解きはなすと、自分は、解きはなされる以前の自分よりはるかに大きい。現実はどうだっていいの。私のなかにはフィーリングがいっぱいだから、怒鳴ったり悲鳴をあげたり、壁をひっぱたいたり、なんでもできる。すべてが、フィーリングなのよ。体の内部にある愛や情欲やあたたかさに手を触れるの。
うたっているときはなにも考えない。目をつぶって、フィーリングだけ。セックスも、このフィーリングのうちのひとつ」
この高度に個人的な世界を、四人の男性メンバーがつくりだすロック・サウンドにのせ、ジャニスは自分の絶叫とこねまぜてメッセージにしている。
彼女にとってNOWとは、すわってじっとしていないでいますぐ立ちあがってフィーリングを解放しろ、ということなのだ。
ジャニス・ジョプリンは、自分のことをビートニクだと信じている。彼女によると、ヒッピーは、世の中を改良していこうとしている人たちであり、ビートニクは、世の中とは関係なく、フィーリングの解放によってその瞬間を楽しむ人たちなのだ。
テキサス州のポート・アーサーという田舎町でなかば目覚めかけていたときのジャニス・ジョプリンは、みんなから変り者あつかいされていた。その頃は絵を描いていたのだが、友人にレッドベリのレコードを聞かされてほぼ完全に目覚め、ベッシー・スミスやオティス・レディングによってその目覚めはさらにたかめられ、彼女は家出した。
サンフランシスコのヴェニスへいき、ロサンゼルスに出て、それから五年間、ニューヨークにいた。キー・パンチャーとかウェートレスとかの仕事をやりながらブルースをうたい、恋愛のはてにテキサス州のオースティンまでひきかえし、そこからチェット・ヘルムズとともに再びサンフランシスコに出た。そして、アヴァロン・ボールルームで、ロックのバンドを聞いたのだ。一九六九年だった。
このときのロック・サウンド、特にその巨大な音と、はねまわるリズムに、ジャニスは官能的で狂暴なフィーリングの解放をみたのだ。うたわずにはいられなくてうたいはじめ、ロックの電気的に増幅された音とはりあって客に歌で触れるため、絶叫を全身から放つのだ。ロックをみつけると同時に、彼女のフィーリングの解放がはじまった。
「音楽をとおして、私のフィーリングが私をつくってくれた。うれしい。故郷では、たとえば水道屋はいまだに水道屋のままだから」
フィーリングの解放は成功物語でもあり、ジャニス・ジョプリンは、一回のステージで三〇〇〇ドルはとれる。いまのように声を酷使しては、長くつづかないだろう、とよくいわれる。ジャニスは、いっこうに気にしない。
「いま中途はんぱにうたって、二〇年あとまで中途はんぱのまま長つづきして、どうなるの。投資の結果は、いますぐほしい。うたえなくなったら、そのときにほかのことを考える。子供を生むかもしれない」
NOWは、「いますぐ」だから、その「いま」がなん度もくりかえされることは、ジャニスにとっては、耐えがたい。だから彼女は、ホールディング・カンパニーとわかれてしまった。ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーとしてスターになると、コンサートのたびに客からおなじ曲をリクエストされるし、また、いろんなことのために、おなじ曲をうたわなければいけないことになってしまう。自分のフィーリングの伴奏をつとめてくれるグループを彼女はつくり、独立した。そして、そのグループは、やはり単なる反復を避けるために、名前がつけられていない。
サンフランシスコでロックをみつけてからのジャニスよりも、ポート・アーサーで目覚めてから放浪した五年間のほうが、はるかにすさまじいロックのフィーリングだ。
完全に解放されているステージ上の彼女をみていながら白けきったままでいることは可能だ。しかし、彼女の不自由さに感動しないでいるわけにはいかない。彼女には常にステージが必要だ。
ビル・グレアムは、キャピタリスト(資本家)あるいはエクスプロイター(搾取者)と呼ばれることがしばしばある。ニューヨークのマンハッタン、セカンド・アヴェニューにフィルモア・イーストを持っている。一九六八年に映画館を買いとって、東部におけるロックの聖地にしたのだ。サンフランシスコには、フィルモア・ウエストがあり、さらにブッキング・エージェンシーとレコード会社を持っている。週末には、ふたつのフィルモアが、それぞれ五〇〇〇ドルほどの純益をあげてくれる。
ビル・グレアムは、一九三一年に、当時のロシアで、ウォルフガング・ウオロディア・グラジェンカとして生まれた。第二次大戦のときにベルリンからマルセイユまで逃げ、妹が栄養失調で死に、母はナチスのガス・チェンバーで殺された。ニューヨークに渡りアメリカ人になり、朝鮮動乱に米兵として参加し、ビル・グレアムという、あってもなくてもおなじような普遍性を持ったアメリカ人の名前にかえ、大学でビジネス管理の学位をとり、ニューヨークでタクシーの運転手をやり、ヨーロッパに旅行し、カリフォルニアで会社づとめと演劇の勉強を交代におこなった。グレアムは、俳優になろうとしていたのだ。
一九六五年、彼は前衛演劇集団・サンフランシスコ・マイムトループのマネジャーをやっていて、その職を辞するにあたり、置きみやげとして、資金あつめのための興行をおこなった。ローレンス・ファーリンゲティ、ジェファスン・エアプレーン、ザ・ファッグスなど、多くの人たちをあつめ、ロックとLSDと愛のパーティをひらいたのだ。
パーティは成功した。経済的な成功だけではなく、グレアムは、ロックと愛、そしてそのふたつあるいはLSDによってSTONEされた人々の心に、スリルをおぼえた。「私がそれまでに経験したもっとも美しい経験だった」と、グレアムは言っている。
経済的な理由もあって、グレアムは六五年のうちにもう一度、おなじようなパーティを開いた。場所は、会場費を安くあげるため、サンフランシスコの黒人ゲットーのなかにあったフィルモア・オーディトリアムだった。グレートフル・デッドやグレート・ソサエティなど、サンフランシスコのロック・グループが参加し、大成功だった。そして、六六年になってから、グレアムは、ケン・ケイシーから、三日間にわたるトリップ・フェスティヴァルの主催を依頼された。LSDをつかわずにLSD体験を再現する混合メディアのショウだった。グレアムは、フィルモアを買いとり、そのショウをおこない、成功した。トム・ウルフによると、「このとき、ハイト・アシュベリーの時代がはじまった」という。
ヴァン・ネス・アヴェニューとマーケット・ストリートの角にべつな場所をみつけてうつり、そこをグレアムは、フィルモア・ウエストとした。そしてそこが、ポップ・ポスターやサイケデリック・ライト・ショウの発生地になった。
グレアムの考えによると、ロックの才能を持っている人たちのために、その才能をもっとも発揮しやすい場所をあたえ、同時に一般大衆とその才能を接触させるのが彼の仕事なのだ。フィルモアの電気装置はたしかに最高で、イーストのは、音量はマキシマムで一二五デシベルに達する。ミュージシャンたちがおかねにこまれば、無利子でカネをかしている。バークレーのピープルズ・パーク(人民公園)事件では警察につかまった学生たちの保証金としてつかうために、一万八〇〇〇ドルの資金をつくった。
しかし、グレアムがロックやライト・ショウでおかねをもうけていることはたしかで、このたしかな部分にたてついてくる人たちがいるのだ。
ライト・ショウのアーティストたちが、六九年にまずチェット・ヘルムズのファミリー・ドッグをピケットし、ファミリー・ドッグを開店休業の状態においこんだ。そして、ビル・グレアムに対しては、ライト・ショウのアーティストに支払う報酬の新たな基準を、一方的にしかも書面で通告してきたのだ。
話しあいに応じたグレアムは、数時間にわたって彼らにつきあい、最後に自分の信ずるところをのべた。はじめのうちはおだやかにしゃべっていたのだが、やがて激してきたグレアムは、
「私はアメリカのビジネスマンだ! 私のカネは私がかせいだのだ!」
と怒鳴り、フィルモア・ウエストは借用契約がきれたらハワード・ジョンソン・チェーンのモーテルになるはずだ、と語った。フィルモア・ウエストがなくなってしまうとピケットどころではないので、問題は立ち消えになった。ファミリー・ドッグはその後たちなおり、経費をさしひいたのこりの利益を、参加者全員で平等分配するというやりかたでロックやライト・ショウをおこなっている。
すぐれたロック音楽を提供することで非常にいい気分になっているとき、「もうけたね」と人に言われるのがグレアムはつらいという。ロックを楽しみつつも、人々の頭にあったのは結局は俺のかせぎか、とグレアムは落胆するのだ。
クリエイティヴな、しかも無形にちかいながらも一種のコミュニティのための仕事と、単純なかねもうけとが、どこでどのように接しあうのかという面白い問題をはらみながらすべてはまだ未解決だ。
金銭的な収益以外のすべてのものを無視しておこなわれた一九七〇年夏の、パウダーリッジ・フェスティヴァルは失敗という当然の結果だけを生んだ。
コネチカット州ミドルフィールドにあるパウダーリッジは、ロック・フェスティヴァルのための場所としては理想にちかかった。スキーのための広いスロープを客席としてつかい、スロープの下にあるスキー・ロッジの屋根が、ステージになるはずだった。ロッジをこえたところには湖があり、起伏する周囲の山野は、キャンプに最適だった。ニューヨークから七五マイル、ボストンからは九八マイルなのだ。
ジョセフ・ミドルトン以下一五名のプロモーター・グループによって計画されたこのフェスティヴァルは、はじめから地もとの反対にあっていた。コネチカット州から正式に禁止令がだされたのだが、プロモーターたちは強行した。客に約束されていたロック・グループは、ひとつもこなかった。禁止令がでた以上、でかけてみても無駄であることはわかりきっているからだ。禁止令に違反したという理由により、パウダーリッジへの電気の供給が断たれた。電気がなければ、アンプもつかえない。
それでも、三万の人たちが、パウダーリッジにあつまった。二〇ドルのキップは、三万枚、売れたのだ。プロモーターたちがもっともおそれていたのは、ただで会場に入ってしまうゲイト・クラッシャーたちだった。ウッドストックは、はじめは入場料をとるつもりだったし、キップも売りさばいたのだが、現場では無料になってしまった。
キップが三万枚も売れたところで、パウダーリッジのプロモーターたちは、「キップ売りきれ」を伝える広告を新聞にのせた。『ヴィレジ・ヴォイス』にのった広告には「キップは売りきれた。キップを持たない人たちは来てはいけない。キップのない人は会場には入れないどころか、半径五マイル以内にも入れないことになった。キップを持っていないかぎり、自動車を町に駐車することもできない。キップのない人たちは、ほんとに来てはいけない」というようなことだけが、ならべてあった。
七月三一日から八月二日までの三日間、プロモーターたちはひとりもパウダーリッジに来なかった。キップ三万枚分の収益はあったのだが、プロモーターたちにとっては、これからがたいへんだろう。
約束したロック・グループがひとつも来なかったのだから、キップを買った人たちには払いもどしをしなければいけない。スキー場の所有者たちは、ほかのロック・グループを急いで呼ぼうとしたため、コネチカット州の法廷を侮辱したかどで訴えられているし、禁止令の違反に対してはすでに一〇万ドルの罰金が決定している。プロモーターたちも、おなじようにひどい目にあうはずだ。
大きなロックのコンサートは、あらゆる条件がそろって成功したとしても、興行的には複雑すぎて商売にならない。ウッドストックに便乗して映画フィルムでかせいだワーナー映画のようにでもしないかぎり、ロック・フェスティヴァルは、商売として手がけることはできない。
成功させるためには、一年ちかい準備期間と、二〇ドルのキップを三万枚売ったくらいでは埋めることのできない投資が必要だ。会場にえらばれた地もとの市民が反対するだろうし、たとえ賛同されても、医療施設、電話、食料、飲料水、雨が降ったらどうするか、トイレなど、面倒な問題が数かぎりなくある。たとえば、推定入場人員数に対して用意されたトイレの数に文句がつくだけでも、そのロック・フェスティヴァルはもう中止されたも同然だ。フェスティヴァルの映画撮影権をプロモーターがだれかに売ったとして、予定していたタレントがひとつ欠けても、逆にプロモーターは映画権所有者から損害賠償を要求される。キップの売りあげ金が入りはじめてから準備にとりかかったパウダーリッジは、だから失敗して当然なのだ。入場料は無料にしてしまう覚悟がないかぎり、ロック・フェスティヴァルは成功しない。
一九六九年一二月六日、カリフォルニアのオルタモント・レースウェイで、ローリング・ストーンズが無料のコンサートをひらいた。
その年にアメリカ公演旅行をおこない非常な成功をおさめたローリング・ストーンズたちに対して、コンサートの入場料が高すぎるという批判が、いろんなところで出された。
「人々が私たちのコンサートにいくらなら払えるのかわからないので、入場料についてはなにもいえない」
と、ローリング・ストーンズたちは言っていたのだが、『ロサンゼルス・フリー・プレス』紙とのインタヴューで無料のコンサートの話が出され、それにローリング・ストーンズが賛意を示したため、ローリング・ストーンズはカリフォルニアで無料のコンサートを持つことになったのだ。
はじめはゴールデンゲート・パークでおこなうはずだったのだが、反対にあい、結局、会場はデモリション・ダービーとドラグ・レースのためのレース場に決った。ガラスの破片がいたるところに散乱し、こわれた車がほうり出されたままという、ウッドストックとは正反対の、殺ばつとした雰囲気を持った場所だった。ウッドストックでステージをつくったチップ・マンクが下見をして、あまり気はすすまないがほかにないのでしかたなく会場として承知したのだった。無料コンサートのマネジメントはまったく無責任だったが、三〇万人もの人々があつまった。ローリング・ストーンズとステージとの警備には、ヘルズ・エンジェルズ(地獄の天使たち)が、あたった。五〇〇ドル分のビールを無料で飲ませてもらう、という報酬で、ヘルズ・エンジェルズたちはガードマン役をひきうけた。一九六五年にケン・ケイシーによってヘルズ・エンジェルズとヒッピー文化は結ばれていて、グレートフル・デッドのようなサンフランシスコのグループの警護役をそれまでもたまにおこなっていた。
なぜだか会場の雰囲気はよくなく、ローリング・ストーンズがステージにあがったときは、彼らにむかって「おまえたちを殺してやる!」とステージちかくで叫んだ若者もいた。そして、ローリング・ストーンズたちが演奏しているときに、メレディス・ハンターという黒人青年がピストルをとり出してふりかざし、すぐにヘルズ・エンジェルズにおさえこまれ、そのうちのひとりによってナイフで刺されて死亡した。
