彼のオートバイ、彼女の島

片岡義男




ほんとにきみが欲しいんだ、ほんとに
きみが必要だ、ベイビー、神にきいてくれてもいい
きみなしではリアルになれない
ああ、どうしたらいいだろう

きみのおかげでリアルになれる
きみのおかげで恋人のような気持ちになれる
まちがったみじめな気持ちもきみのおかげで捨て去ることができる
恋人よ、きみはぼくをフリーにしてくれる

きみのおかげでリアルになれる
そんな力を持っているのはきみだけ
だからぼくはきみの海のなかにすべりこみたい
恋人よ、ぼくをフリーにしてくれ。
ドアーズ『ユー・メイク・ミー・リアル』
[#改丁]


 カワサキのオートバイにまたがって、ぼくは、にぎりめしを食べていた。
 サイド・スタンドが雑草をまきこみ、土の中にすこしめりこんでいた。
 かたむいたオートバイのシートに腰をのせ、重いブーツをはいた左足を地面につき、右足は、ステップに軽く置いていた。
 高原の涼しい風が、いろんな方向から吹きぬけた。
 遠く浅間山あさまやまのうしろに、入道雲がそびえはじめていた。空は、まっ青だ。
 浅間のずっと左手に、菅平すがだいらが一望できた。
 ぼくは、そのとき、千曲川ちくまがわをはさんで反対側、別所温泉べっしょおんせんの高原にいた。
 今朝、露天風呂ろてんぶろのある宿を出てすぐに、ガス・ステーションの自動販売機で買ったにぎりめし。
 夏のさかりの信濃しなの。晴天の下でカワサキにまたがり、浅間の入道雲を見ながらの昼食だ。
 にぎりめし自体は、おいしくもなんともなかった。ただし、状況は素晴すばらしい。
 これでお茶があればと、ぜいたくなことを思ったとき、うしろに足音がした。
 手に持っていたにぎりめしの残りを口に押しこみ、ぼくは、ふりかえった。
 若い女のこだった。
 ふりかえったとたんに、視線が合ってしまった。とてもはにかんだような表情で、彼女は、微笑してみせた。
 ぼくは、微笑をかえせない。両方のほおが、にぎりめしで大きくふくらんでいる。
 米と梅ぼしのなかにベロがとられてしまって、ウンともスンとも言えはしない。ひとつうなずいたぼくは、必死になって、口の中のにぎりめしをんだ。
 彼女は、ぼくのほうに、歩いてきた。すんなりした体つきに、軽い足どりだった。ほどよい長さの髪に、化粧っ気のない、小麦色の顔。
 おさえた色の、オフ・ボディみたいなコットンの半袖はんそでワンピースに、ストラップのサンダル。大きな半月のかたちをした編みかごを肩にかけ、片手には、地図を折りたたんで、持っていた。
 昨日きのう、ぼくがとおってきた松本の町が、彼女のような夏の旅の女のこたちで、いっぱいだった。
「おほ」
 よお、とぼくは言おうとしたのだ。だが、口の中には、まだかなりのにぎりめしがあったので、こうなってしまった。
 ぼくのすぐそばで、彼女は、立ちどまった。そしてあごを一度だけ、くんとあげて、ぼくの「おほ」のひと言に、こたえてくれた。
 顎のさきが、かわいい。風に、彼女の髪が、軽くなびいた。
 目を細めて、彼女は、千曲川のほうを見た。
「入道雲なのね」
 きれいな声だ。張りがあって、軽くて。明るい笑顔と、なぜだか丸くかたく筋肉の張った太腿ふとももを連想させる声だ。
「わかった。あれは、浅間山だ」
 地図をながめて、彼女が言った。
 ぼくはうなずいた。うなずくと同時に、にぎりめしを飲みくだし、
「よお」
 と、あらあためて、言った。
 なぜだかとてもまぶしそうに、彼女はぼくを見た。彼女のひとみは光っていて、目もとにかなりの色気がある。
「はじめてかい」
「はじめてなの。とっても素敵すてき
 彼女は、ぼくのオートバイを見た。
「これ、なんていうの?」
 女のこは、みんな、こうだ。
 燃料タンクに、KAWASAKIと、エンブレムが入っているのに。
「オートバイ」
「きれい」
 濃紺のうこんを基調にしていて、燃料タンクだけには、さらに赤と白が使ってある。
「どこから来たの?」
「東京」
「これで?」
 と、片手をそっと、ハンドルにれた。
「そう」
 彼女は、目を閉じた。
 高原の空気を胸いっぱいに吸いこみ、しばらくとめてから、目を開き、言葉といっしょに、叫ぶように吐き出した。
「うわあ、うらやましい!」
 ビニールの竹の皮に、にぎりめしが一個、のこっていた。
「食うかい?」
 彼女は、首を振った。
「早くにすませたの。それよりも――」
 と編みかごを肩からはずした。
「お茶」
「ほんとかよ」
 ワイン色のラッカー仕上げをしたシグのボトルを、彼女は、さし出してくれた。
「ほうじ茶。つめたいの」
 おいしいお茶だった。ボトルにいっぱいあったから、遠慮えんりょなく飲んだ。
「お茶が好きなので、持って歩いてるわけ」
 と、彼女は笑った。
 のこりのにぎりめしを、ぼくは食べた。
 ぼくのうしろのほうにさがってなにかやっていた彼女は、
「カワサキさん」
 と、呼んだ。
 ぼくは、ゆっくり、ふりかえった。
 コダックのポケット・カメラを、彼女は構えていた。シャッターの落ちる音がした。
「オートバイごと、そっくりみんな撮れてる」
「ピンぼけだといい」
「なぜ?」
「片手ににぎりめし、片手に水筒だもの」
素敵すてきよ」
 フィルムを巻きあげ、彼女は、浅間山を撮った。
「撮ってやろうか」
 おにぎりをたいらげたぼくは、ブルージーンズの太腿ふとももで手をよくこすり、コダックをうけとった。
 菅平のほうをバックに、ぼくはカワサキにまたがったまま、彼女の胸からうえをフレームにおさめ、シャッターを切った。
 右のミラーにかけたぼくのヘルメットが、いっしょにうつったはずだ。
「写真を送るわ」
「いいよ」
「だって」
「いいんだよ、別に」
「オートバイといっしょにうつっているのに」
「そうか」
「送るわ」
「そうだな」
 彼女は、もう手帳を出していた。ぼくは、東京のアパートの所番地を、教えた。
「東京から、どうやってきたの?」
「中央高速で大月おおつきまできて、20号線で甲府こうふ諏訪すわ塩尻しおじり。塩尻からは19号線。昨日きのう、松本をとおった」
「これからどこへいくの?」
上田うえだへ出ようかな。浅間をまわって、帰りは峠をくだる」
「峠?」
碓氷峠うすいとうげの旧道」
「このカワサキで?」
「そう」
 彼女は、うらやましそうな顔をして、カワサキを見た。女の子がオートバイに対してこんな表情を見せるのは、珍しい。
 かわった女性なのかな、と、ぼくは思った。
 ぼくはシグのボトルを彼女にかえした。
「サンキュー。うまかった」
 別所の安楽寺にある八角三重塔の話を、ぼくたちはした。ぼくも彼女も、その三重塔を見てきたばかりだった。
「国宝だってよ」
「そうなのね。四重なのに、なぜ、三重塔なのかしら」
「いつも三重だから、しじゅうなんだ」
 ぼくたちは、笑った。
 塔のまわりの杉木立の、セミの鳴き声をぼくは思い出していた。安楽寺は、信州しんしゅうではいちばん古い禅寺なのだそうだ。
「これから、どうするの?」
「上田」
「ううん」
 彼女は、首を振った。
「今日、いま、これから」
「風をさがして、昼寝」
「風を?」
「うん」

 風のとおる道を、ぼくは、さがした。
 小高い山が、青い空の下に、いくつもつらなっている。は高く、カンカン照りだ。だが、吹く風は、さらっとして、気持いい。
 おだやかな起伏のなかから、よさそうな斜面を見つけ出す。そして、その斜面を上から見おろせる道をさがす。
 この山道に650では必死の思いだまったく。でも、バランスをとる練習だと思いながら、なんとか転ばずに、ぼくは山道をこなしていった。
 そして、ついに、見つけた。
 黄色い花や紫色の花が、斜面ぜんたいをおおったグリーンの草のなかに、咲き乱れている。その斜面が、視界いっぱいに、見渡せる。
 さあっと、やさしく軽い音をたてながら、いちめんの草や花が、斜面の下のほうで、波を打つ。すると、まるで海の波みたいに、一本のほぼまっすぐな線となって横に広がり、その波が斜面の上にむかって駈けあがってくる。風に吹かれた草花が頭を垂れ、右に左に、そよぐ。それが、ひとつの波となって、斜面をいのぼってくる。
 風の動きが、そこに見える。
 波は、斜面の上ちかくまで寄せてきて、急に、消えてしまう。草花は、なにごともなかったかのように、静かになる。
 ぼくの顔を、風がかすめていく。
 これが、風のとおり道だ。
 斜面を見ていると、いろんな方向から、何度も、おなじことが、くりかえされる。
 波は二、三メートルの幅を持った帯となって斜面をあがってくることもあった。風がすこし強いときには、こうなる。
 無数の小さな葉や花がれ合い、可憐かれんな音がさらさらの空気のなかに広がっていく。
 オートバイを降りて、ぼくは、しばらくそれをながめた。
 浅間のむこうに、入道雲がひときわ大きい。千曲川からでも、あの入道雲は、見えるのだろうか。
 道の反対側にカワサキを持っていってセンターをかけ、ぼくは斜面に降りた。
 草に身を投げるようにして、ぼくは、横たわった。
 体をのばし、空をあおいだ。
「ああーっ」と、声をあげる。
 草のなかは、ひんやりと気持ちがいい。
 が、さんさんと降り注ぐ。真夏の青空だ。目をあけると、まぶしい。目を閉じる。まぶたが、オレンジ色に燃えている。
 まぶたにぎゅうっと力を入れると、オレンジ色が、濃い紫色になっていく。
 空気が、素晴すばららしくおいしい。肺の気泡きほうから血管の血のなかへ入りこんでいく。
 両手をのばし、草をでる。
 素晴らしい気分だ。
 なんのなやみもないと言いたいところだが、完璧かんぺきにそう言いきれるわけでもなかった。
 ちょっとした、つまりとてものんきな悩みをかかえ、その悩みのために、ぼくは東京から信州へ、ひとりでツーリングに出てきた。


 ぜいたくな昼寝のあと、ぼくは、山道をくだっていった。いつも東京の道路ばかり走っているぼくにとって、650RS・W3で山道をいくのは、ちょっとしたエンデューロだ。
 陽がまだ高くても、山道では、四時をすぎると、気温が急に落ちはじめる。それまでに、ぼくは、国道18号線に出ていたかった。
 山道を降りながら、気温がいっこうにさがらないことに、ぼくは気づいた。
 上信越高原のほうに、遠く雷鳴を聞いた。
 空を見ると、険悪そうな濃い灰色の雲が、急速に広がりつつあった。夕立だ。
 降られる。
 と思ったら、もう、燃料タンクにカン! と音がして、雨滴がひとつ、砕けて散った。
 ほおにも、当たった。
 国道に出たときには、本格的に降っていた。稲妻いなずまが光り、雷鳴がとどろき、空からまっすぐに、雨が落ちてくる。
 夕立は、なぜだか、いつも頭上からまっすぐ、脳天だけをねらって落ちてくる。
 雨宿りをするべきだろうか。
 だが、もういい加減、れている。濡れついでだ、とぼくは思った。とことん濡れても、かわかせばそれでいい。濡れてしまえ。
 雨の日にオートバイで走るのはいやだけど、ツーリングで出会った夕立は、許せてしまう。それに、ひと夏に一度くらい、夕立につかまってほんとうにずぶ濡れになるのも、悪くはない。
 更埴こうしょくから上田まで、信越しんえつ本線ぞいに、国道18号。降られっぱなしだった。
 戸倉とぐら上山田かみやまだあたりで、もっともひどかった。
 上田にさしかかったときには、ほんとうに、文句なしのずぶ濡れ。パンツまで雨がとおっていた。股間こかんの三角エリアに水がたまっていた。
 すこし腰をうかし、じわっと体重をかけるようにしてシートにすわりなおすと、ジーンズやパンツにしみこんだ水がしぼり出されてくる。
 これだけのどしゃ降りだと、ずぶ濡れも、気にならない。爽快そうかいですらある。
 だが、すこし雨足が弱くなってくると、濡れた全身が、不快だ。
 もっと降れ。
 そう思いながら、ぼくは走った。お昼のにぎりめしを食べるまえに、ぼくはシールドにくもり止めを塗った。おかげで、雨滴はみなきれいに流れ落ちる。
 どしゃ降りが終ると、すこし弱くなったまま雨足あまあしは安定した。雷鳴は、もう遠い。
 夏の信州の、夕立の香りは素敵すてきだ。
 もっと降れ。雨滴よ、ぼくをいろんな方向から激しくたたいてくれ。
 ぼくは、シールドをあげた。雨滴を顔に受けた。
 道路の左側に、一軒の建物が、ぽつんと見えた。このあたりは、もう、上田の市内のはずだ。
 重そうな、しっかりした黒かわらで屋根をふいた、四角い、古風な建物だ。太い柱がつかってあり、壁は、上半分が黄色い土壁、下半分は、黒く塗った板張りだった。
 建物の前にさしかかって、ぼくは、カワサキをとめた。
 柱の上のほうに小さな看板がとりつけられてあり、うすれかけた字で、公共浴場、と読めた。
 地元の人たちが無料で利用するお風呂ふろだ。
 ゆっくり湯につかって、出たころには、夕立もあがっているだろう。風呂ふろで雨やどりなんて、洒落しゃれてる。
 ずぶれの服を、一刻も早く、脱ぎたくなった。
 軒下にオートバイを入れたぼくは、側面の壁づたいに裏へいき、草の中に小さな用を足した。
 ひきかえし、うしろのシートから荷物をはずし、木のさんが何本もついている、みょうになつかしい重いガラス戸をあけ、なかに入った。
 いっぽうの壁に番傘ばんがさが一本、立てかけてあった。ちかくに、下駄げたがひとりぶん、脱いであった。
 広い板の間が、まんなかのつい立てのような板壁によって、ふたつに区切られていた。そして、その中央の板壁の両側に、たなが何段か、つくりつけてあった。
 ブーツを脱ぎ、ぼくは板の間にあがった。
 ずぶ濡れのジーンズを両脚りょうあしからはぎとるように脱ぎ、ダンガリーの長袖ながそでシャツを、上半身からひんむいた。
 お湯の香りがした。
 はだかになったぼくは、濡れた服をひとかたまりにして荷物といっしょに棚のすみに押しこみ、重い木戸をあけ、なかに入った。
 広い洗い場があり、そのむこうが、湯船だった。黒っぽい石でつくった湯船だ。高い天井の感じとか、ぜんたいの雰囲気ふんいきは、田舎いなかのよく使いこまれた、古い建物のものだった。
 湯気が、立ちこめている。
 湯船のそばで、ぼくは、木の洗いおけに湯をくんだ。水道の蛇口じゃぐちがなく、太い竹を割って水路にしたものが壁の穴から洗い場に入ってきていて、きれいな水が洗い場に流れ落ちている。
 冷たいその水でお湯をうめ、体をざっと洗い、湯のなかに入った。
 湯気のむこうは、大きな窓だ。いちめんのガラスで、この窓だけはアルミ・サッシだった。
 しばらく、あごまで、ぼくは湯につかっていた。夕立に打たれ、思ったよりも体が冷えている。
 いい気分にあたたまってから、湯船の内側の段になっているところに斜めに腰を乗せ、窓から外を見た。
 まだ外は雨だ。裏は斜面になっていて、その底は川らしい。丈の高い夏草がいっぱいだ。
 川のむこうは、林だ。がうっそうとしている。雨に濡れ、夕暮れが近いせいでもあるのか、い緑色にくすぶって薄暗い。
 そんな林のなかを、ぼくは、ぼんやりとながめた。
 ついさっきまで、夕立にたたかれながらオートバイで国道を走っていたのが、うそのようだ。いい気分だ。こんな気分が、ただで手に入るとは。
 やがて、湯のなかに肩まで腰を落としたまま、両手でお湯をかき分けるようにして、窓に沿って横長の湯船のむこう側へ歩いていった。ふちまで近づき、ふと顔をあげると、そこに人がいた。
「あっ!」
 思わず、ぼくは、声に出した。
 その人は、女性だった。
 若い女性だ。ほぼ全身が、すっかり見えた。
 湯船のふちに片手をかけ、中腰になっている。太腿ふとももや腰の張り、それに、かたちのいい乳房だって、見えてしまった。
 これはいいや、といううれしい気持ちがどこかにありながらも、ぼくは、大いにあわてた。首まですっぽりとお湯に沈め、くるりと、反対をむいた。
 そして、顔だけその女性のほうにむけ、
「ごめんなさい」
 と、言った。
 女湯に入ってしまった。とぼくは思ったからだ。あるいは、いまは、女性が入る時間なのだ。
「はあ?」
 と彼女は言った。
 もう一度あやまろうとして、ぼくは、彼女の顔を見た。
「ああ、あ、あ!」
 あの女の子じゃないか。昼間、別所温泉の近くの峠道でぼくがにぎりめしを食べていたとき、うしろからきて冷たいほうじ茶をくれた。あの女のこ。
 洗った髪をうしろになでつけているので、とっさには、わからなかった。でも、たしかに、彼女だ。
「あら」
 と、彼女も、言った。
 ぜんぜん、おどろかない。胸をかくそうともしない。にこにこと、へっちゃらで笑っている。
「昼寝のあとは、お風呂ふろなの?」
 堂々としている。
 そのとおり。昼寝のあとはお風呂ふろにかぎる。あいだにもし夕立がはさまったならば。
「よお」
 自分を落ち着かせるために、なれた感じで、ぼくはそう言った。
 こたえずに、彼女は、両手をうなじにまわした。腹から胸まで、ぜんぶ、見えた。
 ふたつの乳房が、両手の動きと共にすこし持ちあがるように動き、ふたつの先端はわずかに外をむいている。
 あごを胸につけ、両手でうなじのあたりをどうにかしながら、きれいな上目づかいで、
「カワサキは?」
 と、彼女は、きいた。
「外にある」
れたでしょ」
「ずぶずぶ」
 ちらと、彼女は、笑った。
 肩を湯のなかに沈めたまま、ぼくはどうすればいいのか、わからない。タオルと石ケンをとりに、外へいこうとしたのに。
 うなじから両手を降ろすと、彼女は、ポーズをかえた。片腕で胸をかくし、もういっぽうの手は、中腰になっている太腿ふともものうえに軽く乗せた。目を伏せ、すこし肩を落とす。
 男の視線のなかで、自分の裸をいまはじめて完全に意識したようなポーズだった。美しい。
 昼間見たときには、細っこい体の、どことなく少女っぽい女性だという印象だった。
 だが、いまは、まるでちがっている。女だ。しかも、立派に一人前。
 体のどの部分にも、なだらかなカーブがある。出っぱるところは出っぱり、おどろくほどの厚みだ。胸とか、腰。それに、太腿。
 そのことにはっきり気づいてから、すこし困ったことになった。
 あ、やめろ。よせ。駄目だめだってば! いまはそんなときではないんだ。よせ、こら。よさないか。ああっ、いかん。こら!
 と、ぼくは心のなかで必死に自分をしかる。だが、効き目はない。
 ぼくの体に、異変がおこったのだ。突如として、不必要なほど、力強く。
 なんといえばいいんだろう。二十四歳のぼくにもし息子むすこがいるとしたら、そいつはまさにご子息しそくであり、その彼が、一人立ちになったのだ。信州のお湯のなかで。
 あせったりあわてたりするほど、そいつは、カンカンになっていく。もう、どうにもならない。
 しずまれ。時と場所を心得ろ。はしたないではないか。ばれたらどうするのだ。南無妙法蓮華経なむみょうほうれんげきょう効き目はゼロ。カーン、と突き立っている。すこし体を動かすと、お湯にれて、よくわかる。おでこに浮かんだ汗が、目のわきを流れ落ちる。それも、はっきりとわかる。
「明日はね」
 と、彼女が言った。
小海線こうみせんに乗る」
「はあ」
小諸こもろから、小淵沢こぶちざわまで、ぜんぶ」
「そのあと中央本線だな」
「そうなの。八〇キロあるんですって」
 ぼくは必死になって、信州の地図を頭に描いた。お湯で、頭が、ぼうっとなりかけている。
 小諸から国道はふたつに分かれる。小海線にほぼ沿ってやつたけをまわっているのは、141号線だ。
「千曲川ぞいだ」
 ぼくは、目立たないよう、一歩、さがった。両腕は、お湯のうえに交差させて不自然に浮かべている。
「全国の国鉄の駅のうち、いちばん標高の高い駅があるんですって」
「いくつもあるはずだ」
「乗ったこと、あるの?」
「ない」
 また一歩、そっと、さがった。自立した彼に、お湯がからむ。彼は、元気にしてます。
 ああ、弱った。のぼせてきた。
 ぼくとの距離が遠のいたせいか、彼女は、湯船のふちに、横むきにおしりを乗せた。背中から尻へのカーブ、それに、左の太腿ふとももの側面などが、ばっちり見える。
 もう、駄目だめだ。
 高原列車について、さらに彼女は、楽しそうにしゃべった。どんな受けこたえをしたのか、ぼくは、いっさいおぼえていない。
 おどろいたことに、彼女は、湯船のふちをまたぎ、お湯のなかに入ってきた。ぼくにむかって歩いてくる。お湯とすれすれのおへそだけが、なぜか、くっきりと見える。
 ぼくのすぐわきをすり抜け、彼女はアルミ・サッシの窓のほうへいった。
 窓の前に突っ立ち、ぼくを振りかえる。
「あれ、なにかしら」
 と、窓の外を指さす。
 駄目だよ、それは無理というものさ。
 窓の外を見るためには、彼女とならんで立たなくてはいけない。そんなこと、できない。
 ぼくを振りかえったまま、彼女は待っている。
 肩まで湯に沈んだまま、ぼくは静かに歩いた。彼女のところまでいき、おそるおそる、中腰になった。そして、いいことを発見した。
 尻をうしろに突き出すようにして腰を「く」の字に曲げ、太腿ふとももにぴたりとつける。そうすると、坊主頭の彼は太腿のあいだにはさまれ、見えなくなるのだ。
 両ひざに両手をつき、ぼくは窓の外を見た。
「あれ」
 と、彼女が指さす。
 林のなかに、小さな建物があるのだった。と樹のあいだに、小さな四角い建物。広さは半畳ほどもないだろう。古風なしっかりしたつくりであることは、見ただけでわかる。
「なんだろう」
「なにかしら」
「神社かな?」
「あんな小さいの?」
「うん」
 中腰になったぼくの顔のすぐとなりに、彼女の腰がある。ぼくの顔は、がんがんほてる。
 結局、それは、なんだかわからなかった。
 ぼくをのこして彼女はお湯のなかを肩までつかりながら、ひきかえしていき、
「あがるわね」
 と言い、湯船を出た。木戸の外に消えた。
 ほっとしたら、急に、酔いがまわった。
 よろけつつ湯船のふちまでいき、いあがり、水の流れている竹のところまでいった。顔に冷たい水をかけ、ごくごく飲み、胸にふりかけ、頭からかぶった。
 洗い場にべったりすわりこみ、ぼくは大きな呼吸をくりかえした。ふと見ると、さきほどまでの自立した彼は、早くも青春の挫折ざせつを体験していた。つまり、垂れていた。
 頭に何度も水を浴び、しばらくじっとしていると、動けるようになった。体もろくに洗わず、ぼくは風呂ふろをあがった。
 板張りの脱衣所では、仕切りの壁のむこうから、彼女の鼻歌が聞こえていた。うたいおわりの、ほんの小さな断片。ビートルズの歌だ。
 ふらつく足を踏みしめ、髪をよくかわかし、かわいた服を荷物から出して、着た。
 外に出ると、カワサキの前に彼女が番傘ばんがさを持って、立っていた。浴衣ゆかた姿だ。ひどく魅力的みりょくてきに見えた。
 雨は、やんでいた。
「これから、どうなさるの?」
 言葉づかいが、すこしちがう。声の調子も、しっとりしている。助平すけべえなぼくの気のせいかな。
 荷物とれた服を、ぼくはシートにくくりつけた。
「うん」
 うん、としかこたえられない。
「私は、お宿がすぐ近くなの」
「うん」
「どこに泊まるの?」
「小諸かな。佐久さくまで、いくかもしれない」
「明日は?」
「浅間。浅間では、時間をかけたい」
 ぼくたちは、歩きはじめた。
 湯にのぼせた、ふらつく足でW3を押していくのは、楽ではない。昔から、ぼくは、熱い湯に弱い。風呂ふろの湯が、とびきり熱かったことに、いまになってやっと、気づいた。
 しばらくして、彼女は、立ちどまった。ほっとして、ぼくも、とまった。
「私、ひとりで、だいじょうぶだわ」
 と、彼女は言う。
「おそくなるといけないから、おさきにどうぞ。小諸まで、遠いわよ」
「すぐだよ」
 こたえながら、ぼくは、カワサキにまたがった。
 押して歩くより、走ったほうが、ずっと楽だ。
「写真、送るわね」
「うん」
 もっとなにか気のきいたことをこたえればいいのに。それでも、ぼくは、彼女に右手をさし出すことくらいはできた。
 彼女はぼくの手を握りかえしてくれた。ほんの二、三秒。
 ぼくはキック・ペダルを出し、カワサキを始動させた。
 彼女をふりかえった。微笑している。微笑をかえし、ぼくは走りはじめた。
 湯にのぼせた顔に、夕暮れの空気が心地良い。すこし、アクセルを開けた。顔に当たる風が、強くなる。
 オートバイに乗っていて、顔に当たる風。
 三年前、この650を手に入れた年の夏、東京のはずれを夜中にひとりで走っていたときのことを、ぼくは思い出した。
 人も車も途絶とだえた交差点の赤信号でとめられていたとき、このオートバイのアイドリングを聞いていて、ぼくは泣き出したのだ。
 またぐらの下にエンジンがある。ふたつのシリンダーの中で、混合気の燃焼が、くりかえされている。
 その音やリズムが、そのときのぼくの心臓の鼓動こどうと、ぴったり、かさなっていた。
 心から愛している直立2気筒の、エンジンがいま生きて動いている。
 またがって赤信号を見つめているぼくも、生きている。
 ふたつの心臓が、鼓動している。
 その鼓動が、みごとに、つながった。
 エンジンの音や振動が、重量と強いくせのあるしっかりしたフレームからシートをこえ、ぼくの両脚りょうあしや腰に伝わってくる。
 その音や振動は、やがて、ぼくの体のなかに入りこむ。
 心臓まで、伝わってくる。
 鼓動が、ぴたりと、おなじだった。
 交差点のむこうの赤信号が、突然、ぼうっとにじんだ。
 ぼくの両目に、涙がいきなりうかんできたからだ。
 こいつも生きている。ぼくも、生きている。ぼくとこいつは、いま、たとえようもなく、一体なんだ。
 そのことを全身で、そして心臓で感じとったぼくは、他愛なくも泣いてしまった。
 赤信号の赤が、どんどん、にじむ。
 ふいっと、青に、かわった。
 交差点にとまっていたのは、ぼくだけだった。ほおを、涙が流れ落ちる。
 またがっているW3がものすごくいとおしくて、目を伏せると、ほどよくふっくらとしたガソリン・タンクが、ぼくの下にじっとしている。
 ぼくは、ガソリン・タンクを、抱きしめてしまった。
 れた頬の下で、タンクのやつ、ひんやりとすべすべしていた。しっとりと、冷たくて。
 片手で抱きしめ、片手でタンクをぼくは何度も軽くたたいていた。
 涙が、ぽろぽろと、落ちてくる。
 W3のアイドリング音と、ぼくの心臓の音が、じかに、つながっている。うれしい。ものすごく、うれしかった。
 信号が再び赤になる寸前、ぼくは、またがったW3をスタートさせていた。
 夜おそく、車のいない道路。
 ぼくは、いっきに、トップ・ギアの四速までかきあげ、四〇〇〇をすこしこえた回転で、まっすぐに走った。
 ほおに伝わる涙が、風圧で、下まぶたのすぐ下から、つうっと、横に流れる。涙は、両耳のほうへいってしまう。ぼくは髪をリーゼントにしてもみあげを長くのばしているから、風圧で横に流された涙は、もみあげのなかに入りこんでいった。


 三日後。日曜日。暑い日だ。
 四泊の信州ソロ・ツーリングから帰って二日目。夜の十時すぎに、ぼくは、東京・神田かんだ錦町にしきちょうを、カワサキで走っていた。アルバイトの仕事を終って、社を出てきたばかりだった。
 ぼくは、ある大きな通信社で、オートバイによる原稿や記事の輸送員をやっている。
 勤務時間が連続九時間を割らなければ、一日の勤務として認められる。いつも一時間は残業がおしまいにくっつくので、一日の勤務は、十時間になる。
 シフト制の勤務は、朝の八時から、スタートする。八時から午後六時まで、これが第一シフト、以下、九時から七時、十時から八時、十一時から九時、十二時から十時と、スタートが一時間ずつずれながら、シフトしていく。
 週に一度は、泊まりがある。泊まりのときは、午後一時からスタートして、翌朝の八時まで、二勤務分の時間をこなす。
 全日本急送という会社が原稿輸送員を雇い、その通信社に下請けのようなかたちで、送りこんでいるのだ。アルバイトといっても、ぼくはその会社の、正規の社員だ。音楽大学に籍を置いているので、つい甘えて、アルバイトと言ってしまう。
 竹橋たけばしから、共立きょうりつ講堂のわきをとおる広い一方通行の道に入った。まっすぐいけば、神田駅のちかくで国電のガードをくぐる。
 九段くだんから、ぼくのカワサキの右側にぴたりとついた一台の車がいた。
 いまのスカイラインの、白い2ドアだ。2000GTかなにかだろう。乗っているのは、色の薄いサングラスをかけた学生ふうの若い男と、その連れの女のこだ。
 竹橋のほうにまわりこんでいくぼくに、くっついてくる。
 日曜の夜もこの時間になると、人通りはなく、車もまばらだ。
 白いスカイラインは、ぼくの右に寄ってきたまま、スピードを合わせて、ついてくる。
 竹橋をすぎ、共立講堂にさしかかるころから、スカイラインは、さらに幅寄せをしてきた。カワサキに車体がれそうだ。
 ぼくは、長くひっぱって、ホーンを鳴らした。
 運転している男は、知らん顔だ。
 交差点をこえるとき、スカイラインは、左折するような動きを見せて、ぼくのほうへ寄ってくる。
 ぼくは、すこし左へ逃げた。
 できたスペースのなかへスカイラインは入ってきて、そのまま、交差点を渡っていく。
 助手席の女のこの顔が、ちらと見えた。なにか言いながら、にやにや笑っている。
 ぼくは、またホーンを鳴らし、スピードを落とした。
 スカイラインも、速度を落とす。そして、さらに左へ寄ってくる。
 ぼくは、左のガードレールとスカイラインとのあいだに、ぴったりとはさまれてしまった。
「この野郎」
 と、ぼくは、心のなかで静かに言った。
 スカイラインの若い男は、聞こえないふりをしている。幼稚ないやがらせだ。
 オートバイで東京を走っていると、よく、こういうことがある。意味もなく幅寄せしたり、二叉路にさろの手前で右から急に追い抜いて、すれすれに左折したり、自家用の乗用車に多い。オートバイのほうは接触せっしょくして転倒し、ライダーはとんでもないとこの骨をへし折ったりする。
 錦町の交差点でぼくは左に倒してアクセルを開けた。左にはらみ、みじかい弧を描いて、スカイラインの前に出た。
 できるだけスカイラインとの距離をつめつつ、交差点を渡りきった。うしろで、スカイラインは、ホーンを鳴らしている。
 ぼくは、スピードを落とす。突っかけられたらもろに転倒だ。
 ギアを抜き、猛烈もうれつな空ぶかしをしてやった。
 かん高い爆音が、路面にたたきつけられ、はねかえる。
 ぼくは、ミラーを、じっと見ていた。
 爆音におどろいて、思わずブレーキを踏んだのだろう。スカイラインが、がくんとつんのめる。
 そのタイミングをはずさず、すこし距離をあけて、ぼくはカワサキをとめた。飛び降りると同時に、サイド・スタンドを出し、大急ぎでヘルメットを脱ぎ、ミラーにかけた。カワサキの前をまわり、道路の中央ちかくに、ぼくは走り出た。
 スカイラインはカワサキにバンパーをれさせそうになって、とまった。
 走り寄って、ぼくは、運転席のドアをとばした。自家用車を運転している男を外へひっぱり出すには、これがいちばんいい。
 案の定、サングラスの若い男は、血相をかえてサイド・ブレーキをひっぱっている。勢いよくドアを開け、出てこようとした。
 そのドアに、ぼくは、体当たりしてやった。男は、ドアフレームに左腕をはさまれ、シートに崩れるようにひっくりかえった。
 ドアを開け、男の左腕をつかみ、ひきずり出した。男の体は、妙にふにゃっとやわらかい。泣き出しそうな顔からサングラスをひっつかんではずし、シートにほうり出した。
 つかんだ左腕をねじりあげ、助手席の女のこに、ぼくはすご味をきかせた。
「このミッキー・マウスを愛してるなら、じっとしてろ」
 スカイラインのキーを抜き、ぼくの米軍払い下げの野戦用ジャケットのポケットに落とした。
 とばしてドアをしめ、男の左腕をねじあげたまま、スカイラインのうしろに歩かせた。
 うまいことに、車は一台もとおらない。
 男は、抵抗してくる。力まかせに突き放した。よろけるところを、ハーネス・ブーツの先端で、蹴とばした。
 わき腹に命中した。ぐへっ! という、へんな声を男はあげた。このブーツで蹴られたら、こたえる。思わずしゃがみこんだ男を、うしろからわきの下を支えて抱きあげ、ガードレールにもたれかけさせた。
 両脚をかつぎあげ、ガードレールのむこうの歩道に彼をでんぐりがえらせた。レールをとびこえたぼくは、もう一度、男の腰を蹴った。
 立ちあがろうとするところへ、足ばらいをかけた。面白いように、ストンと、転がった。
 両足をつかって、男の顔をすこし、いためつけてやった。男は、泣き出した。
「生意気なことをするからだ」
 ぼくも、呼吸がすこし乱れている。
 はなれて静かにしていると、男は手をついて立ちあがろうとする。横へまわり、左足を大きくぶんまわし、蹴りあげた。腹のまんなかに、ブーツは、めりこんだ。
 うーっ! と息をつめ、体をエビのようにふたつに折り、ゆっくりと歩道のうえを転がる。
 空車のタクシーがつづけて二台、青信号をふっ飛んでいった。
 ビルの正面の、鉄のシャッターの前まで転がっていき、男は、吐いた。
 吐きおえたのを見はからい、ぼくは男に近づいた。
「立て」
 男は、立ちあがる。
「車の助手席に入れ。女のこといっしょだ」
 よろめきながらガードレールまでいき、男はそれをまたいで車道に降りた。
 ぼくは、スカイラインの前からカワサキを移動させた。歩道にあげ、サイド・スタンドをかけ、スカイラインにもどった。
 命じたとおり、男は、彼女といっしょに、助手席にいた。運転席のドアは、ロックされていた。
 野戦用ジャケットのポケットからキーをとりだし、ロックをあけ、なかに入った。すっかり汗をかいてしまった。
 ぼくは、ドアを閉めた。女のこが、泣いていた。
「許してください」
 ぼくは彼女をふりむき、怒鳴どなった。
「うるせえっ!」
 男は、サングラスをかけて、じっとしていた。手をのばし、ぼくはそのサングラスをひったくった。つるを持ち、シフト・ノブにたたきつけた。レンズのいっぽうが割れて飛び散った。ぼくは、サングラスを、男の足もとにほうり出した。
「なにするんだよう」
 弱々しく、男が言った。
「おまえこそ、なにをしたんだ」
 怒鳴ると同時に、右の平手を力まかせにぼくは男の顔に叩きこんだ。彼の鼻はひしゃげたのではないかと思うほどの手ごたえがあった。
 泣くような叫び声をあげ、両手で顔をおおい、男は、シートにのけぞった。あしを突っぱり、身をよじった。
 ポケットからキーを出し、ぼくはエンジンをかけた。ゆっくり、まっすぐにスカイラインを走らせた。
 もうひとつ交差点をこえたところで、ぼくは、左足で男の右ひざをった。今度も、痛かったはずだ。鼻から手をはなし、彼はひざをかかえていた。
 小さな裏通りへ左折して入りこみ、走ってきた方向へ逆にひきかえしていった。こまかなビルの建てこんだ裏通りには、人の影がまったくない。
 明大通めいだいどおりをこえ、問屋街のなかへ左折し、さきほどの大通りへ出た。
 車をとめたぼくは、男にむきなおった。
「あやまれ」
 男は、ぼくを見た。
「だって――」
 と、男は、言いのがれようとした。
 右のこぶしを、ぼくは男の顔にたたきこんだ。ブロックされてしまった。すかさず、左のの下を使い、男のほおを突きとばした。
 ギアを入れ、スカイラインを大通りに出した。大きく左へまわりこみつつスピードをあげ、道路のむこう側のガードレールに、突っこんだ。
 ゴーン、と重い音がし、ショックと共に、スカイラインは、とまった。ヘッド・ランプが砕けて散り、片目になった。
 となりの男はダッシュボードにほうり出され、フロント・ガラスで頭を打った。そのうしろに女のこがかさなり、悲鳴をあげてフロアに落ちた。
 キーを抜いてポケットに入れ、ぼくはスカイラインを降りた。反対側の歩道に渡り、カワサキをとめたとこまで、小走りに走った。走りながら、ビルの前の植込みのなかに、スカイラインのキーを投げすてた。


