明治六年、
維納府大展覧会の開場のとき、
拙者もその
差遣せられた官員の一人でありました。当時〈
(そのとき)〉目に触れ、耳に聴くところの利益は、
種々様々でありました。
ときに農学〈
(アグローム)〉の大家
荷蘭人荷衣白蓮〈
(ホーイブレング)〉氏という大先生に
邂逅しました。これは実に拙者、無上の大幸でありました。幸に先生は維納府外数里の地に
住居でありました。拙者一見手を
握てほとんど
傾蓋の
想をなしました。拙者先生に引かれてその住居へ
往きました。その後拙者、先生の家に客となり、半年教授を受けました。先生の性質、草木を愛することは、
飢渇して飲食を求むるよりも
嗜みます。
二十余年前、維典堡〈
(ウヰンテンボルグ)〉人西勃土〈
(シーボルド)〉氏(
訳がありて)荷蘭人となり、わが長崎へ
来り、わが
邦の草木を
欧羅巴へ
携え帰り、現今かの諸国に
伝播しおるは、おおむね、みな先生の手を経たものであります。西人のわが草木を
愛玩し、わが草木を貴重するは、実に先生より始りました。先生の功は、まことに
盛なるものではありますまいか。
先生ことさらに日本人を愛します。先生はなはだ親切にして、とくに拙者を
眷愛し、先生つねに拙者を日本の愛児〈
(デールソン)〉と呼びました。先生
晨夕拙者に培養の術を親切に教えました。また試験実地に臨んでは、先生
一に必ずその理とその法とを丁寧に講じました。先生つねに
倦怠の色は少しも見えませぬ。ゆえに拙者、
暫時間幸に先生多年実験するところの大概を
覗うことを得ました。実に拙者、無上の大幸とはすなわちこのことであります。先生すでに
年七旬に余ります。身体強健、なおよく
鋤を執り、
畚を
荷い、
旦暮灌漑して
自ずから楽んでおります。いわゆる
老而益壮なると申すは、この人の
謂でござりましょう。
ここに先生もっともわが世界に
鴻益ある大発明の三件があります。すなわち拙者が
上年撰述
上木した農業三事の書がその大略であります。その第三件は
禾花媒助の法をもって、去年九月十三日、東京第二大区十二小区麻布古川の稲田において実地に
施し、十一月十三日収穫いたし、その稲と通例成熟の稲とを比較いたしたところが、驚くべきほど米の性質も上等になり、肥後米と秋田米ほども違うようになりました。しかのみならず、その収納高の概表は、すなわち左のとおりでござる。
甲の場所試験
一坪に付 媒助稲 旧法稲 差
籾
升目 一升四
合六
夕 八合九夕 五合七夕
目方 四百九十五
匁 二百八十一匁 二百十四匁
六分 二分四
厘 三分六厘
乙の場所試験
升目 一升八合三夕 一升四合三夕 四合
目方 六百十五匁 四百十三匁 二百〇二匁
八分八厘 二分七厘 六分一厘
丙の場所試験
升目 一升二合三夕 八合五夕 三合八夕
目方 三百五十四匁 二百四十八匁 百〇六匁
四分七厘 二分 二分七厘
右三ヶ所平均
升目 一升五合六才六 一升〇五夕六才六 四合五夕
目方 四百八十八匁 三百十九匁 百六十九匁
七厘二毛 三厘三毛 三厘九
升目百分割 四割二分五厘八毛 媒助法
施術の益
量目百分割 五割五分一厘九毛 媒助法施術の益
また本年第九大区小三の区
飛鳥山下において施術したる麦を六月十四日収穫したる概表左のごとし。
第一試験場 五十二番地 畑主 戸部喜想治
媒助小麦 旧法 差 割
一坪に付 七合四夕 五合一夕 二合三夕 四割五分
升目 〇九八
目方 二百四十 百七十五匁 六十六匁 三割七分
一匁 七一
第二 四十七番地 畑主 鈴木安左エ門
長一丈二 一升〇五夕 七合三夕 三合二夕 四割三分
尺
疇 八厘三毛
二百七十 二百〇三匁 七十二匁 三割五分
五匁 四厘六毛
第三 五十番地 畑主 同人
穂十本に 七匁 四匁五分 二匁五分 五割五分
付目方 五厘
第四 三十番地 畑主 戸部喜想治
一
畦に付 二升九合 二升三合三 六合三夕 二割七分
升目 六夕 夕 〇三八
目方 八百二十目 六百五十目 百七十目 二割六分
一五
第五 二十九番地 畑主 戸部弥想治
最上穂十 十六匁六 十一匁九分 四匁七分 三割九分
本目方 分五厘 五厘 九一
平均 升目の割 三割八分六厘五毛 媒助之益
量目の割 三割八分九厘四毛
右媒助の法は、農業三事書中にも概略述べましたるとおり、はなはだ手短きことにて、実にその労と申しては
田圃の
悪莠を一回
芟除するよりもなお
易きことにて、その器械と申すはわが
邦俗新年
門戸に
懸る
注連縄のごとく、羊毛にて製したるものにて、ちと
憚りながら当今世間にて
津田縄と称するものであります。この縄へ蜂蜜を稀薄に
抹擦いたして、米麦の花まさに開かんとする際に
臨み、その穂の
巓を四、五回
摩盪するまでのことであります。三人にて一日一町余の田圃に施すことは、はなはだ容易でありましょう。
かく簡易なる方法、すなわち児戯に類するともいうべきほどの術をもって、該表のごとき三割ないし五割以上の大利益ある確証ありて、これがためにさらに費用を増すでもなし、またさらに農夫を労するでもなくして、まるで徒手取〈
(ただとり)〉同様という収納を増すことでありますれば、加減乗除、二一天作、いん一が一、と出かけても、ほとんど倍量の益があるというも、さまで
誣言でもありますまい。されば農家は三年耕して一年の
糧を
贏し、政府も租税の取り
心ろよく、わが三府六十県の人民、すなわち当今猫も
杓子も
唱おる、わが三千五百万の
兄弟は、三年一回の
凶歳ありても
飢餓の
憂を
免るべき割合ではありませぬか。ああ、なんとその鴻益は
仰山なものにて、
荷衣白蓮先生のわが世界に鴻業偉勲を顕わしたるは、驚き
入たることではありませんか。
今わが政府の内外債、
合して三千百二十万金余の借金くらいは、三年を出ずして人民よりこれをもって
完済することは容易ではありますまいか。さすれば政府において一意
気身を
入て御世話があらば内外債はおろかなこと、
皇宮の御新築でも、諸官省の御
普請でも、華族・士族の禄債でも、鉄路でも、電線でも、
何んでも
蚊でも十数年の後には徒手にて出来る
工風なれども、政府にてはまだ農業は
鄙事なりとでも思わるるにや、これには
一向御着手なし(新川、浜田、
名東、岐阜、宮城その他二、三県はとにかく)。世間一般に実事は一円
馬耳風にて御
頓着なし。ゆえに拙者やむをえず
切に社中の諸賢に望みまするは、この法をあまねくわが国の農家へ
播伝実行せしむる手段の
垂示を賜わらんことの一事でござる。