このオルタモントのコンサートが失敗した原因は、さまざまにあげられている。もっともいけなかったのは、入場無料というつかのまの事実だった。いまのコンサートだけが無料であるという事実は、ほかのすべてのコンサートが圧倒的に有料である事実を露呈していた。有料と無料のはざまから、いまの悪しき社会のしくみのすべてが、凝縮されたかたちで、一瞬、見えた。そして、その場にいたほとんどの人たちが、悪しき社会のしくみにふさわしい態度をとった。この態度のひとつのあらわれを、ティモシー・リアリイは、ステージのマイクのつかわれ方のなかにみている。ウッドストックでは、ステージのマイクは全員のコミュニケーションのために用いられたのだが、オルタモントでは、ステージから客を統制し命令する一方的な伝達にしかつかわれなかった、というのだ。
無料だったウッドストックでも、スポンサーつきのフェスティヴァルが必然的に持つ搾取的な性格に気づいたアビー・ホフマンは、ステージにあがって「こんなフェスティヴァルはやめてしまえ」と怒鳴り、主催者たちからロック文化全体のための資金として一万ドルださせることに成功した。
七〇年の七月にニューヨークのランダールズ・アイランドでおこなわれたニューヨーク・ポップ・フェスティヴァルのプロモーターたちは、フェスティヴァル計画が発表されるとすぐに、ロック文化の搾取反対を名目にいろんな条件をもちだしてくる人々の応対をしなくてはいけなかった。ブラック・パンサーの保釈金、黒人ゲットーに配る無料入場券、フェスティヴァルをうつしたヴィデオ・テープのコピーなどを、その人たちは要求したのだ。
映画『ウッドストック』があげた収益を誰が最終的に手にすべきかをめぐって裁判がおこなわれているし、アメリカで『ウッドストック』を上映した映画館のいくつかに対してはピケットがおこなわれた。ひとり五ドルという法外な入場料に疑問を感じた人々が、入場者ひとりひとりに語りかけ、犠牲者として搾取に加担しないよう説得したのだ。
ロック・フェスティヴァルの総体的な失敗は、ふたつのことを教えてくれている。
ひとつは、ロック・フェスティヴァルは無料以外ではありえない、ということだ。無料のフェスティヴァルは、アメリカを支えている中間搾取的民主主義に根底から対立するものになりうる。さらに、いかなるかたちの企業もやがて持たざるをえなくなる公共への無料サービスの予言的な先がけにさえなりうるのだ。
「どんなことをしてもカネはつくれるでしょう。私はハートを売っているのだから、彼らはカネを払うべきよ」
と、ジャニス・ジョプリンは言うのだ。しかし、かつて彼女が属していたホールディング・カンパニーのリード・ギタリスト、ポール・カントナーは、次のように言う。
「ロックのフェスティヴァルはタダであるべきだ。フェスティヴァルにはもう参加しない。そもそもの母胎である、日曜の午後の公園での無料コンサートにもどるのだ」
これからさきのことを考えると、カントナーのほうがはるかに正しい。
ロック・フェスティヴァルが教えてくれたもうひとつのことは、攻撃すべき目標をまちがえてはいけない、ということだ。映画『ウッドストック』は、たしかにボイコットに価するのだが、たとえばロックのレコードを売っているレコード会社の大手はそれぞれテレビ網を持ち、そのテレビは、戦争と深くかかわりあっている産業のコマーシャルによって成り立っている。だから映画『ウッドストック』をせめるまえにレコード会社やテレビを攻撃するのかというとそうではなく、アメリカが独立以来しずかにしかもアメリカの理想の樹立という美名のもとにおこなってきた、長い時間かけたもうひとつの革命に対して攻撃をしかけなければいけないのだ。ロックのフェスティヴァルがあろうとなかろうと、アメリカはとっくに「精神的にはファシストの国」(ドン・ヘックマン)ではないか。
七〇年の夏には、シカゴでも無料のロック・コンサートがおこなわれた。これは、シカゴ市当局がたくらんだ面白いプロットだった。七月二七日、午後四時から、スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンズが無料でコンサートをひらくという。ファミリー・ストーンズは、それまでに三度もシカゴでのコンサートをすっぽかしている。一〇万人ちかくの人々が、公園にあつまってきた。時間がきても、ファミリー・ストーンズはいっこうにあらわれない。ステージでは、ほかのグループが演奏している。数人がそのステージにあがり、スライを出せ、とさわぎはじめた。その数人に対して、ステージを降りろ、と命令する人たちがいて、この対立からさわぎは大きくなり、警官が仲裁にはいると、さわぎは警官にむけられ、パトロール・カーがひっくりかえされ警官が発砲するという事件になってしまった。この日、多くの人出が当然予想されていたにもかかわらず、警備にあたっていた警官の数は、おどろくほどすくなかった。この事件を理由に、シカゴ市でのロック・フェスティヴァルやコンサートは、そのすべてが禁止されることになった。
たとえばローリング・ストーンズの音楽が好きなら好きでいいのだ。勝手にレコードを聞けばいいことだし、コンサートにでかけていって彼らの音楽や存在を体験すればいい。
「私になんらかの責任があるとするなら」
と、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーが言っている。
「それは、なにが正しくてなにが人間的であるかを身をもって示すことだろう」
アメリカをコンサート旅行したとき、収益の一部をヴェトナム反戦運動にまわさないか、とたのまれたミック・ジャガーは、
「ヴェトナムはあなたがたアメリカの問題だ。私は知らない」
と、こたえた。
音楽はようするに音楽で、ローリング・ストーンズはローリング・ストーンズなのだ。ロックは革命ではなく、ローリング・ストーンズもまた革命ではない。
「ローリング・ストーンズは推察するところ、長くはつづかないだろうし、つづかなくて私はうれしく、それが正しいと考える。はじめから長つづきするように意図されていなかったし、次第に年をとっていくことが許してもらえるようにもなっていなかった。一度だけ衝撃をあたえ、そのあとは消え去るのだ。彼らにすこしでも端正なところがあるのなら、彼らは、あと三日で三〇歳というときに飛行機事故で死んでくれることだろう」(ニック・コーン)
一度だけの衝撃、をどうするかは、それはその衝撃をうけとめた人たちひとりひとりにかかってくることであり、ローリング・ストーンズは関知しない。そのような衝撃をすでにどこかでうけとめてしまっている人たちにとっては、ローリング・ストーンズはその衝撃の単なる思い出あるいは確認にしかすぎない。ステージ上のローリング・ストーンズがいかに邪悪にみえようと反現実的であろうと、またセクシーであろうと、あたらしいものはなにも生まれてこないのだ。
アメリカの黒人のブルースをまねすることからローリング・ストーンズは、はじまった。はじめのうちまったく反応はなかったのだが、若い人たちのあいだで口づてで人気が出て、ある日いきなり、スターになった。
スターではあっても、革命家であるとはかぎらない。だから、ローリング・ストーンズからは、ロック以上のものを期待してはいけないのだ。すぐれたロックは、肉体的なよろこびのひとつだ。そして、それ以上のものではない。
ローリング・ストーンズは嫌いだが、ジェファスン・エアプレーンなら好きだという場合だってありうるだろう。
ジェファスン・エアプレーンは、一九六五年、サンフランシスコでつくられたグループだ。フォーク歌手のマーティ・ベイリンがナイトクラブをはじめようとし、そこで演奏するロック・グループをさがしにかかった。フィルモア・ストリートのマトリクスというクラブを手に入れたころには、ロック・グループはさがすよりも自分でつくったほうが早いことに気づき、友人たちをあつめてジェファスン・エアプレーンをつくってしまった。
一年あとにRCAと契約し、契約金は二万ドルで、若いロック・グループがカネになっていく先頭をきった。モンタレーのポップ・フェスティヴァルまでに最初のLPが出たし、グレート・ソサエティから女性歌手、グレース・スリックが加わり、パブリシティは効を奏し、グレースが持ってきたふたつの歌『サムバディ・トゥ・ラヴ』と『ホワイト・ラビット』がヒットになった。いまでは、六枚目のLP『ヴォランティアーズ』が、売れている。
ジェファスン・エアプレーンは、一九六九年にテレビのディック・カヴェット・ショウに出たとき、motherfucker という言葉をアメリカではじめて放送することに成功した。そのまえに、スモザーズ・ブラザーズ・ショウでは、グレース・スリックは、顔をまっ黒に塗って出演した。
彼らのこのような行動あるいは彼らのロックを、革命とか反体制とか呼ぶことは、いっこうにかまわないと思う。しかし、その革命や反体制は、ジェスチャとしてのものにとどまることを忘れてはいけない。実際はそうではなくても、ジェスチャだと考えなくてはならないのだ。
ロック音楽を皮膚感覚でとらえることは、快感でありときには反抗のようなものにもなりうるのだが、思考にはならない。ほんとに革命をおこなうためには、抽象度の高い緻密な思考がまず必要であり、したたかな敵を相手にするには、その思考は、敵にはとうてい自分のものとすることのできないある特別な感覚に支えられていなければならない。そしてその感覚をつくり出す五感上のきっかけのひとつが、黒人ブルースが持っている音とビートだったのだ。思考は革命に加わるひとりひとりがおこなわなくてはならず、ロックにその思考のすべてをまかすことはとうていできないのだ。ロックという個人的な感覚上の体験は、複雑に抽象されていかないかぎり、なんの力にもなりえない。
一九六五年四月一四日のワシントン・デモで、ボブ・パリスは次のような言葉を自分のものとしてしゃべることができるまでになっていた。
「ミシシッピーは、モラルのかがり火的なシンボルではない。ミシシッピーは、私たちにとって、鏡でなければならない。その鏡のなかに、アメリカがどのように映っているかを、正確にみきわめよう」
前の年、一九六四年に、ミシシッピーに入っておこなった公民権運動のための体験をとおして、ラディカルな若者たちは、もっともいけないのは結局のところアメリカそのものである事実を、文字どおり身をもって認識した。
SDSは一九六二年にミシガンで、SNCCは一九六〇年にアトランタで発足した。アイゼンハワー時代には火が消えていたアメリカのラディカリズムは、一九五八年の選挙をきっかけにニューレフトとして活動をはじめ、ケネディ時代に入って、活発になった。ケネディやニューフロンティアが持っていた限界についてはすでに書いた。しかし、ケネディは、アイゼンハワーにくらべればはるかにましだった。アイクは、ゼンマイを巻いても八年間はじっと動かずにいるゼンマイじかけの微笑する人形、と言われていたのだから。
SDSは一九六四年のバークレーでのフリー・スピーチ運動を機に活動の舞台を大学にかえし、独占私企業や資本主義への単なる入口でしかない大学に抗議することをとおして、たとえば一九六八年四月の全米学生ストライキのようなかたちで、アメリカの現体制すべてとの対決にむかっていった。
SNCCも、全アメリカを相手にまわすことにおいては、SDSとおなじまったくあたらしいアメリカン・ラディカルだった。六四年のミシシッピー体験、あくる年のセルマ行進がいずれもアメリカ側からの強硬な抵抗と妨害によって失望にかわったとき、まるでそれをみはからってでもいたかのように、公民権法が成立した。
公民権法の成立は、黒人問題がひとまず大きく解決しはじめたような錯覚をアメリカにあたえ、ワッツの暴動で反黒人的な感情がべつなかたちであらたにアメリカン・ホワイトたちのあいだに、うえつけられた。
公民権法など、実際には成立してもしなくても、黒人たちの状態はすこしもかわらなかった。黒人の投票権の行使はありとあらゆる策を用いて妨害されていたし、貧困とのたたかいを宣言したジョンソンは、軍備には八〇〇億ドルをさきながら、貧困対策には一五億ドルしかまわさなかった。そしてヴェトナムでは、自由世界を守るためと称して、戦争をエスカレートさせていた。アメリカの偽善がアメリカの内部で巨大に制度化されてしまっている事実はすでに誰の目にも明らかであり、この事実を足がかりにして、ブラック・パワーがSNCCのなかから生まれていった。
一九六六年五月、ナッシュヴィルの会議で、ストークリー・カーマイクルが登場したのだ。
カーマイクルは、公民権運動に参加している白人たちに、次のように忠告した。
「諸君は諸君がかえるべきところにかえって、そこで組織活動をやるがよい。その場所が諸君にとっては現実であり、そこの現実をかえていくことができるのは諸君だけなのだ」
逆にひっくりかえした「人種主義」ではないか、という批判はまったくあたっていない。アメリカはもはや完全にあてにならないので、いまのアメリカ以外にもうひとつ、黒人だけのアメリカをつくろう、ということだ。白人と黒人との調和的統合は、最善のことがなされたとしても、これまでどおりの、一寸きざみの現状改良主義でしかない。
「黒人と白人リベラルとのちがいは、朝おきたときにまずなにが目にはいるかのちがいだ。我々はシェアクロッパーの小屋をみるのだが彼らはセントラル・パークをみる」
せまい意味での白人排斥主義ではなく、黒人と白人との、根底的部分での相違の認識から原動力をえた「黒人たちを掘りおこす」ための決意だった。
すこしずつおこなわれる現状の改良を否定するブラック・パワーは、黒人だけのものではなく、白人のニューレフトにも共通してみられる、完全に新種の本能的な戦術だ。
白人ニューレフトは、白人中産階級の出身だから、これまでどおりのアメリカの理想を追って出世主義にかたむいていくことはたやすくできるし、そこでの成功は、保証つきにちかい状態であった。しかし、ニューレフトは、そのアメリカ的成功物語の主人公になるのを自らやめ、アメリカのなかにあるファシズム的資本主義の非人間的な部分すべてに対する批判本能として、登場した。
進歩途上のものをさらに進歩させていく、あるいは不備な点を改良させていくという姿勢の、これまでの急進主義者たちとは完全に異質であり、本能的にあるいは印象的に嫌悪したもの全体を拒否し批判するという、不思議な感性の持主たちだった。ひとつの定まったイデオロギーは持たず、さまざまなものがごったに混合していて、考え方は、わるく言って幻想的、よく言って抽象的であり、リーダーは持たず、全員が参加する共同体の雰囲気があり、組織的であるよりは無秩序のなかからなにかを創造していく態度だった。すぐれた点をいくつかにしぼってえらびだすならば、ものの考え方の抽象性、全員の直接参加、漸進主義の否定、誰にでも参加できる戦術の採択、などだろう。
いまのアメリカにかわるもうひとつまったくべつなアメリカを、現体制とはかかわりあわないところにつくろうとすることはアメリカのつくりなおしと基本的にはおなじであり、このようなものの考え方は、ニューレフトの中核をなす学生たち以前の世代には、想像もつかないことなのだ。
ある新しい感性に支えられて、ごく抽象的なところから自分たちのイズムをつかまえてきて、そのイズムを日常的な現場で抵抗手段にかえていくという、このラディカリズムのなかの新しさは、ニューレフトの世代が不況体験を持たない事実からくる心理的なぜいたくさに根ざしている。