 アパートの駐車場にカワサキを入れ、きれいにシートをかけた。
 ヘルメットを持ち、アパートの鉄板の階段をあがった。細い鉄製の手すりとビニール・トタンの天井にかこまれた通路を歩き、突き当たりまできた。204号室。ぼくの部屋へやだ。第二ゆたか荘という。ビニール・トタンの天井に、切れかかった蛍光灯けいこうとうがちかちかしていた。
 ドアを開け、なかに入った。よどんだ空気が、むうっときた。
 新聞もなにも、来てはいない。来るわけないんだ。ドアには、ぼくの名刺が押しピンでとめてある。めくれあがっている。橋本巧。ぼくの名前だ。巧は、コオと読む。
 柱のフックにヘルメットをかけ、
「ただいま」
 返事はない。
 あるわけない。ぼくは、独り暮らしだ。
 ブーツを脱ぎ、部屋にあがった。暑い。野戦ジャケットを脱いだ。自動車のホイール・キャップが灰皿がわりになっていて、いがらがいっぱいだ。
 ベッドに腰かけ、ぼくは両手で頭をかかえた。気持はとてもダウンしている。四輪と喧嘩けんかしたあとは、いつもきまって、こうだ。
 ぼくの気分を沈ませているのは、しかし、あの白いスカイラインとの喧嘩だけではない。
 ほかに、ほんとにのんきななやみがひとつある。信州まで、ひとりでかかえていった悩み。
 顔をあげ、ぼくは、部屋を見渡した。
 こっちの壁に、ベッド。むこうの壁には、本棚ほんだなと勉強机。手づくりした低い台のうえに、簡単なオーディオ。アンプのうえに、LPが数枚。LPをぼくはこれだけしか持っていない。どれもみな、人にもらったLPだ。
 黒いケースに入ったギター。ギブスンのハミングバード。カワサキとならんで、ぼくの所持品のなかで、もっとも値の張るものだ。
 ぼくは、立ちあがった。
 部屋へやのなかで頭をかかえていても、しかたない。買いおきの両切り煙草たばこをひとつ、ジーンズのしりポケットに入れ、ブーツをはいて部屋を出た。
 どこにいくにも、このブーツだ。四万円もした。だが、それだけの値打ちはある。ひざのすぐ下までの深さがあり、ぜんたいにしっかりしていて、オートバイに乗るとき足もとが固まっていい気分だ。
 日曜の夜の住宅街を、ぼくは歩いた。バス通りを越えて十五分もいくと、私鉄駅前の商店街に出る。
 その商店街はずれに、『道草』というスナックがある。『弾きがたりの店、お客さまもごいっしょに』と、看板に書いてある。
 半年ほど前にできた。このところ、おカネをつかわないようにしているので、一度も入ったことがない。
 日曜でもやっている。午前二時まで。「本日の出演。1・野沢圭子けいこ 2・道草バンド」と、色とりどりのチョークで書いた小さな黒い板が、ドアにさがっている。
 入るとすぐ右にボックス席があり、左側はエレクトーンやアンプ、マイクなどの置いてある小さなステージ。そのさき、右側が、奥の壁までいっぱいにカウンターだ。反対側は、壁にそって、低いテーブルをはさんでビニール張りのシートがつらなっている。
 カウンターのなかに中年の女性がひとりいる。そして、外に、若い女性がひとり。長い髪を背に垂らし、紫色のタンクトップに小花模様の長いスカートだ。
 奥の席に、高校生のような男たちが四、五人、かたまっている。
 ぼくは、カウンターにすわった。ビールを注文した。
 それが合図だったかのように、カウンターの席にいた若い女性が、ステージまで歩いた。アンプのスイッチをオンにし、マイクを椅子いすの前にととのえ、調子を見た。椅子にすわって、マイクにむかい、かたわらのギターをとりあげて抱き、カポタストの位置をかえた。
 みじかい前奏のあと、すぐに彼女は、うたいはじめた。やっぱりエー・マイクだ。
 カウンターに、ボールペンが一本、ころがっていた。それを持ったぼくは、ビールのグラスの下に敷いてくれた白いコースターの裏に、彼女がうたっている歌のコード進行を、書きとめた。
 ダウンしている気持は、たいていの場合、歌が救ってくれる。
 すんなりしたコード進行の、かわいらしい曲だった。彼女が自分でつくって詞をつけた歌にちがいない。いいメロディなのだけどうまくメリハリがつけてないので、けだるくしまりなく聞えてしまう。つまり、ちょっとワイセツだ。
 コード進行を書きとりながら、どこをどうなおせばいいのか、ぼくは頭のなかでヘッド・アレンジをやっていた。
 うたいおえた彼女に、奥の席の男たちが、さかんに拍手した。連中は顔なじみらしい。
 彼女は、こんどはスカートの下で脚を組み、もう一曲、うたった。ヒットしている柔弱フォークだった。
 二曲だけのステージをおえ、彼女は、カウンターに帰ってきた。カウンターのなかの中年女性に舌を出してみせ、ぼくからひとつ置いた席に腰をおろした。
 ぼくは、彼女に微笑をむけた。
「きみが、野沢圭子なの?」
 彼女は首を振った。
「ううん、私は、松岡ナミっていうの」
「ナミ?」
「そう、カタカナでナミ」
 陽焼ひやけしたまっ黒い丸顔だ。
 初対面の他人にでも、自分のありったけをぽんと投げ出してしまうような、元気のいい、いさぎよさが感じられた。長いスカートの下で両脚りょうあしを大きく開き、上半身をぼくのほうにねじり、カウンターに片腕でほおづえをついている。
「いまの歌、おもしろい」
「あら、ありがと。圭子がいないあいだに、ちょっとうたってみたの。お客さんもすくないから」
「じょうずだ」
「まあ、びっくり」
「歌詞を教えてくれ」
 レジへ立っていき、メモ用紙を一枚、ナミはひきちぎってきた。
 もとの席にすわり、頬づえをつきなおしたナミが言う歌詞を、ぼくは書きとった。
「題名は?」
 ナミは、また舌を出した。
「まだ、ないの」
「うたっていい?」
 ぼくは、ステージのほうを示した。
「どうぞ」
 ほがらかにそう言って、ナミは拍手した。
「おねがいします、大歓迎」
 カウンターのなかで、中年の女性が言った。
 ステージにいき、ぼくは椅子いすにすわった。
 マイクの位置をなおす。
 奥の席の若い男たちが、拍手してよこした。
「拍手は歌を聞いてからでいいよ」
 と、ぼくは言った。あきらかに、いまのぼくは、気持が沈んでいる。
 ギターをかかえ、うたった。ナミが最初にうたった歌だ。メロディの要所をいくつかしめなおし、美しさがきわ立つようにし、コードをすこし変化させ、ギターのストロークにも特徴をもたせた。うたいおわると、高校生たちがまた拍手した。
 ギターを置き、ぼくはカウンターにひき返した。コースターとメモ用紙をカウンターに置き、腰をおろした。
「たいへん、たいへん!」
 とナミが言い、ぼくのとなりの席に、スカートを広げてすわった。
「あなた、音楽をやる人なの?」
 と、ぼくの腕をつかんだ。
「プロ?」
 ぼくは、首を振った。
「ナミちゃんの歌だったわねえ。ナミちゃんが自分でうたうよりも、すっきりしてた。おじょうずなのね」
 カウンターのなかで、おばさんはにこにこ笑っていた。
「ねえ、ねえ、ねえ」
 ナミがぼくの肩をゆする。
「いまはじめて私の歌を聞いて、編曲しちゃったの?」
「そう」
「うわあ、たいへん」
 彼女は、ぼくの肩を抱いた。
「私とあなた、ぜひともお友だちにならなくちゃいけないんだわ」
 と、ぼくの顔をのぞきこんだ。
「いやだ」
 ぼくが言った。
「女には、もう、こりてるから」
 その言葉と入れちがいに、ナミはぼくのわき腹を、す早くこぶしで突いた。痛かった。力まかせなのだ。
「コードも変えたのね」
 と、コースターをのぞきこんでいる。
「ねえ。五線紙、持ってくるから、どこをなおしたのか、教えて」
 ぼくは、笑った。すこしもいい気分ではない。
「教えて」
「OK」
「あなた、なにをしてるヒトなの?」
「学生。学校には、ほとんどいってないけど」
「音楽の学校?」
「作曲」
「ほんとうなの?」
「将来はベートーベン」
 ぼくは、ナミに、きつく抱きつかれてしまった。


 今日は、いやな日だ。
 一週間の夏休みをとっていたバイトさきのおなじ職場の先輩、沢田秀政が、今日から仕事に出てくる。だから、いやな日。
 ぼくは、午後からの出社だ。
 カワサキで会社へいき、車溜くるまだまりに入れ、同僚たちの溜りである地下一階の部屋へやへいった。
 昼食のすぐあとなので、部屋のなかには、顔ぶれがそろっていた。
「よう、ベートーベン」
「英国紳士、登場!」
 と、何人かが、声をかけてよこす。
 英国紳士とは、ぼくがOHVのバーチカル・ツインに乗っているからだ。イギリス系の、いかにもオートバイらしいクラシカルなエンジンと別体ミッションなのだ。本国のイギリスにも、もうこんなオートバイは、ない。
 真四角の、殺風景な部屋だ。天井はダークなグリーンで、鉄板の壁はクリーム色に塗ってあるのだが、きたない黄色にすすけている。
 ふたつの壁いっぱいにスチールのロッカーがある。あいた壁には、仕事でよく出向く先の電話番号や、同僚たちの自宅の番号が、大きく書いてはり出してある。
 この通信社の記者がニューヨークから持って帰ったというポルノ雑誌の大きなポスターが、そのとなりにテープでとめてある。はじめての人は、これを見ると、みんなおどろく。
 大きな四角いテーブルのまわりに、全員がすわっていた。
 コークの空きカンや、弁当の容器、スポーツ新聞、マンガなどが、散らばっている。
 オートバイのロードレースのクラブに所属している数人の男たちを中心に、ロードレースの話が展開していた。
 しばらくして、出社してきた沢田秀政を、ぼくは、視界のはじにとらえた。
 テーブルのすみのほうにすわった沢田は、ぼくを見て、立ちあがった。テーブルをまわって、ゆっくり、彼は歩いていく。ぼくは気づかないふりをしていた。
 もういっぽうの壁に、ホンダ・GL1000LTDゴールドウイングの、横に長い巨大なポスターがってある。それまで貼ってあったこまかなピンナップなどをすべてとりはらい、ゴールドウイングのポスターだけを貼ったのだ。
 燃料タンクとサイド・カバー、それにラジエター・カバーの黄色が、この部屋へやの壁の色とよく似ている。
 しばらくそのポスターをながめてから、ぼくは、ゆっくり、振りかえった。部屋の入口ちかくに、沢田が突っ立っていた。
 沢田の鋭い視線が、ぼくの目をとらえた。
 こい! という意味をこめて、沢田がぼくにあごをしゃくった。そして、半開きのドアから、外へ出ていった。席を立ったぼくは、そのあとにしたがった。
 沢田の大きな体が、薄暗い廊下を、のっそりと歩いていく。角を曲がる。
 何本もの廊下が、おたがいに交差しあいながら、いろんな方向にのびている。曲がり角が、いくつもある。
 ぼくたちオートバイの原稿輸送員が臨時に泊まるときに使う仮眠室につながった廊下に出た。沢田は、足をとめた。肩をいからせ、太い両脚りょうあしをふんばり、ふりかえった。
 沢田から数歩はなれて、ぼくは、立ちどまった。
「いいからもっとこっちへこい」
 ドスのきいた低い声だ。
 さらに二歩、ぼくは、沢田に近よった。
 沢田は、ぼくとおなじくらいの背丈だ。だが、体のつくりが極端にごっついため、ぼくよりずっと大きく感じられ、威圧的だ。
 丸い大きなイガグリ頭。肉の分厚い、ジャガイモのような顔。鼻が、みごとにひしゃげていて、不敵な両のほおに張り出している。口は横に大きく、あごが万力のようだ。鼻の下に、ちょびひげがある。首は、まるで丸太だ。
 いつも、レイバンのサングラスをかけている。今日は、グレーの丸首のスエット・シャツに、アメ横で買ったという迷彩の戦闘ズボン、それに、モトクロスのブーツ。半袖はんそでから突き出ている両腕が、特大のソーセージみたいだ。
 あのかわいい冬美に、こんないかつい兄がいるとは。
「おい。橋本の馬鹿ばか
「はい」
「なにが、はいだ。ふざけるな。浅間へは、いったかよ」
「いきました」
「いつ」
「四日前、かな」
「考えたか」
「考えました」
「どうなんだ」
「やっぱり、冬美とは、別れます」
「気軽に呼びすてにするな」
「冬美さん」
「別れりゃあいいってもんじゃないんだぞ」
「わかってます」
「なにが、わかってんだ」
 ぼくは、黙った。黙るよりほか、ない。
「ただの、やり得じゃねえか」
 これにも、こたえようがない。
 このふた月ちかく、沢田は、このひと言で、ぼくを責めてきた。
「浅間で、なにを考えた」
「冬美さんのことです」
「どうするんだ」
「だから、結局、別れるしかないんです」
「なにが、だからだよ。生意気な口をきくな」
「はい」
「なにが、はいだ」
 沢田は、ぼくのすべてが、気に入らないらしい。
「どうすればいいんですか」
 このひと言を、何度、ぼくは沢田にしゃべったか知れない。
「どうするつもりなんだ」
「ぼくと冬美さんと、ふたりでこうなったことですから」
「うるせえやあ。おまえが口説くどいたからだ。処女ってものは、男に口説かれないかぎり、やたらに乗っけたりはしないもんだ」
 ぼくは、また、黙った。
「どうなんだよう」
 ぼくは、なにもこたえられない。追いつめられたと言えば、たしかにそう言える。
 沢田は、一歩、ぼくに近よった。
 片手にさげていた黒い皮のオートバイ・ジャンパーのポケットから、沢田は一枚の紙きれを取り出した。
 ぼくの鼻さきにつきつけ、
「よく読んどけ」
 と、言った。
「決闘だ。日時と場所が、書いてある。逃げたら、殺すぞ」
 ぼくは、紙を見た。リコピーだ。地図に、文字がちょっとそえてある。
 沢田の右腕が、一閃いっせんした。
 あっ、と気づいたときには、もうおそい。沢田の、ばか大きいこぶしを、ぼくは、あごの先端に、まともにくらった。
 両足の下から廊下がいきなり飛び去ったみたいに、ぼくは、あおむけにひっくりかえった。恥ずかしいほど、あっけない。
 背中から廊下にたたきつけられた。肺のなかから空気がなくなる。口をぱくぱくさせるのだが、呼吸できない。体ぜんたいにしびれが走っていて、言うことをきかない。頭のなかが、ガーンと鳴っている。顎のさきの鋭い痛みが、鈍痛どんつうとなって脳ミソのあちこちに散らばっていく。
 ぼくをその場に残して、沢田は、歩み去った。しばらく、ぼくは立てなかった。
 やっと起きあがり、壁を背にして、すわった。吐き気のようないやな気分がおさまると、落ちている紙きれをひろい、立った。そして、部屋へやにもどった。
 沢田は、もう部屋にいなかった。
 追っかけで、出ていったという。追っかけとは、突発的な大きな事故の現場へいき、記者が書いた原稿と写真フィルムをオートバイで大至急、持ち帰ることだ。
 道路をよく知っているベテランにまわされる仕事だ。沢田は、この仕事を七年つづけているベテランだ。
 羽田のターミナル・ビル七階の水槽すいそうにひびが入って水がもり、ターミナル・レーダー情報処理システムなどが水びたし。空港機能は完全にマヒし、大混乱がおこっているのだという。
 片隅かたすみの折りたたみ椅子いすに体を落としこみ、沢田がよこした紙きれを、ぼくは見なおした。
 江東区こうとうく有明ありあけの、大ざっぱな地図が描いてあった。埋立によってできた有明のなかを、まっすぐに抜けている道路がある。そのはずれのほうに大きく×印がしてあり、きわめてへたな字で「集合地点」と、書きこんである。
 どんな決闘だか知らないが、ここで沢田はぼくを相手に決闘するつもりなのだ。ひと月ほど前から、沢田は、決闘と言いつづけている。
 日時を見た。三日後だ。
「オートバイにて来ること!」
 と紙切れの下に、大書してある。
「立会人 栄光ロードレース・クラブAJE支部一同」だそうだ。
 AJEとは、オール・ジャパン・エキスプレス。日本語だと、全日本急送。
 輸送員たちは、みんな、ぼくよりもはるかにオートバイ・クレイジーだ。栄光ロードレース・クラブというところに所属し、休みとなればサーキット用のマシーンでレースに参加している男たちが何人もいる。
 いま、この部屋へやに、その男たちのうちふたりが、お茶を飲みながら、雑談している。
 ふたりの顔を、ぼくは、それとなく見た。紙きれを四つにたたみ、ジーンズの尻ポケットに入れ、立ちあがった。
 自分のロッカーから、黒い皮の、パッド入りのつなぎを出し、となりの更衣室へいった。
 つなぎに着替え、ぼくは折りたたみ椅子にすわった。
 もうひとつ椅子をひき寄せて両脚りょうあしを乗せ、腰をずらし、あごを胸にうずめ、両腕を組んだ。そして、深くひとつ、嘆息たんそく
 沢田冬美という十八歳の素敵すてきにかわいい女のこのことを、最初からぼくは、思い出してみた。

『お願い! 大っきなバイクのうしろに、のっけて!』
 女のこからの手紙、という投書のページに、冬美の投書がのっていた。
 このみじかい文句に、住所と名前が、そえてあった。住所は東京の練馬ねりま区。名前は、沢田冬美といった。
 なぜだか理由は忘れたが、ぼくが自分でおカネを出して買ったオートバイ雑誌だった。もう、一年以上も前になる。
 喫茶店で、分厚いその雑誌のあちこちを、ぼくはパラパラやっていた。読者たちのページがあり、そこに投書欄もあった。
 いろんな投書が、のっていた。おしまいのほうに、女のこからの手紙、という欄があった。冬美の投書は、そのいちばんはじめに、のっていた。
 冬美、という名前がとても新鮮だったし、
『お願い! 大っきなバイクのうしろに、のっけて!』
 という文句から、冬美という女のこの気持が、いっぱいに伝わってきた。
 そのとき、ぼくはすでにいまのカワサキを持っていた。原稿輸送のアルバイトは、まだやっていなかった。いまとおなじく学校にはあまりいかず、ヒマだった。
 冬美、という女のこからの投書が、妙に気になった。どんな女のこなのだろう。
 よし。と、思ったぼくは、葉書を一枚、買った。
『冬美という女のこ。
 投書、見たよ。
 よかったら、のっけてあげる。バイクは、カワサキの650です』
 と、葉書に書き、待ち合わせる場所は学校の正門前がいいと思い、略地図を描きこみ、投函とうかんした。
 待ち合わせをする日を書かなかったことに気づいたのは、葉書をポストに落としてすぐだった。
 あいだ一日おいて、ぼくは、毎日、学校へいった。
 お昼すぎから夕方まで、正門の前にカワサキをとめ、そばの芝生に転がり、本を読んですごした。
 五日目。正門のわきにカワサキをとめ、サビが出ている部分をぼくは調べていた。メッキが浅いから、いろんなところにすぐサビが出てくる。
「橋本さんですか」
 と、頭上で涼しい声がした。
 ふりあおぐと、かわいい女のこが、そばに立っていた。
「うん」
 とこたえ、あっ、冬美だ、とぼくが思うのと、
「冬美です」
 と、彼女が言うのと、美しく同時だった。
「久々のヒットだ」
 と、ぼくは、立ちあがった。
「ずっと待ってた」
 冬美は目を伏せた。そして、カワサキを見た。そのあとで、ぼくに目をむけ、やさしく微笑した。
「お葉書、ありがとう」
「うん」
 冬美をうしろに乗せ、近くのコーヒー・ショップへいった。
「なぜオートバイに乗りたいの?」
 冬美は、しばらく、黙っていた。手のなかの、スヌーピーのハンカチを、見つめていた。
「だって。乗りたいんだもの」
「大きいのがいいいのか」
「そう」
「乗せてあげる」
「うれしい。お葉書、すっごくうれしかった」
「今日は、駄目だめだ。ヘルメットがないから。それに、スカートじゃなくて、ジーンズのほうがいい」
「こんどの土曜日は?」
「OK」
素敵すてき
 苦労なしに素直に育った、おとなしいタイプの女のこだ。
 アイビーできれいにまとめていて、ほんとにかわいい。姿もいい。あどけないくちびると目もとが、なんとも言えなかった。
「兄がね」
 と、冬美が言う。
「兄が、オートバイに乗ってるの」
「乗せてもらったら?」
「とんでもない。さわらせてもくれない。CBのナナハンなの」
「いくつだい」
「兄の年齢? 二十七。オートバイで仕事してるの」
 これが、じつは沢田秀政のことだったのだ。
「自分で乗ったら?」
「十六だもん」
「バイクは十六からだよ」
「ぜんぜんできない。うしろに乗せてもらうだけでいいの」
 ほおにかかる髪を首を振ってどけ、冬美は微笑した。
 次の土曜日。約束どおり冬美をカワサキに乗せてあげた。
 相模湖さがみこまでいき、明治の森を見て、横浜へ出た。
 久しぶりのタンデムだったせいか、ぼくはひどく疲れた。だから、冬美には、横浜から電車で帰ってもらった。改札口まで送っていくと、立ちどまってぼくの目を見て、
「冬美がいやになったからじゃないのね」
 と、目に涙をためていた。
 それから、何度も、冬美をカワサキに乗せた。年齢にすこしひらきがあるけど、ぼくたちは、いい友だちになった。
 学校の友人に、小川敬一というオートバイ好きの友人がいる。ホンダCB400フォアに乗っている。気に入ったオートバイがあると、すぐに手に入れてしまう男だ。
 その小川のガールフレンドといっしょに、冬美をつれて浅間までツーリングに出たのは、去年の夏のはじめだった。
 軽井沢かるいざわにある友人の親の別荘に、小川が宿を確保した。なぜだか一泊だけのツーリングだった。
 夕暮れになって白糸の滝に出て、夜おそくなってから、鬼押おにおしハイウェイを、ふっ飛ばした。
 さきに走っていた小川が、道路わきにCB400をとめている。追いこしてトロトロいくと、うしろから、もうスピードで、追いすがってくる。
 ホーンを鳴らし、歓声と共に走りぬけていくのを見ると、小川も、うしろのシートのガールフレンドも、すっぱだかだった。
「きゃっ、裸!」
「あの野郎、やったな。よおし」
 ジーンズとTシャツを、ためらいなく冬美は脱いだ。だが、それ以上は、いやだと言った。
 ぼくは丸裸になった。冬美の下着は、イチゴ模様の上下そろいだった。脱いだ服をサイド・バッグに押しこみ、小川を追った。
 楽しい夏だった。
 秋がきて、冬美は、毎日のように、ぼくに会いたがった。
 朝のうちにアパートに電話してきて、午後にデートの約束をする。
 冬美はかわいい女のこだから、連れて歩くと、とても楽しい。ぼくは彼女が好きだし、彼女もぼくのことを、好きになってもいいのね、と言ってくれていた。
 いっしょにいると楽しいのだけど、話題がなくなってしまったような感じが、ちらっとあった。
 カワサキのうしろには、あまり乗りたがらなくなった。事故でも起こしたらたいへんなので、タンデムでは乗らないほうがいいと、ぼくも思うようになった。
 小さな排気量のバイクで乗りかたを教えようとしたのだが、つづかなかった。
「いっしょにいるだけでいいの」
 十七になったばかりの、とびきりかわいい女のこにそう言われると、二十代のぼくは、いつも妙にせつない気持になった。
 そして、ある秋の日。ぼくたちは、ふたりで、ドライブにいった。
 おなじ作曲科の女のこから借りてきたセリカで、富士五湖ふじごこをまわった。
 楽しくしているうちに、日は暮れてきた。
 ぼくには、下心があったのかもしれない。カワサキではなく、借り物のセリカにしたとこなどは、下心と言われても弁明はできない。そうだ、やはり下心はあったのだ。
 帰り道、森のなかのモーテルに入った。モーテル『愛の鳥』。「愛」が赤いネオン。「の」は、紫。そして、「鳥」は、ブルーだった。
 冬のあいだ、ずうっと、つづいてしまった。ぼくのアパートの部屋へや、第二ゆたか荘204号室にも、よく来た。
 話が前後するけど、秋がはじまると同時に、ぼくは、全日本急送の準社員になり、いま働いている通信社で、オートバイに乗る仕事をはじめた。全日本急送のことは、冬美が教えてくれたのだ。
 冬美は、ぼくの部屋で、料理をつくってくれたりもした。
 冬の寒い日、オートバイ乗りのきつい仕事から帰ってくると部屋に冬美がいるのは、たしかに、うれしかった。かわいい顔を見ていると、ほっとする。
 でも、春が来て、冬美が高校を卒業するころになると、再び話題がなくなりはじめた。自分では気がついていなかったけれど、ぼくは、冬美からはなれていきつつあったのだ。
 はなれていくぼくを、冬美は、つなぎとめようとした。土曜日には、かならず、ぼくの部屋にきてお化粧した。
 冬美は、おとなしい女のこだった。とても柔順で、言いなりになった。じっとぼくのそばにいればそれでいい、という感じだ。オートバイの雑誌にあんな素敵すてきな投書をしたのが、信じられない。
 そんなやさしい冬美と、ぼくは口論するようになった。ぼくは、明らかに、いらいらしていた。自分のほうから積極的に働きかけてこない、お人形のような女のこに、ぼくの興味はながつづきしない。
 どうにもならなくなったのが、五月。
 あるとき以来、冬美は、ぱったりと姿を見せなくなり、梅雨に入ってから、職場の先輩、沢田秀政に、外へ呼び出された。
 車溜くるまだまりの外で、いきなり、
「おい、橋本。おれの妹の責任をとれ」
 と、つめよられた。
 じつは沢田が冬美の兄なのだと知って、ぼくは、仰天した。
 すべて冬美の策略なのではないのか、とさえ思った。でも、それは、ちがっていた。ぼくとおなじ職場に自分の兄がいることについて、冬美はただ黙っていただけなのだ。

 もうひとつ嘆息をつき、折りたたみの椅子いすを立ち、部屋へやの天井をふりあおいだ。
 責任は、ぼくだってとりたい。でも、どうにもできない。結婚したって、しょうがないと思う。
 はなれていったぼくのことを、冬美は、おっかない兄に言いつけたのだ。アルバイトを辞め、姿を消そうか、とも思った。
 だが、いい職場だし、仕事自体、気に入っている。辞めたくない。
 このふた月、沢田は、
「どうするんだ」
 と、ぼくに言いつづけてきた。殴り倒されたのも、今日がはじめてではない。
 冬美とのことを考えなおすために、冬美を乗せてはだかで走った浅間へ、もう一度ツーリングに出た。
 夜の鬼押しハイウェイで冬美のことを一生懸命に考えた。彼女のかわいい顔が、うかんではただ消えるだけだった。
 そして、ついに、決闘。決闘だなんて、ほんとに子供じみてると思うのだが。


 歯が痛い。下顎したあごの、左のほうの二、三本が、浮いている。沢田に殴られたせいだ。あの明くる日から、痛い。
 夜の十一時すぎ、東京の晴海通はるみどおり、歌舞伎座かぶきざの前。車の数が、すくなくなっている。朝から降っていた雨は、いま、霧雨きりさめになって、残っている。路面がれて黒く、車の屋根があちこちでライトに光る。
 カワサキで、ぼくは、勝鬨かちどき橋にむかっている。皮のつなぎに、ハーネス・ブーツ。グラブ、そして、シールドをおろしたヘルメット。ぼくは、フルフェースのヘルメットは、使わない。風が顔にこないから。
 十一時半に、有明へいかなくてはならない。沢田秀政に申し込まれた、決闘のためだ。
 どんな決闘なのだろう。
 真剣にあれこれ想像すると、気分は急速にダウンし、不安になってくる。
 静かに、ぼくは、勝鬨橋をこえた。
 まっすぐに月島つきしまを突っ切って朝潮運河をこえ、晴海。公団アパートや倉庫、それにさまざまな四角いビルが、霧雨きりさめの夜の空間を、おりかさなるようにふさいでいる。
 晴海のまんなかで左折。ふいに、潮のにおいがした。
 晴海線を渡ると、行手に、そして両側に、石川島の工場だ。とんでもないところへ迷いこんだような錯覚が、一瞬、ある。
 貨物船を三度渡ると、東雲しののめ橋だ。この時間、このあたりの道路は、がらんとしている。工場の建物の間に、いきなり、小さな貨物船が見えたりする。なにを見ても、気分はひき立たない。
 東雲を有明へ右折した。左側がゴルフ場になっている、長いまっすぐな道路の行きどまり近くが、指定された集合場所だ。
 荒れた暗い原っぱのむこうに運河があり、水のなかへ崩れ落ちそうな感じで、工場がせまっている。数多いライトによって、工場のぜんたいが、やみのなかにうかがえる。煙突を先端まで闇のなかにたどると、夜空よりも黒い煙を分厚く吐き出していた。
 道路の突き当たりに近い左側に、ライトバンが一台、とまっていた。そのうしろに、オートバイが二台。そのうちの一台は、沢田のCB750だ。二、三人の男が、そのまわりに立っていた。街灯のなかに、ぼうっと浮かんで見えた。
 スピードを落とし、歩道に寄り、すこしはなれて、とまった。
 男たちのひとりが、もっと近よれ、と合図をしていた。ぼくは、合図にしたがった。
 歩道に片足ついてカワサキをとめたぼくに、男は、きいてよこす。
「橋本か?」
 見たことのない顔だ。
「はい」
「降りて、こっちへこい」
 ライトバンのわきへ、ぼくは歩いた。
 カー・ステレオで、子気味のよいハードなロックが、抑えた音量で鳴っていた。埋立地の夜と、そこに降る霧雨のなかに、その音楽はよく溶けこんでいた。
 ライトバンの運転席から、沢田が出てきた。車の前をまわり、歩道にあがってきた。夜でも、あのい色のサングラスだ。
 沢田のほかは、みんな、知らない顔だ。
「すこし早いけど、すぐにはじめる」
 と、見知らぬ男のひとりが言った。
「この道路に、センター・ラインがあるだろう。橋本は、むこうがわ、沢田は、こっち。三〇〇メートルはなれて向きあい、ホーンを鳴らすから、それを合図に、スタート。おたがい、センター・ラインすれすれに走ってきて、すれちがいざま、木刀ぼくとうで、相手をたたきき落とす。いいな。要領はわかるだろ」
 説明に、沢田とぼくは、同時にうなずいた。
たたき落とされたほうが、負け。どんなことになっても、いっさい、文句を言わない。いいな?」
 また、うなずく。
「よし。宣言してくれ。立会人は、このおれだ」
「落ちたら負け。どんなことになっても、文句は言わない」
 と、沢田が言った。
 おなじ文句を、ぼくも、くりかえした。
「上出来」
 ほかの男が、ライトバンから、ふた振りの木刀ぼくとうを持ち出してきた。袋におさめてある。
「位置についてくれ。木刀は、あとから、持っていってやる」
「それから、言っとくけど、オートバイごと突っかかっちゃ、いけないぞ。あくまでも、すれちがいざまに、木刀で相手を突くなり叩くなりするんだ。ヘッド・ランプは消しとけ」
 沢田が、CB750にまたがった。すぐに始動させ、道路の突き当たりにむかって、ゆっくり走った。
「おまえは、あっち」
 言われるままにカワサキにまたがり、道幅いっぱいにUターンし、三〇〇メートルほど走った。とまって、振りかえった。もっとむこう、と男たちが合図をしている。
 さらに五〇メートル、ぼくは走った。再びUターンし、センター・ラインのすぐわきにカワサキをつけた。
 男がひとり、木刀を持って、沢田のほうへ走っていく。
 ぼくのほうにも、走ってきた。木刀を無言でぼくに渡し、なにも言わずに、走ってひきかえした。
 ライトバンの前から道路に出てきた男が、両腕を大きくあげた。沢田とぼくのほうを、交互に見た。
 木刀とアクセル・グリップを右手でいっしょに持ち、ぼくは合図を待った。有明に着くなり、あっと言うまにこうなってしまったので、どうしていいのかわからない。
 わからないまま、男の両腕が、振りおろされた。ライトバンのホーンが鳴った。
 道路のむこうで、CB750の排気音がとどろいた。
 無我夢中、木刀といっしょに握ったアクセルをぼくは開いた。ふらつくのを立てなおし、加速し、三速まであげた。
 むこうから、センター・ラインすれすれに、左手に木刀をふりかざし、沢田がふっ飛んでくる。
 アクセルから右手をはなし、木刀ぼくとうをつかみなおし、右腕を大きく左にのばした。
 それ以外になにもできず、
「あっ!」
 という悲鳴のようなかけ声と共に、沢田とすれちがった。
 胸に、衝撃があった。だが、オートバイから落ちるほどではない。前輪が、かすかに左右に振れただけだ。
 ぼくが握って差し出していた木刀には、カーンというショックがあった。沢田のヘルメットに当たったのだ。ぼくの右腕が、木刀ごとうしろになびいた。CB750の排気音が、遠のいていく。
 木刀をあごの下にはさみ、ぼくはアクセルをもどした。そうしておいて気持を落着かせてから、道幅をいっぱいに使い、Uターンした。
 沢田は、すでにターンをおえ、両足をつき、空吹かしをくりかえしている。
 ライトバンの前の男が、また両腕を上に上げた。
 木刀を、ぼくは太腿ふともものうえに横たえた。シートのうえで位置をきめなおし、空吹かしをした。
 男の両腕が、さっと降りおろされた。ライトバンのホーンが、長く鳴った。
 沢田が、す早くギアをつないで、飛び出す。すこしおくれて、顎の下に木刀を水平にはさみ、ぼくも出た。
 急激な加速で二速までかきあげ、木刀を左手で持ち、右の手首のうえに押しつけ、センター・ラインから斜めに前方へ切先きっさきが突き出るよう、構えた。とても不安定だ。
 ギアは二速のまま、ぼくは、アクセルを開けた。爆音と共に、カワサキが霧雨きりさめのなかに飛び出していく。シールドに小さな雨の粒が、無数に当たった。
 CB750が、黒いかたまりになって、ぼくに飛びかかってくる。センター・ラインにすれすれだ。正面衝突する! という恐怖を必死におさえ、ぼくはラインをそのままにさらにアクセルを開いた。車体が前へ重く飛び出していく。片手だけでハンドルにつかまっているから、シートのうえで体が斜めにうしろへずれ、置いていかれそうになる。
 右の手首に、木刀を押しつけた。木刀の先端を沢田の車線に突き出させたまま、一直線にぼくは突っ走った。
 CB750がすさまじい排気音をひきずって、眼前にせまった。
 すれちがう寸前、ぼくは、恐怖から、上体を大きく前に倒した。ガソリン・タンクにかがみこむような姿勢だ。
 CB750が、ぼくの左わきを、すれすれにすり抜けていった。一瞬、風圧を感じた。ヘルメットに、カーンと、沢田の木刀が当たった。
 ぼくの木刀には、もっと重い手ごたえがあった。沢田の体のどこかを、確実に、まっすぐに、突いたのだ。重量感のある手ごたえが木刀ぼくとうを走り、ぼくの左肩に抜けた。
 ぐらり、と大きくぼくは左へ傾いた。視界全体が、大きく左へかしぐ。
「うわっ!」
 思わず悲鳴をあげ、木刀をほうり出し、手をハンドルにもどした。
 シートから左へ腰が落ちそうだ。倒れる! 大きく右へきりかえしたカワサキの前方に、ライトバンがある。ライトバンに、ぶつかる。
 両手に力をこめてシートのまんなかにしりを乗せなおし、アクセルを開いてトルクをかけ、左肩から落としこんだ。
 アクセルの開きが、大きすぎた。後輪が、れた路面をグリップできずに、空転した。車体のうしろが、すうっと右に流される。左側の路面が、いきなり高く持ちあがったように、ぼくにせまる。
 倒れる!
 あと一、二秒でカワサキの後部がライトバンに衝突するというとき、タイアが路面をとらえなおした。両手と両ひざにかかっていたカワサキの全重量が、うそのように軽くなった。
 ライトバンをすれすれにかすめ、立ちなおりつつ道路の中央へ出ていくとき、ぼくは、重い転倒音をうしろに聞いた。CB750が、路面にたたきつけられたのだ。
 道路の中央で立ちなおったぼくは、そのまま、反対側に走った。歩道に寄せてとまり、肩ごしにふりかえった。
 CB750が無惨にひっくりかえり、排気管から路面へ白煙を吹き出していた。すこしはなれて、沢田が、手足をのばし、横ざまに倒れていた。
 男がひとり、木刀をひろい集め、もうひとりが、沢田にかけ寄っていった。
 スタンドをかけ、ぼくも夢中で沢田のところへ走った。
 男が道路に両ひざをつき、沢田の顔をのぞきこむ。
「沢田!」
 沢田が、何度も、うなずく。
「だいじょうぶか」
 また、うなずく。うなずきかたは、しっかりしている。
 男ふたりで沢田の体を道路からすくいあげ、ライトバンへ運んだ。
 木刀をライトバンにかえした男が、CB750をひとりで器用に起こした。ぼくは、歩み寄った。
「だいじょうぶですか」
 ぼくの言葉にこたえず、男は、CBを点検した。
 明らかに、ハンドルが曲がっている。左のステップも、おかしな角度だ。男は、CBを押してライトバンのほうへいった。とり残されたぼくの足もとに、ウォーニング・ランプのオレンジ色のカバーがひとつ、転がっていた。
 沢田を乗せたライトバンはUターンし、ぼくの目の前をとおり抜け、東雲しののめのほうへスピードをあげつつ、走り去った。オートバイの男が、それにつづいた。
 沢田のCB750と、それを点検していた男だけが、残った。またがって、男は、エンジンをかけた。始動した。
 吹かしながら、ミッションのあたりをつまさきで何度もっていた男は、歩み寄っていくぼくを残して、走り出した。
 立ちどまり、ぼくはそのCBを見送った。オートバイは、ゆっくり、東雲のほうに消えた。
 カワサキのそばで、ぼくは、ながいあいだ歩道の端に腰かけていた。
 両ひざに二の腕を乗せ、またのあいだに手を垂らし、うなだれていた。なにも考えることはできなかった。
 とてもいやな、沈んだ気分のぼくの頭のなかに、沢田の顔、冬美の顔、浅間の鬼押しハイウェイ、モーテル『愛の鳥』のネオン、エプロンをした冬美のうしろ姿、信州でぼくをずぶれにした夕立などが、次々に、無秩序に、あらわれては消えていった。
 霧雨きりさめが、強くなってきた。
 遠くから、貨物船の霧笛むてきが、聞えた。工場の煙突から吐きだされる煙のせいだろう、不快なにおいのする空気が、霧笛と共に、ぼくの顔をで、とおりすぎていった。


 とても、悲しい。悲しいと同時に、底なしのうんざりを、頭からひっかぶってしまったような気持だ。
 重く暑苦しい、曇天の日の午後。
 東京の空は、雲でおおわれ、その雲の下に、スモッグの層が、厚くとじこめられている。風がない。むし暑い。
 重苦しい灰色の底で、東京ぜんたいが、うめき声をあげ、苦しまぎれの寝がえりを打とうとしている。だが、寝がえりは、打てない。
 ぼくはいま、高速環状線の江戸橋えどばしインタチェンジにいる。エンジンを切ったカワサキにまたがり、江戸橋のランプから箱崎町はこざきちょうのランプに抜ける走行車線の外にとまっている。低いコンクリートの壁にぴたりと寄せてカワサキをとめ、片足をつき、じっとしている。
 右まわりの、ゆるやかなカーブの頂点だ。うしろからひっきりなしに、トラックやさまざまな車が、うなりをあげてふっ飛んでくる。カーブの外へはらみ、とまっているぼくを追い抜き、走り去る。
 一台一台の車の音がひとつにかさなり、いつまでも連続してつづいている。その音がぼくの全身を押しつつみ、圧迫してよこす。不吉な地鳴りのような音だ。
 いまのぼくの気分に、まったくふさわしい。
 対向車線も、車の流れが、すさまじい。神田橋かんだばしのほうへまっすぐに走っていく車。そして、インタチェンジで大きくカーブし、宝町たからちょうの方向へ抜けていく車のつらなり。
 震動が、カワサキの車体をとおして、ぼくの体に伝わってくる。
 うなりをあげてぼくの左を抜けていく巨大なトラックが、風圧をぼくの体にぶつける。トラックのパワーが空気のなかをまっすぐにぼくを直撃し、ぼくの上体が思わず前にかしぐ。
 排気ガスのかたまりが、インタチェンジの底によどんだまま、動かない。どこを見ても、きたなく黒くすすけたコンクリート。高速道路を支えるコンクリートの大きな四角の柱の不吉な列。荒れた路面。高速道路の周辺に、びっしりと建っている大小さまざまなビルは、排気と騒音の中で不気味な増殖をつづけているみたいに見える。
 トラックのタイアの、路面を力まかせに踏みつける音が、背後から近づいてくる。目には見えない怪物のように、その音は急激に大きくなって力を増し、ぼくの背にのしかかり、頭をどやしつけてくる。
 カーブを外側いっぱいにはらんで抜けていくトラックの内側を、白いライトバンが、ホーンの悲鳴を放ちつつ、もうスピードですり抜けていく。ぼくのカワサキすれすれだ。
 そのライトバンが、カーブを抜けるあいだ鳴らしつづけていたホーンの音にこたえるかのように、奇怪なエネルギーに満ちた自動車という名の怪物たちが、あちらからもこちらからも、ホーンを鳴らした。無数のビルの壁面や、この高速道路の裏面や柱にこだまし、雲にとじこめられたスモッグの空に、やがて消えていった。
 呉服橋ごふくばしのほうから来て、大きく四十五度以上にカーブを描いて宝町のランプに曲がりこんでいる車線が、ぼくの頭上におおいかぶさっている。昭和通りの上を上野から来ておなじく宝町に抜ける車線が、おなじくカーブをつくって、それによりそっている。
 箱崎のほうから来る車線も、左右の両端の車線が、本線をまんなかに残して上へせりあがり、大きく左へくねり、宝町のランプにのびていく。この車線もまた、ぼくの頭上だ。
 ちょっとした地獄の底だ。
 肺のなかに排気ガスがびっしりと入りこみ、胸の底に重く沈殿ちんでんしている。ほかの車のタイア音と振動と風圧とで、全身の感覚が麻痺まひしている。
 なぜ、ぼくは、こんなところにいるのだろうか。
 ぼくとの決闘で転倒した沢田は、入院してしまった。左の肩の脱臼だっきゅう。あばら骨の骨折。そして腰の骨にひびが入ったそうだ。おなじ職場の、栄光ロードレース・クラブの男たちが、そう言っていた。
 あの日以来、沢田は、休職扱いとなっている。
 入院している沢田に会いにいこうと思い、ロードレース・クラブの男たちに入院さきをたずねたのだが、教えてくれない。いくら頼んでも駄目だめなのだ。
「教えてくれるなと口止めされているから」
 と、ロードレース・クラブのいちばんの責任者が言っていた。
 ぼくは銀行へいき、貯金を全額、ひきおろした。明るい明日をめざして、すこしずつためにためておいたおかねだ。五十一万円になっていた。
 カウンターでくれた袋に入れ、会社へいき、『沢田秀政様』と、上書きし、栄光ロードレース・クラブの責任者をやっている男に、渡した。
「沢田さんにです」
「おう」
 と言って受け取り、
「なんだ、分厚いな。五百円札か」
 と、彼は、笑っていた。
 明くる日、彼は、沢田のサインの入った領収書をくれた。
「ほらよ、領収書。沢田は、いらないと言ったけど、取っとけっておれたちがすすめた」
 ほがらかにそう言い、領収書をぼくに手渡してくれた。
「裏を見てみな」
 と、彼は言った。
 領収書の裏には、電話番号がひとつ、走り書きしてあった。
「病院で、沢田の妹に会ったんだ。あのくらい可愛かわいけりゃ、男ならだれだって口説くどきたくなるさ。その番号に電話してみろ」
 その電話番号に、見おぼえはなかった。冬美の自宅の番号ではない。
「就職したさきかな」
「そうだろうな。電話くれるようにおまえに伝えてくれって言われたから」
 今日、一時間ほど前、ぼくはその番号に電話をしてみた。
 なにかの会社だった。交換台の、早口な若い女性が、
「沢田と申しますと、どの課でしょう、おわかりですか?」
 と、ききかえした。
「この春、入社された女性のかたです。沢田冬美さん」
「お待ちください」
 しばらくして、
「もしもし」
 と、冬美の声だ。
 ぼくは、なぜか、ドキドキしてしまった。声がうまく出ないし、しゃべかたの調子が、おかしい。
「冬美さんですか。ぼくです。橋本です」
「はい」
 と、冬美は普通に言い、そのまま、黙っていた。
 昭和通りの電話ボックスで、車の流れをながめながら、ぼくは途方にくれた。
「ごめん」
 ひとまず、ぼくは、そう言った。
「いいのよ」
「もういちどくらい会えると思ったのだけど」
「そうね。でも――」
「兄さんは?」
「兄のことは言わないで」
 アタッシュ・ケースをさげた男が、電話ボックスの外に立った。いらいらしたような顔で、ガラスごしにぼくの顔を見た。
「近くから電話してるんだ」
 なにを喋っていいのかわからないので、ぼくは、でまかせを言った。必死だった。
「お仕事?」
「うん」
 やりとりは、すぐにまた、途切とぎれた。
「このへんには、よく来るんだ」
 また、出まかせ。
「そうなの?」
「近くでばったり会ったら、どうしよう」
「そうねえ――」
 と、考える。冬美の、くせだ。
「こんにちは、ぐらい言ってくれるかな?」
「言うわ。でも、オートバイでしょ」
「手を振ればいいんだ」
「そうね」
「夜だったら?」
「何時ごろ?」
「たとえば、十一時。なんて言う?」
「おやすみなさいって、言うわ」
 静かに、冬美は、電話を切った。
 アタッシュ・ケースを持ったビジネスマンが、ボックスの外を歩きまわりながら、待っている。
 外へ出ながら、ぼくは、妙に、ほっとしていた。冬美は、ぼくよりはるかに、うわてだ。
 この電話のあと、外堀通そとぼりどおりの呉服橋ごふくばしランプから、ぼくはなんの意味もなく、高速環状線にあがってきた。そして、この江戸橋インタチェンジのここにとまり、悲しいと同時にとことんうんざりしてしまったような、虚脱きょだつした気持でいる。
 どの車線も車の流れが途切とぎれない。
 カーブにさしかかって左から自分の前へ出てくる乗用車を、長距離輸送トラックの鋭く広がるホーンの音が、追い立てる。トラックは、地響きと共に、ぼくに排ガスと風圧の渦巻きを浴びせ、走り去った。
 スイッチを入れて路面に左足をつきなおし、ぼくは右足でキック・ペダルを出した。
 キック・ギアを合わせ、スターター・レバーを操作し、体重を乗せて踏み切ると、エンジンはいつものように二発目でかかった。
 後続車の流れを見て、ぼくは、走りはじめた。
 浜町はまちょうで降り、昭和通りから高速1号上野線にあがった。ついさっきまでぼくがカワサキをとめていたうえを通過し、高速環状線に入った。
 いっさいの雑念を払い、走ることだけに神経を集中させ、東銀座ひがしぎんざ新橋しんばししば飯倉いいくらかすみせき代官町だいかんちょう、神田橋と、ひとまわりした。
 さらに二度、おなじコースをぼくは走り、神田橋で降りた。あと一時間足らずで、会社へいかなくてはならない。
 喫茶店をみつけたぼくは、歩道にカワサキをあげ、ハンドルをロックした。ヘルメットを持ち、喫茶店に入った。
 片隅かたすみの席でしばらくぼうっとしてから、ぼくは、野戦ジャケットのポケットから、手紙をとりだした。
 便せん二枚に書いた手紙と、ま四角なカラー写真が二枚、入っている。今日、アパートを出るとき、鉄板の階段の下にまとめてとりつけてある郵便受けの、204号のところに、ぽつんとひとつ、入っていた手紙だ。
 写真を、ぼくはながめた。
 一枚は、カワサキにまたがってカメラのほうをむいているぼく。草の緑や、空のブルーが美しい。ぼくの顔がをうけて光っている。カワサキは、意外に、くすんでいる。写真のなかのぼくは、うれしそうに笑っている。
 じっと見ていると、七月なかば、あの日の信州しんしゅうに広がっていた青空や明かるくて強いざしが、思い出されてくる。
 あんな素敵すてきな日がほんとうにあったのだろうか。とても遠い昔のことのような気がする。まだ十日もたっていないのに。
 もう一枚の写真は、あの女のこのだ。
 ぼくは、封筒の裏の、差出人の名を見た。白石美代子。住所は、兵庫県ひょうごけん西宮にしのみやのアパートだ。
 あの女のこの名は、白石美代子といったのか。
 公共浴場のなかでぼくたちの裸の体は触れ合わんばかりになったのに、名前すら聞かずじまいだったことに、いまはじめて、ぼくは気づいた。
 ぼくは、彼女の写真をながめた。ぼくが撮った写真だ。こんなにきれいな女のこだったろうかと、ぼくはいま、とても不思議な気持だ。
 青い空をバックに、くっきりと、上半身が写っている。ちょっと陽に焼けたようなはだで、黒い髪が軽やかにおでこにかかり、口と目もとが、いい微笑を見せている。
 あごがすこしとがっているのが、特徴だ。丸い目は二重まぶたで、小さな鼻が、高からず低からず、すっきりと抜けている。
 ほおに、わずかなかげりがある。目もとやくちびるにうかんだ微笑が、頬までは、広がっていないのだ。それが、彼女を、いっそう彼女らしく見せていた。かなり深い彫りのある、まともな美人だ。カワサキのミラーにかけたぼくのヘルメットが、すみのほうにゆがんで写っている。
 手紙を読んだ。いろんなことが書いてある。ぼくがなにをやっている人なのか、なぜオートバイに乗るのが好きなのかなどについて、彼女は興味を示していた。
『オートバイがとっても好きなんだなってこと、見た瞬間にわかったのです。とても、うらやましかった。あんなに好きになれるものがあるなんて。なぜ、オートバイに乗るの?』
 こんな文章が、きれいなボールペンの字で、横書きしてある。
 便せんと封筒が、三通分セットになっているものを、さきほどぼくは、とおりがかりの文房具屋で買っておいた。
 冷えたコーヒーを飲みながら、返事を書いた。
 なかなか、書けない。生年月日と出身地、身長、大学の名前などを列挙し、なぜオートバイに乗るのか、という質問にだけ、次のようにこたえておいた。
『退屈だからにちがいない。退屈だと、なにをやっても、自分の好きなように、どんなふうにでも適当にごまかせてしまうから。音楽だって、そうだろう。だけど、オートバイだけは、適当にごまかすことはできない。ごまかしていると、やがてかならず、しっぺがえしがくる。厳しいんだ。だから、乗るのさ。最高の緊張だよ』
 書きおえると、また、悲しくなってきた。写真の信州の青空をいくらながめても、あの日の陽光はよみがえらず、気持は浮き立ってこない。
 白石美代子。写真で見ると美人だけど、あの日の浅間のかなたに見た入道雲のように、遠い。
 ミルクの入ってきた小さな金属のカップを、なんの意味もなく、残ったコーヒーのなかに沈め、店を出た。


 西宮の白石美代子から、二度目の手紙がすぐに届いた。
『私も退屈なの』
 という書き出しの手紙だった。
『なんとなく感じてはいたのだけど、お手紙を読んで、はっきりしたみたい。退屈なのね。毎日の生活は、いちおうきまっていて、きちんとそれをやっていけば、それはそれでいいんだろうけれど、そのかわりに、いま自分のいるところから、ずっと先まで見えてしまうみたい。どうしたらいい?』
 こんな調子で、便せん三枚に、書いてある。
 会社は三日つづけて休みなので、ぼくは久しぶりに学校へ来てみた。
 夏休みのまっさいちゅうなのだが、語学の単位を落としつづけてきた連中のための夏期講習が七月いっぱいはあるし、卒業提出の作曲をするために学校へ出てきている四年生も多い。ぼくだって、四年生だ。
 学校のちかくの、民芸ふうなコーヒー・ショップで、ぼくは、白石美代子あての返事を書こうとしていた。
 うまく書けない。『私も退屈なの。どうしたらいい?』というような手紙に、どんな返事を書いたらいいというのか。
 窓の外を見た。いい天気だ。暑い。かっとが照りつけ、夏らしい。
 熱い陽ざしは、素敵すてきだ。陽ざしのなかにいると、たいていのことは、忘れてしまえる。あるいは、ほとんどのことが、許せてしまえる。自分を取りまく空間の質が、ちがってくるから。
 陽が照らなくなると、日常の現実のディテールが、ひとつひとつ意味ありげにくっきりとしてきて、それぞれに重さを主張しはじめる。
 強い、明るい陽が照っているあいだは、そんなことはない。
『手紙は苦手だな』
 と、青いサインペンで、ぼくは、便せんに書いた。
『気がむいたら、電話を。電話でしゃべったほうが、よく伝わるよ』
 ぼくのアパートの部屋へやの電話番号を書き加えたら、それで返信はできあがりだった。
 すでに切手のってある封筒に入れ、封をした。あて名を書いた。おなじ女のこから二度つづけて手紙をもらったのは、白石美代子がはじめてだなと、ぼくは、ふと思った。
 会社では、夏の休暇が一週間、とれる。だが、輸送員のローテーションを二十四時間休みなしで組む必要上、たいていの輸送員は、一週間をふたつに分けて、休まなくてはならない。ぼくも、そうだ。今日からの三日間が、夏の休暇の最初の部分にあたる。
 貴重な休みなのに、コーヒー・ショップでこんなふうにぼうっとしているなんてもったいない、と思いながら、さらにぼくは、ぼうっとしていた。ひょっとして、友人の誰かが、あらわれるかもしれない。
 店に何冊も置いてあるマンガを見ていると、おなじ作曲科の男が、三人そろって、あらわれた。栗木くりき桃田ももた、そして大垣おおがきという男だ。
 ぼくを見つけ、ドカドカとやってき、座布団の敷いてある小さな椅子いすにすわった。
 しばらく雑談していると、やがて、女のこがひとり、入ってきた。五線ノートを何冊もかかえている。中原麻里まりという女のこだ。彼女も、作曲科だ。いつも白いセリカGTに乗っている。沢田冬美とのドライブのためにぼくが借りたことのある、あのセリカだ。
 ほかの三人は、彼女に気づかない。麻里もぼくたちのほうを見ないまま、すこしはなれた席についた。ウエートレスに注文を告げ、煙草たばこを取り出し、一本抜いて、火をつけた。
 煙を吐き出しながら店のなかを見渡し、彼女はぼくたちに気づいた。
 手をあげてにこっと笑い、煙草を唇にくわえたまま、五線ノートをかかえ、ぼくたちの席へきた。となりの席から椅子を持ってきて腰をおろし、
新宿しんじゅくでさあ――」
 と言いかけるところを、
「新宿でどうしたんだ。目を三つにしてもらったのか」
 と、栗木が茶化す。それをうけて桃田が、次のようにつけ加える。
「三つでようやく人なみにものが見えるだろう」
 麻里の目は、細い。といっても、ほんのちょっとなのだが。
 ほっそりした、青白い顔を、まんなかから分けてカールさせた髪が、両側からとりかこんでいる。体も、すんなりと細い。胸なんか、ふくらみがあるのかないのか、ぜんぜんわからない。快活な、拍子ぬけのするほどにさっぱりした女のこだ。
「待ってたんだよ、麻里」
 と、今度は大垣だ。
「あたしを?」
「おまえでも、男に待たれることがあるんだ」
「あなた、男なの?」
「おまえは、なになんだ」
「それでも女のつもりかよ」
「カンナだわ」
「カンナ?」
「そうよ。大工道具のカンナ」
「なぜ?」
「男の身をけずるもん」
 と、麻里は、身ぶりを加えた。
「よく言うよ」
 三人の男が、そろって笑った。
「その薄い腰で」
「助平ねえ」
「でもさあ、男をほろぼすのは、以外にこういう女なんだ。なあ、橋本」
「こいつあ、知らないよ。オートバイにまたがってばっかりだから」
 ウエートレスが、麻里の注文したものを持ってきた。アイス・ウインナだ。広口のずんぐりしたグラスにアイス・コーヒーを入れ、コーヒーのうえにクリームが厚く白い層をつくっている。
「ああ、飲みたかったんだ、これ」
 グラスを持ち、麻里は口をつけた。
「白いヒゲができるよ」
 グラスをかたむけると、クリームの下から、アイス・コーヒーが口のなかに入ってくる。こぼさずに飲もうとすると、鼻の下にクリームが白く八の字ひげのようにくっつく。
 みんなは、それを見て笑った。まるで幼稚園だ。
 麻里は、サンダルの先でぼくのブーツのヒールを軽くってよこした。
「どうしてるのよ、コオ、最近は」
「どうもしてない」
「ライブラリーでパブロ・カザルスを聴いてたの。弾きながら、うーんって、何度もうなるのね。感動的」
 しばらくして、みんなで店を出た。伝票は麻里が払った。
 小さな駐車場に、白いセリカのGTがとまっていた。ぼくたち五人は、乗りこんだ。うしろの三人は、きゅうくつだ。麻里が運転した。
「五人も乗ると、ハンドルの感じが、ぜんぜんちがう」
 やがてクーラーが、きいてきた。
 どこへというあてはなく、都心にむかって走った。街道をいきながら、郵便ポストをみつけたぼくは、セリカをとめてもらい、白石美代子への返事を投函とうかんした。
 走りながらいろんな雑談が四人のあいだを飛びかった。ぼくは、おおむね、だまっていた。
 ほかの仲間たちはどうしているのだろうかという話になり、夏休みのいまでも東京にいることが確実な連中のところへ、赤電話が見つかるたびに、電話した。
 三度目に、大垣がセリカを降り、和田という男の自宅に電話した。
 の当たるパン屋の店さきで、なにか勢いこんで電話でしゃべっていた大垣は、小走りにセリカまでひきかえしてきてガードレールをまたぎ、
「海、海! これから海へいこう!」
 と、うしろの席に体をねじこんだ。
「どこの海なの? 南フランスなら、去年いったから、今年はいやよ」
「なにを気取ってやがる。外房そとぼうだよ」
九十九里くじゅうくり?」
「そう。なんだか知らないけど、九十九里にあいつの兄さんが、プレハブの別荘を買ったんだって。一週間あいてるんで、これからいこうとしてたとこなんだってさ。おれたちもすぐにいくって言っといたよ。さあ、いこう」
「いこうと言ったって――」
 当惑ぎみに言う麻里に、
「九十九里だよ、近い、近い」
「いこう。いくべきだ」
「都内をとりあえず抜けて、京葉道路だな。千葉市内から九十九里まで、近道を知ってるから」
「おまえ、そう言えば、実家が千葉だったな」
「いこう」
「ほかに女のこも何人か来るんだって」
「なおさら、いくべきだ。夜は、乱交パーティだ」
「青春だな、これは、きっと」
「麻里、こわいだろ、乱交は」
「相手があなたたちなら、交わりのうちに入らないわよ。女が満ち足りて痴呆ちほう状態になってこそ、交わりなんだから」
「おまえも、すこしは、わかってきたようだ」
 結局、今日このまま、九十九里へいくことになった。ぼくも、いくことに決めた。
 アパートに寄ってもらうことにした。ぼくだけは、オートバイでいく。セリカのうしろの席は、せまくてかなわない。
 快晴だったのは、海に着いたその日だけだった。
 明くる日は、朝から夕方まで、まったくの曇り空。明かるくて強い陽光をぼくは期待していたのに。
 漫然と海岸にいて、一日すごした。次の日は、昼からきれいに晴れた。
 晴れてさえいれば何日でもいたいのだが、明日からはまたアルバイトだ。帰らなくてはならない。
 部屋数へやかずが四つの小ぢんまりした別荘に、十人もの人がいる。麻里を含めて四人の女のこたちが、夕食だけ、つくってくれていた。
 三日目の夕食をすませ、七時まえにぼくはカワサキで東京にむかった。
 大垣は、千葉ちば県の佐原市さわらしの出身だ。すこし遠まわりをすれば、香取郡かとりぐんの小さな町で夏祭りが見られる、と教えてくれた。
 ぼくたちが泊まっていたプレハブの別荘は、中新田なかしんでんにあった。九十九里有料道路の北端だ。
 まっすぐ西へいって東金とうがねを抜け、千葉市まで国道126号線の裏道を走るつもりでいた。
「夏祭りか」
「いいもんだ」
「夜店がならんでるだけだろう」
「ま、そう言えば、そうだけど。作曲のタネに、見とけ」
「作曲なんか、きらいだ」
「なにが好きなんだ」
「オートバイ」
 ぼくは、愛しているカワサキの燃料タンクをたたいた。
「だったら、オートバイに夏祭りを見せてやれ」
「ふん」
 大垣は、にやっと笑った。
「ふん、と言うのが、おまえのくせだな」
「最近はあまり言わないようにしてる」
 スタンドでガスを入れたついでに、地図を買った。まわり道をするとなると、自信がない。
 道順は、簡単だった。東金から国道126号線を、総武そうぶ本線に沿って、北に走る。八日市場ようかいちばの手前で西に折れ、国道296号線を西にむかう。
 八日市場と成田なりたの空港とのほぼ中間、国道からすこしはずれて、その小さな町がある。一度、ぼくは、千葉でひどく道に迷ったことがあるのだが、これならだいじょうぶだろう。
 七月二十五日、外房から内陸にむかう夜、快晴。東京とちがって、空には星が銀色にたくさん光っている。ぼくは、ゆっくり、夜を楽しみながら、走った。
 標識を頼りに、夏祭りの町まで、道に迷わずにたどりつくことができた。
 町を抜けている道路は、祭りのため、通行どめになっていた。人が、たくさん歩いている。道の両側の家なみのむこうに、屋根から提灯ちょうちんをたくさんるした二階建ての山車だしが見えた。
「この道はとおれないから、裏道をいきなさい」
 警官の指示にしたがい、ガス・ステーションのある三叉路さんさろを裏通りに入った。
 野っ原を平らに削っただけの駐車場があった。照明灯しょうめいとうが一本だけ、立っていた。乗用車が数台、とまっていた。
 片隅かたすみにカワサキをとめ、ハンドルをロックした。燃料コックをオフにし、ヘルメットを持ち、ぼくは表通りに出ていった。
 山車だしが一台、こちらにむかってくる。菓子屋の前に立ち、ぼくはそれを見守った。
 祭りの衣装いしょうに身をかためた若い男たちが、山車からのびている二本の長いロープを引いている。踊っている人たちもいる。
 山車は背の高い二階建てだ。古風な、こったつくりの屋根が四本の柱で支えられ、手すりで囲まれた高いスペースのなかでは、若者がひとり、レコードの音楽にあわせて舞っている。囃子方はやしかたが、芸者のうしろにすわっている。
 その下のスペースには、大きな太鼓がはめこまれたようにつんであり、お神酒みきをそばに、地元のだんなたちが何人も乗っている。ここにも、四方に手すりがある。
 二階の屋根からは、提灯ちょうちんがたくさんさがり、祭りのために寄付をしてくれた人の名前と金額を書きつけた白い紙が、ずらりとってある。
 山車の車輪は、木製の大きなものだ。まわりに、子供たちがついている。芸者の踊りがおわった。山車は、ゆっくり、動きはじめた。
 三叉路で、山車はとまった。
 町なかにむかって、ぼくは歩いた。ほどよく暑い夏の夜だ。祭りにふさわしい。
 雑駁ざっぱくにならんでいる建物のなかに、ワラぶきの古い農家が道路に一軒、残っていたりする。すだれをかけた戸口から、なかが見える。天井の蛍光灯けいこうとうの下で、ステテコだけの老人が酒を飲んでいる。
 しばらくいくと、夜店がならんでいた。
 綿菓子、焼きソバ、お好み焼きなどのにおいが、鼻を打った。
 店から店へ、ひやかしながら、歩いていった。見知らぬ町の夏祭りの夜。そのなかに、なぜだかぼくが、ひとりでいる。
 つじに出た。向こうの通りからも、山車だしがくる。角の店で、大きなフランクフルト・ソーセージを、ぼくは一本、買った。
 左に曲がった。この道にも、両側いっぱいに、夜店がならんでいる。しばらくいくと、駐車場のようなところから山車が出てくるのにぶつかった。
 道路に出てくるとすぐに、山車は、構えの大きな商店の前にとまった。芸者が踊りはじめた。ロープの周辺で、若い人たちも踊る。四国の阿波踊あわおどりに似ていた。
 はき物屋の店さきで、ぼくは、ソーセージをかじりながら、踊りをながめた。
 一時間ちかくそんなふうにして過ごした。
 カワサキをとめたところまでひきかえし、地図を見なおした。道順をよく頭に入れてから、新空港自動車道の富里とみさとインタチェンジにむかった。
 誰かといっしょだったらよかったのにと、ぼくは、暗い道を走りながら、思った。誰がいいだろう。もちろん、女のこがいい。


 ほかにもうひとつ、大きな、ちゃんとした応接間があるにちがいない。
 ぼくがいまひとりで原稿を待っているこの部屋へやは、略式の応接間だ。
 くつろげるようにカラー・テレビが置いてあるし、週刊誌や漫画のつまった書棚しょだなもある。和服を着たおとなしいお手伝いのおばさんが、ひっきりなしになにか持ってきてくれる。
 はじめは、お茶だった。次に果物が出て、それから紅茶とクッキー。その次が、オレンジ・ジュース。そして、コーヒーとブルーベリー・タルト。
 ついさっきまたやってきて、
「おビールは召しあがりますか?」
 と、きいてくれた。
 ぼくは原稿をもらったら、オートバイで大至急、社に帰らなくてはいけない。ビールなんて、駄目だめだ。
 かれこれ二時間、ぼくはこの略式の応接間にすわっている。
 ここは、有名な時代小説作家の自宅だ。
 しっかりした造りの、和風の大邸宅だ。しんとして、とても静かだ。真夜中のせいでもあるのだろうけれど、なんの物音も聞えてこない。
 いきなり、ドアに、ノックの音がした。ぼうっとしていたぼくは、びっくりした。
「どうぞ」
 と、ぼくがこたえると、ドアが開いた。お手伝いさんだ。深々と礼をし、
「先生は、ご執筆がながびいていらっしゃいます。先生からおうかがいしてこいと言われたのですが、剣道はおできになりますでしょうか」
「いいえ。できません」
「さようでございますか」
 と、また礼をし、一歩さがった。
「では、どうぞ、こちらへおとおりくださいませ」
 ドアの外の、よくみがきこまれた広い廊下を手で示す。
「どうぞ、こちらでございます」
 ぼくは、お手伝いさんのあとについて、歩いていった。つるつるの板に靴下くつしたがすべり、歩きにくい。スリッパは、さっき脱いだままだ。
 廊下を何度も曲がり、庭に面してガラス戸がつづいているところを抜け、渡り廊下でつながった離れのような部屋へやの前に出た。
 広い板の間があり、そのむこうに、障子しょうじをはめた入口がある。障子しょうじの両側には、甲冑かっちゅうがひとそろいずつ、置いてある。
「おいでいただきました」
 と、障子の前で、お手伝いさんが言った。
「お入りなさい」
 陽気な声が、障子のむこうから、聞えた。
 お手伝いさんが障子をあけてくれた。
 どうぞ、と彼女は、目でぼくに伝える。ぼくは、なかに入った。冷房がきいている。
 広い畳敷きの、落着ける部屋だ。中央に大きなすわり机があり、先生は和服姿で、その机のむこうにいる。資料なのだろう、古風な本が、きれいな畳のうえに散乱している。
 お手伝いさんが障子をしめた。どうしていいのかわからないので、ぼくは、突っ立っていた。
 先生が顔をあげ、ぼくをじっと見る。
「うーむ。二十四歳、育ちは東京に近い、神奈川か静岡か」
「神奈川です」
 先生は、うなずく。
「年は?」
「当たりました」
「よろしい」
 白いもののまじったオールバック。鼻の頭が赤い。酒とのつきあいは、ながそうだ。無精ひげ。銀ぶちの眼鏡めがねの奥で、二重まぶたの目が意外にやさしい。厚いくちびるに、微笑がうかんでいる。
「じつは、頼みごとがある」
「はい」
「靴下を脱いでくれたまえ」
「は」
「庭へ出てほしい。私といっしょに」
 先生は、立ちあがった。背丈はぼくとおなじくらい。くすんだ色の、しわのよった和服だ。
 床の間のようなところへいき、立てかけてあった二本の日本刀をつかんだ。
「こっちだ」
 ガラスのはまった障子しょうじをあけると、廊下。その廊下のガラス戸の外が、中庭だった。きれいな芝生に、白銀灯が光を注いでいる。飛び石が、カーブを描いて築山つきやまのむこうに消えている。池や植え込みが見える。
 日本刀のさやを二本とも払った。光をうけて、冷たく銀色に、ぎらりと光る。真剣だろうか。不気味な光りかただ。
「白刃だ。人がれる」
 と、先生が言った。
 ぼくに歩みより、一本を差し出す。
「構えてみたまえ」
 両手にずしりと重い。
「自分のあしを切らないように、しっかりと、持ちたまえ」
 しゃべりかたに妙な抑揚よくようがあり、それが愛嬌あいきょうとなっている。
「こっちへ」
 と、芝生のまんなかへ、ぼくをつれ出した。
 ぼくとのあいだにすこし距離をとり、
「私を斬るつもりで、構えてみたまえ」
 と、先生は言った。
 重い真剣を、ぼくは、ちゃんばらのように構えた。
 白刃を右手にだらりと下げたまま、先生は、ぼくをじっと見る。眼鏡の奥の目を光らせ、しばらく先生はぼくを見つづけた。
「よろしい。撃ちこみたまえ」
「は?」
「ぼくをってよい。斬りなさい」
「どうすればいいのですか」
「こうだ」
 先生の両足が芝生をった。白刃が夜の中に一閃いっせんした。ガチッ、と音がし、先生がぼくの目の前にきていた。ぼくの構えた真剣に先生の剣がすり合っている。ぼくの頭をふたつに割る寸前で、先生は剣をとめたのだ。
「こうだ」
 さっと、ひと飛びして、先生は、さきほどの位置にさがった。おどろくべき身の軽さだ。
「さあ。来たまえ」
 白刃を握った右腕を、先生は再び、だらりと下げた。
 ぼくは、構えなおした。重いので、腕がすぐにさがってくる。両足を踏んばり、先生がやったように、ぱっと前に出た。
 すっと、先生がうしろへひく。
「もっとはげしく来い!」
 なんのことだかわからないまま、ぼくは夢中になって、
「やっ!」
 と叫び、右から左へ真剣をバットのように振りまわし、前へ出た。重さに体がひきずられる。
 先生の体が沈み、
「えやあっ!」
 ものすごい気合いと共に、ぼくのわきをすり抜け、ふっ飛んでいった。
「いまのように、さあ、来たまえ」
 構えなおしたぼくは、こんどは、やりのように、突いていった。
 ひらりと左に飛びざま、先生は斜めに斬りさげてよこした。びゅっ、と風を切る音がした。ぼくの顔のすぐ近くだ。
「もう一度、来たまえ。いまの調子だ」
 ぼくは、突然、こわくなった。
 だが、こわいですよ、と言うそのひと言が、声になって出てこない。
 真剣を両手で必死に握りしめ、両足を踏んばって芝生のうえに突っ立ったままでいることしか、できなかった。
「来なさい」
 その声にたぐり寄せられ、ぼくは走るように前へ出た。
 先生も、ぼくにむかって、飛んでくる。上体を右いっぱいにうしろへねじり、両手で持った真剣を背中のうしろにまわしている。
 満月の光に、先生の真剣が、冷たく輝く。体当たりのようにふっ飛んで来た先生の体が、すっと、沈んだ。腰の回転バネをきかせ、
「たあっ!」
 と、白刃をぶんまわしつつ、ぼくの右わきをすり抜けていく。
 ぼくは、刀の重さに、早くも二の腕がしびれてしまった。呼吸が乱れかけている。二本の真剣のうちどちらか一本がそのうち必ずぼくの体に触れ、肉がぱっくりと骨まで切り裂かれるにちがいない。ぼくは、そう思った。両脚がすくんだまま、動かなくなった。
「さあ。もう一度!」
 悪い夢を見ているような時間がつづいた。
 これがもしほんとうに夢なら、相手の刀でばっさりと斬られたとたんに、目が覚めるのだが、現実のできごとだから、いつまでもつづいてしまう。
「さあ、来なさい!」
 ひとつ覚えのように、先生は、くりかえす。
 ぼくに、何度、撃ちこみをさせただろう。
 恐怖が重くかさなっているので、ぼくの腕は、いっそうひどくしびれ、あしがもつれた。乱れに乱れた呼吸で、胸が苦しい。
 もう駄目だめです、と刀を芝生にほうり出そうとしたとき、
「よろしい。それまで」
 と、先生は言った。
 なにが「それまで」だ。気どるな、この野郎、と思いながらも、ほっとして、ぼくは、芝生に両ひざをついた。真剣を草のうえに横たえ、四つんいになってうしろにさがった。汗が、顔から胸から、どっと吹き出してきた。
「ご苦労さん。すまなかった。原稿を書くためにどうしても必要なことだった」
 先生は刀をとりあげ、二本とも、さやにおさめた。先生の呼吸は、すこしも乱れていない。汗も見えない。
 よろよろと、ぼくは立ちあがった。
「きみ、名前は、なんという」
「橋本です」
「名は?」
「コオ」
「字は?」
「たくみ、という意味の」
「うん。語呂ごろはいい。いい名前だ」
 先生は廊下にあがった。ぼくもそのあとについて、先生の部屋へやに入った。
 お手伝いさんを呼ぶベルのボタンを押し、ぼくをふりかえる。
「きみは、返事をするとき、はい、と言う。礼節を知っている。衣食は足りているか」
 なんとこたえればいいのだろう。
「月給は?」
「十六万くらいです」
「うむ」
 と、うなずく。
「お呼びでございますか」
 障子しょうじの外に、お手伝いさんの声がした。
「このかたを、風呂場ふろばにご案内しなさい」
 そして、ぼくに向きなおり、
「原稿は、あと一時間で仕上がる。汗を流して、待っていてくれたまえ。すまなかった」
 案内された木造りの風呂場で、言われたままに湯をつかった。体のどこにも斬られたところがないか、よく調べた。さきほどの応接室でぼうぜんとして待っていると、ほんとうに一時間ぴったりで、原稿が出来あがってきた。新聞の連載時代小説の原稿だ。
 大きな封筒に入ったのをお手伝いさんが渡してくれ、
「それから、これは、先生からでございます」
 と、小さな封筒をくれた。『橋本巧君』と、達者な万年筆の字で書いてある。
「は」
 よく考えずに受けとり、ぼくは退散した。ギリギリの原稿が、さらに三時間ちかく、おくれている。
 田園調布でんえんちょうふから夜中の道路を、カワサキのエンジンをガンガンにまわして、ぼくは社に帰った。遅いと言って、デスクからひどくしかられた。事情を説明しても聞き入れてくれないのだ。
 作家の先生がくれた小さな封筒には、一万円札が六枚、入っていた。

 仕事をおえてアパートに帰ってきた。
 ドアのカギをあけていると、部屋のなかで電話が鳴りはじめた。
 ブーツのまま部屋へやにあがり、受話器をとった。
「あら、いたの?」
 若い女性の声が、電話のむこうでそう言っている。
「いるさ」
「第二ゆたか荘なのね」
「そう」
「私のとこは、すみれアパート」
 すみれアパート。そうだ。西宮の白石美代子だ。
「よう」
「ほんとにかかるのかどうか、電話してみたの」
「かかっただろう」
「かかったわねえ」
 美代子は、笑っている。
「名前は、なんて読むの? いさお?」
「コオ」
「そう」
洒落しゃれじゃないよ」
「私は、ミーヨなの」
「ミーヨ」
「ミヨコだから。ちぢめて、ミーヨ」
「なるほど」
 ぼくは、ベッドに腰をかけ、ブーツを脱いだ。
 あごと肩に受話器をはさみ、うけこたえしつつ、Tシャツを脱いだ。そして、ジーンズ。その次が、パンツに靴下。暑くてかなわない。はだかにかぎる。
「なにしてるの?」
「裸になったとこ」
「暑いでしょ」
「暑い」
 へんな電話だ。
「でも、今年は、秋が早いんですって」
「へえ」
「いやだわ」
「なぜ」
「夏がいちばんいいから」
 ぼくと趣味が合っている。
「ぼくもだ」
 むかい側の壁を、ぼくは見た。
 壁のまんなかに、柱が一本、とおっている。その柱の、立ちあがったぼくの目の高さのところに、写真が二枚、押しピンでとめてある。彼女が送ってきてくれた写真だ。
「ここから浅間山あさまやまが見える」
「え?」
「夏の浅間山。もう何日になるだろう」
 ずっと大昔のことのように思えてくる。
「なんのことなの?」
「ミーヨは美人だし」
「なによ、それ」
「見えるんだ、浅間山が」
「わかった!」
「そんなに簡単にわかってもらいたくない」
「写真を見てるんでしょ」
「そう。柱に押しピンでとめてある」
「毎日、見てるの?」
「そう。カワサキをね」
「ちえっ」
「青い空も見てる」
「東京の?」
「写真のさ」
「ほんとにいい空だった」
「なんだか、ずいぶん前のような気がする」
「そうね。私も」
「なぜだろう」
「年かな」
「きみ、いくつだ」
「二十四になったばかり」
おれとおなじだ」
「今日が誕生日だから」
「やあ、やあ」
「時間が飛んでいくみたい」
「なにかプレゼントしてやろうか」
「そうね」
「しかし、なにもないな」
 美代子はハハハと笑った。
「帰りには浅間にまわったの?」
「まわった」
「オートバイではよく走るの?」
「仕事だもの」
「原稿の輸送ですってね」
「うん」
「たくさん運ぶの?」
「すこしだ。オートバイだから」
「輸送っていうと、たくさんあるみたい」
 時代小説作家のところへ原稿をもらいにいった今夜の体験談をしゃべってみた。
 よく事情がのみこめないらしく、美代子は、ふうん、と言っている。
「夏は、あれっきりだったのか」
「あれっきりって?」
「信州のほかには、どこへもいってないのか。おれは海へいった」
「どこ?」
 声が、いきなり、はずんだ。
「九十九里」
「千葉県ね」
「三日間。が照ったのは、最後の日だけだった」
「海は、いいね」
「いかないのか」
「いく。と言うよりも、帰るの。実家が、瀬戸内海の島だから」
「瀬戸内海は、ぜんぜんいったことない」
「オートバイで走らないの?」
「北海道とか東北、北関東、それに、山陰しか、いったことない」
「東京から九十九里へ、どういくの? 机の前の壁に日本地図がってあるの。それを見ながら喋ってる」
房総半島ぼうそうはんとうの根もとにちかいところを、突っきる」
印旛沼いんばぬまのあたり?」
「もうちょっと南」
「いい海なの? 太平洋でしょ」
「素敵だった。帰りには、夏祭りを見た」
「うわあ。ひとりで?」
「ひとり」
だれかいっしょだったらいいのに」
おれもそう思った」
「瀬戸内海へ来ない?」
「いきたい」
「八月のね、十四日から十六日まで、盆踊りなの。今年は休みをとって帰ろうと思う」
「どこだって?」
 彼女は、島の名前を教えてくれた。
「なに県かな?」
「岡山」
「ちょっと待ってくれ」
 受話器をベッドに置き、本棚からぼくはドライブ・マップを出した。岡山県と四国とにはさまれた瀬戸内海のページを開いた。
「どのへん?」
笠岡かさおかって、あるでしょ。海ぞい。福山ふくやまの、ちょっと倉敷くらしきより」
「あった」
「そこから、フェリー。四十分くらいよ」
 フェリーの航路をたどると、その小さな島が見つかった。
「みつかった」
「小さいでしょ」
「いってみたい」
「真夏には、とても素敵すてきなとこよ。ざしが明るくて、強くて」
「八月の、いつだって?」
「十四日から十六日」
 それに合わせて、夏の休みの後半をとれるかもしれない。
「来る?」
「計画をつくる」
「そうね。フェリーは一日に一本」
「何時?」
「朝、早く。調べとくわ」
「電話くれる?」
「する」
 美代子は、しばらく黙った。
「誕生日、おめでとう」
 ぼくが言った。
「うひゃひゃ」
 と言って、彼女は笑っている。
「歌でもうたってやろうか」
「あ、うたって」
「なにがいい?」
「なんでも」
「なつかしい気分にさせてやる」
「なにがなつかしいの?」
 柱に押しピンでとめた二枚の写真を、ぼくは見た。
千曲川ちくまがわ
「うわあ」
「ギターを出すから、ちょっと待ってくれ」
 受話器をまたベッドに置き、ハミングバードをケースから出した。
 チューニングしてから、受話器をとりあげた。
「いまのは、ちがうよ。チューニングだ」
「うん」
 畳のうえの電話を、机に乗せた。Zランプの支柱に受話器のコードをからませ、マイクのようにるした。送話口がぼくの口とおなじ位置にくるよう、Zランプの高さを調節した。
 本棚から、歌謡曲の曲集をひっぱり出した。いつだか、電車のなかに忘れてあったのを、ひろったのだ。
『千曲川』のところを開いた。こんな単純な歌、いちど聞けば、おぼえてしまう。しかし、歌詞には自信がない。
 歌詞は、三番まで、印刷してあった。この曲集は、普通の人にうたいやすいよう、どの曲も音域が整理してあることに、いま、気づいた。
 ギターのストラップを肩にかけ、ぼくは、うたいはじめた。となりの部屋へやの人は、ホステスだ。帰りがいつもおそい。歌をうたっても、苦情は来ない。
 効果的に伴奏をいれ、ことさら情緒的に、ぼくはうたった。
 三番までうたって、ぼくは受話器を耳に当てた。手をたたいている音が聞える。
「ありがとう。素敵だった」
「ハッピー・バースデー」
「とても、とても」
 Zランプの支柱から、ぼくは受話器をはずした。
「島へ来てね。あのカワサキで」
「計画を立てる」
「うん」
「電話くれろ」
「するわ」
「夜なら、いる」
「OK」