一九二九年にはじまったとされているあの不況は、結局のところ解決されることなくアメリカ資本主義の所有物となった。社会のつくりがまちがっていたから不況がきたのだが、もちろんそのようには解釈されず、政府の統制のしかたがいけないからだということにされ、戦争で不況が表面的に解決された事実は個人の次元にまでひきのばされ、経済的な失敗はすべて個人の責任であり、失敗したくなければ努力しなければならない、ということになってしまった。
不況に少年時代をすごしたアメリカ人は、五〇歳前後までに、三種類の戦争を体験させられた。そして、戦争のたびに、簡単に言うならば、自分の住んでいる社会に対する正しい認識が遠いものになっていった。
つまり、生きていくうえでの絶対的な前提として、彼らには生存競争があった。生存とは「仕事」を手ばなさずに維持することであり、「仕事」に対しては、創造的な熱意よりも、やがて自分の手からその仕事がなくなってしまうのではないか、という恐怖のほうがさきにたった。生存とは、恐怖においかけられることだった。そして、急激に変化する社会は、自分たちの理解をこえたものを次々に生み、オートメーションとサイバネーションで、「仕事」はどんどんすくなくなっていった。たとえば、一九五四年には四〇〇人の手をかけてつくられていた自動車のカービュレーターは、わずか一〇年後の一九六四年では、一〇人の職工がいれば足りるところまでにきていたのだ。
不況は、アメリカ人に恐怖をうえつけ、アメリカ資本主義は、この恐怖感情を好きなようにあやつることを学んだ。法と秩序、のようなもので、なにごとも理解できていない社会をひとつに安定的にまとめあげる錯覚をあたえて大統領になったのはニクソンであり、彼にあやつられた声なき多数は、もっとも密度のたかい恐怖を持った不況世代を中心にしている。
経済的な成功のための努力、ということの矛盾に気づいたのは、不況による恐怖を持たない、文字どおり豊かな世代の若いアメリカ人たちだった。
矛盾は、ごく単純なものだった。自分が努力をしてかせげば、そのとばっちりでかせげるものもかせげなくなる人がどこかにいるはずだ、ということなのだ。彼らの発想の根源は具体的ではなく、私企業のあまりにも多くが個人の悲劇を前提にしている、というような抽象的なところにある。たとえば生命保険は、人が死ぬことを前提にしてさかえているではないか。悲劇を資本にした商売の最大のものは、戦争だろう。
ニューレフトが、漸進的改良主義をとなえなかった事実は、後世の歴史家によって、アメリカにとっての非常なる幸せであったととらえられるはずだ。ようするに諸悪の根源は、アメリカにおいて独特の進展をみせた資本主義なのだから、その枠の内部でほころびをつくろってみてもなにごともはじまらない。非人間的なものをとりはらうには、アメリカのすべてをトータルに否定しなければならなかった。
この事実を、SDSのグレゴリー・カルヴァートは、次のように表現した。
「革命運動とは、人間の持っている可能性と抑圧されている現実との間の矛盾を知覚することから生まれる自由のための闘争だ」
いまのアメリカを否定しくつがえすためには、アメリカの構造に即した現実的な闘争がなされなければならない。一九六六年二月一日、北カロライナ州の大学生四名によってはじめられた、レストランのコーヒー・カウンターでのシット・イン(坐りこみ)は、現在のアメリカがかかえている問題の核心を、抽象的にだが、みごとについていた。
レストランでのシット・インは、黒人を差別することに対する本能的な義憤によって動かされた抗議運動なのだが、人種差別の単なる撤廃ではなく、そのような人種差別がおこなわれているアメリカの一部分をとおし、アメリカ全体を批判し否定することであった。そうでなければ、あのようにシット・インがみじかい期間に急激にアメリカ各地にひろがるはずがないのだ。
政府に訴えたりはたらきかけたりしても、なにごとも解決されるみこみはない、という正しい認識から出た必要最小限の効果を持つ抗議手段が、坐りこみだった。政府をあてにしない点において、シット・インは、いまのアメリカの外につくられるべき、代議制の二党にかわる第三党の予言となりえた。
ニューレフトの非暴力思想は、シット・インにもっともよく表現された。人間はただそこに生きて存在するだけでひとつのモラル上の価値を形成する、というような考え方がニューレフトの非暴力主義の根底にあり、SNCCのテーマでは、
「愛は非暴力の中心的モチーフである」
となっている。
この「愛」については、生ぐさい誤解がされやすい。アメリカの若いラディカルが言う「愛」とは、人間関係が持ちうる最高のユートピアの、仮定された姿なのだ。社会的には、国の経済全体への、全員による直接参加によって、この「愛」は支えられる。
経済全体への直接参加には、次のようなすばらしく単純な哲学がある。
人間の経済活動は、地表における肉体的な存在を維持するためであると同時に、人間が持っているはずの創造的なエネルギーをできるだけ多くその人からひき出すためでもなければならない。
ようするに、経済活動が、つまりもっとも一般的には、会社につとめて給料をもらう作業が、個人の存在を決定的に左右しているのであり、だからこそ個人は、自分の経済活動の成立基盤であるその国の経済全体に対してなんらかのかたちで影響力を持たなければならないとする考えかたなのだ。
この哲学を、単なるユートピア幻想にとどめているかぎり、これからさきなにごとも解決されないはずだ。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、次のように言っている。
「アメリカの生産機構はたえず豊富な食糧をつくりだすので、私たちはますます大きい倉庫をたて、余剰分を貯蔵するため毎日一〇〇万ドル以上をつかわねばならない。どうしたらよいのか。ここでも答は単純である。夜、空腹のまま床につく数百万の神の子たちのへこんだ腹の中に、無料で余剰食糧を貯蔵することができるはずなのだ」
はずなのだ、ではない。現実に、しかもごく簡単に可能なのだ。一〇〇年前のアメリカでは、総人口の八〇パーセントちかくが、農業にたずさわっていた。しかし、農業労働が機械化されたため、現在では、農業労働人口は、総人口の六パーセントくらいまで落ちている。六パーセントというわずかな人たちが農業によって食糧を生産し、その生産されたものを九四パーセントの人たちに売って利益があがるだけではなく、なおまだ農業生産物には余剰があるのだ。
ストークリー・カーマイクルも、とっくにおなじことに気づいていた。
「政府はUSスティールやジェネラル・モーターズなどの大企業をすべて接収すべきだ。一〇〇人以下のバカな人間が国の産業の六割を統制しているなどという状態をやめさせたい。大農場はすべて分割して農場で働くものは誰でも自分の土地を持てるようにするべきだ」
キングもカーマイクルも、生産手段や資源の開放のほうから、もうひとつべつなアメリカを考えている。黒人問題をとおして彼らが考えているアメリカのつくりなおしは、アメリカの経済機構つまりここまで進んできた資本主義の再編成なのだ。たとえば個人的な経済活動の結果である個人の収入は、その人の生産的な努力だけが生みうるものだと考えられていた。しかし、ほんのわずかな人々が生産にたずさわることによって大多数の需要をみたしうる社会の利益分配組織をつくりかえてしまうと、収入はかならずしも生産的努力の結果ではなく、むしろ人が生まれたときから死ぬまで自動的に常に存在する当然の権利にちかくなる。生産とか労働とかが、これまでとは完全にちがった意味をやがて持つようになるであろうことは、マルクスでさえも「富の尺度になるのは労働時間ではなく自由時間のほうだ」と、早くから予言していた。オートメーションとサイバネーションが生産し労働するのを、少数の人々がただ管理すればよい社会では、労働と私有財産の神聖さに土台をおく資本主義の根底は、やはり考えなおされなければいけないのだ。
オートメーションやサイバネーションは、進歩とか繁栄とかの影にかくれて静かにゆっくりとやってくるから、それが資本主義の改革のために用いられるチャンスは、いまよりもはるかにすくなくなるかもしれない。私的な利益のみを追求する私企業は、生産という幻想をさらに自分の利益に帰結するよう操作するかもしれない。絶対に必要なものが広くいきわたってしまった市場は、気まぐれな消費を得意とするようになるから、消費の「自由」は広告によって巧妙にあやつられつづけるだろう。
しかし、私企業が私的な利益エゴのみを追うことによって、公共の場たとえば地球をどれだけ傷つけてきたかは、すでに人々の気づくところとなった。これをきっかけに、公的な利益に関する思想がかたちづくられていくと、人間の単なる経済活動と創造的活動とはやがて完全に切りはなされるはずだ。全体主義とかファシズムのようなものではなく、想像を絶してパブリックな計画経済や管理社会のなかでは、地球の上にいる人間グループに対して個人がどこまでエゴをすてることができるかが、神聖な労働とされる。一日八時間労働、といった意味での労働は、たとえば一生に一年だけ働けばよいとか、働く働かないは個人の自由ということになり、ごく単純な交代労働になってしまい、それにかわって重要問題としての創造的な意味での労働は、エゴに公共性を持たせるという至難事にむかい、そのためには現在の段階で考えられうるもっともパブリックな労働である教育が、つくりかえられなければならない。
[#改ページ]
ブルースを通じてのジャズの蘇生回復は、ブルースの現在の都会的表現の形式である「リズム・アンド・ブルース」によって行われた。その結果が「ロックンロール」の誕生である。どの中流家庭の母親にたずねても、ロックンロールは「低級な音楽」という返事を得るであろう。この低級卑俗性にもかかわらず、いや、その故に、例えばエルヴィス・プレスリーの存在は、ジョウ・スタッフォードなどより、はるかに社会史・文化史的意義をもつと考えられる。
もとよりロックンロールはリズム・アンド・ブルースを極度に商業化した粗製品ではあるが、それでもなお、中流階級――中流文化に根ざすアメリカ一般社会――が否定するところの多くの価値を含んでいる。かつて通俗スイングを毒した安価なアメリカ中流文化意識は、ロックンロールをも変形しようとしたが、これは難しい相談だった。というのも、そこからロックンロールが湧きあがる母胎である一九四〇年代の都会ブルースは、これを水で薄めるには余りにも強烈な生命力に満ちていたし、またそうであるからこそ、どちらもアメリカ文化一般から孤立し疎外されていたのである。ロックンロールの魅力は、その商業化にもかかわらず、その根源にある都会ブルースまたはリズム・アンド・ブルースから発する悪魔的・地獄的な炎が燃えあがるからだ。ロックンロールの主題は、しばしばその主人公であるアメリカの白人の若者を、未成年犯罪者や非行少年――とまではいかなくても、親や社会に反抗する十代の「不良」――として描くことにあるのだが、このことがそのまま、黒人ブルース音楽の本源にある疎外と被害者意識に通うのである。(だから、ロックンロールは、米国におけるもう一つの被差別少数民族――すなわちプエルト・リコ人――の若者たちに愛好されている。少なくともニューヨーク地区では、現在でも多数のロックンロールがプエルト・リコ系の人々によってうたわれており、〔彼らの国語であった〕スペイン語の歌詞がついたものさえあるのだ。)
してみれば、ロックンロールとは、アメリカ社会の中流階級の思想や趣味を取り入れるほどには成熟していない年齢層やそれだけの収入のない階級(それから、メラクリーノやコステラネッツのお上品なムード・ミュージックでは「パンチがない」と思うような階層)が支持するところのブルース様式であると定義してよいであろう。(リロイ・ジョーンズ『ブルースの魂』上村澄雄・訳より)
ミシシッピー河にちかづけばちかづくほど音楽はすぐれている。(あるデルタ・ブルースマン)
ミシシッピー河は、ただの河ではない。(マーク・トゥエーン)
ブルースが真実だ。(ライトニン・ホプキンズ)
リロイ・ジョーンズが言う「疎外」と「被害者意識」とは、結局のところ現在というものに対するトータルなフラストレーションであり、この欲求不満がブルースの基本になるとき、創造的な音楽衝動として、かたちをかえるのだ。東テキサス、デルタ、ジョージアなどの黒人ブルースマンたちは生まれながらにしてこのフラストレーションを持たされていた。ビートルズやローリング・ストーンズは、たまたまおなじようなフラストレーションを得ることができるような状況のなかにいて黒人ブルースをみつけた。
ブルースは、人間が発しうる音声の、音楽的に抽象化された延長ないしは真似だ。その音声のなかには、つぶやきとか笑いとか絶叫とか、たくさんのものがあるのだが、代表としてひとつだけをとりだすと、泣き声だ。
ただ単に、なにか悲しい原因があるから泣くというのではなく、生理的あるいは精神的な本能のひとつとして大泣きするという、人間が持ちうるごく自然な姿の「泣き」なのだ。ロックンロールが持つ快適さは、はじめから陽気に単純にしあげられたビー玉のようなうれしさではなく、複雑なものに発展しうる土台を持った、大泣きしたあとの昇華的なさわやかさでなければならない。
黒人にとって、泣くことは自然な本能だったが、ホワイト・アメリカンにとっては、一種の恥であった。
ブルースの意味は、ほんとに個人的な体験なのだ。ブルースがかかわりあっているのはじつはこれなのだ。体験したことがなかったり、まるっきり知りもしないものに関して確信を持ってうたうことはできない。ブルース・シンガーたちは、話をしているだけだ。それを聞く人たちのほとんど共通な体験であるなにごとかについての話だ。話のなかみは真実なのだ。だからブルースは真実についての音楽だ。(ジョン・メイオール)
ボクは、このような音楽をやるために生まれてきたのだ。荷物をまとめて故郷をとびだし、ミシシッピー河をくだっていくためにボクは生まれてきた。ボクは音楽狂いだった。完全な音楽ファナティックだった。すばらしい名前のついた土地へぜひ自分でいってみたかった。テネシー州チャタヌーガ。ルイジアナ州シュレヴポート。一刻も早く、自動車に乗って南へくだっていきたかった。すぐれた音楽は、すべて南にあった――ロバート・ジョンソン、ボ・ディドレー、チャック・ベリー、ジュニア・パーカー――彼らは、自分たちの音楽のなかで、このすばらしい土地について語っているではないか。(ジェイミー・ロバートスン)
いまはザ・バンドにいるジェイミー・ロバートスンは、一九五九年、一六歳の少年のとき、ギターを持ってトロントをとびだした。おなじような衝動にかりたてられて、リック・ダンコ、ガース・ハドスン、リチャード・マニュエル、ルヴォン・ヘルムの四人も家をとびだし、一九六〇年には五人がいっしょになって音楽をつくるようにまでなっていた。
当時、ロックには三種類しかなかった。リズム・アンド・ブルース、白人のロック、そして、ロカビリーだ。ボクたちは、ロカビリーをやった。(ジェイミー・ロバートスン)
人口の八五パーセントまでがオクラホマ・インディアンだというようなところでもボクたちは演奏した。音楽を聞きにくるのではなく、ボクたちに喧嘩を売るためにやってくるような人たちのためにだ。タバコの喫いがらを投げる、コインをぶつける、楽器を盗む、ピストルを射つ。このようなことを卒業してはじめて、ボクたちの音楽は聞いてもらえる。いつのまにか、したたかにタフな音楽になっていった。(ガース・ハドスン)