10


 笹岡から、美代子の待つ島へ、第五喜久丸というフェリーが、むかっている。ぼくは、カワサキといっしょに、そのフェリーに乗っている。
 快晴だ。
 うれしい。が強い。とても暑い。陽のなかに、上半身ははだかで、ぼくは立ちつくした。海や空をながめた。
 頭上の空は、まっ青だ。周辺にいくにしたがい、なぜだか白っぽく、ぼやけている。
 照りつける陽が、ぼくのはだを焼く。気持いい。どんどん陽焼けするがいい。太陽で自分のはだに写しとる記念写真だ。
 汗が流れ落ちる。気持がいい。
 東京で体のなかに吸いこんでためていたスモッグや排気ガスが、汗になって体の外に流されていくみたいだ。
 海は、べたなぎだ。波が、ほとんどない。風も、感じられない。フェリーのスピードはとてもゆっくりしている。エンジンの振動が、船体から両脚りょうあしに伝わってくる。
 目に映じるすべてのものが、明かるくて強い陽光のなかにある。幸せな気分だ。これ以上の幸せはないのだと確信して、ぼくは、フェリーの行手の海を見つめていた。
 八月のはじめ。夏のまっさかりに入った瀬戸の海を、ぼくはいま小さな島にむかっている。
 結局、八月のなかばに休みをとることは、できなかった。
 輸送員の先輩たちが、お盆にあわせ、その前後に休みをとる。年齢で言えばぼくは中堅以上なのだが、それでも、年上のしかもキャリアのながい、沢田のような先輩が何人かいて、彼らが休みの日をさきに決定する。八月のはじめにしか、ぼくの休みはとれないことになった。
 電話をかけてくれた美代子にそれを伝えると、それでは私もあなたに合わせる、と言う。べつにどうしても盆踊りに帰らなければいけないわけではないから。美代子は、そう言っていた。
 何度か電話をかけたりかけてもらったりして、瀬戸内海いきの計画を立てた。
 一日さきに彼女が西宮から島へ帰り、次の日の午後、ぼくがフェリーで笠岡から渡っていく。それを美代子がむかえてくれる。そういう段取りになった。
 フェリーは、午後の早い時間だった。
 笠岡の、国道2号線からすぐの、小さな港からフェリーに乗った。車は一台もいず、大きなオートバイはぼくのカワサキだけ。ほかに、島の人だろう、ホンダのベンリイのおじさんがいた。おばさんや女子高生、それに、島へ泊まりがけで海水浴にいく人たちで、フェリーは、なんとなく満員の感じがあった。
 白く塗った、小さなフェリーだ。
 船体の中央にブリッジがあり、そこに操舵室そうだしつが乗っている。ブリッジの後方は、濃いグリーンの天蓋てんがいでおおった駐車スペース。そして、そこから階段があり、小さな船室にあがっていける。駐車スペースには、車がないかわりに、コークが満載してあった。
 真夏の空の下を、いろんな船がいきかう。まっ白な診療船とすれちがった。高速艇が抜いていく。赤さびだらけの、廃船のようなタンカーが、意外なスピードでフェリーの行手を横切っていく。
 漁船が、いくつも、沖に出ている。スピードボートが、海のうえをバウンドしながら、ふっ飛んでいく。
 潮の香りが、いい。の光と共に、できるだけたくさん、ぼくはそれを体のなかにとりこもうとした。
 行手に、島がいくつもある。ひとつにつながって陸のように見える。
 陽に焼けた、ごま塩頭の甲板員が、ぼくがいこうとしている島はどれなのか教えてくれた。
 ブリッジの、熱く焼けた鉄板にもたれて、ぼくは、その島を見つめた。
 オートバイで東京からツーリングに出ると、目的地に近づいてきたとき、かならず、期待に胸がときめく。いまも、そんなときめきの時間だ。
 いつも以上に、胸が高鳴る。夏のさかりだし、しかも海のうえで、熱い太陽が、かっと照っているからだ。それに、島では、美代子が待ってくれている。
 アパートで写真を見ても、あの信州の峠道で出会ったときのことを思いおこしても、美代子の顔や雰囲気ふんいきが、うまくよみがえってこない。
 どんな女性だっただろう。
 国道2号線をカワサキで走りながら、ぼくはむしょうに美代子に会いたくなった。
 彼女の島へ、いま、ぼくは、むかっている。これから四日間、ぼくは彼女といっしょに、陽のなかですごす。
 フェリーは、ゆっくりと島に近づく。山が、濃い緑色だ。遠くからだと、それしか、わからない。
 やがて、海に沿って建っている家なみが、はっきり見えはじめた。黒いかわらの、古風な四角い家がならんでいる。黒いかわらに、陽が当たっている。
 海岸が見える。ベージュ色に輝いている。人が、思いのほかすくない。海の家の、赤や青のペイント。ビーチパラソルの、はなやかな色が、ひとつ、ふたつ。とても素朴そぼくな海岸のようだ。緑の山が、海岸のすぐうしろまで、せまっている。夏の陽ざしをいっぱいに浴びつつ、時の流れからとりのこされたように、山と海岸と家なみが、海のむこうに、静かに、横たわっている。
 フェリーは、向きを変えつつあった。
 海岸からすこし沖合いに出たところに、岩をいくつも積みあげたような岩山がある。その岩山にむかって進み、さらに左へ、進路を変えていった。
 海岸は、岩山のむこうに、見えなくなった。
 入れちがいに、港が目に入った。防波堤ぼうはていのむこうから、白い高速艇が出てきた。フェリーとすれちがうころには、へさきでり立てる白い波を左右にほうりあげ、フル・スロットルになっていた。
 左側に、みさきがせまった。丈の低いが、岬の小高い山いちめんに生えていて、海と接するところは、無数の岩だ。その岬に、へこんだところがあり、かわいらしい砂浜をとりかこんで、家が数軒、見えた。
 港は、丸い入江のようだ。その入口の両側から、防波堤がのびている。片方の防波堤の突端には、濃いえんじ色の煉瓦れんがでつくった、小さな夢のような灯台とうだいが立っている。
 まっすぐに、フェリーは、二本の防波堤のあいだにむかって、進んでいった。汽笛を、みじかく一度、鳴らした。
 港の奥にも、山のつらなりが見える。港のまわりを、古風な民家が、まばらにとりまいている。人の姿がすくない。あらゆるものが陽を受け、じっとしている。暑さにすこしぼうっとなりはじめていたぼくの目に、港のたたずまいは、すっかり忘れていた古く遠い夢のなかの光景が、よみがえったようだった。こんな景色をどこかで確実に一度、見たことがある。ほんとうは一度もないのだけれど、ぼくはそう信じた。
 防波堤が、もう、すぐ近くだ。
 灯台のコンクリートの台座に、だれか人がいる。若い女のこだ。フェリーを見ている。
 ジョギング・ショーツに、肩ひもの細い、紫色のタンクトップ、片手で髪をかきあげ、もういっぽうの手を、フェリーにむかって振っている。陽焼けした顔で、にこにこと笑っている。あしが、まぶしい。
 彼女が、両手を頭のうえで、振りまわす。
「コオ!」
 と、叫ぶ声が聞えた。
 美代子、とぼくは胸のなかで言った。
 ゆっくり、ぼくはフェリーの船首へ歩いた。
「コオ!」
 と、また、呼ぶ。
 たしかに、美代子だ。
 ものすごくうれしい気持で、ぼくは手を振った。
 灯台のある防波堤に、フェリーがさしかかった。
 手をのばせば届きそうだ。防波堤の突端を、フェリーはすれすれにクリアしていく。
 灯台を背に、美代子は、両手を腰に当て、微笑している。
 フェリーのほうが、位置が低い。へさきに立ち、ぼくは美代子を見あげ、なにも言えずにいた。
 いまの自分をとりまいているあらゆるものがうれしくて、声なんか出ない。
 美代子が、片手をのばしてくる。健康そうな体が、のなかに輝く。
 ぼくも、右手をのばした。届きはしない。だけど、彼女と手がれあったとおなじ感触かんしょくを、ぼくは、右手に覚えた。
 防波堤ぼうはていの突端をまわると、フェリーは、エンジンを切った。慣性を利用して向きをかえ、防波堤のすぐ内側にあるフェリーの発着場に、船首からむかった。
 美代子が、防波堤を走って港へむかう。体が、軽やかに、はずんでいる。
 満潮の港に、フェリーは入った。
 港の前を抜けている道路から、海のなかへ、コンクリートの斜面がくだっている。すべりどめの細いみぞが、横に何本もきざんである。
 フェリーの船首が、そのスロープに、静かに接岸した。船首は、開閉橋の片方のように、コンクリートのスロープにワイア・ロープでおろしていくことができる。
 位置をきめると、ウインチがうなりはじめた。ロープが動き、船首に斜めに立っていた乗降用ランプが、コンクリートの斜面に、ゆっくり、重く、降りていった。
 ウインチがとまると、接岸は完了し、人々は陸へあがった。ぼくも、港にあがった。
「お天気は、ずっといいんですって」
 待ちかまえていた美代子が、白い歯を見せて、そう言った。
 信州で会ったときとは、まるで感じがちがう。写真とも、雰囲気ふんいきがちがっている。いま、ぼくの目の前に立っているのが、いちばん素敵すてきだ。ぼくとほぼおなじ背丈なのだということが、はじめてわかった。
「いいとこだ」
 ぼくは、あたりを見まわした。
「真夏で、陽が照ってるから」
 セミの鳴く声が、すごい。
 人のいない、のんびりした小さな庭に、セミしぐれが充満している。陽の暑さや明るさと共に、セミの声も体の中にしみこんでくるみたいだ。松のの香りが、いっぱいにあった。
 いつのまにか、港には、陽のなかに出ているのはぼくたちふたりだけになってしまった。港の事務所の前に青い天蓋てんがいが張り出し、日陰のなかにベンチがある。そのベンチに、老人がひとりすわって、ぼくたちのほうを見ていた。
 高速艇の発着する浮き桟橋さんばしにも、防波堤にも、どこにも、人が見えない。港のむこう、火の見やぐらのある草の道を、白いシャツの老人が、腰を曲げて歩いていく。
「ほんとにカワサキで来たのね」
「そうだよ」
「島では、走るとこがないわ」
「いいさ」
 なんだか、うまく口がきけない。
 美代子がこんなに素敵すてきな女性だとは思っていなかったから、ぼくはどぎまぎしている。
 に焼けて、健康そうで、丸い目をくりくりさせている。タンクトップの胸のふくらみがいいし、ジョギング・ショーツからのびているあしが、すんなりと、しかも、力を秘めている。
 フェリーにひきかえし、ぼくはカワサキのエンジンをかけた。フェリーから昇降用のスロープを、港へ駈けあがった。
「すごい音」
「愛の音だ」
「ロクハンっていうの?」
「うん」
 陸にあがり、エンジンを切ってサイドスタンドをかけ、ぼくはTシャツを着た。
「海に飛びこみたい」
「私の家へいく?」
「近いの?」
「すぐ」
 港の事務所のむこうに、小さな広場があった。そこを抜け、民家が軒を接して両側につながっているアスファルトの道に入った。せまい道が奇妙に折れ曲がってつづく。
 静まりかえっている。しっかりした造りの、大きな家が多い。たたずまいのひとつひとつが、ぼくにはとても珍しい。ながい時間を飛びこえ、遠い昔へ来てしまったような不思議な気分だ。
「いいとこだ」
「気に入った?」
「とても」
「よかった。私も、久しぶりなのよ。でも、ぜんぜん、かわってない」
 途中から、すぐそこにせまっているおだやかな山にむかって、ゆるやかな坂道をのぼっていった。
 その坂道の突き当たりに、山を背にして、美代子の家があった。石を積みあげたへいのなかに、どっしりと建っている。大きな二階建てだ。黒いかわらに、壁の板も、黒く塗ってある。
 門を入ると、きれいな中庭だ。庭の奥には畑が広がり、そのさらにむこうには、が何本もあり、枝を広げている。緑色の小さな丸い実が、いくつも見える。
「すごい家だな」
 と、ぼくは、思ったままを言った。
「ただの田舎いなかの家」
「ディスカバー・ジャパンだ」
「ほんとね」
 黒い板壁の端に、小さな広告板が打ちつけてある。「づつう はいた ノーチカ」と、白地に赤いペンキで焼きつけてある。
「私が中学生だったころから、あるわ」
「中学はここかい」
 美代子はうなずいた。
「あとでその中学を見せてあげる。オートバイは、あそこがいいわ」
 母屋とは反対に、大きな納屋がある。なかは、深い日陰だ。
 ホンダの実用オートバイ、ベンリイのCD125が一台、あった。そのうしろに、ぼくはカワサキを入れ、センター・スタンドをかけた。
 荷物は、大きいサドル・バッグにつめてきた。荷物といっても、工具のほかは、たいしたことない。
「家にあがって」
「うん」
 ここも、澄んだ空気いっぱいに、わけもなく悲しくなるほどの、セミしぐれだ。
 えんの半分を、に焼けた三枚のすだれがふさいでいた。障子しょうじをあけると、座敷だ。
「弟は大阪おおさか。両親だけなの。夕方には帰ってくるわ」

 夢のような日々だった。日々と言っても、三日間だけなのだが。
 朝、早くに起きる。
 なぜなら、前日の夜、心地よく全身がくたびれ、陽をいっぱいに吸いこんでいるので、十時前には眠ってしまうからだ。
 起きぬけに濡れ縁に立つと、夏の瀬戸内の空が青く、鮮明せんめいな陽が、降り注いでいる。そして、セミしぐれ。
 ミーヨがつくってくれた朝食を、彼女の両親と、いっしょに食べる。
 ついでだけど、この三日間で、ぼくは美代子のことをミーヨと呼ぶようになってしまった。もはや、ぼくにとって、彼女は、ミーヨ以外ではありえない。
 朝食がおわったら、さっそく、海だ。ぼくは、夏の海にうえていた。
 昼すぎまで、海にいる。泳いだり、砂浜に寝そべって陽に焼いたり、満潮のときは沖の岩山へ泳いでいき、瀬戸内海をひっきりなしに往き来する船をながめたりする。
 昼すぎに、ミーヨの自宅に帰る。彼女が昼食をこしらえてくれる。母親と三人で食べる。父親は、島の反対側にあるという石切り場に弁当を持って働きにいってしまっている。彼女の両親は、岡山弁の、もの静かな初老の人たちだ。
 ミーヨは、母親に似ていた。
「いまは、はあ、こがいなしわくちゃじゃが、昔あ、白石小町いうて言われよった」
 父親は、自分の妻のことを、そう言っていた。
 昼から夕方まで、再び、海。
 が大きくかたむくと、散歩だ。
 歩くところは、あまりない。静かな家なみのなかを歩き、山道をのぼり、日没を見る。この島から見ると、太陽は水平線のかなたではなく、つつましやかな大きさのあかい玉となって、いくつもかさなっている島陰のむこうに沈むのだ。
 自宅へ帰り、ミーヨは夕食をつくる。母親がそれを手伝う。父親は、テレビをながら晩酌ばんしゃく。ぼくはといえば、えんにひっくりかえり、暮れていく空を見て、とても大事にされている養子のような気分だ。
 いつも、素敵すてきなミーヨが、いっしょだった。
 ぼくはまっ黒に陽焼けし、ミーヨもおなじく、陽に焼けた。
 島に来た初日の夕方、ミーヨは、中学校に連れていってくれた。
 家を出ようとすると、ミーヨが立ちどまり、ぼくの顔をじっと見た。
「あのね。お願いがある」
「なんだい」
「カワサキに乗せて」
「走るとこ、ないじゃないか」
「校庭」
「おこられないかい」
「だいじょうぶ」
 徐行するカワサキにタンデムで乗り、中学校へいった。ミーヨの自宅から、五分とかからない。
 広い四角な校庭を、なつかしい感じのする木造の校舎がとりかこんでいる。幼稚園も小学校も、いっしょなのだという。
 ぼくは、その校舎と校庭を見渡した。
「ひとまわりしてあげる」
 と、ニュートラルのギアを一速に踏みさげた。
「ちがうのよ。私ひとりで」
駄目だめだ」
「125までの免許は持ってる。それと普通免許も」
「いつ取った?」
「小型二輪は十六になってすぐ。乗せて」
「その格好では、無理だ」
 タンクトップにペラペラのジョギング・ショーツのミーヨを、ぼくは指さした。
「ジーパン、はいてくる」
「うん。ぼくのブーツをかしてあげる。はいてきな。ヘルメットも、持ってきてくれ」
 ゴムぞうりをパタパタさせながら、ミーヨは、走って校庭を出ていった。
 そして、すぐに帰ってきた。
 ぼくのブーツにブルージーンズ。長袖ながそでのダンガリー・シャツ。皮手袋をはめた手にヘルメットをかかえている。
 ヘルメットをかむり、ミーヨはカワサキにまたがった。
「シフトがベンリイとはちがうよ」
 ちらと、ミーヨは、ぼくの顔を見た。ヘルメットのせいか、顔がちがって見える。表情がとても真剣だ。
「知ってる」
「いちばん下が、ロー。かきあげて、ニュートラル。そこから四速まで、アップ」
「まるで詩の文句みたい」
 そのほかにも、基本的な注意を、いくつかあたえた。
「ゆっくり、大きく、校庭をひとまわり」
「うん」
 ローに入れたミーヨは、左手の四本指の腹を、人さし指から小指へむけてすべらせるようにしてクラッチ・レバーをはなし、半クラッチでおだやかに滑り出した。
「OK」
 と、ぼくは言った。
 校庭のむこうへ走っていくミーヨを見て、ぼくはおどろいた。
 うまいのだ。
 なれている。体がきれいにオートバイと一体になっているし、妙に力のこもったところがなく、自然でやわらかだ。ニー・グリップをぴたりときめている。
 左足を見ていると、す早く適確に三速にシフト・アップしていき、おもむろに四速に入れた。校庭に大きく円を描き、ぼくのところまで帰ってくる。
 ぼくは、拍手した。
 とまらずに、もう一度、ひとまわりする。アクセルをすこし余計に開く。排気音が変化する。ほかに人のいない、夏休みの夕方の校庭に、ぼくのカワサキの排気音がひびき渡った。
 高い鉄棒の支柱のあいだを、スラロームで抜けた。アクセル・ワークと倒しかたのタイミングが、美しく一致していた。ひらり、ひらりと、きれいに抜けた。
 もう一回まわれ、とぼくは合図した。
 おなじように鉄棒でスラロームをし、ぼくの前まで帰ってきて、とまった。
「650なんて、はじめて。ぞくぞくする。音がいいのね」
「砂があるから、すべるよ」
 彼女のうまいライディングに対するおどろきをもっと上手にぼくは表現したいのに、こんな言葉しか出てこなかった。
「ベンリイとはずいぶんちがうのね」
「うまい」
 ミーヨの目が、きらりと光った。
「そう?」
「こわがってない。そこがいちばんいい」
「でも、こわい。なれてないから」
「もっと走ってごらん。アクセルは、もうちょっと開いてもいい」
 さらに五回、ミーヨは校庭を走った。
「せっかくだから、なにか教えて」
 と、ミーヨが言う。
 直進の急制動をやってみた。
 これも、うまいんだ。フロントとリアを、調和させている。シフト・ダウンも適確だ。
「うまい」
「そんなに、うまい?」
「ここで見たかぎりではね」
 こたえながら、ミーヨのぜんたい的な雰囲気ふんいきが、大きなオートバイによく合っていることに、ぼくは気づいた。
 女のこでは、滅多めったにないことだ。ブーツとヘルメット、そして手袋に身をかためると、ミーヨは、すっかり感じがかわる。
 普通、女のこが大きなオートバイにからむと、彼女の体はぎくしゃくし、弱々しく、あわれっぽくさえなる。グリップの握りかた、腕ののばしぐあい、ひざの閉じぐあい、首の立てかたなど、こまかなところでの違和感の総体が、そんな印象をつくりだす。
 でも、ミーヨは、ちがっていた。
 カワサキの大きさと重量と、秘めたパワーに、彼女のぜんたいが、柔軟に、しっくりと、なじみ合っている。
 何回も校庭を走りまわるのを見ながら、ぼくは、なぜだかとても不思議な気持だった。

 三日目の夕暮れが、来てしまった。
 熱い風呂ふろに入っても、陽焼ひやけした全身のはだはようやくひりひり痛まなくなったのに、明日はもう、東京に帰らなくてはならない。
 夕食のあと、ぼくたちは、散歩に出た。
 港へむかって歩いていくと、うしろから、ミーヨのおやじさんが、自転車で追い抜いていった。
 潮が満ちはじめていた。空には星が輝いている。夜だ。ぽつん、ぽつんとある街灯のほかに、明かりはない。月が、低い位置にひっかかっている。
 灯台とうだいのある防波堤ぼうはていの突端まで、ぼくたちは、歩いた。
 むこうの防波堤の外側に、ヨットが一隻、いかりをおろしていた。『黒潮丸※(ローマ数字2、1-13-22)世』と、船名が読める。
「きれいなヨットね」
「うん」
「コンクリートなのよ」
「え?」
「船体が、コンクリートなの。ひところ評判になったでしょ。知らない?」
「知らなかった」
 蚊がいる。すこしじっとしていると、ところかまわずさしてくる。
 小さな島の夜。静かだ。セミの声が、ぱたりとやんでいる。明日、日が昇ると同時に、体を押さえつけられるようなセミしぐれが、またはじまるのだ。
 夜の風に、海の香りが、いっぱいだ。波がやさしく防波堤をたたいていた。
 昼のあいだずっと陽のなかにいたため、体の内部に熱がこもり、心地よいほてりとなって肌に出てくる。
 灯台の煉瓦れんがの壁にもたれて、ミーヨは星を見ていた。
「コオ」
 聞えるか聞えないかの低い声で、ミーヨが、ささやいた。片手をやさしくのばし、ぼくの腕に触れる。
 ぼくが体を寄せると、ミーヨは、灯台から体をはなした。抱き合い、くちびるが、かさなった。ほんのみじかい口づけ。だけど、そのあいだだけ、確実に時の流れは、とまった。
「これで、完璧かんぺきなのよ」
 はなれて、ミーヨが言った。
 この三日間、夕方になるとかならず、ミーヨは、カワサキに乗りたがった。中学校の校庭まで押していき、ぼくのブーツとヘルメットで、ミーヨはカワサキに乗った。
 オートバイで走れる道路は、この島では、一本しかない。港の広場の端から、海岸のほうへのびている道路だ。その道路は、港からゆるやかなのぼり坂になりつつカーブしていく。カーブを抜けると、下り坂だ。坂を降りきると、右側が海岸だ。まっすぐにいくと、旅館の前をとおり、切りだした石を船に積むクレーンのあるところで、行きどまりになる。
 二日目の昼さがり、一度だけ、この道をカワサキで走らせてあげた。ミーヨは、あぶなげなく走った。
 夜の小さな港をひとまわりし、むかい側の防波堤ぼうはていに出た。内側に漁船が何隻も、もやいである。船のうえで生活している人たちもいるらしい。防波堤には、あみが干してある。黒やオレンジ色の、プラスチック製の丸い浮きが、いくつもころがっている。
「コオ。あなた、あのカワサキのオートバイが、とっても好きなんでしょう」
「好きだよ」
「うらやましかった。信州ではじめて見たとき」
「顔に出てただろう」
 ぼくの言葉に、ミーヨが笑った。
「全身に出てた」
「恋人なんだ」
「私は?」
 声を大きくして、ミーヨが言った。
素敵すてきだ」
「それだけ?」
「好きだよ」
「ああん!」
くなよ。相手は53馬力だ。かないっこない」
「乗れるようになりたい」
「125の免許はあると言ってたね」
「そう」
「だったら、次は、中型だ」
「350ね」
「400。その次が、限定解除」
「どうかしら」
「なにが?」
「私に、とれる?」
「できそうだ。素質そしつは、きっと、ある」
「125に乗っていたのが、よかったのかな」
「素質だ」
 やがて、ぼくたちは、家へ帰った。
 風呂ふろに入ると、健康的な眠気が、全身にみなぎってくる。ほんとに、みなぎるという感じで、眠くなる。
「寝るぞ、寝るぞ」
 裏庭に面した廊下に、ぼくは手ぬぐいを干した。廊下のむこうに、ミーヨがいる。
「おやすみ」
 と、彼女が言う。
「いっしょに寝ようか」
 そのぼくの言葉にこたえた彼女の声は、びっくりするほど透明だった。女のこに関して滅多めったに感じたことのない度胸みたいなものを、ぼくは、その声の内部に感じた。
「ハハハ」
 と、ミーヨは、笑ったのだ。
 四日目の朝、七時に、フェリーは島の港を出た。ミーヨが、見送りにきてくれた。さらに二日、彼女はこの島にいるという。
 今日も、晴天だ。が朝から強い。
 陽ざしのなかに、灯台とうだいのわきで手を振るミーヨを残し、フェリーは、ゆっくり海へ出ていった。

11


 もし秋がどこか空のかなたにあり、夏が去ると同時にすこしづつ舞い降りてくるものなら、今年の秋は、切って落とされたような秋だった。
 いきなり、秋になった。
 残暑なんて、どこにもなかった。
 夏の終りに、肌寒はだざむい雨の日が、三、四日、つづいた。例年にない涼しさだと、スポーツ新聞までが、書いていた。
 その、雨の日々が終ると、もう、だれの目にも明らかに、あらゆるアングルが、秋だった。
 太陽が、遠く、小さくなっていた。
 風の香りが、夏のものではなかった。肌に感じるさわやかさは、完全に、秋のものだった。
 空間に広がりができ、透明になり、なぜだか、ふと、さびしい。
 今年は残暑はないだろうと、新聞が、冷害の報道に、書きそえている。
 残暑は、ぼくにとっては、とても大事だ。強いざしのなかで、汗をかいている肌が、残暑のなかで、秋にむかってすこしずつ、準備をととのえていく。でも、今年は、いきなり、秋だった。準備をしているひまもない。
 ある日、ぼくのアパート、第二ゆたか荘の部屋へやで目覚めたら、秋だった。くどいようだけど、ほんとに、突然、秋だった。
 これは、とても、困る。なによりもまず、ぼくは、心の準備が、できていなかった。時は日一日と流れ去っていくのだから、夏はやがて終り、夏が終れば、秋がくるにきまっている。困るも困らないも、ありはしない。しかし、ぼくは、困る。
 夏という、強いざしの日々のなかに、もっといろんなこと、いろんな体験をつめこみたかったから。
 さあ、これから、というとき、夏はもう、青い空にその香りすら残さず、どこかへいってしまっていた。去ってしまった夏がすでにあまりにも遠く、そのせいか、むしょうになつかしい。
 夏、夏と、馬鹿ばかみたいに、夏のことばかり考えている。
 夏がなくなってしまって、つらい。さびしい。
 カワサキにまたがり、九州の南の端まで、太陽を追いかけていこうかと、真剣に考えた。
 時間がとれない。でも、時間がとれないという事情をすらおっぽり出して、太陽を追おうかと思った。
 思ってばかりいるうちに、どんどん時間がたっていく。秋は、容赦ようしゃなく深まるいっぽうだ。

 伊豆半島いずはんとうも、すっかり秋だ。
 秋の日曜日。明るい陽ざしの、天城高原あまぎこうげん。道路からすこしひっこんで建っている大きなレストランの、展望のいい野外のカフェ・テラスで、ぼくたちは、いま、お昼の食事をすませ、休憩している。
 カフェ・テラスいちめんに、砂利じゃりが敷いてある。白く塗った鉄製のロココ風の、ガラスをのせた丸いテーブルに、椅子いす。陽が、ななめに、きれいに当たっている。
 Tシャツや、カットオフ・ジーンズの若い女のこばかり、ぼくはながめている。
 夏の残り香を彼女たちの姿のなかに見つけては、ひとりでぼくは自分をなぐさめている。
 家族づれのおっちゃんやおばちゃんは、とっくにはじまっている秋に早くも調子を合わせ、セーターやカーディガンを着こんでいる。あと三、四時間して陽がすこしかたむくと、高原では急に肌寒はだざむくなる。
 皮のつなぎを着ているぼくだって、もはや暑くはない。
 今日、朝早くから、ぼくたちは、ツーリングに出た。会社の同僚や先輩たちの何人かが組織している栄光ロードレース・クラブの、月例ツーリング大会だ。ぼくはそのロードレース・クラブに所属してはいない。所属してはいなくても、誘われたら参加しなければならないという不文律がある。そして、その不文律は、固く守られている。
 朝から、走りっぱなしだ。
 ロードレース・クラブの日帰りツーリングは、飛ばすので有名だ。
 二年前に箱根はこねでひとり死んだ。昨年は富士五湖ふじごこだれそれが四か月の重傷、その帰りにトラックとからんで後輪のダブル・タイアに頭をはさまれて割られたやつがいて、血が誰それのブーツまで飛んだとか、そんな話をこの一年、ぼくもいろいろと聞かされてきた。
 その月例ツーリングに、今日、ぼくは、はじめて参加している。やっと、ロードレース・クラブの責任者が、「こいよ、な」のひと言で、誘ってくれたのだ。
 こんなに飛ばすとは、思わなかった。
 ストレートでは、風圧との大格闘。コーナーでは、カワサキの性能とぼくの技量のありったけをしぼり出すことが要求される。
 早く来た秋の風と光におおわれた日曜の伊豆半島には、行楽にくり出したマイ・カーというやつが、うじゃうじゃいる。
 なぜこんな日曜日にツーリングをするのかと、このレストランに着いたとき仲間にきいたら、
「飛ばしがいがあるからさ」
 というこたえが、かえってきた。
「それに、こりゃあ、ツーリングじゃねえよ。オートバイの障害物レースさ。ツーリングだと思ってたら、死ぬよ」
 ほんとに、死ぬ思いで、午前中ずっと、ぼくは、飛ばしに飛ばした。
 カワサキRS650は、もともと、加速がどうの、カーブがこうのというマシーンではないとぼくは思う。でも、そうは言ってられない。
 トップをきっていく連中のうしろからおくれずについていくのが、ぼくにできるぎりぎりのことだ。あたまをとって飛ばせば、ぼくは会社の原稿輸送員の全員から一目置かれるのだが、トップなんて、とても無理だ。でも、あきらめたわけではない。
 夕方の五時になったら、どこを走っていようと自動的に解散することになっている。五時までには、しばらくトップをとることくらい、できるだろう。
 九〇〇円の「高原弁当」が腹の底に落ちつき、こなれつつある。二杯飲んだコーヒーが、こなれつつある「高原弁当」に、ほどよくしみこんでいる。
 はじめは、吐き気がして食べられなかった。長時間にわたって飛ばしすぎ、肉体的にも心理的にも緊張の連続だから、その結果の、軽い吐き気だ。
 それに、カワサキの振動。四〇〇〇回転をこえると、すさまじくなってくる。
 いつもなら、この振動も、愛するカワサキの大きな魅力みりょくのひとつなのだが、今日のような殺人ツーリングでは、こたえる。ステップに踏んばっている両足が、振動のせいで、みじかいステップの外へ外へと、滑っていく。力をこめて踏んばっても、両足は外へはずされていく。ぴたりと位置をきめてマシーンに乗っているだけで、すでに充分すぎるほどの格闘だ。
「高原弁当」の栄養分が胃袋のなかを回転しはじめると、ぼくの体は、いくぶん、元気をとりもどしてきた。
 ぼくのななめうしろのテーブルに、若い女性が三人、すわっている。楽しそうに旅の話ではしゃいでいる。
 今年は伊豆も紅葉が早いにちがいない、というような話から、奥利根おくとね日光にっこう、富士レークライン、京都きょうと嵐山あらしやまと、話が飛び、広がっていく。
 栄光ロードレース・クラブAJE支部の幹部のひとりが、ぼくのテーブルにやってきた。
「まだ生きてるな、おまえ」
 太い声でそう言い、椅子いすを持ちあげて半回転させ、背もたれを前にして、またがった。黒い皮のつなぎにつつまれた体が、やせているぼくなんかとは、比べものにならないほどにたくましい。
 楕円形だえんけいの大きなガラスの容器に、オニオン・スライスを馬が食べるほど盛りあげたのを、テーブルに置いた。
「食いなよ」
 と、彼は割りばしを袋から抜いた。
「やる気がわいてくるよ」
「もともと、やる気です」
「そりゃそうだろうけどさ」
 スライスのうえに落としてあった生卵をつぶし、ソースと混ぜあわせ、オニオン・スライスによくまぶしてから、割りばしにひとつかみ、彼はほおばった。
「やる気はいいけれど、おまえ、てっきり死んだと思った」
「まさか」
「いや、ほんとの話」
「このくらいなら、だいじょうぶですよ」
 男は、オニオンにさらに卵をまぶしつつ、笑った。
「おまえがいくら大丈夫といったって、トラックと観光バスにはさみうちされてみろ、それこそ、生卵みてえなもんだ」
「気をつけてます」
「おまえ、てっきり死んだと思った」
「いつですか」
「おぼえてねえの?」
 あきれ顔で、彼は言う。口から垂れたスライスのきれっぱしを、指さきでていねいにつまみ、口に入れなおした。
 彼は、場所を説明した。十一時ごろに通過した地点だ。カーブが連続していた。たしかに、交通量も多かった。
「左まわりのカーブで、ブラインドなのに、おまえ、トラックに追いこしかけたんだ」
「しませんよ、そんなこと」
「まあいいから、オニオンを食え。弁当やコーヒーだけだと、腹にもたれる。腕やあしの神経がにぶるんだ」
 差し出してくれる割りばしを、ぼくはうけとった。
「うしろから、よく見えた。トラックのうしろにおまえがいたんだ。トラックについていくものとばかり思ってたら、わざわざカーブのブラインドに入ってから、エンヤコラと右に倒して、そのままセンター・ラインを割って、トラックに追いこしをかけた。とたんに、カーブのむこうから、観光バスさ。あ、やった! と、おれは思ったね。事故なら、俺、何度も見てる。これまでに見た事故のときに感じたのと、おんなじ感じがあったもの。カーブのむこうから観光バスが、すうっと出てきてさ。トラックのかげに消えていくんだ。完全に、おだぶつだと思ったよ」
 彼は、言葉を切った。
 ぼくは、オニオン・スライスを、つまんだ。
「もっとたくさん食え。注文すりゃ、いくらでもあるんだから」
 オニオンを、ぼくは、口に入れた。うまい。刺激のある味が、頭のなかまで、伝わっていく。
「自分が死にかかったのを、おまえ、おぼえてないだろう」
 と、彼は、ぼくの顔を見た。
 オートバイに関しては、経験も技量も、この男はぼくよりもはるかにまさっている。うそをついたって、しょうがない。ぼくは、正直に、こたえた。
「おぼえてないです」
「この馬鹿ばか
 面とむかって、吐きすてるように、彼は、そう言った。
 オニオン・スライスをほおばり、ぼくは、神妙しんみょうにしていた。
「さきをいく連中についていくことしか、頭になかったからだ。ブラインド・カーブで追いこしかけてセンター・ライン割る薄らトンカチが、どこにいるかってんだ」
 スライスにかかっていたレモンが、すっぱい。
「自分の状態をよく考えろよ」
「はい」
「てめえ」
 ぼくは、顔をあげた。はい、とていねいにこたえたのを、茶化ちゃかされたと、彼は感ちがいしたのだ。
「考えます」
 ぼくは、うなだれてしまった。彼が指摘してくれたブラインド・カーブのことなんか、まったく記憶にない。
「夢中だったんだよ。馬鹿は夢中になるのさ」
 と、彼が言った。
 そのとおりだ。
 二本の車線を分けているのは、道路の中央に引いたセンター・ラインだけだ。しかも、カーブでは、内側の車線の車は対向車線にはらんでいるから、すり抜けるための幅は、よりいっそう、せまくなる。
 ぼくが無事だったのは、ただ運が良かっただけにすぎない。
だれか死にゃあ面白いのに、としか思ってない連中だからな。おれもそのひとりだけど」
 とおりかかった制服のウエートレスをつかまえ、彼は、オニオン・スライスのおかわりを注文した。
「午後には、ひとつ派手はでに死んで、みんなを面白がらせてやってくれ」

 死ぬわけにはいかない。
 でも、このところ、ぼくは、転びつづけている。
 江東区こうとうくの夢の島のとなりの埋立地、辰巳たつみに、東京へリポートのビルがある。
 ここへ着くヘリコプターから原稿をもらいにいくため、ぼくは、昼さがり、カワサキで深川木場ふかがわきばを抜け、三つ目通りを走っていった。
 汐浜橋しおはまばし汐枝橋しおえだばしと、調子よく渡っていき、そのさきで道をまちがえ、左折して暁橋あかつきばしのほうへいってしまった。暁橋を渡ると、辰巳ではなくて、潮見だ。
 三つ目通りむかってひき返し、汐枝橋の手前の三叉路さんさろへ、坂をのぼっていった。
 三叉路に入りこむカーブを、車体を左に倒し、トルクをかけて抜けていき、のぼり坂の頂点にさしかかった。カーブの頂点でもあった。
 カーブのポイントを抜けたとたん、道路は、角度をとって急に下り坂になっていた。いきなり、ガクンと、段差をつけて下り坂なのだ。
 ほかに車がいなかったので、ぼくは、スピードを出していた。そのカーブにとって無理ではないけれど、かなりのスピードだった。
 カーブの頂点を抜けたとたん、折れ曲がった下り坂のため、ぼくの乗ったカワサキは、左に車体をバンクさせたまま、ジャンプしてしまった。前輪、後輪とも、路面をはなれ空中にほうりあげられた。
 車体もろとも、ぼくは左に倒しこんでいた。カワサキとぼくは、ななめになって空中を飛び、あっ! と思ったときには、もう遅い。
 バンクしたまま、二一五キロの重量と共に、着地した。
 両ひざでタンクをはさみ、グリップもしっかりと握っていた。だが、着地のすさまじい衝撃と共に、ステップからあっさり両足がはずれ、横だおしになるカワサキのうえを飛びこえ、前方へほうり出された。
 空中で横むきに一回転したぼくは、左脚から路面にたたきつけられた。
 腰骨に衝撃が来ると同時に、左腕が、バタン! と、路面を叩く。肩まで、ジーンと、しびれる。
 腰を中心に回転しながら、路面に体をこすりつけて滑っていき、ヘルメットを三度、ゴン、ゴン、ゴーンとバウンドさせ、とまった。
 体の左半分がものすごく痛い。肺のなかの空気は、路面に叩きつけられたときに、みんな出てしまった。空気を吸いこみたいのだが、水のなかへでも落ちたみたいに、あっぷあっぷしている。
 乗用車が一台、のぼり坂をあがってきた。
 ぼくのカワサキをひっかけそうになり、急ハンドルで避け、ホーンを何度も鳴らし、なぜか加速して走り去った。路面に顔をつけんばかりにして、低い位置から、ぼくは、激痛になすすべもなく、体を丸め、じっとしていた。
 トラックが来たら、カワサキはひきつぶされる。
 そう思いながら、ぼくは、横たわっていた。起きあがろうにも、両脚りょうあしの自由がきかない。激痛が、体の左半分を駈けまわる。
 不思議に、車はそれから、一台もこなかった。
 路面のむこうに、カワサキがひっくりかえっている。そのむこうが、のぼり坂の頂点だ。スモッグにおおわれた東京の、重い灰色の空が、かぶさっている。滅多めったに体験しない、新鮮なアングルだった。
 やっとのことで起きあがったぼくは、片脚かたあしをひきずってカワサキまでいき、おこして道路のわきに寄せた。見たところ、カワサキにはダメージはなさそうだ。
 ヘルメットを脱いでしりもちをつき、両手で頭をかかえ、しばらく、そのままじっとしていた。
 やがて、痛みは、ひいた。
 腰の左に鈍痛どんつうが残った。だが、骨までは、やられていないようだった。
 カワサキにまたがり、ヘリポートにむかった。左のステップが、すこし曲がっていた。
 それから三日後に、また、転んだ。転んだというよりも、落馬にちかい。
 かすみせきの役所へ、夜、書類を届けにいった。一日に何度か官庁をまわり、原稿や記事を届けたりもらったりするコースがある。
 このときは、夜のいちばん遅い時間のコースだった。
 昼のあいだ開いている入り口は、もう、門が閉ざされている。だから、いつものように、裏口にむかった。官庁街の周辺に自動車の流れはすくなくなっていた。ビルの明かりも、ほとんど消えてしまっていた。
 道路から歩道をこえ、裏口に入った。駐車場の奥を曲がったところに守衛のいる詰所があり、そのさきが、文書受付だ。
 暗い駐車場のスペースに入ったとたん、ぼくは、ハンドルにつかまっていた両腕の、肩からすこし下のあたりに、重い衝撃をおぼえた。衝撃は、両腕に、同時にきた。
「あっ!」
 と、声を出すよりもさきに、ぼくのしりは、カワサキのシートから浮きあがっていた。
 両足がステップからはずれ、ハンドルが手からもぎ取られた。
 ぼくの体は、両腕にきた重い衝撃と共に、空中に浮いた。
 ヘッド・ランプをつけたぼくのカワサキが、ぼくなしで、まっすぐ走っていく。ランプの光の輪に、コンクリート敷きの駐車場が照らしだされていく。いくつか黒く、水たまりがある。
 空中にいた時間が、とてもながいように思えた。
 ひとりで走っていくカワサキを見ながら、ぼくは、オートバイにまたがっていたままの姿勢で、落下した。
 両足がコンクリートにぶち当たり、そのショックで体が右へ横だおしになった。右腰をしたたかに打ちつけ、水たまりのなかへ右腕から倒れこんだ。
 カワサキは、まだ、走っている。
 ヘッド・ランプの光が、ふら、と左に振られた。左へむかってカーブを描きつつ、急速に車体は倒れた。がっしゃん、と重い音がした。
 水たまりの水で上体から腰まで存分にらしながら、ぼくは、カワサキが倒れるのを見守った。このときも、滅多めったにないアングルからの、滅多に見られない光景だった。
 起きあがって、ぼくは、調べてみた。ぼくが両腕に衝撃を感じてカワサキから浮きあがった原因が、判明した。
 裏口に、ロープが張り渡してあったのだ。大きなコンクリートの、重い台座に立てた鉄のポールが裏口の両側にあり、それに、太い麻のロープが張ってある。
 ヘッド・ランプの明かりのなかにロープは浮かびあがったはずなのに、気づかずに突っこんでしまった。
 ぼくは、倒れたカワサキへ走った。
 仕事をおえ、アパートに帰って服を脱いだら、両腕のロープにぶつかったところに、太く赤黒いアザができていた。

 ろくなことがない。
 早く来すぎた秋のせいだ。
 転ばない日は、女に、オナニーのためのダッチ・ボーイがわりに使われてしまう。
 肌寒はだざむい、というよりも、冬の日と呼んだほうがいいような、ある日のこと。
 午後の最初のコースには、AコースからEコースまで、五つのコースがある。
 五人の輸送員が、それぞれに割り当てられたコースを、オートバイでまわっていく。
 その日、ぼくは、Eコースだった。
 コースの大半をおえ、手ぶらで外務省へいき、丈夫そうな茶色の、大きな封筒に入った書類のようなものを、うけとった。厳重に封がしてある。いつものことだ。
 これを、千代田区四番町の、あるビルの一室にある事務所に届けて、Eコースは終了する。AからEまで、どのコースも何度だってまわっているから、手順はよく知っている。
 外務省で受けとった封筒をサドル・バッグに入れ、ほかの車の流れに乗りつつ、うまくタイミングをつかんでは先に出て、四番町にむかった。
 ごたごたとビルの建てこんだ、灰色の坂道の途中の、とある細いビル。新築した大きな、ガラスだらけのビルと、古いけれどもやはり大きいビルとにはさまれている。
 カワサキを歩道にあげてガードレールに寄せ、サドル・バッグから封筒を出した。
 ガラスのドアを押し、なかに入った。せまい廊下をまっすぐいくと、左側に、階段がある。五階建てだが、エレベーターはないのだ。急な階段を、ぼくは、あがっていった。いつも、ビルぜんたいが、しんとしている。
 踊り場ごとに、廊下が三方にのびている。その廊下に面して、どのフロアにも、いくつかの部屋へやがある。
 ぼくがいくのは、いちばんうえの、五階だ。
 五階へあがるまでに、あるいは、五階から下へ降りてくるまで、階段で人とすれちがったことが、これまで一度もない。足音すら、聞いたことがない。
 一階の、せまい通路の壁には、このビルに入居している会社や事務所の名前が濃いブルーのプラスチック板に白いプラスチックの字で、りつけてある。
 今日も、五階まで、誰ともすれちがわなかった。
 廊下は、五階には、一本しかない。
 つき当たりのドアを、ぼくはいつもノックする。つき当たりへいくまでに、右側にひとつ、左側にふたつ、ドアがある。いつもなかに明かりがついているが、会社名は出ていない。
 ぼくのノックにこたえて、
「どうぞ。COME IN」
 と、日本語と英語の両方で返事があった。
 ぼくは、ドアを開け、なかに入りながら、
「オール・ジャパン・エキスプレスです」
 と、いつものように言った。
 いくつかならんでいるスチール・デスクのむこうに、ミス・アジアがいた。
 彼女のことを、会社の連中は、ミス・アジアと、呼んでいる。まさに、そんなイメージだ。
 身長は、一六三センチくらいだろう。それほど高いというわけではないけれど、プロポーションはいい。
 すんなりのびたふくらはぎに、ひざが小さく、太腿ふとももが力強く張っている。
 腰が大きい。突き出たしりが、高く盛りあがっている。胴がみごとにくびれ、胸のふくらみが、ショッキングだ。
 美人だ。混血にきまってる。はだの色や目のかたち、視線の配りかた、表情など、ほんとに、ミス・アジアだ。黒い髪にウエーブをつけ、肩にかかる長さにのばしている。
 美人だけど、きつい顔だ。そのきつさを強調するような化粧だ。いつ見ても、微笑ほほえまない。丸い大きな目をむけてよこす。目玉の白いところが、きらっと光る。自己の形成された目玉だ。
「ああ、あなた」
 と、彼女はぼくを見て言った。
 壁の電気時計をちらと見て、
「オール・ジャパン・エキスプレス。オールウエイズ・オン・タイム」
 と、小首をかしげてなめらかな英語で言いながら、ぼくのほうに歩いてくる。
 差し出した封筒をうけとり、
「待って」
 と、もういっぽうの手で、ぼくの肩を軽く押え、にっこり、笑った。たいへんな色気だ。
 たてに長い部屋へやをむこうまで歩き、ドアを開け、なかに消えた。
 すぐに出てきてうしろ手にドアをしめ、ぼくのとこまでひき返してきた。
 ぼくの目の前に立ち、ぼくの体をながめまわした。
「今日は、ボス、外に出ている。五時まで、帰らない」
 と、彼女が言った。
「それまで、私、ひとり」
 軽く、ぼくは、うなずいた。
「こっち」
 ぼくに体を寄せ、片手でぼくの背中を彼女は押した。
 彼女とならんで、オフィスの奥へ歩いた。
 スチール・デスクやファイリング・キャビネットはいくつもあるのに、このオフィスには、いつも、彼女しかいない。ボスは、奥の部屋だ。今日は留守だという。なんの会社だか、さっぱりわからない。
「ここ」
 なにもない壁にぼくの背をつけて立たせた。そして、自分の体をぼくにかぶせるように、じっくりと押しつけてよこした。
 両手で、ぼくの体をでまわす。
 今日は、ぼくは、オートバイ用の黒皮のつなぎだ。つなぎを着たぼくの体を、あちこち、やさしく撫でていく。
 ミス・アジアの呼吸が荒くなってくる。
 ぐっと、胸を押しつけてよこす。香水のかおりが、つーんと、鼻に抜ける。そのあとに、彼女の体臭が残る。
 こんどは、下腹が、押しつけられてくる。押しつけて、ぐるぐるまわしている。これは、なんのつもりなのか。
「なんだよう」
 ぼくの声は、すこし、ふるえている。
「静かに」
 ミス・アジアが、あえぐ。
 自分の体を、ぴったり、ぼくの体に押しつけている。
 ぼくの体に、さきほどから、異変がおこりはじめている。
 彼女の下腹は、まるで生き物のように、その異変をさぐり当て、強からずやわらかすぎず、絶妙ぜつみょうのタッチで、そこを押してよこす。
「なんだよう」
 もう一度、ぼくが言った。
「なんでもない。じっとしてて」
 命令口調で、彼女が言った。
 そして、
「ああ――」
 と、まっ赤に塗ったくちびるから、息をもらした。
 ぼくを抱いている、というわけではない。壁にぼくの背やしりをつけて立たせ、そのぼくに自分の体をべったり押しつけている。胸のふくらみでぐいぐいとぼくの胸を押し、下腹が、独自に、回転運動をつづけている。
 彼女は、のけぞる。目の前に、かたちの良い鼻の穴がふたつ、見える。小鼻が、荒い呼吸と共に、広がったり閉じたりしている。歯が白い。舌のさきが出てきて、唇をなめる。
「よせ」
「よさない」
「やめろ」
「すこし待って」
「人が来る」
「五時まで、誰もいない」
 彼女は、両手をぼくの肩にかけた。
 小首をかしげ、唇をすぼめ、目に色気をただよわせ、ぼくの肩をやさしく壁に押しつけた。
「ビー・ア・グッド・ボーイ(いいこ、してなさい)。すぐに、すむ」
 胴からしりにかけて弓なりに反り、ぼくに押しつけた下腹を動かしつづけながら、そう言う。
 片手で、彼女は、着ている服のひもを解いた。
 花模様の、ひらひらした薄い生地の、湯あがりにはおるガウンのような服だ。とても簡単にできている。左右を前でうちあわせ、胴にまわっているひもを、ちょうむすびにしておく。
 その蝶むすびをほどくと、はらりと、左右に分かれ、彼女の体が、あらわになる。
 なにも着てない。ぱだかだ。
 水着の陽焼ひやけの跡が残ったはだは、きめがこまかくあぶらが乗り、すべすべしている。
 胸のふくらみが、肩のすぐ下から、白く、盛りあがっている。胴がくびれ、腰が張っている。ぼくに押しつけた下腹をはなす。黒々としたヘアが、ヘソまでうずをまいている。腰に力をこめるたびに、お尻にえくぼができる。
 自信たっぷりに、しなをつくって彼女は微笑した。
 前をはだけた裸の体を、皮のつなぎを着ているぼくに、再び押しつける。腰をまわして、しばらくあえいだあと、彼女は、体をはなした。
「こうしなさい」
 と、右手で、こぶしをつくってみせた。
「なに?」
「げんこつ。つくりなさい。右手」
 言われたとおり、ぼくは、右手をこぶしに握った。
「OK。そして、こうする」
 彼女は、自分のこぶしをヘアの部分にあてがった。
「なんだよ、それ」
「こういうの、私の趣味。早くして」
 こぶしを、ぼくは、皮のつなぎの股間こかんに当てがった。
「グッド!」
 満足してうめくようにそう言った彼女は、あしを開き、自分の両脚のつけ根を、ぼくのこぶしにしっかりと当てがった。
「うーむ」
 と息をもらしつつ、腹から胸を、ぴったりぼくに押しつけた。
「フィールズ・グレイト! いい気持」
 べちゃっとした柔かいものが、ぼくのこぶしの、いちばんでっぱった関節にれている。そして、手の甲には、じゃりじゃりと、ヘアのリアルな感触かんしょく
 ぼくの両肩に手をかけた彼女は、
「お尻を抱いて!」
 と、ぼくに命令した。
 服のうえから、彼女のしりに、ぼくはあいているほうの手をまわした。
「NO! じかに」
 じかに。いいさ、やってやる。
 彼女の尻は、生き物だった。
 ぼくのに押えられて、躍動した。
 ミス・アジアは、本格的に、彼女の「趣味」に、取り組みはじめた。
 ものすごい力で壁に押しつけられたぼくは、つぶされそうだった。あえぎ、英語で声をあげ、ぼくのこぶしを相手に、彼女が身内にかかえこんでいる生き物が、小さく音すら放ちつつ、必死の踊りを踊った。
 オーガズムがちかづくにしたがって、無我夢中でいろんなことをぼくに命令する。
 うわあっ! というような声と共に、彼女の体ぜんたいが突っ張り、全重量をぼくにあずけた。
 しかたないから抱きとめていてやると、やがておさまり、ちかくの椅子いすに崩れ落ち、デスクに突っ伏した。
 こんなの、はじめてだ。どんなふうに口をきけばいいのか、わからない。
 どうも、皮のつなぎを着ていたのが、運のつきだったようだ。それと、ボスの留守。
 彼女は、デスクに投げ出した二の腕に、おでこをのせている。胸のふくらみが、ゆれている。
「よお」
 すご味をきかせて、ぼくは言った。
 五時までには、かなり時間がある。
おれのことは、どうするんだよう」
 静かに、彼女は、顔をあげた。
 立ちあがって服の前を合わせ、ひもを結ぶ。うなじに両手をまわし、髪をなでつけ、
「カム」
 と、ぼくの手をとった。
 オフィスのドアまで歩いていき、ぼくに艶然えんぜんと微笑しながら、ぼくを外にやさしく押しだした。
「なんだよ」
 というぼくの声と共に、ドアがす早くしまり、ロックをかける音がした。
「この野郎」
 ドアを、った。静かな廊下に、ガーンと、音がひびく。
 もうひとつ、蹴った。反応はんのうは、ない。ノックしても、なんとも言わない。
 その場に呆然ぼうぜんと立ちつくして、ぼくは、悟った。ぼくの負けなのだ。ミス・アジアに、すっかり、楽しまれてしまった。

 半島の峠道、往復二車線。右に左に、つづら折れだ。
 が、大きく西に落ちこんでいる。たなびきはじめた雲が、陽をうけて、せつない黄金色だ。
 ふと悲しくなってしまうようなあわい残光のなかに、風がとまっている。
 夕暮れの、かんばしい香りといっしょに、一日じゅう自動車がまき散らした排気ガスのにおいが、じっとしている。遠くの高原は、夕もやでほの白くかすみはじめた。
 カワサキで走るぼくの前を、ホンダの、黄色いCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)がいく。そのさらに前が、ヤマハのGX750だ。
 ヤマハのGX750が、トップ。だから、ぼくは、三番目だ。
 右に左に、カーブのリズムをつかんでバンクさせ、アウトへはらみ気味に出て、インをかすめ、カーブを抜けていく。
 きついカーブにさしかかる。左まわりだ。
 さきをいく二台の大排気量のエグゾーストがかさなりあい、シャーンというような音になって、うしろへなびいてくる。
 トップのヤマハGX750が、豪快ごうかいに車体を倒した。サイド・スタンドを路面にこすりつける。銀色に光る排気管から後輪にかけて、まっ赤な火花が、夕暮れの淡い灰色の空気のなかに、いくつも、こまかく、あざやかに飛び散った。きれいだ。
 ヤマハGX750は、大きくかたむいたまま、ヘルメットの脳天を見せて、カーブのむこうに見えなくなる。
 ホンダのCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)が、それにつづく。
 まったくおなじように、車体を倒しこむ。カーブのなかの、おなじ地点で、スタンドで路面を削りとっていく。夕もやに火花。黒い後輪の前に、ぱっと、一瞬、赤い花が咲いたようだ。消えて、ふたたび、火花。両肩の峰、それにヘルメットのてっぺんをうしろのぼくに見せて、路面と平行になる感じで、ホンダCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)も、カーブのむこうへ飛びこんでいく。
 ぼくの番だ。トルクをかけ、左肩を思いきりよく、落としこむ。両脚と腰でカワサキを寝かせる。路面を削るぞ。
 重い衝撃が伝わってくる。スタンドが路面にれている。火花だ。先をいく二台とおなじように、アンダーに火花がきれいに散っているだろうか。
 フルに車体を倒し、スタンドを削りつつカーブを抜けながら、ぼくは、左下に顔をむけた。アンダーをのぞきこむように、右肩をあげ、頭を左に下げたとたん、バランスを失い、みごとにひっくりかえった。
 車体の重さと共に、左の路肩へ、ぼくはたたきつけられた。一瞬のできごとだ。どうすることもできない。ついていた加速もまた車体の重さとなり、ぼくを力まかせに地面へひきずり倒す。
 左のハンドル・グリップが路面に突っぱるように、倒れこんだ。車体は急激に全部がはねあがり、数メートルさきまで、ぼくを投げとばした。
 両肩から草のなかに落ち、転がり、左のひじを岩でしたたかに打ち、右脚みぎあしが体の下でねじれる。
 カワサキの倒れる音が、とんでもない方向から、聞こえてくる。それ以外の音は、なにも聞えない。
 あばら骨と、わき腹を岩で打ち、呼吸がつまる。転がりながら、涙が目から噴き出てくる。
 あおむけになってとまったぼくは、体を弓なりに反らせ、歯を食いしばり、声もなく、うめく。
 単眼のゴグルをあごにはずし、ヘルメットの顎ひもをはずし、ヘルメットを脱いだ。体を横むけにし、草に顔を押しつけた。草の香りが、顔いっぱいに広がる。
 痛い。涙がほおから草のなかに、したたり落ちる。
 しばらくして、やっと、ぼくは声をあげてうめけるようになった。目をあけると、すぐ目の前に、小さな木製のやしろにおさまった地蔵さんがあった。そなえられた枯れた花や、色あせた赤いよだれかけのような布に頓着とんちゃくなく、地蔵は柔和に両手を合わせている。死亡事故の供養地蔵だ。
 痛みのなかで、ぼくは、夏を思い出した。
 いきなり秋になったのが、いけないのだ。
 早く来すぎた秋になじめず、カワサキと共に七転八倒しているぼくを支えてくれているものは、おたがいに一日おきくらいに電話をかけあう、西宮にしのみやの白石美代子。
 昨日の夜、電話で、ミーヨは、こう言っていた。
「私、そっちへいく」

12


 九月の終りにちかい日。午後七時。夕暮れと夜の、微妙なさかい目だ。
 もう暗くなっている。秋だ。完全に、秋。でも、いいんだ。もう、秋だって冬だって、かまわない。
 東京の西新宿にししんじゅく。超高層ビルというやつが、何本も建っている。そのうちのひとつ、三井ビルの前の道路。甲州こうしゅう街道と青梅おうめ街道を結ぶ道路とT字交差し、新宿駅西口の地下コンコースまで、のびている。片側三車線。水銀灯が、道路を照らす。
 その道路の、新宿駅にむかう車線のいちばん右、植えこみのある中央分離帯に右足をつき、ぼくはカワサキにまたがってとまっている。左のウインカーをつけっぱなして。
 次から次に、何台も、タクシーや乗用車が、新宿駅にむかって、ぼくの左側を、タイア音と共に、走り抜けていく。すれすれにかすめていくやつもいる。一瞬、風圧を、体の左側に、ななめうしろから、感じる。
 ヘルメットを右のミラーにかけ、皮のグラブを右手に握っている。黒い皮の、オートバイ・ジャンパーに、14オンス・デニムのブッシュ・パンツ。ブーツは、いつものハーネス・ブーツ。
 進入してくる車に面して、「トンネル内、点灯てんとうせよ」と書きつけた大きな看板が中央分離帯に、立っている。ぼくは、その看板とトンネルの入口との中間にいる。
 約束の時間は七時十五分だ。
 しばらく前に、ぼくは、ここへ来た。今日は、六時あがりの仕事が、ちょうど六時に終った。ここへ来てから、ずっと、こうして右足をつきっぱなしにして、待っている。高層ビルに窓がいくつもあり、不規則に黄色く、明かりが輝いている。
 人が、たくさんとおる。ビルにくる人、駅のほうへむかう人。はじまったばかりの夜のなかを、そんな大勢の人たちの歩きかたが、けだるい。
 目に入る文字を、ぼくは、何度も、読んだ。右側の車線のすじむこうにある高層ホテルには、SEIKOの英文字がブルー地に白。それに、植えこみのなかに、「展望室入口」という標示。
 行手の陸橋には、「新都心地下道」「けた下4・2m」と、読める。三井ビルへの階段のわきには、「55ひろば」「商店街」「住宅センター」。左端の車線には、白い字で大きく、「タクシーのりば」。歩道の端に標識が立っていて、その標識にも、「タクシーのりば」とある。のりばにタクシーがつづけて入ってきた。屋根の標識は、「国際」「帝都」「大和」「個人」「新日本」。もう一台、「新日本」が、駅にむかって走っていく。
 新都心地下道が、ゆるいカーブを描いて、駅にのびている。クリーム色に塗ったコンクリートの柱が何本もつらなり、蛍光灯けいこうとうの光をうけている。車の赤いテール・ランプが、いくつもつづく。
 左手首の腕時計を見た。七時十二分。排気ガスまじりでも、秋の夜の空気は、妙に軽くてすがすがしい。
 うしろから来る車を左のミラーで警戒しながら、ビルや人を、ぼんやりとながめた。
 彼女はどっちのほうからくるのだろうか。そう思いながら動かしていたぼくの視線が、ビルの前の広場の階段を降りてくるひとりの女性をとらえた。たくさんの若い女性のなかから、瞬間的に、ぱっと、とらえた。魔法だ。ぼくが魔法を発揮しているのではなく、魔法にかかっているのだ。
 胸が高鳴った。彼女の名を叫びたい。だが、抑える、抑える。
 階段を降りて、彼女は、あたりに人をさがすように、左右を見渡している。ベージュのキュロット・スカートに、ブラウンのブーツ。白いブラウスに、ジャケットのようなものを、はおっている。今夜の空気に、そんな服装が、とてもよく調和している。あしをよほど大きく広げないと、キュロットだとわからないスカートだ。こんないでたちのミーヨを、ぼくは、今夜、はじめてみる。
 わるくない。わるくないどころか、とても洒落しゃれている。素敵だ。だれの目にも、美しい女性だ。
 赤い煉瓦れんがの小さな壁に軽くもたれて、ふと、彼女は、ふりかえった。視界のなかにぼくが入っているはずだ。だが、気づかない。
 彼女は、駅のほうを見ようとする。
 ぼくは、カワサキのホーンを鳴らした。
 気がつかない。もう一度。だめだ。たてつづけに、二度、三度、四度。道をいく人たちが、ぼくを見る。五度目のホーン。いぶかしげにミーヨがふりかえり、ぼくを見た。
 ぼくは手を振った。
 きれいな動作で壁をはなれたミーヨは、軽快に、小走りに、歩道の端まで、きた。
 首をすこし左にかしがせ、ミーヨは、まぶしそうにぼくを見る。なにか言っている。走り抜けていくタクシーにかき消されて、聞えない。
 車の切れ目をつかまえて、彼女は車道に降り、ぼくのところまで走ってきた。
「元気なの? なんだか、人がいっぱいねえ」
「元気だ」
「カワサキも?」
「快調」
 ミーヨは、ハンドルに手をかけた。
 しりにスポイラーをつけた下品なアメ車が、爆音を放って、ふっ飛んでいく。風圧にミーヨのキュロットがはためくのだが、彼女は平気だ。
「乗れよ」
 ぼくは、シートのうしろにさがった。前のほうにスペースをつくり、ミーヨにまたがせた。
 左腕でうしろからミーヨを抱き寄せ、右手でグリップをつかんだ。いい気分だ。彼女の髪の感触かんしょくと香りが、ぼくの顔に感じられる。
「久しぶりっていう感じ、しないのね」
 顔をなかばうしろにむけ、彼女が言った。
「いつまで東京にいるんだい」
「ずっとよ」
「ずっと?」
「そう」
「会社は?」
「話をつけたの」
「やめたのか?」
 彼女は、首を振った。
 ぼくのくちびるや鼻に、髪がやさしく触れる。
「やめないわよ。やめたら、損しちゃう。東京で仕事ができるように、話をつけたの。今日から、ずっと、東京」
 ぼくのほうへ、顔をねじまげる。その彼女の顔を横からのぞきこむようにして、ミーヨとくちびるを合わせた。
 唇をはなす。香りが、ほのかに甘い。
 彼女の胸が、大きく上下している。呼吸が、深く早い。ぼくの左腕に、それが、胸のふくらみといっしょに、はっきりと感じられる。とても素敵すてきな感じだ。
「でも、いくとこ、ないのよ」
「なんだって?」
 と、ききかえしたとき、いきなり、
「そこのオートバイ! なにをしている!」
 と、左ななめうしろから、スピーカーをとおした、かん高い声が、ぼくたちに浴びせられた。パトカーだ。
「なにをしている!」
 ぼくは左を見た。
 人々が足をとめる。歩道の端へ寄ってきて、ぼくたちを不思議そうにながめる人もいる。
 運転席の警官が、窓から顔を出している。
「左端へ寄りなさい!」
 窓の外に出した右手のジェスチュアと共に、左手に持ったマイクに、警官はそう言った。
 威圧するように、パトカーは、すこし前進した。
「歩道に寄る」
 と、ぼくが言った。
「そのまま、乗ってろ。エンジンをかけるから、ハンドルにつかまって、足はステップに乗せてくれ」
 左足をフット・レストに乗せ、腰をあげてことさら入念にキック・ギアを合わせたぼくは、体重を乗せきって、踏み抜いた。
 エンジンは、かかった。バガガーンと、猛烈もうれつな空吹かしをやった。ミーヨの体に、緊張が走った。
「だいじょうぶ」
 シフト・ペダルを踏みこみ、ロー・ギアに入れた。ぼくの左足にミーヨの左足を置かせた。ばっちり振りかえって車の流れを見届け、ぼくはカワサキを走らせ、歩道に寄った。うしろからすうっとパトカーがきて、ぼくの右側にならんでとまった。
 助手席の警官が、ぼくとミーヨを、何度もながめた。
 警官は降りてこない。パトカーのなかからの説諭だけですみそうだ。歩道に、半円形の人垣ひとがきができた。
 ひとしきり説諭して、パトカーは、いってしまった。人垣ひとがきが、散っていく。
「いくとこがないって?」
「そうなの」
「じゃ、荷物もなにも、ないわけだ」
「すこし持ってきた」
「どこに」
「コイン・ロッカー」
 ミーヨは、新宿駅のほうを示した。
「しょうがねえなあ」
「いいじゃない」
「いいけどさ」
「泊めて」
「あぶないかもしれないよ」
「なにが?」
「これ」
 ミーヨをうしろから抱いている左腕を、ぼくはゆすってみせた。
 シートのうえで身をよじって彼女が笑う。
「しかし、しょうがねえなあ」
「だいじょうぶよ」
「会社は、今日は、もういいのか」
「いいの。コオは?」
おれは六時に終った。カギをあずけるから、ミーヨ、おまえ、さきにアパートへ帰ってくれ」
「乗せてって」
「だめだ、そんな格好じゃ。地図を描いてやるから。道をおぼえろ」
 サドル・バッグからメモ・パッドとサイン・ペンをだし、第二ゆたか荘までの道順を書いた。ちぎって、ミーヨに渡した。
「俺のほうが、さきに着くかな。とにかく、あとで話を聞こう」
「おなか、すかない?」
「あとでいっしょに食べよう」
 エンジンはアイドリングのままだ。
「ハンドルにつかまってくれ。足は俺の足に乗せろ。駅まで送ってやる」
 新都心地下道の前方を、ぼくは示した。
「さっきのパトカー、まだそのへんにいるかな」
 ミーヨをいっしょに乗せて、カワサキは、走りはじめた。すぐに、地下道に入る。低い天井には、色を塗ってないコンクリートの四角いはりが何本も走り、両側には大きな柱が、せまい間隔でつながっている。
 ロー・ギアのまま、アクセルを開けた。
 爆発し、はじけ飛ぶような排気音が、コンクリートの地下道に広がり、縦横にこだまする。歩いている人がぼくたちを見る。
 低いギアのまま、排気音はさらにすさまじく、駅西口の地下コンコースまで走った。
 つらなって客待ちしているタクシーの外側を抜け、噴水のむこうを半円にカーブを描き、駅から出ていくほうの車線にまわりこんだ。
「ひとまわりしてみよう。ほんのちょっとだけ」
 ギアをあげ、ストレートをいっきに走り抜け、地下道を出た。まっすぐいき、陸橋を二本くぐったさきで、Uターンした。T字交差する道路に出るまえに、中央分離帯に切れ目があるのだ。さきのT字交差点で右折して入ってくる車が、何台もつづいている。
 分離帯の切れ目に入って停止し、
「うしろから来る車を見ててくれ」
 と、ぼくは、ミーヨに言った。
「流れが切れたら、OKと言ってくれ」
 ミーヨが上体を左にねじり、振りかえる。
 彼女の背に胸を合わせているぼくの顔に、彼女の髪が触れる。
「OK」
 ミーヨの言葉と同時に、ぼくは、クラッチをつないだ。ゼロヨンのタイム・トライアルの気分で、地下コンコースまで、カワサキをふっ飛ばした。爆音は、祝砲のかわりだ。

 アパートには、ぼくのほうがさきに帰りついた。
 友人の小川敬一が、来ていた。あがりこんで畳に寝そべり、FMを聴いていた。ショパンの練習曲『エオリアン・ハープ』だ。
 部屋へやに入ってきたぼくを見て、小川は、起きあがり、眠気を振り払うように、頭を振った。
「そうか、おまえには、合いカギが渡してあったな」
 ひところ、小川は、オートバイでよく遊びにきていた。ぼくが部屋にいなくてもあがりこんで待っていられるように、合いカギを渡しておいた。あのころ、小川は、ヤマハのRD250に乗っていた。去年、ホンダのCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)にかえた。
「この部屋に来るのは、久しぶりだ。しかし、なんにも変わってない」
「変化はおれの内部にある」
「なにを言ってやがる」
 小川は、部屋のなかを見渡した。
「レコードでも聴いてようと思ったって、ろくなのないじゃないか」
 と、LP数枚を指さした。
「なぜ、レターメンだけなんだ」
「いろいろあったけど、人が持っていった」
「残ったのが、これか」
「うん」
「おまえにちょうどいいよ。おまえは、役立たずのロマンチスト屋だから」
「実利派だよ」
馬鹿ばか言え。プラグマチストなら、原稿の輸送にカワサキのW3なんか使ったりしないよ。使いにくくてしょうがないだろうが」
「まあ、な。クォーターなんかにくらべると、だいぶちがう」
「ガソリン代は会社が出してくれるのか」
「自前」
「きゃあ!」
「ぜんぶ、自前。タイアもオイルも。豆球も。事故だって、そうだ。ボーナスはないし」
「やっぱり、ロマンチストだ」
 この小川は、すこし変わったところのある男だ。
 いつも、ブルージーンズにダンガリーのカウボーイ・シャツだ。夏のあいだは、袖口をまくり、胸や背中に汗をうかべてたが、いまは下に白いTシャツを着こみ、袖のスナップを止めている。
 ぼくがいまのカワサキを手に入れて間もなく、学校で知り合った。それまでにも顔は知っていたのだが、口をきいたことはなかった。
 カワサキで学校へいくと、駐車場で歩み寄ってきてW3をじっとながめ、
「メグロのK1にやはりよく似てる」
 と、ひとりごとのように、言った。
 W3はメグロの直系だ。似ているのは当然で、そのことは、だれでも知っている。
「でも、ディスク・ブレーキじゃないほうがいいな。感じがまったくちがってしまうから。ダブル・ディスクの必要ないよ。径の大きなドラムでいいんだ。エンジン・ブレーキだって利くことだし」
 ひとりで、小川は、しゃべった。このときも、ブルージーンズにダンガリーのシャツだった。くつは、裏皮のペコス・ブーツ。いまも、おなじ靴が、部屋へやのあがり口に脱いである。
 それ以来、なんとなく、小川と友だちになってしまった。学校で見つけた、唯一のオートバイ・クレイジーだ。
 去年の夏には、ぼくは沢田冬美を乗せ、小川はガールフレンドをつれて、浅間あさまへいった。
 柱に押しピンでとめてある二枚の写真に、小川はあごをしゃくった。
「あれは、浅間だろう」
 と、マーボロを一本、くちびるの端から垂らすようにくわえる。童顔で、女のこのようにカットした髪だが、体のつくりは屈強だ。ことさらクールに口をきく。意識しているにちがいない。
「こりないな、おまえ。去年の女じゃないよ、見たところ」
 煙草たばこに火をつけ、マーボロをマッチといっしょに箱ごと、ほうってよこす。ベッドに腰をおろし、ぼくも、煙草をった。
 練習曲が終った。レコードがかわりさらにショパンの曲がつづく。
「去年の女は、どうした」
「お嫁にいった」
「じゃ、おまえ、ふられたんだ」
「まさか」
「あれは、かわいいけど、普通の女だったな。普通の、まともな女なら、おまえをふるはずだ」
「今日は、説教をしにきたのか」
「友情の交歓」
 ふたりして、みじかく笑った。
「じつは、話がないわけでもないんだ」
「なんだ」
「卒業のための作曲をいまやってる」
「へえ」
「おまえは?」
おれは落第してもう一年」
「好きずきだけどさ。冗談ではなく、俺はほんとに作曲をやってる。三十分くらいのやつで、七つくらいに分かれてるんだ。ぜんたいの題名は、『サンデー・ドライバー』ときめてある。丸の内の会社に勤めていて、日曜にだけ車でちょっと富士吉田ふじよしだあたりまで、恋人を乗っけて走ったりするような男の気持が、テーマになってる」
「ふうん」
「中原麻里のセリカGTを借りて、いろいろ走ってみてるんだ。その男の気持になろうと思って。ちらっと明るいところがあって、そのほかはペシミスティックでブルーな曲にしようと思ってるんだけど、セリカで走っているうちに、オートバイも曲のなかにとりこみたくなったんだ」
「なるほど」
「日曜日に馬鹿ばかな四輪でトロトロ走ってるうちに、男は何度もオートバイを見る。いつもおなじオートバイなのさ。次第に、そのオートバイにあこがれる。そして、最後には、恋人をすて、貯金をおろしてオートバイを買ってしまう。そのオートバイで突っ走っていくとこで、終りさ」
「貯金をおろすとこは、ワルツにするといい」
「ぜんたいはジャズなんだ」
「クールにスイングするバップふうに」
「そんな感じ。ギターのパートをオートバイにしようと思ってる。スタッカートじゃなくてさ、ホーンの感じで。まわりを、わりと普通のスイングにしといて、ギターだけ、バップのコンセプトで、独創的にやる」
「のん気なもんだ、おまえも」
 FMでは、ショパンがつづく。
「ベーシックなビートは四分の四だけど、柔軟なリズムでシンプルにスイングさせ、複雑な構造を持たせる」
「そこがオートバイだな」
「いいだろう」
 うれしそうに、小川は、にこにこしている。
「ぜんたいでリフによるステートメントがあって、クラリネットがソロをとる。メロディ・ラインを展開させていくソロの材料としてのリフなんだけど、クラリネットのソロは、いまひとつ、うまくいかない。だけど、ギターのソロは、すごいんだ」
「クラリネットが、サンデー・ドライバーなのか」
「そう」
「図式的だ」
「そう思うか」
「思う。二十年後には、おまえ、全国の団地の小学校の校歌を作曲するようになる」
 また、ぼくたちは、笑った。
「ついては、頼みがある」
「なんだ」
「たいしたことではない」
「二本目のマーボロに、小川は火をつけた。煙を吐き出しながら、
「おまえ、腹へってないか」
「へってる」
「食べにいこう」
「待ってくれ」
「なにを」
「いまにわかる」
「ちえっ」
「頼みというのは、なんだ」
「あとでしゃべる」
 季節も良くなったので、ふたりで久しぶりにツーリングに出ようかという話になり、いろんなことを喋っていると、やがて、ドアにノックが聞えた。
 立っていって、ぼくはドアを開けた。ミーヨだった。小さな赤いスーツケースをひとつさげてドアの外に立っていた。
 ブーツを脱いで部屋へやにあがり、
「すぐにわかった。まちがえずに来れたのよ」
 と、部屋を見わたした。
 ミーヨを、ぼくは小川に紹介した。うさんくさそうな顔で、小川はぼくを見た。
「ああ、おなかすいた」
 そう言ったミーヨは、小川から煙草たばこをもらい、火をつけ、柱にとめてある写真の前まで歩いた。
「なんだか、これは大昔みたい」
 と、煙草をはさんだ指で写真を示した。
「年なんだよ、おたがいに」
「そうなのかしら、やっぱり」
「二十四にもなってしまった」
「いつ?」
「今日」
「おめでとう」
「ほんとに、おまえ、今日が誕生日なのか」
 畳にすわったままの小川が、ぼくにきいた。
「ほんと」
「だったら、今夜は、お祝いだ」
 ミーヨは服を着かえたいという。
 ぼくと小川は部屋を出た。階段を降り、駐車場の前で待った。
「なんだ、あの女は」
「友だちだ」
おれとおまえだって、友だちだ」
「くらべものにならんなあ」
 はき古したブルージーンズに着かえ、ミーヨが降りてきた。綿ネルのシャツに薄いパイルのヴェスト。ぼくのスニーカーを、かかとをつぶしてはいている。
 駅前からのびている商店街へ歩いていった。ピザ・パーラーに入り、ピザを食べた。特大のアンチョビー・ピザをひとつ取り、三人で食べた。コーヒーを飲み、ミーヨはサラダの大盛りもたいらげた。
 腹ができ、
「さて、どうしようか」
 と、小川が言った。
 ぼくは、うたえるスナック『道草』という店を思い出した。駅のほうにむかって、三人でゆるやかな坂をのぼっていった。
 夜の駅前の人通りのなかを、スケートボードのスラロームで降りてくる女の子がいる。に焼けた、元気そうな女の子だ。ぼくのそばをすり抜けようとして、彼女は、ぼくの肩に両手でつかまった。スケート・ボードをくるっと回転させ、うまくとまった。
 ぼくを見おろし、
「ちっともお店に来ないじゃないの!」
 と、彼女は言った。
 ナミだ。『道草』で、自作の曲をギターの弾きがたりでうたった女のこ。髪がちがっているし、あのときよりさらに陽焼けしているので、わからなかった。
「これからいくところ」
「今日もうたうのよ。私、また、新曲なの。なおして」
 ナミは、スケートボードをぼくにあずけた。
「さきにいってて。一時間くらいしたら、いくから」
 途中のケーキ屋で、小川は、大きくて古風なデコレーション・ケーキを買った。よせ、とぼくが言うのに、小川は、やる気だった。小さなロウソクを二十四本、店員にかぞえてもらっている。
「なにはなくても」
 箱に入れたケーキをかかえ、小川は笑っていた。
 早い時間なので、『道草』は、すいていた。奥の席にすわり、飲みものは、ほどよく冷えた白いワインにした。
 オートバイの話がはずみ、ワインは二本すぐになくなり、三本目も飲んでしまうころ、ナミがあらわれた。ギターを持ち、さきほどとはちがった服を着ていた。太い毛糸でざっくり編んだ、丈のながいセーター。すそはそのままミニ・スカートの役をはたし、色のよく合ったストッキングにつつまれたあしが、やけに目についた。
 店のおごりだと言って、ナミは、シャンペンを持ってきて、抜いてくれた。
 小川がケーキに二十四本のロウソクを立て、火をつけた。
 ぼくが吹き消そうとすると、小川は、ちょっと待てと言う。スペインに古くから伝わる誕生日の歌をうたってやると言い、あやしげなスペイン語で、感じを出してうまくうたった。
 あっというまにワインがさらに三、四本なくなり、面倒くさいからと言って小川はウオッカにかえた。ナミもミーヨも、ウオッカを飲んだ。二人とも、強い。店はなぜか今日は客がすくなく、ぼくたちの借り切りのような雰囲気ふんいきだった。
 まずナミがうたい、ミーヨも二十四になったばかりだと知った小川は、たてつづけに何曲もうたった。ミーヨも、うたった。エレクトーンを弾きながら、まあなんとか、いけるのだ。
 ウオッカが相当にまわってきたころ、客が多くなりはじめた。正式な出演者である野沢圭子けいこという女のこと、道草バンドがやってきた。
 ヴァイオリン、アコーディオン、生ギター、ウッドベースの四人編成のバンドをバックに、野沢圭子は、回顧的なせつない歌を、ことさらせつなくうたった。客には、うけていた。
 まだよいの口に、ぼくたちは河岸かしをかえた。
 ナミが知っている小さなスナックで二時間ほどすごし、そのあと、ウオッカとつまみを持って、ぼくのアパートにひきあげた。
 ナミとミーヨが、さほど酔いもせずに、ウオッカをあけつづける。小川がそれに調子を合わせる。
 ミーヨに会うのは、これで三度目だ。会うたびに、印象がちがう。つまり、ぼくにあたえる印象の幅が、会うたびに広がっている。
 夜中の十二時に、ぼくは、皮のつなぎに着かえ、ヘルメットを持ち、部屋へやを出た。
 明日の日曜は、朝の八時から仕事だ。先輩たちのいやがる日曜出勤が、順番でぼくにまわってきた。このまま部屋にいたら、何時に眠れるかわからない。会社の仮眠室の、かいこだなのようなベッドへこれからいけば、七時間は眠れる。
 階段の下まで、小川が送ってきてくれた。
「すなわち、あとはいっさい、おれにまかせるということだな」
「まかせる」
「友情を感じるよ。労せずして、乱交の最小単位が手に入るんだから」
「青春、青春」
 ほどなく小川は酔いつぶれるにきまっている。今夜の小川は、いつになくはしゃいでいて、ウオッカをあけるペースが早い。
 ぼくは、ワインのあと、まったく飲んでいない。
 カワサキで夜のなかを走りながら、ぼくは、とても満ち足りた気分だった。今日は、いい一日だった。