一九六五年の夏、アトランティック・シティのちかくで、ボクたちホークスは演奏していた。そこへボブ・ディランのオフィスから電話が入った。ボクたちは、ディランなんて聞いたこともなかった。しかしディランはボクたちのことをどこからか知ったのだろう。ハリウッド・ボウルでいっしょにやってくれないかという。びっくりした。でも、ひきうけた。ボブとは、ジャム・セッションをよくやった。歌をつくる、というようなことではなく、ひとつのダイナミックな体験だった。ボクたちもディランも、おたがいに相手になにかをあたえあった。(ジェイミー・ロバートスン)
いちばんはじめに影響をうけたのは、チャック・ベリーだ。それから、ビッグ・ブル・ブルーンジー、レッドベリ、スキップ・ジェイムズ、ロバート・ジョンソン。ブルースの歴史を逆にたどっていったわけだ。ビートルズがはじめに影響をうけたのがチャック・ベリーだと聞かされてアメリカの若者がはじめてベリーに目をむけたのは、じつに不思議だ。(エリック・クラプトン)
最初の楽器はピアノだったのです。ジャック・フィナの『バンブル・ブギ』を覚えました。レコードは78回転で、33まで回転を落して、記憶したのです。音を、ひとつひとつ。ほんとですよ。レコードとおなじくらいにうまく弾けるまでになったのですが、いまではとてもダメです。(ジョン・フォガティ、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)
ピアノからはじめました。はじめに聞いたのは、ブギウギのピアノです。そのようなレコードがあったからでしょう。あとになってLPをとおして、ジミー・ヤンシーやクリプル・クラレンス・ロフトンたちのことを知りました。ギターについてもおなじです。あのころイギリスで手に入ったのは、ジョシュ・ホワイトだけでした。あとで、ジョン・リー・フッカー、マディ・ウォーターズ、シカゴのブルース、それに、ビッグ・ビル・ブルーンジーたちを聞きました。どんどんひろがっていくのです。ひとりのアーティストをきっかけに、さらに大勢のアーティストへと。(ジョン・メイオール)
シカゴのサウス・サイドへいきはじめたのは一六歳の頃だったのです。ボクはすでにギターには自信があって、黒人たちをまかしてやろうと考えていたのです。ロックンロールをボクが弾くと、黒人たちは、ボクが早く弾くのでおどろいていました。でも、そのときのボクは、まだブルースは弾けていなかったのです。ソウルをこめて弾いていたわけでもないのです。男らしくブルースがどうやら弾けるようになるには、今日までかかったのです。(マイク・ブルームフィールド)
はじめに、戦後のブルースのふたつのかたちを結合させようとしたのです。B・B・キングを頂点とするリード・ギター・サウンドをひとつにまとめてそこにホーンでハーモニックなバックをつけ、たとえばマディ・ウォーターズのようなミシシッピー生まれのシカゴ・ブルースマンの原始的なスタイルが持っているモーダルなフィーリングをつけ加えようとしたのです。モーダルなアプローチのほうが、力強くなるのです。強烈な音声の雰囲気がつくれます。ブルースは基本的にはヴォーカルであり、いろんな楽器をつかってもそれはみな音声の延長またはシミュレーションであるということを忘れてはいけないのです。(故アル・ウイルスン、キャンド・ヒート)
黒人のブルース・アーティストが、ボクのブルースを認めてくれる。ボクには、それさえあればいい。数多くの黒人ブルースマンと共に仕事をしてきた。ボクの欠点を教えてくれたし、助言もしてくれた。彼らはいつもボクをはげましてくれた。ボクは彼らに認められたのだ。それでボクは充分に満足だ。(ジョン・メイオール)
ロックンロールにおいては、音としての重要性は、音声よりもギターの音のほうが、まさっている。
声はそれほど重要ではない。ロックンロールは、リード・ギターの音楽なのだ。(ジョー・マクドナルド、カントリー・ジョー・アンド・ザ・フィッシュ)
なぜ、ギターなのか。
ギターがもっとも手に入りやすい楽器であった事情は、ブルースとカントリー・ミュージックのところで、それぞれのべた。持ちはこびに便利であるという有利さもあったし、素人にもとりつきやすかった。口をつかわなくてよいので、ピアノとおなじように、弾きうたいが可能だった。
しかし、ただこれだけの理由から、ブルースやカントリー・アンド・ウエスタンのアーティストが、そろいもそろってギターを手にするはずはないのだ。
ギターをリード楽器にすえたことから、ベース、ドラム、そしてさらに、リズム・ギター、という基本的な組みあわせができあがった。ギターを考えるときには、この基本的な組みあわせがつくる「サウンド」と「パルス」とを考えに入れなければ、なにごとも解決しない。
ロック・グループの基本的なインストルメンテーション――電気ギター、ドラム、電気ベース――は、グループのミュージシャンにとっては、技術的な壁ともなる。このような楽器をうまくこなせる若者はすくない。レコードでは腕のたしかなスタジオ・ミュージシャンにかわってもらえる。コンサートやテレビでは、レコードをかけてそれに動作をあわせてフェイクするかあるいはほんとに自分たちで演奏してみじめな結果におわるかだ。(デイトン・バール・ハウイ)
みじかいネックのギターは、みつけるのがむずかしい。なかなかみつからない。ネックがみじかいと、長いネックにくらべるとたとえばベンドもほんのすこしでおなじトーンがだせる。半音だけではなく、一音完全にベンドできることだってある。ブルースをやるときには、これがとてもいい。ブルースでは、ベンドをいたるところでつかわなくてはいけない。はじめ手に入れたギターが、みじかいネックだった。これを五年つかっていてほかのにとりかえたら、うまくいかない。くらべてみると、ネックの長さがちがうのだ。(ジョン・フォガティ)
催眠的な効果とただのくりかえしとは、はっきり区別しなければいけない。くりかえしのテクニックに落ちこまないよう、いつも気をつけていなければいけない。標準的な12小節プログレッションをひと晩つづけていると、これはボクのつくった言葉なのだが、メセドリン的なメンタリティになっていってしまう。不変な構造をモーダル・ノートで埋めていくわけだが、ひとつひとつのノートが持っている音声的なものへの関心をすてて、ただ早く演奏してしまう、ということになるのだ。早く弾く人のすべてがこうだというのではないけれど、ほとんどがこの落し穴にはまっている。(故アル・ウイルスン)
問「五弦や九弦のギターは、どこでみつけたのですか」
ジョン・メイオール「もとは標準の六弦です。ただ五弦や九弦にしてみただけです」
埋めてあるフレットをとりはらったり位置をかえたり、あるいは新しく加えたりして工夫をこらしたギターをつかっているミュージシャンは、アメリカでは珍しくない。
B・B・キングのギターが、まるで人間の声のようだった。人間がうたっているようだった。彼のギターは、最後までのこる唯一の楽器である、人間の声そのものだった。ボクは、ここにひかれたのだ。(マイク・ブルームフィールド)
ジャズのギター奏者たちは、ギターの音をホーンに似せようとしたり、あるいは、ギターの限界をうまくひき出していないのだ。ギターは、調律されたとおりの音しか出せないという楽器ではない。自由に音がかえられる。
たとえばピアノでは、キーを叩くだけなのだが、ギターだと、おどろくべきことがたくさんできる。電気ギターでは、なおさらだ。(ポール・バタフィールド)
人間をとりまいている世界のなかに、完全な沈黙の世界、という部分はありえない事実を考えなければならない。人工的な音、つまり人間が存在することによって直接・間接にひきおこされる音は除外したとしても、この地球はおどろくべき複雑さと豊かさとを持った自然音のシンフォニーにつつみこまれている。地球の自転がつくる音、雲の音、気圧の変化によってできる音、風がこしらえる音、地表の温度差によって生じる音、などさまざまだ。
これらの自然音が、すべての音の背景になっている。自然音を抜きにしてはいかなる音についても語れない。毎秒二〇サイクル以下、二〇〇〇サイクル以上の音は人間の耳では感じとれないとされている。しかし、肌が音を探知できることはすでに知られていて、五から一〇サイクル(毎秒)のインフラソニック・サウンドウエーブによる「殺人音波」の完成は肌および内臓が持つ「聴覚」の立証のひとつになっている。(カルロス・ヘイゲン)
レコードに入れられた音がいかに「現場」での音にくらべて劣っているかは、考えただけで気が遠くなる。人間の耳が一秒間に脳へ伝えることのできる情報量は、三六万ビットだという。現場での状況のすべてが、そのときの音に重要な参加を持つのだ。ジョン・ケイジの作品に『サイレンス』というのがあり、所定の時間、なにも音をつくらない音楽作品だ。音の世界の複雑さに人々の関心をむけるための啓発的な作品だったのだ。眼を閉じて聞くこと、というような指定がその作品にあったら、なお面白いだろう。視覚も、聴覚にとっては大切な相棒なのだ。
音そのもの、特にレコードにきざみこまれた音の再生音について考えることは、したがって、馬鹿げてさえいる。ある特定の状況にある人間にとってどのような音がどのような反応をひきおこしたりあるいはいかなる意味を持ったりするかという、かなり抽象的な次元で音は考えていくべきであり、ブルースのギターの音も、ロックの電気ギターの音も、例外ではない。
たとえばここに、古典的で標準的なデルタ・ブルース曲がひとつあるとする。ミシシッピーで生まれてそこあるいはその周辺で育った黒人のブルースマンがつくったもので、ギターとヴォーカルによるものであり、彼自身の手になる詞がつけられているとしよう。
詞の言葉が持つ響きや意味も、そしてギターの弦の上をすべる黒い指の音もふくめて、そのブルース曲が持ちうるすべての音は、そのブルースマンが自分のものとしてかかえこんでいた状況によってつくりあげられたものであり、そのブルースを聞く人たちの反応までが、作曲の一部分として組みこまれていると考えなければいけない。
こうしてつくられた、ごくせまい範囲内でのブルースのサウンドがレコードになり、文字どおり世界じゅうに散らばる。それぞれにことなった状況の下で聞かれたそのブルース・レコードのサウンドは、また逆にひとつの非常に近接した反応を、その音を聞いたひとたちのあいだに、ひきおこす。音が持ちうるこの抽象化されたコミュニケーション能力は、たいていは気軽に考えられているが、じつはおどろくべきことなのだ。古いターザン映画をみても、このおどろきは確認できる。おたがいに遠くはなれた土人たちがなにかを伝えあうために、太鼓を叩く。その音とジャングルの描写とが重なったとき、ほんの一瞬ではあるのだが、アフリカのジャングルのにおいとか空気の肌ざわりのようなものが伝わり、不思議なスリルをおぼえる。太鼓の音もジャングルも、現物と比較すれば笑い話しにもならないようなものなのだろうが、そのようなものでさえ、ジャングルを伝えうるのだ。
音によるコミュニケーション、という点から考えると、ロックンロールのレコードとコンサートでは、根本的に意味がちがってくるのではないだろうか。抽象化された音でのコミュニケーションは非常に個人的な問題であり、生の音がぶつけられる野外のコンサートでは、この個人の問題は埋没し、祭典とか儀式のような意味のほうが強くなるのではないのか。増幅装置からつくられる音と、野外という状況との関係は、たとえばウッドストックでも、考えられていない。音でなにかを伝える力は、コンサートよりもレコードのほうが強いのだ。
メロディ、特に人間の音域内でのメロディは、まず喉頭に影響をあたえる。喉頭はそのメロディを追っていき、耳で聞いているメロディをなかば再生している。メロディが高音にあがると、喉頭は緊張し、低音にさがると、ゆるんでいく。この喉頭は、泣きだす寸前のような激しい感情のときにもおなじように緊張する。メロディのなかに予期しない高音があったりすると、聞いている人の感情は大いにゆさぶられることになる。ひとつのメロディを聞くことは、そのメロディが持つ感情に、いやが応でも、まきこまれ参加することだ。
高音が喉頭に影響をあたえるとき、低音、特に電気増幅されたピッチカート奏法のベースによる低音は、腹にひびく。ひびくところは文字どおり腹であり、単なる比喩ではない。拒否することのできない個人的な感覚として腹にひびき、音域が低くなればなるほど、ひびく腹の部分も下位となる。
音階を保った規則的なベース・ラインは、自信、ないしは、ものごとがすべてうまくいっているような気持、あるいはその両方を、聞く人の心のなかにひき出してくる。ベース・ラインは、そのあやつり方次第で、精神的な高揚から狂気までを自由につくり出すことができ、音としての可能性は無限だ。バッハなどは、このことをよく承知して作曲した。
リズムは、心臓、骨格筋肉、そして運動神経とかかわりあう。
ほんのわずかな資料だが、これだけのことを知ったうえで作・編曲すれば、聞く人の体を柔軟なギターのようにあやつることも可能だ。聞く人の反応を、曲の一部分としてはじめからとり入れるのだ。(カルロス・ヘイゲン)
創造力は、コミュニケーションの一変形にすぎない。自分が持っている不安をなくすため、私たちはおたがいに常にコミュニケートしあう。語りあうコミュニケーションでは、言語はすでに固化しすぎている。私たちの内部にある流動するものを伝える手段には、ふさわしくない。したがって、言語ほどに固化していない手段、たとえば音を、さがすことになる。(ケン・グリーンバーグ)
他人の頭のなかに入りこむことはできない。しかし、音楽は、他人の頭のなかに入りこむことなのだ。(故ジミ・ヘンドリクス)
歌をとおして語ることの価値や力のようなものを、私はよく承知している。メッセージを伝える、というようなことではなく、音楽そのものをとおしてなにかを語ることだ。(ブライアン・ウィルスン、ザ・ビーチボーイズ)
エルヴィル・プレスリーの頃にくらべると、音楽をつくる人と聞く人とのあいだには、現在でははるかに大きなコミュニケーションが存在する。(ポール・カントナー、ジェファスン・エアプレーン)
私たちの音楽は銀行員のための音楽ではない。開いた心を持つ人たちのものだ。聞く人が、自分が持っているすべてのもので音楽に反応してほしい。バックグランド・ミュージックではなくて。バックグランド音楽など、過去のものだ。(エリック・クラプトン)
聞いている人たちからのフィードバックは重要な演奏メンバーのひとりと言える。(ジョン・コルトレーン)
歌の演奏は、もうしたくない。インプロヴィゼーションをやりたい。インプロヴァイズするバンドとしないバンドでは、聞いている人とのあいだの反応がまったくちがっている。(ジョー・マクドナルド)
なにかを嫌いになるということは、自分に対して自分で限界をつくることなのだ。ものの見方が限定されてくる。ジャズを聞いている人でも、ほとんどはジャズがわかっていなくて、わかっているふりをして風俗を追っかけているだけなのだ。(テッド・ブルーチェル、ジ・アソシエーションズ)