13


 二日後に、小川敬一から、電話があった。先日の、ちょっとした頼みというやつを聞いてほしいと言う。仕事が六時あがりの日に、オートバイでそのまま来てくれ、と小川は言っていた。
 一日おいた今日、六時あがりだ。多摩川たまがわにかかる二子橋ふたこばしの、世田谷せたがやがわのドライブ・インで、落ち合った。
 小川は、窓ぎわの席でコーヒーを飲みながら、待っていた。駐車場に、彼のCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)があった。小川は、外国製の、カネのかかったつなぎとブーツに身をかためている。東京にある彼の実家は、ほかの友人の話によると、金持ちなのだということだ。
 頼みとはなんなのかときいても、小川は笑ってこたえない。
「二時間ほど、おれのうしろについて、オートバイで走ってくれたら、それでいい」
 窓から外をながめて、コーヒーを飲んだ。
 暗くなった大山おおやま厚木あつぎ街道を、ひっきりなしに自動車が走っていく。
「作曲に関係があるとか言ってたな」
「そう。関係ある」
 コーヒーのついでに、ぼくは、軽く食事をすませた。
「そろそろ、いくか」
 やがて、小川が、言った。
 駐車場を、彼がさきにホンダで出ていった。排気音が、とても静かだ。カワサキで、ぼくは、そのあとについた。
 街道をしばらくいく。道路がふたまたに分かれる地点を左右から環状8号がつらぬいている。ふたまたの、左の道を、小川はとった。道なりにいき、高速3号線をくぐり、また、ふたまただ。小川は、左に入っていく。弦巻通つるまきどおりだ。
 小さな交差点で、小川のCB400は、左のフラッシャーを出した。左に寄って、とまった。ぼくは、そのすぐうしろに、カワサキをとめた。
 オートバイを降りた小川は、ぼくに歩み寄り、低い声で、こう言った。
「四輪をねらうんだ。車の流れがすくないときに、一台の四輪に狙いをつけ、右すれすれにかすめて追い抜きざま、四輪の右のフェンダー・ミラーをたたき折る」
「どうやって」
「でっかいモンキー・レンチを持ってきた」
 と、小川は、にやっと笑う。
「叩き折ったら、飛ばすから、すぐうしろにくっついて走ってくれ。ナンバーを覚えられると困るから」
「なぜそんなことをするんだ」
「例のやつを作曲しているうちに、やってみたくなった。フェンダー・ミラーは、モンキーでひっぱたくと、すぐに折れる」
 うれしそうに、小川は、笑っている。
「わかったか」
「わかった」
「折れて路面に飛んだミラーを踏むな。おまえが飛ぶよ」
 小川は、自分のオートバイにもどった。
 サドル・バッグからモンキー・レンチを取り出し、柄のほうからブーツに入れた。
 CB400にまたがり、車の流れを見ている。夜のこの時間、ふと、車の流れが途絶とだえることがある。
 ぼくたちの来たほうから、車の途切れた道路を乗用車が一台、走ってくる。
 小川が、ぼくに合図した。
 ぼくたちのわきを、いグリーンのコロナ・マーク※(ローマ数字2、1-13-22)が、走り去る。
 追って、小川が飛び出した。合わせて、ぼくも出た。
 小川は、CB400のアクセルを開け、マーク※(ローマ数字2、1-13-22)に追いすがる。静かに、滑るように、CB400は、走っていく。ぼくのカワサキは、充分に二台分の、耳にひびく乾いた排気音だ。
 マーク※(ローマ数字2、1-13-22)のうしろに、小川がついた。左手をあげ、もっとあいだをつめろ、とぼくに合図する。
 ぼくが加速するのと、小川のCBがひらりと右に倒れてマーク※(ローマ数字2、1-13-22)のわきに出ていくのと、同時だった。ハンドルからはなした小川の左手に、モンキー・レンチが見えた。
 マーク※(ローマ数字2、1-13-22)の右側をすれすれに加速していき、追い抜きざま、下からすくいあげるように、小川は、フェンダー・ミラーをひっぱたいた。折れたミラーは、キラッと光り、マーク※(ローマ数字2、1-13-22)の左前方へ、飛んだ。
 ブーツのなかにレンチを落とし、小川は、加速した。猛然もうぜんたるシフトとアクセル・ワークなのだが、音は静かだ。
 マーク※(ローマ数字2、1-13-22)が、たてつづけにホーンを鳴らす。赤いストップ・ランプが点灯てんとうする。スピードが、がくんと落ちる。
 ぼくは、マーク※(ローマ数字2、1-13-22)の前に出た。マーク※(ローマ数字2、1-13-22)のドライバーから、小川はぼくがさまたげになって、見えないはずだ。あの加速では、ぼくがいなくても、CB400のナンバー・プレートを読んで覚えているゆとりは、なかったはずだ。すこしアクセルを開き気味に走りながら、ぼくは、ふりかえった。
 マーク※(ローマ数字2、1-13-22)は左に寄ってとまり、ドライバーが外に出て、ミラーの折れた跡を見ていた。
 加速して、ぼくは小川を追った。
 前方の交差点を、小川は、タイミングよく青をねらい、抜けていく。
 小川が右折した交差点のひとつ手前の信号で、ぼくは、とめられた。
 青にかわってから、ゆっくり交差点に出て右折すると、小川がすぐさきにとまっていた。なにごともなかったように、けろっとしている。サドル・バッグにおさめたのだろう。
「ざっとあんな感じ」
 うしろにとまったぼくに、ふりかえって小川は言った。
 ぼくは笑ってしまった。
「ミラーは、ぽっきり折れた」
「そうさ」
「車をとめて、折れた跡を見てたよ」
「青天のへきれきさ」
「おどろいただろうな」
「一生忘れないだろう」
 CB400は、走りはじめた。弦巻通りに出なおし、飛ばして駒留こまどめまでいった。そこで環状7号に入り、夜の車の流れよりも早く、野沢のはずれに出た。
 まっすぐな一本道へ右折した。このままいくと、駒沢こまざわ公園の南端を抜ける。
 公園の近くまで来て、小川のCB400は、フラッシャーを出してとまった。
「もう一発、いこう」
 そう言って、小川は、ぼくの肩ごしに、遠くを見た。
「さっきのマーク※(ローマ数字2、1-13-22)、警察に届けたかな」
「さあ」
「この近くで、やろう。終ったら、環8に入って、北へ逃げる。おまえのアパートで落ち合おう」
 ぼくは、うなずいた。
 公園の周辺を、軽く流した。
 道路の左端をいく小川にくっついて、しばらく走った。
 うしろから、乗用車が一台、来る。
 車の流れが、いまは、すくない。それに、まっすぐ突っ走っても、次の交差点まで、かなりある。
 乗用車が一台、ぼくたちを追い抜いた。黒っぽいグロリアの4ドアだ。
 小川が左手をあげて合図する。と同時に、急激に滑り出すような加速をした。排気音が小さいので、見ていて薄気味が悪い。
 グロリアに難なく追いすがり、いったんうしろにつき、グロリアのリアとフロントの窓をとおして前方を一瞬のうちに確認し、さきほどとおなじように、小川は、ひらりと、右に出た。
 グロリアと並んで走りつつ、上体をかがめてブーツからレンチをひっぱり出し、いっきに加速。
 ねらい定めて、モンキー・レンチを小川は左から横に払った。こんども、グロリアのフェンダー・ミラーは、あっけなく折れた。
 小さな黒い鳥のように、ミラーは対向車線へ斜めに飛んだ。
 ミラーが路面に落ちるよりもさきに、ぼくはグロリアを追い抜き、前に出ていた。CB400は、はるかに前方だ。
 グロリアのホーンが、後方でたてつづけに鳴っていた。
 アクセルを開いたカワサキの排気音で、そのホーンの音は、かき消される。見る見るグロリアとのあいだに距離ができていく。
 駒沢公園通りから上野毛通かみのげどおりに出た。
 まっすぐにふっ飛ばし、上野毛で田園都市線をこえるとすぐに、環状8号だ。
 小川のCB400とは、はぐれてしまった。環状線の車の流れに乗り、無理をせずにぼくは北へむかった。

 アパートに帰りつくと、階段のわきの道路に、CB400がとまっていた。まだエンジンが熱い。
 カワサキを駐車場に入れていると、小川が階段を降りてきた。
「どうだ。面白かったか」
「病みつきになりそうだ」
 道路に出てきて、小川は左右を何度も見た。
「もうひとり、帰ってくるんだがなあ」
 と、ひとりごとのように言う。
「おそいな」
「なんだって?」
「もうひとり帰ってくる、と言っただけさ」
 小川が言いおえるかおえないうちに、むこうのやみのなかに、ヘッドランプがひとつ、見えた。
 オートバイだ。排気音から察して、250クラスのミドル・ランナーだ。いい音を出している。
 近づくにしたがって、スピードを落とす。
「帰ってきた。おれが以前に乗っていたヤマハだ」
 と、小川は言った。
 超低速でぼくたちの前まできたヤマハRD250は、とまった。ライダーがしなやかに降り立ち、エンジンを切った。そしてセンター・スタンドをかけた。
 ヘルメットを脱ぎ、頭を振り、長い髪を片手でかきあげ、
「ギアは、押しこむ感じなのね。四回もシフト・ミスした」
 気持よさそうに笑いながら、ミーヨが小川に言った。
「ミーヨ!」
 思わず、ぼくは、あわてた。
 ミーヨは、ぼくに向きなおった。
「250でも充分にいける」
「ミーヨ、おまえ――」
 一歩前に出たぼくとミーヨとのあいだに、小川が割って入った。にやにや笑っている。
「タイアをいいのにとりかえたから。それだけで、すごく良くなってるはずだ」
「どこへいってたんだ!」
 厳しく詰め寄る口調を、ぼくはどうすることもできない。
「面白かった」
 きれいな顔で、ミーヨが、笑っている。
「なにが」
「ミラー折り」
「なんだって?」
「ずっとうしろについてたの」
「おまえが?」
「そう、私が。東京を走ったの、はじめて。こわいね、やっぱり」
馬鹿野郎ばかやろうっ!」
 と、ぼくは怒鳴どなった。
 久しぶりに怒鳴る。冬美との喧嘩けんか以来だなと、ふと思った。あのときも、このアパートの前の、ほぼおなじ場所で、夜に怒鳴った。
「馬鹿野郎!」
 もう一度、怒鳴った。久しぶりに怒鳴ると、なんだか自分のほうが馬鹿みたいだ。
「よせよ」
 小川が、ぼくにむかって両腕を広げた。
「小川、おまえ。よけいなこと、しやがって」
 ぼくは、小川にむきなおった。
「おまえ、怒ると、かわいいよ」
 小川が、クールな薄笑いと共に、そう言った。
「そんなセリフはきのきた女にでも言うといい」
「では、そうしよう」
 こうなると、小川という男は、もう、つかみどころがない。
 ミーヨの腕をつかみ、ぼくは力まかせに引き寄せた。だが、ミーヨは、やさしくぼくの肩を抱く。
「ごめん」
 と、ぼくのうなじに言う。
 ぼくは、彼女の両肩をつかんだ。
「小型の免許しか持ってないと言ったじゃないか」
 ばつの悪そうな顔をして、ミーヨは、黙った。
「だのに、なぜ、250なんかに乗るんだ。しかも、はじめての東京じゃないか」
 ミーヨは、うつむいて、じっとしていた。
「危ないってことが、わからないのか」
 そこで、ぼくは、言葉を切った。どうつづけていいのか、わからなくなったのだ。
 しばらく、沈黙があった。
 小川が、ぼくの背中を軽く突いた。
「つづきを早く言え」
「うるせえ」
「おまえとあのレストランで落ち合うまえに、技量はおれがたしかめた。すごくうまい。危ないと思ったら、やらせやしない。ヘルメットは、俺のだ」
「余計なお世話だ」
 ぼくは、小川にむきなおった。
「いつたくらんだ」
「ついこないだ」
 あっさり、小川がこたえた。
「はなしてくれ。俺は喧嘩けんかに弱いんだ。あの日の夜、おまえがカワサキで会社へいったあと、計画したんだ。無事だったからいいじゃないか」
「よくない」
 小川は、ぼくを見てにやにや笑っていた。
 再び、沈黙が来た。
 なんとなく、気まずい。
 小川が、救ってくれた。
「テレビの青春ドラマみたいに怒鳴るな、『道草』へいこう。祝杯だ。みんな、あの日のウオッカが悪いのさ」
 RD250をカワサキのとなりに入れ、ぼくたちは歩きはじめた。
『道草』は、満員にちかい盛況だった。
 カウンターの端っこに、席はふたつしか、空いていなかった。
 ぼくとミーヨをそこにすわらせ、小川は、ウオッカを注いだ小さなグラスを持ち、エレクトーンへ歩いた。やがて、弾きはじめた。なぜだかジャズ・バラードのスタンダードを、甘く、けだるく、弾いた。
 ミーヨが、ウオッカのグラスを持ちあげ、
乾杯かんぱい
 と、言う。
 しかたなく、ぼくは、乾杯した。
 ひと口、飲んで、ミーヨは、グラスを置いた。
 着古したデニムのショート・ジャケットの胸ポケットから、皮の名刺入れのようなものを、ひっぱり出した。
 なにかカードのようなものを抜き出し、無言でぼくの手を取り、握らせた。
「なんだ」
「見て」
 と、ミーヨは、ささやく。
 運転免許証だった。小さな写真のなかで、ミーヨが、うっすらと微笑している。
 原付免許。小型二輪免許。そして、中型二輪免許。その三つを、かねていた。
 中型の免許があれば、オートバイは400CCまで、乗れる。
 なんということか。
 彼女の中型二輪免許の交付の日付けは、先月だ。
 ぼくは、ミーヨを見た。まっすぐにぼくを見かえし、
「西宮で取ったの」
 と、彼女は言った。
「教習所に、かよったの。筋がいいんですって」
 ぼくは、なにも言えなかった。声が出てこなかった。熱いものが、のどの奥に、つっかえている。とても熱いものが。
 ミーヨの手をとり、ぼくは立ちあがった。いっしょに来てほしい、と目でぼくは言った。すんなりと、ミーヨは、立ちあがった。
「あら、お帰りですか」
 いつもカウンターのなかにいるおばさんが、そう言った。
 ふりむいて、ぼくは、おばさんに微笑だけしておいた。
『道草』を出て、駅とは反対のほうに、歩いた。ミーヨと手をつないだまま、黙って。
 しばらくいくと、路地の入口があった。路地の奥には、コーヒー・ショップの看板に、明かりがともっていた。
 ぼくは、ミーヨをつれて、その路地に入った。
 まだ、なにもしゃべれない。だから、ぼくは、ミーヨを抱きしめた。彼女も、ぼくを抱きかえす。
「信州で――」
 と、彼女が言う。
 ぼくたちの額がれあった。至近距離から、彼女はぼくの目を見ていた。
「信州で、カワサキにまたがってるコオを見たとき、ものすごくうらやましかった。カワサキに嫉妬しっとしたの。自分でも乗りたいと思ったし、あのカワサキみたいに好かれてみたいとも思った」
 ぼくの喉の奥の熱いかたまりが、ますます大きくなっていく。次第に上へあがってくるみたいだ。押さえこむのに、ぼくは、懸命だった。
 だから、ミーヨをきつく抱きしめ、じっとしていた。
 ぼくのくちびるを、ミーヨが、さがした。唇がかさなる。これで二度目だ、と冷静に考えたら、のどの奥の熱いものが、すこしおさまった。
「さっきは、ごめん」
 やっとのことで、ぼくは、それだけ言った。
 ぼくの腕のなかで、ミーヨは、首を振った。
「信州から帰ってすぐに、教習所にかよったの。練習車は、ホンダの350だった。東京へ転勤させてもらうための交渉で途中すこし時間をとられたけど、ひと月で、中型の免許を取ったの」
 コーヒー・ショップから出てきた大学生らしい男の二人づれが、ぼくたちをじろじろ見ながら、おもての通りへ出ていった。
「コオが手紙に書いてくれたとおり、退屈でないのは、オートバイだけみたい」
 言いおえたミーヨのくちびるを、ぼくの唇が、ふさいだ。
 ながいあいだ、ぼくたちは、そこで抱き合っていた。
 女連れの客がひと組、コーヒー・ショップへ歩いていった。ぼくたちのわきをとおり抜けるとき、連れの女性が、くすくすと笑う声が聞えた。
 やがて、ぼくたちは、『道草』に帰った。小川のギターの伴奏で、ナミが、うたっていた。
 入ってきたぼくたちを見て、ナミは、合図をしてよこした。
 カウンターの端っこの席にもどり、ナミの歌を聞いた。
 ステージが終ると、小川が、ぼくたちのところへ来た。ミーヨの肩に片手を置き、ぼくの顔を見て、小川はこう言った。
「ツーリングに出るといい。二人で。いま、絶好の季節だから」
 まるでぼくの胸のなかを読みとったかのように、そのときぼくが思っていたことをそのまま、小川は、言葉にした。

14


 二台のオートバイの排気音が、紅葉の山にこだまする。
 ゆるやかなカーブが、適当な間隔を置いてつづいている登り坂だ。小さな山が、いくつもつらなっている。その山なみに刻まれた往復二車線の道路だ。平日なので、車はすくない。
 どの山にも、紅葉とい緑が、絶妙の調和を見せている。澄みきった空気のなかに、秋の山が放つ冷気が、目に見えるようだ。
 山は、暮れはじめている。遠く山と山とのあいだに、夕もやがたなびく。小さな谷あいが、白っぽくかすんで見える。昼間とは、空気の味がちがう。
 空を雲がおおっている。ところどころ、切れ目があり、秋晴れの日の名残りである、あわいブルーの空が、おだやかにのぞいている。
 沈んでいくをうけて、雲の西側は、ピンクに染まっていく。
 ミーヨの乗ったヤマハRD250が、さきをいく。小川が言っていたとおり、タイアをいいものにとりかえたRDは、最高のできばえだ。ハンドルは低いものにかえてある。
 さきを走るミーヨが、Rの大きなカーブにさしかかろうとしている。腕や肩から、きれいに力が抜けている。RDと一体になり、脚と腰は、RDと分かちがたく溶け合っている。
 カーブに入るまえに、回転をきれいに合わせて、シフト・ダウン。ブレーキングをかさねあわせ、カーブ進入のための減速を完了させる。
 正確なラインを選びとり、リーン・アウトで、きれいに車体を倒しこむ。Rの大きいカーブだから、バンクさせている時間がながい。
 アクセルは、ハーフ・スロットルで軽くパワーをかけたまま、一定させている。さからわずに、美しく、流れていく。アウトへのはらみすぎも、いまはない。
 カーブの出口が見えてくる。ミーヨは、静かに、アクセルを開けていく。うしろから見ていて、ぼくはとても満足だ。たとえようもなく、うれしい気持になってくる。
 高原のキャンプ場へ、ぼくたちは一泊のツーリングにいこうとしている。
 中型の免許を持っているとはいえ、経験不足だし、そこからくる的確な判断と反応を、ミーヨはまだあまりたくわえていない。
 東京から走ってくるあいだ、あとになりさきになり、ぼくはミーヨの走りぶりを、こまかく観察した。
 現実の走行経験が足らないことはたしかなのだが、文句をつけるところは、ほとんどなかった。
 しかし、きもを冷やすような現場の目撃は、一度だけだが、あった。
 山道に入って、車もすくなく、まわりの景色も美しくなりはじめたころ。左まわりのカーブに入るとき、ミーヨは、ギア・チェンジで横着をした。そのカーブに入るのにふさわしいギアではなく、それよりも高いギアで、入っていった。しかも、カーブの入り口でのっけからインについた。
 そのカーブの出口のはるか手前で、ミーヨの乗るRDはセンター・ラインまではらんでいき、車体をまだ倒しきったまま、横這よこばいのような走りかたをした。そして、そのままセンター・ラインを割って対向車線に出ていった。ようやく車体が起き、パワーをかけて自分の車線にもどろうとするRDの鼻さきをかすめ、明らかにスピードを出しすぎのセダンが、坂をくだっていった。
 見晴みはらしのいいドライブ・インで、峠の団子だんごを食べながら、ぼくはミーヨに、このカーブのことを話して聞かせた。
「それに、Rがおなじだと、どのカーブでもおなじ走りかたをしてる」
「路面しか見えないのよ」
「景色を楽しんでるひまはないだろう」
「あんまりね」
「Rはおなじでも、ブラインドだったら、走りかたをかえるんだ。カーブのぜんたい的な状況を正確に見てとって、判断しなきゃいけない」
「そうなんだけど」
「カーブに突っこむなよ」
「アクセルの開けすぎ?」
「シフト・ダウンしろよ、かならず。ギアは、高すぎるよりは低いほうがいいんだから」
「どうして」
 こういうところが、ミーヨは、まだぜんぜん弱い。
「なにかあったとき、とっさの加速で、かわせるじゃないか。カーブに入るときはスローで、出るときに加速して、オートバイらしくファストで抜けきる」
「バンクは?」
「倒しすぎになりそうだ。悪いくせがつかないうちに、なおすといい」
「倒しこむと、気持いいのよ」
「そのときだけさ。あとで、えらい目に会うよ」
 秋の峠で、甘いような、からいような団子だんご。ツーリングのライディング・テクニックについて、常識的なことだけど、語り合う。団子の味と空気の香り、それに、話の内容が、よくからみ合う。しかも、相手は、ミーヨ。いい気分だ。
「おなじカーブを、おなじマシーンに乗り、おなじスピードで抜けても、路面をこする人とこすらない人がいる。こすらない人のほうが、有望なんだ」
「倒せば、こするもんだと思ってた」
「ラインのとりかたがいけなかったり、ギアが適切でなかったり、体のバランスがよくなかったり、いろんな理由で、こするんだ」
「私のバランスは、どう?」
「それは、とてもいい」
「自信はあるのよ」
「腰が中心になってて、きれいだ。あごも出てないし」
 経験はすくなくても、最初から正しい基本を身につければ、経験不足を大きくカバーしていける。
 峠の団子のあと、ぼくがさきにたって走った。カーブでぼくが走るラインとおなじラインを、ミーヨにも走らせた。きれいに乗って、ついてくる。ときたまミラーにうつるRDとミーヨが、はっとするほどに美しい。
 ミーヨにラインをとらせ、ぼくがその右側について走る。6段のギアを、彼女がていねいにこまかくシフトしていく音が聞える。
 路程の後半にさしかかってからは、ミーヨの走りっぷりにまったく文句はない。なめらかで、美しい。流れるようだ。すこし気を抜くと、なめらかな流れにまかせて、アクセルを開けて突っこみ気味になる。何度目かの休憩のときに、それも、いましめた。
 山の茶屋のようなドライブ・インにオートバイをとめて休むのは、楽しみだ。
 たとえば、ミーヨがぼくのうしろについて走っている場合は、ぼくが駐車場にカワサキを乗り入れ、降りてヘルメットをとったころ、ヤマハのRD250が、滑りこんでくる。
 皮のオートバイ・ジャンパーに皮ズボンのライダーが降り立ち、サイド・スタンドを出し、RDを休めさせる。フル・フェースのヘルメットをとったライダーは、両手で髪をときほぐし、空をあおぐ。そして、ぼくを見て、にっこり笑う。こんなうれしい瞬間は、ほかにない。
 リズムをさまざまにかえて、ぼくは走った。目ざすキャンプ場へは、もっと近道があるのだが、遠まわりをしている。ミーヨにツーリング・ライディングの基本を教えるためだ。ぼくがかつて走った道路のさまざまな記憶のなかから、キャンプ場とのかねあいのうえで、この道路を選んだ。オートバイで走るなら、いまが最高の季節だ。それに、キャンプにとっても。
 どんなリズムにも、ミーヨは、ぴたりと合わせて、ついてきた。
 カーブを、ふたりが二台のオートバイで一体になりつつ、楽しむ。そして、カーブを抜けると、そのたび、目の前に新しい景色がひらけていく。
 ヤマハのRD250は、快調そのものだ。ツーリングに出るための点検と整備は、小川敬一が、やってくれた。カワサキのうしろにつんでいる、テントをはじめとするキャンピング道具も、小川から借りた。彼とは何度もいっしょにツーリングして、使ったことのある道具だ。
 カワサキの点検は、ぼくが自分でやった。夏のあいだのへばりを、すべて取り去らなければならない。その作業も、兼ねた。
 エンジンは、まったく快調だ。オーバー・ヒートは一度もしたことがない。オイルの減りも正常だし、交換するオイルによごれは目立たない。金属粒子もない。バッテリー液の減りは順調だ。
 ぼくとカワサキとの相性がいいからだろう。そうにちがいない。
 エンジンのオーバー・ヒートをまねくいっさいの原因が、どこにも見当たらない。カワサキのどの部分も、すべて、最高の状態にととのえてある。当然のことをやっているまでだ。
 カーボンは、ミーヨの島から帰ってきて、徹底的に落とした。シリンダー・ヘッドの裏やピストン・ヘッド。それに、マフラー。中子をひき抜き、ブラシでそぎ落とした。
 エグゾースト・パイプの、エンジン本体への取付部に近いRのついたところは、外からまっ赤に焼いてたたき落とした。会社の先輩が教えてくれた。
 この先輩は、ドライブ・チェーンをはずして掃除し、オイルで煮ることも教えてくれた。ぼくは、忠実に実行している。おこたって泣きを見るなんて、楽しくないから。
 点火タイミングやバルブの調整。ブレーキ・ライニング。前後輪のアラインメント。エア・クリーナー・エレメント。ストレーナー。ギア・オイル。ワイアー内部のオイル。グリス・アップ。
 手を抜いているところや、気づかないでいるところは、なにひとつない。カービュレーターは、ごく最近、新品と交換した。
 車体全般にわたっての取付部の増し締めは、定期的にやっている。ゆるみから逆にたどっていかなければならない不良部分は、いまのところ、なにもない。
 エンジンのどこからも、異音は出ていない。長いドライバーを握り、エンジンをまわしながらエンジン各部にあてがい、握ったところを耳に押し当て、聞き入る。いやな異音は、いっさい、ない。ないないづくしなのだ。だから、ぼくのカワサキは、いつでも快調だ。
 そして、その快調さは、ミーヨとのツーリングの楽しさを支えてくれる土台となっている。

 ミーヨは、林道も、きれいにこなした。RD250とのバランスが、とてもいい。
 カエデが、あかく染まっている。
 山の斜面を埋めているモミジが、まっ赤だ。そのなかを走ると、自分の体まで、おなじ色に染まってしまいそうだ。
 林のむこうに、小さな湖が見える。
 暮れなずむ山と山のあいだに、いブルーの湖水が、深い静けさのうちに、横たわっている。
 なだらかに広がっている広大な高原地帯の、すこし奥にまで、ぼくたちは、入りこんできている。
 太陽が沈んでいく。山の影が、濃くなる。秋の、まっただなか。その冷気をはらんだ香りにつつみこまれ、ぼくたちは走った。
 よく選んだかいがあって、走りにくい道ではない。景色の美しさと気分の良さが、いっさいを忘れさせてくれる。
 左の下のほう、遠くに、小さなたきが見えた。深く濃い緑のなかに、突き出た岩から流れ落ちる滝の水が、一本にまっすぐ、まっ白だ。
 ゆるやかな起伏のなかに、幅の広い林道が、おだやかに起伏しつつ、のびている。丈の高い樹々きぎが両側から、ぼくたちの頭上に、紅葉のアーチをつくってくれている。
 さすがに、ミーヨが一度、オートバイをとめた。
 ヘルメットを脱ぎ、
「すっごい気分!」
 と、ほおを紅潮させて言う。
 そのとおりだ。すっごい気分。
 夕闇ゆうやみが、林の樹々のあいだから、静かに、しのびよる。
 やがて、林道は、ふたつに分かれた。右へいくと下り坂になり、山あいのひらけた高原に出る。この林のなかに点在するキャンプ場の本拠となる事務所や国民宿舎、それに、小さな牧場や温泉もある。
 このキャンプ場では、自然を保護するため、バンガローはなく、テントの貸し出しも、やっていない。キャンパーが、林のなかに、勝手にテントを張る。毛布は貸してくれたりするけど、電灯でんとうの設備もなにもない。
 事務所で料金を払い、一般的な注意をうけて、二叉路にさろまでひきかえした。そして、キャンプ場に入った。
 適当な場所を見つけ、カワサキをとめた。ヤマハが、すぐうしろにとまった。フル・フェースのヘルメットのなかで、ミーヨが笑っている。
 ふたり同時に、オートバイのエンジンを切った。
 とたんに、秋の山の夕暮れが、ぼくたちふたりを、押しつつんだ。静けさは、圧倒的だ。心地よく肌寒はだざむい。
 いまぼくたちは、ここにふたりだけだ。ほかから完全に切りはなされている。自然のなかにほうり出された感じが、全身の感覚に、せまってくる。
「す・て・き」
 と、音を切って、ミーヨがささやいた。囁き声こそ、いまのこの場に、もっともふさわしい。
 虫の鳴き声がする。どこか遠くに、野鳥の声も聞えた。
 ぼくは、カワサキから荷物を降ろした。
 小型のストーブで湯をわかした。ガス・カートリッジを使い、三時間ちかくフル・フレームで燃やしつづけることのできるストーブだ。
 二杯の熱いブラック・コーヒー。ワイア・ハンドルのついた、ステンレス・スティールのカップに、注いだ。湯気が、冷えた空気のなかで、たとえようもなく、うれしい気分の象徴のようだ。
 草のうえにならんで腰を降ろし、ゆっくり、ぼくとミーヨは、その熱いコーヒーを飲んだ。
 何度もカップを草のうえに置いては、口づけばかりしていたから、飲みおえるまでに、ずいぶん、時間をくった。
 どんどん、暗くなってくる。口づけばかりも、してはいられない。
 テントを張る位置を決めた。
 小川敬一から借りたキャンピング道具は、機能的にできた一流品で、ととのえてある。
 三人用の大きさのあるドーム・テントは、すぐに、張れた。居心地いごこちが良さそうだ。
 ちかくに、土のうえに石をいくつもならべて、たき火のための台座が、つくってあった。そのうえに、ストーブを組んだ。ストーブと言っても、折りたたみ式の、三枚の金属プレートだ。
 組み立てて、うえにワイアーだなを乗せると、それだけで、コンロができあがる。燃料は、炭でも、たき木でもいい。
 ミーヨが集めてきた枯れ枝をこまかく折り、火をつけ、炭火をおこした。
 ゴハンをたき、西部劇に出てくる野営のように、ポーク・アンド・ビーンズのカン詰めに火をとおした。コーン・スープをつくり、フリーズ・ドライのビーフ・シチューをはずんだ。食べすぎかな。でも、ひどくおなかがすいている。
 ウールのシャツ・ジャケットに着かえ、髪をポニー・テールにしたミーヨが、夢のようにかわいい。
 ふたりで、話をしながら、いっしょうけんめい、食べた。
「明日は、午前中に、山をこえよう。むこう側に出る」
「なにがあるの?」
「湖」
「うわあ!」
「降りていくあいだ、ずっと、その湖が、見えつづけるんだ」
 その湖をまいて、となり山の頂上まで、なんとかウエイだかラインだか、有料の観光道路がのびている。
 山の裾野すそのは、温泉町だ。湖から谷がのびて川の流れがあり、下流ではダムがその流れをせきとめている。ダムによって出来た人工湖も、観光地になっている。
 ぼくたちがいるキャンプ場は、その観光地から山ひとつへだてた裏側にあたる。
 夜が、舞い降りる。やさしい夜だが、暗さは厳しい。
 いかにも林のなかに似合いそうな、いきなかたちをした小型のランプに、火をともした。ミーヨが、手をたたいて、よろこんだ。炭火の消えかかっているたき火のむこうに、置いた。
 ランプの明かりのなかに、ぼくたちふたりだけの世界が、できた。
 食事は、ぜんぶ、きれいに、平らげた。すこし多かったけれども、なんの苦もなく、ぼくたちの腹のなかにおさまった。
 ガスのストーブで、ぼくは、またお湯をわかした。ぼくのとっておきが、これから出る。
 お湯で、ぼくは、ミント・ティーをいれた。ミント。つまりはっかだ。ミントの葉を、紅茶にブレンドして、お茶にする。ミントの香りのある、さっぱりした紅茶ができる。
 二年以上もまえ、小川とふたりでツーリングしたとき、小川が持ってきた。あまりにおいしかったので、ぼくは、自分でもつくるようになった。それが、いま、役に立つ。
 ミント・ティーを、ミーヨは、とても気に入ってくれた。
 夜の山のなかで、たき火の残り火を見ながら飲む熱いお茶として、このミント・ティーに勝てるものはほかにない。
 夜が、林のいたるところで、静かに、息づいている。深い息づかいだ。その呼吸のなかに、ぼくたちも、取りこまれていきつつあった。
 炊事道具を洗ってかたづけ、また、お茶にした。
「こんな素敵すてきなこと、はじめて」
 ミーヨが、ささやくように言う。
「島にいたころ、一度だけ、キャンプしたことがある」
 ミーヨは、ぼくの顔を、のぞきこんだ。
「コオ、あなたの故郷は、どこなの?」
「そう言えば、そんな話、一度も、してなかったな」
「どこなの?」
「東京のすぐ近くだ。山のなかだと言えるかな。こんど、連れていってあげよう」
 ミーヨが、ぼくの肩に頭をのせる。
「いきたい」
 ぼくが、彼女の肩に、腕をまわす。
 とても低い声で、ミーヨが、囁いた。
「コオ。私は、なぜ、いま、ここにいるの」
 なんの物音も、聞えない。ごくたまに、地上の枯れ葉の、かさっ、という音がする。
「ぼくも、おなじことを、ききたい」
 秋の冷気をパートナーに、夜が、ぼくたちのまわりで、舞った。
 ミーヨの肩を抱いて、ぼくは、立ちあがった。手をつないで、ランプの明かりから、はなれた。
 枯れ葉を踏み、暗い夜のなかに、入っていった。
 立ちどまり、ミーヨの肩を抱き、ふりかえった。
「あそこに、今夜のぼくたちのテントがある」
 指さして、ぼくが言った。
 たき火の残り火とランプからすこしはなれたところに、テントが見える。
「あのテントのなかに、二人で入れる寝袋がある。もう、寝よう。そして、やろうよ」
 おどろきとも歓声ともつかない、みじかい声をあげて、ミーヨは、夜の空をあおいだ。
 ぼくの両肩に手をかけ、ミーヨは空をふりあおいだまま、微笑してこたえた。
「やりたい」
 テントにむかって、ぼくたちは、静かに歩いていった。
 寝袋のなかにはだかで入った。眠りにつくまでのながい時間のなかで交わした言葉のいっさいを、たとえば英語なら、簡単な三つの言葉に要約できる。
 その三つの言葉は、
 IとLOVEとYOUだ。

 朝、早くに、テントを出た。
 白い朝もやのなかを、手をつないで草のなかに入り、葉に宿った冷たくて透明な朝露あさつゆで、顔を洗った。

15


「髪にポマードつけるの、やめなさいよ」
 と、ミーヨが言う。
「やめられない」
「ベトベトで、さわれないんだもの、そのリーゼント。ヘルメットのなかも、よごれるでしょ」
「ヘルメットは、どうせ、よごれる。それに、定期的に買いかえるし」
「ナナハンの免許、いつ受けさせてくれるの?」
「まだ」
「いつごろ?」
「春さきかな」
「そんな」
「もっとおそくしたって、いいんだ」
「早く、取りたい」
「いまでも、取る気なら取れる」
「だったら、取っちゃおうよ」
駄目だめだ」
「なぜ?」
「なぜというほどの理由はないんだ。あわてなくてもいい。夏のツーリングに、間に合えば」
「ふうん」
「それより、いまは、練習。やることは、いっぱいある。
「そうね。おカネもためなければいけないし」
「そう。おカネ」
「いくらですって?」
「さあ。たまるだけでいい」
「なにに使うの」
「島へいく」
「えっ?」
「島。どこか、南の。しばらく住みたい」
「明かるい明日のための貯金って、そのことだったの」
「うん」
「いま、いくら、たまってるの?」
「一〇万くらい」
「たいへんだ」
「うん」
「なぜ、島なの」
「広いから」
「島が」
「そう」
「私の島は、広くなかったでしょ。あんなにちっぽけ」
「まわりが海だから、広いんだ」
 ミーヨは、微笑した。
「まわりの海もふくめて、島は広いと言うのね」
「そうだ」
「なぜ広いといいの」
「なぜって。たまには広さを補給しないと。それに、島はぼくを日常から切り離してくれる」
「ふんふん」
「切り離さないと、正確につかめない」
「そうね」
「そうなんだ」
 もう四日も、雨がつづいている。
 今日は、久しぶりに休みが取れた日曜日だ。雨でなければ、日曜に出勤しなければならない男の肩代わりをしてかせいでいるはずだが、雨だから、それはやめにした。
 日曜日の昼さがり。外は雨だ。
 第二ゆたか荘の、ぼくの部屋へや
 ミーヨは、ぼくのベッドに体を横たえ、片ひじをつき、ほおを支えている。
 ぼくは、ベッドにむかいあった壁に背をもたせかけて畳にすわり、両脚りょうあしを投げ出している。
 壁じゅう、いたるところに、ミーヨの服が、さがっている。女性の部屋のようだ。ミーヨは、ぼくの部屋に、すっかり居ついてしまった。
 一週間ほどまえ、西宮にしのみやから荷物が届いた。西宮で住んでいた、すみれアパートに置きっぱなしにしておいた荷物だ。
 あわせて、ミーヨの友人がひとり、上京してきた。ミーヨとおなじ年に会社に入ったという、とても普通な感じのする女のこだった。アパートまでやってきて、うさんくさそうにぼくの顔を見てばかりいた。
 部屋代と食費を、ミーヨと半々に負担することにした。彼女は土曜と日曜が休みなので、その二日間は、手料理があてにできる。しかし、なぜだか、チャーハンばかりつくる。今朝も、そうだった。チャーハンとしては、けっこういける。
 ミーヨの給料は、ぼくが目いっぱい働いて取る額より、ちょっとすくない。
 関西に本社のある大きな繊維会社が、ブルージーンズの部門を新設し、さらに、サブ・ディヴィジョンのようなかたちで、ジーンズを主体にした子供服のブランドをつくり、製作と販売に乗り出している。その部門の本拠は、東京だ。上司にねばり強くかけあい、東京転勤を実現させたのだという。
「簡単に聞えるかもしれないけど、たいへんだった」
 と、ミーヨは、いつだったか、言っていた。
「ジーンズを中心にした子供服のね、マーケット・リサーチとか消費者ニーズの開発とか、嗜好しこう調査とか、そんなことをやるし、デザインにも、からむのよ。みなさまのお買いもの文化の一端をになってるわけ」
 ミーヨは、保母になるための学校を出たのだそうだ。
「ナナハンの免許って、どのくらいむずかしいの?」
「むずかしくないさ。大事なのは、基本だよ。適性もからむし、経験も大切だ」
「なんだ、ぜんぶじゃない」
「中型の試験で、一本橋があっただろう」
「あった」
「あれに、ナナハンだと、時間制限がついたりする」
「倒れたのを起こすのもあるんでしょ」
「ある。コツだよ、あれは。車体に対する、れと」
「教えて」
「教える。知ってることは、みんな教える」
 ミーヨはいま、小川敬一から借りたままのヤマハRD250に乗っている。ぼくのカワサキとならんで、下の駐車場に置いてある。
 キャンプへいったほかに、日帰りのツーリングに三度、出た。もっといきたいのだが、ぼくは働くから、休みが取れない。
「350くらいのを、買おうかな」
「なぜ?」
「大きいのになれるため」
「必要ない。250を乗りこなすのが、ほんと言って、オートバイ乗りのひとつの目標なんだ。250がこなせたら、ナナハンの試験なんて、すぐ受かる」
「むずかしいって言うじゃない」
「受ける人たちの程度が低いんだ。押し歩きの8の字で外側に倒れたりするんだもの」
「250と750では、重さは確実にちがうでしょ」
「取りまわしを練習したらいいんだ。ぼくのカワサキで」
「走るのは?」
「貸しコース」
「教習所?」
「うん。日曜日に」
「仕事は?」
「泊まりのシフトにしてもらえばいい」
「シフトはわりと自由なのね」
「だから、ボーナスがないんだよ。よその会社は、シフト制が厳しくて、たくさんかせごうと思っても自由にならない」
 ぼくは手をのばし、壁に寄せたテーブルのうえのFMのスイッチを入れた。ダイアルが合っているから、スイッチをオンにすると同時に、音が飛び出す。
「では、お聴きいただきましょう」
 と、中年の男のDJが、言っていた。
「アランフェス協奏曲」
 イエペスではないけれど、腕の立つクラシックのギタリストが、弾きはじめた。
「ギターとオーケストラだ」
 と、ぼくは言った。
 しばらく、ぼくたちは、黙って聴いていた。
 やがて、ミーヨが、言った。
「コオ。学校は、どうするの」
「落第」
「なぜ」
 ミーヨは、なぜ、ときくのが、口ぐせだ。
「学校って、どうにでもごまかせるから。退屈だよ」
「音楽も?」
 ぼくは、うなずいた。
「ごまかしのきかない音楽だってあるでしょう」
「だろうな」
「まだ見つけてないのね」
「見つけてない」
「それまでは、ずっと落第するの?」
「再来年くらいには、卒業しよう」
「小川さんは、作曲に一生懸命みたい」
「オートバイが主役なんだってさ」
「その曲の?」
「うん」
「聴いてみたい」
「マスター・テープまで作るって言ってたから、春さきにはけるな」
 ぼくたちは、『アランフェス協奏曲』を最後まで聴いた。
 ミーヨは、ベッドに腹ばいになった。
 窓のほうを見ながら、
「まだ雨かしら」
「いい雨だ」
 秋になるのは早かったのだが、十月の終りちかいいまでも、あたたかい。部屋へやにいるとき、ぼくは、夏からずっと、半袖はんそでのTシャツだ。
「ねえ、コオ」
「ん」
「散歩にいこう。かささして」
「よし」
 ぼくは、FMのスイッチを切った。
 それと入れかえのように、まるで連動しているかのように電話が鳴った。
 窓ぎわまでっていき、ぼくが出た。
「橋本?」
 と、太い声が言っている。すぐにわかる。会社の先輩のひとりだ。
「村田が事故だ。交差点で信号無視の四輪と衝突。たったいま、電話があった。相当、いかれてるみたいだ」
 先輩は、その交差点のある場所を告げた。
「おまえんとこのちかくだろう」
「歩いても五分とかかりません」
「いってやってくれ。ものは、原稿だ。政治部のデスク。現場の警官に話がとおしてあるから」
「はい」
「すぐに。な」
「村田のオートバイは?」
「こっちからもう車が出てる」
 受話器を置くと、ぼくは、ベッドの下に押しこんである、段ボールの整理箱をひっぱり出した。雨の日にオートバイに乗るための服が、しまってある。
「仕事?」
 と、ミーヨが、きく。
「仕事」
 手早く着替え、部屋へやを飛び出した。
 カワサキで雨のなかに出ていくぼくを、ミーヨは階段の下でかさをさして見送った。

 廊下に重い足音が聞えた。走っている。
 原稿輸送員の部屋に、その足音は、むかってくる。
 半開きのドアをりとばし、瀬沼せぬまという男が戸口に立った。荒い呼吸をしている。
「よろしく頼む!」
 ひとこと、そう言うと、瀬沼は、タンク・バッグとヘルメットを、部屋のまんなかにむかってほうりあげた。
 バッグは、大きなテーブルのうえに落ち、赤いヘルメットは、ぼくがかろうじて受けとめた。
 瀬沼は、廊下の奥にむかって走り去った。ライディング・ブーツの足音が消えるのと入れちがいに、また足音がした。小走りにくる。
 ドア口に、白バイの警官がひとり、仁王立ちになった。皮の手袋を右手に持ち、左のをそれでたたく。
 制服の下の分厚い胸が、荒れた呼吸をコントロールしている。またを開いて突っ立ち、一重まぶたの細い目で、部屋のなかにいるぼくたちを、見わたす。ひとりひとりの顔を、容赦なく吟味する。態度は自信に満ちている。浅黒い顔に、義憤の表情がある。
「どこへいったっ!」
 時代劇俳優のような声で、白バイの警官は、怒鳴どなった。
「出てこいっ!」
 ぼくたちは、あっけにとられた。
 さっきの瀬沼はこの白バイ警官に追われていたのだなと納得できるまでに、しかし、あまり時間は必要としなかった。
 警官は、一歩、前へ出た。
 右腕をまっすぐにのばしてぼくを指し、
「その赤いヘルメット。それをかぶっていた男は、どこへいった」
 ぼくを、はったと、にらみつけてよこす。
 すこし間を置き、
「どこにもいきませんよ」
 と、ぼくは、こたえた。
「このヘルメットは、ぼくのだから。朝からずっと、ぼくはここですよ」
「それは、ちがう!」
 警官は、おかしな言いかたをする。
「ちがわねえよお」
 部屋へやすみで漫画を読んでいた小野里という男が、どすのきいた低い声を出した。いま部屋にいる男たちのなかでは、いちばんの年かさだ。
 ゆっくり立ちあがって漫画をテーブルに伏せ、小野里は、警官の前へ歩いた。
「いきなり人んちへ入ってきて、なんなんだよう」
 警官も負けてはいない。右腕をのばし、小野里を無言で押しかえした。
「なんだよう。なぜ、人を押すんだよう」
「あの男は、どこへいった」
「どの男だよう」
「ヤマハのTXに乗っている男だ。ヤマハの、黒いTX」
「なんかのまちがいじゃないの。650に乗ってるのは、うちじゃ、この男だけだよ」
 と、小野里は、ぼくを示した。
「もっとも、この男の650はカワサキだけど。原稿の輸送でそんな大きいのに乗る男はあまりいないからねえ」
「たしかにここだ」
「身分証明書でも見たわけ?」
「ここへ逃げこむのを見た」
「この部屋へ?」
「この建物に、だ」
「よその社の男だよ。便所にでもかくれてるよ。ついでに、用でも足してるかな。白バイに追われたら、よその社へ逃げこむのが定石だから」
 ぼくは、瀬沼のヘルメットを、ロッカーのうえに置いた。
 ドアの前までいき、小野里と警官のわきをすり抜け、外へ出た。
「ヤマハのTXって言うけど、見ただけでどれがヤマハで、なにがTXか、わかるのかよ」
 と、小野里が、警官をからかっている。
 警官は、むっとしながら、ひきとめたそうな表情で、ぼくを振りかえる。かまわずに、ぼくは廊下を歩いていった。角を曲がり、全速力で走った。地下の車溜くるまだまりに降りていった。
 オートバイがずらりとならんでいるこちら側に、エンジンをかけた白バイが、ななめにとめてあった。
 ぼくは、ヤマハのTX650をさがした。どこにも見あたらない。
 近くにいた用務員に、たったいまオートバイで出ていった男がいるかどうか、きいてみた。
「たったいま。そう」
 と、用務員は、こたえた。
「白バイの野郎がどうのこうのって、いきまいてたよ」
 さすがだ。瀬沼は、早技はやわざをやったのだ。別館の車庫にでも、TXをかくしにいったのだろう。
 ゆっくり、ぼくは、部屋へやへ帰った。途中の廊下で、白バイの警官とすれちがった。
「ごくろうさま」
 ぼくは、敬礼した。
 部屋に帰るとすぐに、瀬沼から電話があった。近くの喫茶店にかくれているという。
「しばらくTXには乗れないな。うまく追っ払ってくれたか」
 経過を報告すると、瀬沼は、うれしがっていた。

 今日は朝の九時から仕事をはじめた。
 官庁をまわるコースは四つあり、そのうちの一番長いコースを受け持った。かすみせきの各官庁と、国会とを、オートバイでまわる。
 午前十一時のコースにも、出た。忙しいのだ。原稿輸送員は、いつも、十五名から二十名ほどいる。数は、一定していない。入社してきたかと思うと数日のうちに事故で入院してしまったり、家出少年が入社してきて、明くる日にはもう辞めてしまったり、出入りは意外に多い。
 いま、員数は、十五人を割っている。体が不調で休んでいる者もいるから、十人ちょっとだ。
 十一時のコースでは、新聞社と宮内庁くないちょうをまわった。
 宮内庁では、門を入るといちめんまっ平らなコンクリート敷きになっていて、宮内庁記者クラブの建物の手前、警備の警官が詰めている建物まで、S字カーブを半分にしたようなラインが引いてある。
 時速五〇キロほどで走っていくと、排気音を聞きつけて、警備所から警官が飛び出してくる。警棒を持ち、門の前で身構えて待つ。ことさらに排気音を高くして、飛ばしていく連中もいる。そんなときには、何人もの警官が、あわてて飛び出してくるという。
 最後に気象庁へいき、午後三時のニュース用の天気図を受取った。
 予定よりすこし早く終って社へむかいつつあったとき、白バイといっしょになった。ぼくは、飛ばしてはいなかったのだが、ほかのオートバイよりも目につくのだろうか、その白バイは、意識してぼくのあとをつけてきた。交通違反とりしまりの白バイだ。
 大きな交差点で信号待ちになった。白バイは、ぼくから二〇メートルほどうしろ、歩道寄りに、とまった。長い赤信号だ。待つうちに、後方から、べつのオートバイの排気音が、聞えた。カワサキのナナハンだ。近づいてくると、音で判断できる。
 信号待ちしている車のあいだをすり抜け、白バイが見えているはずなのに、すさまじい空吹かしをくりかえしつつ、ぼくのとなりまで出てきて、とまった。カワサキのZ750。新聞社の原稿輸送員だ。フロントに、三角形の社旗を立てている。
 ぼくは、ミラーのなかに、白バイをとらえていた。白バイは、ゆっくり、前へ進んできた。数メートルにまで近づき、
「おい、そこのオートバイ。飛ばすなよ」
 と、スピーカーで、怒鳴どなった。
 ぼくは、となりにいるカワサキの男を見た。男も、ぼくを見る。ぼくはシールドのなかで、男はフル・フェースのヘルメットの奥で、おたがいに顔を合わせ、にやっと笑った。
「この野郎!」
 うしろの白バイのスピーカーから、声がはじけ飛ぶ。
「なにを笑ってんだ」
 信号が青になった。
 ぼくとZ750の男が、同時に、飛び出した。加速し、制限スピードを七、八キロこえ、そのままの速度をホールドする。うしろにいた車が、どんどんぼくたちを抜いていく。白バイは、このくらいの速度超過ではスピード違反でぼくたちをつかまえることはできない。
 白バイが、猛然もうぜんたる排気音と共に、ぼくたちに追いすがった。ぼくの左側に出てきて、正面を向いたまま、暴走の坊やみたいに、これを聞けと言わぬばかりの空吹かしをやる。そして、追い抜いていった。ぼくたちは、その白バイにくっついて、スピードをあげた。
 青にかわったばかりの交差点を、白バイは、ふっ飛んでいく。ぼくたち二台のオートバイが、追いすがる。たいへんな爆音だ。加速では、白バイに負けない。白バイを追って、ぼくたちはスロットルを全開した。追ってくるぼくたちに、白バイは気づいているはずだ。だが、意地があるから、急にスピードを落とすわけにはいかない。白バイが突っ走っているあいだ、ぼくたちも、大幅のスピード違反が楽しめる。
 行手の交差点の信号が、赤に変わっている。白バイは、スピードを落とした。
 左折できる道路があった。しかし、白バイは、その道路をとおりすぎてしまっている。ぼくがさきに、そして、カワサキZ750の男がそれにつづいて、左折した。制限スピードに落として、しばらく走った。白バイは、追ってこない。
 やがて、Z750の男は、ホーンをみじかく鳴らしてあいさつし、巨大なビルのあいだのわき道に消えた。

 泊まり明けの日の朝、十時まえ。
 幹線道路からすこし入った、住宅街のなか。ぼくは、アパートに帰るために、近道をしていた。
 よく晴れた、明かるい日だ。ぼくは、トップ・ギアのまま、時速四〇キロ以下のスピードで、おとなしく走っていた。
 邸宅のならんでいる静かな四つ角にきた。路面に「止まれ」と、黄色く書きつけてある。指示どおり、ぼくは、止まった。
 右側から、ミニ・パトカーがきた。丸顔の婦人警官がふたり、乗っていた。若い女性だ。右のウインカーを出している。
 ぼくを見て停止し、助手席の婦人警官が、さきへいきなさい、と片手で合図した。うなずいて、ぼくは、四つ角を渡った。ミニ・パトカーが、まわりこんでくる。駐車違反の車をさがしているのだろう。
 ぼくは、スピードを落とした。ミニ・パトカーとの車間がつまる。カワサキにとっては超低速に近いスピードで、ぼくはさらにミニ・パトカーをひきつけた。
 うしろで、ミニ・パトカーは、ホーンを鳴らした。ミニ・パトカーって、かならず、こうなんだ。前について車間をつめ、わざとぐずぐずしていると、たちまちホーンを鳴らしてよこす。
 ぼくは、カワサキを蛇行だこうさせた。幅のある道路が、まっすぐに、つづいている。人の姿も車も、まるで見当たらない。
 また、ホーンが鳴った。知らん顔で、ぼくは、超低速の蛇行をつづけた。
 きられるといけないから、次の四つ角で、ぼくは、左折した。スピードをあげ、左折をさらに三度くりかえし、さっき走っていた道へ出た。ミニ・パトカーが、前方を走っている。
 スナッチを開けた。ただならぬ排気音が、静かな住宅街にとどろく。
 あっと言うまに、ミニ・パトカーに追いついた。うしろにくっついて、空吹かしを、二度、やった。しつこすぎると、ミニ・パトカーは、とまってしまう。
 スロー・ダウンしてミニ・パトカーとの間をすこし離し、加速してすっと、パトカーの右に出た。運転席のドアの右につき、パトカーとおなじスピードで走った。
 運転している婦人警官が、しきりにぼくのほうに顔をむける。しばらく知らん顔でいて、ひょっとぼくは彼女に顔をむけた。シールドをあげているぼくと、彼女の目が、あった。
「おはようございます。住宅地だから、ホーンはやかましいよ」
 ひょうきんに、ぼくは、言った。
 言うと同時に、ぼくは、パトカーの前に出た。教習所で教えてくれるスラロームのように蛇行しつつ、パトカーをうしろにひきつけた。パトカーは、またホーンを鳴らしてよこした。
 蛇行をやめ、しばらく、そのまま走った。充分にいらいらさせておいてから、ぼくは、アクセルを開き、回転をあげた。連続する爆発のような排気音を、パトカーは浴びたはずだ。
 エンジンの回転が猛烈もうれつにあがっていく。左足で、ぼくは、力をこめてセンター・スタンドをさげた。スタンドが路面に接触し、アスファルトをけずる。衝撃が、伝わってくる。
 火花が、さかんに散っているにちがいない。W3が回転をあげていくときの排気音と、この火花とを同時に体験させられると、たいていの人は、おどろく。
 スタンドをあげ、加速し、ミニ・パトカーから逃げた。

16


 時間は、あいかわらず、ふっ飛んでいく。もう、十一月だ。時間の飛び去るスピードは、よりいっそう、速くなっていくようだ。季節の変化とも、深くつながっているにちがいない。秋は、急速に影をくしていく。そのスピードが、去っていく時間のスピードを、いちだんと加速させる。
 ぼくの体の両わきをどこかへ飛び去っていく時間の速さ。その速さを、夏のころよりもさらに速いものとしてぼくに感じさせているもうひとつの要素は、ぼくの生活の変化だ。ミーヨが、いま、ぼくの生活のなかに、加わっている。アパートの部屋へやで、いっしょに暮している。これが生活と言えるかどうか、ぼくにもよくわからないけれど、ぼくの日々がミーヨとの共有のものになっていることは、たしかだ。
 日々の密度が、濃くなったような気がする。いろんなものが、以前より、もっとくっきり、心に映じるようになった。感覚の幅が、ミーヨの登場によって、広がったのだろうか。カワサキに乗っていても、これまでには感じなかったようなことを、はっきりと意識するようになった。
 以前は、カワサキとぼくとが完璧かんぺきに一体となっていれば、ぼくにとってはそれで充分だった。だから、それ以外のことは、心に映じなくても感覚でとらえられなくても、なんの不足もなかった。
 だが、いまでは、ミーヨがいっしょだ。ぼくとミーヨは一体だから、ぼくは以前のひとりぼっちのときにくらべると、二人分の大きさになっている。ぼくがぼく自身をとおしていろんなことを感じたり思ったりするのと同時に、さらにミーヨをとおして、感じ、思う。ぼくと外の世界とのれあう感覚の面積が、二倍になったのだ。実際には、二倍以上だ。そして、ミーヨとつながれて一体になった日々が加算されていくにつれて、感覚の面積は、どんどん大きくなっていく。楽しいことだ。と同時に、時間の飛び去るスピードが、ますます早くなっていく。
 こんな感じを、友人の小川敬一にしゃべったら、小川は、こう言っていた。
「ひとりの女に、おまえもついにれた。ただそれだけのこと」
 仕事は忙しい。原稿輸送員は十二名にまで減ってしまい、フル回転だ。新入りが次々に入ってくるのだが、だれもみな、二日か三日で、顔を出さなくなってしまう。
 ぼくとしては、忙しいほうが助かる。来年の夏には、南の島をめざしてミーヨといっしょに、ツーリングに出たい。そのため、ゼロに近いところから貯金をはじめなくてはいけない。
 だが、自分で選びとる忙しさと、いやおうなしにふりかかってくる多忙さとでは、感じがすこしちがってくる。
 日曜の午前中は、できるだけ休むようにしている。自動車教習所の貸しコースへ出かけていき、ぼくのカワサキでミーヨを大排気量車の免許試験にそなえさせるためだ。いまの段階では、車体との一体感と急制動を、ぼくにできるかぎり徹底的に教えこんでいる。
 ミーヨとはすれちがいの日が多いけれど、週のうち半分は、夜だけなのだが、ミーヨといっしょに遊んでいられる。うたえるスナックの『道草』へ、よくいく。そして、ぼくたち以上にひんぱんに、小川がその店へ来ているのだそうだ。
「ナミちゃんとね。とっても仲がいいみたい」
 いつもカウンターのなかにいるおばさんが、教えてくれた。
 十一月のなかばに、ぼくたちは、引っこしをした。
 部屋へやが八つある、大きな家だ。私鉄で東京を西へ出て、神奈川県に入ったすぐの、駅に近い住宅街の中だ。造成されてまだ数年の、閑静な住宅街だ。高いブロックべいでとりかこまれた、人をよせつけない感じのする家だ。邸宅、と呼んでもさしつかえないような構えだ。
 ミーヨの母方の親類にあたる人が、奥さんとふたりだけで住んでいた家なのだそうだ。夫婦そろって三年間の予定でポーランドへ出張することになり、よかったら留守番がわりに若い人に住んでいてもらいたいと、その人からミーヨの母親に話が持ちこまれた。
 家賃は無料だという。光熱費を負担し、改造したり模様がえしたりせずにそのまま住んでもらえればそれでいい、ということだった。
 ぼくたちは、引っこした。ふたりには明らかに広すぎるし、家のつくりそのものに、たいへんな違和感がある。だが、家賃がないのは助かるし、なによりもいいことには、その家から歩いて三十分ほどのところに、広い自動車教習所がある。
 日曜祭日ごとに、全コースを、貸しコースとして有料で開放している。ミーヨにカワサキを押させて歩いていけば、取りまわしの練習になる。
 八つもの部屋は必要ではない。使用しない部屋をきめ、それ以外の部屋でぼくたちは生活することにした。家具は、倉庫会社に管理してもらっているという。
 がらんとしてなにもない家のなかは、さっぱりして気持よかった。会社の先輩の、ロードレースをやっている男から、ロードレース用のマシーンの運搬に使うバンを借りてきて、一回ですべての荷物を運んでしまった。
 夫婦そろってオーディオが趣味だとかで、防音の部屋がひとつあった。アンプやスピーカーは、倉庫会社の倉庫に、レコードと共に眠っている。厚いカーペットを敷きつめた部屋に、ぼくは、第二ゆたか荘から持ってきたささやかなオーディオ装置を、置いてみた。
「ぜいたくだ」
「なにが?」
 と、ミーヨは笑っている。
「このくらいのカーペットだったら、ぼくならベッドに使えるのに」
 カーペットに寝そべって、クラシックのLPをぼくたちはいた。防音の部屋で音量をあげてレコードを鳴らすとどんなふうなのか、やってみたのだ。たいして面白くなかった。
 ミーヨがコーヒーをわかしにキチンへいき、ぼくは防音室のカーペットに寝そべったままでいると、電話が鳴った。
 キチンで電話をとったミーヨが、
「あなたあ!」
 と、大きな声で、ぼくを呼んだ。テレビのホームドラマに登場する、新婚の奥さんのような声と抑揚よくようだった。
 キチンへいき、そこでぼくは電話に出た。
「よう、よう、よう」
 電話のむこうで、珍しく小川がいきまいている。
「あなたあ、ってのは、どこのだれのことだ」
「うるせえよ、ただの冗談だ。いま、どこにいるんだ」
「道草。引っ越したって聞いたから、電話してみたんだ」
 小川やナミにもこの邸宅の電話番号を知らせておきたかったのだが、つかまらなかった。だから、『道草』のおばさんに、ことづけておいた。
「こっちへ来ないか。いままでのアパートとは、だいぶちがうから」
「ちょっと待て。かわるから」
 しばらくして、
「もしもしっ!」
 と、ナミのはずんだ声が聞えた。
「コオ?」
「そう」
「びっくりしたのよ!」
 と、ナミが、大声で言う。
「ほんとに、おどろいたの。こんなにびっくりしたことって、私、生まれてはじめてだから!」
 ひとりで、勢いこんでしゃべっている。
「ぜんぜん違うんですもの。もとは、おなじ歌なのに、感じからなにから、まるっきり違っちゃってるのよ」
「なんの話だ」
「歌のお話」
「歌?」
「ほら、ずっと前、夏のはじめに、コオ、あなたがはじめて『道草』に来たとき、私のうたった歌をヘッド・アレンジしてくれたでしょう。あの歌なの」
「題名のないやつ」
 熱いコーヒーを、ミーヨは、テーブルに置いてくれた。香りをたたえた湯気が、ぼくの顔のほうへ漂ってくる。
「そうなの。いまでもまだ、題名はないまんま」
「つけてやるよ、そのうち」
「お願い」
「その歌が、どうした」
「それでねっ。コオにアレンジしてもらったのは、あとで譜面に書きなおしてもらったでしょ。とっても素敵すてきだと思って、気に入ってたわけ」
「うん」
「小川敬一にも、アレンジしてもらおうと思ってたのよ。でも、なかなか、やってくれなかったの。今日、ついにやってきてくれて、譜面を見たわけ。ギター弾いて、うたってみたんだけど、まるっきり違うの」
おれのと違うのか」
「そう!」
「人がかわれば、曲も違ってくるさ」
「こんなにも違うものなの?」
「どっちが気に入ったんだ」
「あのね。コオのも、素敵なのよ。すっきりまとまってて、歌の持ってる感じをひっぱり出してくれるでしょ。だけど、小川敬一のは、なんて言うんだろう、ひっぱりこまれちゃうのね。もとは自分でつくった歌なのに、ぐんと深みが出てて、その深みは、私にはなかったものなの。小川敬一って、深刻な破滅型だわ」
 妙なひと言を加えて、ナミは、言葉を切った。
「小川のアレンジのほうが、気に入ったわけだ」
「まあ、そうなのね」
「なぜ『道草』にいるんだ。昼間でもあいているのか」
「だって、昼間は、喫茶店ですもの」
 いまは土曜日の午後一時すぎだ。ぼくは、明日の午後まで、時間があいている。久しぶりにとれた休みだ。
「こっちへ出てこいよ」
「いこうか」
 電話は小川にかわった。
「いま、中原麻里のセリカを借りてるんだ。彼女はコスモに買いかえて、大人の女になるんだって言ってた」
「だったら、ひと走りだ。来いよ」
 これからすぐに向かうと言い、小川は電話を切った。
 一時間もしないうちに、小川とナミが、あらわれた。
 ナミは夏の陽焼ひやけが抜け、色白になっていた。
「ナミ。おまえ、ふとった?」
 ぼくの質問にはこたえず、ナミはただ笑っていた。
 キチンに集まってコーヒーを飲んでしまうと、やることがなくなった。家具や調度がなく、がらんとしているとはいえ、つい何日か前までは、人が住んでいた家だ。その人の生活の型やにおいが、いろんなところに感じられる。ぼくたちは、明らかに、それにそぐわない。
 外へいこうかと小川が言い出した。どこがいいか候補をあげていくうちに、ぼくは、いいことを思いついた。
おれの故郷へいこう」
 いちばんよろこんだのは、ミーヨだった。
「どこなの。ここから近いの?」
「車で二時間もあれば、いけてしまう。山の中だ」
丹沢たんざわか」
 こういうことに関する小川の推量は、いつも正しい。オートバイ・ツーリングに関しては、ぼくよりもはるかに徹底したクレイジーだから、地理はよく知っている。
「コオ。あなたに故郷があるの?」
 ナミが、きいた。
「あるさ」
「ぜんぜんそんなこと感じさせない人よ、あなたは。星から来たみたいな人」
「いってみたい」
 ミーヨは、うれしそうに言っていた。
「まだは高い。ひと走りしよう」
 と、ぼくは小川に言った。
「これか」
 小川は、オートバイのハンドルを握るしぐさをしてみせた。ぼくは、うなずいた。
「私に乗せて」
 ミーヨが、声を張りあげた。
「あのヤマハは、もう、あなたには返さないつもりなんだから。彼だって、私の島へオートバイで来たのよ。今度は、私が、オートバイでいく番だわ」
 小川は、にやにや笑っている。
「どうしよう。このところ二輪に乗ってないので、急にしりがうずいてきたんだが」
「ジャンケンで決めろ」
 ぼくが、言った。
「よし一発勝負。負けたほうが、ナミといっしょにセリカでいく。橋本、お前も入れ」
 小川の言葉にしたがって、三人でジャンケンをした。まず、ぼくが勝った。小川とミーヨが勝負をし、ミーヨが負けた。
「ちえっ」
「まあいいさ」
「いまから出かけていって、早い夕食を山のなかで食おうか」
 小川が、彼らしい提案をした。
「それがいい、おい、ミーヨ。チャーハンをつくれ、山のなかで」
「いいよ」
 ミーヨとふたりでキャンプにいったときの道具を、まだあずかったままだ。小川から借りたものだ。ふたつのストーブに、炭や予備のブタン・ガスのカートリッジや食器、調味料、そして米やソーセージなどを、ぼくと小川が用意した。設備の整ったキチンの隅っこに置いたミーヨの小さな冷蔵庫から、材料を物色した。
「足りないものは、東名へ入るまでに、スーパーを見つけて買おう」
「東名は、どこで降りるんだ」
大井松田おおいまつだ
 ぼくの予備のヘルメットとゴグル、それに手袋とオートバイ・ジャンパーを、小川に貸した。ヤマハのRD250は、ミーヨがいつも最高の状態に整備している。いこうと言いはじめてから三十分後には、ぼくたち四人は家を出ていた。
 町田まちだ街道に出て南へくだった。ミーヨの運転する白いセリカが、さきを走った。うしろから見ていて、とてもおとなしい模範的な安全運転であることに、ぼくは気づいた。横浜インタチェンジから、東名高速にあがった。
 見渡したかぎりでは、東名は、すいていた。しばらくセリカのあとについて走り、やがて、右の追いこし車線へ、ぼくは小川とならんで出ていき、セリカと併走した。
 大井松田で降りてからどういくか、目印を正確に描きこんだ地図をミーヨに持たせている。ぼくと小川は、スロットルを開け、法廷スピードのセリカを置き去りにし、飛びはじめた。
 普段は滅多めったに使わない回転域にまで、エンジンをまわす。ちらと、回転計を見る。七五〇〇からのレッド・ゾーンに針が届くまでには、まだずいぶん余裕がある。しかし、風圧と風切り音、エンジンの音、そして車体から全身に伝わる振動は、すさまじい。
 単眼のゴグルによって限定された視界のなかに、東名高速の灰色の路面が前方にのびている。追いこし車線をふっ飛んでいくぼくの目の右端には、中央分離帯のガードレールと間隔を保った植えこみが流れる。視界の右端の下方には、白いラインが、つづいている。視界の左側には、破線のセンター・ライン。そして、走行車線。ぼくが次々に追い抜いていく重い大きなトラックは、たぐり寄せては置き去りにしていく鉄のかたまりだ。タイアの音とディーゼル・エンジンのうなりが前方にせまり、追い抜くと同時に、すっと後方に消えていく。
 道路の両側の、草や灌木かんぼくのある斜面やコンクリートの断崖だんがい、小さな林をかかえた丘などが、いっさいぼうっとかすんで、猛烈もうれつなスピードでうしろへ流れ去る。行手の空には丹沢の山なみがシルエットになって動かず、そのシルエットを背景に、道路の左右の丘を結ぶ陸橋が、ぼくの頭上をうしろへかすめて飛んでいく。
 風圧と振動に体がなれてくるころには、道路の状況と車の流れが、ずっと前方まで、的確につかめるようになる。風圧とエンジン音、そして振動に、ぼくの体が完全に巻きこまれていく。前輪から両腕に伝わってくる路面のフィードバックが体のなかにこもって充満し、路面をるトルクとなって後輪から爽快そうかいに消えていく。
 次々にカーブがあらわれる。そのカーブを抜けるための正しいラインの選択を右に左にくりかえしていくと、ほどなく、自分の腰から下は車体と溶け合って一体化したように感じられはじめ、両腕でハンドルにつかまった上半身だけが、路面から一メートルくらいのところを飛んでいるような錯覚に完全に落ちこむ。魔法の瞬間だ。
 道路は、三車線となった。追いこし車線の前方を、ライトバンが走っていく。すぐうしろまで追いすがり、ヘッド・ランプを何度か点滅させる。気づいたライトバンが左へ寄る。それを見届けてスロットルをもどすと同時にチェンジ・ペダルを踏みつけ、一段落とし、間髪を入れずにスロットルをあけた。クラッチを使わないでシフト・ダウンするのだ。追いこしをかけ、三速の加速でライトバンを充分に抜ききり、四速にあげた。
 前方に、トラックが二台いる。いちばん左の車線と中央の車線に、一台ずつだ。追いこし車線は、ずっと前方のカーブまで、車は一台も見えない。
 ぼくの体をひたしはじめた魔法の瞬間をさらに完璧かんぺきなものとするため、ぼくは、二台で並走しているトラックを抜いた。前方に車は一台も見えない。それを見てとると同時に、ぼくの体は、自動的になめらかに、左へかしいだ。カワサキは柔順に鋭敏えいびんに反応し、中央の車線に入りこんだ。
 中央の車線のまん中にきてから、体をたてなおした。車体が直立に近づいていくのと同調して、魔法がおこってくる。ふっ飛んでいくぼくの左右には、等しく一車線のゆとりがあり、視界の両わきのすぐ下を、白い破線が、飛び去っていく。ぼくの左右にある路面の広がりが、完全にバランスを保っている。三車線という平面と、そのうえにある空間の、ちょうど中央に、ぼくはいる。左右等しい路面の広がりは、カワサキと一体になったぼくの体から主翼をのばしたような安定感を、ぼくにあたえてくれる。
 主翼は、錯覚のなかで、ぼくを路面から離陸させてくれる。危険な錯覚なのだが、高速走行中の大排気量オートバイが持つ魔力のひとつであることは、たしかだ。
 前方に、車は一台も見えない。ストレートがつづいている。このことも、離陸しはじめたぼくに、路面を忘れさせ、かわって、路面のうえにある空間を、強く意識させてくれる。
 近づいてくる陸橋が、ある地点からいきなり、上空へはねあげらるようにして、うしろに消えていく。そのむこうが、ゆるやかな右回りのカーブだ。なにも考えずに、ほうっておいても、ぼくとカワサキは、中央車線のまんなかというラインからはずれることなく、そのカーブを抜けていく。ゴグルのふちによって切り取られた視界が、カーブに進入するにつれてやさしく左にかたむき、カーブを出ると、もとにもどる。
 カーブを抜けたときは、下り坂だ。道路の両側には、丘と丘のあいだの低い土地にむかって落ちこんでいる斜面がある。下り坂を降りていくとき、離陸の感覚は、ますます強まる。前方に、まだ車は見えない。下り坂を降りきったとき、ぼくはもう完全に飛んでいた。
 大井松田のインタチェンジで、東名を降りた。御殿場ごてんば線とからみあうようにして、国道246号線を走った。遠くの山なみが、東名を走っていたときよりはるかに自分たちのほうに近寄っていた。
 国道をはなれ、谷あいに何本もの高いコンクリート柱で支えあげられた東名高速をくぐった。川ぞいに、足柄上あしがらかみ郡の山なみにむかう。川は、往復二車線の道路の左側、急な深い斜面の底を流れていた。
 山のつらなりの中に入りこむにつれて、車の数はすくなくなる。道路の左側に山がせまり、林の中の民家のたたずまいが、田舎いなかの様相をおびてくる。高校一年の夏にこの丹沢の山裾やますその村を出て以来、一度も来ていない。久しぶりに走る道だ。
 やがて道路は一車線となった。左はガードレールをこえてすぐに川へむかって落ちこむがけ。そして右は山の斜面だ。山と川は、そのかたちが呼応している。道路は、その中間を、肩身せまそうに、何度もカーブをつみかさね、分け入っていく。
 谷にダムが見えてきた。新しくできたばかりのダムだ。せきとめられた川の水が、谷あいに人工の湖をつくっていた。
 昔からある道から、新道が枝分かれしていた。車も人の姿も、見あたらない。道路に面してときたま食料品店がぽつんとあり、林を背にして民家が点在している。
 新道は、人工の大きな湖水を見おろすように、山の中腹をぬっていた。湖の奥までのぼり坂がつづき、のぼりきったところにはコンクリート敷きの駐車場と展望台があった。
 東名を降りてからぼくを追い抜いた小川が、さきに来て待っていた。
「まだ、さきなのか」
「もうすぐだ。この道を降りていって、湖のむこう側にまわるんだ。湖に流れこんでいる川がまた見えてきて、その川ぞいに林道がある。川原へ降りて、食事にしよう」
「静かないいとこだ。はじめて来た」
 小ぶりな山が、いくつもかさなりあっている。が深い。紅葉した樹が、十一月のくすんだ緑のなかで、枯れ樹のように見える。小川の言うとおり、静かだ。山の香りがする。人工湖の、深くいブルーの水面が、じっと動かずに冬のはじまりのをうけ、山影を映している。
 セリカを待ってから、ぼくたちは、くだり坂を降りていった。途中で、旧道を走った。人工の湖の底に沈められずに、ほんのわずかに残った旧道だ。そこだけ、かつてのぼくの村の面影が、昔のままに残っていた。こけむした石垣いしがきが道の片側につらなり、木造の古い民家が、ひっそりと木にかこまれて建っている。廃屋なのだろう、人の気配がまるでない。
 石垣の反対側は、川へ落ちこむまでのせまい平坦へいたんな土地だ。畑が草の生えるままにほうってある。『たばこ』と、赤い看板を出した家の庭に白い軽自動車がとまっている。ここには、まだ人が住んでいる。
 湖をこえると、古いアスファルト舗装の旧道は終り、林道になった。川原へ降りていくスロープが、昔のまま、あった。ぼくたちは、川原へ降りた。
 広い川原だ。ススキの生えた地面が広がり、その内側が、丸い岩の転がった川原だ。浅くてせまい急な流れが、そのまん中を、曲がりくねりながら、抜けている。
 セリカが来て、ぼくと小川のそばにとまった。ナミとミーヨが、降りてきた。
「故郷は、ここなの?」
 ミーヨが、ぼくにきく。
「生まれた家がまだあるはずだ」
 ぼくは、笑いながら、こたえた。
「さっき、湖が見えただろう。ダムで出来た人工の湖」
「うん」
「あの湖の底に沈んでる」
「ほんとなの?」
 と、ミーヨは、おどろいている。
 相模湾さがみわんに面した都会に水を供給するため、この丹沢の山のなかにダムがつくられた。ダム建設の計画が発表になったのは、ぼくが高校に入る前だった。小田原おだわら市内に代替地をあたえられ、そこに保証金で家を建て、両親は移り住んだ。いまでも、そこに住んでいる。ダムは数年後に完成し、貯水がはじまり、故郷の村は湖の底に沈んだ。
 川原を歩きまわり、すこし奥に見えているり橋までいき、渡ってみた。この吊り橋がかつてどんな役を果たしていたのか、ぼくは知らない。吊り橋のいっぽうには小さな製材所があり、いまでもすこしずつ木を切り出しているようだ。向こう岸は、山裾やますそにそって、細長い平坦へいたんな土地だ。畑の跡がある。いまでは、荒れるにまかせたままだ。
 ミーヨと小川は、オートバイで林道を走りにいった。帰ってきてから、川原にストーブを持ち出し、食事をつくった。食べおえてコーヒーを飲み、ぼくと小川は、また、吊り橋までいった。
 木造の簡素な橋を吊っているワイア・ロープにもたれ、
「見てみな。おれたちの女が、あやとりをしてる」
 と、小川が、川原のむこうにあごをしゃくった。
 たき火のそばで、ナミとミーヨは、あやとりをしていた。ふたりが、そろってふとこちらに顔をむけ、笑った。
「ナミのつくった歌を、なおしてやったんだって?」
 ぼくは、小川にきいた。
「おまえのアレンジは、もとの歌の気持のとおりに、きちんと出来てるんだそうだ。俺のは、めちゃくちゃだと、ナミは言ってた」
「ナミは、めちゃくちゃのほうが好きなわけだ。おまえのことを破滅型だと言ってた」
「そんなに安易にタイプ分けしないでくれ」
「ナミは、かわった女だ」
「俺には、ああいうのが、普通に見えるけど」
「すくなくとも世間なみではないはずだ」
「世間なみとは?」
 小川が、微笑と共に、ききかえす。
「退屈なタイプさ」
「そういう意味でなら、退屈な女ではないな、たしかに。おまえのミーヨだって、そうだ」
「おまえのミーヨと、気楽に言うけれど、ミーヨは俺のことを自分の男だとは思ってはいないかもしれない」
「どう思ったっていいじゃないか」
「そうさ。だから、俺の女、というふうに言うな」
「なんと言えばいいんだ」
「呼び名なんか、必要ではない」
「おたがい、退屈ではないものをさがし求めて、けっこう綱渡りをやってる気でいるから」
「そうなんだろうな。彼女たちだって、きっとそうだ」
「そうでなかったら、愛し愛されての、ただのシーソー・ゲームだから」
 小川は、話題をかえた。ナミのところに、レコード会社からLPをつくる話が持ちこまれているという。シンガー・ソングライターとして自分のLPを一枚つくり、デビューしてみないかという話なのだ。
「ナミは、なんて言ってる?」
「いまのとこ、乗気だよ」
「アレンジャーとして、おまえがからむわけだ」
「それはナミの勝手さ」
「ふうん」
「自分でつくった歌は、たくさんあると言っている。LPをつくるとして、どの歌をどんなふうにうたうか、それをきめるのが、ナミにとっては、たいへんらしい」
 ミーヨが、ぼくたちのほうに顔をむけた。片手をあげ、笑いながら、ぼくたちを手招いている。
「お呼びだよ」
「ナミは色が白くなったと思わないか?」
 と、ぼくは、きいた。
「ここから見ると、ミーヨは黒くて、ナミは、真っ白だ」
 小川は、微笑していた。ぼくに顔をむけなおし、こう言った。
「はらんでるのさ、子供を」