身のまわりでなにがおこりつつあるかに関してもっと敏感にならなくてはいけない。音楽だけではない。(ラリー・ラモス、ジ・アソシエーションズ)
フィルモア・イーストがつくられたとき、椅子はとりはらわれるはずだった。しかし、椅子があったほうが人をたくさんつめこめるので、ビル・グレアムは椅子をあのままにしておいたのだろう。聞いている人たちは、死んでいる。ただ椅子にすわっているだけなのだ。(フランク・ガドラー、NRBQ)
歌詞なんか、どうだっていいのだ。誰がどこでうたおうと関係ない。言っていることは、自由になれ、のひと言なのだから。(ジェリー・ガルシア、ジェファスン・エアプレーン)
どのようなかたちの音楽でも、人に意味を伝えることができる。一般の人たちは、音楽に関しては知識がすくなく、同化するためには非常に単純な音楽でないとだめらしい。ロックは、ジャズやクラシックにくらべると、たしかに単純ではある。(ルー・ソロフ、ブラッド・スエッド・アンド・ティアーズ)
ロックは、コマーシャルな利益追求から生まれたものだ。常にそうだった。この事実を誰も批難せず、したがってロックが「芸術的」に語られることなどなかったときにこそ、ロックはもっとも純粋なエキサイティングなかたちで栄え得たのだ。(デイヴィン・シーイー)
一年とか一五年ほど昔はね、45回転レコードでロックンロールを売っていた人たちは、歌詞の一部をわざと不明瞭にしておいたのよ。ラジオで聞いてもわからなくて、しかたなくレコードを買わなければいけないシカケにしておいたわけ。常識なのよ、こういうことは。(バーバラ・デイン)
この一月、ソーダ・ポップ・アンド・ザ・ワン・ウエイ・ボトム、という名のロック・グループが、ラジオとテレビでデビューした。売りっぱなしで回収せず、公害のもとのひとつとなっている清涼飲料のガラス瓶をつくっている会社がでっちあげたグループだ。売りっぱなしの瓶をたたえるロックをうたっていたが、公害への関心のたかまりには勝てず不評であり、最近ではザ・グラス・ボトルズと名前をかえ、地球を汚すことの悪についてうたっている。(『ニューズウィーク』)
なにものも生産することなく大金をつかめるチャンスをロックにみたプロモーターたちによって、ロックのためのマーケットはつくられた。(ボビー・コロンバイ、ブラッド・スエット・アンド・ティアーズ)
曲をつくることによっておかねが入ったからこそ私は作曲のために時間をさくことができたのだ。商業的な力は、作曲に対して大きな推進力となっている。(チャック・ベリー)
凡百のグループが巨大な利益をあげる。音楽が凡庸であればあるほど、アメリカでは多くの人たちに渡っていく。ほんとのマーケットはそこにある。売りつける相手は、音楽ぎらいの娯楽好きなアメリカ人なのだ。精神を欠いたエスケピズム的な娯楽にちかい音楽ほど、その音楽はよく売れる。(フランク・ザパ)
トップ40に登場するロックは、その多くがみじめなものだが、このようなロックのなかにこそ、もっとも音楽的で単純なロックンロールが発見できるのだ。トップ40やコマーシャルなロックンロールを聞く人は、年齢的には一七歳くらいまでだ。彼らは心が開いていて、ロックを批評しながら聞いたりしないだけではなく、音楽に対するオリエンテーションが完全にちがっている。彼らはロックンロールをラジオで聞き、それにあわせて踊る。判断の基準はリズムであり、ファット・マットレスのベース奏者の微妙なイニュエンドに、暗い部屋でひとりヘッドフォーンで聞きいったりはしない。
チャック・ベリーのロックンロールは、現在ではすでに風俗的に古いが、彼の才能を特徴づけているドライヴやエネルギーは、新しい。ブルースやリズム・アンド・ブルースからくるこの基本的なエネルギーに商業政策が結びついて、すぐれたロックンロールが生まれたのだ。このロックンロールの伝統は、ほんとのアンダグランドであるトップ40によって、支えられている。メンバー構成やアンプリファイアーのサイズなどに気をとられている人たちのために演奏するエリートで芸術的なロックのグループは、ロックンロールのエネルギーとはすでに手を切っている。
芸術として洗練されたロックンロールは、ひどく退屈だ。知的なあるいは美的な面ではともかく、音楽のダイナミクスに関するかぎり、トップ40を聞いたほうが、むくわれるところは大きい。(デイヴィン・シーイー)
プログレッシヴなロックとして私たちが大切にしたものの多くは、音楽的には進歩していても、エモーションの分野では、枯れはててしまっている。ロック体験の頂点であった生なヴァイタリティは、芸術を愛する頭脳によって危機にさらされている。(リチャード・ゴールドスタイン)
登場したころのビートルズは、基本的にはアメリカン・スタイルのロックンロールをうたっていた。アメリカのそれより、わずかにまろやかで角がとれ、ハーモニックなアプローチを持っていた。清潔な響きを持ち録音もよく、総体的に言って受け入れられやすいものだった。しかしロックンロールの自然なエネルギーは残っていて、若い熱意が持つ誠実さのようなものが、アメリカ中産階級にはぴったりだった。
この頃のビートルズの音楽づくりには、欠点はほぼなかった。ただひとつ、なめらかすぎた。このなめらかさは、ハーモニアスなまろやかさとなってアップ・テンポな曲にまでおよび、編曲と人気によってかろうじて埋めあわせのつくうつろな空間をつくっていた。
ビートルズが音楽的に発展するにつれて、このなめらかさは、どうにもならなくなり、荒っぽいものはすべてその効果を計算してつくり出される人工的なものにかわっていった。おそろいのスーツをすて、四つの強い個人になり、それぞれが大きな才能を持っているという事実にかくされて、ロックンロールのエネルギー消滅に気づいた人は、数すくなかったはずだ。
歌詞のなかにあらわれはじめたシュルレアリズムは、ロックの内容を知的にたかめる役をはたしはしたが、その尻馬にのってただかねもうけだけをたくらんでいる人たちによって、必要以上の内省と芸術性とがロックンロールにあたえられることになってしまった。(デイヴィン・シーイー)
Eのキーの新曲をレパートリーに加えたら、それまでのレパートリーのなかから、Eのものをひとつ、すてていく。(故アル・ウイルスン)
現在の若者にとって、音楽は非常に重要だ。(エリック・クラプトン)
ジャズは、内省にむかいすぎている。ジャズ・ミュージシャンたちは、自分のために演奏している。聞く人に興味をもっていない。ジャズは常に変化しているから、やがてなにかが生まれるかもしれないが、いまはだめだ。ロックンロールは、ちがう。現在の若者でロックンロールの影響なしに育ってきた人、あるいは育っていきつつある人は、考えられない。ロックンロールが登場したとき、すぐに消えてなくなるといわれていた。消えていないではないか。(デイトン・バール・ハウイ)
過去五年間(一九六五――一九七〇)にアメリカの内部でおこった変化は、南北戦争以来、最大のものだ。(エリオット・バインダー)
ロックンロールは、若者の思考と本能を表現している。この音楽は重要だ。シリアスに考えなければならない。(バートランド・ラッセル)
アメリカの苦境がどうであろうとも、アメリカの若い国民は、自分たちで解決をみつけようとしている。あたりをみまわしてごらん。音楽を聞いてごらん。新しい変化は、すべて音楽のなかにある。(バート・コラル、『サタデー・レヴュー』)
音楽のモードが変化するとき、街の壁が崩れ落ちる。(ザ・ファッグス)
もっとも重要な政治の様式や方法の変化なしに音楽のかたちやリズムがかわることは、ありえない。新しいものはまず日常生活へ静かに入りこみ、力を結集する。そして、法や制度に攻撃をかけ、公私すべてにわたってあらゆるものをくつがえし、最大の力を得る。(プラトン)
人々をおたがいにひきはなし、愛のもっとも薄味なものしかあたえないことに繁栄の土台をおいている社会に対する強烈な疎外感をきっかけに自分たちの生活を根本からつくりなおそうとする若者のムーヴメントと切りはなしてロック音楽を考えることはできない。この点からすると、ロックは底知れぬ政治性を持った音楽なのだ。(チャールズ・アイゼン)
ロックは死なない。変化はあるだろう。しかし死ぬことはない。なぜなら、人々に必要なものをあたえずに、人々が欲しがるものをあたえつづけるレコード会社やプロデューサーは常に存在するからだ。(フランク・ザパ)
すぐれたロックンロールを好むか好まないかは、趣味の問題でもある。そして、趣味と同時に、持って生まれたなにものかも、関係している。(デイヴィン・シーイー)
自分たちのことをブルース・バンドだとは考えていません。ブルースの色彩を持ったロックンロールです。しかし、ほかの要素もたくさんあります。
サンフランシスコのベイ地区で育ったのです。トップ40なんかまだなかったときで、ほんとの音楽はオークランドの黒人放送局のリズム・アンド・ブルースでした。
曲のすべてを、ボクはドラムとベースのリフを土台にしてつくります。ビートをさきにつくって、それからメロディです。詞は、ノートに書きつけてある断片が、もとになります。
ようするに、ブルースは、はじめからあったのです。ブルースで育っていって、そこへエルヴィス・プレスリーがやってきて、ロックンロールになったのです。(ジョン・フォガティ)
音楽に関するかぎり、いまのアメリカでもっとも生命力に富んでヴァイタルなものは、ロックだ。すさまじい数の若者がロックを聞いているから、ロックはすべてのものを吸収していく。ロックのなかでもっとも重要なことをひとつあげるなら、演奏する人たち自身によってつくられたオリジナルであって、商売しか考えない人からの提供品ではないということだ。(フランク・ザパ)
一四歳のとき、サム・クックの強烈さと力とに感動した。あのときクックはゴスペルのグループでうたっていた。ボクは、カナダのハミルトンにいた。奴隷時代のアンダグランド・レイルロード(秘密連絡脱走組織の総称)の最終点で、黒人は多い。オスカ・ピータスンはこの産物だ。カントリー・アンド・ウエスタンばかりだった。いますこし火力のつよい音楽を、ボクはボビー・ブランドやレイ・チャールズ、ステイプル・シンガーズ、ゴスペル・パールズにみつけだした。(デイヴィッド・クレイトン=トーマス、ブラッド・スエット・アンド・ティアーズ)
五〇〇〇名の目で射すくめられつつステージでスポットを浴びれば、不誠実なもの、インチキなものは、すぐにばれてしまう。(ブラッド・スエット・アンド・ティアーズ)
ボクはクラシカル音楽も好きだ。ピアノ。ベートヴェン。一五〇年、二〇〇年も昔に書かれたものでも、すぐれた解釈演奏なら、ブルース・ギターの偉大なソロとおなじように、ソウルを持ちうる。ブルースがもっとも単純でクラシカルがいちばん複雑で、両者はとなりあわせに存在している。(トム・フォガティ、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル)
ラヴ・ソングは終りだ。あまりに単純であり、したがってすでに嘘とおなじだから。(フランク・ザパ)
ロックは反乱の音楽だ。この反乱にはパタンがなく、理解不能な部分がある。まったく新しい思考のカテゴリーをみつけだそうとすることにロックは深く関係があり、古いものが崩れ去っていくのは当然として、問題は、次第にできあがってくる新しいものなのだ。(チャールズ・アイゼン)
問「二枚目のアルバムにはどのような曲が入るのですか」
テリー・アドムズ「カーラ・ブレイの曲がふたつ。二曲、つくってくれたのです。でも、ひとつは悲しすぎて、できない」(NRBQ)
なにがジャズでどれがジャズでないかは、はっきりわからない。ラムゼイ・ルイスはジャズ・ピアニストだと考えられているけれど、ボクは、レイ・チャールズ系のブルース・プレヤーだと思う。オスカ・ピータスンやフィニアス・ニューボーンは、ブルースをやっているけれど、それはジャズのブルースなのだ。ブルースとジャズ・ブルースは、まるでちがう。聞けばわかる。(マイク・ブルームフィールド)
まもなくアメリカにはルネサンスがあるだろう。若い人たちが再びジャズをみつけつつある。ロックンロールによって、彼らはジャズのパルスやハーモニーにちかづいたのだ。レイ・チャールズ、さらにはデューク・エリントンまで、若い白人のアイドルだ。ビートルズの音楽ですら、ジャズとつながっている。(メズ・メズロウ)
昔ながらのアメリカン・ウェイ・オヴ・ライフを伝える文化的な伝道師に、ロックだけはなりえなかった。(ピーター・フォンダ)
一九四〇年代には、まだロックはありませんでした。(メイ・ウエスト)
ロック音楽は、人が正視しなければならないものについて、すさまじい正しさで、語ることができる。すぐれた歌は、いかなる状況におかれても、真実を伝えることができる。(ザ・グレートフル・デッド)
LSDは、その人がすでに持っている特性をきわ立たせるだけだ。私たちはヘッド(頭の)・ミュージックをはなれ、ボディ・ミュージックにうつっていく。体を動かしたくなる音楽だ。重いリズムがあって。根源にかえるとはようするに、本来の生命力をとりもどすことだ。リズムでいえば、人間の体が持っているパルスだ。LSDをやめたのも、こうなった理由のひとつだ。LSDを飲むと、それまでは自分でも知らなかった自分の一部分を体験できる。やがて、その部分ではなくてもっとほかの部分をみたくなるのだが、これができない。これが、バッド・トリップのはじまりだ。バッド・トリップを押えきると、LSDはもはや必要ではない。(ジョー・マクドナルド)
ロックンロールはカントリー・アンド・ウエスタンとリズム・アンド・ブルースの結合体だといわれているが、ほんとはブルースとカントリーの結合なのだ。黒と白とが溶合したとき、まったくべつなものがひとつ生まれた。私たちの音楽は、このロックンロールなのだ。エルヴィス・プレスリー、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャードたちの伝統をうけついでいる。テレビでトム・ジョーンズをみてごらん。エルヴィス・プレスリーの価値が、あらためてわかるからだ。(ジェイミー・ロバートスン)
ロックは楽しむための音楽だ。(ロン・マッキェーナン、ザ・グレートフル・デッド)
政治的な力としてロックが成功するとすれば、ロックがリラックスしたハッピーな音楽であるからだ。ロックは光だ。聞きたくなければ歌詞は聞かなくてもよい。(ピーター・スタッフォード)
革命はまず自分たち内部に存在しなければいけない。自分が定めた基準に到達することにより、自分以外の全体を革命する最大のきっかけが生まれてくるのだ。(ポール・ウイリアムズ)
プロテストはディセントだ。ディセントはディスハーモニーだ。ディスハーモニーとは人が力をあわさないことで、したがってなにごともなしとげられない。音楽をつかってプロテストすることはできない。(ザ・グレートフル・デッド)
今日は、あなたの残りの人生の最初の日だ!(あるグリーティング・カードより)
自分を教育するもっともすぐれた方法は、革命の一部分になることだ。(チェ・ゲバラ)
やつらがVサインをつくる二本の指を切り落してやりたい。(ビル・グレアム)