17


 冬の青天の日は、空がうっすらと青い。ざしは、充分に明かるいけれども、弱い。風が、容赦なく冷たい。富士に近く、すこし標高があるので、空気が希薄きはくに感じられる。大きく胸に吸いこむと、その澄んだ冷たさで、体の内部が洗われていくようだ。
 レーシング・マシーンの乾いた金属的な排気音が、澄んだ空気のなかを、突き抜けてくる。ヨーロッパのレーサーたちに人気のある、日本の497CC、正方形四気筒のマシーンだ。最終コーナーをまわり、六速めがけて加速しつつ、直線コースに突っこんでくる。一速で時速一三〇キロも出てしまうロードレーサーだ。
 グランド・スタンド前の長いストレートへ、弾丸のように、飛んでくる。タンクのうえに上体を倒しているライダーの頭に、カウリングが、かぶさるようについている。カウリングの透明な部分から下は、赤と青、そして白に、あざやかに塗り分けられ、ギア・ボックスの下部まできれいに流れておおいつくしている。明るい陽のなかで、くっきりと、光り輝く。最高スピードは時速二七〇キロだという。おそらくそれに近いスピードなのだろう、マシーンは、赤、白、青に塗り分けた矢のように、ピットの端に立っているぼくの前を、疾走して去った。あのマシーンでしかもこのくらいのスピードになると、走る、という概念を超えてしまっている。遠い夢のなかで見た幻の光のように、第一コーナーに吸いこまれていった。
 マシーンは、スピードウエイをさらに二周した。そして、ピットに入ってきて、とまった。みんなが、マシーンのまわりに集まっていく。
 ライダーが、マシーンから降りた。ヘルメットを取った。沢田秀政だ。ぼくとの決闘のあと、ふた月の入院生活を送り、休職ついでに休みをさらに長くし、栄光ロードレース・クラブの仕事に、この数ヶ月、専念してきたという。
 ヘルメットをかむったミーヨが、ロードレーサーにまたがった。新しくあつらえたロードレース用の薄い皮つなぎに身をかため、手袋やブーツも、新しい本格的なものだ。
 ステップのペダルの位置をたしかめて足を乗せ、三〇リットル以上も入る大きなタンクのうえに腹ばいになるようにして、グリップを握った。
 数人の男たちが、ミーヨのまたがったマシーンを支えている。沢田が、いろんな注意をあたえている。六速だけれど、シフトのパターンは、市販車とは、まるっきりちがう。アクセルの開けかたやブレーキングなど、こまかな注意をあたえてから、
「では、走ってみるか?」
 と、沢田が言った。
 うなずくミーヨを、ぼくは、うしろから見ていた。
 両側から車体を支えている男たちが、マシーンを押した。エンジンはライダー自身が押しがけで始動させるのだが、ミーヨには無理なので、またがって位置をきめてから、人に押してもらっている。
 ほんの二、三メートル押しただけで、エンジンはすぐかかった。クラッチをつなぐと、なめらかに滑り出す。アクセルの開閉につれて、パララン、パラランと、信じられないほどに軽い排気音が、冷たい空気のなかに広がっていく。すぐに、ミーヨは、回転をあげはじめた。パアーンという突き抜けた音と共に、教えられたとおりのラインをとって、第一コーナーに入っていった。
 コースをひとまわりしてくるマシーンの排気音が、ぎくしゃくせずに、なめらかに遠くから聞えつづける。まったくの素人しろうとにしてはとてもいいタイムで、ミーヨは最終コーナーを抜け、直線に入ってきた。そのまま、グランド・スタンドの前を走り抜ける。
「なかなかいいよ。きれいに乗ってる」
 沢田が仲間の男にしゃべっているのが、ぼくの耳に届いた。
 今日は、栄光ロードレース・クラブの、サーキットでのミーティングだ。祭日の、なにもレースのないスピードウエイのコースを時間で借り切り、人気の高いあのロードレーサーの試乗をさせてもらっている。会社の、支部の連中も全員、来ている。よかったら来いと誘いをうけたぼくは、ミーヨをつれ、朝早くに、カワサキとヤマハで、このスピードウエイに来た。
 来るとすぐに、ピットで沢田に出っくわした。おそらく沢田に会えるだろうという期待もあり、ぼくはここへ来たのだ。
 ぼくを見て、沢田は、あごをあげ、
「おう」
 とだけ言った。
 ミーヨを紹介すると、彼女には、
「やあ」
 と言い、あのいかつい顔でにこにこしていた。
 沢田に許された三周をおえ、ミーヨは、ピットに入ってきた。男たちにマシーンを押さえてもらい、シートにまたがったままヘルメットを脱ぎ、素晴すばらしい笑顔を男たちに見せた。緊張で血の気のひいた顔に、ほおだけが、ぽっと赤い。
「三速でフロントが浮くの!」
「九〇〇〇くらい、まわってるんだ」
 沢田が教えた。
「加速からなにから、ものすごくなめらかなのね。五〇〇〇以下だとタコの針が動かないの。びっくり、びっくり」
 フレームやサスペンションの出来ぐあいについて、沢田は、シートにミーヨをまたがらせたまま、説明して聞かせた。
 このコースをあのロードレーサーで三周できるなら、一万円くらい払ってもいいというオートバイ・クレージーはたくさんいるはずだ。ぼくだって、そうだ。だが、沢田は、ミーヨには試乗を簡単に許したのに、ぼくには、乗ってみるか、とも言ってくれない。適当に沢田のまわりをうろついてみるのだが、声をかけてくれそうな気配はない。ぼくを無視している。
 しかたなく、ぼくは、ぼくのカワサキで、バンクをふくめたロング・コースを、走ってみた。何度やっても、この三〇度に路面のかたむいたバンクを走ることができない。今度こそはと思うのだが、そのたびに、いちばん低いところを走ってしまう。ヘア・ピンではパニックにおちいるし、ラップ・タイムはまともにタイムと呼べたものではない。
 何周目かに、あのロードレーサーでミーヨがまた走るのを、ぼくはバンクの下から見た。バンクのいちばん下をW3で重く走っているぼくを尻目しりめに、あざやかなオレンジ色のつなぎのミーヨが、しなやかにたくましいロードレーサーと美しく一体になり、バンクを飛び抜けていった。軽快なひとつの音につながった爆音を空気中にひっぱり、バンクの高いところまで軽々とあがっていき、荒れた路面のスロープを逆落としのように、いっきに走り降りていった。
 昼近くになってサイドカーをひっぱり出してきたロードレース・クラブの連中は、乗りたがるミーヨに、ショート・コースを使ってパッセンジャーのやりかたを教えはじめた。
 ぼくは、カワサキにまたがって、コースの外に出た。グランド・スタンド裏の出店でイカ焼きを買い、カワサキにまたがり、ひとりで食べた。
 あのロードレーサーにくらべると、カワサキのW3は、恋女房であるにはちがいないにしても、すくなくとも十年以上は苦楽を共にしてきた古ものに感じられてくる。

 小川敬一とナミが、ぼくたちといっしょに住むようになった。にぎやかになって、とても楽しい。東京へ出てきてから、ぼくは、ずっとアパートのひとり暮らしだったから。
 会社では、原稿輸送員が、いつまでたっても増えない。定期もののコースをこなすだけでフル回転なのに、このところ事件が多い。羽田はねだ空港でのハイジャックがおこったときには、二日間、ぶっとおしで、羽田と会社のあいだを何度も往復した。カワサキの650では敏しょうな動きがとれないので、小川に頼んでヤマハの250を持ってきてもらい、それに乗った。科学工場の爆発。高層ビルの火事。交番の爆破。事件が、たてつづけに、おこった。
 年末ぎりぎりに、ミーヨは、大型自動二輪の免許を取った。春さきまでのばしたかったのだが、年が明けると同時に会社の仕事が忙しくなるからいまのうちに取りたいと言う。ぼくはなにも手伝えなかったけれど、二回目に合格した。一度目は、コースなかばで一時停止の標識を見落とし、その場で不合格になった。
 十二月、一月、二月と、ぼくは、ほとんど休みがとれなかった。時間の経過は、次第にせり出してくるナミのお腹の大きさで、知ることができた。
 一月になるとミーヨはほんとうに忙しくなり、残業がつづくようになった。春までは、おなじような忙しさがつづくという。
 小川とナミは、LPのためのあらたな歌づくりや、これまでにナミがつくった歌の仕上げなおしに熱中していた。昼間には、ナミの仲間のミュージシャンたちが家に来ては、防音の部屋へやで、ひとつひとつの歌の、LPのためのイメージの固定をやっているようだった。
「うたうたんびに気分がかわるんだもの。固定なんか、できっこないのよ」
 ナミはそう言っていた。
 春さきから、ナミは、大きくなっていくお腹を突き出して、主として都内のライブ・ハウスをまわりはじめた。ライブの場数を踏み、名前を広めていくと同時に、ナミの歌やその都度のうたいかたに対する生な反応をたしかめていくためだ。
 LPの話を持ちこんだレコード会社のディレクターがいっしょに来るという日に、ぼくは久しぶりに休みがとれた。ミーヨと、もちろん小川もいっしょに、ナミが出演するライブ・ハウスへ、夜、でかけていった。
 都心から国電の乗りかえなしでいける、東京のはずれに近い駅。その駅前商店街のビルの地下にあるライブ・ハウスだった。
 立見席も満員になると二百人以上は入れる店だ。壁ぎわにすこし高くステージがあり、それをかこんで半円に、ゆるやかな傾斜をつけて、客席があった。
 このような店では、ナミの名前はすでによく知られているようだった。ナミの出番の前にステージをつとめた男ふたりのグループが、次のステージはサンシャイン・ガールのナミですと告げると、ちょっとした歓声と拍手がおこった。
「なんだよ、サンシャイン・ガールというのは」
 小川にきいたぼくに、まだ若いディレクターが、こたえた。
「去年の夏のはじめに、ナミにはじめて会ったんですよ。まっ黒に陽焼ひやけしてましてね、ものすごく、なんて言うか、彼女が全身で太陽を吸収した、そのエッセンスが体にいっぱいつまっているような感じで、とてもよかったんです。スリムの、はき古したジーンズに皮ゾウリはいて、白いTシャツにノーブラ。両手を振って、自分のありったけを人の前に投げ出したみたいにして、『道草』のある、あの道を歩いてくるんですよ。あのときの印象が、サンシャイン・ガールそのものでしたね。彼女のキャッチ・フレーズにしようと思ってます」
 関西ふうの抑揚よくようで、ディレクターは、熱をこめてしゃべった。好感の持てる男だった。
 ナミが、ステージに出てきた。スポット・ライトが彼女をとらえ、拍手がおこった。花模様のシーツのまんなかに穴をあけ、すっぽりかぶったような服を着ていた。大きなお腹が、ぽこんと丸く、面白く目立つ。
 マイクの前の椅子いすにすわり、持っていたギターを裏がえして両ひざに置き、笑顔で客席を見わたした。
「いっぱい来たのねえ」
 のっけに、ナミは、そう言った。親しみのある笑い声が、客席に広がった。ギターを左手で持ちあげ、右手で腹をさすった。
「あのね、私、お腹が、だいぶ、大きくなってきたの」
 わっと、笑い声があがる。
「それでえ、今夜は、私のお腹をふくらませた人を、紹介します」
 歓声と拍手だ。ステージの右わきにいるライトマンに、スポットをひとつつけさせ、客席にむけさせた。もうすこし右、ちょっと下、とナミは指示し、ついにそのスポット・ライトはぼくの右どなりの小川をとらえた。
「あの人」
 ナミの声に、みんなが小川を見た。
「立ちあがっておじぎしろ」
 ぼくは、小川の肩をゆすった。
「ステージに出てきてもらおうか」
 と、ナミが客席に呼びかける。さかんな拍手だ。
「よしてくれよ」
 小川が、低い声で言っている。
「いってこい」
 ぼくが小川の背を押し、
「お願いします。サンシャインのためです」
 と、ディレクターが言う。
 拍手にせきたてられ、小川は、しぶしぶ、席を立った。ステージにあがり、ナミの肩に片手を置き、客席を見渡した。
 ナミは、ギターを小川に渡した。ふたこと、みこと、彼女がなにかを言い、小川はうなずいた。ストラップを肩にかけ、小川はギターをいきなり弾きはじめた。それをバックに、ナミひとりが、うたいだす。どことなくセンチメンタルな、しかし、さわやかなメロディの歌だ。歌詞は言葉の遊びを主体にしたナンセンスだった。フレーズごとに、客席から笑いがあがった。
 うたいおわって、ナミは、けらけらと笑った。小川は、顔をまっ赤にほてらせている。
「私とこの人の関係は、いまの歌みたいなわけ。認知とか籍とか、そんなこと関係なしに、自然につづくあいだはつづくと思います」
 盛大な拍手があった。
魅力みりょく、ありますでしょ」
 と、ディレクターがぼくの顔をのぞきこんで言った。熱意をこめて、ぼくはうなずいた。
 小川はステージを降り、入れかわりに、男ばかり四人のバンドが、ナミのうしろについた。手ぎわよくチューニングをおえ、演奏がはじまった。それにかさねあわせて、椅子いすにすわったままのナミが、うたった。
『道草』で、ぼくがはじめて聞いたナミの歌だった。歯切れの良い、軽快なロックンロールになっていたことに、ぼくは、すくなからずおどろいた。
「おまえの編曲か」
 となりの席に帰ってきた小川に、ぼくは、きいた。小川は、黙ってうなずいていた。
 うたいおわったと思わせ、客席から拍手をひっぱり出したところで、バックのバンドが再びリフレインの部分を演奏する。笑顔のナミは、楽しそうな大声で、高くほうりあげるように、みじかくうたった。適度にポップな、いい感じに仕上がっている。
 たてつづけに数曲、ナミはうたった。どの歌に対しても、客からの反応はんのうは、いいようだった。煙草たばこの煙のただよう場内に、ナミに対する期待のようなものが、軽い熱気となって充満していた。
 一回だけのステージをおえたナミといっしょに、ぼくたちは、おなじビルの一階にあるコーヒー・ショプにあがった。
「小川の編曲でめちゃめちゃになったと言ってたけど、とてもよくなったみたいだ」
「あの歌?」
 と、ナミがぼくを見る。
「やっぱり、めちゃくちゃよ」
「なぜ?」
「あの歌は、ブルーで、メランコリックな気持でつくった歌なのよ。曲としてあまりそんな気持はおもてに出てないけど、そういう気分なの。あなたのアレンジは、そんな気分をすっきりとひっぱり出してくれて、しかも、軽くはずむように、メリハリをつけてくれたのよ。だけど、小川敬一のは、めちゃくちゃ。さっき聞いたとおりの、あんなポップスにしてしまうんだもの。しかも、フェイク・エンディングなんか使って」
「あの歌だけ、題名がまだないんですよ」
 ディレクターが、うれしそうに笑いながら、言った。
「サンシャイン・ガールにしたら?」
「サンシャイン・ガールね。すると、歌詞をすこしかえないといけない」
「リフレインの部分に、サンシャイン・ガールという言葉は、うまく乗るでしょ」
「乗りますね」
「題名といえば、ねえ、ねえ」
 と、ナミが、話に割りこんだ。
「録音のときのバックのバンドの名前も、きまってないのよ」
 ナミの友人のミュージシャン仲間から、五人を選んでバックをやってもらうのだという。
「ピアノだけ、女のこなの。いま、ウイーンにいってる。パック旅行でヨーロッパにいったついでに、国立アカデミーのピアノの試験を受けて合格しちゃったこなのよ。そのこが、リーダーになると思う」
「女のこが、リーダーか」
 と、ディレクターが言った。
「白雪姫なんて、どうだろう」
「白雪姫と四人の小人たち?」
「子持ちガレイと五人の漁夫」
鶴姫つるひめと四人の百姓は?」
「それはいけないのよ、差別用語だから」
 ディレクターが、またぼくに顔をむけた。
「お腹が大きくなりきったころ、六月に、レコーディングなんです。面白いでしょ」

18


 冬のオートバイは、枯れ葉とのかけっこだ。そうでもしないと寒くて乗ってられない。
 並木のある広い道路の交差点で、朝早く、カワサキにまたがり、ひとりで信号待ちしている。うっすらと空をおおった冬の雲の切れ目から、が射している。薄い陽ざしだ。人のいない歩道に、並木の影が、かろうじて、できる。木の枝さきに、葉はほとんど残っていない。枯れ葉になって、あらかた落ちてしまった。まもなく信号が青になるというとき、ななめうしろから、風が吹く。その風に乗って、カラカラカラと、乾いた小さな音が、アスファルトの路面を走ってくる。カワサキの右わきを、その音は、走り抜けていく。
 一枚の落葉だ。路面を吹き渡る風に、その落葉は、水車のように、くるくると舞っている。固く枯れて褐色かっしょくになった葉のさきが、アスファルトにれ、カラカラと音を立てる。落葉は、まっすぐに交差点を渡っていく。信号が青にかわる。ギアを一速に入れ、おだやかにクラッチをつなぎ、やさしくアクセルを開ける。交差点のなかほどを、落葉は走っていく。カワサキが、その落葉に追いすがる。前輪のすぐ右を、落葉が走る。そのスピードに合わせて、アクセルを閉じる。落葉は風に負けまいとして一生懸命に走っているが、カワサキにとっては超低速だ。サイレンサーの効果があがっているのか、排気音が急に静かになる。
 落葉は、左へ吹き寄せられてくる。前輪で踏みつけそうになる。左にハンドルをきって、避ける。その前輪のすぐ前を、落葉は、左へ渡る。そして、ひとしきり、まっすぐに走る。歩道のほうへ、寄っていく。
 再び、交差点だ。風が、うしろから、強く吹く。青信号の交差点の手前で落葉は離陸し、交差点を飛んで渡る。アクセルを、ひと息に開ける。排気音が風の中に鳴り渡り、カワサキが落葉を追う。
 ほんのわずかな差で、落葉の勝ちだった。交差点をこえ、歩道のふちに当たってとんぼがえりをし、歩道のむこうの植えこみの中に、飛びこんでいってしまった。あとは、風だけが残った。こんどは、その風と競争だ。一速から加速しつつ、ギアをあげていく。ふとかき消えたかと思うと、すぐにまたぼくの肩のすぐうしろから吹きはじめる風の、微妙に変化する走りっぷりに、四速への大まかなシフト・アップは、なぜか負けてしまっているような気がする。
 ほかに車のいない直線で、四速のままアクセルを開けていく。風圧が体をたたく。さっきの風は置き去りにしたにちがいないと思っていると、うしろからあごのさきをかすめ、前方へ急速に吹き抜けていった。その一瞬、風の姿が目に見えたようだった。
 夜おそく、街灯に照らされた並木の道路。人はもうとっくに家のなかに入ってしまっている。月のない夜だ。つらなっている水銀灯の街灯に、アスファルトの道路がうかびあがり、冬でも葉をつけている並木が、くすんで銀色に光っている。一本のに寄せて、電話ボックスが見える。明かるく照らされた黄色い電話機。ボックスの中はとてもあたたかいのではないかと、ふと思う。
 冷たい木枯こがらしとの競争をあきらめ、吸気音を聞きながらおだやかに走っていると、ヘルメットのうしろにカチンと当たるものがある。
 一枚の枯れ葉だ。ヘルメットの前にまわってきて、小さなグライダーのように、木枯らしのなかを滑空していく。風の中で反転するたびに、街灯の白い光を受けて、にぶく輝く。月のない夜の暗さと、自分の身のまわりだけしか照らさない街灯の光のせいで、前方にまっすぐのびている道路には、奇妙に奥行きが感じられない。そのなかを、枯れ葉が一枚、まっすぐに、飛んでいく。街灯の明かりのなかへ入っていくたびに、鈍く光る。暗さに奥行きが感じられないから、その枯れ葉は、空中の一か所に静止しているように思える。
 その枯れ葉めがけて、ぼくは、カワサキで走った。すこしアクセルを開けてみた。枯れ葉は、位置をかえない。反転をつづけているから、飛んでいることにまちがいはない。だが、静止しているように見える。さらに、ぼくは、アクセルを開いた。右側の回転計の針が、左から右へ、あがっていく。枯れ葉には追いつけない。ギアは三速に入っている。排気音が爆発のように高まり、風圧が顔や体のいたるところに重くのしかかる。振動が体じゅうを駈けめぐる。
 回転計の針は、赤く塗られたレッド・ゾーンの手前まできている。赤い部分の左端に、白い針がくっついている。三速でこの回転なら、時速で一三〇は出ているはずだ。これだけのスピードでふっ飛んでも、空中を飛んでいく一枚の枯れ葉に追いつけない。ありえないことだ。時速一三〇キロで飛ぶ枯れ葉が、あるわけない。こなごなにちぎれ飛んでしまうはずだ。
 だのに、滑空しつつ反転をつづける枯れ葉が、前方に見える。追いつけない。追いはじめたときとおなじスピードで、枯れ葉は飛んでいく。そして、あるとき、いきなり、その枯れ葉は、ぼくのほうにたぐり寄せられてきた。あっと言うまもなく、ぼくを目がけてまっすぐに飛んできて、ゴグルに当たった。
 ぼくは、急制動をかけた。時速一三〇キロからの急制動でも、ぼくのカワサキは、ふらつかなかった。前輪のダブル・ディスクは、おどろくほどの安定ぶりだ。すんなりとスタンディング・スティルの状態になり、ニュートラルを出してアクセルを閉じると、エンジンは八〇〇回転で安定したアイドリングへ落ちていった。
 ふと下を見ると、一枚の枯れ葉が、ぼくのまたの前のシートに、横たわっていた。ぼくがその枯れ葉を見ると同時に、風が吹き、枯れ葉はひらりと舞いあがり、ヘッド・ランプの光のなかを横切り、光の外へ出た瞬間、ふっと、かき消えた。カワサキの、前後左右のフラッシャーがつきっぱなしになっていることに、ぼくは気づいた。急制動でとまった瞬間、ぼくは、反射的に、ハザード・スイッチをオンにしたのだ。
 ハザードを消し、ぼくは走りはじめた。すくなくとも今夜は、枯れ葉とのかけっこは、もうやめだ。二〇〇〇回転、時速五〇キロで排気音をドコドコいわせながら、ぼくとカワサキのほかにだれもいない、冬の夜の広い並木の道路を、走っていった。
 すっかり寒くなってしまい、その寒さが一定して何日もつづくと、時間の流れていくスピードは、すこしゆるやかになったように感じられる。だが、ほんとうは、ゆるやかではなく、いつもとおなじ速さで飛び去っていることにかわりはない。
 そのことに気づいたのは、四月のはじめだった。日比谷の交差点で信号待ちをしているとき、オートバイ・ジャンパーの下で汗をかいている自分に、ぼくは気づいた。夏が早く終りすぎていたことを嘆いていた秋の日が、つい昨日のようだ。あれからまだいくらも時間がたっていないのに、もう四月になってしまった。九月から四月まで、すでに半年以上の時間が、もうスピードでどこかへ飛んでいったのだ。大きな交差点を照らしているスモッグ日和びよりざしからは、冬の陽のあわさが、確実に抜けていた。ゴグルのなかで、ぼくは、目を細くした。春の陽が、なぜか急にまぶしくなった。
 ミーヨは、会社の仕事が忙しい。新しくブランドをつくった子供服の発売がすでに春さきからはじまっていて、それにからんで多忙なのだ。残業がつづいている。
 ぼくたちといっしょに住んでいる小川とナミは、音楽を中心にした生活を送っている。LPにおさめる歌の選択を、はじめているようだ。選んだ歌を中心に、東京都内のライブ・ハウスをめぐっては、ステージに立ち、うたっている。音楽の面では小川が大きく手助けをし、ライブ・ハウスへの出演をとりきめるなどのマネジメントには、レコード会社のディレクターがあたっている。
 ぼくは、原稿の輸送をつづけている。輸送員は十二名に減ったままだ。忙しい。秋が深まってから大きな事件の連続で十二名はくたくたになった。そして、十二月から国会がはじまり、百五十日を大きくこえて会期は延長された。
 輸送員がたっぷりいるときでも、国会の会期中は、三日や四日、ぶっとおしで仕事をする。国会記者クラブと会社の政治部デスクを、一日に何度も、往復しなければならない。全部で十二名しかいないから、ぼくは何日も会社に泊まりこんだ。
 国会が終わると、ストがあった。調停の動きを記者が刻々と原稿にする。それを持って社に帰り、とんぼがえりする。そして、ストが明けたら、春が来ていた。
 四月の雨と五月の風。そして、六月の入梅。時間が、飛び去っていく。ミーヨは、すこしひまになっていた。小川を相手に、休みのたびに日帰りのツーリングに出た。富士や筑波つくば鈴鹿すずかのサーキットが一般スポーツ走行で公開される日にあわせ、ロードレースの真似まねごとをするために、ツーリングに出るのだ。
 すこし休みをとろうかと、ぼくは思った。だが、休むなら、いっそ夏になってからだ。それに、夏までには、ある程度のおかねを、つくっておかなくてはならない。ミーヨと何日もツーリングに出る計画だから、そのための資金を用意しておく必要がある。ぼくは、働きつづけた。
 仕事を中心に、自分のまわりでいろんなことが起きては、それらすべてのことが、時間とからみあいつつ、彼方かなたへ飛び去っていく。ただひとつ、はっきり言えるのは、そういった状態のなかでぼくはまったく退屈をおぼえなかったということだ。

19


 ナミの臨月は七月だ。二十五日が予定日になっている。小川といっしょに、六月のはじめから京都にいってしまった。録音のためだ。京都に新しくできたスタジオで、LPにおさめる十一曲を臨月までに録音してしまう。バックをつとめるミュージシャンたちと泊まりこみ、共同の生活をしているという。
 七月のはじめに、京都のナミから、電話が入った。ぼくは仕事が夕方の六時にあがり、家にいた。ミーヨも、そばにいた。彼女の会社の忙しさも一段落したのだ。
 電話で、ナミは、泣いていた。なぜ泣くのか、その理由を聞こうとするのだが、要領を得ない。レコーディングがあと二曲残っていて、その二曲がうまくいかない。うまくいかないのは小川敬一のせいだ。というところまで、なんとか聞き出した。
「来て。すぐに来て」
 ナミは、泣いている。
 ミーヨが、しきりに彼女をなぐさめた。一時間ちかく電話で話をしたあと、ミーヨは送話口をふさいでぼくに言った。
「来てくれって、泣いてる。いってあげなさい。お腹がいよいよ大きくなってきて、精神状態が不安定なのよ」
「おまえ、小川に説教してやれ」
「どこかへいっちゃって、いないんですって。いってあげなさい」
 返事をしかねていると、ミーヨは勝手に、
「だいじょうぶよ、コオはいくって言ってる」
 と、約束してしまった。
 いってあげなさい、とミーヨはしきりに言う。明くる日、現場の通信社ではなく、AJEの本社へいき、夏の休暇を早目にとらせてもらえるかどうか、交渉した。輸送員全員のローテーションを考えに入れなくてはならないから、それは駄目だめだという。
 四日か五日、休みたいと言うと、だったら休職にしてほしいと言う。それにぼくが応じると、こんどは、休職よりも退職にしてくれと言う。休みをとるための休職だということがほかの輸送員にわかると都合がわるい、などという。
 電話一本で勝手に休んでしまえばよかったのかもしれない。話のもっていきかたが、へただったのだ。ぼくは、退職した。また働く気ならいつでも雇ってやると言い、入社内定書という一枚の書式に必要事項を記入させられた。不思議な会社だ。
 夏にそなえて、カワサキは、整備に出してある。栄光ロードレース・クラブで使っている一流のファクトリーが、整備をひきうけてくれた。オートバイは、ほかに、小川のホンダCB400フォア※(ローマ数字2、1-13-22)と、ミーヨが借りたままのヤマハRD250がある。どちらも、やめにした。
 小川がガレージに置きっぱなしにしている中原麻里のセリカで京都にいくことにきめた。ミーヨを誘ったが、まだ東京を出られないと言う。
「夏の休みは、ながくとりたいんだもの。会社の部内で調整しなければいけないのよ」
 中原麻里に、セリカを使う承諾を得るための電話をした。自分も行きたいと、麻里は言った。
「今日だよ」
「いいわよ、いつだって」
「いますぐだ」
「どこでひろってくれる?」
「インタチェンジまで、自前で出てこいよ」
「東京の?」
「そう」
 いつだったか、四輪のミラー折りをやったときに小川と落ち合った、二子玉川ふたこたまがわのドライブ・インの名を、ぼくは麻里に告げた。
 そのドライブ・インは、改装中で休業だった。建材をおろしている小型トラックのそばに立って、麻里は待っていた。
 セリカに入ってきた彼女が最初に言った言葉は、
「もう夏なのね!」
 という驚きの確認だった。
「去年の夏と同じ服なのよ。気がついた?」
「ぜんぜん」
「一年後の夏ではなくて、おなじ夏なんだと思いこみたいの。だから、おなじ服を着てるのよ」
「自分をだましてるわけだ」
「そうよ。いけないことかしら」
「他人をまきぞえにするなよ」
「正解、という感じ。九十五点」
 ぼくは笑った。
「京都まで遠いかな」
「ねえ、コオ。そう言えば、一年ぶりでしょ。去年の夏以来、会ってないわね」
「そうかな」
「そうよ」
 その根拠を、麻里は説明した。
「そうだな。一年ぶりだ」
「一年ものながいあいだ、なにをしてたの」
「いろいろだ。でも、退屈は、してなかった」
 シートのなかで、麻里はぼくに向きなおった。目を輝かせ、
「ねえ、ねえ、どうやったら、一年ものあいだ、退屈しないでいられるの?」
秘訣ひけつなんて、なにもない」
「そうだろうとは思うんだけど」
 東京インタチェンジから、ぼくたちは東名高速にあがった。
 途中、一度だけコーヒーを飲み、京都まで走りとおした。ひどくくたびれた。
 録音スタジオは、木屋町きやまちの南のはずれにあった。大きな古い民家の裏にあり、おもての家に、ナミやミュージシャンたちが泊まっているのだった。スタジオは、裏庭と倉庫をつぶしてつくったという。
 ナミは、小川とのいさかいがすでにおさまったらしく、腹を突き出し、けろりとしていた。
「あと一曲、のこってるの。ちょうどよかった。つきあって。いまの自分をこれまでの十曲でさらけ出して、もうほとんどからっぽなの」
「これがあるじゃないか」
 ぼくは、ナミの腹を指さした。
「ずいぶん大きい。双子ふたごだな」
「お医者さんに聴診器で聴いてもらったの。中身は、ひとりですって。寝てると、とばすのよ」
「なにが?」
「なかの赤ん坊が、なかから、私のお腹を蹴っとばすの」
 小川は、いつもとかわらない小川だった。
「ちょっかいを出しすぎたんだ。そしたら、怒って、泣きだした。のこりの二曲について、うたいかたをかえさせようと思ったら、私を自分好みの女にかえようとしてると言って、ナミは怒ったんだ」
 ナミとのいさかいを、小川はそんなふうに説明した。
「人を自分の好みにはめるなよ。出たとこ勝負なんだから」
「おまえに言われなくても、わかってる。ミーヨは?」
「好きなようにやってる」
「オートバイか」
「うん」
「死ぬぞ」
「え?」
「オートバイにかけては天才にちかいんだ。おまえなんか、ぜんぜんかなわない素質だから」
「それは知ってる」
「でも、死ぬよ」
「なぜ?」
「たとえば、ハイウエイでトラックにひかれて。トレーラーの後輪のダブル・タイアに頭をはさまれ、タイアの一回転で首がどろよけですっぱり切れてしまう。両腕と両脚りょうあしをのこした胴体は、ねじりん棒のようになって転がり、後続車に次々に踏みつぶされる。ダブル・タイアにはさまれたままの頭は路面にたたきつけられ、頭蓋骨ずがいこつが粉々にくだけて、血や脳ミソが飛び散って――」
「ペシミズムは体に毒だ」
「ペシミズムなんかであるもんか。単なる可能性のひとつさ」
「後悔はしない」
「ふん」
「去年の夏、俺のカワサキに一目惚ひとめぼれをしたようだ」
「運のつきだな」
「きめつけるのは、よせ」
 小川敬一との会話は、きりあげどきが大切だ。ぼくは、話題をかえた。
 ぼくと麻里も、みんなといっしょに、スタジオのとなりの家に泊まることになった。そして、のこった一曲が、次の日に、レコーディングされた。できばえを、スタジオの巨大なモニターで、ぼくは聴いていた。とても軽く、ふわりと浮いた感じのする、どこかかすかにセンチメンタルな歌だった。バックの演奏は、あとからダビングするのではなく、歌と同時にとっている。うたいおえ、バックの演奏がエンディングに入ると、それにかさねてナミは、けらけらと笑った。
「うん!」
 と、ディレクターが言った。
「この笑い声も、いれとこう。B面のラストがいい。自分の生きかたのステートメントだよ、いまの笑い声は」
 夕方から、録音完了を祝って、母屋おもやでパーティが開かれた。中原麻里が、中心になって働いた。京都で歌をつくりうたっている若いミュージシャンたちが、何人も来た。
 夜、ミーヨから電話があった。
「どう?」
「うまくいったよ」
「よかった。心配してたの」
「なんてことないさ」
「カワサキが、できてきたわ」
「早いなあ」
「予定より早くあがったのですって」
「おまえ、とってきたのか」
「そう。これ以上のW3は日本には一台もないって言ってた」
「悪かったとこは?」
「特にないみたい。音が、すこしかわった」
「おさえてあるのか」
「ちがうの。前よりもいい音になってる。はじける音。ガレージの電話で、聞かせようか」
 ミーヨは、笑ってる。
「京都は暑いでしょ」
「暑い」
「東京もひどい。それでねえ、コオ、お願いがあるの。うん、て言ってほしい」
「なんだよ」
「このカワサキに乗りたい」
「乗れよ」
「いいのね!」
「いいさ」
 大型の免許をとってからも、日帰りのツーリングにカワサキを使えるチャンスはいくらでもあった。ぼく自身、すすめたこともあったのだが、夏までとっておくと言って、ミーヨは乗らなかった。
「明日の朝、早くに出発する。島へ、いくの」
「島?」
「私の島」
 去年の夏、ミーヨがぼくを待っていてくれたあの島の、強くて明かるいざしが、ぼくの体のなかに、よみがえった。
おれもいこう」
 不覚にも、声がはずんだ。
「会社は?」
「あのね。辞めちゃった」
「いいのかよ」
「いいの。もう、いいのよ。ナミのレコーディングは?」
「終った。そうだ、みんな島へつれていこう」
「いいなあ、ぜひそうして。私は、明日の朝、出る。無理しなくても、午後のフェリーに間に合うから」
笠岡かさおかの港で落ち合おう」
「来られる?」
 ぼくは、ナミや小川に、都合をきいてみた。ミーヨの故郷の島だというと、みんないきたがった。麻里やディレクターも、いくという。しかし、最後のひと仕上げを、明日やりたいのだがと、ディレクターが言った。ぼくたちは、島へいくのを、一日だけおくらせることにした。
 それを、ミーヨに伝えた。
「さきにいって、待っててくれ」
「去年とおなじね」
「みんないきたがってる」
「待ってる」
「OK」
「いま、私が、どのくらいうれしいか、わかる?」
 と、ミーヨがきいた。
 夜おそくまで、パーティはつづいた。ナミのLPのタイトルが、パーティーの楽しいにぎわいのなかで、きまった。やはり『サンシャイン・ガールズ』だ。
「ぜひ、その島へいきましょう」
 と、ディレクターが顔をほてらせて言う。
「子供が生まれてからも島にいてもらって、去年とおなじように、まっ黒に陽焼ひやけしてもらい、その顔のアップを、LPのジャケット写真に使います」
 ナミの顔がアップに耐える顔かどうか、みんなは議論した。充分に耐えられるという結論が出た。その結論に乾杯かんぱいした。

 夏の瀬戸内の陽のなかに、笠岡の小さな港は、去年ぼくが見たのとすこしもかわらないたたずまいを見せていた。すぐうしろにある、おだやかなかたちの低い山に、緑が輝いている。港は静かだ。赤さびの小型タンカーがコンクリートの桟橋さんばしのむこうで、大きくかしいだまま、じっとしている。
「うわあ、いい天気。陽ざしが、ちがうのね。すっごくうれしい」
 顔に手をかざして、ナミが言った。
 ぼくたち五人は、京都からずっと、一台のセリカのなかに閉じこめられたままだった。海ばたの陽のなかに解き放たれたうれしさが、全員の顔にあった。
 港の発着事務所から、小川が、にこにこしながら、もどってきた。の下にとめたセリカまで歩いてきて、
「あと十分で、高速艇が帰ってきて、折かえし出港するんだ。フェリーはそのあとだ。しかも、高速艇だと二十分、フェリーは五十分近くかかる。セリカは、橋本、おまえにまかせた。俺たちは高速艇でさきにいこう」
 全員が、その意見に賛成した。
「な、橋本。このさいだ、セリカのおもりをして、フェリーでこい」
 ひきうけざるをえない。そうこうするうちに、高速艇が入ってきた。みんなは切符を買い、はしゃぎつつ、乗りこんだ。すぐに、出港だ。いったんひっこんだ小川が、高速艇のドアのところに出てきて、にやにやと笑っていた。艇は、桟橋を離れた。すぐに見えなくなった。
 ぼくの乗ったフェリーの第五喜久丸も、去年とかわらなかった。おなじごま塩頭の甲板員がいた。島へセリカを持っていっても、なんの役にも立たない。そのセリカを一台だけ乗せて、フェリーは出港した。ぼくのほかに、お客が数人いた。
 ふと思いついたぼくは、昨日きのうオートバイを乗せたかどうか、甲板員にきいてみた。
「オートバイ? ああ、ありよった。一台。こがいに大きいが、島じゃあ乗られやせん」
 海は夏の陽のなかに輝く。潮の香りが、全身にしみていく。はだかの上半身に、陽ざしの熱いきらめきが、吸いこまれる。汗が流れ落ちる。往きかうさまざまな船を遠くに近くに見ながら、うれしい気分が体の底からわきあがってくるのを、ぼくは覚えた。
 よろこびに、体がすうっと軽くなる。と同時に、時間がゆるやかに、とまりはじめた。夏のあいだずっと、島でのなかにいればいいのだ。時間なんか、必要ではない。とまってしまえば、それでいい。五十分足らずの航路なかばに、ぼくにとっての時間は、完全にとまった。
 島が見えてきた。ゆっくりと、しかし確実に、フェリーは島との距離をつめていく。港が、はっきりと見えはじめる。防波堤ぼうはていの端に、あの赤煉瓦あかれんがの小さな灯台とうだいがある。
 防波堤を灯台のほうへ歩いていく人がいる。理由もなく、胸が高鳴る。
 灯台の赤煉瓦にもたれて、ミーヨがいた。レオタードにペアの巻きスカート。笑いながら、手を振っている。
 防波堤の突端をフェリーがまわるとき、ミーヨは声をはりあげてよこした。
「みんな、来てるよ。家にいる」
 フェリーは、満潮の港についた。昨年とおなじセミしぐれが、熱い空気のなかに、いっぱいだ。セリカを港にあげた。
「そこにとめとく以外にないみたいね」
 港の広場の、海と接した端のほうを、ミーヨは指した。自転車とハイゼットのあいだに、ぼくはセリカを入れた。
 ふたりで、ミーヨの家へ歩いた。
「おんなじだ、去年と」
「まさか。去年より、もっといいはず」
「カワサキは、どうだった」
「もう、最高」
 ミーヨの家に、みんなはいた。
「写真を撮るんだ」
 小川が、縁側えんがわの前に一眼レフを三脚に取りつけていた。
「ジャケットの裏いっぱいに、カラーで、使うんです」
 と、ディレクターが説明した。
 ミーヨの家の、二枚のすだれの垂れた縁側いっぱいに、午後の陽が当たっている。その縁側に向けて、庭のずっと奥に、小川は三脚を立てた。
 ぼくは、ファインダーをのぞいてみた。85ミリの望遠レンズだ。構図は、ちょうどいい。ナミが、すだれのわきにすわり、ディレクターがそのすだれを持ちあげて縁側に立ち、ミーヨの両親が、持ちあげられたすだれの下に、腰かけた。中原麻里は、いちばん右だ。
「ついでに、カワサキもいれよう」
 小川に言われて、ミーヨは、縁側の前の大きな石の踏み台まで、カワサキを押してきた。
「またがれ」
 小川は、ファインダーをのぞいた。
おれはあの石のうえにしゃがむから、橋本、おまえは、麻里のとなりに立て」
 もう一度、ぼくは、ファインダーをのぞいた。いい構図だ。黒い板壁や、『づつう はいた ノーチカ』の古びた看板、そして、その板壁にむけて地面から斜めに何本も立てた細い竹に、朝顔のつるが、からんでいる。葉がきれいな緑色で、いまはもうのなかにくしゃくしゃに縮まっている花が、可憐かれんなピンク色だ。
 全員に、あらゆるものに、夏の陽が、当たっている。フィルムを巻きあげたぼくは、
「いいですか、撮りますよ」
 と、声をあげた。
 セルフ・タイマーをかけてファインダーをのぞきなおし、ぼくは小川に言った。
「この記念写真から、なにがはじまるんだろう」
「そんなこと、人にきくなよ」
 ぼくは、シャッターを押した。笑っているみんなにむかって、ぼくと小川は、庭を横切って走った。





底本:「彼のオートバイ、彼女の島」角川文庫、角川書店
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1990(平成2)年2月30日40版発行
底本の親本:「彼のオートバイ、彼女の島」角川書店
   1977(昭和52)年8月30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:高橋雅康
校正:りゅうぞう
2017年6月13日作成
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