資本主義社会内部に発生し、絶対的権力をもたず、むしろこの社会の接線的あるいは本質的な一側面とのみ闘争するにすぎない組織体は、すべて結局、資本主義社会のなかへ組みこまれてしまう。(ジェームズ・ボッグズ、『アメリカン・レヴォリューション』)
みんな坐りこんで静かにしていてはだめだ。(ミック・ジャガー、ローリング・ストーンズ)
ウッドストックで現実になったのなら、なぜもう一度おこらないのだろう。(アーロ・ガスリー)
体を賭けて食いとめなければいけない!(マリオ・サヴィオ)
性交している人たちをみるのは好きです。『ライフ』や『ルック』にのっているヴェトナム戦争の写真は、ワイセツです。性交している人たちをながめましょう。(グレース・スリック、ジェファスン・エアプレーン)
すべてのロックンロール・バンドは、聞いたとたんに、いや、見たとたんに、なにかをコミュニケートする。それがなにであるかは私にはわからない。(ジョー・マクドナルド)
エルヴィス・プレスリーを聞くまでは、ボクはなにごとにもあまり影響をうけなかった。(ジョン・レノン)
ロックンロールは、アメリカの若者に対してじつにさまざまな影響をあたえた。どの音楽でもおなじことなのだが、ロックンロールもまた、人々を結びつけた。ふたりの人間がおなじ音楽を好いていたとすると、その音楽にあわせて踊ることによって、ふたりのあいだには、言語ぬきで、そしてときにはおたがいの体に触れあうこともなくまた相手を見ることもなくしかもコミュニケーションが成立していることになる。ロックンロールはコミュニケーション手段のひとつであり、若い人たちにとっては、ほかの音楽よりもはるかにコミュニケーション力は強いのだ。(チャック〔チャールズ・エドワード・アンダスン〕・ベリー)
アメリカという国のなかでおこなえるもっとも革命的なことは、意識をそっくりとりかえることだ。(カントリー・ジョ・マクドナルド)
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提供はミシン会社のシンガーだった。一九六九年一二月三日、夜の八時(イースタン・スタンダード・タイムでは九時)、NBCテレビで『エルヴィス』というカラー番組が放映された。ニールセンのレーティングによると、七〇・二パーセントという視聴率だったという。一時間にわたって、エルヴィス・プレスリーがうたうのを見た人たちにとっての唯一の救いは、エルヴィスがひところのように肥ってはいないということだけだった。
一九七〇年になるとすぐに、エルヴィスはラスヴェガスに登場した。客の前に生身をさらすのはじつに九年ぶりだった。一月二六日から二月二三日まで、インタナショナル・ホテルに出演したエルヴィス・プレスリーは、「エルヴィス・イズ・バック」(エルヴィスは帰ってきた)という合言葉を生んだ。ショウの料金は決して安くないのだがすべて売りきれで、ロックンロールの王様は健在であることをすべての人たちに示してみせた、といわれた。
それほど健在ではなかった。ステージに出たエルヴィスそのものはほとんどかわっていないのだが、音楽は面白くなかった。バックのバンドもコーラスも、ただメカニカルにプロフェッショナルなだけで、スコティ・ムーア、ビル・ブラック、D・J・フォンタナという、名前のひびきからして一九五〇年代なかばの南部の夏を思いおこさせずにはおかないミュージシャンたちとは、やはり九年のひらきが確実にあった。
言葉なんかどうでもいいとするなら、インタナショナル・ホテルでのエルヴィス・プレスリーには、面白いところがすこしだけあった。「なん本も映画をつくっているあいだに、ボクは沈殿してしまった」と、エルヴィスはまず告白していた。
エド・サリヴァンのテレビ・ショウに出演したとき、サリヴァンが自分の上半身だけしか映させなかったことに対する自嘲的なしかもひどく皮肉なジョークを、エルヴィスは語った。
「スターになってから、サングラスをかけていい気になってキャデラックをとばしていたら、リスをひき殺しかけた」というジョークもあった。
これらのジョークは、すべて、エルヴィスがいかに大きなスターであるかを、寛容なファンの笑いによって彼ら自身の心に再確認させるために計算して書かれたシナリオの一部にすぎず、大根役者にもかかわらずエルヴィスは効果をあげ、ファンは、彼を許した。ステージちかくにいた女性たちは、ナプキンをステージにほうりあげた。エルヴィスはそれをひろいあげ、汗だくのワキの下をふいたり、ときには鼻をかんで、彼女たちに投げかえした。彼女たちは、そのナプキンを、よろこんでうばいあった。ラスヴェガスまで出かけてくることのできないおなじような彼女たちのためには、エルヴィス・プレスリーがはじめて手に入れたピンクのキャデラックが、見世物としていまでも全米を巡回している。彼女たちは、ティシュー・ペーパーやハンカチでそのキャデラックのホコリをぬぐい、大切にいつまでもとっておくのだ。エルヴィスの「カムバック」以来発売されたなん枚かのシングルやLPは、キャデラックのホコリのついたハンカチほどにはすばらしくなく、ろくなものではない。かつての『ハウンド・ドッグ』のような曲をつくる人が、もういなくなってしまったのではないだろうか。
エルヴィスの故郷、ミシシッピー州のテュペロ市は、『テュペロ案内』というバカみたいな標題をつけた、市内のガイド・パンフレットを発行している。テュペロの地図と名所紹介がのっていて、二五個所ある「名所」のうちの二四までが、教会なのだ、そして二五番目が、エルヴィスの生家である小屋と、エルヴィス・プレスリー公園およびユース・センターだ。レコード店に入ると、エルヴィスのLPは「男性ヴォーカル」のなかに混入されている。彼のゴスペルのLPはほんとによく売れるが、そのほかは、息ながくしかしポツリポツリと売れていく程度だという。エルヴィス・プレスリーの絵ハガキさえ、テュペロにはない、と、ジェリー・ホプキンズは書いている。実際にいってみたら、そのとおりだった。
テネシー州のメンフィスにひっこしてからの少年時代のエルヴィス・プレスリーは、ミシシッピー河をすぐちかくに持つと同時に、「良きアメリカ少年」として匿名性を持って、一九四〇年代の終りから五〇年代にかけて、下層中産階級のハウジング・プロジェクト住居のなかに埋っていたのだ。
少年時代のエルヴィスについては、いくつかの真剣な取材がなされたのだが、ほとんどなにも得るところはなかった。ようするにエルヴィスは、誰にでも好かれる、熱意と親切さと誠意とを持った好ましいアメリカ少年であった、というのだ。しかし、これは表面的なものであり、すくなくとも少年時代のエルヴィスは、なにか満たされない部分をかなり大きく心のなかに持った少年であったにはちがいなく、満たされないものがなにであるかは、もちろんエルヴィスにだってわからなかった。
メンフィスにひっこしたのは一九四八年だ。エルヴィスは一三歳だった。黒人ブルースとカントリー・アンド・ウエスタンの影響は生まれたときから浴びているとして、メンフィスに移ってからは、リズム・アンド・ブルースの洗礼を幼なくして受けとめた数すくないアメリカ白人のうちのひとりに、エルヴィスはなったはずだ。一九四八年には、ファッツ・ドミノの『でぶ』が、ヒットしている。だから、すくなくともその二、三年前から、黒人のリズム・アンド・ブルースが白人の耳に入りつつあったことはたしかだ。そして一九五〇年代に入るとすぐに、白人アーティストによるリズム・アンド・ブルース曲のカヴァーが大きなレコード会社によってつくられていたのだ。
一歳にもならないときから教会へいっていた南部生まれで南部育ちの白人少年が、一九五〇年代のはじめに一三、四歳でリズム・アンド・ブルースを聞き、政府提供の貧乏人用のハウジング・プロジェクトに住んでいたという歴史的な事実は、なにごとかを生まなければ生まないほうがおかしい。
エルヴィスが母親に似ているのは、いいことだった。父親は、好人物ながら無能小心そうな男で、口が歌をうたうには適していない。たとえば音楽をきっかけにしたひとつの生命力への衝動、というようなものとはあまり縁のなさそうな顔をし、かつてのエルヴィスがそうだったように、とりあわせの非常にわるい服をまとい、はじめの妻にくらべるとどうしようもなくひどい女と再婚している。
エルヴィスの母親思いが真実だとするならば、彼が多くのものを母親からひきついでいる生理的事実からくる本能的な反応にちかい母親孝行であったにちがいない。父親は、サイレント・マジョリティのカリカチュアのひとつみたいな顔をしているが、母親のグラディスはひとめで移民であることがわかる顔立ちであり、なにごとかに対する動物的に鋭い不満を常に持っているような口をしていた。だから、自分の誕生日に息子がつくってきてくれたレコードで『ザッツ・オール・ライト、ママ』を聞いたとき、自分とおなじ不満を息子もやはり持っていることを知り、その意味で彼女はうれしく思ったはずだ。サン・レコードで商品になった『ザッツ・オール・ライト、ママ』とのあいだには歌唱力の点でかなりのひらきがあるだろうけれど、あの曲をあのようにすさまじくミシシッピー河的にうたえる男が、世の中に満足しているはずがないのだ。
サン・レコードでレコードをつくった動機について、エルヴィスは、インタナショナル・ホテルのステージで次のように語った。
「あの日レコード会社にいき、レコードをつくったのだ」
マディ・ウォーターズの紹介でチャック・ベリーがはじめてチェス・レコードに出むいたとき、部屋に入ってきたベリーを見たときのことを、チェスの社長、レナード・チェスは、
「ドアを入ってきたベリーは、ひとつの美しさであった」
と、回想していた。
おなじ美しさが、エルヴィス・プレスリーにあったはずだ。そしてその美しさはどこからくるかというと、いま自分はここでどうしても歌をうたわなくてはいけない、音楽をつくらなくてはいけないのだ、という緊迫した衝動を、自分のなかだけではなく、自分をとりまいている時代のなかにまで持っていた事実からくるのだ。
当時、メイジャー系のレコード会社は、黒人ブルースやリズム・アンド・ブルースには手を出さなかった。黒人ミュージックに対する偏見を、一般白人大衆を代表するかたちで彼らはまだ持ちつづけていたし、音楽についてはなにもほんとのことはわからず興味もない人たちがただ商売としてポピュラー・ソングのレコードをつくっていたからでもあった。
小さな独立レコード会社の人たちは、真実の一部に気づいていた。黒人音楽が白人、特に十代の若い白人たちに好かれうる要素を持っている、という真実だ。サヴォイ、キング、ジュビリー、スペシャルティ、フェデラルなどの小さなレコード会社が、黒人ブルースマンの音楽のマーケットを白人にまで広げようと努力していた。黒人が白人マーケットに黒人音楽を送りこもうとすると同時に、白人の側からも、おなじことがこころみられていた。そのひとりが、サン・レコードのサム・フィリップスだった。
サム・フィリップスには資金がなかった。そのカネのない男のところにやってきたエルヴィス・プレスリーは、幸せだった。ギター、ベース、ドラムという、ごく基本的なバックアップ・サウンドしか、あたえてもらえなかったからだ。この幸運は、ナッシュヴィル・サウンドふうな音にストリングをからませたバックを要求しつづけてついに得られなかったジョニー・キャッシュにもあてはまる。
四万ドルのはしたガネでエルヴィス・プレスリーをヴィクターに売りわたしてしまったところからみると、サム・フィリップスには、黒人ミュージックに対する真の理解も興味もなかったようだ。おかしなものが売れるものだ、という程度の認識しかなかったのではないのか。
一九五〇年代に入るかなり前から、黒人のリズム・アンド・ブルースは、白人の若者に知られていた。黒人だけのためのリズム・アンド・ブルースのコンサートに、よく白人の若者がやってきた。はじめのうち白人と黒人とはロープで仕切られ、白人たちのほうが動きがすくなく、狂気にとりつかれたように踊る黒人たちをながめ、体の動かし方や踊り方を、覚えていた。やがてロープはとりはらわれ、白人と黒人とがいっしょになって踊るようになった。
ラジオには、大きなレコード会社のレコードだけがとりあげられた。マイナー・レーベルの黒人サウンドは、黒人であるからよりも、マイナーを押しのける大企業のエゴによって、排斥されていた。ペリー・コモ、エディ・フィッシャー、パティ・ペイジ、テリーサ・ブリューワーなどのようなどうでもいいアーティストが、相かわらずティン・パン・アレーの歌をうたうか、あるいは、黒人曲のカヴァーをやっていた。そして、このカヴァーが黒人オリジナルといかにかけはなれているかを若い白人大衆がいっせいに知りはじめた期間が、エルヴィス・プレスリーがもっともすぐれていた期間とほぼ一致するのだ。エルヴィス自身、カヴァーであった。たとえば『ハウンド・ドッグ』は、ウイリー・メイ・ソーントンの曲なのだ。しかし、作曲したのは、ジェリー・リーバーにマイク・ストラーという、二人の白人だった。
一三歳から二〇歳くらいまでの白人にとって、自分たちと同化できる音楽は、ビル・ヘイリーやエルヴィス・プレスリーが出てくるまでは、正式には存在しなかった。彼らの音楽的な本能は満たされることなく、空白だった。エルヴィス・プレスリーを、「ロックンロールの王様」にしたのは、彼自身の魅力でも能力でもなく、じつはこの空白であった。そしてインタナショナル・ホテルでの彼を許したのは、かつてはこの空白のなかに身を置きながら、アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ(アメリカ的理想の生活)に追われているうちに、あの貴重な空白がいつのまにかなくなってしまった人たちだったのだ。
当時は、一六歳にならなければ、タバコも喫えず自動車も運転できなかった。一二、一三、一四、一五歳の少年たちは、子供でもなければ大人でもない中途はんぱな欲求不満の状態に置かれっぱなしだった。一九五六年はエルヴィス・プレスリーとリトル・リチャードの年であると共に、『いとしのシンディ』がヒットした年でもある。『いとしのシンディ』も『ハウンド・ドッグ』も、共に七九セントだ。『ハウンド・ドッグ』のほうがえらばれるのはあたりまえだ。
ロックンロールは、それを商品としてつくり出す大人たちにとって、はじめのうちはノヴェルティに近かった。たとえば、チャック・ベリーの『バカらしいことが多すぎる』という曲の詞は、こうだ。
「ガソリン・スタンドで働いている。やることがいっぱいある。それ、車の窓をふく、タイアを調べる、オイルをはかる。ああ、いやだ。まるでバカらしい。こんなことにオレはまきこまれたくない」
それまでのポピュラー・ソングにくらべると、たしかにノヴェルティとしか思えなかっただろう。チャック・ベリー自身にとっても、ロックンロールは、カネになるノヴェルティだった。一九五五年、セントルイスのブルースマンだったベリーは、はじめてチェス・レコードのレナード・チェスに会いにいったとき、『夜ずっとおそく』というブルース曲と『メイベリーン』というロックンロール曲とをテープに入れて持っていった。ベリーとしてはブルースをレコードにしたく、『夜ずっとおそく』のほうに誇りを持っていたのだが、レナード・チェスがはじめにとりあげたのは、カントリー曲の冗談的な書きなおしで、タイトルはヘアクリームの名をとってつけた『メイベリーン』のほうだった。
チャック・ベリーもエルヴィス・プレスリーも、成功するとすぐにキャデラックを買った。キャデラックを買うまではスターではない、という不文律みたいなものが、黒人ミュージックのコミュニティでは、いまでも通用している。
エルヴィス・プレスリーをスターにしようとはかったのはマネジャー、トム・パーカーの商業策であり、彼をうけとめた若い大衆にとっては、エルヴィスは、英雄などではなかった。音楽上の英雄などというものは、音によるコミュニケーションの不在の証明以外のなにものでもない。
一九五六年、マサチューセッツ州ガードナーのDJが、自分の番組で『ミステリー・ヴォイス・コンテスト』をおこなった。歌手を言わずにレコードをかけ、その歌手名を聴取者にあてさせるのだ。エルヴィスの『冷たくしないで』も、そのなかの一枚に加えられた。誰にでも正解できるようにとの配慮からえらばれた、もっともポピュラーなレコードだった。しかし、回答者の四五パーセントが、エルヴィス・プレスリーの名をあげることができなかった。ジーン・ヴィンセントとまちがえたのがもっとも多く、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ、クライド・マクファター、ビル・ヘイリー、ジョー・ターナーなどの名が、あげてあった。正しくプレスリーとこたえた人たちも、若い人ほど彼の名のスペリングをまちがえ、二十代にちかづくにしたがって正しくなっていた。大切なのは音のほうであり、エルヴィス・プレスリーそのものではなかった。
エルヴィス・プレスリーとは、いったいなにだったのか。エルドリッジ・クリーヴァーは『氷の上の魂』で、心をこめて次のように書いた。
「こうしてエルヴィス・プレスリーが出現した――薄気味わるいギターをかきならし、アメリカ大陸じゅう腰をふって道を踏みしだいて進むごとに名声と幸運をひったくって我がものとし、後年のジョニー・アプルシードのように、アメリカの白人青年の心のなかに新しいリズムとスタイルの種を蒔いてあるいた。この青年たちの内なる渇きと必要は、パット・ブーンのなんの生命力も認めることのできない白い靴や彼のさらに白い歌によってはもはや満足させることができなかったのだ。〈おまえはなにをやってもいいけれど〉とエルヴィスはパット・ブーンの純白の靴にうたって聞かせた。〈オレの青いスエードの靴だけは踏みつけるなよ〉」(武藤一羊・訳より)
エルヴィス・プレスリーを肯定するためのクリーヴァーの思想的な拠点は、おなじ本で次のようにのべられている。
「〈階級社会〉は、断片化した性的イメージを投影する。それぞれの階級は、社会における自らの階級機能と一致した性的イメージを反映する。そして、この階級機能は他の階級のものと異なるので、その性的イメージも、同じ程度に異なるだろう。〈階級社会〉における自我の分裂の源泉は、人間の〈こころ〉の機能と〈からだ〉の機能との離間にある。思考者としての人間は、社会において〈行政機能〉をはたし、行為者としての人間は〈獣力的機能〉をはたす。このふたつの基本的機能が社会で機能している生きた人間に具体化されるとき、わたしはこれを〈全能の行政者〉と〈超男的下僕〉としてシンボル化する」
エルヴィス・プレスリーは〈からだ〉のほうであった。そしてその〈からだ〉は、〈こころ〉をうばい去られている事実に対する不満を知っていた。〈からだ〉はつまり生命力であり、エロスであり踏みつけてはいけない、とうたわれたブルー・スエード・シューズは、生命力のシンボルだったのだ。
アメリカという階級社会が、クリーヴァーの言うように人間のなかで〈からだ〉と〈こころ〉をひきはなしておこうとはかりつづけるのであれば、〈からだ〉と〈こころ〉とがひとつになることは、その階級社会にとって最大の威嚇であるはずだ。威嚇力に対する弾圧のようなものはすでにはじまっている。プレスリーの腰の動きが性的であるからけしからん、というような生やさしいものではなく、たとえば、シカゴの一九六八年民主党大会を「死」と見て、それに対して「生命力」からの訴えかけをおこなった「シカゴ・エイト」(トム・ヘイドン、ジェリー・ルービン、アビー・ホフマン、ボビー・シール、デイヴ・ディリンジャー、リー・ウエイナー、ジョン・フロインズ)に対する裁判による弾圧は、ひどく硬化したファシズムなのだ。ジェリー・ルービンは、非アメリカ活動調査委員会に呼びだされたとき、サンタクロースのいでたちで出頭した。
「アメリカはすでにサンタクロースまでやり玉にあげはじめたということをみんなに知らせたかったからだ」
と、ルービンは語った。この柔軟な、冗談のような生命力に対して、アメリカがおこなったことはなにかというと、サンタクロース姿のルービンをうつした写真すべての没収だった。
ロックは革命だ、というかけ声は、巨大なファシズム機構を相手にするとき、ひどくうつろだ。ジェリー・ルービンの「大人になるな!」のかけ声のほうが、まだ有効であるようだ。ロックンロール産業は、アーティストにとってもまた一般消費者にとっても、資本主義下での詐欺的利益追求行為の典型となることができる。ロックをだしにつかう、あらゆる商業行為が有効に可能となるのだ。アメリカでおこなわれた数々の天才的な実例は、悪智恵をつけるだけだから、あげずにおこう。せっかく買ったレコードにがっかりすることでもあるのだから。
かけ声というものは、それによって得する人が必ずどこかにいると考えてまちがいではない。
「エルヴィス・プレスリーを大統領に!」というかけ声で得するのは誰か。
フィル・オックスが、次のように言っていた。
「いまのティーンエージャーが心を開ききって投票にいったら、誰が大統領になるか、見当もつかない」
もっとも可能性のある人間として、フィル・オックスはプレスリーをあげていた。そして当のエルヴィス・プレスリーは、グレースランドの大邸宅にあるプールのまわりを、ひとりモーターサイクルで、あきずになんども走りまわってヒマな時間をつぶしている。彼にはなん重にも巨額の保険がかけてあるため、道と名のつくところでモーターサイクルに乗ることはできない契約になっているからだ。この契約に違反すれば、エルヴィス・プレスリーは保険会社から訴えられる。
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エルヴィス・プレスリーの物語
エルヴィスは前の年にいわゆるカムバックを遂げていた。それはTVでアメリカ全体に放映された。十二月三日、NBCで、夜の八時、地域によっては、九時。シンガーという会社が提供していたTVスペシャルのシリーズのうちの、ひとつだった。日本でも放映された。僕はそれを東京で見た。
TVに出演するのは十年ぶりに近いという、彼のこのカムバックは、さまざまな話題となった。かつてのロックンロールにイギリスからのビートルズが加わり、それに対抗してアメリカの草の根から次のロック音楽とそれを取り巻く思考や生活のスタイルというものが、当時のアメリカにはすでに生まれていた。
忘れられた、と言っていい状態にあったエルヴィスは、たとえばいわゆる対抗文化のメディアのひとつである、アンダグラウンド新聞や雑誌などの、まともな批評や論評の対象にもなっていった。それまでエルヴィスは本当に忘れられていた。アメリカでレコード店に入ると、大量にならんでいるレコードの名前別のファイリングのなかに、エルヴィス・プレスリーというファイルはないことが多かった。ゴスペルのところを見ると、そのなかには彼のゴスペルのアルバムがあった。
一九六九年の十月のある日の午後、僕はリトル・トーキョーの食堂で、『ロサンジェルス・フリー・プレス』という新聞を読んでいた。アンダグラウンド新聞とかヒッピー・ペーパーズなどと呼ばれ、当時のアメリカの各地で盛んに発行されていた、活字とグラフィックスによる媒体だ。かなりページ数のあるその新聞の、十月十日号をそのときの僕は手に持っていた。『ミシシッピー州テュペロ。エルヴィスが最初に歌った場所』というタイトルの記事を、僕は読んでいた。
斜め前のテーブルにすわった、年老いた白人の女性が、砂糖をたくさん入れたコーヒーを、スプーンですくっては飲んでいた。スプーンを持った彼女の手は常に大きく震えていた。コーヒーをすくおうとするたびに、彼女の持ったスプーンはマグの縁に何度もかちかちと当たっていた。すんなりとマグに入らないほどに、彼女の手は震えていたからだ。すくったコーヒーは、だから、彼女のしわの塊のような唇に届くときには、あらかたテーブルにこぼれ落ちていた。
カムバックしたエルヴィスは再び注目を集めた。そのときの彼の発揮し得る音楽的なあるいは社会的な意味について論じる記事から、彼が歌い始めた一九五〇年代なかばのアメリカについて論評する記事まで、数多くの関連記事を僕はヒッピー・ペーパーズで読んだ。
十月十日に僕が読んだその記事は、なかなか面白いものだった。書いた人の名はジェリー・ホプキンズとなっていた。彼はのちに『エルヴィス』というタイトルで伝記を書いた。そのための資料集めや取材の過程で彼が手に入れたものは、ジェリー・ホプキンズ・コレクションとして、確かハワイ大学に保管されているはずだ。
彼が書いたその記事には、彼自身の撮影による写真が三点、添えてあった。エルヴィスが生まれた家と、それに隣接しているエルヴィス・プレスリー・センターの写真。おなじくテュペロにあるエルヴィス・プレスリー公園の看板。そしてメンフィスのグレースランドの写真。
メンフィスへは飛行機でいった。テュペロまで下る78号線は、最初にいったときは往復ともヒッチハイクだった。そうかい、じゃあ乗せていってあげるよ、というアメリカが、まだあの頃は残っていた。ステート・ハイウエイ78の、メンフィスからテュペロまでの間は、エルヴィス・プレスリーにデディケートされている。
彼が生まれた家を僕は見た。きれいに手直しされ、内部もおそらく現実とはまったくちがった様子で、整えてあった。公園の片隅のような場所にとりあえず置いた、という様子でその小さな木造の家は建っていた。いまではその周囲はもっと小奇麗に整えてある。ファースト・アセンブリー・オヴ・ゴッド教会を僕は見た。引っ越しを何度か繰り返したプレスリー一家が、そのつど住んだ場所を、町の人が教えてくれた。
ミシシッピー・アラバマ・フェアグラウンズはゲートが開いていた。僕はなかに入ってみた。おそらく五〇年代からのものだろうと僕が思った観客席があった。僕はそこにすわってみた。そしてステージの方向に視線を向けた瞬間には、タイム・スリップを経験しないわけにはいかなかった。一九五六年九月二十六日への、タイム・スリップだ。
当時すでにワン・パフォーマンスで二万ドルというスターになっていたエルヴィスは、地元のフェアへの出演を請われて一万ドルで快諾し、ステージに立った。この一万ドルを彼はテュペロに寄付し、それはエルヴィス・プレスリー公園の資金となった。このときの彼の歌いぶりは、レコードで聞くことが出来る。フィルムも断片的に残っている。次の年にも彼は同じフェアに出演した。
十年以上前、一九四五年五月三日にも、エルヴィスはこのフェアグラウンズのステージで歌を歌った。子供たちのタレント・コンテストに参加した彼は『オールド・シェップ』を歌い、二位になって五ドルの賞金を手にした。一位になって二十五ドルの賞金をもらった、シャーリー・ジョーンズ・ギャレンティーンという女性の所在をつきとめ、当日の様子を聞いたならそれはそれだけで物語になる、とタイム・スリップを抜け出ながら、僕は思った。
メンフィスから何度か通ったテュペロで、少なくともそのときの僕にとってもっとも圧倒的に物語だったのは、ウエスト・メイン・ストリートに昔とほとんど変わることなく、そしておそらくはいまもそのままあるはずの、テュペロ・ハードウエア・カンパニーだった。角にあるこの店で、十一歳のエルヴィスは、最初のギターを母親から買ってもらった。彼は自転車を欲しがったとか、自転車ではなくそれは銃だったなどと、さまざまな説がある。どの説も物語のなかではみな正しい、と僕は思う。だからその最初のギターの値段は七ドル七十五セントだったという説も、完璧に正しい。
この店のなかでも、僕はタイム・スリップのなかに見事に落ちた。店の内部は時代を超越している。タイム・スリップはただでさえ起きやすい。母親といっしょに店へ来たエルヴィスは、ギターはいらないと言ってだだをこねたという。僕がタイム・スリップすると、だだをこねているエルヴィスがカウンターの前にいた。叱っている母親が彼の隣に立っていた。ギターを持ってドアを出ていく彼が見えた。僕も外へ出てドアを見ていると、ドアを開いて少年エルヴィスが出て来た。角に立って店を見ていると、ギターを持った少年が母親とともに店から出て来て、歩き去っていった。
スターになってからのエルヴィスは、何度もテュペロを訪ねたという。このエピソードをひとつひとつ拾い集めて記述していくなら、その集積はそのまま物語になる、などと僕はメンフィスでひとり過ごした何日かの間、思っていた。
テュペロとおなじく、メンフィスにも物語はたくさんあった。テュペロからメンフィスに引っ越して来た一家が、最初に住んだ建物が残っていた。煉瓦造りの、もとはたいへんな邸宅だったのだが、内部を簡単に仕切ったアパートメントのようになって久しい頃、一家はここに移り住んだ。その次に住んだ場所も、建物は残っていた。出来たばかりのときにこの建物をいまの日本の人が見たなら、結構なマンションではないか、と思うだろう。185という番号のある入口に入ってすぐ右側の部屋が、プレスリー一家が住んだ部屋だ。
ヒュームズ・ハイスクールもそのままあった。一九五三年の四月、学校の行事に参加した高校生のエルヴィスは、学校内のホールのステージで歌を歌った。ゴスペル、賛美歌、スピリチュアルなどと一般には呼ばれている種類の歌だ。拍手によって一位をきめると、エルヴィスが一位だった。一位の人にはアンコールに応えるという特権があたえられた。このアンコールで、『思い出のワルツ』と日本では呼ばれた歌を、エルヴィスは歌った。テリーサ・ブリューワーの影響ありありでもよければ、僕もこの歌を歌うことが出来る。中学生の頃に覚えた。
エルヴィスがゴスペルに親しみ、その若い身にしみ込ませたエリス・オーディトリアムもそのまま建っていた。黒人のゴスペル集会に高校生のエルヴィスはいつも来ていた。彼の好みのひとつであった、いわゆる派手な服装の出発点は、ここで見た黒人説教師たちの服装にある。
彼が高校生だった頃にその全身で受けとめていた音楽は、どちらかと言えばプアな白人に広く支持されていた音楽と、明らかにプアな黒人たちの音楽との、両方だった。そのふたとおりの音楽は、おたがいに厳しく区分けされていて、白人にしろ黒人にしろ、ふたつをまたぐことは社会的に許されてはいなかった。エルヴィスは身をもってそのふたつをまたいだ。
ポプラー・テューンズというミュージック・ショップにも、僕は何度も通った。エリス・オーディトリアムとおなじく、ここもエルヴィスの住んでいたところの近くにあった。高校生のエルヴィスがレコードを買った店だ。壁にエルヴィスの珍しい写真がたくさん貼ってあった。写真、特にスナップ写真は、どれもみなストーリーそのものだ。撮られた瞬間がストーリーであると同時に、その瞬間の前後に向けて、さらにストーリーはつらなり広がっていく。
ここで僕もレコードや楽譜を買った。いまも僕はそれらを持っている。ヒル・アンド・レンジ・ソングズから発行された、『エルヴィス・プレスリー・アルバム・オヴ・ジュークボックス・フェイヴァリッツ』の第一巻が素晴らしい。値段のタッグが残っている。一ドル九十五セントだ。
それから、メンフィス・レコーディング・スタジオと、サン・レコード。一九五三年の夏、エルヴィスはこのレコーディング・サーヴィスにあらわれ、四ドルを支払い、直径十インチのアセテート盤に二曲、スタジオで歌って録音してもらい、それを持って帰った。次の年の一月、エルヴィスは再びあらわれ、おなじアセテート盤に二曲を録音し、持って帰った。最初のときに対応したマリオン・カイスカーという女性の気持ちのなかにエルヴィスという青年とその歌が残ったことが、エルヴィス・プレスリーという才能が発見されるに至る、直接のきっかけとなった。
サン・レコードで彼が最初にプロとして録音したレコードが、地元のDJ、デューイー・フィリップスによって番組のなかでかかったとき、おそらく不安と興奮で居場所の定まらない気持ちとなったのだろう、エルヴィスは映画館に逃げ込んだと、伝説は伝えている。その映画館のことを、地元の人が僕に教えてくれた。
一九五三年、そして一九五四年、リード・ギター奏者のスコティ・ムーアとベース奏者のビル・ブラック、そしてエルヴィス・プレスリーの三人は、ブルームーン・ボーイズと称して、南部一帯でワン・ナイト・スタンドの仕事をたくさんこなしていた。一九五四年九月、エアウェイズ・ショッピング・センターの開店の余興に、ブルームーン・ボーイズはトラックの荷台をステージにして、出演した。そのショッピング・センターで昼食をとっていたとき、隣の席にすわった男性が、その話をしてくれた。センターの中心は、営業開始当時は、カッツという名のドラッグ・ストアだったという。その建物も残っていた。
オーヴァトン・パーク・シェルも、タイム・スリップを体験する場所として、充分に幻惑的だった。一九五四年の七月、この野外音楽堂に出演したエルヴィスは、出たばかりのレコードの二曲、『ザッツ・オールライト・ママ』と『ブルー・ムーン・オヴ・ケンタッキー』を歌った。そのときのヘッドライナーは、スリム・ホイットマン、ビリー・ウオーカー、そしてルーヴィン・ブラザーズなどだったと人から聞かされ、僕はポプラー・テューンズへいき彼らのレコードを買った。
八月にもう一度、エルヴィスはここに出演した。このときは『オールド・シェップ』と『心のうずくとき』の二曲を彼は歌った。これは午後の部であり、二曲とも静かなバラッドだったから、受けはあまり良くなかった。夜の部で彼は『グッド・ロッキン・トゥナイト』と『ザッツ・オールライト、ママ』を歌った。観客の反応は熱狂的であり、ヘッドライナーのウェッブ・ピアースは、前座でこれだけ盛り上がったあとに出ていくのは嫌だと言い、ステージには出ないままであったと、確かな伝説は語り伝えている。
エルヴィス・プレスリー・ブールヴァードに面して、グレースランドから数ブロックのところに、ザ・グリディロンという名の、食堂とレストランの中間のような店がある。ここにエルヴィスはよく食べに来たという。この店のカウンターの席で昼食を食べていたとき、僕の右隣のストゥールにすわったのは、話好きの人の善さそうな、南部の男だった。中年を越えてその先にある期間へと入っていきつつある年齢だった。僕の右隣にすわるやいなや、彼は僕と十年来のつきあいのような雰囲気になってしまった。
遠来の僕がエルヴィス・プレスリーに興味を持っていることを知った彼は、自分のエルヴィス物語を語ってくれた。一九五六年の夏、汽車でニューヨークからテネシーへ帰って来たエルヴィスは、メンフィスの駅までいくよりもここで降りたほうが近いからと、汽車の速度を最徐行にまで落としてもらい、ひとりでなにも荷物を持たず、汽車から線路に降りたのだと、その男は語った。線路から道路へ出て、エルヴィスはオーデュボン公園のなかの道をまっすぐに下り、パーク・アヴェニューという道路に出た。このアヴェニューは、そのあたり一帯では、東西に直線でのびている。このパーク・アヴェニューを越えると、大学の南キャンパスだ。そのすぐ東側に、当時のエルヴィスが家族とともに住んでいた家のあった、オーデュボン・ドライヴという道がある。
オーデュボン・ドライヴを車で走っていたその男性は、歩道をひとりで歩いていくひとりの青年を前方に見た。
「うしろ姿からして、普通の人とはまったくちがうんだよ。ありゃいったい誰だ、と思いながら走っていって、追い越しながら良く見て、追い越してから車を右に寄せて振り返ってなおも見たら、案の定、その青年は普通の人じゃなかったよ、エルヴィス・プレスリーその人さ。乗せていってあげようか、と俺が言ったら、歩きたい気分なので歩いていきます、もうすぐそこですから、どうもありがとう、とエルヴィスは答えたよ。ニューヨークから帰って来たエルヴィスは、汽車を途中で止め、汽車を降り、歩いて家まで帰ったんだよ。お袋さんは驚いたね、きっと。車を発進させた俺は、歩いているエルヴィスをミラーのなかに見続けたよ。ちがってたね。人としての全体の雰囲気がさ。まるでちがうんだよ。まさにエルヴィスだったよ」
彼にそのような物語があるのなら、僕もエルヴィスの物語を書こう、と僕は思った。エルヴィスの物語は、少年期から最初のレコードをへて、地元のスターになっていくあたりまでが、もっとも面白く魅力に満ちている。エルヴィスから始まった物語を、僕はそこから書き始めた。
片岡義男
[#改丁]角川文庫版あとがき
この本は、一九七〇年の夏のふた月ほどの期間をつかって、ぼくが書いた。そして、あくる年のはじめ、三一書房から刊行された。
ぜんたいを書きはじめたとき、このような内容の本になることなど、思ってもいなかった。トータルな構成とか書きすすめる順番、あるいは、なにをどこにどんなふうに書くかなど、まったくなんの見当もつかないまま、ある種のいらだたしさにせきたてられて、即興的に書いていった。
それは、快適な作業だった。なぜなら、ぼくという個人にとってのごく個人的なメモをそのときぼくはつけていたにすぎなかったのだから。
誰のためでもなく、なんのためにでもなく、本能としか言いようのない衝動だけを指標に、自分のために自分でひとりぼくはメモをとった。その結果が、この本だ。
メモをとりたくなったきっかけは、やはり、かつてのエルヴィス・プレスリーによる天啓にちがいない。あの天啓以来、あるときは一瞬のうちに、あるときはながい時間をかけてすこしずつ、ぼくが体で感じとってきたものの集積が、ある一定の限度をこえたとき、ぼくは、その集積に関してメモをとろうと考えた。そして、そのメモは、それまでぼくがブラック・ミュージックを知らなかったという不幸に支えられている。
なぜ、メモなどとる気になったのか。その理由は簡単だ。ぼくが具体的にせっぱつまったからだ。自分の存在のぜんたい的な問いなおしから当然みちびき出される結論みたいなものにいたる自分の足場のほとんどを、頭のなかからひっぱり出して、はっきりさせたいとぼくは思った。そして、その結論とは、意識の全的なとりかえないしは白紙化ということだった。メモをとりおえることによって、結論はかためられていき、ぼくはさらにそのむこうにいけるようになるのだった。ただし、メモをとりつつあるときには、ものごとはこのように明確に意識されてはいず、とにかく書くのだといういらだたしさだけがあった。
個人的なメモでさえ、ぼく自身にとっては、書きおわったとたんにご用ずみだが、とにかくなにごとにせよ書くためには、ぼくは、自分が経過していく時代のすべてを、自分のための材料なり足場なり指標なりとして、必要とした。
この「あとがき」で書いておかなくてはならないもっとも重要なことは、これだ。自分が経過していく時代のなかに存在するありとあらゆるものが、このひどく個人的なメモを成り立たせてくれている。
その事実の、ごく直接的でしかも部分的な具体例として、ぼくは、本や雑誌や新聞、それにレコードなどの名前を、以下に列挙しなければならない。
レコードは、その一枚ずつの名をあげる気なら、すくなくとも五〇〇〇枚には達する。雑誌は一九六〇年代のなかばあたりから刊行されはじめた、アメリカのアンダーグランド・マガジンや、いくつかのロック雑誌、音楽雑誌が大量にある。初期の『クローダディ』や『フュージョン』がぼくをどれだけ力づけてくれたかは、言葉で書くことができない。
アンダーグランド新聞もまた、時代的共感の源だった。一九六〇年代のはじめからなかばにかけての空白期に、ヒッピー・ムーヴメントのなかから届く『ロサンゼルス・フリー・プレス』『ニューヨーク・フリー・プレス』『バークレー・バーブ』『サンフランシスコ・オラクル』『イースト・ヴィレッジ・アザー』など、数多くの新聞につめこまれていたことのほとんどすべてが、ぼくのなかに入り、そのうちの一部分は、ぼくのなかをとおることによってバイアスをかけられて、メモのなかに出てきた。
本は、これもたくさんある。まともな勉強をしていず、したがってものを知らないぼくは、大量の本を読まなければならないことを知り、できるかぎり読んだ。そして、読んだもののすべてが、ぼくの個人的なメモに影を落としている。読んだ本は、どれもみな、データや知識の倉庫ではなく、おたがいにあくまでも異質ではありつづけるけれども、共感のたしかめあいの場であった。面白くない本は、その面白くなさの追求が、有益だった。
読んだ本を、できるだけたくさん、順不同で以下に列挙する。日本語訳のあるものはその題名を、ないものは直訳的な題名を、書いておこう。
デュレンバーガー「カリフォルニア」。ウイリアムズ「アウトロー・ブルース」。グレゴリー「エルヴィス・プレスリー物語」。ナイ「アメリカの知性」。ハイルブローナー「アメリカの資本主義」。長谷川「アメリカ農業物語」。マッコンキイ「独占資本の内幕」。トクヴィル「アメリカの民主主義」。宮崎「寡占」。東畑「アメリカ資本主義見聞記」。マクギル「南部と南部人」。ビアード「アメリカ精神の歴史」。アレン「アメリカ社会の変貌」。カボー「喪われた大草原」。スピラー「現代のアメリカ文化像」。稲村「アメリカ風物誌」。ファーブ「北アメリカ」。ブーアステイン「幻影の時代」。ゴーラー「アメリカ人の性格」。井上「日本帝国主義の形成」。ジョーンズ「ブルースの魂」。カイヨワ「遊びと人間」。エヴァスン「写真による西部劇史」。ブルレ「音楽創造の美学」。家永「太平洋戦争」。スタインベック「チャーリイとの旅」。ジレット「街の音」。マーカス「ロックンロール・ウイル・スタンド」。カーン「ザ・ドアーズ」。武山「アメリカ資本主義と中間階級」。ショー「ロック・レヴォリューション」。ウイルキー「陽はすべての人のために沈む」。オリヴァー「ブルースとの会話」。陸井「現代のアメリカ」。田中「アメリカ現代史」。オリヴァー「スクリーニング・ザ・ブルース」。ブラッドフォード「ブルースと共に生まれて」。諏訪「ビート・ジェネレーション」。カニュ「アメリカ史」。本田「アメリカ黒人の歴史」。ホプキンズ「ロック物語」。岡倉「アメリカ帝国主義」。グロスマン「ラグタイム・ブルース・ギタリスト」。ガーウッド「インストルメンタル・ブルース・ギターのマスターたち」。エヴァスン「西部劇」。チャーターズ「ブルースマン」。ハリントン「偶発革命の世紀」。ベルツ「ロックへの視点」。ケニストン「アンコミッテッド」。ウッド「ロックンロールAからZまで」。バート「アメリカの殺人バラッド」。ホフマン「ウッドストック・ネーション」。プレザンツ「音楽の革命」。ケネディ「移民国家」。ウイルマー「ジャズ・ピープル」。ガスリー「栄光にむかって」。シルヴァマン「フォーク・ブルース」。シルヴァマン「フォーク・ブルース・ギターの技術」。ダンクワース「ジャズ」。ウイリアムズ「悲しい歌を」。ブルックス「ザ・グレート・リープ」。マッカチェオン「リズム・アンド・ブルース」。ヴァラエティ「ミュージック・カヴァルケード」。ランドン「カントリー音楽の百科辞典」。シュラー「初期のジャズ」。ゴールドスタイン「ゴールドスタインのグレーテスト・ヒット」。ショー「眠りなき街」。大橋「フロンティアの意味」。サザーランド「閉ざされた社会」。セルデス「一〇〇〇人のアメリカ人」。グッドマン「コミュニタス」。ボーヴォワール「アメリカその日その日」。ディラン「ブロンド・オン・ブロンド」。キャラワン「自由とは常なるたたかい」。シェルトン「カントリー・ミュージック・ストーリイ」。コープランド「ピープルズ・パーク」。ジン「反権力の世代」。ハンド「エルヴィス・プレスリー百科事典」。ニューフィールド「予言する少数者」。中屋「アメリカ現代史」。清水「アメリカ帝国」。アダムズ「二〇世紀のアメリカ」。岡倉「キューバからヴェトナムまで」。ボッグズ「アメリカン・レヴォリューション」。ミューズ「アメリカの黒人革命」。フォーラン「アメリカの黒人」。ミッチェル「ブロー・マイ・ブルース・アウエイ」。ヤブロンスキー「ヒッピー・トリップ」。ガーランド「サウンド・オヴ・ソウル」。メルツアー「ロックの美学」。スピア「ブラック・シカゴ」。フェザー「ブック・オヴ・ジャズ」。グルーエン「ニュー・ボヘミアンズ」。ビア「アメリカのユーモアの盛衰」。レン「勝者にも傷がある」。ブルース「いやらしいことを喋って人を感銘させる法」。グスタイティス「ターニング・オン」。コーンブルース「新しいアンダグランドからのノート」。ブローティガン「ジ・アボーション」。ローゼンバウム「アメリカに育つ」。エリスン「グラス・ティート」。ホフマン「あなたがたの両親にきらわれているのが我々だ」。トムスン「ポジティヴリー・メイン・ストリート」。ランドウ「ニュー・ラディカルズ」。エリス「アメリカの性的な悲劇」。ホワイト「組織のなかの人間」。ニーバー「アメリカ史の皮肉」。リースマン「現代文明論」。レイトン「アスピリン・エイジ」。ヘイリー「ビル・ヘイリー物語」。ガルブレイス「自由の季節」。カースン「生と死の妙薬」。ミュルダール「豊かさへの挑戦」。グレアム「サイレント・スプリングの行くえ」。スウィージー「独占資本」。オーコンナー「石油帝国」。ホッファー「大衆運動」。レスター「革命ノート」。ウイーナー「人間機関論」。コルコ「アメリカにおける富と権力」。きりがないから、途中でやめる。とにかく、ぼくが言いたいのは、ぼくひとりのなかにさえ、時代のすべてが入りこんでいるということなのだ。そして、その入りこんだものなしでは、ぼくはなにもできはしない。
結局、ぼくが選択したものは、ブルースだった。決定的な選択によって、ブルースが自分のなかにもあることを知った。ロックンロールは、あるときあるところである人にとって一種の臨時的な価値をしか持たず、誰の内部にもありうるブルースは、より普遍にちかい。ふたつをくらべるとき、ひとつは馬鹿ばかしく、もうひとつは馬鹿ばかしくない。
角川文庫に収録されるにあたって、字数にして一五〇〇字ぶんほど、加えたり削ったり修正したりしたことを、書き加えておきたい。
著者